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心の治癒と魂の覚醒

        

神の正体⑦ 神の愛はいかにして人を救うか


 リチャード・ドーキンスという、英国の生物学者がいます(ちなみにこの科学者は、神は幻想であり宗教は悪だという意見の持ち主で、その種の本も書いています)。ドーキンスによれば、生物とは遺伝子の「乗り物」に過ぎず、大切なのは個体そのものよりも遺伝子であって、よりよい遺伝子を子孫に伝えていくことが生物の至上目的だと述べています。そうして生物は進化していくというのです。
 遺伝子というのは、ご存知のように、生物の肉体構成に関する情報コードです。つまり、生物の目的は、よりよい生体情報を子孫に伝えていくことだというのです。そうして、よりすぐれた生体へと進化していくためです。
 生物というものは、さまざまな試練だとか病気といった経験から、そうしたものに負けずに生きていくように自らを変容させてきたわけですが、そうした情報が遺伝子によって蓄積され伝達されてきたわけです。
 さて、これと同じメカニズムが、神の細胞である私たち人間にも当てはまるのではないかと、私は考えています。
 これまで繰り返し述べているように、(私の考えでは)神とは、私たちひとりひとりの意識によって構築されたネットワークのことです。
 そして、このネットワークの中に、私たちひとりひとりが経験を通して得られた知識や思考や想念といった情報が蓄積され続けているのです。ちょうど、インターネットのようなもので、誰かがブログを書いてアップロードすると、その情報がインターネットに蓄積されます。そして私たちは、インターネットにアクセスすることで、必要な情報を入手しているわけです。ただ、神であるネットワークがインターネットと異なるのは、私たち自身の持つ情報が、その気がなくても自動的にアップロードされるという点です。

 このように、神、すなわちネットワークには、私たちによってさまざまな情報が蓄積され続けているのですが、ここで重要なことがあります。
 それは、進化に必要な情報だけが淘汰されていく、ということです。
 進化の厳密な定義は難しいですが、ここでは仮に「幅広い環境に棲息できる健全かつ多様な生命体へ変容していくこと」としておきましょう。この定義はそれほど間違っていないと思います。
 当然ですが、環境のせいで絶滅してしまってはおしまいです。そのため、たとえば寒い気候になると、その情報を入手した個体の遺伝子が変容し、子孫に引き継がれて、体毛が生えた子孫が生まれてくるわけです。
 そして、個体数をどんどん増やしていき、棲息領域をどんどん広げていきます。棲息領域を広げていけば、異なる環境になったりします。たとえば今度は乾いた熱い砂漠で生きていかなければならなくなったりするわけです。そうするとそこでまた、遺伝子情報が書き換えられて、そうした環境でも生きられる生命体へと変わっていくわけです。
 このようにして、地球上には、さまざまな種類の多様な生命体が誕生したわけです。
 これが進化というものです。進化というものは、非常に合理的なプロセスであると言えるでしょう。

 さて、生命が合理的に効率よく生きるためには、お互いに助け合うことが必要になります。もしお互いに奪い合い殺しあったら、その生命体の群れは存続していけません。「自分さえよければいい」という敵対関係より、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」という協調関係のシステムの方を採用した群れの方が、健全となり生長していきます。協調関係こそが合理的であるということです。繰り返しますが、生命は「合理主義者」なのです。
 ネットワークである神も、そうして進化をしていくものと思われます。
 つまり、協調関係の情報だけを蓄積し、敵対関係の情報を排除する運動が働いていると推測できるわけです。
 このように、神が持っている「協調関係の情報だけを蓄積しようとする運動」が、私たち人間レベルでいう「愛」なのだと思います。生命の進化は愛によって促進されるということです。愛を高めていくことが生命の進化である、という表現もできるでしょう。
 いわば「愛のネットワーク」、これが神の正体です。まさに、神は愛ということになります。私たちが愛を持ち、その情報を発信していくことで、神は進化していくわけです。
 そして、神が進化していくほど、言い換えれば、より完全なる愛に近づけば近づくほど、ネットワークの構成要素である個々の私たちにも、愛の情報がフィードバックされてきます。つまり、救いがもたらされるということになります。

 たとえば、何か困った状況に陥ったとします。そして、「神様、助けてください」と祈ったとします。この祈りの行為は、いわばネットワークにアクセスする行為です。祈らなくても、「困った。どうにかならないだろうか」と思っていても、同じようにアクセスする行為となります。
 すると、神(ネットワーク)は、困った状況を解決するための情報を検索エンジンにかけて探し出し、そのなかでもっとも有効だと思われるものを、祈った人の潜在意識に向けてダウンロードします。
 その情報が表面意識に浮上した場合は、「閃き」という形で解決策が思い浮かびます。そうでない場合は、潜在意識による無意識的な行動という形となって現れます。具体的には、たとえば、何気なく本屋に立ち寄りたくなり、何気なく本を開いてそのページを見たら、そこに問題解決の方法が書かれていたとか、そういった具合です。
 あるいは、「○○さんは困っている」という情報が、何らかの縁がある人にダウンロードされることもあるようです。たとえば友達などです。潜在意識に情報がダウンロードされたその友達は、なんとなく友人のことを思い出し、久しぶりに連絡してみようと思って電話をかけてみたところ、その友人が困っていることを知り、その人を助けてあげる、といったような具合です。
 神の救いというものは、このようにもたらされるのだと思われます。

 このような現象を経験すると、あたかも人間とは別個の存在が助けてくれたように感じられるのですが、実はそうではなく、私たち人間自身が先祖からこれまでに蓄積した、すぐれた情報のネットワークシステムが作動した結果によるものなのです。
 あえて言えば、すぐれた情報を提供してくれたすばらしい人たちのおかげなのです。
 それがどういう人たちであるかというと、大きく分けて三つに分かれるのではないかと思います。
 ひとつめは、科学や技術その他、有益な知識を生み出した人たちです。たとえば学者と呼ばれるような人たちです。彼らのつかんだ知識がネットワークに蓄積されますから、必要に応じてその知識をダウンロードして活用することができます。
 ふたつめは、困難な状況を克服した人たちです。たとえ克服できなかったとしても、そのために努力をした人たちです。なぜなら、困難な状況を克服するために努力し、知恵を絞り、その方法をつかみ出したわけで、いわば「困難を克服する情報」を残したからです。たとえ困難を克服する方法を入手できなかったとしても、困難を克服しようとしたその勇気や忍耐といった情報は蓄積されます。その情報にアクセスした人は、その情報から困難を克服する勇気や忍耐といったものを入手できるわけです。そうして、困難を克服しようとする人を助けるのです。
 三つめは、愛の行為をした人です。愛の行為をした人は、愛する情熱、愛する勇気、愛する忍耐、愛する知恵、愛する方法といった情報を発信したことになり、それがネットワークに記録されます。すると、その情報にアクセスした人もまた、愛に関する情報をダウンロードして、愛の行為ができる人になるのです。

 以上の三つは、どれも生命が生長発展して進化していくために大切な情報です。したがって、すぐれた知識を学び続けた人、逆境を乗り越えた人、愛の行いをした人は、たとえそれが誰にも知られることなく、賞賛されることがなかったとしても、その人生は非常に価値と意味があるものと言えるわけです。彼らがつかんだ情報は、永遠にネットワークに記録され蓄積されて、永遠に同朋や子孫を助けることになるからです。
 私たちの救いの恩恵というものは、こういう、ほとんど名もなきたくさんの善き人たちのおかげなのです。ですから、「神」に感謝するのはけっこうですが、「神」に感謝するとは、そうしたすばらしい生き方をした人に感謝をするということです。

 私はこれこそが、本当の信仰だと考えています。人間とは別個の超越的な存在を思い描いて、それに向けて熱心に祈ったり、念仏やお経を唱えたりするのは、信仰ではありません。単なる偶像(幻想)崇拝であり、単なる儀式です。
 目の前にいるリアルな人間こそが信仰の対象です。その苦しみを少しでも軽くしてあげようという、燃えるような、それでいて冷静な愛を傾けること、それが信仰であると思います。
 なぜなら、人間は神の細胞であり、断片とはいえ神であるからです。ですから、人間を愛することが神を愛することになるわけです。信仰とは神を愛することであるとするなら、まさにこれこそが信仰ではないでしょうか。イエスは「苦しみにある人を助ける人は、私を助けているのである」と言いましたが、これはそういう意味なのだと思います。「神は救う者」であり「人間は救ってもらう者」という分離は、本来ないのです。あなたが人を助けるとき、あなたは「神を助けている神」なのです。
 どのような人であれ、そこに神を見て拝む人がいたら、その人は真の信仰者です。また、真の覚醒者です。

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神の正体⑥ 神は創造主ではない

 前回は、創造主と人間との関係を「鵜飼い」にたとえましたが、これはもちろん、正確なたとえではありません。なぜなら、鵜飼いのように鵜と漁師という分離はないからです。「創造主と人間」という分離は、存在しません。もし存在したら、創造主は究極の一者ではなくなってしまうからです。つまり、自己と非自己という分離が生じてしまうからです。
 ということは、実は私たち自身が創造主とも言えるわけです。私たちひとりひとりは、創造主の一部なのです。私たちひとりひとりは、創造主という意識を天文学的な数字以上に細かくしたものなので、こうした事実が把握できないだけなのです。

 ちなみに、私たちが「創造主の一部」であるなら、私たちは創造主の「細胞」のようなものだと言えるのでしょうか?
 前に、「神」とは、私たち意識のネットワークであると述べ、私たちはそんな神の「細胞」であると述べました。混乱が生じるといけないので、この点についてはっきりさせておきたいと思います。
 神は、私たち意識が創造したネットワークです。ネットワークとは個々の要素によって作り出されたものです。ネットワークが最初にあって、その後で個々の要素が作り出されたのではありません。ちょうど、人間が細胞を創造したのではなく、細胞が人間を創造したのと同じです。つまり、人間が神を創造したのです。
 一方、そうした個々の要素、すなわち人間を創造したのは、究極の一者である創造主です。人間が創造主を創造したのではなく、創造主が人間を創造したのです。ですから、その意味で、人間を創造主の「細胞」にたとえることはできないわけです。もし人間は創造主の細胞であると言ってしまうと、人間が創造主を造ったことになり、それでは「創造主」とは呼べなくなってしまいます。
 ですから、人間は、創造主の細胞ではありません。創造主の「投影像」です。

 ここであらためて、創造主は神ではないということを述べておきたいと思います。
 もちろん、結局は、神をどう定義するかの問題になってしまうのですが、私はこう考えているのです。
 仮に、創造主を神とするなら、以上のべたように、創造主は私たち自身なのですから、「創造主と人間」という区別がありません。ですから、神を信仰の「対象」にすることはできません。「神よ!」と呼びかけるのと「我よ!」と呼びかけるのは、同じことになってしまいます。そこに「関係性」はありません。信仰とは、いわば神と人間という、関係性をベースにした、ある種のコミュニケーションのことですから、これでは信仰が成り立ちません。信仰不能なものを持ち出しても、それは神と呼べないでしょう。

 伝統的な宗教は、創造主と神を混同し、同じものとしてしまったところに、最大のあやまちがあると、私は思っているのです。そのために、さまざまな自己矛盾を抱えてしまっているのです。
 たとえば、神が創造主であるなら、全知全能であるはずです。実際に聖書ではそう説かれています。同時に、神は愛であるとしています。「神は全知全能にして愛である」というのが、神の定義となっています。
 そうなると、なぜこの地上にこうも悲惨な苦しみが存在するのか、という説明ができなくなります。全知全能で愛なら、そんな苦しみを受けなくてもどうにかできるはずです。
 それに対して、宗教者は「苦しみも神の愛のあらわれなのだ」と言います。しかしそうなると、いかなる残酷なことも愛になってしまい、実質的に、愛と愛でないものの区別ができなくなります。つまり、愛の定義が破綻し、愛が消え去ってしまうのです。
 すると宗教者は「神は人間の自由意志を尊重しているのだ」と言います。しかし、これも同じです。たとえば、まだ何も知らない幼い子供がクルマが往来する道路に向かって歩いていくというとき、まわりの人は「自由意志を尊重しよう」などと言って、そのままにするでしょうか? 思わず助けようとするはずです。それこそが愛というものでしょう。神が全知全能なら、このまま人間がこういう生き方をしていれば悲惨なことが起こることはお見通しのはずです。それを傍観しているというのは、どう考えても愛とは思えません。もしそれを愛というのなら、道路に飛び出そうとしている子供を傍観するのも愛になってしまいます。
 ということで、この場合も、愛が破綻してしまうことになるのです。
 ですから、神を(全知全能である)創造主にして愛である、と定義することはできないのです。神は創造主であるか、あるいは愛であるか、どちらかです。
 言い換えれば、「人間を助けることはできるが愛でないから助けない存在」か、「愛であり助けたいのだが全知全能ではないから助けてあげることができない存在」かの、いずれかなのです。
 私はだから、創造主と神というものを別々の存在であると考えたのです。
 ネットワークである神は、愛です。私たちを助けようと力を貸してくれます。しかし全知全能ではないので、助けられないこともあります。
 一方、創造主は、(自己認識以外は)全知全能でしょうが、愛ではありません。ただ人間を創造し、そこから情報を収集しようとしている、ある種の法則のようなもので、おそらく人格性といったものはありません。情報を収集することが目的ですから、人間を助けたりしません。むしろ、そのような干渉をしてしまうと正確なデータが得られないので、助けたりはしないはずです。ある意味では、徹底して人間の「自由意志」を尊重しているとも言えます。

 しかし、実はこういう表現もまた、正確ではないのです。この表現は、まるで科学者とモルモットのような関係性であるかのように語っていますが、創造主と人間との間に分離はないからです。
 分離があれば、創造主を、観察や考察の「対象」にできますが、分離していないので、観察や考察の対象にならないのです。すでに述べたように、眼が眼を見ることができないのと同じ原理です。
 つまり、創造主が何であるかを知ることは原理的に不可能であり、「究極にして永遠の未知」なのですから、創造主について考えたり思ったりすること自体、まったく何の意味もないのです。
 思考や想念の対象とはなり得ない、というのが創造主です。ですから、そのようなものを「神」と呼んで信仰の対象にすることは、原理的にできないわけです。
 こうした理由から、神は創造主ではないと、私は考えているのです。
 以上のように、残念ながら、神は全知全能ではありません。
 しかし、神は愛です。必死になって私たちを救おうとしてくれている存在です。
 より正確に言えば、愛が、神なのです。なぜなら、愛とは、ある種のネットワークだからです。

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神の正体⑤ 創造主が求める情報とは

 前回は、創造主は不完全な存在であり、完全をめざして進化していく存在であると述べました。そして、その不完全性を補うために、私たちを創造し、私たちから情報を得ようとしているのではないかと述べました。
 では、もう少し具体的に、いったいどのような情報を創造主は求めているのでしょうか?
 それは、当然ですが、自らの不完全性を、より完全にするための情報でしょう。
 ならば、創造主の不完全性とは何なのでしょうか? それを知れば、求めている情報が何であるかが、推測できるはずです。

 創造主は、究極の一者であり、この宇宙を創造するほどの強大な叡智と力を備えているわけですから、不完全なものなど何もないと、私たち人間は考えます。全知全能であるかのように思えます。
 確かに、自らの被造物である宇宙のことであれば、すべて知っているでしょう。
 しかし、それ以外のことでは、知らないことがあると思います。
 それはおそらく、「自己」に関することです。つまり、自分が何ものであるか、という知識がないのです。
 そう推測する理由はこうです。
 創造主は、ある種の意識体と言えるかと思いますが、意識とは、観察し、知覚し、認識し、思考する精神作用の主体のことです。
 意識が思考するには、その前に何かに対する認識が必要であり、認識するには知覚が必要であり、知覚するには観察が必要です。たとえば、ネコのことを思考するには、まずネコを観察し、そうしてネコを知覚し、ネコというものを認識しなければなりません。
 このようにして、意識というものは、あらゆるものを観察して知識(情報)を入手することができますが、観察できないものは、情報を入手できません。
 では、創造主が観察できないものとは何でしょうか?
 それは、自分の意識です。つまり、自分自身です。
 なぜなら、意識そのものを観察することは、原理的に不可能だからです。たとえば、私たちは自分の意識を観察することはできません。内面で生じる衝動や感情や思考は観察できますが、意識そのものを観察することはできません。仮に、意識が意識を観察するとした場合、今度は「意識を観察する意識を観察」しなければ、完全に意識を観察していることにはならないからです。その次は「意識を観察する意識を観察する意識を観察」しなければならず、どこまでもきりがなくなります。
 ですから、意識は意識を観察することはできないのです。
 たとえるなら、眼が眼自身を観察できないのと同じです。意識を観察することは、原理的に不可能なのです。
 創造主というものが、意識体であるとするなら、自分の意識を観察できないとは、自分を観察できないことになります。つまりは、自分が何ものであるかがわからないのです。自己に関する情報が欠如しているのです。
 これがおそらく、創造主の持っている不完全性です。

 では、自己に関する情報を得るには、どうしたらいいでしょうか。
 直接には無理です。ならば、どうしたらいいでしょうか?
 たとえば、眼を見たいときは、どうすればいいでしょうか?
 そのためには、鏡をのぞいたり、写真に撮ったりすれば、間接的に、眼は自分自身を見る(観察する)ことができます。
 このように、直接的には無理ですが、間接的には、自分自身を知ることができます。
 そこで、創造主は、自らの意識を分離させたのだと思います。分離させれば観察できるからです。ただし、正確に言えば、「投影させた」と表現するべきかもしれません。なぜなら、文字通りの意味で分離させたら、「一者」としての存在ではなくなってしまうからです。要するに、鏡に自分を映して自分を見るようなもので、鏡というものを知らない人がはたから見たら、一人の人間が分離して二人になったように見えるのと同じです。

 そうして、神は、自分の分身(投影)である生命体を創造したのではないかと思います。人間だけではありません。すべての生命体です。なぜなら、生命はすべて意識を持っているからです。
 ただ、それでも、あらゆる生命体のなかで、人間(の意識)が、もっとも創造主の分身に近いのではないかと思います(他の星には、人間よりももっと創造主に近い存在がいるかもしれません)。
 創造主は、最初から、自分と同じ意識体(生命体)を創造したのではありません。まずは、もっとも原始的な意識体、ある種の「意識の分子」のようなものを創造したのだと思います。というのも、その原始的な意識体がしだいに高度なものに進化していく(つまり自分の姿に近づいてくる)、そのプロセスを観察したかったからだと思います。
 こうして、地球にひとつの細胞が誕生し、時間をかけて、その細胞が寄せ集まっていき、しだいに高度な生物が誕生していったのではないかと思います。つまり、進化していったということです。
 すでに述べたように、創造主は今なお進化し続けている存在ですから、進化していく存在を創造しなければ、自分自身を知ることができないのです。つまり、完成された生命体では意味がないのです。そのために、最初は原始的な生命体を創造したのでしょう。

 ひらたくいえば、創造主が人間を創造した理由は、「自分さがし」のためだと言えるかもしれません。
 私たち人間が、本能的に知的探究心を持っているのも、私たちが、そうした創造主の意識を投影された存在だからです。私たちの好奇心が行き着くところは、最終的には「自分とは何か」ではないかと思います。私たち人間が存在している目的は、「自己の探求」ということになります。
 そうして創造主は、私たちが自己を探求するのを観察することで、「自己とは何か」に関する情報を入手しようとしているのだと思われます。
 あまり適切なたとえではありませんが、「鵜(う)飼い」に似ているかもしれません。すなわち、鵜を海に放して魚をとらせ、その鵜から魚を得ている漁師、それが創造主ではないかと思うわけです。

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神の正体④ 世界を創造した目的

 前回は、創造主というものは、原理的に把握されない「闇」のようなものであると述べました。「創造主」について考えること自体がすでに間違っているとも述べました。
 ただ、それではこれ以上の説明ができないので、とりあえず間違いを認めつつ、創造主についての考察を続行してみることにします。
 さて、この世界や人間を生み出した創造主について、次に私たちが疑問に思うのは、いったい何のために世界や人間を生み出したか? です。

 まず、何かの行動が行われた場合(この場合であれば世界の創造)、何かの目的があって行われたか、何の目的もなく行われたか、いずれかです。
 私たちは、たいてい何らかの目的があって、それを達成するために行動を起こしますが、目的がない場合もあります。明確な目的がない行動には、一貫した統一性や秩序といったものに欠けている傾向があります。たいてい、物事はランダムに不規則なものとなります。
 そこで、創造されたこの世界、とりわけ生命体の構造を観察すると、そこには驚くべき精緻な統一性や秩序が見られます。したがって、これは相当な目的があって創造されたものと考えるのが妥当ではないかと思うわけです。
 
 では、仮に、目的があって創造されたとするなら、それは何なのでしょうか?
 私たちが何か目的があって行動する場合、その理由は、いうまでもなく目的を達成するためですが、目的を達成しようとするのは、そうする必要があるからです。
 言い換えれば、何らかの不備や不足があるからです。完全ではないということです。完全なら何も求める必要はありません。
 したがって、何か目的があってこの世界を創った創造主は、不完全な存在だということになります。何かが欠けているために、それを満たそうと、創造主は世界と人間を創造したのではないかと考えられるのです。
 前に述べたように、すべての存在は進化していると私は考えます。進化とは完全をめざして変容していくことです。進化していないとは、静止した、いわば死んだ状態だからです。完全になったら進化はありえません。完全というのは死んだ状態なのです。
 したがって、すべての存在は不完全であり、だからこそすばらしいのであって、いわば「永遠なる未完」という本質を備えているのです。ですから、創造主を完全であり、全知全能であるとする神学の考え方には、私は反対なのです。
 人間は、創造主の不完全性を補い、創造主の進化を促進させるために創造されたのではないかと思います。その意味では、人間は創造主の「救世主」と言えなくもないわけです。神(創造主)が人間を救おうとしているというよりも、人間が神(創造主)を救おうとしているのかもしれません。

 ならば、創造主には、いったい何が欠けていたのでしょうか?
 おそらくそれは、「情報」だと思います。
 というのは、万物を二つに分けたとき、「実体」か「属性(情報)」かの、いずれかの要素しかないからです。
 たとえば、鉄のボールがあったとします。実体は「鉄」で、属性(情報)は、「球体」となります。肉体の実体は、蛋白質だとか脂肪といった物質で、属性(情報)は、そのルックス、大きさ、機能、といったものになります。
 このように、すべてのものは、実体と情報によって成り立っています。
 したがって、創造主は、実体か情報、あるいはその両方のいずれかを求めて世界を創造したと推測できます。
 しかし、実体を求めていたとは考えられません。なぜなら、世界を創造したということは、その実体を作り出したということですから、すでにその実体を持っていることになるからです。
 では、情報でしょうか。世界の実体の情報もまた、それを作り出したのは創造主ですから、すでに持っていることになります。
 しかし、その情報がどう変化していくか、という情報は持っていない可能性があります。
 たとえるなら、化学者が、Aという薬品とBという薬品を混ぜて、その後、どう変化するかという実験に似ています。化学者は、Aという薬品の情報も、Bという薬品の情報もわかっていますが、両者を混ぜたらどうなるかという情報は持っていません。その情報を得るために、両者を混ぜるという行動をするわけです。
 同じように、世界を創った創造者は、創造した世界がどうなっていくかという情報は持っておらず、それを得るために、世界を創造した可能性があるのではないかと、私は考えているのです。
 では、もう少し具体的に、それはいかなる情報なのでしょうか?
 その点について、次回、考えてみたいと思います。

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神の正体③ 世界と人間は誰が創造したのか

 これまで考察してきたように、もし神が、人間どうしの意識のネットワークであるとするなら、この世界、そして人間は、いったい誰が創造したのでしょうか? 神が創造したのではないのでしょうか?
 原因があって結果があるという因果律が正しいとすれば、この世界という「結果」があるわけですから、その「原因」、すなわち、「創造主」が存在していると考えられます。
 一般的には、神が世界を創造したとされます。神イコール創造主ということになっています。
 では、仮にそうだとすると、その神(創造主)は、誰が創造したのか?という疑問が生じてきます。
 これについて、神学などでは、神というのは究極の根源であり、誰も神を生み出したものはなく、最初から存在していた、ということで決着をつけています。
 一方、世界を創造したのは神ではなく、「自分で自分を生んだのだ」という自己生成論を唱える学者もいます。つまり、創造主というものは存在しないという考え方です。表現を変えれば、自分こそが創造主だというわけです。
 しかし、たとえそうだとしても、「では、自分で自分を生み出すその力はどうやって備わったのか?」という疑問が生じてきます。それも「自分で備えたのだ」とすると、自分で備えるその能力はどうやって備わったのか?」と、同じ疑問の繰り返しとなり、回答にはたどり着けません。結局、この自己生成論も、「最初から自己を生成する能力を宿していた」ですませるしかなくなってしまいます。
 つまり、創造主が「神」であっても「自己」であっても、それより前のことは考えないようにすると言っているわけです。ある種の思考停止です。
 こうした根源的で形而上学的な問題を追及していくと、どこかで思考停止しなければならなくなるのです。考えてもわからないからです。つまり、根源的一者である「創造主」という概念そのものを認識する能力は、人間には備わっていないということです。

 人間の認知能力では、世界や人間を創造した存在をとらえることは、不可能だということです。不可能なのに、無理にとらえようとすると、本質が歪められることになります。仮に、この世界を創造した存在が神であるとしてあれこれ考えたりすると、真実の神の姿とは違う、デタラメな姿を「これが神だ」と考えてしまうことになります。これは「狂信」です。(創造主としての)神について論じたり考えたりし、たとえわずかでも「神とはこういうものである」とした時点で、すでに「狂信」になってしまうのです。
 創造主について考えたり思ったりした時点で、もうその本質を歪めてしまっているのです。たとえるなら、創造主について知ろうとすることは、闇を見るために光を当てるようなものです。光がなければ何も見ることはできませんが、光を当てたら闇は消滅してしまいます。人間にとって、創造主は、原理的に認知不能、観測不能な存在なのです。

 このように、創造主とは、私たちの認知をはるかに超えた存在であり、創造主に思いを向けた瞬間に実像が消えてしまうのであれば、創造主を神と崇めたり、祈ったり、何かを求めたり期待したりすることは、できないということになります。創造主に思いをはせた瞬間に創造主は消滅するからです。残るものがあるとすれば、自分が勝手に作り上げたイメージです。ある種の「偶像崇拝」と言ってもいいでしょう。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では偶像崇拝を禁じていますが、神について論じた時点で、すでに偶像崇拝しているのです。
 以上のような理由から、創造主は私たち人間にとって「神」とはなり得ないと、私は考えています。認知不能という意味では、存在していないも同然だからです。神は創造主ではありません。私たち人間が太古の時代から「神」としてきたのは、創造主ではなく、私たちの意識の総体としてのネットワークです。

 では、結局のところ、創造主とは、何者なのでしょうか?
 それは「わからないというもの」です。わからないということが、創造主の本質であり属性なのだと思います。「永遠なる未知」と表現してもいいでしょう。おそらく、それが創造主の正体です。

 とはいえ、創造主について考えること自体が間違っていると言っておきながら、やはりどうしても、次のような疑問が生じてくるのではないかと思います。
 「いったいなぜ、創造主は、この世界や私たちを創造したのか?」
 何か目的があったのでしょうか? 目的があったとしたら、それは何なのでしょうか?
 すなわち、私たちは何のために創造されたのか、という疑問です。
 次回は、その点について考えてみたいと思います。

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