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心の治癒と魂の覚醒

        

仏教の本質は実践にある

 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月2日と3日、イデア ライフ アカデミー哲学教室第11回「易経に学ぶ運命の法則2」というテーマで授業を行いました。今回はいよいよ宗教書としての易経に焦点を当て、易経には霊性進化のために64の教えが書かれており、その教えはキリスト教と共通点があるという、興味深い説をご紹介いたしました。おそらくこのような視点で易経を解釈した人は他にいないと思います。易に関心のある方はもちろん、霊性進化をめざしている方はぜひ動画(ダイジェスト版)をご覧になってください。
動画視聴
 今月はもうひとつ瞑想教室(16日、17日)が行われます。「怒りを無くするにはどうすればいいか」というテーマでアプローチしていきます。怒りは仏教では三大煩悩のひとつであり、怒りによって多くの人は自ら苦しみ不幸災難を招き寄せてしまっています。そんな不幸の元凶とも言える怒りから解放される瞑想法について紹介する予定です。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで

 さて、本題に入ります。
 前回、「なぜ世の中にはすばらしい教えが溢れているのに、すばらしい人が少ないのか?」ということを書きました。
 そして、多くの人が、単に頭や観念で教えを学んだだけで、それを実践することなく満足してしまっていると書きました。これでは、宗教もスピリチュアルも単なる「娯楽」に過ぎず、救済への「道」とは成り得ません。
 仏教、すなわち釈迦の教えは、そのことを強く戒めています。それを端的に物語っているのが「毒矢のたとえ」です。簡単に紹介しますと、ある弟子が「宇宙の究極の本質とは何か、あの世はどんなところか、それを教えてくれなければ修行しません」と釈迦に言いました。釈迦はこう答えました。「ここに毒矢に射られた人がいて、周りの者が矢を抜こうとしたところ、ある人が、この毒矢の毒の成分は何か、誰が何の目的で矢を放ったのか、それがわかるまで矢を抜いてはいけないと言ったとしよう。そんなことを調べていたらその人は死んでしまうであろう。同じように、おまえの疑問は生涯かかっても解き明かせないもので、そうしたら肝心の解脱という修行ができずに死んでしまう」。
 スピリチュアルの本などを読むと、この釈迦の戒めが頭に浮かんでしまいます。スピリチュアルの本には、宇宙の究極的な本質だとか、五次元、六次元の世界はどうだとか、霊界はどうだとか、あげくには陰謀論のようなものが書かれてあり、人気を博しています。そうしたことを学ぶことは一概に否定はしませんが、このようなものは、本当かどうか確かめようがないのです。どうあがいてもわからないのです。それなのに、こんなことにばかり面白がって夢中になっていたら、「自分を変える」という肝心の修行がおろそかになってしまいます(趣味でスピリチュアルを学んでいる人はそれでいいでしょうが)。

 釈迦が、「仏教とは何か」について、それを一言で表現した言葉が、『法句経』(185節)に見出すことができます。次のように書いてあります。
 「すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが諸々の仏の教えである」
一見すると、まったく当たり前のことであり、陳腐にさえ思えてしまう言葉です。しかし、これが仏教なのです。ところが仏教というと、複雑怪奇な縁起論だとか唯識論だとが無我論といったことばかり有り難がって、たくさんの本が出されて研究されています。
 言うまでもなく、仏教の目的は学者を輩出することではありません。仏教理論を学べば解脱できるなら、仏教学者はみんな解脱しているはずです。
 人を解脱させるのは、煩悩という汚れを除去して、心を浄めることにあるのです。
 心を浄めるには、悪しきことをなさず善いことを行うという実践が不可欠なのです。悪しきことをなさず善いことを行うという実践がなければ、いくら仏教理論を学んでも、瞑想をしても、心が浄まることはなく、解脱はできません。また、逆も真なりで、心が浄まるにしたがって、人は悪しきことはしなくなり善いことができるようになってくるのです。
 つまり、「悪いことはするな善いことをせよ」というのは、単なる道徳的な戒律というレベルではなく、まさにそれが解脱修行の中心である、という位置づけをするべきなのです。瞑想だとか仏教理論の学びというのは、その周辺に位置するべきものなのです。さらに言うならば、瞑想だとか仏教理論は、悪いことはせず善いことができるようになるためにあるのです。
 ここを誤ると、仏教修行はおかしなところに行ってしまいます。
 このように、仏教というのは、小難しい理屈を振り回す観念的な哲学ではなく、あくまでも「実践哲学」だということです。仏典を熱心に読むのも大切ですが、目の前に困っている人がいたら、仏典をしまってその人を助けてあげる、どんなに小さな親切であっても、善行をする、これが、真の仏教徒のありかたです。
 もちろん、実践することの重要さは仏教に限りません。キリスト教でも、あるいは他のまともな宗教なら、実践を重視しているはずです。実践こそが宗教の本質であり、スピリチュアルの本質なのです。

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真の仏教 | コメント:2 | トラックバック:0 |

 いかにして聖者の教えを実践するか?

 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月19日と20日、イデア ライフ アカデミー瞑想教室第10回「苦難を瞑想によって乗り越える」というテーマで授業を行いました。月並みな苦しみではなく、苦難と呼ばれるほど激しい苦しみに見舞われたときは、超越的な存在(いわゆる神や仏)との霊的交流が非常に重要であると私は考えます。いわば「信仰」の領域になるわけですが、信仰といっても、特定の宗教とは関係ありません。信仰とは超越的存在との霊的交わりのことです。授業では、どうすれば超越的存在と霊的な交流ができ、そうして苦難を乗り越えることができるかどうか、その方法を解説しました。ダイジェスト版ではそのための理論を説明しています。ぜひご覧ください。
動画視聴はこちらから
 次回は哲学教室(11月2日、3日)で、「易経に学ぶ運命の法則」の続きです。64卦ある易の卦のなかで、生きる指針としてもっとも含蓄が深く示唆に富んでいると思われるものを、霊性の進化という視点から解説していきます。今まで易経を単なる占いの書と思っていた人は、新たな視野が開かれることと思います。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで

 さて、本題に入ります。
 私が今まで長い間、ずっと疑問に感じ、思い悩んでいることがあります。
 それは、「なぜ世の中にはすばらしい教えが溢れているのに、すばらしい人が少ないのか?」ということです。
 たとえば、世界で一番売れている本は「聖書」です。仏典もたくさん読まれているでしょう。宗教とは縁のない人は、いわゆるスピリチュアル系の本を読んでいるかもしれません。どれもすばらしい教えが説かれています。新興宗教でも、よほどあやしいカルト教団でない限り、すばらしい教えを説いています。
 これだけすばらしい教えが溢れかえっているのに、それに比べて、私たちはそれに見合うほどすばらしいと言えるでしょうか?
 少しはすばらしくなっているかもしれませんが、大多数の人は、すばらしい教えの内容からはほど遠いのが現実です。
 いったいこれはどうしてなのか?
 私はずっとこのことを考えているのです。
 西洋には「サンデー・クリスチャン」という言葉があるそうです。つまり、日曜日には教会へ行き、神様の話や隣人愛の話を耳にしてクリスチャンらしく過ごすのですが、残りの平日は、クリスチャンとは無縁の、すなわち、隣人愛などほとんど頭にない、冷酷で、物欲や虚栄心まるだしの生活をしているのです。
 いったいこういう人たちは、自分たちの矛盾に気づかないのでしょうか? 自分をクリスチャンと言いながら、一方で愛のかけらもない、虚栄心や物欲を満たすばかりの生活をしていることに、違和感を覚えたり、恥ずかしい気持ちが湧かないのでしょうか? こうなると、ある種の二重人格としか思えません。
 もちろんこれは、クリスチャンに限りません。仏教徒も、スピリチュアルの信奉者も同じです。
 結局、すばらしい教えが書かれた本を読んだり、あるいは話を聞いたりするだけでは不十分なのです。それだけでは人は変われないのです。その他に、何かが必要なのです。
 多くの人たちは、そうした宗教やスピリチュアルを、ある種の「娯楽」や「気晴らし」、あるいは教養の一環くらいにしか思っていないのかもしれません。
 もちろん、すばらしい本を読まないよりは読んだ方がいいでしょう。しかし、人間はしばしば、頭で理解しただけなのに、自分がすばらしい人間になったような錯覚をしたりします。愛についての高邁な理論を学んだというだけで、愛の深い人になったと勘違いしたりします。知識というものは、こういう落とし穴、危険があるのです。ですから、必ずしもすばらしい本を読むことがすばらしい結果になるとは限りません。ときには逆に、人間性を低めてしまう危険もあるのです。残念ながら、宗教やスピリチュアルの世界には、この種の人たちは掃いて捨てるほどたくさんいます。
 これでは、いくら今後、たとえイエスや仏陀のような大聖者が現れたとしても、何の意味もありません。
 教えはもう十分なのです。
 あえて「教え」というものが必要であるとするならば、それは、「教えを実践に移すための教え」ではないでしょうか?
 ならば、いったいそれは何なのか?
 どうすれば、過去の聖者たちが残してくれた教えを、自らの血肉とし、そうして自らを変え、すばらしい教えの実践者になることができるのか?
 これが、私がもっとも関心を抱いているテーマであり、現在、模索している最中なのです。

修行の基本的な姿勢 | コメント:10 | トラックバック:0 |

訂正とお詫び&苦難について

 前回のブログで、今月19日と20日の瞑想教室は「怒りを捨てる瞑想」というテーマで行うと告知しましたが、これは来月の瞑想教室のテーマでした、今月は「 苦難を瞑想によって乗り越える」がテーマです。訂正してお詫び申し上げます。
 苦難と言えば、今この文章を書いているのがお昼頃で、今まで経験したことがないと言われる大型台風が、私の住んでいる関東地方では今日の夕方から深夜に通過してピークを迎えると報道しています。すでにかなり強い雨風で外は荒れており、ピーク時にはこの何倍も強い暴風雨になると思うと、さすがに不穏な気持ちになります。
 人生においては、さまざまな苦難が訪れますが、今回は自然がもたらす苦難です。自然がもたらす苦難だけはどうしようもありません。とにかく、少しでも被害が少なくてすむように、できる限りのことをして、後は、天命を待つしか仕方がありません。
 避けられる苦難であるならば、避けるように努力すべきです。しかし、どうしても避けられない苦難であれば、それを受け入れるしかありません。ただ、苦難を受け入れるということは、口で言うほど簡単ではありません。「溺れるものはワラをもつかむ」という言葉がありますが、明らかに無駄だと思われるものにも、すがりたくなってきます。しかし、しょせん、ワラはワラです。ワラをつかんでも何の助けにもなりません。
 その一方で、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉があります。溺れている人は、もがくからかえって沈んでしまうのです。こういうときは、思いきり息を吸って(肺に空気をいっぱい入れて)、手足をばたつかせることなく体の力を抜けば、たいてい浮かぶことができます(たくさん服を着ていると難しいかもしれませんが)。つまり、いたずらにもがくのをやめた方が、助かる可能性が高いのです。
 この教訓は、人生における他の苦難にも当てはまります。どうしても避けられない苦難に見舞われたとき、それを心静かに受け入れることができる境地を、日頃から瞑想によって養っていくことが大切になってきます。いざというとき、そうして練ってきた心が、救いをもたらしてくれるでしょう。苦難を乗り越える勇気を与えてくれるでしょう。
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自分を変えるために何から始めるか?

 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月5日と6日、イデア ライフ アカデミー哲学教室第10回「易経に学ぶ運命の法則 1」というテーマで授業を行いました。易経は孔子も熱心に学んだ生きる指針の書であり、占いの書であり、何よりも宇宙の法則と合致して生きるための「宗教書」です。授業では、易の基本的知識から始まり、占い方のかなり高等なテクニックまでを紹介しました。ダイジェスト版では、易経を学ぶ意義についての話を収録しています。ぜひご覧ください。
 動画視聴はこちらから
 なお、今月19日と20日は瞑想教室で、「怒りを捨てる瞑想」というテーマで行います。怒りは「三大煩悩」のひとつにあげられるくらい、人生において破壊的な作用をもたらし、私たちを苦しめる最大のものです。その怒りを捨てることができれば、人生の幸せに向けて非常に大きな一歩を踏み出すことになり、瞑想も格段に上達していきます。ご参加、お待ちしています。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで
 
 さて、本題に入ります。
 この世のあらゆる生き物は進化しています。進化というと、肉体的な形態や機能だけを思い浮かべますが、脳も肉体の一部なわけですから、脳の進化、すなわち精神の進化もまた、あらゆる生物に課せられたものだと言っていいでしょう。
 人間の場合、おそらく脳をのぞいた身体的な進化は、かなり完成に近い水準に達していると思います。というのは、人間は脳が発達したおかげで、いろいろな環境に適応できるようになっているからです。たとえば、寒い場所で生きなければならないとしても、そのために体毛を濃くする必要はないわけです。
 そうなると、人間に残された進化の課題は、主に精神面での進化ということになると思います。
 進化とは、「より生存と繁栄に適した存在になること」です。
 私たちは、自分とは異なるさまざまな他者と共存していかなければなりません。さもないと生存と繁栄が難しくなるからです。
 そして、自分とは異なる他者と共存していくために必要な精神的な特徴は何かといえば、それは「寛容さ」です。つまり、自分とは異質な人も受け入れて仲良くやっていく「広い心」です。したがって、人間は進化するにつれて、寛容さ、心の広さを持つようになっていくはずです。
 しかし、この寛容さ、心の広さという美徳を養うことは、想像するよりも難しいのです。
 人はどうしても、自分と気心の合った人とだけ付き合いたくなります。自分と気の合わない相手は、たとえその相手が立派な人であっても、仲良くしたくないのです。たいていそういう場合、単純に「好き」とか「嫌い」とか、馬が合うとか合わないとか、生理的に受け付けないとか、そういった感情的な理由で仲良くしたり拒絶したりします。
 もちろん、嫌いな人と必要以上に仲良くするべきだ、と主張したいわけではありません。相手が間違っているのに無理に合わせなければならない、ということではありません。どうしても考え方が合わなければ、そのときは別れても仕方がないと思います。
 しかし、よほど常軌を逸した人でない限り、とりあえずどんな人とでも、そつなく仲良くできる、という人こそが、成長し進化した人の特徴です。好きな人とだけ仲良くできるがそうではない人とはやっていけないと、最初からそのような態度しかできないのは、幼児的な精神の持ち主です。
 人間は、さまざまなタイプの人と交わることで、さまざまなことを学んでいき、成長進化していくものです。自分と同質の人とだけ交わっていても成長しません。
 もしも、自分を変えようと真剣に望むなら、まずは、どんな人でもその異質性や個性を受け入れて仲良くやっていく、そうした寛容さ、心の広さを養うことから始めることを勧めます。こうした寛容さ、心の広さという美徳を養うことができれば、他のさまざまな美徳も修得しやすくなるはずです。

修徳の行 | コメント:2 | トラックバック:0 |

自分と運命を変えるための大切な作業


 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月21日と22日、イデア ライフ アカデミー瞑想教室第9回「袁了凡に学ぶ無条件の生き方と瞑想」というテーマで授業を行いました。袁了凡(えんりょうぼん)は中国、明の時代の人で、易の達人から不吉な運命を宣告され人生を諦めますが、禅の高僧から運命転換の方法を伝授され、見事に運命を好転させたという人物です。しかし単に運命を好転させたというだけの話ではなく、そこに、真の瞑想をする上での貴重な教訓を学ぶことができるのです。瞑想をしていると、さまざまな雑念に悩まされますが、その雑念を取り払うために、おそらくもっとも効果的な方法を、袁了凡から学ぶことができます。運命を好転させたい人、深い瞑想状態を達成したい人は必見です。ぜひダイジェスト版をご覧になってください。
 瞑想教室第9回動画(ダイジェスト版)

 次回10月と11月の哲学教室は、今回の袁了凡の話と密接な関係がある「易」について紹介します。「易経に学ぶ運命法則」というテーマで、易の哲学から実践までを解説する予定です。易は人生百般、あらゆる悩み事に対する的確な答えを出してくれます。易は人生という道を照らす灯火とも言えます。易を学んでおいて損はありません。易は人生最強の武器となるでしょう。ご参加、お待ちしています。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで

 さて、本題に入ります。
 冒頭でご紹介したように、袁了凡は積善を重ねるという「禅の修行」によって運命を好転させたわけですが、その際に取り入れたのが、師匠の雲谷(うんこく)禅師から伝授された「効過格表」です。これは、どのような行為が積善で、どのような行為が積悪になるか、それぞれ50ずつ具体的に記したもので、いわばバランスシートということになります。たとえば、「こういうことをするとプラス1点」とか「プラス5点」、「プラス50点」というように、あるいは「こういうことをするとマイナス5点」といったように書かれてあるのです。袁了凡は、これに基づいて積善を重ねていったわけです。毎日必ず、一日の終わりに自分の行為を振り返り、積善と積悪の両方を考慮して点数をつけていきました。今日なじみのある言葉で表現すれば「ポイント」ということになるでしょうか。
 そして、とりあえず、3千ポイントをゲットすることを目標にしたのです。彼はこの目標を達成するのに十年かかりました。その後も引き続き3千ポイントをめざしたのですが、今度はもっと早く達成することができました。やはり、積善という行為も、慣れといいますか、熟達といいますか、続ければそれだけやりやすくなるのでしょう。また、彼が役人として出世して権力を持ったことも大きな理由のようです。というのも、権力があれば、大きな積善ができるようになるからです(逆に大きな積悪をしてしまうことにもなりかねませんが)。

 それはさておき、私たちの参考になるのは、袁了凡が自らの積善をポイントという具体的な数値に換算して記録していったことです。
 何をするのもそうですが、「具体的な数値に換算して記録する」ことは大変に重要です。たとえば会社組織は必ずこれを行っています。毎月、どれくらい売上があって、どれだけ経費がかかったかなど、漠然としか把握していない経営者はいないでしょう。しっかりと具体的な数値として記録しています。そうすることで、どれくらい利益が出ているのか、どれくらい会社が発展しているのか、また、今後、さらに発展するにはどうすればいいか、といったことを知るための貴重なデータになるわけです。
 会社の発展も、人間個人の発展も、そのやり方は基本的には同じではないでしょうか。
 すなわち、自分がどれくらい積善して発展しているのか、それを具体的な数値に換算して記録するということが、とても重要になってくるのです。ただ漠然とした感覚で自らの成長をめざしても、あまりうまくいきません。
 そこで皆さんに提案したいのは、袁了凡が行ったように、毎日必ず、一日の終わりに、自分の行為を振り返って、点数をつけることです。
 ただ、袁了凡が用いた功過格表にしたがって厳格な点数をつけるのは、かなり煩雑になるので、ある程度、感覚的な点数でもかまわないと思います。
 具体的にはこうします。
 善いことと悪いこと、それぞれ5点評価とします。すなわち、
 善いことに関しては、5点=大変に善いことをした。4点=善いことをした。3点=そこそこ善いことをした。2点=少し善いことをした。1点=わずかに善いことをした。
悪いことに関しては、5点=大変に悪いことをした。4点=悪いことをした。3点=そこそこ悪いことをした。2点=少し悪いことをした。1点=わずかに悪いことをした。
 そうして、善い点数と悪い点数をノートに記入し、その差(積善ー積悪=)を出します。たとえばこんな具合です。
 「今日は、電車でお年寄りに席をゆずったり、仕事で失敗した同僚を励ましてあげたりしたから、全体としてプラス4点。しかし、ちょっとしたことで腹を立てて部下にきついことを言ってしまったので積悪が2点、合計で今日の評価はプラス2点」。
 ときには、マイナスの点数になることもあるでしょう。人によってはマイナスになる日の方が多くなるかもしれません。
 そして、ノートに今日の日付と点数を記入します。その点数を一週間で集計し、一ヶ月で集計し、3ヶ月で集計し、1年で集計していきます。できれば、そうして出した数値をグラフにすると、より一層、自分の発展度合いがよく把握できるかもしれません。

 こうしたことを毎日続けることは、よほど向上心がないと難しいです。途中で飽きたり、馬鹿馬鹿しく感じられたり、やるのを忘れたりして、いつのまにかやらなくなってしまいます。だから、ほとんどの人は変われないのです。
 繰り返しますが、変わるためには、自分の成長度合いを具体的な形で評価できる数値的なデータがとても重要になってくるのです。
 たとえるなら、あなたは「自分株式会社」の社長になったようなつもりで、経営者の発想で、自分自身を評価することが大切なのです。そうして忍耐強く自分を分析・評価していくならば、人は必ず変われます。運命は必ず好転していきます。

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