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心の治癒と魂の覚醒

        

情報過多から身を守る方法

 例によって報告とお知らせから。
 イデア ライフ アカデミー瞑想教室第4回が2月16日と17日に行われました。テーマは「心(潜在意識)の浄化」で、心を浄化することがいかに重要であるか、そして、そのためにはどうすればいいかを紹介しました。そのさわりの部分をダイジェスト版として動画にアップしましたので、ぜひご覧になってください。
https://www.youtube.com/watch?v=dxTZZVt1w74
 瞑想というものは、すぐに効果が出るというわけではありませんが、自分を変え、人生を変える上でもっとも重要なものなのです。というのは、瞑想は潜在意識を変容させていく作業だからです。潜在意識こそが、自分のあり方を規定し、運命を定めているわけですから、自分を変え人生を変えるためには、瞑想は避けて通れません。いくら頭で知識を詰め込んだだけでは、人間は本質的には変わらないのです。ですから皆さん、どうぞ、瞑想をする習慣をもってください。そして、よろしければ、ぜひイデア ライフ アカデミーにいらしてください。あるいは、動画(完全版)をご覧になってください。
 なお、次回のイデア ライフ アカデミーは、3月2日と3日に哲学教室を開きます。「禅問答(公案)」について、脳科学の方面からアプローチしていきます。禅問答もまたひとつの瞑想であり、非常に強力に脳に刺激を与え、短期間で変革をもたらす力を持っています。
参加ご希望の方はこちら↓
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/
 それともうひとつ、51コラボレーション主催による「2020年 数秘術が教える未来」セミナーが3月10日(日)に行われますので、こちらもどうぞよろしくお願い致します。お申し込み
 来年2020年は2が二つ出てきます。しかも日本の場合、新たな年号が今年から始まりますので、その年号もまた来年には「2」となります。つまり、結果的に2が3つ重なることになります。2が3つ重なるというのは、めったにないことで、ある種の「異常事態」であり、数秘術的にはとんでもない状況になる可能性があるのです。ではどうなるのでしょうか? 興味のある方はぜひご参加ください。

 では、本題に移ります。
今日、インターネットの普及で、私たちはさまざまな情報を瞬時に入手することができます。これは非常に便利である反面、情報過多といってもいいくらいです。当然ですが、そのすべての情報が正しいわけではありません。なかには意図的に間違った情報が流されていることもあります。そうなると、私たちは、どの情報が正しくどの情報が正しくないか、どの情報を受け入れ、どの情報を受け入れないか、いわば、情報選択の能力を持たなければならなくなります。さもないと、あまりにも多くの情報を前に、かえって混乱してしまうでしょう。情報に振り回されることになります。実際、すでにそのような状態にあるのではないでしょうか。
 たとえば、「肉食はからだに悪い」という情報もあれば、「肉食はからだによい」という情報もあります。私たちは、いったいどちらが本当なのか迷ってしまいます。どちらもそれなりの根拠があり、説得力があるからです。いったいどうすればいいでしょうか?
 それには、実際に自分で試してみるしかありません。しばらく肉食をしない生活を送って体調を確かめ、今度はしばらく肉食をする生活を送って体調を確かめ、どちらがからだによいか調べてみることです。そうすれば、自分にとってどちらがよいのか、だいたいわかるでしょう。
 しかし、このように、すべての情報を自分で確かめてみることは、実際には不可能です。そのような時間はありません。かといって、いわゆる専門家だとか権威者とか学者と呼ばれる人たちの情報なら大丈夫かというと、必ずしもそうではないことは、あえて言うまでもありません。また、大多数の意見が正しいかというと、そうとも限りません。
 では、いったいどうしたらいいでしょうか?

 そのために、おそらくもっとも有効と思われるのは、生活をシンプルにして、なるべく情報を必要としない生き方をすることです。生活が複雑であれば、それだけ多くの情報が必要となり、情報の洪水に見舞われて身動きができなくなります。自分にとって本当に重要なことだけに焦点を当てた生活をしていれば、それとは関係のない情報を入手する必要はなくなります。言い換えれば、私たちは情報の氾濫によって、自分の人生にとってもっとも大切なことを見失っているようにも思われます。
 そのためには、自分にとって何がもっとも大切なことなのか、これをまずしっかりと定める必要があるでしょう。「これも大切、あれも大切」などと欲張ると、情報に飲み込まれてしまいます。可能な限り、最小限にとどめるべきです。タレントが結婚したとか離婚したとか、どんな生活をしているかといったことなど、重要でしょうか? 自分には関係のない情報はいっさい遮断するべきです。
 それから、情報に飲み込まれない方法としては、情報が正しいかどうかを見抜く、ある種の直観力を養うことです。そのためには、欲望と恐怖心を心から追い出して心を浄化することです。なぜなら、人の判断力や直観力を鈍らせる最大の要因は、欲と恐怖だからです。欲と恐怖がなく、心が澄んでいると、正確な判断力と直観力が得られます。
 そのために有効な手段が、瞑想です。瞑想とは、ある意味で、一時的にいっさいの情報を遮断して内面に意識を向ける行為です。「情報の断食」と表現してもいいでしょう。情報の断食をすることで、誰もが持っている、物事の真偽を見極める直観力がよみがえってくるのです。
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覚醒することの大切さ

 まずはご報告とお知らせから。
 イデア ライフ アカデミーの哲学教室第4回を、2月2日と3日に行いました。テーマは「ヨーガの解脱理論」。
 ヨーガ(ヨガ)というと、ストレッチのような運動と思われているふしがありますが、実は「解脱」を目的とした宗教なのです。ヨーガのすぐれている点は、心を浄化するための肉体の修練法があることです。というのも、肉体と心とは不可分の関係があるからです。ヨーガの教えは合理的で理性的であり、いわゆる「宗教臭さ」がありません。そのため、おそらく現代人(とりわけ日本人)にとって、もっとも適した「宗教」と言えるのではないかと思います。
 そんなヨーガが説く「解脱の哲学」を解説しましたので、その一部をダイジェスト版でぜひご覧になってください。やや難しく感じられるかもしれませんが、非常に興味深い理論が展開されています。
https://www.youtube.com/watch?v=DF3lAlGt6r4&feature=youtu.be
 イデア ライフ アカデミーの瞑想教室は、基本的にヨーガと禅の瞑想法を主軸にしています(次回の瞑想教室は2月16日と17日です)。毎日コツコツと瞑想を続けることで、自分自身と人生に変革をもたらすことができます。そして、効果的に瞑想を行ううえで、ヨーガの肉体的修練が非常に役立つのです。健康や美容、若々しさといった面においても、絶大な効力を発揮します。毎日ほんのわずかな時間でもいいので、ヨーガの行を実践することをお勧めします。
 瞑想を段階的に楽しく学びたい方は、ぜひイデア ライフ アカデミーにいらしてください。
 詳細↓
 http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/

 それからもうひとつのお知らせですが、ツイッターを始めました!
 ペンネームは「ファウスト博士」です。
 https://twitter.com/faust_academy
 今日の私の活動の原点となった、今から30年以上も前の本『ファウスト博士の超人覚醒法』(学研)、およびその後の『真実への旅』(サンマーク出版)に登場する謎の指導者「ファウスト博士」の言葉として、霊的求道のヒントになるような言葉を、おりにふれて発信していきたいと思っています。

 では、本題に入りたいと思います。
 皆さんもご存じと思いますが、最近、児童虐待のニュースが注目を浴びています。10歳の女の子が、父親による暴力を受けて死んでしまいました。ニュースによると、父親が娘を虐待する様子をスマホで撮影した記録が残っていたそうです。いったいなぜそのような光景を撮影したのかはわかりませんが、何か猟奇的な異常性が感じられます。だいたい、無力な少女に対し、死に至らせるほど執拗な暴力をふるうこと自体が、まともではありません。父親は「しつけ」だと主張しているようですが、自身の暴力的衝動をごまかすための言い訳にすぎないと思います。この父親は妻に対しても暴力(DV)をしていたといいます。
 今回の事件は、決して例外的な特殊なものではありません。統計によれば、およそ二週間に一人の割合で、親による虐待によって子供が殺されているのです。
 自分の子供を殺した親は、いつか自分の犯した罪深さに気づき、慄然として後悔し、恐ろしい良心の呵責に苦しむ日が訪れるのでしょうか。
 そのとき、親はこう思うに違いありません。「自分はどうかしていた」と。攻撃性という衝動のせいで、精神状態がまともではなかったのです。

 以上の例は極端ではあるとしても、私たちは無意識のうちに、衝動によってあやつられ、ときにそれがまともではない行為に走らせています。
 後になってそのことに気づき、後悔して「自分はどうかしていた」と感じます。そのとき人は「我にかえった」という感覚を持ちます。
 この「我にかえった」という感覚、状態こそが、「覚醒」ということになります。今までは(本当の)我ではなかったということです。
 ですから、私たち人間は、とにかく覚醒するということが、非常に重要になってくるのであり、人生の最優先事項であると、私は思っているのです。覚醒とは本来の自分にかえることです。覚醒をめざさなければ、子供が虐待によって殺されるという悲劇はなくならないでしょう。

 覚醒の段階は、おそらく無限にあります。覚醒した、すなわち「(本来の)我にかえった」と思っても、しばらくすると、さらなる本来の我が存在していることに気づくのです。そうして人は、何回も何回も繰り返して「我にかえる」という経験をしていきます。そうしておそらく究極的には、魂と呼ばれる意識に立ち返っていくのではないでしょうか。
 しかし、意識的に覚醒をめざしていない人の場合、その「我にかえる」というペースが、あまりにも遅くなってしまいます。輪廻転生の思想が本当だと仮定するなら、それこそ今後、何生も、何十生も、もしかしたら、何百生も、繰り返し繰り返し地上に生まれ変わってこなければなりません。つまり、それだけ罪深い行いをしたり、悲劇を招いたりして、後悔の苦しみを味わわなければならないということです。
 果たして、そのような「偽りの自己」の人生を、何回も何回も送ることが、幸せだと言えるでしょうか?
 私は幸せだとは思いません。
 そのことを、身に染みて感じた人が、覚醒への道を歩むようになるわけです。
 この地上世界は「強制収容所」のようなものだと私は思っていますので、そのような不自由な束縛された状態から「脱走」するために、覚醒の研究をしながら、同じ志を抱く人に、多少なりともお役に立てればと思って、こうして文章を書いたり、教室で教えたりしているのです。

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いつ死んでもいいように生きる

 皆様、新年あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願い致します。

 ところで、前にも述べたことがあるのですが、なぜ新年があけると「おめでとう」と言うのでしょうか?
 普通、「おめでとう」と口にするのは、めったに得られない幸運や成功を手にしたときだけです。しかし新年というのは、時間がたてば必ずやってくるわけですから、特におめでたいというわけではないはずです。
 しかし、それをあえて「おめでとう」と言うのは、新年を無事に迎えることがいかに大変なことか、ということに由来しているのだと思います。むかしは、戦だとか飢饉といった災害に見舞われて、常に命を失う危険にさらされて生きてきたわけです。ですから、無事に年を越せた、つまり生き延びることができた、というのは、大変なことであり、まさに「おめでたい」ことであったわけです。
 現在では、むかしほど命を失うリスクは減りましたので、新しい年が来ても、あまり深く考えず、お決まりの文句のように「おめでとう」と口にしているわけです。
 しかし、死はいつ訪れるか、誰にもわかりません。来年の元旦には、「おめでとう」とは言えないかもしれません。
 せっかく縁起をよくしたいと願っている一年最初の年に、このような不吉なことを言って、その気持ちに水を差してしまうようですが、しかし、人生というのは、常に最悪の場合のことを考えて生きるべきだと思うのです。
 よくスピリチュアルなどでは、「よいことだけを願っていなさい。そうすればそうなります」といったことを言いますが、最近の科学的な研究では、こうした楽観主義的な態度より、むしろ悪いこと、つまりリスクを考えているような、やや悲観主義的な傾向のある人の方が、逆に成功や幸福を手に入れているのだそうです。

 人生における最大のリスクと言えば、死ぬことでしょう。すでに述べたように、人間はいつ死ぬかわかりません。ですから、日頃から、いつ死んでもいいように、悔いのない充実した生き方を心がけるべきではないでしょうか。決して「縁起でもない」といって避けるべきではないのです。むかし、ホスピスのカウンセラーをしていた頃、まだ死ぬような年齢ではないのに、突如として病魔に襲われて余命が短いことを宣告され、そしてその宣告通りに死んでいった、たくさんの患者さんに接してきました。私はそれを見て、本当に人間はいつ死んでしまうか、わからないものだと痛感しました。

 人はいつ死ぬかわからないという自覚が真にあれば、人生を有意義に生きるようになります。たとえば、もしあなたが「あと一ヶ月の寿命です」と言われたらどうでしょうか? 毎日の時間を、無駄なことに使うことはしなくなるでしょう。くだらないテレビ番組を見て時間をつぶすといったことはしなくなるはずです。そして、人生におけるもっとも大切なこと、もっとも優先するべきことを考え、それを実行に移そうとするはずです。実際、ホスピスの患者さんはそのように生きる人が多く、余生が今まで以上に濃密となり、精神的に向上を遂げた人が多くいました。

 死を意識して生きたとき、人は本当に真剣に生きるようになり、人生が充実して豊かになってくるものです。人生で本当に大切なものは何かを探索し、それを最優先にしようとします。
 ただ、実際にそう生きたいと願っても、どうしたらいいのか、わからないといったことも少なくありません。
 私が昨年に始めたイデア ライフ アカデミーは、そのような、人生を本当に意義あるものにしたいと願う人に、良質な情報を提供することを目的にしたものです。単なる趣味だとか、教養のための「スピリチュアル」の場ではなく、やや大袈裟にいえば命がけの探求の場です。なぜなら、人生とは命の長さ、つまり、命が地上に生存する時間のことですから、その時間を無駄なことに費やすことは、命を縮めていることになるからです。

 肉体が生きているだけでは、真に「生きている」とは言えません。精神的な成長を常に遂げながら生きている人こそが、人間として「本当に生きている」と言えるのではないでしょうか。
 その意味で、来年の元旦は、(本当の意味で)生きることができて「おめでとう」と、声を掛け合いたいものです。

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心の大掃除


 まずはイデア ライフ アカデミーの報告から。
 12月15日と16日に、今年最後の授業となる瞑想教室第3回を行いました。
 自作のサブリミナル効果の動画を鑑賞していただいたり、びっくりする音や気をそらせる音を挿入した音楽を聴きながら、不動心と集中力を鍛える瞑想法などを行いました。
 ただ、今回の授業でもっとも大切なことは、「瞑想の心構え」と「反省瞑想法」です。
 インドから中国に禅、すなわち瞑想をもってきた達磨大師は、「座禅の功徳(いいこと)とは何か?」と問われたとき、「無功徳(何もいいことはない)」と答えたといいます。しかし禅の世界では座禅という瞑想を行っています。これはいったいどういうことなのでしょうか? その真意についてお話しました。
 それから、瞑想をする上でもっとも大切なことは、「品格」であることを説明しました。日々、自分の行いを反省して品格を高める努力をすることが、何よりも大切であることを、良寛の「戒語」を例にあげて説明しました。
 以上の重要な二点は、ダイジェスト版でほとんど紹介していますので、ぜひご覧になってください。
https://www.youtube.com/watch?v=YCUc123msUg&feature=youtu.be

 さて、本題に移りますが、年末で皆さん、大掃除をされている方も多いと思います。新しい年をきれいな環境で過ごしたいという思いから、年末に大掃除をするのだと思いますが、家の大掃除をすると同時に、心の大掃除も大切です。というより、人生で一番大切なのは、心の掃除であると思うのです。一年に一度ではなく、毎日必ず心の掃除をする、ということです。
 夜寝る前に、今日一日の自分の行為を振り返って、怒り、妬み、憎しみ、イライラ、邪念、貪欲、不安、恐怖、驕り、自惚れ、冷淡さ、無慈悲、その他、さまざまなネガティブな想念を心に抱かなかったかどうか、必ず毎日チェックして、もし抱いていたら、それを消して心をきれいにするにはどうすればいいかを真剣に考えるのです。これが心の掃除です。
 以上のようなネガティブな想念は、実際に「汚れ」であり、運命を悪くさせ、健康を害する「毒」そのものです。ある実験によれば、怒っている人の息を採取したところ、微量ながら、そこに猛毒の物質が検出されたといいます。つまり、怒っている人は、毒を飲んでいるのと同じだということです。
 心の掃除をせず、神社仏閣にお参りに行っても、あまり意味はありません。心の掃除さえいつもしていれば、こちらから神様のもとに行かなくても、神様の方が(きれいな)心のなかに来てくれるでしょう。
 心の掃除などという、ある意味では陳腐な道徳的説教のようなことを述べているようですが、私が今まで人生を生きてきて、今さらながら、そのことの重要さに気づいたしだいです。というのも、結局のところ、古今東西の宗教というものは、「心の掃除」を説いているのだと、最近よくわかったからです。
 悟り、覚醒に必要不可欠なこと、それは心の掃除なのです。

 さて、今年は、私にとってイデア ライフ アカデミーの開設という、記念すべき年となりました。しかし、勝負はこれからです。単なる趣味や娯楽ではない、スピリチュアルの本質をめざして、地道な活動を続けていくつもりです。
 なお、イデア ライフ アカデミーは1月と8月は休講ですので、次回の授業は2月からとなります。
 来年もよろしくお願い申し上げます。
 来年の授業日程はホームページをご覧ください。
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/
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地に足を着けて素朴に生きる

 まずは例によって、イデア ライフ アカデミーの報告とお知らせから。
 先日、12月1日と2日に、イデア ライフ アカデミーの哲学教室第3回「聖者はいかにして誕生するか-P・ソローキンに学ぶ-」を行いました。
  旧ソビエトに生まれ、革命家として投獄されて死刑判決を受けるも釈放され、国外追放されてアメリカに亡命。ハーバード大学の社会学教授となったピティリム・A・ソローキンの「愛の力の研究」を紹介しました。彼は、古今東西の聖者と呼ばれる人々や、名もなき利他主義者のケースを集め、彼らに共通する項目を探すことで、いかにして「愛の力をもった人」、すなわち愛の実践者は生まれ育つか、その秘密を解き明かそうとした学者です。ソローキンによれば、やはり道徳的で幸せな家庭からは聖者(愛の実践者)が生まれる確率は高いとしながらも、不幸な家庭に育った人は、幸せな家庭に育った人よりも、回心する(つまり愛の実践者になる)ときは急激に回心することを発見しました。また、「予期せぬ親切」によって人は愛の実践者へと生まれ変わるとし、そのよい例が小説『レ・ミゼラブル』だといいます。また、人は苦難に陥ると、前より悪人になる人と善人になる人に分極化されるとし、苦難によって善人(愛の実践者)になるのは、どういう条件によるものなのか、授業ではそういったことを紹介しました。とても有意義な研究をした人物なので、ぜひその一端を動画のダイジェスト版でかいまみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=--VJCkb2CIE&feature=youtu.be
 イデア ライフ アカデミー、今年最後の授業は、12月15日と16日に行われる瞑想教室です。運命を好転させるサブリミナル動画と音声による瞑想、突如としてびっくりするような音が流れ、いかなる状況でも心を安定させる不動心養成のための瞑想法などを行う予定です。すべて私が独自に開発したオリジナルです。興味のある方はぜひご参加ください。
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/

 さて、本題に入りたいと思いますが、「人生を生きる」というのは、言うまでもなく、「リアルな世界」で生きるということです。
 しかし、最近の傾向として、とりわけスピリチュアルと呼ばれる世界においては、リアルな世界で生きるのではなく、「観念的な世界で生きている」と思えてなりません。それは宗教もたいてい同じであり、宗教の教えを聴いて頭で理解して、それでリアルな世界に生きているかのように錯覚しているのです。
 たとえば、宗教やスピリチュアルの世界では、「愛しなさい」ということを説きます。愛について、たくさんの言葉が費やされています。そうした言葉を何回も読んだり聴いたりしていると、「自分は愛の人で、愛を実践している人だ」といった錯覚を起こしやすいのです。しかし実際には、ほとんど愛と呼べるような実践はしていないのです。実践していないのに、「自分は愛のある霊的に高いレベルの人間だ」と自惚れていたりするわけです。
 ソローキンも述べていましたが、「愛の宗教」であるはずのキリスト教の信者のなかには、愛の実践者が思ったよりずっと少ないこと、また、愛の実践者の多くは、インテリよりも、それほど学識のない「素朴な人」が多いということです。あるいは、かつては高い学識を持っていても、そうしたものを捨てて素朴になった人です。
 ところが、宗教やスピリチュアルの世界に行くと、やたらと自分の知識をひけらかす人がいます。こういう人は、「認められたい」というエゴに縛られているのです。
 
 知識や学問が無駄だとは言いません。しかし、そうしたものは、基本的に「バーチャル」であり、頭の中だけのものなのです。それで終わってしまったら、愛の実践の邪魔になるのです。つまり、魂の覚醒の邪魔になるのです。知識や学問といったものは、しばしば人を傲慢にします。知識や学問がない人を小馬鹿にしたりするのです。これは真の宗教やスピリチュアルとは反対の異物です。本当に愛を知っている人は、愛の知識が豊富な人のことではなく、実際に愛することができる人です。

 イエスは、「幼子のごとくなれ」と教えました。これは素朴になりなさいということでしょう。
 素朴な人は、地に足を着けて、淡々と誠実に、現実生活を一生懸命に生きています。愛の知識だとか、あの世の知識などといった観念の「幽霊」をもてあそんでなどいません。そういう人は、地に足が着いておらず、電車のなかで、老人を前に立たせておきながら、自分たちは座って得意げに愛についての議論をしているような人たちです。

 しかし、こういう人は、宗教やスピリチュアルの世界に少なくないのです。あの世のことだとか、霊的な不思議なことばかりに興味がいって、それがまるで現実世界であるかのように、夢遊病者のように生きているわけです。
 現実世界を淡々と生きるというのは、エゴにとっては魅力がないのです。だから、エゴを歓ばせるような、私から言わせるとニセの宗教やスピリチュアルがはびこっているのです。
 あの世のことだとか、高次元世界のことだとか、神だとかカルマの法則だとか、そういったことは証明できません。証明できないものは観念の世界から外に出ることはありません。もしあの世が存在するとするならば、あの世に行けばあの世が「現実」になるでしょう。しかし、この物質的な地上世界で生きている私たちにとっては、この世界こそが現実であり、生きる「舞台」なのです。
 その舞台の上で、精一杯に生きないで、ふわ~と観念(という夢)の世界で生きている人たちは、本当に生きているとは言えないのです。

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