心の治癒と魂の覚醒

        

人生は演劇のようなもの

 先日、タレントの小林麻央さんが34歳の若さでお亡くなりになりました。連日、大きなニュースとして取り上げられています。私は芸能界にはそれほど関心がないのですが、今回のことは特別な思いで見ていました。というのは、かつてがん患者のためのホスピスで心理カウンセラーをしていたとき、麻央さんととてもよく似た患者さんがいたからです。
 その方も麻央さんとほぼ同じ35歳の若さでがんで亡くなりました。肺がんでした。25歳くらいのときからさまざまな病気になって入退院を繰り返し、ついにはがんでお亡くなりになったのです。25歳から35歳といえば、おそらく人生でももっとも充実した幸せな年代かと思いますが、彼女はその間、ほとんど闘病生活をしていました。結婚もしていませんでした。普通に考えれば、人生を呪いたくなってもおかしくない悲惨な状況です。
 けれども彼女は、そうしたものはまったく感じることなく、とても明るく品位があり、そして何よりも、人のことを気遣う優しさ、思いやりに溢れていました。麻央さんの場合も、報道によれば、そうであったといいます。一番苦しいのは自分であるはずなのに、いつも人のことを気遣っていました。
 私たち医療スタッフは、この患者さんのそうした振る舞いに深い感銘を受けました。「神々しいくらいだ」とまで語るスタッフもいました。そして、患者の死に慣れている私たちでしたが、彼女が亡くなったときはみんな悲しみに沈みました。
 今回、麻央さんが亡くなられたニュースを見て、私はこの忘れがたい患者さんのことを思い出し、胸が締め付けられるような思いがしました。

 それにしても、こういうことがあるたびに、私はいつも思います。それは、「よい人は早く死んでいくなあ」ということです。私はたくさんの患者さんが亡くなっていくのを見てきましたが、その多くが本当によい人たちでした。なぜよい人がこんなに苦しんで、まだ死ぬほどの年齢でもないのに死んでいかなければならないのかという疑問と憤りを感じました。生きていれば、この世の中をよいものに変えていく影響力を放っていたに違いないと思えるような人ばかりでした。
 これと同じ感想を、ユダヤ強制収容所を経験した精神科医V・フランクルも述べています。「よい人は早く死んでいく」と。こうした思いを抱くのは私だけではないとわかりました。もちろん、だからといって、長生きしている人は悪い人であるというわけではありませんが。
 もし神がいて、神はこの世をよくしていくのが使命であるとするなら、なぜよい人を早く死ぬことをゆるしているのか、私にはわかりません。「神の真意は人間には計り知れないものなのだ」などと言われますが、まさにその通りなのでしょう。
 ただ私は、計り知れないのに無理に神を信じようとしなくても、単純に神はいないのだとした方が、合理的な判断ではないかと思ったりもするのですが、そのへんは信仰の問題なので、とやかく言うつもりはありません。実際、神は私たちには想像もできないような、完璧な計画を持っているのかもしれません。それを否定する根拠はありません。
 ただ私としては、単純に神はいないのだと思っています。少なくとも、人格神というものは。

 さて、私はこの患者さんのことを、講演などでよく話したりするのですが、あるとき、話を聞きにきてくれた人から、こんなことを言われたことがありました。
 「人に気を使うよい人だから、がんになったのではないでしょうか?」
 確かに、がんになりやすい性格といった記事を見ますと、「人に気を使う優しい性格」といった特徴があると書かれてあったりします。
 これを読んだとき、私は疑問を覚えました。
 「人に気を使って優しいことは、よいことである。なぜよいことをしているのに、がんになって苦しんで死ななければならないのか?」と。まさに、人生の不条理を感じました。
そして、「では、どうしたらいいというのか」と悩みました。人に気を使って優しくなったりせず、自分勝手に生きればいいというのかと。
 もちろん、がんになる原因は複雑で、単純に「よい人だからがんになる、悪い人はならない」と結論づけることはできないでしょうし、仮にそうした性格特徴が見られるとしても、その背後にある深い動機といったところまで調査しなければ、真相はわからないと思います。
 ただ、もし本当に文字通り、「人に気を使う優しいよい人ががんになりやすく、人に気を使わない自分勝手な人はがんになりにくい」ということが真実であるとしたら、私はあえてがんになる道を選ぼうと思いました。
 自分勝手に生きて、つまり、大なり小なり人に迷惑をかけたり不愉快にさせる生き方をして長生きしたとしても、それが何だというのでしょう。そんな生き方をして嬉しいでしょうか?
 人生の価値は、その長さで決まるわけではないと思います。
 たとえ短くても、それまでの人生がすばらしいもので、世のため人のためになるようなものであったら、その方がずっと価値があると思います。存在した意味があると思います。
 人生とは、演劇のようなものだと思います。人は観客であり、舞台の上に立つ俳優です。なぜなら、人は誰でも他者から見られ、他者を見ているからです。無人島で過ごすのではない限り、常に私たちは「観客」から見られている「俳優」なのです。
 長いばかりで何の感動も与えない演劇など、退屈でつまらないだけの駄作です。しかし、たとえ上演時間は短くても、すばらしい感動を与えるなら、それは名作としていつまでも人々の記憶に残り、また後世の人々の生きるお手本になります。いわゆる不朽の名作です。
 私たちは駄作ではなく、見るものをいつまでも感動させる「不朽の名作」として、人生を創造していきたいと思うのです。
「人に気を使って優しく生きてがんになるというのなら、喜んでがんになってやろうじゃないか!」
 今では、そんな反骨精神を持っています。

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トランプ大統領誕生に関して

 いま世界は、トランプ新大統領の話題で持ちきりである。
 当初、あのような暴言や差別的な発言をする人物が大統領になるとは、ほとんどの人が予想していなかった。大統領に選ばれたとき、株価は大きく値下がりした。株価は人々の心理を反映する。彼が大統領になれば大変なことになると思ったわけだ。しかし、直後の記者会見でまともな発言をしたことから、「大統領になれば、案外うまくいくかもしれない」との期待感から、株価は上昇に転じた。ところが、つい最近の記者会見での品性のなさ、大統領就任挨拶における、経済政策への具体性のなさや過剰な保護主義への懸念のため、不透明感が広がり、株価は再び下げに転じている。
 トランプ大統領の基本理念は、極論を言えば、「自分さえよければどうでもいい」ということだ。「アメリカの経済さえよくなればそれでいい」である。そうした明確で力強い発言が、経済的に恵まれない人々に支持され、当選したと考えられている。
 確かに、経済的に困っている人にとっては、それを救ってくれそうな力強いメッセージを掲げる人物を支持したくなるのは、無理もないことだと思う。不法移民のために職を奪われたり、治安が悪化したり、その対策として莫大な税金が投入されていることに不満を抱くことも無理のないことだ。そういう鬱積した不満を抱えていた人々にとって「国境に壁を作る」といった、途方もない提案をする人物には、ある種の清涼感というか、ガス抜きのような効果を発揮したのであろう。
 いずれにしろ、トランプ大統領の誕生で、アメリカは大きく分断した。正確に言えば、分断状態がさらに大きくあからさまになった。アメリカの分断への傾向は以前からすでに始まっている。たとえば、ある州では、貧困層にばかり税金が使われることに不満を抱いた富裕層が、富裕層だけが暮らすための市を作ってしまった。
 また、イギリスのEU離脱をはじめ、アメリカのみならず、世界的な潮流として、世界は分断の方向に揺れ動いているように感じられる。
 歴史というものは、振り子のように揺れながら進んでいる。あるときは分断に揺れ、しばらくするとそれではいけないと、統合に揺れる。しかしそれもしばらくすると、さまざまな問題が生じてきて、また分断へと向かう。こういうことを繰り返している。
 したがって、しばらく世界は分断に向かうかもしれないが、またしばらくすれば統合へと揺れてくるに違いない。
 しかしながら、分断状態には非常な危険がつきまとう。その最たるものが戦争だ。戦争が起こる主な原因は、領土と経済である。経済戦争が、本当の戦争に移行する可能性は十分にあり得る。経済戦争は、自分だけの利益を考えようとすることから始まる。
 それゆえ、トランプ大統領の誕生が、世界が戦争へと突入していくきっかけにならなければいいと懸念している。現代は、過去の戦争とは異なり、多くの国が核を持っている。一度核が使われたら、その報復として何発もの核が使われる。その結果、地球上の多くの国が、放射線と核の冬(核爆弾で舞い上がった塵が長い間空を覆って太陽がささなくなる現象)により、人間が住めない場所になる。そうなると、勝者も敗者もない。人類そのものが絶滅の危機にさらされ、すべての国が敗者となり、悲惨なことになる。
 まさか、そんなことはないだろうと思われるかもしれないが、イギリスのEU離脱にしてもトランプ大統領の誕生にしても、ほとんどの人は「まさかそんなことはないだろう」と思っていたことが起きたのだから、世界大戦が勃発することも、決してあり得ないことではない。そんな状態になってから、世界が統合に揺れだしたとしても、すでに遅い。
 仮に、そこまでの惨事には至らなくても、「自分さえよければいい」という考え方は、目先はいいかもしれないが、結局は自分の首をも絞めることになる。なぜなら、人類は相互協力によって成り立っているからだ。たとえば、自分さえよければいいという社員が多い会社は、決して伸びていかない。会社も社会も、世界も、オーケストラのようなもので、お互いの立場を大切にして調和的に進んでいくことで、すべての人が恩恵を受けるような構造をしている。
 したがって、もしこのままトランプ大統領が「自分さえよければいい」という姿勢で貫いていけば、しばらくは対症療法的にうまくいって国民の支持を得るかもしれないが、やがてうまくいかなくなり、国民からの支持を失うのではないかと、私は考えている。
 では、私たちとしては、これからどうしたらいいのだろうか?
 一部の独裁国家を除いて、世界の多くの国の政策は、民意が反映される。したがって、私たちひとりひとりが「自分だけがよければいい」という考え方を持たないことだ。お互いの利益を考えるようにすることである。そうすれば、そういう考え方を持った人が指導者に選ばれる。
 「しかし、私たち日本人がそんな考え方をしても、アメリカや世界は何も変わらないのではないか」と思われるかもしれない。私は、そうでもないと思っている。というのは、現在は、インターネットで世界中の人が情報を共有しているからだ。たとえば、私たちの身近で生じた小さな親切行為が、またたくまに世界中に配信され、世界中の人が知ることができる時代である。実際、たとえば日本人の礼儀正しさなどは、インターネットを通して世界中の人から称賛されている。
 私たちが、「自分のことさえよければいい」という考え方を断固として退け、「お互いのためによいことを選ぶ」という考え方を持って実践していけば、世界中の国民に影響を与え、世界を変えていくことができる。即効性はないかもしれないが、じわじわと大きな潮流になる可能性は十分にある。
 私たちひとりひとりには、世界を変えるほどの力はないかもしれない。しかし、世界を変えることができる力を持った人を、そうなるように変える力は、誰もが持っている。

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リスク管理

 皆様、新年あけましておめでとうございます。
 以前にも書いたことがあるのですが、「新年あけましておめでとう」という意味は、「新年を迎えることができておめでたい」ということですね。「おめでたい」というからには、新年を迎えることが容易なことではない、というニュアンスが込められていることがわかります。
 おそらく大昔は、自然災害だとか戦だとか病気といったことで亡くなる人が多かったのでしょう。つまり、生き抜くのが難しい時代だったのだと思います。それゆえに、新たな年を迎えられたということは、無事に生き抜くことができたということになり、「おめでたい」ことだとして祝うのでしょう。
 もっとも、現代社会でも、地震や洪水などの自然災害、戦争やテロ、そして事故や病気などで亡くなる可能性は少なくありません。私の身近でも、昨年、私より一歳年下の友人が病気で亡くなりました。「あけましておめでとう」ということはできませんでした。人生というものは、本当に「一瞬先は闇」であり、何があるかわかりません。
 かといって、いたずらに不安に思う必要はありませんが、用心するに越したことはありません。「来年も無事に迎えることができる」ことを当然のことと考えず、何があっても対処できるように、いわゆる「リスク管理」をすることが、とりわけこれからの時代、大切であるように思われます。
 リスク管理とは、悪いことを考えて脅えることではなく、悪いことが起きても安心していられるということです。「リスクなどを考えるのは縁起悪い」などと言わず、前向きにリスクを考えていくべきだと思います。
 リスク管理の基本は、「バランス」にあります。悲観的になりすぎても、楽観的になりすぎてもうまくいきません。楽観的すぎるとリスクを考えず無鉄砲になって危険ですが、悲観的すぎても、あまりにも保守的になって冒険を侵すことをためらってしまい危険です。なぜなら、人生というものは、保守的であること、冒険を侵さないことが、かえって危険であることもあるからです。
 悲観主義者からは「楽観的」と思われ、楽観主義者からは「悲観的」と思われるような姿勢が、もっとも適切な立ち位置ではないかと思います。仏教的にいえば「中道」ということになるでしょうか。
 そのような姿勢で今年を生き抜いて、また一年後、皆様と一緒に「新年あけましておめでとう」と祝えるようになりたいものです。
 今年もよろしくお願いいたします。

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私のウツの調子

 いま現在の私のウツの調子を書かせていただきます。
 結論から言いますと、70パーセントまで回復しました。しかし、それ以上にはなかなか回復せず、言わば足踏み状態です。まず、何をしても、長くできません。頭脳労働をしても肉体労働をしても、疲れやすく、長く続けられません。ぼちぼちと執筆活動を再開したのですが、以前は数時間くらい集中できたのに、今は1時間か2時間くらいが限界で、そのくらい執筆すると強い疲労感に襲われ、同時に気分も落ち込んで横にならなくてはなりません。肉体労働も、1時間ほど自転車に乗ったり歩いたりしているのですが、やはり1時間が限界で、それ以上はできません。1時間でも、疲労感が激しく、終わった後はしばらく横になります。疲労の原因は運動不足だろうと思って、少し前まで自転車やウォーキングを毎日していたのですが、身体が鉛のように重くなり、ふらふらしてしまうので、今は一日おきくらいにしています。
 新薬エビリファイの量を増やせば活力が出るかと思って倍に増やしてみましたが、効果はありませんでした。サプリメントなども、今のところ、活力が湧いてくるようなものには出会っていません。気分の落ち込みは、疲れていなければあまりありませんが、疲れると、陰鬱な気分に襲われます。
 何の心配も煩わしいこともなく、ただ毎日を平安にのんびり暮らすことができれば、もっと回復できるのかもしれませんが、あいにく、そのような恵まれた環境にはなく、なんだかんだといろいろと神経を疲弊させるような問題を抱えていて(生きている限り誰だって同じですが)、それがウツの回復の足かせになっているといった事情もあります。人生というものは、本当によくもまあ、次から次へと悩みの種がやってくるものだと感心してしまいます。「もぐら叩きゲーム」みたいに、こっちのもぐらを叩けばあっちからまたもぐらが出てきて、そのもぐらを叩いたと思ったら別のところからまたもぐらが出てくる……、といったように、人生というのはまるで終わりなき「もぐら叩きゲーム」のようなものではないかと思ったりもします。これ以上いうと愚痴になるのでやめますが、私だけでなく、誰しも悩みや問題を抱えて生きているわけで、私などはマシな方かもしれません。

 そういうわけで、ウツになる前の活力を100パーセントとすると、今は70パーセントくらいの出力しか出せないでいます。「休み休みでしか何かをできない」といった感じで、少し大げさですが、ある種の障害者になったような気持ちで、そんな自分がじれったくなるときがあります。頭や肉体を使った後は、身体中に重りをつけられているような感じで、精神も集中できなくなり、物事を考えられなくなり、ときおり、乗り物酔いみたいな軽い吐き気がしてきます。何をする意欲も気力もなくなります。こうなると、ただ横になってじっとしているしかありません。そうして30分か1時間くらい横になっていると少し回復するので、また何かを始める、といったことの繰り返しです。
 それでも、ウツがひどかったときは10パーセントか20パーセントくらいしか出力が出なかったことを思えば、ずいぶん回復したことは確かです。これも、物心両面にわたる皆様のおかげであると感謝しています。
 インターネットの情報によれば、ウツ病が完全に寛解(完全に治る)ことは少ないとありました。やはり、70パーセントとか、よくて80パーセントくらいまでは回復しますが、「元気ハツラツ」にまで治ることは少ないようなのです。
 それでも私はあきらめずに、これからも改善に向けて努力していくつもりではいますが、しかし、たとえ70パーセントの出力といえども、ある意味では、それでも恵まれていると思っています。ときどき、身体が動かない障害者の人が、口に棒をくわえて、その棒でパソコンのキーをひとつひとつ時間をかけて打って文章を書いたりしている光景をテレビで見かけたりしますが、それでもコツコツやっていくと、いつのまにか大量の文章ができあがっていたりします。
 そのような方に比べれば、私はずっと恵まれています。以前の状態と比べることなく、もともとこの程度の出力なのだと思えば、あまり悲観せずにすみます。
 ウツがひどいときは、執筆などまったくできなかったのですが、今は、亀のように遅い歩みではありますが、コツコツと文章を打てるようになりました。どのような内容の本であるかは、もう少し固まってからご紹介させていただきたいと思いますが、私の体験がかなり盛り込まれた内容の本です。いつ完成するか、いつ出版できるのかはまったくわかりません。

 以上が、いまの私の現状です。70パーセントの出力のまま、本を書き、ブログを書き、「もぐら叩き」をしています。「70パーセントの力しか出せない」ではなく「70パーセントも力が出せる」と考えるようにしています。
 そうして、しぶとく、コツコツと、亀のように歩んでいくまでです。人生はしぶとい人間が最後には勝つと私は信じています。
 ただ、活動できる時間とエネルギーが限定されてしまったので、今では、本当に有意義なことのみを選択して、時間とエネルギーを使うようにしています。そう思うと、今まで自分はなんて無駄で意味のないことに時間やエネルギーを費やしてきたのだろうかと痛感します。見ているときは面白いが見終わったら何も残らないテレビ番組やビデオを見るとか、読まなくてもいいような本を読むとか、考えなくてもいいようなことを考えたりとか、とにかくいろいろと人生の貴重な時間とエネルギーを無駄に使ってきたなあと思ったりします。若いときは、それでもいろいろな経験が肥やしになりますからいいとしても、残りの人生が限られてくる中年以後は、時間とエネルギーの使い方に十分に気をつけて、物事に優先順位をつけて、本当に価値のあることだけに時間とエネルギーを費やすようにした方がよろしいのではないかと思います。
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健康寿命について

 私のうつの状態は、新薬エビリファイでずいぶん楽になり、その結果、精神安定剤の減薬も一日1錠くらいにまで減らすことができた。気分のひどい落ち込みもなくなり、病状は底を打って回復へと向かいつつあることは確かなようだ。しかし、完全治癒までには先は長そうである。というのも、何かを長い間集中して行うことができないからだ。本を読んだり軽作業をしたり、ドライブなどをしても、1、2時間もすると具合が悪くなり、その後はしばらく横になるか、翌日になっても具合の悪さを引きずることがある。また、あいかわらず不眠は改善されていない。明け方まで眠れないとか、あるいはすぐ眠れても深夜や明け方に必ず二度は目が覚めてその後は睡眠が浅いという日が、ここ3年以上、一日も欠かさず続いている。そして朝起きたときに、何ともいえない疲労感が伴う。それは健康な人が覚える疲労感ではなく、「生きるのに疲れた」ような感覚を伴う疲労感なのだ。
 とはいえ、以前は何も活動することができず、一日の大半を横になって過ごしていたことが多かったときと比べれば、たとえ1、2時間でも活動できるようになったこと、また、活動しようという意欲が出てきたことは、大きな進歩であると思う。
 ここまで回復できたきっかけを作ったのはエビリファイであるが、それだけでなく、他にも健康によいとされるさまざまな試みをしていたことも大きかったであろうし、読者の皆様からのあたたかいご支援や声援にも支えられていたことは間違いない。
 ただ、まだ薬を服用しているということは、本当には治っていないということであり、もしエビリファイの服用をやめたら元に戻ってしまうというのであれば、今の調子よさというのは、薬が作り出した、ある種の幻想ということになるのではないだろうか。今後の課題は、エビリファイの服用を減らしていき、何の薬も服用していなくてもひどいうつ状態にならないことになるかと思う。

 ところで、こうしてうつを治すために、毎日のようにインターネットから情報を集めているが、そのおかげで、うつだけでなく、健康に生きるにはどうすればいいかという知識を、かなり蓄えることができたように思う。
 そんななか、ちょっと気になる情報が目にとまった。
 それは「健康寿命」についてである。最近よく耳にする言葉なので、ご存じの方も多いと思うが、これは健康で生きられる寿命ということだ。いま日本の平均寿命は、男性が約80歳、女性が約87歳である。定年は60歳であるが、政府は65歳まで定年を延長する方向で検討しているようなので、仮に65歳まで働いたとしても、男性は定年から15年間、女性は22年間の余生があることになる。これはそこそこ長い年数である。
 ところが、健康で元気に生きられる年齢(健康寿命)は、男性が71歳、女性が74歳で、それ以降は介護などの助けが必要になる可能性が高いという。つまり、定年後、健康で元気に生きられる期間は、男性で6年間、女性で9年間ということになる。
 これは、ほんのつかのまの時間とはいえないだろうか。
 定年後は(経済的にゆとりができて)自分の好きなことをして悠々自適な生活を送ろうと、楽しみに考えている人もいるかと思う。旅行に行ったり、趣味に没頭したり、いろいろなことをしようと。だが、そうできる期間は、男性の場合、わずか6年だけなのだ。今までずっと会社務めをし、嫌なことがあっても苦しいことがあってもじっと我慢し、好きなことがあってもやらないで辛抱し、ようやく定年を迎え、「これから好きなことをどんどんやるぞ!」と思っても、その期間はわずか6年。6年なんてあっというまに過ぎてしまう。人生の大半は、好きなこともやれない不本意な辛い生き方をしていたことになる。しかも、若いときのように何でもできるわけではない。体力は落ちているから、できることも限られてくる。若いときの6年と、老後の6年は違うのだ。
 それでも、定年後に好きなことができる人は、まだ恵まれているともいえる。現実は、貧困に苦しむ老人が急増している。大企業の役員クラスか、公務員で定年後の生活保障が充実しているか、親から大きな遺産をもらったといった人以外は、定年後も働かなければならない場合が多い。
 さらに追い打ちをかけるように、働けなくなって介護が必要になったとしても、お金がなくて介護施設に入れない場合が出てくる。先日、そういうことに詳しい人と話をしたのだが、介護が必要な人は非常に多く、そのため民間企業はせっせと介護施設の建設に乗り出しているのだが、いざ介護施設を建てたものの、入居者がいなくてがらんとしていることも少なくないというのだ。なぜなら、入りたくてもお金がなくて入れない人が多いからだという。
 世界経済は、これからますます厳しくなっていくといわれている。とりわけ少子高齢化と巨大な債務を抱える日本の未来は、絶望的ともいえるかもしれない。もはや、金融政策などといった小手先の手段ではどうにもならない状態であり、何の打つ手もないという。政治家たちは国民がパニックになるので口を閉じているが、経済学者の間では日本経済が破綻することは常識になっているようだ。私の友人の兄が、テレビなどにも出演している有名な経済学者なのだが、その人は、日本経済が破綻することは絶対に避けられないと断言している。その未来図は想像するだけでも恐ろしい。これは「予言」などというオカルト的なものではなく、統計から導き出された必然的な結果なのだ。問題は「いつそうなるか」ということだけである。大多数の見解では、すでに目前にせまっているらしい。
 さて、以上のような現実を知って、私は暗澹たるものを感じてしまった。人生というものは、何とはかないというか、残酷なのだろうと。
 大多数の人が、定年後の人生は悲惨なものになることがわかっているなら、好きなこともせず、ストレスのたまる嫌な仕事を定年まで我慢することには、ほとんど意味がないのではないだろうか?
 仕事が好きで生きがいを感じるというのなら、それはよいことだ。そういう人は幸せだ。しかし、好きでもない仕事をいやいやしながら定年後の自由な生活を夢見るというのは、やめた方がいいかもしれない。
 ならば、好きなことがあれば、いますぐにやっておいた方がいいのではないだろうか。どのみちよほどの大金がなければ生活が厳しくなるのは変わらないとすれば、少しくらい給料が下がっても、やりたい仕事ができる会社に転職するとか、あるいは出世などあきらめて仕事はほどほどにし、余暇を作って好きなことをやる。何よりも霊的向上を促す勉強や修行をする。この方が、ずっといいような気がするのだが、どうだろうか? そのような生き方をすれば、定年後にどうなろうと後悔はしないような気がする。
 もちろん、どのような生き方をするべきかは、個人によって違うから何ともいえない。しかしいずれにしろ、後悔のない生き方をするべきであろう。「私はこのままの生き方をして、将来、後悔することはないだろうか?」と、自問してみることが大切だろう。

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