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心の治癒と魂の覚醒

        

私の眼のトラブル

 まずはご報告とお知らせから。 
 今月6月19日/20日のイデア ライフ アカデミー哲学教室は「ギリシアの仏陀 プロティノス 1」というテーマで行いました。仏陀(覚醒者)というと釈迦を思い浮かべますが、プロティノスも仏陀と呼ぶべき偉大な哲学者です。その思想も仏教と似たところがありますが、けっこう難解です。でもとても面白いです。ぜひダイジェスト版をご覧になってください。
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 来月(7月17日/18日)は、瞑想教室で、「自己放棄と瞑想」というテーマで行います。
参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで
 
 では、本題に入りたいと思います。
 今回は、私の個人的な健康に関する記事で、このブログのテーマとはあまり関係のないことなので、お忙しい方は時間の無駄になるかもしれませんので、あえて読む必要はないかもしれないことを、あらかじめお断りさせていただきます(笑)。
 私は若い時から強度の近視でコンタクトをつけているのですが、三ヶ月ほど前から、左目だけですが、コンタクトをつけるとひりひりして充血し、すりガラスのように視野が曇って見えるようになりました。右目は問題ないのですが、左目だけです。
 最初は白内障かと思いましたが、目薬をつけると、その瞬間だけくもりがなくなり鮮明に見えるので、白内障ではないと思いました(白内障は角膜内部が白く混濁するので目薬をつけてもくもりはなくならないでしょう)。インターネットでいろいろ調べたところ、角膜表面がひどく傷ついているのだと思いました。
 角膜の傷ならほうっておいても治るだろうと思い、「角膜修復」をうたっている目薬を3種類くらい買ってずっと試してみましたが、ほとんど効果がありません。
 仕方がないので、昨日、眼科医のもとに行きました。そうしたら、やはり角膜がひどく傷ついているとのことで、角膜の傷を治し、目の乾燥を防ぐ作用があるとされる「ヒアルロン酸NA点眼液」と、目の炎症をやわらげる作用があるとされる「フルオロメトロン点眼液」の2つの目薬をもらってさすように言われ、一週間後にまた診察に来てくださいと言われました。早ければ二週間くらいでよくなるが、場合によっては数ヶ月かかると言われました。
 こうなった原因について医師からの説明はありませんでしたが、私が思うに、これは加齢に伴って涙の量が減ったり、また涙の質が劣化することにより、コンタクトと擦れて、角膜に傷がついたものであることに、まず間違いないでしょう。
 しかも恥ずかしいことに、私はコンタクトの使用期限を守らずに使っていました。2週間で交換するコンタクトレンズを使っていたのですが、もったいないので2ヶ月使っていました(笑)。しかし、それで今まで何年も問題がなかったので、大丈夫だと思っていたし、このままずっとこれで大丈夫だと思っていました。
 しかし、年齢による劣化ということを見逃していました。私は先日61歳になったのですが、悲しいことに、からだや知能のあらゆる面で、あきらかに劣化を感じます。まさか眼がこういう形で劣化するということは予想できませんでした。せいぜい老眼になるとか白内障になるといったことしか想像していませんでした。
 幸い、私はほとんど家で仕事をしているので、今は家にいるときはめがねをかけています。医師は、コンタクトを使うなら一日使いきりのコンタクトがいいと言っていました。確かに、どうしても外出しなければならないときは、いまテレビで宣伝している「生感覚レンズ」の一日使いきりコンタクトレンズを使っています。確かに、これをつけると、目がひりひりしたり充血したりすることなく、かなり楽です。
 ただ、一日使いきりコンタクトは、お金がかかります。30枚入って3千円くらいします。もし両目に毎日つけるとすると、一ヶ月6千円、年間7万2千円かかってしまいます。
 かといって、めがねをずっとつけているのも、けっこう鬱陶しいです。特に私は老眼もあるので、近視用のめがねの上に老眼用のめがねを重ねないと、近くが見えません(めがねをはずせば近くは見えるのですが、私は強度の近視のため、本を読むときなど、鼻が本につくくらい近づけないと見えないので、それでは首を痛めてしまうので、近視用のめがねの上に老眼用のめがねをかけざるを得ないのです)。
 まったく、年齢を重ねると、しだいに生きることが不便になってくるのは、本当にいやなものです。しかし、これは自然の摂理ですから、受け入れるしかありません。

 ただ、まだ若い皆さんには、忠告させていただきたいと思います。
 まず、コンタクトの使用期限は守りましょう。そして、少しでも違和感を感じたら、しばらくコンタクトをやめてめがねを使うか、もし一日使いきりコンタクトを使っていなければ、それを使うなどした方がよいです。一週間しても改善しなければ、ためらわずに眼科医に行った方がよいです。ひどくなればなるほど治りもおそくなるし、場合によってはもとに戻らない可能性もあります。からだのどの部分でも自由が奪われるのはいやなものですが、やはり視力が奪われるというのは、かなり苦痛で不便であり、精神的にも落ち込んでしまいます。なので、くれぐれも眼は大切にしてください。
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地上世界に生きている時間を最大限に生かす

 私が主催するイデア ライフ アカデミーでは、基本的に釈迦やキリスト、また次回ご紹介するプロティノスなど、すぐれた思想家や宗教家の教えを土台にしています。いわば、彼らのエッセンスをそのまま(ただし哲学思想になじみのない方でも理解できるようにある程度かみくだいて)紹介しています。なので、イデア ライフ アカデミーの授業そのものには、ほとんどオリジナルなものはありません。もちろん、哲学思想というものは、自然科学とは違い、それをどのように解釈するかという主観的なものが、どうしても入り込んでしまいます。なので、私は自分の主張を無理強いすることはしません。むしろ「私の言うことを信じないでください。自分の頭で考えて、受け入れるかどうか判断してください」と述べています。

 さて、釈迦やキリストなどが説いた教えをひとことでいえば、「徹底的な現世否定であり、自己否定」です。自己否定とは、前回の授業でご紹介したように、エゴの否定ということですが、エゴの否定をするには現世の否定が必要不可欠なのです。逆に、現世の否定はそのままエゴの否定につながります。これが彼らの教えのエッセンスです。
 この現世における(完全なる)幸福は説いていません。というのも、原理的に、この地上世界で本当の幸せをつかむことは不可能だからです。この世界は無常であり、肉体は病に冒されながらついには死滅します。最終的にはすべてが失われるのです。それだけではありません。さまざまな苦しみ、ときには耐え難いほど悲惨な苦しみに見舞われることもあります。この地上世界の実態は、非常に危険な、恐ろしい場所なのです。

 しかし、巷にはびこる宗教やスピリチュアルといったものは、現世で幸せになること(正確に言えば欲望を満たすこと)、エゴを増長させるようなことばかりしています。この世界はエゴで生きている人がほとんどですから、そのためにこういうものは人気がありもてはやされます。しかし、エゴを喜ばせても、一時的には幸せを感じるかもしれませんが、最終的には苦しみをもたらすか、あるいは堕落させるかのいずれかに終わります。堕落すれば恐ろしい苦しみが待ち受けています。
 つまり、あきらかに釈迦やキリストの教えとは真逆なことをしているのです。釈迦やキリストを超える人物はいるでしょうか? 私はいないと思います。それなのになぜ、人々がこれほど偉大な人の教えを学び、それを真剣に実践しようとせず、怪しいスピリチュアルにはまる人がこれほど多いのか、それを思うと、とても残念な気持ちがします。
 かといって、そのことを人に押し付けることはしません。人にはそれぞれ、そのときに必要なことがあるからです。幼稚園児には「お遊戯」が必要でしょう。私も過去を振り返って、今から思えばまったく幼稚なことに多大な時間を割いてきました。しかしそれは、その当時の私には必要だったのだと思うことにしています。たとえ仮にそのとき、イデア ライフ アカデミーのようなものがあったとしても、「何だそりゃ? 怪しいカルトか?」などと言って振り向きもしなかったでしょう(笑)

 繰り返しますが、この地上世界に真の幸せはありません。あるのは一時的な快楽だけで、人はそのはかない一時的な快楽にすぎないものを「幸福」と勘違いしているのです。人間の本当の幸せは、肉体を離れた死後に存在します。この地上は、その幸せな世界に移行するための準備期間、いわば、魂を鍛える場所であり、魂はそのために地上に生まれてきたのです。
 私が宗教や哲学を志す前の、かなり若い頃、こうした、いわば「救いを死後に求める」という考え方が嫌いでした。なぜなら、単なる弱者の現実逃避のように感じられたからです。それよりも、この地上でたくましく生き、成功して富と名声をつかみ、さらには慈善事業などをして人を救う、といった生き方こそが、ずっと価値があると思っていました。
 しかし、今はそういう考えを持っていません。古今東西、多くのすぐれた聖者たちを研究し、自分でも思索を深めていった結果、証明はできませんが、死後の高い霊的領域こそが、人間がめざす目的であるということを確信したからです。

 もちろん、この世で苦しんでいる人を助け、この世界をよいものにしていく努力は大切ですし、必要だと思っています。
 しかし、この世界という場所は、もともと苦難や屈辱や失敗や孤独といったものを通してエゴを滅却するために創造されたものなのです。ですから、どうあがいても、この世界が完全に幸せな世界になることはありません。はっきり言いますが、この地上世界は救いようがないのです。原理的構造的にそうできているのです。さもないと、存在意義がなくなってしまうからです。たとえるなら、トレーニングジムの中にある、さまざまなトレーニングマシンを捨て去ってしまうようなものです。これではトレーニングジムが成り立たないでしょう。
 したがって、この世界で苦しんでいる人を助けるという意味は、早くこの世界から脱出するように、釈迦やキリストなど、その他すぐれた霊的な教えを説いてあげることだと私は考えているのです。一生懸命にトレーニングして、マッチョな魂を獲得させる、ということになります。筋トレをしている人を見ていると、苦しそうですが、この人生も同じなのです。さまざまな苦難、屈辱、孤独といった苦しみによって魂を鍛えることが人生なのです。この世の快楽を味わうことではありません。逆に、この世のいっさいの快楽を捨て、この世に対するいっさいの未練や関心を捨て去ることにあるのです。

 だから、皆さんには、この地上に生きている間、くだらないことに時間を浪費することをせず、とにかくこの地上世界から解脱して、この地上世界よりはるかに幸せな、永遠なる世界に移行するべく、一生懸命に努力していただきたいと思っているのです。
 地上世界というトレーニングジムに生きているということは、ある意味では、トレーニングという最高にすばらしい機会が与えられているということです。もしこの機会を失ったら、いつか死後、自分が地上に生まれ変わった理由を思い出して、ひどい失意を味わうことになるかもしれません。たとえるなら、10億円の当選宝くじを、間違ってごみと一緒に捨ててしまったときのことを想像してみてください。どうしようもない後悔やくやしさで心かき乱され、一生、悔やむことになるでしょう。
 しかし、この地上世界でトレーニングをさぼるということは、このたとえよりも、はるかに残念であり、悔やんでも悔やんでも悔やみきれないものがあるのです。なぜなら、高い霊的領域の幸せに比較したら、この地上の幸せなど、ゴミのような、つまらないものだからです。幸か不幸か、私たちはそのような霊的幸せを知らず、比較できないので、この世のつまらない幸せを、たいそう大事なもののように思い込んでいるのです。

 人はいつ死ぬかわかりません。明日、いえ、今日、死ぬかもしれないのです。どのくらい時間が残されているのかは、誰にもわかりません。ですから、一生懸命に学んでいただきたいと、私は切に願っています。
 ただ、一応念のために申し上げますが、私はイデア ライフ アカデミーに来て欲しいために、こういうことを書いているのではありません。「来て欲しい」と思うのはエゴです。だから、私は、人が来なくてもがっかりしないし、人が来ても喜んだりしません。
 ただ、ともに人生最大の目的に向かって歩む同志が集まってきてくれたという点では、やはり嬉しさは感じるものですが。
修行の基本的な姿勢 | コメント:0 | トラックバック:0 |

エゴからの攻撃

 まずはご報告とお知らせから。 
 今月5月15日/16日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「エゴがしかける罠」というテーマで行いました。結局のところ、仏教でもキリスト教でも、あるいはスピリチュアルでも、めざしているのは「エゴの消滅」なのですが、残念なことに、こうした教え、とりわけスピリチュアルは、エゴを消滅させるどころか、増長させている場合が多いように思います。スピリチュアルはエゴの温床になりやすいのです。そのひとつのケースとして、不食者として有名なジャスムヒーンが、実際に何も食べないで生きられるかどうか、実験したことがあるので、それについて紹介しています。ぜひダイジェスト版をご覧になってください。
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 来月(6月19日/20日)は、哲学教室で、歴史上、キリスト教やさまざまな哲学思想に大きな影響を与えたギリシアの哲人「プロティノス」についてご紹介いたします。
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 それでは本題にうつります。
 冒頭で述べたように、今回のイデア ライフ アカデミーの授業は、「エゴの消滅」がテーマでした。ダイジェスト版では収録されていませんが、授業では、エゴを消滅しようとするとき、エゴからの抵抗や攻撃を受けることを紹介しました。
 エゴを消滅しようとする自分に対する抵抗や攻撃だけでなく、エゴの消滅を説く人に対する抵抗や攻撃もあります。その結果、そういう人は人々(のエゴ)から迫害を受けることが多いのです。その最たる例が、ソクラテスやイエスでしょう。エゴの消滅を説いたがゆえに、人々のエゴの抵抗と攻撃に遭って死刑にされてしまったのです。聖者と呼ばれる人たちが、迫害を受けることが多い大きな理由のひとつがこれなのです。
 エゴはありとあらゆる手段を通して、自分の、あるいは他者のエゴを消滅しようとする人に攻撃をしかけて、その試みをだめにしようとします。ロシアの神秘家グルジェフは、こうした現象を「ツヴァルノハルノ」と呼んでいます。グルジェフも人々のエゴを消滅させるために活動したのですが、晩年、交通事故に遭うなどで、その志を果たすことができなくなりました。彼によれば、交通事故に遭ったのもツヴァルノハルノのせいだといいます。この記事の文脈で表現すれば、エゴの仕業ということになるでしょう。

 実は今回、私もエゴの攻撃を受けたと思われる現象に遭遇しました。
 今回の授業が終わった翌日、授業でスライドを映すために使っているノートパソコンが、急に壊れてしまったのです(画面がゆがんで表示されるようになった)。原因に、思い当たるものはありません。今まで10年以上使ってきてまったく問題なかったのに、急におかしくなってしまったのです。
 何とか直そうといろいろ試みましたがダメで、結局、すべてのデータを消去してOSを入れなおしました。そして、さまざまな設定をしなおし、失われたアプリを入れたりして、ようやく復旧できました。幸い、重要なデータはバックアップをとっていたので、大きな損害には至りませんでしたが。
 その後、授業を撮影した動画を編集して、それをYOUTUBEにアップロードしようとしました。ところが、いつもとまったく同じ作業をしたはずなのに、アップロードできないのです。結局、何回か再試行してようやくできたのですが、なぜうまくいかなかったのか、こちらも原因不明なのです。

 今まで何回も同じ作業をしてきましたが、こんなトラブルに見舞われることはありませんでした。ところが今回に限って、しかも、2つのトラブルに、同時に見舞われたのです。
 これは、果たして偶然なのかどうか? 偶然なのかもしれませんが、そうではない可能性もあるような気がします。「エゴの消滅」という動画を見せないように(そうしてエゴを消滅させようとする人が増えないように)、エゴが攻撃をしかけたのではないか?
 もちろん、真実はわかりませんが、グルジェフもツヴァルノハルノという名前でこういう現象があることを指摘していることを考えると、エゴから攻撃を受けた可能性もあるのかなと思ったりもします。
 もちろん、イデア ライフ アカデミーは、設立当初から「エゴの消滅」を掲げてきたのですが、今までは「エゴ」という言葉は使わず「人格の向上」だとか「魂の覚醒」という表現をしてきました。
 ところが今回は、あからさまに「エゴの消滅」という表現を掲げたために、エゴが警戒心を抱き、露骨に攻撃をしかけてきたのかもしれません。

 この地上における私たちの目的は、エゴを消滅させることです。しかし、それは生易しいことではありません。努力すればするほど、熾烈を極めた戦いとなるでしょう。内面的にも外面的にも、ありとあらゆる抵抗や攻撃をエゴから受けるでしょう。そのことをよく覚悟しておくことが大切です。
 しかし、エゴを消滅させた末に待ち受けている、地上とは比較にならない至福が手に入ることを思えば、エゴからいかなる攻撃を受けても、それに耐えて、戦い続けることができるに違いありません。
 この記事を読んでくださっている皆様、エゴという悪魔に負けることなく、頑張っていこうではありませんか。
エゴを消滅する方法 | コメント:4 | トラックバック:0 |

人格を測定できれば……

 まずはご報告とお知らせから。 
 今月4月17日/18日のイデア ライフ アカデミー哲学教室は「イエスの教え」というテーマで行いました。「キリスト教の教え」ではなく、「イエスの教え」を探求しました。イエスは結局、私たちに何を言おうとしたのか、いわば、イエスの教えのエッセンスを、私なりの解釈によって紹介しました。ぜひダイジェスト版をご覧になってください。
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 来月は瞑想教室(5月15日/16日)で、「エゴがしかける罠」というテーマで行います。私たちは、「偽りの自己」であるエゴに操られているのです。エゴの束縛から解放されて真の自由を獲得するために、ぜひエゴがしかけるずる賢い罠についての知識を心得ておいていただければと思っております。

 では、本題にうつります。
 ここ最近、イデア ライフ アカデミーの授業に加え、別の会社から依頼されて行っている「カバラ数秘術講座」などもあり、毎日、書斎に閉じこもる生活を送っていて、以前はほとんど毎朝、サイクリングやジョギングをしていたのですが、それがあまりできなくなりました。
 しかし、肉体というのは、ちょっと運動不足になると、みるみるうちに弱くなります。久しぶりに少し長く歩いただけで筋肉痛になったり、ちょっとした肉体作業をしただけで、その後はぐったりとしてしまうのです。ご老人がころんで骨折などをして一度ベッドに横になると、もうそのまま寝たきりになるという話をよく聞きますが、それが実感として感じられるようになりました。
 そこで、どんなに忙しくても運動をしなければならないと決意し、そのためにモチベーションを高め、運動の指針を得るために、テレビ・ショッピングで、TANITA製の「体組成計」を買いました。
 この機械は、体重だけでなく、BMI(身長と体重のバランス)、体脂肪率、筋肉量、内臓脂肪、基礎代謝量、推定骨量、体内年齢、足腰年齢、体型判定などを測定することができます。私の年齢(60歳)と身長(172)をインプットして体組成計に乗って出てきた結果ですが、体内年齢が45歳、足腰年齢が55歳でした。しかし内臓脂肪(おなかまわりの脂肪)が「やや過剰」で、その他は正常値でした。
 そこで、私の運動の指針としては、内臓脂肪を減らし、あとできればもう少し足腰年齢を若くすることであると理解できました。
 そして、これから運動をして、それにつれて数値が向上していくのを見ることで「もっとがんばろう!」という気持ちにもなれますし、どういう運動をしたらいいかというヒントも得られるようになりました。

 さて、そこで私は思いました。「体組成計」ならぬ「人格組成計」なるものがあるといいな、と。そうすれば、修行の励みや指針になるに違いありません。この「人格組成計」を使うと、思いやり度、謙虚度、忍耐度、節制度、誠実度、勇気度、といったものが、数値として表示されるといった、そんな機械です。
 こうした要素は、私たちはなかなか自覚できません。また、あえて自覚しないように目を背けているようなところもあるでしょう。というのも、もし客観的な数値を知ったら、ひどく失望してプライドが傷つくことになりかねないからです。(逆によい数値を見て自惚れる人もいるかもしれませんが、そうすると「謙虚度」の数値は下がるでしょう)。
 人格レベルが、客観的な数値で表されることになったら、ある意味では恐ろしいことになるのかもしれません。人間の価値が数値で決定されてしまう結果、人格レベルの高さによって、ある種の差別が拡大してしまう可能性もあります。とはいえ、努力によって数値をあげる努力をすればいいわけですから、もしかしたら、社会がよいものにな可能性も考えられます。
 いずれにしろ、人格を客観的な数値で表示するような機械ができることはないでしょうから、こうした話をこれ以上しても意味がないのでやめますが、もし本当にそんな機械が発売されていたら、私はぜひとも欲しいです。いかに傷つくような結果が出たとしても、やはり自分の本当の姿、本当のレベルを知りたいからです。

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立派な本を読んでも実践できないのはなぜか?

 まずはご報告とお知らせから。 
 今月3月20日/21日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「高次からの助けを得る」というテーマで行いました。本当の瞑想の目的とは何か、また瞑想修行を成就させるには、神(仏・守護霊・守護神)の助けがいかに大切か、またいかに神からの助けを得ることができるか、などを紹介しています。ぜひダイジェスト版をご覧ください。
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 来月は哲学教室(4月17日/18日)で、「イエスの教え」というテーマで行います。「キリスト教」というより、イエスの教えの真実は何であったのかについて、ご紹介していく予定です。参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで 

 それでは本題にうつります。
 むかし、図書館で道徳に関する本を借りてきたことがあったのですが、ページを開いて驚きました。いたるところに線や書き込みがあったからです。
 それを見ると、そうとう熱心に勉強した様子が伺われるのですが、しかし図書館の本は公共のものです。そこに、書き込みをすることは、道徳的にゆるされることではありません。
 私は不思議に思いました。ここまで道徳に関する本を熱心に学んでいた(ように思われる)にもかかわらず、反道徳的な行為をどうしてできるのだろうかと。
 書き込みをした人は、道徳に関する知識は得たでしょうが、道徳的には生きなかったのでしょう。しかし道徳というのは、知識ではなく、あくまでも実践であるはずです。いくら道徳に関する知識を学んでも、道徳にかなった生き方をしなければ、本当に道徳を理解したことにはならないと思います。
 このような「知ること」と「実践」との解離について、今日までずっと考え続けてきました。立派な学問をしているのに、人間的には決して誉められない人もたくさん見てきました。しかし、人のことはともかく、自分はどうだろうかと考えなければなりません。世の中には、人を正すことには熱心なのに、自分を正すことにはほとんど無関心な、ある種の「お節介」な人たちがいます。そういう人も、「知識と実践の乖離」がある人だと思います。

 さて、自分自身のことを考えてみると、やはりかなりの乖離があることが感じられます。私は仕事面でもプライベートでも、哲学や宗教など、立派なことが書かれてある本を常に読んでいるのですが、はたしてその内容通りの生き方をしているかというと、もうお話にならないくらいできていません。本を読んでいると、自分が立派になったような錯覚を覚えますが、実際に自分の生き方を振り返ってみると、まったく立派ではない自分を発見して少なからぬショックを受け、落ち込みます。こうなるのは、「自分は立派である」という自惚れがあったからでしょう。
 いずれにしろ、これでは立派な本を読む意味がありません。知識は身につきますから、学者として生計を立てる手段とするならいいかもしれませんが、立派な本を書いた人は、そうした頭だけの学者やインテリになってもらうためではなく、あくまでも立派な生き方ができる人になってもらいたいという願いを抱いていたはずです。
 ほとんどの人は、立派な本を読んでも「ああ、面白かった、感動した、いい本だなあ」と思うだけで、実際に立派な生き方をして立派な人になろうとする努力を始めません。始めても短期間でやめてしまいます。

 なぜこうなるかというと、いろいろ理由はあるでしょうが、やはり何といっても「情熱」が欠如しているからではないかと思います。もしも「立派な生き方ができるようになったら十億円あげる」と言われたら、ほとんどの人はそのために真剣な努力をするはずです。あるいは逆に「立派な生き方をしなければ全財産を失った上に悪い病気になってものすごく苦しみながら死ぬ」となったら、やはり情熱的になって必死な努力をするでしょう。
 このように、結局は「情熱」ではないかと思うわけです。
 しかし、現実には、立派な生き方をしても、十億円はもらえないし、立派な生き方をしなくても、全財産を失って病気で苦しんで死ぬということもありません。つまり、何の得もなければ損もないので、本気になって立派な生き方を実践しようとは思わないのです。

 ところが、いわゆる聖人と呼ばれる人たちは、現世的には何の得も損もないのに、一生懸命に立派な生き方ができる人間になるように、情熱的に努めました。いったいそれはいかなる情熱だったのでしょうか?
 人によっては、天国というすばらしい場所に行けるとか、あるいは(立派に生きなければ)地獄というひどい場所に行ってしまうということが情熱になっていることもあるかと思いますが、そればかりではありません。何の報酬も期待せず、何の脅威も怖れず、ただ立派になること自体を目的にしてそうしたのです。
 何かの報酬をめあてに、あるいは罰を怖れて、何かをやるというのは、動物でもできることです。動物に芸を教えるために調教するときは、報酬あるいは罰を用います。しかし私たち人間は、単なる動物以上の存在です。すなわち、何の報酬もなくても、あるいは恐怖で煽られなくても、つまりはまったく無条件であっても、「そうすること自体に価値がある」という理由で何かをやる能力が備わっているのです。
 そのような能力に目覚めようとする道が「霊的な道」なのだと思います。
 霊的な道は、「愛」に通じる道です。なぜなら、愛は報酬めあてではなく、まったくの無条件によって為されるからです。
 逆にいえば、愛がある人、本当に愛することを知っている人であれば、無条件に立派な生き方をめざすことでしょう。聖人といわれる人たちは、そういう人たちだったのでしょう。そういう人が立派な本を読めば、それを通して立派な生き方を実践できるようになるのだと思います。立派な本を読んでも実践できないのは、愛がないからです。

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