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心の治癒と魂の覚醒

        

エゴの典型的な働きのひとつ「妬み」


 ところで、<ニセの我>、すなわち、エゴとは、そもそも、何なのでしょうか?
 ひとことで言うと、エゴとは「衝動の集合体」のことです。
 衝動とは、私たちを特定の感情・思考・行動へと走らせる、通常はコントロールできない「力動的な反応」のことをさします。その衝動が、いくつも集まって複雑に絡み合った構造をしたもの、これがエゴです。
 したがって、エゴというのは、しょせんは単に反応するだけの、いってみれば機械のようなものにすぎないのですが、複雑な構造をしているために、あたかも人格を持っているかのように作動します。そして、エゴは無意識層に寄生しているため、私たちはエゴの存在にほとんど気づくことなく、エゴを自分の人格、すなわち<本当の我>だと錯覚してしまうのです。
 ひとつ例をあげてみましょう。
 いわゆる「妬み」というものは、エゴの典型的な働き(反応)のひとつです。
 妬みとは、自分より何らかの点で恵まれている人に向けられた、ある種の攻撃的な衝動です。そのため、妬みに支配されると、言い換えれば、エゴに支配されると、人の不幸を願うようになり、意地悪をして困らせてやろうと考えたり、実際にそうした行動をとったりしてしまうのです。
 私たちは、そのような願いや考えや行動は、自分自身の意思に基づいていると思っていますが、そうではありません。エゴによって”そうさせられている”のです。言い換えれば、あなたが妬んでいるのではなく、エゴが妬んでいるのです。
 その証拠に、妬みというのは、ある種の反応(衝動)です。「妬むことにしよう」と考えて妬むわけではありません。自分の意思とは無関係に、勝手に心の底から湧いてくるものです。まさにそれは、衝動で構築されたエゴの仕業だからです。
 エゴ(衝動)には、合理的な計画性も、意味のある目的もありません。そのため、人がエゴに支配されると、不合理で無意味な思考や行動に走ってしまうのです。ひらたく言えば、愚かな行為、さらには、妄想や狂気へと駆り立ててしまうのです。
 考えてもみてください。
 自分より恵まれている人を妬み、その人を困らせたからといって、何か得になることがあるでしょうか? 自分が恵まれるようになるでしょうか? 幸せになれるでしょうか?
 何もいいことはないはずです。せいぜい、気持ちがすっきりするだけでしょう。
 しかし、たったそれだけのために、相手を困らせるのに費やす時間や労力、また、そのことで相手から恨まれて余計なトラブルを招く危険性などを考えると、妬みというものは、まったく理に合わない、知性も合理性も欠けた、単なる盲目的な反応にすぎないことがわかるはずです。ただ自分を苦しめる結果を招くだけの、愚かなものだということです。

 そもそも、妬むこと自体が、すでに苦しみであると言えるでしょう。
 妬んでいるときの気持ちというのは、穏やかではありません。非常に不愉快であり、苦痛です。世の中には、自分より恵まれている人など限りなくいるわけですから、そんな人を見るたびに妬んでいたら、いつも苦しんでいなければなりません。それはまさに、地獄にいるようなものです。そのうえ、妬んでいる人を攻撃でもしたら、あらゆる災難を自ら招き寄せることになります。最悪の場合、犯罪に走って罰せられるかもしれません。
このように、エゴは、あなたを苦しめるような、さまざまな反応をします。妬みの他にも、強欲、支配欲、依存、利己主義、虚栄、怒り、傲慢、卑下、悪意、嫉妬、嘘、打算、ごまかし、怠惰、臆病、気まぐれ、無鉄砲……、数え上げたらきりがありません。
 人生における不幸災難の原因を突き詰めていくならば、ほとんどの場合、そこにあるのはエゴなのです。犯罪もエゴによるものであり、およそ、ありとあらゆる人類の不幸災難の原因も、エゴなのです。そして何よりも、エゴそのものが苦しみなのです。
 私たちは、エゴによって苦しめられ、支配され、自由を奪われているのです。
 エゴの奴隷になっており、エゴに操られているのです。
 エゴに操られているということは、本当に「生きている」とは言えないということです。ただ機械のように反応しているにすぎません。いわば、ロボットのようなものです。ロボットは「生きている」とは言えないでしょう。私たちは、エゴが作り出した幻想や妄想の世界に埋没し、その中で好きなように操られ、ある種の夢を見ている状態で人生を送っているのです。
 これは、決して大げさな表現ではありません。まぎれもない事実なのです。
 奴隷の身から解放され、自由に生きたいと思ったならば、すなわち、本当の意味で「生きる」ことを望んだならば、エゴと闘わなければなりません。
 エゴこそが、人類の本当の敵です。しかも、最強の敵です。他者と争ったり、他国と争ったりするよりも、まずは、自らのエゴと闘わなければならないのです。すべての人がエゴとの闘いに勝利すれば、他者や他国と争うこともなくなるでしょう。世界平和は、人類がエゴとの闘いに勝利したとき訪れるのです。

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人は誰も<本当の我>で生きていない


 今までさんざん間違った生き方、悪い生き方をしてきて、そのことに気づき、心の底から反省したとき、その気持ちを、こんな言葉で表現することがあります。
 「我にかえった!」
 我にかえった、ということは、今までは<本当の我>ではなかった、ということになります。いわば、<ニセモノの我>で、生きていたわけです。ニセモノの我が、間違った生き方をし、悪い生き方をしてきたということです。ニセモノの我に支配されていたとも言えるでしょう。
あくまでも自分自身の考え、自分自身の意志によって決断し、自由に行動していると思い込んでいたのが、実は、<ニセモノの我>が決断し、行動していたわけです。「我にかえった」という経験をするまでは、その事実にまったく気づかないのです。
 ところで、あなたは今、<本当の我>で生きていますか?
「自分は何も間違ったこと、悪いことはしていないから、本当の我で生きている」
 このように思われるかもしれません。
しかし、ここで注意しなければならないことがあります。
 それは、正しいとか善いという評価は、あくまでも相対的なものだということです。つまり、絶対的な正しさとか、絶対的な善といったものは存在せず、何かと比較して「正しい」とか、何かと比較して「善い」と言っているにすぎません。ある状態が正しいと思っても、さらに正しい状態が存在し、さらに善い状態が存在するのです。
 ですから、さらに正しく、さらに善い<我>が存在する、ということになります。
 そして、さらに正しく、さらに善い<我>から見たら、今まで正しくて善いと思っていた<我>は、正しくない、善くない<我>に変わってしまうわけです。
 そのとき人は、より本当の<我>に気づいて、「我にかえった!」と言うのです。
 したがって、たとえ今あなたが、<本当の我>で生きていると思っても、それは錯覚にすぎません。さらなる<本当の我>が存在し、その先にもさらなる<本当の我>が存在するからです。この連鎖が、永遠に続いているのです。より本当に近い<我>から見たら、今あなたが<本当の我>と思っているものは、<本当の我>ではないのです。
 要するに、誰もがみんな、大なり小なり<ニセモノの我>で生きているということです。

 ここでは、<ニセモノの我>のことを「エゴ」と呼んでいます。
 人間というものは、エゴを脱ぎ捨てて「我にかえる」という経験を、何回も何回も重ねながら、<本当の我>に向かっていく存在なのです。
 たとえるなら、ヘビが脱皮を繰り返しながら成長していくようなものです。エゴという皮をどんどん脱皮させていくのです。いつまでも古い皮をまとっていたのでは、からだは大きくなれません。成長・進化し続けるために、エゴという皮をどんどん脱ぎ捨て、<本当の我>に近づいていく存在、それが人間であり、この地上に生きている目的です。
 この「我にかえる」という経験が、いわゆる「悟り」とか「覚醒」と呼ばれているものです。すなわち、より本当に近い<我>を、覚醒し続けていくために、私たちは生きているのです。
 悟りや覚醒に「ゴール」は存在しません。<本当の我>というものは、永遠に進化し続ける生命だからです。「永遠に進化し続ける」のですから、悟りも覚醒も永遠に続きます。「これで最後」というゴールはないのです。悟ったと思ったら、さらなる悟りが待っているのです。目覚めたと思ったら、さらなる目覚めが待っているのです。

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真の瞑想とエゴ

 まずは報告とお知らせから。
 先日7月20日/21日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は、「瞑想を成功させる正しいモチベーション」というテーマで行いました。
 何事もそうですが、正しいモチベーションでやるかどうかで、その成果が大きく変わってしまいます。この傾向は特に瞑想について言えるのです。いわゆる瞑想をしている人たちのほとんどは、真の瞑想をしていません。単なるメンタルトレーニングをしているだけです。なぜほとんどの人は瞑想ができないのか? それは「エゴ」で瞑想をしているからです。エゴを消滅させる瞑想こそが真の瞑想です。しかし、こうした瞑想法はほとんど知られていません。それを今回、紹介しています。
 今回の内容は、今までの授業の中でもっとも重要なものだと思いましたので、ひとりでも多くの人がこの真実を知っていただきたいとの願いをこめて、通常、ダイジェスト版は30分くらいに編集しているのですが、今回は特別に約1時間、重要なことをすべて収録しました。
 瞑想に関心のある方はもちろん、関心のない方でも、人間や人生の本質を知る手がかりになると思いますので、ぜひご覧になってください。
 動画ダイジェスト版
 なお、8月はイデア ライフ アカデミーはお休みなので、次回の授業は、9月7日/8日となります。グルジェフ・シリーズの三回目(最終回)です。
 参加ご希望の方はホームページをご覧ください。
 斉藤啓一のホームページ
 
 では、本題に移ります。
 上記に紹介した動画を抜粋するような内容となりますが、ここで問題になっているのは、「エゴ」ということです。
 エゴというのは、単なる機械的な衝動の集合体にすぎない、偽りの自己のことです。しかし私たちは、この偽りの自己を本当の自分、すなわち<私>と思い込んでいるのです。そして、その<私>、つまり、偽りの自己であるエゴが、私たちを悩ませ、不自由にさせているのです。私たちはエゴに操られているのです。そうして苦しんでいるのです。ところが、世の大半の人たちは、その事実に気づいていません。エゴを本当の自分だと錯覚し、エゴに操られているのに、自分の意志で自由に選択し行動していると思い込んでいるのです。
 エゴというものは、基本的に「取引、交換条件、打算」の働きしかできません。世の中が取引や打算ばかりなのは、地上世界がエゴによって支配されているからです。実際、家庭や学校の教育というものは、「取引」を教えるところとなっています。取引、すなわち、「偉くなるために努力しなさい」といったように、目的とするものを手に入れるために、そのための労力だとか金銭といった代価を提供するというものです。
 物質世界では、快楽やお金を手に入れるために、労働などを提供する仕組みになっています。これはビジネスや商売ということですが、もともとそれは取引なので問題はありません。しかし、この取引の発想を、宗教やスピリチュアルにもちこむと、問題が起きるのです。非常に醜悪な人間になりかねないのです。
 エゴというものは、すでに述べたように、単なる機械的な衝動の集合体に過ぎないのですが、あたかも人格を持っているかのように作動します。そして、いつまでも生きながらえ、私たちを背後から支配することに懸命になっているのです。
 そこで、私たちの使命は、エゴを消滅させることにあるのです。いわゆる修行とは、エゴとの闘いであり、エゴを消滅させることなのです。
 しかし、エゴは非常にずる賢いので、そのことに抵抗したり、ときには激しい攻撃を加えようとします。エゴのずるさ、悪質さは、動画で詳しく述べていますが、エゴは、ある種のエネルギーフィールドのようなものを生みだし、それによって、エゴを消滅させようとする人物に、運命的な悲劇を与えることさえあるのです。
 エゴが脅威を感じるのは、自分(エゴ)の正体を暴かれることです。なぜなら、正体が暴かれてしまうと、滅ぼされる危険があるからです。ですから、エゴは私たちに気づかれないように巧妙に姿を隠しながら、あらゆる手段でだまし続けるのです。本当はエゴの行為なのに、「愛と正義の行いをしている」などと思い込ませてしまったりするわけです。
 エゴは自分を消滅させようと教えを説いている人間に脅威を覚えます。そのため、そういう人間に攻撃を加えることがあります。その典型的な例が、イエス・キリストの磔だと、私は思っています。イエスは人間のエゴに殺されたのです。
 では、いったいどうしたらいいのでしょうか?
 動画では、そのための瞑想法を紹介しています。この瞑想法は、おそらく今までほとんど世に知られていないものだと思います。この瞑想法こそが真の瞑想であって、その他の「瞑想」というものは、厳密には瞑想ではありません。なぜなら、それはエゴの「瞑想」になっているからであり、エゴの瞑想は「妄想」でしかないからです。
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菩薩の道


 前回の記事で述べた、エゴと「凡夫として生きること」について、補足したいと思います。
 このブログを読んでくださる皆様には言う必要はないと思いますが、「凡夫として生きる」といっても、低劣な欲望をまるだしにし、怠惰でだらしなく、自分勝手で、みみっちい生き方をする、という意味ではありません。むしろ、その逆で、高潔な生き方をすることです。

 私たちはエゴに支配されているのに、そのことに気づいていません。これでは永遠にエゴが作り出す夢(妄想)に埋没したままで、そこから覚めることはできません。「自分はエゴに支配されているのだ」、つまり「凡夫なのだ」と自覚することによって、エゴの妄想から覚める道が開かれます。
 たとえば、怪物に襲われるという怖ろしい夢を見ていたとき、自分は夢を見ているのだと気づけば、怖ろしいとは思わなくなるでしょう。「ああ、単なる夢にすぎない」と思うでしょう。夢にとらわれなくなるでしょう。

 したがって、自分はエゴの作り出している夢を見ているのだという自覚が必要なのです。エゴの夢を見ている人は「凡夫」です。だから、凡夫としての自覚を持って生きるわけです。
 しかし皮肉なことに、その自覚を持てばエゴの夢が消滅します。だから、凡夫であるという自覚を持っている人は「非凡」になるのです。
 自分が凡夫であることを本当に自覚したならば、あらゆる心理的束縛から解放されます。たとえば、嫉妬や怒りから解放されます。嫉妬や怒りというのは「自分の方がすぐれていなければイヤだ」といったエゴの欲望から来ているからです。
 しかし、心の底から自分はエゴの凡夫なのだと自覚していれば、そんな欲望は起こりません。たとえば、自分は本当に馬鹿だと自覚していれば、自分より頭がいい人がいるのは当然だから嫉妬は起きないでしょう。また、人から「馬鹿だ」と言われても、その通りなのだから腹は立ちません。嫉妬や怒りの感情が湧き立つのは、どこかに「自分は人よりすぐれていたい、すぐれているべきだ」という、ある種の傲慢さがあるからです。
 嫉妬や怒りから解放されたなら、心は自由で、すがすがしくなります。そんな人は真に非凡ではないでしょうか。
 嫉妬や怒りがある限り、そこに愛はありません。嫉妬や怒りの感情から解放された人こそが、本当の「愛の人」になるわけです。だから、「凡夫」こそが「愛の人」なのです。「愛の人」という、高潔で非凡な人になるわけです。

 法華経に常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という菩薩(人を救うことを修行としている修行者)が登場します。この菩薩は「あなたは仏(覚者)になれる身であるから、私はあなたを尊敬します。決して軽んじたりしません」と、会う人会う人に語ったといいます。人々はうざくなり追い払いますが、するとこの菩薩は遠くから同じことを叫んだといいます。
 良寛は、この菩薩を心から敬愛し、「比丘は唯万事はいらず常不軽菩薩の行ぞ殊勝なり(常不軽菩薩の行こそが最高のものであり、仏道修行者はただこれだけを行っていればよく、他には何もいらない)」とまで言っています。
 愛の人は、上から目線でものを言ったりしません。「自分は悟ったから偉い、おまえたちは悟っていないかわいそうな人たちだ。だから、慈悲の心で教えを説いてやるよ」などという思いはないでしょう(というより、そのような思いがある人は悟っていないと思いますが)。
 愛の人は謙虚で、万人を尊敬するのです。尊敬とは、自分より偉い人を称える気持ちです。「自分の方が上だ」という思いがあれば尊敬の心など湧きません。つまり、万人を無条件で尊敬できるというのは、そこにはエゴがないことを意味します。仏教の目的はエゴを消滅することですから、万人を尊敬することが、最高の修行ということになるわけです。良寛はそこを言っているわけです。

 「凡夫」こそが、万人を尊敬し、万人を謙虚に愛することができるのです。
 しかし、それは何と難しいことでしょうか。
 つまり、「凡夫」になることは、簡単なことではないということです。
 ほとんどの人は、本当に自分は凡夫だと思っていません。思いたがりません。非凡になろうとします。人を尊敬するどころか、人から尊敬されようとします。
 だから、実は「凡夫」になろうとすることさえも、絶望的だということです。
 「凡夫」になろうとすることさえも、エゴなのです。
 私たちは、「凡夫」にはなれません。
 「凡夫にはなれない」と心の底から自覚したとき、「凡夫」になります。

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自然法爾


 エゴを消滅させる「方法」がないとすれば、いったいどうすればいいのでしょうか?
 それについてはすでに述べたように、自分のエゴに気づいてさえいればいいのです。「エゴを消滅させよう」という目的も欲求もなく、ただひたすら自分のエゴに気づいていることです。するとエゴは、自然に萎縮し消滅していきます(ただし肉体を持って生きている限り、エゴを完全に消滅させることはたぶん不可能です)。
 しかし、これを続けていると、気分が落ち込んできます。なぜなら、自分の考え、思い、行動の、ありとあらゆることが、つきつめればエゴであると思い知らされるからです。

 なぜ気分が落ち込むかというと、「エゴがある人は偉くない」という思いがあるからです。表現を変えれば「エゴをなくして偉い人になって認められたい」という欲求があるからです。まさにその思いそのものがエゴなのですが、前にも書いたように、「認められたい」というのがエゴの核心であり、心臓部です。そのエゴの心臓を突き刺して息の根を止めなければ、エゴは消滅しません。
 ですから、しょせん、自分はエゴのかたまりであり、ちっとも偉くなんかないのだ、凡夫なんだと思い知らされて、とことんまで落ち込めばいいのです。そもそも「エゴをなくそう」とか「覚醒しよう、悟りを開こう」という思いそのものがエゴだからです。
 自分がちっとも偉くない、だから認められないと思うことは、エゴにとってもっとも苦痛なことです。絶望的な気持ちになります。しかし、エゴを死に追いやろうとしているわけですから、苦痛が伴うのは当然です。

 私の解釈では、浄土真宗の親鸞は、こうした自分のエゴに気づいていることを、「罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫」と表現しました。自分はどうしようもないエゴのかたまりであり、偉くもなんともない、救われがたい凡人なのだということの、徹底的な自覚です。
 このことを徹底的に自覚したら、「悟りを開こう」という願い(エゴ)はなくなるはずです。凡夫が悟りなど開けるはずがないからです。「悟りを開こう」などと思うこと自体が、高慢であり自惚れであるとも言えます。

 では、そうなったとき、人はどう生きるようになるでしょうか。
 悟りを開こうとか、仏(覚者)になろうという野望は捨てて、ただ淡々と生きるようになるでしょう。親鸞はそうした生き方を「自然法爾(じねんほうに)」と表現しました。自然法爾とは、ひとことでいうと「あるがままに生きる」ということです。エゴの凡夫なのだから、エゴの凡夫として生きる、ということです。
 ところが、この自然法爾の生き方こそが悟りへの道、というより、悟りそのものなのです。皮肉なことに、凡夫として生きることが非凡なのです。
 親鸞の教えでは、これは「悪人正機説」と呼ばれています(「善人が救われるというのなら悪人こそが救われる)。つまり、「自分は悪人だと自覚することで救われる」ということで、このブログの流れで言えば「自分はエゴのかたまりだと自覚することで救われる(覚醒する)」となるでしょうか。

 前回、紹介した臨済は、次のように言っています。
 「本来、仏もなく法もなく、修行すべきものも悟るべきものもないのだ。それなのに、ひたすらわき道の方へ行って、いったい何を求めようとするのだ。
 諸君、他ならぬ君自身が、現にいま見たり聞いたりしている働きが、そのまま仏なのだ。それを信じきれぬために、外に向かって求めまわる。勘違いしてはならぬ。外に法はなく、内にもない。しかし、このように言うわしの言葉に飛びつくよりは、まず何よりも、静かに安らいで、のほほんとしていることが一番だ。すでに起こった念慮は継続させぬこと、まだ起こらぬ念慮は起こさせぬことだ。そうできるなら、十年も行脚修行するよりずっとましである。」
 親鸞は「自然法爾」という言葉で、臨済は「のほほんと生きる」という言葉で、悟りの境地、悟りの生き方を表現しています。老子の言葉を借りれば「無為」です。

 ところが、エゴは、あるがままに生きることができません。のほほんと生きることができません。無為でいることができません。とにかくなにかになりたがります。認められるために非凡になろうとします。認められるために偉くなろうとします。覚者になりたがります。グルになりたがり、教祖になりたがります。弟子や信者を集めたがります。自分を「聖者」だと宣伝したがります。
 覚醒への道は逆説的であり、前に進もうとすると後ろへ下がり、後ろへ下がろうとすると前に進むという性質を持っています。ですから、「ならないことでなる」のです。仏になることはできません。なぜなら、私たちの本質はすでに仏だからです。ただ仏として生きるだけです。本来、仏とは「なるもの」ではないのに、仏になろうとすることは、道を誤っていることになります。

 では、結局、どうしたらいいのでしょうか?
 この「どうしたらいいのか?」と尋ねているのはエゴです。自分がエゴのかたまりであり、救われない身であると徹底的に絶望したなら、「どうしたらいいか?」とは問わないはずです。エゴはとにかく問いたがります。「どうしたら? どうしたら? どうしたら?」と。そうして自分以外の、人から認められるなにものかになろうとするのです。
 「どうしたらいいか?」と問う気持ちがやみ、なにものかになろうとする気持ちがなくなり、ただただ凡夫として生きること、それができている人が、悟りを開いた人であり、覚者です。

 しかし、エゴはそんな生き方に魅力を感じません。面白くなく、つまらないのです。それよりも、エゴを拡大させてくれるような、ワクワク・ドキドキする教えを求めて、そのようなことを説いている宗教やスピリチュアルを求め続けます。そうして「エゴ・スパイラル」に巻き込まれ、その軌道から抜け出せなくなるのです。
 だから、本当の意味で「凡人」になってしまうのです。見かけは派手に非凡に見えたりするかもしれませんが、精神的にはまったくの凡人なのです。いかにエゴを膨張させたとしても、エゴそのものが凡庸だからです。
 凡庸に生きようとしている人こそが、真の意味で非凡です。そういう人は自然法爾という生き方を通して、(あくまでも結果的に)何か非凡なことをするでしょう。それが世間に認められるかはどうかはわかりません。もしも、その非凡さを見抜ける人がいたとしたら、その人もまた非凡な人です。

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