FC2ブログ

心の治癒と魂の覚醒

        

自分を変えるために何から始めるか?

 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月5日と6日、イデア ライフ アカデミー哲学教室第10回「易経に学ぶ運命の法則 1」というテーマで授業を行いました。易経は孔子も熱心に学んだ生きる指針の書であり、占いの書であり、何よりも宇宙の法則と合致して生きるための「宗教書」です。授業では、易の基本的知識から始まり、占い方のかなり高等なテクニックまでを紹介しました。ダイジェスト版では、易経を学ぶ意義についての話を収録しています。ぜひご覧ください。
 動画視聴はこちらから
 なお、今月19日と20日は瞑想教室で、「怒りを捨てる瞑想」というテーマで行います。怒りは「三大煩悩」のひとつにあげられるくらい、人生において破壊的な作用をもたらし、私たちを苦しめる最大のものです。その怒りを捨てることができれば、人生の幸せに向けて非常に大きな一歩を踏み出すことになり、瞑想も格段に上達していきます。ご参加、お待ちしています。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで
 
 さて、本題に入ります。
 この世のあらゆる生き物は進化しています。進化というと、肉体的な形態や機能だけを思い浮かべますが、脳も肉体の一部なわけですから、脳の進化、すなわち精神の進化もまた、あらゆる生物に課せられたものだと言っていいでしょう。
 人間の場合、おそらく脳をのぞいた身体的な進化は、かなり完成に近い水準に達していると思います。というのは、人間は脳が発達したおかげで、いろいろな環境に適応できるようになっているからです。たとえば、寒い場所で生きなければならないとしても、そのために体毛を濃くする必要はないわけです。
 そうなると、人間に残された進化の課題は、主に精神面での進化ということになると思います。
 進化とは、「より生存と繁栄に適した存在になること」です。
 私たちは、自分とは異なるさまざまな他者と共存していかなければなりません。さもないと生存と繁栄が難しくなるからです。
 そして、自分とは異なる他者と共存していくために必要な精神的な特徴は何かといえば、それは「寛容さ」です。つまり、自分とは異質な人も受け入れて仲良くやっていく「広い心」です。したがって、人間は進化するにつれて、寛容さ、心の広さを持つようになっていくはずです。
 しかし、この寛容さ、心の広さという美徳を養うことは、想像するよりも難しいのです。
 人はどうしても、自分と気心の合った人とだけ付き合いたくなります。自分と気の合わない相手は、たとえその相手が立派な人であっても、仲良くしたくないのです。たいていそういう場合、単純に「好き」とか「嫌い」とか、馬が合うとか合わないとか、生理的に受け付けないとか、そういった感情的な理由で仲良くしたり拒絶したりします。
 もちろん、嫌いな人と必要以上に仲良くするべきだ、と主張したいわけではありません。相手が間違っているのに無理に合わせなければならない、ということではありません。どうしても考え方が合わなければ、そのときは別れても仕方がないと思います。
 しかし、よほど常軌を逸した人でない限り、とりあえずどんな人とでも、そつなく仲良くできる、という人こそが、成長し進化した人の特徴です。好きな人とだけ仲良くできるがそうではない人とはやっていけないと、最初からそのような態度しかできないのは、幼児的な精神の持ち主です。
 人間は、さまざまなタイプの人と交わることで、さまざまなことを学んでいき、成長進化していくものです。自分と同質の人とだけ交わっていても成長しません。
 もしも、自分を変えようと真剣に望むなら、まずは、どんな人でもその異質性や個性を受け入れて仲良くやっていく、そうした寛容さ、心の広さを養うことから始めることを勧めます。こうした寛容さ、心の広さという美徳を養うことができれば、他のさまざまな美徳も修得しやすくなるはずです。

スポンサーサイト



修徳の行 | コメント:2 | トラックバック:0 |

自分と運命を変えるための大切な作業


 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月21日と22日、イデア ライフ アカデミー瞑想教室第9回「袁了凡に学ぶ無条件の生き方と瞑想」というテーマで授業を行いました。袁了凡(えんりょうぼん)は中国、明の時代の人で、易の達人から不吉な運命を宣告され人生を諦めますが、禅の高僧から運命転換の方法を伝授され、見事に運命を好転させたという人物です。しかし単に運命を好転させたというだけの話ではなく、そこに、真の瞑想をする上での貴重な教訓を学ぶことができるのです。瞑想をしていると、さまざまな雑念に悩まされますが、その雑念を取り払うために、おそらくもっとも効果的な方法を、袁了凡から学ぶことができます。運命を好転させたい人、深い瞑想状態を達成したい人は必見です。ぜひダイジェスト版をご覧になってください。
 瞑想教室第9回動画(ダイジェスト版)

 次回10月と11月の哲学教室は、今回の袁了凡の話と密接な関係がある「易」について紹介します。「易経に学ぶ運命法則」というテーマで、易の哲学から実践までを解説する予定です。易は人生百般、あらゆる悩み事に対する的確な答えを出してくれます。易は人生という道を照らす灯火とも言えます。易を学んでおいて損はありません。易は人生最強の武器となるでしょう。ご参加、お待ちしています。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで

 さて、本題に入ります。
 冒頭でご紹介したように、袁了凡は積善を重ねるという「禅の修行」によって運命を好転させたわけですが、その際に取り入れたのが、師匠の雲谷(うんこく)禅師から伝授された「効過格表」です。これは、どのような行為が積善で、どのような行為が積悪になるか、それぞれ50ずつ具体的に記したもので、いわばバランスシートということになります。たとえば、「こういうことをするとプラス1点」とか「プラス5点」、「プラス50点」というように、あるいは「こういうことをするとマイナス5点」といったように書かれてあるのです。袁了凡は、これに基づいて積善を重ねていったわけです。毎日必ず、一日の終わりに自分の行為を振り返り、積善と積悪の両方を考慮して点数をつけていきました。今日なじみのある言葉で表現すれば「ポイント」ということになるでしょうか。
 そして、とりあえず、3千ポイントをゲットすることを目標にしたのです。彼はこの目標を達成するのに十年かかりました。その後も引き続き3千ポイントをめざしたのですが、今度はもっと早く達成することができました。やはり、積善という行為も、慣れといいますか、熟達といいますか、続ければそれだけやりやすくなるのでしょう。また、彼が役人として出世して権力を持ったことも大きな理由のようです。というのも、権力があれば、大きな積善ができるようになるからです(逆に大きな積悪をしてしまうことにもなりかねませんが)。

 それはさておき、私たちの参考になるのは、袁了凡が自らの積善をポイントという具体的な数値に換算して記録していったことです。
 何をするのもそうですが、「具体的な数値に換算して記録する」ことは大変に重要です。たとえば会社組織は必ずこれを行っています。毎月、どれくらい売上があって、どれだけ経費がかかったかなど、漠然としか把握していない経営者はいないでしょう。しっかりと具体的な数値として記録しています。そうすることで、どれくらい利益が出ているのか、どれくらい会社が発展しているのか、また、今後、さらに発展するにはどうすればいいか、といったことを知るための貴重なデータになるわけです。
 会社の発展も、人間個人の発展も、そのやり方は基本的には同じではないでしょうか。
 すなわち、自分がどれくらい積善して発展しているのか、それを具体的な数値に換算して記録するということが、とても重要になってくるのです。ただ漠然とした感覚で自らの成長をめざしても、あまりうまくいきません。
 そこで皆さんに提案したいのは、袁了凡が行ったように、毎日必ず、一日の終わりに、自分の行為を振り返って、点数をつけることです。
 ただ、袁了凡が用いた功過格表にしたがって厳格な点数をつけるのは、かなり煩雑になるので、ある程度、感覚的な点数でもかまわないと思います。
 具体的にはこうします。
 善いことと悪いこと、それぞれ5点評価とします。すなわち、
 善いことに関しては、5点=大変に善いことをした。4点=善いことをした。3点=そこそこ善いことをした。2点=少し善いことをした。1点=わずかに善いことをした。
悪いことに関しては、5点=大変に悪いことをした。4点=悪いことをした。3点=そこそこ悪いことをした。2点=少し悪いことをした。1点=わずかに悪いことをした。
 そうして、善い点数と悪い点数をノートに記入し、その差(積善ー積悪=)を出します。たとえばこんな具合です。
 「今日は、電車でお年寄りに席をゆずったり、仕事で失敗した同僚を励ましてあげたりしたから、全体としてプラス4点。しかし、ちょっとしたことで腹を立てて部下にきついことを言ってしまったので積悪が2点、合計で今日の評価はプラス2点」。
 ときには、マイナスの点数になることもあるでしょう。人によってはマイナスになる日の方が多くなるかもしれません。
 そして、ノートに今日の日付と点数を記入します。その点数を一週間で集計し、一ヶ月で集計し、3ヶ月で集計し、1年で集計していきます。できれば、そうして出した数値をグラフにすると、より一層、自分の発展度合いがよく把握できるかもしれません。

 こうしたことを毎日続けることは、よほど向上心がないと難しいです。途中で飽きたり、馬鹿馬鹿しく感じられたり、やるのを忘れたりして、いつのまにかやらなくなってしまいます。だから、ほとんどの人は変われないのです。
 繰り返しますが、変わるためには、自分の成長度合いを具体的な形で評価できる数値的なデータがとても重要になってくるのです。
 たとえるなら、あなたは「自分株式会社」の社長になったようなつもりで、経営者の発想で、自分自身を評価することが大切なのです。そうして忍耐強く自分を分析・評価していくならば、人は必ず変われます。運命は必ず好転していきます。

修徳の行 | コメント:0 | トラックバック:0 |

 全託 その2


 神にすべてを任せ、何が起ころうと「これでよいのだ」と思える心境は、およそすべての聖者と言われる人たちが到達する、おそらくは究極の美徳ではないかと思います。
 しかし、それは何と難しいことでしょうか。
 それ以前に紹介した忍耐・自制・平静・謙虚・寛容・超然・陽気の美徳も、それを養うのは難しいものですが、まったくできなくはないでしょう。十分なレベルに至るには遠いとしても、努力すれば少しずつでも養っていけるものです。
 しかし、全託は別格です。口先だけで「これでよいのだ」と言うことはできたとしても、本当に心の底からそう思うことは非常に難しいのです。ある聖者は「本当に神に全託したのなら、その人はいかなる悲しみを感じることはないはずだ。少しでも悲しみを感じるのであれば、まだ完全に全託していない証拠である」と言っています。
 確かに、「すべては神がうまくやってくれる、何があろうとこれでよいのだ」と完全に思うことができたなら、人生において、悲しみも、いかなる悩みも心配も恐怖もないでしょう。しかし、そこまでの境地に達することは、何と難しいことでしょうか。

 また、世俗に生きる私たちは、このようにも思ってしまうのです。
 すなわち、聖者のほとんどは独身であり、一匹狼的な生き方をしています。自分はどうなろうといいかもしれません。しかし、家族を抱えて養っていかなければならない立場の人は、「何があってもこれでよいのだ」などと、なかなか思うことはできないわけです。
 とりわけ、会社の社長のようなさらに大きな責任を持つ立場にある人は、会社がどうなろうと「これでよいのだ」などと思うことはゆるされないでしょう。倒産したら社員とその家族を路頭に迷わせることになるでしょう。社長は、社員とその家族の生活を守る義務と責任があるのです。必死になって、経営を順調にしていかなければならないのです。とても「神にすべてを任せる」などとは言っていられないし、そのようなことは許されないでしょう。
 もちろん、「神にすべてを任せる」と言っても、何もせず成り行きに任せるといったことではなく、あくまでも気持ちの問題であり、外面的な行動としてはできる限りの努力はしなければならないわけです。ただ、あまりにも厳しい状況の中では、そのような全託の気持ちになることは非常に難しいわけです。今にも台風で吹き飛ばされるのではないかと思われる山小屋の中にいて、心安らかにすべてを任せる心境になれと言われるようなものです。

 ただ、これだけは確かに言えるでしょう。
 それは、「あせったり心配しても何にもならない」ということです。あせったり心配しても、傾いた会社の経営がうまくいくでしょうか? むしろ、そのような気持ちはマイナスに働いてしまうでしょう。あせりや不安は、何の得にもならず、無駄なことであり、有害でさえあるということです。そのような動揺する気持ちを抱くよりは、全託の気持ちになって安心した方が、ずっと有益であることは確かです。
 全託の美徳を養うには、まずこの「あせったり不安を抱いても何の得にもならない」ということを、肝に銘じることが大切ではないかと思います。そうすれば、少なくても全託の境地を体得しようという動機は強いものになっていくはずです。
 しかしそうはいっても、やはり困難な状況に置かれれば、あせりや不安の気持ちが出てきます。そのような気持ちを出してはいけないんだ、無駄であり、何の得にもならないんだということは頭でわかっていても、自然に、出てきてしまうわけです。

 では、いったいどうすればいいのでしょうか?
 私は思うのですが、全託の美徳というものは(おそらく完全な意味では他の美徳も)、自力の末につかみとることはできないのです。最終的には、神の恩恵のようなものによって、全託の美徳は“与えられる”のではないかと思うのです。もちろん、努力はしていくべきです。全託できるように、力の限りがんばっていくべきであり、そうした努力があればこそ、神が目を向けてくれて、その慈悲によって、全託できるようになっていくのではないかと思うのです。
 こう考えると、人間というのはまったく救いがたい存在であり、自分自身を立派にさせることさえできないのです。「自分で自分を立派にさせることができる」などと考えること自体、傲慢なのかもしれません。
 くどいようですが、努力はしなければなりません。そうして、全託しようにも全託できない自分自身を嘆き、葛藤し、苦悩し、「全託など、とてもできない!」と絶望しきった末に、「全託」の方からやってきてくれるものではないかと思うのです。


修徳の行 | コメント:2 | トラックバック:0 |

8.全託 その1


 全託とは、宗教的な用語であり、神(高い霊的存在の導き)にすべてを任せる境地のことです。何が起ころうと「これでいいのだ。神のご意志にゆだねます」と感謝して受け入れること、自分の将来の成り行き、生死に至るまで、「すべて神がいいように導いてくださるのだ」と深く信じる境地のことです。いわば、信仰の奥義とでも言うべきもので、高い霊的境地を開拓した人が持つ美徳です。
 言うまでもありませんが、「神にすべてを任せる」といっても、自分は何も努力せず怠惰に過ごすという意味ではありません。自分としては一生懸命に努力はしても、自力や我力で行っているのではなく、そうした努力さえも、自分ではなく神がやってくださっているのだと思う境地です。
 そして、どのような結果になろうとも、すべてはこれでよいのだと全面的に肯定し、何の不安もなく安心していること、いっさい力むことなく、ありのままに、自然法爾の境地で生きることです。浄土真宗の親鸞などが、この境地に達したことはよく知られていますが、宗教の違いや国の東西を問わず、信仰を究めた人、すなわち、霊的に高い境地に達した人は、みなこの「全託の美徳」を身につけています。
 あるロシアのキリスト教系神秘家は次のように言っています。
「私たちはこのことがあのようにではなく、このようになぜ起こったのかを捜し出そうとしてはならない。むしろ子供のように従順に私たちの天の父の聖なる意志に身をゆだね、私たちの魂の底から、“み旨の行われますように”と言いなさい。ただこう言いなさい。そうすれば気分は喜びに満ちるでしょう」(『ロシアの神秘家たち』セルゲーイ・ボルシャコーフ著 古谷功訳 あかし書房より)
 魂は、こうした「全託の美徳」を養うために地上にやって来て「負荷」をかけるのです。しかし、全託の美徳は、もっとも高い霊的な境地であるため、そのための負荷、すなわち体験は、それなりに厳しい傾向があるようです。
 たとえば、自分の力ではどうにもならないような大きな困難や障害に見舞われ、自力や我力でどうにかしようとする自我(エゴ)を徹底的にうち砕かれるのです。それは経済的な問題であったり、家庭的な問題、健康問題などざまざまですが、いずれにしても、自力であがくことを断念し、観念しなければならないような体験です。ときにはまったくの絶望のどん底と思われるものです。人間は、そこまで追いつめられてはじめて、すべてを神にゆだねる心境になるものなのかもしれません。
 ですから、絶体絶命の、自分の力ではどうにもならないほどの困難に見舞われたら、それは「全託の美徳」を養う目的で訪れたのだととらえ、全託の境地を確立できるよう努力するべきなのです。ところが不思議なことに、そのような心境になると、不思議なことに、何らかの仕方によって思わぬ方向から道が開かれることが多いのです。
 ロシアのキリスト教系神秘家であるパルフェーニィは次のように言っています。
「信頼を必ず保ちなさい。そうすれば神は人に飢え死にすることや、何かに困ることを決してお許しにならない。けれども人がどんなにわずかでも疑い始めたり、もしくは人間的な助けを求めたり、自分自身を頼ろうとし始めるなら、神の摂理は人を見捨てる」
(『ロシアの神秘家たち』セルゲーイ・ボルシャコーフ著 古谷功訳 あかし書房より)
 ただし、最初からこうした救いを期待していては全託にはなりませんので、どのような結果も受け入れる覚悟でなければなりません。
 いずれにしても、全託の美徳は、あらゆる美徳のなかでも最高に高い美徳ではないかと思われます。
 それゆえに、この全託の美徳を身につけることは、何と難しいことかと思うのです。続きは次回お話させていただきたいと思います。


修徳の行 | コメント:0 | トラックバック:0 |

7.陽気


 陽気とは、明るく楽観的であることです。心配したり取り越し苦労をせず、どのようなことにも肯定的な面を見て、前向きに考えることです。周囲を明るくほがらかにさせる雰囲気を放つことです。
 この陽気であることが、「美徳」のなかに含まれていることを、奇異に感じる人もいるかもしれませんが、陽気であることは、実は霊的レベルの高さの一端を示しているのです。
 聖人というと、暗い顔をした気難しい堅物といった印象を持たれがちですが、それは誤解です。少なくても真の聖人、すなわち高い霊的境地を開発した人は、明るく陽気でほがらかで、ユーモアのセンスさえ発揮するものなのです。ときにはおおらかに笑ったりするかもしれません。喜ばしいことはもちろん、苦労や辛いことさえも楽しもうとするでしょう。どんなときでも悲観的にならず、希望を持ち、未来を信じる心を忘れません。イエスは「明日を思い煩うな」と言いましたが、どんな状況でも絶望せず、陰気にならず、陽気に構えているのです。
 もちろん、だからといって、後先も省みず有頂天になって馬鹿騒ぎをするような世俗的な陽気さとは違います。しっかりとした理性と信念に基づく陽気さなのです。
 いわゆる「真面目で善い人」の中には、どこか暗い感じの人がいます。おそらく「自分はダメだなあ」とか「世の中はなぜこうも悲惨なことがあるのだろう」などと考えているからではないかと思いますが、暗くなっても何の得もありません。むしろ、周囲を暗くさせて人に迷惑をかけるとさえ言えるでしょう。
 あまりにも自分にとらわれていると、暗くなる場合が多いのです。自分のことばかりに意識を向けていることは、ある種の自己中心性です。そのような時間と労力があれば、もっと世のため人のために奉仕することもできるでしょう。暗いというのは、ある種のエゴイズムに由来していることが多いのです。
 高い霊的世界に昇るほど、自分のことより他者のことを考えるようになります。そして、光のエネルギーが強くなりますから、高い世界ほど「明るい」のです。自分のことより他者のことを考えるほど明るくなるのです。
 ですから、明るくならなければなりません。陽気にならなければならないのです。明るく陽気であるということも、魂の力のひとつなのです。
 そして、その「陽気の美徳」という魂の力を鍛えるために、私たちは地上にやって来たわけです。そうして、暗くなるような体験、悲観的になるような体験という「負荷」をかけ、魂を鍛える計画を立てるのです。
 その典型的な実例をひとつあげてみましょう。
 黒住教という神道系の宗教の開祖である黒住宗忠は、大変な親孝行として知られていましたが、32歳のとき、そのもっとも敬愛している大切な父と母の両方を次々に病気で失うという悲劇に見舞われ、悲しみのあまり肺結核となってしまいました。そして2年後、いよいよ死を覚悟していた冬至の朝、太陽に向かって祈りを捧げたとき、天照大神と一体となるという神秘体験をし、その後、三日間、世の中が面白おかしくなって陽気に笑い続け、病気も治癒してしまったと言います。
 そんな宗忠の教えを歌ったとされる歌があります。
「有り難き また面白き 嬉しきとみき(三つのき)を備うぞ誠なりけれ」
 有り難いという感謝の心、面白いという心、嬉しいという心こそが誠の道であると説いているわけです。これは要するに、感謝と陽気こそが真実の生き方であるということでしょう。
 こうした黒住宗忠のエピソードは、まさに「陽気の美徳」を養うために父母の死という「負荷」を自らにかけ、それによって霊的に高い境地を開拓した例ではないかと思います。もっとも大切な人が奪われるというのは、地上的な視野から見ればひどい仕打ちであり苦悩であるわけですが、霊的な視野から見れば、それは魂の進化のために訪れたという意味があるわけです。
 世の中には暗いこと、悲しいことが満ちています。その現実は直視しなければなりませんが、暗いことや悲しいことは、暗くなったり、悲しみに沈み込むために訪れるのではなく、明るく陽気な人間になるために訪れるのです。

修徳の行 | コメント:2 | トラックバック:0 |
| ホーム |次のページ>>