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心の治癒と魂の覚醒

        

神性を自覚する

 今月はいろいろと忙しく、更新が一回になってしまいそうです。楽しみにしてくださる読者の皆様にはお詫び申し上げます。
 例によって、まずはご報告とお知らせから。
 3月2日と3日に、イデア ライフ アカデミー哲学教室第5回を開きました。テーマは「禅問答とは」。禅問答とは、禅に伝わる理論では解決できない、ある種の「なぞなぞ」です。このなぞなぞを必死に考えることによって悟りに至ろうとするのです。授業では、まず禅問答(公案とも言う)についての概略を説明し、禅問答の目的は左脳を抑制して右脳を活性化させて悟りの意識に近づくこと、そしてそのユニークな例として、左脳が出血して麻痺した脳科学者の「悟り体験」などを説明しました。そして参加者みんなで禅問答を考えました。授業のダイジェスト版をぜひご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=jzE_SVVsPQA

今回は哲学教室で禅問答の概論を紹介しましたが、次回からは、瞑想教室で、毎回一問、一緒に禅問答を考えていく予定です。ひとつ禅問答の例をあげてみましょう。授業でも取り上げたのですが、次のようなものです。

 風になびく旗を見ながら、二人の僧が言い争っていた。
「これは旗が動いているのだ」
「いや違う。風が動いているのだ」

 さて、皆さんはどちらだと思いますか? 旗あるいは風が解答ではないのです。なぜなら、それは論理的な解答だからです。
 そこに、慧能という、中国で禅を確立した高僧が通りかかって次のように答えました。
「旗が動くのでも、風が動くのでもない。あなたたちの心が動いているのだ」
 これが、禅問答の解答なのです。
 皆さんも、ぜひ禅問答に挑戦してみてください。かなり脳が疲れますが、意識を変容させるには非常に効果の高い修行法です。

 3月16日と17日、イデア ライフ アカデミー瞑想教室第5回を開きました。テーマは「アジナーチャクラの活性」です。アジナーチャクラは人体に7つあるとされる霊的中枢のなかでも最も大切なチャクラとされ、ここが活性化されることで、いわゆる霊的世界へと参入する道が開かれていきます。今回は、そのアジナーチャクラの活性化の方法をいくつかの視点から紹介しました。私が独自の開発した「アジナーチャクラ刺激サウンド」も公開しました。この音を耳にすると、アジナーチャクラが位置していると思われる脳の周辺が、くすぐられるような感覚を覚えるはずです。ダイジェスト版で聴くことができるので、皆さん、ご覧になってください。
https://www.youtube.com/watch?v=k76Cm8u-0_8

 次回の瞑想教室(4月20日/21日)は、「インナーチャイルドを癒す」というテーマで行う予定です。インナーチャイルド、すなわち、幼い頃に親から受けた虐待などで受けたトラウマを癒すための、いくつかの方法を紹介します。やはりインナーチャイルドの問題は大きく、これを抱えていると霊的修行の障害にもなります。インナーチャイルドを抱えていると思われる方は、きっと参考にしていただけると思いますので、ぜひご参加ください。
 参加ご希望の方↓
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/

 さて、では本題に入りたいと思います。
 悟りだとか覚醒、霊的進化といったことをめざす際に、非常に重要になってくるのが、「自分の本質は神性(仏教流に言えば仏性)である」という自覚です。この自覚を深めれば深めるほど、霊的覚醒は促進されていきます。私たちは単なる肉のかたまりではなく、私たちの本質は神に由来する魂なのであり、肉体は、いってみれば魂がこの地上で生活するための「潜水服」のようなものにすぎません。神は高貴であり崇高で、偉大な創造力を持ち、純粋な愛を持っています。そうした神の属性、すなわち「神性」こそが、私たちの本質なのです。
 もちろん、神と人間とは違います。神が巨大な火であるとすれば、人間は小さな火です。しかし、大きさは違っても、火という性質はどちらも同じです。ですから、神性という点では、「人間は神である」と言っても間違いではないのです。大きな火も小さな火も「同じ火である」と言うようなものです。私たちの本質は神性であり、私たちは神なのです。
 ですから、悟りや覚醒といっても、肉のかたまりが神へと「変身」するということではないわけです。ここが重要なのです。私たちはすでに神であり、それを思い出して自覚すること、これが悟りや覚醒ということです。
 仏教では、悟りを開くことを「成仏」と言います(死ぬことではありません)。仏に成ることを成仏というのです。しかし、この成仏という言葉は、あまり正確ではありません。なぜなら、私たちの本質は仏だからです。すでに仏なのです。だから、仏に「成る」必要はないわけです。仏に成ろうとする修行の方向性は間違っているわけです。
 「成る」のではなく、「思い出す」のです。自分は仏であることを思い出し、自覚すること、これが成仏ということです。

 繰り返しますが、私たちの本質は神であり仏なのです。修行とは、そのことを思い出して自覚することにすぎません。ですから、そのためには、「私の本質は神性であり、私は神である」と、常に心の中で唱えて、想起と自覚を促し続ける必要があるのです。その自覚が深まれば深まるほど、神の偉大な創造力と愛が発揮されてくるのです。

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私が特定の信仰を持たない理由


 私はいろいろな宗教をかじってきましたが、特定の宗教は信仰してはいません。釈迦もイエスも尊敬していますが、仏教徒でもクリスチャンでもありません。
 というのも、特定の宗教を信仰してしまうと、たいていの場合、教祖は神格化され、教祖の教えに間違いは絶対なく、その教義に間違いは絶対ないと、極端な考え方に陥ってしまうからです。
 しかし、絶対に間違いのない教祖も、間違いのない宗教も存在しないと私は考えています。
 どの宗教もよいことを説いていますが、どう考えてもおかしいと思うことも説いています。しかし、その宗教の信者になると「それはおかしい」と言えなくなります。そんなことを言ったら、宗教組織から追い出されるか、迫害を受けることになるでしょう。だから、本心ではおかしいと感じていても、「おかしくないのだ」と、無理に思い込んで自分をだますしかありません。あるいは、本気でおかしくないのだと洗脳されるか、いずれかです。

 たとえば、仏典などを読んでも、ときどき「おかしいぞ」と感じるときがあります。つまり、「お釈迦様、それはおかしいのではありませんか?」と言いたくなることもあるのです。しかし、釈迦は神格化されてしまっているので、そんなことは言えません。そんなことを言ったら「おまえは自分を何様だと思っているのだ。釈迦より偉いとでも言うのか?」と言われてしまうでしょう。
 しかし問題は、偉いとか偉くないといったことではなく、自分にウソをついたり洗脳されることが正しいことなのかどうか、ということなのです。
 たとえば、前にも書きましたが、釈迦が食中毒になって死んでしまうとき、弟子のアーナンダに向かって「おまえが私に永遠に生きて欲しいと願わなかったから私は死ぬことになったのだ」といった意味のことを言っているのです。
 私はこれは、釈迦が言ったことではなく、仏典作家の作り話だと思っているのですが、仮にもし本当にそんなことを言ったのだとしたら、「お釈迦様、それはおかしいですよ」と言います。その証拠に、釈迦は後になって、悲しむアーナンダに「泣くな、この世は無常であり、すべてのものはいずれ朽ち果てると教えたではないか」と言っているからです。

 他にもあります。釈迦は、教えを守らない一人の弟子に罰を与えました。弟子たちに、「彼に話しかけられても無視をしろ」と命令したのです。そうしてその弟子は、修行仲間から仲間はずれにされ、今の言葉でいえば「シカト」されて孤立しました。私はこういう罰を与えるのは適切ではないと考えます。
 詳しい事情がわからないのではっきりとは言えませんが、教えを守らないのは何か理由があるからで、まずは彼の話をよく聴いてあげて、適切なアドバイスを与えたり、理路整然と説明してあげた方が効果的ではないかと思うわけです。みんなで無視をするというのは、ある種の「いじめ」に近いものに感じられてしまいます。
 仮に、そういう罰を与えることがゆるされる指導者であるなら、その罰を与えることで立ち直ることが確実にわかっているほどの、すぐれた霊眼がなければダメだと思います。釈迦はそうした霊眼があったのでしょう。そう考えるのであれば、釈迦がそうした罰を与えたのは正しかったと言えるかもしれませんが、すべての弟子にその罰が適するかどうかは別問題です。適しない弟子もいるでしょう。いわば、ケースバイケースということです。
 ところが、経典のそうしたエピソードだけを取り上げて、原始仏教を信奉しているスリランカあたりの修行僧は、教えを守らない僧をみんなで無視する罰を与えているらしいのです。「釈迦がそうしたと経典に書いてあるから、そうやるのが正しいのだ」と、機械的に信じ込んでいるのです。
 なぜ、もっと合理的で効果的なやり方がないのかどうか、検討しないのでしょうか。
 それは、釈迦とその教えに、絶対に間違いはないと信じているからでしょう。「洗脳されている」と言ってもいいかもしれません。

 洗脳というのは、怪しいカルト教団だけが行っているのではなく、大なり小なり、信仰というものは洗脳によって成り立っているのです。
 なぜ人々は、宗教に群がり、洗脳されたがるのでしょうか?
 それは、その方が楽だからです。「教えられた通り信じていれば救われる」と言われた方が、自らの頭で考え、救いの道を捜し求めていくより楽だからです。

 どの宗教も、真理の断片はとらえていると思います。しかし、真理は断片ではありません。真理というものは全体的なものです。断片は真理ではありません。目の不自由な人が象の鼻を触って「象とは長いものである」と語ったという有名な話がありますが、それと同じです。確かに象の断片はとらえていますが、象は長いものではありません。同じように、断片にすぎない宗教を真理と考えることはできないのです。

 ですから、真理をつかみたければ、特定の宗教の信者になってはいけないのです。言い換えれば、いかなる教えも「絶対に間違いのない真理」だと考えてはいけないのです。
 なので、私は仏教も学びますし、キリスト教も、他の宗教も学んで、可能な限り「断片」を集めて全体像、すなわち真理を構築する道を歩んでいるのです。なので、どの宗教も全面的に否定もせず、全面的に肯定(信仰)もしない立場に立っているのです。
 しかし、その道は険しいものです。すべてのことを、自分の責任において行わなければなりません。必死になって自分の頭で考えなければなりません。それが「自由」というものの本質です。人は「自由、自由」と賞賛しますが、自由というのは厳しいものです。ある意味で、自由がなく、言われたことを黙ってやっていればいいだけの奴隷の方が、ずっと楽かもしれません。
 しかし、真理というものは、あらゆることから自由になった人だけが得られるものではないかと、私は思っているのです。

 私が主催するイデア ライフ アカデミーは、そういう自由な道を歩む人に、さまざまな情報を提供することを目的にしています。次回2月2日と3日は、ヨーガの解脱理論について紹介する予定です。そうして「断片」を数多く学ぶことで、「全体」を構築していく作業を、力を合わせて共にやっていきたいと思っているわけです。
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人は何によって救われるのか

 先日の子どもの日、NHKで「戦争孤児」について紹介されていました。
 ご存じのように、戦争孤児とは第二次大戦で親を失い路頭に迷った子どものことです。いわば子どものホームレスで、その数は12万人にも達したと言われています。子どもたちは駅や道端などで物乞いをしたり、ときには食べ物を盗んだりして生きていました。「盗みを働いた」わけですが、そうしなければ生きることができなかったのです。いったい誰がそのことを責められるでしょうか? 実際、相当な数の子どもが餓えや病気で死んでいます。悪いのは戦争をした大人たちです。子どもは被害者です。
 子どもたちの多くは疥癬という皮膚病にかかっていました。これは一種のダニが皮膚に寄生して生じるもので、猛烈な痒みとひどい皮膚の炎症に苦しみます。当然、人に伝染します。
 そのため、世間の人たちは、そうした戦争孤児に近寄ろうとしませんでした。「不潔、怖い」と嫌悪されていたのです。
 番組は、そんな戦争孤児のひとりAさんに取材しています。
 Aさんは空襲により落とされた爆弾で死んだ母親のことを語りました。顔の半分がなかったそうです。それを目の当たりに見て呆然となります。「人間は本当に悲しいときは涙も出ない」と言っています。
 そうして戦争孤児となったAさんは、餓えや疥癬で苦しみながら路上生活を送ります。ひとりの友達がいたのですが、その友達はあまりの過酷な生活に自殺してしまいました。優しい性格だったと言います。
 スピリチュアルの教えでは、「自殺した魂は罰を受けてあの世で苦しむ」などと言っていますが、果たして自殺したこの友達も、罰を受けて地獄で苦しむことになったのでしょうか? そうは思えません。そんな教えは、浅はかな「脅し」としか思えません。確かな根拠のない脅しをして自分の教えを押しつけるこうした行為を、私はスピリチュアル・ハラスメント(略してスピハラ)と呼んでいます。「自分の宗教を信じなければ罰を受ける、地獄へ堕ちる」などと言っている宗教信者などは、すべてスピハラです。
 Aさんは、親戚を頼って助けを求めました。そして親戚の家で生活をすることになったのですが、そこであからさまな虐待や冷たい仕打ちを受けました。耐えられなくなったAさんは家を飛び出し、再び路上生活を送るようになります。
 そしてついには、(おそらく悲しみや苦しみなどのストレスにより)、緑内障を患ってほとんど目が見えなくなってしまいます。過酷な路上生活と孤独、そして盲目、いったいどうすればいいのでしょうか。子どもがこれほどの苦しみを受けなければならない意味や道理など、どこにあるのでしょうか?
 Aさんは世の中を呪い、「社会にタテつく人間になってやる」と思ったそうです。つまり、悪い人間になって自分をこんな辛い目に遭わせた世の中に復讐してやると思ったのです。
 その後、Aさんは戦争孤児を保護する施設に入ることになりました。
 入所したとき、施設のひとりの先生が銭湯に連れていってくれたそうです。そして、共に裸になって、誰も気味悪がって触ろうとも、近づこうともしなかった皮膚病に侵された自分のからだを、この先生は丁寧に洗ってくれたと言います。
 そのことに感激したAさんは、まっとうな人間になることを誓い、その先生の薦めでマッサージ師となり、独立することができました。
 番組の最後にAさんはこう語っています。
「食べ物も着るものも欲しかった。でも、一番欲しかったのは(人の)ぬくもりでした」
 Aさんは、自分のからだを洗ってくれた優しい先生のぬくもりによって救われたのです。

 この番組を見て、私は考えました。結局、人を救うものは何なのかと。
 すばらしい説教でしょうか? 道徳、倫理、宗教などの高邁な教えでしょうか?
 確かに、そうしたもので救われる人もいるでしょう。
 しかし、ぎりぎりの状況で生きている人にとって、本当に救いとなるのは、Aさんが言うように「人のぬくもり」ではないのかと思います。高邁な教えではないのです。ましてや「悪いことをしたら罰を受けて地獄へ堕ちる」などといった脅しではありません。
 崇高な宗教の教えに通じ、幅広い知識を持ち、立派な説教をするが、その人柄にぬくもりを感じられない人がいます。おそらく、そのような人が悲惨な苦しみにある人を救うことはできないと思います。
 一方、宗教や学問といったこととは、およそ縁のない無学な母親などが、子どもを癒し、立派な人間へと成長させるといった例はたくさんあります。
 「ぬくもり」の源泉は、間違いなく愛でしょう。
 愛に関する知識を積めば、愛ある人間になれるとは限りません。それどころか、かえってエゴが増長し、愛が欠乏してしまう場合もあるように思います。
 愛についての立派な教説を語ることができても、愛がなければ、効能書きは立派だが薬効を持たない薬のようなものです。「自分は愛の宗教の信者である」と表明しても、愛がなければ、単なる「愛の宗教ごっこ」をして遊んでいるにすぎません。

 私は今回の番組を見て、果たして自分にはそうした「ぬくもり」があるかどうか、自省してみました。しかし、自分ではなかなか自分のことはわからないものです。
 しかし、これだけは気を付けようと思いました。それは「私にはぬくもり(愛)がある」という思い込みです。
 おそらく、本当に愛がある人は、「自分には愛がある」などとは思わないと思います。また、「愛がない」とも思わないと思います。
 本当に愛がある人は、そのようなことは思わず、きわめて自然体で、無意識のうちに、淡々と愛の行いをしているのだと思うのです。
 私は、愛に関する本をいろいろ読んできたので、知識だけはそこそこあります。また、おそらく愛に関する立派な説教をしようと思えばできると思います。
 しかし、そんなものはどうだっていいのです。せいぜい、ある種の「娯楽」的な意味を持つだけです。それは人を酔わせ、楽しくさせますが、愛は娯楽ではありません。
 たとえひとことも語らず、ただ存在しているというだけで、そこからぬくもりが、すなわち、愛が放たれるようでなければ、本物ではないのです。
 私は、そのような人になりたいと思いました。

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宗教における練習

 たとえば、いくら野球のルールを熟知し、バットの振り方やボールの投げ方に関する知識が豊かであっても、実際にすばらしいプレーができなければ、ファンの支持を得られませんし、野球選手としての価値はありません。また、難解な音楽理論を熟知し、ピアノの弾き方に関してすばらしい講義をすることができても、実際にピアノが弾けなければ、ピアニストとは呼べません。
 要するに、およそ学者以外のプロと呼ばれる人たちは、実践ができるかどうかで、評価が決まるのです。医学に関する膨大な知識があっても、手術ができなければ、外科医とは呼べません。料理の仕方がわかっていても、料理ができなければ、料理人とは呼べません。
 ところが、宗教の世界だけは、難解で高尚な教義や知識を持ち、それを声高に口にするだけで、「すばらしい宗教者だ」「高い霊性を持っている人だ」「覚者だ」といった称賛を得られたりするのです。これは奇妙なことです。豊かな知識を持ち、それを講義できる人は、すぐれた学者とは言えるかもしれませんが、実践を伴わなければ、宗教者とは言えません。宗教の理念を実際に行動に表せる人が、本当の宗教者であり、高い霊性の持ち主であり、覚者です。
 たとえ宗教の教義だとか、難しい理屈など知らなくても、その人の生き方が宗教の理念に合致しているならば、その人は立派な宗教者です。知識は、あくまでも実践ができるようになるための手段として必要なだけであって、知識そのものには何の意味もありません。

 もちろん、最初は何であれ知識の習得から始めますので、知識を蓄えることは大切です。宗教的な教養を学ぶことは意義があるでしょう。問題は、その知識をいかに実践に移すか、ということです。多くの人は、知識が豊かだと、それだけで自分が偉くなったような気がしてしまい、また周囲もそれだけで偉い人だと称賛したりするので、そこで進歩が止まってしまうことが多いのです。あげくの果ては、傲慢になり、誇大妄想に陥ったりします。
 こうなるのは、宗教の世界が、スポーツや芸術のように「実践こそが重要」という認識が薄いからだと思います。本来、宗教の世界こそ実践が大切だと思われるのにです。
 宗教の理念を簡単に言えば、ひとつは「愛(慈悲)」であり、もうひとつは「煩悩の超越」だと思いますが、こうしたことを知識ではなく、実践に移さなければ、その人は本当の宗教者、信仰者であるとは言えないわけです。

 しかし、知識があるからすぐに実践に移せるわけではありません。野球の仕方を勉強してもすぐに上手なプレーができるわけでもなく、ピアノの弾き方を頭で習ってもすぐにピアノが弾けるようにならないのと同じです。どのような分野であれ、知識を実践に移すには、練習が不可欠です。プロのスポーツ選手、プロの芸術家は、ものすごい量の練習量をしています。私が元プロレスラーの人から聞いた話だと、彼らは気絶するまで筋トレをするそうです。ピア二ストは、毎日欠かさず一日8時間も10時間もピアノに向かっています。そのために腱鞘炎を起こしてしまうこともあるくらいです。
 このように、練習が必要なのです。ひたすら練習です。プロの練習のすさまじさは半端ではありません。そうして初めて、知識を実践に反映させることができるのです。
 しかし、宗教者はこれほどの練習をしているでしょうか?
 すなわち、愛を実践するための練習、煩悩を超越するための練習をしているでしょうか? 気絶するまで練習しているでしょうか? 一日8時間も10時間も練習しているでしょうか?
 まずしていません。祈ったり、瞑想したり、苦行したり、お経を唱えたりはしているかもしれません。そのようなことが意味のないことだとは言いません。しかし、そうしたことは、スポーツ選手が行っている体力強化訓練、ピアニストが行っているソルフェージュ(楽譜読み)に過ぎません。つまり、基礎訓練に過ぎないのです。本当に技能を磨くには、実際にスポーツをすること、実際にピアノを弾くことなのです。そうした実践的練習の積み重ねによって、実力が磨かれるのです。

 宗教の世界も同じように、実践的練習を積み重ねることによって本物になっていくわけです。実践的練習とは、愛の行為をすることであり、煩悩を超えていくということです。煩悩を超えるとは、欲望や感情に振り回されないということです。怒ったりイライラを野放しにし、低劣な欲望に平気で身を任せるようでは、煩悩を超える実践的練習をしていることにはなりません。怒りを覚えるのは仕方ありませんが、それを意志の支配下において静謐を保とうとする練習、低劣な欲望の誘惑に抵抗しようとする練習が必要なのです。
 そして何よりも、愛の行為です。電車のなかでお年寄りや体の不自由な人が立っていたら席を譲る、道に迷っている人がいたら声をかけてあげる、悲しみに沈む人がいたら優しい言葉をかけてあげる、約束の時間には相手を待たせないように少し早めに行く、たとえわずかな金額でも福祉施設に寄付をする……、こうしたことは小さいことかもしれませんが、立派な愛の実践的練習です。こうした「小さいこと」が、実は重要なのです。そういう練習の積み重ねによって、本当の宗教者になっていくのです。
 繰り返しますが、練習なくして本物にはなりません。ひたすら練習、練習、練習。練習あるのみです。真の宗教者かそうでないかは、知識だとか、説教が上手だとか、そういうことではないのです。その生き方が、宗教の理念を体現しているか、ただそれだけによって決まるのです。練習なくしてどうして本物となれるでしょうか?

 しかし、頭でっかちの人は、練習が苦手です。また、見栄っ張りの人も練習が苦手です。なぜなら、「練習」がうまくできないと、プライドが傷つく怖れがあるからです。練習をせず、ただ口先だけ立派なことを言っているだけなら、至らない自分を突きつけられることもありませんから、幻想の中にいることができます。「私はこんな立派なことを語ることができる。私はなんて意識レベルが高いのだろう、なんと信仰深いのだろう、なんと偉大なのだろう」と、自分に酔っていたいのです。しかし、そういう宗教者は、いってみれば「張り子の寅」のようなものです。宗教者とは呼べません。せいぜい学者であるというだけです。
 実際、練習は甘くないです。スケート選手など、それこそ何回も何回も何回も転倒し、みっともない姿をさらします。失敗の連続、プライドがつぶされることの連続、自己嫌悪の連続です。しかし、そうしたことを乗り越えていく人こそが真のプロであり、真の宗教者なのです。

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幸せをつかむための二つの生き方


 前回は、幸せについて話しました。自分が幸せであるかどうかを査定することにはあまり意味がないこと、また、幸せを直接求めても得られず、副産物として得られるのではないかということを話しました。
 幸せというものが、それ以外の何かを求めた副産物の結果として得られるとすれば、私たちはいったい何を求めて生きていけばよいのでしょうか?
 それはいろいろあるでしょうが、私なりの意見を述べさせていただこうと思います。それは二つあります。

 まずひとつは、「自分らしく生きる」ということではないかと思います。
 花は花らしく、鳥は鳥らしく、魚は魚らしく生きているように、私たちも、自分らしく生きるべきであり、そうしたとき、もっとも幸せであるように思われるのです。
 ただ、「自分らしさ」とは何かが、よくわからない人もいます。実際、自分の好きなこと、自分はこういう仕事や生き方がしたいんだと、若いときからすでに自覚している人は珍しいかもしれません。たいてい、自分が何をしたいのか、どんなことに向いているのか、どんな生き方をしたいのかよくわからないまま就職し、そのまま人生の大半を過ごすことが多いかもしれません。
 自分が何をしたいのか、何が好きで、どんなことに向いているのかは、子供のときの行動を見ると、けっこうわかったりします。外で友達と交わるのが好きであったか、それとも、家の中でひとり趣味に没頭することが好きであったか? スポーツが好きだったか、読書が好きだったか? 旅行が好きだったか? 料理を作るのが好きだったか? 科学や数学が好きだったか? 文学や哲学が好きだったか?……。自分は子供のとき、どんなことが好きだったかを思い返してみると、「自分らしさ」とは何かがわかるかもしれません。
 自分らしく生きているとき、人は生き生きとして、生命から湧き上がるような喜びを感じるものです。はたから見てすごく努力しているように見えても、自分自身は努力しているとは感じません。そういう人は、とても魅力的に見えます。
 しかし、自分らしく生きていないときというのは、生気なくどんよりとした感じがしますし、歯を食いしばって生きているようなところがあります。喜びも感じられません。そして疲れやすい傾向があります。優秀な業績を残すことも少ないですし、そういう人は、はたから見てもあまり魅力を感じないものです。ちょうど、鳥が水中を泳ごうとするとか(ペンギンなどは別ですが)、魚が空を飛ぼうとするような、どこかちぐはぐで、ズレているというか、本来の姿ではない感じがするのです。
 なので、自分らしく生きることです。もちろん、それは口で言うほど簡単ではないでしょう。自分はミュージシャンや芸人が合っていると感じても、それで生計を立てていくのは容易なことではありません。ほとんどの人が、仕方なく普通のサラリーマンになって、自分らしく生きられないで一生を終えてしまいます。もともとサラリーマンだとか、ビジネスに向いていて、それが「自分らしさ」であるという人は、この世的には幸運でしょう。仕事は楽しく成功しやすいと言えるでしょう。
 けれども、芸術や芸能、詩や小説、宗教や哲学、スポーツ選手といった、浮世離れした世界に向いている個性を持って生まれてきた人は、なかなか厳しいと思います。そのような世界で生計を営んでいける人は、ほんの一握りしかいないからです。仕方なくサラリーマンになっても、鳥が水中を泳ごうとするようなものですから、なかなかうまくいかず、しばしば無能扱いされることもあるでしょう。せめて、本業とは別に趣味として、そういう世界で自分らしさを発揮していくしかないのかもしれません。本来、こうした世界は人類の進化向上にとって非常に大切なものなのですが、残念ながら現在のレベルでは、世間一般にはなかなか認められないのです。

 幸せのために求めていくとよいと思われる二つめは、「自分にしかできないことをする」です。これは、「自分らしく生きる」とも関連しますが、難易度はさらに高いかもしれません。
 この世界はオーケストラのようなもので、それぞれの楽器の音色は、その楽器しか出せません。バイオリンにトランペットの音色は出せません。同じように、あなたは、可能な限り、あなたにしかできないことをするべきです。それが結局は、この世界のためになるからです。
 その場合、その活動の大きさなどは関係ありません。たとえばオーケストラの場合、バイオリンは主役的な存在ですが、コントラバスは脇役的な存在です。トランペットやトロンボーンやホルンは大活躍しますが、チューバはそれほど活躍しません。ならば、コントラバスやチューバはなくてもいいかというと、そんなことはありません。それらがなかったら、交響曲は演奏できないのです。オーケストラのなかでは、どの楽器もかけがえのない存在です。
 同じように、自分にしかできないことが、社会的にみて、いかに小さなものであったとしても、それは必要なことなのです。栄養にたとえるなら、塩分やカルシウムは大量に必要であるのに対し、亜鉛やセレンなどは微量しか必要ではありません。しかし、亜鉛やセレンがなければ、人は病気になってしまいます。
 同じように、社会的に高く評価されて目立つものばかりでなく、誰からも認められることさえないようなことでも、自分にしかできないことをすることは、世界にとって必要不可欠なことなのです。そのような生き方をして生涯を終えたならば、たとえその業績が誰にも知られることがなかったとしても、その人生はすばらしく偉大であったと言えるわけです。
 もちろん、現実には、「自分にしかできないことをする」というのも、容易ではありません。ほとんどの仕事は、自分でなくても他の誰かができます。私たちは、まるで交換可能な機械のひとつの部品のようです。総理大臣といった、おそらくあらゆる職業のなかで頂点に立つと思われるものでさえ、いくらでも他に「なり手」がいるように感じられたりします。ならば、サラリーマンだとか公務員といった仕事であれば、いくらでも他にやる人がいるように思われます。
 しかし、どのような世界であっても、ユニークな発想を持ち、その世界に革新をもたらす人がいます。サラリーマンや公務員の世界でも、ただ今までと同じことを繰り返すのではなく、今までとは違うことを編み出す人がいます。そういう発想と行動力があるならば、どのような職種であろうと「自分にしかできないこと」をすることは十分に可能です。職業に限らず、それ以外の活動でも、自分にしかできないことを見つけて実行することは可能です。
 ただし、それには勇気が必要です。なぜなら、「自分にしかできないこと」というのは、言い換えれば「誰もやっていないこと」をすることだからです。誰もやっていないこと、やったことがないことをするのは、ひとつの冒険です。未開の地に行くようなものです。失敗する危険があります。世の中から非難されたり笑われたり、悪口を言われるかもしれません。たとえうまくいったとしても、誰にも感謝もされず、認められないかもしれません。物質的には何の得もないかもしれません。
 けれども、そのような危険があったとしても、それが自分にしかできないと思ったならば、勇気を出してやるべきではないかと思います。
 なぜなら、人類の進歩というものは、有名無名を問わず、自分らしさを発揮した人、また、自分にしかできないことをやった人によって支えられてきたと思うからです。
 そして、そのような生き方をした人生というものが、結局のところ、本人が自覚しようとしまいと、「幸せな人生」と呼べるものではないのかと思うのです。
 たとえすぐには実現できなくても、私たちは、「自分らしい生き方」、「自分にしかできない生き方」をめざしていこうではありませんか。


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