心の治癒と魂の覚醒

        

私の母と幼少時代のこと ③

 二番目の母がいなくなってから、田舎の祖母がやってきて、しばらく私の世話をしてくれた。だが、東北の閑静な田舎暮らしに慣れた祖母には、ごみご みした、しかも狭く汚いアパート暮らしは苦痛だったらしい。3、4か月ほど一緒に暮らしていたように思うが、あるとき早朝、ふとんのなかで目覚めて足元を見たとき驚いた。隣にはやはりふとんの中にいる父が驚いている。足元には、いつのまにか正装をした祖母と、叔父(父の弟)が立っているで はないか。
 話によると、祖母は田舎に帰りたいとひそかに叔父に訴えていたそうだ。叔父は、「このまま東京なんかにいたら母は殺されてしまう」といって、私 たちに何の予告もすることなく、いきなり早朝、叔父は祖母を迎えに来て、そのまま東北の中に連れ去っていってしまった。
 そうして、私はある意味、祖母にも見捨てられた形となり、再び父と二人だけの生活が始まった。父は近所の双眼鏡を組み立てる工場に勤めていて、 夕方に帰ってきた。ある夜、夕食だというのに何も食べるものがないときがあった。もちろん、貧乏ではあったが食べ物が買えないほど貧しくはなかった。ただ、冷蔵庫も食糧を置いておく場所がなかったので、食糧の備蓄がなかったのだ。米を炊こうとして米櫃をのぞくと、ゴキブリがはっていたので 気持ち悪くなってやめ、一袋だけインスタントラーメンがあったので、それを作って父と二人で分けて食べたこともあった。
 その後、お世辞にも親切とはいえない中年女性のお手伝いさんが来たことがあり、私はこの人が自分の新しいお母さんなのかと思い、おそるおそる 「お母さん」と呼びかけてみた。すると「私、あんたのお母さんじゃないわよ。ただのお手伝いさんよ」とブスっとした調子で言われ、私はなんだか腐った気持ちになり、あてもなく外に飛び出していったのを覚えている。
 そんな生活をしているうちに、3番目の母、すなわち、現在の母がやってきた。
 母は優しいときは優しく、厳しいときは(暴力的ではなく毅然とした態度で)厳しく私を育ててくれた。とりわけ日常の生活習慣についてしっかりと 教育してくれたことに感謝している。たとえば、靴はそろえておきなさい、とか、早寝早起きをするとか、食べ物の好き嫌いをなくすとか、人に会ったら挨拶するとか、とにかくそのような基本的な社会性を教えてくれたことには感謝している。
しかし若い頃は少しヒステリックなところがあり、私が何 かのことで不満があり、いつまでも泣き止まないでいると、いきなり平手打ちをするようなところもあった。また、歳を取るにつれて、ある種の「二枚舌」を使うようになり、たとえばある料理屋で「この料理おいしいわ」などと食べた後で、店を出ると「まずい料理だったわ」などと言うことがよく あった。こうしたことは小さなことかもしれないが、私には何か受け入れがたくひっかかるものがあり、3番目の母はとても感謝しているし、ありがたいと思っているが、全面的に深く信頼できるような感覚にはなれず、微妙な距離感がずっとあった。
 この距離感は、昨年から今年のはじめにかけて認知症(?)となり、病院のロビーで「私を家に連れていけ! この親不孝者! こんな息子なんか持 つんじゃなかった。化けて出てやるからな!」と大きな声で叫ばれたときには、この距離がいっきに広がってしまった。正直なところ、あちこちの施設や病院に連れていったり、そのためにさまざまなめんどうな書類を書いたり役所に行ったり、施設生活や入院生活に必要な品物を買い求めるといった、 かなりの労力と高額な入院費をとられたうえに、いくら認知症だからといって、このように言われたとき、さすがに私は母に愛する愛情が冷めてしまった。今は愛情からではなく、人間としての義務感で、母の世話をしているだけである。
 幸い、4月1日に母は退院して、もとの施設に戻った。認知症の方もほとんど見られなくなり、一時は入院中に亡くなると覚悟していたが、入院する 前とほとんど変わらない状態になった。ただし、例によって私からすれば安くない入院費の請求が来てがっかりした。父の場合、入院してから一か月であっさりと死んでいった。母も父のようにあっさり逝ってくれたらいいのにと、これは思ってはいけないことかもしれないが、正直、そのように思うこ ともあった。私の場合は、まだ施設に入ってくれているのでいいが、これが自宅で介護するとなると、とても素人では無理なくらい過酷な労力が要求されるであろう。そのために介護する人が倒れてしまうという場合も少なくないようだ。そのような人に比べれば、私はまだ恵まれている方である。
 ざっと、以上が私の3人の母親についての紹介である。特に意識的に思い出さない限り、そのときの悲しい気持ちやその他の感情がよみがえることは ない。
 ただ、私のこれまでの人生パターンを見ると、「見捨てられる」ということが繰り返されているような気がする。それも、何の前ぶれもなく、いきな り突然いなくなり、二度と会うことはないというパターンである。
 私は最近、この「見捨てられる」というパターンが、大きなことからささいなことまで含めて、まるで湧き上がる泉のように、あるいは走馬灯のよう に、次から次へと脳裏に浮かんでくるようになり、そのたびに人生の孤独感や虚しさ、ときにはくだらなさ、ナンセンス、バカバカしさといった思いにかられるようになった。当時は楽しく幸せだった出来事さえも、何と意味のない、くだらない、バカバカしいものだろうと思うようになってしまった。
 しかし、仮にそうした今までの経験のほとんどがくだらないものであったとしても、「神だけは私を見捨てることはしない」と信じ続けてきた。しか し、最近はそれも揺らぎ始めてきてしまった。この信念は、今までの私の人生をずっと支えてきた「命の絆」であった。だが、私には孤立感だけが感じるだけで、神が寄り添っていてくれて必要なときには助けてくれるために見守っていてくれる」という考えが崩壊し始めている。
 神というものは、カバラがいみじくも語っているように、人間の認識能力をはるかに超えた存在であり、存在するともしないともいえないほど究極的 なものであり、とうてい把握できないものであって、「神」と呼ぶことさえできない存在である。そのような神(とあえて言うならば)は、たぶんいるのであろう。だが、それはあまりにも遠い存在であり、いちいち人間の地上世界のこまごまとしたことには関知しないのである。ただ、神ではないが、 守護霊や守護神のような存在はいるかもしれない。しかしこうした存在は万能ではなく、祈れば必ずしも助けてくれる存在とは限らない。祈れば救われるのなら、たとえば東北大震災によって2万人以上の人が死んでしまったが、その人たちは誰一人として神
に救いを祈っていなかったのだろうか。むし ろ、多くの人が神に祈っていたのではないだろうか。
 神は世界創造を成し遂げたのであろうから、おそらく万能であろう。だが、その万能の神はあまりにも究極の究極ともいうべき存在であり、そこまで 究極であると、私たち人間とは直接的な交流は持ちえない。交流が持ち得なければ、人間にとって実質的には「神は存在しない」と言っても間違いではないであろう。
 こう考えると、私は神から見捨てられた(というより、最初から見捨てられている)というように思うようになり、この思いが私を苦しめている。
「祈れば神様が助けてくれる」と考えることのできる素朴な、しかし現実を見ない人たちは、ある意味では幸せである。たとえそれが真実かどうかは別 としても、その「思い込み」は心の支えになるであろう。もっとも、それはいつか期待外れに終わることにはなるだろうが。


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私の母と幼少時代のこと②

 こんにちは。皆さん。お元気でお過ごしですか?
 前回の続きをご紹介させていただきます。今回もホームページ(4月の独想録)から抜粋したものです。

 私の3人の母について ②
 東北宮城県の田舎から東京のおんぼろアパートに連れ戻されたとき、そこには二番目の新しい母がいた。練馬区の豊島園の近くにあった、六畳間と四畳半、トイレ共同のアパートで、冷蔵庫もなければ洋服ダンスもない貧しい状況だった。ただ、テレビ(当時はみんな白黒テレビ)はあった。
 二番目の母は、私の記憶だと、まだ若かったのではないかと思う(20代後半くらい?)。きれいな女性のように見えた。でも、とにかく優しく柔和な人で、私はこのお母さんが大好きになった。そして、いろいろと遊んでくれた。あるとき、雑誌か何かのマンガのキャラクターが描かれた絵があったのだが、それをはさみで切り取って欲しいと頼んだ。そうしたら母は喜んでにこにこしながら切り取ってくれたのだが、その出来上がりをみて子供心に驚嘆したのを覚えている。寸分もずれることなく、完璧に切り取られているのだ。私はそれを見て、しばらく驚いていた。相当、手先の器用な人であったようだ。
 記憶ははっきりしないが、この人とは父と3人で半年か一年ほど一緒に暮らしたように思う。

 ところがあるとき、急に父と母の二人だけで外出していって、私はひとり家で留守番をさせられることになった。お母さんは(夕方5時か6時くらいに始まる当時のアニメ番組である)「鉄人28号」を一緒に見ようね、それまでには帰ってくるからねと約束してくれたので、私は何の不安もなく家で待っていた。
 ところが、鉄人28号が始まる時間になっても帰ってこない。そのため、私はひとりでそれを見た。そしてしばらくした頃、父だけが帰ってきた。父は何もいわず、一通の手紙を私に渡した。それは母からのものだった。最初に「鉄人28号を一緒に見られなくてごめんなさいね」と書かれていた。ほかにも、2、3枚ほどの便せんで「体には気を付けてちょうだいね」とか、そのようなことが書かれてあったと思う。
 誰が見ても、それは別れの手紙であることがわかった。まだ幼稚園にも行っていない私でさえもそれがわかり、もう二度とお母さんは帰ってはこないのだということがわかった。

 狭くて暗いアパートの一室でそのことを悟ったとき、今でもそのときの状況は生々しく覚えているのだが、深い海の底に沈んでいくような、とてつもなく深い悲しみと孤独感に襲われたのを覚えている。泣いたかどうかは覚えていない。人間というものは、本当に辛いときは、涙さえも出ないのかもしれない。だが、とにかく心の奥深くにその悲しみと孤独感のくさびが打ち込まれたことは確かだった。実の母親がいなくなったときよりも、この大好きだった二番目の母親がいなくなったときの方がショックだった。そして実の母親同様、この二番目の母親も私に会いに来ることは二度となかった。
 会いに来なかった理由は、実の母と同じく、わからない。けれども、物心ついて以来、私は二人の母親に捨てられたのだと思った。そして、せっかく「鉄人28号」を見ようと期待していたのに、それが裏切られたことに対する悔しさと残念な思いもあった。そのためか、今でも、どんなに小さな約束でもそれを守ってもらえないと、深く落ち込む傾向が残っている。そのルーツは、たぶん、ここにあるのだと思う。そして、どこか人間に対して心から信用できないところがあるようにも思われる。
 私は今でも、何か少しでも落ち込むようなことがあると、二番目の母がいなくなった当時の底知れぬ悲しみと孤独の気持ちが胸の奥から湧き出てくるのを感じる。状況にもよるが、あるときはほんのささいな感覚程度のものとして、しかしあるときは津波のように押し寄せて圧倒させられてしまう。こんなときは地面に触れ伏してしまいたくなる。

 こうした幼少時の心のトラウマは「インナーチャイルド」などと呼ばれ、それを癒すと宣伝しているセラピストがインターネットを見るとたくさんいる。私も独学で少し試したことがあるが、ほとんど効果はなかった。この悲しみと孤独の思いは、何かあるとすぐに顔を出してくる。インナーチャイルドというと、多くの場合、親から虐待されたことによるもののようだが、捨てられるより、虐待の方がマシではないのかと思う。もちろん、虐待にも限度があるが、それほどひどい虐待でなければ、まだ母親がそばにいて交流ができるだろう。多少でも母親の温もりや、ときには見せるであろう母親の愛情を受けることもできるであろう。だが、捨てられていなくなるとなると、そのような可能性はゼロになり、まったくの孤独におかれるようになる。人間でも動物でも、無力な子供にとって、保護者がいなくなりひとりにされるほど危険で不安なものはない。

 そして大人になると、それは「母」がいないことに対する悲しみや孤独ではなく、この世の中そのもに対する悲しみと孤独へと変わっていった。釈迦が「この世は苦である」といったように(そういえば釈迦も幼少時に生みの母親と死別している。関係があるのかもしれない)、この地上世界というところは、本質的に悲しみであり、孤独なのだという根深い信念や価値観のようなものを宿すことになったのだ。このことをはっきりと自覚するようになったのは、高校生のときからであった。そして、この悲しみと孤独を癒してくれるものは、宗教の世界で言われている悟りだとか解脱、覚醒というものにあるらしいということがわかった。そのために、私はこの世界に入り、いつのまにかこの世界の研究家になってしまったのである。

 というわけで、私はもともと「厭世的」な思想が根本にある。だから、(私から言わせれば)明るくノー天気なスピリチュアル本(すべてとは言えないが)は、あまりにも軽薄に感じてついていくことはできなかった。「念じれば何でも夢のように叶うとか」、あるいは「引きよせ」の法則などといったものも嫌いだった。無意識の魂のレベルだと言われればそれまでだが、私は決してこのような人生を間違っても選択しようとは思わなかっただろう。その心の痛みはあまりにも強くてしつこすぎる。そのために、私は物心ついて以来、心のそこから幸せを感じたことはほとんどない。(「ほとんど」というのは、そのような体験も少しあったからで、その点については新著『悟りを開くためのヒント』)。

 昨年から、(3番目の)母の状態が悪化し入退院をしたり施設にあずけたり、またそのたびに(認知症からくると思われる)信じられない母の言動に傷ついたり、その他、さまざまなことがあり、おまけに両肩と両股関節の痛み(五十肩?)になって、心身ともに状態が悪くなったとき、あの幼少時代の悲しみと孤独感が胸に去来することが増えてきて、ますます厭世的な思いに憑かれて、死に憧れる気持ちが強くなってきた(実際に自殺しようという気はないが)。自殺の統計によれば、50代が一番多いらしい。原因はいろいろあるだろうが、もしかしたら、幼少期のトラウマが、この歳になると再現されるようになり、それに押しつぶされてしまうようになるのかもしれない。そういえば私も最近は、むかしのことをよく思い出すことが多くなったような気がする。

 また、私個人のことだけでなく、これまでカウンセラーや、その他の機会を通して、本当に私なんかよりも気の毒な人にたくさん接してきたことも、今の私の状態に拍車をかけたような気がする。やっと念願の子供が生まれたと思ったら自分が癌になって死んでしまうとか、愛する娘が病気で死んでしまう母親の苦悩だとか、そういうさまざまなクライアントさんにたくさん接してきたために、その当時はそれほど意識しなかったのだが、最近になって、世の中は何と残酷で容赦がないのだろうと思えるようになってきた。神という存在は、いるにはいるのだろうが、私たちのレベルで私たちが抱える苦悩の程度をさじ加減してくれる存在ではないのだということも、ひしひしと感じられ、それが今の私の絶望感につながっていることも確かだ。
 今回ようなブログは、人気がある明るく楽しいブログとはまったく反対の、気分を落ち込ませてしまうような悲観的でネガティブなものかもしれない。けれでも、私としては「悲観的」だとか「ネガティブ」といった主観的な価値観で書いたつもりはなく、あくまでもこの現実のありのまま、その真実を見続けてきた結果として書いたものであると考えている。

 もちろん、世の中には楽しいこともある。だが、楽しいことと、悲惨なことを天秤にかけるならば、私にはそれらが平衡を保つことはない。「一億円あげるから、あなたの両眼をください」と言われたら、あなたは両眼を差し出すだろうか?  人生には楽しいことや幸せを感じることがあることも事実だが、それ以上に悲惨な辛さがあるということは(個人差はあるが)事実なのではないだろうか。
 このような世の中は、ある種の学校であり、そこで魂は磨かれるのだと、主にスピリチュアルな考え方では述べられている。ならば、そういう人に尋ねたい。「あなたの成長のために、あなたの愛する子供が強姦に襲われて殺されてしまうことを選びますか?」と。ほとんどの人は、そんな選択などしないだろう。第一、その子供にとっては、父親の成長のためにそこまで悲惨な苦しみを経験することになる。私なら、自分の親の成長のために、自分がそこまで苦しい体験を引き受けたいとは思わないし、自分が親だったら、自分の成長のために子供をそこまで悲惨な目に遭わせようとも思わない。もしもそこまでして自分が成長したいというのなら、それはある種のエゴであり、成長とは逆行する行為ではないだろうか。
 そういうわけで、「成長するために地上に生まれてきた、その運命を自分で選んできた」という説には、全面的には賛成できない。確かに、そのような傾向もあるように思うことも事実だが、それだけではないと思うのだ。この世には、個人の思惑や自由意思を超えた、何か巨大な流れのようなものがあり、人はいやがうえでもその流れに身を任せて生きるしかない存在であるように思う。

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新刊のご案内

 皆様、ご無沙汰しております。
 今月、新しく本を出しましたので、ご紹介させていただきます。

                 『悟りを開くためのヒント』 (ナチュラルスピリット社)

 もちろん、私は悟りを開いたわけではないので、一応ハウツー的な構成で書かれてはいますが、私が悟りをめざしていろいろなことをした体験を通して、「たぶん、こうすれば悟りは開かれるのではないか?」という、文字通りヒントを与えるような内容となっています。よろしければ、ご覧になっていただければ幸いです。内容について詳しいことは、私のホームページをご覧ください。
 さて、この本には、私の母のことが書いてありますが、本には書いていない母のことについて、少し書いてみたいと思います。というのは、それが私の「覚醒(悟り)」に対するきっかけになっていると思うからです。なので、本を補足する意味で、もう少し詳しく書いてみたくなったのです。
 なお、これからご紹介する内容は、私のホームページの日記「独想録」から引用したものです。
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 現在の母は、私にとっては三番目の母である。つまり、いわゆる「生みの母」ではない。私が幼稚園の頃に父が再婚してやってきた人である。
 では、生みの母はどんな人だったかというと、私が20歳くらいのときに父から聞いた話をまとめると、次のような女性であった。
 母と出会う前、父は宮城県の田舎出身なのであるが、そこで大工の丁稚奉公をしていた。しかしそこでの生活が厳しかったため、家出同然のように東京にやってきて、そこで双眼鏡を組み立てる職人になった。単身田舎から出てきた若い父は、その寂しさもあって、いわゆるキャバレーに出入りするようになった。そこで一人のホステスと親しくなって結婚した。そのホステスの女性が、私の産みの母ということになる。
 ちなみに、自分の母がキャバレーのホステスであったという点については、特にこだわりはない。ホステスといえども恥じることのない職業であると私は思っている(ただしむかしは、このような職業は「日陰の職業」とされて軽蔑されていた。今でもこうした風俗関係に勤める女性を蔑視する傾向が社会に残っているようであるが)。
 しかし、父が言うには、この女性は売春もしていたらしい。また万引きなどもしていたというし、この女性の兄弟を見ると、他に3人の男兄弟がいたらしいのだが、そのうちの2人は暴走族であった(残りの1人は比較的まじめだったらしい)。当然、こうした女性との結婚は父からの親戚全員から猛反対されたが、父は強引に結婚してしまった。そうして、私が生まれたわけである。もっとも、父も父で、その交友関係はろくでもない人間ばかりだった。ちんぴらだとか、クルマでひき逃げして刑務所暮らしをしていたような人間が家に出入りしていた(だが、父の名誉のために言っておきたいが、晩年はある種の人格者のような感じになった)。私はそんな連中の一人から、小学校低学年くらいのときだったと思うが、からかうようにひどく屈辱的なことを長い時間言われ続け、子供なりに激しい憎悪の念にかられたことを、今なお覚えている。今は高級住宅街のある町として知られている東京の板橋区に暮らしていたが、当時はやくざやちんぴらが多くいたような、環境のよくない場所であった。
 父方の先祖は地味で学のない百姓ばかりで、大学にまで進学した人はいなかった。実際、私は父が読書している姿を一度も見たことがない。父の楽しみは、日曜大工、盆栽、テレビのサスペンスドラマを見ることくらいであった。ただし仕事はまじめにやっており、双眼鏡の組み立ての腕前はよかった)。
 こう考えると、私は環境的にも、血筋的にも、最低の遺伝的資質を受け継いでいることになる。そんな私が、後にそこそこの大学に進学し、クラシック音楽を聴いたり哲学などの読書を好む青年になったのを見て、父はしばしば「トンビがタカを生んだ」などと冗談交じりに言っていた。
 それはさておき、生みの母のことを20歳くらいのときに聞かされたとき、ホステスであるならまだしも、売春や万引きをしているような女性から生まれたと思うと、少なからずショックを受けた。「ああ、私はつまり、売春婦の子供ということか」と思い、自分という存在が汚らわしいもののように感じられた。
 結局、父と母の仲はうまくいかず、ケンカが絶えないようになった。そして離婚することになった。私は父に引き取られることになった。そのへんの経緯は本に書いてあるので省略したい。
 離婚してから、この女性(生みの母)は、二度と私に会いに来ることはなかった。自分の腹から生まれた子供に対して、そうさっぱりとクールに未練を断ち切れるものであろうか?と私は思った。もちろん、真相はわからない。本当は会いたかったのだが、何らかの事情で会えなかったのかもしれない。しかしとにかく、この生みの母親とは、もう二度と会うことはなかった。
 真相はわからないとしても、私の心は、まるで犬猫を捨てるような感じで、いとも簡単に母から「捨てられた」という感覚が芽生えた。父がまだ生きていたとき、この母親について尋ねようと思えばもっと詳しい事情を尋ねることもできたのだが、新しい母もいたので、家庭内では、生みの母親について話題にすることは、暗黙のタブーとなっていたのだ。なので、これ以上のことはわからない。
 とはいえ、母から見捨てられたことについては、(潜在意識ではわからないが)少なくとも自覚する限りでは、あまりトラウマを感じていはいない。また会いたいとも思わないし、かすかに記憶にある母の顔や想い出なども、思い出すといったことはほとんどなかった。ただ、離婚後、私は父方の田舎にあずけられたのだが、毎晩のように「お母さんがいない」と泣いていたようではあるが。
 その後、間もなくして、父は私を東京に連れ戻した。そして、貧しいおんぼろアパートの家には、二番目の母親がいた。結局、この母親とも1年くらいで別れることになるのだが、この別れは子供心にも非常に辛いものであった。生みの母と別れるよりも辛いものであった。
 これについては、次回、述べたいと思う。

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新刊のお知らせ

 皆様、ご無沙汰しております。
 今回は、新しい本を出版しましたので、お知らせさせていただきます。
 『カバラ・マインドシステム活用術』(学研パブリッシング)
 という本で、ユダヤの神秘主義カバラに伝わる「生命の樹」を土台にして、いかに霊性を進化させていくかという点に関して、エッセイ風に書き上げたものです。一部、このブログで書いた文章も載っています。皆様のご参考にしていただける内容になっていると思いますので、よろしければご覧になってください。
 詳しい内容は、私のホームページをご覧ください。→斉藤啓一のホームページ
 どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
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お知らせ


 今月、私は新しい本を出版いたしました。
『世にも奇妙な「偶然の一致」の秘密』(学研パブリッシング)
 という本です。題名をご覧いただければわかるように、偶然の一致(シンクロニシティ)について書いた本ですが、単に偶然の一致の話を集めたものではなく、偶然の一致はなぜ起こるのかについて、物理学、ニューサイエンス、心理学、スピリチュアルなどの知識を駆使して、私なりにその謎の解明に挑んだものです。
 私の研究によれば、偶然の一致は3つの法則によって成り立っています。
 ひとつは「引力の法則」で、これは「引き寄せの法則」として知られているものと一緒で、念じればそれが実現されるという原理に基づいたものです。
 二番目は「再現の法則」で、過去に何か出来事が起こると、それと似たような出来事が起こりやすくなるという法則です。いわゆる「二度あることは三度ある」と言われる現象です。
 三番目は「進化の法則」です。これは、このブログの読者にとってもっとも関係深いものと言えるかもしれませんが、私たちの生命(魂と言い換えてもよい)は、常に成長し進化しようとしています。それを促進させるためのシンクロニシティが起こるというものです。一般的には不運や苦難という形で生じることが多いのですが、そのような出来事が起こるのも「シンクロニシティ」であると考えているのです。
 興味をもたれた方は、ぜひ読んでくだされば幸いです。
 よろしくお願い申し上げます。

 →詳細はこちら

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