心の治癒と魂の覚醒

        

神の正体⑥ 神は創造主ではない

 前回は、創造主と人間との関係を「鵜飼い」にたとえましたが、これはもちろん、正確なたとえではありません。なぜなら、鵜飼いのように鵜と漁師という分離はないからです。「創造主と人間」という分離は、存在しません。もし存在したら、創造主は究極の一者ではなくなってしまうからです。つまり、自己と非自己という分離が生じてしまうからです。
 ということは、実は私たち自身が創造主とも言えるわけです。私たちひとりひとりは、創造主の一部なのです。私たちひとりひとりは、創造主という意識を天文学的な数字以上に細かくしたものなので、こうした事実が把握できないだけなのです。

 ちなみに、私たちが「創造主の一部」であるなら、私たちは創造主の「細胞」のようなものだと言えるのでしょうか?
 前に、「神」とは、私たち意識のネットワークであると述べ、私たちはそんな神の「細胞」であると述べました。混乱が生じるといけないので、この点についてはっきりさせておきたいと思います。
 神は、私たち意識が創造したネットワークです。ネットワークとは個々の要素によって作り出されたものです。ネットワークが最初にあって、その後で個々の要素が作り出されたのではありません。ちょうど、人間が細胞を創造したのではなく、細胞が人間を創造したのと同じです。つまり、人間が神を創造したのです。
 一方、そうした個々の要素、すなわち人間を創造したのは、究極の一者である創造主です。人間が創造主を創造したのではなく、創造主が人間を創造したのです。ですから、その意味で、人間を創造主の「細胞」にたとえることはできないわけです。もし人間は創造主の細胞であると言ってしまうと、人間が創造主を造ったことになり、それでは「創造主」とは呼べなくなってしまいます。
 ですから、人間は、創造主の細胞ではありません。創造主の「投影像」です。

 ここであらためて、創造主は神ではないということを述べておきたいと思います。
 もちろん、結局は、神をどう定義するかの問題になってしまうのですが、私はこう考えているのです。
 仮に、創造主を神とするなら、以上のべたように、創造主は私たち自身なのですから、「創造主と人間」という区別がありません。ですから、神を信仰の「対象」にすることはできません。「神よ!」と呼びかけるのと「我よ!」と呼びかけるのは、同じことになってしまいます。そこに「関係性」はありません。信仰とは、いわば神と人間という、関係性をベースにした、ある種のコミュニケーションのことですから、これでは信仰が成り立ちません。信仰不能なものを持ち出しても、それは神と呼べないでしょう。

 伝統的な宗教は、創造主と神を混同し、同じものとしてしまったところに、最大のあやまちがあると、私は思っているのです。そのために、さまざまな自己矛盾を抱えてしまっているのです。
 たとえば、神が創造主であるなら、全知全能であるはずです。実際に聖書ではそう説かれています。同時に、神は愛であるとしています。「神は全知全能にして愛である」というのが、神の定義となっています。
 そうなると、なぜこの地上にこうも悲惨な苦しみが存在するのか、という説明ができなくなります。全知全能で愛なら、そんな苦しみを受けなくてもどうにかできるはずです。
 それに対して、宗教者は「苦しみも神の愛のあらわれなのだ」と言います。しかしそうなると、いかなる残酷なことも愛になってしまい、実質的に、愛と愛でないものの区別ができなくなります。つまり、愛の定義が破綻し、愛が消え去ってしまうのです。
 すると宗教者は「神は人間の自由意志を尊重しているのだ」と言います。しかし、これも同じです。たとえば、まだ何も知らない幼い子供がクルマが往来する道路に向かって歩いていくというとき、まわりの人は「自由意志を尊重しよう」などと言って、そのままにするでしょうか? 思わず助けようとするはずです。それこそが愛というものでしょう。神が全知全能なら、このまま人間がこういう生き方をしていれば悲惨なことが起こることはお見通しのはずです。それを傍観しているというのは、どう考えても愛とは思えません。もしそれを愛というのなら、道路に飛び出そうとしている子供を傍観するのも愛になってしまいます。
 ということで、この場合も、愛が破綻してしまうことになるのです。
 ですから、神を(全知全能である)創造主にして愛である、と定義することはできないのです。神は創造主であるか、あるいは愛であるか、どちらかです。
 言い換えれば、「人間を助けることはできるが愛でないから助けない存在」か、「愛であり助けたいのだが全知全能ではないから助けてあげることができない存在」かの、いずれかなのです。
 私はだから、創造主と神というものを別々の存在であると考えたのです。
 ネットワークである神は、愛です。私たちを助けようと力を貸してくれます。しかし全知全能ではないので、助けられないこともあります。
 一方、創造主は、(自己認識以外は)全知全能でしょうが、愛ではありません。ただ人間を創造し、そこから情報を収集しようとしている、ある種の法則のようなもので、おそらく人格性といったものはありません。情報を収集することが目的ですから、人間を助けたりしません。むしろ、そのような干渉をしてしまうと正確なデータが得られないので、助けたりはしないはずです。ある意味では、徹底して人間の「自由意志」を尊重しているとも言えます。

 しかし、実はこういう表現もまた、正確ではないのです。この表現は、まるで科学者とモルモットのような関係性であるかのように語っていますが、創造主と人間との間に分離はないからです。
 分離があれば、創造主を、観察や考察の「対象」にできますが、分離していないので、観察や考察の対象にならないのです。すでに述べたように、眼が眼を見ることができないのと同じ原理です。
 つまり、創造主が何であるかを知ることは原理的に不可能であり、「究極にして永遠の未知」なのですから、創造主について考えたり思ったりすること自体、まったく何の意味もないのです。
 思考や想念の対象とはなり得ない、というのが創造主です。ですから、そのようなものを「神」と呼んで信仰の対象にすることは、原理的にできないわけです。
 こうした理由から、神は創造主ではないと、私は考えているのです。
 以上のように、残念ながら、神は全知全能ではありません。
 しかし、神は愛です。必死になって私たちを救おうとしてくれている存在です。
 より正確に言えば、愛が、神なのです。なぜなら、愛とは、ある種のネットワークだからです。

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神の正体⑤ 創造主が求める情報とは

 前回は、創造主は不完全な存在であり、完全をめざして進化していく存在であると述べました。そして、その不完全性を補うために、私たちを創造し、私たちから情報を得ようとしているのではないかと述べました。
 では、もう少し具体的に、いったいどのような情報を創造主は求めているのでしょうか?
 それは、当然ですが、自らの不完全性を、より完全にするための情報でしょう。
 ならば、創造主の不完全性とは何なのでしょうか? それを知れば、求めている情報が何であるかが、推測できるはずです。

 創造主は、究極の一者であり、この宇宙を創造するほどの強大な叡智と力を備えているわけですから、不完全なものなど何もないと、私たち人間は考えます。全知全能であるかのように思えます。
 確かに、自らの被造物である宇宙のことであれば、すべて知っているでしょう。
 しかし、それ以外のことでは、知らないことがあると思います。
 それはおそらく、「自己」に関することです。つまり、自分が何ものであるか、という知識がないのです。
 そう推測する理由はこうです。
 創造主は、ある種の意識体と言えるかと思いますが、意識とは、観察し、知覚し、認識し、思考する精神作用の主体のことです。
 意識が思考するには、その前に何かに対する認識が必要であり、認識するには知覚が必要であり、知覚するには観察が必要です。たとえば、ネコのことを思考するには、まずネコを観察し、そうしてネコを知覚し、ネコというものを認識しなければなりません。
 このようにして、意識というものは、あらゆるものを観察して知識(情報)を入手することができますが、観察できないものは、情報を入手できません。
 では、創造主が観察できないものとは何でしょうか?
 それは、自分の意識です。つまり、自分自身です。
 なぜなら、意識そのものを観察することは、原理的に不可能だからです。たとえば、私たちは自分の意識を観察することはできません。内面で生じる衝動や感情や思考は観察できますが、意識そのものを観察することはできません。仮に、意識が意識を観察するとした場合、今度は「意識を観察する意識を観察」しなければ、完全に意識を観察していることにはならないからです。その次は「意識を観察する意識を観察する意識を観察」しなければならず、どこまでもきりがなくなります。
 ですから、意識は意識を観察することはできないのです。
 たとえるなら、眼が眼自身を観察できないのと同じです。意識を観察することは、原理的に不可能なのです。
 創造主というものが、意識体であるとするなら、自分の意識を観察できないとは、自分を観察できないことになります。つまりは、自分が何ものであるかがわからないのです。自己に関する情報が欠如しているのです。
 これがおそらく、創造主の持っている不完全性です。

 では、自己に関する情報を得るには、どうしたらいいでしょうか。
 直接には無理です。ならば、どうしたらいいでしょうか?
 たとえば、眼を見たいときは、どうすればいいでしょうか?
 そのためには、鏡をのぞいたり、写真に撮ったりすれば、間接的に、眼は自分自身を見る(観察する)ことができます。
 このように、直接的には無理ですが、間接的には、自分自身を知ることができます。
 そこで、創造主は、自らの意識を分離させたのだと思います。分離させれば観察できるからです。ただし、正確に言えば、「投影させた」と表現するべきかもしれません。なぜなら、文字通りの意味で分離させたら、「一者」としての存在ではなくなってしまうからです。要するに、鏡に自分を映して自分を見るようなもので、鏡というものを知らない人がはたから見たら、一人の人間が分離して二人になったように見えるのと同じです。

 そうして、神は、自分の分身(投影)である生命体を創造したのではないかと思います。人間だけではありません。すべての生命体です。なぜなら、生命はすべて意識を持っているからです。
 ただ、それでも、あらゆる生命体のなかで、人間(の意識)が、もっとも創造主の分身に近いのではないかと思います(他の星には、人間よりももっと創造主に近い存在がいるかもしれません)。
 創造主は、最初から、自分と同じ意識体(生命体)を創造したのではありません。まずは、もっとも原始的な意識体、ある種の「意識の分子」のようなものを創造したのだと思います。というのも、その原始的な意識体がしだいに高度なものに進化していく(つまり自分の姿に近づいてくる)、そのプロセスを観察したかったからだと思います。
 こうして、地球にひとつの細胞が誕生し、時間をかけて、その細胞が寄せ集まっていき、しだいに高度な生物が誕生していったのではないかと思います。つまり、進化していったということです。
 すでに述べたように、創造主は今なお進化し続けている存在ですから、進化していく存在を創造しなければ、自分自身を知ることができないのです。つまり、完成された生命体では意味がないのです。そのために、最初は原始的な生命体を創造したのでしょう。

 ひらたくいえば、創造主が人間を創造した理由は、「自分さがし」のためだと言えるかもしれません。
 私たち人間が、本能的に知的探究心を持っているのも、私たちが、そうした創造主の意識を投影された存在だからです。私たちの好奇心が行き着くところは、最終的には「自分とは何か」ではないかと思います。私たち人間が存在している目的は、「自己の探求」ということになります。
 そうして創造主は、私たちが自己を探求するのを観察することで、「自己とは何か」に関する情報を入手しようとしているのだと思われます。
 あまり適切なたとえではありませんが、「鵜(う)飼い」に似ているかもしれません。すなわち、鵜を海に放して魚をとらせ、その鵜から魚を得ている漁師、それが創造主ではないかと思うわけです。

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神の正体④ 世界を創造した目的

 前回は、創造主というものは、原理的に把握されない「闇」のようなものであると述べました。「創造主」について考えること自体がすでに間違っているとも述べました。
 ただ、それではこれ以上の説明ができないので、とりあえず間違いを認めつつ、創造主についての考察を続行してみることにします。
 さて、この世界や人間を生み出した創造主について、次に私たちが疑問に思うのは、いったい何のために世界や人間を生み出したか? です。

 まず、何かの行動が行われた場合(この場合であれば世界の創造)、何かの目的があって行われたか、何の目的もなく行われたか、いずれかです。
 私たちは、たいてい何らかの目的があって、それを達成するために行動を起こしますが、目的がない場合もあります。明確な目的がない行動には、一貫した統一性や秩序といったものに欠けている傾向があります。たいてい、物事はランダムに不規則なものとなります。
 そこで、創造されたこの世界、とりわけ生命体の構造を観察すると、そこには驚くべき精緻な統一性や秩序が見られます。したがって、これは相当な目的があって創造されたものと考えるのが妥当ではないかと思うわけです。
 
 では、仮に、目的があって創造されたとするなら、それは何なのでしょうか?
 私たちが何か目的があって行動する場合、その理由は、いうまでもなく目的を達成するためですが、目的を達成しようとするのは、そうする必要があるからです。
 言い換えれば、何らかの不備や不足があるからです。完全ではないということです。完全なら何も求める必要はありません。
 したがって、何か目的があってこの世界を創った創造主は、不完全な存在だということになります。何かが欠けているために、それを満たそうと、創造主は世界と人間を創造したのではないかと考えられるのです。
 前に述べたように、すべての存在は進化していると私は考えます。進化とは完全をめざして変容していくことです。進化していないとは、静止した、いわば死んだ状態だからです。完全になったら進化はありえません。完全というのは死んだ状態なのです。
 したがって、すべての存在は不完全であり、だからこそすばらしいのであって、いわば「永遠なる未完」という本質を備えているのです。ですから、創造主を完全であり、全知全能であるとする神学の考え方には、私は反対なのです。
 人間は、創造主の不完全性を補い、創造主の進化を促進させるために創造されたのではないかと思います。その意味では、人間は創造主の「救世主」と言えなくもないわけです。神(創造主)が人間を救おうとしているというよりも、人間が神(創造主)を救おうとしているのかもしれません。

 ならば、創造主には、いったい何が欠けていたのでしょうか?
 おそらくそれは、「情報」だと思います。
 というのは、万物を二つに分けたとき、「実体」か「属性(情報)」かの、いずれかの要素しかないからです。
 たとえば、鉄のボールがあったとします。実体は「鉄」で、属性(情報)は、「球体」となります。肉体の実体は、蛋白質だとか脂肪といった物質で、属性(情報)は、そのルックス、大きさ、機能、といったものになります。
 このように、すべてのものは、実体と情報によって成り立っています。
 したがって、創造主は、実体か情報、あるいはその両方のいずれかを求めて世界を創造したと推測できます。
 しかし、実体を求めていたとは考えられません。なぜなら、世界を創造したということは、その実体を作り出したということですから、すでにその実体を持っていることになるからです。
 では、情報でしょうか。世界の実体の情報もまた、それを作り出したのは創造主ですから、すでに持っていることになります。
 しかし、その情報がどう変化していくか、という情報は持っていない可能性があります。
 たとえるなら、化学者が、Aという薬品とBという薬品を混ぜて、その後、どう変化するかという実験に似ています。化学者は、Aという薬品の情報も、Bという薬品の情報もわかっていますが、両者を混ぜたらどうなるかという情報は持っていません。その情報を得るために、両者を混ぜるという行動をするわけです。
 同じように、世界を創った創造者は、創造した世界がどうなっていくかという情報は持っておらず、それを得るために、世界を創造した可能性があるのではないかと、私は考えているのです。
 では、もう少し具体的に、それはいかなる情報なのでしょうか?
 その点について、次回、考えてみたいと思います。

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神の正体③ 世界と人間は誰が創造したのか

 これまで考察してきたように、もし神が、人間どうしの意識のネットワークであるとするなら、この世界、そして人間は、いったい誰が創造したのでしょうか? 神が創造したのではないのでしょうか?
 原因があって結果があるという因果律が正しいとすれば、この世界という「結果」があるわけですから、その「原因」、すなわち、「創造主」が存在していると考えられます。
 一般的には、神が世界を創造したとされます。神イコール創造主ということになっています。
 では、仮にそうだとすると、その神(創造主)は、誰が創造したのか?という疑問が生じてきます。
 これについて、神学などでは、神というのは究極の根源であり、誰も神を生み出したものはなく、最初から存在していた、ということで決着をつけています。
 一方、世界を創造したのは神ではなく、「自分で自分を生んだのだ」という自己生成論を唱える学者もいます。つまり、創造主というものは存在しないという考え方です。表現を変えれば、自分こそが創造主だというわけです。
 しかし、たとえそうだとしても、「では、自分で自分を生み出すその力はどうやって備わったのか?」という疑問が生じてきます。それも「自分で備えたのだ」とすると、自分で備えるその能力はどうやって備わったのか?」と、同じ疑問の繰り返しとなり、回答にはたどり着けません。結局、この自己生成論も、「最初から自己を生成する能力を宿していた」ですませるしかなくなってしまいます。
 つまり、創造主が「神」であっても「自己」であっても、それより前のことは考えないようにすると言っているわけです。ある種の思考停止です。
 こうした根源的で形而上学的な問題を追及していくと、どこかで思考停止しなければならなくなるのです。考えてもわからないからです。つまり、根源的一者である「創造主」という概念そのものを認識する能力は、人間には備わっていないということです。

 人間の認知能力では、世界や人間を創造した存在をとらえることは、不可能だということです。不可能なのに、無理にとらえようとすると、本質が歪められることになります。仮に、この世界を創造した存在が神であるとしてあれこれ考えたりすると、真実の神の姿とは違う、デタラメな姿を「これが神だ」と考えてしまうことになります。これは「狂信」です。(創造主としての)神について論じたり考えたりし、たとえわずかでも「神とはこういうものである」とした時点で、すでに「狂信」になってしまうのです。
 創造主について考えたり思ったりした時点で、もうその本質を歪めてしまっているのです。たとえるなら、創造主について知ろうとすることは、闇を見るために光を当てるようなものです。光がなければ何も見ることはできませんが、光を当てたら闇は消滅してしまいます。人間にとって、創造主は、原理的に認知不能、観測不能な存在なのです。

 このように、創造主とは、私たちの認知をはるかに超えた存在であり、創造主に思いを向けた瞬間に実像が消えてしまうのであれば、創造主を神と崇めたり、祈ったり、何かを求めたり期待したりすることは、できないということになります。創造主に思いをはせた瞬間に創造主は消滅するからです。残るものがあるとすれば、自分が勝手に作り上げたイメージです。ある種の「偶像崇拝」と言ってもいいでしょう。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では偶像崇拝を禁じていますが、神について論じた時点で、すでに偶像崇拝しているのです。
 以上のような理由から、創造主は私たち人間にとって「神」とはなり得ないと、私は考えています。認知不能という意味では、存在していないも同然だからです。神は創造主ではありません。私たち人間が太古の時代から「神」としてきたのは、創造主ではなく、私たちの意識の総体としてのネットワークです。

 では、結局のところ、創造主とは、何者なのでしょうか?
 それは「わからないというもの」です。わからないということが、創造主の本質であり属性なのだと思います。「永遠なる未知」と表現してもいいでしょう。おそらく、それが創造主の正体です。

 とはいえ、創造主について考えること自体が間違っていると言っておきながら、やはりどうしても、次のような疑問が生じてくるのではないかと思います。
 「いったいなぜ、創造主は、この世界や私たちを創造したのか?」
 何か目的があったのでしょうか? 目的があったとしたら、それは何なのでしょうか?
 すなわち、私たちは何のために創造されたのか、という疑問です。
 次回は、その点について考えてみたいと思います。

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神の正体② 神の細胞としての人間


 前回は、神とは、人間という細胞によって構成された「ネットワーク」であると説明しました。言い換えると、実体としては存在していないが、「情報」としては存在しているということです。つまり、神とは「情報ネットワーク」のことなのです。これが、私が考える神の正体です。
 たとえば、インターネットを思い浮かべてみてください。
 何か情報が欲しいと思ったとき、インターネットの検索サイトから、必要な情報を得ることができます。もしインターネットというものを知らない未開人がこれを見たら、パソコンという箱の中に全知全能の神がいると思うでしょう。なにしろ、インターネット上には膨大な量の情報が蓄積されているからです。
 しかし、その情報を蓄積したのは、私たちひとりひとりです。同じように、私たちは意識レベルで、すべての人と情報をやりとりしており、その情報は、各人の記憶という貯蔵庫に蓄積されているのです。そして、何か情報を知りたくなったら、必要な情報を蓄積している誰かの意識にアクセスして、そこから情報をダウンロードします。
 たとえば、何か問題が起きて困ったとき、「神様、助けてください」と祈ったとします。すると私たちの意識は、無意識的に、問題を解決するための情報をネットワークにアクセスしてさがしだし、ダウンロードします。
 その結果、問題を解決する方法が閃いたり、あるいは無意識層に働きかけて、その情報を教えてくれる本だとか人と出会うように行動したりするわけです。
 そうしたメカニズムを知らないので、私たちは、あたかも神様という別個の存在が、救いの手を差し伸べてくれたと思い込んでしまうわけです。そして、(人間とは独立して存在する人格的な)神はいるんだと勘違いするのです。
 しかし、そのような意味での神は存在しないと思います。神とは、私たちひとりひとりの意識が蓄積した情報ネットワークのことであり、実体というものは持たないのです。

 私たちは、ネットワークという相互の結びつきの感覚を「愛」という気持ちで感じるのではないかと思います。その意味では、神は愛であると言えなくもないのですが、むしろ、「愛が神である」と言った方が正確です。なぜなら、私たちは神を人格的にとらえているからです。神はネットワークですから人格ではありませんが、同じ人格どうしの結びつきから生まれる愛の感覚は人格的です。ですから、神を人格的なものとしてとらえている私たち人間レベルで言えば、愛こそが神だと言えるのです。

 ところで、私たちは、肉体を構成している個々の細胞にとっては「神」ということになります。私たちは、個々の細胞とは別個の意識を持っているように感じられます。
 しかし、私たちの実体は、細胞によって構築されているので、細胞とは別個の意識というものは原理的にありえません。私たちの意識もまた、個々の細胞が生み出しているのです。私たちの意識というのは、からだ全体の細胞の意識の総体なのです。その中心となるのは脳ですが、脳だけが意識を生み出しているのではありません。からだの細胞すべてによって意識が生み出されているのです。その証拠に、心臓移植をしたある人が、かつてその心臓の持ち主だった人の性格に似てきたという事例が報告されています。
 言ってみれば、私たちは、個々の細胞たちの「神」なわけです。
 同じように、私たち人間の「神」が、どんな存在であるか、どんな性格をしているか、どんな考えや意識を持っているかは、私たちひとりひとりの意識によって決められているのです。
 もし私たちが憎しみや悪意、あるいは恐怖をもって生きるならば、私たちの神もまた、憎しみや悪意や恐怖を持つことになります。そのため、未成熟な時代の人々の神は、生け贄を要求し、逆らえば怒って災いをもたらすという人格をもって現れたのです。彼らは実際、そのような神を知覚していたのだと思います。
 しかし、私たちの精神レベルが向上するにつれ、そうした野蛮な神は知覚されなくなりました。愛である神として現れるようになったわけです。それは、私たちが、さまざまな恐怖や怒りを、かつてより抱かなくなり、そのかわり、愛を抱くようになってきたので、そのような神が意識のなかに姿を現すようになったわけです。
 このように、神は、人間とは別個に原初から存在していたのではなく、人間の意識のネットワークの産物なのだと、私は考えます。
 その意味では、「神が人間を創造した」のではなく、「人間が神を創造した(している)」とも言えるわけです。「私」が細胞を創造したのではなく、細胞が「私」を創造したのと同じです。
 私たちひとりひとりは「神の細胞」です。神の一部であり、断片的ではありますが、神そのものだとも言えるわけです。あなたも私も神なのです。そして、私たちがそうであるように、神は完成された存在ではなく、より完全をめざして、今なお進化を続けている存在です。
 ですから、神に隷属し、神に「おんぶにだっこ」で救いを求め依存することは、間違っているのです。私たちが自主独立の精神をもって、自分で自分を救おうと努力し向上していくとき、ネットワークである神も進化して有効に働くようになり、その神から救いがもたらされるのです。聖書の言葉を借りれば「神は自ら救おうとする者を救う」ということになるでしょうか。

 では、人間が神を創造したのだとすると、人間は、いったい誰が創造したのでしょうか?
 それこそが「神」ではないのでしょうか?
 次回、この問題について考えてみたいと思います。

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