苦しみの効用2022-12-22 Thu 14:50
まずは報告とお知らせから。
今月のイデア ライフ アカデミー哲学教室は、「孔子と老子」というテーマで行いました。おなじみの聖人であり、人間としての基本を説きました。しかし、私たちは、その「基本」ができているでしょうか。あらためて、私たちはその基本から学びなおす必要があると思うのです。ぜひダイジェスト版をご覧ください。 動画視聴 では、本題に入ります。 前回は、ベンゾジアゼピン系の抗不安薬(精神安定剤)を断薬し、その離脱症状の苦しみについて書きました。その後ですが、寝る前にやってくる、全身の筋肉のこわばり感が残るだけとなりました。しかし、それがどうにも耐えがたく、そのときには抗不安薬の一錠をピルカッターで、4分の一、または8分の一にカットして服用しました。極めて微量ながら、症状が緩和され、眠りにつくことができます。無理はしないようにしました。それでも最近は、その筋肉のこわばりもかなり少なくなってきました。全体としては、よい方向に向かっています。 ところで、今回の苦しみを通して、私は心境が大きく変わったように感じています。 人格性が、二歩も三歩も向上したように感じます。もちろん、あくまでも「以前の自分と比較して」という意味であり、「他の人と比較して」という意味ではありません。以前の自分と比較すると、人格が向上したように感じられるのです。 具体的には、感情がコントロールできるようになり、穏やかになりました。たとえば、怒りやいらいらが湧き上がることが少なくなり、湧き上がっても、すぐにそれを消去できるようになったのです。我慢や抑圧ではなく、すぐに消せるようになったのです。もっとも、それはちょっとした怒りであり、大きな怒りでそうできるかどうかはわかりませんが、それでも以前の私と比べたら大きな進歩です。 また、思慮深くなりました。たとえば、何かを語ったり行動する前に、「これを言ったら、あるいは行ったら、どういう結果になるか」ということを、まずは考えて、その後で何かを言ったり、行動するようになりました。そのため、軽率なことを口にして人を不快にさせたり、余計なトラブルを招くことが少なくなったように思います。もちろん、まだまだ完璧とは言えませんが、それでも、私にとっては大きな進歩です。 このように、感情をコントロールできるようになり思慮深くなったので、人に対して以前より寛容になったように思います。 実際、友達から「やわらかくなった」と言われました。こうした人格的な進歩は、私にとっては何よりも嬉しいことです。性格を変えることはなかなか難しいのですが、断薬前と断薬後の、この短い期間で、私の性格はけっこう変わりました。 なぜこういう現象が起きたのか、考えてみました。 ひとつの理由として、これまでは薬のせいで、脳がある種の「固定化」がされていて、そのために性格的な変容の余地がなかったのが、薬を飲まなくなったために、その足かせがはずれて変容したのかもしれません。 あるいは、苦しみを味わったために、ある種のショックによって脳が刺激された可能性もあるかなと思っています。もしそうだとすれば、むかしから宗教では「苦行」が行われてきましたが、それにはこういう意味があるのではないかと思われます。 あまりにも過酷な苦しみは悲惨ですが、多少の苦しみであれば、ときどき経験した方がいいのかもしれません。苦しみなく、のほほんと過ごすだけでは、人間は変われないと思います。変われないだけならまだしも、いつのまにか我儘になったり、謙虚さを失って傲慢になったり、人に対する思いやりに欠けたりしがちです。 それにしても、なぜこのタイミングで、しかも、いきなり断薬をしようと思ったのか、自分でもその理由がわかりません。私は、神の恩恵だと思っています。私にとっては、今のタイミングで、いきなり断薬をすることがよかったのでしょう。しかし、一般的には、前回も述べましたが、いきなり断薬してはいけません。たまたま私の場合は、結果的にうまくいきましたが、すべての人がうまくいくとは限りません。かなり危険なので、断薬する場合は、長期間にわたって少しずつ減らしていかなければなりません。 スポンサーサイト
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抗不安薬の離脱症状2022-11-24 Thu 14:26
まずは報告とお知らせから。 今月のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は、「聖イグナチオの瞑想法」というテーマで行いました。瞑想というと、一般的には東洋の瞑想が主流ですが、西洋(キリスト教)の瞑想法も、東洋にはない良さがあり、参考になるかと思います。ぜひダイジェスト版をご覧ください。 動画視聴 では、本題に入ります。 一ヶ月ほど前、12年間飲み続けたベンゾジアゼピン系の抗不安薬(精神安定剤)を、いっきに止めました。今まで止めよう止めようと何回も思っていたのですが、習慣になってしまい、なかなか止められませんでした。ところが、理由はわからないのですが、突然、やめようという強い思いが湧いてきたのです。 抗不安薬を止めるときは、時間をかけて少しずつ減薬するのが大原則です。突然に止めるのは非常に危険で、まれに命を失うこともあるようです。私もそのことは十分にわかっていたのですが、なぜか「スパッと止めたい」という強い思いが湧いてきて、そうしたのです。その後、私の心身に生じた離脱症状について、ご紹介してみたいと思います。 断薬してから一日たった夕方、突如として強い焦燥感に襲われ、胸が苦しくなり、冷や汗が出てきました。その日の夜、ベッドに横になって眼を閉じると、まぶたの裏に、まるで打ち上げ花火のように、光の閃光が見えては消えるということが起きました。そして、うとうとして眠れるかなと思うと、突如として心臓がびっくりするような衝撃が走って、ドキッとして眼が覚める経験を何度かしました。強い吐き気に見舞われ、とても寝ていられないので、起きて椅子に座りました。思わずトイレに飛び込んで吐こうとしましたが、「オエ~」となるのですが、何も吐きません。水のような下痢を何回もしました。 こんな状態が2、3日続きました。吐き気のために食欲もなく、ほとんど断食して過ごしました。日中は、インフルエンザにかかったように強い倦怠感に襲われ、ふらふらしました。ペンで何かを書こうとしても、手が震えてまともな字が書けなくなりました。また、音楽を聴いても、音が非常に汚く聞こえるのです。とりわけ、高音がひび割れたように聞こえました。それと、風の音が、人の話す声に聞こえたりするのです。これはある種の幻聴なのでしょう。 ネットで調べると、以上、私が経験した症状は、ベンゾジアゼピン系の抗不安薬を止めたときに生じる症状とどれも一致していました。これらは、脳や神経系統にダメージを受けたものと思われます。時間をかけてゆっくりと減薬していけば、こういう症状はないか、あっても軽くすんだかと思われますが、とにかく辛い経験でした。 3日を過ぎる頃から、上記の症状はしだいに緩和されていきましたが、身体の倦怠感は相変わらずで、昼間はほとんど椅子に座るか横になってばかりで、何もする気になれませんでした。 その後、夜間にひどい寝汗をかくようになりました。そのうち、からだじゅうの筋肉がこわばっているような、、何ともいえない不愉快な症状に見舞われました。そして、明け方から朝にかけて、ひどい不安感と焦燥感に襲われるようになりました。これはかなり辛かったです。しかし幸い、また抗不安薬を飲みたいという欲求は起きませんでした。 その後の回復は、期待したほどうまくはいかず、多少の波がありましたが、あまり変わらない状態がずっと続きました。それでも少しずつ、日中の倦怠感は薄皮をはぐように薄れていき、日中はほぼ問題なく過ごすことができるようになりました。そのおかげで、なんとかイデア ライフ アカデミーの授業を終えることができましたが、非常に疲れやすく、無理はできませんでした。 今現在は、だいぶ軽くはなりましたが、相変わらず夜間に寝汗をかいて2度ほど目覚めます。そして、やはりだいぶ軽くはなりましたが、明け方の不安感や焦燥感もまだあります。ただ、筋肉がこわばったような不快な症状はあまりよくなっていません。これは何とも表現できないような感覚で、寝てすぐに襲いかかってきます。これはしばしば耐え難いほど苦しいので、そういうときは起きて椅子に座り、からだを冷やすと治るので、ごまかしながら何とか耐えています。 離脱症状により、脳神経系統にダメージを受けるため、認知機能に問題が生じるとネットに書いてありました。しかし、その点についてはあまり問題なかったように思います。それどころか、ある機能については以前よりよくなった気がします。それは、人の顔を思い出す能力です。以前は、人の顔を思い出すことが苦手でした。しかし今は、人の顔を、細部にわたるまで、まるで写真を見ているかのようにはっきりと思い出せるようになったのです。これは不思議です。ネットで見てもそのようなことは書かれていませんでした。 また、食欲が全般的に減ってきて、以前より少ない量で満腹感を覚えるようになりました。そのため、いい意味で体重が減り、なんとなく体調的には以前よりよくなったような気もします。以前は毎朝必ずコーヒーを飲む習慣があったのですが、コーヒーを飲みたいという気持ちがなくなり、今ではほとんど飲まなくなりました。酒は、もともとあまり飲まなかったのですが、さらに飲みたいとは思わなくなりました。 まだ完全に治ったとはいえないのですが、日常生活的には無理をしなければ何とか活動できるので、気長に回復を待とうと思っています。ネットで調べると、やはり突然に断薬した人の体験談が載っていて、半年から一年くらいは調子が悪かったということです。 私の場合は、今のところ、致命的なダメージを受けずにすんでいますが、もし皆さんの中でベンゾジアゼピン系の抗不安薬を飲んでいる人がいたら、決していっきに断薬してはいけません。気長に、計画的に少しずつ減薬していかなければなりません。さもないと、地獄の苦しみを味わう危険があります。 |
影(シャドー)の消し方2022-10-19 Wed 14:16
まずは報告とお知らせから。
今月のイデア ライフ アカデミー哲学教室は、「ケン・ウィルバーの思想」というテーマで行いました。万物すべてを「統合と進化」という観点からひとつにまとめようとする彼の考え方は、どのような分野においても必要であり、大変に重要です。ぜひダイジェスト版をご覧ください。 動画視聴 来月は「イグナチオの瞑想法」について紹介します。瞑想というと東洋的なものを思い浮かべますが、西洋の瞑想法には東洋にはないよさもあります。ぜひご参加ください。 参加ご希望の方↓ 斉藤啓一のホームページ では、本題に入ります。 今月のイデア ライフ アカデミーの授業動画「ケン・ウィルバーの思想」でも紹介していますが、私たちの心の深層には、およそ誰でも、大なり小なり「影(シャドー)」が存在していると言われています。これはユングが提唱した理論ですが、影とは、感情や概念などが深層意識にまで抑圧され、そのために無自覚(気づかない)になったものです。すると、その影は、外部に投影されます。 具体的に説明すると、怒りが湧いたとします。しかし「怒ってはいけない」と強く思いました。しかし、それだけで怒りは消えません。その怒りは、無意識層へと抑圧されるのです。そのため、怒りの自覚がなくなりますので、自分は怒っていないと感じられます。しかし、怒りは深層意識に潜んでいるのです。そして、その怒りを外部に投影します。 その結果、「人々は自分のことを怒っている」ように見えてしまうのです。怒っているのは自分なのですが、他者が怒っているように思えてしまうわけです。しかし、すでに述べたように、本人は怒っているという自覚がありませんから、怒っていないかのように振舞います。それを仮面(ペルソナ)と呼びます。 たとえば、父親に対して強く憎しみを抱いている子供は、それを抑圧させて、そのまま成人になって会社に勤めたとします。すると、根拠もないのに「上司は自分のことを憎んでいる」と思ったりするわけです。 このような影があると、当然、人間関係はうまくいかないでしょう。まさに自分の人生に暗い「影」を落とすことになりかねません。 では、この影(シャドー)を消すには、どうしたらいいのでしょうか? 優秀なセラピストの助けを受けることができれば、それが一番確実かと思いますが、なかなかそのようなセラピストと出会えるとも限りません。したがって、自力で影を消していくことになります。 もともとなぜ影ができたかと言えば、それを抑圧させたからですが、抑圧させたのは、その感情なり思いを否定して「なきものとした」からです。 例の場合で言えば、「怒ってはいけない、自分は怒るような人間ではないのだ」という思いが抑圧させたのです。 ここで注目しなければならないのは、「自分は怒るような人間ではないのだ」という思い込みです。さらに言えば「自分は怒るようなレベルの低い人間ではない。もっとレベルの高い人間なのだ」という、ある種のプライドと言いますか、高慢さや自惚れが潜んでいることが多いのです。 怒りだけではなく、悲しみも同じです。「自分はこれくらいで悲しむほど弱くはないのだ」、つまり「自分は強い人間なのだ」という自惚れがあるのです。 なので、「怒っている自分」、「悲しんでいる自分」を認めたくないのです。見たくないのです。だから抑圧してしまったのです。 しかし、影を消すには、どうしてもこの影と対峙しなければなりません。そういう感情や思いが自分から生じたことを、素直に認めなければならないのです。つまり、「自分は怒っているのだ、怒るような人間なのだ」ということを認めなければならないわけです。それは辛い経験です。なぜなら「自分は怒るようなレベルの低い人間なのだ」ということを認めるわけですから、プライドが傷ついてしまうからです。人はプライド、言い換えれば「自己肯定感」を支えに生きているようなところがありますから、プライドを捨てるというのは、相当な勇気と覚悟がいります。 しかし、人間的に、さらには霊的に、成長するには、このようなプライドは捨て、影を消していかなければなりません。 それはいっぺんには難しいでしょう。少しずつ、プライドを捨てていくようにするのです。たとえば、自分を見せびらかしたり、自慢したりする傾向がある場合は、それをやめることです。そして、あらゆる面において、謙虚の美徳を優先して生きることです。どんな人にも威張ったり、上から目線になることなく、どんな人と接するときでも、「相手の方が自分より偉いのだ」と思って接するようにすることです。 こうしたことを、忍耐強く続けていくことで、影は消失していきます。その結果、病的な投影も消失し、人間関係や人生が好転していくようになるはずです。 |
レッテル貼り2012-11-17 Sat 20:32
いま放映しているNHKの連続テレビ小説には、人の心を読むことができる青年が登場しているのですが、その青年が精神科医に診てもらったところ「統合失調症」と診断され、しばらく薬を飲んでいた……という展開になっているようです(ときどきチラリとしか見ていないので詳しい内容は知らないのですが)。 精神科医が(もちろんすべてではないでしょうが)、いかにでたらめな診断や薬の処方をしているかということが、最近、数々の本やマスコミなどで糾弾されていますが、実際、本当にこれが医者か?と疑うような人もいるようです。 それはさておき、統合失調症という診断は、しばしば誤診されることが多いようです。たとえば、他に精神的ストレスがあって、そのために統合失調症に似た状態に一時的になっているだけなのに、それで統合失調症と診断され、ずっと薬を服用させられたりするわけです。しかし、一度薬を常用すると、それを止めるのはとても難しくなり、薬自体の副作用のために、本当に異常になってしまうこともあるようです。 それと、霊的な感性を持った人が、やはり統合失調症と診断され、薬でつぶされてしまうことも少なからずあるようです。確かに、霊的な世界を認めない精神科医にとっては、理解不能なことを口走っていたりすれば、それで精神病扱いされてしまうのは、無理もないといえば無理もないでしょうが、これは無知からくる重大な「医療過誤」ではないかと思います。 ところが、沖縄などでは、ユタと呼ばれる霊能者がいて、ユタとなる運命を持った人は、一時的に統合失調症のような状態になったりするわけです。みんながそのことを古くから伝統的に知っているため、安易に精神病だなどと決めつけず、それなりの世話や導きをするので、結局、最後にはまともになり、霊能者として活躍できたりするわけです。 ところが、そのような伝統や理解がない場所では、霊的な一時的プロセスによる症状なのに、それを精神病と診断されて薬漬けにされ、結局廃人のようにされてしまう例が、非常に多いように思います。 NHKのドラマで、青年が「こんなもの!」といった感じで精神科医からもらった薬をゴミ箱にたたきつけるように投げ捨てるシーンがありましたが、これはある意味、大胆なシーンではないかと思いました。精神科医や製薬会社がそのシーンを見たらどう思うかと想像してみると、NHKはけっこう大胆なことをするなあと感心いたしました。 私はもちろん、薬は一概に否定するつもりはありませんが、乱用には反対ですし、実際、乱用されている傾向が強いように思います。 一度、「統合失調症」だと診断されると(レッテルを貼られると)、そのように扱われ、また自分でもそのように自分を見なして、ある種の見えないヒモで自分を縛り上げてしまうようになります。その他、自閉症だとか、アスペルガー障害だとか、いろいろな診断というか、レッテルを貼る傾向があります。 レッテル張りは、対象を明確にしてアプローチしやすくなるという利点はあるのですが、程度も質も違う人たちをひとつのカテゴリーに押し込めて同じ扱いをしてしまうという危険もあります。アスペルガー障害などという言葉がない時代では、そういう子供は「ちょっと変わった子」として、とくに差別されることもなく、それなりに受け入れられて何とかやってきたものです。もちろん、あまりにも程度が重症な場合は特別な対応は必要でしょうが、軽度にもかかわらず、アスペルガー障害があるからといって、特殊学級に入れるといったやり方には、私はあまり賛成できません。 統合失調症だって、よほど生活に支障があるほどでなければ、「ちょっと変わった人」に過ぎないのではないでしょうか。 そして、世の中というものは、「ちょっと変わった人」もいるくらいの方が健全なのではないでしょうか。何もかもがみんな同じであり、異質な人は排除するべきだという風潮が強すぎるように思います。「ちょっと変わった人」であれば、人はそれなりにつきあっていくでしょうが、「統合失調症」とレッテルを貼られた人に対しては、多くの人は思わず引いてしまうのではないかと思います。 イタリアは、確か精神病院がありません。バスに乗っていても、あきらかに頭のおかしい人がいて、へんなことをぶつぶつ口走っていたりするのですが、他の人はそれで差別したり身をひいたりせず、むしろ、気安く声を掛けて話をしていたりするそうです。 精神病者は何をするかわからない危険な人物だ、というのは誤解です。統計的にも、精神病者が起こす殺傷事件と、健常者が起こす殺傷事件を比較すれば、健常者が人を傷つけたり殺したりする方がずっと多いのです。 少し変わった人、奇異な人を、やたらに神経質に排除しようとする「健常者」たちの方が、むしろよ精神的に病んでいるのではないでしょうか。 世の中というもの、人生というものは、へんなたとえで恐縮ですが、あらゆるものを入れた「煮込み鍋」のようなものです。いろいろな食材が入っているから、いろいろな味を楽しむことができ、さまざまな食材の栄養が溶け込んだ汁にも、独自の味わいが出てくるのです。白菜しか入っていない鍋など、おいしくも何ともないはずです。 ちょっとくらい変わっていても、それを「病気」などと決めつけることなく、ひとつの個性として、みんなで受け入れてあげればよいのです。そうすれば、それがたとえ実際に精神病であったとしても、自然に癒されていくと思います。「精神病」だとレッテルを貼り、精神病者扱いし、自分も精神病者だという自覚を持つから、精神病は治らないのです。 もし自分は「人生の落伍者だ」とレッテルを貼れば、その通りになり、そのままとなるでしょう。自分は「ダメな親だ」とレッテルを貼れば、その通りになり、そのままの状態になるでしょう。 いかなる否定的なレッテルを、人や自分に貼り付けるべきではないのです。 |
脳の生理環境を整えて心を治癒する2011-08-21 Sun 20:00
精神病や、心の病を治癒するというと、ほとんどは薬や心理療法、カウンセリングという手段が用いられます。もちろん、それは大切であり必要なことです。 しかし、もう少し基本的な面を考慮することも忘れてはなりません。 それは、「脳」のコンディションを整えるということです。 精神病というのは、要するに、脳の病気と言い換えてもいいと思います。脳というのは、脳神経細胞の集まりですので、この脳神経細胞が侵されたり、そのネットワークが乱れてしまったり、脳内の分泌物が正常に機能しなくなると、いわゆる精神病という症状になるわけです。薬などは、脳のこうした生理的な状態にダイレクトに作用を及ぼすものです。 いうまでもなく、脳というのも内臓のひとつですから、からだ全体の生理状態によって大きく影響を受けます。この点から、精神病や心の病を癒すには、脳の生理状態を改善するための、次のようなアプローチが必要になってくるのです。 まず、血液を浄化することです。血液が濁っていると、脳細胞に悪い影響をもたらします。血液を浄化させるだけで、精神病や心の病が、治るとまではいかないにしても、かなり軽減されることがあるのです。 そして、血液を浄化するために大切なのは、腸をきれいにすることです。血液は骨髄から作られるというのが医学の常識になっていますが、一方で腸から作られるという説があります。有識者の話を聞きますと、骨髄造血説の根拠はけっこうあいまいで、むしろ腸造血説の方が信憑性があるように私には思われます。いずれにしろ、腸をきれいにすることで血液が浄化されることは間違いありませんから、便秘をしたり、宿便をため込んだりせず、腸内環境を整えるということが、精神の病を癒すために非常に重要になってくるのです。 次に、血液の浄化と関連しますが、栄養にも注意する必要があります。とくに気を付けなければならないのは、糖分の取りすぎです。脳細胞はブドウ糖をエネルギーとして活動するのですが、糖分の取りすぎでブドウ糖が血液のなかに含まれすぎると、脳神経に過剰なエネルギーが流れ込んでしまい、神経を疲弊させたり、異常に興奮させてしまったりします。ブドウ糖は急激に濃度が下がりますから、今度はその落差の大きさに脳神経細胞が困惑させられ、正常なバランスを失ってしまうのです。お菓子や清涼飲料水などの取りすぎにより、血糖値を急激に上げたり、慢性的に血糖値が高い状態にならないようにすることが、精神の病を癒すためには大切になってきます。ちなみに、血糖値の高さは老化を早めるという研究も最近では出てきているようです。 次に、脳内ホルモンの分泌を整えることです。これにはいろいろな方法がありますが、単純でありながら効果的な方法は、早寝早起きです。夜行性の動物は別として、人間は昼に起きて夜は眠るようになっています。そのリズムで脳内ホルモンが調整されているのです。したがって、夜更かしをしたり、昼夜逆転の生活をすると、脳内ホルモンが乱され、それが精神の病に悪影響を与えることになるのです。 また、適度な運動をすることも有効です。運動をすることで、血液やリンパ液などの体液が循環させられて浄化したり、血行がよくなりますから、脳の生理状態をよくします。さらに、運動を通して脳細胞やからだ全体の細胞に刺激を与え、それも脳の機能を健全なものにして、結果的に精神的な病を改善させる影響を与えるのです。 以上のようにすると、脳の生理環境が改善され、精神的な病の改善にいい影響を与えるのです。そして、このように脳の生理環境を改善する試みというのは、当然ながら、瞑想がうまくできる条件と言うこともできるわけで、そのまま覚醒にとって有効であると言えるわけです。 |