FC2ブログ

心の治癒と魂の覚醒

        

立派な本を読んでも実践できないのはなぜか?

 まずはご報告とお知らせから。 
 今月3月20日/21日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「高次からの助けを得る」というテーマで行いました。本当の瞑想の目的とは何か、また瞑想修行を成就させるには、神(仏・守護霊・守護神)の助けがいかに大切か、またいかに神からの助けを得ることができるか、などを紹介しています。ぜひダイジェスト版をご覧ください。
 動画視聴
 来月は哲学教室(4月17日/18日)で、「イエスの教え」というテーマで行います。「キリスト教」というより、イエスの教えの真実は何であったのかについて、ご紹介していく予定です。参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで 

 それでは本題にうつります。
 むかし、図書館で道徳に関する本を借りてきたことがあったのですが、ページを開いて驚きました。いたるところに線や書き込みがあったからです。
 それを見ると、そうとう熱心に勉強した様子が伺われるのですが、しかし図書館の本は公共のものです。そこに、書き込みをすることは、道徳的にゆるされることではありません。
 私は不思議に思いました。ここまで道徳に関する本を熱心に学んでいた(ように思われる)にもかかわらず、反道徳的な行為をどうしてできるのだろうかと。
 書き込みをした人は、道徳に関する知識は得たでしょうが、道徳的には生きなかったのでしょう。しかし道徳というのは、知識ではなく、あくまでも実践であるはずです。いくら道徳に関する知識を学んでも、道徳にかなった生き方をしなければ、本当に道徳を理解したことにはならないと思います。
 このような「知ること」と「実践」との解離について、今日までずっと考え続けてきました。立派な学問をしているのに、人間的には決して誉められない人もたくさん見てきました。しかし、人のことはともかく、自分はどうだろうかと考えなければなりません。世の中には、人を正すことには熱心なのに、自分を正すことにはほとんど無関心な、ある種の「お節介」な人たちがいます。そういう人も、「知識と実践の乖離」がある人だと思います。

 さて、自分自身のことを考えてみると、やはりかなりの乖離があることが感じられます。私は仕事面でもプライベートでも、哲学や宗教など、立派なことが書かれてある本を常に読んでいるのですが、はたしてその内容通りの生き方をしているかというと、もうお話にならないくらいできていません。本を読んでいると、自分が立派になったような錯覚を覚えますが、実際に自分の生き方を振り返ってみると、まったく立派ではない自分を発見して少なからぬショックを受け、落ち込みます。こうなるのは、「自分は立派である」という自惚れがあったからでしょう。
 いずれにしろ、これでは立派な本を読む意味がありません。知識は身につきますから、学者として生計を立てる手段とするならいいかもしれませんが、立派な本を書いた人は、そうした頭だけの学者やインテリになってもらうためではなく、あくまでも立派な生き方ができる人になってもらいたいという願いを抱いていたはずです。
 ほとんどの人は、立派な本を読んでも「ああ、面白かった、感動した、いい本だなあ」と思うだけで、実際に立派な生き方をして立派な人になろうとする努力を始めません。始めても短期間でやめてしまいます。

 なぜこうなるかというと、いろいろ理由はあるでしょうが、やはり何といっても「情熱」が欠如しているからではないかと思います。もしも「立派な生き方ができるようになったら十億円あげる」と言われたら、ほとんどの人はそのために真剣な努力をするはずです。あるいは逆に「立派な生き方をしなければ全財産を失った上に悪い病気になってものすごく苦しみながら死ぬ」となったら、やはり情熱的になって必死な努力をするでしょう。
 このように、結局は「情熱」ではないかと思うわけです。
 しかし、現実には、立派な生き方をしても、十億円はもらえないし、立派な生き方をしなくても、全財産を失って病気で苦しんで死ぬということもありません。つまり、何の得もなければ損もないので、本気になって立派な生き方を実践しようとは思わないのです。

 ところが、いわゆる聖人と呼ばれる人たちは、現世的には何の得も損もないのに、一生懸命に立派な生き方ができる人間になるように、情熱的に努めました。いったいそれはいかなる情熱だったのでしょうか?
 人によっては、天国というすばらしい場所に行けるとか、あるいは(立派に生きなければ)地獄というひどい場所に行ってしまうということが情熱になっていることもあるかと思いますが、そればかりではありません。何の報酬も期待せず、何の脅威も怖れず、ただ立派になること自体を目的にしてそうしたのです。
 何かの報酬をめあてに、あるいは罰を怖れて、何かをやるというのは、動物でもできることです。動物に芸を教えるために調教するときは、報酬あるいは罰を用います。しかし私たち人間は、単なる動物以上の存在です。すなわち、何の報酬もなくても、あるいは恐怖で煽られなくても、つまりはまったく無条件であっても、「そうすること自体に価値がある」という理由で何かをやる能力が備わっているのです。
 そのような能力に目覚めようとする道が「霊的な道」なのだと思います。
 霊的な道は、「愛」に通じる道です。なぜなら、愛は報酬めあてではなく、まったくの無条件によって為されるからです。
 逆にいえば、愛がある人、本当に愛することを知っている人であれば、無条件に立派な生き方をめざすことでしょう。聖人といわれる人たちは、そういう人たちだったのでしょう。そういう人が立派な本を読めば、それを通して立派な生き方を実践できるようになるのだと思います。立派な本を読んでも実践できないのは、愛がないからです。

スポンサーサイト



修徳の行 | コメント:2 | トラックバック:0 |

自分を変えるために何から始めるか?

 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月5日と6日、イデア ライフ アカデミー哲学教室第10回「易経に学ぶ運命の法則 1」というテーマで授業を行いました。易経は孔子も熱心に学んだ生きる指針の書であり、占いの書であり、何よりも宇宙の法則と合致して生きるための「宗教書」です。授業では、易の基本的知識から始まり、占い方のかなり高等なテクニックまでを紹介しました。ダイジェスト版では、易経を学ぶ意義についての話を収録しています。ぜひご覧ください。
 動画視聴はこちらから
 なお、今月19日と20日は瞑想教室で、「怒りを捨てる瞑想」というテーマで行います。怒りは「三大煩悩」のひとつにあげられるくらい、人生において破壊的な作用をもたらし、私たちを苦しめる最大のものです。その怒りを捨てることができれば、人生の幸せに向けて非常に大きな一歩を踏み出すことになり、瞑想も格段に上達していきます。ご参加、お待ちしています。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで
 
 さて、本題に入ります。
 この世のあらゆる生き物は進化しています。進化というと、肉体的な形態や機能だけを思い浮かべますが、脳も肉体の一部なわけですから、脳の進化、すなわち精神の進化もまた、あらゆる生物に課せられたものだと言っていいでしょう。
 人間の場合、おそらく脳をのぞいた身体的な進化は、かなり完成に近い水準に達していると思います。というのは、人間は脳が発達したおかげで、いろいろな環境に適応できるようになっているからです。たとえば、寒い場所で生きなければならないとしても、そのために体毛を濃くする必要はないわけです。
 そうなると、人間に残された進化の課題は、主に精神面での進化ということになると思います。
 進化とは、「より生存と繁栄に適した存在になること」です。
 私たちは、自分とは異なるさまざまな他者と共存していかなければなりません。さもないと生存と繁栄が難しくなるからです。
 そして、自分とは異なる他者と共存していくために必要な精神的な特徴は何かといえば、それは「寛容さ」です。つまり、自分とは異質な人も受け入れて仲良くやっていく「広い心」です。したがって、人間は進化するにつれて、寛容さ、心の広さを持つようになっていくはずです。
 しかし、この寛容さ、心の広さという美徳を養うことは、想像するよりも難しいのです。
 人はどうしても、自分と気心の合った人とだけ付き合いたくなります。自分と気の合わない相手は、たとえその相手が立派な人であっても、仲良くしたくないのです。たいていそういう場合、単純に「好き」とか「嫌い」とか、馬が合うとか合わないとか、生理的に受け付けないとか、そういった感情的な理由で仲良くしたり拒絶したりします。
 もちろん、嫌いな人と必要以上に仲良くするべきだ、と主張したいわけではありません。相手が間違っているのに無理に合わせなければならない、ということではありません。どうしても考え方が合わなければ、そのときは別れても仕方がないと思います。
 しかし、よほど常軌を逸した人でない限り、とりあえずどんな人とでも、そつなく仲良くできる、という人こそが、成長し進化した人の特徴です。好きな人とだけ仲良くできるがそうではない人とはやっていけないと、最初からそのような態度しかできないのは、幼児的な精神の持ち主です。
 人間は、さまざまなタイプの人と交わることで、さまざまなことを学んでいき、成長進化していくものです。自分と同質の人とだけ交わっていても成長しません。
 もしも、自分を変えようと真剣に望むなら、まずは、どんな人でもその異質性や個性を受け入れて仲良くやっていく、そうした寛容さ、心の広さを養うことから始めることを勧めます。こうした寛容さ、心の広さという美徳を養うことができれば、他のさまざまな美徳も修得しやすくなるはずです。

修徳の行 | コメント:2 | トラックバック:0 |

自分と運命を変えるための大切な作業


 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月21日と22日、イデア ライフ アカデミー瞑想教室第9回「袁了凡に学ぶ無条件の生き方と瞑想」というテーマで授業を行いました。袁了凡(えんりょうぼん)は中国、明の時代の人で、易の達人から不吉な運命を宣告され人生を諦めますが、禅の高僧から運命転換の方法を伝授され、見事に運命を好転させたという人物です。しかし単に運命を好転させたというだけの話ではなく、そこに、真の瞑想をする上での貴重な教訓を学ぶことができるのです。瞑想をしていると、さまざまな雑念に悩まされますが、その雑念を取り払うために、おそらくもっとも効果的な方法を、袁了凡から学ぶことができます。運命を好転させたい人、深い瞑想状態を達成したい人は必見です。ぜひダイジェスト版をご覧になってください。
 瞑想教室第9回動画(ダイジェスト版)

 次回10月と11月の哲学教室は、今回の袁了凡の話と密接な関係がある「易」について紹介します。「易経に学ぶ運命法則」というテーマで、易の哲学から実践までを解説する予定です。易は人生百般、あらゆる悩み事に対する的確な答えを出してくれます。易は人生という道を照らす灯火とも言えます。易を学んでおいて損はありません。易は人生最強の武器となるでしょう。ご参加、お待ちしています。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで

 さて、本題に入ります。
 冒頭でご紹介したように、袁了凡は積善を重ねるという「禅の修行」によって運命を好転させたわけですが、その際に取り入れたのが、師匠の雲谷(うんこく)禅師から伝授された「効過格表」です。これは、どのような行為が積善で、どのような行為が積悪になるか、それぞれ50ずつ具体的に記したもので、いわばバランスシートということになります。たとえば、「こういうことをするとプラス1点」とか「プラス5点」、「プラス50点」というように、あるいは「こういうことをするとマイナス5点」といったように書かれてあるのです。袁了凡は、これに基づいて積善を重ねていったわけです。毎日必ず、一日の終わりに自分の行為を振り返り、積善と積悪の両方を考慮して点数をつけていきました。今日なじみのある言葉で表現すれば「ポイント」ということになるでしょうか。
 そして、とりあえず、3千ポイントをゲットすることを目標にしたのです。彼はこの目標を達成するのに十年かかりました。その後も引き続き3千ポイントをめざしたのですが、今度はもっと早く達成することができました。やはり、積善という行為も、慣れといいますか、熟達といいますか、続ければそれだけやりやすくなるのでしょう。また、彼が役人として出世して権力を持ったことも大きな理由のようです。というのも、権力があれば、大きな積善ができるようになるからです(逆に大きな積悪をしてしまうことにもなりかねませんが)。

 それはさておき、私たちの参考になるのは、袁了凡が自らの積善をポイントという具体的な数値に換算して記録していったことです。
 何をするのもそうですが、「具体的な数値に換算して記録する」ことは大変に重要です。たとえば会社組織は必ずこれを行っています。毎月、どれくらい売上があって、どれだけ経費がかかったかなど、漠然としか把握していない経営者はいないでしょう。しっかりと具体的な数値として記録しています。そうすることで、どれくらい利益が出ているのか、どれくらい会社が発展しているのか、また、今後、さらに発展するにはどうすればいいか、といったことを知るための貴重なデータになるわけです。
 会社の発展も、人間個人の発展も、そのやり方は基本的には同じではないでしょうか。
 すなわち、自分がどれくらい積善して発展しているのか、それを具体的な数値に換算して記録するということが、とても重要になってくるのです。ただ漠然とした感覚で自らの成長をめざしても、あまりうまくいきません。
 そこで皆さんに提案したいのは、袁了凡が行ったように、毎日必ず、一日の終わりに、自分の行為を振り返って、点数をつけることです。
 ただ、袁了凡が用いた功過格表にしたがって厳格な点数をつけるのは、かなり煩雑になるので、ある程度、感覚的な点数でもかまわないと思います。
 具体的にはこうします。
 善いことと悪いこと、それぞれ5点評価とします。すなわち、
 善いことに関しては、5点=大変に善いことをした。4点=善いことをした。3点=そこそこ善いことをした。2点=少し善いことをした。1点=わずかに善いことをした。
悪いことに関しては、5点=大変に悪いことをした。4点=悪いことをした。3点=そこそこ悪いことをした。2点=少し悪いことをした。1点=わずかに悪いことをした。
 そうして、善い点数と悪い点数をノートに記入し、その差(積善ー積悪=)を出します。たとえばこんな具合です。
 「今日は、電車でお年寄りに席をゆずったり、仕事で失敗した同僚を励ましてあげたりしたから、全体としてプラス4点。しかし、ちょっとしたことで腹を立てて部下にきついことを言ってしまったので積悪が2点、合計で今日の評価はプラス2点」。
 ときには、マイナスの点数になることもあるでしょう。人によってはマイナスになる日の方が多くなるかもしれません。
 そして、ノートに今日の日付と点数を記入します。その点数を一週間で集計し、一ヶ月で集計し、3ヶ月で集計し、1年で集計していきます。できれば、そうして出した数値をグラフにすると、より一層、自分の発展度合いがよく把握できるかもしれません。

 こうしたことを毎日続けることは、よほど向上心がないと難しいです。途中で飽きたり、馬鹿馬鹿しく感じられたり、やるのを忘れたりして、いつのまにかやらなくなってしまいます。だから、ほとんどの人は変われないのです。
 繰り返しますが、変わるためには、自分の成長度合いを具体的な形で評価できる数値的なデータがとても重要になってくるのです。
 たとえるなら、あなたは「自分株式会社」の社長になったようなつもりで、経営者の発想で、自分自身を評価することが大切なのです。そうして忍耐強く自分を分析・評価していくならば、人は必ず変われます。運命は必ず好転していきます。

修徳の行 | コメント:0 | トラックバック:0 |

 全託 その2


 神にすべてを任せ、何が起ころうと「これでよいのだ」と思える心境は、およそすべての聖者と言われる人たちが到達する、おそらくは究極の美徳ではないかと思います。
 しかし、それは何と難しいことでしょうか。
 それ以前に紹介した忍耐・自制・平静・謙虚・寛容・超然・陽気の美徳も、それを養うのは難しいものですが、まったくできなくはないでしょう。十分なレベルに至るには遠いとしても、努力すれば少しずつでも養っていけるものです。
 しかし、全託は別格です。口先だけで「これでよいのだ」と言うことはできたとしても、本当に心の底からそう思うことは非常に難しいのです。ある聖者は「本当に神に全託したのなら、その人はいかなる悲しみを感じることはないはずだ。少しでも悲しみを感じるのであれば、まだ完全に全託していない証拠である」と言っています。
 確かに、「すべては神がうまくやってくれる、何があろうとこれでよいのだ」と完全に思うことができたなら、人生において、悲しみも、いかなる悩みも心配も恐怖もないでしょう。しかし、そこまでの境地に達することは、何と難しいことでしょうか。

 また、世俗に生きる私たちは、このようにも思ってしまうのです。
 すなわち、聖者のほとんどは独身であり、一匹狼的な生き方をしています。自分はどうなろうといいかもしれません。しかし、家族を抱えて養っていかなければならない立場の人は、「何があってもこれでよいのだ」などと、なかなか思うことはできないわけです。
 とりわけ、会社の社長のようなさらに大きな責任を持つ立場にある人は、会社がどうなろうと「これでよいのだ」などと思うことはゆるされないでしょう。倒産したら社員とその家族を路頭に迷わせることになるでしょう。社長は、社員とその家族の生活を守る義務と責任があるのです。必死になって、経営を順調にしていかなければならないのです。とても「神にすべてを任せる」などとは言っていられないし、そのようなことは許されないでしょう。
 もちろん、「神にすべてを任せる」と言っても、何もせず成り行きに任せるといったことではなく、あくまでも気持ちの問題であり、外面的な行動としてはできる限りの努力はしなければならないわけです。ただ、あまりにも厳しい状況の中では、そのような全託の気持ちになることは非常に難しいわけです。今にも台風で吹き飛ばされるのではないかと思われる山小屋の中にいて、心安らかにすべてを任せる心境になれと言われるようなものです。

 ただ、これだけは確かに言えるでしょう。
 それは、「あせったり心配しても何にもならない」ということです。あせったり心配しても、傾いた会社の経営がうまくいくでしょうか? むしろ、そのような気持ちはマイナスに働いてしまうでしょう。あせりや不安は、何の得にもならず、無駄なことであり、有害でさえあるということです。そのような動揺する気持ちを抱くよりは、全託の気持ちになって安心した方が、ずっと有益であることは確かです。
 全託の美徳を養うには、まずこの「あせったり不安を抱いても何の得にもならない」ということを、肝に銘じることが大切ではないかと思います。そうすれば、少なくても全託の境地を体得しようという動機は強いものになっていくはずです。
 しかしそうはいっても、やはり困難な状況に置かれれば、あせりや不安の気持ちが出てきます。そのような気持ちを出してはいけないんだ、無駄であり、何の得にもならないんだということは頭でわかっていても、自然に、出てきてしまうわけです。

 では、いったいどうすればいいのでしょうか?
 私は思うのですが、全託の美徳というものは(おそらく完全な意味では他の美徳も)、自力の末につかみとることはできないのです。最終的には、神の恩恵のようなものによって、全託の美徳は“与えられる”のではないかと思うのです。もちろん、努力はしていくべきです。全託できるように、力の限りがんばっていくべきであり、そうした努力があればこそ、神が目を向けてくれて、その慈悲によって、全託できるようになっていくのではないかと思うのです。
 こう考えると、人間というのはまったく救いがたい存在であり、自分自身を立派にさせることさえできないのです。「自分で自分を立派にさせることができる」などと考えること自体、傲慢なのかもしれません。
 くどいようですが、努力はしなければなりません。そうして、全託しようにも全託できない自分自身を嘆き、葛藤し、苦悩し、「全託など、とてもできない!」と絶望しきった末に、「全託」の方からやってきてくれるものではないかと思うのです。


修徳の行 | コメント:2 | トラックバック:0 |

8.全託 その1


 全託とは、宗教的な用語であり、神(高い霊的存在の導き)にすべてを任せる境地のことです。何が起ころうと「これでいいのだ。神のご意志にゆだねます」と感謝して受け入れること、自分の将来の成り行き、生死に至るまで、「すべて神がいいように導いてくださるのだ」と深く信じる境地のことです。いわば、信仰の奥義とでも言うべきもので、高い霊的境地を開拓した人が持つ美徳です。
 言うまでもありませんが、「神にすべてを任せる」といっても、自分は何も努力せず怠惰に過ごすという意味ではありません。自分としては一生懸命に努力はしても、自力や我力で行っているのではなく、そうした努力さえも、自分ではなく神がやってくださっているのだと思う境地です。
 そして、どのような結果になろうとも、すべてはこれでよいのだと全面的に肯定し、何の不安もなく安心していること、いっさい力むことなく、ありのままに、自然法爾の境地で生きることです。浄土真宗の親鸞などが、この境地に達したことはよく知られていますが、宗教の違いや国の東西を問わず、信仰を究めた人、すなわち、霊的に高い境地に達した人は、みなこの「全託の美徳」を身につけています。
 あるロシアのキリスト教系神秘家は次のように言っています。
「私たちはこのことがあのようにではなく、このようになぜ起こったのかを捜し出そうとしてはならない。むしろ子供のように従順に私たちの天の父の聖なる意志に身をゆだね、私たちの魂の底から、“み旨の行われますように”と言いなさい。ただこう言いなさい。そうすれば気分は喜びに満ちるでしょう」(『ロシアの神秘家たち』セルゲーイ・ボルシャコーフ著 古谷功訳 あかし書房より)
 魂は、こうした「全託の美徳」を養うために地上にやって来て「負荷」をかけるのです。しかし、全託の美徳は、もっとも高い霊的な境地であるため、そのための負荷、すなわち体験は、それなりに厳しい傾向があるようです。
 たとえば、自分の力ではどうにもならないような大きな困難や障害に見舞われ、自力や我力でどうにかしようとする自我(エゴ)を徹底的にうち砕かれるのです。それは経済的な問題であったり、家庭的な問題、健康問題などざまざまですが、いずれにしても、自力であがくことを断念し、観念しなければならないような体験です。ときにはまったくの絶望のどん底と思われるものです。人間は、そこまで追いつめられてはじめて、すべてを神にゆだねる心境になるものなのかもしれません。
 ですから、絶体絶命の、自分の力ではどうにもならないほどの困難に見舞われたら、それは「全託の美徳」を養う目的で訪れたのだととらえ、全託の境地を確立できるよう努力するべきなのです。ところが不思議なことに、そのような心境になると、不思議なことに、何らかの仕方によって思わぬ方向から道が開かれることが多いのです。
 ロシアのキリスト教系神秘家であるパルフェーニィは次のように言っています。
「信頼を必ず保ちなさい。そうすれば神は人に飢え死にすることや、何かに困ることを決してお許しにならない。けれども人がどんなにわずかでも疑い始めたり、もしくは人間的な助けを求めたり、自分自身を頼ろうとし始めるなら、神の摂理は人を見捨てる」
(『ロシアの神秘家たち』セルゲーイ・ボルシャコーフ著 古谷功訳 あかし書房より)
 ただし、最初からこうした救いを期待していては全託にはなりませんので、どのような結果も受け入れる覚悟でなければなりません。
 いずれにしても、全託の美徳は、あらゆる美徳のなかでも最高に高い美徳ではないかと思われます。
 それゆえに、この全託の美徳を身につけることは、何と難しいことかと思うのです。続きは次回お話させていただきたいと思います。


修徳の行 | コメント:0 | トラックバック:0 |
| ホーム |次のページ>>