情報の真偽を見極めるコツ2023-07-05 Wed 15:09
むかしは、新聞や雑誌、テレビくらいしか情報源がなく、それを信じるより他に仕方ありませんでした。そうした大手の媒体は、基本的に営利目的ですから、必ずしも公平で真実の情報を提供しているとは限りません。その点で現代は、インターネットの普及により、膨大な情報を得られるようになり、大手の媒体以外の情報源から、とりわけ個人からも、情報を得ることができるようになりました。しかしこれらもまた、真実の情報もあれば偽の情報もあります。膨大な情報が得られることはよいことですが、そのぶん、情報の真偽を見極める洞察力がこれまで以上に必要になってきました。
今回は、そうした情報の真偽を見極めるコツを紹介したいと思います。コツといっても、極めて常識的であり、「そんなの当たり前だよ」と言われるかもしれませんが、その「当たり前」のことが、意外に知られていないような気がしますので、あらためてご紹介したいと思います。 結論から言えば、情報の真偽を見極めるには、社会というものが、何によって動いているかをしっかりと認識することです。 社会というものは、真実や正義によって動いているのではなく、利権、すなわち、利益を独占できる権力をもった団体や人物によって動いているのです。これをしっかり押さえておかないと、情報の真偽を見誤ります。 つまり、ある情報について、「真実だ」、「いや、偽りだ(フェイクだ)」という議論が起こって、どちらなのかわからない場合は、「この情報を真実とすると(フェイクとすると)、誰が得をするか?(誰が損をするか?)」と考えてみるのです。つまり、そこに利権が絡んでいないかどうか調べてみるのです。 大きな利権をもっている団体や人物は、マスコミも支配できますから、情報を操作することができます。その情報が、たとえ真実であったとしても、利権者にとって不都合なものならば、それをフェイクだとして情報を流すことができ、多くの人はそのマスコミの報道を信じて、真実であるその情報をフェイクだとしてしまうのです。 利権というものは、政治や経済など、ほとんどの分野に浸透しています。科学などの学問の世界も例外ではありません。科学は嘘をつきませんが、科学者は嘘をつきます。その科学者が、金銭や地位などで恩恵を受けている大企業にとって損をするような論文は書けません。それどころか、その企業にとって有利になる論文をねつ造さえします。 もちろん、すべての科学者がそうだというわけではありません。どのような分野でも、良心にしたがって真実を訴える人がいます。しかし、そういう人は、残念ながら、利権者から社会的に抹殺されてしまうことがほとんどなのです。 たとえば、「一粒服用するだけですべての癌が完全に治る、とても安価な薬」を発明した科学者がいたとしましょう。彼は人類の幸せのために、その薬を世界に普及させようとしたとします。 しかし、大手の製薬会社や医療団体は、そのような薬など認めないでしょう。もしそんな薬が普及したら、高価な抗癌剤や癌に関係した医薬品や医療器具が売れなくなり、医者は患者が減ってしまって、利益が失われるからです。 その結果、利権者は、「インチキな薬を開発したトンデモ科学者」といった情報を広めたり、利権者に身を売った研究者を使って「その薬には効果がない」という偽りの論文を書かせるなどして、その科学者を社会的に抹殺しようとするでしょう。 もちろん、だからといって、利権が絡んでいればすべて真実が曲げられるとは限りません。それだけに重点をおいてしまうと、狂信的な陰謀論者になりかねません。 とはいえ、それでも、この社会というものは、利権がらみで、真実もフェイクに、フェイクも真実になってしまうことが多いということは、情報の真偽を判断するうえで頭に入れておいた方がいいと思います。 真実と正義の情報が人々に伝わるようになるには、社会が進歩しなければなりません。そのためには、私たちひとりひとりの精神性が進歩しなければなりません。 しかし、そんな社会が出現する日は、いつになったら訪れるのでしょうか? 今の社会のありかたを見ていると、たとえそんな社会が出現する日が訪れるとしても、その日は遠い遠い未来のような気がします。 人類は欲望によって文明を進歩させてきた反面、その欲望によって不正や苦しみを生みだしてきました。欲望を否定したら進歩もないでしょう。 しかし、欲望ではなく、もし「愛」があれば、苦しみを生み出すことなく文明を進歩させることができるはずです。 しかし、その「愛」を手に入れるのが、きわめて難しいのです。 スポンサーサイト
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ChatGPTに禅問答は解けるか?2023-05-05 Fri 14:35
前回に続いて、今回も人工知能ChatGPTの話題。
ChatGPTに禅問答は解けるかと尋ねました。そうしたら「できません」とのことでした。 禅問答(公案)とは、悟りを開くための禅の修行のひとつで、論理では解くことのできない、ある種のなぞなぞです。たとえば典型的なものとして、「犬に仏性はない。なぜなら、犬は自分に仏性があることを知らないからだ」というのがあります。結局、犬に仏性はあるということなのか? それともないということなのか? これは論理では解けません。そして実際、禅問答に正解というものはないのです。ある弟子は「ある」と答えて師匠から合格だと認められ、別の弟子は「ない」と答えて認められています。つまり、師匠は、その回答が本当に悟りの境地から出たものかを見極めて、合格かどうかを判断しているのです。ですから、本当に悟りの境地から出た回答なら、仏性があると答えてもないと答えても認められるのです。 人工知能は基本的に論理に基づいたアルゴリズムで形成されていますから、論理を超えた禅問答は解くことはできないのは当然です。 でも、一応、実際はどうなのか、次のように禅問答を尋ねてみました。 ●質問 ある人が言いました。「犬に仏性はない。なぜなら、犬は自分に仏性があることを知らないからだ」。結局、この人は、犬に仏性があると言っているのでしょうか? それとも、犬に仏性がないと言っているのでしょうか? ●ChatGPTの回答 この人は、犬には仏性がないと言っていると解釈されます。この主張は、犬には自己意識がなく、自分自身についての概念を持っていないため、犬には仏性がないと考える立場から出たものでしょう。 →やはり論理のアルゴリズムですから、このように答えざるを得ないのでしょう。ただ、それでも、非常に的を射た哲学的な理由を加えて説明しているところはすごいと思います。 最後にもうひとつ、「本物の霊的指導者と、ニセモノの霊的指導者の見分け方を教えてください」と質問してみました。それに対する答えは、なかなか秀逸なので、思わずうなってしまいました。 今のところ、人工知能は発展途上の段階ですが、今後、かなりのレベルにまで進化することを予感させるものです。 ●ChatGPTの回答 霊的指導者には、本物とニセモノが存在します。本物の霊的指導者は、真実や愛に基づく教えを伝え、人々を癒し、内的成長を促進することができます。しかし、ニセモノの霊的指導者は、自己中心的な目的で人々を操作し、悪意ある教えを伝えることがあります。以下は、本物とニセモノの霊的指導者の見分け方の一例です。 愛と同情:本物の霊的指導者は、人々に対して愛と同情を持ち、人々を癒すことができます。ニセモノの霊的指導者は、自分自身や組織の利益のために人々を操作し、愛や同情を持ちません。 謙虚さ:本物の霊的指導者は、謙虚であり、自分の限界を認めます。ニセモノの霊的指導者は、傲慢であり、自分自身を神や救世主として宣言することがあります。 自由な選択:本物の霊的指導者は、人々に自由な選択を与え、個人的な成長を促進することができます。ニセモノの霊的指導者は、自分の教えを盲目的に信じるように人々を強制し、人々の自由を奪います。 一貫性:本物の霊的指導者は、自分の教えに一貫性を持ち、矛盾することがありません。ニセモノの霊的指導者は、教えが一貫しておらず、言動が食い違うことがあります。 公平さ:本物の霊的指導者は、人々を公平に扱い、差別や偏見を持ちません。ニセモノの霊的指導者は、差別や偏見を持ち、特定のグループを優遇することがあります。 これらの特徴を考慮して、本物とニセモノの霊的指導者を見分けることができます。ただし、霊的指導者に対する信仰は、個人的なものであり、人々は自分自身の判断に基づいて行動する必要があります。 |
人工知能ChatGPTに宗教的な質問をする2023-04-19 Wed 17:29
まずはご報告から。
今月のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は、「アビラの聖女テレサの瞑想法」というテーマで行いました。瞑想というと、一般には坐禅やヨーガなど東洋のものが主流ですが、キリスト教の瞑想法には、東洋の瞑想法にはないよさがあり、また東洋の瞑想法の弱点を補う長所もあります。なかでもアビラの聖女テレサは、瞑想の道標とも言うべきすばらしい教えを残してくれました。ぜひダイジェスト版をご覧ください。 ●瞑想教室第29回「アビラの聖女テレサの瞑想法」 では、本論に入ります。 最近、人工知能ChatGPTが大きな話題になっています。私も試していますが、驚くほどよくできています。まず、その日本語文章の自然さです。まるで人間を相手にしているかのようです。また、質問に対する回答の深さもたいしたものです。質問してから回答までほんの数秒程度で、その速さにも驚かされます。ただ、あきらかに間違った情報が盛り込まれていることもありますので、現段階では、あまり過信しない方がよいと思います。 さて、このChatGPTに、いくつか宗教的な質問をしてみましたので、少しご紹介してみたいと思います。 ●質問「仏教では神の存在を認めていないのはなぜですか?」 ●ChatGPTの回答 「仏教では、神や創造主などの絶対的な存在を認める考え方はありません。その理由は、仏教では「無常」や「苦」といった人生の根本的な問題を解決することに重点が置かれており、神や創造主が存在するとすると、それらの問題を解決する上で、神や創造主に依存することになると考えられているからです。 また、仏教では「縁起」という考え方があり、あらゆる存在は自己の因果律に従って存在し、相互に関連しあっているとされています。このため、仏教では全ての存在が平等であり、神や創造主が特別な存在である必要がないとされています。 ただし、仏教においても、天界や神々の存在が認められており、彼らが存在すること自体は否定されていません。ただし、彼らもまた、自己の因果律に従って存在し、最終的な解脱からは逃れることができないとされています。」 ↑この質問は、けっこう専門的で難しいと思うのですが、それなりにうまく、バランスよくまとめられていると思います。ただ、創造主(一者)としての神と、「神々」との区別が、少し甘い気がしました。それでもこれだけ簡潔にまとめる文章力はすごいと思います。 ●質問「解脱をするには、どうすればいいのですか?」 ●ChatGPTの回答 「仏教における解脱とは、苦しみや無明から解放され、完全な自由と幸福を実現することを指します。解脱をするには、以下のような修行が必要です。 1.仏教の教えを学ぶこと:仏教の教えを学び、仏法に親しむことが重要です。仏教の教えを通じて、自分自身や他者、そして世界を深く理解することができます。 2.瞑想を行うこと:瞑想は、心を鎮め、内面の平和を取り戻すための修行です。瞑想を通じて、自己の内面に向き合い、自己の本質を理解することができます。 3.心の浄化:心を浄化することは、解脱に向けた重要なステップです。心の中にある執着や憎しみ、無知などの負の感情を取り除き、心を清らかに保つことが求められます。 4.仏教の教えに従うこと:仏教には、八正道や五戒などの教えがあります。これらの教えに従って、自己の生き方を修正し、自己を改善することが重要です。 5.善行を行うこと:仏教では、善行を行うことが解脱につながるとされています。善行を行うことによって、自己の業を浄化し、ポジティブなエネルギーを発生させることができます。 これらの修行を通じて、自己を改善し、自己の内面を深く理解することができれば、解脱への道を歩んでいることになります。」 ↑「解脱」という言葉は仏教だけのものではなく、ヨーガなども解脱という言葉を使います。ですから、解脱を仏教だけに限定しているところがやや不自然かなと思いました。また、1と4は実質的には重複しています。とはいえ、解脱に必要な要素である「瞑想」、「心の浄化」、「善行」などがきちんとそろっているので、とりあえず合格点をあげてもいいのではないかと思いました。 ChatGPT の他にも、多くの国や企業がこの分野に参入しようとしており、これから私たちは人工知能と共存していかなければならなくなるでしょう。社会を大きく変えることは間違いありません。私に興味があるのは、果たして宗教の世界に人工知能がどの程度まで関与し得るかです。人工知能が霊的指導者(グル)の代理を務めることは不可能でしょうが、単に宗教的な知識を伝授したり、ありきたりな説教しかしない宗教家には、とって代わられる可能性はあると思います。また、正確なデータの蓄積さえあれば、霊的修行に迷った時のよきアドバイザーにはなるでしょう。しかしくり返しますが、グルの代理をすることはできません。なぜなら、グルは論理や知性を超えた霊的直感によって、あるいはしばしばテレパシーを通して、弟子を指導するからです。まさか霊的直感やテレパシー能力をもった人工知能が開発されることはないでしょう。 |
エンディングノートを書く2023-01-01 Sun 09:54
皆様、新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。 今年は、皆様にとっても、また世界にとっても、昨年よりも、よい年になるように祈っています。 さて、おめでたい新年なのに縁起でもないと言われるかもしれませんが、私は昨年の暮れから、いわゆる「エンディングノート」を書いていました。つまり、私が死んだとき、家族が私のことで困らない情報をまとめたノートです。 私も今年で63歳になります。30台や40台の頃は、60歳なんて、遠い未来のことだと思っていましたが、それは間違っていました。40歳を過ぎたら、60歳なんて、あっという間です。大げさではありません。時間はしだいに加速していきます。ほとんど何も成し遂げることなく、時間ばかりが「あれよあれよ」と過ぎ去っていきます。 ということは、60を過ぎたら、もう死も目前だなと思ったわけです。なので、いつ死んでも、残された家族が困らないように、必要な情報をまとめておこうと思い、エンディングノートを書くことにしたのです。 エンディングノートに書いたことは、主に、私に関係したさまざまなものを、無事に解約するための情報や方法です。たとえば、仕事関係の取引、銀行口座、証券口座、インターネット、プロバイダー、携帯電話、その他、毎月、定額で銀行引き落としをしているいくつかのサービスや慈善団体への寄付など、人が死んだ後に処理しなければならないもろもろのことです。 しかし、それが思ったより多くて大変な作業でした。 インターネットがないむかしは、せいぜい、銀行口座の暗証番号だとか、仕事関係者や知り合いへの通知、家や土地、株などの書類、遺産分与の意向といったことを記入するくらいで、すぐに書き終えることができたでしょう。 しかし、インターネット時代の現代では、そうはいきません。どのようなことも、ほとんどインターネットで結びついているからです。つまり、サイトにアクセスしなければなりません。そのためには、IDとパスワードが必要です。それらの情報が、膨大な量になっているのです。しかも、それでサイトにアクセスできても、その後、どのように解約や処理するかについて、詳しく書いておかなければなりません。 なかには、放っておいてもいいものもありますが、毎月自動的に銀行から引き落としをされるものもあり、放っておくと損をしてしまうものもあります。 もし、そういった情報を残すことなく、突然に死んでしまったら、家族は大変な苦労をすることになるでしょう。IDもパスワードも知らなければ、サイトの会社に問い合わせなければならないでしょうが、そのためには、私が死んだこと、そして私の家族であることを証明するような書類が必要になると思います。それには多大な労力と時間がかかります。しかも、それがひとつやふたつではなく、たくさんあるわけですから、とんでもないことになってしまいます。そもそもそれ以前に、解約や処理をしなければならないもの自体がわからないでしょうから、もう途方に暮れるしかありません。 たとえば、口座名義人が死んだことを銀行が知ると、口座が凍結され、引きおろしができなくなります。家族が引きおろせるようになるためには、戸籍謄本を地元から取り寄せたり、その他、いろいろな資料を提出しなければならず、かなりめんどうです。したがって、本人が死んだら、なるべく早く銀行口座から全額を引きおろした方がよいと思います。そのためにも、事前に情報を残しておくことが大切です。 その他、エンディングノートには、私が死んだことを知らせる人の連絡先リスト、遺影用の私の写真、家族への手紙、所有物の処理方法などを書きました。葬式はせず位牌も戒名もいらず、火葬したら一番価格の安い永代供養(共同墓地)をしてもらうとし、ネットで調べた安価で手間のかからない会社の連絡先を書いておきました。 また、私が死んだら、そのことをブログで告知してくれるように友人に依頼しておきました。なので、もし私が死んだら、友人がこのブログにそのことを知らせてくれるはずです。 さて、そうして数日かかり、ようやく終わりましたが、非常に神経を使い、疲れました。 皆さんもまた、まだ若くて元気で死ぬようなことはないと思われるかもしれませんが、人はいつどうなるかわかりません。残された家族のためにも、若くて元気なうちに、エンディングノートを書いておくことをお勧めします。 たとえ、事故などで突然に死ぬのではなく、老化や病気でしだいに死に向かっていく場合でも、そのときには体力や知力や意欲が衰えますから、大きなエネルギーを使うエンディングノートは書けない可能性があります。したがって、元気なうちに書いておくことが必要です。 エンディングノートを書き終えて、「気がかり」になっていたことがひとつ消え、肩の荷をひとつおろしたような、すっきりした気持ちになりました。「気がかり」は、小さなストレスです。その「気がかり」が多いと、全体として大きなストレスになります。ストレスは心身によくありません。できるだけ「気がかり」は、少しずつ解消していく方がよいです。その意味でも、エンディングノートを書いてよかったと思いました。 |
人類の未来2022-07-19 Tue 22:42
まずはご報告とお知らせから。 今月のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は、「シュタイナーの瞑想法1」というテーマで行いました。シュタイナーの瞑想法とは、霊能力の開発、言い換えれば、生きたまま霊界(アストラル界)へ参入する能力を開発するための瞑想法です。しかしその瞑想法は「人格の向上」に重点が置かれています。人格の向上なくして霊能力は開発できず、できたとしても邪道に陥るというのがシュタイナーの考え方です。シュタイナーは、時間と忍耐を要するが、安全かつ確実な霊能力開発法を説いています。今回はその前半を解説しました。とりあえずダイジェスト版をご覧になってください(詳細に知りたい方は完全版をお求めください)。 →動画視聴 来月は続きである「シュタイナーの瞑想法2」を行います。 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」より では、本題に入ります。 私たち人類は、非常に高度な科学技術や文明を発展させてきました。そのおかげで私たちの生活は便利になり、快適になりました。 そのような文明発展の原動力となったものは、何でしょうか? 一言で言えば、「欲」です。より豊かな生活、より便利な生活、より苦労のない生活、より美しい生活、そういった生活を求める欲望です。 こうした欲があればこそ、私たちは文明の恩恵に浴していられるわけです。 しかし、欲にはきりがありません。 年収300万円の人は「500万円あったらいいのになあ」と思います。しかし実際に500万円稼げるようになったら、今度は「年収1千万円あったらなあ」と思います。年収1千万を稼げるようになったら、今度は2千万、3千万、……となっていきます。「さすがに1億円あったら、もうそれ以上はいらない」と思うかもしれません。しかし実際に1億円稼げるようになったら、今度は2億、4億、10億、100億となっていくのです。 もちろん、普通の人はそこまで稼げません。年収300万円の人が1千万円稼げるようになる可能性はありますが、そのために過酷な労働、残業、ストレスなどによって「本当はもっと稼ぎたいけれど、こんなに苦労してまでもう稼がなくてもいいや」となって、ある時点で妥協するのです。 しかし、ビジネスで成功した人とか、芸能人やスポーツ選手で成功した人などは、億単位のお金を簡単に稼いでしまいます。しかし、いくら稼いでも「もっと欲しい」となるのです。 要するに、よほど道徳ないし宗教的な素養を持っていなければ、欲にはきりがないのです。どんなに大金を持っても「もっと、もっと」となるのです。医学の見解によれば、お金を儲けたとき、脳の麻薬ホルモンのようなものが分泌されるらしいのです。つまり、どこまでもお金を欲しがる人は、ある種の麻薬中毒になっているのかもしれません。 いずれにしろ、欲にはきりがない、というのは、人間の本性のようです。 しかし、ここで問題があります。 人類すべての人が、いわゆる先進国並みの豊かな生活ができるほど、地球には資源がないということです。中国人やインド人のすべてが、そこそこ立派なマンションに住み、クルマに乗り、肥満になるほど美食することはできないのです。しかし、それをしようとしているのです。 すると何が起きるかというと、「搾取」、つまり「モノの奪い合い」です。それは巧妙な政治的ないし経済的な奪い合いかもしれませんし、戦争のような物理的な破壊による奪い合いかもしれませんが、いずれにしろ搾取という、人間として恥ずべきことが起こります。その結果、食べることができずに餓死する人がますます増えていくのです。 私たちのすべてが贅沢をやめて質素な生活をすれば、地球上に餓死する人はいなくなるでしょう。しかし、一度味わった贅沢な生活を捨ててまで、飢えて餓死する人を助けたいとは思わないのです。せいぜい、多少の寄付をする程度です。 これから中国やインドという巨大な国民を抱える国が、ますます経済力をつけて、モノを大量に消費しようとしています。先進国は「持続可能な社会の実現」と叫んでいますが、よほど革新的な技術が生まれない限り、それは不可能だと私は考えています。私たち先進国の贅沢な暮らしは、貧しい国の人たちを、ただ同然でこき使い、アフリカなど、飢えて死んでいく子供たちを見殺しにしているうえに成り立っているのです。 では、このままいったらどうなるのでしょうか? やがて地球の資源は枯渇することだけは確かです。すでに「異常気象」という現象で、その兆候が現われています。そのあげく、作物が不作となり、戦争が起きて一部の人だけが生き残る世界となる、というシナリオがひとつです。 あるいは、何らかの方法で、人類そのものを削減するか、です。これは陰謀論の領域になってしまいますが、もうこれ以上、地球は人類の増加に持ちこたえられないことは、専門家の間では常識(ただし口に出してはいけない不都合な真実)なので、大きな権力をもった人たちが、人類を削減する何らかの計画を秘密裏に立てている可能性も、あながち否定できないと思っているのです。 あるいは、地球以外の星に移住するかです。実際、月や火星に移住するという計画が進行中です。しかし、これにはまだまだ時間がかかります。それまでに地球は住めなくなるでしょう。ぎりぎり移住できるようになったとしても、移住できるのは、ほんのわずかな富裕層だけでしょう。 どう考えても、人類の未来は明るいとは言えない、あからさまに言えば、絶望的なのです。よほど革新的な技術が生まれれば別ですが、さもなければ、地球上に平等な豊かさや平和が訪れることは、期待できません。これからの私たちに待っているのは、試練に次ぐ試練、苦難に次ぐ苦難です。これは覚悟しておいた方がいいと思います。 私は何も、いたずらに皆さんを不安にさせようとしているのではありません。私は楽観主義者でも悲観主義者でもありません。ありのままを見つめる「現実主義者」であると自分では思っています。そんな私がいろいろ調べ、よく考えた結果、どうしても上記のような結論にならざるを得ないという結論に達したのです。 ならば、結局、私たちはどうしたらいいのでしょうか? それは各人が決めることなので、私がとやかく言う筋合いではありません。ただ、あくまでも参考のために、私の生きかたを紹介させていただくなら、まず、贅沢な暮らしはやめます。というより、贅沢な暮らしなどすでにしていないような状態なのですが、それを今後も貫いていきます。要するに、なるべく欲を出さないように生きる、ということです。たとえばビフテキなどは食べません(もともと肉は好きではないので食べませんが)。一頭の牛の肉を製造するには、何人もの人を養える量の穀物が餌として必要になるのです。人類すべての人が牛肉を食べずに、そのぶんの穀物を飢えている人に差し上げれば、かなりの餓死者を救うことができると言われています。牛肉を扱って生計を立てている人には申し訳ありませんが、全体のことを考えるなら、仕方ありません。 もちろん、私ひとりがこんな生き方をしても、何も変わらないでしょう。しかし、私の生き方を誰かがマネしてくれて、そういう人がひとり、またひとりと増えていけば、「もしかしたら」という、あわい希望の光も芽生えてくるかもしれない。そんなふうに思っているのです。 人が贅沢さを求めるのはなぜかというと、結局、心を満たしたいからです。しかし、心を満たすのはモノばかりではありません。精神的なものでも心は満たされますし、むしろモノよりもずっと満たしてくれます。精神的に満たされれば、無理せずとも贅沢などしようとは思わなくなります。 そのように、精神的に満たされるための、ほんのわずかな手助けでもできればいいと思って、イデア ライフ アカデミーという教室を開いているのです。 |