心の治癒と魂の覚醒

        

 レッテル貼り


 いま放映しているNHKの連続テレビ小説には、人の心を読むことができる青年が登場しているのですが、その青年が精神科医に診てもらったところ「統合失調症」と診断され、しばらく薬を飲んでいた……という展開になっているようです(ときどきチラリとしか見ていないので詳しい内容は知らないのですが)。
 精神科医が(もちろんすべてではないでしょうが)、いかにでたらめな診断や薬の処方をしているかということが、最近、数々の本やマスコミなどで糾弾されていますが、実際、本当にこれが医者か?と疑うような人もいるようです。
 それはさておき、統合失調症という診断は、しばしば誤診されることが多いようです。たとえば、他に精神的ストレスがあって、そのために統合失調症に似た状態に一時的になっているだけなのに、それで統合失調症と診断され、ずっと薬を服用させられたりするわけです。しかし、一度薬を常用すると、それを止めるのはとても難しくなり、薬自体の副作用のために、本当に異常になってしまうこともあるようです。
 それと、霊的な感性を持った人が、やはり統合失調症と診断され、薬でつぶされてしまうことも少なからずあるようです。確かに、霊的な世界を認めない精神科医にとっては、理解不能なことを口走っていたりすれば、それで精神病扱いされてしまうのは、無理もないといえば無理もないでしょうが、これは無知からくる重大な「医療過誤」ではないかと思います。
 ところが、沖縄などでは、ユタと呼ばれる霊能者がいて、ユタとなる運命を持った人は、一時的に統合失調症のような状態になったりするわけです。みんながそのことを古くから伝統的に知っているため、安易に精神病だなどと決めつけず、それなりの世話や導きをするので、結局、最後にはまともになり、霊能者として活躍できたりするわけです。
 ところが、そのような伝統や理解がない場所では、霊的な一時的プロセスによる症状なのに、それを精神病と診断されて薬漬けにされ、結局廃人のようにされてしまう例が、非常に多いように思います。
 NHKのドラマで、青年が「こんなもの!」といった感じで精神科医からもらった薬をゴミ箱にたたきつけるように投げ捨てるシーンがありましたが、これはある意味、大胆なシーンではないかと思いました。精神科医や製薬会社がそのシーンを見たらどう思うかと想像してみると、NHKはけっこう大胆なことをするなあと感心いたしました。
 私はもちろん、薬は一概に否定するつもりはありませんが、乱用には反対ですし、実際、乱用されている傾向が強いように思います。
 一度、「統合失調症」だと診断されると(レッテルを貼られると)、そのように扱われ、また自分でもそのように自分を見なして、ある種の見えないヒモで自分を縛り上げてしまうようになります。その他、自閉症だとか、アスペルガー障害だとか、いろいろな診断というか、レッテルを貼る傾向があります。
 レッテル張りは、対象を明確にしてアプローチしやすくなるという利点はあるのですが、程度も質も違う人たちをひとつのカテゴリーに押し込めて同じ扱いをしてしまうという危険もあります。アスペルガー障害などという言葉がない時代では、そういう子供は「ちょっと変わった子」として、とくに差別されることもなく、それなりに受け入れられて何とかやってきたものです。もちろん、あまりにも程度が重症な場合は特別な対応は必要でしょうが、軽度にもかかわらず、アスペルガー障害があるからといって、特殊学級に入れるといったやり方には、私はあまり賛成できません。
 統合失調症だって、よほど生活に支障があるほどでなければ、「ちょっと変わった人」に過ぎないのではないでしょうか。
 そして、世の中というものは、「ちょっと変わった人」もいるくらいの方が健全なのではないでしょうか。何もかもがみんな同じであり、異質な人は排除するべきだという風潮が強すぎるように思います。「ちょっと変わった人」であれば、人はそれなりにつきあっていくでしょうが、「統合失調症」とレッテルを貼られた人に対しては、多くの人は思わず引いてしまうのではないかと思います。
 イタリアは、確か精神病院がありません。バスに乗っていても、あきらかに頭のおかしい人がいて、へんなことをぶつぶつ口走っていたりするのですが、他の人はそれで差別したり身をひいたりせず、むしろ、気安く声を掛けて話をしていたりするそうです。
 精神病者は何をするかわからない危険な人物だ、というのは誤解です。統計的にも、精神病者が起こす殺傷事件と、健常者が起こす殺傷事件を比較すれば、健常者が人を傷つけたり殺したりする方がずっと多いのです。
 少し変わった人、奇異な人を、やたらに神経質に排除しようとする「健常者」たちの方が、むしろよ精神的に病んでいるのではないでしょうか。
 世の中というもの、人生というものは、へんなたとえで恐縮ですが、あらゆるものを入れた「煮込み鍋」のようなものです。いろいろな食材が入っているから、いろいろな味を楽しむことができ、さまざまな食材の栄養が溶け込んだ汁にも、独自の味わいが出てくるのです。白菜しか入っていない鍋など、おいしくも何ともないはずです。
 ちょっとくらい変わっていても、それを「病気」などと決めつけることなく、ひとつの個性として、みんなで受け入れてあげればよいのです。そうすれば、それがたとえ実際に精神病であったとしても、自然に癒されていくと思います。「精神病」だとレッテルを貼り、精神病者扱いし、自分も精神病者だという自覚を持つから、精神病は治らないのです。
 もし自分は「人生の落伍者だ」とレッテルを貼れば、その通りになり、そのままとなるでしょう。自分は「ダメな親だ」とレッテルを貼れば、その通りになり、そのままの状態になるでしょう。
 いかなる否定的なレッテルを、人や自分に貼り付けるべきではないのです。

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 脳の生理環境を整えて心を治癒する


 精神病や、心の病を治癒するというと、ほとんどは薬や心理療法、カウンセリングという手段が用いられます。もちろん、それは大切であり必要なことです。
 しかし、もう少し基本的な面を考慮することも忘れてはなりません。
 それは、「脳」のコンディションを整えるということです。
 精神病というのは、要するに、脳の病気と言い換えてもいいと思います。脳というのは、脳神経細胞の集まりですので、この脳神経細胞が侵されたり、そのネットワークが乱れてしまったり、脳内の分泌物が正常に機能しなくなると、いわゆる精神病という症状になるわけです。薬などは、脳のこうした生理的な状態にダイレクトに作用を及ぼすものです。
 いうまでもなく、脳というのも内臓のひとつですから、からだ全体の生理状態によって大きく影響を受けます。この点から、精神病や心の病を癒すには、脳の生理状態を改善するための、次のようなアプローチが必要になってくるのです。

 まず、血液を浄化することです。血液が濁っていると、脳細胞に悪い影響をもたらします。血液を浄化させるだけで、精神病や心の病が、治るとまではいかないにしても、かなり軽減されることがあるのです。
 そして、血液を浄化するために大切なのは、腸をきれいにすることです。血液は骨髄から作られるというのが医学の常識になっていますが、一方で腸から作られるという説があります。有識者の話を聞きますと、骨髄造血説の根拠はけっこうあいまいで、むしろ腸造血説の方が信憑性があるように私には思われます。いずれにしろ、腸をきれいにすることで血液が浄化されることは間違いありませんから、便秘をしたり、宿便をため込んだりせず、腸内環境を整えるということが、精神の病を癒すために非常に重要になってくるのです。

 次に、血液の浄化と関連しますが、栄養にも注意する必要があります。とくに気を付けなければならないのは、糖分の取りすぎです。脳細胞はブドウ糖をエネルギーとして活動するのですが、糖分の取りすぎでブドウ糖が血液のなかに含まれすぎると、脳神経に過剰なエネルギーが流れ込んでしまい、神経を疲弊させたり、異常に興奮させてしまったりします。ブドウ糖は急激に濃度が下がりますから、今度はその落差の大きさに脳神経細胞が困惑させられ、正常なバランスを失ってしまうのです。お菓子や清涼飲料水などの取りすぎにより、血糖値を急激に上げたり、慢性的に血糖値が高い状態にならないようにすることが、精神の病を癒すためには大切になってきます。ちなみに、血糖値の高さは老化を早めるという研究も最近では出てきているようです。

 次に、脳内ホルモンの分泌を整えることです。これにはいろいろな方法がありますが、単純でありながら効果的な方法は、早寝早起きです。夜行性の動物は別として、人間は昼に起きて夜は眠るようになっています。そのリズムで脳内ホルモンが調整されているのです。したがって、夜更かしをしたり、昼夜逆転の生活をすると、脳内ホルモンが乱され、それが精神の病に悪影響を与えることになるのです。

 また、適度な運動をすることも有効です。運動をすることで、血液やリンパ液などの体液が循環させられて浄化したり、血行がよくなりますから、脳の生理状態をよくします。さらに、運動を通して脳細胞やからだ全体の細胞に刺激を与え、それも脳の機能を健全なものにして、結果的に精神的な病を改善させる影響を与えるのです。

 以上のようにすると、脳の生理環境が改善され、精神的な病の改善にいい影響を与えるのです。そして、このように脳の生理環境を改善する試みというのは、当然ながら、瞑想がうまくできる条件と言うこともできるわけで、そのまま覚醒にとって有効であると言えるわけです。

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 表現することで心の病は癒される


 どのような心の病であれ、自分自身を表現することによって、癒されたり改善することが大変に多くあります。
 そのためのもっとも手軽で有効な方法は、自分の話を人に聴いてもらうことです。いわゆる傾聴ということですが、これはカウンセリングの基本となっています。自分自身の思いや考えを人に話すこと、そしてそれが共感され理解され、またできれば称賛されることにより、心はしだいに調律されて健全に近づいていったり、病的な興奮が起きなくなったり、悪化をくい止めることができたりするのです。
 ただ、ここで問題になるのは、本当に親身になり、共感と理解と称賛をもって聴いてくれる人に恵まれるかどうかです。このような姿勢で人の話に耳を傾けるというのは、想像するほど容易ではありません。それなりの自制心と忍耐力、またエネルギーを要しますし、時間も必要です。まして、お金を払ってカウンセラーに話を聴いてもらうのではなく、善意による無報酬で話を聴いてくれる人となると、そういうボランティアもあることはありますが、必ずしもすべての人が恵まれているとは限らないでしょう。

 そこで、傾聴してもらうのが難しい場合は、自分の思いを文章や何らかの創作活動によって表現するという手段もあります。今はブログだとかホームページなどで、自分の思いを表現して不特定多数の人に読んでもらうことができます。文章を通して自分を表現することも、非常に大きな癒しの効果をもたらすことがあります。
 ただ、この場合、ある程度の文章能力が必要とされますので、話すことよりも少し難しいかもしれません。そのため、非常に混乱の強い心の病を持った人には向いていないかもしれません。
 むしろ、文章よりも絵画や音楽といった芸術活動の方が向いている人もいるでしょう。もちろん、芸術家になるわけではないので、上手に絵を描いたり音楽を演奏したりする必要はありません。好きなようにやればいいのです。芸術的な創作活動をすることも、心を癒すのに貢献します。実際、芸術療法という心理療法もあるくらいです。
 その他、人によっては、ダンスなど体を使うものもいいでしょう。編み物でもいいですし、料理なども、自分を表現する活動として見てもいいかもしれません。

 なぜ自分を表現すること、またそのために創造的な活動をすることが心を癒すかというと、人間の本質は生命であり、その生命は究極的には神を源流にしているからです。つまり、神は自分を表現しようという欲求を持ち、そのために創造的な活動をしている存在だと思われるからです。したがって、その欲求を解放させることが、生命力を解放させることになり、そうして解放された生命力によって自らを癒していくのです。
 神の属性とは何かといえば、それは創造と愛の二つでしょう。したがって、心を治癒する場合でも、「創造と愛」の欲求を解放させる方向に向かっていくことで、実現されていくのです。
覚醒も同じです。創造的な生き方、愛の生き方をすることによって、成就へと向かっていくのです。


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 心の病の治癒に関して


 このブログは、「心の治癒と魂の覚醒」というタイトルの通り、「心の治癒」についても扱うことになっています。ただ、究極の「心の治癒」は「覚醒」であると考えていますので、今までは表だって「心の治癒」についての話題は取り上げてきませんでした。つまり、覚醒の道を歩むことが、そのまま心の治癒につながるからです。
 ただ、心の治癒の問題に焦点を絞って考えていくことも意義があると思いますので、今後はこのテーマについても取り上げていこうと思っています。究極的にめざすところは同じですから、心の治癒に関するテーマでも、「覚醒に至る道」について論じられているという読み方ができると思います。

 さて、統合失調症や鬱病、神経症、パーソナリティ障害、学習障害、注意欠陥・多動性障害といった精神的な病、あるいは、不登校や引きこもり、リストカットなどの自傷癖や摂食障害などの問題も含めて、こうしたことを癒すために、さまざまな理論や方法が提案されています。私は精神科医や医師ではないので、これから述べる意見はあくまでも個人的な考えにすぎないことを、あらかじめお断りしておきます。
 私の考えでは、心の病を癒すためにもっとも大切なことは、心の病を抱えた人を必要以上に「特別視」しないということです。本人も周囲も社会もです。もちろん、必要な援助やケアはしなければなりませんが、私が言いたいのは、まるで普通の人とは違う異質な人であるかのように見なすべきではない、ということです。
 たとえば、友達が風邪を引いてフラフラしていたとしても、その友達を「異質な人」とは見ないでしょう。ところが、統合失調症であると言ったら、それだけで周囲の見る目が違ってくるのです。一歩か二歩後ずさりされるような印象を受けるかもしれません。その上、精神病院に通院しているとまで言ったら、まるで違う人種か、ひどい場合はまるで悪性の伝染病にでも侵されているかのような接し方をされてしまったりするわけです。実際、社会から隔離されたり、特別な治療や処遇を強制されたりすることもあります。
 しかし、このように特別視されてしまうことが、実際には心の病を癒すことを妨げているように、私には思われるのです。

 この社会というものは、人生の不幸や苦しみを連想させるものからは目を背け、排除しようという傾向があります。精神的におかしくなってしまった人も同じように扱われたりします。
「世の中には、こんなにも苦しくひどいことが起こり得るのだ」
 このように思って人々は恐怖を覚えるからです。そんなひどいことが自分の身にも起こらないとはいえないという恐怖心が煽られてしまうのです。
 そこで、さまざまな考えをめぐらします。「こういう人は前世で悪いことをした罰なのだ(私はそこまで悪いことはしていないはずだから大丈夫だ)」とか、「こういう人の近くにいると因縁をうつされて自分もああなりかねない」などと考え、近くに寄らないようにしたりするわけです。そして、こういう人が人目につくような場所にいることを、露骨ではないにしても、そのまなざしや態度や雰囲気で嫌悪するのです。
 あるいは、このようなひどい接し方はしなくても、「こういう人たちは憐れむべき人たちだ」と考えて、やはりある種の差別的な接し方をして特別視するのです。

 また、不登校や引きこもりの子供というものも、世間から特別視されます。確かに、学校へは行くものという社会の規範に照らせば「特別」であり「異常」なことなのでしょう。しかしそれ以上に、人間存在の根底部分から特別視され、異常視されてしまうわけです。
 たいていの場合、このような子供の問題や、あるいは学校の成績が悪いといった「出来の悪い子供」に対して親が悩むのは、子供自身のことを考えているという理由もあるでしょうが、むしろ世間から自分が批判されたり悪く思われることを怖れているという理由も少なくないのです。つまり、「出来の悪い子供」になったのは、「親の出来が悪いからだ」と世間から思われるのを怖れているわけです。実際、世間ではそのように思う傾向が強くあるでしょう。そのために、非常に大きく騒がれ、問題視され、怖れられ、忌み嫌われているのではないかと思われたりもします。
 そして、このような傾向が、登校拒否や引きこもりの子供をますます追いこんでしまっていると私は考えているのです。誰だって学校に行きたくないときはあります。しかし、ちょっとでも学校に行かない日が続くと、「登校拒否児」というレッテルを貼られ、親や周囲から責められ、まるで人間として劣っているかのような傷を子供に与えてしまうわけです。
 登校拒否の子供は、単に学校に行かないというだけであり、引きこもりの子供は、ただ部屋に閉じこもっている、というです。それ以上でもそれ以下でもありません。

 病気や問題行動に「名前」をつけることは、それを認識しやすくなるという利点がある反面、名前をつけたがために、その名前にとらわれ、ますますその病気やトラブルに追い込まれてしまうという否定的な面もあるように思います。
 いずれにしろ、心の病気やトラブルが起こると、治療や矯正という名目で、特別な存在として扱われ、ときには社会から隔離したり、友人たちと隔離させてしまったりします。しかし、それが問題なのです。もちろん、周囲に暴行を働くとか、甚大な迷惑をかけるような場合は隔離も必要でしょうが、そのようなケースはそれほど多くありません。
 心の病を癒すには、この社会全体が、「心の病」を抱えた人、あるいは人生にほんのちょっとつまづいただけの人を特別視することなく、おおらかに受け入れることが非常に重要なのです。できれば「心の病を抱えた」という認識さえ持たない方がいいでしょう。あたりまえの存在として付き合うのです。
 そして、それが「世界」というものではないでしょうか。
 世界というものは、いいこともあれば悪いこともあり、都合のいいことも起これば都合の悪いことも起こります。それが世の中の真実です。見た目がきれいで幸せなものだけしか見たくない、そういうものは存在してはならないのだ、という非現実的なある種の潔癖症に、私たちは侵されているように思います。いわゆる「除菌」関連の商品が人気があるというのも、強迫的で非現実的なまでの潔癖症が根底にあるのかもしれません。

 むかし、赤塚不二夫の『おそ松くん』という漫画がありました。そこには、いわゆる「知的障害児」と思われる子供が登場します。鼻水を垂らしながら「北海道のケイコさん~」などと意味不明のことを叫びながら走っていくのです。いまこの漫画がテレビ放映されたら、「差別だ! 知的障害児をバカにしてるのか!」などといった抗議が来るかもしれません。
 しかしこの漫画には、こういう障害児も含めてすべてを受け入れていくあたたかさが漂っています。実際、この漫画がテレビ放映されていた昭和40年代くらいは、近所にこういう子供がいて、「おまえ、へんな奴だな」などとからかわれながらも、普通の子と一緒に遊んで世話をしてあげるような連帯感がありました。お風呂屋さんに行けば、それこそ身体が不自由な人、精神が病んだ人もいれば、入れ墨をしている人、お年寄りなど、さまざまな人がいて、そこが子供にとって世の中の真実を見るとてもよい場所となっていました。また、そこでいろいろな人とうまくコミュニケーションする能力、ときには助け合う精神を学んだりしたものです。裕福とはいえない環境で育った私なども、ずいぶん銭湯に通いました。冬の寒いときなど銭湯に通うのが辛く、家にお風呂がある家庭がすごく羨ましく思いましたが、今にして思えば、銭湯通いをしたことはとてもよかったと運命に感謝しています。
 心の病を抱えた人は、ちょっと変わっているという程度で普通の人として受け入れられ、仲間として認められ、あたたかく受け入れられて交流し合う環境が、病を癒すうえでもっとも大切な要素となるのです。
 なぜなら、そのような環境というのは、心理カウンセリングや心理療法のエッセンスが非常にいい形で自然に盛り込まれているからです。すなわち、共感的な思いやり、人間としてありのままに受け入れてもらえているという安心感、一体感です。心の病というものは、このようなものによって癒されていくのです。
 もちろん、こうした社会の問題は、私たち個人がすぐにどうこうできることではありませんが、これは重要なことなので、まずは提起させていただきたいと思うのです。
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逆のことをしてみる

 心の病にしても、肉体の病にしても、長期に渡り慢性的な苦悩を抱えているような場合、今までの生き方やライフスタイルとは逆のことをしてみると、病気が治ってしまったり、治るきっかけをつかんだりすることがしばしばあります。これは少し冒険的ではありますが、試してみる価値はあるかもしれません。
 たとえば、いつまでもずっと病気で薬を飲み続けていた人が、思いきって薬を飲むのを止めたら、病気がよくなったといったことが、実際にあるようなのです(医師が書いた本にそうありました)。これはジョークのような話ですが、けっこう多いようです。薬が病気を治していたのではなく、薬が病気を作っていたわけです。
 重い病気になったら、ずっと悩んできた慢性病が治ってしまうこともあります。また、失恋によって心身がおかしくなることは多いのですが、失恋によって心や体が癒されることもあるのです。戦争が起こるとノイローゼ患者が治るというのは、統計的にも確かなようです。精神的なショックによって傷ついて心が、別の新たな精神的ショックによって治ってしまうこともあるのです。もちろん、必ずそうなるというわけではありませんが。
 断食などは、いろいろな病気に効果があるようですが、これなども、これまでとは逆のライフスタイルをすることによるものなのかもしれません。つまり、たいていの場合、病気というものは、栄養不足よりは栄養過多によって起こるわけです。食べていたのを食べないようにすることで、病気が治ってしまったりするわけです。
 心の病なども、周囲がはれ物に触るように大切に扱い、いたわったりします。本人も、精神的に負担になるようなことを避けたりして、おそるおそる暮らしていたりします。確かに、そういうアプローチも必要だと思います。しかし、有無をいわせず過酷な苦難に見舞われたりしますと、心の病が治ってしまうこともあるのは事実のようです。
 結局、これはバランスの問題なのかもしれません。つまり、どんなことも、一方に偏り続けたら、おそらく病気になったり苦しみを招いたりするのです。栄養ばかりとって(運動などで)消費しなければ病気になるのです。自分のことばかり考えて人のことを考えなければ苦悩しますし、人のことばかり考えて自分のことを考えなくても苦悩するのです。いつも人と一緒では苦しみますし、いつもひとりぼっちでも苦しむのです。受けるばかりで与えることをしなくても、与えるばかりで受けることをしなくても、人は病んでしまうのです。緊張ばかりでも、リラックスばかりでも病んでしまうのです。
 心を治癒するには、今までの自分のライフスタイル、生き方、考え方にどこか偏りがないか、アンバランスなものがないかを反省し、もしあれば、今度は逆のことを意識的に行ってみると、快方に向かうかもしれません。
 ただ、長期に渡って偏った生き方をしていると、たとえそれが病的なものであっても、ある種の心地よさが伴ってしまっているため、なかなか逆のことをする気にはなれないことが多いものです。その堅くなった心を、いかにして柔軟にし、逆のことが意識的にできるようになるか、それがひとつの大きな問題だといえるかもしれません。

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