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心の治癒と魂の覚醒

        

覚醒することの大切さ

 まずはご報告とお知らせから。
 イデア ライフ アカデミーの哲学教室第4回を、2月2日と3日に行いました。テーマは「ヨーガの解脱理論」。
 ヨーガ(ヨガ)というと、ストレッチのような運動と思われているふしがありますが、実は「解脱」を目的とした宗教なのです。ヨーガのすぐれている点は、心を浄化するための肉体の修練法があることです。というのも、肉体と心とは不可分の関係があるからです。ヨーガの教えは合理的で理性的であり、いわゆる「宗教臭さ」がありません。そのため、おそらく現代人(とりわけ日本人)にとって、もっとも適した「宗教」と言えるのではないかと思います。
 そんなヨーガが説く「解脱の哲学」を解説しましたので、その一部をダイジェスト版でぜひご覧になってください。やや難しく感じられるかもしれませんが、非常に興味深い理論が展開されています。
https://www.youtube.com/watch?v=DF3lAlGt6r4&feature=youtu.be
 イデア ライフ アカデミーの瞑想教室は、基本的にヨーガと禅の瞑想法を主軸にしています(次回の瞑想教室は2月16日と17日です)。毎日コツコツと瞑想を続けることで、自分自身と人生に変革をもたらすことができます。そして、効果的に瞑想を行ううえで、ヨーガの肉体的修練が非常に役立つのです。健康や美容、若々しさといった面においても、絶大な効力を発揮します。毎日ほんのわずかな時間でもいいので、ヨーガの行を実践することをお勧めします。
 瞑想を段階的に楽しく学びたい方は、ぜひイデア ライフ アカデミーにいらしてください。
 詳細↓
 http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/

 それからもうひとつのお知らせですが、ツイッターを始めました!
 ペンネームは「ファウスト博士」です。
 https://twitter.com/faust_academy
 今日の私の活動の原点となった、今から30年以上も前の本『ファウスト博士の超人覚醒法』(学研)、およびその後の『真実への旅』(サンマーク出版)に登場する謎の指導者「ファウスト博士」の言葉として、霊的求道のヒントになるような言葉を、おりにふれて発信していきたいと思っています。

 では、本題に入りたいと思います。
 皆さんもご存じと思いますが、最近、児童虐待のニュースが注目を浴びています。10歳の女の子が、父親による暴力を受けて死んでしまいました。ニュースによると、父親が娘を虐待する様子をスマホで撮影した記録が残っていたそうです。いったいなぜそのような光景を撮影したのかはわかりませんが、何か猟奇的な異常性が感じられます。だいたい、無力な少女に対し、死に至らせるほど執拗な暴力をふるうこと自体が、まともではありません。父親は「しつけ」だと主張しているようですが、自身の暴力的衝動をごまかすための言い訳にすぎないと思います。この父親は妻に対しても暴力(DV)をしていたといいます。
 今回の事件は、決して例外的な特殊なものではありません。統計によれば、およそ二週間に一人の割合で、親による虐待によって子供が殺されているのです。
 自分の子供を殺した親は、いつか自分の犯した罪深さに気づき、慄然として後悔し、恐ろしい良心の呵責に苦しむ日が訪れるのでしょうか。
 そのとき、親はこう思うに違いありません。「自分はどうかしていた」と。攻撃性という衝動のせいで、精神状態がまともではなかったのです。

 以上の例は極端ではあるとしても、私たちは無意識のうちに、衝動によってあやつられ、ときにそれがまともではない行為に走らせています。
 後になってそのことに気づき、後悔して「自分はどうかしていた」と感じます。そのとき人は「我にかえった」という感覚を持ちます。
 この「我にかえった」という感覚、状態こそが、「覚醒」ということになります。今までは(本当の)我ではなかったということです。
 ですから、私たち人間は、とにかく覚醒するということが、非常に重要になってくるのであり、人生の最優先事項であると、私は思っているのです。覚醒とは本来の自分にかえることです。覚醒をめざさなければ、子供が虐待によって殺されるという悲劇はなくならないでしょう。

 覚醒の段階は、おそらく無限にあります。覚醒した、すなわち「(本来の)我にかえった」と思っても、しばらくすると、さらなる本来の我が存在していることに気づくのです。そうして人は、何回も何回も繰り返して「我にかえる」という経験をしていきます。そうしておそらく究極的には、魂と呼ばれる意識に立ち返っていくのではないでしょうか。
 しかし、意識的に覚醒をめざしていない人の場合、その「我にかえる」というペースが、あまりにも遅くなってしまいます。輪廻転生の思想が本当だと仮定するなら、それこそ今後、何生も、何十生も、もしかしたら、何百生も、繰り返し繰り返し地上に生まれ変わってこなければなりません。つまり、それだけ罪深い行いをしたり、悲劇を招いたりして、後悔の苦しみを味わわなければならないということです。
 果たして、そのような「偽りの自己」の人生を、何回も何回も送ることが、幸せだと言えるでしょうか?
 私は幸せだとは思いません。
 そのことを、身に染みて感じた人が、覚醒への道を歩むようになるわけです。
 この地上世界は「強制収容所」のようなものだと私は思っていますので、そのような不自由な束縛された状態から「脱走」するために、覚醒の研究をしながら、同じ志を抱く人に、多少なりともお役に立てればと思って、こうして文章を書いたり、教室で教えたりしているのです。

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人生をどう生きるか | コメント:2 | トラックバック:0 |

3月10日(日)にセミナーを行います


 昨年の「カバラセミナー」に引き続き、51コラボ様主催のセミナー「2020年コペルニクス的大転換未来はこうなる」に出演させていただくことになりましたので、お知らせいたします。
http://s3.aspservice.jp/51collabo/link.php?i=5c497a199f421&m=5b1db6d9cc82a&guid=ON
 このセミナーは5回シリーズで、私の他に「縄文の叡智」、「宇宙プラズマ科学」「フーチ(振り子占い」「魔法陣」その他、各分野の専門家により、2020年はどのような年になるかを予測するセミナーで、私はカバラ数秘術の視点からお話させていただきます。
 数秘術的に解釈しますと、2020年という年は特殊です。というのも、「20」という数が並んでいるからです。このような数の並びはめったにないわけで、前回は1919年となるわけですが、この年は、どんなことが起こったかというと、1月→ドイツのミュンヘンでドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党)が結党。第一次世界大戦の終結に関するパリ講和会議開催。2月→リトアニア=白ロシア・ソビエト社会主義共和国(リトベル共和国)成立。3月→朝鮮半島で三・一独立運動。ハンガリーでハンガリー・ソビエト共和国樹立。イタリアでベニート・ムッソリーニが「戦士のファッショ(後のファシスト党)」を結成。4月→インドでマハトマ・ガンディーが第1次サティヤーグラハ(非暴力・不服従)運動を開始。6月→ドイツが連合国とヴェルサイユ条約を締結。8月→アフガニスタンがイギリスから独立。10月→孫文らが中国国民党を創立。
 このように、歴史を塗り替えるような出来事がたくさん起きているのです。
 では、来年2020年はどのような年になるのでしょうか?
 あくまでも数秘術的な解釈ではありますが、セミナーでお話させていただく予定です。
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私が特定の信仰を持たない理由


 私はいろいろな宗教をかじってきましたが、特定の宗教は信仰してはいません。釈迦もイエスも尊敬していますが、仏教徒でもクリスチャンでもありません。
 というのも、特定の宗教を信仰してしまうと、たいていの場合、教祖は神格化され、教祖の教えに間違いは絶対なく、その教義に間違いは絶対ないと、極端な考え方に陥ってしまうからです。
 しかし、絶対に間違いのない教祖も、間違いのない宗教も存在しないと私は考えています。
 どの宗教もよいことを説いていますが、どう考えてもおかしいと思うことも説いています。しかし、その宗教の信者になると「それはおかしい」と言えなくなります。そんなことを言ったら、宗教組織から追い出されるか、迫害を受けることになるでしょう。だから、本心ではおかしいと感じていても、「おかしくないのだ」と、無理に思い込んで自分をだますしかありません。あるいは、本気でおかしくないのだと洗脳されるか、いずれかです。

 たとえば、仏典などを読んでも、ときどき「おかしいぞ」と感じるときがあります。つまり、「お釈迦様、それはおかしいのではありませんか?」と言いたくなることもあるのです。しかし、釈迦は神格化されてしまっているので、そんなことは言えません。そんなことを言ったら「おまえは自分を何様だと思っているのだ。釈迦より偉いとでも言うのか?」と言われてしまうでしょう。
 しかし問題は、偉いとか偉くないといったことではなく、自分にウソをついたり洗脳されることが正しいことなのかどうか、ということなのです。
 たとえば、前にも書きましたが、釈迦が食中毒になって死んでしまうとき、弟子のアーナンダに向かって「おまえが私に永遠に生きて欲しいと願わなかったから私は死ぬことになったのだ」といった意味のことを言っているのです。
 私はこれは、釈迦が言ったことではなく、仏典作家の作り話だと思っているのですが、仮にもし本当にそんなことを言ったのだとしたら、「お釈迦様、それはおかしいですよ」と言います。その証拠に、釈迦は後になって、悲しむアーナンダに「泣くな、この世は無常であり、すべてのものはいずれ朽ち果てると教えたではないか」と言っているからです。

 他にもあります。釈迦は、教えを守らない一人の弟子に罰を与えました。弟子たちに、「彼に話しかけられても無視をしろ」と命令したのです。そうしてその弟子は、修行仲間から仲間はずれにされ、今の言葉でいえば「シカト」されて孤立しました。私はこういう罰を与えるのは適切ではないと考えます。
 詳しい事情がわからないのではっきりとは言えませんが、教えを守らないのは何か理由があるからで、まずは彼の話をよく聴いてあげて、適切なアドバイスを与えたり、理路整然と説明してあげた方が効果的ではないかと思うわけです。みんなで無視をするというのは、ある種の「いじめ」に近いものに感じられてしまいます。
 仮に、そういう罰を与えることがゆるされる指導者であるなら、その罰を与えることで立ち直ることが確実にわかっているほどの、すぐれた霊眼がなければダメだと思います。釈迦はそうした霊眼があったのでしょう。そう考えるのであれば、釈迦がそうした罰を与えたのは正しかったと言えるかもしれませんが、すべての弟子にその罰が適するかどうかは別問題です。適しない弟子もいるでしょう。いわば、ケースバイケースということです。
 ところが、経典のそうしたエピソードだけを取り上げて、原始仏教を信奉しているスリランカあたりの修行僧は、教えを守らない僧をみんなで無視する罰を与えているらしいのです。「釈迦がそうしたと経典に書いてあるから、そうやるのが正しいのだ」と、機械的に信じ込んでいるのです。
 なぜ、もっと合理的で効果的なやり方がないのかどうか、検討しないのでしょうか。
 それは、釈迦とその教えに、絶対に間違いはないと信じているからでしょう。「洗脳されている」と言ってもいいかもしれません。

 洗脳というのは、怪しいカルト教団だけが行っているのではなく、大なり小なり、信仰というものは洗脳によって成り立っているのです。
 なぜ人々は、宗教に群がり、洗脳されたがるのでしょうか?
 それは、その方が楽だからです。「教えられた通り信じていれば救われる」と言われた方が、自らの頭で考え、救いの道を捜し求めていくより楽だからです。

 どの宗教も、真理の断片はとらえていると思います。しかし、真理は断片ではありません。真理というものは全体的なものです。断片は真理ではありません。目の不自由な人が象の鼻を触って「象とは長いものである」と語ったという有名な話がありますが、それと同じです。確かに象の断片はとらえていますが、象は長いものではありません。同じように、断片にすぎない宗教を真理と考えることはできないのです。

 ですから、真理をつかみたければ、特定の宗教の信者になってはいけないのです。言い換えれば、いかなる教えも「絶対に間違いのない真理」だと考えてはいけないのです。
 なので、私は仏教も学びますし、キリスト教も、他の宗教も学んで、可能な限り「断片」を集めて全体像、すなわち真理を構築する道を歩んでいるのです。なので、どの宗教も全面的に否定もせず、全面的に肯定(信仰)もしない立場に立っているのです。
 しかし、その道は険しいものです。すべてのことを、自分の責任において行わなければなりません。必死になって自分の頭で考えなければなりません。それが「自由」というものの本質です。人は「自由、自由」と賞賛しますが、自由というのは厳しいものです。ある意味で、自由がなく、言われたことを黙ってやっていればいいだけの奴隷の方が、ずっと楽かもしれません。
 しかし、真理というものは、あらゆることから自由になった人だけが得られるものではないかと、私は思っているのです。

 私が主催するイデア ライフ アカデミーは、そういう自由な道を歩む人に、さまざまな情報を提供することを目的にしています。次回2月2日と3日は、ヨーガの解脱理論について紹介する予定です。そうして「断片」を数多く学ぶことで、「全体」を構築していく作業を、力を合わせて共にやっていきたいと思っているわけです。
修行の基本的な姿勢 | コメント:2 | トラックバック:0 |

いつ死んでもいいように生きる

 皆様、新年あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願い致します。

 ところで、前にも述べたことがあるのですが、なぜ新年があけると「おめでとう」と言うのでしょうか?
 普通、「おめでとう」と口にするのは、めったに得られない幸運や成功を手にしたときだけです。しかし新年というのは、時間がたてば必ずやってくるわけですから、特におめでたいというわけではないはずです。
 しかし、それをあえて「おめでとう」と言うのは、新年を無事に迎えることがいかに大変なことか、ということに由来しているのだと思います。むかしは、戦だとか飢饉といった災害に見舞われて、常に命を失う危険にさらされて生きてきたわけです。ですから、無事に年を越せた、つまり生き延びることができた、というのは、大変なことであり、まさに「おめでたい」ことであったわけです。
 現在では、むかしほど命を失うリスクは減りましたので、新しい年が来ても、あまり深く考えず、お決まりの文句のように「おめでとう」と口にしているわけです。
 しかし、死はいつ訪れるか、誰にもわかりません。来年の元旦には、「おめでとう」とは言えないかもしれません。
 せっかく縁起をよくしたいと願っている一年最初の年に、このような不吉なことを言って、その気持ちに水を差してしまうようですが、しかし、人生というのは、常に最悪の場合のことを考えて生きるべきだと思うのです。
 よくスピリチュアルなどでは、「よいことだけを願っていなさい。そうすればそうなります」といったことを言いますが、最近の科学的な研究では、こうした楽観主義的な態度より、むしろ悪いこと、つまりリスクを考えているような、やや悲観主義的な傾向のある人の方が、逆に成功や幸福を手に入れているのだそうです。

 人生における最大のリスクと言えば、死ぬことでしょう。すでに述べたように、人間はいつ死ぬかわかりません。ですから、日頃から、いつ死んでもいいように、悔いのない充実した生き方を心がけるべきではないでしょうか。決して「縁起でもない」といって避けるべきではないのです。むかし、ホスピスのカウンセラーをしていた頃、まだ死ぬような年齢ではないのに、突如として病魔に襲われて余命が短いことを宣告され、そしてその宣告通りに死んでいった、たくさんの患者さんに接してきました。私はそれを見て、本当に人間はいつ死んでしまうか、わからないものだと痛感しました。

 人はいつ死ぬかわからないという自覚が真にあれば、人生を有意義に生きるようになります。たとえば、もしあなたが「あと一ヶ月の寿命です」と言われたらどうでしょうか? 毎日の時間を、無駄なことに使うことはしなくなるでしょう。くだらないテレビ番組を見て時間をつぶすといったことはしなくなるはずです。そして、人生におけるもっとも大切なこと、もっとも優先するべきことを考え、それを実行に移そうとするはずです。実際、ホスピスの患者さんはそのように生きる人が多く、余生が今まで以上に濃密となり、精神的に向上を遂げた人が多くいました。

 死を意識して生きたとき、人は本当に真剣に生きるようになり、人生が充実して豊かになってくるものです。人生で本当に大切なものは何かを探索し、それを最優先にしようとします。
 ただ、実際にそう生きたいと願っても、どうしたらいいのか、わからないといったことも少なくありません。
 私が昨年に始めたイデア ライフ アカデミーは、そのような、人生を本当に意義あるものにしたいと願う人に、良質な情報を提供することを目的にしたものです。単なる趣味だとか、教養のための「スピリチュアル」の場ではなく、やや大袈裟にいえば命がけの探求の場です。なぜなら、人生とは命の長さ、つまり、命が地上に生存する時間のことですから、その時間を無駄なことに費やすことは、命を縮めていることになるからです。

 肉体が生きているだけでは、真に「生きている」とは言えません。精神的な成長を常に遂げながら生きている人こそが、人間として「本当に生きている」と言えるのではないでしょうか。
 その意味で、来年の元旦は、(本当の意味で)生きることができて「おめでとう」と、声を掛け合いたいものです。

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心の大掃除


 まずはイデア ライフ アカデミーの報告から。
 12月15日と16日に、今年最後の授業となる瞑想教室第3回を行いました。
 自作のサブリミナル効果の動画を鑑賞していただいたり、びっくりする音や気をそらせる音を挿入した音楽を聴きながら、不動心と集中力を鍛える瞑想法などを行いました。
 ただ、今回の授業でもっとも大切なことは、「瞑想の心構え」と「反省瞑想法」です。
 インドから中国に禅、すなわち瞑想をもってきた達磨大師は、「座禅の功徳(いいこと)とは何か?」と問われたとき、「無功徳(何もいいことはない)」と答えたといいます。しかし禅の世界では座禅という瞑想を行っています。これはいったいどういうことなのでしょうか? その真意についてお話しました。
 それから、瞑想をする上でもっとも大切なことは、「品格」であることを説明しました。日々、自分の行いを反省して品格を高める努力をすることが、何よりも大切であることを、良寛の「戒語」を例にあげて説明しました。
 以上の重要な二点は、ダイジェスト版でほとんど紹介していますので、ぜひご覧になってください。
https://www.youtube.com/watch?v=YCUc123msUg&feature=youtu.be

 さて、本題に移りますが、年末で皆さん、大掃除をされている方も多いと思います。新しい年をきれいな環境で過ごしたいという思いから、年末に大掃除をするのだと思いますが、家の大掃除をすると同時に、心の大掃除も大切です。というより、人生で一番大切なのは、心の掃除であると思うのです。一年に一度ではなく、毎日必ず心の掃除をする、ということです。
 夜寝る前に、今日一日の自分の行為を振り返って、怒り、妬み、憎しみ、イライラ、邪念、貪欲、不安、恐怖、驕り、自惚れ、冷淡さ、無慈悲、その他、さまざまなネガティブな想念を心に抱かなかったかどうか、必ず毎日チェックして、もし抱いていたら、それを消して心をきれいにするにはどうすればいいかを真剣に考えるのです。これが心の掃除です。
 以上のようなネガティブな想念は、実際に「汚れ」であり、運命を悪くさせ、健康を害する「毒」そのものです。ある実験によれば、怒っている人の息を採取したところ、微量ながら、そこに猛毒の物質が検出されたといいます。つまり、怒っている人は、毒を飲んでいるのと同じだということです。
 心の掃除をせず、神社仏閣にお参りに行っても、あまり意味はありません。心の掃除さえいつもしていれば、こちらから神様のもとに行かなくても、神様の方が(きれいな)心のなかに来てくれるでしょう。
 心の掃除などという、ある意味では陳腐な道徳的説教のようなことを述べているようですが、私が今まで人生を生きてきて、今さらながら、そのことの重要さに気づいたしだいです。というのも、結局のところ、古今東西の宗教というものは、「心の掃除」を説いているのだと、最近よくわかったからです。
 悟り、覚醒に必要不可欠なこと、それは心の掃除なのです。

 さて、今年は、私にとってイデア ライフ アカデミーの開設という、記念すべき年となりました。しかし、勝負はこれからです。単なる趣味や娯楽ではない、スピリチュアルの本質をめざして、地道な活動を続けていくつもりです。
 なお、イデア ライフ アカデミーは1月と8月は休講ですので、次回の授業は2月からとなります。
 来年もよろしくお願い申し上げます。
 来年の授業日程はホームページをご覧ください。
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/
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