心の治癒と魂の覚醒

        

非凡な人


 皆様、明けましておめでとうございます。
 今年はいったいどんな一年になるのでしょうか? いま世界は、困難な課題を数多く抱えています。テロ、戦争、環境破壊、貧困、その他さまざまです。とりわけ日本においては、北朝鮮問題がどうなるかが差し迫った課題でしょう。中長期的には、少子高齢化に伴って生じるであろうさまざまな危機的状況への課題です。いずれもかなり厳しい状況にあるように思われます。
 北朝鮮の問題が来年までこのままの状態で続くとは思えませんので、何らかのところに行き着くでしょう。それが戦争という最悪の形にならないことを祈るばかりですが、どうであれ、今年はおそらく、世界が大きく舵を切る一年になるのではないかと思います。
 いま世界は、「分断」の方向に揺れています。この傾向はもうしばらく続くと思います。今年はそれが過剰になるかもしれません。しかし歴史は、振り子のように対極の間を行ったりきたりしていますから、いずれ分断から「統合」へと振れてくるはずです。
 ある程度、こうした両極性を行き来するのは自然であるかと思いますが、極端になりすぎると危険です。特に分断に向かう場合は非常に危険です。分断は、差別、憎悪、争いを生むからです。その最たるものが戦争です。
 ですから、極端になりすぎてはまずいのです。極端にならないよう、バランスを取らなければなりません。バランスを取れる人々が求められるのです。

 成功する人というのは、世の中の流れの一歩先を読む人です。あまり先を読みすぎても成功しません。トランプ大統領が成功した(大統領に選ばれた)のも、分断に傾いていくという世の中の流れの一歩先を読んだからです。
 しかし、一歩先を読んで行動する人は、ともすると流れを極端に加速させてアンバランスにさせてしまいます。その点でもトランプ大統領は典型的な人物です。
 それに対して、いわゆる聖者だとか覚者という人は、一歩や二歩どころか、もっとはるか先を読んでいます。ですから、たいていその時代の人々からは理解されません。イエス・キリストなどはその典型です。もちろん、マザーテレサやガンジーのように、理解されて賞賛された聖者もいます(それでも認められるまではかなりの辛酸をなめました)。しかしそれは、たまたまそうなっただけです。
 芸術家などもこの傾向があります。死んでしばらくしてから作品が理解され、賞賛されたりするのです。ゴッホなどはその典型かもしれません。

 真の宗教家や芸術家というものは、自分を売るために世の中の流れに迎合することなく、自らの信念や内的直感に正直に生きています。それがたまたま時代の流れに合えば理解され賞賛されますが、時代の流れにあわなければ無視され、ときには迫害さえ受けたりします。
 いわゆる「平凡な人」と「非凡な人」の違いというのは、ここにあると思います。特殊な才能があるとか、すごいことをやってのけたというよりはむしろ、時代の流れに迎合せず、遠い未来の先を読んで、その信念や内的な直感に敢然と従う生き方ができる人ではないかと思います。時代にあわなければ、そういう人は世の中から「変人」扱いされます。もう少しましな評価が与えられる場合は「孤高の人」となって敬遠されます。

 時代の流れに迎合しない生き方は孤独です。さまざまな面で社会的にも不利になりやすいです。しかし、そうした「非凡な人」こそが、極端に傾きだした世の中にバランスをもたらすことができる可能性を持っていると私は考えます。
 真理というものは、極端な考え方の中には決して存在しません。真理は、右にも左にも、白にも黒にも存在しません。真理は、両者が統合されたレベルに存在しているからです。
 そのことを見通した人は、世の中が右に流れれば「左だ!」と叫びます。白に流れれば「黒だ!」と叫びます。だから、人々から憎まれ嫌われ、笑われ蔑まれます。
 それでもなお、その生き方を貫くのです。
 それゆえに、そういう人々は「非凡な人」なのです。
 私はいま、たくさんのそういう「非凡な人」が、宇宙から求められているように思います。「世の中から」ではありません。「宇宙から」です。

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クリスマスによせて


 今年もクリスマスがやってきます。クリスマスは、本来はクリスチャンがイエスを偲び、彼の教えを再確認する日であると思うのですが、今では単なるお祭りに過ぎなくなりました。
 クリスマスの日に寄せて、私が聖書の言葉の中でもっとも好きな、また、もっともイエスの教えを表していると思う言葉を、以下に抜粋してお贈りします(英語版の聖書から私が訳したものです)。

コリント人への手紙 第1-13章

たとえ、私が人の言葉、天使の言葉で話したとしても、
愛がなければ、
やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

たとえ、私が預言の才能を持ち、またあらゆる奥義とあらゆる知識に通じ、
山をも動かすほどの信仰を持っていたとしても、
愛がなければ、
何の価値もありません。

たとえ、すべての財産を貧しい人たちに分け与え、
自分のからだを焼かれるために捧げたとしても、
愛がなければ、
何の役にも立ちません。

愛は寛容であり、愛は親切です。
妬むことをせず、自慢せず、高ぶりません。
礼儀に反することをせず、利己的にならず、怒らず、
人のあやまちを記憶にとどめません。

不正を喜ばず、真理を喜びます。

愛は決してあきらめず、その信念と希望と忍耐は決して色あせません。
愛は永遠です。
預言は一時的なものであり、異言ならばやみ、知識ならばすたれます。

なぜなら、私たちの知識も預言も一部分だからです。
完全なものが現われたら、部分的なものは消え去ります。

私が子供であったときには、子供らしく話し、子供らしく感じ、子供らしく考えました。しかし大人になった今、子供らしい生き方は失われてしまいました。

今、私たちは鏡に映して見るようにぼんやり見ていますが、その時には、顔と顔を向き合わせて見るでしょう。
私の知るところは、今は一部分にすぎません。しかしその時には、私が完全に知られているように、私も完全に知ることになるでしょう。

このように、いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。
その中でも一番偉大なものは、愛です。


※信仰と希望と愛がキリスト教ではもっとも重要視されていますが、この三つのなかで「愛」が一番偉大だと言っています。信仰よりも、愛の方が偉大だと言っているのです。

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人生は演劇のようなもの

 先日、タレントの小林麻央さんが34歳の若さでお亡くなりになりました。連日、大きなニュースとして取り上げられています。私は芸能界にはそれほど関心がないのですが、今回のことは特別な思いで見ていました。というのは、かつてがん患者のためのホスピスで心理カウンセラーをしていたとき、麻央さんととてもよく似た患者さんがいたからです。
 その方も麻央さんとほぼ同じ35歳の若さでがんで亡くなりました。肺がんでした。25歳くらいのときからさまざまな病気になって入退院を繰り返し、ついにはがんでお亡くなりになったのです。25歳から35歳といえば、おそらく人生でももっとも充実した幸せな年代かと思いますが、彼女はその間、ほとんど闘病生活をしていました。結婚もしていませんでした。普通に考えれば、人生を呪いたくなってもおかしくない悲惨な状況です。
 けれども彼女は、そうしたものはまったく感じることなく、とても明るく品位があり、そして何よりも、人のことを気遣う優しさ、思いやりに溢れていました。麻央さんの場合も、報道によれば、そうであったといいます。一番苦しいのは自分であるはずなのに、いつも人のことを気遣っていました。
 私たち医療スタッフは、この患者さんのそうした振る舞いに深い感銘を受けました。「神々しいくらいだ」とまで語るスタッフもいました。そして、患者の死に慣れている私たちでしたが、彼女が亡くなったときはみんな悲しみに沈みました。
 今回、麻央さんが亡くなられたニュースを見て、私はこの忘れがたい患者さんのことを思い出し、胸が締め付けられるような思いがしました。

 それにしても、こういうことがあるたびに、私はいつも思います。それは、「よい人は早く死んでいくなあ」ということです。私はたくさんの患者さんが亡くなっていくのを見てきましたが、その多くが本当によい人たちでした。なぜよい人がこんなに苦しんで、まだ死ぬほどの年齢でもないのに死んでいかなければならないのかという疑問と憤りを感じました。生きていれば、この世の中をよいものに変えていく影響力を放っていたに違いないと思えるような人ばかりでした。
 これと同じ感想を、ユダヤ強制収容所を経験した精神科医V・フランクルも述べています。「よい人は早く死んでいく」と。こうした思いを抱くのは私だけではないとわかりました。もちろん、だからといって、長生きしている人は悪い人であるというわけではありませんが。
 もし神がいて、神はこの世をよくしていくのが使命であるとするなら、なぜよい人を早く死ぬことをゆるしているのか、私にはわかりません。「神の真意は人間には計り知れないものなのだ」などと言われますが、まさにその通りなのでしょう。
 ただ私は、計り知れないのに無理に神を信じようとしなくても、単純に神はいないのだとした方が、合理的な判断ではないかと思ったりもするのですが、そのへんは信仰の問題なので、とやかく言うつもりはありません。実際、神は私たちには想像もできないような、完璧な計画を持っているのかもしれません。それを否定する根拠はありません。
 ただ私としては、単純に神はいないのだと思っています。少なくとも、人格神というものは。

 さて、私はこの患者さんのことを、講演などでよく話したりするのですが、あるとき、話を聞きにきてくれた人から、こんなことを言われたことがありました。
 「人に気を使うよい人だから、がんになったのではないでしょうか?」
 確かに、がんになりやすい性格といった記事を見ますと、「人に気を使う優しい性格」といった特徴があると書かれてあったりします。
 これを読んだとき、私は疑問を覚えました。
 「人に気を使って優しいことは、よいことである。なぜよいことをしているのに、がんになって苦しんで死ななければならないのか?」と。まさに、人生の不条理を感じました。
そして、「では、どうしたらいいというのか」と悩みました。人に気を使って優しくなったりせず、自分勝手に生きればいいというのかと。
 もちろん、がんになる原因は複雑で、単純に「よい人だからがんになる、悪い人はならない」と結論づけることはできないでしょうし、仮にそうした性格特徴が見られるとしても、その背後にある深い動機といったところまで調査しなければ、真相はわからないと思います。
 ただ、もし本当に文字通り、「人に気を使う優しいよい人ががんになりやすく、人に気を使わない自分勝手な人はがんになりにくい」ということが真実であるとしたら、私はあえてがんになる道を選ぼうと思いました。
 自分勝手に生きて、つまり、大なり小なり人に迷惑をかけたり不愉快にさせる生き方をして長生きしたとしても、それが何だというのでしょう。そんな生き方をして嬉しいでしょうか?
 人生の価値は、その長さで決まるわけではないと思います。
 たとえ短くても、それまでの人生がすばらしいもので、世のため人のためになるようなものであったら、その方がずっと価値があると思います。存在した意味があると思います。
 人生とは、演劇のようなものだと思います。人は観客であり、舞台の上に立つ俳優です。なぜなら、人は誰でも他者から見られ、他者を見ているからです。無人島で過ごすのではない限り、常に私たちは「観客」から見られている「俳優」なのです。
 長いばかりで何の感動も与えない演劇など、退屈でつまらないだけの駄作です。しかし、たとえ上演時間は短くても、すばらしい感動を与えるなら、それは名作としていつまでも人々の記憶に残り、また後世の人々の生きるお手本になります。いわゆる不朽の名作です。
 私たちは駄作ではなく、見るものをいつまでも感動させる「不朽の名作」として、人生を創造していきたいと思うのです。
「人に気を使って優しく生きてがんになるというのなら、喜んでがんになってやろうじゃないか!」
 今では、そんな反骨精神を持っています。

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トランプ大統領誕生に関して

 いま世界は、トランプ新大統領の話題で持ちきりである。
 当初、あのような暴言や差別的な発言をする人物が大統領になるとは、ほとんどの人が予想していなかった。大統領に選ばれたとき、株価は大きく値下がりした。株価は人々の心理を反映する。彼が大統領になれば大変なことになると思ったわけだ。しかし、直後の記者会見でまともな発言をしたことから、「大統領になれば、案外うまくいくかもしれない」との期待感から、株価は上昇に転じた。ところが、つい最近の記者会見での品性のなさ、大統領就任挨拶における、経済政策への具体性のなさや過剰な保護主義への懸念のため、不透明感が広がり、株価は再び下げに転じている。
 トランプ大統領の基本理念は、極論を言えば、「自分さえよければどうでもいい」ということだ。「アメリカの経済さえよくなればそれでいい」である。そうした明確で力強い発言が、経済的に恵まれない人々に支持され、当選したと考えられている。
 確かに、経済的に困っている人にとっては、それを救ってくれそうな力強いメッセージを掲げる人物を支持したくなるのは、無理もないことだと思う。不法移民のために職を奪われたり、治安が悪化したり、その対策として莫大な税金が投入されていることに不満を抱くことも無理のないことだ。そういう鬱積した不満を抱えていた人々にとって「国境に壁を作る」といった、途方もない提案をする人物には、ある種の清涼感というか、ガス抜きのような効果を発揮したのであろう。
 いずれにしろ、トランプ大統領の誕生で、アメリカは大きく分断した。正確に言えば、分断状態がさらに大きくあからさまになった。アメリカの分断への傾向は以前からすでに始まっている。たとえば、ある州では、貧困層にばかり税金が使われることに不満を抱いた富裕層が、富裕層だけが暮らすための市を作ってしまった。
 また、イギリスのEU離脱をはじめ、アメリカのみならず、世界的な潮流として、世界は分断の方向に揺れ動いているように感じられる。
 歴史というものは、振り子のように揺れながら進んでいる。あるときは分断に揺れ、しばらくするとそれではいけないと、統合に揺れる。しかしそれもしばらくすると、さまざまな問題が生じてきて、また分断へと向かう。こういうことを繰り返している。
 したがって、しばらく世界は分断に向かうかもしれないが、またしばらくすれば統合へと揺れてくるに違いない。
 しかしながら、分断状態には非常な危険がつきまとう。その最たるものが戦争だ。戦争が起こる主な原因は、領土と経済である。経済戦争が、本当の戦争に移行する可能性は十分にあり得る。経済戦争は、自分だけの利益を考えようとすることから始まる。
 それゆえ、トランプ大統領の誕生が、世界が戦争へと突入していくきっかけにならなければいいと懸念している。現代は、過去の戦争とは異なり、多くの国が核を持っている。一度核が使われたら、その報復として何発もの核が使われる。その結果、地球上の多くの国が、放射線と核の冬(核爆弾で舞い上がった塵が長い間空を覆って太陽がささなくなる現象)により、人間が住めない場所になる。そうなると、勝者も敗者もない。人類そのものが絶滅の危機にさらされ、すべての国が敗者となり、悲惨なことになる。
 まさか、そんなことはないだろうと思われるかもしれないが、イギリスのEU離脱にしてもトランプ大統領の誕生にしても、ほとんどの人は「まさかそんなことはないだろう」と思っていたことが起きたのだから、世界大戦が勃発することも、決してあり得ないことではない。そんな状態になってから、世界が統合に揺れだしたとしても、すでに遅い。
 仮に、そこまでの惨事には至らなくても、「自分さえよければいい」という考え方は、目先はいいかもしれないが、結局は自分の首をも絞めることになる。なぜなら、人類は相互協力によって成り立っているからだ。たとえば、自分さえよければいいという社員が多い会社は、決して伸びていかない。会社も社会も、世界も、オーケストラのようなもので、お互いの立場を大切にして調和的に進んでいくことで、すべての人が恩恵を受けるような構造をしている。
 したがって、もしこのままトランプ大統領が「自分さえよければいい」という姿勢で貫いていけば、しばらくは対症療法的にうまくいって国民の支持を得るかもしれないが、やがてうまくいかなくなり、国民からの支持を失うのではないかと、私は考えている。
 では、私たちとしては、これからどうしたらいいのだろうか?
 一部の独裁国家を除いて、世界の多くの国の政策は、民意が反映される。したがって、私たちひとりひとりが「自分だけがよければいい」という考え方を持たないことだ。お互いの利益を考えるようにすることである。そうすれば、そういう考え方を持った人が指導者に選ばれる。
 「しかし、私たち日本人がそんな考え方をしても、アメリカや世界は何も変わらないのではないか」と思われるかもしれない。私は、そうでもないと思っている。というのは、現在は、インターネットで世界中の人が情報を共有しているからだ。たとえば、私たちの身近で生じた小さな親切行為が、またたくまに世界中に配信され、世界中の人が知ることができる時代である。実際、たとえば日本人の礼儀正しさなどは、インターネットを通して世界中の人から称賛されている。
 私たちが、「自分のことさえよければいい」という考え方を断固として退け、「お互いのためによいことを選ぶ」という考え方を持って実践していけば、世界中の国民に影響を与え、世界を変えていくことができる。即効性はないかもしれないが、じわじわと大きな潮流になる可能性は十分にある。
 私たちひとりひとりには、世界を変えるほどの力はないかもしれない。しかし、世界を変えることができる力を持った人を、そうなるように変える力は、誰もが持っている。

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リスク管理

 皆様、新年あけましておめでとうございます。
 以前にも書いたことがあるのですが、「新年あけましておめでとう」という意味は、「新年を迎えることができておめでたい」ということですね。「おめでたい」というからには、新年を迎えることが容易なことではない、というニュアンスが込められていることがわかります。
 おそらく大昔は、自然災害だとか戦だとか病気といったことで亡くなる人が多かったのでしょう。つまり、生き抜くのが難しい時代だったのだと思います。それゆえに、新たな年を迎えられたということは、無事に生き抜くことができたということになり、「おめでたい」ことだとして祝うのでしょう。
 もっとも、現代社会でも、地震や洪水などの自然災害、戦争やテロ、そして事故や病気などで亡くなる可能性は少なくありません。私の身近でも、昨年、私より一歳年下の友人が病気で亡くなりました。「あけましておめでとう」ということはできませんでした。人生というものは、本当に「一瞬先は闇」であり、何があるかわかりません。
 かといって、いたずらに不安に思う必要はありませんが、用心するに越したことはありません。「来年も無事に迎えることができる」ことを当然のことと考えず、何があっても対処できるように、いわゆる「リスク管理」をすることが、とりわけこれからの時代、大切であるように思われます。
 リスク管理とは、悪いことを考えて脅えることではなく、悪いことが起きても安心していられるということです。「リスクなどを考えるのは縁起悪い」などと言わず、前向きにリスクを考えていくべきだと思います。
 リスク管理の基本は、「バランス」にあります。悲観的になりすぎても、楽観的になりすぎてもうまくいきません。楽観的すぎるとリスクを考えず無鉄砲になって危険ですが、悲観的すぎても、あまりにも保守的になって冒険を侵すことをためらってしまい危険です。なぜなら、人生というものは、保守的であること、冒険を侵さないことが、かえって危険であることもあるからです。
 悲観主義者からは「楽観的」と思われ、楽観主義者からは「悲観的」と思われるような姿勢が、もっとも適切な立ち位置ではないかと思います。仏教的にいえば「中道」ということになるでしょうか。
 そのような姿勢で今年を生き抜いて、また一年後、皆様と一緒に「新年あけましておめでとう」と祝えるようになりたいものです。
 今年もよろしくお願いいたします。

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