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心の治癒と魂の覚醒

        

訂正とお詫び&苦難について

 前回のブログで、今月19日と20日の瞑想教室は「怒りを捨てる瞑想」というテーマで行うと告知しましたが、これは来月の瞑想教室のテーマでした、今月は「 苦難を瞑想によって乗り越える」がテーマです。訂正してお詫び申し上げます。
 苦難と言えば、今この文章を書いているのがお昼頃で、今まで経験したことがないと言われる大型台風が、私の住んでいる関東地方では今日の夕方から深夜に通過してピークを迎えると報道しています。すでにかなり強い雨風で外は荒れており、ピーク時にはこの何倍も強い暴風雨になると思うと、さすがに不穏な気持ちになります。
 人生においては、さまざまな苦難が訪れますが、今回は自然がもたらす苦難です。自然がもたらす苦難だけはどうしようもありません。とにかく、少しでも被害が少なくてすむように、できる限りのことをして、後は、天命を待つしか仕方がありません。
 避けられる苦難であるならば、避けるように努力すべきです。しかし、どうしても避けられない苦難であれば、それを受け入れるしかありません。ただ、苦難を受け入れるということは、口で言うほど簡単ではありません。「溺れるものはワラをもつかむ」という言葉がありますが、明らかに無駄だと思われるものにも、すがりたくなってきます。しかし、しょせん、ワラはワラです。ワラをつかんでも何の助けにもなりません。
 その一方で、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉があります。溺れている人は、もがくからかえって沈んでしまうのです。こういうときは、思いきり息を吸って(肺に空気をいっぱい入れて)、手足をばたつかせることなく体の力を抜けば、たいてい浮かぶことができます(たくさん服を着ていると難しいかもしれませんが)。つまり、いたずらにもがくのをやめた方が、助かる可能性が高いのです。
 この教訓は、人生における他の苦難にも当てはまります。どうしても避けられない苦難に見舞われたとき、それを心静かに受け入れることができる境地を、日頃から瞑想によって養っていくことが大切になってきます。いざというとき、そうして練ってきた心が、救いをもたらしてくれるでしょう。苦難を乗り越える勇気を与えてくれるでしょう。
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令和という時代

 まず例によって報告とお知らせから。
 先日、イデア ライフ アカデミー哲学教室第6回(4/6、4/7)が開催されました。テーマは「ピタゴラスに学ぶ魂の覚醒法」。ピタゴラスというと、「ピタゴラスの定理」の発見者として有名ですが、他にも「哲学者」という言葉の発案者であり、「コスモス(宇宙)」という言葉の発案者、また音階を発見し、音楽療法の創始者でもあり、さらには数秘術の創始者でもあったのですが、その正体は、人々を解脱(魂の覚醒)に導いた、カルト教団の教祖だったのです。ピタゴラス教団では、数理学・幾何学・音楽・天文学をカリキュラムにして、解脱をめざしていました。そんなピタゴラスの教えをまとめてみましたので、ぜひご覧になってください。
https://www.youtube.com/watch?v=0CUs_5ZoPAs&feature=youtu.be
 なお、次回は瞑想教室(4/20、4/21)ですが、「インナーチャイルドを癒す」というテーマで行います。親との間でトラウマを抱え悩んでいる人は、参考になると思いますので、ぜひ参加なさってみてください。
参加お申し込み↓
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/

 さて、本題に入りますが、今回は、令和という時代について、私の思いを書いてみたいと思います。新元号が「令和」に決まり、世間は浮かれたムードになっているような雰囲気がします。しかし、日本はますます厳しい時代になっていくことは必至です。その理由は二つです。
①少子高齢化
②精神性の劣化
あえて今さら私が述べることでもないのですが、①の少子高齢化により、内需が縮小していきます。つまり、働く人も、ものを買う人もいなくなり、経済活動が衰退します。それだけでも大打撃なのですが、高齢者を支えるための社会福祉費や医療費が増大し、さらに経済を圧迫します。実際、すでに人手不足による企業の倒産件数が過去最高になりました。外国人を連れてきても限界がありますし、そのための体制も不備だらけで、第一、経済が衰えている国に外国人は来なくなるでしょう。このままでは、大部分の人は貧しく、医療も福祉も満足に受けられないほど悲惨な状態になり、後進国になってしまう可能性があります。仮に今から子供を増やす政策を実施できたとしても(それはまず無理でしょうが)、その効果が出るには最低でも20年はかかるでしょう。
日本がこのような状態になることは、ずっと前から統計的にわかっていたことです。しかし、政治家も官僚も、目の先のことしか考えず、その対策を怠ってきました。国民もそのような危機感に目を向けてきませんでした。

そうなってしまったのは、②の「精神性の劣化」が大きな原因であると思います。
個人差はもちろんありますが、国民全体を見渡すと、まず自分のことしか考えない人が増えてきたような気がします。自分の保身が第一で、他者のことだとか、国のことだといったことを考えなくなりました。
むかしは、私財をなげうってまで、国のために尽くす高潔な政治家もいました。しかし今は、国や国民のことなどより、自分の懐を肥やすことだけにしか興味がない政治家ばかりです。しかも、政治家の資質があるとは思えないようなレベルの低さです。実業家にしても、国を豊かにするという、高い志を持った人たちもたくさんいました。しかし今、そのような実業家はどれくらいいるでしょうか。社員を奴隷のように扱って、自分が豊かになることしか頭にないようなブラックな人たちばかりが目立ちます。

国民の知性もあきらかに劣化しています。試験の問題を解く以前に、その問題文の内容さえ読解できない人が増えたのです。出版界を見ても、内容がスカスカの本ばかり売れています。国も、すぐにお金になる研究には助成金を出していますが、すぐにはお金にならない(が偉大な発明・発見に結びつく)研究にはお金を出しません。これでは日本の知性や技術力は衰えるばかりです。

そして、「楽してうまいことやろう」という、安易でさもしい気持ちを持った人が増えたように思います。我慢強さ、忍耐強さがありません。努力や苦労なくして結果が出るわけないのですが、魔法みたいなことばかり追い求めているのです。いまだに「引きよせの法則」系のセミナーが大繁盛しているのがその端的な例と言えるでしょう。あさましいというか、あまりにも幼稚です。
他にもいろいろありますが、きりがないのでやめておきます。

国にとって、少子高齢化と精神性の劣化というのは、致命的な問題なのです。どちらかだけでも大変なのに、その両方の問題を抱えている日本は、これからしだいに没落に向かっていくことは避けられません。たとえるなら、船底に穴があいてゆっくりと沈んでいく船に乗っているようなものです。そんなときに「令和の時代はよい時代になるといいな」とか、「来年のオリンピックが楽しみです」といった感想を述べている人がニュースでたくさん見られました。そんなことを言っている場合ではないのです。危機感をもって、船底に空いた穴を埋めて沈没をくい止めるために、国民が一致協力して取り組まなければならないときなのです。

では、いったいどうしたらいいのでしょうか?
まずは、精神性の劣化から解決しなければなりません。精神性こそがもっとも根本であり基盤だからです。自分のことだけ考えるのではなく、他者や国のことを考える高潔な人材を育成するところから始める必要があります。
そのためには、「哲学」を学ぶことが大切になってきます。個人も企業も国家も、根底にしっかりとした哲学を持っていなければ、うまくいきません。しっかりした哲学をもつには、そのための素材となるような、古今東西のすぐれた哲学や思想を学ぶ必要があります。そうして、生き方のモデル、手本となる考え方を学ぶ必要があるわけです。何事もそうですが、まったくの無から何かを生み出すことは困難です。モデルや手本となるものを学び、それをもとに、自分なりのものを築いていくのです。

そのために、私は「イデア ライフ アカデミー」という哲学&瞑想の教室を立ち上げたわけです。それが、この沈みゆく船に乗っている者のひとりとして、哲学を学んできた私のやるべき役割だと考えたからです。
ところが、「哲学」というと、世のほとんどの人は「一部のインテリや変わり者が学ぶ、難しくてよくわからない、現実生活に役に立たない単なる暇つぶしや教養のひとつ」くらいにしか思っていません。そうして、小手先の金儲けだとか、幸運を呼び寄せる方法みたいなものを追い求めています。
これは間違いです。哲学は、あらゆる成功や幸福の「土壌」のようなもので、土壌が貧しければ、実りを得ることはできません。せいぜい一時的なもので終わります。

以上のような理由から、日本を没落から救うには、私たちは哲学を学び、そうして精神性を向上させるところから始めなければならないと、私は訴えたいのです。
しかし、いくら私が声高に訴えたとしても、その声に耳を傾けてくれる人は、残念ながらほんのわずかしかおらず、無視されるだけだということもわかっています。あと30年とか、半世紀くらいたって、そのときにまだこの文章が残っていたら、私の訴えが正しいものであったと認められるかもしれませんが、それまでは負け犬の遠吠えのごとく、イデア ライフ アカデミーだとか執筆などを通して、私は叫び続けていくことになるだろうと思います。
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非凡な人


 皆様、明けましておめでとうございます。
 今年はいったいどんな一年になるのでしょうか? いま世界は、困難な課題を数多く抱えています。テロ、戦争、環境破壊、貧困、その他さまざまです。とりわけ日本においては、北朝鮮問題がどうなるかが差し迫った課題でしょう。中長期的には、少子高齢化に伴って生じるであろうさまざまな危機的状況への課題です。いずれもかなり厳しい状況にあるように思われます。
 北朝鮮の問題が来年までこのままの状態で続くとは思えませんので、何らかのところに行き着くでしょう。それが戦争という最悪の形にならないことを祈るばかりですが、どうであれ、今年はおそらく、世界が大きく舵を切る一年になるのではないかと思います。
 いま世界は、「分断」の方向に揺れています。この傾向はもうしばらく続くと思います。今年はそれが過剰になるかもしれません。しかし歴史は、振り子のように対極の間を行ったりきたりしていますから、いずれ分断から「統合」へと振れてくるはずです。
 ある程度、こうした両極性を行き来するのは自然であるかと思いますが、極端になりすぎると危険です。特に分断に向かう場合は非常に危険です。分断は、差別、憎悪、争いを生むからです。その最たるものが戦争です。
 ですから、極端になりすぎてはまずいのです。極端にならないよう、バランスを取らなければなりません。バランスを取れる人々が求められるのです。

 成功する人というのは、世の中の流れの一歩先を読む人です。あまり先を読みすぎても成功しません。トランプ大統領が成功した(大統領に選ばれた)のも、分断に傾いていくという世の中の流れの一歩先を読んだからです。
 しかし、一歩先を読んで行動する人は、ともすると流れを極端に加速させてアンバランスにさせてしまいます。その点でもトランプ大統領は典型的な人物です。
 それに対して、いわゆる聖者だとか覚者という人は、一歩や二歩どころか、もっとはるか先を読んでいます。ですから、たいていその時代の人々からは理解されません。イエス・キリストなどはその典型です。もちろん、マザーテレサやガンジーのように、理解されて賞賛された聖者もいます(それでも認められるまではかなりの辛酸をなめました)。しかしそれは、たまたまそうなっただけです。
 芸術家などもこの傾向があります。死んでしばらくしてから作品が理解され、賞賛されたりするのです。ゴッホなどはその典型かもしれません。

 真の宗教家や芸術家というものは、自分を売るために世の中の流れに迎合することなく、自らの信念や内的直感に正直に生きています。それがたまたま時代の流れに合えば理解され賞賛されますが、時代の流れにあわなければ無視され、ときには迫害さえ受けたりします。
 いわゆる「平凡な人」と「非凡な人」の違いというのは、ここにあると思います。特殊な才能があるとか、すごいことをやってのけたというよりはむしろ、時代の流れに迎合せず、遠い未来の先を読んで、その信念や内的な直感に敢然と従う生き方ができる人ではないかと思います。時代にあわなければ、そういう人は世の中から「変人」扱いされます。もう少しましな評価が与えられる場合は「孤高の人」となって敬遠されます。

 時代の流れに迎合しない生き方は孤独です。さまざまな面で社会的にも不利になりやすいです。しかし、そうした「非凡な人」こそが、極端に傾きだした世の中にバランスをもたらすことができる可能性を持っていると私は考えます。
 真理というものは、極端な考え方の中には決して存在しません。真理は、右にも左にも、白にも黒にも存在しません。真理は、両者が統合されたレベルに存在しているからです。
 そのことを見通した人は、世の中が右に流れれば「左だ!」と叫びます。白に流れれば「黒だ!」と叫びます。だから、人々から憎まれ嫌われ、笑われ蔑まれます。
 それでもなお、その生き方を貫くのです。
 それゆえに、そういう人々は「非凡な人」なのです。
 私はいま、たくさんのそういう「非凡な人」が、宇宙から求められているように思います。「世の中から」ではありません。「宇宙から」です。

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クリスマスによせて


 今年もクリスマスがやってきます。クリスマスは、本来はクリスチャンがイエスを偲び、彼の教えを再確認する日であると思うのですが、今では単なるお祭りに過ぎなくなりました。
 クリスマスの日に寄せて、私が聖書の言葉の中でもっとも好きな、また、もっともイエスの教えを表していると思う言葉を、以下に抜粋してお贈りします(英語版の聖書から私が訳したものです)。

コリント人への手紙 第1-13章

たとえ、私が人の言葉、天使の言葉で話したとしても、
愛がなければ、
やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

たとえ、私が預言の才能を持ち、またあらゆる奥義とあらゆる知識に通じ、
山をも動かすほどの信仰を持っていたとしても、
愛がなければ、
何の価値もありません。

たとえ、すべての財産を貧しい人たちに分け与え、
自分のからだを焼かれるために捧げたとしても、
愛がなければ、
何の役にも立ちません。

愛は寛容であり、愛は親切です。
妬むことをせず、自慢せず、高ぶりません。
礼儀に反することをせず、利己的にならず、怒らず、
人のあやまちを記憶にとどめません。

不正を喜ばず、真理を喜びます。

愛は決してあきらめず、その信念と希望と忍耐は決して色あせません。
愛は永遠です。
預言は一時的なものであり、異言ならばやみ、知識ならばすたれます。

なぜなら、私たちの知識も預言も一部分だからです。
完全なものが現われたら、部分的なものは消え去ります。

私が子供であったときには、子供らしく話し、子供らしく感じ、子供らしく考えました。しかし大人になった今、子供らしい生き方は失われてしまいました。

今、私たちは鏡に映して見るようにぼんやり見ていますが、その時には、顔と顔を向き合わせて見るでしょう。
私の知るところは、今は一部分にすぎません。しかしその時には、私が完全に知られているように、私も完全に知ることになるでしょう。

このように、いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。
その中でも一番偉大なものは、愛です。


※信仰と希望と愛がキリスト教ではもっとも重要視されていますが、この三つのなかで「愛」が一番偉大だと言っています。信仰よりも、愛の方が偉大だと言っているのです。

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人生は演劇のようなもの

 先日、タレントの小林麻央さんが34歳の若さでお亡くなりになりました。連日、大きなニュースとして取り上げられています。私は芸能界にはそれほど関心がないのですが、今回のことは特別な思いで見ていました。というのは、かつてがん患者のためのホスピスで心理カウンセラーをしていたとき、麻央さんととてもよく似た患者さんがいたからです。
 その方も麻央さんとほぼ同じ35歳の若さでがんで亡くなりました。肺がんでした。25歳くらいのときからさまざまな病気になって入退院を繰り返し、ついにはがんでお亡くなりになったのです。25歳から35歳といえば、おそらく人生でももっとも充実した幸せな年代かと思いますが、彼女はその間、ほとんど闘病生活をしていました。結婚もしていませんでした。普通に考えれば、人生を呪いたくなってもおかしくない悲惨な状況です。
 けれども彼女は、そうしたものはまったく感じることなく、とても明るく品位があり、そして何よりも、人のことを気遣う優しさ、思いやりに溢れていました。麻央さんの場合も、報道によれば、そうであったといいます。一番苦しいのは自分であるはずなのに、いつも人のことを気遣っていました。
 私たち医療スタッフは、この患者さんのそうした振る舞いに深い感銘を受けました。「神々しいくらいだ」とまで語るスタッフもいました。そして、患者の死に慣れている私たちでしたが、彼女が亡くなったときはみんな悲しみに沈みました。
 今回、麻央さんが亡くなられたニュースを見て、私はこの忘れがたい患者さんのことを思い出し、胸が締め付けられるような思いがしました。

 それにしても、こういうことがあるたびに、私はいつも思います。それは、「よい人は早く死んでいくなあ」ということです。私はたくさんの患者さんが亡くなっていくのを見てきましたが、その多くが本当によい人たちでした。なぜよい人がこんなに苦しんで、まだ死ぬほどの年齢でもないのに死んでいかなければならないのかという疑問と憤りを感じました。生きていれば、この世の中をよいものに変えていく影響力を放っていたに違いないと思えるような人ばかりでした。
 これと同じ感想を、ユダヤ強制収容所を経験した精神科医V・フランクルも述べています。「よい人は早く死んでいく」と。こうした思いを抱くのは私だけではないとわかりました。もちろん、だからといって、長生きしている人は悪い人であるというわけではありませんが。
 もし神がいて、神はこの世をよくしていくのが使命であるとするなら、なぜよい人を早く死ぬことをゆるしているのか、私にはわかりません。「神の真意は人間には計り知れないものなのだ」などと言われますが、まさにその通りなのでしょう。
 ただ私は、計り知れないのに無理に神を信じようとしなくても、単純に神はいないのだとした方が、合理的な判断ではないかと思ったりもするのですが、そのへんは信仰の問題なので、とやかく言うつもりはありません。実際、神は私たちには想像もできないような、完璧な計画を持っているのかもしれません。それを否定する根拠はありません。
 ただ私としては、単純に神はいないのだと思っています。少なくとも、人格神というものは。

 さて、私はこの患者さんのことを、講演などでよく話したりするのですが、あるとき、話を聞きにきてくれた人から、こんなことを言われたことがありました。
 「人に気を使うよい人だから、がんになったのではないでしょうか?」
 確かに、がんになりやすい性格といった記事を見ますと、「人に気を使う優しい性格」といった特徴があると書かれてあったりします。
 これを読んだとき、私は疑問を覚えました。
 「人に気を使って優しいことは、よいことである。なぜよいことをしているのに、がんになって苦しんで死ななければならないのか?」と。まさに、人生の不条理を感じました。
そして、「では、どうしたらいいというのか」と悩みました。人に気を使って優しくなったりせず、自分勝手に生きればいいというのかと。
 もちろん、がんになる原因は複雑で、単純に「よい人だからがんになる、悪い人はならない」と結論づけることはできないでしょうし、仮にそうした性格特徴が見られるとしても、その背後にある深い動機といったところまで調査しなければ、真相はわからないと思います。
 ただ、もし本当に文字通り、「人に気を使う優しいよい人ががんになりやすく、人に気を使わない自分勝手な人はがんになりにくい」ということが真実であるとしたら、私はあえてがんになる道を選ぼうと思いました。
 自分勝手に生きて、つまり、大なり小なり人に迷惑をかけたり不愉快にさせる生き方をして長生きしたとしても、それが何だというのでしょう。そんな生き方をして嬉しいでしょうか?
 人生の価値は、その長さで決まるわけではないと思います。
 たとえ短くても、それまでの人生がすばらしいもので、世のため人のためになるようなものであったら、その方がずっと価値があると思います。存在した意味があると思います。
 人生とは、演劇のようなものだと思います。人は観客であり、舞台の上に立つ俳優です。なぜなら、人は誰でも他者から見られ、他者を見ているからです。無人島で過ごすのではない限り、常に私たちは「観客」から見られている「俳優」なのです。
 長いばかりで何の感動も与えない演劇など、退屈でつまらないだけの駄作です。しかし、たとえ上演時間は短くても、すばらしい感動を与えるなら、それは名作としていつまでも人々の記憶に残り、また後世の人々の生きるお手本になります。いわゆる不朽の名作です。
 私たちは駄作ではなく、見るものをいつまでも感動させる「不朽の名作」として、人生を創造していきたいと思うのです。
「人に気を使って優しく生きてがんになるというのなら、喜んでがんになってやろうじゃないか!」
 今では、そんな反骨精神を持っています。

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