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心の治癒と魂の覚醒

        

自分が本当に求めているもの


まずはご報告とお知らせから。
 先日7月6日/7日のイデア ライフ アカデミー哲学教室は、「グルジェフ 人と思想2」を行いました。好評のグルジェフ・シリーズの第二弾です。
 グルジェフの思想は奥が深くて、そう簡単に理解できるものではないのですが、彼が弟子に語った次の言葉が、彼の教えの根底にあるように思われます。この言葉はグルジェフの人間としての懐の深さを示した、とても感動的なものであると思います。ダイジェスト版にも収録されていますが、以下、紹介してみます。
「ほんとうの人間は、苦悩が人間にとって正常なことであるのを知っているから、苦悩を受け入れる。人間は自身について真実を知るために苦しまなければならない。意志をもって苦しむことを学ばなければならない。苦悩が来るとき、意図して苦しまなければならない、存在全部で感じなければならない、そういう苦しみが、意識を持つことや理解することを助けるということを願わなければならない」↓
 動画「グルジェフ 人と思想2」(ダイジェスト版)

 グルジェフ・シリーズの三回目(最終回)は、9月7日/8日となります。
 次回のイデア ライフ アカデミーは、7月20日/21日、瞑想教室第8回「瞑想を成功させる正しいモチベーション」を行います。何をするのでも同じと思いますが、特に瞑想をする際には、正しいモチベーションを持つことが絶対的に重要になってきます。正しいモチベーションで行わなければ、効果がないどころか、邪道に陥ってしまうからです。参加ご希望の方は以下のホームページから。↓
 斉藤啓一のホームページ

 では、本題に移ります。
 私たち人間の不幸や苦しみの、最大かつ根本的な原因は、結局のところ、「自分が本当に求めているものが何かわからない」という点に尽きると思います。
 私たちは、生まれてからこれまで、親の影響や社会の影響、マスコミの影響などで、本当は欲しくもなく、求めてもいないものを「これが欲しい」と”思わされて”、それを求めているのです。そうして、莫大な人生の時間と労力とを、欲しくもないもののために浪費しているのです。
 たとえば、高級車が欲しいとしましょう。そのクルマのデザインや性能が気に入って買うのなら問題はありません。しかし、高級車に乗ることで「人から認められたい」という動機であれば、本当に欲しいのはクルマではなく、「自己肯定感」ということになるわけです。そういう人が高級車を手に入れたら、しばらくは自己肯定感が高まったように感じるかもしれませんが、じきに色あせてしまいます。自分よりもっといいクルマに乗っている人もいますし、また、クルマ以外のことになると、やはり自己肯定感が満たされないからです。そうして今度は、ブランドの高級バッグだとか、大豪邸といったものを欲しがるわけです。それらが何もかも得られればまだいいのですが、普通、そのようなことは無理です。結局、自己肯定感の低さで苦悩することになるのです。
 高級車だとかブランド品といった「モノ」では、自己肯定感を得ることはできません。そのことに気づかず、憑かれたようにモノを求める生き方は、奴隷のようなものです。欲しいのは高級車だとかブランド品ではなく、自己肯定感だということに、早く気づくことが大切になってくるのです。

 では、「自己肯定感」は、どのようにすれば得られるのでしょうか?
 自己肯定感とは「自分には価値がある」という実感のことです。それを得るには、人からの賞賛が必要であると思いこんでいます。そのために、モノやカネを獲得したり、名声を獲得しようとして欲望を燃やすのですが、いくらそのような欲望を追求して、たとえその欲望が満たされたとしても、自己肯定感を得ることはできません。せいぜい、一時的にそれが得られた錯覚をするだけで、すぐにまた虚しくなるでしょう。
 他者からの賞賛では限界があるということです。他者から自分を肯定されることには限界があるのです。したがって、「自分で自分を肯定できるようになること」、これが重要になるわけです。外側に解決策はありません。内側、つまり心の世界に解決策があるということです。

 これは、自己肯定感の問題だけに限りません。
 私たちは、自分の外側、すなわち外的環境が自分の都合のいいように変われば、幸せになると思っているのですが、これは錯覚なのです。外的環境が自分の都合のいいように変わっても、人間が求めているものは外側には存在しないからです。第一、外的環境は自分の都合のいいように変わりません。変わることもときにはありますが、変わらないことの方が圧倒的に多いです。ですから、二重の意味で不毛なことを、私たちは行っているのです。
 このような、不毛な外的環境に可能な限り依存しないようにすること、そして、外的環境に影響されない内的環境を確立すること、これが、「私たちが本当に求めていること」ではないかと思うわけです。

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エゴの罠

 例によって報告とお知らせから。
 先日6月15日/16日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は、「ヴィパッサナー瞑想法」について紹介しました。この瞑想法は、数ある瞑想法の中でも最も重要で基本的な瞑想法だと思います。ひとことでいえばグルジェフの説く「自己観察」と本質的には同じであると思いますが、最近になって脚光を浴び、この瞑想法を習いたいという人がかなりいるようです。授業では、この瞑想法の原理とやり方を詳しく説明しつつ、その問題点についても取り上げました。決してひとつのやり方や教えに偏らないのがイデア ライフ アカデミーの基本姿勢です。また「瞑想の心構え」として重要な説明もしていますので、瞑想に関心をお持ちの方はぜひ動画をご覧下さい。↓
 動画「ヴィパッサナー瞑想法」(ダイジェスト版)

 次回のイデア ライフ アカデミーは、7月6日/7日、哲学教室第8回「グルジェフ 人と思想2」を行います。今回はグルジェフ思想の中心部である「ワーク(修行法)」について詳しく解説します。今回のグルジェフ・シリーズ(全3回)は、けっこう反響があり、グルジェフに関心をもっている人が多いことを知って嬉しくなりました。やはり宗教やスピリチュアルな道を歩む人は、いえ、宗教やスピリチュアルには無関心な人でも、グルジェフの教えは、私たち人間のありかたと人生のありかたを深く考えさせてくれるという意味で、一度は学んでおくべきものであると思います。参加ご希望の方はホームページから↓
 斉藤啓一のホームページ

 それと、イデア ライフ アカデミーの専用ページを新たに作りました。そこでイデア ライフ アカデミーの内容や理念を詳しく書きましたので、ご覧いただければ幸いです。また、霊的な修行の道において非常に大切だと思われることを、「自己変革の極意」という小論文にまとめました。こちらもぜひご覧ください。

 では、本題に入りますが、今回、ヴィパッサナー瞑想法についての授業をするにあたり、ネットでいろいろと調べました。とりわけ、ヴィパッサナー瞑想の十日間の合宿に行った人の体験談を読んでみたのですが、そのなかで気になるものがありました。
 そのサイトに書かれてある体験談によると、ヴィパッサナー瞑想法のスタッフに、いろいろ質問をしたらしいのですが、しだいにそのスタッフの人はイライラし始め、ついには半キレ状態になったというのです。その体験談を書いた人は、ただ純粋に疑問を解決したいと思って繰り返し質問をしたそうなのですが、なぜキレてしまったのか不思議だったそうです。それで、たまたまそのスタッフだけの問題なのかと思い、他にヴィパッサナー瞑想をしている複数の人(その中には外国人も含まれる)に、同じように質問を繰り返すと、みんなしだいにイラついてきて、ついにはキレてしまったというのです。
 ヴィパッサナー瞑想法は、怒りなどの煩悩を消すのが目的であり、きちんとヴィパッサナー瞑想法をしていたら、イライラしたり、キレたりするはずがないのです。初心者であればまだわからなくもありませんが、指導する立場にあるスタッフがキレやすいというのは、理解に苦しみます。スタッフになるくらいですから、それなりの修行を積んできているはずです。それなのに、なぜすぐにキレてしまうのか、そのサイトの人も首をかしげていましたが、私も首をかしげてしまいました。
 しかし、これはヴィパッサナー瞑想法だけに限らないようです。
 私の知り合いから直接に聞いた話ですが、その人は、あるスピリチュアルの指導者に質問をしたところ、相手はしだいにイライラし始めたというのです。私の経験からも、スピリチュアルの世界にはまっている人たちは、ささいなことで感情を害する人が少なくないように思われます。
 なので、おそらくヴィパッサナー瞑想法だけの問題ではないのでしょう。

 これは私の想像ですが、瞑想やその他、さまざまなスピリチュアル的な修行によって、エゴが強化されてしまったのではないでしょうか。
 本来、スピリチュアルの修行の目的は、覚醒、すなわち、エゴを消すことが目的のはずなのですが、覚醒するまでは、すべての行動の動機はエゴを満足させることです。具体的には、支配欲、優越感といったものです。すなわち、「私の言う通りにしなさい、私のことを認めなさい」といった気持ちです。プライドと呼んでもいいかもしれません。その気持ちを満たすために、エゴはあらゆることを利用します。一般の人であれば、それはお金や名誉、地位といったものとなるのでしょうが、スピリチュアルにはまっている人は、スピリチュアルを利用してしまうのです。
 たとえば、「自分は悟りを開いた」だとか「最終解脱をした」だとか「自分はブッダである」などといって、人々から認められようとするわけです。お金や名声といったものは、誰がみてもわかるはっきりしたものですから、ごまかすことはできませんが、そういうスピリチュアルな世界は、はっきりとその真偽がわからない方が多いので、いくらでもごまかすことができます。その点で、スピリチュアルという世界は、エゴにとって居心地のよい、格好の場所となるのです。

 ところが、いろいろ質問をされると、答えられない質問も出てくるでしょう。「答えられない」となると、プライド、つまり、エゴが傷ついてしまいます。そのために、イライラして、ついにはキレてしまうのではないでしょうか。
 イライラやキレるというのは、怒りという代表的な煩悩ですから、いくら瞑想やその他の修行を積んでいたとしても、イラついたりキレたりした時点で、霊性が高くないことが明らかになってしまうのですが、そのことに気づかず、自分を怒らせた相手が悪いのだといったように責めることで、正当化してしまう傾向があるようです。
 このようなエゴの罠に陥らないよう、私たちは最近の注意を払う必要があると思うわけです。
 
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自己変革の極意


 ホームページを少し改修しました。
 「セッションの案内」を削除し、「イデア ライフ アカデミー」の紹介ページを作りました。
 同時に、「自己変革の極意」という文章を掲載しました。
 この文章は、これまで覚醒だとか悟りといったことを目的に研究してきた私の、あるひとつの結論に達した考えをまとめたものです。
 その結論というのは、「覚醒や悟りを目的にしている限り、覚醒や悟りは得られない」というものです。その理由は、覚醒していない私たちの行動の動機というものは、すべてエゴを土台にしているからです
 つまり、本来、覚醒や悟りというものは、エゴを破壊することによって達成されるのですが、そのエゴが、覚醒や悟りを目的にしているということになり、結局は、うまくいかないのです。その結果、覚醒や悟りを開いた空想に埋没したり、以前よりエゴが強化されて、ますますいやらしい人間になってしまうわけです。これは霊的な道を歩む上での最大の落とし穴であり、この落とし穴にはまったと思われる人たちを、たくさん見てきました。
 覚醒や悟りを開きたければ、覚醒や悟りを目的にしてはいけないのです。
 では、いったい何を目的にすればいいのでしょうか?
 その点について詳しく書きましたので、ぜひ読んでくだされば幸いです。
 自己変革の極意↓
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/LB-henkaku.html
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覚醒に至るための動機について


 まずは例によって報告とお知らせから。
 先日6月1日/2日のイデア ライフ アカデミー哲学教室は「グルジェフ 人と思想1」というテーマで行いました。グルジェフという人を知らない方は、非常に大切な教えを残した人なので、ぜひダイジェスト版の動画(無料)をご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=45ZQsZ29Gds&feature=youtu.be
 なお今月の瞑想教室(6月15日/16日)は、「ヴィパッサナー瞑想法」をとりあげます。そして引き続き次回の哲学教室「グルジェフ 人と思想2」は7月6日/7日になります。関心のある方はぜひ参加なさってみてください。
 詳細↓
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/

 グルジェフは、戦争という悲劇を起こさないようにとの願いをこめて、人間を育成する修行のための学校を開いたのですが、ようやく軌道が乗っていよいよこれからというときに、財政上の問題や、彼自身の交通事故などの不運が重なり、結局、その後、彼が思っていたような成果を出すことなく世を去ってしまいました。他にもいろいろな聖者たちの人生を見ると、このようなことが少なくないのです。そのたびに私は思うのです。「いったいなぜこのような皮肉が起こるのだろう? なぜ神はそんなことを許すのだろうか?」と。グルジェフや他の聖者たちが、突発的な不運に見舞われさえしなければ、今の世界はもっとよくなっていたはずです。最近、社会問題となっている異常な事件も起こらなかったかもしれません。
 どうも、「世の中をよくしよう」として何かをしようとすると、それを阻止しようとする、何らかの力が働いているように思われてなりません。
 しかし、グルジェフは最後の最後まで、その力と闘い続けました。私も彼を見習って、闘い続けようと思います。自慢に聞こえてしまったら申し訳ありませんが、イデア ライフ アカデミーという、人生におけるもっとも大切なことを、リーズナブルな料金で、これほど詳細に包括的に紹介している場所は、そう多くはないと思うからです。イデア ライフ アカデミーに学びに来たからといって、幸運が引きよせられたり、お金が入ったり、仕事で成功したりするといったことはありません。イデア ライフ アカデミーの目的は、真善美の生き方をしたい、自分の人生を真善美に近づけていきたい、その結果として、この世界をよいものに変えていきたいという願いを持った人が学びに来る場所です。しかし、それこそが「覚醒への道」なのです。

 さて、ここから本題に入りますが、いま申し上げたように、覚醒への道というものは、真善美の生き方をしたい、自分自身を真善美に近づけたい、という動機で行うべきだと、最近つくづく思うに至りました。言いかえれば、「自分を立派にしたい」という、ただそれだけの動機です。
 たとえば、瞑想の本などを読みますと、「瞑想すると頭がよくなる、運がよくなる」といった恩恵が書かれていたりします。確かに瞑想は潜在能力を開発させるので、そのような効能はあるかもしれませんが、そのような世俗的な効能を目標に瞑想を続けると、エゴが増強して邪道に陥る可能性が高くなるのです。というのも、覚醒していない私たちの行動の動機というものは、ほとんどエゴによるものだからです。あからさまに言えば、「瞑想して頭がよくなって人よりいい学校や会社に入ろう、運をよくして人からうらやましがられるようになりたい」といった動機が、多くの場合、背後に潜んでいるからです。たとえ最初はその思いはそれほど強くなくても、だんだんと強くなってしまう可能性があります。ですから、そのような動機でへたに瞑想して潜在能力を開花させると、極端な場合、悪魔的な人間になってしまう危険があります。そこまでいかなくても、エゴが強化されていやらしい人間になりかねません。

 では、そういう世俗的な動機ではなく、「悟りを開きたい、覚醒したい」という動機はどうなのでしょうか?
 実際、そうした願いを真剣に懐いて、多くの聖人と呼ばれる人は宗教の道に入ってきました。最初の動機としてはそれでもいいと思います。しかし、その「悟りを開きたい、覚醒したい」という動機の背後には、やはりエゴが潜んでいる場合が多いのです。繰り返しますが、悟りを開いていない、覚醒していない私たちのほとんどは、エゴが動機になっているからです。つまり、これもあからさまに言えば「悟りを開いて人から偉く思われよう、認められよう」という動機が絡んでいることが多いわけです。最初はそんな動機はなくても、エゴを根絶やしにしない限り、しだいにエゴが育ってきて、傲慢な人間になって道からそれてしまうわけです。ですから、どこかで、「悟りや覚醒よりも、自分を立派にすることを第一の目標にしよう」という動機に変えなければいけないと思うわけです。

 そこで私は、最初から、「自分を立派にする」ということを、唯一の動機にするべきだと思うのです。具体的には、自分を真善美に近づけることです。
 もちろん、この場合でも、覚醒していない私たちは、その動機の背景にエゴが潜んでいます。すなわち、「立派な人間になって人から尊敬されよう、認められよう」といった動機です。
 しかし、そのような動機を懐くこと自体、「自分は立派ではない、真善美ではない」ということになります。そのような「下心」があるということは、まったく立派ではないし、真でも善でもなく、美しくもありません。「自分を立派にする」という動機を持っていると、そのことが自覚されやすいのです。ですから、「自分自身を立派にする」という動機こそが重要だと思うわけです。覚醒というものは、自分を立派にしよう、真善美に近づけようという努力の「副産物」として手に入るものだと私は考えます。

 しかしながら、ほとんどの人は、「自分を立派にしよう」などという動機には、あまり魅力を感じることなく、強い動機になりにくいのです。それよりも、「能力が開発される、成功する、幸運を引きよせる」といった、エゴの欲求を煽るようなものに惹かれ、強い動機と情熱を傾けるわけです。しかしそれは、覚醒とは正反対の方向であることは言うまでもありません。
 こうした理由から、真に悟りを開くこと、覚醒するということが、いかに難しいか、おわかりいただけるかと思います。ただただ自分を立派にすること、真善美に近づけることに、燃えるような情熱を懐いて飽くなき前進を続けていく人のみが、覚醒に至るのだと思うわけです。
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霊的な道の途上に待ち受ける罠について

 私はこれまで、古今東西の宗教や思想・哲学などを幅広くかじってきましたが、こうした霊的探求の道の途上には、さまざまな「罠」が待ち受けているということを痛感しています。多くの人がその罠にはまってしまい、真実を探求するつもりが幻想に埋没してしまい、たとえば悟りをめざしている人は、「悟った夢」に埋没してしまうのです。こうなると、進歩はそこでとぎれてしまいます。
 余談になりますが、学生時代、私はめったに遅刻したことがないのですが、あるとき遅刻したことがありました。一度目覚まし時計で起き、「あと5分だけ寝よう」と思って眠ったら夢を見たのです。どんな夢かというと、「起きて学校へ行くために身支度をしている」という夢でした。つまり、自分はもう眠っていない、起きているのだと思い込んでいるわけですから、起きなければならないという気持ちは消え去り、そのままずっと眠り続け、遅刻してしまったのです。
 同じように、夢に埋没して、その夢が「現実」であると思い込んでいる限り、その夢から覚めるのは非常に難しくなってくるのです。

 さて、霊的探求の道の途上に待ち受けている罠ですが、典型的なものは、霊的指導者を神格化し、崇拝の対象にして盲信することです。人間である限り、間違いは必ずおかしますし、欠点もあります。しかし、「間違いは絶対にない、欠点は何もない」と信じ込んで、自主性を失い、奴隷のように服従してしまうのです。真の指導者であれば、弟子をそのような奴隷状態にはさせないはずです。

 確かに、人はエゴを暴走させやすいので、そのエゴを矯正するために、指導者の教えに従うことは大切ですが、それが盲目的に行われると、「自分の意志と思考で自らの道を選択し歩んでいく」という大切な資質が育たない、そればかりか、萎縮してしまう危険性があるのです。

 そこで大切なことは、どんな教えを受けても、まずはそれを慎重に吟味して理解するということが必要になってきます。エゴの主張ではなく、自分自身の魂の基盤から、慎重に考えてみる必要があるのです。その結果、自分自身の魂の方向性に反していると思ったら、その教えを拒否する勇気が必要です。

 とはいえ、エゴの主張と魂の意志とを、どう区別したらいいのでしょうか? 魂の意志であると自分では思っていても、実はエゴの主張である、といったことも、ないとはいえません。
 そこで、その違いを判断する基準となるのは、まず、しっかりした論理的な理由があるかどうかです。エゴは、さまざまな屁理屈や言い訳を見つけてくるのが上手です。しかし、それらはしっかりした論理的なものではありません。いい加減な根拠や論理的思考によって構築されています。まずは、そこをしっかりと自覚する必要があります。
 それでも、しっかりとした論理的な理由があると思えたなら、それはエゴではなく、魂から出た判断である可能性が高いと言えるでしょう。

 次に、利己的な欲望が関与していないかどうか、ということです。「指導者にさからったら、破門されるのではないか、弟子達の間で不利な立場におかれるのではないか」といった、ある種の損得勘定があるかどうかです。不安や恐怖心と言ってもいいかもしれません。そのような気持ちがあれば、エゴの主張である可能性が高いのです。魂から出た判断には、そういう利己的欲望も不安も恐怖もなく、澄んだ清流のようなすがすがしい気持ちが伴います。
 以上のような基準を自覚しながら、指導者の教えを受けるべきです。そして、魂から出た判断によって、その教えに従うべきではない、と思ったならば、従うべきではありません。

 指導者となる人たちは、最初は純粋な動機で弟子を集めたり組織を運営したりしていたかもしれませんが、「認められたい」という称賛欲と、「人を支配したい」という支配欲は、人間の心に深く根を張っているエゴの欲望で、完全にそれを無くすことは難しいのです。そのため、自分に従う弟子が集まってくると、その根からしだいに芽が出て、自分でも気づかないうちに称賛欲と支配欲にとらわれ、「私の言うことに間違いはない、私は偉大なる指導者なのだ。私の言うことに従わないと道は成就できないぞ」といったように、ある種の脅しをかけて、弟子たちからの称賛と服従を要求するようになったりします。
 こういった指導者は、霊的探求の道に待ち受けている罠にはまってしまったのです。
 残念ながら、こうしたケースは少なくないように思います。とくにカルトなどはその傾向が強い傾向があるようです。
 
 今回のテーマについて、深く考えさせられる人物がいます。ロシアの神秘家グルジエフです。彼は非常に不可解な人物でしたが、その教えは、霊的な道を探求する人であれば、(それを受け入れるかどうかはともかく)必ず知っておくべきものです。
 次回(6月1日、2日)のイデア ライフ アカデミーでは、このグルジエフについて取り上げます。興味のある方は、ぜひご参加ください。
 参加希望の方はホームページをご覧下さい。↓
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/
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