心の治癒と魂の覚醒

        

幸せをつかむための二つの生き方


 前回は、幸せについて話しました。自分が幸せであるかどうかを査定することにはあまり意味がないこと、また、幸せを直接求めても得られず、副産物として得られるのではないかということを話しました。
 幸せというものが、それ以外の何かを求めた副産物の結果として得られるとすれば、私たちはいったい何を求めて生きていけばよいのでしょうか?
 それはいろいろあるでしょうが、私なりの意見を述べさせていただこうと思います。それは二つあります。

 まずひとつは、「自分らしく生きる」ということではないかと思います。
 花は花らしく、鳥は鳥らしく、魚は魚らしく生きているように、私たちも、自分らしく生きるべきであり、そうしたとき、もっとも幸せであるように思われるのです。
 ただ、「自分らしさ」とは何かが、よくわからない人もいます。実際、自分の好きなこと、自分はこういう仕事や生き方がしたいんだと、若いときからすでに自覚している人は珍しいかもしれません。たいてい、自分が何をしたいのか、どんなことに向いているのか、どんな生き方をしたいのかよくわからないまま就職し、そのまま人生の大半を過ごすことが多いかもしれません。
 自分が何をしたいのか、何が好きで、どんなことに向いているのかは、子供のときの行動を見ると、けっこうわかったりします。外で友達と交わるのが好きであったか、それとも、家の中でひとり趣味に没頭することが好きであったか? スポーツが好きだったか、読書が好きだったか? 旅行が好きだったか? 料理を作るのが好きだったか? 科学や数学が好きだったか? 文学や哲学が好きだったか?……。自分は子供のとき、どんなことが好きだったかを思い返してみると、「自分らしさ」とは何かがわかるかもしれません。
 自分らしく生きているとき、人は生き生きとして、生命から湧き上がるような喜びを感じるものです。はたから見てすごく努力しているように見えても、自分自身は努力しているとは感じません。そういう人は、とても魅力的に見えます。
 しかし、自分らしく生きていないときというのは、生気なくどんよりとした感じがしますし、歯を食いしばって生きているようなところがあります。喜びも感じられません。そして疲れやすい傾向があります。優秀な業績を残すことも少ないですし、そういう人は、はたから見てもあまり魅力を感じないものです。ちょうど、鳥が水中を泳ごうとするとか(ペンギンなどは別ですが)、魚が空を飛ぼうとするような、どこかちぐはぐで、ズレているというか、本来の姿ではない感じがするのです。
 なので、自分らしく生きることです。もちろん、それは口で言うほど簡単ではないでしょう。自分はミュージシャンや芸人が合っていると感じても、それで生計を立てていくのは容易なことではありません。ほとんどの人が、仕方なく普通のサラリーマンになって、自分らしく生きられないで一生を終えてしまいます。もともとサラリーマンだとか、ビジネスに向いていて、それが「自分らしさ」であるという人は、この世的には幸運でしょう。仕事は楽しく成功しやすいと言えるでしょう。
 けれども、芸術や芸能、詩や小説、宗教や哲学、スポーツ選手といった、浮世離れした世界に向いている個性を持って生まれてきた人は、なかなか厳しいと思います。そのような世界で生計を営んでいける人は、ほんの一握りしかいないからです。仕方なくサラリーマンになっても、鳥が水中を泳ごうとするようなものですから、なかなかうまくいかず、しばしば無能扱いされることもあるでしょう。せめて、本業とは別に趣味として、そういう世界で自分らしさを発揮していくしかないのかもしれません。本来、こうした世界は人類の進化向上にとって非常に大切なものなのですが、残念ながら現在のレベルでは、世間一般にはなかなか認められないのです。

 幸せのために求めていくとよいと思われる二つめは、「自分にしかできないことをする」です。これは、「自分らしく生きる」とも関連しますが、難易度はさらに高いかもしれません。
 この世界はオーケストラのようなもので、それぞれの楽器の音色は、その楽器しか出せません。バイオリンにトランペットの音色は出せません。同じように、あなたは、可能な限り、あなたにしかできないことをするべきです。それが結局は、この世界のためになるからです。
 その場合、その活動の大きさなどは関係ありません。たとえばオーケストラの場合、バイオリンは主役的な存在ですが、コントラバスは脇役的な存在です。トランペットやトロンボーンやホルンは大活躍しますが、チューバはそれほど活躍しません。ならば、コントラバスやチューバはなくてもいいかというと、そんなことはありません。それらがなかったら、交響曲は演奏できないのです。オーケストラのなかでは、どの楽器もかけがえのない存在です。
 同じように、自分にしかできないことが、社会的にみて、いかに小さなものであったとしても、それは必要なことなのです。栄養にたとえるなら、塩分やカルシウムは大量に必要であるのに対し、亜鉛やセレンなどは微量しか必要ではありません。しかし、亜鉛やセレンがなければ、人は病気になってしまいます。
 同じように、社会的に高く評価されて目立つものばかりでなく、誰からも認められることさえないようなことでも、自分にしかできないことをすることは、世界にとって必要不可欠なことなのです。そのような生き方をして生涯を終えたならば、たとえその業績が誰にも知られることがなかったとしても、その人生はすばらしく偉大であったと言えるわけです。
 もちろん、現実には、「自分にしかできないことをする」というのも、容易ではありません。ほとんどの仕事は、自分でなくても他の誰かができます。私たちは、まるで交換可能な機械のひとつの部品のようです。総理大臣といった、おそらくあらゆる職業のなかで頂点に立つと思われるものでさえ、いくらでも他に「なり手」がいるように感じられたりします。ならば、サラリーマンだとか公務員といった仕事であれば、いくらでも他にやる人がいるように思われます。
 しかし、どのような世界であっても、ユニークな発想を持ち、その世界に革新をもたらす人がいます。サラリーマンや公務員の世界でも、ただ今までと同じことを繰り返すのではなく、今までとは違うことを編み出す人がいます。そういう発想と行動力があるならば、どのような職種であろうと「自分にしかできないこと」をすることは十分に可能です。職業に限らず、それ以外の活動でも、自分にしかできないことを見つけて実行することは可能です。
 ただし、それには勇気が必要です。なぜなら、「自分にしかできないこと」というのは、言い換えれば「誰もやっていないこと」をすることだからです。誰もやっていないこと、やったことがないことをするのは、ひとつの冒険です。未開の地に行くようなものです。失敗する危険があります。世の中から非難されたり笑われたり、悪口を言われるかもしれません。たとえうまくいったとしても、誰にも感謝もされず、認められないかもしれません。物質的には何の得もないかもしれません。
 けれども、そのような危険があったとしても、それが自分にしかできないと思ったならば、勇気を出してやるべきではないかと思います。
 なぜなら、人類の進歩というものは、有名無名を問わず、自分らしさを発揮した人、また、自分にしかできないことをやった人によって支えられてきたと思うからです。
 そして、そのような生き方をした人生というものが、結局のところ、本人が自覚しようとしまいと、「幸せな人生」と呼べるものではないのかと思うのです。
 たとえすぐには実現できなくても、私たちは、「自分らしい生き方」、「自分にしかできない生き方」をめざしていこうではありませんか。


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幸せとは何か?

 すべての人は幸せを求めて生きている、と言ってもいいだろう。
 そこで問題になるのは、果たして「幸せとは何か?」という、幸せの定義である。
 ある哲学者は、単純に「幸せとは快楽の量で決まる」と言った。つまり、楽しいことや面白いことや気持ちいいことがあればあるほど幸せであるとした。それに対してある哲学者は、「ならば残飯をあさって気持ちよさそうに寝ている豚は幸せなのか?」と反論した。豚はそれで幸せかもしれないが、人間の幸せとはそんなものではないはずだ、と考えたのである。
 幸せの定義の問題は、哲学界の最大のテーマであり、明確な回答を出すことは難しい。
 とりあえず、もっとも説得力があると思われる回答は、「本人が幸せだと感じるのなら幸せだ」であろう。確かにそれは真実の一面をとらえていると思う。いくらお金持ちで物質的に恵まれていても、本人が幸せを感じなければ幸せとは言えないし、いくら貧しく苦労が多くても、本人が幸せを感じれば、それは幸せだと言えるであろう。
 しかし、どのようなことで幸せを感じるかということは、そう単純ではない。
 私の大学時代からの友人に、「安定した人生こそが幸せだ」と考えて、公務員になった人がいる。努力して公務員になり、役所に勤めることになったとき、彼と会って話をしたが、あまり嬉しそうな様子ではない。私が「念願の公務員になれたんだからよかったじゃないか」と言うと、彼が言うには、もう自分の人生は先が見えてしまい面白くないというのである。つまり、何歳でどのくらい出世してどのくらい給料をもらい、どんな仕事をしていくかといったことが、公務員の場合、たいていわかってしまう。どうやら、自分の人生に未知なるものがなくなると、人間というものは、あまり幸せではなくなるようである。そのためか、公務員どうしで酒を飲むと、すごく荒れると言っていた。
 また、聞いたところによると、宝くじに当選した人の七割が、当選したことを後悔するという。にわかに信じられない話ではあるが、どうも宝くじに当たって大金が舞い込むと、家族や人間関係でいろいろと支障が生じ、人間的にも堕落してしまうことが理由らしい。そうしてさんざん不愉快な目にあって、こんなことなら宝くじなんか当選しなければよかったと思うのだそうだ。
 以上のように、おおかたの人からすれば、安定した生活や、お金持ちの生活は、さぞかし幸せではないかと思ってしまうのだが、必ずしもそうではないようである。

 さらに、仮に幸せを感じたとしても、それが本当に幸せと言えるのか、という問題もある。
 たとえば、こんな喩え話をしてみよう。ある人がブランドの高級バッグを所有し、それで幸せを感じていた。ところが、そのバッグがニセモノであったことがわかる。あまりにも精巧にできているので、自分では本物とニセモノの区別がつかない。とたんにその人は幸せを感じなくなってしまう。ニセモノだと言われなければ、幸せを感じ続けていられたのだ。
 そうなると、その人は、にせのバッグを所有していた日々は、幸せだったと言えるのだろうか? 幸せは感じていたが、幸せであるとは言えなかったのではないだろうか? それとも、たとえだまされていたとしても、幸せを感じていたなら、やはり幸せであったと言えるのだろうか?
 すなわち、もしもあなたがいま、幸せを感じていたとしても、人生には、もっとすばらしい幸せが存在しており、それに比べたら今の幸せなどは幸せとは呼べないのかもしれない。いわゆる「知らぬが仏」という言葉通り、本当の幸せというものを知らず、今の幸せこそ本当の幸せだと勘違いしているだけなのかもしれない。
 それでも、とにかく本人が幸せを感じていれば幸せなのだと言えば、その通りなのかもしれないが、しかし、もっとすばらしい幸せが実はあるのだと知らされたら、幸せでなくなってしまうのであれば、やはりそれは本当に幸せであるとは言えないのではないかと思う。

 ならば、本当の幸せとは、いったい何なのだろうか?
 おそらくそれは、永遠の謎ではないかと思う。「これ以上に幸せなことなどない」と感じたとしても、本当にそれ以上に幸せなことがないという証明は、たぶんできないであろう。キリスト教の説く天国、仏教の説く涅槃の境地は、あくまでも地上に比べれば幸せであるというだけであって、この広大無辺な宇宙と悠久なる進化の時間を考えれば、天国や涅槃よりもさらに幸せな状態というものが、存在する可能性は十分にある。
 さて、以上のように考えてみると、「自分は幸せなのだろうか?」と、自分の幸福度を査定するようなことには、あまり意味がないのではないかと、私は考える。幸せを感じても幸せではないのかもしれないし、幸せを感じていなくても、幸せなのかもしれない。登山愛好家は登っているときは非常に苦しいが、その苦しみは頂上に到達したときの大いなる喜びへとつながっている。ならば登山家にとって、その苦しい道のりは「幸せ」だと言えるであろう。
 生まれてきたからには、幸せになりたいと願うのは自然なことであり、悪いことではない。けれども、あまりにも神経質に自分は幸せかどうかを気にし、「幸せにならなければならない!」と力みすぎるのは、逆に幸せから遠ざけてしまうように思われる。
 人生、そして生命というものは大切なものではあるが、あまりそれを深刻に受け止めすぎないようにすべきで、いわば、ある種のゲームをしているような感覚で、ゆとりをもって生きるのがいいように思う。実際、人生なんてゲームのようなものだ。うまくいくときもあれば、うまくいかないときもある。成功するときもあれば失敗するときもある。何があるかわからない。だからこそゲームは楽しい。先が見通せてしまうゲーム、うまくいくだけのゲームなんて全然面白くない。うまくいかないときでも笑えるのがゲームだ。ゲームは遊びなのだから。
 人生も同じだ。幸せになろうとするのではなく、人生というゲームで遊んでいるのだという発想で生きることが、結局は幸せに至る道ではないかと思う。この地上は壮大な「ゲームセンター」なのだ。
 ある哲学者はこう言っている。
「幸せとは副産物であり、それ自体をめざしてもつかむことはできない」

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 師匠や教団に入信することについて②

 前回は、本物ではないかと思う指導者や宗教団体があったら、とりあえず飛び込んでみたらどうかということを書いた。たとえ、結果的にニセモノであったとしても、それなりに学ぶものがあるからだ。人は失敗を通して、また、いわゆる”反面教師”を通して学ぶものである。実際、私もそういう経験をしてきた。そのために、それなりの時間やお金を使ってきたが、無駄であったとは思わないようにしている。これも「授業料」であり、「必要経費」であると考えて、気持ち的に引きずらないようにしている。
 けれども、そういう経験を何回か繰り返しているうちに、「いつまでもこんなことをしていてはいけないぞ」とも、思うようになってきた。いくら失敗からでも学べるとはいえ、失敗ばかりでは嫌気がさしてきてしまう。
 覚醒をめざしている私にとっては、言葉巧みに教えを説いている「覚者」(本物かどうかはともかく)の存在は、やはり気になるものだ。「本当にこの人の指導を受ければ覚醒できるかもしれない。このチャンスを逃したら、もう二度と、このような人には出会うことはないかもしれない。そうなると、本当に貴重なチャンスを逃してしまうことになる」といった、ある種のあせりの気持ちが、胸の中から湧いてきて、いてもたってもいられなくなるのである。お金や時間が無限にあるならば、片っ端から試してみたいものであるが、なかなかそのようなことはできない。

 しかし、私はあるとき気がついた。
 自分のこのような姿勢は、詐欺商法にだまされる人と本質的に同じではないのかと。
 つまり、いわゆる「儲け話」みたいなものにつられて、結局は大金をだましとられてしまう人というのは、もともと「金が欲しい」という欲望があるから、だまされてしまうわけだ。
 私もむかし、知人に誘われて、社会問題となった、ある詐欺商法の説明会に参加したことがある。しかし、私は金儲けにはそれほど興味がなかったのと、その商法に投資するほどの金銭がなかったので、だまされずにすんだ。ただ、その説明会の話術は、ものすごく説得力があり、これではだまされても仕方がないなと思わせるものがあった。
 しかし、私は金に対する欲望が強くないので、こういう詐欺商法にだまされる可能性は少ないが、覚醒に対する欲望が強いので、その種の詐欺にはだまされやすくなる。何事もそうだが、欲望というものは、弱点にも成り得るものである。
 そんな詐欺にだまされそうになった経験を少し紹介してみよう。
 私が30歳くらいの頃、「自分は悟りを開いた」という、当時50歳くらいの男性に、ある会合で出会った。話を聞くと、とても深いことを延々と語り始める(その内容はラジニーシの教説に近いものだった)。私も知識ではそれなりに持っていたので、彼の語る深い内容から、もしかしたら本当に悟りを開いた覚者かもしれないと思った。
 彼が言うには、自分は世界を救う覚者として日本に誕生することを、ラジニーシが本のなかで予言していると語っていた。また、ダライラマに会うためにチベットまで行ったのだが(それは事実だったようだ)、ダライラマから特別扱いされたと語っていた。
 彼は組織は持っていなかったが、個人指導はしていたようで、どれくらいかかるのかと尋ねると、百万円だという。私はそれほどの大金は出せなかったので、そのかわり、その男は本を出版したいと言っていたので、その本を出版する手伝いをする(彼の語ることをテープに録音して、それを聞いて私が文章にまとめる)から、指導をしてくれないかと頼むと、それでいいというので、私は定期的に彼の家に通って、その教えを受けることになった。
 しかし、彼の説教は、基本的にはラジニーシや禅の教説と同じであり、本にする価値があるのかと思い始めた。が、とりあえず約束なので、私は彼の話をテープに録音し、家でそれを聞きながら文章に起こした。
 ところがまもなく、かつて自分の弟子だったが自分のもとから去っていった人の批判(というより悪口)を、口汚く延々と一時間以上も口にするようになった。
 そこで、私も「これはおかしいぞ」と思い始めた。その気持ちを述べると、「悟っていない奴に悟っている者の意図なんかわかるものか。グルのやることに絶対に間違いはないんだ。これも指導の一環なのだ。信じられないのか!」と怒り出した。
 とりあえず、そんなものかと思って、関係を続けていったが、気持ちとしては本当に覚者なのか、半信半疑になっていた。本物の覚者かどうか、確かめたくなってきた。
 そこで、覚者なら超能力があるはずなので、それを見せてくださいと頼んだことがあった。すると彼は、「超能力はあったが、そんなものに対する欲望は捨てたので、今はない」という。確かに、ヨーガの教典などを見ても、超能力に対する欲望は捨てるべきだと書いてあるので、その点では彼の言葉は正しいと言えるかもしれない。
 ところが、「この超能力ならできる」などといって、ダウジングをやり始めたのである。超能力への欲望は捨てたと言っておきながら、別の超能力ならできると言うのも、何かおかしいと思った。
 彼によれば、悟った状態とは、何が起こっても心が動揺しない不動の平安さが確立されているという。しかし、そう言っている割には、話にかみ合わない点などがあって、そのことを指摘したりすると、すぐにイライラしたり怒りっぽくなるので、「そんなすぐに怒るというのは、本当に悟っているのですか?」と尋ねると、いつも決まり文句のように「こういう態度も弟子の指導のためにわざとやっているのだ。グルのすることなど、弟子にはわかるはずがない。さぞかし詐欺師のように見えるだろうな」と言うのである。
 しかし、彼のささいとも思える言動が(案外、こういうことが大切なのだが)、どう考えても覚者とは思えなかった。たとえば、ある有名な精神世界の本の翻訳者から、自分は呪いをかけられているなどと被害妄想的なことを口にしたり、彼が乗っているクルマの定期点検シールを偽造して「こうすれば検査しなくてもごまかすことができるんだ」などと言ったり、クルマの窓からごみを捨てたりした。また、彼には愛人がいたのだが、その愛人の性に関するえげつない表現など、私のイメージする覚者とは遠いものであった。しかし、そういうことを指摘しても、「覚醒したものは、そういう世間的なものにはいっさいとらわれない自由な境地でいるのだ」などと言うのである。
 結局、私は彼が覚者かどうか以前に、もうついていく気がしなくなったので、弟子との関係は解消すると彼に告げた。すると、「それなら、俺の説教を録音したテープをよこせ」と言ってきた。テープは別のものを録音して説教したものは残っていなかったので、そう告げると、「信じられない。本当かどうか、家のすみからすみまで探させろ」と言ってきた。そんなことをされてはかなわないので、断ると、「おまえがあのテープを悪用しないかどうか、俺は不安なんだよ。もし探させないなら、お前の家の前にいって、拡声器で大声で叫んでやるぞ。そうしたら、お前は今の家にはいられなくなるからな」などと、脅しともいえることを言うのである。
 覚者は何が起こっても心の平安は乱されないと言いながら、「俺は不安なんだ」と言ったり、おまけに「拡声器で騒ぐぞ。家にいられなくなるぞ」などと言う。
 さすがの私も、ようやく、この男はニセモノだと気づいた。その後、何回か電話をかけてきたが、無視しているうちに、関係はきれた。しかし数年後、この男によって大金を巻き上げられた上にひどい目にあった人がいるという噂を耳にした。
 この男の語る内容は、確かに深いものがあった。もっとも、それもラジニーシその他の教説の単なる受け売りに過ぎなかったのだが、それでも、何も知らないで彼の話を聞いた人は、本当に覚者であると信じてしまっても無理はないと思う。ある意味では、一流の詐欺師であった。

 もちろん、彼が本当に覚者かそうでなかったかは、証明はできない。もしかしたら、本当に覚者だったのかもしれない。
 しかし、私はこのときの教訓によって、ひとつの決意をした。それは、「たとえ覚者であったとしても、品格のない、尊敬できない人から教えは受けない(弟子にならない)」という決意だった。
 金の亡者が、金欲しさのあまり詐欺商法にだまれてしまうのは、もちろん、だます方が一番悪いが、だまされる方も、「うまいことして金を儲けてやろう」という、さもしい根性があったからであろう。
 同じように、覚醒したいという、覚醒欲しさのあまり、以上のような詐欺師にだまれてしまうのも、やはり「うまいことして覚醒してやろう」などという、さもしい根性があったからだ。両者とも本質的には同じである。ただ「金」と「覚醒」が入れ替わっただけで、さもしいことには変わりはない。
 立派な教説を語るだけだったら、ちょっと勉強して口がうまければ、誰にだってできる。それでだまされてしまう人も多い。しかし、品格はだますことはできない。私は、覚者であれば品格も高いと信じているが、本当のところはわからない。覚者であっても品格が低い人もいるのかもしれない。
 しかし、仮に本当に覚者であったとしても、すでに述べたように、品格が低く尊敬できない人の教えを受けることはしないと決めた。そうまでして覚醒したいとは思わない。逆に、たとえ覚者でなくても、人格が高く尊敬できる人であれば、喜んで教えを受けたいと思っている。
 法然の弟子であった親鸞は、「たとえ法然師匠の教えを信じて地獄に落ちたとしても悔いはない」とまで、法然を敬愛していた。同じように、「この人の教えを信じて覚醒できなかったとしても悔いはない」と思える人でなければ、師事しようとは思わない。覚醒しているかどうか以前に、人間として尊敬に値する立派な人格を持っているかどうかが、私にとっては大切なことなのだ。
 残念ながら、今まで、そのような覚者には出会ったことがない。もしかしたら、どこかに存在するのかもしれないが、縁がないだけなのかもしれない。
 ただ、「うまいことをして覚醒してやろう」という、さもしい気持ちは捨てた。縁ができて、本当に心から尊敬できるすばらしい覚者に出会うまで(出会えないかもしれないし、出会えても弟子にしてもらえるかどうかもわからないが)、それまでは自力でコツコツと努力を積んでいく覚悟でいる。さもしいマネだけは決してしたくない。
 もちろん、以上のような私の信念を、あなたに押し付けるつもりはない。「品格はどうであれ、とにかく覚醒できればいい」というのも、ひとつの考え方である。ただ、もしだまされる確率を減らしたければ、人間としても尊敬できる人を師匠に選ぶべきだと、私は思う。そうすれば、仮にだまされたとしても、おそらく後悔はないだろう。

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師匠や教団に入信することについて①

 今日、多くの人が「覚者」や「霊的教師」と名乗り、教団を組織して大々的な活動をしていたり、あるいは比較的こじんまりとした形で弟子や信者を指導したり講演をしたりしている。この文章を読んでいるあなたも、そうした指導者や教団に属して指導を受けているかもしれないし、あるいは、気になる指導者や教団があって入信しようかどうか迷っているかもしれない。実際、「この人に師事しようかどうか、この教団に入ろうかどうか、迷っているのですが、斉藤さんはどう思われますか?」と尋ねられることもある。
 今回は、この「師匠や教団に入信すること」について、私の見解を述べてみたいと思う。

 ここで問題となるのは、果たしてその指導者が本物かどうか、その教団が真の教えを説いているかどうか、ということであろう。言うまでもないが、なかには明らかに怪しいと思われるものもあり、悪質で身の破滅につながりかねない教団もあるだろう。その最たるものがオウム真理教であったわけだが、あそこまで凶悪でなくても、大金をまきあげられたとか、心にトラウマを負ったといった被害などは、しばしば耳にする。
 奇妙なことだが、このようにだれが見てもおかしく、詐欺であることが明白であるのに、そういう指導者や教団にだまされる人が世の中には必ずいるということだ。これはおそらく、ある一定の割合で、異常なものに惹きつけられる病的な精神傾向を持った人がいることによるものと思われる。
 それはともかく、たいていの場合は、本物であるかそうでないか、とても微妙だ。そのために迷ってしまう。
 たとえば、教祖の書いた本にはいいことが書いてある。「人を愛しなさい。善い行いをしなさい」といったように。そして、「私は覚者である、キリストの生まれ変わりである、救世主である・・・」といったことを言う。
 立派なことを語るくらいだから、教祖は本当に覚者であり、キリストの生まれ変わりであり、救世主かもしれないと思われてくる。最初は多少、半信半疑かもしれないが、一度入信して繰り返し教えを耳にするうち、いよいよこれは本物に間違いないと思われてくる。
 私も若い頃は、いろいろな宗教を遍歴した。仏教、キリスト教、ユダヤ教、ジャイナ教、ヨーガ、神道、神智学、心霊学、いくつかの新興宗教団体に属したこともあった。
 そして面白いことに、ある教えを集中的に学んでいるときは、その教えこそ本物に違いないと思われたということだ。仏教を学んでいるときは仏教こそ最高の教えだと思われたし、キリスト教を学んでいるときはキリスト教こそ最高の教えだと思われた。新興宗教に関しても、やはりそこに属していたときは、「この教祖、この教団こそ本物で最高だ」と思われた。
 しかし、このようにいろいろな教えをかじって時間が経過すると(言い換えれば、頭が冷めると)、かつては「これこそ本物で最高の教えだ」と思っていたものが、実はそうではなく、欠点や弱点や汚点や問題点もあるということに気づくようになった。
 今の私は、世の中に完全無欠の教えなど存在しないと考えており、完全な指導者もいないと考えている。仮に本当にその人が覚者であり、あるいはキリストの生まれ変わりであり、あるいは救世主であるとしても、この不完全な地上世界に存在している以上、完全ではないと思っている。
 ところが、ある特定の教えにすっかり埋没している教団関係者は、かつての私のように「この教えこそ本物で最高だ」と思い込んでいる。これは単なる視野狭窄、あるいは洗脳に過ぎないと思われるのだが、とにかく教団の幹部や信者たちはそう思い込んでいるので、当然のことながら、「自分たちの教え、自分たちの教祖こそ唯一本物であり最高だ」と主張し宣伝し布教するようになる。
 そして、彼らの話を聞いていると、しだいにその通りではないかと思われてしまう。
 なぜそう思ってしまうかというと、一言でいえば、どの教団も自分に都合のよい部分しか見ていないからだ。
 たとえば、わかりやすく説明するために、非常におおざっぱな分け方をすると、キリスト教は愛の宗教であり、(原始)仏教は知恵の宗教とされている。
 キリスト教では、救われるためには愛を最高のものと考える。そしてイエスや聖書の教えを見ると、盛んに愛が説かれている。それに対して仏教は、あまり愛(仏教で愛に相当する言葉は「慈悲」)ということを語っていない。つまり、キリスト教の信者からすれば、救いに必要な愛をあまり説いていないがゆえに、仏教はキリスト教よりも劣った宗教ということになる。
 反対に、仏教徒は知恵こそ救われるために必要なものと考え、釈迦や(原始)仏典などを見ると、その大切な知恵についてたくさん説かれている。ところが、キリスト教では、知恵の重要性についてあまり説かれていない。そのため、仏教徒からすれば、救いに必要な知恵をあまり説いていないがゆえに、キリスト教は仏教よりも劣った宗教ということになる。
 では、いったいどちらの宗教が正しいのだろうか?
 私個人の見解では、どちらも一面では正しいが、一面だけでは真の救いを得ることはできないと考える。
 つまり、救われるには、愛と知恵の両方が必要なのだ。キリスト教を学ぶことも必要であり、仏教を学ぶことも必要なのである。その他にも、できる限り多くの宗教を学ぶことが必要であると思う。そうしていくうちに、真理というものの全体像が何となくわかってくるからだ。あたかも、ジグソーパズルをひとつずつはめ込んでいくうちに、しだいに全体の絵がわかってくるのに似ている。

 したがって、「これは」と思う教祖や教団を見つけたら、どんどん飛び込んでみたらどうかというのが、私の基本的な考えだ。もちろん、そのまま洗脳されてずっとその教団から抜け出せないというリスク、大金を巻き上げられたり、心のトラウマを受けるといったリスクもある。そのようなリスクがあることは、一応覚悟しておいた方がよい。
 ただ、人生の教訓というものは、実際に体験してみないと得られないものである。人生というのは冒険のようなものだ。冒険とは未知の領域へ挑むことである。未知の領域には当然、危険が待ち受けている可能性がある。しかし危険を怖れていたら、何も得られない。だから、飛び込んでみることだ。そして教訓を学んでいくことだ
 もちろん、あきらかにいかがわしい教団、インチキ教祖だとわかっていて飛び込むことはない。しかし、何回も熟慮した末に「この教祖、この教団は本物かもしれない」と気になって仕方がないのであれば、後はもう飛び込んでみるしかないのだ。
 たとえその結果、そこがインチキだとわかったとしても、それはそれで何かを学ぶことができるだろう。もっとも、そのための「授業料」は高くついてしまうかもしれないが、それは仕方がない。すでに述べたように、人生は冒険なのだから。

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愛して後悔することはない

 皆様、いつもブログをご高覧くださり、ありがとうございます。本文に入る前に、少し申し上げたいことがあります。ときどきコメントをいただいており、それに対して極力ご返事のコメントを書こうと思っているのですが、このブログのシステムの問題か、それとも私の操作が間違っているのかわかりませんが、まれにコメントが反映されないとか、書けない場合があるようなのです。そういう場合はどうかおゆるしください。なお、「管理者だけが閲覧できる」という場合は、システム上、ご返事ができませんので、ご了承ください。

 次に、現在の私のうつの状態について簡単にご報告させていただきます。
 少し前までは、かなり回復して気分の強い落ち込みはほとんどなくなりました。ただ、心身を使う何らかの活動については長続きせずすぐに疲れてしまう状態でした。そのため、体力を鍛えようと、庭の手入れをしたり家の片付けをしたり、散歩をしたり、軽くジョギングをしたり、ヨガをしたりして、少しずつ体力をつけようとしました。けれども、思ったような成果が出ません。少し無理すると翌日に具合が悪くなります。これは体力というより自律神経が弱っているせいかと思われます。それでも、休んでいる限りは回復しないと思ったので、ちょっと具合が悪くても毎日のように鍛えました。ところが、やはり文字通り「無理」は「無理」で、少しこじらせてしまった状態になりました。気分も落ち込み意欲が減退し、からだも重くて、ここ最近はまた横になっていることが多くなってしまいました。症状的には2、3歩後退してしまった感じです。精神安定薬は一日1錠以内でおさめていますが、新薬エビリファイは微量ですが毎日服用しています。なお、この不調の原因は、時期にも関係しているように思います。というのは、毎年きまって梅雨の時期に調子が悪くなっているからです。
 それでも、全体的にはずっとよくなっているので、今の不調も一時的なものと考えています。何事もそうだと思いますが、ものごとというものは直線的によくなっていくのではなく、小さな波を描いてよくなったり悪くなったりを繰り返しながら全体的にはよくなっているという経過をたどるものと思います。いずれにしろ、ここまでよくなることができたのも、皆様方が物心ともに支えてくださったおかげに他なりません。心から感謝しています。
 ということで、しばらく休んだら、また無理のない範囲で少しずつ鍛えていこうと思っています。今はちょっと小休止です。あまり目先のアップダウンにはとらわれないようにしようと思っています。もし皆さんのなかにも病気やその他の悩みで苦しんでおられる方がいたら、小さな波を描きながら全体的にはよくなっていくのだということを認識されるとよろしいと思います。

 さて、では本文に入ります。
 前回の「後悔しない生き方」と関連がありますが、私が今まで半世紀以上生きてきて、「おそらくこういう生き方は後悔しないだろう」と思われるものは、「弱い者いじめはしない」ということです。
 子供などは、まだ他者の気持ちに共感できる能力が欠如しているため、面白がって弱い者いじめをするということがあります。限度を超さなければ、ある意味、それは仕方がないことです。私も中学生までは、友達をいじめたり、またいじめられたりしました。自分がいじめられてはじめて、いじめられる人の痛みがわかるようになり、それからはいじめることはしなくなりました。高校生以後は、気づかないうちにいじめてしまったことはあったかもしれませんが、少なくとも意図的に弱い者いじめをしたことはないと思います。
 しかし、いくら子供のときとはいえ、友達をいじめた経験というのは、この歳になっても辛い気持ちで思い出されます。後悔しています。いじめられた経験も不愉快ですが、後悔はありません。しかし、いじめた経験は後悔の念が伴います。それは辛いものです。

 私は、人間は男女を問わず「美学」というものを持って生きるべきだと思っています。倫理や道徳ではなく、美学の見地から「これはしない、これはする」という、いわば生きざまの指針のようなものです。ただし、「これはしてはいけない、これはしなければいけない」というものがたくさんあると、それに縛られ、自由に生き生きと生きることはできないので、あまりたくさんは持たない方がいいと思います。1つか2つ、多くても3つくらいでいいでしょう。
 美学を持って生きると、後悔しない人生を送れる可能性が高まります。
 その美学のうち、もっとも大切だと思うのが、「弱い者いじめはしない」というものです。弱い者は決していじめない。できれば助けてあげる、こういう生き方を美学として持つとよいのではないかと思います。
 残念なことに、弱い者いじめは、子供の世界だけでなく、大人の世界にもはびこっています。もしかしたら子供の世界より大人の世界の方がずっと数が多く、かつ陰湿かもしれません。子供の場合、たいてい腕力が強い子が腕力の弱い子をいじめるという単純なケースが多いですが、大人の場合は腕力というより、権力や地位や財力といったもので人を差別して弱い者いじめをします。典型的なのが、地位を利用して上司が部下をいじめるという、いわゆる「パワハラ」でしょう。
 子供はまだ他者の痛みに共感する能力が育っていないという点で仕方がないと思いますが、いい歳をした大人が自分より立場的に弱い人間をいじめたり、いばったり、暴言を吐くというのは、もっとも低劣な行為であると私は思っています。もっとも恥ずべき行為、醜い行為です。美しくありません。美学を持っていないから、弱い者いじめを平気でできるのです。
 いうまでもありませんが、弱い者いじめをするような人間に霊性が高い人はいません。いくら瞑想したり何千回お経やマントラを唱えたり、聖書を暗記するくらい読んだり、祈ったりしても、弱い者いじめをする限り、霊性が向上することはないと思っています。
 そしていつか、弱い者いじめをしたことを深く後悔するときがやってくるでしょう。その後悔には激しい自己嫌悪が伴うでしょう。

 ですから、霊性を向上する道を歩むなら、ぜひ「弱い者いじめはしない、できれば助けてあげる」という美学を持つようにしてください。他にもたくさんの美学があると思いますし、あとは自由に決めればよいと思いますが、すでに述べたように、あまりたくさん持つと不自由になるし、またひとつひとつの美学が散漫になるので、せいぜい3つ以内でいいと思います。「弱い者いじめはしない、できれば助けてあげる」という、これだけの美学でも、あとは少しくらい欠点があろうと悪いことをしようと、死んだときに天国の門は開いていると思います。人間というものは、あまりにも「これはしてはダメ、これはしなければダメ」というように自分を縛ってしまうと、器が小さくなってしまいます。「小さな善人」にはなれますが、大物にはなれません。別に大物になる必要はないのですが、器が小さいと人を許容することが難しくなりますし、それでは霊性を高める上での障害となりますので、やはり器は大きい方がよいです。要するに、人間はあまり小さなことにコセコセしない方がよいです。多少欠点があっても、多くの人を受け入れることができる器の大きい人、懐の深い人をめざすべきだと思うのです。
 ちなみに私は2つの美学を持っています。ひとつはいま申し上げている「弱い者いじめはしない、できれば助けてあげる」で、もうひとつは「誰にも媚びない、誰にも威張らない」です。私は人間の本質とは関係のない地位だの権力だの名声だの財力だのルックスだの職業だの、あるいはその他のことで、下心を持って誰かに媚びたり、あるいは自分より下だと思えば見下して威張るような人間が大嫌いです。それは非常に醜い。私はそんな醜い人間には絶対になりたくありません。
 ちょっとカッコつけすぎかと思われるかもしれませんが、男なら(女もそうですが)、人間らしく生きるためには「カッコよさ」を身につけることは大切なことだと思うのです。それが美学というものです。

 弱い者いじめはしない、できれば助けてあげる、ということは、愛のひとつのあらわれであると思います。すなわち、「弱い者いじめをしなければ後悔しない」というのは、「愛すれば後悔しない」ということだと言えるでしょう。
 私の半世紀以上の人生を振り返っても、愛さないで後悔したことはたくさんありますが、愛して後悔したことはひとつもありません。
 ただし、愛することは必ずしも楽しいものとは限りません。むしろ、愛することには傷つくというリスクが伴います。「愛することは傷つくことだ」と言い切ってもいいかもしれません。自分が愛しても、愛で応えてくれるとは限りません。感謝もされず、それどころか恩を仇で返されるようなこともあるかもしれません。なので、傷つきます。とても辛いです。
 傷つくのは、まだ条件がある証拠であり、真の愛ではないからです。とはいえ、人情としては、なかなかそこまでの高みに至ることは難しい。だから、愛するのであれば、傷つくことは覚悟することです。しかし、そのような勇気を持つことで、人は真の愛へと至る道を踏み出すことになると思うのです。
 いずれにしろ、愛して後悔することはありません。「絶対にない」、と言ってもいいと思います。
 愛さないで後悔することはあります。しかし、愛して後悔することは絶対にありません。
 それが、私が今までの人生で学んだ教訓のひとつです。

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