心の治癒と魂の覚醒

        

推薦図書 『不滅の意識ーラマナ・マハルシとの会話』

推薦図書 『不滅の意識ーラマナ・マハルシとの会話』
                  ナチュラルスピリット  2004年

 この本はインドの覚者ラマナ・マハルシ(ラーマナ・マハーリシと和訳されることもある)が、聴衆を前にしてさまざまな質問を受け付け、それに対する回答を記録した本です。
 ラマナ・マハルシは、このブログを読んでおられる皆様ならよく知っているか、少なくとも名前だけは聞いたことがあるかと思いますが、「私とは誰か?ということをひたすら追求しなさい」という教えを説いた覚者であり聖人で、今なお世界中に熱烈なファンがいます(1950年に70歳で亡くなっています)。南インドの田舎にほとんど裸で生活し、そこを訪れてくる人々に「真我は不滅である」と教えを説き続けました。
 マハルシは、有名な割には残された書籍はあまりありません。そのなかでも本書は彼の思想や人柄を知る貴重な一冊と言えると思います。
 質問を寄せている人の大半は西洋人のようで、難解な哲学的な質問もあれば、けっこう下世話な質問もあり、子供を亡くして悲嘆にくれて死後の世界はどうなっているかとか、仕事は真我実現にとって妨げになるのかとか、とにかくいろいろな質問が寄せられており、読んでいて飽きません。文体そのものは平易ですが、その語られる内容は深遠であり、この本をじっくり読むこと自体がひとつの瞑想になるかのようです。
 印象深いのは、どのような質問に対しても(くだらない質問だなと感じるような質問であっても)、マハルシは真面目に誠実に丁寧に答えている点です(ときには答えずにあえて沈黙をしたこともあったようです。“沈黙によって答えた”、というべきでしょうか)。
 彼自身は、個人的な想念というものはなく、人類普遍の真我の視野から人々に接して回答しているようなのですが(それが覚者の特徴なのですが)、そのことがどのような質問に対する回答でも一環して貫かれており、私自身の印象から言っても、彼の言葉や態度には「エゴ」の臭いがまるでしません。まったくの自然体、透明な水の流れのようなものを感じるのです。
 世の中には“自称”覚者という人たちがたくさんいます。なかには、そのことを誰か偉い有名なグルが認めたとか、弟子に自分を拝ませるとか、何らかの肩書きや権威のようなものを利用して「自分は覚者だ」と示そうとする人もいます。しかし、内的な資質を示すために、権威のようなものを利用する人は、まず本当の覚者ではないと私は思っています。たとえ、本などで立派なことを書いていたとしても、その「行間」を注意深く読むと、エゴの臭いがしたりするのです。それは「臭い」と表現するしかないような微妙なものですが、本当に覚醒していないと、どうしてもエゴの臭いが漂うことになるのです。たとえるなら、何日も入浴していない人が絢爛豪華な服をまとうような感じです。その服の華やかさに目がくらんでしまうと、本当の覚者だと思うかもしれませんが、「嗅覚」が鋭い人はごまかすことはできません。本当に覚醒していなければ、その人の書いたもの、その話した内容、その人が運営している組織のあり方、そこから発行されている「入会案内書」の文面など、ほんのささいなところから「エゴの臭い」がするものです。しかし世間は、権威だとか名声(知名度)といったことに弱いので、多くの人が簡単にだまされてしまうのです。
 そのようなものにだまされないためには、本物の覚者の言動を知ることです。そのためにも、本書は有益ではないかと思います。何回も繰り返して読むに値する内容であり、それによって「本物の覚者」と「偽物の覚者」とを見分ける鑑識眼を養うことができるのではないかと思います。その回答の内容だけでなく、回答の仕方、その姿勢そのものからも学ぶことができるのです。

質問者「霊的進歩のためにグルは必要ですか」
マハルシ「そうです。しかしグルはあなたの内部にいます。彼はあなた自身の真我とともにいる人です」

質問者「(覚醒するために)世俗的な欲望を放棄する必要があるでしょうか」
マハルシ「なぜわれわれは欲望をもつのでしょうか。探求しなさい。もしあなたが自分の欲望の中に真の幸福を見いださないならば、あなたの心はそれに魅惑されることはないでしょう。しかし、潜在意識の傾向は、あなたをそこに誘うかもしれませんが、あなたは引き返すでしょう。
 なぜあなたは自由な生活を欲するのですか。あなたがそれを切望するという事実が、あなたが束縛されていることを意味するのです。しかし実際は、あなたはつねに自由なのです。真我であることを知りなさい。そうすれば願望はひとりでに去っていくでしょう。すべての願望と想念を、内部の一点にもっていきなさい。それが真我実現です。心は静かにしておくべきです。蜜蜂は蜜を探し求めて花のまわりでやかましくぶんぶん音をたてます。蜂が蜜を発見すると、音はやみ静かになります。これが本当の蜜を切望して探し回る人の魂というものです」

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図書紹介 『奇跡の脳』 ジル・ボルト・テイラー著

図書紹介『奇跡の脳』ジル・ボルト・テイラー著 竹内薫訳 新潮社 2009年

 本書は、女性脳科学者が脳卒中となって左脳が麻痺し、回復するまでの体験が綴られたものです。左脳が麻痺したことで右脳が活性化したのですが、そのときに悟りの体験、宇宙との合一体験を経験したのです。覚醒をめざす私たちの参考になるかと考え、今回、ご紹介させていただこうと思いました。必読書というほどではありませんが、興味をそそる内容なので、時間があれば読んでみるとよいのではないかと思います。
 まずは、この本の帯に書かれてある文章を紹介してみましょう。

表)「脳卒中から再生までの8年間-脳の可能性と神秘を描いた全米50万部の大ベストセラー!」
裏)「統合失調症の兄を持った「わたし」は、小さい頃から脳に興味を抱く。同じものを見て、どうしておにいちゃんとわたしは反応が違うの?
 努力の末に脳科学の専門家となり、ハーバードの第一線で活躍するわたしは、誰よりも脳について知っているはず、だった-。
 1996年のある日、37歳で脳卒中に襲われ、生活は一変する。左脳の機能が崩壊し、言葉や身体感覚だけでなく、世界の受け止め方までも変わったのだ。
 体力の補強、言語機能を脅かす手術、8年間に及んだリハビリ。
そこでわたしが得たものとは、何だったのか。」

次に、このブログと関係のある、覚醒的な体験について語った箇所を紹介してみます。

「左脳の言語中枢が徐々に静かになるにつれて、わたしは人生の思い出から切り離され、神の恵みのような感覚に浸り、心がなごんでいきました。高度な認知能力と過去の人生から切り離されたことによって、意識は悟りの感覚、あるいは宇宙と融合して「ひとつになる」ところまで高まっていきました。むりやりとはいえ、家路をたどるような感じで、心地よいのです。
 この時点で、わたしは自分を囲んでいる三次元の現実感覚を失っていました。からだは浴室の壁で支えられていましたが、どこで自分が始まって終わっているのか、というからだの境界すらはっきりわからない、なんとも奇妙な感覚、からだが、個体ではなくて流体であるかのような感じ。まわりの空間や空気の流れに溶け込んでしまい、もう、からだと他のものの区別がつかない、認識しようとする頭と、指を思うように動かす力との関係がずれていくのを感じつつ、からだの固まりはずっしりと重くなり、まるでエネルギーが切れたかのようでした。(p27)」
 
「解放感と変容する感じに包まれて、意識の中心はシータ村にいるかのようです。仏教徒なら、涅槃(ニルヴァーナ)の境地に入ったと言うのでしょう。
 左脳の分析的な判断力がなくなっていますから、わたしは穏やかで、守られている感じで、祝福されて、幸せで、そして全知であるかのような感覚の虜になってしまいました。(p40)」

 他にも、覚醒修行をする上でヒントになる記述がたくさん見られます。
 この本を読むと、覚醒と右脳というのは、非常に密接な関係にあることがわかります。もちろん、覚醒という意識状態は右脳だけですべて説明できるとは思いませんが、右脳を活性化することが覚醒を促すことは、おそらく間違いないようです。
 参考になさってみるとよろしいかと思います。


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 推薦図書 『ブッダのことば』 中村元訳 岩波文庫

 推薦図書 『ブッダのことば』 中村元訳 岩波文庫
     『ブッダの 真理のことば/感興のことば』 中村元訳 岩波文庫


 今回は、姉妹編ともいうべき2冊の本を同時に推薦させていただきます。
『ブッダのことば』と『ブッダの 真理のことば/感興のことば』です。前者は「スッタニパータ(経集)」、後者は「ダンマパダ(法句経)」と呼ばれる経典の訳です(現在、NHKでこの経典に基づく「ブッダの真理のことば」という番組が放送されています)。
 いわゆる経典やお経というものは世の中にたくさんあり、「法華経」や「般若心経」などが有名ですが、こうした経典のほとんどは、釈迦の死後数百年たってから、さまざまな人によって創作されたものです。したがって、それらは必ずしも釈迦の教説をそのまま伝えたものとは限りません。
 釈迦は、自ら書を残しませんでした。釈迦の教説は、弟子たちの記憶をもとに文書化されたものが、今日伝わっているだけです。そのうち、もっとも古いものが(つまり、もっとも釈迦の教説を忠実に表現していると考えられるものが)、「スッタニパータ」であり、「ダンマパダ」なのです。
 これらは、釈迦の教説が詩の形をもって語られており、難解な仏教理論といったものはまったくありません(それは後の学者が勝手に作ったものです)。非常にシンプルで素朴な、それでいて含蓄の深い言葉がたくさん並べられています。これを見る限り、釈迦は素朴な言葉で弟子達に教えを説いていたように思われます。
 たとえば、「慈しみ」と題された部分には、次のような言葉が語られています。

 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。
 能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
 足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない。
 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
 ……
 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

 このような感じの文章が綴られています。
 この本は、覚醒の道を歩むための求道の姿勢を保ち、励ましを得たり、襟を正したりするために、毎日少しずつ読むのがいいと思います。

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推薦図書  『レ・ミゼラブル』第一巻

 推薦図書  『レ・ミゼラブル』第一巻
          ヴィクトル・ユゴー著 角川文庫(他の出版社でも翻訳あり)

 今さら解説するまでもない、フランスの文豪ユゴーの傑作です。人類最高の文化遺産のうち、音楽の分野がベートーベンの第九なら、文学の分野ではこの作品をおいて他にはないでしょう。真実の愛(神の愛)をこれほど見事に描いた作品を、私は知りません。

 貧しさゆえにパンを盗んで19年も投獄されていた主人公のジャン・バルジャン。釈放された彼の心はすさみ、ある田舎町にやってきますが、刑務所にいたという理由で彼を泊めてくれる家はありませんでした。そんな中で唯一、ミリエル司教だけが温かく迎え入れてくれます。ところがジャンは、その恩も忘れて夜中に銀の食器を盗んで逃げてしまいます。しかしすぐに憲兵につかまり、ミリエル司教の家に連れてこられます。するとミリエル司教は彼にこういいました。
「この食器は君にあげたといったじゃないか。それから、これもあげるといったのに、なぜ持っていかなかったんだい?」
 そうして、ミリエル司教はジャンに、銀の燭台まで渡したのです。
 人間不信ですっかりすさんでいたジャンは、この予期せぬ対応に何がなんだかわからなくなり、そのまま解放されて旅に出ます。ところが、長い間彼の心に染みついてしまった悪の傾向はすぐには消えず、少年から小銭を奪い取ってしまったのです。
 しかし、その小銭を盗んだ後、今までになく激しい良心の呵責に襲われ、自分は善人として生きると心のなかでミリエル司教に誓います。
 その後、偽名を使って別の人間になりすまし、事業で成功し、ついには市長となって慈善活動を行い、人々の尊敬を集めます。ところが、少年から小銭を盗んだのはこの市長ではないかと疑いをもったジャベールという名の警部から、執拗に追いかけられることになります。このジャベールという男は、自分にも厳しいが人にも厳しく、法律こそすべてだという冷たい性格で、わずかな罪であろうと法に基づいて厳格に罰して償いをしなければならないという信念に凝り固まった人物として描かれています。
 それからの物語は、まさに人間の苦悩と愛の、波乱に満ちた人生が展開されていくのですが、いかなる試練に遭っても、ジャンは人間として正しい選択をしていくのです。

 非常に長い小説なので、ここでは最初の第一巻だけを取り上げました。
 この第一巻は、ジャンがミリエル司教と出会い、改心する話が中心となります。
 小説では、このミリエル司教のことが実によく描かれているのです。まるで実在するかのようなリアルな存在に感じられます。若い頃は放蕩や女遊びをしていたが、後に謙虚で慈愛に満ちた、高潔ですばらしい聖職者になったことが描かれています。しかも、いわゆる権威主義的な伝統を重んじるわけでもなく、かといって神秘体験に熱中しているわけでもなく、ただただ質素に生き、素朴に人を愛するという、愛すべき人物として描かれており、小説のなかの架空の人物でありながら、私はこのミリエル司教をもっとも尊敬すべき聖人のひとりとして、お手本にしているくらいです。まさに、真の聖職者とはこういう人のことをいうのだと思います。
 このような人物像を描くことができるユゴーという作家は、本当に凄いと思います。
 しかも、ミリエル司教がジャンに銀の燭台を渡すときの会話のやりとりのなかに、私から見ると、驚くような霊的真理が込められているのです。

 司教はかれ(ジャン)に近より、低い声で言った。
「忘れてはいけない、決して忘れてはいけないよ。きみはまっとうな人間になるためにこの銀器を使うと、わたしに約束したことを」
 何も約束などしたおぼえなどないジャン・ヴァルジャンは、あっけにとられていた。司教は力をこめてその言葉を言った。かれは一種の荘重さをもってまた言った。
「ジャン・ヴァルジャン、わたしの兄弟よ、きみはもう悪には縁がない、善の者なのです。きみの魂を、私が償います。わたしはきみの魂を、くらい考えや滅亡の精神から引き抜いて、それを神に捧げるのです」

 確かに、司教とジャンは何も約束などしていませんでした。なのに、司教は「約束した」と言ったのです。私はここに、非常に深い霊的な意味を感じます。司教はジャンの魂と直接にコンタクトしたのです。そのことを、肉体の彼に思い起こさせるために、こう言ったのではないかと思います。決して嘘を言ったわけではないのです。そして、ジャンの魂を司教が償うというのです。このような言動は、もう覚者の言動そのものです。
 このような文章は、相当な霊的な素養がなければ、書くことはできないと思います。ユゴーは本当に凄いと思います。

 それにしても、小説のなかであるとはいえ、ミリエル司教はまさに聖人です。
 一夜の宿を貸してあげるくらいなら、もしかしたら私にもできるかもしれません。しかし、その恩をアダで返すように、家のなかの貴重品を持ち逃げされたら、私だったらカンカンに怒って、再び会ったら、ひっぱたいで「よくも人の善意を裏切るようなことをしたな!」と、罵詈雑言の限りを浴びせかけるでしょう(笑)。
 しかし、ミリエル司教は、そんな小さな人間ではなかったのです。怒らないどころか、「これもあげるといったじゃないか」といって、さらに貴重な銀の燭台まであげたのです。
 人によっては、「何てバカなお人好しだ」と思うかもしれません。しかし、こういうことができるところが、神と一体化して愛そのものとなった聖人だけができることなのだと思います。

 悪の習慣が染みついた人間を救うには、その習慣をうち破るほどの大きなショックが必要です。たいていの場合、それは苦しみというショックを通して為されることが多いのですが、苦しみの他に、人間を変えるほどのショックを与えるもうひとつの要素は、愛であると私は思います。ただし、そんじょそこらの平凡な愛ではダメです。ちょっと親切なくらいの愛ではダメです。信じられないほど大胆な愛が必要となります。それを、ミリエル司教はやったのです。人や世の中を呪い、すさみきった彼を変えるためには、これほどのショックを与える必要があったわけです。
 このような大胆な愛を与えられる人というのは、ただ愛が深いとか優しいだけでは不可能だと思います。それこそ、命を奪われても怖くないというほどの勇気と強さがなければ、絶対にこういうまねはできません。小説のなかでは、ミリエル司教のそうした勇敢さや強さといったものが、さりげなく描かれています。ユゴーはそういったこともよくわかっており、本当に脱帽してしまいます。

 ユゴーの伝記を調べますと、生涯を通してたくさんの女性と熱烈な愛の遍歴を重ねていたようです。「性とスピリチュアリティ」の項目でも言及しましたが、性愛のエネルギーが強い人というのは、神の愛に通じるものをもっているのです。
 私は、覚醒をめざすような人は、大胆に人を愛することができるようでなければならないと思うのです。あれをしてはダメ、これをしてはダメ、こんなことをしたらカルマの法則の罰を受けてしまう……などと、いちいちびくびくするようでは、大胆に人を愛せるような人間にはなれないでしょう。こういう小さな善人では、この汚濁の世界において人を救うことはできません。少しくらい難点があっても、スケールの大きな人間になることを、神は望んでいるのだと私は思います。その方が世の中のためになるからです。
 人間である以上、罪を犯さないで生きることは不可能なのです。また、罪を犯したり失敗をすることによって学ぶようにできているのです。ある程度、罪を犯したり失敗をしなければ、私たちは深く教訓を学ぶことはできません。
 大切なことは、罪を犯したり失敗をしないことではなく、そこから学ぶことではないでしょうか。とくに、愛することを学ぶことがもっとも大切であると思います。極論をいえば、人生の経験のすべては、愛することを学ぶためにあるのだと思います。繰り返しますが、人間は、人生という場所に、罪を犯さないようにするために来たのではありません。反対に、罪を犯したり失敗をすることを通して、愛することを学びに来たのです。それが私の考えです。

 物語の最後の方で、あの冷たい法の番人であるジャベールは、ついにジャンを逮捕するまでにこぎつけるのですが、ジャンの数々の慈善とその気高さ、慈愛を知ったジャベールは、結局ジャンを逮捕せず、彼の前から姿を消してしまいます。そして、「法を破った自分に罰を与えるために」、川に身投げして死んでしてしまうのです。これは象徴的に「法よりも愛の方が大切である」ことを訴えているのではないでしょうか。
 人間という存在は、愛することを学ぶために、罪を犯したり、挫折したり、あらゆる苦難を通り抜けていかなければなりません。おそらくそうした理由から、ユゴーはこの小説に、「レ・ミゼラブル」(悲惨な人々)という題名をつけたのではないかと思うのです。この小説に登場してくる人たちは、いろいろな意味で、みんな悲惨な人たちばかりなのです。しかし、それが人間という存在ではないのでしょうか。

 とにかく、この小説は、真実の愛について、その他、さまざまな大切なことを、私たちに教えてくれます。覚醒をめざす者はこう生きるのだという、お手本となる作品です。一巻だけでもけっこうですので、読まれることをお勧めします。

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 『死んで私が体験したこと』

 推薦図書
 『死んで私が体験したこと』
 -主の光に抱かれた至福の四時間- ベティー・イーディー著 鈴木秀子訳
同朋舎出版 1995年

 この本は、いわゆる臨死体験の本です。臨死体験の本はたくさんありますが、私はこれがもっとも好きです。多少、疑問を抱くところもありますが(たとえば輪廻転生は存在せず生まれ変わりの記憶とは細胞に刻まれた先祖の記憶としている点など)、人生の深い真理が随所に込められており、読んでいて思わず感動します。
 内容的には、普通の主婦が手術中に仮死状態となり、霊界に行ってさまざまな光景を目撃し、霊界の存在からさまざまな教えを受けて再び地上に(肉体に)戻ってきた話です。
 著者はクリスチャンということもあり、イエス・キリストと出会った体験など、全体的にキリスト教的な色合いがありますが、ここで興味深いのは、著者が今までキリスト教会から教えられてきた(信じ込まされてきた)ことと、かなり違う体験をしたことです。
 すなわち、キリスト教会の教義では、人は悪いことをすると最後の審判のときに地獄に墜ちて永遠に苦しむとか、神は愛でもあるが人間に罰を与える怖ろしい存在でもあるといったように教えられてきたのが、霊界で学んだ内容によれば、地獄に落ちて永遠に苦しむことはなく、神は人間に罰を与えたりせず、絶対的に無条件の愛であるというのです。
 つまり、著者の臨死体験の内容が、記憶によって作り出した幻影ではないことを物語っていると考えられるわけです。
 また、私が個人的に興味を惹かれたのは、イエス・キリストに遭遇したときの様子で、かなり具体的に書かれています。イエスがどんな人物であったかについては、聖書だけからでは把握できません。一般的には、痩せて青白い顔をして、くそまじめな堅物といったイメージがあるかと思いますが、聖書以外のスピリチュアルな本などでは、イエスはたくましく精悍な男であり、ユーモアのセンスもある柔軟な考え方の持ち主で、何よりもその愛は絶対的無条件ともいうべきものだと描かれています。私も、たぶんイエスはそういう方ではないかと思っているのですが、この本には、まさにそうしたイエスが登場するのです。この著者が、そういうスピリチュアルな本を読んだことがあり、その記憶が反映された可能性もないとはいえませんが、しかしキリスト教会の教えを信じていたというのですから、たぶん、その種の本は読んだことはないのではないかと思います。だとすると、この本で描かれているイエスは、まさに本物ではないかと思われ、その意味でも、イエスがどのような方だったのかについて知ることができる、貴重な情報を与えてくれるものともいえそうです。
 さらに本書では、人生をどのように生きるべきなのか、苦しみが訪れる目的は何なのか、世の中に宗教がたくさん存在するのはなぜなのか、祈りは霊界ではどのような力を及ぼしているのかなど、私たちが抱くような疑問に対する回答がたくさん書かれてあり、生きる指針としても得るものが多い内容になっています。そのことはもちろん、覚醒に役立つ内容であるということです。
 ひとことでいうと、「真実の愛とは何か」、「人生はいかに生きるべきか」ということを教えてくれる本です。
 出版がむかしなので、古本でしか入手できないかもしれませんが、興味のある方は、ぜひ読んでみて下さい。

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