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心の治癒と魂の覚醒

        

エゴからの攻撃

 まずはご報告とお知らせから。 
 今月5月15日/16日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「エゴがしかける罠」というテーマで行いました。結局のところ、仏教でもキリスト教でも、あるいはスピリチュアルでも、めざしているのは「エゴの消滅」なのですが、残念なことに、こうした教え、とりわけスピリチュアルは、エゴを消滅させるどころか、増長させている場合が多いように思います。スピリチュアルはエゴの温床になりやすいのです。そのひとつのケースとして、不食者として有名なジャスムヒーンが、実際に何も食べないで生きられるかどうか、実験したことがあるので、それについて紹介しています。ぜひダイジェスト版をご覧になってください。
 動画視聴
 来月(6月19日/20日)は、哲学教室で、歴史上、キリスト教やさまざまな哲学思想に大きな影響を与えたギリシアの哲人「プロティノス」についてご紹介いたします。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで
 
 それでは本題にうつります。
 冒頭で述べたように、今回のイデア ライフ アカデミーの授業は、「エゴの消滅」がテーマでした。ダイジェスト版では収録されていませんが、授業では、エゴを消滅しようとするとき、エゴからの抵抗や攻撃を受けることを紹介しました。
 エゴを消滅しようとする自分に対する抵抗や攻撃だけでなく、エゴの消滅を説く人に対する抵抗や攻撃もあります。その結果、そういう人は人々(のエゴ)から迫害を受けることが多いのです。その最たる例が、ソクラテスやイエスでしょう。エゴの消滅を説いたがゆえに、人々のエゴの抵抗と攻撃に遭って死刑にされてしまったのです。聖者と呼ばれる人たちが、迫害を受けることが多い大きな理由のひとつがこれなのです。
 エゴはありとあらゆる手段を通して、自分の、あるいは他者のエゴを消滅しようとする人に攻撃をしかけて、その試みをだめにしようとします。ロシアの神秘家グルジェフは、こうした現象を「ツヴァルノハルノ」と呼んでいます。グルジェフも人々のエゴを消滅させるために活動したのですが、晩年、交通事故に遭うなどで、その志を果たすことができなくなりました。彼によれば、交通事故に遭ったのもツヴァルノハルノのせいだといいます。この記事の文脈で表現すれば、エゴの仕業ということになるでしょう。

 実は今回、私もエゴの攻撃を受けたと思われる現象に遭遇しました。
 今回の授業が終わった翌日、授業でスライドを映すために使っているノートパソコンが、急に壊れてしまったのです(画面がゆがんで表示されるようになった)。原因に、思い当たるものはありません。今まで10年以上使ってきてまったく問題なかったのに、急におかしくなってしまったのです。
 何とか直そうといろいろ試みましたがダメで、結局、すべてのデータを消去してOSを入れなおしました。そして、さまざまな設定をしなおし、失われたアプリを入れたりして、ようやく復旧できました。幸い、重要なデータはバックアップをとっていたので、大きな損害には至りませんでしたが。
 その後、授業を撮影した動画を編集して、それをYOUTUBEにアップロードしようとしました。ところが、いつもとまったく同じ作業をしたはずなのに、アップロードできないのです。結局、何回か再試行してようやくできたのですが、なぜうまくいかなかったのか、こちらも原因不明なのです。

 今まで何回も同じ作業をしてきましたが、こんなトラブルに見舞われることはありませんでした。ところが今回に限って、しかも、2つのトラブルに、同時に見舞われたのです。
 これは、果たして偶然なのかどうか? 偶然なのかもしれませんが、そうではない可能性もあるような気がします。「エゴの消滅」という動画を見せないように(そうしてエゴを消滅させようとする人が増えないように)、エゴが攻撃をしかけたのではないか?
 もちろん、真実はわかりませんが、グルジェフもツヴァルノハルノという名前でこういう現象があることを指摘していることを考えると、エゴから攻撃を受けた可能性もあるのかなと思ったりもします。
 もちろん、イデア ライフ アカデミーは、設立当初から「エゴの消滅」を掲げてきたのですが、今までは「エゴ」という言葉は使わず「人格の向上」だとか「魂の覚醒」という表現をしてきました。
 ところが今回は、あからさまに「エゴの消滅」という表現を掲げたために、エゴが警戒心を抱き、露骨に攻撃をしかけてきたのかもしれません。

 この地上における私たちの目的は、エゴを消滅させることです。しかし、それは生易しいことではありません。努力すればするほど、熾烈を極めた戦いとなるでしょう。内面的にも外面的にも、ありとあらゆる抵抗や攻撃をエゴから受けるでしょう。そのことをよく覚悟しておくことが大切です。
 しかし、エゴを消滅させた末に待ち受けている、地上とは比較にならない至福が手に入ることを思えば、エゴからいかなる攻撃を受けても、それに耐えて、戦い続けることができるに違いありません。
 この記事を読んでくださっている皆様、エゴという悪魔に負けることなく、頑張っていこうではありませんか。
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マズローの「欲求六段階説」は本当か?

 アメリカの心理学者アブラハム・マズローが唱えた「欲求五段階説」というものがあります。自己啓発系セミナーなどでよく引き合いに出されたりしています。有名なのでご存知の方も多いと思いますが、ざっと説明すると、人間の欲求は五段階のピラミッドのように積み重なっており、低次の欲求が満たされてはじめてその上の欲求を満たそうとするようになるという理論です。ピラミッドの一番下に位置するのは食欲などの「生理的欲求」、それが満たされると、その上に位置する「安全欲求(安全・安心した暮らしがしたい)」を満たそうとします。その安全欲求が満たされると、その上に位置する「社会的欲求(集団に帰属したり仲間が欲しい)」という欲求を満たそうとし、それが満たされると、その上に位置する「尊厳欲求(認められたい、尊敬されたい)」を満たそうとし、それが満たされると、その上に位置する最上位の「自己実現欲求(自分の能力を活かして創造的な活動がしたい)」を満たそうとする、という理論です。
 この理論は、確かにある程度、その通りではないかと思います。
 ただ、マズローは晩年、さらにその上に「自己超越欲求」を付け加えたようです。これは、自分よりも世のため人のために生きたいといった、エゴを超越した博愛主義的な崇高な生き方への欲求です。
 ということは、マズローは最終的に「欲求六段階説」を唱えたことになると思われます。
 仮にそうだとすると、最上位となった「自己超越欲求」は、その下の「自己実現欲求」が満たされないと発揮されず、自己実現欲求はその下の「社会的欲求」が満たされないと発揮されず、社会的欲求はその下の……ということになり、結局、最下位の生理的欲求が満たされないと、その上の欲求はすべて発揮されない、ということになります。

 しかし私は、マズローのこの理論には疑問を抱いています。
 というのも、この社会を見渡すなら、生理的欲求も満たされ、安全欲求も社会的欲求も満たされ、尊厳欲求も、自己実現欲求も満たされているのに、まったく自己超越欲求、つまり自分よりも世のため人のために生きようとしている人を、あまりにも見かけないからです。私の経験からいっても、会社を立ち上げてそこそこ成功し、本も何冊も書いて、十分に五段階すべての欲求を満たしていると思われた社長のもとで一時期働いたことがありますが、博愛のかけらもなく、そればかりか、エゴの塊のような人でした。

 逆に、生理的欲求さえも満たされていないのに、自己超越欲求を発揮したという例が、数多く見いだされます。たとえば、ナチス強制収容所の経験をもつ精神科医ヴィクトール・フランクルの証言がそれを示しています。強制収容所では、食べ物さえ満足に与えられず、いつ殺されるかもわかりませんでした。つまり、生理的欲求も安全欲求も満たされない状況だったわけで、いわんや社会的欲求、尊厳欲求、自己実現欲求などは問題外でした。そんな中で、少数ではあったにせよ、ただでさえ少ない自分の食べるぶんを人に分け与えたり、一生懸命に仲間を励まし慰めてまわる人たちがいたというのです。
 また、私自身、ホスピスでカウンセラーをしていたとき、もうすぐ亡くなってしまう患者さんの中に、つまり、五つの欲求が満たされているとはいえない人の中に、すばらしい博愛的精神に目覚めた人も、何人か見てきました。
 さらに、古今東西の博愛的聖者たちの伝記を研究すると、彼らは必ずしも五段階欲求を満たした人ばかりではありません。それどころか、自己超越をするために、あえて生理的欲求も安全欲求も社会的欲求も尊厳欲求も自己実現欲求も否定してきた人たちばかりです。
 以上のような理由から、マズローの「欲求六段階説」には、大きな疑問を抱いているのです。むしろ、彼のいう五段階の欲求が満たされない方が、最上位の自己超越欲求(博愛精神)が発揮されるのではないかとさえ思うくらいです。

 五段階説の頂点である自己実現までは、基本的にエゴです。したがって、五段階説だけなら、ある程度は真実であるかもしれません。しかし、その段階の上に「自己超越欲求」を積み重ねるのは無理があります。なぜなら、自己超越欲求とは、エゴを捨てることだからです。自己実現欲求まではエゴで突っ走ってこれます。基本的にエゴが推進力となっています。ですから、その延長線上に、エゴのない博愛精神である「自己超越欲求」を配置することはできないのです。今までエゴで突っ走ってきたのに、急にエゴが消滅するなんてことはありません。何か別のファクターがそこに導入されたと考えなければ、説明がつきません。
 では、その「ファクター」とは、いったい何なのでしょうか?

 それはおそらく、すでに聖者の行いについて少し触れたように、マズローのいう五つの欲求を否定することが、そのファクターではないかと思うのです。これは五つの欲求が満たされてはじめて自己超越欲求が生まれるとするマズローの考え方とは正反対です。むしろ逆に、五つの欲求が抑制されたとき、自己超越欲求が生まれるのではないかと思うわけです。
 すでに述べたように、五つの欲求の発展は、基本的にはエゴの推進力に基づいています。しかし、自己超越欲求とは、エゴの消滅という方向性をもったものですから、エゴに基づく五つの欲求は、否定されなければならないわけです。
 具体的には、食欲などの生理的欲求を抑え、安全や安心を求める気持ちを捨て自己を守ろうとせずに安全欲求を抑え、集団に帰属しようとせず孤独を受け入れることで社会的欲求を抑え、自分が認められたり尊敬されようとする気持ちを捨てて謙虚になることで尊厳欲求を抑え、自己を前面に打ち出して創造的な活動をしようとするのではなく、ただ神や仏といった、おおいなる存在に身をゆだねることで自己実現欲求を抑えることです。
 こうしたことは、仏教にせよ、キリスト教にせよ、聖者と呼ばれている人たちが行った修行の内容そのものです。

 マズローは、生理的欲求・安全欲求・社会的欲求の三つを「低次の欲求」、尊厳欲求と自己実現欲求を「高次の欲求」と分類しましたが、むしろ、これら五つはすべて低次の欲求であり、自己超越欲求だけが唯一、高次の欲求であると分類するべきではないかと思います。
 仏教にせよキリスト教にせよ、めざしているものは、エゴを滅却させた自己超越欲求を開発することです(厳密に言えば、最終的にはそのような欲求の主体である「自己」さえも滅却することですが)。
 以上のような視点から、あらためてマズローの理論を振り返ると、霊的求道者にとってひとつの指針になるかもしれません。

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名声を求めることの弊害について


 宗教の世界では、おおむね禁欲が説かれています。食欲や性欲や睡眠欲といった肉体的な欲望を抑制する修行が行われているのです。しかし、そうした欲望よりも弊害が大きいにもかかわらず、またしばしば、そうした欲望を煽る元凶にさえなっているにもかかわらず、ある欲望については、案外、見落とされています。
 この欲望は、肉体的な欲望よりもはるかに弊害が大きく、肉体的な欲望は克服できているような「聖者」でも、この欲望は克服されておらず、むしろそれに振り回されており、しかもやっかいなことに、振り回されていることに気づかないような場合が、ときおり見られます。
 今回は、それについてお話させていただきたいと思います。
 その欲望とは、「名声欲」です。
 名声を求めることは、この世の視点からはともかく、霊性進化という視点から見れば、これほど危険なことはありません。肉体的な欲望を克服するよりも先に、まずはこの欲望を克服すべきではないかと私は考えています。

 ここで言う「名声」という言葉を、私は広い意味で使っています。「有名になること」、「賞賛されること」、「尊敬されること」、「ひとかどの人間だと思われること」、「歴史に名を残すこと」など、こうした欲求すべてを含めて「名声」という言葉で表現しています。単純に言ってしまえば「認められたい」という欲求です。「優越感を満たすことへの欲求」と言ってもいいでしょう。
 人は誰でも認められたいという欲求を持っていると言われます。この欲求があるがゆえに、人は努力します。それは成功の原動力となり、この世的な意味における「立派な人」になるうえでの、強力な動機づけとされていますから、一般的には肯定的に見なされています。
 しかしそれでもなお、名声を求めることは危険であると、申し上げたいと思います。
 名声を求めるのではなく、たとえば自分が好きなことを一生懸命に行うとか、無私の心で何かをするといったようなことをして、あくまでもその結果として、名声が得られるのであれば(そしてその名声に心動かされることがないのであれば)、何も問題はありません。
 しかし、名声そのものを求めて努力することは、人を堕落させ、醜悪にさせ、不幸にさせる可能性がきわめて高いのです。
 名声を求めて一生懸命に努力した結果、それが得られた場合、まず最初に襲ってくる「悪魔」は、高慢さです。最初のうちは、その悪魔は慎ましく振る舞い、名声を得た直後は、まだ謙虚さを保っていることがあっても、名声ある人として世間から尊敬され、崇められ、特別扱いされることに慣れてくると、しだいに、そのような扱いをされないときには不満となり、腹を立てたり、イラついたりするようになってきます。つまり、怒りという煩悩の温床になってしまうのです。
 あげくの果ては、あからさまに人を見下す態度をし、威張り散らしたり、いわゆるパワハラのようなことをしたりします。これは人間として醜悪であるばかりか、人を苦しめるという悪業を積むことにもなります。
 一方、名声を求めて一生懸命に努力したのに、得られなかった場合は、「自分には価値がない」という、自己否定感、低い自己価値観、自己卑下や劣等感に襲われます。そして、名声ある人に対する嫉妬や憎悪に駆られるようになります。自分を認めない人間、自分を認めない世の中に敵意を向けたりします。つまり、この場合もまた、怒りという煩悩の温床になってしまうのです。
 人間や世の中に対する鬱積した妬みや憎悪のために、自分より立場が下の人に対して意地悪をして鬱憤をはらしたり、インターネットで誹謗中傷したり、極端な場合、自分を認めない世の中に対する復讐の意味で、無差別殺人といったことを起こしたりします。殺す相手は誰でもいいのです。見ず知らずの人々というのは、「世の中」の象徴だからです。典型的な例が、オウム真理教の麻原です。麻原は選挙に出て惨敗しました。彼はそのとき、自分を認めなかった世の中を憎悪し、その復讐のために、地下鉄サリン事件を起こしたのだと思います。

 もちろん、犯罪やモラルに抵触しなければ、名声を求めて努力することで、たとえば一流企業に就職し、出世して高い地位や富を得て、タワーマンションの最上階に住んで高級外車を乗り回すといった、人からうらやましがられるような、いわゆるセレブと呼ばれる人となり、世間的には「立派な人」と見なされ、幸せに暮らせると思われるかもしれません。
 しかし、そう簡単ではないのです。
 一度そのような境遇になれば、その境遇を失うことに相当な苦痛が伴います。今まで高級住宅街に住んでセレブと見なされていたのに、庶民的な街に転居してありふれたマンションに住んで「普通の人」と見なされるようになることなど、考えただけでもぞっとする悪夢であり、もしそうなったら、相当な絶望感に見舞われるでしょう。人が「名声」に対していだく執着というものは、それほどまでに根深いのです。
 そのために、現在の境遇が失われはしないかという不安や恐怖感に、常にさいなまれることになります。これが、高慢さの次に現れる悪魔です。
 そして、セレブの生活を維持するために、大変な努力をし続けなければなりません。仕事が順調にいっている時はいいでしょうが、いつもそうだとは限りません。うまくいかない時もあるでしょう。そうなると、かなりのストレスや重圧に悩まされることになります。その結果、健康を損ねたり、家族関係が悪くなるといったことも生じてきます。
 セレブと呼ばれている人たちは、はたからは、さぞかし幸せだろうと見られがちですが、そういう人たちをカウンセリングしたことのある私からすれば、彼らははたで見るより幸せではありません。必死に幸せを演じているから幸せに見えるだけです。もちろん、一時的には幸せなときもあるでしょう。しかし、いつまでもずっと幸せであり続けるセレブなどというのは、存在しないか、したとしても、きわめてわずかだと思います。

 衣食住に困るのは不幸ですが、最低限の衣食住を維持するだけなら、セレブになる必要はありません。それなのに、人々がセレブに憧れるのは、いろいろ理由はあるでしょうが、もっとも大きな理由は、みんなからうらやましがられ、優越感に浸りたいからです。つまりは、名声欲のためです。
 名声欲を野放しにすると、食欲や性欲といった肉体的な欲望も強くなってきます。たとえば「セレブが食べるような高級料理を食べよう」ということになり、食欲が煽られていきます。また、男性の場合「セレブにふさわしいきれいな女性をパートナーにしよう」となり、性欲が煽られていきます。セレブになると、そうした食欲や性欲を満たすことができるようになってきますが、欲望にはきりがないので、ますます欲望が強くなってくるのです。
 名声というのは、麻薬のようなもので、一度それに浸ってしまうと、今度は名声なくしては苦しくていられなくなります。いわば「名声依存症」という状態になってしまうのです。
 麻薬がなければ苦しみを感じる人と、麻薬などなくても平気な人と、どちらが幸せと言えるでしょうか? つまり、名声がなければ苦しみを感じる人と、名声などなくても平気な人と、どちらが幸せか? ということです。
 麻薬など、へたに手を出したら最後、人生は破滅に向かいます。同じように、名声に取り憑かれたら最後、人生は破滅に向かいます。あるいは、人間として醜悪になります。仮に死後の生や来世というものがあるとしたら、かなり悲惨なものになるでしょう。

 ですから、名声など、求めてはいけないのです。麻薬を求めてはいけないのと同じです。
 そもそも、「人よりすぐれて優越感に浸りたい」などという願望は、卑しくてさもしい人の抱く願望です。名声はエゴの中核であり、悪魔の誘惑の常套手段であり、霊性進化という点から言えば、百害あって一利なしです。今まで立派だったのに、名声を得たとたんに堕落し、高慢で人を見下すような、醜悪な人間になった人を、私は何人か見ています。
 それよりも、すでに述べたように、自分の好きなこと、自分の得意なこと、世のため人のためになることを、一生懸命にすることです。その結果として名声を得たのであれば、そして、その名声に心を動かすことがないのであれば(これがけっこう難しいのですが)、何も問題はありません。名声そのものを求めることが問題なのです。
  
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エゴとの闘い


 エゴとの闘いは、生易しくありません。いつ終わるとも知れない、過酷で辛く、忍耐を要する危険な闘いです。
 それよりも、エゴの奴隷でいた方がいいと思うかもしれません。
 実際、エゴがもたらすさまざまな苦しみを、娯楽や気晴らし、仕事、あるいは宗教などで、うまくごまかすことができるなら、エゴと闘うよりも、エゴの奴隷に甘んじている方が、ずっと楽だと言えるかもしれません。たとえるなら、野生動物よりも、家畜の方が安全で楽なのと同じです。
 エゴの奴隷として、一生を<ニセの我>で生きるか、それとも、<本当の我>に目覚めて自由に生きるか、私たちは、いずれかの道を選ばなければなりません。
 もしも、自由に生きる道を選ぶのであれば、人生に安全や安楽を期待する気持ちはきっぱりと捨てなければなりません。そして、傷つくことを怖れない勇気と覚悟が必要です。そのくらいでないと、エゴとの闘いには勝てないからです。
 とはいっても、一部の人にしか実行できないような、難行苦行というわけではありません。真剣さと意欲、忍耐、そして適切な知識さえあれば、誰でもエゴを弱体化させることは可能です。
 いずれにしろ、人生というものは、エゴの奴隷として生きても苦しみがあるし、エゴの奴隷から解放されて自由に生きようとしても苦しみがあるのです。人間という存在は、苦しみから逃れて生きることはできないのです。問題は、どちらの苦しみを受け入れるか、ただそれだけです。

 エゴの奴隷として生きる苦しみは、強制的に与えられる「受動的な苦しみ」であり、エゴから解放されるための苦しみは、自主的に追い求めていく「能動的な苦しみ」です。
 受動的な苦しみは、ただ苦しみで終わるだけです。たとえば、エゴの反応によって人を妬んだら、妬みに伴う苦しみを味わうだけで、後には何も残りません。
 しかし、エゴから解放されるために、自ら苦しみを引き受けていくという、能動的な苦しみの後には、大きな喜びが待っています。
 たとえるなら、登山のようなものです。登山家は、自ら望んで険しい山を登ります。苦しみや困難が多いほど、頂上に到達したときに大きな喜びが得られます。楽に頂上まで到達できる山に登っても、大きな喜びは得られません。
 このような、能動的な苦しみの後に訪れる大きな喜びは、「歓喜」と表現することができます。ありふれた喜びであれば、苦しまなくても得られるでしょうが、歓喜は得られません。歓喜は、苦しみを能動的に耐え抜いた者だけが手にできるのです。歓喜は、能動的な苦しみを母体にして生まれるのです。
 エゴを脱ぎ捨てる苦しみを引き受けたとき、歓喜が生まれてくるのです。
 エゴの奴隷のままでは、歓喜は得られません。
 もちろん、歓喜など得ようと思わないのであれば、それはそれでいいわけです。あくまでも個人の勝手だからです。人生において、歓喜よりも、安全や安楽を重視したいのであれば、それもまたひとつの生き方なのかもしれません。
 しかし、これだけは言えるでしょう。本当に「生きている」という感覚は、歓喜を味わったときにのみ得られるということです。人を夢から覚ましてくれるのは、歓喜なのです。
 もしもあなたが、歓喜に満ちた一生を送り、死ぬ直前になって「私は本当に生きた」と言える人生を送りたいのであれば、エゴから脱却する道を選ばなければなりません。
 エゴとの闘いという、険しい登山道を歩まなければならないのです。
私が主催するイデア ライフ アカデミーは、エゴと闘い、エゴから脱却して自由に生きるための情報を提供しています。関心のある方はぜひ授業にご参加なさってください。動画でも学ぶことができます。
 イデア ライフ アカデミー

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エゴの典型的な働きのひとつ「妬み」


 ところで、<ニセの我>、すなわち、エゴとは、そもそも、何なのでしょうか?
 ひとことで言うと、エゴとは「衝動の集合体」のことです。
 衝動とは、私たちを特定の感情・思考・行動へと走らせる、通常はコントロールできない「力動的な反応」のことをさします。その衝動が、いくつも集まって複雑に絡み合った構造をしたもの、これがエゴです。
 したがって、エゴというのは、しょせんは単に反応するだけの、いってみれば機械のようなものにすぎないのですが、複雑な構造をしているために、あたかも人格を持っているかのように作動します。そして、エゴは無意識層に寄生しているため、私たちはエゴの存在にほとんど気づくことなく、エゴを自分の人格、すなわち<本当の我>だと錯覚してしまうのです。
 ひとつ例をあげてみましょう。
 いわゆる「妬み」というものは、エゴの典型的な働き(反応)のひとつです。
 妬みとは、自分より何らかの点で恵まれている人に向けられた、ある種の攻撃的な衝動です。そのため、妬みに支配されると、言い換えれば、エゴに支配されると、人の不幸を願うようになり、意地悪をして困らせてやろうと考えたり、実際にそうした行動をとったりしてしまうのです。
 私たちは、そのような願いや考えや行動は、自分自身の意思に基づいていると思っていますが、そうではありません。エゴによって”そうさせられている”のです。言い換えれば、あなたが妬んでいるのではなく、エゴが妬んでいるのです。
 その証拠に、妬みというのは、ある種の反応(衝動)です。「妬むことにしよう」と考えて妬むわけではありません。自分の意思とは無関係に、勝手に心の底から湧いてくるものです。まさにそれは、衝動で構築されたエゴの仕業だからです。
 エゴ(衝動)には、合理的な計画性も、意味のある目的もありません。そのため、人がエゴに支配されると、不合理で無意味な思考や行動に走ってしまうのです。ひらたく言えば、愚かな行為、さらには、妄想や狂気へと駆り立ててしまうのです。
 考えてもみてください。
 自分より恵まれている人を妬み、その人を困らせたからといって、何か得になることがあるでしょうか? 自分が恵まれるようになるでしょうか? 幸せになれるでしょうか?
 何もいいことはないはずです。せいぜい、気持ちがすっきりするだけでしょう。
 しかし、たったそれだけのために、相手を困らせるのに費やす時間や労力、また、そのことで相手から恨まれて余計なトラブルを招く危険性などを考えると、妬みというものは、まったく理に合わない、知性も合理性も欠けた、単なる盲目的な反応にすぎないことがわかるはずです。ただ自分を苦しめる結果を招くだけの、愚かなものだということです。

 そもそも、妬むこと自体が、すでに苦しみであると言えるでしょう。
 妬んでいるときの気持ちというのは、穏やかではありません。非常に不愉快であり、苦痛です。世の中には、自分より恵まれている人など限りなくいるわけですから、そんな人を見るたびに妬んでいたら、いつも苦しんでいなければなりません。それはまさに、地獄にいるようなものです。そのうえ、妬んでいる人を攻撃でもしたら、あらゆる災難を自ら招き寄せることになります。最悪の場合、犯罪に走って罰せられるかもしれません。
このように、エゴは、あなたを苦しめるような、さまざまな反応をします。妬みの他にも、強欲、支配欲、依存、利己主義、虚栄、怒り、傲慢、卑下、悪意、嫉妬、嘘、打算、ごまかし、怠惰、臆病、気まぐれ、無鉄砲……、数え上げたらきりがありません。
 人生における不幸災難の原因を突き詰めていくならば、ほとんどの場合、そこにあるのはエゴなのです。犯罪もエゴによるものであり、およそ、ありとあらゆる人類の不幸災難の原因も、エゴなのです。そして何よりも、エゴそのものが苦しみなのです。
 私たちは、エゴによって苦しめられ、支配され、自由を奪われているのです。
 エゴの奴隷になっており、エゴに操られているのです。
 エゴに操られているということは、本当に「生きている」とは言えないということです。ただ機械のように反応しているにすぎません。いわば、ロボットのようなものです。ロボットは「生きている」とは言えないでしょう。私たちは、エゴが作り出した幻想や妄想の世界に埋没し、その中で好きなように操られ、ある種の夢を見ている状態で人生を送っているのです。
 これは、決して大げさな表現ではありません。まぎれもない事実なのです。
 奴隷の身から解放され、自由に生きたいと思ったならば、すなわち、本当の意味で「生きる」ことを望んだならば、エゴと闘わなければなりません。
 エゴこそが、人類の本当の敵です。しかも、最強の敵です。他者と争ったり、他国と争ったりするよりも、まずは、自らのエゴと闘わなければならないのです。すべての人がエゴとの闘いに勝利すれば、他者や他国と争うこともなくなるでしょう。世界平和は、人類がエゴとの闘いに勝利したとき訪れるのです。

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