心の治癒と魂の覚醒

        

どのような人が真の仏教を理解できるのか


 真の仏教を理解することは、容易ではありません。その教説を頭で理解することは、それほど難しくはないのですが、それでは仏教を真に理解したことにはならないからです。
 釈迦が悟りを開いたとき、自らの教えを世の人に広めるかどうか迷ったとされています。そのときの釈迦の境地について書かれた経文のエッセンスを紹介してみます。(阿含経 南伝 律蔵 大品 1,6、1-9)
 「私が証(さと)りえたこの法(真理)は、はなはだ深くして、見がたく、悟りがたい。寂静・微妙にして思惟の領域を超え、すぐれたる智者のみのよく覚知しうるところである。しかるに、この世間の人々は、ただ欲望を楽しみ、欲望を喜び、欲望に躍るばかりである。そのような人には、この理法はとうてい見がたい。……もし私がこの法を説いても、人々が理解しなかったならば、私はただ疲労困憊するばかりであろう」
 すると、それを知った神霊的存在が、「これでは世間は滅びてしまう。世の中には法を理解する目をもった人も、少ないがいる。彼らも法を聞かなければ堕ちてしまうだろう。だから、法を説いてください」と頼み、釈迦も了解して法を説いたというのです。

 釈迦の言う「思惟の領域を超え、すぐれたる智者のみのよく覚知しうる」というのは、単に頭だけの理屈で考えただけではわからず、それを超えた智恵がなければ理解できないということです。もし理屈で理解できるなら、仏教学者はみんな解脱しているはずですが、そうは思えません。単なる頭ではなく、もっと深い意識レベルでの理解を言っているわけです。
 そして、「欲望を楽しみ、欲望を喜び、欲望に躍るばかりの人々には、この理法はとうてい理解できない」と言っています。
 しかし、私たちはまさに欲望を楽しみ、喜び、躍りながら生きているのではないでしょうか。ですから、仏教を理解することは非常に難しいのです。世の中の99パーセント、いえ、それ以上の人は、仏教を何も理解していないでしょう。理解していないのに「自分は仏教徒だ」と名乗っている人ばかりなのです。

 前に申し上げましたように、仏教の教えは「四諦」です。そのうちの最初の「苦諦」を、腹の底から理解できないと、仏教は理解できません。興味さえ湧かないでしょうし、仏道を歩みたいとも思わないでしょう。
 苦諦というのは、「この世の中(人生)は苦しみである」という真理です。
 ここでまず、多くの人は疑問に思います。「確かに人生には苦しいこともあるけれど、楽しいこともあるし、みんなそうやって何とか人生を送っているではないか。人生を苦しいと決めつけるのは極端だし、ずいぶん悲観的ではないのか」と。
 確かに、ほとんどの人は、喜怒哀楽を経験しながら、仏道の修行などしなくても、なんだかんだ言いながら一生を終えていきます。それでいいのではないかという考えも湧いてきます。
 しかし釈迦は、そうした苦諦の真理が理解できない人を「愚か者」と呼んでおり、いかに人生というものが苦しいものであるか、繰り返し繰り返し説いています。
 私個人としては、人の生き方はそれぞれなのですから、他人がとやかくいう筋合いではないと思っているのですが、釈迦は容赦がありません。苦諦という「真理」を見よと、何回も説いているのです。

 ここで問われるのは、苦しみは主観的な感覚であり、人によって強く感じたり弱く感じたりするということです。家族など身内が亡くなっても、それほど悲しまない人もいます。かと思うと、猫やウサギといったペットが死んだだけで、食事も喉を通らないほど苦しむ人もいます。
 苦しみをあまり感じない人にとっては、この世は苦しみではないでしょう。
 ただし、「今のところ」という条件がつきます。
 というのは、仏教で説かれる輪廻転生が本当であるとすると、何回も何回も生まれ変わり、さまざまな経験をいやというほど積んでいくわけです。すると、いい加減に人生というものにうんざりするであろうからです。つまり、地上のあらゆる快楽をとことん味わい尽くし、あらゆる苦しみをとことん味わい尽くすと、苦しみはもちろんですが、快楽さえも、「もう勘弁してくれ」となるのです。おいしい料理を次から次へと食べさせられたら、しまいにはうんざりするのと同じようなものです。しかも、快楽にはきりがなく、どんどんと膨張して、ついにはその快楽が苦しみの原因になるということを、肌身に沁みて感じ取ることになります。そして、快楽と苦しみの往復という不安定な状況から抜け出したくなってくるのです。

 過去に、そうして何回も何回も生まれ変わりを繰り返し、さまざまな経験をイヤというほど積んで地上人生にうんざりして生まれてきた魂が、釈迦の苦諦を理解できるのだと思います。それは理屈ではなく、共感的に理解するといった方がいいでしょう。
 そういう魂を持って生まれた人は、地上の楽しみに接しても、一時的に憂さ晴らしができる程度で、その後には虚しい気持ちに襲われるものです。人々が楽しいと思えるものも、心底楽しいとは思えません。また、苦しみに対しては人一倍鋭く反応します。過去の生でさんざんひどい苦しみを受けてきたために、ちょっとしたことでも、苦しみを強く感じるようになっているのでしょう。また、こういう人は、子供の頃から生きづらさを感じたりします。
 そこで、地上の楽しみも、苦しみもない、地上を離れた、別次元の安定した清らかな幸せというものを希求するようになるのです。
 釈迦は、そういう魂の持ち主であったのでしょう。そして、そんな釈迦の教えに惹かれる人も、そういう魂の持ち主なのだと思います。そういう人が、真剣に仏道を歩もうという気持ちになり、チャンスに恵まれれば、実際に歩んでいくわけです。
 仏教は、そういう魂の持ち主のための宗教なのです。
 差別的な言い方をするようで恐縮なのですが、生まれ変わりの回数が多くない、つまり地上人生の経験が少ない「若い魂」は、四諦の教えは理解できません。しかし、何回も生まれ変わりを繰り返し、数多くの人生を経験して「年配の魂」になると、四諦の教えをすんなりと理解し、仏教に関心を抱くようになり、また実践するようになるのです。
 つまり、どんな人もいつかは、釈迦の教えを理解する日が来るということです。
 けれども、そこに至るまでには、怖ろしいほどの苦しみを経験しなければなりません。来世も現世と同じような人生を歩むとは限りません。たとえば北朝鮮に生まれ、言いたいことも言えず、貧しい生活を余儀なくされ、餓死したり、反抗しようものなら拷問を受けて目玉をえぐられるかもしれません。そんな人生を送りたいと思うでしょうか。「自分は悪いことをしていないからそんなことは起きない」とは言えません。仏教によれば、過去生で犯した悪事が現世で現れるとは限らず、さらに持ち越して来世で現れるかもしれないからです。来世は、どんなひどい悲惨な人生になるか、わからないわけです。
 ですから釈迦は、なるべく早く仏教の真理を理解し、この地上と輪廻の苦しみから解脱した方がいいと言っているのです。そのために、しつこいほど、「この世は苦しみだぞ、この人生は苦しみだぞ、このことをわかってくれよ」と、繰り返し説いているのです。それは、釈迦の慈悲のあらわれなのです。
 このように、「この世は苦しみ」という「真理」は、理屈というよりは感覚的な共感によって理解されるものだと思います。この最初の苦諦を理解できなければ、残りの集諦、滅諦、道諦は理解できません。つまり、仏教を真に理解することはできないでしょう。
 苦諦を理解した人、つまり、仏教を理解できる可能性を秘めた人は、この世俗にあまり魅力を感じません。厭世的な傾向があるかもしれません。金儲けや欲望をつかみとるために血眼になることはないでしょう。頭だけ丸めただけの金儲け坊主などは、仏教をまるで理解していないことは明白です。
 こういう人は、世俗に対する野心といったものが希薄ですから、まず出世したりしません。なので、社会的には無能あつかいされることが多いかもしれません。ある種の「社会不適応者」です。釈迦の生きた当時なども、出家する人などは、世の中に生きづらさを覚え、世の中とうまくやっていけない社会不適応者だったと言えるでしょう。
 真の仏教が理解できる人というのは、そうした社会不適応者の中にいるのだと思います。

 余談になりますが、私も若い頃、世の中に生きづらさを感じ、厭世的な社会不適応者でした。20歳のとき、仏教の教えに惹かれたのですが、金儲けの坊主は嫌いで、そういうのは本当の仏教徒とは思えなかったので、釈迦の生きていた時代の、あの真の求道心をもった、清らかな修行僧がいないかどうか、いたら弟子入りしたいと願っていました。
 そうしたら、ふとしたきっかけで、そのようなお坊さんの存在を知りました。
 その方は、葬式などはせず、どの宗派にも属さず、貧しい小さな寺に独り住み、托鉢によって生計を立て、原始仏典を読みながら釈迦のオリジナルな教えを実践されている方でした。詳しいことは忘れましたが、当時、関西地方に住んでいらして、けっこうな年配だったと思いますので、もうご存命ではないと思います。
 私はその方に手紙を書きました。するとすぐに返事が来て、「あなたのようなタイプは出家するのがよい。出家して私と一緒に暮らしながら修行しませんか?」と、ありがたいお言葉を頂きました。不思議なことに、その方の本名は、私の名前と一字違いの「斉藤●一」さんであることが、お手紙を頂いてから知りました。その方も「深い縁を感じます」と書かれておられました。
 迷いました。本気で世を捨てて出家しようかなと思いました。
 しかし、私は中途半端な人間でした。
 若かった私は、まだ未知なるこの世界に対する好奇心が旺盛で、今でもそうなのですが、冒険心が強く、なんでも見てやれ経験してやれ、といった熱情が抑えられなかったのです。出家して、欲望を捨てながら狭い世界で刺激のない生き方をすることは、とうていできないと思いました。そこで、かなり迷いましたが、丁重にお断りの返事を差し上げたしだいです。
 結局、私は世俗にも、かといって世俗を離れた出家生活にも、どちらにも安住の地を見出せない、中途半端な人生を送りながら、今日まで来てしまったわけです。今でもどっちつかずの中途半端な立ち位置です。
 なので、その意味では私も、真の仏教が何であるかなど、偉そうに語る資格はないのです。

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お知らせ カバラセミナーについて

今回はお知らせとなります。
8月26日(日)、東京にて、ユダヤ教の神秘主義「カバラ」についてセミナーをすることになりました。
私はカバラの学者というわけではなく、「魂の覚醒法」を知る目的で古今東西の思想や哲学、宗教を学んでいるうち、カバラと出会いました。なので、カバラといっても何でも知っているわけではなく、そこに説かれている魂の覚醒法しか学んでおりません。しかも、それを現代人向けにアレンジしています。
現代を代表する七人のカバラ研究者のひとりとして、カバラの概要、カバラと数秘術、カバラの説く宇宙体系図である「生命の樹」、そして、カバラ流の魂の覚醒法などについて、まる一日かけてお話する予定です。
興味のある方は、まずそのセミナーのために作られたプロモーション動画をご覧になってみてください。
下記のURLにアクセスして登録するとすぐに無料でご覧になれます。
http://s3.aspservice.jp/51collabo/link.php?i=5b0fb9722f065&m=5b1db6d9cc82a&guid=ON

よろしくお願い申し上げます。



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「仏法僧」の本当の意味  

 
 前回は、「葬式仏教は仏教ではない」ということをお話いたしました。
 葬式以外で、一般の人が仏教といって思い浮かべるのは、お寺にお参りして、仏様にさまざまな祈願をすることではないかと思います。「商売が繁盛しますように、受験に合格しますように、病気が治りますように、結婚できますように、いやな人と縁が切れますように」などと、さまざまなお願いを、仏様が叶えてくれるように祈るわけです。
 これもまた、仏教(釈迦の説いた教え)とは関係ありません。
 というより、仏教とは正反対のことをしています。
 仏教では、仏というのは覚者(悟った人)のことであり、○○仏だとか○○菩薩と呼ばれる神霊的な存在のことではありません。そういう、いわゆる「仏様」に祈れば、現世的な福を叶えてくれるなどとは、まったく説かれていません。
 では、神霊的な存在ではなく、肉体を持った生きた仏、つまり覚者に対して、何かお願いをすれば、それを叶えてくれるのでしょうか? たとえば、釈迦に対して「悟りが開けますように」と祈れば、釈迦は叶えてくれたのでしょうか?
 しばしば、覚者だとか聖者のそばにいて帰依すれば、何か福徳が得られたり、悟りが開かれるエネルギーのようなものをもらえるのだと信じている人がいますが、釈迦はそういったことを否定しています。
 「私は指導者として教えているが、涅槃に到達する者もあれば、しない者もある。それを、私がどうすることができよう。私はただ、道を教えるのみである」(阿含経 南伝 中部経典 107)と言っているのです。
 仏とは、ただ教えを説くだけであり、救われるかどうかは本人(の努力)しだいだというわけです。お願いをすれば叶えてくれる存在ではないのです。
 しかも、そのお願いというのが、現世的な幸せであれば、なおさらのことです。
 なぜなら、釈迦は、現世的な幸せを求めるなと説いているからです。「切に世の中を忌み嫌う者となれ」と言っています。原始仏典を読めば、そういう言葉を繰り返し繰り返し見るでしょう。現世的な幸せを徹底的に否定しているのです。その理由はいずれ詳しく述べます。
 だから、仏様に現世的なお願いをする信者、また、それを勧めている坊主は、仏教とはまったく正反対のことをしているのです。仏教とは正反対のことをしていて、「自分は仏教徒だ」と言っているわけです。まったくおかしなことなのですが、誰もそのおかしなことに気づいていないのです。

 ところで、仏教徒や仏教信者は、「仏法僧」に帰依するものとされています。
 「帰依」とは、「(仏や神など)すぐれたものを頼みとして、その力にすがること」です。
 確かに釈迦は、仏法僧に帰依しなさいと語っています。
 そうして今日、僧侶たちも「仏法僧」に帰依しなさいと説いているわけですが、この「仏法僧」の内容が、釈迦が説いたものとまったく違っているのです。
 今日では、「仏に帰依する」とは、神霊的な仏様に帰依すること、「法に帰依する」とは、真理に帰依すること、「僧に帰依する」とは、僧侶に帰依することであるとしているようですが、これはまったく違います。
 まず、すでに述べたように、釈迦は神霊的な仏様に帰依しなさいとは言っていません。釈迦の言う仏とは覚者であり、具体的には自分のことを指していました。そして、自分の死後は他の指導者に帰依してはいけないと言っています。ですから、釈迦が死んだ時点で「仏法僧」のうちの「仏」は除外されるのです。

 次に、「法に帰依する」とは、真理に帰依するということですが(法とは真理という意味)、これは釈迦の教えと一致しています。しかし、問題は何をもって「法」というかです。今日、それはあいまいになっているようですが、釈迦は明確に法とは何かを語っています。それは前に紹介した「四諦」です(諦とは真理という意味)。すなわち、
・苦諦=この世は苦しみであるという真理
・集諦=苦しみが生じる原因の真理
・滅諦=苦しみが消滅するしくみの真理
・道諦=苦しみを消滅するための方法の真理、およびその実践
 ところが、この四つのうちもっとも重要な心臓部である「道諦」、すなわち、八正道の実践をしていないとしたら、「法に帰依する」ことにはなりません。おそらく、今の仏教徒や信者のほとんどは八正道の実践などしていないでしょう。ですから、「仏法僧」のうち、「法に帰依する」ことはできないのです。ですから、これも除外されてしまうのです。

 最後の「僧に帰依する」というのは、僧侶に帰依するという意味ではありません。そのへんの坊主に帰依するという意味ではないのです。
 釈迦の説いた「僧に帰依する」という意味は、修行仲間の「集団」に帰依するという意味です。というのは、善き修行仲間と一緒に修行することで、修行の完成が期待できるからです。次のような経文があります。(阿含経 南伝 相応部経典 45-2)
 あるとき、弟子のアーナンダが釈迦に尋ねました。
 「お釈迦様、(修行仲間と)よき友情を持ち、善き交わりを持つことは、修行のなかばにも等しいと思うのですが、いかがでありましょうか?」
 すると、釈迦は次のような回答をしています。
 「アーナンダよ、それは違うよ。よき友情を持ち、善き交わりを持つことは、修行のなかばではなくして、そのすべてである。なぜなら、そのような交わりを持てば、八正道を実践し、その修行を最後まで重ねるであろうことが期待できるからである」
 つまり、「僧に帰依する」という意味は、「善き修行仲間と一緒に修行しなさい」ということなのです。ですから、修行をしていない者は、「僧に帰依する」ことはできないのです。
 そこで、「仏法僧」のうち、「僧に帰依する」も除外されます。
 これで、全滅です。
 今日、「仏法僧に帰依する」という仏教徒の言い分は、本来の釈迦の教えから見た場合、まったくデタラメなことをしているわけです(大乗仏教なりの言い分はあるでしょうが)。

 釈迦は生前、「仏法僧」に帰依しなさい、すなわち、自分と四諦と修行僧の集まりに帰依しなさいと説きましたが、死ぬ直前は、次のように言っています。
 「(私の亡き後は)、自己を拠り所とし、他人を拠り所とすることなく、法を拠り所とせよ」(阿含経 南伝 相応部経典 47,9)
 また、バラモン教徒から、釈迦という拠り所がなくなったあなたがた修行僧たちは、今後どうするのですか? と問われたとき、アーナンダがこう答えています。
 「私たちには拠り所があります。すなわち、法という拠り所があるのです」(阿含経 南伝 中部経典 108)
 これは、何を意味しているのでしょうか?
 釈迦が存在していない今、真の仏教徒は、ただ「法」を拠り所とし、「法」に帰依しなさいということです。他人、つまり、グルだとか指導者といった存在を拠り所としたり帰依したりせず、ましてや神霊的な仏様に帰依したりせず、自分を拠り所とし、法を拠り所として、修行に励みなさいということになるのです。
 要するに、釈迦の教えをもとに、ひとり仏道を歩む者、これが、現代における真の仏教徒の姿ということになるのです。葬式をしたり、寺にお参りに行ったり、仏様に祈ったりすることが、仏教徒なのではありません。そんなことは、仏教とは何の関係もないばかりか、むしろ仏教の教えに反する場合もあるわけです。

 では、真の仏教(釈迦の説いた教え)とは、いかなるものだったのでしょうか?
 それを次回から、少しずつ説明していきたいと思います。

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葬式と仏教


 特に仏教の信仰をしている人でなければ、一般の人にとって仏教というと、ほとんどの人が「葬式」を思い浮かべるのではないかと思います。「仏教というのは死者を弔う宗教だ」くらいに思っている人が大半ではないでしょうか。
 実際、仏教の僧侶をみかけるのは、ほとんど葬式のときくらいなものです。
 しかし、真の仏教(釈迦が説いた教え)は、葬式とは何の関係もありません。むしろ、葬式などするべきではないと釈迦は考えていたはずです。たとえ百歩ゆずって、仏教徒が葬式をしてもいいと考えていたとしても、それが修行より優先されたり、ましてや、大金を取るといったことは、釈迦は決してゆるさなかったでしょう。
 釈迦がゆるさなかったことを、日本の僧侶のほとんどがしているのです。
 真の仏教とは何かを論じるために、いわゆる「葬式仏教」に見られるあやまった見解を正したいと思います。
 私は、彼らが自らを仏教徒であるといわず「葬式屋」と名乗っているなら、何も文句は言いません。商売なのですから、何も問題はありません。そのかわり、収益を「お布施」などと言って税制上の優遇を受けることなく、ちゃんと納税してもらわなければなりませんが。
 もしそれを「お布施」と言いたいのなら、(私から言わせると)詐欺まがいの葬式などせず、清らかな修行者となるべきだと思います。

 釈迦の教え、つまり、真の仏教の立場から言えば、葬式はあきらかに「詐欺」です。
 なぜなら、葬式というのは、死んだ人が成仏して死後によいところ(極楽・天国)に行って幸せに暮らせるよう、僧侶がお経を唱えたり祈りを捧げたりする儀式だと思いますが、釈迦は、そんなことをしても無駄だと、はっきり言っているからです。
 ある村長が、釈迦のもとに来て、次のように質問したエピソードが伝えられています(阿含経 南伝 相応部経典 42,6)。長いので短くまとめて紹介します。
「バラモン教の僧侶は、人が死んだ後、その名を呼んで天界に入らせることができると言いますが、そんなことが可能なのでしょうか?」
 それに対して、釈迦は次のように答えています。
「ここに人があり、その人は、人の命を取る者であり、与えられざるを盗る者であり、よこしまの快楽にふける者であり、うそをいう者であり、両舌をもてあそぶ者であり、あるいは、乱暴な言葉を語り、誠実ならぬ言葉を語り、強欲にして、いじわるであり、間違った考えをもった人間であったとしよう。そこに大勢の人々が集まってきて、<この人が、死んだ後には、どうかよいところ、天界に生まれますように>といって、この人のために祈り、この人を礼賛し、合掌して、そのまわりを周回したとする。そんなことをしても、死後、天界に生まれることはない。悪しきところに生まれるであろう」
 ここには「葬式」という言葉は使われていませんが、葬式のことを言っていることはあきらかです。葬式をして、「死後、よいところに生まれますように、成仏しますように」と祈っても無駄だと、はっきりと言っているのです。
 ちなみに、この経には続きがあり、「よい行いをした人であれば、たとえ死後、<この人が悪いところに生まれますように>と祈ったとしても、この人は天界に生まれるだろう」と言っています。要するに、その人の生前の生き様によって、よいところに行くか悪いところに行くか決まると言っているのであり、「よいところに生まれますように、成仏しますように」と祈ればそうなるなどという、虫のいいことはないと言っているのです。
 このように、葬式は死者をよいところに導くものではないと、釈迦ははっきりと言っているのです。
 仏教徒であれば、釈迦の教えに従うべきでしょう。それなのに、「葬式をあげれば成仏していいところに行けますよ」などと、釈迦の教えに反するウソを言って葬儀を行うことは、詐欺と言わないで何と言ったらいいのでしょうか。

 しかも、「戒名」などという、さらに悪質なインチキを大金で売りつけています。
 戒名というのは、「あの世へと旅立つ際、仏様の導きが得られるよう、仏様の弟子になった印として授かる名前」のことです。つまり、戒名がつけられないと仏様の弟子になれず、仏様の導きが得られずによいところに行けないということなのでしょう。
 そんなことを言われると、家族は心配になって戒名をつけざるを得ません。悪質な坊主は、家族のそんな弱みにつけこんで、高額な戒名を勧めてカネを儲けているのです。
 ネットで調べたところ、戒名の値段は平均すると三十万円から五十万円です。しかも馬鹿らしいことに、「ランクの高い戒名」というのがあるのです。その戒名は普通の戒名の倍くらいの値段です。つまり、高いのになると百万円もするのです。
 普通の人が百万円を稼ぐには、何ヶ月もかけて大変な思いをして、やっと手に出来る金額です。それを坊主は、それこそ適当にさらさらと書いて終わりです。三十分もかからないでしょう。「坊主まるもうけ」とは、よく言ったものです。
 家族は、ただでさえ愛する人を失った悲しみにうちひしがれ、その他にもいろいろとお金がかかるというのに、そんな哀れな人から、大金をむしりとっているのです。ヤクザみたいなものです。ヤクザは自分たちが悪い人間だとたぶん自覚していると思いますが、坊主はこんなあくどいことをして、自分たちは立派だと思っているかもしれません。だとしたら、ヤクザ以上にたちが悪いです。地獄に行くとしたら、このような坊主たちがまっさきに行くのではないかと思います。

 釈迦は、戒名をつければ死後に仏弟子になれるなどとまったく言っていません。ましてや、いい戒名をつければそれだけあの世でいい思いができるなどということは、これっぽっちも言っていません。すでに述べたように、そもそも葬式そのものに意味がないのですから、戒名などというのは、まったくのインチキなのです。
 そうして坊主たちは私腹を肥やしています。立派な屋敷に住み、高級外車を乗り回していたりします。
 もし、戒名もつけず葬式もあげない人に対して、「あなたの死んだ愛する人は死後、よくないところに行って苦しみますよ、それでもいいんですか」などと、たとえ露骨には口にしないとしても、そのような無言の圧力をかけているとしたら、これはもう脅しであって、詐欺のなかでもかなり悪質だといわざるを得ません。悪質商法とさえ言ってもいいでしょう。
 これが、仏教徒のやることでしょうか。
 いえ、人間のやることでしょうか。
 釈迦は、世俗のあらゆる欲望を滅するために清貧の生活を送れと、しつこいくらい説いています。「傲慢になるな、謙虚であれ」と説いています。
 ところが、坊主のなかには、贅沢三昧の生活をし、ぶくぶく太ったうえに、威張っている者がいます。人のお布施で生活しているくせに、偉そうにしているのです。これも仏教徒の態度ではありません。
 「いや、自分はちゃんと葬式をしてやっているのだから、報酬をもらうのは当然だ」などと言うのであれば、それは商売ですから、仏教徒と名乗るべきではありません。ただの「葬式屋」です。
 ただし、すべての僧侶がこうだとは言いません。なかには立派なお坊さんもいらっしゃいます。だから、以上の批判は、修行もせず金儲けばかりに腐心している坊主に向けて放った言葉だと思ってください。
 残念ながら、そういう坊主の方が多いのですが。

 また、私は、葬式そのものは必ずしも否定はしません。それで残された人の悲しみが癒える、いわゆる「グリーフケア」になるのだとしたら、それはそれで意義はあると思います。
 しかし、みんな葬式をしているのだから葬式をしなければいけないとか、葬式をしないと死者が浮かばれないといったことを言ったり、あるいは、そういう風潮を作り出すことは間違っていると思います。
 葬式は、したい人はすればいいし、したくない人はしなければいいのです。それだけのことです。いずれにしろ、真の仏教とはまったく関係のないことですから。
 ちなみに、私が死んだときは、戒名なし位牌なし葬式なしお墓なし、ただ火葬だけして、骨は適当に処分してくれと家族に伝えています。死んだ後のことなどより、今この瞬間に正しい生き方をするよう精一杯生きることの方が大切です。そういう生き方をしていれば、死後のことなんて何も心配することはないわけです。
 あらためて申し上げますが、「葬式仏教」は仏教ではありません。葬式だけをしている僧侶は仏教徒ではありません。

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経典を鵜呑みにしてはいけない


 釈迦の死後、数百年たって成立したのが大乗仏教であり、それに対して、釈迦のオリジナルな教えは原始仏教(もしくは根本仏教)と言います。その原始仏典の主なものは、阿含経典です。釈迦の死後、すぐに修行僧が集められて編纂されたものであり、釈迦の教説をもっとも忠実に反映しているとされます。
 しかしながら、経典の内容がすべて真実であると鵜呑みにすることは危険です。
 どう考えても、「こんなことを釈迦が言うだろうか?」と思われるものもあるのです。
 そのなかでも、私がもっとも首を傾げたくなるのが、釈迦が80歳となり死が近づいてきたとき、釈迦の弟子であり付き人としてもっとも可愛がられたアーナンダに向かっていった次の言葉です。(中阿含経36 経典の文句はまわりくどいので、意訳しました)。
「アーナンダよ。もし私が願うなら、一劫でもそれ以上でも(一劫とは宇宙が始まって終わるまでの長い時間。要するに永遠)、生き続けることができるのだよ」
 釈迦はこの言葉を三回繰り返しました。つまり、アーナンダから「ではお釈迦様、我らのためにそうしてください」という返事を期待していたようなのです。しかしアーナンダは、ただ黙って聞いているだけでした。後になって釈迦の気持ちがわかって、「我らのために永遠に生き続けてください」と三回繰り返して頼みます。しかし釈迦は「もう遅い。私は死ぬと決めた」といって拒絶しました。
 以上のようなエピソードが経典に書かれているのですが、私はこれには非常に疑問を感じます。釈迦は常々、「すべてのものは朽ち果てる。諸行無常である」と弟子たちに説いていました。その釈迦が「その気なら自分は永遠に生きることができるのだよ」などと言うでしょうか。いくら覚者と言えども無理でしょうし、何よりも「諸行無常だ」と説いた彼自身の教えに反します。
 仮に百歩ゆずって、永遠に生き続けることが可能だとしても、「アーナンダがそれを頼まなかったから永遠に生きるのをやめた」などと言うでしょうか。しかも、後でアーナンダが頼んだときには「もう遅い」と言っているのです。なんだか、すねた子供のようです。釈迦らしくありません。
 私は、これは捏造されたものだと思います。
 仮にそうだとすると、なぜ捏造されたのでしょうか? その理由は、釈迦の死後について書かれた経典から読み取れる気がするのです。

 釈迦の死後、五百人の弟子たちが集まって、今後どうしようかと相談しあったことが経典に書かれています(南伝 律蔵 小品11)
 そして、釈迦の高弟の一人、マハーカッサパが、今後、どのような方針で修行していくか、それを決める修行仲間を選出したのですが、五百人集まった弟子たちのうち、一人をのぞいてすべて選出しました。その一人とは、アーナンダだったのです。アーナンダはまだ修行が成就していないという理由からです。
 しかし、ならば、他の499人は修行が成就していたのでしょうか?
 そうは思えません。経典によれば、釈迦が死んでみんな悲しんだとき、「よかったではないか。これをしろ、これはするなと、うるさく言う人がいなくなったんだから」などと口にする不届き者もいたといいます。選出されなかったのはアーナンダ一人だけだと書いてありますので、その不届き者も選出されたことになります。
 結局、「アーナンダも仲間に入れてあげましょう」という声があがったので、仲間に入れてもらえたのですが、それからがさらにひどいのです。
 他の修行仲間から、よってたかって些細なことで責められるのです。
「あなたは、お釈迦様のレインコートを踏んだ。それは罪である」
「あなたは、お釈迦様の遺体のもとに女性を連れてきたので、女性の涙がお釈迦様の遺体に落ちて濡れてしまった。それは罪である」
「あなたは女性が出家できるように努力したので、女性も出家できるようになってしまった。それは罪である」
 そして、「あなたがお釈迦様に永遠に生きて欲しいと頼まなかったから、お釈迦様は亡くなられてしまったのだ」などと言って、お釈迦様が亡くなったのをアーナンダのせいにして責めているのです。
 こうなるともう、イジメとしか言えません。
 これは私の勝手な想像ですが、アーナンダは釈迦の身近でお世話をして、もっとも可愛がられていました。たぶん、そのことを他の修行僧たちは妬んでいたのではないかと思います。釈迦の生前は我慢していましたが、釈迦が死んだ今、その不満が爆発して、まったくささいなことでアーナンダを責めたのではないかと思うわけです。そして「お釈迦様に永遠に生きて欲しいと頼まなかったから、お釈迦様は亡くなられてしまったのだ」という例のエピソードも、アーナンダのイメージを悪くさせるために捏造されたものではないかと思います。釈迦があのようなことを言うとはとうてい考えられないからです。

 いかがでしょうか。あくまでも経典に書かれてある内容が事実で、私の推測が正しければ、という前提ですが、釈迦の死後に集まって、経典を作成した弟子などというのは、嫉妬という、もっとも俗っぽい煩悩からも解脱していない、しょうもないボンクラばかりだったことになります。これでは、信頼できる経典になるはずがありません。
 アーナンダは当時、解脱していなかったかもしれません。しかし、経典のあちこちから垣間見られる彼の純真さ、優しさ、誠実さから、他の499人の弟子たちよりもずっと霊格が高かったと、私は考えています。そんなアーナンダ一人だけ仲間はずれにするというのは、どう考えてもおかしい。悪意があるとしか思えないのです。これではまるで、今の私たちの職場や学校ではびこっている、陰湿なイジメと何も変わらないではありませんか。まがりなりにも聖をめざしている人たちのすることではありません。俗もいいところです。恥ずかしいとは思わないのでしょうか。

 これが、釈迦という偉大な霊的指導者のもとで直接教えを受けた弟子たちのレベルなのですから、心底がっかりしてしまいます。釈迦の教えの基本中の基本さえ体得していません。
 ですから、原始仏典でさえも、釈迦の教えの実相が伝えられているとは限らないのです。むやみにありがたがり、信じ込んではいけないのです。もちろん、すばらしいことも書かれています。正しいと思われることも、学ぶべきこともたくさん書かれています。しかし、すべてが正しいのだと理想化してはいけないのです。冷静な目を持って読む必要があります。釈迦の弟子といえども、ボンクラが少なくないのです。
 むしろ、大乗仏教からの方が、優秀な人材が多く輩出しているような気さえします。なので、私は必ずしも大乗仏教は否定していないのです。ただし、全面的に肯定もしていません。大乗仏教は大乗仏教なりの問題点もあるのです。
 次回、その点について述べてみたいと思います。
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