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心の治癒と魂の覚醒

        

ブログ内容の変化と今後の展開について

 少し長い記事になりますが、重要なことなのでご容赦ください。
 このブログを立ち上げてから、7年が過ぎようとしています。最初の立ち上げからずっと読んでくださっている方は、内容が少し変わってきたことに気づかれたかもしれません。あるいは最近、このブログの存在を知って最新記事を読み、さらに過去にさかのぼって記事を読んでくださった方は、「最初の頃の記事と最近の記事とでは主張が違っているぞ」と、戸惑いを感じておられるかもしれません。
 私は特定の宗教や教えの信奉者ではなく、探求者であり求道者ですから、新たな発見や思索の進展があれば、考え方や主張にも変化が生じてきます。そのために、過去の記事と内容が変化してきています。
 皆様には、ぜひ最新の記事(考え方)に注目していただきたいと思います。それが今の私の考えだからです。もちろん、将来、また別の違う考え方に変わって、今の考え方を否定することもあるかもしれません。あるいは「やはり最初に書いた記事の方が正しかった」となって、むかしの考え方に戻る可能性もないとは言えません(したがって、むかしの記事も削除しないで残すことにします)。
 しかし基本的には、少しずつ本質的なものに近づいているのではないかと思いますので、最近の記事に注目していただきたいと思うのです。

 では、過去に書いた記事と、最新の考え方とでは、どのように異なってきたのか、簡単に紹介してみたいと思います。詳しいことは順次、記事にしていくつもりです。
 今までの私の考え方は、ヨーガ、仏教、キリスト教、神智学、スピリチュアル、その他、さまざまな教えで説かれている共通したエッセンスを土台に構築してきました。本質的ではない教義などは無視し、本質であると思われるものだけを取り上げて、それを真実の教えと位置づけ、いかに霊性を進化させるか、ということをテーマにしてきました。
 たとえば、霊界、生まれ変わり、カルマの法則、神や守護霊の存在といった教えを土台にした上で、霊性を進化させるにはどうすればいいかと探求してきたわけです。
 つまり、霊界、生まれ変わり、カルマの法則、神や守護霊の存在といったものが真実であるという前提で、考え方を展開してきたのです。
 しかし最近、そうした考え方には、二つの大きな欠陥があるのではないかと、考えるようになりました。
 ひとつは、霊界も、生まれ変わりも、カルマの法則も、神も守護霊も、存在しない可能性があるということです。そう考える根拠や理由は、今後、記事にしていくつもりですが、もちろん、真実はわかりません。科学的に証明することはできないでしょう。存在するかもしれませんし、存在しないかもしれません。仮に存在するとしても、私たちが想像しているものとはまったく違ったものであるかもしれません。
 万が一、そういったものが存在しなかったら、今までそういったものを考え方の土台にして積み上げてきたものが、根底から覆されることになります。これはもう、ある種のギャンブルのような、危険な賭けです。「信仰とはそういうものだ」と言われればそうなのでしょうが、ときにそれが人生の重大な損失に結びつきかねません。
 たとえば、輸血を禁止している宗教があります。そのため、その宗教の信者の子供が事故や病気で輸血が必要になったとき、それを拒んで子供を死なせてしまうということが、実際に起こっています。しかし、もし後になってそのような教えが間違いだったことが何らかの形で証明されたとしたら、どうでしょうか。もはや、取り返しがつきません。間違っていたではすまされないのです。
 ですから、私たちは、存在するのかしないのか、はっきりしない不確かなものの上に、考え方や生きる指針を構築するべきではないと思うのです。本当に確かなものの上に構築するべきだと思うのです。
 このことは、「信仰」を否定していることになります。なぜなら、信仰とは基本的に、不確かなものを信じることによって成り立っているからです。

 不確かなものを基盤としている信仰では、人格や霊性を変容させることに限界があると考えています。ある程度は効力がありますが、限界があるのです。
 たとえば、仏教ではカルマの法則(因果応報)を説いています。悪いことをすれば、いつかその報いを受けて苦しむことになるというのです。ですから、本当に仏教(因果応報)を信じていれば、悪いことなどできないでしょう。
 しかし現実は、悪いことをしている仏教徒などたくさんいます。
 それはなぜでしょうか?
 彼らは、悪い報いを受けることを覚悟で悪いことをしているのでしょうか?
 そうは思えません。本当には信じていないから、悪いことができるのです。本当に信じていれば、悪いことなどできないはずです。
 では、なぜ本当に信じていないかというと、因果応報といっても、証明されたわけではなく、しょせんは「わからないもの」だからです。不確かだからです。「本当にそんなものがあるのか」と、疑おうと思えばいくらでも疑うことができるからです。そのため、信じきることができないのです。
 もしも、因果応報が、数学のように誰が何と言おうと否定できない真理であるならば、本当に信じることができるでしょう。そうなると「信じる」というより、「認識する」と言った方が正しいと思いますが、とにかく、悪いことはしなくなるでしょう。

 あるいはまた、「守護霊が災難から守ってくれる」という教えを信じたつもりでいても、いざ巨大地震や津波や洪水などに襲われて、家が崩壊しかけたり、濁流に飲み込まれそうになったとき、「守護霊が守ってくれるから大丈夫だ」と安心立命の境地でいられるでしょうか。
 そういう強い信仰を持った人もいるかもしれませんが、稀だと思います。安寧に暮らしている状態、あるいは多少の苦しみ程度の状態であれば、神や守護霊を信じることができる(信じていると思い込むことができる)でしょうが、いざとなれば、パニックになって信仰も何もかもかなぐり捨ててしまう人がほとんどだと思います。
 それも結局、不確かなものを信じているからです。不確かなものは、本当に心の底から信じることはできないのです。できる人がいるとしたら、狂信者です。狂信者はどんなことでも信じてしまいます。だから邪教と呼ばれる集団が存在しているわけですが、狂信は危険です。一歩間違えれば殺人も正当化し、人の人生も自分の人生も台無しにしてしまいます。しかし狂信者でなければ、不確かなものを心の底から信じることは、おそらく不可能だと思います。

 このように、霊的次元の事柄という、不確かなものを信じるところから始まる宗教やスピリチュアルの教えでは、そもそも無理があるのです。多くの人は、自分は信じていると信じているだけであって、本当は信じていないのです。
 しかし本当に信じていなければ、より正確に言うならば、認識していなければ、人を根底から変容させることはできないと思います。ちょっと何かあれば、ガラガラと崩れ去っていくもろいものです。そんなものは役にたちません。だからといって狂信はできません。
 私たちが本当に変容するためには、確かなものの上に考え方の基盤をおかなければならないのです。確かなものを信じる(認識する)必要があるのです。

 ところで、釈迦やイエス、その他、偉大な聖人たちは、霊界や生まれ変わりやカルマの法則や神や守護霊といったことを説きましたが、彼らは本当にそれらを信じていたのでしょうか?
 それらを「認識」していたのでしょうか?
 私は次のように考えています。
 彼らは、彼らが見たものを信じた(認識した)に過ぎません。
 たとえば、私があなたの前で、「念力でスプーンを曲げます」と言って、スプーンを曲げたとします。今まで念力など信じていなかったのに、いざ目の前でスプーンが曲がるのを見て、あなたは念力の存在を信じるはずです。信じるというより、認める(認識する)でしょう。
 しかし、実はそれは手品で、誰にもわからないような巧妙なトリックによるものだったとします。つまり、あなたは念力の存在を信じていますが、実は、念力ではなかったということです。
 同じように、聖人たちは、霊的な事柄に関する非常にリアルな体験をしたので、それが実際に存在するかのような確信を持ったのですが、実際には存在しないものだったと、私は考えています。霊界や生まれ変わりやカルマの法則や神や守護霊の、ある種の幻想を見て、その幻想を真実だと錯覚してしまった可能性があるのです。聖人たちは嘘を言っているのではなく、彼らが見たものが真実ではなかったのです。要するに、彼らはそれを真実ではないと気づくことができなかったのです。
 聖人といえども、肉体を持っている限りは人間です。人間であれば間違いも犯します。聖人と呼ばれているからといって、全知全能な存在として神格化することは正しくありません。
 たとえば、統合失調症の人は幻想を見ます。彼らにとってそれは幻想ではありません。現実なのです(幻想だとわかれば病気ではありません)。聖人と統合失調症を同列に並べるつもりはありませんが、ここで申し上げたいのは、人間というものは、幻想をリアルな現実と見てしまう機能が備わっているということです。それは人間(脳)の限界なのです。いくら偉大な聖人だからといって、脳がある限り、間違いを犯す可能性はあるのです。

 不確かな霊的な事柄を土台にして考え方を構築する欠陥の二つめは、意識を条件づけしてしまうことです。条件づけられた意識が高い霊性を得ることはできません。
 どういうことかというと、たとえば、先に出てきたカルマの法則(因果応報)ですが、このカルマの法則の教えは、人を悪い行為から遠ざける効果があると言う人がいます。確かにそうだと思います。その教えを聞いて「報いが怖いから悪いことをするのはやめよう」と思う人もたくさんいるでしょう。また、「よいことをすればよい報いがあるから、よいことをしよう」と思う人もたくさんいるでしょう。もちろん、すでに述べたように、これは不確かなことなので、いざとなれば悪い行いをする人もたくさんいるでしょうが、それでもこの教えは、ある程度、倫理道徳面で貢献していることは確かだと思います。
 けれども、そのように条件づけられた倫理性や道徳性は、本物なのでしょうか?
 逆に言えば、「報いがなければ悪いことをしてもよい」ということになり、「よい報いがなければよい行為をしない」ということになってしまいます。
 要するに、条件づけられており、ある種の「取引」ということになります。金儲けのために商取引をするのと本質的に変わりません。あるいは、動物がエサが欲しくて、あるいは罰を受けるのが怖くて、主人の言いなりになるのと同じです。
 ここには、倫理性も道徳性もありません。本当の倫理道徳であれば、罰があろうとなかろうと悪いことはしないでしょうし、報酬があろうとなかろうと、よいことをするでしょう。それが本当の倫理性であり道徳性です。そうしたものがなければ、宗教とは言えないと思います。霊性の進化はないと思います。

 ところが実際は、宗教の世界は、巧妙な「取引」が蔓延しています。
 折伏(しゃくぶく)などといって、強引に信者を増やそうとしている教団があります。「信者になればその人が幸せになる」という純粋な動機からそうしている人もいるかもしれませんが、ほとんどの人は、「信者を増やせば功徳がある」とか、「信者を多く入会させれば教団内での地位が上がる」といった動機でそうしているのです。つまりは取引であり、しょせんは自分(エゴ)のためであって、単なる物欲と本質的に変わりません。
 仮に、因果応報が確かな真実であると証明されたとするならば、功徳はお金と同等になります。そこまではっきりすれば、もはや宗教ではなく、ビジネスとして認識されるでしょう。ビジネスの本質は取引ですから、それはそれでいいのです。ビジネスの使命は金儲けであり、霊性の進化ではありませんから。法律を犯さない限り、取引であっても何の問題もありません。
 しかし、霊性の進化をめざすはずの宗教の世界に、取引という条件づけが入り込むと問題が生じるのです。倫理道徳を破壊して霊性進化の障害になるからです。
 ですから、不確かな事柄を、宗教の基盤に置くべきではないのです。その不確かな事柄は、ビジネス(取引)の領域に属するかもしれないからです。
 実際、因果応報に倫理道徳的な意義を見出そうとする教えは、取引の考え方です。しかも、きわめて幼稚です。なぜなら、「よいことをすればおもちゃを買ってあげる。悪いことをしたらお尻を叩くわよ」といって子供をしつけるようなものだからです。大人であれば、褒美や罰に関係なく、「よいことはよいことだからする、悪いことは悪いことだからしない」といった、取引を超えた倫理性や道徳性を備えているでしょう(備えていない人もいますが)。
 因果応報を掲げて「だから悪いことをするな、よいことをしなさい」と言うのは、私たちを子供扱いしているのです。むかしはそれでよかったかもしれませんが、現代では、きわめて低次元な教えと言わざるを得ません。

 あるいは、「神の道具として人に愛の奉仕を捧げる」という人がいます。キリスト教の信仰者に見られます。アッシジの聖フランチェスコがその典型です。
 こちらは、功徳めあてに折伏するような人よりはずっと純粋で、倫理性や道徳性が高いと思いますが、それでもまだ条件づけられています。
 この人は「神の道具」ということを、自分のアイデンティティとしているからです。つまり、自己価値観を高めるための拠り所にしているのです。そのため、「神の道具になれば、神に喜んでもらえる、愛してもらえる、認めてもらえる」と思い、そんな自分に満足を見出そうとします。なかには「自分は神の道具なんだぞ、すごいだろう!」といった自慢の気持ちがあったりもします。
 こうしたことも、取引です。「自分のアイデンティティを満たす」という「報酬」を求めているからです。それでは「愛の奉仕」にはなりません。「愛」も「奉仕」も、いかなる報酬を求めない純粋で無条件なものだからです。
 いかなる報酬を求めることなく、神から愛されようと愛されまいと、認められようと認められまいと、完全に無条件の愛の奉仕ができる人こそが、本当の宗教者であり、霊的な覚醒者ではないでしょうか。

 しかし、神だとか霊的な事柄を信仰すると、どうしても完全に無条件にはなり得ないのです。
 たとえば、信仰深い善意ある人は、あらゆる人を受け入れる慈愛とゆるしの心があると思いますが、ひとつだけゆるせないものがあります。それは、自分の信仰を否定する人です。そういう人に対しては、「愛の奉仕」はできないでしょう。それどころか、憎悪さえ湧き上がってくるかもしれません。それは、自分のアイデンティティとなっている信仰を攻撃されたからです。要するに、自分のアイデンティティを傷つけられたからです。
 信仰という、不確かなものをアイデンティティにしているから、こういうことになるのです。それは弱点です。ですから、アイデンティティを守るために攻撃的になったり、あるいは逃避したり(真実から目を背けたり)するのです。
 いかなるアイデンティティも持たなければ、完全に無条件となり、いかなる人も受け入れることができます。アイデンティティを持たなければ、守るべきものがありませんから、攻撃的になることも、怖れることもなくなります。
 このように、アイデンティティがある限り、無条件に愛することはできません。愛がなければ、宗教とは呼べないでしょう。したがって、「私はキリスト教徒である、仏教徒である、スピリチュアルな真理の伝道者である、神の道具である……」といったアイデンティティを持っている人、要するに、宗教を信じている人ほど、実は宗教から遠ざかってしまう可能性が高くなるのです。
 霊界だとか、生まれ変わりだとか、カルマの法則、神や守護霊といったことをアイデンティティにしている人は、そうしたものを否定されると、怒りや憎悪、あるいは恐怖が湧いてくるでしょう。その時点ですでに、宗教でもスピリチュアルでもなくなってしまうのです。怒りも憎悪も恐怖も「煩悩」だからです。宗教やスピリチュアルは煩悩をなくすために存在するのだと思いますが、皮肉なことに、宗教やスピリチュアルそのものが、煩悩の温床になっている側面があるのです。宗教やスピリチュアルの敵は、他でもない、宗教やスピリチュアル自身ということになるわけです。

 話をもとに戻しますが、霊界だとか、生まれ変わりだとか、カルマの法則、神や守護霊といったものが存在するかどうかなど、わからないのです。にもかかわらず、わからないものを考え方の基盤にし、その結果としてアイデンティティにしてしまうから、大きなあやまちを犯すことになるのです。
 ですから、霊界だとか、生まれ変わりだとか、カルマの法則、神や守護霊といったものは、信じてはいけないのです。信じることも、否定することもなく、わからないという状態のまま歩んでいくべきなのです。
 「わからない」という状態は、居心地が悪いかもしれません。物事を白黒はっきりさせた方が安心します。しかしそれは、落とし穴ともなります。幻想や偏見や迷信といった落とし穴にはまってしまうのです。それらによって身動きできなくなり、柔軟性が失われ、視野が狭くなり、不自由になります。
 「わからない」という現実を受け入れてしまえば、何ものにもとらわれることなく、物事を広い視野からありのままに見ることができ、自由で生き生きとしていられます。
 「わからない」ことを受け入れている人は、アイデンティティを持っていない、持っていても希薄です。アイデンティティを持たないとき、愛と奉仕ができる可能性が開かれていきます。愛と奉仕ができる人こそが、真に宗教的な人であり、真にスピリチュアルな人と言えるはずです。
 「わからないものは、わからないのだ」と考えることが、まっとうな考え方なのです。不確かなものを不確かだと考えることが、確かなことなのです。そうした確かなものの上に、教えというものを構築していくべきだと思うわけです。
 そうすれば、以上述べた二つの欠陥を回避することができるはずです。

 したがって、今までこのブログでは、古今東西の聖人の教えだとか、霊界、生まれ変わり、カルマの法則、神や守護霊といったものを真実であるとして、さまざまな話を展開してきたのですが、今後はそうしたものは「真実かどうかわからない」ものとして、話を進めていきたいと思います。信じることもしないし、否定することもしない、という立場です。
 言い換えれば、いかなる宗教的な教えをアイデンティティにすることなく、アイデンティティそのものを消していく方向で、話を進めていこうと思っています。それは「自分は何者でもない」という意識であり、「自分の本質は空(くう)だ」という意識です。あるいは「自分」という自覚さえ持たない意識と言えるかもしれません。
 そのような方向性こそが、本当に私たちを霊的な進化に導いてくれて、無条件の愛に導いてくれると思うのです。
 今後、そのような生き方をめざして、考察を進めていきたいと思っています。

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このブログについて その2

 このブログは、どうすれば覚醒できるかについて、私自身の試行錯誤的な探求の軌跡を紹介するものであって、覚醒する方法を教えるものではなありません。
 私はただの求道者にすぎず、いうまでもないことですが、いわゆる導師(グル)ではありません。
 私はただ、自らの探求の過程において、考えたこと、思いついたこと、学んだことを書き留めているだけです。それゆえ、たとえ私の文章が、「これは……である」といったように、断言しているように書いてあっても、「これは……である、と私は思う」という意味だということを、ぜひ心にとどめておいてください。いちいち「と私は思う」と書くと文体がうっとうしくなってしまうので、あたかも断言しているように書いていたりしますが、私はどんなことも絶対的な真実として表現するつもりはありません。
 そもそも、心や霊的な世界は、数学のように確固たる真偽判定の基準は存在せず、たとえ存在しているとしても、万人が納得できるように実証することは不可能だと思うのです。
 したがって、どんなことも、頭から肯定もできなければ否定もできないと、私は思っています。それゆえ、私はどんな人の考えも尊重します。たとえ私の考えとは反対の見解であっても、それを否定するつもりはありません。
 したがって、どうか皆さんも、このブログに書かれてあることを、無批判に受け入れることのないようにお願いしたいと思います。
 なお、このブログは、特定の宗教や団体とはいっさい関係ありません。覚醒をもたらすために役立つと思えば、どんな宗教や教えからもそれを学んでいこうというのが、私の姿勢です。                                         
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 このブログは、私のホームページ(斉藤啓一のホームページ/Revelation)と連動しながら、「いかにして本当の人間の意識を覚醒させるか」を探求のテーマにしています。「本当の人間」とは、神性なる真理と智恵を持った意識のことです。もしそれを「魂」と呼ぶならば、魂の覚醒ということになります。それはすなわち、悟りであり、解脱です。
 覚醒に向けて歩んでいくことは、ある意味では、心を治癒することでもあります。なぜなら、本来は神性である私たちの意識(心)が、そうではない状態にあるということは、ある種の病んだ状態であるといえるからです。医学的な病名がつけられた人だけが心を病んでいるのではありません。魂が覚醒していない人間はすべて、ある意味では心が病んでいると思うのです。その意味では、覚醒とは、究極的な心の治癒であるともいえるでしょう。世の中には、数多くの心理療法と呼ばれるものが存在しますが、覚醒の道は、究極的な心理療法ともいえるわけです。
 逆にいえば、心理療法とは、人を覚醒に向かわせるものなのです。心を治癒することは覚醒に向かうことであり、覚醒に向かうことは、心を治癒することだと思います。
 実際、私たちは、覚醒に的を絞った霊的修行をする前に、あるいは平行して、心の治癒をする必要があると思います。なぜなら、この社会は少なからず病んでおり、そうした病んだ社会に生きる私たちも、大なり小なり心が病んでいると思うからです。
 そのため、本サイトでは、ダイレクトに覚醒の技法を探求するだけでなく、いかにして心を癒すかという、心理療法の分野をも包含し、心の治癒に関する多角的な情報をも盛り込んでいきます。基本的に両者は同じものなのですが、便宜的にいえば、心の治癒と魂の覚醒の両輪でコンテンツを増やしていくつもりでいます。そのため、私のブログのタイトルも、「心の治癒と魂の覚醒」とつけました。
詳細は私のホームページをご覧ください。
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