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心の治癒と魂の覚醒

        

グルの導き

 まずはお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミーは「ラマナ・マハルシの教え」というテーマで行いました。インドの覚者マハルシは、釈迦やイエスに匹敵する究極的な霊的境地に到達した方であると思います。そして、その究極的な真理をダイレクトに伝えようとしたようなので、とても難しいのですが、霊的進化をめざす人にとって貴重な指針になることは間違いありません。ダイジェスト版をぜひご覧ください。
●哲学教室第32回「ラマナ・マハルシの教え」

 では、本題に入ります。
 ラマナ・マハルシは、グル(導師)なくして解脱は不可能だと言いました。しかし、グルには外側のグルと内側のグルの二種類があると言っています。外側のグルとは、私たちが普通いうところの肉体をもったグルです。内側のグルとは、私たちの内面にいるグルのことです。外側のグルに出会うのは、宝くじに当たるよりも低い確率です。自称「グル」は、うじゃうじゃいて、容易に見つけることはできますが。
 内側のグルは、修行を誠実、真剣に、忍耐強く続けていけば、必ず現れます。そして導いてくれるのです。それは閃きという形でメッセージを送ってきたり、あるいは運命的な出来事によって導かれたりします。
 ですから、グルなくして解脱は不可能といっても、グルは内側にもいて、誰もがそのグルを持てる可能性がありますから、悲観することはないわけです。

 とはいえ、肉体をもった外側のグルに出会った方が、目に見えない内側のグルよりも、はっきりと教えが理解できるという点ではありがたいでしょう。
 ただ、マハルシが言うように、グルは覚者であり(覚者でなければグルになれない)、覚者とは真我(神)と合一した、というより、「真我に立ち返った」人のことです。いま「人」という言葉を使いましたが、究極的な観点から見れば、もはや「人」ではありません。普遍的な霊的存在であり、神そのものなのです。彼は「肉体」ではないのです。
 しかし私たちは、肉体をその人だと見なしてしまいます。グルを、ある空間に限定された肉体であると、どうしても思ってしまうのです。そのため、グルではなく、グルの肉体にとらわれてしまい、霊的進歩の障害となる、肉体(物質)に対する愛着が生じてしまうことになりかねません。
 ですから、肉体を持った外側のグルが、すべてまったくよいかというと、必ずしもそうとは言えないと思うわけです。その点、内側の見えないグルは、そのようなことはないでしょう。

 また、グルは、手取り足取り、懇切丁寧に教えを授けてくれるわけではありません。ここを誤解している人が多いように思います。とにかくグルに出会い、その弟子になってしまえば、自助的な努力は必要なく、エスカレーターのように解脱へと運んでもらえると思っている人がいるのです。
 グルの指導は、実に簡潔で短いものです。時間を費やして、修行のやり方を基礎からすべて教えてくれるわけではありません。ほんの一言か二言だけ、という場合もあります。しかも、それさえもめったにない、ということも珍しくありません。
 つまり、ほんの一言か二言だけ聞いて、それだけで修行が進歩するという弟子は、もうすでに、かなりの進歩を遂げた人なのです。自助努力を限界まで行い、そしてどうしても、もうこれ以上は自助努力では前に進めない、という限界に来て苦しんだとき、グルははじめて助けてくれるわけです。

 しかし、そこまで自助努力をしている人は、どれくらいいるでしょうか?
 ロシアの神秘家グルジェフは、「出来の悪い人ほど、身の丈に合わないすぐれたグルを欲しがる」と言っています。確かにそう思います。足し算や引き算さえろくにできない小学生が、自分の教師に大学教授を求めるようなものです。
 グルは大切ですが、グルを求めるよりもまず、限界まで自助努力をしなければなりません。そうすれば、慈悲深い神は、外側のグルか、あるいは内側のグルを授けてくれるでしょう。言い換えれば、真剣に忍耐強く自助努力を続けない人に、グルは現れません。もしそういう人にグルが現れたとしたら、それはニセモノのグルです。あるいは、たとえそのグルが本物だったとしても、そのグルについていくことはできないでしょう。
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目的を定め集中する

世の中に、命と時間ほど大切なものはありません。その他のものは、失っても取り戻せる可能性があります。たとえば、お金を失っても、また取り戻せる可能性があります。しかし命と時間だけは、失ったら決して取り戻すことができません。
 また、命というのは、結局、「生きている時間」のことですから、時間を大切にすることは命を大切にすることであり、命を大切にすることは、時間を大切にすることになります。逆にいえば、時間を大切にしない人は、命を大切にしていないのです。

 しかし、私たちはあまり時間を大切にしていません。お金に関しては、十円でも百円でも節約しようとしますが、時間に関しては、かなり無駄にしています。
 仮に、一日一分、時間を節約したとすると、年間で6時間もの時間を節約したことになります。十分節約すれば、年間で二日半となります。正月やお盆休みなどの休暇で「あと一日休みがあったらなあ」と思うことがありますが、一日十分節約したら、二日半が休みになるのです。一日十分の節約なら、やろうと思えばできるでしょう。もちろん、細切れの時間とまとまった時間とを同列に比較することはできませんが、「塵も積もれば山となる」ことに変わりはありません。

 私たちが時間を大切にしていない大きな理由は、「生きる目的」が明確に定まっていないからです。「自分は人生においてこれをやり遂げるんだ!」という、強くて明確な目的があれば、その目的とは関係のないこと、ましてや、障害になるようなことに時間を使わなくなるでしょう。たとえば、大学に合格するという目的をもった受験生は、バスを待っているときのような、ほんの一分や二分の時間であっても、無駄にせず英単語を覚えたりします。目的が明確にある人は、決して時間を無駄にしようとはしません。

 皆さんの「生きる目的」は何でしょうか? まずはそれを明確に定めることが大切です。なかには「生きる目的なんてない。人生の流れのまま、おもしろおかしく過ごせればいい」という人もいます。もちろん、そういう人はそれでいいのです。他人がとやかく言う筋合いではありません。ただ、死が目前に迫ったとき「人生において何一つやり遂げたものがない」といって後悔しなければ、それでいいと思います。

 もし皆さんが、解脱や悟りといった、人生最大にして最高の目的を持つならば、それは片手間で達成できるようなものではないので、わずかたりとも時間を無駄にはできませんし、また、無駄にしようとは思わないでしょう。
 あるとき、釈迦の弟子たちが集まって「出家する前はどんな仕事をしていたのか」について話が盛り上がりました。そこに、たまたま釈迦がやってきて、「修行とは関係のない談義をしてはいけない」とたしなめました。
 そんな釈迦を、厳し過ぎると思うかもしれません。しかし、そんな釈迦の厳しさは、この世の悲惨さを骨身に染みてわかっており、そんな世界から弟子を救済してあげたいという、深い慈愛から発したものなのです。家が火事になり、一刻も早く逃げないと焼け死んでしまうといったとき、もし家族が世間話などしていたら、「そんな話などやめて早く逃げろ!」と言うでしょう。誰もその忠告を「厳しい」とは思わないでしょう。このたとえは、決して大げさではないのです。

 人生の目的を明確に定めると、時間だけでなく、あらゆる無駄がなくなります。目的に貢献しない余計なものは欲しくなくなりますから、買わなくなり、すると、家がすっきりします。同じく、無駄な人間関係もそぎ落としてすっきりします。
 また、余計なことで悩まなくなります。すなわち「こんなことで悩んでいても、人生の目的に貢献するだろうか? むしろ、障害になるのではないか?」と考えて、悩むのをやめ、悩みが少なくなってくるのです。

 もし、このような生き方が「窮屈だ」とか「ストイックだ」と感じるなら、自分の掲げた「人生の目的」に、実はあまり魅力を感じていないのだと思います。本当にその目的に魅了され、何としてもそれを達成したいという願望があれば、窮屈などとは感じないでしょう。あたかも守銭奴が、一円のお金さえ無駄遣いせず節約してカツカツの生活をしていても、それを窮屈とは感じないようなものです。それどころか、「こうして目的に近づいているのだ」と感じて、喜びさえ感じるようになるはずです。

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解脱を得るのが難しいたったひとつの理由

  まずはお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「魂の暗夜と瞑想」というテーマで行いました。キリスト教では、霊性修行をしていると、「魂の暗夜」と呼ばれる、非常な空虚感、絶望感、神から見捨てられた感覚に襲われる時期が訪れるとされています。こうした現象が訪れる意味は何なのでしょうか? これは、神が人の霊性を進化させるために働きかけた結果なのです。悟りのエッセンスともいえる内容がこめられています。ぜひダイジェスト版をご覧ください。
 動画視聴→

 では、本題に入ります。
 世の中には、解脱(悟り)を求めている人が、それなりに大勢います。私もそうですし、読者の皆さんもそうかもしれません。
 しかし、解脱を得るのはとても難しい。これに関しては統計というものはないでしょうから、解脱をめざしている人が、どのくらいの割合で達成しているのかはわかりませんが、非常に少ないことは確かでしょう。おそらく、東京大学に合格するよりも難しいと思います。
 私が教室でこのように言うと、参加者は萎えてしまい、「自分には無理だ」といって修行を断念してしまう人もいます。そんなとき、私はこう言います。
 「川に落ちて溺れてしまったとします。そのとき、“自分は泳ぐことは無理だ”といって、そのまま沈んでいくでしょうか? そんなことはしないでしょう。何とか助かろうと必死に手足を動かして泳ごうとするはずです」と。
 つまり、もし本当に解脱を求めているなら、「自分には無理だ」などと考えたりしません。とにかく、解脱への道を歩むしかないのです。達成できるかどうかなど考える暇があったら、修行に打ち込むでしょう。それしか道がないからです。本気で解脱を求めていれば、そうするはずです。

 解脱が無理だとあきらめられる人は、世俗(物質世界)にまだ喜びを見出している、少なくとも世俗に希望を抱いているからだと思います。要するに、逃げ道があるのです。
 しかし、明瞭な洞察力をもって見れば、世俗には真の喜びも幸せも存在せず、いずれ苦しみに変わるものだということがわかります。その真理を、心底、理解したならば、もう解脱の道を歩むより他に選択肢はなくなるはずです。世俗は「逃げ道」にはなりえません。

 「解脱をするには、毎日最低でも1時間の瞑想は必要だと思う」と言うと、「働いている人が毎日1時間の瞑想をすることは無理ですよ」と言われます。「では、毎日1時間の瞑想を3年続けたら、10億円がもらえるとしたら、瞑想しますか?」と言い返すと、目を輝かせて「やります!」と言うのです(笑)。

 つまり、その程度の願望しか持っていないということです。解脱に達した聖人たちは異口同音に言います。「この世のすべての富をくれるといっても、この境地と交換するようなことはしない」と。解脱の境地は、10億円などとは比較にならないくらいすばらしいということです。
 いわゆるカネの亡者と言われる人が持っている、カネに対する執着にはすさまじいものがあります。いつも頭の中はカネのことだけです。カネのためなら何だってします。ときには犯罪さえ躊躇しない人さえいます。
 これと同じだけの情熱を、いえ、もしかしたらこの半分の情熱でさえ持っているならば、解脱を得ることができると思います。言い換えれば、ほとんどの人は、カネや世俗に抱く情熱の半分も、解脱に向けていないということです。

 解脱を果たしたとされる聖者たちについていろいろ調べますと、彼らは必ずしも抜群に知性が優れていたわけではありません。そういう人もいますが、普通より劣った(と世間から思われていた)人もけっこういます。いずれにしろ、解脱をするために抜群の知性、頭のよさは必要ないのです。もし彼らが東京大学をめざして勉強したとしたらどうなるでしょうか? おそらく、合格できる人はほとんどいないのではないかと思います。

 東京大学に合格するような頭のよさは必要ないのです。それなのに、東京大学に合格するより難しいというのはなぜかというと、理由はただひとつです。
 本気で解脱を求めていないからです。
 修行をしているといっても、パートタイムのような修行しかしていません。あるいは、その種の本を読むだけで瞑想などの修行はしないのです。読書だけで解脱した覚者などいたでしょうか? 娯楽や気晴らし程度の感覚でしか、修行していない人が多いのです。
 これでは、解脱などできるはずがありません。人生のすべてをかけて、仕事など生活を維持するために必要なこと以外、解脱に役立たないことはすべて排除し、全身全霊で修行しなければ無理です。片手間で達成できるようなものではありません。

 「自分にはそこまでの修行はできない」と言うなら、それは本当に解脱を求めていないからです。本当に解脱を求めているなら、自分にできることはすべて、全身全霊で修行するでしょう。溺れている人が全身全霊で泳ごうとするように。それは、助かりたいと真剣になるからです。
 ここまでの真剣さがあれば、自分の努力に加えて、神の加護と導きが得られ、解脱を達成することは、それほど難しくはないと思います。
 解脱を達成する人が少ない理由は、本当に真剣に解脱を求める人が少ないからです。才能や知性の問題ではありません。
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隠居生活

 若い頃、どんなに歳を取っても、本を書いたり講演などをして、世の中でばりばり活躍するぞと思っていました。隠居生活など無縁というか、嫌悪していました。死ぬときは仕事中だと決めていました。そして、世の中から認められ、有名になり、できれば後世に名を残したいとさえ思っていました。
 しかし、今の私は、まったく反対のことを思っています。
 世の中から退き、姿を消し、目立たずにひっそり生活することに憧れ、それを目ざしています。つまり隠居生活です。運命的にも、その流れになってきています。
 歳を取り、体力や意欲が衰えたからではありません。もちろん、若い頃より体力も意欲も衰えたことは確かですが、それが理由ではありません。
 理由は、世の中というものに飽き飽きしたというか、より正直に言えば、うんざりして煩わしくなったからです。この世の中に、私の求めているものは存在しないとはっきり気づいたのです。なぜ、釈迦やイエスといった聖者のほとんどすべてが、世俗からの離脱を説いたのか、今さらながら、とてもよく理解できるような気がしています。

 最近、大手の中古車販売会社の不正が大きく報道され、叩かれています。末端の社員は悪くないと思います。権力をもった上層部からの命令で不正をさせられたのです。生活がかかっていますから、仕方なくやったのでしょう。彼らは社長や上層部の犠牲者です。にもかかわらず、(前)社長は「私は知らなかった。とんでもないことをしてくれた。そんな社員は告訴する!」とまで息巻いていました(後に告訴はしないと撤回しましたが)。あの会見を聞いて、いったい誰が、社長の言うことを信じたでしょうか?
 この会社はやや極端かもしれませんが、程度の差はあれ、これが世の中というものなのです。この会社は、いわば世の中というものの、わかりやすい縮図です。

 美しい看板の裏を見ると、そこには汚れがびっしりとこびりついている、というのが世の中です。夜のネオン街は、キラキラ輝いて、とてもきれいです。しかし朝になって明るくなると、あちこちゴミが散乱しているのが見えて、汚い街だったことがわかります。実態は闇に隠されていて、美しい看板だけが目につく、これが世の中なのです。
 私は今まで、アルバイトを含めると、20社以上の会社で働いた経験があります。そこには必ず表と裏の顔があるのです。法律に触れるぎりぎりのきわどいことをしている会社もありました。
 たとえば、まともなことを言っている社員は、上層部から嫌がらせを受けて自主退職に追い込まれました(正当な理由なく解雇できないため)。最近ではパワハラなどが禁止されていますが、むかしはパワハラなど日常茶飯事でした。病院や代替医療の会社で働いたこともありますが、人々を健康にするのが使命であるはずのそうしたところが、皮肉なことに、人間的に病んでいる人が多いことにも気づきました。また、不正をして被害者を出したが、カネでもみ消した会社も見ました。他にも、言えばきりがないのでやめますが、とにかく醜悪なものをたくさん見てきました。

 いずれにしろ、世の中の汚い面が我慢できず、そこに幸せはないと感じたので、宗教やスピリチュアルの世界に救いを求めました。
 ところが、いざその世界に飛び込んでいくと、美や純粋性や理想を追求するはずの宗教やスピリチュアルの世界でさえ、その裏側は、ひどく汚れていることを知りました。むしろ、表面的にはおきれいごとを説いているだけ始末が悪く、きわめて偽善的なのです。私が直接また間接的に知った、その裏側の醜聞を書いたら、それだけでも一冊の本が完成するくらいです。それでも、そんな団体に人気が集まって大勢の支援者がいたりするから不思議です。私から見れば、あきらかにインチキや詐欺師でしかない教祖や人物に、大勢の信者が集まり、本も売れているのです。すべてとは言いませんが、今日の宗教やスピリチュアルは腐っています。
 もっとも、正確に言えば、宗教やスピリチュアルが汚れているのではなく、団体、あるいは宗教やスピリチュアルを金儲けの手段にしている連中が汚れているのですが、現実には、そういう団体や人物が多いのです。

 結局、世俗も宗教も同じです。表はきれいだが裏は汚れています。
 両者に共通することは何でしょうか?
 それは「人が集まっている」ということではないでしょうか。世の中も人の集まりであり、宗教(団体)も人の集まりです。
 結局のところ、人が集まるところには、汚れが出てくるのです。これは避けられないことのようです。そして、その汚れを必死にごまかそう、隠そうとしているのです。それがバレたら誰かのせいにするのです。世の中とは、要するに、人の集まりのことですから、宗教団体も「世の中」ということです。
 そんな汚れた偽善の世の中で、認められ、有名になり、名を残すことに、いったい何の意味があるでしょうか? 何の意味も喜びもありません。むなしいばかりです。そのことにようやく気づきました。

 以上のような理由から、世の中から遠ざかろうと思うようになったのです。隠者のように生活したいと思うようになったわけです。つまり、隠居生活です。
 したがって、基本的に人が集まるところには行きたくないし、なるべく行かないようにしています。月に一度、主催する教室を開いているだけで、あとは自宅の書斎に閉じこもる日々を送っています。
 孤独といえば孤独な生活ですが、孤独を感じたことはありません。むしろ、世の中で活動していた方がずっと孤独を感じていました。今の生活は、これまでの人生でもっとも充実していて、本当に自分が求めていた生活は、実はこれだったのだと気づきました。

 隠居生活といっても、何もせずに、ぼ~っと過ごしているのではありません。毎日、宗教やスピリチュアルの探求に挑んでいます。団体とはいっさいかかわりをもちません。独りで歩んでいます。瞑想と霊的な読書にほとんどの時間を費やし、非常に豊かなインスピレーションを受け取っています。自分としては、これほど心境がめさましく進歩している日々を送ったことはないくらいです。
 はたで見たら、こんな私の生活は退屈で、味気なく感じられるでしょう。うらやましいと思う人はほとんどいないと思います。しかし私は、この生活のなかに、本当の幸せに通じる道を見出しました。今までは、世の中にこそ幸せがあると思っていましたが、それは幻想でした。少なくとも私にとって、世の中に幸せは存在しません。幸せは独り静かな心の中に存在します。そのことに気づきました。なぜ聖者たちは、少なくとも修行の間は、孤独を求めたのか、よくわかるような気がしています。

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カルマ・ヨーガ

 まずはお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミー哲学教室は「カウンセリングの理論と実践3」というテーマで行いました。カウンセリング・シリーズの最終回です。今回は主に精神疾患をテーマにお話をいたしました。興味のある方はダイジェスト版をご覧ください。
 動画視聴

では、本題に移ります。
 ヨーガ(ヨガ)というと、世間では奇妙な格好をする体操のことだと見なされていますが、これは「ハタ・ヨーガ」といって、厳密にはヨーガではなく、ヨーガを効果的に実践するための、ある準備運動です。ヨーガの本質は肉体ではなく、精神的な変革にあり、瞑想が主体で、その代表的なものが「ラージャ・ヨーガ」です。健康になることが目的ではなく、目的はあくまで「解脱」です。ヨーガとは宗教なのです。
 ところで、ヨーガには他にもいくつか種類があるのですが、そのなかで、どんなヨーガを実践するにしても、それと一緒に必ず実践すべきだと私が考える、重要なヨーガがあります。
 それが「カルマ・ヨーガ」です。
 「カルマ」とは「行為」のことです。カルマ・ヨーガとは、行為を通して解脱へと向かうヨーガのことです。その行為は主に「善行」ですが、善行だけに限らず、たとえば仕事をする場合でも、カルマ・ヨーガを実践することができますし、実践するべきなのです。
 つまり、カルマ・ヨーガの本質は、「どのような行為をするか」にあるのではなく、「どのような意識で行為するか」にあるのです。
 カルマ・ヨーガの実践者(カルマ・ヨーギ)は、何をするにしても、その結果に対して執着しません。いかなる報酬も期待せず、ただ行為それ自体を目的として行うのです。
 たとえば、誰かに親切にするとします。すると、人は何らかの報酬を期待するものです。お金やモノを期待する人はあまりいないと思いますが、多少なりとも感謝の気持ちを返してくれることは期待するでしょう。
 しかし、感謝の気持ちも含めて、いかなる報酬も期待しない、これがカルマ・ヨーガの道なのです。親切にして、その結果、その人が喜んでくれる、ということさえも期待しないのです。結果に対してまったくの無関心なのです。
 ですから、人に親切にして、たとえ、恩をあだで返されるようなことをされたとしても、悲しんだり怒ったりなど、心を乱すようなこともしません。
 というより、そのような境地になるように努力する、これがカルマ・ヨーガの修行です。
 仕事にしても、お金や出世といった目的をもたずに、仕事そのものを目的として、一生懸命に努力します。そして、その努力が報われようと、報われまいと、たとえ失敗に終わったとしても、まったく心乱されず静けさを失わないようにするのです。

 そして、カルマ・ヨーガのもうひとつのポイントは、「自分を行為者と思わない」ということです。人は、何かをやっているときには「自分がやっているんだ」と思っています。実際、やっているのは自分なのですから、そう思うのは当然であり自然なことでしょう。
 しかし、カルマ・ヨーガでは、自意識や我意といったものを排して、ただ無心に行うのです。無我の境地、無念無想の境地での行い、老子のいう「無為」ということなのかもしれません。あるいは、「自分が行っているのではない。自分を通して神が行っているのだ」という、ある種の信仰心によって行うという言い方もできるかもしれません。

 このようなカルマ・ヨーガがめざしているのは、他のヨーガと同じく解脱なのですが、解脱とは、地上の束縛から解放されて高い霊的境地に至ることです。私たちが地上に束縛されるのは、地上に対する欲望があるからです。したがって、解脱するには、地上への欲望を捨てなければなりません。
 そこで、一切の見返りを求めずに行為をする、というカルマ・ヨーガの修行が、地上への欲望を捨てるために非常に効果的なのです。
 人は、何かをするときには、必ず欲望があります。欲望をかなえるために行動するのです。欲望があるから、行為の結果として、報酬を求めますし、報酬への期待があるわけです。カルマ・ヨーガは、そうした報酬を求めず、期待もせず、結果には無関心であることによって、地上への欲望を捨てようとする道なのです。

 また、報酬を求めない行為とは、無条件の行為ということです。報酬を求めての行為は「取引」であり、地上の行為はすべて基本的には取引です。
 しかし、取引ではない、つまり無条件の行為というものがあります。
 それは「愛」です。愛は絶対無条件です。愛するという行為に報酬を求めたら、それは愛ではありません。愛はいかなる報酬も求めず、愛すること自体を目的とする行為です。
 つまり、カルマ・ヨーガとは、「愛に至る道」でもあるのです。愛の境地は、高い霊的な境地です。それは解脱の境地です。解脱とは、地上の欲望を放棄した、愛の境地のことなのです。

 日々、このカルマ・ヨーガを実践しなければ、つまり、いかなる行為でも、報酬を求めず結果にこだわらず、ただ無心に行為そのものを目的として行うようにしなければ、たとえ瞑想しても、日常生活に戻って「取引の生活」をしたら、せっかくの瞑想の効果は消失してしまい、いつまでたっても解脱は得られないだろうと私は考えているのです。
 その意味で、カルマ・ヨーガは、いかなるヨーガを行うにしても、いえ、いかなる霊的な修行を行うにしても、必ず同時に行うべき大切な修行であると思うわけです。

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