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心の治癒と魂の覚醒

        

真の信仰心とは

 年始になると、大勢の人が神社仏閣に初詣に行きます。初詣に限らず、神社仏閣をよく訪れる人は、信仰深い人のように見えますし、本人もそう思っているかもしれません。
 しかし、そうでしょうか?
 神社仏閣に行き、賽銭箱に小銭を投げ入れ、神仏にお願い事をする、こういう行為は、信仰深さとは何の関係もありません。むしろ、信仰とはまったく逆な行為です。
 もし、願いを叶えてくれなければ、神社仏閣に行くことも、神仏に手を合わせることもないとすれば、それは信仰ではありません。欲望を叶えるための手段として神を利用しているだけです。言い方を変えれば、欲望を満たしてくれるものであれば、別に神でなくてもいいわけです。賽銭箱にいくばくかのお金を投入し、そのかわり願い事を叶えてもらおうとするのは、神仏をある種の「自動販売機」のように考えています。これほど神仏に対して不敬な行為があるでしょうか。
 もちろん、この地上人生においては、大きな苦しみに見舞われることがあります。そういうときに神仏にすがって、苦しみから救ってもらいたいという気持ちは、人情としては理解できますし、別にそれが悪いと言うつもりもありません。どうしても耐えられない苦しみであれば、神仏に祈ればいいと思います。
 しかし、苦しいときにはそうして祈るけれども、苦しくないときには神仏のことはすっかり忘れて祈りもしない、というのでは、信仰心とは言えないと思うわけです。
 ところが、神仏に祈願することが「信仰心」であると勘違いしている人が、日本人には多いように思われるのです。

 考えてもみていただきたいのですが、神仏は、私たちを助けよう、幸せに導いてあげようと思っているはずです。そして言うまでもなく、私たち人間よりはるかに知恵があるでしょう。神仏はすべてお見通して、私たちが苦しんでいることも、すべてわかっているはずです。そして、どうしたら救われるか、どうすれば幸せになれるか、ということも、神仏は私たちよりもはるかによくご存知なのです。
 そう考えるなら、いちいち神仏にお願い事をする必要はないわけです。第一、自分の願いごとを叶えることが、本当に幸せになるかどうかなど、人間にはわかりません。たとえば「Aさんと結婚できたら幸せになれる」と自分では思い、そう神仏に祈願しても、実は「Aさんと結婚したら不幸になる」かもしれず、だとすれば、神仏はそうなることがわかっているわけですから、その願いを叶えてあげようとはしないでしょう(神仏以外の運命的な原因が作用してAさんと結婚でき、そうなれたのも神仏のおかげだと人間が勝手に思い込むことはあるでしょうが)。
 また、苦しみを経験することによって、最終的には幸せになるという場合もあります。そういう場合は、神仏はその人に苦しみを与える(少なくとも、その人が苦しむのをゆるす)ということもありえるでしょう。

 ですから、私たちは、すべてを神にゆだねていればいいのです。人生で起こることは、それが嬉しいことであれ苦しいことであれ、神の意思によるものだと考えられるからです。何が起こっても、「私を幸せに導こうとしてくれている神のご意思なのだ」と感謝して、すべてを受け入れて生きていく、これしかないし、これがベストなのだと思います。そのように信じて、あとは自分としては悪を避け善をなし、過剰な欲望を謹んで心を浄めていく、これが本当の「信仰心」です。

 仏教もキリスト教も、根本的にはこうした信仰心を説いていたと思います。イスラム教、とりわけイスラム教の神秘主義などは、このような信仰心の本質を、さらにわかりやすく、しかも徹底して実践しています。彼らに比べたら、日本人の「信仰心」など、幼稚園レベルです。「イスラム」(正確にはイスラームと発音)とは「神に帰依する、神にゆだねる」という意味です。彼ら、とりわけ神秘家たちは、神にすべてをゆだね、神以外のものは求めません。世俗を汚濁とみなして、そこから離脱し、究極的には神と対面、あるいは合一することが彼らの目標です。そのために、命がけともいうべき真剣な信仰心をもって修行に励みます。そのような姿勢を、なまぬるい信仰心に甘んじている私たち日本人はおおいに見習わなければならないと思うのです。
 私たち日本人には、イスラム教は、仏教やキリスト教と比べると、あまり馴染みがありません。どんな教えかと問われても、ほとんどの人はよくわからないのではないでしょうか。しかし、このようなブログを読んでいる皆さんには、いつかイスラム教、とりわけ神秘主義(スーフィズム)をじっくり学ぶことをお勧めいたします。とても得るものが多いです。

 今月(2月19日/20日)のイデア ライフ アカデミーでは、こうしたイスラム教神秘主義について、2回(2月と4月)に分けて紹介します。興味のある方はぜひご参加ください。
 参加申し込み↓
「斉藤啓一のホームページ」


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修行の基本的な姿勢 | コメント:6 | トラックバック:0 |

論争は避ける

 
釈迦は「論争はするな」と、繰り返し説いています。
 「争論を楽しみ、迷妄の性質におおわれている修行僧は、目覚めた人の説きたもうた理法を、説明されても理解しない」(『スッタニパータ』第2章6)。
 私も若い頃は論争好きな方で、相手を論破しようと好戦的になったりしました。論理的に理詰めで相手を打ち負かし、相手が間違っていることを認めさせようとしていたのです。

 けれども、こうした試みの大半はうまくいきませんでした。
 数学のように、あきらかに証明できる領域では、相手を論破することもできるでしょうが、宗教や哲学、心理学や社会学といった文系の分野では、そもそも完全な証明だとかエビデンスといったものは基本的に存在しないので、相手を論破することは不可能なのです。
 たとえ科学という理系の分野でさえ、論破することは難しいものです。というのも、数多くのデータや実験結果の中から、自分の都合のいいものだけを取り上げて、それで論理を構築してしまう(いわゆる確証バイアスと呼ばれる)傾向が、人間にはあるからです。

 論争を楽しむような人は、その根底に「自己顕示欲」や「承認欲求」を満たそうという動機があるように思われます。そのために、自分に都合のよいデータや理屈をいくらでも見つけることができてしまうのです。逆に言うと、自分に都合の悪いデータや理屈は見ないようにする、あるいは無意識的に見えないようにしてしまうのです。
 ですから、こういう人を釈迦は「迷妄の性質におおわれている」と表現し、いくら理法を説明されても理解しないといって、論争は無意味で時間の無駄だからするな、と説いたのでしょう。

 私が若い頃、ある会社に勤めていたのですが、そこで何人かの同僚と一緒に業務マニュアルを作成することになりました。私は、「教科書的な味気ないマニュアルではなく、読んで楽しいものにしましょう。楽しければそれだけ頭にも入ると思いますし」と提案しました。しかし一人だけ「いや、マニュアルに面白さを持ち込むべきではない」と、頑として反対する人がいました。私はその人と激しい論争をしました。私はなぜマニュアルに面白さを持ち込むべきではないのかと、その理由を何度も尋ねましたが、「マニュアルとはそういうものだ」との一点張りなのです。結局、論争は2時間も続きましたが、彼も私も自説を曲げることなくむなしく終わりました。最終的には、多数決で私の考えが採用されたのですが、彼はその後、この業務をおりました。
 皆さんはどうお考えになるでしょうか。たぶん、私と同じように「楽しいマニュアルを作った方がいい」という考えの人もいるでしょうし、「マニュアルに楽しさを持ち込むべきではない」という考えの人もいると思います。そして、どちらが正解か、ということは、証明できないのです。

 日常的なことでさえ、こんな調子なのですから、これが宗教という、あいまいな領域になると、もうどうしようもありません。エビデンスはもちろん、論理も理屈もありません。たとえばこんな調子です。
「自分の宗教こそが一番正しい」
「そう言える根拠は?」
「経典にそう書いてあるからだ」
「経典に書かれてあることが正しいという根拠は?」
「教祖が経典に書かれてあることは正しいと説いているからだ」
「教祖の説いていることが正しいという根拠は?」
「教祖の言うことは正しいと経典に書いてあるからだ」
 こんな感じで、論理が破綻しているのに、そのことに気づかず、平然とこうした主張を繰り返したりするわけです。これは学歴だとか、いわゆる頭の良し悪しとは関係ありません。高学歴で、学者のような頭がいい人でも、宗教となると、平気で論理が破綻していることに気づかない場合が多いのです。それは、潜在意識に「とにかくこの宗教を信じたい」という欲求があるため、自分に都合の悪いことはスルーしてしまうからだと思います。「人は、自分が信じたいものを真理とする」ということなのでしょう。

 ところで、「マニュアルは面白くした方がいい」という、私のように、変化を志向する人もいるでしょうし、「マニュアルは面白くすべきではない」という、保守的な人もいるでしょう。世の中には、革新的な人もいれば保守的な人もいるのです。
 しかし、生物学の説によると、考え方がこのように分かれるのは、遺伝的な要素が強く、必ず革新的な人と保守的な人が出てくるようになっている、というのです。
 なぜかというと、種を保存するためだからだそうです。どういうことかというと、生物は、時には革新的な行動をすることで危険を回避することができ、時には保守的な行動をすることで危険を回避しているからです。たとえば、生きるためには敵と戦うことが必要な時もあり、敵から逃げることが必要な時もあるわけです。しかし、全員が敵と戦う革新的思想の持ち主で、もしそれに失敗したら種が全滅してしまいます。けれども、その中で保守的な個体がいれば、その個体は敵から逃げて生き残り、種の全滅を避けることができます。逆の場合も同じですが、要するに全員が同じ思想だと、それがもしうまくいかなかった場合は、種が全滅するという、最悪の結果になるわけです。生物はそれを避けるために、ある一定の割合で、革新的な個体と保守的な個体とを、遺伝的に生み出しているらしいのです。ひらたく言えば、ある種の「保険」をかけているわけです。

 こうして考えてみると、「自分の考えが唯一正しく、すべての人は自分の考えに従うべきだ」という考えは、生物学的には危険だと言えるわけです。いろいろな考え方があり、それを許容するということが、大切になってくるのです。
以上のような理由から、私は論争はしないことにしました。人間は一見すると論理的に考えているようですが、実際には「考えるより信じたい」のです。ですから、論争をしてもむなしく終わるだけで、時間とエネルギーの無駄です。たとえ論争して相手を負かすことができたとしても、それで優越感や承認欲求を満たして喜ぶといったことは、愚かしくて卑しいものです。
 さらには、さまざまな考え方がある方が、生物的には有利なのですから、論争して相手を負かし、すべての人を自分の考えと同じにさせようとすることは、とても危険なのです。
 もちろん、誰かが自分の考えに反対したとき、「自分の考えは正しいのだろうか、間違っているのではないだろうか」と省みることは大切で、もし間違っていたとわかったら、その間違いは認めるべきです。
 しかし、冷静に論理的に考えても間違っていると思えないのであれば、「あなたはそう考えればよい。しかし私はこう考える」と割り切って、自分の考えを押し付けるような論争はしない方が賢明です。
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地上世界に生きている時間を最大限に生かす

 私が主催するイデア ライフ アカデミーでは、基本的に釈迦やキリスト、また次回ご紹介するプロティノスなど、すぐれた思想家や宗教家の教えを土台にしています。いわば、彼らのエッセンスをそのまま(ただし哲学思想になじみのない方でも理解できるようにある程度かみくだいて)紹介しています。なので、イデア ライフ アカデミーの授業そのものには、ほとんどオリジナルなものはありません。もちろん、哲学思想というものは、自然科学とは違い、それをどのように解釈するかという主観的なものが、どうしても入り込んでしまいます。なので、私は自分の主張を無理強いすることはしません。むしろ「私の言うことを信じないでください。自分の頭で考えて、受け入れるかどうか判断してください」と述べています。

 さて、釈迦やキリストなどが説いた教えをひとことでいえば、「徹底的な現世否定であり、自己否定」です。自己否定とは、前回の授業でご紹介したように、エゴの否定ということですが、エゴの否定をするには現世の否定が必要不可欠なのです。逆に、現世の否定はそのままエゴの否定につながります。これが彼らの教えのエッセンスです。
 この現世における(完全なる)幸福は説いていません。というのも、原理的に、この地上世界で本当の幸せをつかむことは不可能だからです。この世界は無常であり、肉体は病に冒されながらついには死滅します。最終的にはすべてが失われるのです。それだけではありません。さまざまな苦しみ、ときには耐え難いほど悲惨な苦しみに見舞われることもあります。この地上世界の実態は、非常に危険な、恐ろしい場所なのです。

 しかし、巷にはびこる宗教やスピリチュアルといったものは、現世で幸せになること(正確に言えば欲望を満たすこと)、エゴを増長させるようなことばかりしています。この世界はエゴで生きている人がほとんどですから、そのためにこういうものは人気がありもてはやされます。しかし、エゴを喜ばせても、一時的には幸せを感じるかもしれませんが、最終的には苦しみをもたらすか、あるいは堕落させるかのいずれかに終わります。堕落すれば恐ろしい苦しみが待ち受けています。
 つまり、あきらかに釈迦やキリストの教えとは真逆なことをしているのです。釈迦やキリストを超える人物はいるでしょうか? 私はいないと思います。それなのになぜ、人々がこれほど偉大な人の教えを学び、それを真剣に実践しようとせず、怪しいスピリチュアルにはまる人がこれほど多いのか、それを思うと、とても残念な気持ちがします。
 かといって、そのことを人に押し付けることはしません。人にはそれぞれ、そのときに必要なことがあるからです。幼稚園児には「お遊戯」が必要でしょう。私も過去を振り返って、今から思えばまったく幼稚なことに多大な時間を割いてきました。しかしそれは、その当時の私には必要だったのだと思うことにしています。たとえ仮にそのとき、イデア ライフ アカデミーのようなものがあったとしても、「何だそりゃ? 怪しいカルトか?」などと言って振り向きもしなかったでしょう(笑)

 繰り返しますが、この地上世界に真の幸せはありません。あるのは一時的な快楽だけで、人はそのはかない一時的な快楽にすぎないものを「幸福」と勘違いしているのです。人間の本当の幸せは、肉体を離れた死後に存在します。この地上は、その幸せな世界に移行するための準備期間、いわば、魂を鍛える場所であり、魂はそのために地上に生まれてきたのです。
 私が宗教や哲学を志す前の、かなり若い頃、こうした、いわば「救いを死後に求める」という考え方が嫌いでした。なぜなら、単なる弱者の現実逃避のように感じられたからです。それよりも、この地上でたくましく生き、成功して富と名声をつかみ、さらには慈善事業などをして人を救う、といった生き方こそが、ずっと価値があると思っていました。
 しかし、今はそういう考えを持っていません。古今東西、多くのすぐれた聖者たちを研究し、自分でも思索を深めていった結果、証明はできませんが、死後の高い霊的領域こそが、人間がめざす目的であるということを確信したからです。

 もちろん、この世で苦しんでいる人を助け、この世界をよいものにしていく努力は大切ですし、必要だと思っています。
 しかし、この世界という場所は、もともと苦難や屈辱や失敗や孤独といったものを通してエゴを滅却するために創造されたものなのです。ですから、どうあがいても、この世界が完全に幸せな世界になることはありません。はっきり言いますが、この地上世界は救いようがないのです。原理的構造的にそうできているのです。さもないと、存在意義がなくなってしまうからです。たとえるなら、トレーニングジムの中にある、さまざまなトレーニングマシンを捨て去ってしまうようなものです。これではトレーニングジムが成り立たないでしょう。
 したがって、この世界で苦しんでいる人を助けるという意味は、早くこの世界から脱出するように、釈迦やキリストなど、その他すぐれた霊的な教えを説いてあげることだと私は考えているのです。一生懸命にトレーニングして、マッチョな魂を獲得させる、ということになります。筋トレをしている人を見ていると、苦しそうですが、この人生も同じなのです。さまざまな苦難、屈辱、孤独といった苦しみによって魂を鍛えることが人生なのです。この世の快楽を味わうことではありません。逆に、この世のいっさいの快楽を捨て、この世に対するいっさいの未練や関心を捨て去ることにあるのです。

 だから、皆さんには、この地上に生きている間、くだらないことに時間を浪費することをせず、とにかくこの地上世界から解脱して、この地上世界よりはるかに幸せな、永遠なる世界に移行するべく、一生懸命に努力していただきたいと思っているのです。
 地上世界というトレーニングジムに生きているということは、ある意味では、トレーニングという最高にすばらしい機会が与えられているということです。もしこの機会を失ったら、いつか死後、自分が地上に生まれ変わった理由を思い出して、ひどい失意を味わうことになるかもしれません。たとえるなら、10億円の当選宝くじを、間違ってごみと一緒に捨ててしまったときのことを想像してみてください。どうしようもない後悔やくやしさで心かき乱され、一生、悔やむことになるでしょう。
 しかし、この地上世界でトレーニングをさぼるということは、このたとえよりも、はるかに残念であり、悔やんでも悔やんでも悔やみきれないものがあるのです。なぜなら、高い霊的領域の幸せに比較したら、この地上の幸せなど、ゴミのような、つまらないものだからです。幸か不幸か、私たちはそのような霊的幸せを知らず、比較できないので、この世のつまらない幸せを、たいそう大事なもののように思い込んでいるのです。

 人はいつ死ぬかわかりません。明日、いえ、今日、死ぬかもしれないのです。どのくらい時間が残されているのかは、誰にもわかりません。ですから、一生懸命に学んでいただきたいと、私は切に願っています。
 ただ、一応念のために申し上げますが、私はイデア ライフ アカデミーに来て欲しいために、こういうことを書いているのではありません。「来て欲しい」と思うのはエゴです。だから、私は、人が来なくてもがっかりしないし、人が来ても喜んだりしません。
 ただ、ともに人生最大の目的に向かって歩む同志が集まってきてくれたという点では、やはり嬉しさは感じるものですが。
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現代人は集中力が欠如しているのか?

 私はよく名前の漢字を間違えられます。私の名前は「斉藤」(戸籍上は「齊藤」ですが難しいので普段は「斉藤」という字を使っています)ですが、「斎藤」と書かれるのです。私のもとに寄せられるメールの半数以上が「斎藤」となっています。
 今まで気にしてはいませんでしたが、あまりにも間違いが多いので、これはもう「うっかりミス」というレベルではない異常さを感じて、今回、これについて書いてみようと思います。
 この間違いは、今まで、出版社からも間違えられました。また、amazonで私の本の著者名も「斎藤」と書かれて間違われました(連絡して訂正してもらいました)。
 出版社とか、amazonでサイトを構築している人は、いわば活字のプロであるはずですが、そのような人が間違えるのですから、普通の人が間違えても無理はないとも言えるのかもしれませんが、一般常識として、名前を間違えるというのは、相手に対して失礼なことだとされていると思うので、なぜもっと慎重になれないのかなという疑問が生じます。
 しかし何といっても極めつけは、私がここ最近、税の関係で依頼している会計士が間違えていることです。しかも三度もです。最初に書類が送られてきたとき、「斎藤」となっていたので、電話をして指摘し、今度は間違わないようにしてくださいと頼みました。会計士と言えば、それこそ書類を作るプロ中のプロですから、そのプロが、しかも名前という、もっとも重要なところを間違えたのですから、これはかなり問題だと思うのですが、人間は誰でもうっかりということがありますから、このときは受け流しました。しかし、その後、半年ほどしてまた書類を作ってもらったのですが、またしても「斎藤」になっているのです。そのときも注意したのですが、「すみませんでした」と謝ったので、さすがにもう間違いはないだろうと思っていたところ、本日、確定申告に使うために、書類が送られてきたのですが、「斎藤」となっているのです。こうなると、もうどうかしているとしか思えません。「仏の顔も三度まで」という言葉がありますが、一度だって問題があるこうしたミスを、三度もくり返すこの会計士は、「改善していく」ということができない人なのでしょう。おそらく今後も同じ間違いを繰り返し、書類を書き直す余計な手間隙で貴重な時間が奪われたり、ストレスになるので、もうこの会計士に依頼することはやめました。

 私はホームページでも著作でもどこでも「斉藤」と書いてあるのに、半数以上の人が「斎藤」と表記してメールを送ってくることが、不思議でなりません。
 これはもはや、うっかりミスというレベルではなく、全般的に、現代人の集中力が欠如してきた、ひとつの証ではないかという気がしてきました。そういえば、このところニュース番組を見ても、むかしよりも間違いが多くなり、キャスターがそれを訂正することが増えたような気がします。それも、かなり基本的なミスが多いのです。
 霊的な道を歩む上では、集中力や注意力は欠かせません。自己の内面の動き、言葉、行動に注意深く集中している必要があるのです。何らかの原因で、現代日本人は、この集中力が欠如してしまったのではないかと思います。これは大きな問題ではないかと思います。
 今回、この記事を読んでくださった方は、今後、コメントやメールをくれるときには、「斎藤」ではなく、ちゃんと「斉藤」と書いてくれるものと思いますが、それでもなお「斎藤」と書いてしまうようであれば、霊的な道を歩む上で不可欠な能力が欠如していると思っていただいたほうがよろしいかもしれません。

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教え(知識)を血肉とするために大切なこと

 まずはお知らせから。
今月のイデア ライフ アカデミー(20日/21日)は、「カバラ思想の本質」というテーマで行います。魔術や占いの一種であるかのように誤解されがちなユダヤの神秘主義カバラとは、どのような教えなのか。その本質に迫っていきたいと思います。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで
 
 では、本題に入ります。
 世界で一番売れている本は聖書だそうです。ご存知のように、聖書には、愛することや謙虚さ、節度や寛容さといった、徳を養い、人格や霊性を高める教えがぎっしりと書かれています。仏典も同じです。聖書ほどではないにしても、仏典を読んでいる人も多いでしょう。
 しかし、ここで素朴な疑問が湧いてくるのです。
 これほどすばらしい本が、これほど多く読まれてきているのに、人類の精神性はそれほど進歩していない、ということです。聖書や仏典を読んでいるのに、その一方で、下劣で恥知らずなことを平気でやる人も少なくありません。
 つまり、善い知識を頭に入れただけでは、それがそのまま人格や霊性の向上につながるとは限らない、ということです。何かが欠けているのです。もちろん、人格を向上させるために、善い知識は必要でしょう。しかし、それだけではダメなのです。知識を、人格向上という実践レベルにまで変換するものが必要なのです。
 では、いったいそれは何なのでしょうか?

 釈迦の時代、多くの弟子が釈迦の教えのもとで修行しました。当時のインドの習慣として、師の教えを書き留めるということはなかったようです。すべて暗記に頼っていました。もちろん、個人の暗記力には限界がありますから、弟子たちは、釈迦の説法が終わると集まって、各人の記憶を出し合って、どんな説法が行われたかを復元し、そうしてまとめたら、最後にみんなで何回もそれを暗誦して記憶に定着させたのです。ですから、当時の弟子たちは、おそらく現代の私たちよりもはるかに記憶力がよかったのではないかと思います。
 現代の私たちは、本に頼っています。ところが、一度読んだだけでは、その内容の何分の一、あるいは何十分の一くらいしか記憶していないものです。それなのに「必要な時はいつでも読めるからいい」という、安易な状況にあるために、結局、次から次へとたくさん本は読むが、ほとんど記憶に残っていない、ということになります。記憶として定着されていなければ、どんなに善い本を読んでも、それを人格レベルにまで落とし込むことは無理でしょう。

 それに対して、釈迦の弟子たちは、記録して本としていつでも読めるような状況になかったので、それこそ非常な真剣さで、釈迦の語る言葉をすべて吸収しようと、必死に聴いていたに違いありません。その真剣さに、まず大きな違いがあるのではないかと思います。
 しかも、弟子たちは常に釈迦の教えを聴けるわけではありませんでした。釈迦から直接、説法を聴けるのは、月に一度か二度、多くても数回程度で、後は修行仲間と研究したり、独りで思索や瞑想する時間の方がずっと多かったのです。釈迦は本当に大切なことを少し話す程度で、弟子たちひとりひとりに手取り足取り手厚い指導をしていたわけではありませんでした。
 にもかかわらず、経典によれば、多くの弟子がそれで煩悩を清め、人格を向上させて解脱を果たすことができたというのです。
 知識という点では、難解で膨大な仏教理論が頭に入っている仏教学者には、足元にも及ばなかったと思います。しかし、仏教学者で解脱を果たしたという話は聞いたことがありません。
 いわゆる原始仏教、つまり、釈迦が弟子に説いた教えは、奥は深いが、量としてはそれほど多くなかったのです。言い換えれば、情報量は圧倒的に少なかったわけです。ところが、むしろ情報量の少なさゆえに、釈迦が説いたわずかな教えを宝物として大切に守り、あたため、それを実践して解脱したわけです。
 そう考えると、私たちは、あまりにも情報に恵まれすぎていて、知識を詰め込みすぎ、かえってそれが妨げになっているのかもしれません。たとえるなら、たくさん食べ過ぎた結果として下痢をし、かえって栄養不足になるようなものです。
 それよりも、エッセンスとなる教えを、少なくてもいいのでしっかりと頭に入れ、あたため、自分でも繰り返し繰り返し何回も深く考え、そうして自分の血肉とする方が、ずっと有効ではないかと思われるのです。

 それと、教えを誰から聴くか、ということも重要な要素になると思います。
 卑俗なたとえで恐縮ですが、好きでもない人から高価な贈り物をもらうより、安物でも好きな人からもらった方がずっと嬉しいように、釈迦という比類なき指導者から教えを受けるという、そのありがたさと、釈迦に対する深い尊敬の念とを伴ったとき、その教えが非常に活きてくると思うわけです。
 このように、すばらしい師匠に恵まれた人は幸せです。深い尊敬の念をもって学ぶでしょうから、自然と真剣となり、教えを大切なものとして受け入れるでしょう。そうしたとき、いかに少ない教えしか説いてもらえなかったとしても、立派に進歩していくことができるのです。
 その意味では、人を指導する立場にある人は、尊敬に値する人間性をもつことが非常に重要になってくるともいえますが、一方で、釈迦ほどの人でさえ、小馬鹿にする人がいたようですから、教えを受ける方も、教えを授けてくれる人を尊敬する気持ちをもつようにすることが大切になってくると思います。
 私の経験から言っても、霊的な分野に限らず、どのような分野であれ、礼儀正しい人は伸びます。基本的な礼儀がなっていない人は伸びません。また、自分が尊敬する人は礼儀正しいが、そうでない人には非礼なことをするような、二面性があるような人も伸びません。誰に対しても礼儀正しく、謙虚に学ぶ姿勢がある人は、どのような分野であれ、よく伸びます。

 とはいえ、ほとんどの人はそんな師匠には恵まれていないと思いますので、結局は本を通して教えを学ぶしかありません。
 しかしそのとき、「本を読んでいる」という意識を捨てて、その本の著者が目の前にいて、直接教えを説いてくださっているのだ、という気持ちになることが大切です。
 たとえば、私は毎日少しずつ『ブッダの言葉(スッタニパータ)』と、前回ご紹介した『キリストにならいて』の本を読むのを日課にしています。そのとき、「本」を読んでいるという意識は捨てて、実際に目の前に釈迦がいて、その教えを聴いているのだ、という気持ちで文字を追うようにしています。また、目の前にイエスがいて、私のために教えを説いてくださっているのだ、という思いで目を通しています。ゆっくりと、ひとつひとつの言葉をかみしめるようにしながら。そういう気持ちで読むと、やはり真剣さが違ってきます。自然と内容が頭の中に記憶されてきます。
 そうして私は、この2冊の本を、完全に暗記するまで、エンドレスで何回も繰り返して読み続けていこうと思っているのです。
 皆さんも、善い本を読むときは、このような感じで読んでみてください。そうすればきっと、善い教えが自らの血肉となって、人格と霊性の向上につながっていくと思います。
 
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