心の治癒と魂の覚醒

        

 全託 その2


 神にすべてを任せ、何が起ころうと「これでよいのだ」と思える心境は、およそすべての聖者と言われる人たちが到達する、おそらくは究極の美徳ではないかと思います。
 しかし、それは何と難しいことでしょうか。
 それ以前に紹介した忍耐・自制・平静・謙虚・寛容・超然・陽気の美徳も、それを養うのは難しいものですが、まったくできなくはないでしょう。十分なレベルに至るには遠いとしても、努力すれば少しずつでも養っていけるものです。
 しかし、全託は別格です。口先だけで「これでよいのだ」と言うことはできたとしても、本当に心の底からそう思うことは非常に難しいのです。ある聖者は「本当に神に全託したのなら、その人はいかなる悲しみを感じることはないはずだ。少しでも悲しみを感じるのであれば、まだ完全に全託していない証拠である」と言っています。
 確かに、「すべては神がうまくやってくれる、何があろうとこれでよいのだ」と完全に思うことができたなら、人生において、悲しみも、いかなる悩みも心配も恐怖もないでしょう。しかし、そこまでの境地に達することは、何と難しいことでしょうか。

 また、世俗に生きる私たちは、このようにも思ってしまうのです。
 すなわち、聖者のほとんどは独身であり、一匹狼的な生き方をしています。自分はどうなろうといいかもしれません。しかし、家族を抱えて養っていかなければならない立場の人は、「何があってもこれでよいのだ」などと、なかなか思うことはできないわけです。
 とりわけ、会社の社長のようなさらに大きな責任を持つ立場にある人は、会社がどうなろうと「これでよいのだ」などと思うことはゆるされないでしょう。倒産したら社員とその家族を路頭に迷わせることになるでしょう。社長は、社員とその家族の生活を守る義務と責任があるのです。必死になって、経営を順調にしていかなければならないのです。とても「神にすべてを任せる」などとは言っていられないし、そのようなことは許されないでしょう。
 もちろん、「神にすべてを任せる」と言っても、何もせず成り行きに任せるといったことではなく、あくまでも気持ちの問題であり、外面的な行動としてはできる限りの努力はしなければならないわけです。ただ、あまりにも厳しい状況の中では、そのような全託の気持ちになることは非常に難しいわけです。今にも台風で吹き飛ばされるのではないかと思われる山小屋の中にいて、心安らかにすべてを任せる心境になれと言われるようなものです。

 ただ、これだけは確かに言えるでしょう。
 それは、「あせったり心配しても何にもならない」ということです。あせったり心配しても、傾いた会社の経営がうまくいくでしょうか? むしろ、そのような気持ちはマイナスに働いてしまうでしょう。あせりや不安は、何の得にもならず、無駄なことであり、有害でさえあるということです。そのような動揺する気持ちを抱くよりは、全託の気持ちになって安心した方が、ずっと有益であることは確かです。
 全託の美徳を養うには、まずこの「あせったり不安を抱いても何の得にもならない」ということを、肝に銘じることが大切ではないかと思います。そうすれば、少なくても全託の境地を体得しようという動機は強いものになっていくはずです。
 しかしそうはいっても、やはり困難な状況に置かれれば、あせりや不安の気持ちが出てきます。そのような気持ちを出してはいけないんだ、無駄であり、何の得にもならないんだということは頭でわかっていても、自然に、出てきてしまうわけです。

 では、いったいどうすればいいのでしょうか?
 私は思うのですが、全託の美徳というものは(おそらく完全な意味では他の美徳も)、自力の末につかみとることはできないのです。最終的には、神の恩恵のようなものによって、全託の美徳は“与えられる”のではないかと思うのです。もちろん、努力はしていくべきです。全託できるように、力の限りがんばっていくべきであり、そうした努力があればこそ、神が目を向けてくれて、その慈悲によって、全託できるようになっていくのではないかと思うのです。
 こう考えると、人間というのはまったく救いがたい存在であり、自分自身を立派にさせることさえできないのです。「自分で自分を立派にさせることができる」などと考えること自体、傲慢なのかもしれません。
 くどいようですが、努力はしなければなりません。そうして、全託しようにも全託できない自分自身を嘆き、葛藤し、苦悩し、「全託など、とてもできない!」と絶望しきった末に、「全託」の方からやってきてくれるものではないかと思うのです。


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8.全託 その1


 全託とは、宗教的な用語であり、神(高い霊的存在の導き)にすべてを任せる境地のことです。何が起ころうと「これでいいのだ。神のご意志にゆだねます」と感謝して受け入れること、自分の将来の成り行き、生死に至るまで、「すべて神がいいように導いてくださるのだ」と深く信じる境地のことです。いわば、信仰の奥義とでも言うべきもので、高い霊的境地を開拓した人が持つ美徳です。
 言うまでもありませんが、「神にすべてを任せる」といっても、自分は何も努力せず怠惰に過ごすという意味ではありません。自分としては一生懸命に努力はしても、自力や我力で行っているのではなく、そうした努力さえも、自分ではなく神がやってくださっているのだと思う境地です。
 そして、どのような結果になろうとも、すべてはこれでよいのだと全面的に肯定し、何の不安もなく安心していること、いっさい力むことなく、ありのままに、自然法爾の境地で生きることです。浄土真宗の親鸞などが、この境地に達したことはよく知られていますが、宗教の違いや国の東西を問わず、信仰を究めた人、すなわち、霊的に高い境地に達した人は、みなこの「全託の美徳」を身につけています。
 あるロシアのキリスト教系神秘家は次のように言っています。
「私たちはこのことがあのようにではなく、このようになぜ起こったのかを捜し出そうとしてはならない。むしろ子供のように従順に私たちの天の父の聖なる意志に身をゆだね、私たちの魂の底から、“み旨の行われますように”と言いなさい。ただこう言いなさい。そうすれば気分は喜びに満ちるでしょう」(『ロシアの神秘家たち』セルゲーイ・ボルシャコーフ著 古谷功訳 あかし書房より)
 魂は、こうした「全託の美徳」を養うために地上にやって来て「負荷」をかけるのです。しかし、全託の美徳は、もっとも高い霊的な境地であるため、そのための負荷、すなわち体験は、それなりに厳しい傾向があるようです。
 たとえば、自分の力ではどうにもならないような大きな困難や障害に見舞われ、自力や我力でどうにかしようとする自我(エゴ)を徹底的にうち砕かれるのです。それは経済的な問題であったり、家庭的な問題、健康問題などざまざまですが、いずれにしても、自力であがくことを断念し、観念しなければならないような体験です。ときにはまったくの絶望のどん底と思われるものです。人間は、そこまで追いつめられてはじめて、すべてを神にゆだねる心境になるものなのかもしれません。
 ですから、絶体絶命の、自分の力ではどうにもならないほどの困難に見舞われたら、それは「全託の美徳」を養う目的で訪れたのだととらえ、全託の境地を確立できるよう努力するべきなのです。ところが不思議なことに、そのような心境になると、不思議なことに、何らかの仕方によって思わぬ方向から道が開かれることが多いのです。
 ロシアのキリスト教系神秘家であるパルフェーニィは次のように言っています。
「信頼を必ず保ちなさい。そうすれば神は人に飢え死にすることや、何かに困ることを決してお許しにならない。けれども人がどんなにわずかでも疑い始めたり、もしくは人間的な助けを求めたり、自分自身を頼ろうとし始めるなら、神の摂理は人を見捨てる」
(『ロシアの神秘家たち』セルゲーイ・ボルシャコーフ著 古谷功訳 あかし書房より)
 ただし、最初からこうした救いを期待していては全託にはなりませんので、どのような結果も受け入れる覚悟でなければなりません。
 いずれにしても、全託の美徳は、あらゆる美徳のなかでも最高に高い美徳ではないかと思われます。
 それゆえに、この全託の美徳を身につけることは、何と難しいことかと思うのです。続きは次回お話させていただきたいと思います。


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7.陽気


 陽気とは、明るく楽観的であることです。心配したり取り越し苦労をせず、どのようなことにも肯定的な面を見て、前向きに考えることです。周囲を明るくほがらかにさせる雰囲気を放つことです。
 この陽気であることが、「美徳」のなかに含まれていることを、奇異に感じる人もいるかもしれませんが、陽気であることは、実は霊的レベルの高さの一端を示しているのです。
 聖人というと、暗い顔をした気難しい堅物といった印象を持たれがちですが、それは誤解です。少なくても真の聖人、すなわち高い霊的境地を開発した人は、明るく陽気でほがらかで、ユーモアのセンスさえ発揮するものなのです。ときにはおおらかに笑ったりするかもしれません。喜ばしいことはもちろん、苦労や辛いことさえも楽しもうとするでしょう。どんなときでも悲観的にならず、希望を持ち、未来を信じる心を忘れません。イエスは「明日を思い煩うな」と言いましたが、どんな状況でも絶望せず、陰気にならず、陽気に構えているのです。
 もちろん、だからといって、後先も省みず有頂天になって馬鹿騒ぎをするような世俗的な陽気さとは違います。しっかりとした理性と信念に基づく陽気さなのです。
 いわゆる「真面目で善い人」の中には、どこか暗い感じの人がいます。おそらく「自分はダメだなあ」とか「世の中はなぜこうも悲惨なことがあるのだろう」などと考えているからではないかと思いますが、暗くなっても何の得もありません。むしろ、周囲を暗くさせて人に迷惑をかけるとさえ言えるでしょう。
 あまりにも自分にとらわれていると、暗くなる場合が多いのです。自分のことばかりに意識を向けていることは、ある種の自己中心性です。そのような時間と労力があれば、もっと世のため人のために奉仕することもできるでしょう。暗いというのは、ある種のエゴイズムに由来していることが多いのです。
 高い霊的世界に昇るほど、自分のことより他者のことを考えるようになります。そして、光のエネルギーが強くなりますから、高い世界ほど「明るい」のです。自分のことより他者のことを考えるほど明るくなるのです。
 ですから、明るくならなければなりません。陽気にならなければならないのです。明るく陽気であるということも、魂の力のひとつなのです。
 そして、その「陽気の美徳」という魂の力を鍛えるために、私たちは地上にやって来たわけです。そうして、暗くなるような体験、悲観的になるような体験という「負荷」をかけ、魂を鍛える計画を立てるのです。
 その典型的な実例をひとつあげてみましょう。
 黒住教という神道系の宗教の開祖である黒住宗忠は、大変な親孝行として知られていましたが、32歳のとき、そのもっとも敬愛している大切な父と母の両方を次々に病気で失うという悲劇に見舞われ、悲しみのあまり肺結核となってしまいました。そして2年後、いよいよ死を覚悟していた冬至の朝、太陽に向かって祈りを捧げたとき、天照大神と一体となるという神秘体験をし、その後、三日間、世の中が面白おかしくなって陽気に笑い続け、病気も治癒してしまったと言います。
 そんな宗忠の教えを歌ったとされる歌があります。
「有り難き また面白き 嬉しきとみき(三つのき)を備うぞ誠なりけれ」
 有り難いという感謝の心、面白いという心、嬉しいという心こそが誠の道であると説いているわけです。これは要するに、感謝と陽気こそが真実の生き方であるということでしょう。
 こうした黒住宗忠のエピソードは、まさに「陽気の美徳」を養うために父母の死という「負荷」を自らにかけ、それによって霊的に高い境地を開拓した例ではないかと思います。もっとも大切な人が奪われるというのは、地上的な視野から見ればひどい仕打ちであり苦悩であるわけですが、霊的な視野から見れば、それは魂の進化のために訪れたという意味があるわけです。
 世の中には暗いこと、悲しいことが満ちています。その現実は直視しなければなりませんが、暗いことや悲しいことは、暗くなったり、悲しみに沈み込むために訪れるのではなく、明るく陽気な人間になるために訪れるのです。

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6.超然


 8つの美徳の6番目は、超然(ちょうぜん)です。超然とは、地上世界のいかなる事物に対しても心を乱されないこと、また行為に対する結果にこだわらないことです。
 これは、欲望や感情に心を乱されないようにする「自制の美徳」や「平静の美徳」をさらに徹底させたものと言えるでしょう。どのような不都合な出来事に遭遇しても、心を悩ますことなく、悠々と、あるいは飄々としていることです。人から悪口を言われようと、誤解されて悪い評判が広まろうと、まるで他人事のように淡々とやりすごすことができる心境です。とりわけ、一生懸命に努力したのに、その結果が期待通りにいかなかった場合でも、失望したり悔しがったりしないことです。
 このような超然の美徳を養うことは、地上世界にいながら地上世界から離脱することと同じです。そのため、霊的な価値に目覚めた魂は、地上にやって来て、自らの進歩のために、あえて超然とはしていられない状況に身を置こうとするのです。そういう状況でも超然としていられるよう鍛えるためです。その典型的な状況は、無常、不公平、不条理です。なかでも不条理の経験をすることが多いようです。そのような状況に遭遇しても、超然とできるように魂を鍛えていくことが覚醒の道です。
 ここで、超然という美徳をよく示している例として、禅僧の白隠にまつわるエピソードをご紹介いたしましょう。あるとき、赤ん坊を抱いたひとりの男がすごい剣幕で白隠のもとにやってきました。男がいうには、結婚していない自分の娘が妊娠したというので、相手は誰かと尋ねたら白隠だという。その責任をとって、娘が生んだこの赤ん坊を育てろと怒鳴りつけ、赤ん坊を差し出したのです。話を黙って聞いていた白隠は、ただひとこと「あ、そう」というと、赤ん坊を引き取り、赤ん坊の世話をしました。ところがその後、娘は父親に、相手は白隠ではなく別の男であること、本当のことがいえず苦し紛れに白隠の名前を出してしまったことを打ち明けました。男は白隠のもとに行き、ひれ伏して詫びながら、どうか赤ん坊を返して下さいと頼みました。話を黙って聞いていた白隠は、ただひとこと「あ、そう」というと、その赤ん坊を男に渡したというのです。
 白隠は、なぜ最初に家に来たとき、自分には身に覚えがないといわなかったのでしょうか? 怒り狂った相手に何をいっても無駄だと思ったからでしょうか? だとしても、何もいわなければ、相手も世間も、自分の非を認めたと思うでしょう。
 しかし、聖人の伝記などを読みますと、これと似たようなエピソードがけっこう見られるのです。いっさい、言い訳をしないのです。
 悟りを開いたから、そのような心境でいられるとも言えるでしょうが、悟りを開くために(覚醒するために)、そのように超然としているべきであるとも言えると思います。しかしこれも他の美徳と同様、何と難しいことでしょうか。それでも、その難しさにあえて挑んでいかなければならないのかもしれません。超然であること、これが地上的な束縛から逃れるためには、どうしても養っていかなければならない美徳であるように思われるのです。


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5.寛容


 寛容とは、人の弱点やあやまちを厳しく責めたりしないこと、自分とは異なる意見を持っていても排除したりせず受け入れること、自分を傷つけたり不愉快にさせたことをゆるすことです。
 完全な存在と呼べるのは神だけであり、それ以外はすべて何らかの欠点や弱点を持っていると言ってもいいでしょう。いかに聖者や偉人、あるいは高い霊的存在(守護霊や守護神)であろうと完璧ではありません。どんな人も欠点や弱点を持っています。
 しかし、もしわずかでも欠点や弱点を持つがゆえに、その人を拒絶していたら、「愛」が生まれる余地はなくなってしまいます。高い霊的な階層ほど愛が支配されているとされますから、霊的に高い世界(境地)へ上昇するには、すなわち、覚醒するには、欠点や弱点は補い合い、長所を認め合っていかなければならないわけです。それが寛容の美徳の目的です。
 また、地上世界というトレーニングジムは、失敗やあやまちを経験することによって教訓を学び、鍛えられていく場所です。魂は、教訓を学ぶために、わざと失敗やあやまちを犯す計画を立てることもあるでしょう。したがって、失敗やあやまちを犯した人に対しては「教訓を学ぼうとしているのだな」というように考えて、その失敗やあやまちをおおめに見てあげる寛容の心が必要なのです。結局、それはお互い様だからです。自分も失敗やあやまちを犯して人に迷惑をかけながら、教訓を学んでいるわけです。そんな自分をゆるしてもらわなければなりません。ならば、人もゆるさなければならないのです。
 といっても、これも他の美徳と同様、実行するのは容易なことではありません。自分にひどいことをした相手を、そう簡単にゆるせるでしょうか?
 しかし私たちの魂は、しばしばそのような過酷で厳しい状況に身を置くことで、寛容の美徳を養おうとするのです。すなわち、ゆるしがたい相手と縁ができるということが生じるわけです。
 そういう状況でも、寛容の美徳を発揮して相手をゆるすことができたなら、魂は格段に成長するでしょう。なぜなら、寛容の美徳は、「愛」を支えるもっとも中心的な柱だからです。「8つの美徳」はどれも「愛」を支える柱ではあるのですが、寛容の美徳はそのなかで、おそらくもっとも重要です。寛容なき愛は存在しません。
 極論を言えば、他の美徳が思うように養えなかったとしても、寛容の美徳さえ養うことができたら、それだけでも地上世界にやって来た意義を十分に果たしたことになると言ってもよいかもしれません。
 魂はその重要性をよく理解しているので、地上にやってくるときには、「嫌な奴」、「憎い奴」と出会う運命を計画するのです。ですから、そうした人と出会ったときには、嫌ったり避けたりするのではなく、覚醒修行を志す者としては、寛容の美徳を養う有り難いチャンスなのだと考えるようにするべきではないかと思います。もちろん、そう考えること自体が、寛容であること以前に難しいのですが、修行というものは、もともと難しいことをしようとすることなのです。


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