心の治癒と魂の覚醒

        

正直に道を歩む

 「裸の王様」という、誰もが知っているお話があります。詐欺師の仕立て屋から「馬鹿には見えない布」で作られた服だと言われ、王様がそれを着たつもりで街を歩きます。王様も民衆も自分が馬鹿だと思われたくないために見えるふりをしますが、ひとりの子供が「王様は裸だ!」と叫んだことで、自分たちはだまされていたことに気づくというストーリーです。
 この話はとても教訓的で、あらゆる状況に当てはまるものと思いますが、とりわけ宗教の世界にはよく当てはまるのではないかと思います。
 宗教の世界でよく言われるのは、「(この教えのすばらしさは)信仰の薄い者には理解できない」という言葉です。信者たちは、自分の信仰が薄いと思われたくないし、思いたくないので、教えに対して疑問があっても、疑問がないふりをし、この教えはすばらしいと信じ込もうとするのです。
 このような、言いたいことがいえない、ある種の「言論弾圧」がまかり通ると、創造性というものが失われてしまいます。
 どのような分野であれ、創造性なくして進歩はありません。進歩とは創造性によってもたらされます。創造とは、新しいものを生み出すことですから、当然、古いものは否定されます。古いものが否定されなければ創造はできません。
 しかし宗教においては、古いものを否定することはタブーなのです。教祖の語ったことを否定することはタブーです。もしそれをすると、その宗教の根幹を揺るがすことになるからです。組織は崩壊し、組織に依存していた人たちは困ることになります。
 そのために、何百年も何千年も前に生まれた宗教を、ほとんどそのまま信じ込んでいるわけです。つまり、進歩がないということです。
 ここにはまた、「教祖の語ったことは完璧だから、これ以上、進歩する余地はない」という考えがあるのかもしれません。
 しかし、世の中に最初から完璧なものなど、存在するでしょうか?
 最初に限らず、完璧なものなど、存在するでしょうか?
 地上のすべてのものは、進化していく存在だと思います。あらゆる生きものも、科学も文明も、すべてが進化の途上にあります。永遠に進化し続けていくのです。永遠に進化し続けていくということは、永遠に未完成ということです。完璧な状態は存在しないということです。
 生命というものは進化し続ける存在です。進化しないとしたら死んだ状態です。宗教も同じように、進化しないとしたら、それは死んだ宗教であり、死んだ宗教に人を救う力があるとは思えません。
 そもそも人間そのものが進化しているのですから、宗教もそれに応じて進化していくべきではないかと思うのですが、あいかわらず古い宗教を信じているのです。

 たとえば、「雷は神が怒っている証拠であり、神の怒りを静めるために動物を生け贄に捧げなければならない」といった宗教は、太古にあったようですし、今でも未開の地ではこうした宗教を信じている人々がいるかもしれませんが、文明社会に生きる現代の私たちから見れば、あまりにも原始的で幼稚であり、宗教というより迷信のように思われるはずです。
 雷の正体は、大昔はわからなかったので、あのものすごい音と光に接すれば、「神の怒り」のように思えても仕方がなかったのでしょう。しかし科学が進歩して雷の正体が静電気の大きなものに過ぎないことがわかっている私たちは、「神の怒り」などとは思っていません。そのようなことを説く宗教はありませんし、あったとしても馬鹿馬鹿しくて誰も信じないでしょう。
 ところが、仮に国民の大部分がこの宗教を信じていて、政治や経済に大きな影響を与え、この宗教の教えに反することを口にしている人を迫害するとしたら、どうでしょうか?
 おそらく、ほとんどの人は、怖くて反抗できないでしょう。内心は疑問を抱きながらも、それを打ち消すかのように、信じているふりをするでしょう。「雷の正体は電気だ」と提唱する科学者がいたら、その地位を奪われ、社会から葬り去られるでしょう。
 しかし、これと同じようなことは、宗教の世界で実際に起こってきたのです。
 たとえば、キリスト教では、ご存知のように天動説を主張し、地動説を認めていませんでした。地動説を唱えたガリレオは宗教裁判にかけられて迫害されました。結局、正式にキリスト教会が自分たちの天動説が誤りでガリレオの地動説が正しかったことを認めたのは、何と1992年なのです。さすがに、いくら熱心なキリスト教徒でも、天動説を信じている人はいなかったでしょう。その人たちは自分を欺いていたのでしょうか?
 天が動こうか地が動こうが、そんなことはキリスト教(イエス)の教えにとってどうでもいいことではないでしょうか。そんなくだらないことのために、火あぶりにあって殺された人がいたのです。それが、「愛の宗教」を自認するキリスト教のやることなのでしょうか?
 地動説を認めたことは、ひとつの進化と言えるかもしれませんが、ガリレオの時代から四百年近くもたってから、しかも、しぶしぶ仕方がなく、といった感じですから、とても自ら進化しようという意志がないことは明白です。

 地動説の場合は、数学や物理という、誰が見ても否定しようがないエビデンスをつきつけられたわけですから、反論のしようがありませんでしたが、その他の大部分は、実証できないものばかりです。たとえば、「イエスは神の一人子であり、イエスが人類の罪を代わりに背負ってくれた」と言われますが、それを実証することはできないでしょう。肯定も否定もできないわけです。
 あるいは、日蓮宗では「南無妙法蓮華経」と唱えれば救われると説き、「南無阿弥陀仏」を唱えると地獄に堕ちると主張しています。しかし、それを実証する手段はありません。経典に書かれてある文言を根拠にしても、その経典そのものが真実かどうか実証できないのですから、意味がありません。結局、地獄に堕ちるかもしれませんし、堕ちないかもしれない。わからないのです。
 そうなると、結局のところ、それをどう判断するかは、自分自身にかかっていることになります。自分はどう考えるかということが、もっとも重要ではないかと思うのです。
 一番いけないのは、本心では疑念を抱いていながら、でも長い伝統もあるしたくさんの人が信じているからという、ある種の「権威」に惑わされて、信じているふりをすることです。
 いうまでもなく、信じているふりでは、本当に信じていることになりませんから、その信仰には意味がなく、やらないほうがましです。
 もちろん、自分の疑念が間違いである可能性もあります。しかし、間違いだとわかったら改めればよいだけのことです。そうすれば、しだいに本物に近づいていくでしょう。しかし、信じているふりをしている限り、本物に近づいていくことはありません。
 裸の王様の物語も、大人たちが権威だとか、自分の虚栄心(エゴ)に弱くてだまされやすいということを突いているのだと思います。王様が裸であると言えば、自分が馬鹿であることを表明することになるし、同時に、王様がだまされていることを指摘することになります。つまり、だまされるほど王様は馬鹿だと言っていることになります。権威ある人を「馬鹿だ」などと言えません。しかし、子供はそうした権威にとらわれていませんから、自分に正直になって、自分に見えたものをそのまま口にしたのです。私たちは、この子供の正直さを見習うべきだと思います。求道者というものは、正直でなければならないと思うのです。

 繰り返しますが、権威にとらわれてはいけません。もともと宗教に権威などは必要ないと思うのですが、権威がないと人が集まらないのでしょう。そのことをよくわかっているので、宗教の世界でも権威を利用しようとするのです。
 宗教組織に限らず、たとえば巷では、覚者を名乗る人たちがいます。そして、自分はヒマラヤで修行したとか、偉い聖者の弟子だとか、前世は偉大な聖者だったとか、インド政府から聖者として認められたとか、多くの弟子に囲まれているとか、とにかく「すごいなあ」と思わせるような、さまざまな権威づけをしています。
 そうした権威を知ってから、その「覚者」の話を聞くと、内容的にはまったくつまらないものであったとしても、何となくありがたく、すばらしいものに聞こえたりするものです。
 ですから、そうした人たちの話を聞きに行く際には、まず権威という背景を頭から追い出して、先入観のないまっさらな心で聞くことを勧めます。むしろ、「そのへんにいるおじさんの話」くらいに思っているくらいでよいかと思います。
 そして、それにもかかわらず、その話に感銘を受け、心に響くものを感じたならば、その人は確かに「覚者」の可能性があるのかもしれません。少なくともあなたにとっては、教えを受ける価値がある可能性があります。
 とはいえ、それでも道を歩む主体はあなた自身です。人の言いなりではなく、自分自身で舵を取っていかなければなりません。そのためには、権威に惑わされず、自分に正直になって、違うと思うなら違うと思うと、はっきり言えるようでなければなりません。そうしてこそ、創造性がそこに生まれ、あなたの宗教(信仰)は進化していきます。真理に近づいていきます。
 そのような姿勢は、宗教組織からは敬遠され排除されることになるかもしれません。異論をはさまず伝統的な教えをみんな同じく共有する(盲従する)ことを強要しているからです。
 しかし、真の霊性向上は、こうした、ある種のマスプロ教育などでは達成できません。ひとりひとりが創造性を発揮して、「自分だけの宗教」を見出さなければならないのです。人間の数だけ宗教の数があるのです。真の宗教とは、基本的に「オーダーメイド」なのです。自分で、自分の宗教を創り上げていかなければならないのです。
 ですから、宗教の本来の目的である霊性の向上と真理を求めようとするならば、つまり、本当に宗教の道を歩もうとするならば、必然的に、孤独な道を歩むことになるでしょう。


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「いい加減」な日本人

  前回は、少し「いい加減」なところがある宗教者の方が、愛の実践をはじめ、より宗教者らしいという話をしました。
 その点では、まさに日本ほど宗教に対して「いい加減」な国は珍しいと思います。
 たとえば、結婚式は教会であげ(キリスト教)、新年になれば神社にお参りに行き(神道)、お葬式はお寺で行う(仏教)といった感じです。私など、父から「うちは真言宗だぞ」と聞かされていたのですが、父の実家に行ったときお墓参りをしたら、曹洞宗でした(笑)。父が死んだときは日蓮宗で葬儀を行い、義理の父母は浄土宗で葬儀を行いました。
  こうしたことは、海外の人からは信じられないようです。確かに、クリスチャンがイスラム寺院で礼拝をしたりとか、そういうことは聞いたことがありません。ただ、クリスチャンが禅を学んだりすることはあるようです。しかしそれはあくまでも参考であって、アイデンティティとしては、クリスチャンであることに変わりはないでしょう。
 その点、日本では、特定の宗教を信仰している人をのぞいて、「自分は○○教徒だ」と明言することはほとんどありません。ある意味では無宗教と言えるわけですが、無神論者というわけでもないわけです。
 しかし海外では、無宗教というのは、ほとんど無神論者とみなされます。
 日本では、無神論者と宣言しても、ただ神の存在を信じないというだけですが、海外で「自分は無神論者だ」と言うと、やや大げさですが、「自分はならず者である」と宣言しているのと同じように見なされるのです。つまり、神を信じていない人は悪人である、控えめに言っても「モラルが低い人」ということを意味してしまうのです。

 では、私たち日本人は悪人でしょうか? モラルが低いでしょうか?
 犯罪率を見れば、そのことが一目瞭然です。ご存知のように、日本は世界的に見て異例なほど低い犯罪率を誇っています。もちろん、悪質な犯罪も頻繁に見られますが、それでも外国と比べればダントツに低いわけです。
 では、モラルはどうでしょうか?
 外国の人が日本に滞在して驚くことのひとつに、「落し物が返ってくる」ことがあります。街や電車などでお金が入った財布を無くしても、およそ七割の確率で落とし主のもとに戻ってくるのです。財布を見つけた人が交番や駅の係員に持っていくからですが、こうしたことは、他のどの国でもあり得ないことです。私たち日本人としては、別に当たり前のことだと思っていますが、外国人には「奇跡」と映るようです。
 他にも、日本人のモラルの高さは、あらゆる面で世界中の人から賞賛されています。日本人は悪人でモラルが低いどころか、きわめて高い道徳レベルを持ち合わせているのです。しかも、当たり前のこととして実践しているのです。別に自国を自画自賛するつもりはありませんが、そうした日本人のすばらしさは素直に認めてもいいと思います。
 そして、世界中をもっとも驚かせているのが、日本人の冷静さです。
 たとえば、阪神淡路大震災や東日本大震災のとき、あれほどの大惨事であるにもかかわらず、暴動も起きずに、物資の供給に際してはきちんと列を保って順番を待ちました。
 これも私たち日本人としては、当たり前のことであり、特に賞賛されるほどのことではないと考えるのですが、海外の人からは驚きの目で見られたのです。実際、海外でこんな災害が起こったら、暴動が起きて、スーパーなどは破壊されて略奪が起きます。
 こうした冷静さは、不動心と勇敢さがなければ発揮できないものです。不動心や冷静さは、深い信仰心を持っている人の特徴です。

 このような日本人を見た、イスラム教のある偉い人は、こんな言葉を残しています。 
  「日本人はイスラム教徒ではないのに、イスラム教徒よりもイスラム教徒だ」
 イスラム教は、慈愛、正義、節度、助け合いの精神を土台としています。確かに、私たち日本人の生き方と共通するものを感じます。またキリスト教徒からも、同じように「日本人は理想的なキリスト教徒だ」という声が聞かれたりします。
  日本という国は、イスラム教でもキリスト教でもないのに、イスラム教的でありキリスト教的だというのです。おそらく、さらには仏教的であると言っても間違いではないでしょう。
 つまり、一見すると無宗教に見える私たち日本人は、実は非常に宗教的な民族であるということなのです。もちろん、上記のようなすぐれた日本人の特性は、文化や伝統や教育といった、他の要素によっても形成されてきたと思いますから、宗教的な面だけで解釈できるわけではありませんが、それでもやはり、宗教に対する向き合い方が正しいので、すぐれた特性を発揮しているのではないかと思うのです。
 結婚式や初詣や葬式など、状況によって違う宗教を採用する「いい加減」な民族が、なぜ宗教的だと賞賛されるのでしょうか?
 それはまさに、その「いい加減さ」にあるわけです。
 「いい加減」というのは、もちろん言葉のあやで、形式にとらわれず宗教の本質である精神性を体現しているということです。こうした日本人の宗教性を、確か禅の大家であった鈴木大拙は「日本的霊性」という言葉で表現していたように思います。

 言うまでもなく、宗教の本質は理屈ではなく、その精神と生き方にこそあるわけですから、その精神と生き方が宗教的であれば、教義などの理屈は、どうだっていいのです。教義というものは、精神や生き方を宗教的にさせるための手段に過ぎません。教義そのものが目的ではないのです。
 ところが、外国の宗教は、あまりにも教義や形式にこだわりすぎるために、本質がおろそかになってしまうのです。知識を学び教義を守っているだけで、まるで精神や生き方まで宗教的になったような錯覚を起こしてしまうのです。つまり、手段と目的が逆になっているのです。
 「イエスを信じる者のみが救われる」だとか「アラーの他に神はなし」などと言うのは、その文面通りに受け入れてはいけないのです。「イエスを信じる者のみが救われる」という真意は、私の解釈では「内なる神性を信じる者のみが救われる」ということであり、「アラーの他に神はなし」というのも、「アラー」とは内なる神性のことであると思っています。なぜなら、神性はすべての人間に宿っており、すべての人間に宿っている存在こそが神ではないかと思うからです。
 
  「アラーの他に神はなし」という教えをそのまま解釈すれば、「エホバ」と呼ばれるユダヤ教の神は神ではないことになります。日本の天照大神(あまてらすおおみかみ)も、神ではなくなってしまいます。
 このような「言葉遊び」はナンセンスです。こんなくだらないことで宗教どうしが争ったり殺しあっているなど、もうたくさんです。こんな人類のありさまを、進化した宇宙人が見たら、そのあまりにも低次元の馬鹿馬鹿しさに、あきれ果てるのではないかと思います。
 教義にとらわれている限り、世界から戦争はなくなりません。
 世界を平和にするには、「いい加減」でなければならないのです。
 その意味で日本は、世界を平和に導く可能性を秘めた国と言えるかもしれません。

 
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真の宗教

 イギリスでまたしてもテロが起きました。八歳の女の子をはじめとして、二十人以上もの罪のない人々が犠牲になりました。イスラム国が犯行声明を出しています。
 テロというと、かつては政治権力などの弾圧を受けた人が、それに対抗するために行う非常手段でした。しかしイスラム国の場合、それとは少し違っています。彼らの目的は、この世界すべてを、彼らの信じるイスラム教で支配することです。
 ここで見過ごしてはならないのは、「彼らの信じるイスラム教」ということです。つまり、自分たちの宗派を押し付けているのです。そのため、同じイスラム教でも違う宗派のイスラム教徒を殺しています。
 イスラム教に限らず、キリスト教でも仏教でも、そのなかにさまざまな宗派ができて争いあっています。最初はひとつの宗教であったものが、内部分裂して「内ゲバ」を起こしているのです。宗教が宗派に分裂し、さらにその宗派がさらに分裂していたりするわけです。仏教の場合、禅宗だとか真言宗だとか浄土宗だとか日蓮宗といった宗派に分裂し、さらにそれぞれの宗派のなかで小さな宗派に分裂しています。
 したがって、仮にイスラム国が、彼らの信じるイスラム教で世界を支配し、世界中の人が彼らの信じるイスラム教徒になったとしても、テロはなくならないでしょう。いずれ内部分裂して、それぞれが「自分たちの教えこそ唯一正しい」などと主張し、争うようになるでしょう。そうして同じようにテロが起きるでしょう。

 宗教というものは、程度の差はあれ、独善主義に陥ります。そのはなはだしいものが原理主義ですが、他宗教への寛容を説く宗教でも、本音を言えば、他宗教の存在など認めたくないのです。まして、他宗教が勢力を増してどんどん信者を増やしていくようなことが起きれば、穏やかではいられません。争いが起こることになるでしょう。
 イスラム国の信者は、「神は自分たちが信じるイスラム教を世に広めることを望んでいる。そのためには、罪のない人々、子供であっても殺してもかまわない。それが神の御心にかなうことなのだ」と考えているのでしょう。自分たちは神の名のもとに正義を行い、愛を行っているのだと思っているのでしょう。宗教がもたらす独善主義のなりの果てです。
 しかし、「教えを広めるためなら子供を殺してもよい」などと、そんなことを神が言うなどと、どうして信じられるのか、不思議でなりません。それだけ洗脳されているということなのでしょうが、オウム真理教も同じでした。自分たちの教えを否定する弁護士、さらにその妻と子供まで殺害しました。サリンをまいて、罪のない人々を殺しました。

 世の中には、宗派の数だけ神(仏)が存在しているのです。そのうち、ひとつの宗派だけの神が真実で、他はすべてニセモノなのでしょうか?
 そうは思えません。すべてがニセモノなのです。自分たちが勝手に作り上げた幻想であり、妄想の産物なのです。
 神も宗教も、人間のエゴが勝手に作り出した幻想なのです。
 「教えを広めるためなら罪のない人をいくら殺してもよい」などと言う神は幻想であり、「苦しいときは必ず助けてやる」という神も幻想です。守護霊というものも存在しないと私は思っています。なぜなら、実際に私たちは守護されていないからです。テロの犠牲になった八歳の女の子の守護霊は何をしていたのでしょうか? 守ってあげられなかったではありませんか。
 このように言うと、「いや、過去生のカルマを解消させるために、守護霊は犠牲になることを認めたからそうなったのだ。その方がよかったのだ」と言う人がいます。
 しかし、「守護霊はあなたを守っている」などと言っておきながら、いざ悲惨な状態になると「それはカルマの解消だ」などと言うのは、ある種の二枚舌であり、「後づけ解釈」としか思えません。狡猾さを感じます。どのみちカルマの解消が優先されるのだったら、「守護霊はあなたを守っている」などと言うべきではないでしょう。人をだますことになります。仮にそのような霊が存在するとしたら、それは「守護霊」ではなく、「カルマ解消の推奨者」と呼んだ方がふさわしいと思います。守護霊などは存在していないのです(霊的な直感として守護霊の存在を感じることがありますが、それにはカラクリがあるのです。これについては別の機会で説明することにします)。

 しかし今度は、見方を180度変えて考察してみたいと思います。
 すると、神や仏や守護霊は存在することになります。宗教も幻想の産物ではありません。
 どういうことかと言いますと、私たち人間が「神」を感じるときというのは、おそらく二つあると思います。ひとつは大自然の摂理を観察したときです。そこには人間を超えた偉大なる支配者のような存在を直感的に感じます。人間はそれを「神」という言葉で表現したのです。ただし、その「神」は、いわば宇宙の法則のような神で、苦しいときに人間を救ってくれるような人格神ではありません。
 もうひとつは、人間の愛に触れたときです。このとき私たちは、何か偉大で崇高な、またあたたかくてすばらしい存在を直感的に感じるのです。そしてそれを「神」だとか「仏」だとか「守護霊」という言葉で表現したのです。その「神」は、苦しいときに救ってくれる人格神です。通常、私たちが思いをはせている神です。
 つまり、神というのは、自然の摂理のことであり、愛のことなのです。自然の摂理に接し、愛に接したときに、私たちは神の存在をダイレクトな直感として感じるのです。
 ところが、そのダイレクトな直感に、神という名称をつけ、知的なアプローチによって認識した瞬間、もう神は存在しなくなるのです。まして、複雑な教義や教学などを構築したら、そこには神のかけらも存在しません。そこに存在するのは、知性(エゴ)が勝手に作り上げた幻想であり妄想です。

 信仰に熱心な人ほど、こうした教義を堅く信じ、戒律などを守ろうとします。しかし皮肉なことに、そのように熱心になればなるほど、神は遠くへ去ってしまいます。
 アメリカのすぐれた社会学者であったピティリム・ソローキンは、どのような人が無私の愛の行為をしたかという、統計的な調査と分析を行いました。対象となったのはアメリカ、すなわちキリスト教の国でしたが、驚くべき結果が出たのです。予想では、熱心なキリスト教徒ほど無私の愛を実践し、無神論者はそういう行為はしないと思われましたが、実際には、熱心なキリスト教徒ほど愛の行いをしなかった、無神論者の方が愛の行いをしたという結果が出たのです。愛の実践をした大多数の人は、いちおうキリスト教徒ではあるが、教義や戒律を堅く守っているわけではなく、ある意味で少し「いい加減」なところがある人たちでした。
 これと似たような話は、けっこう耳にします。仏教の世界でも同じです。おなじみの禅僧、一休さんなどは、飢餓に苦しむ民衆が禅宗よりも浄土真宗によって救われていることを知り、あっけないくらい浄土真宗に改宗してしまいました。禅宗の関係者からは大ひんしゅくを買いましたが、一休にとっては、宗教や宗派などより、人を救うことの方が重要だったのです(もっとも、禅の根本思想は「なにものにもとらわれない」ということなので、禅という宗派そのものにもとらわれなかった一休は、真の禅者だったとも言えるわけですが)。
 ちなみに一休は破戒僧として有名でした。肉を食い女を抱きました。親鸞なども破戒僧でした。妻帯し女を抱きました。しかしこの二人は、民衆と苦悩をわかちあった愛の実践者として卓越していました。
 皮肉なことに、「いい加減」な宗教者こそが、実は真の宗教者の可能性があるということです。「いい加減」というと表現が悪いですが、要は「とらわれない」ということだと思います。

 このように、自然の摂理と人の愛に感応し、自然の摂理のまま生きる人、そして愛を実践して生きる人こそが、真に神を知る真の宗教者なのです。いわゆる無神論者と呼ばれる人であっても、愛の生き方をしている人であれば、神を知っている宗教者なのです。いくら神や教義に詳しくても、愛の実践をしない人は、宗教者とは呼べません。いくら口先だけ神を説いても、まったく布教にはなっていません。本当の布教とは、愛を実践することです。なぜなら、人はそのときにこそ神を感じるからです。たとえ「神」という言葉は浮かばなくても、むしろ、浮かばないからこそ、本当の意味で神を認識するのです。
 宗教というのも、自然の摂理にしたがって生きること、愛を実践して生きることだと考えます。それを「宗教」と呼んで知的に理解しようとしたとき、教義などを構築したとき、宗教ではなくなってしまうのです。愛こそが宗教なのです。
 そのようなことを理解した、真の宗教者であれば、独善的になりようがありません。テロなど起こるはずがないのです。
 全人類が、「宗教」という妄想から完全に解脱しない限り、いつまでもテロはなくならず、人類が平和になることは難しいと思います。言い方を換えれば、人類が真の「宗教」にめざめなければならないということです。

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神は存在するか?

 東日本大震災が起こったとき、原発事故による放射能が私の住む関東地方にも微量ながら流れてきました。そのとき、地震が起こる直前に関東地方から九州に引っ越した知人がいて、その知人から次のようなメールを受け取りました。
「危ないところで助かりました。神様って本当にいるんですね」
 それを見て、神が存在するかどうかという考えは、個人の狭い主観に基づいているのだなあと感じました。彼は、彼の言う神のおかげで助かったのでしょうが、関東地方に住む私は、ましてや東北に住んで被災された方たちにとっては、神は存在しないことになります。
 神はいると信じる人もいれば、いないと信じる人もいます。神を信じている人は、人生が恵まれていたり、あるいは苦難に遭遇したときに助かったといった経験を持っているのでしょう。そのために、「人間を苦しみから助けてくれる神は存在する」という信念を持ったのだと思います。
 しかし、それはあくまでも自分だけの限られた経験での尺度から導かれたものに過ぎません。本当にこの世に神が存在するかどうかは、世界中の人々を広く見渡し、そのなかでも、もっとも悲惨な境遇に見舞われている人を尺度として考えなければならないと思うのです。なぜなら、そのような悲惨な出来事は現実に起こっていることであり、そのような悲惨さは、誰もが経験することになってもおかしくないからです。いくら神に祈っても苦しみから救われない人だっているわけです。震災で亡くなった人たちは、「神様、助けてください」と祈らなかったのでしょうか? そうは思えません。おそらく、たくさんの人がそう祈ったと思います。けれども、助かりませんでした。それが現実なのです。私たちは現実という尺度から神は存在するかどうかを考えていかなければならないのです。
 冒頭で紹介した知人は、もし九州に転居せず、それどころか東北地方に転居して家族全員を失うという悲惨な経験をしたとしたら、どうでしょうか。果たしてそれでも「神は存在する」という考えを持ち得たでしょうか?
 このように、神は存在するかどうかについては、個人の狭い経験からではなく、広く世界を見渡し、そのなかでも、もっとも悲惨な人の体験を尺度にして結論づけなければならないと思うのです。

 私は、先日シリアで起こった化学兵器の攻撃によって、たくさんの子供たちが残酷な苦しみの中で殺されていった事実などを見るにつれ、「ああ、この世に神はいないのだな」と感じます。
 正確に言うと、「私たちが期待するような神」はいないのだと思うわけです。
 すなわち、私たちが「神」というとき、それは私たちを苦しみから救ってくれるような存在をイメージしています。その証拠に、神社仏閣にはたくさんの人がいろいろなお願い事をしに参詣しています。それで願いが叶えば神は存在すると信じるでしょうが、実際には願いが叶えられるとは限りません。受験に合格しますようにと祈っても落第することがあります。受験くらいならともかく、人生の壮絶な苦しみにある人が、最後の希望として神に救いを求めて祈るような場合であっても、その願いが叶えられるとは限りません。
 そのような意味で、私は「私たちが期待するような神」は存在しないとしか考えられないのです。世界のあまりにひどい残酷で悲惨な状態が、かくも頻繁に起こり、何の罪もない子供たちが苦しみ悶えて死んでいくのを見て、神はなぜ私たちを救ってくださらないのでしょうか?

 では、どのような神であるかはともかく、神というものは存在するのでしょうか?
 たとえば、いわゆる因果関係というものが普遍的な真理であるとするなら、つまり、原因があって結果があるという道理が真理であるとするなら、「この世界」というものが存在しているという「結果」があるわけですから、その「結果」をもたらした「原因」があるはずです。要するに、この世界の創造主が存在すると考えられます。その創造主を「神」と定義するなら、神は確かに存在すると考えられます。
 しかし、その神は、キリスト教が言うような「愛」でもなければ、人格的なものではないと思われます。なぜなら、世界を創造したくらいの絶大な力を持っているわけですから、その気なら人を苦しみから救おうと思えば簡単にできるはずだからです。しかし、それをしないということは、「愛」ではあるとは思えません。なかには、「そのような苦しみを与えることも、最終的にはその人を真の幸せに導こうとする意図があるので、それも愛の現れなのだ」と考える人もいます。しかしそうだとすれば、この地上で起こるどんな悲惨なことも「愛」になってしまいます。変質者に我が子を殺されてしまうのも、爆弾で子供が肉片となって散らばってしまうのも、すべてが「愛の現れ」になってしまいます。私たちはそんなことまで「愛」だと認めることができるでしょうか? 明らかに、そんなことまで「愛」と呼ぶのには、無理があります。そうなると、もうなんでもありになってしまい、愛と愛でないものとの区別がなくなってしまいます。
 創造主である神とは、ある種の法則のようなものであり、私たち人間が苦しもうと意に介さないのです。広大な宇宙に比べれば、地球など破滅しても、たいしたことではないのです。
 しかし、人間は弱いもので、人生の苦しみを乗り越えていくには、支えを求めます。そのために「苦しみから救ってくれる神」だとか「仏」だとか「菩薩」といったものを勝手に作り出してきたのです。そうして一生懸命に信仰に励むのですが、そうしたものは、期待から作られた幻想に過ぎません。つまり、宗教と呼ばれるものは、幻想によって成り立っているのです。神も宗教も幻想の産物なのです。

 神は愛ではありません。人格を持たないからです。
 しかし、もし「神は愛ではないが、愛は神である」と言う人がいたら、私はそれに賛成です。
 神が愛なのではなく、愛こそが神なのです。神というのは、実は愛のことなのです。
 神というとき、自分の信じる宗教に汚染されたさまざまなイメージが伴います。そして、自分の宗教で説かれている神こそ真実で、他の神は偽物だ」などと主張して争っているわけです。愚かなことです。神は無形であり、私たちのイメージをはるかに超えた存在です。神に関するわずかなイメージ、印象、考え、定義といったものを持ってはならないのです。それらは人間が勝手に創り出した虚像にすぎないからです。「神」という言葉を使うことそれ自体が、そもそも間違っているのです。神は名前をつけられるような存在でさえありません。
 しかし、「愛」には、「神」ほど特定のイメージに汚染されていません。個人によって多少のイメージは付随していますが、かなり普遍的なものです。「自分たちの愛こそ本物で、それ以外の愛は偽物だ」などと争ったりはしません。
 そして、私たちを救ってくれるものは、こうした「愛」なのです。
 もちろん、愛があればすべて救われるとは限りません。しかし、愛があるときは、おおいなる救いが得られることは確かです。全世界の人が愛を表せば、化学兵器で子供たちが死んでいくなどということは起こらないのです。天災ばかりはどうしようもありませんが、それでも被災した人をすみやかに救うことはできます。
 神に助けを祈ることは無意味です。せいぜい一時的な慰めになったり、苦しい気持ちを麻痺させる効果があるだけで、いわば麻薬や精神安定剤と本質的には同じものです。助けを求めても助かるとは限らないのが現実だからです。私たちは現実をしっかりと見つめなければなりません。
 おそらく、あと数百年後か、あるいは数千年後になるかもしれませんが、人類はいつか宗教という幻想から目覚め、地上に宗教というものが消えてなくなると思います。そして、その宗教に代わるのが「愛」です。
 私たちは、「神様、助けてください」と祈ることはやめ、「愛に目覚めることができますように」と祈るでしょう。「愛が地上に現れますように」と祈ると思います。
 そうして、愛が地上に顕現されたとき、私たちは真に神を見出すのです。しかし、そのときには誰もそれを「神」とは呼ばないと思います。神と呼んだ瞬間に、神ではなくなってしまうからです。

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神の不在の世界をどう生きていくか?

 母がまた入院した。ふだんは車椅子の生活なのに、(認知症のせいもあるのか)自分は歩けると思ったらしく、勝手に一人で廊下を歩き出して、結局 転倒。最初は顔面の青あざだけですんだと思ったが、施設の人がどうもおかしいというので医師に診せたら、大腿骨の付け根の部分が骨折していることがわかり、急遽、入院ということになった。
 医師の話では、手術して一ヶ月ほどで退院できるらしいが、とにかく母は、しばらく安定した状態のまま施設に過ごすということがない。次々に状態が悪化したり何かが起こったりして、結局施設を離れて病院に入退院を繰り返すパターンだ。そのたびに私の方は時間と労力とお金を費やすことになる。こうした点については以前にも書いたので、これ以上同じことを書くことは単なる愚痴になってしまうので書かないことにする。わざ とそうしているわけではないし、恨みや憎しみといった感情は母にはない。むしろ、母を見ていると、人間というものの哀れさに胸が痛くなる。なぜ苦労して歳を重ねてきて、そのうえ人生の最期になって、「これでもか」といわんばかりの苦しみを味わわなければならないのだろうと。
 母は、夫(私から見れば父)に5年ほど前に死別し、3年ほど一人暮らしをして孤独な生活を味わい、元気でどこにでもよく歩いていったのに、1年くらい前から急に歩けなくなり、車椅子生活になってしまった。そうして、親切な職員に恵まれてはいるとはいえ、しょせんは自分の家ではなく他人と暮らす孤独な生活になってしまった。自分ではもうできないので下の世話を人にやってもらうことになり、体の自由がきかなくなり、ちょっとしたことで体調を崩してぐったりとしてしまう。認知症となり、妄想やら、わけのわからないことを言ったりするようになった。入院すれば点滴を打たれたり手術をされたりといった苦痛に満ちたことをされるなど、要するに高齢者によくある状態を目の当たりにしてきて、自分もいつかこうなってしまうのかと思うと、気が滅入ってしまい、また、高齢となり力もなく弱弱しくなっているのに、こうした辛い経験をしなければならないようにできているこの地上世界、また、そんな地上世界を創造したとされる神に対して、疑問というか、正直なところ、嫌気のようなものさえさしてきているということが、私の今の本音である。

 年末や年始ともなれば、毎年大勢の人が神社仏閣に行って幸せを祈願する。その内容のほとんどは、現世的な幸せであろう。「お金が入りますよう に」「健康で過ごせますように」「結婚できますように」など、そういったお願いを神仏にしているであろう。私自身は、そのようなお願いをしにお参りに行っても、効果はないと思ってきていたので、ほとんど神社仏閣参りのようなことはしたことはない。しても個人的な願いではなく「世界が平和でありますように」といったことを祈るだけである。とはいえ、本当に苦しいときには、神はきっとその声を聞いてくださり、助けてくれるのではないかという思いが払拭されきってしまったわけではなく、やはり心のどこかではそのような思いがあった。
 けれども、今回、母のことをきっかけにして、この世の現実をあらためて見てみれば、祈れば救ってくれる神などいないことは、一目瞭然ではないかと思うことになった。2万人以上が死んだ東北大震災の人々が、誰一人として神に助けてくださいと祈らなかったはずはない。だが無常にも、神はそのような願いを聞き入れることはなかった。他にも私は個人的に心理カウンセラーを通して、本当に気の毒で悲惨な患者さんたちを少なからず見てきた。当時はそのような話を聞いてもそれほど深く心に響いていたつもりはなかったのだが、最近になってそうした患者さんのことが思い出されることが多くなり、やはり実際には心の底に響いていたのかもしれないと思う。ボクシングにたとえるなら、ボディーブローを何回も受けてきて、それがじわじわと今になって応えはじめてきた、といった具合だろうか。

 こうなると、結論は2つしかない。ひとつは、神は存在しないということ。もうひとつは、存在はするが、私たちを救ってくれることは必ずしもないこと(救ってくれることもあるかもしれないが)。また、救いたくてもそれだけの力がないという場合も考えられる。
 この世界という「結果」が存在している限り、その結果を生んだ「原因」はあると考えるのが普通であろう。いわば、この世界を創造したものであ る。その存在を「神」というならば、確かに神は存在するといえるだろう。
 だが、世界を創造したような広大無辺な神は、私たち人間にとってはあまりにも高い存在であり、いちいち私たちの(神から見れば小さい)苦しみなど、相手にしてはいないのではないだろうか。
 神とは違うが、守護霊だとか、心霊的な存在はどうもいるようである。だが、彼らは万能ではない。世間のニュースを見ていると、子供の目の前で 母親が変質者に殺されるとか、そのような事件がときどき報道されている。それを見ると、いったい「守護霊」は何をしていたんだと言いたくなる。いったい何が「守護」霊なのであると。
 今の私は、神は存在するかどうかと問われるならば、こう応えることにしている。「神は存在するが、私たちの期待するような神ではない」と。
 私たちの期待するような神ではないとしたら、神は存在しないも同然ではないだろうか? なぜなら私たちの大半は、神は困ったときの救 世主であると考えているからだ。祈れば救われると考えているからだ。
 しかし、現実は違う。祈っても救ってくれはしない。起こるべきことは起こる。そう思うとき、私は単純に「神なんて存在しない」と言うときもあ る。これは正しくはないかもしれないが、間違いでもない回答であろう。

 だが、人間というものは、神のいないこの世界において、生きていけるものだろうか? 大部分の人は(私から言わせれば)「神はいる」という「妄想」を支えにして生きている。だが、現実をありのままに見て神はいないと悟ったとき、人は神なしで、今後、どのように生きていったらよいのだろうか?・・・・

 以上のようなテーマについて、今度セミナーを開きます。

演題「悟りを開くためのヒント」
日時:8月3日(日) 場所:アルカノンセミナーズ(東京渋谷)
詳細&お申し込み
→アルカノンセミナーズ

 このように、今回は哲学的なテーマについて、私の個人的な見解をご紹介する内容となると思います。かつて行っていたような「悟りを開くための」具体的な瞑想法や修行法という点については、あまり言及しないと思います。テキストも配布する予定はありません。そのおつもりでご来場いただければ幸いに思います。よろしくお願い申し上げます。

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