FC2ブログ

心の治癒と魂の覚醒

        

仏教の本質は実践にある

 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月2日と3日、イデア ライフ アカデミー哲学教室第11回「易経に学ぶ運命の法則2」というテーマで授業を行いました。今回はいよいよ宗教書としての易経に焦点を当て、易経には霊性進化のために64の教えが書かれており、その教えはキリスト教と共通点があるという、興味深い説をご紹介いたしました。おそらくこのような視点で易経を解釈した人は他にいないと思います。易に関心のある方はもちろん、霊性進化をめざしている方はぜひ動画(ダイジェスト版)をご覧になってください。
動画視聴
 今月はもうひとつ瞑想教室(16日、17日)が行われます。「怒りを無くするにはどうすればいいか」というテーマでアプローチしていきます。怒りは仏教では三大煩悩のひとつであり、怒りによって多くの人は自ら苦しみ不幸災難を招き寄せてしまっています。そんな不幸の元凶とも言える怒りから解放される瞑想法について紹介する予定です。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで

 さて、本題に入ります。
 前回、「なぜ世の中にはすばらしい教えが溢れているのに、すばらしい人が少ないのか?」ということを書きました。
 そして、多くの人が、単に頭や観念で教えを学んだだけで、それを実践することなく満足してしまっていると書きました。これでは、宗教もスピリチュアルも単なる「娯楽」に過ぎず、救済への「道」とは成り得ません。
 仏教、すなわち釈迦の教えは、そのことを強く戒めています。それを端的に物語っているのが「毒矢のたとえ」です。簡単に紹介しますと、ある弟子が「宇宙の究極の本質とは何か、あの世はどんなところか、それを教えてくれなければ修行しません」と釈迦に言いました。釈迦はこう答えました。「ここに毒矢に射られた人がいて、周りの者が矢を抜こうとしたところ、ある人が、この毒矢の毒の成分は何か、誰が何の目的で矢を放ったのか、それがわかるまで矢を抜いてはいけないと言ったとしよう。そんなことを調べていたらその人は死んでしまうであろう。同じように、おまえの疑問は生涯かかっても解き明かせないもので、そうしたら肝心の解脱という修行ができずに死んでしまう」。
 スピリチュアルの本などを読むと、この釈迦の戒めが頭に浮かんでしまいます。スピリチュアルの本には、宇宙の究極的な本質だとか、五次元、六次元の世界はどうだとか、霊界はどうだとか、あげくには陰謀論のようなものが書かれてあり、人気を博しています。そうしたことを学ぶことは一概に否定はしませんが、このようなものは、本当かどうか確かめようがないのです。どうあがいてもわからないのです。それなのに、こんなことにばかり面白がって夢中になっていたら、「自分を変える」という肝心の修行がおろそかになってしまいます(趣味でスピリチュアルを学んでいる人はそれでいいでしょうが)。

 釈迦が、「仏教とは何か」について、それを一言で表現した言葉が、『法句経』(185節)に見出すことができます。次のように書いてあります。
 「すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが諸々の仏の教えである」
一見すると、まったく当たり前のことであり、陳腐にさえ思えてしまう言葉です。しかし、これが仏教なのです。ところが仏教というと、複雑怪奇な縁起論だとか唯識論だとが無我論といったことばかり有り難がって、たくさんの本が出されて研究されています。
 言うまでもなく、仏教の目的は学者を輩出することではありません。仏教理論を学べば解脱できるなら、仏教学者はみんな解脱しているはずです。
 人を解脱させるのは、煩悩という汚れを除去して、心を浄めることにあるのです。
 心を浄めるには、悪しきことをなさず善いことを行うという実践が不可欠なのです。悪しきことをなさず善いことを行うという実践がなければ、いくら仏教理論を学んでも、瞑想をしても、心が浄まることはなく、解脱はできません。また、逆も真なりで、心が浄まるにしたがって、人は悪しきことはしなくなり善いことができるようになってくるのです。
 つまり、「悪いことはするな善いことをせよ」というのは、単なる道徳的な戒律というレベルではなく、まさにそれが解脱修行の中心である、という位置づけをするべきなのです。瞑想だとか仏教理論の学びというのは、その周辺に位置するべきものなのです。さらに言うならば、瞑想だとか仏教理論は、悪いことはせず善いことができるようになるためにあるのです。
 ここを誤ると、仏教修行はおかしなところに行ってしまいます。
 このように、仏教というのは、小難しい理屈を振り回す観念的な哲学ではなく、あくまでも「実践哲学」だということです。仏典を熱心に読むのも大切ですが、目の前に困っている人がいたら、仏典をしまってその人を助けてあげる、どんなに小さな親切であっても、善行をする、これが、真の仏教徒のありかたです。
 もちろん、実践することの重要さは仏教に限りません。キリスト教でも、あるいは他のまともな宗教なら、実践を重視しているはずです。実践こそが宗教の本質であり、スピリチュアルの本質なのです。

スポンサーサイト



真の仏教 | コメント:2 | トラックバック:0 |

人間の救われがたさ


 さて、これまで「真の仏教」について述べてきました。ここで言う真の仏教とは、まとめるなら、釈迦が説いたオリジナルな教えであり、しかもそれは八正道である、ということです。
 しかし、ここで大きな問題が生じてきます。
 釈迦が説いた八正道を、そのまま実践することは可能か? ということです。
 ほとんど不可能です。現代人には絶対に不可能だ、と言い切ってもいいでしょう。
 たとえそれを実践できたとしても、仏教の目的である解脱を体得できるとは限りません。釈迦の時代でさえ、釈迦というすぐれた指導者のもとで八正道を実践しても、解脱できなかった人の方がおそらくはるかに多かったのですから。

 まして、大昔の日本のように、文字もろくに読めない知的レベルの低い民衆や、生きるために働くだけで精一杯の過酷な生活を考えたら、釈迦の仏教(原始仏教)など、実践できるはずもないのです。悪政に虐げられ、不正がはびこり、飢饉にでもなれば容赦なく命を落とすような、そんな厳しい時代に、八正道の実践など無理です。
 「真の仏教」では、八正道が実践できないということは、救われないということですから、絶望的だということです。
 しかし、人間は苦しいときには、たとえウソでも心の支えがなければ生きていけません。

 なので、仕方なく、いわゆる「仏様」というものを生み出さざるを得なかったのです。「仏様に祈れば救ってくださるよ」と言うしかなかったのです。
 しかし、実際に仏様に祈っても現実生活がよくならないことは、あきらかなエビデンスとして突きつけられますから(つまりウソだとバレてしまいますから)、「あの世で極楽にいけるよ」と言ったのです。あの世のことなど、誰にも証明できませんから。
 そうして、「仏様におすがりすれば、死後に極楽に行けるから、それを心の支えに、今は我慢して生きなさい」と説くしかなかったのです。
 それが大乗仏教です。

 「おすがりすれば死後に極楽に連れていってくれる」などという、何の根拠もない、私から言わせれば単なる作り話、ウソや妄想を説くしかなかったわけです。しかし、たとえそれがウソであっても、人間は苦しいときにはそれを心の支えにして、慰めを得たり、耐えて生きる力を得ることもできます。何の救いもないと言われたら、絶望で生きていけません。
 なので、そのような時代に生まれた宗教家が、そうしたことを説きましたが、私は彼らを責める気はありません。それしか他に道がなかったからです。たとえそれがウソで民衆をだますことになったとしても、まったく何の救いもないのだと突き放すよりは、ずっとマシだからです。

 しかしもちろん、大乗仏教では救いは得られません。慰めや、はかない希望を与えることができるだけです。徹底的に信仰を深めれば、「救われた気持ち」くらいの心境になるかもしれませんが、そこまで達するのは容易ではありません。しかもそれは単なる思い込みです。言葉は悪いですが、ある種の「洗脳」と言ってもいいかもしれません。しかし、釈迦がめざしていたのは、「救われた気持ち」になることではなく、リアルな救いです。

 しかし、現代でも、事情はあまり変わっていません。飢饉で死ぬことはほとんどありませんが、自然災害で家も財産も家族も失い、仮説住宅で余儀なく生活をさせられることはあります。過労死するほど毎日残業してクタクタの生活。政治も官庁もウソばかり、スポーツも学術界もウソばかりです。カネとコネ、権力やパワハラがものを言う世界です。不正をしても要領よく立ち回った人が出世して金持ちになって人を見下し、正直者がバカを見るような、そんな世の中です。
 要するに、汚濁の世界です。「末法の世」と言ってもいいでしょう。
 それでも、本来は、宗教の世界だけはそうした汚濁とは無縁の領域であるべきはずなのに、その宗教が腐っているのです。
 スピリチュアルなども腐っています。「念ずればすべて自分の都合のいいように事が運ぶ」などと言っている「引き寄せの法則」などは、人間の弱さや依存心、怠惰な心を利用してカネを巻き上げる人たちの格好の商売手段になっています。人々は「らくをしていいめをみたい」という乞食根性が捨てきれないのです。だから、むかしからインチキ商法などたくさんあって事件になっているのに、いまだにだまされる人が後を断たないわけです。

 念ずればすべて自分の都合よく物事が運ぶ」などということはありません。ところが、「引き寄せの法則」でセミナーをしたり本を書いている人たちは、そう言われたときのための言い訳をちゃんと用意しています。「念じても願望が叶わないのは、潜在意識の奥まで念じていないからだ。どこかにそれを否定する気持ちがあるからだ」と言うのです。いったい、そう言う根拠は何でしょうか? 仮にそれが事実だとして、ではどうしたら潜在意識の奥まで念じることができるのか、という点では、明確な回答をしていません。
 これは、「人生でよいことが起きないのは、あなたの信仰心がうすいからだ」と、宗教家がよく言う常套句と同じです。
 魔法ではあるまいし、念ずれば人生すべてが自分の都合よく運ぶ、願望が叶うなどということを信じている、いい歳をした大人がたくさんいることに、私は驚きを禁じ得ません。

 しかし、それも、大乗仏教と同じ理屈なのだと思います。
 たとえウソでも、この生きにくい時代にあって「念ずれば願望が叶うんだ」と思えれば、それが慰めや生きる支えになるのでしょう。
 とはいえ、いずれそのことがウソだとわかるときがきます。念じて願望が叶うことは、たまたまあるでしょうが、なんでもかんでも念じれば叶うわけではないことを思い知らされます。そうして、しだいに現実というもの、その絶望感へと沈んでいくか、あるいは、グルや救世主を名乗るカルト教団など、別の「夢想」を与えてくれるものを求めたりするわけです。

 悲しいことに、この汚濁の世界で清らかに生きることは、至難の業です。
 みんながカンニングしているのに自分はカンニングしないという学生は、成績も悪くなり、よい就職先もないでしょう。カンニングしたずるい人間が出世するのです。学者になっても、巧妙に他人の論文を盗んだり、カネさえだせばどんな粗末な論文でも掲載してもらえる学術誌に投稿して「実績」をあげ、教授になっていくのです(もちろんすべての教授がそうだと言うわけではありません)。最近、話題になっているスポーツの世界でも、カネやコネやパワハラによってまともな判定がなされていません。文科省の役人が自分の息子を裏口入学させています。
 こんな世界で、清らかに生きることは、バカを見ることになるのです。

 しかし、釈迦の説いた仏教というものは、要するに「清らかに生きる」ということなのです。もしこの汚濁の世界で清らかに生きようとしたら、まず出世や成功は望めません。カネも入りません。不正なことをして上にあがった腐った連中からバカにされ、蔑まれるという屈辱に耐えなければなりません。また、そういう「さえない男」であれば、結婚相手を見つけるのも楽ではないでしょう。
 そういうことを覚悟してまで、清らかに生きようとすることは、無謀ともいうべきことです。バカのすることです。そんな人は、この世にどれだけいるでしょうか?
 それよりも、耳に甘いウソを平気で口にする人の方に、人気もカネも集まっていくのです。
 宗教もスピリチュアルも、汚染され、商売道具、ビジネスになっています。
 真実に生きてバカを見るか、ウソに生きて腐って生きるか、この二択を迫られているという点で、人間のおかれた状況というものは、救われがたいのです。

 個人的な話になりますが、私は子供時代から、無謀でバカなので、ウソや幻想で生きることはできない人間でした。たとえば小学生の頃から、教師の言動にウソがあるとそれを指摘したりしていました。「俺はえこひいきはしない」と言う教師がいて、その教師がどう考えても、ある生徒をえこひいきしているとしか思えず。念のために他の友達にも意見を聞いてみると同じだったので、私はその教師に面とむかって「先生は、えこひいきをしている」と言いました。その後、私はその教師から憎まれたり無視されたりするようになりました。正直であるということは、この世では損をする、バカをみる、ということに直結するのです。
 しかし、人間の性格というのは変わらないのでしょう。
 もうすぐ還暦だというのに、ウソのない清らかな求道の場所を作りたいという思いから、「イデア ライフ アカデミー」を立ち上げました。会費も3千円で、諸経費などを考えると、かなりきつきつで、金儲けにはなりません。
 オープニング記念レクチャーを今月22日と23日に始めますが、予想通り、参加者は今のところ少数です。しかも、最初は好奇心で来ても、しだいに来なくなってくると思います。
 しかしそれでもかまいません。なぜならこれは、この汚濁の社会に対する、私のささやかな抵抗だからです。
 将来、ウソや金儲けにまみれている社会&宗教&スピリチュアルの世界にあって、斉藤啓一というバカな人間が、ウソや金儲けとは無縁の清らかな求道の場を作っていたなあと、誰かの記憶に留まってくれれば、それでいいと思っています。たとえそれが、たった一人であったとしても。
真の仏教 | コメント:6 | トラックバック:0 |

正定について


 前回の「正念」から、少し間があいてしまいました。申し訳ありません。
 さて、今回は八正道の最後に位置する「正定」についてお話いたしますが、これは瞑想行のことです。釈迦はこの正定について四つの段階を説いています。初禅・第二禅・第三禅・第四禅です。

 初禅について、経典にはこう書かれています。
「もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地」
 初禅は、四諦のなかの最初の「苦諦」と関係するもので、「無常なる現世の欲望は苦しみのもとだと頭では理解している。しかし正直、まだそれに惹かれてしまう。それではよくないと自分を戒め、欲望をなくすように修行に邁進していこう!」という、そのような意気込みというか、修行に向けて邁進していく覚悟ができた境地のことだと考えてよろしいと思います。

 第二禅については、こう書かれています。
「対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向(ひとむき)となり、もはやなにものにも心をひかれることなく、ただ三昧より生じたる喜びと楽しみのみの境地」
 第二禅は、無常なる現世の欲望に惹かれる心がなくなり、欲望や雑念に振り回されず清らかとなり、精神を集中している状態です。精神を集中すると、現世の欲望とは違う精神的な歓喜や安楽が生まれてくるのですが、そこまで至った境地のことです。

第三禅については、こう書かれています。
「その喜びをもまた離れるがゆえに、いまや彼は、内心平等にして執着なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地」
 第三禅では、内から湧き出る精神的な歓喜でさえも、それは(無常である)心がもたらしたものである(つまり苦しみの原因になる)として、それに対する執着も捨て、そうして念(自分の心を見つめる意識)と慧(真理を観じる意識)があり、安楽の境地に至るというのです。

 そして、第四禅については、こう書かれています。
「楽をも苦をも断ずる。さきには、すでに喜びをも憂いをも滅したのであるから、いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ、捨あり、念がある、清浄なる境地」
 そして最後の第四禅では、そうした安楽な境地に対する執着さえも捨て、苦も楽も感じず、ただただいかなる執着も捨て去る意識と念の意識だけがある清らかな涅槃の境地(解脱)になるというわけです。
 仏教では智慧によって煩悩を打ち破るとされているので、実際の修行は第三禅までであり、第四禅は、第三禅が成就された結果としてのゴールと見なすことができるかもしれません。

 解説すると、ざっと以上なのですが、これだけでは、よくわからないと思います。
 そのために、多くの学者がこの正定について、難解な見解を展開させてきました。
 たとえば、こうした段階を経るにつれて「自意識」が消滅していくというのです。すなわち、最初は「自分という意識」がある状態だが、次には「自分という意識がない」状態になり、ついには「自分という意識がない、という状態さえもない」状態になると言っています。難しい言葉を使うと「我想」、「非我想」、「非非我想」です。
 私はこの正定については、ヨーガの理論と基本的には同じではないかと考えています。
 ヨーガの目的は「心の作用を止滅させること」にあります。その「心」を、わかりやすく「エゴ」と呼んでもいいでしょう。私たちの本性は仏性なのですが、エゴという汚れにおおわれているのです。だから、エゴを捨てる必要があるのです。私たちの心に湧いてくるあらゆる思い(それが苦しみであれ喜びであれ、その他なんであれ)は、すべてエゴから来ています。
 だから、非常に簡潔に言ってしまうと、正定というのは、「捨てて捨てて捨てまくれ!」という行法であると、私は考えています。
 仏性を「得る」必要はないし、その発想は間違っています。もともと仏性は持っているからです。仏性を妨げているものを、ただ捨てればいいのです。そうすれば自然に仏性は現れます。これが仏教の解脱理論です。
 難解な理屈を好む学者からすれば、仏教をこんな簡単な言葉で片付けるとはけしからんとなるかもしれませんが、実際、仏教というのはシンプルなのです(奥は深いですが)。
 繰り返しますが、正定の行というのは、最近はやっている「断捨離」と同じです。心のなかにあるあらゆるものを断捨離し、最終的には煩悩の土壌である心を断捨離するのです。
 そのために、表向きは精神集中の瞑想が行われるのですが、精神集中することが目的なのではなく、あくまでも仏性以外の余計なものを捨てることなのです。

 八正道については、語ればきりがないのですが、これまでの解説で、少なくともエッセンスだけは押さえたつもりです。これで物足りないという人は、仏教書を買い求め、難解な(ように見える)教理を学んでもよいかもしれません。
 しかし、仏教(釈迦)の目的は、人を学者にすることではありません。あくまでも、「苦からの解脱」です。そのためには、実践するしかありません。実践してこそ、八正道の本当の意味が、単なる机上の空論ではなく、リアルな感覚としてわかるのです。

 宣伝になってしまいますが、今月から私が始めようとしている哲学&瞑想教室「イデア ライフ アカデミー」では、現代の私たちが日常生活を送りながら実践できるレベルにアレンジした「八正道」を紹介し、共に行じていこうと考えています。テクニックだけの瞑想をしていては、へんな方向にそれてしまいます。そうならないために、八正道というシステムのなかで瞑想をする必要があるからです。

 イデア ライフ アカデミー(東京都東村山市)
 オープニング記念レクチャー 9月22日(土)/23日(日) ※両日同じ内容です。
 午後1時半(開場12時)
 会費:3千円
 お申し込み&お問い合わせ


真の仏教 | コメント:4 | トラックバック:0 |

八正道の分析②


 引き続き、残りの八正道である「正念」と「正定」(次回)について書いてみたいと思います。
 「正念」について、経典にはこう書いてあります。
 「わが身において身というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世問の貪りと憂いとを調伏(ちょうぶく)して住する。また、わが感覚において感覚というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世問の貪りと憂いとを調伏して住する。あるいは、わが心において心というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。あるいはまた、この存在において存在というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。比丘たちよ、この時これを名づけて正念というのである」
 仏教経典のスタイルとして、くどくどと語句を繰り返して書いてありますが、簡潔にまとめるなら「身(肉体)、感覚、心、存在」を観察して、この世間の貪りと憂いを克服せよと言っているわけです。

 仏教では人間という存在を「色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)」と呼んでいます。「色」とは物質のことですが、特に人間に当てはめた場合は肉体という意味でとらえます。「受」は感覚作用、「想」はイメージ、「行」は、難しくいうと、深層意識の力動的潜在勢力、ひらたくいえば衝動のことです。「識」とは意識のことです。つまり色受想行識とは、肉体と心理作用のことです。
 これが「身」と「感覚(受)」と「心(想行識)」の意味です。そして「存在」というのは、文字通り、この地上の一切の事物のことです。
 これらはすべて無常であり、無常であるとは苦をもたらすということですから、釈迦は、肉体は無常であり、心(受想行識)は無常であり、すべての存在は無常であるということを片時も忘れないように、常に注意深く観察して「目覚めておれ」と言っているのです。つまり、「肉体は無常である。心は無常である、いっさいの存在は無常である」と、常に意識していることです。これは、最近流行している「マインドフルネス」と似ています。違う点は、「無常である」という自覚をもって自己観察をするということです。

 しかし私たちは、すぐに肉体や心や地上の存在に心を奪われ、そこからもたらされる快楽に惑わされ、欲望を出して、そうしたものに耽溺してしまいます。しかし、そうしたものは無常ですから、いずれ苦しみに変わります。苦しみを味わうとこりごりして反省するのですが、また欲楽に惑わされ、同じことを何回も何回も繰り返しているのです。
 そういうことを避けるために、常に意識を肉体と心とすべての存在とに注意を向けて観察し、「すべては無常なんだぞ」と自分に言い聞かせるようにせよと、このように釈迦は説いているのです。
 たとえるなら、外からウイルスが侵入しようとすると、すぐに免疫細胞が働いてウイルスをやっつけますが、これと同じように、肉体、心、存在は「歓びである」という気持ちが芽生えようとしたら、すぐにそれを打ち消して侵入を防ぐようにするわけです。
 これが「正念」の修行法です。正念とは「無常観」という、ひとつの「観想法」ともいえるかもしれません。
 真の仏教徒は、こうしたことを常に意識して生きているので、言い換えれば、常に瞑想状態で生きているので、物静かで浮ついたところがなく、慎ましいのです。仏教徒のくせにおしゃべりで、軽口をたたき、やたらに騒ぎ、興奮し、心があちこち定まらないとしたら、それは本当の仏教徒とは思えません。「無常観」を常に観想していたら、そのようなことはできないはずだからです。

真の仏教 | コメント:4 | トラックバック:0 |

八正道の分析①


 前回は、八正道についての記述を経典からそのままご紹介いたしました。今回は、その内容について、もう少し詳しく私なりの解釈をしてみたいと思います。

 まず、最初の正見ですが、経典にはこう書いてあります。
「苦なるものを知ること、苦の生起を知ること、苦を滅することを知ること、苦の滅尽にいたる道を知ること、これを名づけて正見というのである」
 これは明らかに「四諦」のことです。すでに述べたように、四諦=仏教ですので、仏教の見解は正しいものであり、この見解をもつことが「正しい見方である(正見)」と言っているわけです。当然ですが、仏教の道を歩むには、ここから始めなければなりません。仏教の教えを正しい見解と納得できなければ、その道を歩むことはないでしょうから。

 二番目の正思(最近では「正思惟」と記述することが多い)ですが、経典にはこう書いてあります。
 「迷いの世間を離れたいと思うこと、悪意を抱くことから免れたいと思うこと、他者を害することなからんと思うことがそれである」
 釈迦の教えでは、悪業を積むことを厳しく戒めています。悪業を積めば苦しみが訪れますし、修行の妨げになるからです。悪業、すなわち悪い行為は、悪い思い(思考)から生じるわけですから、悪業を積まないような思い(思考)が、正しい思い(正思)であると説いているわけです。

 三番目の正語について、経典にはこう書いてあります。
「偽りの言葉を離れること、中傷する言葉を離れること。麁悪(そあく)な言葉を離れること。および雑穢(ぞうえ)なる言葉を離れることがそれである」
 正語の修行には、二つの目的があると思います。ひとつは、悪業を積まないという目的です。言葉もひとつの行為ですから、人を傷つける言葉は悪業となり、それがいずれ自分の身にふりかかってきます。
 もうひとつは、言葉というものは意識のありかたを反映します。悪い意識を持っていれば悪い言葉が出るでしょう。しかし逆もまたしかりで、意識的によい言葉を使うようにすると、意識もよい方向に高められていくのです。
 このように、悪業は、カルマの制御と意識の制御という二つの目的があると私は考えます。

 四番目の「正業」について、経典にはこう書いてあります。
 「殺生を離れること、与えられざるを取らざること、清浄ならぬ行為を離れることがそれである」
 これも悪業をしないということです。

 五番目の「正命」について、経典にはこう書いてあります。
 「よこしまの生き方を断って、正しい出家の法をまもって生きる」
 これも基本的には「正業」と同じことですが、とりわけ出家修行者の戒律を守る生き方が強調されています。

 六番目の「正精進」について、経典にはこう書いてあります。
 「いまだ生ぜざる悪しきことは生ぜざらしめんと志を起して、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいは、すでに生じた悪しきことを断とうとして志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいは、いまだ生ぜざる善きことを生ぜしめんがために志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいはまた、すでに生じた善きことを住せしめ、忘れず、ますます修習して、全きにいたらしめたいと志をたてて、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする」
 これも基本的には「正業」と同じことですが、さらに徹底しており、潜在的な悪は顕在化しないように努力し、顕在化してしまった悪はそれを断ち、さらに善についても積極的な姿勢で、潜在的な善は顕在化させるように努力し、顕在化した善はさらにそれを高めていくということです。

 以上の六つの修行は、それほど理解するのに難しいというほとではないと思います。
 しかし、七番目の「正念」と最後の「正定」は少し難しいです。
 これらについては次回、ご説明したいと思います。

真の仏教 | コメント:4 | トラックバック:0 |
| ホーム |次のページ>>