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心の治癒と魂の覚醒

        

グルジェフが説く「人間が生まれた目的」 

 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月7日と8日にイデア ライフ アカデミー哲学教室第9回「グルジェフ 人と思想3」の授業を行いました。グルジェフの修行法の本質に迫ると同時に、グルジェフとは何者だったのか、可能な限りせまったつもりです。参加者の一人から「この教室のおかげでグルジェフという人を知ることができて本当によかった」との声をいただきました。まさに、グルジェフから私たちは生きるヒントをたくさん学ぶことができます。ぜひダイジェスト版の動画をご覧になってみてください。
 動画はこちらから
 10月と11月の哲学教室は、二回に分けて「易経に学ぶ運命法則」というテーマで行います。『易経』は、いわゆる易占いの文献ですが、実は単なる占いではなく、宇宙の法則と合一して君子(覚者)になるための、ある種の宗教経典なのです。授業ではそこに光を当てて深い意味を説明していくつもりでいます。
 そして、グルジェフにしろ易経にしろ、それを実践レベルにまで落とし込もうとする授業が、瞑想教室です。哲学だけでは頭でっかちになってしまいます。瞑想することにより、地に足の着いた実践的な力が養えるのです。人間の成長にとってはこの両輪が必要なのです。瞑想教室もぜひよろしくお願い致します。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで
 
 さて、本題に入ります。
 私が物心ついたときからずっといつも考え続けていることは、「人間が生まれた目的は何か?」ということです。
 最初、この疑問にしっくりとした回答を与えてくれたのが、古典的なスピリチュアリズムです。具体的には『霊の書』、『シルバーバーチの霊言』などの本であり、また神智学の思想です。こうした教えのエッセンスを簡潔に説明すれば、「人間は輪廻転生を繰り返しながら、過去のカルマを清算していき、立派な人間へと進化していく。そして十分に立派になると地上には生まれ変わらず、霊界でさらに成長のための修行をする。そのために生まれてきた」というものです。

 しかし、こうした教えは一見するとよく構築されているように思われるのですが、細かい点をつきつめていくと、やはり今ひとつ完全に信頼するには疑問が残ってくるのです。霊界や生まれ変わり、カルマの法則は本当に存在するのか? という疑問が生じてくるのです。
 その点についてグルジェフは、通常の人間は生まれ変わりは存在しない、と語っています。神智学によれば、人間は誰でもアストラル体(霊的なからだ)を持っていて、死んで肉体を離れるとアストラル体として霊界で生き続けると説いていますが、グルジェフは、アストラル体は覚醒の修行を熱心にすることで形成されるとして、そうしてアストラル体を形成させた者だけが死後も霊界で生き続け、そうした修行をしていないほとんどの人間は、肉体の死とともに消滅すると言っています。ちなみにグルジェフは、神智学をはじめとするスピリチュアリズムを「精神病者たちのワークショップだ」などと、かなり辛辣な批判をしています。

 グルジェフは、霊界だとか死後の生といった、地上の現実世界と遊離した領域に関する教えはほとんど説いていません。グルジェフの教えは、あくまでもこの現実世界における人間の心理的な変革に焦点を当てています。
 グルジェフによれば、人間が生まれた目的は、惑星のエネルギーを月に送るための媒体にするためであると言っています。月は、人間が生み出すさまざまな想念を”食う”ことで進化しているというのです。といっても、これだけの説明ではわからないと思いますし、私も正直なところ、その説を理解したとは言えないのですが、要するに、人間のために宇宙が創造されたのではなく、宇宙の創造進化を達成させるために人間が創造されたというのです。スピリチュアリズムにしろ神智学にしろ、あるいはキリスト教もそうですが、あくまでも人間が主人公であり、自然や宇宙は人間のための舞台のような位置づけをしているのですが、グルジェフは反対で、主人公は宇宙であり、その進化であって、人間はそのための、ひとつの歯車にすぎない存在だというのです。ですから、人間が天災や戦争で何十万人死のうと、月は残りの人々の想念を食って成長できるので、人類が全滅しない限り、問題はないというのです。

 グルジェフのこうした思想が事実だとすれば、「人間が生まれた目的は何か?」という疑問に対する回答は、私たちが期待しているようなものとはならないようです。たとえば、私の住んでいるところには田んぼがたくさんあり、この時期になると、オタマジャクシから成長して陸にあがった数多くのアマガエルを見かけるのですが、そのなかで、越冬して来年まで生きることができる個体は、ほんのわずかしかいません。具体的な数はわかりませんが、千匹に一匹いるかいないかでしょう。ほとんどのカエルたちは、他の生き物に捕食されて死んでしまいます。あとは、エサが食べられずに餓死したり、人間やクルマに踏みつけられて死んでしまうのです。
 そうなると、ほとんどのカエルたちにとって「生きる目的は何か?」ということを考えると、他の生き物に捕食されて生態系を保つことにある、となるでしょう。もし個々のカエルに、人間のような心があるとしたら、「生態系を維持する目的で捕食されるために生まれてきた」なんて言われたら、ものすごくショックで絶望的になってしまうでしょう。
 しかし、グルジェフの思想を拡大解釈すると、こういう結果になるのです。
 「カエルと人間は違う!」と反撥されるかもしれませんが、カエルの世界という小さな自然界がそうなっているのなら、人間という大きな自然界も、同じ原理が支配している可能性は十分にあるのではないでしょうか。
 すなわち、私たちは生態系を保つために大量に発生しているカエルのようなもので、宇宙という生態系を保つ目的で生まれてきたのです。スピリチュアルや神智学が言うような、個人の生きる意味といったもの、カルマの法則、霊的成長のための生まれ変わり、といったことなどは、存在しないのかもしれません。宇宙という巨大な生態系にとっては、人類そのものが絶滅しなければいいのであって、いちいち個人の生きる目的などといったものが存在すると考えるのは、人間の勝手な願望が投影された幻想にすぎないのかもしれません。
 さて、果たして真実はどうなのでしょうか? 私にもわかりません。
 私の探求はまだまだ続きます。

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自殺した人の死後

 スピリチュアルの教えでは、自殺した人は死後、自殺した罪を償うために、暗く寂しい場所にひとり取り残され、非常に長いあいだ苦しみ続ける、といったことを主張しています。チャネリングだとか霊能者によって多少の違いはありますが、死後は苦しまなければならないというのです。
 しかし、これまで考察してきたように、魂だとか霊界だとか、カルマの法則といったものが存在するかどうか、非常に怪しいことを考えれば、自殺した人は死後に苦しむという主張には、何の根拠もなく、信憑性がかなり低いと言わざるを得ません。

 なぜ自殺が悪いかという大きな理由は、スピリチュアルの教えによれば、地上人生の目的は魂を成長させることなのに、自殺によってその時間を短縮させ、成長の機会を自ら奪うからだといいます。たとえるなら、学校を早退したようなものだというわけです。
 しかし、自殺といっても、その動機はさまざまです。カルマの法則では、動機がよければ罪にはならないとされます。あるいは、戦争など仕方がない状況での殺人は罪にならないとされます。要するに、動機や状況によって判断がわかれるのです。
 ところが、自殺の場合は、私の知る限り、動機や状況が考慮されているという主張を聞いたことがありません。自殺した人はすべて死後に苦しむと言っています。
 これはおかしなことです。
 カルマの法則がさまざまな事情によってその結果が異なるというのなら、自殺もそう扱うべきです。たとえば、ブラック企業で過労となり、そのためにうつ病を発症して自殺した人は、どうなのでしょうか。誰でも脳がやられれば自殺衝動が高まります。つまり、こうした場合の自殺というのは、自殺というよりはむしろ「病死」なのです。病気で自殺した人も、死後に罰せられて苦しむのでしょうか? なぜ、真面目にさんざん苦しんで仕事をして、そのために脳がやられ、死んだ後になっても、さらに苦しみを与えられなければならないのでしょうか? むしろ、自殺した人より、自殺に追い込んだブラック企業の社長の方が、死後に苦しむべきだと思うのですが、そのようなことを言っている霊能者やスピリチュアリストには会ったことがありません。

 霊能者が、自殺した人の死後を霊視し、その人が苦しんでいる姿を目撃するというのは、自殺した人の生前が世界に記録されていて、その情報を読み取り、それにイメージがくわえられて、あたかも自殺した魂が苦しんでいるというビジョン(幻想)を見ているに過ぎないと私は考えます。霊能者と呼ばれる人は、過去の情報を読み取っているに過ぎないのです。自殺した人は、常識的に考えても、そうとう苦悩していたに違いありません。その苦悩の情報を読み取っているので、今も死後で苦悩しているのだと錯覚しているのです。

 もし、地上人生という学校に滞在する時間を短縮させる自殺が罪であるというのなら、不健康な生活をして寿命を縮めている人も同罪ということになるはずです。たとえば、タバコを1本吸うと15分寿命が縮まるといわれています。仮に、タバコを吸わなかったら80歳まで生きられた人が、タバコを吸ったために60歳で死んだとしたら、この人は60歳で自殺したのと同じです。
 もちろん、タバコは寿命を縮めるということを知らないで吸ったのであれば、それはある種の過失であるから、自殺と同じとは言えないでしょうが、寿命を縮めるとわかっていて吸い続けたのであれば、それは自殺しているのと同じです。つまり、喫煙というのは「慢性的な自殺行為」なのです。
 ところが、今日ではタバコは寿命を縮めることがあきらかにわかっていますが、タバコを吸って寿命を縮めている人が、死後に苦しむなどという話は聞いたことがありません。
 霊界の高級霊というのは、地上の人間よりはるかに叡智に満ちているとスピリチュアルでは説かれています。であるなら、タバコが寿命を縮めるものであることは、むかしからわかっているはずです。寿命を縮める、つまり、この世での成長の機会を奪うものは罪であるということなのですから、タバコを吸うことは、そうとう罪となるはずです。
 しかし、タバコの害を訴えているスピリチュアル・メッセージなど、聞いたことがありません。それどこから、ヘビースモーカーのスピリチュアリストさえいます。
 結局、霊的な世界からのメッセージなどというものはなく、その情報源はこの世界にあるということなのだと思います。

 このように見てくると、スピリチュアルの教えというものは、けっこういい加減であることがわかるのです。高級霊のメッセージなどと言われるものも、「よいことをしなさい、愛しなさい」といった、陳腐な道徳とそれほど変わらないことばかり言っています。霊界の様子といったことも、SF作家くらいの想像力があれば、簡単に書けるような内容ばかりです。
 もし霊的真理というものが本当に存在して偉大であるなら、時代を先取りした斬新な教え、たとえば高度な科学や医学の理論といったものを、すでにむかしから教示されているはずです。しかし、そうしたものは一切ありません(エドガーケイシーは具体的な治療法を教示しましたが、それは民間療法レベルを超えていませんので、その当時の情報源から仕入れた可能性があります)。どうにでもごまかしができる、あいまいで、誰もが想像力で作り出せるようなことしか言っていないのです。
 にもかかわらず、「これは霊界の高級霊によるものだ」と言われると、何となくありがたくてすごいものだと錯覚してしまうのです。ある種の権威主義です。仮に、チャネリングやスピリチュアル・メッセージを、精神病院の患者が書いたものだと言われて読んだならば、おそらくここまで支持はされなかったでしょう。内容は同じなのに、「霊界の高級霊」といった言葉で惑わされてしまうのです。
 
 自殺というのも、キリスト教では自殺は罪と教えられていたり、そもそも死というものが本能的に忌み嫌われているので、「自殺は悪である」という価値観に私たちの脳は染まっており、そのために、自殺した人の死後は苦しむという幻想を見るのではないかと、私は考えています。

 何を信じようと個人の自由であると思いますが、あたかも自分の信じていることが真実であるかのごとく、「自殺した人の死後は苦しむ」と主張している人たちがいることは、困ったことだと思っています。彼らは、それで自殺する人を減らそうと思っているのかもしれませんが、本当に自殺するくらい悩んでいる人は、死後に苦しむと言われたくらいでは自殺はやめません。かえって精神的に追い込まれ、自殺を加速させてしまう危険もあります。本当に苦しいときは、とにかく今の苦しみから解放されることしか考えられないのです。死後にもっと苦しむと言われたくらいで、「それならやめよう」などと思える人は、まだ本当に苦しんではいないということです。その程度の苦しみなら、スピリチュアルなど持ち出さなくても、他にもっとよい支援の手段があります。

 世の中には、子供を自殺で失った親がいます。たとえば、いじめを受けて苦しみぬいた末に自殺してしまった子供などです。そんな親の気持ちになってみるべきです。さんざんいじめで苦しんで、さらにそのうえあの世でも暗く寂しいところでひとりぼっち、非常に長い間苦しんでいるなどと思ったら、その親の胸は張り裂けんばかりの苦悩に突き落とされるでしょう。スピリチュアルの教えを盲信している人たちは、そのことがわかっていません。もしわかって言っているのなら、スピリチュアルでもっとも大切に思われている「愛」が欠けています。つまり、スピリチュアルなど何も実践していないのです。
 もちろん、いかに辛くても、それが真実であるならば、認めなければなりません。しかし、スピリチュアルの教えは真実であると証明されたわけではなく、それどころか、かなり怪しいものであることは、すでに見てきたとおりです。スピリチュアルといっても、要するにひとつの「信仰」に過ぎません。
 その個人的な信仰を、脅すような内容で人に押し付けることは、スピハラ(スピリチュアル・ハラスメント)です。愛を重んじるスピリチュアリストのすることではありません。「自殺した人は死後に苦しむ」などと、ある種の英雄気取りで声高に主張している人たちは、スピリチュアリストではなく、スピリチュアルの仮面をかぶった、単なる宗教的エゴイストたちです。

 では、自殺した人の死後はどうなるのでしょうか?
 もちろん、それはわかりません。しかし、仮に自殺が悪だとしても、悪を矯正するものは罰や苦しみではなく、「教育」です。悪というものは、根源的には無知から生ずるものだからです。ですから、「自殺した人はその罪を受けて苦しむ」などという主張は、まったく幼稚であり、時代遅れの未開な考え方なのです。知恵のかけらもありません。おそらく、古い時代の教育方針に染まった心が、そのような幻想を作り上げたのでしょう。
 仮に死後の生といったものがあるとしても、自殺で死のうと、その他の原因で死のうと、その後の状態はまったく同じだと、私は考えています。善悪といったものは、人間が勝手に作り上げた幻想だからです。宇宙には善も悪もありません。宇宙的な見地からすれば、自殺とは、ただ単に、自分で自分の肉体の機能を止めた、というだけです。それ以上でも、それ以下でもありません。

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宗教やスピリチュアルは「足場」のようなもの


 これまで、霊界や生まれ変わり、カルマの法則といった、宗教やスピリチュアルの中核的な教えについて、そうしたものは存在しない可能性があることを説明してきました。
 くどいようですが、否定しているわけではありません。否定する根拠も肯定する根拠もないことを申し上げてきただけです。

 しかし、霊的なことを学ぶこと自体は、最初の段階では有意義であると思っています。それにより、とりあえず人生の生きる方向性の骨格というものを形成できるからです。神や霊界といった、地上レベルを越えたところに価値観を見出せば、地上の瑣末な出来事に心を奪われることも少なくなりますし、生まれ変わりやカルマの法則のことを学べば、よい行動をし悪い行動をするのはやめようと思うでしょう。狂信や盲信、排他的独善性といったことさえなければ、宗教やスピリチュアルの教えは人を立派にさせてくれます。

 ですから、私は宗教やスピリチュアルを信じている人と話をするときは、霊的なことが存在するとして話をします。「二枚舌」と言われても仕方がありませんが、私は相手が幸せになれるのなら、それでいいと思っているのです。実際、霊的なことは存在するのかもしれませんし。宗教やスピリチュアルのことをまるで知らない人には、それに関する話をして、とりあえず知識を身につけてもらうことも、必要とあればいたします。

 ただ、ある程度、精神性を向上させたならば、宗教やスピリチュアルの教義といったものは、さらなる精神性の邪魔になるのではないかと考えています。
 なぜなら、真の宗教性や霊性というものは、教義といった知的レベルの領域から発するものではなく、もっと深い意識レベルから発するものだと思うからです。「教義がこう言っているからこうしよう」というのでは、ホンモノではないと思うのです。宇宙の法則や天の摂理と完全一体になったとき、それは知性や知識といったものによらない、ありのままの生き方であるはずです。親鸞の言葉を借りれば「自然法爾(じねんほうに)」ということになるでしょうか。この自然法爾こそ、宗教性や霊性がめざすべきものだと思います。このとき、いかなる束縛からも自由になっているはずです。宗教やスピリチュアルの教えからも自由になっているはずです。

 つまり、宗教やスピリチュアルの教義にとらわれていると、自然法爾の妨げになってしまうと思うのです。宗教やスピリチュアルさえも、「束縛」になるということです。最終的に宗教やスピリチュアルさえも捨てたとき、逆説的ですが、宗教やスピリチュアルのゴールに達するのではないかと考えています。
 そして、そのゴールに達したときには、霊界があろうとなかろうと、生まれ変わりやカルマの法則があろうとなかろうと、どうでもよくなるのだと思います。
 たとえるなら、宗教やスピリチュアルというものは、建築の「足場」のようなものです。家を建てるには、まず足場を構築しなければなりません。しかし、家が建ったら、足場は不必要であるばかりか、邪魔になります。あくまでも宗教やスピリチュアルは、その最終的なゴールへと向かうための足場のようなものであると、私は考えます。
 ですから、私はこれからも、あるときは「足場」を構築し、あるときは「足場」を破壊するようなことを、申し上げていきたいと思っています。矛盾したことを申し上げていると思われるかもしれませんが、その真意は、以上述べた理由からです。
 自他が幸せになり、世界が平和になりさえすれば、宗教やスピリチュアルの教義など、どうだっていいことではないかと、私は思っているのです。

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カルマの法則は本当にあるのか(3)


 カルマの法則を信じていれば、「善いことをすればよい報いがあるだろう」と期待して、善いことをしようとする人もいるでしょうし、「悪いことをすれば悪い報いがあるだろう」と思って、悪いことはしないようにする人もいるでしょう。その意味では、カルマの法則を信じていた方が、人々の道徳心が高まって世の中がよくなっていくのかもしれません。
 しかし、このことは逆に言えば、「よい報いがなければ善いことはしない」、「悪い報いがなければ悪いことをしてもよい」ということになります。
 法律的なレベルではこれでいいでしょう。実際、法律というものは信賞必罰によって社会の治安を維持しようとしているからです。
 しかし、宗教のレベルでは、これでいいのでしょうか?
「よい報いがあろうとなかろうと善いことをする」というのが、宗教のあり方ではないでしょうか。さもなければ、「お金がもらえるから善いことをする」というのと本質的に変わりません。要するに、報酬目的であり取引ということになりますから、そのような行為は「善い行為」とはいえないはずです。単なるビジネスです。人に親切にしても、報酬をもらえばそれは親切ではなくなり仕事になるのと同じことです。
 カルマの法則では「動機が大切である」と言われます。悪いことをしても悪い動機によって為されたものでなければ、悪い行為にはならないので、悪い報いはこないと主張しています。
 ならば、報酬めあてに善いことをするという行為は、あきらかに動機が不純です。カネの亡者がカネのために必死に働くのと本質的には同じことで、決して道徳的倫理的に「善い行為」とは定義されません。
 ということは、「よい報いがあるから善いことをしよう」としても、善い行為にはならないことになります。
 したがって、この時点でカルマの法則の教えが破綻しているのです。
 つまり、「よい報いがあるから善いことをしなさい」と説いても、そのような動機は不純であるがゆえに、それは「善いこと」にはならないので、よい報いは訪れないことになります。

 それとも、たとえ動機はよくなくても「善い行為」であれば、よい報いがもたらされるのでしょうか? 動機というものは関係ないのでしょうか。
 仮にそうだとすると、「悪い行為」の場合、それがどんなによい動機であっても、悪い報いが訪れることになってしまいます(相手のためによかれと思ってした行為が結果的に相手を損ねてしまったような場合など)。そうなると「勧善懲悪」をめざすはずのカルマの法則の意義が、やはり破綻してしまうことになるのです。
 このように考えても、カルマの法則というものは本当にあるのか、とても怪しく思えてしまうのです。

 「悪い報いがあるから悪いことをしない」という教えは、確かに悪いことをさせない効果はあるでしょうが、これもしょせんは「取引」であることに変わりはなく、精神性の高さはありません。宗教は精神性を高めることが目的なはずですから、「悪い報いがあろうとなかろうと、悪いことはしない」、「よい報いがあろうとなかろうと、善いことをする」というところを目標にするべきではないかと思うのです。「そんなことはお綺麗ごとだ」と言う人がいるかもしれませんが、宗教における目標というのは、理想を目指しているわけですから、本質的に「お綺麗ごと」なのです。目標が「お綺麗ごと」でなければ、それは宗教的な目標にはなり得ません。要は、いかにその理想的な目標に少しでも近づいていくか、ということです。
 その意味では、宗教の世界においては、取引である「カルマの法則」というものは、そぐわないのです。取引というのは交換条件であり、その発想で生きている限り、「愛」が芽生えることはありません。なぜなら、愛とは無条件だからです。宗教が愛を目指さないとしたら、それはもはや宗教とは言えないのではないでしょうか。
 カルマの法則の教えは、取引の発想ですから、それに縛られている限り、愛の発現を妨げてしまうことになるのです。ですから、カルマの法則を信じることは、必ずしもよいことであるとは、私には思えないのです。

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カルマの法則は本当にあるのか?(2)


カルマの法則(因果応報の法則)という考え方は、どのように生まれたのでしょうか?
 高度な霊的能力を獲得した覚者や霊能力者によって、カルマの法則があることを発見したのでしょうか?
 仮にそうだとすると、すでに見たように、霊的な世界というものは、基本的に自分の想念が投影された世界です。平たく言えば、自分の想念を見ているのです。要するに幻想なのですが、非常にリアルに見えるので、自分の想念が作り出した幻想であることに気づかず、真実であるかのように勘違いしてしまうのであると、私は考えています。いかに偉大な覚者や霊能者であっても、肉体をもっている限り、完全ではありません。彼らの目撃したものや見解も、絶対に正しいとは言えないのです。
 「善いことをしたらよい報いが、悪いことをしたら悪い報いを受けるべきだ」という気持ちがあれば、その思いが投影されて、やはりそのような仕組みの存在を目撃することになるでしょう。

 確かに、私たちはこうしたいわゆる「勧善懲悪」の考え方が、とても腑に落ちるというか、共感します。誰もがそうあるべきだと思うでしょう。
 しかし、現実はどうでしょうか。人を苦しめる悪人がその報いを受けることもなく恵まれた一生を終える場合もありますし、人を助けることに努力を惜しまない善人が不幸や不運に見舞われて一生を終えることもあります。
 私たちは、このようなことを目の当たりにすると、悔しさや憤り、不条理な思いにかられて不愉快な気持ちになります。まして、自分自身が誰かに不当に虐げられた場合、そのひどい相手はいつかその悪業の報いを受けるべきだ、いや、必ず受けるに違いないという、強い怨念を伴った期待感を抱くものです。
 それなのに、その報いを受けて苦しむことなく一生を終えてしまったら、腹の虫がおさまりません。この不条理な出来事を受け入れることができません。そこで、何か腹の虫がおさまるような理屈を考え出すのです。
 それが「来世」です。来世という検証不能なものを持ち出し、「来世でその悪業の報いを受けて苦しむのだ」と思い込むことで、腹の虫をおさめようとするのです。不条理という不愉快な現象を解消しようとするわけです。霊能者はその強い思いを外部に投影して「カルマの法則」というものを見るのではないかと考えられます。

 また、現世での不幸の原因も「過去生」の悪業のせいにします。
 私たちは、意味のない苦しみには我慢できない性質を持っています。意味があれば、苦しみに耐えられる気がするのです。そのために、さまざまな意味づけをするわけです。たとえば、「これは神が与えた試練だ」といった具合です。そして、カルマの法則では、「これは過去生で犯した悪業の報いである」とし、「その悪業の報いを受けることで悪のカルマが浄化されて幸せになっていくのだ」となるわけです。そのような意味づけをすることで苦しみを受け入れ、耐えていこうとします。
 あるいは、次のような場合も考えられます。
 それは、非常に悲惨な不幸に見舞われている人を見たときの恐怖心によるものです。
 身の毛もよだつような不幸に見舞われている人を見たとき、私たちは「自分もああなるかもしれない」という恐怖心を抱きます。しかしそんなことは自分には起こって欲しくありません。そのために、その不幸な人と自分とは違うのだという理屈を見つけようとするのです。しかし、そのような明白な理屈は見つかるはずがありません。そこで、はやり検証不能な領域にその理屈を探すのです。それが「過去生」です。過去生で悪いことをした報いであるとか、何か悪いことをした天罰だとか呪いといったものを持ち出し、自分はそんな悪いことはしていないはずだから大丈夫だと安心しようとするわけです。
 らい病という、肉体が変形してしまう病気に罹った人たちのことを、むかしはそのように見なして、あからさまに差別してきました。過去に何か悪いことをしたから、あのような悲惨なからだになるんだと蔑まれ、嫌悪され、隔離されてきたのです。そのために、どれほど筆舌に尽くしがたい苦しみを受けたことでしょうか。

 しかし、カルマの法則を本気で信じている人からすれば、らい病患者は過去生で悪いことをしたせいであると言うはずです。
 あるいは、イエス・キリストなどは、迫害されて十字架で殺されましたが、これもカルマの法則によれば過去生で悪いことをした結果だということになるでしょう。
 では、解脱してカルマをすべて清算したはずの釈迦はどうでしょうか?
 言い伝えによれば、釈迦はデーバダッタという、釈迦の名声を嫉妬した人物から嫌がらせを受けたとされますし、最期は毒キノコを食べて苦しんで死にました(少なくとも肉体的には)。もし解脱して過去の悪業を清算したのだったら、このような苦痛を味わうことはないはずです。カルマの法則を信じているのであれば、釈迦も過去の悪しきカルマのせいで苦しんだことになるでしょう。
 しかし、イエスや釈迦の苦難をカルマの法則によって過去の悪業の報いだと言う人には会ったことがありません。それなのに、らい病患者や、不幸や苦しみにある人に対しては、「ああなったのは過去の悪業の報いだ」などと言うのです。これはおかしなことです。仏教ではカルマの法則を信じています。ならば、釈迦の災難も過去の悪業の結果であるとするのが当然かと思いますが、そんなことは口にしないのです。

 また、過去の悪業(カルマ)は、苦しむことによって解消されるとされています。
 だとすると、苦しんでいる人はカルマを解消しているのだから、苦しむのがよいことになってしまいます。苦しんでいる人を助けることは、カルマの解消の邪魔をすることになるので、助けてはいけないことになります。病気で苦しんでいる人を助けるべきではなく、薬を飲んで治そうとするべきではないということになるでしょう。苦しんでカルマが解消されるという理屈が真実なら、病気は何もしなくても、苦しんでいれば自然に治るということになります。苦しんでいる人を助けなくても、その人は苦しんでいれば自然に助かることになります。むしろ、助けることは、カルマの解消を邪魔するという「悪しきカルマ」を積むことになるでしょうから、助けることは悪いことだという理屈になってしまいます。
 これはあきらかにおかしなことです。
 「いや、カルマが解消されたから助けられたのだ」と言う人がいるかもしれませんが、それはあとづけ講釈といいますか、結果論に過ぎません。助けられればすべてカルマが解消したことになるわけで、それならば、わざわざカルマの法則などを持ち出して、苦しめばカルマは解消されるなどと言う必要性はなくなります。苦しんでいる人はすべて助けてあげればいいからです。

 以上のように見ていくと、カルマの法則というものは、あいまいというか、かなりいい加減な考え方だということがわかってくるのです。
 人生というものは、もちろん、自らの悪業が招いた報いとしての不幸というものはあるでしょうが、過去生だとか、そういう得体の知れない領域を持ち出して現在の不幸や苦しみの原因にすることには、無理があるのです。
 どんなに立派な人であっても、覚者や聖者であっても、不可抗力的に不幸や災難に遭うときは遭うのです。それは過去のカルマの報いでもなければ、本人が悪いせいでもなく、「引き寄せの法則」などといったものでもないのです。過去に悪いことをしていなくても、心の中に不幸を呼び寄せる思いがなくても、不幸災難というものは、訪れるときは訪れるものなのです。
 もちろん、真実はわかりません。カルマの法則はあるのかもしれません。しかし、それはわからないのです。わからないのに、それをあると信じるのは、「信仰」であるとも言えるかもしれませんが、「迷信」であるとも言えるわけです。
 私の個人的な思いを言わせていただければ、カルマの法則などというものを信じて、不幸や苦しみにある人にムチを浴びせるようなマネはすべきではないと思っています。

 「しかし、カルマの法則を信じていれば、人は善いことをしようとするだろうし、悪いことはしないようにするだろう。だから、カルマの法則を信じることはよいことである」
 このように言う人がいるかもしれません。
 次回は、この点について考えてみたいと思います。

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