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心の治癒と魂の覚醒

        

推薦図書 『秘められたインド』

 まずはお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミー哲学教室は「カウンセリングの理論と実践2」というテーマで行いました。3回シリーズの第2回目で、今回は具体的なカウンセリングのテクニックを中心に説明しています。カウンセリングの知識と技能は、カウンセラーに限らず、すべての人に役立つものです。ぜひダイジェスト版をご覧ください。
 →動画視聴

 では、本題に入ります。今回は、推薦図書を紹介させていただきます。

 『秘められたインド 賢者たちとの出会いの記録』(改訂版)
 ポール・ブラントン著 日本ヴェーダーンタ協会 1982年(初版) 2016年(改訂版)

 この本の初版は、今から40年も前に発行されており、すでに読まれた人も多いかもしれません。今さらという感じがしなくもありませんが、内容的には、決して古めかしいものではなく、むしろある意味では、現代にもっとも必要とされているとさえ言えるかもしれません。
 著者のポール・ブラントンは、イギリスのジャーナリストで、ヨガ行者(ヨーギー)や覚者などの「霊性の師」を求め、20世紀初頭のインドを旅した人物です。最初は仕事の義務と好奇心にかられて、こうした旅に出かけたようですが、すぐれた霊性指導者たちとの出会いを通して、真の求道心にめざめ、ついには霊的教えを求める旅へと変っていきます。
 そうして、さまざまな「賢者」に会うのですが、もちろんすべてすぐれた人ばかりではありません。ブラントンによれば、多くは「ニセモノ」とのことです。たとえばインドの街中で「奇跡」を披露する「ヨガ行者」たちを紹介しています。目の前の鉢に種を埋めて、それがみるみる成長して芽が出て小さな木になるという「超能力」を見せて見物人から金を得たりしているのですが、彼はこっそりとそれなりのお金を渡して「トリック」を教えて欲しいと頼むと、その「ヨガ行者」が、トリックを教えるといった具合です。
 西洋人らしく、懐疑の目で、そういった人たちや奇跡と呼ばれる現象に接していきます。
 そのなかで、自称「救世主」と出会った話が詳しく書かれています。
 その救世主が言うには、自分は今は限られた信者に囲まれて隠遁生活を送っているが、もうすぐ時がきて、世界に向けて救世主であることを宣言する、そうしたら世界中の人が自分を崇拝し、世界は大きく変る……というのです。
 ブラントンによれば、確かにそれなりのカリスマ性があり、神秘的な雰囲気も漂っていて、その教えもそれなりに立派な点があるのを認めつつも、その「救世主」のちょっとした“ほころび”も見逃しません。そうして、その救世主がニセモノであることを、理性的に筋道たてて論じていくところは、ある種の痛快さを感じます。また、そのようなニセモノにだまされてしまう人間の弱さ(特にインド人はその傾向が強いと彼は言っている)についても、考えさせられる見解を述べていて、日本人もそうしたニセ救世主にだまされやすい傾向があるように思われますので、とても学ぶべきものがあります。

 とはいえ、ブラントンは、何でも頭から疑って否定するわけではなく、すぐれた賢者たちもいて、その人たちのことは率直に認めているのです。
 そんな尊敬すべき何人かの賢者たち(多くはヨガ行者)と会って話を聞いたときの彼の記述には、感動を覚えます。本当に、世界にはすばらしい霊性の持ち主がいるものだなあと感じます。
 さて、そんな旅を重ねるうち、ブラントンは不思議な運命の導きを受けるのです。そして、まるで引き寄せられるように、ある賢者のもとにたどりつきます。
 その賢者は、ラマナ・マハルシです。
 ラマナ・マハルシは、私がもっとも敬愛する覚者のひとりで、今年のイデア ライフ アカデミーでも彼のことを取り上げる予定なのですが、疑いもなく最高レベルの覚者です。そして、ブラントンも、マハルシの霊性の高さに圧倒され、心酔して、グルとして帰依するようになるのです。
 すでに述べたように、ブラントンは西洋人らしい批判精神の持ち主で、すぐに誰かを信じて帰依するような人物ではありません。しかし、そんな彼でさえ、マハルシの霊性の高さは認めざるを得ませんでした。
 そのため、マハルシに関して多くのページを割いてはいますが、他にも多くの「本物の賢者」と「ニセモノの賢者」たちが登場して、とても面白い本です。
 霊的探求者はいかなる態度であるべきか、といった貴重なことも学べる本です。興味のある方はぜひ読んでみてください。
 なお、ブラントンは、このインド旅行によって霊的真理の探究に目覚め、その後、数多くのその種の本を世に送り出し、ある種のスピリチュアル・リーダーのような存在になりました(といっても、教祖のようになったわけではありません)。

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推薦図書  『キリストにならいて』

 推薦図書
 『キリストにならいて』 トマス・ア・ケンピス著  池谷敏雄訳  新教出版

 今から五百年以上も前に書かれた本で、聖書の次に売れていると言われています。クリスチャンの方ならお馴染みでしょう。しかし、クリスチャンなくても、魂の救いや人格の向上をめざす人にとっては、貴重な示唆を与えてくれる不朽の名著です(ちなみに私はクリスチャンでも他のいかなる宗教の信者でもありません)。
 本書に書かれている内容は、必ずしも耳に心地よい、なまぬるいものではありません。徹底的な現世否定と自己否定が説かれており、神やキリストといった言葉を除けば、仏教(原始仏教)の経典を読んでいるのではないかと錯覚してしまうほどです。まさに釈迦が説いた「諸行無常」、「諸法無我」の考え方が、これでもかというほどちりばめられているのです。しかし、これが、宗教の違いを問わず、この世の真理なのではないでしょうか。現世の欲望に惑わされている私たち現代人にとっては、横っ面をひっぱたかれるような衝撃を覚えるかもしれません。もちろん、その根底には、苦悩する人間に対する温かい慈愛と救い、慰めがあり、単なるお綺麗ごとではなく、本音をもって誠実に書かれている文章には胸を打たれます。

 筆者のトマス・ア・ケンピス(1379/80ー1471)は、ドイツで活躍した修道士です。その彼が、後輩の修道士に向けて、徳の完成に至る道、救いの道、真のキリスト教徒としての道についてのアドバイスのために書かれたのが本書です。
 修道士とは、仏教でいえば出家修行者のことです。出家、つまり世の中を捨てて魂の救いのために、人生のすべてを修行に専念する人のことであり、本書は基本的にそうした修道士に向けて書かれたものなので、その内容もそれなりに厳しい内容となっています。
 たとえば、こんな感じです。

 「(キリストは次のように言われたのです)わが子よ、私の恵みは貴くて、外部のもの、またはこの世の慰めと混じるのはゆるされないのである。それゆえ、もし恵みがそそがれることを望むならば、すべてそれを妨げるものを投げ捨てなさい。自分のためにひそかな所を選び、自分独りでいることを愛し、人との話を求めず、むしろ神に敬虔な祈りをそそぎなさい。これはあなたの心の罪を悔いさせ、良心を清く保つためである。世をすべて無に等しいものと見なし、神に仕えることをすべての外物よりもまさるものとしなさい。私に仕えると同時に過ぎ行くものを楽しむことはできないのである。知己や親友から遠ざかり、この世のあらゆる慰めを心から遠ざけなさい」(第3篇53章1)

本書の要点を絞り込むと、およそ次の7つに集約できるかと思われます。
1.徹底的な地上的欲望の否定(仏教的に言えば「煩悩」の除去)
2.世俗的な人々と交わることの否定
3.自己の否定(謙遜と従順の美徳の養成)
4.すべてを神の意志にゆだねること
5.誘惑や苦難と忍耐強く闘うこと
6.神を無条件に愛すること
7.イエス・キリストの生き方をまねること

 すでに述べたように、最後の6と7を除けば、釈迦とまったく同じことを説いているのがわかります。たとえば、2の「世俗的な人々と交わることの否定」について、本書では「全世界と悪のあらゆる喧騒を閉め出し、屋根にひとりいるすずめのようにすわりなさい」(第4編12章1)とありますが、釈迦は「実に欲望は色とりどりで甘美であり、禍であり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め」(『スッタニパータ』第1章3)と言っています。比喩が違うだけで、まったく同じことを言っているのです。

 神の存在を認めず、イエスのような救済主の考え方がない仏教徒にとっては、この点についての抵抗があるかもしれません。しかし、これは「自己を捨てる」ための、ひとつの手段と見るべきであると私は考えています。つまり、自力だけで自己を捨てるというのは、ほとんど不可能だからです。その点で、自己愛を神やキリストへの愛に転化させ、結果的として自己愛を捨てる(自己を滅却する)ことをめざしているキリスト教の教えは、それはそれで大変に参考になるのではないかと思っています。ですから、仏教徒であっても、読んで損はない本であると思います。

 なお、本書の翻訳は他にもいくつかあるようです。たとえば岩波文庫からも出ていますが、訳文が堅くて活字が小さいので、読みやすいとはいえません。ただ、ある種の格調高さはあり、価格も安いです。あくまでも好みの問題ですが、私としては冒頭にあげた本をお勧めいたします。

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推薦図書 『不滅の意識ーラマナ・マハルシとの会話』

推薦図書 『不滅の意識ーラマナ・マハルシとの会話』
                  ナチュラルスピリット  2004年

 この本はインドの覚者ラマナ・マハルシ(ラーマナ・マハーリシと和訳されることもある)が、聴衆を前にしてさまざまな質問を受け付け、それに対する回答を記録した本です。
 ラマナ・マハルシは、このブログを読んでおられる皆様ならよく知っているか、少なくとも名前だけは聞いたことがあるかと思いますが、「私とは誰か?ということをひたすら追求しなさい」という教えを説いた覚者であり聖人で、今なお世界中に熱烈なファンがいます(1950年に70歳で亡くなっています)。南インドの田舎にほとんど裸で生活し、そこを訪れてくる人々に「真我は不滅である」と教えを説き続けました。
 マハルシは、有名な割には残された書籍はあまりありません。そのなかでも本書は彼の思想や人柄を知る貴重な一冊と言えると思います。
 質問を寄せている人の大半は西洋人のようで、難解な哲学的な質問もあれば、けっこう下世話な質問もあり、子供を亡くして悲嘆にくれて死後の世界はどうなっているかとか、仕事は真我実現にとって妨げになるのかとか、とにかくいろいろな質問が寄せられており、読んでいて飽きません。文体そのものは平易ですが、その語られる内容は深遠であり、この本をじっくり読むこと自体がひとつの瞑想になるかのようです。
 印象深いのは、どのような質問に対しても(くだらない質問だなと感じるような質問であっても)、マハルシは真面目に誠実に丁寧に答えている点です(ときには答えずにあえて沈黙をしたこともあったようです。“沈黙によって答えた”、というべきでしょうか)。
 彼自身は、個人的な想念というものはなく、人類普遍の真我の視野から人々に接して回答しているようなのですが(それが覚者の特徴なのですが)、そのことがどのような質問に対する回答でも一環して貫かれており、私自身の印象から言っても、彼の言葉や態度には「エゴ」の臭いがまるでしません。まったくの自然体、透明な水の流れのようなものを感じるのです。
 世の中には“自称”覚者という人たちがたくさんいます。なかには、そのことを誰か偉い有名なグルが認めたとか、弟子に自分を拝ませるとか、何らかの肩書きや権威のようなものを利用して「自分は覚者だ」と示そうとする人もいます。しかし、内的な資質を示すために、権威のようなものを利用する人は、まず本当の覚者ではないと私は思っています。たとえ、本などで立派なことを書いていたとしても、その「行間」を注意深く読むと、エゴの臭いがしたりするのです。それは「臭い」と表現するしかないような微妙なものですが、本当に覚醒していないと、どうしてもエゴの臭いが漂うことになるのです。たとえるなら、何日も入浴していない人が絢爛豪華な服をまとうような感じです。その服の華やかさに目がくらんでしまうと、本当の覚者だと思うかもしれませんが、「嗅覚」が鋭い人はごまかすことはできません。本当に覚醒していなければ、その人の書いたもの、その話した内容、その人が運営している組織のあり方、そこから発行されている「入会案内書」の文面など、ほんのささいなところから「エゴの臭い」がするものです。しかし世間は、権威だとか名声(知名度)といったことに弱いので、多くの人が簡単にだまされてしまうのです。
 そのようなものにだまされないためには、本物の覚者の言動を知ることです。そのためにも、本書は有益ではないかと思います。何回も繰り返して読むに値する内容であり、それによって「本物の覚者」と「偽物の覚者」とを見分ける鑑識眼を養うことができるのではないかと思います。その回答の内容だけでなく、回答の仕方、その姿勢そのものからも学ぶことができるのです。

質問者「霊的進歩のためにグルは必要ですか」
マハルシ「そうです。しかしグルはあなたの内部にいます。彼はあなた自身の真我とともにいる人です」

質問者「(覚醒するために)世俗的な欲望を放棄する必要があるでしょうか」
マハルシ「なぜわれわれは欲望をもつのでしょうか。探求しなさい。もしあなたが自分の欲望の中に真の幸福を見いださないならば、あなたの心はそれに魅惑されることはないでしょう。しかし、潜在意識の傾向は、あなたをそこに誘うかもしれませんが、あなたは引き返すでしょう。
 なぜあなたは自由な生活を欲するのですか。あなたがそれを切望するという事実が、あなたが束縛されていることを意味するのです。しかし実際は、あなたはつねに自由なのです。真我であることを知りなさい。そうすれば願望はひとりでに去っていくでしょう。すべての願望と想念を、内部の一点にもっていきなさい。それが真我実現です。心は静かにしておくべきです。蜜蜂は蜜を探し求めて花のまわりでやかましくぶんぶん音をたてます。蜂が蜜を発見すると、音はやみ静かになります。これが本当の蜜を切望して探し回る人の魂というものです」

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図書紹介 『奇跡の脳』 ジル・ボルト・テイラー著

図書紹介『奇跡の脳』ジル・ボルト・テイラー著 竹内薫訳 新潮社 2009年

 本書は、女性脳科学者が脳卒中となって左脳が麻痺し、回復するまでの体験が綴られたものです。左脳が麻痺したことで右脳が活性化したのですが、そのときに悟りの体験、宇宙との合一体験を経験したのです。覚醒をめざす私たちの参考になるかと考え、今回、ご紹介させていただこうと思いました。必読書というほどではありませんが、興味をそそる内容なので、時間があれば読んでみるとよいのではないかと思います。
 まずは、この本の帯に書かれてある文章を紹介してみましょう。

表)「脳卒中から再生までの8年間-脳の可能性と神秘を描いた全米50万部の大ベストセラー!」
裏)「統合失調症の兄を持った「わたし」は、小さい頃から脳に興味を抱く。同じものを見て、どうしておにいちゃんとわたしは反応が違うの?
 努力の末に脳科学の専門家となり、ハーバードの第一線で活躍するわたしは、誰よりも脳について知っているはず、だった-。
 1996年のある日、37歳で脳卒中に襲われ、生活は一変する。左脳の機能が崩壊し、言葉や身体感覚だけでなく、世界の受け止め方までも変わったのだ。
 体力の補強、言語機能を脅かす手術、8年間に及んだリハビリ。
そこでわたしが得たものとは、何だったのか。」

次に、このブログと関係のある、覚醒的な体験について語った箇所を紹介してみます。

「左脳の言語中枢が徐々に静かになるにつれて、わたしは人生の思い出から切り離され、神の恵みのような感覚に浸り、心がなごんでいきました。高度な認知能力と過去の人生から切り離されたことによって、意識は悟りの感覚、あるいは宇宙と融合して「ひとつになる」ところまで高まっていきました。むりやりとはいえ、家路をたどるような感じで、心地よいのです。
 この時点で、わたしは自分を囲んでいる三次元の現実感覚を失っていました。からだは浴室の壁で支えられていましたが、どこで自分が始まって終わっているのか、というからだの境界すらはっきりわからない、なんとも奇妙な感覚、からだが、個体ではなくて流体であるかのような感じ。まわりの空間や空気の流れに溶け込んでしまい、もう、からだと他のものの区別がつかない、認識しようとする頭と、指を思うように動かす力との関係がずれていくのを感じつつ、からだの固まりはずっしりと重くなり、まるでエネルギーが切れたかのようでした。(p27)」
 
「解放感と変容する感じに包まれて、意識の中心はシータ村にいるかのようです。仏教徒なら、涅槃(ニルヴァーナ)の境地に入ったと言うのでしょう。
 左脳の分析的な判断力がなくなっていますから、わたしは穏やかで、守られている感じで、祝福されて、幸せで、そして全知であるかのような感覚の虜になってしまいました。(p40)」

 他にも、覚醒修行をする上でヒントになる記述がたくさん見られます。
 この本を読むと、覚醒と右脳というのは、非常に密接な関係にあることがわかります。もちろん、覚醒という意識状態は右脳だけですべて説明できるとは思いませんが、右脳を活性化することが覚醒を促すことは、おそらく間違いないようです。
 参考になさってみるとよろしいかと思います。


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 推薦図書 『ブッダのことば』 中村元訳 岩波文庫

 推薦図書 『ブッダのことば』 中村元訳 岩波文庫
     『ブッダの 真理のことば/感興のことば』 中村元訳 岩波文庫


 今回は、姉妹編ともいうべき2冊の本を同時に推薦させていただきます。
『ブッダのことば』と『ブッダの 真理のことば/感興のことば』です。前者は「スッタニパータ(経集)」、後者は「ダンマパダ(法句経)」と呼ばれる経典の訳です(現在、NHKでこの経典に基づく「ブッダの真理のことば」という番組が放送されています)。
 いわゆる経典やお経というものは世の中にたくさんあり、「法華経」や「般若心経」などが有名ですが、こうした経典のほとんどは、釈迦の死後数百年たってから、さまざまな人によって創作されたものです。したがって、それらは必ずしも釈迦の教説をそのまま伝えたものとは限りません。
 釈迦は、自ら書を残しませんでした。釈迦の教説は、弟子たちの記憶をもとに文書化されたものが、今日伝わっているだけです。そのうち、もっとも古いものが(つまり、もっとも釈迦の教説を忠実に表現していると考えられるものが)、「スッタニパータ」であり、「ダンマパダ」なのです。
 これらは、釈迦の教説が詩の形をもって語られており、難解な仏教理論といったものはまったくありません(それは後の学者が勝手に作ったものです)。非常にシンプルで素朴な、それでいて含蓄の深い言葉がたくさん並べられています。これを見る限り、釈迦は素朴な言葉で弟子達に教えを説いていたように思われます。
 たとえば、「慈しみ」と題された部分には、次のような言葉が語られています。

 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。
 能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
 足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない。
 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
 ……
 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

 このような感じの文章が綴られています。
 この本は、覚醒の道を歩むための求道の姿勢を保ち、励ましを得たり、襟を正したりするために、毎日少しずつ読むのがいいと思います。

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