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心の治癒と魂の覚醒

        

頑固と信念について

 人は、歳をとるにつれて頑固になると、よく言われます。
 自分の考えこそが正しくて、何があっても曲げようとしない、人の意見に耳を傾けない、自分の価値観や生き方にこだわり、しかもそれを人に強要する、柔軟な発想ができない、新しい考え方を導入できず、保守的になる、むかしからあるものは尊くて新しいものは軽蔑する、といったことをよく耳にします。
 このようになるのは、おそらく大脳の新皮質だとか前頭葉といった部分が萎縮するといった解剖学的な理由もあるのでしょうが、それよりも、純粋に精神的(心理的)な問題の方が大きいような気がします。
 
 私もそろそろ高齢者の仲間入りをする年齢になって、実は以上のことがとても気になっています。すなわち、「自分は頑固になっていないだろうか?」と気になるのです。そして、そのことと「強い信念をもつ」ということの兼ね合いを、どう区別したらいいのか、迷っているのです。
 すなわち、「強い信念」と、単なる頑固とは、どう区別したらいいのか、ということです。強い信念をもった人は、世の中や周囲の言動に振り回されず、自分の信じることをあくまでも貫きます。そうしてこそ、成功すると思うわけです。いちいち周囲の言動に振り回され、すぐに信念が揺らいでしまうような人は、何をしても大成できないでしょう。
 しかし、このような「強い信念」は、一歩間違うと、単なる頑固さにもなってしまいます。いったい、この両者をどう区別したらいいのでしょう? 私は強い信念を持ちたいのであって、頑固にはなりたくありません。頑固というのはあきらかに老化現象だからです。

 私は最近になって、自分が「強い信念」、あるいは頑固さの、どちらかが強くなってきたように感じています。というのも、以前ほど、世間や人の評価だとか、価値観といったことに左右されなくなってきたからです。「世の中や人がどう考えようと、どんな価値観を持とうと、自分は自分だ」と思うようになってきました。人から非難されても、若い頃は落ち込んだりしましたが、今は明らかに正当な理由がない限り、落ち込むようなことはなくなりました。

 ところで、私はまだ「ガラケー」を使っています。最近、ある会社が一年間、無料でスマホを提供するというので、一応、スマホも持つようになったのですが、使っているのはほとんどガラケーです。どうも、ガラケーを使っている人の多くは高齢者のようです。スマホをもっても、うまく使いこなせない人が多いようです。しかしほとんどの人はスマホをもっているでしょう。ガラケーを使っていると、「まだガラケー使ってるの!」と驚かれることもあります。
 しかし、私は新しいものが嫌いだから、スマホではなくガラケーを使っているわけではありません。また、決してスマホを否定しているわけでもありません。ただ、人によってどちらの方がよいか、ということがあり、すべての人がスマホをもつべきだ、といった風潮に抵抗を覚えるだけです。私は、私の事情を考慮したうえで、ちゃんとした理由があって、ガラケーを使っているのです。その理由をあげると、
 ①ガラケーは小さいからポケットにはいる。しかしスマホは大きいから、出かけるときはスマホを入れるバッグを持っていかなければならない。つまり、それだけ荷物が増える。私はなるべく身軽な方が好きなので、いちいちバッグを持参したくない。
 ②ガラケーはスマホよりバッテリーが長持ちする。つまり、頻繁に充電する必要がないから、余計な時間と労力を費やさなくてすむ。
 ③落としたとき、スマホは壊れやすいが、比較的ガラケーは丈夫。なので、落とさないようにと気を使う必要がない。
 ④一般的に、スマホよりガラケーの方が維持費が安い。機種にもよるが、スマホは高い。
 ⑤スマホには、私が必要としない機能がいろいろついており、そのために、操作がめんどうになる。
 ⑥(これは私のスマホだけの問題かもしれませんが)動作が安定しない。しかしガラケーは動作が安定しており、しかも、メールの送受信もガラケーの方が早い気がする。
 ⑦私は家にいることの方が多いので、家にいるときは、スマホよりパソコン画面で情報を得た方が見やすい。あえて言えば、外に出て初めての場所に行くとき、スマホのナビは便利だなと思うときもありますが、初めての場所に行く機会はめったにないので、なくてもほとんど困らない。
 他にも理由がありますが、ざっと以上のような理由で、ガラケーを使っているわけです。なので、頭から新しいものを敬遠しているからでもないし、使えないわけでもありません。私なりに、合理的な理由があるから、ガラケーを愛用しているのです。しかし、そうした理由を知らない人からは、「頑固だな、時代遅れだな、年寄りだな」と思われるかもしれません。まあ、思われても気にしませんが(笑)。
 今後は、折りたたみ式でポケットに入るくらい小さくなるスマホが出るようですし、バッテリーの寿命も長くなってきているようなので、そうしたらスマホひとつにしようかなとも思っています。あるいはガラケーそっくりのスマホにするか、どちらにしようか迷っていますが、しばらくはガラケーと、(ほとんど使わない)スマホの2台を所有するつもりでいます。

 さて、少し話がそれてしまいましたが、「強い信念」と単なる「頑固」の違いは、それが明確で合理的な理由に基づいているかどうか、ではないかなと思います。合理的な理由なく何かにこだわるのは、あきらかに頑固であり、老化現象でしょう。
 なので、何かにこだわるときは、そこに明確で合理的な理由が本当にあるのか、ということを注意深く反省する必要があると痛感しています。合理的な理由に支えられているならば、それは頑固ではなく「強い信念」だと言えるはずです。
 しかし、歳をとってから、いきなり合理的な思考を身に着けるのは、難しいでしょうから、若いうちから、こうした思考力は鍛えておいた方がいいと思います。そうすれば、いくら歳を重ねても、柔軟で若々しい精神性を保てるのではないかと思います。
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ALSは「業病」か?


 最近、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者を医師が安楽死させた事件が話題になっています。からだの運動機能がしだいに奪われていき、意識はしっかりしているのに、ついにはからだをまったく動かせなくなるこの病気は、おそらくあらゆる病気のなかでも、もっとも残酷な病気のひとつではないかと思います。今回の事件で医師が行った行為の是非はともかく、自ら命を断ちたくなる気持ちもわかりますし、安楽死という問題も、真剣に議論していくべきではないかと思います。
 ただ、ここで言いたいことは、この事件そのものではなく、この事件に関して、石原慎太郎元都知事がツイッターで語った言葉です。彼はALSのことを「業病(ごうびょう)」と表現していました。
 業病という意味は「前世で悪い行為をした報いとしての病気」です。つまり石原氏は、ALSの方々に対して「過去に悪いことをしたから、このような病気になったのだ」と言っているわけです。

 これは、仏教やスピリチュアルなどで言われるところの、いわゆる「因果応報」、「カルマの法則」です。
 仏教徒やスピリチュアルの信奉者たちは、もしALSの原因は何かと問われたら、いったい何と答えるでしょうか? 彼らは因果応報、カルマの法則を信じているはずですから、石原氏のようにあからさまには言わないかもしれませんが、それでもやはり「それは前世の悪業の結果である」と答えるのではないでしょうか。
 これは、病気に限ったことではありません。生まれつき障害をもって生まれた人も、家が火事で焼けてしまった人も、子供が死んでしまった人も、レイプされた人も、その他、不幸災難に見舞われた人はすべて「前世の悪業の結果である」ということになってしまいます。イエス・キリストが十字架にはりつけにされたのも、前世の悪業の結果ということになってしまいます。
 これほど、人を傷つける主張はあるでしょうか?
 もちろん、たとえいかに人を傷つけようとも、事実として実証されたものであるなら、事実は事実として受け入れなければなりません。
 しかし、カルマの法則などというのは、特定の宗教の教義のひとつであって、科学的に実証されたわけではありません。つまり、それは信仰の問題であって、信じるか信じないか、ただそれだけのことなのです。

 私が「カルマの法則」について、ある程度の距離をおいてそれを扱っている理由がここにあります。もし私がカルマの法則を絶対的に信じていたとしたら、苦しんでいる人に対して、暗黙のうちに「前世の悪しきカルマの報いだ」と決めつけてしまうことになるからです。
 そうしたら、その人はますます苦しみに突き落とされるかもしれません。はたして、これが宗教者のすることでしょうか。いえ、人間のすることでしょうか。ここには、人に対する思いやりのかけらもありません。

ですから、私はカルマの法則に対しては、絶対的な否定も肯定もしない立場でいるのです。そしてまた、特定の宗教を絶対的なものとして信じることもしない立場でいるのです。
 ただ、カルマの法則が存在するという仮定のもとで、いろいろなことを述べることはあります。しかしそれはあくまでも仮定であって、絶対的な真実としてではありません。

 もちろん、カルマの法則を信じることで、よいこともあります。たとえば、悪いことをする人が少なくなるだろう、という点です。悪しき報いを受けるのは誰だって嫌ですから、悪しき行為の抑止力にはなるでしょう。ですから、評価できる点もあります。
 釈迦は、カルマの法則を説きましたが、それは、「今後、悪いことはしないように」という戒めとして説いたのであって、苦しんでいる人に向かって「おまえが苦しんでいるのは、過去に悪いことをした報いだ」といって責めることが目的ではないことは、言うまでもありません。

 不幸災難の原因は、宗教によって異なります。
 ユダヤ教やキリスト教では「神の試練」という考え方が主流のようです。強く立派な人間にするために、苦難を与えて鍛えようとしているのだ、という発想です。この方が、カルマの法則よりも救いがあります。
 では、いったいどちらの教えが真実なのでしょうか?
 それは、誰にもわからないことです。
 ならば、どうせわからないことであるならば、前向きになれる考え方を採用した方がいいのではないかと、私は思うのです。
 こうしたプラグマティズム(功利主義)の考え方は、ご都合主義だと嫌って、とにかくはっきりと白黒つけないと気がすまない人たちがいますが、どんなに追求しても、神だとか宇宙法則といった、形而上学的な事柄は、わからないのです。わからないものを追求し続けるのは時間の無駄です。他にもっとするべきことがあるはずです。形而上学的な探求は、それが具体的な実践レベルにとって有益な土台になるくらいまで追求したら、それ以上の深追いはしない方がよいです。

 いずれにしろ、私は、愛に反するような教えはすべて嫌いです。それは、宗教とは相容れないものです。難病で苦しむ人に対して、いちいちその霊的な原因を追究することに、私はあまり意味を感じられません。とりわけ、その苦しみを増すような教えはなおさらです。
 本人がどうしても原因を知りたいと言ったら、私なら「わかりません。それよりも、これからどうすれば少しでもよくなるかを一緒に考えましょう」と答えるでしょう。あるいは、もし励ましになるかもしれないと判断したら「これは神の試練ですよ」と答えるかもしれません。いずれにしろ、苦しみにある人に対しては、安らぎと希望を抱いてもらえるような対応をすることこそが、真の宗教やスピリチュアルの道ではないかと思うわけです。間違っても「業病」などという、根拠のない愚かな言葉は使うべきではありません。

 余談になりますが、こんな話があります。むかし、ある寒い冬の夜、貧しい家に住む一人の禅僧のもとに旅人がやってきました。しかし、貧しいので暖をとるための薪がありません。旅人は寒くて震えています。するとその禅僧は、大切にしていた仏像を燃やして、旅人を温めてあげたのです。
 これこそ真の宗教者のすることではないでしょうか。そして仏様も「これでよい」と、喜ばれたのではないかと思います。ガチガチの宗教者ではなく、何が一番大切なのかを見究めたうえで柔軟性のある行動がとれる宗教者こそ、真の宗教者だと思うのです。


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食べなくても生きていられると主張する人々


 昨日、インターネットのニュースサイトを見ていたら、90歳で亡くなったインドのヨガ行者のことが紹介されていました。何と80年もの間、何も飲まず食べないで生きてきたというのです。
 何も食べなくても生きられると主張する人は、他にもたくさんいるようです。日本にもけっこういます。私もそう主張する人と会ったことがあり、一緒にディナーのフルコースを食べました。彼が言うには「自分は食べなくても生きられるのだが、それでは人との付き合いができないから、人と付き合うときとか、子供の誕生日といった祝い事などがあるときは、こうして食べるんです」ということでした。ちなみにそのフルコースは、私には量が多すぎて、最後のデザートは残してしまったのですが、彼は「もったいない」といって、私の分まで食べてしまいました。
 それを見て、実は彼はけっこう食べているなと思いました。というのも、長期に渡ってもし何も食べていなければ、胃腸機能は低下して、大量に食べることはできないはずだし、もし無理に食べたら、最悪、死んでしまうこともあるからです。とうてい、あれだけの量のフルコース料理をケロリと食べられるとは思えません。それとも、こういう人は、胃腸さえも、人間離れした機能を持っているのでしょうか?

 いわゆる「不食の人」として有名で、いわば「不食」の教祖的な存在として知られている人に、ジャスムヒーンという女性がいます。
 この女性が、本当に食べなくても生きていられるかどうか、実験したことがありました。部屋に隔離して、食べたり飲んだりしていないかどうか、24時間監視をしたのです。もちろん、すべての条件は彼女が納得した上で行われました。その結果、日がたつごとに体重が減り、ついには生理的に危機的な状態になったためにドクターストップがかかり、実験は終了してしまいました。つまり、食べないで生きられるというのは、嘘だったのです。もし食べないで生きられるのであれば、体重は減ったりしないし、生理状態は一定のままであるはずです。
 とはいえ、彼女が意図的に嘘をついていたのではないでしょう。なぜなら、もし自分は食べないで生きることはできないことがわかっていたら、その事実があきらかにされてしまう実験には参加したりしないはずだからです。つまり、彼女は本当に、自分は食べないでも生きられると信じていたのだと思います。
 これは要するに、そういう妄想をいだいていた、ということになります。

 精神医学の分野で、パラノイア(偏執病)と呼ばれる、ある種の妄想症状を伴う精神病があります。
 妄想というと、頭に浮かぶのは統合失調症ですが、統合失調症の場合は、程度にもよりますが、その妄想はあまりにも支離滅裂であり、人格の中枢がかなり破綻していますから、誰もがすぐに「おかしい」とわかります(しかし本人は自分がおかしいとは思っていない場合が多い)。そして、まともに職業に従事したり、重症の場合は普通の社会生活さえもできません。
 ところが、パラノイアの場合、一見したところ、おかしいとは感じられないのです。常識があり、論理的に考え、知性も問題ありません。問題ないどころか、医者や弁護士や大学教授といった、高度な専門性が要求される職業についていることもあります。社会生活もちゃんと営んでいます。
 ところが、ある分野に関してのみ、おかしな妄想をいだき、それを信じて疑わないのです。これがパラノイアという病気の特徴です。
 たとえば、心理学のテキストでよく紹介されているのが、「自分は天皇家の子孫だ」といったものです。あるいは「宇宙創世の謎を解明した」などと、膨大な量の論文を書いたりします。その論文を読むと、とりあえず文体はしっかりしており、一見すると論理的に書かれてあるように見えるのですが、読み進めていくとしだいに突拍子もないほど論理が飛躍していき、結局は妄想の領域へとつながっているのががわかります。それでも一見する限りでは、高度な専門知識を土台にしたすごい論文のように感じられたりするので、だまされてしまう人もいるのではないかと思います。
 実際に私がカウンセリングをした、ある若い女性のケースですが、彼女は憧れていた歌手のコンサートに行ったのですが、その歌手が舞台の上から自分のことを見て、眼が合い、その瞬間に自分に好意を寄せているのだとわかったというのです。「こんなことを言うと頭がおかしいと思われるでしょうね。でも、本当なんです。私にははっきりとわかるんです」と彼女は言いました。その他の点では、常識的で礼儀正しい、ごく普通の人だったのですが、この妄想に関してだけは、断固として信じて疑わないのです。私はそれは妄想だと説明しましたが、がんとしてききません。そこで私は「ならば、楽屋に行って、その歌手に私のこと好きですかと尋ねてみたらどうですか? そうすればはっきりしますよ」と言いました。しかし彼女はそれはできないと言いました。なぜできないのでしょうか? それは、「私はあの歌手から愛されている」という願望が否定されてしまうのが怖いからです。言いかえれば、無意識的に自分の妄想が破られるのを拒絶しようとしたのです。

 私は、こうしたパラノイアの、格好の温床になっているのが、スピリチュアルであると思っています。なぜなら、スピリチュアルの世界は実証が難しく、いくらでもごまかしというか、妄想が入ん込んでもその妄想が明らかに否定されるという可能性が少ないからです。たとえば、「自分はブッダの生まれ変わりだ」と言っても、誰もそれを証明できません。言いかえれば、否定もできないわけです。
 むしろ、パラノイアの人は心の底から妄想を真実だと信じ込んでいるために、奇妙な自信に満ちていたりします。その自信に圧倒されて、妄想を真実だと信じ込んでしまう人が、世の中には一定数、存在するのです。そうして、パラノイアという精神病の人がカルト教祖になって、それなりの人気を集めているようなところが、私には少なくないように思われます。

 人がパラノイアを病んでしまう原因は、いろいろ考えられるでしょうが、その根底には、自己承認欲求、つまり「認められたい」という欲求があるように思われます。「自分はブッダの生まれ変わりだ」とか「自分は覚者である」などと言えば、中にはそれを信じて、その人を認め、崇拝する人たちがいるわけです。
 そして同じように、「自分は食べなくても生きられる」と言えば、人々から注目され、何か偉大な人のように認められたりするでしょう。そのような、「認められたい」という強い欲求が根底にあり、その強い欲求が理性を麻痺させて妄想に陥らせているのではないかと思うわけです。
 ですから、スピリチュアルの道を歩むときには、よほど注意しないと、簡単に妄想に陥ってしまいます。いちど妄想に陥ると、そこから抜け出すのは容易ではありません。スピリチュアルの道を歩むときは、常に地に足を着けて、現実をありのままに見つめる必要があります。

 では、冒頭で紹介した、80年間、飲まず食べずに生きていたヨガ行者も、パラノイアだったのでしょうか?
 記事によると、二週間、隔離して監視したそうです。その間、うがいをしたり入浴はしたそうなのですが、このときひそかに水を飲んでいた可能性は否定できません。ヨガを続けると、基礎代謝量が非常に低く抑えられるために、きわめて少ない量の食事で生きることは可能になります。ですから、二週間くらい食べなくても、それほど変化はないでしょう。しかし、何年もの間、まったく水も食べ物もとらずに生きられるというのは、私にはかなり疑問です。
 ただ、世の中には科学では解明できない謎があることも確かですから、もしかしたら、そういう仙人のような人も存在するのかもしれませんが、存在したとしてもきわめて稀だと思います。なので、ちまたによくいるような「自分は何も食べないで生きていられる」と主張する人は、ほとんどすべてパラノイアか、その傾向がある人ではないかと思います。そもそもジャスムヒーンという不食の教祖が、あのように正体を暴露されたのですから、彼女を信奉して不食になったという人はほとんどは妄想にすぎないのではないでしょうか。「自分は食べなくても生きていける」と、勝手に思い込んでいるだけなのです。
 もしそうではないというのなら、科学者のもと、厳密な実験をしていただきたいと思います。本当に不食で生きられるとするなら、これは医学、いえ、科学の理論を根底から覆す大発見になります。新たな科学の可能性が開かれるでしょう。そのような偉大な可能性をもっていることになりますから、ぜひ実験をしていただきたいと思っています。ただ、そのような実験をしてくれる科学者がいるかどうかが問題ですが。

 そもそも、何も食べないことに、どれほどの意義があるというのでしょうか? 確かに食費は浮くでしょうし、食べるという束縛から解放されるということもあるでしょうが、霊的な道というものは、そんなことよりも、もっと大切なことがあります。ある人が不食だからといって、社会や他の人には何の恩恵もありません。そんなことに関心を持つよりも、たとえば、人のために役立つようなことにエネルギーを向けた方が、ずっと意義があるのではないでしょうか? それが本当のスピリチュアルではないかと思うわけです。
 そのためには、「認められたい」というエゴをなくすことです。「認められたい」という下心があって人のために尽くしても、それは不純であり、スピリチュアルでも何でもありません。
 宗教やスピリチュアルをめざしている皆さん、パラノイアという精神病について、よく知っておいてください。そうすれば、あやしい人物や情報にだまされることも、少なくなるはずです。私の感じるところでは、スピリチュアルの世界はパラノイアだらけです。

 私が主催するイデア ライフ アカデミーは、パラノイアが入り込まないように、細心の注意を払っています。あくまでも地に足の着いた霊的探求をめざしています。パラノイアの傾向がある人が来ると、暗にそれが妄想であるといったことを説明するのですが、そうすると、その人はもう二度と参加しません。
 そうした光景を見るたびに、多くの人は、程度の差はあれ、自分(エゴ)が気持ちよくなる妄想をいだき、それを破壊する人や情報から避けようとするのだなと感じます。妄想を打破するには、痛みを伴います。その意味で真のスピリチュアルの道というのは、痛みを伴う険しい道なのです。しかし、人は痛みを避けようとします。そのため、いつまでたっても自己変革というものは為されず、結局は、甘美な妄想に浸って人生を夢心地のうちに終えてしまうのではないでしょうか。
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霊的な道の途上に待ち受ける罠について

 私はこれまで、古今東西の宗教や思想・哲学などを幅広くかじってきましたが、こうした霊的探求の道の途上には、さまざまな「罠」が待ち受けているということを痛感しています。多くの人がその罠にはまってしまい、真実を探求するつもりが幻想に埋没してしまい、たとえば悟りをめざしている人は、「悟った夢」に埋没してしまうのです。こうなると、進歩はそこでとぎれてしまいます。
 余談になりますが、学生時代、私はめったに遅刻したことがないのですが、あるとき遅刻したことがありました。一度目覚まし時計で起き、「あと5分だけ寝よう」と思って眠ったら夢を見たのです。どんな夢かというと、「起きて学校へ行くために身支度をしている」という夢でした。つまり、自分はもう眠っていない、起きているのだと思い込んでいるわけですから、起きなければならないという気持ちは消え去り、そのままずっと眠り続け、遅刻してしまったのです。
 同じように、夢に埋没して、その夢が「現実」であると思い込んでいる限り、その夢から覚めるのは非常に難しくなってくるのです。

 さて、霊的探求の道の途上に待ち受けている罠ですが、典型的なものは、霊的指導者を神格化し、崇拝の対象にして盲信することです。人間である限り、間違いは必ずおかしますし、欠点もあります。しかし、「間違いは絶対にない、欠点は何もない」と信じ込んで、自主性を失い、奴隷のように服従してしまうのです。真の指導者であれば、弟子をそのような奴隷状態にはさせないはずです。

 確かに、人はエゴを暴走させやすいので、そのエゴを矯正するために、指導者の教えに従うことは大切ですが、それが盲目的に行われると、「自分の意志と思考で自らの道を選択し歩んでいく」という大切な資質が育たない、そればかりか、萎縮してしまう危険性があるのです。

 そこで大切なことは、どんな教えを受けても、まずはそれを慎重に吟味して理解するということが必要になってきます。エゴの主張ではなく、自分自身の魂の基盤から、慎重に考えてみる必要があるのです。その結果、自分自身の魂の方向性に反していると思ったら、その教えを拒否する勇気が必要です。

 とはいえ、エゴの主張と魂の意志とを、どう区別したらいいのでしょうか? 魂の意志であると自分では思っていても、実はエゴの主張である、といったことも、ないとはいえません。
 そこで、その違いを判断する基準となるのは、まず、しっかりした論理的な理由があるかどうかです。エゴは、さまざまな屁理屈や言い訳を見つけてくるのが上手です。しかし、それらはしっかりした論理的なものではありません。いい加減な根拠や論理的思考によって構築されています。まずは、そこをしっかりと自覚する必要があります。
 それでも、しっかりとした論理的な理由があると思えたなら、それはエゴではなく、魂から出た判断である可能性が高いと言えるでしょう。

 次に、利己的な欲望が関与していないかどうか、ということです。「指導者にさからったら、破門されるのではないか、弟子達の間で不利な立場におかれるのではないか」といった、ある種の損得勘定があるかどうかです。不安や恐怖心と言ってもいいかもしれません。そのような気持ちがあれば、エゴの主張である可能性が高いのです。魂から出た判断には、そういう利己的欲望も不安も恐怖もなく、澄んだ清流のようなすがすがしい気持ちが伴います。
 以上のような基準を自覚しながら、指導者の教えを受けるべきです。そして、魂から出た判断によって、その教えに従うべきではない、と思ったならば、従うべきではありません。

 指導者となる人たちは、最初は純粋な動機で弟子を集めたり組織を運営したりしていたかもしれませんが、「認められたい」という称賛欲と、「人を支配したい」という支配欲は、人間の心に深く根を張っているエゴの欲望で、完全にそれを無くすことは難しいのです。そのため、自分に従う弟子が集まってくると、その根からしだいに芽が出て、自分でも気づかないうちに称賛欲と支配欲にとらわれ、「私の言うことに間違いはない、私は偉大なる指導者なのだ。私の言うことに従わないと道は成就できないぞ」といったように、ある種の脅しをかけて、弟子たちからの称賛と服従を要求するようになったりします。
 こういった指導者は、霊的探求の道に待ち受けている罠にはまってしまったのです。
 残念ながら、こうしたケースは少なくないように思います。とくにカルトなどはその傾向が強い傾向があるようです。
 
 今回のテーマについて、深く考えさせられる人物がいます。ロシアの神秘家グルジエフです。彼は非常に不可解な人物でしたが、その教えは、霊的な道を探求する人であれば、(それを受け入れるかどうかはともかく)必ず知っておくべきものです。
 次回(6月1日、2日)のイデア ライフ アカデミーでは、このグルジエフについて取り上げます。興味のある方は、ぜひご参加ください。
 参加希望の方はホームページをご覧下さい。↓
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/
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正直に道を歩む

 「裸の王様」という、誰もが知っているお話があります。詐欺師の仕立て屋から「馬鹿には見えない布」で作られた服だと言われ、王様がそれを着たつもりで街を歩きます。王様も民衆も自分が馬鹿だと思われたくないために見えるふりをしますが、ひとりの子供が「王様は裸だ!」と叫んだことで、自分たちはだまされていたことに気づくというストーリーです。
 この話はとても教訓的で、あらゆる状況に当てはまるものと思いますが、とりわけ宗教の世界にはよく当てはまるのではないかと思います。
 宗教の世界でよく言われるのは、「(この教えのすばらしさは)信仰の薄い者には理解できない」という言葉です。信者たちは、自分の信仰が薄いと思われたくないし、思いたくないので、教えに対して疑問があっても、疑問がないふりをし、この教えはすばらしいと信じ込もうとするのです。
 このような、言いたいことがいえない、ある種の「言論弾圧」がまかり通ると、創造性というものが失われてしまいます。
 どのような分野であれ、創造性なくして進歩はありません。進歩とは創造性によってもたらされます。創造とは、新しいものを生み出すことですから、当然、古いものは否定されます。古いものが否定されなければ創造はできません。
 しかし宗教においては、古いものを否定することはタブーなのです。教祖の語ったことを否定することはタブーです。もしそれをすると、その宗教の根幹を揺るがすことになるからです。組織は崩壊し、組織に依存していた人たちは困ることになります。
 そのために、何百年も何千年も前に生まれた宗教を、ほとんどそのまま信じ込んでいるわけです。つまり、進歩がないということです。
 ここにはまた、「教祖の語ったことは完璧だから、これ以上、進歩する余地はない」という考えがあるのかもしれません。
 しかし、世の中に最初から完璧なものなど、存在するでしょうか?
 最初に限らず、完璧なものなど、存在するでしょうか?
 地上のすべてのものは、進化していく存在だと思います。あらゆる生きものも、科学も文明も、すべてが進化の途上にあります。永遠に進化し続けていくのです。永遠に進化し続けていくということは、永遠に未完成ということです。完璧な状態は存在しないということです。
 生命というものは進化し続ける存在です。進化しないとしたら死んだ状態です。宗教も同じように、進化しないとしたら、それは死んだ宗教であり、死んだ宗教に人を救う力があるとは思えません。
 そもそも人間そのものが進化しているのですから、宗教もそれに応じて進化していくべきではないかと思うのですが、あいかわらず古い宗教を信じているのです。

 たとえば、「雷は神が怒っている証拠であり、神の怒りを静めるために動物を生け贄に捧げなければならない」といった宗教は、太古にあったようですし、今でも未開の地ではこうした宗教を信じている人々がいるかもしれませんが、文明社会に生きる現代の私たちから見れば、あまりにも原始的で幼稚であり、宗教というより迷信のように思われるはずです。
 雷の正体は、大昔はわからなかったので、あのものすごい音と光に接すれば、「神の怒り」のように思えても仕方がなかったのでしょう。しかし科学が進歩して雷の正体が静電気の大きなものに過ぎないことがわかっている私たちは、「神の怒り」などとは思っていません。そのようなことを説く宗教はありませんし、あったとしても馬鹿馬鹿しくて誰も信じないでしょう。
 ところが、仮に国民の大部分がこの宗教を信じていて、政治や経済に大きな影響を与え、この宗教の教えに反することを口にしている人を迫害するとしたら、どうでしょうか?
 おそらく、ほとんどの人は、怖くて反抗できないでしょう。内心は疑問を抱きながらも、それを打ち消すかのように、信じているふりをするでしょう。「雷の正体は電気だ」と提唱する科学者がいたら、その地位を奪われ、社会から葬り去られるでしょう。
 しかし、これと同じようなことは、宗教の世界で実際に起こってきたのです。
 たとえば、キリスト教では、ご存知のように天動説を主張し、地動説を認めていませんでした。地動説を唱えたガリレオは宗教裁判にかけられて迫害されました。結局、正式にキリスト教会が自分たちの天動説が誤りでガリレオの地動説が正しかったことを認めたのは、何と1992年なのです。さすがに、いくら熱心なキリスト教徒でも、天動説を信じている人はいなかったでしょう。その人たちは自分を欺いていたのでしょうか?
 天が動こうか地が動こうが、そんなことはキリスト教(イエス)の教えにとってどうでもいいことではないでしょうか。そんなくだらないことのために、火あぶりにあって殺された人がいたのです。それが、「愛の宗教」を自認するキリスト教のやることなのでしょうか?
 地動説を認めたことは、ひとつの進化と言えるかもしれませんが、ガリレオの時代から四百年近くもたってから、しかも、しぶしぶ仕方がなく、といった感じですから、とても自ら進化しようという意志がないことは明白です。

 地動説の場合は、数学や物理という、誰が見ても否定しようがないエビデンスをつきつけられたわけですから、反論のしようがありませんでしたが、その他の大部分は、実証できないものばかりです。たとえば、「イエスは神の一人子であり、イエスが人類の罪を代わりに背負ってくれた」と言われますが、それを実証することはできないでしょう。肯定も否定もできないわけです。
 あるいは、日蓮宗では「南無妙法蓮華経」と唱えれば救われると説き、「南無阿弥陀仏」を唱えると地獄に堕ちると主張しています。しかし、それを実証する手段はありません。経典に書かれてある文言を根拠にしても、その経典そのものが真実かどうか実証できないのですから、意味がありません。結局、地獄に堕ちるかもしれませんし、堕ちないかもしれない。わからないのです。
 そうなると、結局のところ、それをどう判断するかは、自分自身にかかっていることになります。自分はどう考えるかということが、もっとも重要ではないかと思うのです。
 一番いけないのは、本心では疑念を抱いていながら、でも長い伝統もあるしたくさんの人が信じているからという、ある種の「権威」に惑わされて、信じているふりをすることです。
 いうまでもなく、信じているふりでは、本当に信じていることになりませんから、その信仰には意味がなく、やらないほうがましです。
 もちろん、自分の疑念が間違いである可能性もあります。しかし、間違いだとわかったら改めればよいだけのことです。そうすれば、しだいに本物に近づいていくでしょう。しかし、信じているふりをしている限り、本物に近づいていくことはありません。
 裸の王様の物語も、大人たちが権威だとか、自分の虚栄心(エゴ)に弱くてだまされやすいということを突いているのだと思います。王様が裸であると言えば、自分が馬鹿であることを表明することになるし、同時に、王様がだまされていることを指摘することになります。つまり、だまされるほど王様は馬鹿だと言っていることになります。権威ある人を「馬鹿だ」などと言えません。しかし、子供はそうした権威にとらわれていませんから、自分に正直になって、自分に見えたものをそのまま口にしたのです。私たちは、この子供の正直さを見習うべきだと思います。求道者というものは、正直でなければならないと思うのです。

 繰り返しますが、権威にとらわれてはいけません。もともと宗教に権威などは必要ないと思うのですが、権威がないと人が集まらないのでしょう。そのことをよくわかっているので、宗教の世界でも権威を利用しようとするのです。
 宗教組織に限らず、たとえば巷では、覚者を名乗る人たちがいます。そして、自分はヒマラヤで修行したとか、偉い聖者の弟子だとか、前世は偉大な聖者だったとか、インド政府から聖者として認められたとか、多くの弟子に囲まれているとか、とにかく「すごいなあ」と思わせるような、さまざまな権威づけをしています。
 そうした権威を知ってから、その「覚者」の話を聞くと、内容的にはまったくつまらないものであったとしても、何となくありがたく、すばらしいものに聞こえたりするものです。
 ですから、そうした人たちの話を聞きに行く際には、まず権威という背景を頭から追い出して、先入観のないまっさらな心で聞くことを勧めます。むしろ、「そのへんにいるおじさんの話」くらいに思っているくらいでよいかと思います。
 そして、それにもかかわらず、その話に感銘を受け、心に響くものを感じたならば、その人は確かに「覚者」の可能性があるのかもしれません。少なくともあなたにとっては、教えを受ける価値がある可能性があります。
 とはいえ、それでも道を歩む主体はあなた自身です。人の言いなりではなく、自分自身で舵を取っていかなければなりません。そのためには、権威に惑わされず、自分に正直になって、違うと思うなら違うと思うと、はっきり言えるようでなければなりません。そうしてこそ、創造性がそこに生まれ、あなたの宗教(信仰)は進化していきます。真理に近づいていきます。
 そのような姿勢は、宗教組織からは敬遠され排除されることになるかもしれません。異論をはさまず伝統的な教えをみんな同じく共有する(盲従する)ことを強要しているからです。
 しかし、真の霊性向上は、こうした、ある種のマスプロ教育などでは達成できません。ひとりひとりが創造性を発揮して、「自分だけの宗教」を見出さなければならないのです。人間の数だけ宗教の数があるのです。真の宗教とは、基本的に「オーダーメイド」なのです。自分で、自分の宗教を創り上げていかなければならないのです。
 ですから、宗教の本来の目的である霊性の向上と真理を求めようとするならば、つまり、本当に宗教の道を歩もうとするならば、必然的に、孤独な道を歩むことになるでしょう。


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