心の治癒と魂の覚醒

        

神は存在するか?

 東日本大震災が起こったとき、原発事故による放射能が私の住む関東地方にも微量ながら流れてきました。そのとき、地震が起こる直前に関東地方から九州に引っ越した知人がいて、その知人から次のようなメールを受け取りました。
「危ないところで助かりました。神様って本当にいるんですね」
 それを見て、神が存在するかどうかという考えは、個人の狭い主観に基づいているのだなあと感じました。彼は、彼の言う神のおかげで助かったのでしょうが、関東地方に住む私は、ましてや東北に住んで被災された方たちにとっては、神は存在しないことになります。
 神はいると信じる人もいれば、いないと信じる人もいます。神を信じている人は、人生が恵まれていたり、あるいは苦難に遭遇したときに助かったといった経験を持っているのでしょう。そのために、「人間を苦しみから助けてくれる神は存在する」という信念を持ったのだと思います。
 しかし、それはあくまでも自分だけの限られた経験での尺度から導かれたものに過ぎません。本当にこの世に神が存在するかどうかは、世界中の人々を広く見渡し、そのなかでも、もっとも悲惨な境遇に見舞われている人を尺度として考えなければならないと思うのです。なぜなら、そのような悲惨な出来事は現実に起こっていることであり、そのような悲惨さは、誰もが経験することになってもおかしくないからです。いくら神に祈っても苦しみから救われない人だっているわけです。震災で亡くなった人たちは、「神様、助けてください」と祈らなかったのでしょうか? そうは思えません。おそらく、たくさんの人がそう祈ったと思います。けれども、助かりませんでした。それが現実なのです。私たちは現実という尺度から神は存在するかどうかを考えていかなければならないのです。
 冒頭で紹介した知人は、もし九州に転居せず、それどころか東北地方に転居して家族全員を失うという悲惨な経験をしたとしたら、どうでしょうか。果たしてそれでも「神は存在する」という考えを持ち得たでしょうか?
 このように、神は存在するかどうかについては、個人の狭い経験からではなく、広く世界を見渡し、そのなかでも、もっとも悲惨な人の体験を尺度にして結論づけなければならないと思うのです。

 私は、先日シリアで起こった化学兵器の攻撃によって、たくさんの子供たちが残酷な苦しみの中で殺されていった事実などを見るにつれ、「ああ、この世に神はいないのだな」と感じます。
 正確に言うと、「私たちが期待するような神」はいないのだと思うわけです。
 すなわち、私たちが「神」というとき、それは私たちを苦しみから救ってくれるような存在をイメージしています。その証拠に、神社仏閣にはたくさんの人がいろいろなお願い事をしに参詣しています。それで願いが叶えば神は存在すると信じるでしょうが、実際には願いが叶えられるとは限りません。受験に合格しますようにと祈っても落第することがあります。受験くらいならともかく、人生の壮絶な苦しみにある人が、最後の希望として神に救いを求めて祈るような場合であっても、その願いが叶えられるとは限りません。
 そのような意味で、私は「私たちが期待するような神」は存在しないとしか考えられないのです。世界のあまりにひどい残酷で悲惨な状態が、かくも頻繁に起こり、何の罪もない子供たちが苦しみ悶えて死んでいくのを見て、神はなぜ私たちを救ってくださらないのでしょうか?

 では、どのような神であるかはともかく、神というものは存在するのでしょうか?
 たとえば、いわゆる因果関係というものが普遍的な真理であるとするなら、つまり、原因があって結果があるという道理が真理であるとするなら、「この世界」というものが存在しているという「結果」があるわけですから、その「結果」をもたらした「原因」があるはずです。要するに、この世界の創造主が存在すると考えられます。その創造主を「神」と定義するなら、神は確かに存在すると考えられます。
 しかし、その神は、キリスト教が言うような「愛」でもなければ、人格的なものではないと思われます。なぜなら、世界を創造したくらいの絶大な力を持っているわけですから、その気なら人を苦しみから救おうと思えば簡単にできるはずだからです。しかし、それをしないということは、「愛」ではあるとは思えません。なかには、「そのような苦しみを与えることも、最終的にはその人を真の幸せに導こうとする意図があるので、それも愛の現れなのだ」と考える人もいます。しかしそうだとすれば、この地上で起こるどんな悲惨なことも「愛」になってしまいます。変質者に我が子を殺されてしまうのも、爆弾で子供が肉片となって散らばってしまうのも、すべてが「愛の現れ」になってしまいます。私たちはそんなことまで「愛」だと認めることができるでしょうか? 明らかに、そんなことまで「愛」と呼ぶのには、無理があります。そうなると、もうなんでもありになってしまい、愛と愛でないものとの区別がなくなってしまいます。
 創造主である神とは、ある種の法則のようなものであり、私たち人間が苦しもうと意に介さないのです。広大な宇宙に比べれば、地球など破滅しても、たいしたことではないのです。
 しかし、人間は弱いもので、人生の苦しみを乗り越えていくには、支えを求めます。そのために「苦しみから救ってくれる神」だとか「仏」だとか「菩薩」といったものを勝手に作り出してきたのです。そうして一生懸命に信仰に励むのですが、そうしたものは、期待から作られた幻想に過ぎません。つまり、宗教と呼ばれるものは、幻想によって成り立っているのです。神も宗教も幻想の産物なのです。

 神は愛ではありません。人格を持たないからです。
 しかし、もし「神は愛ではないが、愛は神である」と言う人がいたら、私はそれに賛成です。
 神が愛なのではなく、愛こそが神なのです。神というのは、実は愛のことなのです。
 神というとき、自分の信じる宗教に汚染されたさまざまなイメージが伴います。そして、自分の宗教で説かれている神こそ真実で、他の神は偽物だ」などと主張して争っているわけです。愚かなことです。神は無形であり、私たちのイメージをはるかに超えた存在です。神に関するわずかなイメージ、印象、考え、定義といったものを持ってはならないのです。それらは人間が勝手に創り出した虚像にすぎないからです。「神」という言葉を使うことそれ自体が、そもそも間違っているのです。神は名前をつけられるような存在でさえありません。
 しかし、「愛」には、「神」ほど特定のイメージに汚染されていません。個人によって多少のイメージは付随していますが、かなり普遍的なものです。「自分たちの愛こそ本物で、それ以外の愛は偽物だ」などと争ったりはしません。
 そして、私たちを救ってくれるものは、こうした「愛」なのです。
 もちろん、愛があればすべて救われるとは限りません。しかし、愛があるときは、おおいなる救いが得られることは確かです。全世界の人が愛を表せば、化学兵器で子供たちが死んでいくなどということは起こらないのです。天災ばかりはどうしようもありませんが、それでも被災した人をすみやかに救うことはできます。
 神に助けを祈ることは無意味です。せいぜい一時的な慰めになったり、苦しい気持ちを麻痺させる効果があるだけで、いわば麻薬や精神安定剤と本質的には同じものです。助けを求めても助かるとは限らないのが現実だからです。私たちは現実をしっかりと見つめなければなりません。
 おそらく、あと数百年後か、あるいは数千年後になるかもしれませんが、人類はいつか宗教という幻想から目覚め、地上に宗教というものが消えてなくなると思います。そして、その宗教に代わるのが「愛」です。
 私たちは、「神様、助けてください」と祈ることはやめ、「愛に目覚めることができますように」と祈るでしょう。「愛が地上に現れますように」と祈ると思います。
 そうして、愛が地上に顕現されたとき、私たちは真に神を見出すのです。しかし、そのときには誰もそれを「神」とは呼ばないと思います。神と呼んだ瞬間に、神ではなくなってしまうからです。

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神の不在の世界をどう生きていくか?

 母がまた入院した。ふだんは車椅子の生活なのに、(認知症のせいもあるのか)自分は歩けると思ったらしく、勝手に一人で廊下を歩き出して、結局 転倒。最初は顔面の青あざだけですんだと思ったが、施設の人がどうもおかしいというので医師に診せたら、大腿骨の付け根の部分が骨折していることがわかり、急遽、入院ということになった。
 医師の話では、手術して一ヶ月ほどで退院できるらしいが、とにかく母は、しばらく安定した状態のまま施設に過ごすということがない。次々に状態が悪化したり何かが起こったりして、結局施設を離れて病院に入退院を繰り返すパターンだ。そのたびに私の方は時間と労力とお金を費やすことになる。こうした点については以前にも書いたので、これ以上同じことを書くことは単なる愚痴になってしまうので書かないことにする。わざ とそうしているわけではないし、恨みや憎しみといった感情は母にはない。むしろ、母を見ていると、人間というものの哀れさに胸が痛くなる。なぜ苦労して歳を重ねてきて、そのうえ人生の最期になって、「これでもか」といわんばかりの苦しみを味わわなければならないのだろうと。
 母は、夫(私から見れば父)に5年ほど前に死別し、3年ほど一人暮らしをして孤独な生活を味わい、元気でどこにでもよく歩いていったのに、1年くらい前から急に歩けなくなり、車椅子生活になってしまった。そうして、親切な職員に恵まれてはいるとはいえ、しょせんは自分の家ではなく他人と暮らす孤独な生活になってしまった。自分ではもうできないので下の世話を人にやってもらうことになり、体の自由がきかなくなり、ちょっとしたことで体調を崩してぐったりとしてしまう。認知症となり、妄想やら、わけのわからないことを言ったりするようになった。入院すれば点滴を打たれたり手術をされたりといった苦痛に満ちたことをされるなど、要するに高齢者によくある状態を目の当たりにしてきて、自分もいつかこうなってしまうのかと思うと、気が滅入ってしまい、また、高齢となり力もなく弱弱しくなっているのに、こうした辛い経験をしなければならないようにできているこの地上世界、また、そんな地上世界を創造したとされる神に対して、疑問というか、正直なところ、嫌気のようなものさえさしてきているということが、私の今の本音である。

 年末や年始ともなれば、毎年大勢の人が神社仏閣に行って幸せを祈願する。その内容のほとんどは、現世的な幸せであろう。「お金が入りますよう に」「健康で過ごせますように」「結婚できますように」など、そういったお願いを神仏にしているであろう。私自身は、そのようなお願いをしにお参りに行っても、効果はないと思ってきていたので、ほとんど神社仏閣参りのようなことはしたことはない。しても個人的な願いではなく「世界が平和でありますように」といったことを祈るだけである。とはいえ、本当に苦しいときには、神はきっとその声を聞いてくださり、助けてくれるのではないかという思いが払拭されきってしまったわけではなく、やはり心のどこかではそのような思いがあった。
 けれども、今回、母のことをきっかけにして、この世の現実をあらためて見てみれば、祈れば救ってくれる神などいないことは、一目瞭然ではないかと思うことになった。2万人以上が死んだ東北大震災の人々が、誰一人として神に助けてくださいと祈らなかったはずはない。だが無常にも、神はそのような願いを聞き入れることはなかった。他にも私は個人的に心理カウンセラーを通して、本当に気の毒で悲惨な患者さんたちを少なからず見てきた。当時はそのような話を聞いてもそれほど深く心に響いていたつもりはなかったのだが、最近になってそうした患者さんのことが思い出されることが多くなり、やはり実際には心の底に響いていたのかもしれないと思う。ボクシングにたとえるなら、ボディーブローを何回も受けてきて、それがじわじわと今になって応えはじめてきた、といった具合だろうか。

 こうなると、結論は2つしかない。ひとつは、神は存在しないということ。もうひとつは、存在はするが、私たちを救ってくれることは必ずしもないこと(救ってくれることもあるかもしれないが)。また、救いたくてもそれだけの力がないという場合も考えられる。
 この世界という「結果」が存在している限り、その結果を生んだ「原因」はあると考えるのが普通であろう。いわば、この世界を創造したものであ る。その存在を「神」というならば、確かに神は存在するといえるだろう。
 だが、世界を創造したような広大無辺な神は、私たち人間にとってはあまりにも高い存在であり、いちいち私たちの(神から見れば小さい)苦しみなど、相手にしてはいないのではないだろうか。
 神とは違うが、守護霊だとか、心霊的な存在はどうもいるようである。だが、彼らは万能ではない。世間のニュースを見ていると、子供の目の前で 母親が変質者に殺されるとか、そのような事件がときどき報道されている。それを見ると、いったい「守護霊」は何をしていたんだと言いたくなる。いったい何が「守護」霊なのであると。
 今の私は、神は存在するかどうかと問われるならば、こう応えることにしている。「神は存在するが、私たちの期待するような神ではない」と。
 私たちの期待するような神ではないとしたら、神は存在しないも同然ではないだろうか? なぜなら私たちの大半は、神は困ったときの救 世主であると考えているからだ。祈れば救われると考えているからだ。
 しかし、現実は違う。祈っても救ってくれはしない。起こるべきことは起こる。そう思うとき、私は単純に「神なんて存在しない」と言うときもあ る。これは正しくはないかもしれないが、間違いでもない回答であろう。

 だが、人間というものは、神のいないこの世界において、生きていけるものだろうか? 大部分の人は(私から言わせれば)「神はいる」という「妄想」を支えにして生きている。だが、現実をありのままに見て神はいないと悟ったとき、人は神なしで、今後、どのように生きていったらよいのだろうか?・・・・

 以上のようなテーマについて、今度セミナーを開きます。

演題「悟りを開くためのヒント」
日時:8月3日(日) 場所:アルカノンセミナーズ(東京渋谷)
詳細&お申し込み
→アルカノンセミナーズ

 このように、今回は哲学的なテーマについて、私の個人的な見解をご紹介する内容となると思います。かつて行っていたような「悟りを開くための」具体的な瞑想法や修行法という点については、あまり言及しないと思います。テキストも配布する予定はありません。そのおつもりでご来場いただければ幸いに思います。よろしくお願い申し上げます。

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 カルマの教えにとらわれない


 スピリチュアルな教説によりますと、霊的な世界での長い生活に比べると、地上の人生はほんの一瞬でしかないと言われています。たぶん、それは正しいと思います(ただ、こうして地上に生きている間は、実感としては理解し難いものはありますが)。
 ですから、地上ではなるべく苦労をして魂を浄化した方がいいとされています。そのぶん霊的な世界での生活が幸せなものになるからです。逆に、地上で楽をして魂を浄化しないと、そのほんの一瞬にすぎない地上生活は幸せでも、その何百倍も長いとされる霊的世界の生活がたいしたものではなくなってしまう、場合によっては非常に苦しいものになるのだそうです。
 そのため、魂は、我慢できる限界ぎりぎりまで、なるべく苦しみや辛さをこの地上で経験しようとするらしいのです。ほんのわずかな時間だけ我慢して自分を成長さぜれば、あとは非常に長い間、幸せを味わうことができるからです。
 苦しみや辛さを経験しようとするのは、苦しみや辛さを通して自分を進化向上させるためです。言い方を変えれば、人間は、苦しみや辛さを経験しないと、なかなか反省して改めたり、忍耐や優しさや誠実さや寛容さといった美徳を養い、人格を向上させようという気が起きないわけです。まれには、苦しみや辛さをあまり経験しなくても進化向上に努める立派な人もいますが、たとえそんな人でも、本当に力強い真の優しさや寛容さを養うには、やはりある程度の辛さを味わう必要があるのだと思います。

 そこで、私は思ったのですが、いわゆるカルマの法則が真実であるとしますと、善いことをすると善いことが起こる、つまり、この人生が楽しく愉快なものになるわけです。裕福になったり、愛する人と結婚して満たされた家庭生活をしたり、健康で美貌に恵まれたり、名声を得たりするわけです。
 しかし、そのような恵まれた状態では、最初に申し上げたように、魂を進化向上させることはできなくなります。となると、たとえそれで地上生活は幸せとなっても、地上生活よりはるかに長い霊的な生活が幸せではなくなってしまうのではないか?
 こんな疑問が生じたのです。
 だとしたら、「善いこと」をすることが、必ずしも「善い報い」になるとは限らないことになります。むしろ、「悪いこと」をして苦しみの報いを受けた方が、それにより進化向上して、長い霊的生活が幸せになるかもしれないわけです。
 つまり、カルマの法則によれば、人生で苦しみが訪れるのは、過去に悪い行いをしたからです。しかし、苦しみなくして魂が進化向上しないとしたら、その「苦しみ」を招いた過去の「悪業」は、必ずしも「悪業」とは言えない、ということにならないか? と思ったのです。
 とはいっても、悪業をするということは、まだ進歩していないということになりますから、悪業をよいと言っているわけではありません。
 ただ、人生で悪いことが起こると、「これは過去に悪いことをした報いなのだ」といったように、自分を責めたり、くよくよしたりといった、後ろ向きの解釈をすることは、必ずしも正しいことではないように思われるわけです。
 カルマの法則だとか生まれ変わりという現象は、このコーナーで今まで考察してきているように、私たちが考えているほど単純なものではないように思われます。もしかしたら、私たちにはとうてい認識不能のものなのかもしれません。人生に苦しみが訪れたとしても、それは必ずしも過去の悪業の結果ではないかもしれません。
 ですから、人生の不幸を、「カルマの報いだ」と決めつけて(盲信して)落ち込んでしまうのではなく、どのみち真実はわからないのですから、それよりはむしろ、「この不幸や苦しみは、自分を成長させ、本当の幸せに導くためにやってきてくれたのだ」と考え、そういう前向きな姿勢で不幸や苦しみに臨んでいく方がいいと思うのです。

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カルマの法則への疑問④


 今回もまた、カルマの法則への疑問について述べてみたいと思います。
 それは、動物の世界には、カルマの法則はあるのかどうか、という疑問です。
 その前に、動物というのは、果たして生まれ変わりがあるのかどうか、考えてみなければならないかもしれません。日本やインドなどでは、人間は動物に生まれ変わることがあると信じられているようですが、神智学などによりますと、人間は動物には生まれ変わらないと言われています。また、動物は「群魂」と言って、ひとつの個体にひとつの魂ではなく、ひとつの魂を複数の個体が共有しているとも言われています。
 しかし、そのへんの真偽はよくわからないので、とりあえず、動物もひとつの魂を持ち、同じ種類に生まれ変わると仮定して話を進めたいと思います。つまり、猫は生まれ変わっても猫、へびは生まれ変わってもへびだとします。

 さて、そこで、例として猫のことを考えてみます。
 世の中には、可愛がられて一生を送る猫もいれば、人間からひどい虐待を受けて殺されてしまう猫もいます。その場合、その猫は、過去生で悪いカルマを積んだから、その報いを受けたのでしょうか? もし動物の世界にもカルマの法則があるとしたら、そう解釈されるはずです。
 しかし、動物は基本的に本能のおもむくままに生きているわけですから、「悪い行為」とか「善い行為」というものを行うことが、果たしてできるのでしょうか? そのような倫理的な思考や判断力といったものが、あるのでしょうか?
 まったくないとは言えないかもしれませんが、ほとんどないと思うわけです。たとえば、猫が罪もない鳥などをつかまえて殺したりすることがありますが、これは猫にとって「悪のカルマ」ということになるのでしょうか?
 しかし、猫がねずみや鳥などを面白がって捕まえるのは、本能的な習性であり、生得的に持っているものですから、それを「悪のカルマだ」ということには、無理があると思います。つまり、動物というのは、人間のように自由意志によって、倫理的なことを考えたりする能力はないわけで、このことは、善を行ったり悪を行ったりする能力というものがないことを、意味しているのではないでしょうか。

 だとすると、虐待されて苦しんで死んでしまう猫は、なぜ、そのような境遇を受けることになったのでしょうか? それはまったくの偶然であり、因果関係のようなものは存在しないのでしょうか?
 しかし、猫だって、痛みや苦しみを感じると思います。まったくの偶然で、ある猫は平安に一生を終え、ある猫は苦しみ抜いて殺されるということが起こるのは、猫の立場からすると、まったくの不公平という感じがします。
 では、やはり、猫にもカルマの法則があるのでしょうか? だとしたら、そのような悲惨な苦しみに遭うのは、その猫が過去生で悪い行為をしたことが原因になるはずですが、すでに考察したように、猫は善も悪も行うことができない、ただ本能のままに生きているだけですから、過去生で悪い行為をした結果という解釈はできないことになります。
 こう考えると、動物の世界には、少なくても私たちが考えているようなカルマの法則は存在しない可能性が大きくなるわけです。虐待されて死ぬのも、大切に可愛がられるのも、それは偶然であり、因果関係のようなものは存在しないということになります。

 では、仮に、動物の世界にはカルマの法則は存在しないとしましょう。そして、人間の世界だけにカルマの法則が存在するとします。
 しかし、人間と動物とは、そんなにも違いがあるものでしょうか?
 確かに、人間には動物にはない倫理的な判断力というものがあります。それでも、人間と動物との間には、一方ではカルマの法則がない、一方はある、というほど大きな違いがあるとは、ちょっと思えないのです。動物の世界にカルマの法則が存在しないなら、人間の世界にも存在しないと考えた方が、何となく合理的な気もしてしまうわけです。逆に、人間の世界にカルマの法則が存在するなら、動物の世界にも存在すると思うわけです。
 しかし、どう考えても、動物の世界にカルマの法則があるとは思えません。虐待されて苦しみ抜いて死んでしまう猫がいたら、その猫は過去生でそうとう悪いカルマを積んだことになるわけです。たとえば、他の猫を虐待したあげく殺すといったようなことです。しかし、猫が猫を虐待して殺したなどという話は、聞いたことがありません。縄張り争いをして喧嘩をして傷つけるということはよくありますが、死ぬまで攻撃するということは、聞いたことがありません。つまり、虐待されたあげく殺されるほどの悪しきカルマを積むことは、猫にはできないと思うわけです。
 ならば、堂々巡りになってしまいますが、やはり動物の世界にはカルマの法則などはないのでしょうか?
 だとすると、案外、人間の世界にも、カルマの法則などはない、という可能性も否定できないように思えてくるのです。
 皆さんは、どのように思われますでしょうか?
 
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カルマの法則への疑問 ③

 再び、カルマの法則への疑問を取り上げたいと思います。
 今回は、記憶がない前世で犯した悪いカルマの報いを、現世で受けることになるという疑問です。言い方を変えると、現在の苦しみは前世で悪いことをした報いである、という考え方です。
 前世の記憶は、潜在意識の深い層にあるという説もありますが、たとえそうだとしても、通常思い出すことはありませんので、実質的に記憶がないと考えていいでしょう。そして、記憶がないということは、実質的に別の人間だと考えるべきではないでしょうか?
 ひとつ例をあげたいと思います。世の中には、多重人格(解離性同一性障害)の持ち主がいて、ひどい場合、別の人格がやったことはいっさい覚えていない状態になります。そこで、たとえば、自分の他にAという人格がいて、そのAが自分の知らないうちに人殺しをしたとします。自分はそのことはまったく覚えていないとします。
 この場合、その人は、悪いカルマを積んだことになるのでしょうか?
 もちろん、警官は、この人をつかまえて逮捕するでしょう。なぜなら、この人のからだが殺人を犯したからです。しかし、その人自身は、まったく身に覚えがないのです。主観的には、これはまったくの不当逮捕だと思うでしょう。
 同じことは、前世と現世の人間にも言えるのではないでしょうか?
 前世と現世では、確かに「意識する主体(物事を感じる主体)」は、同じ人物かもしれません。しかし、一切の記憶がなく、しかも、からださえもないというのなら、それは実質的に別の人間ではないのでしょうか。

 たとえば、もし私が悪いことをして不正な快楽を味わい、現世のうちに、その報いとして苦痛を味わったのなら、快楽と苦痛という、ある種の収支バランスがとれることになりますし、この苦しみは、悪いことをした報いだといって反省もできるでしょう。
 しかし、前世で悪いことをして快楽を味わったとしても、その記憶がまったくなければ、快楽を味わっていないのと同じです。たとえるなら、別の人格のAがチョコレートを盗んで美味しい思いをしたとしても、その記憶がない自分は、チョコレートを食べていないのと同じなわけです。にもかかわらず、チョコレートを盗んだとして、罰を受けなければならないとしたら、それは理不尽であると思うでしょう。しかも、Aが何をしたのかわからなければ、自分が罰を受けなければならない理由さえわからず、反省しようにも反省できないでしょう。

 カルマの法則というのは、ある種の勧善懲悪といいますか、教育的な意味合いがあるように思われます。つまり、「悪いことをするな。悪いことをすると苦しむぞ」というメッセージのような一面があると思うわけです。
 しかし、前世の記憶がなければ、現世で苦しみが訪れても、その原因がわからないわけですから、反省しようにもできません。むしろ、「なんで何も悪いことなどしていないのに、こんなに苦しまなければならないんだ」と思ってしまうのが自然でしょう。そうして、いじけてしまったり、根性が曲がったりして、ますます悪い行為に走ってしまうことの方が多いのではないかという気もします。
 つまり、カルマの法則は、一見すると、人間を悔い改めさせて立派にさせるかのような法則と考えられているふしがありますが、実際には、私たちが思っているほどには、人間を向上させていないような気がするわけです。むしろ、ますます理不尽で不条理な思いを湧き上がらせ、根性を悪くさせているのではないかとさえ思われるのです。
 もちろん、カルマの法則を信じていれば、「自分が苦しむのは前世で悪いことをしたからだろう」と納得して根性を曲げたりしないでしょうし、あるいは、「来世で苦しまないように、現世では悪いことはしないようにしよう」と考えて、悪に対する抑止力となるかもしれません。そういう利点があることは認めますが、ここで論じているのは、カルマの法則が本当に存在するかどうかであり、利点があるかどうかではありません。「利点があれば存在しなくても信じた方がいい」という考えは、今はしないことにします。

 世の中には、たくさんの悲惨な人、不幸な人がいます。カルマの法則が真実なら、そういう人たちは、過去生で、そうとう悪いことをしたことになります。しかしそのなかには、善良な人もいるわけです。善良になっているのに、過去生の悪いカルマの報いを受けなければならないとしたら、カルマの法則とは、単なる罰を与えるだけの法則であり、人間を向上させようという側面は、存在していないような気がします。たとえば、子供が何か悪いことをして、しかしそのことを反省し、すっかり善い子になって、もうしませんと泣きながら懇願しているのに、「悪いことは償わなければならない」といって、子供にムチを打つような親が、いるでしょうか? それに何の意味があるというのでしょう? それはあまりにも無慈悲ではないでしょうか?
 もし神が、キリスト教でいうような「愛」を持っているなら、カルマの法則のような無慈悲な法則を神が創造したというのは、考えにくいものがあります。
 もし、カルマの法則に、人間を向上させるという目的がないならば、この法則に意味があるとは思えないわけです。

 私たちが現世で苦しみ悩んでいるのは、本当に過去生で悪いことをした結果なのでしょうか?
 たとえば、釈迦は解脱したとされるわけですが、解脱したということは、過去のカルマのすべてを浄化したことになるはずです。そして、解脱した人は、もう二度と悪いカルマを積むこともしないでしょう(さもなければ、解脱の定義を見直さなければなりません)。
 しかし、釈迦はその後も、敵対勢力から妨害を受けたり、一説によるとそのために怪我をしたとか、そして晩年は、食中毒で(少なくても肉体的には)苦しみながら死んでいったわけです。
 これらは、もしカルマの法則が事実だとするなら、釈迦は解脱後も悪いカルマを積んだことになり、その報いを受けたことになります。つまり、もしもカルマの法則が事実なら、釈迦は解脱していなかったことになります。イエス・キリストなどはもっと悲惨で、十字架にはり付けにされたわけですから、カルマの法則が事実なら、イエスはそうとう過去生で悪いことをしたということになるでしょう。そんな悪い人が、果たしてあれほど偉大な聖者となるものなのでしょうか?
 このように考えると、私たちの苦しみや不幸というものは、必ずしもカルマの法則だけで説明がつくとは思えないのです。

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