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心の治癒と魂の覚醒

        

イデア ライフ アカデミー瞑想教室の音響システム

イデア ライフ アカデミーの瞑想教室の準備が整いました。瞑想の効果をあげるには、環境が非常に大切です。幸い、教室は閑静な場所にあり、その点では恵まれていますが、さらに効率的に深めるための音響システムを構築しました。瞑想の達人になると、内面から独特の音が聞こえるらしいのですが、その音の周波数分析のデータがあり、それをもとにパソコンとシンセサイザーで同じ周波数の音を作成しました。同時に、「宇宙の根元の音」とされる音も作成し、両者を併せた音を作りあげました(自分ではこれは「特許もの」の発明ではないかと自負していますが)。いわば、ミクロの音とマクロの音を合成した音であり、共鳴現象によって、この音に耳を傾けることで瞑想がより深くできるようになると考えられます。そして、その音を、前方2つと後方2つ、それにサブ・ウーファの5つのスピーカーを配置した教室に流します(右図。青い円で囲まれた領域で瞑想します)。自分で試してみましたが、目を閉じていると、四方八方から響く音に包まれて、まるで異次元の空間に浮遊しているような感覚になってきます。都内でこれほど瞑想に適した空間は他にないのではないかと思います。
 皆様、ぜひこの異次元空間の感覚を体験しに来てください。瞑想教室は、10月20日(土)と21日、11月17日(土)と18日に開催されます。
 詳細は以下のホームページをご覧ください。
 http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/

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正しい瞑想とは


 今月の20日(土)と21(日)に、イデア ライフ アカデミーの最初の瞑想講座を開催します。詳細は下記のホームページをご覧ください。
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/
 さて、瞑想ということはよく言われますが、そもそも瞑想とは何なのでしょうか?
 瞑想のはっきりした定義はないようです。結局、それは瞑想に何を求めるかによると思います。たとえば、健康が目的であれば、「瞑想とは健康になるためのものである」となるでしょうし、超能力を身に着けるのが目的ならば、「瞑想とは超能力を身に着けるものだ」ということになるのでしょう。瞑想には大きな効果があるので、忍耐強く続ければ、そうした目的はいずれ成就できるはずです。
 しかし、瞑想とは「覚醒や悟りを開くためである」としたならば、ここに大きな注意が必要となるのです。

 瞑想を続けていくと、潜在意識の領域にまで入り込みます。そこに何らかの願望を携えていくと、潜在意識はそれを実現しようと自動的に働きます。たとえば、「お金が欲しい」と願望を抱いて瞑想すると、原則的にはお金が入るようになるのです。
 つまり、このことは、「お金が手に入る」という暗示をかけながら催眠状態に入るのと同じことになるわけです。
 お金というものは、この現実世界のもので、本当にお金が手に入ったかどうか、客観的にわかります。健康や超能力も、客観的にわかります。だから、妄想に陥ることはありません。
 ところが、覚醒だとか悟りといったものは、客観的に実証できません。
 すると、どうなるかというと、私たちの心は、願望を投影するという性質を持っているため、「私は覚醒した、悟りを開いた」という妄想が起きてしまうのです。
 禅ではこのことに気づいていて、そのために「仏に会ったら仏を殺せ」などという物騒な言葉が伝えられています。その「仏」は、自分の願望が投影された妄想だからです。

 そもそも、覚醒も悟ってもいない私たちが、何かをする動機というものは、エゴに基づいています。たいていの場合、覚醒したい、悟りたいというのは、「覚醒して人々から認められたい」という動機か、あるいは、この世の中がいやになって、そこから解脱したいという動機の、いずれかです。
 そのような動機を持ち続けながら瞑想をすると、「自分は覚者になった」という妄想に陥ってしまうのです。また、この世の中がいやになって解脱したいという動機の場合、もし人生が何か幸運に恵まれるようなことが起こったら、すぐに瞑想などしなくなってしまうでしょう。結局、エゴはこの地上における名誉だとか富、欲望を叶えることなどが動機になっているからです。

 覚醒や悟りというものは、エゴを消滅させることですから、皮肉なことに、瞑想をすればするほどエゴが拡大強化されていき、どうしようもなく醜悪なものになっていくわけです。その最たる見本がオウム真理教の教祖です。

 ですから、もし覚醒や悟りをめざそうとするのであれば、必ず正しい瞑想を行わなければなりません。
 では、正しい瞑想とは、どのような瞑想なのでしょうか?
 それは、「覚醒や悟りを開こう」という願望を捨てた瞑想です。
 達磨大師は、「座禅などして、どんな功徳があるのか?」と問われたとき「何もない」と答えたといいます。この答え方が正解なのです。エゴは「何の功徳(得、いいこと)もないのに、なんで座禅なんかしなければならないんだ」と考えます。
 しかし、魂が多少でも目覚めた人であれば、このときピンとくるはずです。「そこにこそ真実がある」と直感するのです。そうして、とにかく座禅、すなわち瞑想を始めてみるのです。
 もちろん、その後もさまざまな障害が待ち受けています。それをひとつひとつ乗り越えていかなければなりません。まさに瞑想とはエゴとの闘いです。あらゆる妄想、「ひとかどの人間として認められたい」という欲望、低俗な物欲、そして、悟りたいという欲望など、あらゆるものを、とにかく捨てて捨てて、捨てまくっていく必要があるのです。
 そこをどのようにうまく乗り越えていくか、それが私の研究課題であり、このブログの課題であり、また、私が主催するイデア
ライフ アカデミーの課題でもあるわけです。
 

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イデア ライフ アカデミー授業 YOUTUBEアップのお知らせ

 先日9月22日/23日に行われたイデア ライフ アカデミーの「オープニング記念レクチャー」をYOUTUBEにアップしました。
https://youtu.be/bz-Nl-HioJw
イデアとは、プラトンが説いた、真善美の究極的な実在世界のことであり、私たちの魂の故郷のことです。
 結局、私たち人間の生きる目的というのは、どれほどこの地上で真善美を体現(表現)したか、そこにあると私は信じています。その方法をみんなで探求していくのがこの教室です。真善美の生き方をして何かを得ようというのではなく、真善美の生き方をすること自体が喜びなのです。なぜなら、真善美は魂の属性であり、魂が自分らしくあるということになって、魂が喜ぶからです。魂の喜びこそが、人生の本当の幸せであると私は思います。その意味では、この教室は「本当に幸せになる方法」を探求する場であると言ってもいいかもしれません。
 参加お申し込み
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/

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イデア ライフ アカデミー「オープニング記念レクチャー」の報告

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9月22日と23日、イデア ライフ アカデミーの「オープニング記念レクチャー」を行いました。小さな屋根裏部屋が熱心な人たちで埋まり、充実した一日となりました。
 「生きる目的~死ぬ前に後悔しない生き方とは」というテーマで話をいたしました。ホスピスでカウンセラーをしていた私の経験や臨死体験者のその後の変容などを紹介し、後悔しない生き方をするために、イデア ライフ アカデミーではどのような授業をするか、その内容について紹介しました。具体的には哲学教室(魂の覚醒の理論を学ぶ)と瞑想教室(実践)とお茶会(同志との交流)の三本柱です。
 来月から本格始動をします。皆様のご参加をお待ちしています。日程については、ホームページをご覧下さい。
 http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/
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人間の救われがたさ


 さて、これまで「真の仏教」について述べてきました。ここで言う真の仏教とは、まとめるなら、釈迦が説いたオリジナルな教えであり、しかもそれは八正道である、ということです。
 しかし、ここで大きな問題が生じてきます。
 釈迦が説いた八正道を、そのまま実践することは可能か? ということです。
 ほとんど不可能です。現代人には絶対に不可能だ、と言い切ってもいいでしょう。
 たとえそれを実践できたとしても、仏教の目的である解脱を体得できるとは限りません。釈迦の時代でさえ、釈迦というすぐれた指導者のもとで八正道を実践しても、解脱できなかった人の方がおそらくはるかに多かったのですから。

 まして、大昔の日本のように、文字もろくに読めない知的レベルの低い民衆や、生きるために働くだけで精一杯の過酷な生活を考えたら、釈迦の仏教(原始仏教)など、実践できるはずもないのです。悪政に虐げられ、不正がはびこり、飢饉にでもなれば容赦なく命を落とすような、そんな厳しい時代に、八正道の実践など無理です。
 「真の仏教」では、八正道が実践できないということは、救われないということですから、絶望的だということです。
 しかし、人間は苦しいときには、たとえウソでも心の支えがなければ生きていけません。

 なので、仕方なく、いわゆる「仏様」というものを生み出さざるを得なかったのです。「仏様に祈れば救ってくださるよ」と言うしかなかったのです。
 しかし、実際に仏様に祈っても現実生活がよくならないことは、あきらかなエビデンスとして突きつけられますから(つまりウソだとバレてしまいますから)、「あの世で極楽にいけるよ」と言ったのです。あの世のことなど、誰にも証明できませんから。
 そうして、「仏様におすがりすれば、死後に極楽に行けるから、それを心の支えに、今は我慢して生きなさい」と説くしかなかったのです。
 それが大乗仏教です。

 「おすがりすれば死後に極楽に連れていってくれる」などという、何の根拠もない、私から言わせれば単なる作り話、ウソや妄想を説くしかなかったわけです。しかし、たとえそれがウソであっても、人間は苦しいときにはそれを心の支えにして、慰めを得たり、耐えて生きる力を得ることもできます。何の救いもないと言われたら、絶望で生きていけません。
 なので、そのような時代に生まれた宗教家が、そうしたことを説きましたが、私は彼らを責める気はありません。それしか他に道がなかったからです。たとえそれがウソで民衆をだますことになったとしても、まったく何の救いもないのだと突き放すよりは、ずっとマシだからです。

 しかしもちろん、大乗仏教では救いは得られません。慰めや、はかない希望を与えることができるだけです。徹底的に信仰を深めれば、「救われた気持ち」くらいの心境になるかもしれませんが、そこまで達するのは容易ではありません。しかもそれは単なる思い込みです。言葉は悪いですが、ある種の「洗脳」と言ってもいいかもしれません。しかし、釈迦がめざしていたのは、「救われた気持ち」になることではなく、リアルな救いです。

 しかし、現代でも、事情はあまり変わっていません。飢饉で死ぬことはほとんどありませんが、自然災害で家も財産も家族も失い、仮説住宅で余儀なく生活をさせられることはあります。過労死するほど毎日残業してクタクタの生活。政治も官庁もウソばかり、スポーツも学術界もウソばかりです。カネとコネ、権力やパワハラがものを言う世界です。不正をしても要領よく立ち回った人が出世して金持ちになって人を見下し、正直者がバカを見るような、そんな世の中です。
 要するに、汚濁の世界です。「末法の世」と言ってもいいでしょう。
 それでも、本来は、宗教の世界だけはそうした汚濁とは無縁の領域であるべきはずなのに、その宗教が腐っているのです。
 スピリチュアルなども腐っています。「念ずればすべて自分の都合のいいように事が運ぶ」などと言っている「引き寄せの法則」などは、人間の弱さや依存心、怠惰な心を利用してカネを巻き上げる人たちの格好の商売手段になっています。人々は「らくをしていいめをみたい」という乞食根性が捨てきれないのです。だから、むかしからインチキ商法などたくさんあって事件になっているのに、いまだにだまされる人が後を断たないわけです。

 念ずればすべて自分の都合よく物事が運ぶ」などということはありません。ところが、「引き寄せの法則」でセミナーをしたり本を書いている人たちは、そう言われたときのための言い訳をちゃんと用意しています。「念じても願望が叶わないのは、潜在意識の奥まで念じていないからだ。どこかにそれを否定する気持ちがあるからだ」と言うのです。いったい、そう言う根拠は何でしょうか? 仮にそれが事実だとして、ではどうしたら潜在意識の奥まで念じることができるのか、という点では、明確な回答をしていません。
 これは、「人生でよいことが起きないのは、あなたの信仰心がうすいからだ」と、宗教家がよく言う常套句と同じです。
 魔法ではあるまいし、念ずれば人生すべてが自分の都合よく運ぶ、願望が叶うなどということを信じている、いい歳をした大人がたくさんいることに、私は驚きを禁じ得ません。

 しかし、それも、大乗仏教と同じ理屈なのだと思います。
 たとえウソでも、この生きにくい時代にあって「念ずれば願望が叶うんだ」と思えれば、それが慰めや生きる支えになるのでしょう。
 とはいえ、いずれそのことがウソだとわかるときがきます。念じて願望が叶うことは、たまたまあるでしょうが、なんでもかんでも念じれば叶うわけではないことを思い知らされます。そうして、しだいに現実というもの、その絶望感へと沈んでいくか、あるいは、グルや救世主を名乗るカルト教団など、別の「夢想」を与えてくれるものを求めたりするわけです。

 悲しいことに、この汚濁の世界で清らかに生きることは、至難の業です。
 みんながカンニングしているのに自分はカンニングしないという学生は、成績も悪くなり、よい就職先もないでしょう。カンニングしたずるい人間が出世するのです。学者になっても、巧妙に他人の論文を盗んだり、カネさえだせばどんな粗末な論文でも掲載してもらえる学術誌に投稿して「実績」をあげ、教授になっていくのです(もちろんすべての教授がそうだと言うわけではありません)。最近、話題になっているスポーツの世界でも、カネやコネやパワハラによってまともな判定がなされていません。文科省の役人が自分の息子を裏口入学させています。
 こんな世界で、清らかに生きることは、バカを見ることになるのです。

 しかし、釈迦の説いた仏教というものは、要するに「清らかに生きる」ということなのです。もしこの汚濁の世界で清らかに生きようとしたら、まず出世や成功は望めません。カネも入りません。不正なことをして上にあがった腐った連中からバカにされ、蔑まれるという屈辱に耐えなければなりません。また、そういう「さえない男」であれば、結婚相手を見つけるのも楽ではないでしょう。
 そういうことを覚悟してまで、清らかに生きようとすることは、無謀ともいうべきことです。バカのすることです。そんな人は、この世にどれだけいるでしょうか?
 それよりも、耳に甘いウソを平気で口にする人の方に、人気もカネも集まっていくのです。
 宗教もスピリチュアルも、汚染され、商売道具、ビジネスになっています。
 真実に生きてバカを見るか、ウソに生きて腐って生きるか、この二択を迫られているという点で、人間のおかれた状況というものは、救われがたいのです。

 個人的な話になりますが、私は子供時代から、無謀でバカなので、ウソや幻想で生きることはできない人間でした。たとえば小学生の頃から、教師の言動にウソがあるとそれを指摘したりしていました。「俺はえこひいきはしない」と言う教師がいて、その教師がどう考えても、ある生徒をえこひいきしているとしか思えず。念のために他の友達にも意見を聞いてみると同じだったので、私はその教師に面とむかって「先生は、えこひいきをしている」と言いました。その後、私はその教師から憎まれたり無視されたりするようになりました。正直であるということは、この世では損をする、バカをみる、ということに直結するのです。
 しかし、人間の性格というのは変わらないのでしょう。
 もうすぐ還暦だというのに、ウソのない清らかな求道の場所を作りたいという思いから、「イデア ライフ アカデミー」を立ち上げました。会費も3千円で、諸経費などを考えると、かなりきつきつで、金儲けにはなりません。
 オープニング記念レクチャーを今月22日と23日に始めますが、予想通り、参加者は今のところ少数です。しかも、最初は好奇心で来ても、しだいに来なくなってくると思います。
 しかしそれでもかまいません。なぜならこれは、この汚濁の社会に対する、私のささやかな抵抗だからです。
 将来、ウソや金儲けにまみれている社会&宗教&スピリチュアルの世界にあって、斉藤啓一というバカな人間が、ウソや金儲けとは無縁の清らかな求道の場を作っていたなあと、誰かの記憶に留まってくれれば、それでいいと思っています。たとえそれが、たった一人であったとしても。
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