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心の治癒と魂の覚醒

        

地上世界に生きている時間を最大限に生かす

 私が主催するイデア ライフ アカデミーでは、基本的に釈迦やキリスト、また次回ご紹介するプロティノスなど、すぐれた思想家や宗教家の教えを土台にしています。いわば、彼らのエッセンスをそのまま(ただし哲学思想になじみのない方でも理解できるようにある程度かみくだいて)紹介しています。なので、イデア ライフ アカデミーの授業そのものには、ほとんどオリジナルなものはありません。もちろん、哲学思想というものは、自然科学とは違い、それをどのように解釈するかという主観的なものが、どうしても入り込んでしまいます。なので、私は自分の主張を無理強いすることはしません。むしろ「私の言うことを信じないでください。自分の頭で考えて、受け入れるかどうか判断してください」と述べています。

 さて、釈迦やキリストなどが説いた教えをひとことでいえば、「徹底的な現世否定であり、自己否定」です。自己否定とは、前回の授業でご紹介したように、エゴの否定ということですが、エゴの否定をするには現世の否定が必要不可欠なのです。逆に、現世の否定はそのままエゴの否定につながります。これが彼らの教えのエッセンスです。
 この現世における(完全なる)幸福は説いていません。というのも、原理的に、この地上世界で本当の幸せをつかむことは不可能だからです。この世界は無常であり、肉体は病に冒されながらついには死滅します。最終的にはすべてが失われるのです。それだけではありません。さまざまな苦しみ、ときには耐え難いほど悲惨な苦しみに見舞われることもあります。この地上世界の実態は、非常に危険な、恐ろしい場所なのです。

 しかし、巷にはびこる宗教やスピリチュアルといったものは、現世で幸せになること(正確に言えば欲望を満たすこと)、エゴを増長させるようなことばかりしています。この世界はエゴで生きている人がほとんどですから、そのためにこういうものは人気がありもてはやされます。しかし、エゴを喜ばせても、一時的には幸せを感じるかもしれませんが、最終的には苦しみをもたらすか、あるいは堕落させるかのいずれかに終わります。堕落すれば恐ろしい苦しみが待ち受けています。
 つまり、あきらかに釈迦やキリストの教えとは真逆なことをしているのです。釈迦やキリストを超える人物はいるでしょうか? 私はいないと思います。それなのになぜ、人々がこれほど偉大な人の教えを学び、それを真剣に実践しようとせず、怪しいスピリチュアルにはまる人がこれほど多いのか、それを思うと、とても残念な気持ちがします。
 かといって、そのことを人に押し付けることはしません。人にはそれぞれ、そのときに必要なことがあるからです。幼稚園児には「お遊戯」が必要でしょう。私も過去を振り返って、今から思えばまったく幼稚なことに多大な時間を割いてきました。しかしそれは、その当時の私には必要だったのだと思うことにしています。たとえ仮にそのとき、イデア ライフ アカデミーのようなものがあったとしても、「何だそりゃ? 怪しいカルトか?」などと言って振り向きもしなかったでしょう(笑)

 繰り返しますが、この地上世界に真の幸せはありません。あるのは一時的な快楽だけで、人はそのはかない一時的な快楽にすぎないものを「幸福」と勘違いしているのです。人間の本当の幸せは、肉体を離れた死後に存在します。この地上は、その幸せな世界に移行するための準備期間、いわば、魂を鍛える場所であり、魂はそのために地上に生まれてきたのです。
 私が宗教や哲学を志す前の、かなり若い頃、こうした、いわば「救いを死後に求める」という考え方が嫌いでした。なぜなら、単なる弱者の現実逃避のように感じられたからです。それよりも、この地上でたくましく生き、成功して富と名声をつかみ、さらには慈善事業などをして人を救う、といった生き方こそが、ずっと価値があると思っていました。
 しかし、今はそういう考えを持っていません。古今東西、多くのすぐれた聖者たちを研究し、自分でも思索を深めていった結果、証明はできませんが、死後の高い霊的領域こそが、人間がめざす目的であるということを確信したからです。

 もちろん、この世で苦しんでいる人を助け、この世界をよいものにしていく努力は大切ですし、必要だと思っています。
 しかし、この世界という場所は、もともと苦難や屈辱や失敗や孤独といったものを通してエゴを滅却するために創造されたものなのです。ですから、どうあがいても、この世界が完全に幸せな世界になることはありません。はっきり言いますが、この地上世界は救いようがないのです。原理的構造的にそうできているのです。さもないと、存在意義がなくなってしまうからです。たとえるなら、トレーニングジムの中にある、さまざまなトレーニングマシンを捨て去ってしまうようなものです。これではトレーニングジムが成り立たないでしょう。
 したがって、この世界で苦しんでいる人を助けるという意味は、早くこの世界から脱出するように、釈迦やキリストなど、その他すぐれた霊的な教えを説いてあげることだと私は考えているのです。一生懸命にトレーニングして、マッチョな魂を獲得させる、ということになります。筋トレをしている人を見ていると、苦しそうですが、この人生も同じなのです。さまざまな苦難、屈辱、孤独といった苦しみによって魂を鍛えることが人生なのです。この世の快楽を味わうことではありません。逆に、この世のいっさいの快楽を捨て、この世に対するいっさいの未練や関心を捨て去ることにあるのです。

 だから、皆さんには、この地上に生きている間、くだらないことに時間を浪費することをせず、とにかくこの地上世界から解脱して、この地上世界よりはるかに幸せな、永遠なる世界に移行するべく、一生懸命に努力していただきたいと思っているのです。
 地上世界というトレーニングジムに生きているということは、ある意味では、トレーニングという最高にすばらしい機会が与えられているということです。もしこの機会を失ったら、いつか死後、自分が地上に生まれ変わった理由を思い出して、ひどい失意を味わうことになるかもしれません。たとえるなら、10億円の当選宝くじを、間違ってごみと一緒に捨ててしまったときのことを想像してみてください。どうしようもない後悔やくやしさで心かき乱され、一生、悔やむことになるでしょう。
 しかし、この地上世界でトレーニングをさぼるということは、このたとえよりも、はるかに残念であり、悔やんでも悔やんでも悔やみきれないものがあるのです。なぜなら、高い霊的領域の幸せに比較したら、この地上の幸せなど、ゴミのような、つまらないものだからです。幸か不幸か、私たちはそのような霊的幸せを知らず、比較できないので、この世のつまらない幸せを、たいそう大事なもののように思い込んでいるのです。

 人はいつ死ぬかわかりません。明日、いえ、今日、死ぬかもしれないのです。どのくらい時間が残されているのかは、誰にもわかりません。ですから、一生懸命に学んでいただきたいと、私は切に願っています。
 ただ、一応念のために申し上げますが、私はイデア ライフ アカデミーに来て欲しいために、こういうことを書いているのではありません。「来て欲しい」と思うのはエゴです。だから、私は、人が来なくてもがっかりしないし、人が来ても喜んだりしません。
 ただ、ともに人生最大の目的に向かって歩む同志が集まってきてくれたという点では、やはり嬉しさは感じるものですが。
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現代人は集中力が欠如しているのか?

 私はよく名前の漢字を間違えられます。私の名前は「斉藤」(戸籍上は「齊藤」ですが難しいので普段は「斉藤」という字を使っています)ですが、「斎藤」と書かれるのです。私のもとに寄せられるメールの半数以上が「斎藤」となっています。
 今まで気にしてはいませんでしたが、あまりにも間違いが多いので、これはもう「うっかりミス」というレベルではない異常さを感じて、今回、これについて書いてみようと思います。
 この間違いは、今まで、出版社からも間違えられました。また、amazonで私の本の著者名も「斎藤」と書かれて間違われました(連絡して訂正してもらいました)。
 出版社とか、amazonでサイトを構築している人は、いわば活字のプロであるはずですが、そのような人が間違えるのですから、普通の人が間違えても無理はないとも言えるのかもしれませんが、一般常識として、名前を間違えるというのは、相手に対して失礼なことだとされていると思うので、なぜもっと慎重になれないのかなという疑問が生じます。
 しかし何といっても極めつけは、私がここ最近、税の関係で依頼している会計士が間違えていることです。しかも三度もです。最初に書類が送られてきたとき、「斎藤」となっていたので、電話をして指摘し、今度は間違わないようにしてくださいと頼みました。会計士と言えば、それこそ書類を作るプロ中のプロですから、そのプロが、しかも名前という、もっとも重要なところを間違えたのですから、これはかなり問題だと思うのですが、人間は誰でもうっかりということがありますから、このときは受け流しました。しかし、その後、半年ほどしてまた書類を作ってもらったのですが、またしても「斎藤」になっているのです。そのときも注意したのですが、「すみませんでした」と謝ったので、さすがにもう間違いはないだろうと思っていたところ、本日、確定申告に使うために、書類が送られてきたのですが、「斎藤」となっているのです。こうなると、もうどうかしているとしか思えません。「仏の顔も三度まで」という言葉がありますが、一度だって問題があるこうしたミスを、三度もくり返すこの会計士は、「改善していく」ということができない人なのでしょう。おそらく今後も同じ間違いを繰り返し、書類を書き直す余計な手間隙で貴重な時間が奪われたり、ストレスになるので、もうこの会計士に依頼することはやめました。

 私はホームページでも著作でもどこでも「斉藤」と書いてあるのに、半数以上の人が「斎藤」と表記してメールを送ってくることが、不思議でなりません。
 これはもはや、うっかりミスというレベルではなく、全般的に、現代人の集中力が欠如してきた、ひとつの証ではないかという気がしてきました。そういえば、このところニュース番組を見ても、むかしよりも間違いが多くなり、キャスターがそれを訂正することが増えたような気がします。それも、かなり基本的なミスが多いのです。
 霊的な道を歩む上では、集中力や注意力は欠かせません。自己の内面の動き、言葉、行動に注意深く集中している必要があるのです。何らかの原因で、現代日本人は、この集中力が欠如してしまったのではないかと思います。これは大きな問題ではないかと思います。
 今回、この記事を読んでくださった方は、今後、コメントやメールをくれるときには、「斎藤」ではなく、ちゃんと「斉藤」と書いてくれるものと思いますが、それでもなお「斎藤」と書いてしまうようであれば、霊的な道を歩む上で不可欠な能力が欠如していると思っていただいたほうがよろしいかもしれません。

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教え(知識)を血肉とするために大切なこと

 まずはお知らせから。
今月のイデア ライフ アカデミー(20日/21日)は、「カバラ思想の本質」というテーマで行います。魔術や占いの一種であるかのように誤解されがちなユダヤの神秘主義カバラとは、どのような教えなのか。その本質に迫っていきたいと思います。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで
 
 では、本題に入ります。
 世界で一番売れている本は聖書だそうです。ご存知のように、聖書には、愛することや謙虚さ、節度や寛容さといった、徳を養い、人格や霊性を高める教えがぎっしりと書かれています。仏典も同じです。聖書ほどではないにしても、仏典を読んでいる人も多いでしょう。
 しかし、ここで素朴な疑問が湧いてくるのです。
 これほどすばらしい本が、これほど多く読まれてきているのに、人類の精神性はそれほど進歩していない、ということです。聖書や仏典を読んでいるのに、その一方で、下劣で恥知らずなことを平気でやる人も少なくありません。
 つまり、善い知識を頭に入れただけでは、それがそのまま人格や霊性の向上につながるとは限らない、ということです。何かが欠けているのです。もちろん、人格を向上させるために、善い知識は必要でしょう。しかし、それだけではダメなのです。知識を、人格向上という実践レベルにまで変換するものが必要なのです。
 では、いったいそれは何なのでしょうか?

 釈迦の時代、多くの弟子が釈迦の教えのもとで修行しました。当時のインドの習慣として、師の教えを書き留めるということはなかったようです。すべて暗記に頼っていました。もちろん、個人の暗記力には限界がありますから、弟子たちは、釈迦の説法が終わると集まって、各人の記憶を出し合って、どんな説法が行われたかを復元し、そうしてまとめたら、最後にみんなで何回もそれを暗誦して記憶に定着させたのです。ですから、当時の弟子たちは、おそらく現代の私たちよりもはるかに記憶力がよかったのではないかと思います。
 現代の私たちは、本に頼っています。ところが、一度読んだだけでは、その内容の何分の一、あるいは何十分の一くらいしか記憶していないものです。それなのに「必要な時はいつでも読めるからいい」という、安易な状況にあるために、結局、次から次へとたくさん本は読むが、ほとんど記憶に残っていない、ということになります。記憶として定着されていなければ、どんなに善い本を読んでも、それを人格レベルにまで落とし込むことは無理でしょう。

 それに対して、釈迦の弟子たちは、記録して本としていつでも読めるような状況になかったので、それこそ非常な真剣さで、釈迦の語る言葉をすべて吸収しようと、必死に聴いていたに違いありません。その真剣さに、まず大きな違いがあるのではないかと思います。
 しかも、弟子たちは常に釈迦の教えを聴けるわけではありませんでした。釈迦から直接、説法を聴けるのは、月に一度か二度、多くても数回程度で、後は修行仲間と研究したり、独りで思索や瞑想する時間の方がずっと多かったのです。釈迦は本当に大切なことを少し話す程度で、弟子たちひとりひとりに手取り足取り手厚い指導をしていたわけではありませんでした。
 にもかかわらず、経典によれば、多くの弟子がそれで煩悩を清め、人格を向上させて解脱を果たすことができたというのです。
 知識という点では、難解で膨大な仏教理論が頭に入っている仏教学者には、足元にも及ばなかったと思います。しかし、仏教学者で解脱を果たしたという話は聞いたことがありません。
 いわゆる原始仏教、つまり、釈迦が弟子に説いた教えは、奥は深いが、量としてはそれほど多くなかったのです。言い換えれば、情報量は圧倒的に少なかったわけです。ところが、むしろ情報量の少なさゆえに、釈迦が説いたわずかな教えを宝物として大切に守り、あたため、それを実践して解脱したわけです。
 そう考えると、私たちは、あまりにも情報に恵まれすぎていて、知識を詰め込みすぎ、かえってそれが妨げになっているのかもしれません。たとえるなら、たくさん食べ過ぎた結果として下痢をし、かえって栄養不足になるようなものです。
 それよりも、エッセンスとなる教えを、少なくてもいいのでしっかりと頭に入れ、あたため、自分でも繰り返し繰り返し何回も深く考え、そうして自分の血肉とする方が、ずっと有効ではないかと思われるのです。

 それと、教えを誰から聴くか、ということも重要な要素になると思います。
 卑俗なたとえで恐縮ですが、好きでもない人から高価な贈り物をもらうより、安物でも好きな人からもらった方がずっと嬉しいように、釈迦という比類なき指導者から教えを受けるという、そのありがたさと、釈迦に対する深い尊敬の念とを伴ったとき、その教えが非常に活きてくると思うわけです。
 このように、すばらしい師匠に恵まれた人は幸せです。深い尊敬の念をもって学ぶでしょうから、自然と真剣となり、教えを大切なものとして受け入れるでしょう。そうしたとき、いかに少ない教えしか説いてもらえなかったとしても、立派に進歩していくことができるのです。
 その意味では、人を指導する立場にある人は、尊敬に値する人間性をもつことが非常に重要になってくるともいえますが、一方で、釈迦ほどの人でさえ、小馬鹿にする人がいたようですから、教えを受ける方も、教えを授けてくれる人を尊敬する気持ちをもつようにすることが大切になってくると思います。
 私の経験から言っても、霊的な分野に限らず、どのような分野であれ、礼儀正しい人は伸びます。基本的な礼儀がなっていない人は伸びません。また、自分が尊敬する人は礼儀正しいが、そうでない人には非礼なことをするような、二面性があるような人も伸びません。誰に対しても礼儀正しく、謙虚に学ぶ姿勢がある人は、どのような分野であれ、よく伸びます。

 とはいえ、ほとんどの人はそんな師匠には恵まれていないと思いますので、結局は本を通して教えを学ぶしかありません。
 しかしそのとき、「本を読んでいる」という意識を捨てて、その本の著者が目の前にいて、直接教えを説いてくださっているのだ、という気持ちになることが大切です。
 たとえば、私は毎日少しずつ『ブッダの言葉(スッタニパータ)』と、前回ご紹介した『キリストにならいて』の本を読むのを日課にしています。そのとき、「本」を読んでいるという意識は捨てて、実際に目の前に釈迦がいて、その教えを聴いているのだ、という気持ちで文字を追うようにしています。また、目の前にイエスがいて、私のために教えを説いてくださっているのだ、という思いで目を通しています。ゆっくりと、ひとつひとつの言葉をかみしめるようにしながら。そういう気持ちで読むと、やはり真剣さが違ってきます。自然と内容が頭の中に記憶されてきます。
 そうして私は、この2冊の本を、完全に暗記するまで、エンドレスで何回も繰り返して読み続けていこうと思っているのです。
 皆さんも、善い本を読むときは、このような感じで読んでみてください。そうすればきっと、善い教えが自らの血肉となって、人格と霊性の向上につながっていくと思います。
 
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「当たり前」の大切さ

 まずはご報告とお知らせから。
 今月9月19日/20日、イデア ライフ アカデミー哲学教室の授業が行われました。テーマは「W・ジェイムズに学ぶ宗教の本質」。ウィリアム・ジェイムズはアメリカの心理学者、哲学者で、宗教経験の研究とプラグマティズムで有名です。宗教というと、特に信仰を持たない一般の人にとっては、どこか「いかがわしい」といったイメージがありがちですが、それは宗教を組織や教義と同一視しているためです。少なくともジェイムズが主張する宗教とは、宗教組織や特定の教義とは関係のない、個人的な体験のことです。したがって、いわゆる宗教的な行為はせず、自分では宗教を信仰していると思っていなくても、実は宗教的な生き方をしている人もいるのです。授業ではその一例として、ヴァイオリニストの鈴木鎮一を取り上げています。ぜひダイジェスト版をご覧ください。宗教というものに対するイメージが変わるかもしれません。
動画視聴

 では、本題にうつります。
 私が最近、つくづく思うことは、大切なことは「基本」であり「当たり前のこと」である、ということです。しかし、このことに心の底から気づくことは、意外に難しいのです。その証拠に、私たちは、基本的なこと、当たり前のことを、はたしてどれだけ実践できているでしょうか?
 たとえば、人生で一番大切なことは、人格の向上であると私は考えています。ひらたくいえば「善い人」になることです。なぜなら、結局のところ、善い人になることが、幸せをつかむためには必要不可欠の要素だからです。これは私独自の主張ではなく、釈迦もイエスも、ソクラテスも孔子も、その他、ほとんどの聖者たちが異口同音に主張していることであり、彼らの教えのエッセンスなのです。聖者たちは、結局は、「当たり前」と私たちが思っていることを説いているのです。
 しかし、「善い人になることが大切である」などと言うと、「陳腐だ」といって片付けられてしまうのです。「説教くさい」とか「そんなことわかっているよ。何を今さら」と思われるかもしれません。
 けれども、わかっているなら、それを実践しているはずですが、はたして私たちは、善い人になるために、どれだけ努力しているでしょうか?

 たとえば、ビジネスや商売をしている人は、寝ても醒めても「どうしたらお金が儲かるだろう? どうしたらお客さんをたくさん集められるだろう?」と考えます。そして、一生懸命、涙ぐましい努力をしています。これほどの情熱をもって善い人になろうと努力している人は、ほとんどいないでしょう。
 もちろん、お金は大切です。お金がなければ生きていけません。生きていけなければ、善い人になろうと思ってもできません。しかし、悪い人がお金を手にすると、まずろくなことはありません。へんなことにお金を使って身の破滅に至ることもしばしばです。お金によって幸せになるには、まず前提として善い人でなければならないのです。善い人がお金をもつとき、そのお金によって幸せになれるのです。ですから、お金よりも善い人になることを優先すべきなのです。「お金儲けもがんばるが、それ以上に善い人になるようにがんばる」ということです。
 さらにまた、地上の物質世界の幸せのみならず、それを超えた霊的な幸せ(魂の救い)という点でも、善い人であることは必須条件です。悪い人が、自分を改めようともせず、神に祈ったり宗教的な行事をしたところで、救いは得られません。
 このように、何よりもまず、善い人になることが、人生でもっとも大切なのであり、それを人生の最優先にするべきなのです。

 ところが、そのために本当に真剣に努力している人は、ほとんどいないように思います。
 お金を儲けることに関しては、寝ても醒めてもそのことばかり考えている人は珍しくありませんが、善い人になるために、寝ても醒めてもそのことばかり考えている人は、どれほどいるでしょうか?
 善い人になることは、容易なことではありません。片手間にできることではなく、全身全霊で努力していかなければ、善い人にはなれません。というのも、私たちは利己主義のかたまりともいうべきエゴの殻に閉じ込められており、その殻を打ち破るのは、並大抵のことではないからです。ひたすら、善い人になるために有益なことを学び、その種の本を読んだり、徳の高い人について教えを受けたり、学んだことを実践するために自ら創意工夫していかなければなりません。
 そうしたことをしていないのなら、本当に善い人になることの重要性をわかってはいないということです。

 私は還暦になってようやく、このことに気づきました。もちろん、表面的な知識としてはわかっていました。しかし、真剣にそのための努力をせず、小手先のテクニックばかり求めてきたような気がします。何事もそうですが、基本ができていなければ、いくらテクニックを学んでも活きてこないのです。善い人になろうとせず、小手先のテクニックばかり捜し求めても、幸せにはなれません。一時的な幸運は訪れるかもしれませんが、そうしたものは、はかなく崩れ去ってしまうでしょう。
 還暦を迎えると、死を意識するようになります。いつ死んでもおかしくないと思うようになります。もちろん、平均寿命を80歳とすると、あと20年は生きられる計算になりますが、善い人になるという大事業を達成するには、ぎりぎりの歳月だと思っています。しかも、老化により、今後は肉体的にも精神的にもこれまでのような活動はできなくなりますから、善い人になるために費やすことができる年月は、実質上、もっと短くなるでしょう。
 この「人生の目的は善い人になることであり、それを最優先にして生きるべきだ」という真理に、もっと早く気づいていればよかったと後悔しています。今まで、まったく余計な回り道をしてきました。しかし、後悔しても失われた時間を取り戻せるわけではありません。
 なので、せめてこの記事を読んでくださっている皆さんには(たぶん私より若い人が多いと思いますので)、こうした後悔はして欲しくありません。ですから、私のつかんだ気づき、すなわち、くり返しますが、「人生の目的は善い人になることであり、それを最優先にして生きる」ということが真理であることを、どうか信じてください。そして、そのために、全身全霊で努力してください。
 無駄なことに時間を浪費しないようにしてください。くだらないテレビ番組ばかり見たり、ゲームばかりしたり、頻繁に意味のない飲み会に出たりしないでください。もちろん、息抜きとして少しくらいはいいでしょうが、善い人になるために役立たないことに余計な時間を費やすことは、なるべく避けてください。時間はあっというまに過ぎ去ってしまいます。
 善い人になるためには、善い教えを学ぶことが基本となります。古今東西のすぐれた思想・哲学・宗教、および、偉人たちの生き方を学ぶことです。しかし、学ぶだけでは単なる知識に終わってしまうので、いかにしたらそれを実践レベルにまで落とし込むことができるか、それを自ら考え、工夫していかなければなりません。そして、コツコツと実践していくことです。そうしてはじめて善い人になる道が開かれていくのです。

 以上の目的を達成するために、古今東西の哲学・思想・宗教をバランスよく紹介しているイデア ライフ アカデミーは、きっと皆様のお役に立てるものと信じています。こう書くと宣伝しているように思われそうで嫌なのですが、金儲けのためにこの教室を運営しているわけではありません。実際、満員になったとしても、授業のために費やした経費や労働力などを考慮すると、ぜんぜん割りに合わないのです。それでもこの教室を続けているのは、私が社会貢献できるものといえば、これくらいしかないからです。金儲けだとか名前を売りたいわけではありません。私の個人的な利害という点では、人が来ても来なくても、あまり変わらないのです。ただ、私としては、人生でもっとも大切なことを学べる場所であるという確信と自負がありますので、せっかくこうした場があるのに利用しないのは、もったいないとは思います。あるいはもちろん、他にもっとよい学びの場がある人は、それはそれでけっこうなことなのですが。
 もし「人生の目的は人格の向上、すなわち、善い人になること」という、あらゆる聖者が口をそろえて語った人生の真理に心の底から気づいた人は、ぜひイデア ライフ アカデミーにいらしてみてください。遠方で来られない方は、動画でも学ぶことができます。ただし、何事も相性というものがありますから、イデア ライフ アカデミーが自分に合わなければ、来なくてもいいのです。そのかわり、あなたにふさわしい学びの場を他に見つけていただきたいと思います。
 いずれにしろ、人生の最も重要な目的をないがしろにして、人生を無駄にしないでいただきたい、余計なおせっかいかもしれませんが、私が言いたいのはそこなのです。

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 いかにして聖者の教えを実践するか?

 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月19日と20日、イデア ライフ アカデミー瞑想教室第10回「苦難を瞑想によって乗り越える」というテーマで授業を行いました。月並みな苦しみではなく、苦難と呼ばれるほど激しい苦しみに見舞われたときは、超越的な存在(いわゆる神や仏)との霊的交流が非常に重要であると私は考えます。いわば「信仰」の領域になるわけですが、信仰といっても、特定の宗教とは関係ありません。信仰とは超越的存在との霊的交わりのことです。授業では、どうすれば超越的存在と霊的な交流ができ、そうして苦難を乗り越えることができるかどうか、その方法を解説しました。ダイジェスト版ではそのための理論を説明しています。ぜひご覧ください。
動画視聴はこちらから
 次回は哲学教室(11月2日、3日)で、「易経に学ぶ運命の法則」の続きです。64卦ある易の卦のなかで、生きる指針としてもっとも含蓄が深く示唆に富んでいると思われるものを、霊性の進化という視点から解説していきます。今まで易経を単なる占いの書と思っていた人は、新たな視野が開かれることと思います。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで

 さて、本題に入ります。
 私が今まで長い間、ずっと疑問に感じ、思い悩んでいることがあります。
 それは、「なぜ世の中にはすばらしい教えが溢れているのに、すばらしい人が少ないのか?」ということです。
 たとえば、世界で一番売れている本は「聖書」です。仏典もたくさん読まれているでしょう。宗教とは縁のない人は、いわゆるスピリチュアル系の本を読んでいるかもしれません。どれもすばらしい教えが説かれています。新興宗教でも、よほどあやしいカルト教団でない限り、すばらしい教えを説いています。
 これだけすばらしい教えが溢れかえっているのに、それに比べて、私たちはそれに見合うほどすばらしいと言えるでしょうか?
 少しはすばらしくなっているかもしれませんが、大多数の人は、すばらしい教えの内容からはほど遠いのが現実です。
 いったいこれはどうしてなのか?
 私はずっとこのことを考えているのです。
 西洋には「サンデー・クリスチャン」という言葉があるそうです。つまり、日曜日には教会へ行き、神様の話や隣人愛の話を耳にしてクリスチャンらしく過ごすのですが、残りの平日は、クリスチャンとは無縁の、すなわち、隣人愛などほとんど頭にない、冷酷で、物欲や虚栄心まるだしの生活をしているのです。
 いったいこういう人たちは、自分たちの矛盾に気づかないのでしょうか? 自分をクリスチャンと言いながら、一方で愛のかけらもない、虚栄心や物欲を満たすばかりの生活をしていることに、違和感を覚えたり、恥ずかしい気持ちが湧かないのでしょうか? こうなると、ある種の二重人格としか思えません。
 もちろんこれは、クリスチャンに限りません。仏教徒も、スピリチュアルの信奉者も同じです。
 結局、すばらしい教えが書かれた本を読んだり、あるいは話を聞いたりするだけでは不十分なのです。それだけでは人は変われないのです。その他に、何かが必要なのです。
 多くの人たちは、そうした宗教やスピリチュアルを、ある種の「娯楽」や「気晴らし」、あるいは教養の一環くらいにしか思っていないのかもしれません。
 もちろん、すばらしい本を読まないよりは読んだ方がいいでしょう。しかし、人間はしばしば、頭で理解しただけなのに、自分がすばらしい人間になったような錯覚をしたりします。愛についての高邁な理論を学んだというだけで、愛の深い人になったと勘違いしたりします。知識というものは、こういう落とし穴、危険があるのです。ですから、必ずしもすばらしい本を読むことがすばらしい結果になるとは限りません。ときには逆に、人間性を低めてしまう危険もあるのです。残念ながら、宗教やスピリチュアルの世界には、この種の人たちは掃いて捨てるほどたくさんいます。
 これでは、いくら今後、たとえイエスや仏陀のような大聖者が現れたとしても、何の意味もありません。
 教えはもう十分なのです。
 あえて「教え」というものが必要であるとするならば、それは、「教えを実践に移すための教え」ではないでしょうか?
 ならば、いったいそれは何なのか?
 どうすれば、過去の聖者たちが残してくれた教えを、自らの血肉とし、そうして自らを変え、すばらしい教えの実践者になることができるのか?
 これが、私がもっとも関心を抱いているテーマであり、現在、模索している最中なのです。

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