心の治癒と魂の覚醒

        

 聖フランチェスコと聖女クララ


 性とスピリチュアリティの問題に関連して、今回はアッシジの聖女クララについて考えてみたいと思います。
 クララは、あの清貧の聖者アッシジの聖フランチェスコの弟子であり、フランチェスコの命令で女子修道院を設立し、その院長として長い間修道女の教育に当たった人です。
 ここで注目したいのは、フランチェスコとクララの間に恋愛感情があったかどうか、ということです。クララが初めてフランチェスコに会い、彼の説教に感銘を受けたのが16歳のときでした。そのときフランチェスコは28歳です。歳は12歳離れていますが、クララにとって十分に恋愛対象になる相手です。
 もちろん、フランチェスコとクララの間には、現象的には何もありませんでした。フランチェスコにとってクララは弟子の一人であり、クララにとってフランチェスコは尊敬する師であり聖者で、少なくても記録に残されている限り、二人の間にロマンスめいたものはなかったようです。もちろん、その他の男性との間にもそういうことはなく、生涯純潔を通しました。
 しかし、16歳といえば思春期のまっただ中であり、少なくても普通の女の子であれば、よほど歳が離れた男性でない限り、相手がいかに聖者として知られている人物でも、多少なりとも恋愛感情が湧いてきても不思議ではありませんし、むしろ自然なことではないかと思うのです。
 ただ、修道女ということで弟子入りしたわけですから、そのような感情を持つことはゆるされません。そのため、そのような感情を持っていたとしても、彼女は否定し抑圧したでしょう。なにぶん、キリスト教の価値観では、性に関することは罪とみなされていたからです。
 ところが、30歳くらいのときかと思われますが、彼女が次のようなビジョン(夢?)を見たことを記録が伝えています。
「クララはあるとき霊的直観を受けたことを話した。その霊的直観の中で、クララは聖フランチェスコにお湯の入った洗面器に手拭きタオルを添えて届けたように思えた。クララははるか高い階段を登っていたが、まるで平地を歩くように速やかな足取りだった。聖フランチェスコのもとにたどりつくと、聖人は胸をはだけて、「さあ、お飲みなさい」とおっしゃった。(聖フランチェスコの乳首に口をつけて)クララが飲むと、聖人はもう一度吸うようにうながされた。クララがそうすると、その味はとても説明できないほど甘くて快いものだった。飲んだ後、ミルクの流れ出た乳首、というよりは胸の吸い口が、祝せられたクララの唇の間に残っていた。それを口の中から取り出して手に取って見ると、明るく輝く黄金のようで、まるで鏡のように何でも映していたとのことである。
                           (『初期の文書』一四四)

 この夢の解釈は、聖フランチェスコから何らかの霊的な恩恵を授かったことになっています。実際、その通りだと思います。フランチェスコの乳首を吸うという行為は、あくまでもシンボルということになるのでしょう。
 しかし、シンボルとしても、ここにはたぶんに性的な雰囲気が感じられないでしょうか。霊的な恩恵を授かるというのであれば、他のシンボルでもよかったはずです。聖フランチェスコの乳首を吸うというのは、あまりにも生々しすぎます。性を罪として厳しく禁じるキリスト教徒が見る夢とは思えないわけです。私はここに、フランチェスコに対するクララの性的な欲求が表現されているように思われるのです。
 この夢が実際、どのようなことを暗示していたのかはわかりませんが、私の勝手な、しかもひとつの解釈としては、これは「性愛の昇華」を物語っているのではないかと思うのです。
 つまり、フランチェスコの乳首を吸うというのは、まさにそのまま性行為のことであり、その結果、乳首が取れて口のなかから取り出すと、「明るく輝く黄金のような、まるで鏡のように何でも映すもの」を得たというのは、ある種の錬金術であり、性愛が「聖愛」へと変容することを暗示したものではないかと思うわけです。

 このような解釈をすると、キリスト教の関係者は憤慨されるかもしれませんが、性愛というものは、まさに聖愛(神の愛、博愛)に通じるものであり、それは否定されるべきものではなく、成長させるもの、昇華させるものだということです。
 前にも述べたかもしれませんが、性に対する過剰な禁欲主義や、性を罪や汚れとして否定する人たちは、がいして人間的な優しさや寛容さに欠けるところがあり、杓子定規に人を規則で縛ったり、善悪を厳しく責め立てる冷たいところがあったりするように思います。しかし、このような傾向には「愛」が感じられません。愛というものは、生命を生き生きさせ、生長させていくものです。もし「これをしたらダメ、あれをしたら罪だ」といって生命を萎縮させてしまうだけなら、それは本当の愛であるとは思えません。
 しかしクララには、人を生き生きさせる本当の愛がありました。
 それは、次のようなエピソードに端的に現れていると思います。
 修道女がやむを得ない用事があって街に出なければならないとき、普通は厳しい規則があり、視線を地面に向けておくとか、異性とは口をきかないといったことを守るように要求されるのですが、クララはそのような規則はいっさい作りませんでした。そのかわり、次のようなことを求めたのです。
「美しい木や花や茂みを見たら神を讃美することを忘れないように、そして人々と生き物を見たとき、常に神と神が万物を創造されたことを讃美するように」
                           (『初期の文書』一六九)。
 すべてのもの、すべての人に神を見るようにしなさいと、こう告げたわけです。ここにはすべてのもの、すべての人に対する愛が感じられます。これこそが真のキリスト教徒の、いえ、あらゆる宗教者の姿勢ではないでしょうか。

 私は、クララはフランチェスコに恋をしたところから、宗教の道が始まったと考えています。恋という感情には当然、性愛の欲求も入ってきます。しかし、それのどこが悪いのでしょう。彼女は熱烈な恋の感情を通して、それを聖なる愛にまで高めていったのです。逆にいえば、熱烈な恋の感情がなかったら、聖なる愛にまで高めていくことはできなかったかもしれないと思うのです。
 絶対とまではいえないかもしれませんが、異性を恋することを知らない人は、宗教的な理想の境地に至ることは難しいと思うのです。もちろん、異性に恋をすればそれだけで理想の境地に至るというわけではありません。人間的にも立派な(少なくても立派になろうと努めている)異性に熱烈な恋をし、そして自分もそんな異性にふさわしい立派な人間になろうと共に努力を重ねていく、そんな恋愛関係であれば、それはお互いを高い霊的次元にひっぱりあげてくれると思うのです(「クララははるか高い階段を登っていたが、まるで平地を歩くように速やかな足取りだった」)。
 なぜなら、結局のところ、覚醒とは神と一体となることですが、男も女もすべての人間はもともと神であり、神と一体になろうと努力している男(女)に熱烈な思慕を寄せることは、そのまま神と一体になるプロセスそのものとなるからです。むしろ、恋という強大な推進力によって、だらだらと瞑想しているよりも、はるかに早く霊的な世界に到達できる可能性さえあるように思うのです。

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性的禁欲は覚醒に必要か?

 
宗教や覚醒の修行をしている私たちにとって、一番気になるのは、覚醒のために禁欲、つまりセックスをしてはならないかどうか、ということだと思います。
 ヨーガでは、禁欲は戒律に入っていますし、キリスト教神秘主義は言うまでもなく、禁欲はもっとも大切なものとされます。ただし、禁欲の目的は、両者によって違いがあります。ヨーガの場合、禁欲は修行に専念するためとか、性的エネルギーを覚醒エネルギーに転換することが目的ですが、キリスト教神秘主義の場合、(少なくても表面上は)性行為は罪であり堕落といった道徳的な理由によるものです。

 こうした教えを見る限り、覚醒修行においてセックスは障害になるのかもしれません。
 ただ、前にも述べましたように、性の問題は多面的で複雑なので、そう簡単に肯定も否定もできない場合があると思うのです。
 たとえば、誰か愛する人とセックスをしたとしましょう。そうして精神的にも肉体的にもすばらしい愛の喜びに満たされたことで、それが純粋な「愛」に火をつける可能性も出てくると思います。すなわち、神に対する愛、すべての人々に対する愛です。そういう愛こそが、覚醒にとってもっとも重要な要素になることは言うまでもありません。
 そうなると、セックスは必ずしも覚醒の障害になるどころか、覚醒を促進させる要素になるとも言えるのではないでしょうか。あくまでも愛を伴っているという条件つきですが、そのようなセックスなら、中途半端に禁欲をするよりも、結果的には覚醒を促してくれる可能性もあるかもしれないわけです。

 また、セックスはしないが、そのために欲求不満になり、頭の中はセックスのことでいっぱいになっていたのでは、瞑想に集中することなどできないでしょう。精神的に不安定になってしまうこともあります。それならば、適度にセックスをして、瞑想に集中できるようになった方が、覚醒に寄与するという考え方もあるかもしれません。

 しかし逆の考え方をしますと、セックスの欲望は非常に強いものなので、それゆえに、性の欲望に耐え、それを支配するように努力するならば、覚醒にとっても、あるいは世俗的な生活にとっても、非常に強い精神力が養われるようになり、そのために覚醒修行がうまくいくという可能性もあるでしょう。
 こう考えてきますと、性の問題は、なかなか一筋縄ではいきません。

 さらにまた、もう少し大きな視野で考えますと、そもそもこの地上が存在している理由は何かという次元から考えてみる必要があるかと思うのですが、おそらくこの地上が存在する目的は、人間がそこでさまざまな経験をして欲望を満たし、あるいは欲望に絶望したり嫌悪を抱くようになって、地上の欲望を断ち切り、卒業していくことにあるのです。
 こうした目的のために、私たちの魂は、この地上に生まれる前に、計画を立てると言われています。ある魂は、お金に対する欲望から解放されるために、大金持ちになる人生を計画するとか、別の魂は性欲から解放されるために恋愛やセックスの経験をたくさんする人生を計画することがあるようなのです。そうして、欲望を味わい尽くすことで欲望に未練がなくなるようにさせているわけです。これが事実なら、気がすむだけセックスをしてみるというのも、長い目で見れば、覚醒に役に立つのかもしれません。

 ただ、こうした試みがうまくいくかというと、それは微妙かもしれません。
 実際にはいくらお金があっても満たされないし、いくらセックスをしても、これでいい、というところまでは、なかなか至らないのではないでしょうか。
 皆さんの中に、お金はもうたくさんだといって財産のほとんどを寄付した人、セックスはもうたくさんだといって完全な禁欲生活に入った人を、どのくらいご存じでしょうか? 世界中を見れば、そういう人もいるかもしれませんが、決して多くはないでしょう。仮に、そういう境地になれたとしても、もうその頃には高齢となり、そのため脳の機能が低下した理由によって、単に欲望中枢が低下したにすぎないのかもしれません。そうなってから覚醒の修行を始めるには、もう遅すぎるのではないかと思うわけです。

 いずれにしろ、セックスに対する欲望は非常に強いものがあり、多少のことくらいでは克服したり消したりすることは難しいと思います。そしておそらく、このことはむかしの修行者もよくわかっていたのでしょう。そのために、セックスをしながら覚醒する方法を考えたり、セックスそのものを覚醒の修行に利用しようということまで考えたりしたようです。これについては、機会をあらためてご紹介したいと思います。

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カルマの法則と性の罪(コメントに対する返事)

昨日のリョウナンダさんのコメント(性とスピリチュアリティ④)に返事を書いていたら、長くなってしまったのと、重要なテーマも含まれていると思いましたので、このブログでご返事させていただきたいと思います。

 繰り返し述べているように、こういう問題は数学とは違い、どれが事実かそうでないかを簡単に決めることはできないと思います。だから、私はいろいろな考え方があるのを認めますし、私もひとつの意見を述べたにすぎません。私の意見は正しいから従えというつもりはありません。

 ただ、リョウナンダさんの意見は、仏教その他の教えを土台に「こうだ」と決めつけている感じがあるように思います(そういう意図がないのだとしたら、すみません)。神の法といいますが、いったい誰がその神の法を説き、どういう理由でその神の法を正しいとしているのでしょうか? 安易に神の法を持ち出してそれが正しいと決めつけて論じることは、少し危険ではないかと私は思います。そういうことをすると、一部のキリスト教のように「同性愛者は罪深いので死後永遠に地獄に落ちて苦しむ」と主張し、同性愛の人たちに恐怖を与え脅かすようになってしまいます。リョウナンダさんの主張によれば、不倫をすると、来世 来来世とまた苦しみの人生を送らなければならないそうですが、しっかりとした根拠なくそうした言葉を述べるのは、もしその根拠が間違っていた場合、不倫をした人を恐怖させるという、悪いカルマを積むことになるかもしれません。
 また、ひとことで不倫といっても、その内容はさまざまです。その内容を検討することなく、すべて一緒に考えてしまうのは、少し乱暴のような気もいたします。
 たとえば裁判官は、犯罪者とその犯罪内容を慎重に検討し、ときには情状酌量して大幅に刑を軽くしたり、無罪にすることもあります。表面的なことだけを見て、すべて同じ罰を与えるようなことはしません。

 いずれにしろ、あきらかな事実かどうかわからない場合は、それを土台に人に恐怖を与えたり裁くようなことを断定的な調子で語るべきではない、というのが、私の考えです。

 また、私はカルマの法則も単純なものではないと思うのです。すなわち、もし不倫が社会的に認められる場合は、カルマの罪にならないのかと。 麻薬は悪いことですが、医療では鎮痛剤として認められています。それとも、社会的な決まりとは関係なく、不倫も麻薬もカルマの罪になるのでしょうか? だとすると、癌で苦しむ患者がいて、癌で苦しむのは前世のカルマだから耐えなければならない。麻薬をうつのは罪だからそんなことをしてはいけない、蒔いた種は刈り取らなければならないから苦しんで死になさい、ということになると思うのですが、いかがでしょう。もし社会で認められればカルマの罪にならないというのなら、極論ですが、殺人をしてもゆるされる社会になったら、殺人をしてもカルマの罪にはならないのでしょうか?
 こう考えると、カルマの法則といっても、実際にはあいまいで不備なところがあり、あちこちほころびが生じてくることがわかるのです。

 また、すべてをカルマの法則だけで片づけようとすると、人間はカルマの法則の流れにただ従うだけの存在であり、それを変えていくという、宿命を越えた可能性を否定してしまうような気がします。
 しかし、「転生の秘密」には、過去生で魔女を罰していたとする裁判官の生まれ変わりの男の子が夜尿症で悩んでいたが、母親の暗示で治ったと書いてあります。これが事実なら、まいた種は必ず刈り取らなければならないわけではないことがわかります。

 主婦の人が不倫はしないが、そのために鬱病になり自殺して、子供や家族に迷惑をかけてしまうかもしれません。それでも、不倫はダメだと杓子定規に教えを当てはめて裁くことが、果たしていいことなのでしょうか? そこに人間に対する愛があるでしょうか? まずは愛の気持ちをもって苦悩する人に接していくべきで、最初から理屈をもって裁いては人は救われないように、私は思います。

 不倫はするが、そのために元気になり、世の中に善い行為をしていくようになるという可能性もあります。いったいどちらがいいのでしょうか?
 もちろん、「不倫はしない、鬱病にもならない、たとえなっても自殺はしない、そして善いことをする」というのが理想でしょう。しかし、それができるくらいなら、人間はこうも苦しみのなかにはいないでしょう。年間3万人もの人が自殺などしていないでしょう。カルマの法則によれば、自殺は悪ということになるかと思いますが、そのことを知れば自殺者はいなくなるでしょうか?
人生というものは、そんなことは百も承知でありながら、理屈では解決できない、どうしようもない苦悩や状況にあって自殺するしかない、という人もいるのではないでしょうか?
 ある特定の教えを単純に当てはめただけでは解決できないような、複雑な問題を抱えているのが人間であり、人生であり、世の中というものではないでしょうか。
 だから、宗教家にしても、カウンセラーにしても、そういう苦悩にある生身の人間を前にして、どうしたらいいかと一緒に苦しみ悩むのです。ベストな道が無理ならベターな道を模索し、副作用はあるが全体として改善に向かうと判断したら、副作用があるからダメだと単純に捨てたりせず、副作用を覚悟で薬を投与することもあるわけです。

 単純な教えで物事が解決するようであれば、世の中に宗教家もカウンセラーも必要はないのではないでしょうか? 警察も裁判官も必要はないのではないでしょうか?
 人間というものは、教義や戒律や法律で救われるのではなく、当意即妙の智恵と深い愛による人間の「手作り」の導きによって救われるというのが、私の考えです。

性とスピリチュアリティ | コメント:33 | トラックバック:0 |

 性とスピリチュアリティ ④

 すでに繰り返し述べているように、性の問題は単純にあるべき方向を決めることはできません。その理由は、性は性の問題だけでなく、感情や霊性をも巻き込んでいるからです。
 たとえば、不倫をしている30代後半の主婦の悩みを聞いたことがあります。一般的には不倫をしているというだけで、世間からは悪者扱いされるでしょうし、離婚ということになり訴訟が起これば、法律的には不利な立場になるでしょう。
 しかし、その主婦の話を聞きますと、夫がDV(家庭内暴力)で、自分の気に入らないことがあると、すぐに主婦の顔を殴るというのです。そしてセックスも、自分の欲望を解消するために一方的に乱暴に行うだけで、愛情も何も感じられないというのです。そんなとき、たまたま彼女に優しく接してくれる男性に出会いました。そうして深い関係になったのですが、果たしてこの主婦を単純に不倫をしているということで悪者扱いし、責められるでしょうか?

 問題は、この女性は愛情に飢えていたということであり、性の欲望を野放しにして他の男をあさっていたわけではないということです(だとすれば責められて当然だと思いますが)。夫から暴力を受け、愛情もなくすさんで空しい気持ちに苦しんでいたとき、自分に優しくしてくれる男性に出会ったら、その男性から愛されたいと思わない女性はいるでしょうか? それでもなお、不倫はいけないといって責めるとしたら、それは愛なしで生きなさいということではないでしょうか。人は愛なしで人間らしく生きられるでしょうか?
 主婦はセックスがしたかったというより、愛情が欲しかっただけなのです。セックスはその愛情を感じるための手段にすぎなかったわけです。

 あるいは、夫との関係を良好にして仲良くしなさいとアドバイスするでしょうか?
 そのようなアドバイスを簡単にいう人は、人間の心というものがわかっていないのです。さんざん自分の顔を殴ってきた男性と、再び仲良くして愛情に満ちたセックスができるでしょうか? また、常習的に暴力を振るう男というものが、そんなに簡単に改心するでしょうか? 常習的に暴力を振るうのは、ひとつの精神的な病気なのです。専門家の治療を受けても改善されることは容易なことではありません。まして、ちょっとくらい夫婦で話し合っても、どうにかなる問題ではないのです。仮に暴力が収まるとしても、よぼよぼの老人になってからでしょう。それまでこの女性はじっと耐え続けなければならないのでしょうか?
 あるいはまた、離婚してしまえばいいと思われるかもしれません。しかし、さまざまな事情で簡単に離婚というわけにもいかないのが現実です。もし母子家庭にでもなって収入がなくなれば、子供を学校にもやれなくなってしまうかもしれません。子供のために、離婚したくてもじっと我慢している人が多いわけです。
 このような、暴力の屈辱と恐怖に耐え、愛情の飢餓に耐え続けられる人が、どれだけいるでしょうか? そんな生き方をしていたら、精神を病んでしまうか、ガンにでもなって倒れてしまうのではないでしょうか。そんな苦しみからいっときでも逃れたいと思って不倫をしている女性を、いったい誰が責めることができるでしょうか?

 心理カウンセラーとして、心身にさまざまな苦悩を抱えた人の相談に乗ってきた結果としていえることは、ほとんどの人が、究極的には愛の不足によって心身が病んでいるということです。心の病であれ、肉体の病であれ、若干の遺伝的な要素を除けば、もうほとんど愛の欠乏によって生じるといってもいいくらいです。
 そして人間というものは、肌の触れ合いを通して愛を実感するようにできているのです。言葉でも愛を実感することはできますが、スキンシップほど深い層には到達しません。その点、スキンシップはダイレクトに無意識のレベルから愛されている感覚を得ることができます。赤ちゃんなどはスキンシップを通して親の愛情を確認するのです。大人もそう変わりはありません。大人のスキンシップといえば、セックスのことですから、やや極論となりますが、心身が病んでいる人は、(愛情を感じる真の)セックスをしていないことが原因だといってもいいかもしれません。実際、恋人ができて鬱病や神経症などが治ってしまった人も少なからず見てきました。

 いいことか、よくないことかは別として、友達として親愛の情が湧いたら、独身であろうと既婚であろうと、また年齢などにもいっさいこだわらず、気楽にセックスをして愛情を交換することが普通のこととして認められるような社会であったら、おそらく今日ほど心身の病で苦しむ人や、自殺をする人はいなくなるような気がします。
 そんな社会ではふしだらな性が蔓延すると心配する人がいるかもしれませんが、おそらくそうはならないと思います。ふしだらな性とは、相手を自分の快楽を得るための道具として利用することです。愛情表現のために行うセックスは何もふしだらではありません。
 むしろ、女性をモノ扱いするアダルト・ビデオのようなものが氾濫している方がずっと害悪です。ああした不健全なアダルト・ビデオが氾濫するのは、愛情あるセックスが持てないため、アブノーマルなことをして刺激を強くしなければ、満たされない空虚感ができあがってしまっているからです。愛情あるセックスさえ行っていれば、あのようなものが世の中にあふれ出ることは、たぶんないでしょう。

 また、年齢にこだわる必要もありません。七十歳、八十歳になっても、セックスをすればいいのです。セックスというのは必ずしも性交を伴う必要はないわけで、裸で抱き合うだけでもいいのです。老人ホームなどで、よく老人が女性ヘルパーさんのお尻や胸などを触ったりすることがありますが、これなども、認知症の問題だけでなく、スキンシップを通して愛情が欲しいだけなのです。
 ただ、年齢にこだわる必要がないといっても、未成年者がやたらにセックスをするのはよくないと思います。まして、児童ポルノなどはとんでもない犯罪行為であり、絶対にゆるすわけにはいきません。未成年者がやたらにセックスをするのがなぜいけないかというと、セックスは愛情表現であるという意味がまだよく理解できないからです。その状態でセックスをしますと、セックスの快楽だけにのめり込んでしまう危険があるからです。ちょうど、サルの子供にマスターベーションを教えると、体力が消耗するまで繰り返してしまうのと似たようなことが生じる危険があるわけです。未成年者に性教育をするときには、同時に真の愛とは何かということも教えていかなければなりません。真の愛とは何かを学んでから、セックスをするように導いてあげるべきです。もっとも、このことは真の愛についてまったくわかっていない大人の人に対してもいえることではありますが。

 いずれにしろ、人間は愛がなければ生きていけず、その愛をもっとも深く実感できる手段が、地上においてはセックスなのです。ですから、セックスなしで生きることは、たいていの人にとっては辛い試練ともなり得るわけです。自分は愛されないのだという孤独感や空虚感を背負う可能性があるからです。もっとも、そのような試練は、覚醒にとって必要だから訪れたのかもしれませんが。
 覚醒修行により、内的な境地が高まれば、セックスの欲求の源流である高い次元の存在との交流が可能になりますから、肉体的なセックスへの欲求はなくなるかもしれませんが、それまでの間は、セックスがしたいと思うことは当然なことだと思いますし、その気持ちを無理に抑圧してはならないと思うのです。なぜなら、セックスがしたいという気持ちは、愛を求める気持ちを根源としており、愛を求める気持ちは、究極的には神を求める気持ちにつながっているからです。

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 性とスピリチュアリティ③

 前回の「性とスピリチュアリティ②」において、超意識と交流した人が、性に関して次のような啓示を得たことを紹介しました。
「超意識からの返事がかえってきました。それによれば、性愛は道徳心や人を助ける心、慈悲の心を培うものであり、人を結び付けて霊的な成長を助けるものであるというのです」
 この言葉が正しければ、性を否定したり抑圧することは、道徳心や人を助ける心、慈悲の心を否定し、霊的な成長を疎外してしまうということになります。
 実際、これは本当ではないかと思うのです。
 占い師だとか心理カウンセラーのようなことをやってきて、これまで恋愛や結婚の相談、セックスの相談、不倫の相談などたくさん受けてきました。そうした経験からいえることなのですが、がいして性的な欲求が強い人は、人間的な魅力が豊かであるということです。その理由はやはり、性の欲求というものが、根源的には生命エネルギーから来ていることと関係しているのかもしれません。
 不倫に関しても、単に自分の性的欲求を満たすために、配偶者だけでは満足せず、相手をモノ扱いして性の快楽をむさぼるようなものは醜悪としかいえませんが、たまたま好きになった人が既婚者だったとか、あるいは結婚していても他の異性が好きになってしまったといった場合の不倫については、そうした相談者を見てみると、意外にも人間として良識があり、礼儀正しく、また思いやりが深いことが多いのです。「不倫なんてする人は、ふしだらで悪い人間だ」といったイメージがあるかもしれませんが(最初にあげた醜悪な場合は別として)、私の知る限りでは、優しくて、思いやりがあるのです。とくに弱者に対して献身的であったり、よく世話などをしたりします。社会的な尊敬を受けているような人も少なくありません。これなどは、冒頭の超意識のメッセージの正しさを裏付けるものなのかもしれません。
 一方、「不倫なんてけしからん、セックスは恥ずべきものだ」といったような主張をする人にも会ってきましたが、そういう人の方がむしろ、良識がなかったり、礼儀を知らなかったり、また思いやりに欠けていることが多いように思われます

 もちろん、これは私の限定的な経験から得た結果であり、おおまかな傾向にすぎず、不倫をしている人がすべて善い人だとか、していない人が思いやりがないといっているわけでは決してありません。まして不倫を称賛しているわけではありませんが、経験的な事実として、こうした傾向が見られることは確かなのです。
 私の個人的な価値観でいえば、不倫はしないが冷たい人より、不倫はしても思いやりのある人の方が、天国に近いような気がします。もちろん、不倫はせず、なおかつ思いやりがあるというのがベストなのでしょうが、恋愛感情というものは理屈を超えているものですから、すべての人が聖人君子のようなわけにはいきません。むしろ、不倫になるからと簡単にその恋を諦めることができるようなら、それは最初から恋と呼べるようなものではなかったのではないでしょうか。

 浄土真宗の開祖である親鸞は、当時としては異例の妻帯者であり、しかもその上、妻以外の複数の女性とも性的な関係があったようです。そうした欲情を捨てられない自分について、親鸞はずいぶん苦悩したようですが、あるとき、夢のなかに女性の仏だったか菩薩が現れて「私があなたの(セックスの)相手をしましょう」と告げたそうです。そのとき以来、親鸞は何かふっきれたものがあったとされていますが、親鸞の持つ温かい人間愛といったものは、こうした性の欲求と苦悩を通して練り上げられたものではないかという気がいたします。
 一方、一休さんなども、正々堂々と「わしは女が大好きじゃ」といって、盲目の女性を愛しました。そんな“女好き”の一休さんは、常に弱者の味方であり、正義感と思いやりの強い魅力的な僧でした。
 以上のように考えてきますと、性は汚らわしく罪だとして、それを否定したり抑圧することは、間違っているように思います。もちろんだからといって、性の欲望を暴走させてしまってもいけないでしょう。
 では、覚醒を歩む私たちは、性の問題について、どのように向き合っていけばいいのでしょうか?

 性とスピリチュアリティ①でも申し上げたように、問題はそこに愛があるかどうかだと思うのです。愛があるセックスを行い、セックスが愛の表現手段であるならば、それはまさに魂の融合の相似形であり、決して堕落させるものになるとは思えません(ただし男性の場合、精液の消費は生命エネルギーを消費させることにつながるようなので、この点は注意した方がいいようです。この問題についてはあらためて触れたいと思います)。堕落するどころか、霊的な成長を促進させてくれるのではないかとも思います。
 クリシュナムルティ(インドの思想家)は、「愛があれば、何をやってもゆるされる」といいました。あらゆることに懐疑的で、理知的な彼の口からこういう言葉が出てくるのは意外に思われるのですが、そうなのかもしれません。

 愛は所有欲ではありません。不倫や浮気が社会的に責められる原因は、ひとつにはそういうことをすると社会的な混乱を招くからですが、心理的には所有欲から来ているように思われます。嫉妬や妬みというのは、所有欲の産物です。カウンセラーをしていてひとつ気づいたことは、所有欲や嫉妬の強い人は、夫婦関係もうまくいっていないことが多いということです。たとえば、何年も前の夫の浮気を、いまだにゆるせず事あるごとに責める妻がいたりするわけです。そういう夫婦は冷たく、家庭も冷たくなるので、子供が病んでいたりします。一方、お互いに「ちょっとくらい浮気したっていいんじゃない」くらいに思っている夫婦の方が、かえって仲良くうまくいっていることが多かったりするのです。
 もちろん、これも私の限定的な経験から得たもので、普遍的な事実とまでいえるかどうかはわかりませんが、ただいえることは、嫉妬と愛は決して同居しないということです。

 とはいえ、だからといって、むかしアメリカで流行ったような、「フリーセックス」運動だとか、セックスはスピリチュアルなものだから信者同士は自由にセックスをしてもいいといった宗教団体があるようですが、そういったものは好ましいとは思いません。そこまで野放しにすると、あり地獄のように、性の欲望に引きずり込まれてしまう危険があります。スピリチュアルという免罪符によって自分をごまかし、肉欲に溺れてしまいかねません。極端はよくありません。性を否定しても、性にのめり込んでもいけないと思うのです。

 人生というものは、どのようなものが霊的成長の学びになるかわかりません。恋愛もセックスも、相手の存在を魂の深みから愛する気持ちで臨むならば、霊的成長のために役立ち、天の配慮も手伝って、そういう機会が訪れるのではないかと思うのです。そうしたら、その運命をありがたく素直に受け取ってセックスをすればいいし、そういう相手と縁が訪れなければ、それはその方が霊的成長にとってふさわしいのだと思って、たとえ寂しくても、同じように素直に受け入れていくことが大切ではないかと思うのです。


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