FC2ブログ

心の治癒と魂の覚醒

        

哲学&瞑想教室の紹介

idea_life_convert_20180812085628.jpg

東京の東村山市に開設予定の哲学&瞑想教室「イデア ライフ アカデミー」のお知らせです。
 玄関前に、看板を仮設置してみました(左)。しかし、肝心の教室は壁や天井の鉄骨を自ら塗り替え中で(右)、完成はもう少し先の予定。
 この家は、皆さん自身の「魂の別荘」として活用していただきたいと思っています。世俗にまみれている私たちの魂は窒息状態です。そんな魂を生き生きさせる「聖なる場所」にしたいのです。
 聖なる場所の条件として一番大切なのは、そこにお互いを「魂」として尊重し、敬愛し合える関係性があるかどうかです。哲学者ブーバーはそんな関係性を「我と汝」と表現しました。
 しかし世俗では、人を魂扱いせず、社会的な地位や見た目などで価値を判断され差別されます。これは人を「モノ」扱いしているのです。ブーバーはそんな関係性を「我とそれ」と呼びました。
 この教室では、年齢や性別、学歴や職業、地位や財力、出身地、容姿、国籍、人種、LGBTなどという差別は存在しません。こうしたことは魂の本質とは関係ないからです。また、過去の経歴も問われません。過去は存在せず今のその人が問われるからです。
 そうして、来た人全員が、「我と汝」の関係性、すなわち魂として、平等に尊重され敬愛される場所にしたいと思っています。
 皆様、この教室で、世俗の汚れを落とす「魂の洗濯」にいらしてください。
 なお、哲学者ブーバーはカバラ思想の影響を受けており、その思想は現代人にとって非常に重要なので、今月のカバラセミナーでも取り上げる予定です。
 
「ザ・シークレット・オブ・カバラ」セミナー
8月26日(日)
http://51collabo.com/?shop=kb0003

スポンサーサイト
お知らせ | コメント:4 | トラックバック:0 |

八正道の分析①


 前回は、八正道についての記述を経典からそのままご紹介いたしました。今回は、その内容について、もう少し詳しく私なりの解釈をしてみたいと思います。

 まず、最初の正見ですが、経典にはこう書いてあります。
「苦なるものを知ること、苦の生起を知ること、苦を滅することを知ること、苦の滅尽にいたる道を知ること、これを名づけて正見というのである」
 これは明らかに「四諦」のことです。すでに述べたように、四諦=仏教ですので、仏教の見解は正しいものであり、この見解をもつことが「正しい見方である(正見)」と言っているわけです。当然ですが、仏教の道を歩むには、ここから始めなければなりません。仏教の教えを正しい見解と納得できなければ、その道を歩むことはないでしょうから。

 二番目の正思(最近では「正思惟」と記述することが多い)ですが、経典にはこう書いてあります。
 「迷いの世間を離れたいと思うこと、悪意を抱くことから免れたいと思うこと、他者を害することなからんと思うことがそれである」
 釈迦の教えでは、悪業を積むことを厳しく戒めています。悪業を積めば苦しみが訪れますし、修行の妨げになるからです。悪業、すなわち悪い行為は、悪い思い(思考)から生じるわけですから、悪業を積まないような思い(思考)が、正しい思い(正思)であると説いているわけです。

 三番目の正語について、経典にはこう書いてあります。
「偽りの言葉を離れること、中傷する言葉を離れること。麁悪(そあく)な言葉を離れること。および雑穢(ぞうえ)なる言葉を離れることがそれである」
 正語の修行には、二つの目的があると思います。ひとつは、悪業を積まないという目的です。言葉もひとつの行為ですから、人を傷つける言葉は悪業となり、それがいずれ自分の身にふりかかってきます。
 もうひとつは、言葉というものは意識のありかたを反映します。悪い意識を持っていれば悪い言葉が出るでしょう。しかし逆もまたしかりで、意識的によい言葉を使うようにすると、意識もよい方向に高められていくのです。
 このように、悪業は、カルマの制御と意識の制御という二つの目的があると私は考えます。

 四番目の「正業」について、経典にはこう書いてあります。
 「殺生を離れること、与えられざるを取らざること、清浄ならぬ行為を離れることがそれである」
 これも悪業をしないということです。

 五番目の「正命」について、経典にはこう書いてあります。
 「よこしまの生き方を断って、正しい出家の法をまもって生きる」
 これも基本的には「正業」と同じことですが、とりわけ出家修行者の戒律を守る生き方が強調されています。

 六番目の「正精進」について、経典にはこう書いてあります。
 「いまだ生ぜざる悪しきことは生ぜざらしめんと志を起して、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいは、すでに生じた悪しきことを断とうとして志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいは、いまだ生ぜざる善きことを生ぜしめんがために志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいはまた、すでに生じた善きことを住せしめ、忘れず、ますます修習して、全きにいたらしめたいと志をたてて、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする」
 これも基本的には「正業」と同じことですが、さらに徹底しており、潜在的な悪は顕在化しないように努力し、顕在化してしまった悪はそれを断ち、さらに善についても積極的な姿勢で、潜在的な善は顕在化させるように努力し、顕在化した善はさらにそれを高めていくということです。

 以上の六つの修行は、それほど理解するのに難しいというほとではないと思います。
 しかし、七番目の「正念」と最後の「正定」は少し難しいです。
 これらについては次回、ご説明したいと思います。

真の仏教 | コメント:4 | トラックバック:0 |

八正道


 前回は、八正道とは悟りに至る「手段」であると同時に、生き方の「目的(手本)」であることを述べました。
 では、具体的に八正道の内容とは、いかなるものなのでしょうか?
 まずは、釈迦が八正道について語った説教をそのまま引用してみます(実際には、八正道は最初から体系化されたものではなかったようです。後の学者が断片的に説いた釈迦の説法をまとめ、体系化して、釈迦が語ったものとして経典が書かれたというのが真相のようです)。
 今回は引用だけで長くなってしまうので、私のコメントは差し控えます。まずは釈迦の言葉をよく読んで、自分なりに考えてみてください。

 聖なる八支の道(八正道)
                
 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータピンディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、世尊は、もろもろの比丘(びく=弟子)たちに告げていった。
 「比丘たちよ、いまわたしは汝らのために聖なる八支の道を説こうと思う。ひとつ、それを汝らのために分析してみようと思う。よく注意して聞くがよろしい。そして、よくよく考えてみるがよろしい。では、わたしは説こう」
 「大徳よ、かしこまりました」
 と、彼ら比丘たちは世尊にこたえた。世尊は説いていった。

 「比丘たちよ、いかなるをか聖なる八支の道というのであろうか。いわく、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、いかなるをか正見というのであろうか。比丘たちよ、苦なるものを知ること、苦の生起を知ること、苦を滅することを知ること、苦の滅尽にいたる道を知ることがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正見というのである。

 比丘たちよ、いかなるをか正思というのであろうか。比丘たちよ、迷いの世間を離れたいと思うこと、悪意を抱くことから免れたいと思うこと、他者を害することなからんと思うことがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正思というのである。

 比丘たちよ、いかなるをか正語というのであろうか。比丘たちよ、偽りの言葉を離れること、中傷する言葉を離れること。麁悪(そあく)な言葉を離れること。および雑穢(ぞうえ)なる言葉を離れることがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正語というのである。

 比丘たちよ、いかなるをか正業というのであろうか。比丘たちよ、殺生を離れること、与えられざるを取らざること、清浄ならぬ行為を離れることがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正業というのである。

 比丘たちよ、いかなるをか正命というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の聖なる弟子があり、よこしまの生き方を断って、正しい出家の法をまもって生きる。比丘たちよ、その時、これを名づけて正命というのである。

 比丘たちよ、いかなるをか正精進というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があり、いまだ生ぜざる悪しきことは生ぜざらしめんと志を起して、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいは、すでに生じた悪しきことを断とうとして志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいは、いまだ生ぜざる善きことを生ぜしめんがために志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいはまた、すでに生じた善きことを住せしめ、忘れず、ますます修習して、全きにいたらしめたいと志をたてて、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。比丘たちよ、その時、これを名づけて正精進というのである。

 比丘たちよ、いかなるをか正念というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があって、わが身において身というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世問の貪りと憂いとを調伏(ちょうぶく)して住する。また、わが感覚において感覚というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世問の貪りと憂いとを調伏して住する。あるいは、わが心において心というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。あるいはまた、この存在において存在というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。比丘たちよ、この時これを名づけて正念というのである。

 比丘たちよ、では、いかなるをか正定というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があって、もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地にいたる。これを初禅(しょぜん)を具足(ぐそく)して住するという。だが、やがて彼は、その対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向(ひとむき)となり、もはやなにものにも心をひかれることなく、ただ三昧(さんまい)より生じたる喜びと楽しみのみの境地にいたる。これを第二禅を具足して住するという。さらに彼は、その喜びをもまた離れるがゆえに、いまや彼は、内心平等にして執着なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいたる。これを、もろもろの聖者たちは、捨あり、念ありて、楽住(らくじゅう)するという。これを第三禅を具足して住するというのである。さらにまた彼は、楽をも苦をも断ずる。さきには、すでに喜びをも憂いをも滅したのであるから、いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ、捨あり、念ありて、清浄なる境地にいたる。これを第四禅を具足して住するという。もろもろの比丘たちよ、これを名づけて正定というのである」
(阿含経典 相応部 四五 八 「分別」)

真の仏教 | コメント:4 | トラックバック:0 |

八正道の本質


 前回は、「私は存在していない」という認識が、仏教がめざす「知恵」であることを述べ、そのために八正道が用意されているというところで、話が終わりました。
 では、なぜ八正道を実践すると、こうした知恵が生じるのでしょうか?
 いうまでもなく、八正道は知恵に至るための手段です。つまり、八正道を実践することで知恵が生じてくるのです。
 ところが、原始経典を注意深く読んでいくと、気になる文面がときおり見られるのです。
 それは、「八正道を実践するには知恵が必要だ」と言っているのです。
 これは、奇妙なことです。知恵が必要だから八正道を実践しようとしているのに、その八正道を実践するには知恵が必要だといっているわけです。
 こうなると、いわゆる「たまごが先かニワトリが先か?」という問題になってきます。「八正道がなければ知恵がない、知恵がなければ八正道がない」といっているのです。
 また、釈迦はこうも言っています。
 「欲望を滅するのは知恵であるが、知恵を得るには欲望を滅せなければならない」
 これも同じことです。八正道の中身を分析すると、知恵を得るための修行と、欲望を滅するための修行の二本立てになっていることがわかります。

 これが何を意味するかというと、八正道というのは「手段」であると同時に「目的」でもあるということです。
 私たちは何かを達成するには、そのための手段を一生懸命に実践することで達成できるのだと考えています。確かに、物質的な領域に関してはその通りです。医者になるには一生懸命勉強しなければなりません。お金持ちになるには一生懸命に働かなければなりません。
 しかし、悟り(覚醒、解脱)の世界は、この原則が当てはまらないのです。
 これが非常にわかりにくいところであり、おそらく仏教理解における最大の難所です。
 「悟りを開くには悟らなければならない」と言っているようなものだからです。
 悟れないから悟りを開こうと努力しているのに、「悟りを開くには悟らなければならない」などと、分けのわからないことを言っているわけです。
 釈迦が、「私の悟り得た法(真理)は、絶妙で奥が深く、万人の理解するところではない」と言ったのは、おそらく、こういうところではないかと思います。

 このことは、まず、こう解釈できると私は考えています。
 まず、ある意味では、最初の頃は、「悟ったマネ」をすることです。悟った人は欲望を野放しにしないでしょう。なので、欲望を少しでもなくそうとします。欲望を少しでも減らすと、知恵が少し生まれてきます。
 なぜなら、欲望は知恵の発生を妨げているです。「欲に目がくらんだ」という言葉がありますが、欲望があると正常な判断力や直観力が鈍り、欲望が「私」であると錯覚させているのです(無明)。つまり、知恵が発揮できないのです。
 そこで、その欲望という障害が少しでも取り除かれると、そのぶんだけ知恵が生まれてくるのです。言い換えれば、「私(エゴ)」の意識が希薄になってきます。そして、知恵が生まれてくれば、欲望もさらになくすことができるようになってきます。そして、欲望をさらになくすことができるようになると知恵もさらに生まれてきます。……というように、欲望の消滅と知恵の発生とは相互的に影響し合いながら、しだいに高度なものになっていくのです。
 八正道というのは、そのようなプロセスで構成されているのです。
 
 欲望なく知恵があれば、それは覚者です。
 八正道を真に実践できる人は、覚者だけです。
 ですから、すでに述べたように、八正道というのは、手段であると同時に目的なのであり、目的というのを別の言葉で表現すると「お手本」と言ってもいいかもしれません。つまり、八正道を実践することは、覚者をお手本にするということであり、要するに覚者の「マネをする」ということになるわけです。
 そして、そのマネを徹底的にどんどん行っていけば、いつの日かホンモノになっていくわけです。
 いくら医者のマネをしても、医者にはなれませんが、覚者の場合は、八正道にしたがって、覚者のマネをすれば、しだいに欲望(エゴ)の消滅と知恵の生成が生じて、しだいに覚者に近づいていき、ついにはホンモノの覚者になれるわけです。

 仏教において「知恵」というのは、さまざまな段階がありますが、おそらくその究極的な知恵は、「手段と目的は同じである」ということを理解できる知恵のことです。
 欲望がある限り、そのような知恵、すなわち、手段と目的が同じであることは、認識できません。欲望は、「目的を達成するために手段に訴える」からです。
 逆に、「手段と目的は同じである」という知恵を得れば、「目的を達成するために手段に訴える」という欲望は消滅します。知恵の獲得と欲望の消滅は、両輪のような関係なのです。

 覚者に成ることを、仏教では「成仏」と言います。死ぬことではありません。仏教とは「仏に成る教え」のことです。
 しかし、成ろうとする限り、成れないのです。なぜなら、仏は「成る」ものではないからです。自分は仏であることを認識することです。そして仏というのは、欲望が作り出す「私(エゴ)という幻想が消え、「私は存在していない」と認識した人のことを言うのです。
 
 ですから、仏に成ろうとしてはいけないのです。つまり、自分を否定して何か自分とは違う別の存在に成ろうとしてはいけないのです。仏に成ろうとするのではなく、「仏であろう、仏として生きよう」ということに意識を向ける必要があるのです。
 そのような修行法、これが八正道の本質です。「修行」というより「生き方」ととらえた方が正しいでしょう。だから手段であると同時に目的(お手本)ということになるのです。

 この生き方を続けていくと、しだいに「私」という意識(幻想)が希薄になってきます。すべての人のなかに「私」を感じるようになります。そしてついには、すべての人が「私そのもの」なんだと感じるようになります。「すべての人が私」というのは、言い換えれば「(特定の)私というのは存在しない」という認識です。これが仏教で言う「知恵」です。
 私が存在しなければ、欲望は存在せず、欲望が存在しなければ、苦しみが消滅します。
 電車で足を踏まれたら怒りがこみ上げてくるのは、自分が存在する(と錯覚している)からです。私というものは存在しないと認識している人は、足を踏まれても、まるで他人の足が踏まれたような感覚でしかないので、怒りは生じません。こだわりがないのです。
 一方で、すべての人が私だという観点で言えば、他の人が苦しんでいるのは、私が苦しんでいることになりますから、ほうっておけません。自分を助けるように人を助ける生き方をするでしょう。これが慈悲であり、いわば、真実の愛です。
 こだわりのなさと、真実の愛(慈悲)、これが、覚者の特徴です。

 以上のことは、とても重要です。
 なぜなら、修行者を自認するほとんどの人たちが、物質的な発想、つまり、「成る」という発想で修行しているからです。これは、医者や弁護士といった、世間的に尊敬されるような職業人に成ろうとするのと、本質的に同じであり、エゴの動機に基づくものです。覚者に成ろうとしてはダメなのです。「覚者になって人から認められよう、人を支配しよう、賞賛されよう」といったエゴの動機が、どうしてもそこに働いてしまうからです。
 その発想で修行をがんばればがんばるほど、悟りを開くどころか、あやしいカルト教団の教祖みたいに、支配欲と傲慢さに満ちた「俗物」に成り下がってしまうのです。悟りを開こうと修行をしている人は「俗物」なのです。俗物である限り、覚者とは言えません。

 悟ろうとするのではなく、悟った生き方(のマネ)をすること、すなわち、毎日の生活を、ただ清らかに美しく生きることー覚者がそうであるようにー、そのような生き方そのものに全身全霊を投入すること、これが真の修行であり、八正道の実践であり、真の仏教徒なのだと、私は考えています。
 言い方を変えれば、「修行」は「訓練(トレーニング)」ではないということです。訓練は何かになることを目的としていますが、修行は、ただ修行を行うこと自体が目的になっているのです。
 もちろん、悟っていないのだから、悟った生き方はできないでしょう。しかし、そのとき「ああ、私は悟った生き方ができていない。私はダメだなあ」と思ったとしたら、まだ「俗物」です。「悟りを開いた自分は偉い、そんな偉い存在になりたい」という傲慢さがあるのです。まだそこには「自分(私)」が存在しています。「私」へのこだわりがあります。
 そのような傲慢さ、つまり「私」へのこだわり、私という意識がなければ、悟った生き方ができようとできまいと、ただとにかくひたすら淡々と、悟った生き方をすることだけに意識を向けて日々を生きるはずです。

 たとえるなら、(真の)ピアニストが、美しい音楽を響かせることだけに意識が向いているのと同じです。そこに自意識はないはずです。つまり、「私は美しい音楽を響かせている」という意識はないでしょう。
 生き方というのは、音楽のようなものであり、私たちは音楽家と同じなのです。真の音楽家は美しい音楽を表現させることだけに意識が向けられており、「すばらしい音楽家として認められよう」とは、考えたりしていないでしょう。
 八正道という美しい「音楽」を表現して生きる者、これを仏教徒と言うのです。

真の仏教 | コメント:4 | トラックバック:0 |

仏教がめざす解脱とは


 前回は、苦しみの原因は欲望(執着)であるが、究極の原因は、執着している「我」が存在しているからであり、その我を消滅させることが、苦しみからの解脱であり、仏教がめざしているものであるとしました。つまり、「私は存在していない」という「知恵」を得ることで、「私は存在している」という「無明」を打ち破り、その結果、欲望が消滅し、欲望が消滅することで苦しみが消滅し、輪廻転生もしなくなることが、仏教の目的なのです。
 しかし、「私は存在していない」という知恵を認識する主体は、「私(我)」なはずですから、これは矛盾したことになります。私が存在していなければ、「私は存在していない」という知恵を認識することはできないからです。
 それに対して、仏教(釈迦)は、そのような認識する主体というものの存在は考えないことを貫いています。「否定」ではなく「考えない」のです。
 さて、では、この問題は、どのように決着をつけたらいいのでしょうか?

 釈迦は、机上の思想家ではなく、実践的な思想家でした。苦しみから救われることが最優先課題であり、仏教理論はそのために必要な最低限のものしか説きませんでした。単なる知的遊戯にすぎないようなもの、また、確かめようがないものに関しては、「そんなことを考えて貴重な時間を使っているヒマはない。それよりも、苦しみから救われるために精進せよ」というのが、釈迦の基本的な姿勢です(有名な「毒矢のたとえ」が、こうした釈迦の姿勢をよく示しています)。徹底した合理主義者、実践主義者、これが釈迦です。
 もしも、認識する主体について考えた方が、解脱に役立つのなら、釈迦はそれに関して多くの説教をしていたでしょう。しかし、そんなことをしても解脱に役立たないから、そうしなかったのです。
 なぜなら、認識する主体というのは、決して認識できないからです。
 以前にも似たようなことを書きましたが、認識する主体は、眼にたとえることができます。眼は何でも見る(認識する)ことはできますが、自分自身だけは見ることができません。眼は眼を見ることはできません。つまり、認識する主体というものは、自分以外のものは認識できるが、自分自身は認識できないのです。原理的に不可能なのです。
 ですから、そのような主体について「それはどんなものだろうか?」と考えることは、決してわかるわけはないし、考えるだけ時間の無駄なのです。

 ですから、何か実体があるかのように、その主体について考えるのではなく、その「働き」について論じていけ、というのが釈迦の考え方です。彼は次のように言っています。
 「いかなる苦しみが生ずるのであろうとも、すべて認識作用によって起こるのである。認識作用が消滅するならば、苦しみが生ずるということはありえない」(『スッタニパータ』734)
 「認識する主体が消滅するならば」とは言っていません。「認識作用が消滅するならば」と言っているわけです。
 
 ところが、少し余談になりますが、釈迦がこのように空論を弄ぶことを嫌い、あくまでも実践を重視していたのに、「なるほど、認識作用が苦の消滅につながるのか」ということで、今度は認識作用について、後の学者らが、あれこれ複雑な理論を作り上げてしまいました。それが「唯識」と呼ばれるものです。
 「唯識」は、原始仏教に、(おそらく)ヨーガの哲学などをおりまぜて作り上げた、複雑怪奇な「深層心理学」です。知的遊戯としては面白いです。しかし、仏教というものを難解なものにしてしまった罪もあります。このようなものを学ばなければ解脱ができないということはないし、むしろ、深入りして学ばない方がいいと思います。ますます実践へのエネルギーがそがれ、観念的な人間になってしまう怖れがあるからです。

 さて、話をもとに戻しますが、私たちは「認識作用が消滅する」ということだけを考えればよく、「認識作用の主体が消滅する」と考える必要はなく、というより、そのような実体的なものを考えてしまうと、ある種の妄想というか、幻想のようなものを想定し、見てしまう危険があるので、考えるべきではないのです。
 これを、さきほどの眼のたとえを使って説明すれば、眼は自分を見ることはできませんが、鏡を使えば自分自身を見ることができます。しかし、鏡に映った自分は本当の自分ではなく、いわば虚像です。しかし眼は、その虚像を本当の自分だと錯覚してしまうわけです。
 このような錯覚に陥るので、主体の存在など、考えない方がよいのです。
 似たような言葉で、禅の世界では、「仏を見たら仏を殺せ」と言っています。物騒な表現ですが、その「仏」は本当の仏ではないからです。真の仏は見えないものなのです。

 では、「認識作用が消滅する」とは、いったい、どのような状態なのでしょうか?
 認識作用とは、要するに、通常、私たちが「意識」と呼ぶものです。正確にいえば「意識を意識する働き」です。
 ですから、「認識作用が消滅する」という意味は、「意識を意識しなくなる」ということです。意識そのものは存在しているわけです(もし意識そのものが消滅したら、個としての存在が消滅したことになってしまいます)。
 私たちの内面に注意を向けると、さまざまな雑念、思い、イメージ、妄念、欲望といったものが次から次へと湧きあがってきています。私たちはそうしたものを「自分(我)」と錯覚しています。
 しかし、そうしたものを意識しないようになれば、実質上、「自分」は存在しないのと同じことになります。
 さきほどの眼のたとえでいえば、鏡に映った虚像を見ている眼が、まぶたを閉じたようなものでしょうか。そうすれば、自分の姿は見えなくなります。
 すると、「私はいなくなった」と認識するでしょう。
 一方、眼は自分を見ることはできず、見えないということは、主観的には、存在していないのと同じことですから、「私はいなくなった」と認識している「私」も、存在していないことになります。
 しかし、客観的には、主体は存在するわけですから、「私はいなくなった」という認識作用はあるのです。正確にいえば、「(もともと)私はいなかった」ですが。
 一方、ここで奇妙な現象が同時に生じます。
 「私はいない」という認識をしている主体は存在するわけで、それは「私」であるのですが、そのときの「私」は、特定の個人としての「私」ではなく、ある種の普遍的な「私」なのです。そのため、悟った人は「私はいない」と認識すると同時に、「すべてが私である」という認識をするのです。その「私」こそが仏性ではないかと思うわけです。
 釈迦は悟りを開いたとき「天上天下唯我独尊」と言ったそうですが、これは釈迦個人が「私だけがただ一人偉いんだぞ」と言ったのではなく、すべての人に宿っている「仏(という私)」が偉いんだぞと言ったのではないかと、私は推測しています。つまり、仏性を持っている私たちすべての人が(本質的には)偉いのだということではないかと思うわけです。
 そして、「すべてが私である」という認識に至ったならば、何が生じるかというと、「生きとし生けるものに対する慈悲」ということになります。

 ところで、「私はいなかった」という認識作用が、仏教で言う「知恵」なのですが、ならば、いったいどうしたら、その知恵が生じるのでしょうか?
 具体的な修行は八正道ということになるのですが、八正道を行ずると、なぜ「私はいなかったのだ」という認識作用(知恵)が生じるのでしょうか?
 次回は、この点について、さらに深く考察してみたいと思います。

真の仏教 | コメント:5 | トラックバック:0 |
| ホーム |次のページ>>