心の治癒と魂の覚醒

        

幸せとは何か?

 すべての人は幸せを求めて生きている、と言ってもいいだろう。
 そこで問題になるのは、果たして「幸せとは何か?」という、幸せの定義である。
 ある哲学者は、単純に「幸せとは快楽の量で決まる」と言った。つまり、楽しいことや面白いことや気持ちいいことがあればあるほど幸せであるとした。それに対してある哲学者は、「ならば残飯をあさって気持ちよさそうに寝ている豚は幸せなのか?」と反論した。豚はそれで幸せかもしれないが、人間の幸せとはそんなものではないはずだ、と考えたのである。
 幸せの定義の問題は、哲学界の最大のテーマであり、明確な回答を出すことは難しい。
 とりあえず、もっとも説得力があると思われる回答は、「本人が幸せだと感じるのなら幸せだ」であろう。確かにそれは真実の一面をとらえていると思う。いくらお金持ちで物質的に恵まれていても、本人が幸せを感じなければ幸せとは言えないし、いくら貧しく苦労が多くても、本人が幸せを感じれば、それは幸せだと言えるであろう。
 しかし、どのようなことで幸せを感じるかということは、そう単純ではない。
 私の大学時代からの友人に、「安定した人生こそが幸せだ」と考えて、公務員になった人がいる。努力して公務員になり、役所に勤めることになったとき、彼と会って話をしたが、あまり嬉しそうな様子ではない。私が「念願の公務員になれたんだからよかったじゃないか」と言うと、彼が言うには、もう自分の人生は先が見えてしまい面白くないというのである。つまり、何歳でどのくらい出世してどのくらい給料をもらい、どんな仕事をしていくかといったことが、公務員の場合、たいていわかってしまう。どうやら、自分の人生に未知なるものがなくなると、人間というものは、あまり幸せではなくなるようである。そのためか、公務員どうしで酒を飲むと、すごく荒れると言っていた。
 また、聞いたところによると、宝くじに当選した人の七割が、当選したことを後悔するという。にわかに信じられない話ではあるが、どうも宝くじに当たって大金が舞い込むと、家族や人間関係でいろいろと支障が生じ、人間的にも堕落してしまうことが理由らしい。そうしてさんざん不愉快な目にあって、こんなことなら宝くじなんか当選しなければよかったと思うのだそうだ。
 以上のように、おおかたの人からすれば、安定した生活や、お金持ちの生活は、さぞかし幸せではないかと思ってしまうのだが、必ずしもそうではないようである。

 さらに、仮に幸せを感じたとしても、それが本当に幸せと言えるのか、という問題もある。
 たとえば、こんな喩え話をしてみよう。ある人がブランドの高級バッグを所有し、それで幸せを感じていた。ところが、そのバッグがニセモノであったことがわかる。あまりにも精巧にできているので、自分では本物とニセモノの区別がつかない。とたんにその人は幸せを感じなくなってしまう。ニセモノだと言われなければ、幸せを感じ続けていられたのだ。
 そうなると、その人は、にせのバッグを所有していた日々は、幸せだったと言えるのだろうか? 幸せは感じていたが、幸せであるとは言えなかったのではないだろうか? それとも、たとえだまされていたとしても、幸せを感じていたなら、やはり幸せであったと言えるのだろうか?
 すなわち、もしもあなたがいま、幸せを感じていたとしても、人生には、もっとすばらしい幸せが存在しており、それに比べたら今の幸せなどは幸せとは呼べないのかもしれない。いわゆる「知らぬが仏」という言葉通り、本当の幸せというものを知らず、今の幸せこそ本当の幸せだと勘違いしているだけなのかもしれない。
 それでも、とにかく本人が幸せを感じていれば幸せなのだと言えば、その通りなのかもしれないが、しかし、もっとすばらしい幸せが実はあるのだと知らされたら、幸せでなくなってしまうのであれば、やはりそれは本当に幸せであるとは言えないのではないかと思う。

 ならば、本当の幸せとは、いったい何なのだろうか?
 おそらくそれは、永遠の謎ではないかと思う。「これ以上に幸せなことなどない」と感じたとしても、本当にそれ以上に幸せなことがないという証明は、たぶんできないであろう。キリスト教の説く天国、仏教の説く涅槃の境地は、あくまでも地上に比べれば幸せであるというだけであって、この広大無辺な宇宙と悠久なる進化の時間を考えれば、天国や涅槃よりもさらに幸せな状態というものが、存在する可能性は十分にある。
 さて、以上のように考えてみると、「自分は幸せなのだろうか?」と、自分の幸福度を査定するようなことには、あまり意味がないのではないかと、私は考える。幸せを感じても幸せではないのかもしれないし、幸せを感じていなくても、幸せなのかもしれない。登山愛好家は登っているときは非常に苦しいが、その苦しみは頂上に到達したときの大いなる喜びへとつながっている。ならば登山家にとって、その苦しい道のりは「幸せ」だと言えるであろう。
 生まれてきたからには、幸せになりたいと願うのは自然なことであり、悪いことではない。けれども、あまりにも神経質に自分は幸せかどうかを気にし、「幸せにならなければならない!」と力みすぎるのは、逆に幸せから遠ざけてしまうように思われる。
 人生、そして生命というものは大切なものではあるが、あまりそれを深刻に受け止めすぎないようにすべきで、いわば、ある種のゲームをしているような感覚で、ゆとりをもって生きるのがいいように思う。実際、人生なんてゲームのようなものだ。うまくいくときもあれば、うまくいかないときもある。成功するときもあれば失敗するときもある。何があるかわからない。だからこそゲームは楽しい。先が見通せてしまうゲーム、うまくいくだけのゲームなんて全然面白くない。うまくいかないときでも笑えるのがゲームだ。ゲームは遊びなのだから。
 人生も同じだ。幸せになろうとするのではなく、人生というゲームで遊んでいるのだという発想で生きることが、結局は幸せに至る道ではないかと思う。この地上は壮大な「ゲームセンター」なのだ。
 ある哲学者はこう言っている。
「幸せとは副産物であり、それ自体をめざしてもつかむことはできない」

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修行の基本的な姿勢 | コメント:2 | トラックバック:0 |

トランプ大統領誕生に関して

 いま世界は、トランプ新大統領の話題で持ちきりである。
 当初、あのような暴言や差別的な発言をする人物が大統領になるとは、ほとんどの人が予想していなかった。大統領に選ばれたとき、株価は大きく値下がりした。株価は人々の心理を反映する。彼が大統領になれば大変なことになると思ったわけだ。しかし、直後の記者会見でまともな発言をしたことから、「大統領になれば、案外うまくいくかもしれない」との期待感から、株価は上昇に転じた。ところが、つい最近の記者会見での品性のなさ、大統領就任挨拶における、経済政策への具体性のなさや過剰な保護主義への懸念のため、不透明感が広がり、株価は再び下げに転じている。
 トランプ大統領の基本理念は、極論を言えば、「自分さえよければどうでもいい」ということだ。「アメリカの経済さえよくなればそれでいい」である。そうした明確で力強い発言が、経済的に恵まれない人々に支持され、当選したと考えられている。
 確かに、経済的に困っている人にとっては、それを救ってくれそうな力強いメッセージを掲げる人物を支持したくなるのは、無理もないことだと思う。不法移民のために職を奪われたり、治安が悪化したり、その対策として莫大な税金が投入されていることに不満を抱くことも無理のないことだ。そういう鬱積した不満を抱えていた人々にとって「国境に壁を作る」といった、途方もない提案をする人物には、ある種の清涼感というか、ガス抜きのような効果を発揮したのであろう。
 いずれにしろ、トランプ大統領の誕生で、アメリカは大きく分断した。正確に言えば、分断状態がさらに大きくあからさまになった。アメリカの分断への傾向は以前からすでに始まっている。たとえば、ある州では、貧困層にばかり税金が使われることに不満を抱いた富裕層が、富裕層だけが暮らすための市を作ってしまった。
 また、イギリスのEU離脱をはじめ、アメリカのみならず、世界的な潮流として、世界は分断の方向に揺れ動いているように感じられる。
 歴史というものは、振り子のように揺れながら進んでいる。あるときは分断に揺れ、しばらくするとそれではいけないと、統合に揺れる。しかしそれもしばらくすると、さまざまな問題が生じてきて、また分断へと向かう。こういうことを繰り返している。
 したがって、しばらく世界は分断に向かうかもしれないが、またしばらくすれば統合へと揺れてくるに違いない。
 しかしながら、分断状態には非常な危険がつきまとう。その最たるものが戦争だ。戦争が起こる主な原因は、領土と経済である。経済戦争が、本当の戦争に移行する可能性は十分にあり得る。経済戦争は、自分だけの利益を考えようとすることから始まる。
 それゆえ、トランプ大統領の誕生が、世界が戦争へと突入していくきっかけにならなければいいと懸念している。現代は、過去の戦争とは異なり、多くの国が核を持っている。一度核が使われたら、その報復として何発もの核が使われる。その結果、地球上の多くの国が、放射線と核の冬(核爆弾で舞い上がった塵が長い間空を覆って太陽がささなくなる現象)により、人間が住めない場所になる。そうなると、勝者も敗者もない。人類そのものが絶滅の危機にさらされ、すべての国が敗者となり、悲惨なことになる。
 まさか、そんなことはないだろうと思われるかもしれないが、イギリスのEU離脱にしてもトランプ大統領の誕生にしても、ほとんどの人は「まさかそんなことはないだろう」と思っていたことが起きたのだから、世界大戦が勃発することも、決してあり得ないことではない。そんな状態になってから、世界が統合に揺れだしたとしても、すでに遅い。
 仮に、そこまでの惨事には至らなくても、「自分さえよければいい」という考え方は、目先はいいかもしれないが、結局は自分の首をも絞めることになる。なぜなら、人類は相互協力によって成り立っているからだ。たとえば、自分さえよければいいという社員が多い会社は、決して伸びていかない。会社も社会も、世界も、オーケストラのようなもので、お互いの立場を大切にして調和的に進んでいくことで、すべての人が恩恵を受けるような構造をしている。
 したがって、もしこのままトランプ大統領が「自分さえよければいい」という姿勢で貫いていけば、しばらくは対症療法的にうまくいって国民の支持を得るかもしれないが、やがてうまくいかなくなり、国民からの支持を失うのではないかと、私は考えている。
 では、私たちとしては、これからどうしたらいいのだろうか?
 一部の独裁国家を除いて、世界の多くの国の政策は、民意が反映される。したがって、私たちひとりひとりが「自分だけがよければいい」という考え方を持たないことだ。お互いの利益を考えるようにすることである。そうすれば、そういう考え方を持った人が指導者に選ばれる。
 「しかし、私たち日本人がそんな考え方をしても、アメリカや世界は何も変わらないのではないか」と思われるかもしれない。私は、そうでもないと思っている。というのは、現在は、インターネットで世界中の人が情報を共有しているからだ。たとえば、私たちの身近で生じた小さな親切行為が、またたくまに世界中に配信され、世界中の人が知ることができる時代である。実際、たとえば日本人の礼儀正しさなどは、インターネットを通して世界中の人から称賛されている。
 私たちが、「自分のことさえよければいい」という考え方を断固として退け、「お互いのためによいことを選ぶ」という考え方を持って実践していけば、世界中の国民に影響を与え、世界を変えていくことができる。即効性はないかもしれないが、じわじわと大きな潮流になる可能性は十分にある。
 私たちひとりひとりには、世界を変えるほどの力はないかもしれない。しかし、世界を変えることができる力を持った人を、そうなるように変える力は、誰もが持っている。

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リスク管理

 皆様、新年あけましておめでとうございます。
 以前にも書いたことがあるのですが、「新年あけましておめでとう」という意味は、「新年を迎えることができておめでたい」ということですね。「おめでたい」というからには、新年を迎えることが容易なことではない、というニュアンスが込められていることがわかります。
 おそらく大昔は、自然災害だとか戦だとか病気といったことで亡くなる人が多かったのでしょう。つまり、生き抜くのが難しい時代だったのだと思います。それゆえに、新たな年を迎えられたということは、無事に生き抜くことができたということになり、「おめでたい」ことだとして祝うのでしょう。
 もっとも、現代社会でも、地震や洪水などの自然災害、戦争やテロ、そして事故や病気などで亡くなる可能性は少なくありません。私の身近でも、昨年、私より一歳年下の友人が病気で亡くなりました。「あけましておめでとう」ということはできませんでした。人生というものは、本当に「一瞬先は闇」であり、何があるかわかりません。
 かといって、いたずらに不安に思う必要はありませんが、用心するに越したことはありません。「来年も無事に迎えることができる」ことを当然のことと考えず、何があっても対処できるように、いわゆる「リスク管理」をすることが、とりわけこれからの時代、大切であるように思われます。
 リスク管理とは、悪いことを考えて脅えることではなく、悪いことが起きても安心していられるということです。「リスクなどを考えるのは縁起悪い」などと言わず、前向きにリスクを考えていくべきだと思います。
 リスク管理の基本は、「バランス」にあります。悲観的になりすぎても、楽観的になりすぎてもうまくいきません。楽観的すぎるとリスクを考えず無鉄砲になって危険ですが、悲観的すぎても、あまりにも保守的になって冒険を侵すことをためらってしまい危険です。なぜなら、人生というものは、保守的であること、冒険を侵さないことが、かえって危険であることもあるからです。
 悲観主義者からは「楽観的」と思われ、楽観主義者からは「悲観的」と思われるような姿勢が、もっとも適切な立ち位置ではないかと思います。仏教的にいえば「中道」ということになるでしょうか。
 そのような姿勢で今年を生き抜いて、また一年後、皆様と一緒に「新年あけましておめでとう」と祝えるようになりたいものです。
 今年もよろしくお願いいたします。

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心の大掃除

 今年も残りわずかとなりました。そろそろ、多くの家庭で大掃除が行われるようになります。年が変わるというのは、大きな節目のひとつですから、新しい年をきれいな環境で迎えたいという気持ちがあるのでしょう。大掃除をして家をきれいにすることはとてもけっこうなことですが、同時に、「心の大掃除」もしてみてはいかがでしょうか。
 家の大掃除が、ゴミなどの、いらないものを捨てたり、埃や汚れを落としたりするように、心の中からも、ゴミ、いらないものを捨て、埃を払い、汚れを落とすのです。
 家の中にゴミがあれば、普通はすぐに捨てるでしょう。しかし、私たちは、ともすると心の中にゴミをため込んでいたりします。それがゴミであると気づかないこともあります。家にゴミがあれば、邪魔になって生活が不便になりますし、生ゴミの場合は腐敗して悪臭を放ち不潔になります。
 同じように、私たちの心の中にも、ゴミがあると、自分らしい生き方や、よいよい生き方の邪魔になります。ときには、心を汚していたりします。ゴミはきわめて有害です。そんなゴミを捨ててしまいましょう。
 心の中のゴミというのは、いろいろありますが、私たちから心の平安を奪い、自信を失わせ、消極的にさせ、暗い気持ちにさせ、物事を歪んで見るようにさせたり、人間関係をダメにするような気持ち、思考、信念、偏見、思い込みといったものです。たとえば、恨み、妬み、劣等感、罪の意識、後悔、悲観主義、偏見、猜疑心……といったものです。
 もちろん、そのようなものを持つようになったのには、それなりの理由があるでしょう。自分には何の非もないのに、人から不愉快な思いをさせられて恨みを抱くこともあるでしょうし、大きな失敗をして劣等感を抱いたり、後悔の念に見舞われることもあると思います。辛いことがあれば、悲観的にもなりますし、人から裏切られれば、猜疑心も抱いてしまうでしょう。
 しかし、よく考えてみてください。こうした思いを抱いていても、何もよいことはありません。それどころか、害悪を及ぼすことになります。恨みを抱いている人は、二重の意味で被害を受けているのです。すなわち、人から不愉快な目に遭わされたという被害、そして、それによって心の中に生まれた恨みという思いによってもたらされる被害です。失敗したときも、失敗の痛手の他に、劣等感や悔しさや悲観主義といった思いによる痛手をこうむっています。いわば、ある種の「二次被害」です。
 生きている限り、何らかの被害や失敗に見舞われます。どんな人もそれから逃れることはできません。しかし、その被害を最小限にとどめることは可能です。すなわち、「二次被害」を避けることはできるのです。簡単なことだとは言いませんが、不可能ではありません。
 心の中に、ゴミのような思いがあれば、今年中に、すべて心の中から捨ててしまいましょう。箒で掃いてゴミを家の外に出すようなイメージを浮かべるとよいかもしれません。
 恨みというのは、なかなか捨てるのに苦労するかと思います。恨みはゆるすことによって解消されますが、ゆるすことは人生におけるもっとも難しいことのひとつかもしれません。無理にゆるそうとがんばっても、自分をだますだけに終わってしまったりします。そこで、最初からハードルの高い「ゆるし」ということは避けて、「捨てる」という発想を持ってみてはいかがかと思うのです。言葉は悪いですが、あなたを不愉快にした人間は「ゴミ」や「クズ」だと考えて、そんなものをを心という家の中に置いておくのは馬鹿らしいと考えてみるのです。ゆるすのではなく、ゴミやクズのような人間は「捨てる」という発想を持つようにするのです。もちろん、ゆるすことができればベストですが、いっぺんには難しいので、まずは「捨てる」という発想をして心の中から追い出し、心の中をきれいにしてみてください。
 失敗による後悔の念も、なかなか捨てがたいものです。私たちはなるべく後悔のない人生を送るように努力するべきだとは思いますが、現実として、まったく後悔のない人生を送ることは不可能です。人生というものは、失敗は避けられませんし、「あのときああしておけば」という思いにかられてしまいます。しかし、それも「ゴミ」です。持っていても何の役にも立たないばかりか、明るい未来を切り開く上での障害となってしまいます。後悔の念は、思いきって捨ててしまいましょう。過ぎたことは取り返しがつかないのですから、いつまでもそんな「ゴミ」を抱え込んでいるのは、馬鹿馬鹿しいだけです。
 しかし、失敗というのは必ずしも失敗ではないことが多いものです。人は失敗を通して学び成長していきますし、失敗が幸運のチャンスになることだってあります。「あのとき、ああしていればよかったのに」と後悔しても、実際に「ああしていたら」、もっとひどい結果になったかもしれません。それは誰にもわかりません。神のみぞ知るです。
 「後悔のない人生を送ることは不可能」と言いましたが、ひとつだけ方法があります。それは単純に「後悔しなければいい」のです。失敗しようと何が起ころうと、後悔しなければ、「後悔のない人生」を送ることができます。失敗したら反省することは大切であり、それは有益ですが、後悔とは無益な感情であり、意味はありません。失敗したら、貴重な学びと成長のための幸運な体験に恵まれたのだと考えて、後悔することなく、「後悔のない人生」を送っていこうではありませんか。
 というわけで、以上のような感じで、一年の終わりという節目に「心の大掃除」もして、来年は、きれいに澄んだ気持ちで迎えるようにしてみてはいかがでしょうか。
 今年も本当にお世話になりました。来年が皆様にとって幸多き一年になりますよう、お祈りしています。
 来年も、よろしくお願い申し上げます。 

心の浄化 | コメント:3 | トラックバック:0 |

エゴ(煩悩)を原動力としない

 本題に入るまえにひとこと。
 私の体調不良を気遣って、励ましやアドバイスや情報といった無形のものをくださったり、あるいは有形のものをくださる方がおられます。ありがたいことです。先日も匿名の方から、素敵なものを送っていただきました。この場を借りて心よりお礼申し上げます。
こうした方々は、二重の意味で私を支えてくださいます。ひとつは文字通り、その無形有形のものであり、もうひとつは、何の利益にもならないのに、貴重な時間や労力やお金を使ってこうしたことをしてくださるという、その行為そのものです。
 つまり、「世の中にはこんなにも親切な人、優しい人が存在しているんだ」という、そんな思いが、私に希望を与え、支えてくださるのです。人間を信用できるというか、そういう思いですね。それが私におおいなる力を与えてくれるのです。心から感謝です。

 さて、では、本題に移ります。
 むかし、NHKで面白い番組をやっていました。
 それは、高僧と呼ばれる人が座禅をしているときの脳波を測定するというもので、どの人もアルファ波という、きわめて落ち着いた心境を示す脳波を示していました。ここまでは、よく聞く話で意外なことではないのですが、ここからが番組の面白いところなのですが、座禅をしている高僧の前に、いきなり蛇を目の前に投げ込んだり、水着姿の美女を歩かせたりしたのです。そして、脳波がどうなるかを実験してみたのです。
 すると、どうなったと思いますか?
 脳波は少しも乱れなかったと思われますか?
 実験では、蛇が目の前に投げ込まれたり、水着姿の美女が通ったとき、脳波が乱れたのです。これは修行をしていない人も同じでした。修行をしていない人でも、しばらく座禅をすると、アルファ波の脳波になります。そして、目の前に蛇や美女を見ると脳波が乱れアルファ波が破られてしまうのです。
 ところが、高僧はすぐにアルファ波が回復しました。脳波が乱れたのは一瞬だけでした。それに対して、修行をしていない普通の人は、長いあいだ脳波が乱れたままだったのです。
 脳波がイコール悟りの境地を示すとは考えられませんが、端的な状態を示していることは確かではないかと思います。
 つまり、悟りを開いた人でも、何か異変が起きれば、凡人と同じように驚いたり心が乱れたりするようなのです。ところが、それは一瞬のことで、次の瞬間には静謐な境地に戻っているわけです。
 悟りを開いたからといって、何が起きてもまったく動揺しないというわけではないようです。もしそうだとしたら、単に鈍感で神経系統が麻痺しているとしか思えません。人間としての感動といったものも、感じないということでしょう。悲しいことがあれば悲しみを感じるでしょうし、悪口を言われれば不愉快に思うでしょう。喜怒哀楽は普通の人と同じように感じるはずです。しかし、それは非常に短い時間なのです。
 悟った人は、その気持ちを引きずらないのです。否定的な感情をいつまでも心のなかに保つことはないようです。そのために、とらわれがないというか、あっさりしているというか、飄々としている、ときにはクールに見えるようです。
 悟ったからといって、人間的な感情をもたない、ロボットのような人間になることではないわけです。むしろ、ある意味では、とても人間味があったりします。
 けれども、感情に振り回されて、取り乱すということはしないわけです。このへんはとても微妙だと思うのですが、この微妙な違いが、覚者と凡人の大きな違いということになるようです。人間的でありながらきわめて冷静。冷静でありながらあたたかいハートを持っている。ある意味、こうした矛盾したものを持っているのが、おそらく覚者だと思います。
 いずれにしろ、私が出会ったなかでは、ヒステリックに感情的になったり、怒り狂ったり、泣きわめいたりする人で、霊性が高いと感じた人はひとりもいません。弟子に対して、「叱る」ことはあっても「怒る」ことはしません。必要に応じて「活を入れる」ために、ピシャリと刺激を与えることはしますが、粗暴になることはありません。
 その人がどのくらい悟っているか、霊性が高いかを調べたければ、その人を怒らせるような言動をしてみるのが、一番早いかもしれません。そのとき、怒りで取り乱したり、粗暴な言動で返すようであれば、まずその人は悟っているとは言えません(ただ、実際にこのような形で相手を試すのはお勧めしません。参考程度に思ってください)。
ネガティブな感情のことを、仏教では「煩悩」と言っています。怒り、おごり、無知というのが三大煩悩とされていますが、やはり怒るというのは、煩悩にとらわれている証拠であって、つまりは、それだけ悟りから遠いということになるわけです。また、おごることも煩悩ですから、おごり高ぶる人は、やはり悟りから遠いとも言えるわけです。だから、悟っている人は謙虚です。それも、わざとらしい謙虚さではなく、むしろ自然体とも言うべき謙虚さがあります。

 このように、一般的に覚者は、感情的になることなく、執着もないので、淡々としているというか、飄々としている傾向があり、謙虚で飾らないので、いわゆる世間的な感覚でいう「いかにも偉そう」という感じには見えないことが多いように思います。一見すると、ごく平凡に見えるかもしれません。そのために、ときには馬鹿にされたり、なめられたりすることもあるかもしれません。とかく世の中は、表面的な虚像だけで人を判断することが多いものですから。たとえばイエスなどは、大衆から「あいつは単なる大工の息子にすぎないじゃないか」(当時、大工はどちらかというと卑しい職業と見なされていた)などと馬鹿にされていました。
 そうした世間の虚像に目をくらませられることなく、本質を見抜く目を持った人だけが、覚者の非凡さを理解することができるわけです。
 覚醒していない人はエゴ(煩悩)によって支配されています。エゴは常に「他の人より偉くなりたい(見せたい)」、「ひとかどの人間になって人々から賞賛されたい」という欲望を持っています。そのエゴを満たすために、権力を欲しがったりお金持ちになろうとしたり、有名になろうとするわけです。それが物質的な世界で発揮されるのならまだしも、宗教的な世界で発揮されると偽善的になります。つまり、エゴゆえに教祖になったような人たちです。
 教祖になろうと思って教祖になった人というのは、絶対とは言いませんが、たいていはニセモノだと思います。それはエゴを原動力としているからです。
 しかし、真の教祖になる人というのは、教祖になることが目的ではなく、人を助けることが目的で一生懸命に努力していたら、いつのまにか教祖になっていた、という人ではないかと思います。この場合の原動力は愛です。エゴではありません。エゴではなく、愛を原動力として、教祖なり、何らかの指導者になった人こそが、本物であると思うのです。
 エゴを原動力として活動した場合、確かに権力やお金を手にしたり、有名になりやすいといえるでしょう。なぜなら、この世はエゴが支配しているからです。しかし、エゴを原動力として活動しても、真の幸せを得られるとは限りません。というより、それは難しいと思います。なぜなら、私たちの本質(魂)は、愛が得られたときにこそ幸せを感じるようにできているからです。エゴと愛は同居できません。エゴがあるとき愛はなく、愛があるときエゴはありません。
 したがって、この世的な虚栄ではなく、本当の幸せをつかむためには、言い換えれば、真に霊性を高め、覚者になるには、エゴではなく、愛を原動力として、日々努力していくべきではないかと思うのです。


覚醒した意識の特徴 | コメント:11 | トラックバック:0 |
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