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心の治癒と魂の覚醒

        

仏教ほど残酷な宗教はない 

 まずはご報告とお知らせから。
 今月、2月15日/16日にイデア ライフ アカデミーの哲学教室が開催されました。テーマは「原始仏教1」です。私たちが「仏教」と思っていたものが、実は釈迦の説いた教えとは無縁であり、その意味で仏教とは言えないことを紹介しました。では、釈迦は何を説いたのか? ぜひダイジェスト版をご覧下さい。これまでの仏教に対するイメージがひっくりかえるかもしれません。
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 次回は瞑想教室(3月21日/22日)で、「人格障害(パーソナリティ障害)」について説明しながら、エゴの罠に陥らない方法を模索していく予定です。人格障害は特別な人に当てはまるものではありません。程度の差はあれ、誰もが人格障害の傾向をもっているのです。その程度を大きくしないために、人格障害について理解を深めることは大切です。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで

 それでは本題に入ります。
 今回、あらためて原始仏教、すなわち釈迦の教えを学び直してみると、その徹底した現世否定の姿勢には驚かされます。在家信者には「悪いことをするのはやめなさい。善いことをしなさい」といった、月並みな道徳を説き、現世と来世、あの世での幸せを説きましたが、これは「善いことをして功徳を積めば、来世か、あるいは来来世で仏教の修行ができて解脱するかもしれない」という、いってみれば出家修行者になるための準備段階の意味しか持ち得ません。
 釈迦の真の教えの真髄は、出家修行者に向けられました。現世のみならず、あの世の生も否定し、二度と生まれ変わらないことを目的にしました。最終的には、地上にも霊界にも存在しなくなり、議論の対象をはるかに超えた領域に移行することです。その根本にあるのが、この地上人生は原理的に苦しみであり、救われがたい場所であるという見解です。現世に何も求めず、期待せず、「切に世を厭い嫌う者となれ」と言って、現世を棄てることを説いているのです。

 釈迦の教えは、まったくの「非社会的」な教えです(反社会的、ではありません)。たとえば、釈迦の教えを聞いた若い人たちがたくさん出家して家から出ていってしまったので、親達が釈迦の集まりを非難したというエピソードが伝わっています。釈迦は「このような騒ぎは七日でおさまるであろう」と言い、実際にそうなったようですが、現在であれば、「怪しいカルト教団に子供を奪われた」ということになり、かつてのオウム真理教のような問題を起こしていたわけです。実際、当時の釈迦の集まりは、今日でいうところのカルトでした(カルトの本来の意味は、必ずしも悪いものではなく、一人の指導者の教えに共鳴した者たちが自然発生的に生じた集まりのことです)。
 世俗の社会的な基準から言えば、こうした釈迦のカルトは「反社会的だ」と非難されるでしょう。しかし、慎重によく考えてみるならば、「地上世界は苦しみである」という釈迦の教えは、真実ではないでしょうか? 釈迦の教説にはスキがありません。いかに心情的に認めたくなくても、認めざるを得ないのです。地上人生は、あきらかに苦しみです。もちろん、人によっては一生、平穏無事に幸せに送る人もいるでしょう。しかし、世の中には悲惨きわまる人生を送っている人がたくさんいます。そういう人たちに自分もならないとは限りません。

 ところが、私たちは「自分にはそういう悲惨な人生は起こらない」と思い込んでいる傾向があります。その証拠に、いざ悲惨な状況に見舞われると、多くの人が「なぜ私にこんなことが起こるのか」と言います。「なぜ私に」という言葉が出るということは、「自分にはこんなことが起こるわけない」と思い込んでいた証拠でしょう。
 世を広く見渡すと、悲惨なことが容赦なく起こっています。その悲惨なことが現実に起こっており、いつその悲惨なことが自分に訪れるかわからないという点において、この地上人生というものは、どう考えても「苦しみだ」と結論するしかないのです。

 ここ最近、新型コロナウイルスが世界的な大問題になっています。これがどういう結末をたどるのかはわかりませんが、正しい情報が得られていないようなので(その証拠に専門家の意見が最初の頃から変わってきています)、こういう場合は、最悪のシナリオを考えておくべきだと思います。宇宙にとっては、人類など、地球という小さな惑星の表面に点在しているダニのようなものです。そのダニが死滅しようとしまいと、宇宙にとっては痛くもかゆくもありません。かつてムー大陸もアトランティス大陸も容赦なく水没してしまったように、こうした感染症で人類が滅びてしまうことだって、起こるときには容赦なく起こるものです。それが人生の現実というものです。釈迦はそれを看破して、「地上人生は苦しみだ」と言い放ったのです。釈迦にとって「救済」とは、この地上人生で起こる不幸災難を回避することではなく、この地上人生そのものから脱出することにあったのです。
 釈迦は、その卓越した感性と、抜群に優秀な頭脳によって、この地上人生の本質を見抜き、「これではいけない」と考えて、地上人生から解放される道を探しあてたのです。釈迦は、先の先まで見通してしまうほど、あまりにも頭がよかったのです。

 以上が、釈迦の説いた仏教、つまり真の仏教の本質です。釈迦は自らの教えを「世の人々の考えとは正反対である」と言いましたが、実際、彼の教えの本質を知ったなら、ほとんどの人は見向きもしないでしょう。それでも仏教に関心を持つような人は、ある種の「社会不適応者」だと言えるでしょう。今日、仏教がこれほど人気を集めているのは、それが大乗仏教、つまり、釈迦の真の教えではないから、あるいは、釈迦の教えを誤解しているからです。仏教ほど容赦ない、残酷な宗教はないかもしれません。出家、すなわち世を捨てなければ救われないと言っているのです。さらには、自分という存在さえも捨てろと言っているのです。

しかしながら、私たちは誰もが出家して厳しい修行をすることはできません。そういう人はほんのわずかですし、また、仮にすべての人が出家してしまったら、出家した人は在家の人から養われているわけですから、出家修行も成り立たなくなってしまいます。
 そこで、出家することなく、仕事を持ち社会生活を営みながら、何とかこの地上人生から解脱する方法を見つけて歩んでいくしか、他に道はないのです。
 いったいそれはいかなる道なのか? これが私の研究テーマであり、イデア ライフ アカデミーのめざしているところなのです。
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仏教が説く「不都合な真実」

 次回のイデア ライフ アカデミーのテーマは「原始仏教1」です。原始仏教、すなわち、釈迦の直接の教えです。日本のほとんどすべての仏教は大乗仏教ですが、大乗仏教は釈迦の死後、百年ほどたった後、釈迦の教えとは違う教えを作りだして「これこそお釈迦様の本当の教えだ」と勝手に決めつけ、それが中国にわたって日本にやってきたものです。仏教の定義というものを「釈迦の教え」であるとするなら、大乗仏教は「仏教」とは呼べません。
 ただし、だからといって、大乗仏教には価値がない、というつもりはなく、大乗仏教は大乗仏教なりの価値があると思っています。
 というのも、釈迦の教えを、その通りに実践するには、出家するしかなく、たとえ出家したとしても、その修行は大変にけわしく、すべての人が実践できるわけではないからです。ましてや、在家の人には実践は不可能です。せいぜい、釈迦の教えのうち、わずかに実践可能なものを行うことができるくらいです。
 その点で、大乗仏教は在家の人でも実践できます。それが大乗仏教の価値あるところだと思います。
 しかし、大乗仏教が、釈迦の教えの代替物にはなり得ません。釈迦がめざしていたもの、すなわちそれは「解脱」ですが、それが大乗仏教を実践することで可能になるなら、釈迦は、わざわざ出家しなければならない厳しい実践の教えを説いたりしないでしょう。最初から大乗仏教の教えを説いていたはずです。
 もっとも、大乗仏教でも、真剣に実践するならば、解脱の可能性はあると私は考えています。ただしそのためには、非常に厳しい修行となるでしょう。そのため結局のところ、原始仏教の修行の厳しさとほとんど変わらなくなってしまうわけです。どのみち安易な道というものはないのです。「仏様の名前を適当に唱えてさえいれば解脱できる」などという、虫のいい話はないのです。そんなものは単なる気休めでしかありません。仏様の名前を唱えて解脱するには、それ以外のすべてのものを捨て去って、命がけでひたすら念仏を唱えなければならないでしょう。そこまでしたら、解脱する可能性はあると思います。

 釈迦の教えによれば、解脱するには、この地上世界に対するすべての愛着や欲望を、徹底的に、完全に捨て去り、消滅させなければなりません。
 しかし、そんなことができる人は、どれくらいいるでしょうか。欲望を消滅させることの難しさは釈迦自身、よく理解しており、「激流をわたって向こう岸(彼岸)に至るようなものであり、それができる人はきわめて少ない」と語っています。まさしく「激流」なのです。穏やかな流れであっても、川を泳いで向こう岸にわたるのは難しいのに、激流となったら、ほとんどの人は流されてしまうでしょう。しかも、釈迦という最高の指導者の直接の弟子であっても、すべての弟子が解脱したわけではありません(たぶん、かなり少なかったはずです)。ならば、そのような指導者を持たない、私たちのほとんどは、解脱できる可能性はきわめて低いと言わざるを得ません。
 欲望を消滅させなければ解脱できないという理論(真理)は、大乗仏教でも同じなはずですから、結局、大乗仏教の道を歩んでいたとしても、この世に対するすべての欲望を消滅しなければならないのです。その意味では、原始仏教でも大乗仏教でも、その道はけわしいということになります。

 このように、仏教というものを理解すればするほど、絶望的な気分になってきます。人間存在というものの、救われがたさ、という現実を直視させられるのです。釈迦は冷徹なほどの合理主義者であり現実主義者でした。「苦しみたくなければ欲望を捨てなさい。欲望を捨てられないのなら苦しみなさい。以上」といった感じで切り捨てます。釈迦は慈悲深い方だったと思いますが、だからといって、真理をねじ曲げてまで気休めを言うことはありませんでした。
では、いったい、どうしたらいいのでしょうか?
 「欲望を捨てない限り苦しみはなくならない」というのは、真理であると思います。「大食していたら痩せない。痩せたければ大食してはならない」という理屈と同じくらい明白です。苦しみから解脱したければ、欲望を消滅していく道を歩んでいくしかないのです。たとえそれがどんなにけわしかったとしてもです。
 もちろん、急にすべての欲望を完全に消滅させることなど不可能です。しかし、根気強く、時間をかけて、少しずつこつこつと欲望を減らしていくことはできます。その道を歩んでいくしかないのです。あとはただ、いかに効率よくその道を歩むか? です。
 イデア ライフ アカデミーでは、そのような道について、考えていきたいと思っています。

 「原始仏教1」の授業は、2月15日/16日です。
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仏教の本質は実践にある

 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月2日と3日、イデア ライフ アカデミー哲学教室第11回「易経に学ぶ運命の法則2」というテーマで授業を行いました。今回はいよいよ宗教書としての易経に焦点を当て、易経には霊性進化のために64の教えが書かれており、その教えはキリスト教と共通点があるという、興味深い説をご紹介いたしました。おそらくこのような視点で易経を解釈した人は他にいないと思います。易に関心のある方はもちろん、霊性進化をめざしている方はぜひ動画(ダイジェスト版)をご覧になってください。
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 今月はもうひとつ瞑想教室(16日、17日)が行われます。「怒りを無くするにはどうすればいいか」というテーマでアプローチしていきます。怒りは仏教では三大煩悩のひとつであり、怒りによって多くの人は自ら苦しみ不幸災難を招き寄せてしまっています。そんな不幸の元凶とも言える怒りから解放される瞑想法について紹介する予定です。
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 さて、本題に入ります。
 前回、「なぜ世の中にはすばらしい教えが溢れているのに、すばらしい人が少ないのか?」ということを書きました。
 そして、多くの人が、単に頭や観念で教えを学んだだけで、それを実践することなく満足してしまっていると書きました。これでは、宗教もスピリチュアルも単なる「娯楽」に過ぎず、救済への「道」とは成り得ません。
 仏教、すなわち釈迦の教えは、そのことを強く戒めています。それを端的に物語っているのが「毒矢のたとえ」です。簡単に紹介しますと、ある弟子が「宇宙の究極の本質とは何か、あの世はどんなところか、それを教えてくれなければ修行しません」と釈迦に言いました。釈迦はこう答えました。「ここに毒矢に射られた人がいて、周りの者が矢を抜こうとしたところ、ある人が、この毒矢の毒の成分は何か、誰が何の目的で矢を放ったのか、それがわかるまで矢を抜いてはいけないと言ったとしよう。そんなことを調べていたらその人は死んでしまうであろう。同じように、おまえの疑問は生涯かかっても解き明かせないもので、そうしたら肝心の解脱という修行ができずに死んでしまう」。
 スピリチュアルの本などを読むと、この釈迦の戒めが頭に浮かんでしまいます。スピリチュアルの本には、宇宙の究極的な本質だとか、五次元、六次元の世界はどうだとか、霊界はどうだとか、あげくには陰謀論のようなものが書かれてあり、人気を博しています。そうしたことを学ぶことは一概に否定はしませんが、このようなものは、本当かどうか確かめようがないのです。どうあがいてもわからないのです。それなのに、こんなことにばかり面白がって夢中になっていたら、「自分を変える」という肝心の修行がおろそかになってしまいます(趣味でスピリチュアルを学んでいる人はそれでいいでしょうが)。

 釈迦が、「仏教とは何か」について、それを一言で表現した言葉が、『法句経』(185節)に見出すことができます。次のように書いてあります。
 「すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが諸々の仏の教えである」
一見すると、まったく当たり前のことであり、陳腐にさえ思えてしまう言葉です。しかし、これが仏教なのです。ところが仏教というと、複雑怪奇な縁起論だとか唯識論だとが無我論といったことばかり有り難がって、たくさんの本が出されて研究されています。
 言うまでもなく、仏教の目的は学者を輩出することではありません。仏教理論を学べば解脱できるなら、仏教学者はみんな解脱しているはずです。
 人を解脱させるのは、煩悩という汚れを除去して、心を浄めることにあるのです。
 心を浄めるには、悪しきことをなさず善いことを行うという実践が不可欠なのです。悪しきことをなさず善いことを行うという実践がなければ、いくら仏教理論を学んでも、瞑想をしても、心が浄まることはなく、解脱はできません。また、逆も真なりで、心が浄まるにしたがって、人は悪しきことはしなくなり善いことができるようになってくるのです。
 つまり、「悪いことはするな善いことをせよ」というのは、単なる道徳的な戒律というレベルではなく、まさにそれが解脱修行の中心である、という位置づけをするべきなのです。瞑想だとか仏教理論の学びというのは、その周辺に位置するべきものなのです。さらに言うならば、瞑想だとか仏教理論は、悪いことはせず善いことができるようになるためにあるのです。
 ここを誤ると、仏教修行はおかしなところに行ってしまいます。
 このように、仏教というのは、小難しい理屈を振り回す観念的な哲学ではなく、あくまでも「実践哲学」だということです。仏典を熱心に読むのも大切ですが、目の前に困っている人がいたら、仏典をしまってその人を助けてあげる、どんなに小さな親切であっても、善行をする、これが、真の仏教徒のありかたです。
 もちろん、実践することの重要さは仏教に限りません。キリスト教でも、あるいは他のまともな宗教なら、実践を重視しているはずです。実践こそが宗教の本質であり、スピリチュアルの本質なのです。

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人間の救われがたさ


 さて、これまで「真の仏教」について述べてきました。ここで言う真の仏教とは、まとめるなら、釈迦が説いたオリジナルな教えであり、しかもそれは八正道である、ということです。
 しかし、ここで大きな問題が生じてきます。
 釈迦が説いた八正道を、そのまま実践することは可能か? ということです。
 ほとんど不可能です。現代人には絶対に不可能だ、と言い切ってもいいでしょう。
 たとえそれを実践できたとしても、仏教の目的である解脱を体得できるとは限りません。釈迦の時代でさえ、釈迦というすぐれた指導者のもとで八正道を実践しても、解脱できなかった人の方がおそらくはるかに多かったのですから。

 まして、大昔の日本のように、文字もろくに読めない知的レベルの低い民衆や、生きるために働くだけで精一杯の過酷な生活を考えたら、釈迦の仏教(原始仏教)など、実践できるはずもないのです。悪政に虐げられ、不正がはびこり、飢饉にでもなれば容赦なく命を落とすような、そんな厳しい時代に、八正道の実践など無理です。
 「真の仏教」では、八正道が実践できないということは、救われないということですから、絶望的だということです。
 しかし、人間は苦しいときには、たとえウソでも心の支えがなければ生きていけません。

 なので、仕方なく、いわゆる「仏様」というものを生み出さざるを得なかったのです。「仏様に祈れば救ってくださるよ」と言うしかなかったのです。
 しかし、実際に仏様に祈っても現実生活がよくならないことは、あきらかなエビデンスとして突きつけられますから(つまりウソだとバレてしまいますから)、「あの世で極楽にいけるよ」と言ったのです。あの世のことなど、誰にも証明できませんから。
 そうして、「仏様におすがりすれば、死後に極楽に行けるから、それを心の支えに、今は我慢して生きなさい」と説くしかなかったのです。
 それが大乗仏教です。

 「おすがりすれば死後に極楽に連れていってくれる」などという、何の根拠もない、私から言わせれば単なる作り話、ウソや妄想を説くしかなかったわけです。しかし、たとえそれがウソであっても、人間は苦しいときにはそれを心の支えにして、慰めを得たり、耐えて生きる力を得ることもできます。何の救いもないと言われたら、絶望で生きていけません。
 なので、そのような時代に生まれた宗教家が、そうしたことを説きましたが、私は彼らを責める気はありません。それしか他に道がなかったからです。たとえそれがウソで民衆をだますことになったとしても、まったく何の救いもないのだと突き放すよりは、ずっとマシだからです。

 しかしもちろん、大乗仏教では救いは得られません。慰めや、はかない希望を与えることができるだけです。徹底的に信仰を深めれば、「救われた気持ち」くらいの心境になるかもしれませんが、そこまで達するのは容易ではありません。しかもそれは単なる思い込みです。言葉は悪いですが、ある種の「洗脳」と言ってもいいかもしれません。しかし、釈迦がめざしていたのは、「救われた気持ち」になることではなく、リアルな救いです。

 しかし、現代でも、事情はあまり変わっていません。飢饉で死ぬことはほとんどありませんが、自然災害で家も財産も家族も失い、仮説住宅で余儀なく生活をさせられることはあります。過労死するほど毎日残業してクタクタの生活。政治も官庁もウソばかり、スポーツも学術界もウソばかりです。カネとコネ、権力やパワハラがものを言う世界です。不正をしても要領よく立ち回った人が出世して金持ちになって人を見下し、正直者がバカを見るような、そんな世の中です。
 要するに、汚濁の世界です。「末法の世」と言ってもいいでしょう。
 それでも、本来は、宗教の世界だけはそうした汚濁とは無縁の領域であるべきはずなのに、その宗教が腐っているのです。
 スピリチュアルなども腐っています。「念ずればすべて自分の都合のいいように事が運ぶ」などと言っている「引き寄せの法則」などは、人間の弱さや依存心、怠惰な心を利用してカネを巻き上げる人たちの格好の商売手段になっています。人々は「らくをしていいめをみたい」という乞食根性が捨てきれないのです。だから、むかしからインチキ商法などたくさんあって事件になっているのに、いまだにだまされる人が後を断たないわけです。

 念ずればすべて自分の都合よく物事が運ぶ」などということはありません。ところが、「引き寄せの法則」でセミナーをしたり本を書いている人たちは、そう言われたときのための言い訳をちゃんと用意しています。「念じても願望が叶わないのは、潜在意識の奥まで念じていないからだ。どこかにそれを否定する気持ちがあるからだ」と言うのです。いったい、そう言う根拠は何でしょうか? 仮にそれが事実だとして、ではどうしたら潜在意識の奥まで念じることができるのか、という点では、明確な回答をしていません。
 これは、「人生でよいことが起きないのは、あなたの信仰心がうすいからだ」と、宗教家がよく言う常套句と同じです。
 魔法ではあるまいし、念ずれば人生すべてが自分の都合よく運ぶ、願望が叶うなどということを信じている、いい歳をした大人がたくさんいることに、私は驚きを禁じ得ません。

 しかし、それも、大乗仏教と同じ理屈なのだと思います。
 たとえウソでも、この生きにくい時代にあって「念ずれば願望が叶うんだ」と思えれば、それが慰めや生きる支えになるのでしょう。
 とはいえ、いずれそのことがウソだとわかるときがきます。念じて願望が叶うことは、たまたまあるでしょうが、なんでもかんでも念じれば叶うわけではないことを思い知らされます。そうして、しだいに現実というもの、その絶望感へと沈んでいくか、あるいは、グルや救世主を名乗るカルト教団など、別の「夢想」を与えてくれるものを求めたりするわけです。

 悲しいことに、この汚濁の世界で清らかに生きることは、至難の業です。
 みんながカンニングしているのに自分はカンニングしないという学生は、成績も悪くなり、よい就職先もないでしょう。カンニングしたずるい人間が出世するのです。学者になっても、巧妙に他人の論文を盗んだり、カネさえだせばどんな粗末な論文でも掲載してもらえる学術誌に投稿して「実績」をあげ、教授になっていくのです(もちろんすべての教授がそうだと言うわけではありません)。最近、話題になっているスポーツの世界でも、カネやコネやパワハラによってまともな判定がなされていません。文科省の役人が自分の息子を裏口入学させています。
 こんな世界で、清らかに生きることは、バカを見ることになるのです。

 しかし、釈迦の説いた仏教というものは、要するに「清らかに生きる」ということなのです。もしこの汚濁の世界で清らかに生きようとしたら、まず出世や成功は望めません。カネも入りません。不正なことをして上にあがった腐った連中からバカにされ、蔑まれるという屈辱に耐えなければなりません。また、そういう「さえない男」であれば、結婚相手を見つけるのも楽ではないでしょう。
 そういうことを覚悟してまで、清らかに生きようとすることは、無謀ともいうべきことです。バカのすることです。そんな人は、この世にどれだけいるでしょうか?
 それよりも、耳に甘いウソを平気で口にする人の方に、人気もカネも集まっていくのです。
 宗教もスピリチュアルも、汚染され、商売道具、ビジネスになっています。
 真実に生きてバカを見るか、ウソに生きて腐って生きるか、この二択を迫られているという点で、人間のおかれた状況というものは、救われがたいのです。

 個人的な話になりますが、私は子供時代から、無謀でバカなので、ウソや幻想で生きることはできない人間でした。たとえば小学生の頃から、教師の言動にウソがあるとそれを指摘したりしていました。「俺はえこひいきはしない」と言う教師がいて、その教師がどう考えても、ある生徒をえこひいきしているとしか思えず。念のために他の友達にも意見を聞いてみると同じだったので、私はその教師に面とむかって「先生は、えこひいきをしている」と言いました。その後、私はその教師から憎まれたり無視されたりするようになりました。正直であるということは、この世では損をする、バカをみる、ということに直結するのです。
 しかし、人間の性格というのは変わらないのでしょう。
 もうすぐ還暦だというのに、ウソのない清らかな求道の場所を作りたいという思いから、「イデア ライフ アカデミー」を立ち上げました。会費も3千円で、諸経費などを考えると、かなりきつきつで、金儲けにはなりません。
 オープニング記念レクチャーを今月22日と23日に始めますが、予想通り、参加者は今のところ少数です。しかも、最初は好奇心で来ても、しだいに来なくなってくると思います。
 しかしそれでもかまいません。なぜならこれは、この汚濁の社会に対する、私のささやかな抵抗だからです。
 将来、ウソや金儲けにまみれている社会&宗教&スピリチュアルの世界にあって、斉藤啓一というバカな人間が、ウソや金儲けとは無縁の清らかな求道の場を作っていたなあと、誰かの記憶に留まってくれれば、それでいいと思っています。たとえそれが、たった一人であったとしても。
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正定について


 前回の「正念」から、少し間があいてしまいました。申し訳ありません。
 さて、今回は八正道の最後に位置する「正定」についてお話いたしますが、これは瞑想行のことです。釈迦はこの正定について四つの段階を説いています。初禅・第二禅・第三禅・第四禅です。

 初禅について、経典にはこう書かれています。
「もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地」
 初禅は、四諦のなかの最初の「苦諦」と関係するもので、「無常なる現世の欲望は苦しみのもとだと頭では理解している。しかし正直、まだそれに惹かれてしまう。それではよくないと自分を戒め、欲望をなくすように修行に邁進していこう!」という、そのような意気込みというか、修行に向けて邁進していく覚悟ができた境地のことだと考えてよろしいと思います。

 第二禅については、こう書かれています。
「対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向(ひとむき)となり、もはやなにものにも心をひかれることなく、ただ三昧より生じたる喜びと楽しみのみの境地」
 第二禅は、無常なる現世の欲望に惹かれる心がなくなり、欲望や雑念に振り回されず清らかとなり、精神を集中している状態です。精神を集中すると、現世の欲望とは違う精神的な歓喜や安楽が生まれてくるのですが、そこまで至った境地のことです。

第三禅については、こう書かれています。
「その喜びをもまた離れるがゆえに、いまや彼は、内心平等にして執着なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地」
 第三禅では、内から湧き出る精神的な歓喜でさえも、それは(無常である)心がもたらしたものである(つまり苦しみの原因になる)として、それに対する執着も捨て、そうして念(自分の心を見つめる意識)と慧(真理を観じる意識)があり、安楽の境地に至るというのです。

 そして、第四禅については、こう書かれています。
「楽をも苦をも断ずる。さきには、すでに喜びをも憂いをも滅したのであるから、いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ、捨あり、念がある、清浄なる境地」
 そして最後の第四禅では、そうした安楽な境地に対する執着さえも捨て、苦も楽も感じず、ただただいかなる執着も捨て去る意識と念の意識だけがある清らかな涅槃の境地(解脱)になるというわけです。
 仏教では智慧によって煩悩を打ち破るとされているので、実際の修行は第三禅までであり、第四禅は、第三禅が成就された結果としてのゴールと見なすことができるかもしれません。

 解説すると、ざっと以上なのですが、これだけでは、よくわからないと思います。
 そのために、多くの学者がこの正定について、難解な見解を展開させてきました。
 たとえば、こうした段階を経るにつれて「自意識」が消滅していくというのです。すなわち、最初は「自分という意識」がある状態だが、次には「自分という意識がない」状態になり、ついには「自分という意識がない、という状態さえもない」状態になると言っています。難しい言葉を使うと「我想」、「非我想」、「非非我想」です。
 私はこの正定については、ヨーガの理論と基本的には同じではないかと考えています。
 ヨーガの目的は「心の作用を止滅させること」にあります。その「心」を、わかりやすく「エゴ」と呼んでもいいでしょう。私たちの本性は仏性なのですが、エゴという汚れにおおわれているのです。だから、エゴを捨てる必要があるのです。私たちの心に湧いてくるあらゆる思い(それが苦しみであれ喜びであれ、その他なんであれ)は、すべてエゴから来ています。
 だから、非常に簡潔に言ってしまうと、正定というのは、「捨てて捨てて捨てまくれ!」という行法であると、私は考えています。
 仏性を「得る」必要はないし、その発想は間違っています。もともと仏性は持っているからです。仏性を妨げているものを、ただ捨てればいいのです。そうすれば自然に仏性は現れます。これが仏教の解脱理論です。
 難解な理屈を好む学者からすれば、仏教をこんな簡単な言葉で片付けるとはけしからんとなるかもしれませんが、実際、仏教というのはシンプルなのです(奥は深いですが)。
 繰り返しますが、正定の行というのは、最近はやっている「断捨離」と同じです。心のなかにあるあらゆるものを断捨離し、最終的には煩悩の土壌である心を断捨離するのです。
 そのために、表向きは精神集中の瞑想が行われるのですが、精神集中することが目的なのではなく、あくまでも仏性以外の余計なものを捨てることなのです。

 八正道については、語ればきりがないのですが、これまでの解説で、少なくともエッセンスだけは押さえたつもりです。これで物足りないという人は、仏教書を買い求め、難解な(ように見える)教理を学んでもよいかもしれません。
 しかし、仏教(釈迦)の目的は、人を学者にすることではありません。あくまでも、「苦からの解脱」です。そのためには、実践するしかありません。実践してこそ、八正道の本当の意味が、単なる机上の空論ではなく、リアルな感覚としてわかるのです。

 宣伝になってしまいますが、今月から私が始めようとしている哲学&瞑想教室「イデア ライフ アカデミー」では、現代の私たちが日常生活を送りながら実践できるレベルにアレンジした「八正道」を紹介し、共に行じていこうと考えています。テクニックだけの瞑想をしていては、へんな方向にそれてしまいます。そうならないために、八正道というシステムのなかで瞑想をする必要があるからです。

 イデア ライフ アカデミー(東京都東村山市)
 オープニング記念レクチャー 9月22日(土)/23日(日) ※両日同じ内容です。
 午後1時半(開場12時)
 会費:3千円
 お申し込み&お問い合わせ


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