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心の治癒と魂の覚醒

        

人生の目的


 まずはご報告とお知らせから。
 今月8月15日/16日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「全託の境地と瞑想」で行いました。全託とはすべてを神にゆだねるという、いわば信仰の極地です。もし全託の境地を体得することができれば、あらゆる悩みはすべて解消されるでしょう。もちろん、それだけにこの境地に至ることは容易ではないのですが、しかし結局、これが幸福になるための一番の近道なのであり、高い霊的覚醒に至った人はすべてこの境地を体得しているわけです。ぜひダイジェスト版の動画をご覧いただき、全託というものについて理解するきっかけになればと思います。
 →動画視聴
 来月の哲学教室は、アメリカ心理学の父とも呼ばれ、とりわけ宗教経験の特徴について研究したウィリアム・ジェイムズを取り上げます。今回の「全託」とも大きく関係しており、単なる心理学の知識というよりも「いかに生きるべきか」のヒントを与えてくれるすばらしい人ですので、ぜひ授業にいらしてください。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで

 それでは本題にうつります。今回は、イデア ライフ アカデミーのテキストに書いた記事がとても重要だと思いましたので、それをそのまま引用させていただきたいと思います。

 もっとも基本的なことですが、「人生の目的を明確に定める」ことです。「自分はこの人生で何を成し遂げたいのか」、その目的を明確にして、それに焦点を当てた生活をすることです。その目的に役に立たないことはしないことです。そうすれば、人生を無駄に過ごすことがなくなります。明確な目的がないと、気まぐれに、あれをやったりこれをしたりして、結局、人生において何もやり遂げずに死んでいく、ということになりかねません。これは、きわめて当然のことなのですが、この当然のことができていない人が大半なのです。つまり、人生の目的を定めないで生きているのです。
 そしてもうひとつ重要なことは、万が一、この目的が間違っていた場合、それでも後悔しないように、あらかじめ対処しておくことです。人間は完全ではありません。「これが人生の目的だ」と結論したとしても、間違っている可能性があるわけです。その場合に備えておく必要があります。俗にいう「リスク管理」です。

 さて、人によって人生の目的は異なるでしょう。ある人は「お金持ちになること」、ある人は「有名になること」、あるいは「人助けをすること」など、いろいろあると思いますが、さらに深く「では、なぜそれが目的なのか?」と追求していくのです。すると、たとえば「お金持ちになること」が目的の人は「贅沢をしたいから」ということになるかもしれません。そしてさらに「なぜ贅沢をしたいのか?」と突き詰めていくと、他の目的でも同じですが、結局は「心の満足」に行き着くと思われます。要するに、すべては心を満たしたいがためなのです。
 ですから、人生の目的というものは、「心の満足」ということになります。あとは、いかにしたら心の満足が得られるか? ということになってくるわけです。

 この「心の満足」というものの究極を問いつめていったら、どうなるでしょうか?
 これは、各人が行う課題ですが、参考のために私の考えを述べてみたいと思います。
 結論から言えば、肉体をもってこの地上世界に生きている限り、完全に心の満足を得ることはできません。なぜなら、肉体の欲望にはきりがなく、地上世界はそのきりがない欲望をどこまでも満たしてはくれないからです。一時的な満足感は得られるでしょうが、それは必ず失われます。すべてが、最終的には肉体の老化と死によって失われてしまいます。人生など短いものです。つまり、やがて失われてしまう満足感などは、はかないもので、完全ではありません。
 
 古今東西の偉人たちの多くが語っている内容が真実であると仮定すれば、人間の本質は肉体ではなく、魂です。魂は肉体に幽閉されているのです。しかし魂の本来の住む場所は、高い霊的世界です。そこは、時間と空間の制限がなく、魂そのものが自己完結的に満足感を懐いているので、霊的な世界でのみ、本当の心の満足が得られるのです。

 しかし、高い霊的世界は、高い徳の世界ですから、自分もそれに見合うように、高い徳を身につけなければ移行できません。さもなければ、再び、地上世界に生まれてくることになります。私たちはそれを何回も繰り返し、地上において本当の心の満足を求めるという、空虚なことをずっと続けてきたのです。
 この地上人生は、仮の宿にすぎません。私たちが地上世界に来た目的は、ここで一生懸命に徳を養い、人格を向上させて、死後に、本当の住処である高い霊的世界に帰還し、真の心の満足を得るためなのです。これが、釈迦やキリスト、その他の偉人たちの教えのエッセンスです。

 このように考えるなら、この地上人生の目的はただひとつ、「徳を養って人格を向上させること」だけということになります。その結果として、地上に生まれ変わることはなくなります。その意味では「二度と地上に生まれ変わらないこと」が目的であるとも言えるわけですが、そのためには徳を養う必要があるわけですから、結局、両者は同じことになります。イデア ライフ アカデミーは、この2つを目的にしています。
 もっとも、中には「地上に生まれ変わりたい」と思う人もいるかもしれません。徳を養って人格を向上させた人は、地上に生まれない選択もできるし、生まれる選択もできます。しかし、徳を養わなかった人は、生まれない選択肢はなく、必ず生まれてきます。ですから、徳を養う生き方をすれば、好きな方を選択できるわけですから、徳を養う生き方をして損はないのです。

 しかし、はたして本当に、人間の本質は肉体ではなく魂なのでしょうか? 霊的世界など存在するのでしょうか? 徳を養って人格を向上させれば、真の心の満足が得られる高い霊的世界に行くことができるのでしょうか?
 それはわかりません。古今東西の偉人たちや、いわゆる心霊科学の調査などにより、ほぼ間違いないとは思われますが、絶対に真実という証明はないのです。もしかしたら、肉体が滅びたら、人はまったくの無になって完全に消滅してしまうのかもしれません。
 ですから、リスク管理として、万が一、そのようなことになったとしても、後悔のない人生を生きる必要があるのです。

 では、魂も死後の生もないとしたら、いったいどのような人生を送れば、後悔がないと言えるでしょうか?
 どうせ死んだら無になるのなら、生きているうちに、地上の快楽をなるべく味わって死んだ方がいいのか、また、死後の世界がないならば、悪いことをしてもバレなければ罰せられることもないわけで、富や名声をつかむために、バレない程度にうまく悪事を働いた方がよいのか、という考えも出てくるでしょう。
 確かに、死後の世界が存在しないとしたら、こういう生き方によって後悔のない人生を送れるかもしれませんが、万が一、死後の世界が存在したら、それこそ悲惨です。霊界の低い階層に生き、そこで長い間、さんざん苦しいめに遭う、さらに地上に生まれてさらに苦しむ可能性があります。ですから、これではリスク管理のある生き方とは言えません。

 では、徳を積んで人格を向上させる生き方をした場合はどうでしょうか。確かにメリットばかりではありません。ともすると地上世界は、「正直者は馬鹿を見る」ようなところがあり、徳の高い人は必ずしもこの世的に幸運であるとは限らず、それどころか不遇となる場合も少なくありません。残念なことに、この地上世界は、狡猾にうまく立ち回って生きる人の方が、この世的な幸運には恵まれる傾向があります。
 しかし、そもそも徳を積んで人格を向上させようという発想をもっている人は、そのような狡猾な生き方をしても、決して心の満足は得られないでしょう。それよりも、たとえこの世的には不遇でも、正しく生きること、そのものに、心の満足を見出すようになるはずです。
 ですから、たとえ死後の世界が存在してもしなくても、どちらにしても、徳を養い人格を向上させる生き方をしていて、後悔することは決してない、ということになるのです。

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魂の救済


 まずはご報告とお知らせから。
 今月7月19日/20日のイデア ライフ アカデミー哲学教室のテーマは「ソクラテスとプラトン」でした。誰もが名前だけは知っている有名なギリシアの哲学者です。ソクラテスの弟子がプラトンで、ソクラテスは本を残しませんでしたから、ソクラテスの思想を代弁する形でプラトンが著作にまとめました。ですから、基本的にソクラテスとプラトンの教えは同じであると考えていいのですが、ソクラテスは結局、何を言いたかったのかというと、徳を養う人生を送りなさい、それを人生の最優先課題にしなさいということでした。ひらたくいえば、「立派な人間になりなさい」ということです。こうしたことは、一見、陳腐に聞こえるかもしれませんが、しかし結局は、これこそが、人間が地上に生きる目的だと、二人は言っているのです。人生とはそのための、わずかな短い期間にすぎません。物質的なものや名声などを求めても、やがてそのようなものは失われてしまう、はかないものです。それよりも、自分を高めるために、全身全霊で生きること、すべてをさしおいて、このことを最優先にし、寝ても覚めてもこのことばかり考えるくらいであること、そして勇敢に徳を実践できる人間になること。人生で本当に価値あることは、これだけなのです。このことに本当に気づくことは、たとえるなら、10億円の宝くじに当たるよりもずっと価値があることなのです。このように、ソクラテスとプラトンの教えから、人生で本当に大切な生き方とは何か、という気づきが得られるのです。こうしたことは、ダイジェスト版の動画では十分に表現しきれていませんが、とりあえずダイジェスト版をご覧になってみてください。そしてもっと二人の思想を深く理解したいと思ったら、ぜひ完全版をお求めになってください。
 →動画視聴
 イデア ライフ アカデミーでは、ソクラテスとプラトンの教えを土台に、徳を高めるためのすばらしいあらゆる教えを順次、紹介していくつもりです。人生の目的をはっきりと見すえて、人生を無駄にしないためにも、ぜひとも教室に学びに来てくださればと期待しています。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで

 それでは本題にうつります。
私は、お金を盗むのはもちろん罪ですが、時間を盗むのも罪であると思っています。つまり、人に無駄な時間を使わせてしまうことです。そんなことがなければ、その人は、もっと有意義なことに時間を使うことができたかもしれません。人生とは結局、生きている時間のことなのですから、人の時間を無駄にしてしまうことは、大げさに言えば、その人の寿命を短くさせてしまうことではないかと思うわけです。
 ですから、この記事を読んでくださる方の時間を無駄にしないように、読んでためになる内容、人生を豊かにするような内容のことを書かなければならないと、心がけているつもりでいます。
 今までは、このことはそれほど困難ではありませんでした。もちろん、本当にためになるかどうかの判断は読者にゆだねなければならないのですが、少なくとも私自身としては、それなりにためになるだろうというものを書いてきたつもりです。
 しかし、最近になって、このことが、とても困難に感じるようになりました。実は、今回の記事を書くために、三日間、考えこみました。以前なら長くても半日で書き上げてしまっていたのですが。

 そうなってしまった理由は、何が本当に「ためになる」ことなのか、どんな情報が、本当に「人生を豊かにする」のか、わからなくなってきたからです。
 たとえば、テレビでお笑い番組だとかバラエティーだとかドラマなどを見て、とても楽しかったとします。しかし、楽しかったけれど、後には何も残らない、ということがあります。
 もちろん、「楽しかった」ということ自体が、「ためになった」と言えなくもないし、「人生が豊かになった」と言えなくもないのですが、果たして、楽しい人生イコール豊かな人生と言えるかというと、私にはそうは思えません。

 このことは、人によって価値観が違うと思いますので、私の考えが唯一絶対に正しいと言うつもりはありませんが、本当に豊かな人生というものは、「自己を成長させ向上させること」にあるのではないかと、私自身は思っています。
 自己を成長させ向上させるとは、言葉を変えれば、徳を養うことです。徳、すなわち、正義、正直、誠実、善、美、勇気、忍耐、その他、こうした性質を自分のものとすることです。いうまでもありませんが、単に徳に関する知識を蓄えるということではありません。徳のある人間になることです。徳とは知識ではなく実践だからです。

 しかし、徳のある人間になったからといって、何か「得」があるとは限りません(思わず駄洒落を言ってしまいましたが)。それどころか、徳があるがゆえに、この世の中では、損をすることだって少なくありません。たとえば「正直者が馬鹿をみる」という言葉があります。人をうまく利用し、ときには賄賂を渡したり、だましたり裏切ったりして、その場の状況を読んで要領よく狡猾に生きた人が、カネや地位といったものに恵まれる、といった傾向が、少なからずあり、そんな中で正直に生きていたら、まず、だまされますし、いいように利用されて、結局は不遇に泣くこともあるわけです。
 
 そうなると、徳を養うこと、つまり、自己を成長させ向上させることを記事にすることは、本当に読者の皆さんにとって、「ためになること」なのだろうか? よいことなのだろうか?「自分の人生は豊かだ」と思っていただけるようになるのだろうか? といった疑問が生じてきてしまったのです。

 そのような人物の典型が、ソクラテスであり、イエス・キリストでした。この二人はまさに徳のかたまりのような人でしたが、最期は民衆に憎まれ、死刑になってしまいます。イエスなどは、弟子にさえ裏切られました。
 これは極端な例とは必ずしも言えません。日本ではあまりないかもしれませんが、たとえば共産主義や独裁国家の国で政治家の不正を暴く言論をしたら、たちまちつかまって、最悪、死刑になってしまうでしょう。コロナウイルスの危険性を初期に訴えた中国の知識人はけっこういると思いますが、拘束されたり、迫害されたりしています。今の香港で民主主義を訴える活動家もそうです。
 徳のある人が得をするのではない、それどころか、苦しむことがある、というのが、この不条理な世の中の現実です。もちろん、よいこともあるでしょう。しかし、絶対にそうなるとは限らないわけです。

 イエス・キリストは言いました。「私はこの世に平和をもたらすために来たのではない。争いをもたらすために来たのだ」と。この言葉の真意はよくわからないのですが、私なりの解釈をしますと、この悪しき腐敗した世の中で徳を発揮しようとするなら、悪と善との戦いが始まる、という意味ではないかと思います。

 ところで、死刑になったソクラテスやイエスは、徳のある生き方をしたことに、後悔したでしょうか?
 後悔はしていませんでした。ソクラテスはそんな自らの運命を喜んで受け入れましたし、イエスの場合は、おそらく最初から死刑になることを承知した上で、あのような生き方をしたのです。それによって人類に偉大な教えを残すためにです。
 確かに、この世的には、ソクラテスもイエスも悲惨な人生を送りましたが、魂は救われたのです(もっとも、最初から救われた魂だったのだと思いますが)。

 以前からもそうでしたが、とりわけ最近になって、私は「魂の救済」ということに、人生の最大の価値と目標をおくようになりました。極論ですが、魂さえ救われれば、この短くてはかない地上人生など、どんなに辛くても、たいしたことではないと考えるようになりました。長くてもせいぜい百年、健康寿命を考えれば七十年という短い間に、ちょっと人より金持ちになったり、地位や名声を得たりして楽しかったとしても、それが何だというのでしょう。砂上に造られた城のようなもので、すぐに波が来て崩れ去ってしまう、はかないものです。
 むしろ、人生が楽しいと、地上の事物に対する執着が強くなり、魂の救済の障害になりかねません。その意味では、人生というものは(あまりにも悲惨でない限りにおいて)苦しみがあった方がいいのです。

 とはいえ、このような考え方は、物質主義が支配的な現代社会には、ほとんど受け入れられないでしょう。しかし、私は自分に正直に生きたいので、魂の救済、言い換えれば、徳を養って自己を向上させる、というテーマに重点を置いた記事を、ますます今後も書いていこうと思っています。イデア ライフ アカデミーも同じで、そのような授業を行っていこうと思います。

 しかし、覚悟してください。徳を養う道は険しく、イエスが言ったように、そこに平和はなく、争いがあるかもしれません。不遇に見舞われるかもしれません。それでもなおこの道を歩んでいこうという勇気をもっているなら、私の記事を読んでください。そのためにどうなっても、私は責任はとれませんのでご了承ください(笑)。
 それがいやな人は、読まない方がよいです。あるいはまた、読むだけで、真剣に徳を養う意思のない人も、読んでも時間の無駄ですから、読まない方がよいです。もっと楽しい記事を書いている人はたくさんいますから。

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明日を思い煩うことなかれ


 まずはご報告とお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミーは、哲学教室「原始仏教2 真の仏教とは」の授業を行う予定でしたが、新型コロナウイルスの外出自粛要請のため、今月も休講となりました。そのかわり、私ひとりで動画配信用として講義を収録しました。釈迦が本当に説いた教えとはどのようなものであったのか、興味のある方はダイジェスト版をご覧下さい。
動画視聴

釈迦は、この地上人生は本質的に苦しみであり、そこからの脱出を説きました。つまり、二度と地上に生まれ変わらないことを説いたのです。これが釈迦のいう「救済」です。地上世界を住み心地のよいものにして、地上世界を幸せなものにするという考えは、少なくとも直接の目的ではありませんでした。
 しかし、地上を脱出するには、精神性を高め、高潔な人間となることが求められました。そうした高潔な人が増えることによって、結果的に、この地上世界はよりよいものに変わっていくはずです。現在のように危機的な状況にあるなかでは、高潔な人々、とりわけ、高潔な政治家が求められているように思えてなりません。その意味でも釈迦の教えは、現代において非常に重要な意義をもっていると考えています。
 なお、イデア ライフ アカデミーの授業は、新型コロナウイルスの状態がよほどひどいものにならない限り、感染防止を徹底したうえで、来月からは予定通り授業を行っていくつもりです。今のような状況こそ、私たちの精神性を磨き、高め、深めるべきときではないかと思うのです。
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 さて、本題にうつります。
 コロナ禍が終わったら、世の中は変わると、たくさんの人が言っています。たとえば、密を避けた人との接し方が日常あたりまえになるとか、テレワークなども増えていくといった感じです。国際政治の状況も大きく変わるとも言われています。アメリカと中国、ロシア、アジアなどといった国々の力関係も変わってくる可能性が指摘されています。中国は共産党の世界覇権がますます強大になるとか、あるいは逆に縮小して民主化が促進されるとか、さまざまな意見があります。私個人的には中国共産党の野望は挫かれていくのではないかと考えていますが、どうなるかはわかりません。
 確実に言えるのは、失業者が増えることで、まだしばらくはコロナの影響が続くでしょうから、失業者の増加が大きな問題になることは間違いないでしょう。失業率が1%増えると自殺者が二千人増えるらしいので、ある意味では、コロナよりも深刻になるかもしれません。オリンピックも、私個人的には、開催は無理だと思っていますので、その面でも経済的なダメージはさらに深刻になるのではないかと危惧しています。
 他にも、第三次世界大戦が起こるとか、大地震が起こるという人もいます。戦争はともかく、地震についてはかなり現実味がありますので、こちらも心配です。
 このように、心配の種は尽きることがありません。これから世界はよくない方向に進んでいくといった情報ばかりが蔓延していますので、心配してしまうのも無理はないと思います。
 
 しかし、考えたら心配だらけなのが、そもそも人生なのではないでしょうか。
 たとえコロナ禍がなかったとしても、人生、いつ何があるかわかりません。会社がとつぜん倒産することだってありますし、解雇されることだってあります。いつ悪い病気にかかってしまうかもわかりません。皆さんよく知る歌手の人が声帯に癌ができて歌えなくなるといったことも現実には起きているわけです。家が火事になって、幼い子供を含む一家全員が死んでしまったというニュースが流れていました。交通事故にあって半身不随になってしまった人もたくさんいます。こういうことは稀ではあるでしょうが、絶対に起きないという保証はありません。独身の人には孤独死が待ち受けている可能性が高いです。結婚していても子供がいなくて配偶者が先に死んでしまえば孤独死の可能性大です。老人になればからだの自由がきかなくなってきます。ついには寝たきりとなって下(しも)の世話をしてもらいながら死を待つことになるか、あるいはそれ以前に何らかの病気で死にます。これは百%確実に起こることです。
 他にも、人生で生じる不幸災難を数え上げたらきりがありません。

 つまり、何が言いたいのかというと、コロナ禍が生じようと生じまいと、人生というものは、いつ不幸災難に遭遇するかわからないという点で、それを考えたらどこまでも心配や不安に悩まされなければならない、ということです。
 悩んで、何かいいことがあるでしょうか? 悩めば不幸災難から免れることができるでしょうか? そういうことはありません。
 もちろん、備えをしておくことはできます。たとえば地震に備えて水や食料などを備蓄しておくとか、保険に入っておくとか、不幸災難が起きても被害を最小限にとどめることは、ある程度は可能です。しかし、不幸災難から完全に免れることは不可能です。むしろ、悩めばそれだけストレスとなって病気にかかりやすくなったり、能力がうまく発揮できなくなって状況が悪くなる可能性が高くなります。

 繰り返しますが、想像力を働かせて、あらかじめどのような不幸災難に見舞われる可能性があるかを推測し、それが起きても最小限の被害で留められるように、前もってできるだけの準備をしておくことは大切です。
 しかし、そうしたらあとは、「なるようにしかならない」と、覚悟を決めて、心の中からいっさいの心配や不安を捨て去って生きていくしかないのです。それが人生というものなのです。
 アフターコロナの時代、これから非常な苦難が訪れるかもしれません。あるいは「心配していたほどではなかった」となるかもしれません。あるいは、案外、「以前よりも世の中がよくなった」という可能性だってないとはいえません(私個人的には、長期的にはそうなると思っています)。
 いずれにしろ、将来のことはどうなるかわからないので、心配や不安などを抱いて、今という大切なときを台無しにしてしまうのは、愚かなことです。最悪の事態に備えての準備は大切ですが、あとはイエス・キリストの「明日を思い煩うことなかれ」という教訓を胸に刻んでいきたいと思うわけです。

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覚悟力を鍛える

 まずはご報告とお知らせから。
 今月、3月21日/22日にイデア ライフ アカデミーの瞑想教室が開催されました。テーマは「人格障害と瞑想」です。私たちは、誰もが多少は、人格障害の傾向を持っています。ただ程度によって「精神疾患」に分類されるか、健常レベルで許容されるかの違いだけです。人格障害というのは、つまりはエゴのことです。したがって、エゴという汚れを落とすために、人格障害について理解することが大切になってきます。授業では、人格障害について説明する前に、「何のために瞑想するのか」というテーマで話をしています。瞑想には2つの目的があります。ひとつは「地上的な欲望を満たすための瞑想」であり、もうひとつは「地上世界を脱出するための瞑想」です。世に出回っている瞑想の多くは前者のようですが、イデア ライフ アカデミーでは後者の瞑想を目的にしています。というのも、私たちが地上に生まれてきた目的は、人格を高めて地上を卒業するためだと考えられるからです。ぜひダイジェスト版動画をご覧ください。
 動画視聴
 次回は哲学教室(4月18日/20日)で、「原始仏教2 真の仏教とは」です。釈迦の教えの核心である八正道について解説します。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで
 なお、ホームページ内のイデア ライフ アカデミーの紹介ページを充実させました。イデア ライフ アカデミーは何をめざしているのか、明確にしています。こちらもぜひご覧いただければ幸いです。

 それでは本題に入ります。
 世界は、新型コロナウイルス一色になりました。つい、2、3ヶ月前までは、私たちは比較的平穏に暮らしていました。その頃から見れば、世界があれよあれよという間にこんな状態になってしまうとは、誰が想像したでしょうか。とりわけイタリアなどは、悪夢ともいうべきものです。こうしたことは、おそらく百年に一度あるかないかくらいの人類の試練かと思われますが、いずれにしろ、この地上世界は「一寸先は闇」だということを、あらためて実感させられました。
 イタリアは悪夢と申し上げましたが、新型コロナウイルスとの闘いは始まったばかりです。日本もイタリアのように医療崩壊が起きて大量の死者が出てくる可能性は少なくありません。しかし、日本の国民の多くは、まだまだ危機感が少ないように思われます。人間というものは、あまりにも非日常的な出来事が現実に起こり得るということに関して、現実感が湧かないのです。あるいは、そういう可能性から目を背けたいために、あえて否定的な態度をとったりします。「自分だけは大丈夫だ」という、根拠のない自信を懐く人もいます。

 最初、アジアで新型コロナウイルスが蔓延した時、欧米諸国は「対岸の火事」のように思っていたふしがあります。しかし、あっという間に、自分たちが炎に巻き込まれてしまいました。現在、同じように、イタリアで生じている悲惨な状況に対して、私たち日本人は、なんとなく「対岸の火事」のように思っているのではないでしょうか。しかし、イタリアで生じている状況は、明日の日本であると思っておいた方がいいと思います。「明日は我が身」、このような姿勢で臨まないと、大変なことになると思います。さらに、イタリアの悲惨さが、今度はアメリカに飛び火する可能性があります。そうなると、大量の死者の上に、強奪や犯罪や暴動が起き、イタリア以上の阿鼻叫喚の地獄となるかもしれません。
 さらに、新型コロナウイルスのやっかいなところは、経済的な打撃が深刻だということです。不景気になると自殺者の数が増えますが、これから待っている経済的な打撃は、「不景気」どころではないでしょう。それこそ大量の自殺者が生じる可能性があります。
 世界が新型コロナウイルス、および、それがもたらした経済的な打撃から立ち直るには、相当の時間がかかるでしょう。したがって、これから、何が起こってもおかしくないという覚悟をしておいた方がいいと思います。今日のような危機的な状況において大切なことは、「どんなことが起こっても受け入れる」という覚悟です。
  
 覚悟を決めた人間は、強くなります。取り乱したりパニックになったり、右往左往してしまうのは、覚悟をしていないからです。最悪の事態を覚悟してしまえばいいのです。たとえば、死ぬ覚悟ができれば、死を前にしても冷静でいられます。冷静でいられれば、最善の行動がとりやすくなります。結果的に、今回の災厄から脱出する道筋が早く開かれていくでしょう。
 もちろん、そのような覚悟は、急にできるものではないでしょう。したがって、今のうちから、少しずつ覚悟を決めておくようにすることです。いたずらに不安を煽るつもりはありませんが、新型コロナウイルスには未知なるものが多く、また、こういうタイプの経済的な打撃を人類は経験していません。つまり、今後、どうなるのか、誰にもわからないのです。わからない敵を相手にするときは、最悪の事態を想定して闘うのが原則です。
 今回の災厄をきっかけとして、「最悪の事態を覚悟する」ことができるようになる、いわば「覚悟力」を、鍛えることができるようになれば、強い人間になれます。たとえ今回の災厄が去ったとしても、人生にはさまざまな障害や困難がつきものです。そのとき、今回の災厄で鍛えた覚悟力が、おおいに役立つときがくるでしょう。

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私のこれからの目標

 新年あけましておめでとうございます。
 皆様は、今年はどのような年にしたいと思っておられるでしょうか?
 私は今年、60歳になります。ついこの間まで40歳になったと思っていたのに、いつのまにか60歳、老年の域に突入する歳になってしまいました。20歳までは人生、長く感じましたが、だんだん時がたつスピードが早くなり、40歳から今までの20年は、あれよあれよという間でした。ということは、これからの20年はさらに早く、あっという間に80歳になってしまうのだろうと思います(80まで生きられれば、の話ですが)。
 この文章を読んでくださっている方の多くは、私より若いのではないかと思いますが、40歳を過ぎていたら、(脅かすわけではありませんが)60歳なんてあっというまに来てしまいますよ(笑)。だから、しっかりとやるべきことはやって後悔のないように生きるようにした方がよいです。
 歳を取るにつれ、容色は衰えからだの機能は低下していきます。これは受け入れなければなりません。しかし、脳(精神)の機能は、適切な管理をすれば、肉体ほど低下しません。実際、70歳を過ぎても抜群の記憶力や判断力、思考力を持っている人に、少なからずお会いしてきました。
 肉体は老けてしまっても、精神だけは死ぬまで若々しくありたいと思います。
 では、どうしたら、若々しい精神を保つことができるだろうかと、最近よく考えます。肉体年齢は若いのに精神的にはずいぶん老けていると感じる人もいて、この差はどこから来るのでしょうか?
 その理由はいろいろ考えられるでしょうが、「目標をもって挑戦し続ける」ということが、大きな要因としてあげられるのではないかと思います。脳というものは、何か目標を懐き、挑戦しようとするとき、自動的にその目標を達成すべくフル回転します。しかし、目標も挑戦もなければ、脳はみるみる萎縮していきます。

 私の60歳からの目標は、「真善美に生きる」です。
 今まで、古今東西の哲学や宗教をいろいろ研究してきてわかったことは、およそ哲学や宗教の目的というものは、一言で集約するならば、「真善美に生きる」ということなのです。真善美について、頭で理解しただけでは真に理解したことにはなりません。実際に真善美に生きることができて初めて、真善美という、およそあらゆる哲学・宗教のエッセンスを理解したことになるのです。それこそが真の哲学者であり真の宗教者です。
 しかし、このことだけが動機なのではなく、他に2つの動機があります。
 ひとつは、過去の偉人の名前を汚さないためです。というのは、私はこれまで、フランクルやブーバー、その他、過去の偉人について書いた本を執筆してきたのですが、もし私が真善美に反するような生き方をしたら、そんな私のことを知った人は、私が本に書いた偉人のことも、あまりよく思わないでしょう。「斉藤はフランクルやブーバーについて本を書いていたけれど、斉藤があんなひどい人間であるなら、フランクルやブーバーなんていうのも、ろくなものではないんだろうな」と思う人がいるのではないでしょうか。少なくとも印象を悪くしてしまうことは間違いありません。私ひとりが不名誉になるなら自業自得ですが、私のせいで、偉大なフランクルやブーバーが不名誉に思われてしまうということは、決してゆるされることではありません。つまり、私は彼らについての本を書いたことで、ある意味、彼らの看板を背負っていることになるのです。ですから、彼らの名前を汚さないために、私は立派な生き方をしなければならない義務があると思っているのです。

 もうひとつの動機は、「恩返し」です。これが一番大きな動機です。
 私は、本当に多くの人から助けられ、多大な恩を受けてきました。私が今日あるのは、私を助けてくれた、たくさんの人たちの善意と親切のおかげです。恥ずかしながら、助けられてばかりの60年でした。
 私は、残りの人生をかけて、その方々に恩返しをしなければなりません。
 しかし、どうやって恩返しをしたらいいでしょうか? お金が裕福にあったらお金で恩返しができますが、残念ながら私にそれだけのお金はありません。お金以外に恩返しといっても、何をしたらいいのか思いつきません。しかも、私を助けてくれた人の中には、見ず知らずの人もいるのです。匿名で、本当に大きな助けを与えてくださった人もいるのです。どこの誰だかわからないその人に、いったいどうやって恩返しをすればいいのでしょうか?
 私は考えました。そして、苦肉の策として、これしかないと思いました。
 それが「真善美に生きる」なのです。どういうことかというと、仮に私が悪いことをする人間になったとします。すると、私を助けてくれた人は、悪人を助けたことになり、間接的に悪事の加担をしたことになるでしょう。ということは、仮にカルマの法則というものが存在するとしたら、私を助けてくれた人は悪しきカルマを積んだことになり、その悪しき報いを受けなければなりません。つまりこれは「恩を仇で返す」ことになるわけで、人間としてもっともやってはいけないことです。
 しかし、もし私が善いことをする人間になったら、私を助けてくれた人は間接的に善事をしたことになり、つまりは善いカルマを積んだことになって、そのよい報いを受けることになるはずです。
 ですから、私はこれからあらゆる機会を見つけて、善いことをどんどんする人間になろうという目標をたてたのです。それを一言で表現したのが「真善美に生きる」です。
 今日から毎日、夜寝る前に一日の反省をし、必ず悪事よりも善事の方が多くなるようにして、「私の善き行いに対する報いはすべて、私を助けてくれた人々のもとにいきますように」という祈りを捧げることにしました。
 私は死ぬまでこのように生きるという決意をしました。

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