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心の治癒と魂の覚醒

        

 「守・破・離」

 まずお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミー哲学教室は「クリシュナムルティの思想」というテーマで行いました。若い頃、クリシュナムルティの教えにかなり傾倒していた私ですが、今は距離を置いていて、いくつか疑問点があります。彼は晩年「自分の教えを聞いて覚醒した人は誰もいない」と語っていたそうです。その理由は何なのか、私の抱いている疑問と絡めて紹介しました。ぜひダイジェスト版をご覧ください。
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 では本題に入ります。
 授業でも説明していますが、習い事というものは、「守・破・離」の三段階を経て上達していくと考えています。この言葉はもともと剣道に由来するようですが、剣道のみならず、あらゆること、宗教における霊的覚醒といったことにも当てはまると思います。
 「守」とは、基本の型をまねることです。「破」とは、自分独自の型を編み出すことです。そして最終段階の「離」とは、自分独自の型さえも捨てた、自由自在の境地です。
 これを宗教に当てはめますと、まず「守」の段階として、何らかの宗教を信仰したり、場合によっては宗教団体に所属して、その宗教の教え(教義)に従って信仰をし、また修行をします。宗教のことを何も知らない人が、独りで宗教の道、すなわち覚醒の道を歩むことは困難でしょう。最初は、古今東西の覚者や聖者たちの教えを習い、まねることがどうしても必要です。
 次の「破」ですが、これはその宗教の教えから脱して、自分独自のスタイル、道を確立する段階です。すべての人に同じ教えを当てはめることには無理があるのです。人の数だけ宗教があると私は思っています。
 しかし、伝統的な宗教、ましてや、組織に属していて、それとは違うことを主張したら、異端などと言われて追放されたり、ひどい場合は迫害されたりします。ですから、この「破」の境地に達した人は、あからさまに自分の考えを主張することなく、宗教組織から目をつけられないようにするかもしれません。つまり、表向きは宗教組織の教えに従っているふりをして、ひそかに自分独自の考えを持ち、道を歩んでいるのです。
 そしてついに「離」の段階にきます。これは、宗教そのものを捨てる段階です。宗教というより「教義」を捨てるといった方がよいかもしれません。なぜなら、教義は言葉であり、言葉は真理そのものではないからです。究極の真理は言葉で説明できないものです。したがって「離」の段階に到達した人は、自分は○○教徒であるというアイデンティティを捨てるでしょう(少なくとも内面的には)。
 真理というものは普遍的なものであり、特定の宗教だけが真理ということはないのです。言い換えれば、どの宗教も真理の断片はとらえているが、真理は断片ではないので、どの宗教も真理そのものをとらえてはいないということです。
 「離」の境地に達した人だけが、真に宗教的な真理を悟った人なのです。このとき、宗教の違いで人を差別したり、ましてや、争ったり迫害したりなどしません。
 残念なことに、「離」の境地に達する人は、きわめてまれです。ほとんどの人は「守」の段階でとまっています。だから宗教による争いが絶えないのです。
 私たちは「離」の境地をめざしていこうではありませんか。
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苦難に立ち向かう

 元旦、石川県能登半島を中心に大地震と津波に見舞われ、とてつもない災害が発生しました。まだその全貌が把握されていないので、その深刻さは増す可能性があり、復興までの道のりは果てしなく遠いと言わざるを得ません。
 本来なら、家族や親しい人と楽しく過ごしていたはずの正月なのに、愛する人の命が失われ、慣れ親しんだ家も、家財も、一瞬のうちに消失してしまいました。被害に遭われた方々はもちろんですが、日本じゅうの私たちが、元旦から暗澹たる気分になりました。

 テレビで、被災された女性がインタビューで次のように言っていました。
 「こんなことになるとは、夢にも思わなかった」
 本当に、夢にも思わぬことが平気で起きるのが、この地上世界です。今までの日常があっというまに奪われてしまうのです。今回の地震は人ごとではありません。南海トラフ地震や首都直下型地震は、今後30年の間に、7割から8割の確率で起こると言われています。それに連動して富士山が大爆発するという説さえあります。そうしたら、ほとんどの人の日常生活は失われます。「7割から8割の確率」というのは、必ずやってくると見ておいた方がいいでしょう。問題はいつか、というだけです。「明日はわが身」です。
 仮にそうした自然災害が起こらなかったとしても、個人的なレベルで、いつ災難が訪れるかわかりません。交通事故に遭ったり、火事に遭ったり、あるいは突然、不治の病を宣告されることだってあります。
 私は、皆さんを不安がらせようとしているのではありませんし、悲観主義者でもありません。ただ現実を述べているだけです。私の言うことは間違っているでしょうか?
 この地上世界というところは、きわめてはかなく、危なかしいところなのです。「一寸先は闇」なのです。これが現実なのです。

 では、どうしたらいいでしょうか?
 私は二つの道があると思います。ひとつは、前回のブログでも同じことを述べましたが、避けられない苦難は、敢然と立ち向かうしかない、ということです。
 私は、「どんなことも逃げてはいけない」とは考えません。逃げた方がいいときもあると思っています。しかし、どうしても逃げられない状況、あるいは、もし逃げたら、もっと大切なことが失われる可能性がある場合は、逃げるべきではないと思います。前進する道より他にはないことを悟るべきです。そうして、なりふり構わず、とにかく苦難に立ち向かい、苦難と戦い、決してひるむことなく、忍耐強く道を歩んでいくことです。
 このとき「この道を歩んでもどうにかなるものだろうか?」と考えてはいけません。つい弱気になってしまう気持ちはわかりますが、そんなことを考えても何にもならないし、かえって気持ちが萎えて、苦難を乗り越える障害にもなってしまいます。
 他に選択肢はないのですから、覚悟を決めて、「必ずうまくいく!」と信じることです。そう信じる根拠などを探すのはやめましょう。根拠などなくたっていいし、第一、根拠などというものは、たいてい見つかりません。信念というものは、ほとんどの場合、根拠などないものなのです。ただ、信じるか信じないか、それだけです。「信じたもの勝ち」の世界です。
 とにかく、歩む以上は絶対にうまくいくと信じて歩むことです。中途半端な気持ちではなく、断固とした気迫と意志を貫くべきです。
 そうすれば、絶対とは言いませんが、たいていの苦難は克服できるものです。たとえ百パーセントの克服は無理だとしても、最初に期待していたよりも、はるかによい結果をもたらすことは、ほぼ間違いのないことです。

さて、次に、もうひとつの道についてですが、結局、この無常の地上世界には、完全なる平安や幸せというものは存在しないのですから、完全なる平安と幸せが存在する可能性のある道に向かって歩むことです。
 それはどのような道でしょうか?
 古今東西の多くの聖者たちは、それが霊的な領域(境地)に存在することを説いてきました。もちろん、彼らの言葉が正しいという証明はできません。「みんな頭がおかしくて幻を見たのだ」と言われれば、それに反論することはできません。
 しかし、彼らの他に、完全なる平安と幸せに至る道を説いた人がいたでしょうか? おそらくいないはずです。
 したがって、彼らを信じて、その道を歩むしか他に道はないと、思っているのです。これはある種の「賭け」であるとも言えるでしょう。そのための道を歩んで、その先には何もないかもしれません。
 しかし、少なくとも地上には、完全なる平安も幸せも存在しないことを、心の底から悟ったならば、聖者たちが説いている道を歩むしかないわけです。その道にかけるより他に選択肢はないのです。
 そして、他に選択肢がない限り、やはりその道を歩むに際しては、徹底的に信じて歩むことが大切です。中途半端はよろしくありません。

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1月1日 真の幸せへの道

 
 新年明けましておめでとうございます。
 皆様にとって今年一年が幸多きものとなりますよう、お祈り申し上げます。

 ただ、世界が混乱していたら、個人の幸せなどはあり得ません。
 コロナが流行してから、世界は不穏な様相を示し始めました。とりわけ最近は、戦争や気候変動など、激動ともいうべき状態になってきました。そうして今年は、いったいどのような一年になるのか、不安を禁じえないのではないかと思います。
 
 どのようなことにも「波」があります。晴れの日もあれば、雨の日もあります。穏やかなときもあれば、激動のときもあります。よいときもあれば悪いときもある、これが人生というものであり、世界というものです。いつまでも続く戦争はなく、いつか終わりがやってきます。同じように、いつまでも続く平和というものもないのです。少なくともこの地上世界では、永続するものは何ひとつありません。私たちはそんな世界に生きているのです。

 ですから、それを受け入れるしかありません。順調なときは油断せず、逆境に備えて準備するようにし、逆境のときは、未来に希望を抱きながらじっと耐えるしかありません。一番よくないのは、順調なときに、この状態がいつまでも続くと思って油断したり自信過剰になったり、自惚れたり、怠惰になったりすることです。同じく逆境のときにも、この状態がいつまでも続くと思ってしまい、そうして絶望し、自信を失い、自暴自棄になったりすることです。
 逆境に陥った原因が、あきらかに自分の犯した何らかの罪にあるのなら、反省しなければなりませんが、人間は完全ではないので、どうしても罪や過ちを犯してしまいます。それはやむをえないことなので、いつまでもくよくよしていても仕方ありません。
 ときには、自分にはまったく非がないのに、迫害や災難や苦しみに見舞われたりすることもあります。それは過去生の行為に原因があるのかもしれませんが、そうしたことはわからないことなので、やはりくよくよ思い悩んでも仕方がないことなのです。

 いずれにしろ、この地上世界には、よいときもあれば悪いときもあるという、無常な波の運動があるのですから、そこに住む私たち人間も、その運動から逃れることはできないのです。ちょうど、波に浮かぶカモメのように、波と一緒に上下に揺られているのと同じです。
 繰り返しますが、そうした波があるのがこの世界であり、この世界に生きるということなのですから、悪いとき、何もかもうまくいかないときがあるのも、自然なことなのです。どんな聖人だって、覚者だって、この波から逃れることはできません。彼らの伝記を読めば、しばしば逆境に見舞われていることがわかります。

 ただし、聖人や覚者は、肉体(とその心)は、波に揺られていても、真の自分(魂)は、波に揺られてはいません。たとえ外面的には苦しんでいるように見えても、内面は平安に満ちているのです。そういう状態こそが、本当の幸せというものです。

 地上世界に幸せを依存している限り、波に翻弄されるだけです。ときには幸せを感じることもあるでしょうが、長続きはせず、不幸せなときがやってきます。そんなことを繰り返しているのが、世間の人々です。
 しかし、そのような、はかなく不安定な幸せではなく、外的な状況にまったく左右されない、絶対的な平安こそが、本当の幸せなのです。波に浮かんでいたカモメが、大空に向かって飛び立つようなものです。大空を飛んでいれば、波に揺られることはありません。

 それが、私の言う「魂の覚醒」です。
 今年も、魂の覚醒に至る道、つまり、本当の幸せに至る道を追求していこうと思っています。
 本年もよろしくお願いいたします。
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霊的な知識ばかりを蓄積するのは無駄

まずはお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「真のグルの見分け方」というテーマで行いました。霊性向上の修行にとって、グル(導師)は必要不可欠の存在ですが、グルと呼ばれる人がすべて真のグルとは限りません。というより、現実には自称「グル」のほとんどはニセモノだと私は考えています。偽のグルでは霊性向上は望めませんし、それどころか、堕落したり、最悪の場合、人生を棒に振ってしまうこともあります。ですから、真のグルかどうかを見分ける智慧というものが必要なのです。そのためのヒントをまとめてみました。ぜひダイジェスト版をご覧になってみてください。
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 では、本題に入ります。
 今年も、もうすぐ終わりです。本当に時間がたつのは早いものです。ちょっとまえに「明けましておめでとう」と言った感覚があるのですが、いつのまにか一年がたってしまいました。歳を重ねるごとに、時間の経過が加速されていきます。今の私にとって、一年間は、若い頃の四ヶ月くらいの感覚です。
 果たして、この一年、どれだけ実りあることができたかと反省しますと、情けなくなります。もしこのまま時間の経過が加速されていき、ますます時間が短くなっていったらと思うと、怖ろしくなります。特に老境の域に達しつつある、つまり、先行きがそう長くない私にとっては、まさに死活問題です。
 ですから、無駄なことはしないように気をつけなければなりません。若い頃は、無駄と思えることでも、体験を広めていくという意味がありますが、そうした体験をそこそこ積んできた年齢になったら、もはやそうしたことをする余裕はないのです。

 人生を振り返って、無駄だなあと思うことは山ほどありますが、現在、「これは無駄だから捨てよう」と思っていることがあります。
 それは、「考えてもわからないことは、考えるのはやめよう」ということです。
 以前は、霊的な世界に関することをいろいろ知りたいと願っていました。たとえば、霊界のしくみだとか、死んだらどうなるのか、輪廻転生はあるのか、あるのならどのようなものなのか、神とはどのような存在なのか、究極の真理とはどのようなものなのか、非二元とは、悟った境地とは、などなど、たくさんありました。いわゆる「形而上学」という領域ということになるかなと思いますが、そうした本をたくさん読んできました。また、そうして学んできたことを、このブログで書いてきたわけです。

 しかし、こうしたことを学ぶのは、とても面白いのですが、決して本当のことは、わからないのです。頭で考えてわかるものではありません。体験しなければわからないわけです。
 ですから、こうした本ばかり読んだり、考えたりしても、無駄ということになります。娯楽や趣味として楽しむならいいかもしれませんが、霊性修行の道は、娯楽や趣味ではありません。
 こうした霊的な知識を学ぶことは、修行のおおまかな道筋をつかむという意味では、初心者にとっては有益だと思いますが、そういう知識を学んでもきりがなく、それだけで一生が終わってしまうでしょう。ですから、ほどほどのところでやめておくのが賢明だと思っているのです。

 それよりも、瞑想や祈りといったことに時間を費やしていった方がよいと思っています。
 瞑想とは、ただ無念無想で意識を内面に向けるだけ、という空虚な印象があるかもしれませんが、無念無想になると、さまざまなすばらしい閃きや思いつきが湧いてくるのです。まるで高い領域から教えを授けてくれるような感じです(実際、そうなのだと思います)。そして、そのように得たものは、奥が深く、実践的であり、単に霊的な本を読む以上に有益なのです。
 今後は、霊的な知識を蓄積するよりも、瞑想に時間を費やしていくようにしたいと思っています。

修行の基本的な姿勢 | コメント:3 | トラックバック:0 |

ギヤのチェンジ


 今月のイデア ライフ アカデミーは、「クザーヌスの思想」というテーマで行いました。クザーヌスは中世のキリスト教哲学者で、知性による神の探求を説きましたが、その背後には深い意味が隠されており、禅や仏教に通じるものがあると私は考えています。いわゆる学者の定説とは違ったことを主張していますが、興味のある方は、ぜひダイジェスト版をご覧ください。
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 さて、今まで私が主催してきたイデア ライフ アカデミーですが、もう5年以上にわたり、1月をのぞく毎月、授業を行ってきました。自分で言うのもなんですが、これだけの内容の授業を、中断することなく毎月よくやってこられたなと、感心しています。
 この5年間、私の日々は、ほとんど授業の準備だけで費やされてきたといっても過言ではありません。ひとつの授業が終わって次の授業までの一ヶ月間、本を注文したり図書館から相応の量の本を借りてきて読破し、次に授業の構想やアイデアを練り、スライドを作り、テキストを作り、リハーサルを行い、動画を編集してアップし、告知し、他にも教室に関する雑用をするなど、自分の能力の限界ぎりぎりの生活をしてきました。

 今までの人生を振り返ると、自分の限界ぎりぎり、ときにはそれ以上のことをしてきたように思います。そのためにずいぶん苦しんだりもしましたし、失敗もしましたが、おかげでずいぶん鍛えられたように感じます。若い頃は、自分の限界以上のことに挑戦していくくらいの方がよいと思います。若いときは「伸びしろ」がまだまだあります。若い頃に安易な生活に甘んじていたら、可能性を伸ばすことはできません。

 しかし、人間、歳には勝てません。さすがに私も年齢を重ねるごとにきつくなってきました。5年前はもっと体力も気力も脳力もありましたが、じわじわと衰えてきたのを感じます。今までの出力を百%とすると、70%くらいになった感じです。
 かつては、年齢による衰えを認めるのがイヤで、いつまでも若々しくバイタリティ溢れる人間でいたいと望んできました。若く見られたいという願望もありました。これは私だけでなく、ほとんどの人は同じではないかと思いますが、老いることを憎み、老いと戦ってきたようなところがあります。
 でも今は、考えが変わりました。老いというものは、戦うものではなく、静かに受け入れるものなのだと悟りました。老いて劣化した肉体や脳を、若い頃のように酷使し続けていたら、深刻なダメージを受けてしまうでしょう。

 また、今さら若く見られて、どうするというのでしょう。肉体などは魂の着る服にすぎないのだから、肉体が若いと褒められても、服を褒められるのと同じです。タレントや俳優などのように、ルックスが大切な仕事をしている人は、若く見られるように努力することは必要かもかもしれませんが、そうでなければ、若く見られることに、それほどのメリットはありません。ただ単に自己愛を満たす程度です。老人になっても、清潔感があり人を不愉快な気持ちにさせるようなことがなければ、年齢相応の老いた姿であっても、何の問題もありません。
 
 いずれにしろ、体力と脳力という理由から、来年からは、イデア ライフ アカデミーの授業日数を少し減らすことにしました。二ヶ月授業をして一ヶ月休むというサイクルにします。具体的にいうと、1月は休み、2月3月に授業をして4月は休み、5月6月に授業で7月に休み、8月9月に授業で10月に休み、11月と12月に授業、という感じです。
 このようなスケジュールであれば、何とかやっていけそうな気がしています。また、多少は、授業以外のこともできるゆとりが生まれそうです。

 このように、「ギヤをひとつ落とす」ことにしました。すなわち、自転車にはギヤをチェンジするレバーがついています。坂道を登るときは、ギヤを落とさないと登ることができないでしょう。これと同じような感じです。体力があればギヤを落とさずそのまま坂道でも登れたかもしれませんが、老いて体力が落ちたので、さすがにギヤをひとつ落とさないと登れません。さらに年齢を重ねたら、二つくらい落とさなければならなくなるでしょう。

 したがって、今後は生活全般にわたって無理をしないようにしました。疲れてぐったりするほど運動したり仕事をするのはやめました。また、寒くなったら無理せず暖房器具で体を暖かくするようにしました。若い頃は、寒さなんかに負けてたまるかなどといって、真冬に水を浴びたりしていましたが、今はもうそんなことはできません。目安として、70%の力を発揮すればできるというスケジュールでやることにしました。

 でも、老いることは、悪いことばかりではありません。
 私の感覚でいうと、ひとつだけ衰えない、むしろ、ますます高くなったものもあります。それは「洞察力」です。いろいろな物事の本質を理解する能力が、若い頃より格段によくなった気がするのです(単に錯覚かもしれませんが)。
 これは嬉しいことです。今後は、せっかく高まったのだから、この洞察力をうまくいかせるような人生を送っていきたいと思っています。
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