心の治癒と魂の覚醒

        

人は何によって救われるのか

 先日の子どもの日、NHKで「戦争孤児」について紹介されていました。
 ご存じのように、戦争孤児とは第二次大戦で親を失い路頭に迷った子どものことです。いわば子どものホームレスで、その数は12万人にも達したと言われています。子どもたちは駅や道端などで物乞いをしたり、ときには食べ物を盗んだりして生きていました。「盗みを働いた」わけですが、そうしなければ生きることができなかったのです。いったい誰がそのことを責められるでしょうか? 実際、相当な数の子どもが餓えや病気で死んでいます。悪いのは戦争をした大人たちです。子どもは被害者です。
 子どもたちの多くは疥癬という皮膚病にかかっていました。これは一種のダニが皮膚に寄生して生じるもので、猛烈な痒みとひどい皮膚の炎症に苦しみます。当然、人に伝染します。
 そのため、世間の人たちは、そうした戦争孤児に近寄ろうとしませんでした。「不潔、怖い」と嫌悪されていたのです。
 番組は、そんな戦争孤児のひとりAさんに取材しています。
 Aさんは空襲により落とされた爆弾で死んだ母親のことを語りました。顔の半分がなかったそうです。それを目の当たりに見て呆然となります。「人間は本当に悲しいときは涙も出ない」と言っています。
 そうして戦争孤児となったAさんは、餓えや疥癬で苦しみながら路上生活を送ります。ひとりの友達がいたのですが、その友達はあまりの過酷な生活に自殺してしまいました。優しい性格だったと言います。
 スピリチュアルの教えでは、「自殺した魂は罰を受けてあの世で苦しむ」などと言っていますが、果たして自殺したこの友達も、罰を受けて地獄で苦しむことになったのでしょうか? そうは思えません。そんな教えは、浅はかな「脅し」としか思えません。確かな根拠のない脅しをして自分の教えを押しつけるこうした行為を、私はスピリチュアル・ハラスメント(略してスピハラ)と呼んでいます。「自分の宗教を信じなければ罰を受ける、地獄へ堕ちる」などと言っている宗教信者などは、すべてスピハラです。
 Aさんは、親戚を頼って助けを求めました。そして親戚の家で生活をすることになったのですが、そこであからさまな虐待や冷たい仕打ちを受けました。耐えられなくなったAさんは家を飛び出し、再び路上生活を送るようになります。
 そしてついには、(おそらく悲しみや苦しみなどのストレスにより)、緑内障を患ってほとんど目が見えなくなってしまいます。過酷な路上生活と孤独、そして盲目、いったいどうすればいいのでしょうか。子どもがこれほどの苦しみを受けなければならない意味や道理など、どこにあるのでしょうか?
 Aさんは世の中を呪い、「社会にタテつく人間になってやる」と思ったそうです。つまり、悪い人間になって自分をこんな辛い目に遭わせた世の中に復讐してやると思ったのです。
 その後、Aさんは戦争孤児を保護する施設に入ることになりました。
 入所したとき、施設のひとりの先生が銭湯に連れていってくれたそうです。そして、共に裸になって、誰も気味悪がって触ろうとも、近づこうともしなかった皮膚病に侵された自分のからだを、この先生は丁寧に洗ってくれたと言います。
 そのことに感激したAさんは、まっとうな人間になることを誓い、その先生の薦めでマッサージ師となり、独立することができました。
 番組の最後にAさんはこう語っています。
「食べ物も着るものも欲しかった。でも、一番欲しかったのは(人の)ぬくもりでした」
 Aさんは、自分のからだを洗ってくれた優しい先生のぬくもりによって救われたのです。

 この番組を見て、私は考えました。結局、人を救うものは何なのかと。
 すばらしい説教でしょうか? 道徳、倫理、宗教などの高邁な教えでしょうか?
 確かに、そうしたもので救われる人もいるでしょう。
 しかし、ぎりぎりの状況で生きている人にとって、本当に救いとなるのは、Aさんが言うように「人のぬくもり」ではないのかと思います。高邁な教えではないのです。ましてや「悪いことをしたら罰を受けて地獄へ堕ちる」などといった脅しではありません。
 崇高な宗教の教えに通じ、幅広い知識を持ち、立派な説教をするが、その人柄にぬくもりを感じられない人がいます。おそらく、そのような人が悲惨な苦しみにある人を救うことはできないと思います。
 一方、宗教や学問といったこととは、およそ縁のない無学な母親などが、子どもを癒し、立派な人間へと成長させるといった例はたくさんあります。
 「ぬくもり」の源泉は、間違いなく愛でしょう。
 愛に関する知識を積めば、愛ある人間になれるとは限りません。それどころか、かえってエゴが増長し、愛が欠乏してしまう場合もあるように思います。
 愛についての立派な教説を語ることができても、愛がなければ、効能書きは立派だが薬効を持たない薬のようなものです。「自分は愛の宗教の信者である」と表明しても、愛がなければ、単なる「愛の宗教ごっこ」をして遊んでいるにすぎません。

 私は今回の番組を見て、果たして自分にはそうした「ぬくもり」があるかどうか、自省してみました。しかし、自分ではなかなか自分のことはわからないものです。
 しかし、これだけは気を付けようと思いました。それは「私にはぬくもり(愛)がある」という思い込みです。
 おそらく、本当に愛がある人は、「自分には愛がある」などとは思わないと思います。また、「愛がない」とも思わないと思います。
 本当に愛がある人は、そのようなことは思わず、きわめて自然体で、無意識のうちに、淡々と愛の行いをしているのだと思うのです。
 私は、愛に関する本をいろいろ読んできたので、知識だけはそこそこあります。また、おそらく愛に関する立派な説教をしようと思えばできると思います。
 しかし、そんなものはどうだっていいのです。せいぜい、ある種の「娯楽」的な意味を持つだけです。それは人を酔わせ、楽しくさせますが、愛は娯楽ではありません。
 たとえひとことも語らず、ただ存在しているというだけで、そこからぬくもりが、すなわち、愛が放たれるようでなければ、本物ではないのです。
 私は、そのような人になりたいと思いました。

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宗教における練習

 たとえば、いくら野球のルールを熟知し、バットの振り方やボールの投げ方に関する知識が豊かであっても、実際にすばらしいプレーができなければ、ファンの支持を得られませんし、野球選手としての価値はありません。また、難解な音楽理論を熟知し、ピアノの弾き方に関してすばらしい講義をすることができても、実際にピアノが弾けなければ、ピアニストとは呼べません。
 要するに、およそ学者以外のプロと呼ばれる人たちは、実践ができるかどうかで、評価が決まるのです。医学に関する膨大な知識があっても、手術ができなければ、外科医とは呼べません。料理の仕方がわかっていても、料理ができなければ、料理人とは呼べません。
 ところが、宗教の世界だけは、難解で高尚な教義や知識を持ち、それを声高に口にするだけで、「すばらしい宗教者だ」「高い霊性を持っている人だ」「覚者だ」といった称賛を得られたりするのです。これは奇妙なことです。豊かな知識を持ち、それを講義できる人は、すぐれた学者とは言えるかもしれませんが、実践を伴わなければ、宗教者とは言えません。宗教の理念を実際に行動に表せる人が、本当の宗教者であり、高い霊性の持ち主であり、覚者です。
 たとえ宗教の教義だとか、難しい理屈など知らなくても、その人の生き方が宗教の理念に合致しているならば、その人は立派な宗教者です。知識は、あくまでも実践ができるようになるための手段として必要なだけであって、知識そのものには何の意味もありません。

 もちろん、最初は何であれ知識の習得から始めますので、知識を蓄えることは大切です。宗教的な教養を学ぶことは意義があるでしょう。問題は、その知識をいかに実践に移すか、ということです。多くの人は、知識が豊かだと、それだけで自分が偉くなったような気がしてしまい、また周囲もそれだけで偉い人だと称賛したりするので、そこで進歩が止まってしまうことが多いのです。あげくの果ては、傲慢になり、誇大妄想に陥ったりします。
 こうなるのは、宗教の世界が、スポーツや芸術のように「実践こそが重要」という認識が薄いからだと思います。本来、宗教の世界こそ実践が大切だと思われるのにです。
 宗教の理念を簡単に言えば、ひとつは「愛(慈悲)」であり、もうひとつは「煩悩の超越」だと思いますが、こうしたことを知識ではなく、実践に移さなければ、その人は本当の宗教者、信仰者であるとは言えないわけです。

 しかし、知識があるからすぐに実践に移せるわけではありません。野球の仕方を勉強してもすぐに上手なプレーができるわけでもなく、ピアノの弾き方を頭で習ってもすぐにピアノが弾けるようにならないのと同じです。どのような分野であれ、知識を実践に移すには、練習が不可欠です。プロのスポーツ選手、プロの芸術家は、ものすごい量の練習量をしています。私が元プロレスラーの人から聞いた話だと、彼らは気絶するまで筋トレをするそうです。ピア二ストは、毎日欠かさず一日8時間も10時間もピアノに向かっています。そのために腱鞘炎を起こしてしまうこともあるくらいです。
 このように、練習が必要なのです。ひたすら練習です。プロの練習のすさまじさは半端ではありません。そうして初めて、知識を実践に反映させることができるのです。
 しかし、宗教者はこれほどの練習をしているでしょうか?
 すなわち、愛を実践するための練習、煩悩を超越するための練習をしているでしょうか? 気絶するまで練習しているでしょうか? 一日8時間も10時間も練習しているでしょうか?
 まずしていません。祈ったり、瞑想したり、苦行したり、お経を唱えたりはしているかもしれません。そのようなことが意味のないことだとは言いません。しかし、そうしたことは、スポーツ選手が行っている体力強化訓練、ピアニストが行っているソルフェージュ(楽譜読み)に過ぎません。つまり、基礎訓練に過ぎないのです。本当に技能を磨くには、実際にスポーツをすること、実際にピアノを弾くことなのです。そうした実践的練習の積み重ねによって、実力が磨かれるのです。

 宗教の世界も同じように、実践的練習を積み重ねることによって本物になっていくわけです。実践的練習とは、愛の行為をすることであり、煩悩を超えていくということです。煩悩を超えるとは、欲望や感情に振り回されないということです。怒ったりイライラを野放しにし、低劣な欲望に平気で身を任せるようでは、煩悩を超える実践的練習をしていることにはなりません。怒りを覚えるのは仕方ありませんが、それを意志の支配下において静謐を保とうとする練習、低劣な欲望の誘惑に抵抗しようとする練習が必要なのです。
 そして何よりも、愛の行為です。電車のなかでお年寄りや体の不自由な人が立っていたら席を譲る、道に迷っている人がいたら声をかけてあげる、悲しみに沈む人がいたら優しい言葉をかけてあげる、約束の時間には相手を待たせないように少し早めに行く、たとえわずかな金額でも福祉施設に寄付をする……、こうしたことは小さいことかもしれませんが、立派な愛の実践的練習です。こうした「小さいこと」が、実は重要なのです。そういう練習の積み重ねによって、本当の宗教者になっていくのです。
 繰り返しますが、練習なくして本物にはなりません。ひたすら練習、練習、練習。練習あるのみです。真の宗教者かそうでないかは、知識だとか、説教が上手だとか、そういうことではないのです。その生き方が、宗教の理念を体現しているか、ただそれだけによって決まるのです。練習なくしてどうして本物となれるでしょうか?

 しかし、頭でっかちの人は、練習が苦手です。また、見栄っ張りの人も練習が苦手です。なぜなら、「練習」がうまくできないと、プライドが傷つく怖れがあるからです。練習をせず、ただ口先だけ立派なことを言っているだけなら、至らない自分を突きつけられることもありませんから、幻想の中にいることができます。「私はこんな立派なことを語ることができる。私はなんて意識レベルが高いのだろう、なんと信仰深いのだろう、なんと偉大なのだろう」と、自分に酔っていたいのです。しかし、そういう宗教者は、いってみれば「張り子の寅」のようなものです。宗教者とは呼べません。せいぜい学者であるというだけです。
 実際、練習は甘くないです。スケート選手など、それこそ何回も何回も何回も転倒し、みっともない姿をさらします。失敗の連続、プライドがつぶされることの連続、自己嫌悪の連続です。しかし、そうしたことを乗り越えていく人こそが真のプロであり、真の宗教者なのです。

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神は存在するか?

 東日本大震災が起こったとき、原発事故による放射能が私の住む関東地方にも微量ながら流れてきました。そのとき、地震が起こる直前に関東地方から九州に引っ越した知人がいて、その知人から次のようなメールを受け取りました。
「危ないところで助かりました。神様って本当にいるんですね」
 それを見て、神が存在するかどうかという考えは、個人の狭い主観に基づいているのだなあと感じました。彼は、彼の言う神のおかげで助かったのでしょうが、関東地方に住む私は、ましてや東北に住んで被災された方たちにとっては、神は存在しないことになります。
 神はいると信じる人もいれば、いないと信じる人もいます。神を信じている人は、人生が恵まれていたり、あるいは苦難に遭遇したときに助かったといった経験を持っているのでしょう。そのために、「人間を苦しみから助けてくれる神は存在する」という信念を持ったのだと思います。
 しかし、それはあくまでも自分だけの限られた経験での尺度から導かれたものに過ぎません。本当にこの世に神が存在するかどうかは、世界中の人々を広く見渡し、そのなかでも、もっとも悲惨な境遇に見舞われている人を尺度として考えなければならないと思うのです。なぜなら、そのような悲惨な出来事は現実に起こっていることであり、そのような悲惨さは、誰もが経験することになってもおかしくないからです。いくら神に祈っても苦しみから救われない人だっているわけです。震災で亡くなった人たちは、「神様、助けてください」と祈らなかったのでしょうか? そうは思えません。おそらく、たくさんの人がそう祈ったと思います。けれども、助かりませんでした。それが現実なのです。私たちは現実という尺度から神は存在するかどうかを考えていかなければならないのです。
 冒頭で紹介した知人は、もし九州に転居せず、それどころか東北地方に転居して家族全員を失うという悲惨な経験をしたとしたら、どうでしょうか。果たしてそれでも「神は存在する」という考えを持ち得たでしょうか?
 このように、神は存在するかどうかについては、個人の狭い経験からではなく、広く世界を見渡し、そのなかでも、もっとも悲惨な人の体験を尺度にして結論づけなければならないと思うのです。

 私は、先日シリアで起こった化学兵器の攻撃によって、たくさんの子供たちが残酷な苦しみの中で殺されていった事実などを見るにつれ、「ああ、この世に神はいないのだな」と感じます。
 正確に言うと、「私たちが期待するような神」はいないのだと思うわけです。
 すなわち、私たちが「神」というとき、それは私たちを苦しみから救ってくれるような存在をイメージしています。その証拠に、神社仏閣にはたくさんの人がいろいろなお願い事をしに参詣しています。それで願いが叶えば神は存在すると信じるでしょうが、実際には願いが叶えられるとは限りません。受験に合格しますようにと祈っても落第することがあります。受験くらいならともかく、人生の壮絶な苦しみにある人が、最後の希望として神に救いを求めて祈るような場合であっても、その願いが叶えられるとは限りません。
 そのような意味で、私は「私たちが期待するような神」は存在しないとしか考えられないのです。世界のあまりにひどい残酷で悲惨な状態が、かくも頻繁に起こり、何の罪もない子供たちが苦しみ悶えて死んでいくのを見て、神はなぜ私たちを救ってくださらないのでしょうか?

 では、どのような神であるかはともかく、神というものは存在するのでしょうか?
 たとえば、いわゆる因果関係というものが普遍的な真理であるとするなら、つまり、原因があって結果があるという道理が真理であるとするなら、「この世界」というものが存在しているという「結果」があるわけですから、その「結果」をもたらした「原因」があるはずです。要するに、この世界の創造主が存在すると考えられます。その創造主を「神」と定義するなら、神は確かに存在すると考えられます。
 しかし、その神は、キリスト教が言うような「愛」でもなければ、人格的なものではないと思われます。なぜなら、世界を創造したくらいの絶大な力を持っているわけですから、その気なら人を苦しみから救おうと思えば簡単にできるはずだからです。しかし、それをしないということは、「愛」ではあるとは思えません。なかには、「そのような苦しみを与えることも、最終的にはその人を真の幸せに導こうとする意図があるので、それも愛の現れなのだ」と考える人もいます。しかしそうだとすれば、この地上で起こるどんな悲惨なことも「愛」になってしまいます。変質者に我が子を殺されてしまうのも、爆弾で子供が肉片となって散らばってしまうのも、すべてが「愛の現れ」になってしまいます。私たちはそんなことまで「愛」だと認めることができるでしょうか? 明らかに、そんなことまで「愛」と呼ぶのには、無理があります。そうなると、もうなんでもありになってしまい、愛と愛でないものとの区別がなくなってしまいます。
 創造主である神とは、ある種の法則のようなものであり、私たち人間が苦しもうと意に介さないのです。広大な宇宙に比べれば、地球など破滅しても、たいしたことではないのです。
 しかし、人間は弱いもので、人生の苦しみを乗り越えていくには、支えを求めます。そのために「苦しみから救ってくれる神」だとか「仏」だとか「菩薩」といったものを勝手に作り出してきたのです。そうして一生懸命に信仰に励むのですが、そうしたものは、期待から作られた幻想に過ぎません。つまり、宗教と呼ばれるものは、幻想によって成り立っているのです。神も宗教も幻想の産物なのです。

 神は愛ではありません。人格を持たないからです。
 しかし、もし「神は愛ではないが、愛は神である」と言う人がいたら、私はそれに賛成です。
 神が愛なのではなく、愛こそが神なのです。神というのは、実は愛のことなのです。
 神というとき、自分の信じる宗教に汚染されたさまざまなイメージが伴います。そして、自分の宗教で説かれている神こそ真実で、他の神は偽物だ」などと主張して争っているわけです。愚かなことです。神は無形であり、私たちのイメージをはるかに超えた存在です。神に関するわずかなイメージ、印象、考え、定義といったものを持ってはならないのです。それらは人間が勝手に創り出した虚像にすぎないからです。「神」という言葉を使うことそれ自体が、そもそも間違っているのです。神は名前をつけられるような存在でさえありません。
 しかし、「愛」には、「神」ほど特定のイメージに汚染されていません。個人によって多少のイメージは付随していますが、かなり普遍的なものです。「自分たちの愛こそ本物で、それ以外の愛は偽物だ」などと争ったりはしません。
 そして、私たちを救ってくれるものは、こうした「愛」なのです。
 もちろん、愛があればすべて救われるとは限りません。しかし、愛があるときは、おおいなる救いが得られることは確かです。全世界の人が愛を表せば、化学兵器で子供たちが死んでいくなどということは起こらないのです。天災ばかりはどうしようもありませんが、それでも被災した人をすみやかに救うことはできます。
 神に助けを祈ることは無意味です。せいぜい一時的な慰めになったり、苦しい気持ちを麻痺させる効果があるだけで、いわば麻薬や精神安定剤と本質的には同じものです。助けを求めても助かるとは限らないのが現実だからです。私たちは現実をしっかりと見つめなければなりません。
 おそらく、あと数百年後か、あるいは数千年後になるかもしれませんが、人類はいつか宗教という幻想から目覚め、地上に宗教というものが消えてなくなると思います。そして、その宗教に代わるのが「愛」です。
 私たちは、「神様、助けてください」と祈ることはやめ、「愛に目覚めることができますように」と祈るでしょう。「愛が地上に現れますように」と祈ると思います。
 そうして、愛が地上に顕現されたとき、私たちは真に神を見出すのです。しかし、そのときには誰もそれを「神」とは呼ばないと思います。神と呼んだ瞬間に、神ではなくなってしまうからです。

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幸せをつかむための二つの生き方


 前回は、幸せについて話しました。自分が幸せであるかどうかを査定することにはあまり意味がないこと、また、幸せを直接求めても得られず、副産物として得られるのではないかということを話しました。
 幸せというものが、それ以外の何かを求めた副産物の結果として得られるとすれば、私たちはいったい何を求めて生きていけばよいのでしょうか?
 それはいろいろあるでしょうが、私なりの意見を述べさせていただこうと思います。それは二つあります。

 まずひとつは、「自分らしく生きる」ということではないかと思います。
 花は花らしく、鳥は鳥らしく、魚は魚らしく生きているように、私たちも、自分らしく生きるべきであり、そうしたとき、もっとも幸せであるように思われるのです。
 ただ、「自分らしさ」とは何かが、よくわからない人もいます。実際、自分の好きなこと、自分はこういう仕事や生き方がしたいんだと、若いときからすでに自覚している人は珍しいかもしれません。たいてい、自分が何をしたいのか、どんなことに向いているのか、どんな生き方をしたいのかよくわからないまま就職し、そのまま人生の大半を過ごすことが多いかもしれません。
 自分が何をしたいのか、何が好きで、どんなことに向いているのかは、子供のときの行動を見ると、けっこうわかったりします。外で友達と交わるのが好きであったか、それとも、家の中でひとり趣味に没頭することが好きであったか? スポーツが好きだったか、読書が好きだったか? 旅行が好きだったか? 料理を作るのが好きだったか? 科学や数学が好きだったか? 文学や哲学が好きだったか?……。自分は子供のとき、どんなことが好きだったかを思い返してみると、「自分らしさ」とは何かがわかるかもしれません。
 自分らしく生きているとき、人は生き生きとして、生命から湧き上がるような喜びを感じるものです。はたから見てすごく努力しているように見えても、自分自身は努力しているとは感じません。そういう人は、とても魅力的に見えます。
 しかし、自分らしく生きていないときというのは、生気なくどんよりとした感じがしますし、歯を食いしばって生きているようなところがあります。喜びも感じられません。そして疲れやすい傾向があります。優秀な業績を残すことも少ないですし、そういう人は、はたから見てもあまり魅力を感じないものです。ちょうど、鳥が水中を泳ごうとするとか(ペンギンなどは別ですが)、魚が空を飛ぼうとするような、どこかちぐはぐで、ズレているというか、本来の姿ではない感じがするのです。
 なので、自分らしく生きることです。もちろん、それは口で言うほど簡単ではないでしょう。自分はミュージシャンや芸人が合っていると感じても、それで生計を立てていくのは容易なことではありません。ほとんどの人が、仕方なく普通のサラリーマンになって、自分らしく生きられないで一生を終えてしまいます。もともとサラリーマンだとか、ビジネスに向いていて、それが「自分らしさ」であるという人は、この世的には幸運でしょう。仕事は楽しく成功しやすいと言えるでしょう。
 けれども、芸術や芸能、詩や小説、宗教や哲学、スポーツ選手といった、浮世離れした世界に向いている個性を持って生まれてきた人は、なかなか厳しいと思います。そのような世界で生計を営んでいける人は、ほんの一握りしかいないからです。仕方なくサラリーマンになっても、鳥が水中を泳ごうとするようなものですから、なかなかうまくいかず、しばしば無能扱いされることもあるでしょう。せめて、本業とは別に趣味として、そういう世界で自分らしさを発揮していくしかないのかもしれません。本来、こうした世界は人類の進化向上にとって非常に大切なものなのですが、残念ながら現在のレベルでは、世間一般にはなかなか認められないのです。

 幸せのために求めていくとよいと思われる二つめは、「自分にしかできないことをする」です。これは、「自分らしく生きる」とも関連しますが、難易度はさらに高いかもしれません。
 この世界はオーケストラのようなもので、それぞれの楽器の音色は、その楽器しか出せません。バイオリンにトランペットの音色は出せません。同じように、あなたは、可能な限り、あなたにしかできないことをするべきです。それが結局は、この世界のためになるからです。
 その場合、その活動の大きさなどは関係ありません。たとえばオーケストラの場合、バイオリンは主役的な存在ですが、コントラバスは脇役的な存在です。トランペットやトロンボーンやホルンは大活躍しますが、チューバはそれほど活躍しません。ならば、コントラバスやチューバはなくてもいいかというと、そんなことはありません。それらがなかったら、交響曲は演奏できないのです。オーケストラのなかでは、どの楽器もかけがえのない存在です。
 同じように、自分にしかできないことが、社会的にみて、いかに小さなものであったとしても、それは必要なことなのです。栄養にたとえるなら、塩分やカルシウムは大量に必要であるのに対し、亜鉛やセレンなどは微量しか必要ではありません。しかし、亜鉛やセレンがなければ、人は病気になってしまいます。
 同じように、社会的に高く評価されて目立つものばかりでなく、誰からも認められることさえないようなことでも、自分にしかできないことをすることは、世界にとって必要不可欠なことなのです。そのような生き方をして生涯を終えたならば、たとえその業績が誰にも知られることがなかったとしても、その人生はすばらしく偉大であったと言えるわけです。
 もちろん、現実には、「自分にしかできないことをする」というのも、容易ではありません。ほとんどの仕事は、自分でなくても他の誰かができます。私たちは、まるで交換可能な機械のひとつの部品のようです。総理大臣といった、おそらくあらゆる職業のなかで頂点に立つと思われるものでさえ、いくらでも他に「なり手」がいるように感じられたりします。ならば、サラリーマンだとか公務員といった仕事であれば、いくらでも他にやる人がいるように思われます。
 しかし、どのような世界であっても、ユニークな発想を持ち、その世界に革新をもたらす人がいます。サラリーマンや公務員の世界でも、ただ今までと同じことを繰り返すのではなく、今までとは違うことを編み出す人がいます。そういう発想と行動力があるならば、どのような職種であろうと「自分にしかできないこと」をすることは十分に可能です。職業に限らず、それ以外の活動でも、自分にしかできないことを見つけて実行することは可能です。
 ただし、それには勇気が必要です。なぜなら、「自分にしかできないこと」というのは、言い換えれば「誰もやっていないこと」をすることだからです。誰もやっていないこと、やったことがないことをするのは、ひとつの冒険です。未開の地に行くようなものです。失敗する危険があります。世の中から非難されたり笑われたり、悪口を言われるかもしれません。たとえうまくいったとしても、誰にも感謝もされず、認められないかもしれません。物質的には何の得もないかもしれません。
 けれども、そのような危険があったとしても、それが自分にしかできないと思ったならば、勇気を出してやるべきではないかと思います。
 なぜなら、人類の進歩というものは、有名無名を問わず、自分らしさを発揮した人、また、自分にしかできないことをやった人によって支えられてきたと思うからです。
 そして、そのような生き方をした人生というものが、結局のところ、本人が自覚しようとしまいと、「幸せな人生」と呼べるものではないのかと思うのです。
 たとえすぐには実現できなくても、私たちは、「自分らしい生き方」、「自分にしかできない生き方」をめざしていこうではありませんか。


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幸せとは何か?

 すべての人は幸せを求めて生きている、と言ってもいいだろう。
 そこで問題になるのは、果たして「幸せとは何か?」という、幸せの定義である。
 ある哲学者は、単純に「幸せとは快楽の量で決まる」と言った。つまり、楽しいことや面白いことや気持ちいいことがあればあるほど幸せであるとした。それに対してある哲学者は、「ならば残飯をあさって気持ちよさそうに寝ている豚は幸せなのか?」と反論した。豚はそれで幸せかもしれないが、人間の幸せとはそんなものではないはずだ、と考えたのである。
 幸せの定義の問題は、哲学界の最大のテーマであり、明確な回答を出すことは難しい。
 とりあえず、もっとも説得力があると思われる回答は、「本人が幸せだと感じるのなら幸せだ」であろう。確かにそれは真実の一面をとらえていると思う。いくらお金持ちで物質的に恵まれていても、本人が幸せを感じなければ幸せとは言えないし、いくら貧しく苦労が多くても、本人が幸せを感じれば、それは幸せだと言えるであろう。
 しかし、どのようなことで幸せを感じるかということは、そう単純ではない。
 私の大学時代からの友人に、「安定した人生こそが幸せだ」と考えて、公務員になった人がいる。努力して公務員になり、役所に勤めることになったとき、彼と会って話をしたが、あまり嬉しそうな様子ではない。私が「念願の公務員になれたんだからよかったじゃないか」と言うと、彼が言うには、もう自分の人生は先が見えてしまい面白くないというのである。つまり、何歳でどのくらい出世してどのくらい給料をもらい、どんな仕事をしていくかといったことが、公務員の場合、たいていわかってしまう。どうやら、自分の人生に未知なるものがなくなると、人間というものは、あまり幸せではなくなるようである。そのためか、公務員どうしで酒を飲むと、すごく荒れると言っていた。
 また、聞いたところによると、宝くじに当選した人の七割が、当選したことを後悔するという。にわかに信じられない話ではあるが、どうも宝くじに当たって大金が舞い込むと、家族や人間関係でいろいろと支障が生じ、人間的にも堕落してしまうことが理由らしい。そうしてさんざん不愉快な目にあって、こんなことなら宝くじなんか当選しなければよかったと思うのだそうだ。
 以上のように、おおかたの人からすれば、安定した生活や、お金持ちの生活は、さぞかし幸せではないかと思ってしまうのだが、必ずしもそうではないようである。

 さらに、仮に幸せを感じたとしても、それが本当に幸せと言えるのか、という問題もある。
 たとえば、こんな喩え話をしてみよう。ある人がブランドの高級バッグを所有し、それで幸せを感じていた。ところが、そのバッグがニセモノであったことがわかる。あまりにも精巧にできているので、自分では本物とニセモノの区別がつかない。とたんにその人は幸せを感じなくなってしまう。ニセモノだと言われなければ、幸せを感じ続けていられたのだ。
 そうなると、その人は、にせのバッグを所有していた日々は、幸せだったと言えるのだろうか? 幸せは感じていたが、幸せであるとは言えなかったのではないだろうか? それとも、たとえだまされていたとしても、幸せを感じていたなら、やはり幸せであったと言えるのだろうか?
 すなわち、もしもあなたがいま、幸せを感じていたとしても、人生には、もっとすばらしい幸せが存在しており、それに比べたら今の幸せなどは幸せとは呼べないのかもしれない。いわゆる「知らぬが仏」という言葉通り、本当の幸せというものを知らず、今の幸せこそ本当の幸せだと勘違いしているだけなのかもしれない。
 それでも、とにかく本人が幸せを感じていれば幸せなのだと言えば、その通りなのかもしれないが、しかし、もっとすばらしい幸せが実はあるのだと知らされたら、幸せでなくなってしまうのであれば、やはりそれは本当に幸せであるとは言えないのではないかと思う。

 ならば、本当の幸せとは、いったい何なのだろうか?
 おそらくそれは、永遠の謎ではないかと思う。「これ以上に幸せなことなどない」と感じたとしても、本当にそれ以上に幸せなことがないという証明は、たぶんできないであろう。キリスト教の説く天国、仏教の説く涅槃の境地は、あくまでも地上に比べれば幸せであるというだけであって、この広大無辺な宇宙と悠久なる進化の時間を考えれば、天国や涅槃よりもさらに幸せな状態というものが、存在する可能性は十分にある。
 さて、以上のように考えてみると、「自分は幸せなのだろうか?」と、自分の幸福度を査定するようなことには、あまり意味がないのではないかと、私は考える。幸せを感じても幸せではないのかもしれないし、幸せを感じていなくても、幸せなのかもしれない。登山愛好家は登っているときは非常に苦しいが、その苦しみは頂上に到達したときの大いなる喜びへとつながっている。ならば登山家にとって、その苦しい道のりは「幸せ」だと言えるであろう。
 生まれてきたからには、幸せになりたいと願うのは自然なことであり、悪いことではない。けれども、あまりにも神経質に自分は幸せかどうかを気にし、「幸せにならなければならない!」と力みすぎるのは、逆に幸せから遠ざけてしまうように思われる。
 人生、そして生命というものは大切なものではあるが、あまりそれを深刻に受け止めすぎないようにすべきで、いわば、ある種のゲームをしているような感覚で、ゆとりをもって生きるのがいいように思う。実際、人生なんてゲームのようなものだ。うまくいくときもあれば、うまくいかないときもある。成功するときもあれば失敗するときもある。何があるかわからない。だからこそゲームは楽しい。先が見通せてしまうゲーム、うまくいくだけのゲームなんて全然面白くない。うまくいかないときでも笑えるのがゲームだ。ゲームは遊びなのだから。
 人生も同じだ。幸せになろうとするのではなく、人生というゲームで遊んでいるのだという発想で生きることが、結局は幸せに至る道ではないかと思う。この地上は壮大な「ゲームセンター」なのだ。
 ある哲学者はこう言っている。
「幸せとは副産物であり、それ自体をめざしてもつかむことはできない」

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