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心の治癒と魂の覚醒

        

 「断情報」のすすめ

 まずはご報告とお知らせから。 
 今月2月20日/21日のイデア ライフ アカデミー哲学教室は「カバラ思想の本質」というテーマで行いました。魔術や占いの一種であるかのように誤解されがちなユダヤの神秘主義カバラとは、どのような教えなのか? ぜひダイジェスト版をご覧ください。
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 来月は瞑想教室(3月20日/21日)で、「高次からの恩寵」というテーマで行います。霊的修行は、やはり自力だけでは限界があります。高次の霊的存在からの援助がどうしても必要になります。そのような援助を受けるにはどうすればいいのかについて、ご紹介していく予定です。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで

 では、本題に入ります。
 釈迦は弟子にこう説教しています。
 「修行僧は時ならぬのに歩き廻るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。時ならぬのに出て歩くならば、執著に縛られるからである。……そうして修行僧は、定められたときに施しの食物を得たならば、ひとりで退いて、ひそかに坐れよ。自己を制して、内に顧みて思い、こころを外に放ってはならぬ」(『スッタニパータ』第二章386~)
 つまり、托鉢は仕方がないが、それ以外は人がいる所にいくな、ということです。なぜなら、人がいるところは、五感を通して地上的な欲望を刺激するような情報が入り込んでくるからです。こんな感じで意識が外にばかり向けられていたら、霊的修行などできません。ですから釈迦は、「自己を制して、内に顧みて思い、こころを外に放ってはならない」と言ったのです。五感を通して物質的なものが意識に入り込んでくるのを極力阻止し、常に精神内部に意識を向けていることが大切になってくるわけです。
 私たちは、常に誰かとつながっていないと心穏やかでいられません。常に外部から何らかの情報(刺激)を取り入れていないと落ち着かないのです。まるで、酒を飲んでいないと不穏になるアルコール依存症のようなものです。いわば「情報依存症」に陥っているのです。常にスマホでラインやメールやSNSなどで人とやりとりし、あるいはyoutubeを見たり、音楽を聴いたり、ゲームをしたりしています。
 こんな感じで、いつも外部の刺激にさらされているような状態なので、自己の内面を見つめる時間といったものは、ほとんど失われています。こんな状況では、霊的に成長することは決してできないでしょう。ですから、可能な限り、余計な情報は遮断することが大切です。
 外部から入ってくる情報のうち、どれだけ本当に必要なものか、本当に大切なものか、よく吟味するべきです。仕事や生活をする上で本当に必要な情報は取り入れるべきですが、大部分は、単なる好奇心だとか、退屈しのぎといったようなもので、まったく必要のない、それどころか有害でさえある情報を取り込んでいるのではないでしょうか。
 必要ではない情報は極力遮断しましょう。そして、意識を内面に向ける時間をなるべく多く持つようにしましょう。
 しかし、すでに述べたように、私たちは「情報依存症」になっていますので、これはけっこう苦しいです。ある種の苦行と言えるかもしれません。苦行というと、「断食」などが浮かんできますが、断食ならぬ「断情報」は、断食と同じか、断食以上に苦しいかもしれません。
 しかし、自分が本当に変わるときというのは、苦しみが伴うものです。人間は、多くの場合、苦しみを通して変わるのです。霊的修行というのは、自分を変えていく作業のことですから、苦しみは覚悟しなければなりません。
 この地上世界は、戦場のようなものです。自己との戦い、誘惑や苦難との戦い、その連続です。苦しみの連続なのです。それがこの地上人生というものです。戦場にいる兵士たちは、自宅にいるときのように、平穏にくつろぎ、楽しみ、憩いを覚えることなどあるでしょうか。敵は、いつどこから攻めてくるかわかりません。常に警戒していなければならないのです。地上という戦場にいる私たちも、それとまったく同じです。この地上に、真の憩いの時間などといったものは存在しません。ただ、存在しているかのように錯覚しているだけです。
 
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教え(知識)を血肉とするために大切なこと

 まずはお知らせから。
今月のイデア ライフ アカデミー(20日/21日)は、「カバラ思想の本質」というテーマで行います。魔術や占いの一種であるかのように誤解されがちなユダヤの神秘主義カバラとは、どのような教えなのか。その本質に迫っていきたいと思います。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで
 
 では、本題に入ります。
 世界で一番売れている本は聖書だそうです。ご存知のように、聖書には、愛することや謙虚さ、節度や寛容さといった、徳を養い、人格や霊性を高める教えがぎっしりと書かれています。仏典も同じです。聖書ほどではないにしても、仏典を読んでいる人も多いでしょう。
 しかし、ここで素朴な疑問が湧いてくるのです。
 これほどすばらしい本が、これほど多く読まれてきているのに、人類の精神性はそれほど進歩していない、ということです。聖書や仏典を読んでいるのに、その一方で、下劣で恥知らずなことを平気でやる人も少なくありません。
 つまり、善い知識を頭に入れただけでは、それがそのまま人格や霊性の向上につながるとは限らない、ということです。何かが欠けているのです。もちろん、人格を向上させるために、善い知識は必要でしょう。しかし、それだけではダメなのです。知識を、人格向上という実践レベルにまで変換するものが必要なのです。
 では、いったいそれは何なのでしょうか?

 釈迦の時代、多くの弟子が釈迦の教えのもとで修行しました。当時のインドの習慣として、師の教えを書き留めるということはなかったようです。すべて暗記に頼っていました。もちろん、個人の暗記力には限界がありますから、弟子たちは、釈迦の説法が終わると集まって、各人の記憶を出し合って、どんな説法が行われたかを復元し、そうしてまとめたら、最後にみんなで何回もそれを暗誦して記憶に定着させたのです。ですから、当時の弟子たちは、おそらく現代の私たちよりもはるかに記憶力がよかったのではないかと思います。
 現代の私たちは、本に頼っています。ところが、一度読んだだけでは、その内容の何分の一、あるいは何十分の一くらいしか記憶していないものです。それなのに「必要な時はいつでも読めるからいい」という、安易な状況にあるために、結局、次から次へとたくさん本は読むが、ほとんど記憶に残っていない、ということになります。記憶として定着されていなければ、どんなに善い本を読んでも、それを人格レベルにまで落とし込むことは無理でしょう。

 それに対して、釈迦の弟子たちは、記録して本としていつでも読めるような状況になかったので、それこそ非常な真剣さで、釈迦の語る言葉をすべて吸収しようと、必死に聴いていたに違いありません。その真剣さに、まず大きな違いがあるのではないかと思います。
 しかも、弟子たちは常に釈迦の教えを聴けるわけではありませんでした。釈迦から直接、説法を聴けるのは、月に一度か二度、多くても数回程度で、後は修行仲間と研究したり、独りで思索や瞑想する時間の方がずっと多かったのです。釈迦は本当に大切なことを少し話す程度で、弟子たちひとりひとりに手取り足取り手厚い指導をしていたわけではありませんでした。
 にもかかわらず、経典によれば、多くの弟子がそれで煩悩を清め、人格を向上させて解脱を果たすことができたというのです。
 知識という点では、難解で膨大な仏教理論が頭に入っている仏教学者には、足元にも及ばなかったと思います。しかし、仏教学者で解脱を果たしたという話は聞いたことがありません。
 いわゆる原始仏教、つまり、釈迦が弟子に説いた教えは、奥は深いが、量としてはそれほど多くなかったのです。言い換えれば、情報量は圧倒的に少なかったわけです。ところが、むしろ情報量の少なさゆえに、釈迦が説いたわずかな教えを宝物として大切に守り、あたため、それを実践して解脱したわけです。
 そう考えると、私たちは、あまりにも情報に恵まれすぎていて、知識を詰め込みすぎ、かえってそれが妨げになっているのかもしれません。たとえるなら、たくさん食べ過ぎた結果として下痢をし、かえって栄養不足になるようなものです。
 それよりも、エッセンスとなる教えを、少なくてもいいのでしっかりと頭に入れ、あたため、自分でも繰り返し繰り返し何回も深く考え、そうして自分の血肉とする方が、ずっと有効ではないかと思われるのです。

 それと、教えを誰から聴くか、ということも重要な要素になると思います。
 卑俗なたとえで恐縮ですが、好きでもない人から高価な贈り物をもらうより、安物でも好きな人からもらった方がずっと嬉しいように、釈迦という比類なき指導者から教えを受けるという、そのありがたさと、釈迦に対する深い尊敬の念とを伴ったとき、その教えが非常に活きてくると思うわけです。
 このように、すばらしい師匠に恵まれた人は幸せです。深い尊敬の念をもって学ぶでしょうから、自然と真剣となり、教えを大切なものとして受け入れるでしょう。そうしたとき、いかに少ない教えしか説いてもらえなかったとしても、立派に進歩していくことができるのです。
 その意味では、人を指導する立場にある人は、尊敬に値する人間性をもつことが非常に重要になってくるともいえますが、一方で、釈迦ほどの人でさえ、小馬鹿にする人がいたようですから、教えを受ける方も、教えを授けてくれる人を尊敬する気持ちをもつようにすることが大切になってくると思います。
 私の経験から言っても、霊的な分野に限らず、どのような分野であれ、礼儀正しい人は伸びます。基本的な礼儀がなっていない人は伸びません。また、自分が尊敬する人は礼儀正しいが、そうでない人には非礼なことをするような、二面性があるような人も伸びません。誰に対しても礼儀正しく、謙虚に学ぶ姿勢がある人は、どのような分野であれ、よく伸びます。

 とはいえ、ほとんどの人はそんな師匠には恵まれていないと思いますので、結局は本を通して教えを学ぶしかありません。
 しかしそのとき、「本を読んでいる」という意識を捨てて、その本の著者が目の前にいて、直接教えを説いてくださっているのだ、という気持ちになることが大切です。
 たとえば、私は毎日少しずつ『ブッダの言葉(スッタニパータ)』と、前回ご紹介した『キリストにならいて』の本を読むのを日課にしています。そのとき、「本」を読んでいるという意識は捨てて、実際に目の前に釈迦がいて、その教えを聴いているのだ、という気持ちで文字を追うようにしています。また、目の前にイエスがいて、私のために教えを説いてくださっているのだ、という思いで目を通しています。ゆっくりと、ひとつひとつの言葉をかみしめるようにしながら。そういう気持ちで読むと、やはり真剣さが違ってきます。自然と内容が頭の中に記憶されてきます。
 そうして私は、この2冊の本を、完全に暗記するまで、エンドレスで何回も繰り返して読み続けていこうと思っているのです。
 皆さんも、善い本を読むときは、このような感じで読んでみてください。そうすればきっと、善い教えが自らの血肉となって、人格と霊性の向上につながっていくと思います。
 
修行の基本的な姿勢 | コメント:0 | トラックバック:0 |

推薦図書  『キリストにならいて』

 推薦図書
 『キリストにならいて』 トマス・ア・ケンピス著  池谷敏雄訳  新教出版

 今から五百年以上も前に書かれた本で、聖書の次に売れていると言われています。クリスチャンの方ならお馴染みでしょう。しかし、クリスチャンなくても、魂の救いや人格の向上をめざす人にとっては、貴重な示唆を与えてくれる不朽の名著です(ちなみに私はクリスチャンでも他のいかなる宗教の信者でもありません)。
 本書に書かれている内容は、必ずしも耳に心地よい、なまぬるいものではありません。徹底的な現世否定と自己否定が説かれており、神やキリストといった言葉を除けば、仏教(原始仏教)の経典を読んでいるのではないかと錯覚してしまうほどです。まさに釈迦が説いた「諸行無常」、「諸法無我」の考え方が、これでもかというほどちりばめられているのです。しかし、これが、宗教の違いを問わず、この世の真理なのではないでしょうか。現世の欲望に惑わされている私たち現代人にとっては、横っ面をひっぱたかれるような衝撃を覚えるかもしれません。もちろん、その根底には、苦悩する人間に対する温かい慈愛と救い、慰めがあり、単なるお綺麗ごとではなく、本音をもって誠実に書かれている文章には胸を打たれます。

 筆者のトマス・ア・ケンピス(1379/80ー1471)は、ドイツで活躍した修道士です。その彼が、後輩の修道士に向けて、徳の完成に至る道、救いの道、真のキリスト教徒としての道についてのアドバイスのために書かれたのが本書です。
 修道士とは、仏教でいえば出家修行者のことです。出家、つまり世の中を捨てて魂の救いのために、人生のすべてを修行に専念する人のことであり、本書は基本的にそうした修道士に向けて書かれたものなので、その内容もそれなりに厳しい内容となっています。
 たとえば、こんな感じです。

 「(キリストは次のように言われたのです)わが子よ、私の恵みは貴くて、外部のもの、またはこの世の慰めと混じるのはゆるされないのである。それゆえ、もし恵みがそそがれることを望むならば、すべてそれを妨げるものを投げ捨てなさい。自分のためにひそかな所を選び、自分独りでいることを愛し、人との話を求めず、むしろ神に敬虔な祈りをそそぎなさい。これはあなたの心の罪を悔いさせ、良心を清く保つためである。世をすべて無に等しいものと見なし、神に仕えることをすべての外物よりもまさるものとしなさい。私に仕えると同時に過ぎ行くものを楽しむことはできないのである。知己や親友から遠ざかり、この世のあらゆる慰めを心から遠ざけなさい」(第3篇53章1)

本書の要点を絞り込むと、およそ次の7つに集約できるかと思われます。
1.徹底的な地上的欲望の否定(仏教的に言えば「煩悩」の除去)
2.世俗的な人々と交わることの否定
3.自己の否定(謙遜と従順の美徳の養成)
4.すべてを神の意志にゆだねること
5.誘惑や苦難と忍耐強く闘うこと
6.神を無条件に愛すること
7.イエス・キリストの生き方をまねること

 すでに述べたように、最後の6と7を除けば、釈迦とまったく同じことを説いているのがわかります。たとえば、2の「世俗的な人々と交わることの否定」について、本書では「全世界と悪のあらゆる喧騒を閉め出し、屋根にひとりいるすずめのようにすわりなさい」(第4編12章1)とありますが、釈迦は「実に欲望は色とりどりで甘美であり、禍であり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め」(『スッタニパータ』第1章3)と言っています。比喩が違うだけで、まったく同じことを言っているのです。

 神の存在を認めず、イエスのような救済主の考え方がない仏教徒にとっては、この点についての抵抗があるかもしれません。しかし、これは「自己を捨てる」ための、ひとつの手段と見るべきであると私は考えています。つまり、自力だけで自己を捨てるというのは、ほとんど不可能だからです。その点で、自己愛を神やキリストへの愛に転化させ、結果的として自己愛を捨てる(自己を滅却する)ことをめざしているキリスト教の教えは、それはそれで大変に参考になるのではないかと思っています。ですから、仏教徒であっても、読んで損はない本であると思います。

 なお、本書の翻訳は他にもいくつかあるようです。たとえば岩波文庫からも出ていますが、訳文が堅くて活字が小さいので、読みやすいとはいえません。ただ、ある種の格調高さはあり、価格も安いです。あくまでも好みの問題ですが、私としては冒頭にあげた本をお勧めいたします。

推薦図書(覚醒編) | コメント:8 | トラックバック:0 |

時間の大掃除


 まずはご報告とお知らせから。 
 今月12月19日/20日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「病気の心理的原因」というテーマで行いました。特定の精神のありかたが特定の病気を引きおこすという説がいろいろと言われていますが、そのような説が書かれている5冊の本を紹介し、その内容を比較・検討しています。それによって、改めるべき精神的欠点を知るヒントにしていただければと思っています。また、病気を癒したい人、癒しを仕事にしているセラピストの参考にもなるかもしれません。ぜひダイジェスト版をご覧ください。
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 来年の授業ですが、1月は休講となります。2月は「カバラ思想の本質」というテーマで行います。魔術や占いの一種であるかのように誤解されがちなユダヤの神秘主義カバラとは、どのような教えなのか。その本質に迫っていきたいと思います。
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 それでは本題にうつります。
 早いもので、今年ももうすぐ終わりです。年齢を重ねるごとに、一年間がだんだん短くなりました。20歳までは、一年間はけっこう長く感じましたが、それ以後、加速度的に時間が短くなっていき、今では、一年間は3、4ヶ月くらいの感覚になってしまいました。
 しかし問題は、時間が短く感じられるようになったことよりも、その間に、どれだけのことができたか、ということです。私は主催するイデア ライフ アカデミーの授業をしながら、今年は本を一冊書き上げる予定でいました。しかし、授業の準備だけで精一杯で、結局、本など、手をつける暇さえありませんでした。
 このままいけば、人生で多くのやり残したことを抱えながら、後悔しながら死んでいくことは、もう明らかです。すでに還暦を迎えた私くらいの年齢になると、学生時代から知っていた友人が何人か、すでにこの地上を去ったという話を聞いたりします。私もいつその日が来るかわかりません。
 そういうわけで、いま私が一番大切に思うことは、「時間」です。お金も大切ですが、寿命はお金では買えません。今までも時間を無駄にしないように気をつけてきたつもりですが、これからはますますそうしようと思うようになりました。
 そこで、考えたのが、「時間の大掃除」です。世の中は、年末になると大掃除をします。ちなみに私は、大掃除は春のゴールデンウィークのときにしています。出かけてもどこも混んでいるし、気候は暖かいし、それなら家にいて掃除をする方が適しているからです。
 それはともかく、年末は、「時間の掃除」をしようと思いました。具体的に何かというと、「無駄な時間を削減する」ことです。
 そこで、まず始めたのが、読まなくなったメールマガジンの解除です。今までは、毎日、たくさんのメルマガが届いていました。解約するのが面倒なのでほうっておきましたが、いちいちチェックして削除する時間というのも、馬鹿になりません。そこで今、メルマガの解除の作業をしています。
 それと年賀状も、今年から、基本的には返事だけにしようと思っています。しかも、その返事にも「来年からは年賀状は出さないことに決めましたので、おゆるしください」と書こうと思っています。そうして段階的に、年賀状はいっさい出さないようにしようと思っています。
 確かに、めったに会わない人から年賀状が来て読んだりするのは楽しいですし、人間関係を良好に維持するには、それなりの効果もあるかもしれませんが、しかしこれまでの経験から言うと、年賀状を出しても、人間関係が良好に維持できるかどうか、その効果はおおいに疑問に感じています。それに対して、年賀状を作成する作業、投函する作業、つまり、そのために要する時間、さらには、そのための費用などを考えると、それに見合うだけのメリットがあるかどうか、おおいに疑問を感じているのです。
 また、意味のない飲み会みたいなこともしません。これは今に限ったことではなく、かなり前から、飲み会だとかパーティといったことには、よほど何らかのメリットがあれば別ですが、参加しないようにしています。時間が無駄だし、それほど楽しくもないからです。とりわけ今はコロナ感染のリスクもありますから、その点では、一石二鳥だと思っています。
 また、楽しいかもしれないが、何の益にもならないテレビ番組だとかDVDといったものも、なるべく見ないようにしたり、インターネットのニュースといったことも、自分とはあまり関係のないようなニュースについては、読まないように決めました。
 他にも、時間の無駄はないかどうか、いろいろ探して、もしあれば、片っ端からつぶしていこうと思っています。

 ただ、こう書くと、「何でもメリットがあるかどうかで決めるのは味気ないのではないか」と感じる人もいるかもしれません。もちろん、何か人の助けになるようなことであれば、時間を惜しんだりするつもりはありませんが、ほとんど意味のない無駄な時間については、たとえそれが楽しいことであっても、時間が残り少なくなった今は、どうしても優先順位を決めなければならないのです。
 そうして、限られた時間を有効に使って、最期は「やるべきことはすべてやった」という満たされた思いを抱いて死んでいきたいからです。
 

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神仏を愛するとは

 まずはご報告とお知らせから。 
 今月11月21日/22日のイデア ライフ アカデミー哲学教室は「西田幾多郎と山崎弁栄」というテーマで行いました。日本を代表する哲学者と、あまり知られていないけれども非常に偉大な聖者のお二人を紹介できたことは、私にとっても大きな喜びとなりました。近代日本にこんなすばらしい人がいたということを、ぜひ動画で知っていただければ幸いです。
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 来月は、今年最後の授業となる瞑想教室を行います。瞑想は、一部の変わり者が行う趣味のようなものではありません。本来、すべての人が行うべきものなのです。
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 それともうひとつ、カバラ数秘術講座を、ミストラル・アレックス様主催で始めます。
 カバラ数秘術は、文字通り「カバラの数秘術」です。つまり、カバラの思想を土台にした数秘術です。カバラの思想とは、地上から解脱して高い次元に移行することです。ですから、単なる占いではなく、あくまでもカバラの思想、その目的のための数秘術の活用法をご紹介する予定です。
 詳細&お申し込みは「ストアカ」まで↓
 ストアカ「プレミアムカバラ数秘術講座」

 それでは本題にうつります。
 今回のイデア ライフ アカデミーの授業で紹介した西田幾多郎は、「愛することは知ることであり、知ることは愛することだ」と言いました。というのは、愛とは自分という意識なく相手と一体になることであり、相手と一体になれば、相手を自分のことのように知ることができるからです。
 一方、山崎弁栄は「ひたすら如来(仏)を愛せ」と言いました。愛することで仏と一体になり救われるのだと。キリスト教でも「神を愛せ」と説いていますが、本質的に同じことだと思います。
 悟りだとか救いといったものは、自力だけでは限界があるのです。もちろん、自力も必要です。しかし自力だけで悟ること、救われることは不可能です。どうしても、神だとか仏、あるいは守護霊といった、名称はどうであれ、高い霊的次元の存在から引き上げてもらう必要があるのです。
 とはいえ、弁栄はこうも言っています。
 「愛せと言われても、姿も見えないし声も聞こえない仏様をどうして愛せるのか、そんなことができるのは頭の狂った人ではないのか、と言われるかもしれませんね」
 確かにその通りだと思います。五感に触れることもなく、そもそも存在しているのかしていないのかさえ明確ではない神や仏を愛せと言われても、難しいのではないでしょうか。それなのに「私は熱烈に神を愛しています!」などと言う人がいたら、少し気味悪くさえ感じてしまいます。ただ弁栄は、「それができたのが、宗教の開祖や宗教的天才である」と述べています。

 とはいえ、私たちは、宗教の開祖ではないし、宗教的天才でもないでしょう。
 しかし、西田幾多郎にせよ山崎弁栄にせよ、また古今東西、多くの聖者は異口同音に「神(仏)を愛せ」と説いているのです。それが、神や仏から引き上げてもらうためには、どうしても必要不可欠の要素らしいのです。
 ならば、いったいどうしたらいいのでしょうか?
 「愛しなさい」と言われて「はい、わかりました」などと、簡単に愛せるものではありません。無理にそんなことをしても自分に嘘をつくだけです。
 こう考えると、悟りや覚醒に至るのは本当に難しいなあと、思わずため息が出てしまいます。
 ただ、この愛の問題さえクリアできれば、あとはかなり順調にいくようなのです。
 ですから、この問題は真剣に考えてみなければなりません。神(仏)を本当に愛することができるかどうか、ここが重要なポイントになってくるのです。
 では、どうしたらいいのでしょうか?

 逆に考えてみたいと思います。すなわち、私たちは五感に触れたものなら愛することができます。たとえば、男性の場合、きれいな女性を愛するでしょう。さらにその女性の性格が優しくて親切で、とにかく自分の好みに合った性格だったとします。すると男性は、その女性を愛するようになるでしょう。
 しかし、それは本当の意味で女性を愛していることになるでしょうか?
 単に、自分を喜ばせるルックスや性格をしている、というだけであって、要するに愛しているのは女性ではなくて自分であり、その女性は、自分を喜ばせるための手段(道具)にすぎない、ということではないでしょうか。

 では、今度は、人格高潔で徳が高く、尊敬に値する非常に立派な人物がいたとします。しかしその人は、あなたに何の喜びも与えてはくれません。それどころか、会ったこともないとします。
 あなたは、その人を愛するでしょうか?
 自分に喜びを与えてくれるわけではないから、愛することはないでしょうか?
 おそらく、ここで、人間の霊的資質というものが分かれてしまうのだと思います。
 確かに、その人は、物質的な喜びはもたらしてはくれないでしょうが、精神的な喜びをもたらしてくれます。すなわち、立派な人格者である、というだけで、喜び(感動)を感じる人は感じるのです。もちろん、感じない人もいます。立派な人を見ても、喜びを感じない人もいます。それはもう、資質の問題としか説明のしようがありません。

 釈迦もイエスも、立派な教えを説き、尊敬に値する人格者でした。そして、自分を犠牲にして人々の救済に全力を尽くしました。
 もちろん、現代においては、釈迦やイエスと会った人はいません。それは記録として知りえるのみです。にもかかわらず、そのようなすばらしい人物がいたことは事実であり、それだけで、釈迦やイエスを愛することができる人もいるわけです。それは彼らの高潔な人格に感動したからです。
 そして、釈迦やイエスを心から愛するならば、彼らの説いた教えも心から愛するでしょう。イエスは「神を愛しなさい」と言いました。「愛するイエスがそういうのなら」ということで、素直に神を認め、愛するようになれるはずです。最初はそれほど深い愛ではないかもしれませんが、しだいに深く、真実の愛になっていくのです。

 では、具体的に神を愛するとは、どういうことでしょうか。
 ただ単に「神様、大好き!」という気持ちだけでは、本当の愛とは言えないでしょう。
 本当に愛しているなら、神を歓ばせたいと思うはずです。
 では、神はどのようなことを歓ばれるでしょうか?
 神は、私たちが、この苦しみである地上世界から解脱して、自分のもとに帰ってきて同化されることを、もっとも歓ばれるのです。なぜなら、神ほど幸せな存在はなく、そんな神に同化されることが、私たちにとっては至高の幸福だからです。西田幾多郎は、そのように同化させようとする働きを「統一力」と呼び、統一力とはすなわち神であると言いました。
 神と同化するには、神と同じ属性、すなわち、高い徳を養う必要があります。すなわち、人格を向上させ、徳を完成させる生き方をすること、これが、神がもっとも歓ばれることなのです。
 ですから、神を本当に愛する人は、自分自身を立派にすることを、人生の最優先課題にするでしょう。
 神も、そんな人を嬉しく思い、いろいろと手を差し伸べてくれるでしょう。

 ただし、だからといって、この世的な喜びを与えるとは限りません。むしろ、この世的には辛い試練を与えることの方が多いでしょう。
 なぜなら、もしこの世的な喜びを与えたら、この世に対する執着が強くなり、この世に縛られてしまって、高い次元の神と同化できなくなってしまうからです。
 ですから、この世的なものに魅力を感じなくさせるために、あえて辛いことを与え、この世的なものに対する執着を断ち切るようにさせるわけです。
 それが、神の愛です。
 ですから、一見すると、神の愛は厳しく感じられることもあるわけですが、遠い視野をもって見るならば、この世の幸せとは比較にならないくらい大きな幸せを与えるための導きなのですから、やはりそれは慈愛ということになるのです。
 こうした理由をよく知って神を本当に愛するならば、何が起こっても「これでいいのだ、これが最善のことなのだ、神様、ありがとうございます」と、感謝して受け入れられる心境になっていくはずです。その心境になればなるほど、私たちは神から引き上げてもらえるようになるのです。
 愛する人は、愛する人のために生きるでしょう。同じように、神を愛する人は、神のために生きるでしょう。神と自己とは本来一体ですから、神のために生きるとは、自己のために生きることになるわけです。逆に言えば、自分のためにのみ生きている人は、本当の意味で自分のために生きていないことになるわけです。

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