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心の治癒と魂の覚醒

        

金持ちは天国に行けるか?

 まずはご報告とお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミー哲学教室は、「E・フロム 真の自由と愛」というテーマで行いました。フロムはナチスのファシズムの危険性を訴えた社会心理学者ですが、彼の教説はこのまま私たち現代に通用する、いえ、ある意味では、当時よりもっと彼の教えに耳を傾ける内容であると思っています。とりあえず、ダイジェスト版をごらんください。
→動画視聴
 来月は、ケン・ウィルバーを取り上げます。よろしければご参加ください。

 では、本題に入ります。
 「金持ちが天国に入ることは、ラクダが針の穴に入るよりも難しい」という、イエス・キリストの有名な言葉があります。私はこの言葉を初めて聞いたとき、いくら何でも大袈裟だろうと思いました。ラクダが針の穴に入るのは、難しいというより不可能です。ですから、金持ちが天国に入るのは不可能だと言っているわけです。
 そこで弟子の一人が言いました。「それでは、誰が救われることができるのですか?」と。イエスは答えました。
「人にはできないことも、神にはできる」と。それ以上の説明はありません。
 正直なところ、この言葉は謎めいていて、よくわかりません。神がその気なら、ラクダはともかくとして、金持ちでも天国にいける、ということなのでしょうか。
 しかし、イエスは「富も家族もすべてを捨てた者が天国へ行くのだ」といった意味のことを言っています。

 金持ちは、本当に天国に行けないのでしょうか?
 そもそも、どれくらいお金を持っている人が「金持ち」となるのでしょうか? 「いくら以上お金を持っている人は金持ちで、それ以下は金持ちではない」という基準値のようなものはあるのでしょうか?
 また、仮に金持ちが天国に行けないとすると、その理由は何なのでしょうか?
 お金持ちの中には、多額の寄付をして、困っている人々を助けている人も少なくありません。それでも天国に行けないのでしょうか?
 あるいはまた、お金持ちは天国に行けないが、貧乏人なら、天国に行けるというのでしょうか?

 いろいろ考えた末の、私の結論はこうです。
 お金持ちはお金が好きです(だからこそお金持ちになったのでしょう)。しかし、おそらく天国にお金は存在しません。物質というものが存在しません。純粋に精神的な世界、それが天国だろうと思います。
 したがって、お金好き、物質(モノ)好きなお金持ちは、そもそもお金も物質もない天国に魅力を感じないのです。つまり、「天国に行けない」のではなく、「天国に行かない」のです。そして、(これは仏教的な思想ですが)死後、天国には行かずに、お金と物質が溢れている地上に再び生まれ変わってくるのではないかと思います。

 したがって、たとえ貧しくても、お金や物質に執着を持っていれば、天国には行けない(行かない)のです。逆に、いくらお金を持っていたとしても、お金や物質に執着がなく、精神的な喜びを重視している人は、天国に行くのではないかと思われます。
 もっとも、お金や物質に執着がなければ、お金を持っていても、それを貧しい人に分け与えてしまい、「お金持ち」ではなくなるはずです。
 こう考えると、結局のところ、やはりお金持ちは天国には行けない、というより、「行かない」ということになるのでしょう。仮に天国に行ったとしても、お金も物質もないそんな場所は、退屈で楽しくないかもしれません。

 しかし、地上世界(物質世界)の実相は、無常であり悲惨と苦しみに満ちています。たまたま運よくお金持ちになって、そうした苦難を経験せずにすむ人生もあるでしょうが、おそらく誰もがいつかは、悲惨と苦難のどん底に突き落とされる人生を送ることになるでしょう。イエスも釈迦も、そんな物質世界の本質を見抜いていたので、地上に幸せを求めず、霊的な領域に幸せを求めるべきだと説いたわけです。
 しかし、いくらそんな教えを説いても、ほとんどの人はお金や物質(モノ)に惹かれ、引き寄せられます。そうして、数えきれないほど生まれ変わりを繰り返し、イヤというほど地上人生の苦難を味わって、ようやく、真の幸せは物質世界には存在しない、ということがわかり、霊的な領域に幸せを求めるようになるわけです。このブログを読んでいるようなあなたは、すでにそうなっているか、それに近い状態ではないかと思います。さもなければ、こんなブログなど読んでいないでしょう。「いかにしたら金が儲かるか」といったブログを読んでいることでしょう。
 そして、さらに実践まで踏み込んで、こうした救いの道に進むことができる人というのは、やはり自力だけではなく、他力、すなわち、神の援助がなければ不可能だと思うのです。これが「人にはできないことも、神にはできる」という意味ではないかと思うわけです。

もし天国に行きたければ、お金や物質に対する執着を捨て、真・善・美といった精神的な事柄に喜びを覚える境地に達しなければ無理です。
 ところが、お金を持っている人が、そのお金の大半を貧しい人に寄付して質素な生活をし、物質に依存しない精神的な喜びで満足するというのは、なかなかできるものではありません。おそらく不可能に近いでしょう。
 しかし、もともとあまりお金のない、質素な生活をしている人は、比較的、お金に対する執着は少ないのです。なぜなら、執着が強いと苦しいので、自然と執着を捨てて質素な生活をするように、ある種の鍛錬が為されていることが多いからです。こういう人は、今後、さらに執着を捨てることも、比較的容易にできるようになるのです。

 ですから、世間では、「お金持ちは幸せな人」と思うかもしれませんが、必ずしもそうとは言えないのです。霊的な領域の、あまりにもすばらしい永遠の至福に比べたら、この物質世界の幸せなど、ゴミのようなものです。ゴミに埋もれて、それよりはるかにすばらしい宝物を、みすみす逃している残念な人たち、それが金持ちと呼ばれる人たちなのです。
 一方、あまり豊かでない、質素な生活を送っている人は、お金に対する執着を、お金持ちよりは捨てやすいので、死後、すばらしい至福を得られるチャンスを持っているのです。つまり、天国に行くという、すばらしい幸運が待っているわけです。

 こういうことを言うと「現実逃避だ」と言う人がいます。「天国なんて弱者が作り出した想像の産物に過ぎない。そんなものはない。あるのはこの地上の現実だけだ。だから、この地上の現実で“勝ち組”になるべく、一生懸命にがんばるしかないのだ」と。
 そう思って生きたい人は、そうすればいいと思います。いろいろな考え方、いろいろな生き方があっていいのです。しかし、彼らの言い分からすれば、釈迦もイエスも「現実逃避した弱者だ」ということになります。
 しかし、そんな「現実逃避した弱者」が、あれほどの深遠な教理、あれほどの崇高な教えを残すことができるでしょうか。
 私にはとうていそうは思えないのです。

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地上人生の目的 ③


 物質的なものについては、最低限の衣食住と、健康を維持できるほどのお金、老後に人に迷惑をかけない程度のお金があれば十分なのです。言い換えれば、快楽や見栄のための贅沢なものは必要ありません。すべての人が質素な生活をすれば、環境破壊なども起こりません。過剰な欲望を満たそうとするために、空気や水を汚し、森林を破壊して、しだいに地球を住めない星にしようとしているのです。また、節度ある生活に満足しているなら、戦争も起こらないでしょう。

 ところが、人間は欲が深く、とどまるところを知りません。「もっと!もっと!」と、きりがないのです。ある種の「中毒」のような状態になっているわけです。タバコや酒と同じです。最初は少量だったのが、しだいに量が増えて、ついには健康を害するまでになるのです。
 そうすると、タバコや酒を止めようという人が出てきます。世の中には禁煙や断酒に挑んでいる人がたくさんいます。それはなぜでしょうか? それは、タバコや酒がもたらす喜びよりも、健康である喜びの方が大きいからでしょう。だから、タバコや酒を止めようとするのです。

 同じように、聖者と呼ばれる人は、物質的な喜びよりもはるかにすばらしい喜びを、垣間見たのです。それは霊的な喜びです。その経験をした人は、「たとえ地上のすべての富を得られるとしても、この霊的な喜びと交換するつもりはない」とさえ言っています。
 つまり、ある快楽を放棄しようという動機を持つには、それよりはるかに高い快楽を知ることが必要なのです。
 この地上で一生懸命に高潔な人格をめざしてがんばった人が、死後に待っているのは、そうした限りない「永遠の至福」であるというのが、神秘主義の聖者たちが異口同音に説いていることです。だから彼らは物質的なことに関して、自然と禁欲的になり、生活は質素に(しばしば貧しく)なるのです。
 この地上でちょっと我慢すれば、その後、永遠に至福が得られると思ったら、この地上でいかに多くの苦難を味わったとしても、たいしたことはない、それどころか、その永遠の至福を得るに値するには、もっと苦しんでもいいくらいだ、とさえ思えるらしいのです。
 
 しかし、普通の人は、霊的なことは知覚できません。苦難を通して人格を向上させれば、死後に永遠の至福が得られると言われても、雲をつかむような感じで、ほとんどの人は信用できません。聖者たちが垣間見たという至福の喜びは、単に脳内麻薬が分泌された結果として経験した幻想に違いない、と思ったりもします。科学者と呼ばれる人たちは、おそらくそう解釈しているでしょう。
 果たして、聖者たちが口にする死後の「永遠の至福」は、単なる幻想なのでしょうか?
 そもそも「死後の生」だとか「死後の世界」などというものはなく、人は死んだら「無」になるのでしょうか?

 結論から言えば、それは証明しようがありません。つまり、わからないのです。
 私としては、仮に死後の生などというものは存在せず、まったくの無になるのだとしても、それはそれでけっこうなことだと思っています。喜びは味わえないでしょうが、苦しみも味わうことがないわけで、つまり、何も感じなくなるということですから。死後に悪いところに落ちて苦しむとか、再び地上に生まれ変わって苦しむといった心配も必要なくなります。これはこれで大変にめでたいことではないでしょうか。

 問題は、死後の世界、死後の生があった場合です。その場合、おそらく聖者たちの教説は正しいと思われます。つまり、この地上で悪いことをした人、人格向上に努めなかった人は、死後、霊界でかなり苦しむことになる、反対に、善いことをした人、人格の向上に努めて高潔な人格になった人は、死後、永遠の至福の領域に入るということです。もし死後の世界があるとしたら、このことはおそらく間違いないでしょう。

 なので、どちらを信じてこの地上を生きるかということは、ある種の大きな「賭け」であると言えるかもしれません。
 もしも、死後の生などというものはなく、人は死んだら無になるのだと思うなら、この地上の快楽を味わいたいだけ味わう生きかたをすればいいでしょう。そのためには人を苦しめたりだましたりしてもいいでしょう。人を苦しめても、バレなければ罰を受けることはないからです。そのへんをうまくやれば、この世の富や名声をできるだけ得て、人よりも多く快楽を味わった人が、いわゆる人生の成功者ということになります。
 しかし、もしも死後の生が存在していて、死後にそのことを知ったら、そのときは、想像も絶する恐ろしいことが待ち受けていることなります。どんなに後悔してもしきれないほど長い時間を壮絶な苦しみを味わって過ごすことになるのです。

 一方、死後の生を信じて、死後の永遠の至福を得るために、贅沢はせず、清く正しく、世のため人のために生き、過去の悪しきカルマを浄化して人格を磨くために、ありとあらゆる不運や苦難も受け入れて耐える一生を送ったとします。物質的な快楽はなるべく避けた質素な生活、苦労の連続の一生です。つまり、この世(物質世界)の価値観からすれば、外面的には恵まれない不幸な一生を送ったとします(内面的には幸せであることもあるのですが)。
それで、死後の世界などはなく、死後、まったく無になったとしても、すでに述べたように、それはそれでけっこうなことですし、もし死後の世界が存在していたら、永遠の至福が待っているのです。
 つまり、どちらにしても、よいことが待っている、ということになります。

 だから、私は後者の生きかたの方が、リスク管理という点からしても最善の選択だと思うのですが、世の中には物欲や虚栄心が強くて、質素な生活などとてもできない、そんな生活は苦しみで耐えられない、という人が少なくないわけです。
 一方、質素な生きかた、名誉も富にも関心なく、自分を磨いて、なるべく世のため人のために何かできることはする、といった生きかたに、それほど苦痛を感じない人もいます。苦痛を感じないどころか、喜びを感じる人もいるでしょう。こういう人は少ないかもしれませんが、一定数、いることはいるのです。
 私はそういう人こそ、この地上における「本当に幸せな人」であると言いたいのです。たとえ今は苦しかったとしても、未来は必ず明るいからです。光に向かって歩んでいる人たちだからです。

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地上人生の目的 ②

 まずはご報告とお知らせから
 今月のイデア ライフ アカデミーは、前回に引き続きシュタイナーの瞑想法について紹介しました。目的は霊能力の開発ですが、それは同時に、人格向上のための、きわめて貴重な教えの宝庫でもあります。ぜひダイジェスト版をご覧ください。
●瞑想教室第26回「シュタイナーの瞑想法2」
なお、来月(9月17/18)の授業は、社会心理学者エーリッヒ・フロムを取り上げます。現代人を悩ませる自由と孤独について、また真の愛とは何かについて紹介していく予定です。参加ご希望の方は以下まで。
斉藤啓一のホームページ

 では、本題に入ります。
 前回は、地上に生きる目的は「人格を高潔にする修行」のためであり、それが真の幸福への道であること、真の幸福とは、死後、高い霊的次元に移行することであると述べました。地上とは、予備校のようなもの、あるいはトレーニングジムのようなもので、重いバーベルを持ち上げて負荷をかけなければ筋力はつかないように、この地上で、さまざまな苦しみを経験することで魂は鍛えられ、高潔な人格が形成されることを説明しました。
 ところが、この世の成功や名声や物質的な豊かさといった、むなしくはかない、つまらないものを、必死になって求めているのが、たいていの人たちであること、しかし、とはいえ、そういう人は、ある意味、それでいいのだと、そこまで説明しました。

 今回は、いったいなぜ、むなしくはかないこの世の成功や名声や物質的豊かさを追い求めている人は、ある意味で、それでいいのかという説明をしたいと思います。
 結論から言えば、それも長い眼で見れば「修行」だからです。
 成功や名声や豊かさといったものは、それを手に入れるまではすばらしいものだと誰もが憧れますが、いざ手にしてしまえば、幸せを感じるのはしばしの間だけで、みるみると感激が薄れてきます。すると、人間の欲にはきりがありませんから、「もっとすばらしい成功、もっとすばらしい名声、もっと豊かな生活」となります。そのために必死に働きますが、人生いつもうまくいくとは限りません。失敗することもあります。人間は、一度味わった贅沢や生活水準を下げることには、非常な苦痛を覚えるものです。しかしどうしてもそうせざるを得ない状況に追い込まれることもあります。そうして、嫌と言うほど辛酸をなめて、ようやくこの世の成功や名声や豊かさのはかなくむなしいことを悟るのです。
 そうして、人間の真の幸せとは何かということを深く真剣に考え、その結果、この物質世界を超えた霊的次元に、その可能性を見出そうとするのです。しかしそうなるのは、今生ではなく来世かもしれません。しかし、骨身に染みて物質的な快楽を追い求めることに嫌気がさした人(魂)は、修行の取り組み方が違います。ものすごく真剣になります。その結果、非常に早い進歩を遂げるのです。

 一方、そこまで地上的な世界に嫌悪せず、なんとなく霊的な事柄が好きだという程度の、いわば中途半端な人は、霊的な教えを学んでも、深く学ぼうとしませんし、真剣さが足りません。ですから、せいぜい霊的な知識が豊富になるだけで、高潔な魂を育成するまでには至らないことが多いのです。そうして、生まれ変わって来世になっても、やはり中途半端となり、霊的探求は単なる趣味程度になって、また来世に……というように、いつまでもずるずると先延ばししてしまいます。

 以上のような理由から、中途半端に霊的な知識をもてあそぶ人よりも、そういったことにはまったく無関心で、この世の成功や名声や豊かさを貪欲に求めた人の方が、結果として早く高潔な魂を実現させ、真の幸せをつかむようになる可能性も否定できないと思っているのです。
 ですから、霊的なことをまったく否定し馬鹿にして、この世の富や名声に執着し追い求めている人を見ても、私は特になんとも思わないのです。「急がば回れ」という言葉があるように、今はそのように生きることが、その人にとっては最善かもしれないからです。

 それともうひとつの理由は、この世の成功や名声や富を手に入れるために必死になって、仮にそれが実現されたなら、それはこの世の物質的繁栄に貢献したことになるということです。
 霊的な道を歩む人の中には、物質的なものを追い求めている人を軽蔑するふしが見られたりしますが、それは間違いです。霊的な道を歩むにしても、ある程度は物質的に恵まれていなければできません。寝るところも、食べるものも、着るものもない、というのでは、修行どころではありません。学ぶためにどこかに行くとしても交通費がかかります。むかしは歩いていくより他はありませんでした。物質的なものを追い求めてくれた人のおかげで、電車やクルマや飛行機が発明され、私たちは時間を節約して遠い場所に行くことができるようになりました。最近ではインターネットを通して地球上どこにいても(電波が届く範囲なら)、リアルタイムで霊的な教えを学ぶことすらできるようになりました。こうした恩恵にあずかることができるのも、物質を追い求めてくれた人のおかげなのです。ですから、物質的なものを軽蔑したり、物質的なものに執着する人を軽蔑したりしてはいけないのです。

 とはいえ、それでもこの物質的な世界における幸せというものは、非常にレベルが低いということも確かなのです。そのことに気づかないのは、高い霊的次元の幸せを知らないからです。人間は、比較するものがないと、どうしてもそのものの価値を知ることができません。高い霊的次元のすばらしい至福を少しでもかいまみたら、物質的な幸せなど、いっきに色あせます。ゴミのようなものだとさえ思うでしょう。それを知っている人たちが、いわゆる聖者と呼ばれる人たちなのです。釈迦やキリスト、その他、大勢の聖者が異口同音に同じことを説いています。
 それとも、彼らは単なる狂人で、単なる幻想を見ただけなのでしょうか? 脳内麻薬物質が何らかの原因で過剰に分泌されただけなのでしょうか? 本当に霊的次元に至福の世界など存在するのでしょうか?
 この点については、次回、とりあげたいと思います。

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地上人生の目的 ①

 今回は、あらためて人生に対する私の基本的な考え方を紹介させていただきます。これは同時に、私が主催するイデア ライフ アカデミーの考え方、理念でもあります。
 まず、地上人生は何のためにあるのか、言い換えれば、生きる目的は何かと言えば、「人格を高潔にする修行」のためです。なぜ人格を高潔にする必要があるのかと言えば、真の幸福をつかむためです。真の幸福とは、死後、高い霊的次元に移行することです。
 高い霊的次元に行くには、人格を向上させ高潔にならなければなりません。なぜなら、霊的な世界は「類は友を呼ぶ」世界であり、高潔な魂は高潔な魂どうし、下劣な魂は下劣な魂どうしが集まる世界だからです。下劣な魂たちが集まっている世界に、真の幸福はあるでしょうか。そこはだましあいの世界であり、人を傷つけても自分の利益を追求する世界であり、羨望、妬み、憎しみ、争い、足の引っ張り合いの世界です。そんな世界に真の幸福があるわけはありません。しかし、高潔な魂だけが住む世界は、愛と誠実さで結び合っているはずであり、真の幸福があるとすれば、そこにこそあるでしょう。

 地上世界は、高潔な魂も下劣な魂も、混ぜ合わさっています。しばしば、高潔な魂が苦しめられることもある理不尽な世界です。正義や愛というものは、まれに花火のようにちらりと見られることもありますが、基本的には悪や利己主義がはびこる世界であり、悲惨なことが平気で起こる世界です。つまり、はっきり申し上げれば、この地上世界に真の幸せは存在しないのです。

 こうした、ある種の厭世的なことを話しますと、少なからず反感を覚える人もいます。しかし、私は決して自分の考え方を人に押し付けることはしません。私と考え方が違うからといって、その人を軽蔑したり反感を抱くこともありません。
 なぜかというと、私の考え方が間違っているかもしれないからです。私の考え方は科学的に証明されたわけではなく、あくまでも私の、ある種の確信といいますか、信念にすぎません。たとえいくら自分では正しいと思っていたとしても、つまり確信していたとしても、しょせんは「信」、つまり「信じる」ということが土台にあるわけで、信じるということには必ず間違う可能性があるからです。

 私がやっていることは、いわゆる宗教ではないので、私の考えを信じなさいとは言いません。しかし、自分の頭で理性的によく考えていただきたいとは思います。
 たとえば、「(地上の)人生は悲惨である」という私の考えについて、(私が考えたように)こう考えていただきたいのです。
 まず「地上には悲惨な人生を送っている人は存在するかしないか」と。そうしたら、ほとんどの人は「存在する」と答えるでしょう。これはあきらかな「事実」と言えるでしょう。
 では、「その悲惨な人生が、自分に訪れないという保証はあるか」と考えてみてください。そうしたら、やはりほとんどの人は「そんな保障はない」と答えると思います。これも「事実」と言えるでしょう。
 つまり、私たちはいつ、悲惨な人生を送らなければならないか、わからないということになるのです。私たちは、きわめて不安定な、きわどく危なっかしい人生を送っていることになるのです。これも事実ではないでしょうか。今までは、たまたま運よく悲惨なことが起こらなかっただけで、いつ悲惨な状態に叩き落されるか、誰にもわからないのです。それは明日にも訪れるかもしれないのです。
 もちろん、個人差はあります。一生を悲惨なくして平穏無事に、なかには幸運に恵まれて終える人もいるでしょう。しかし、誰もが悲惨な状況になる可能性があるという事実をもとに、人生というものを一般的に定義するならば、「人生は悲惨である」ということになるわけです。悲惨というものが、誰の人生であれ存在するからです。あなたの人生が悲惨になるかどうかはわかりません。しかし、「悲惨になる可能性がある」ことだけは確かです。これは事実でしょう。

 そのような世界で、真の幸福というものを追い求めることができるでしょうか。一時的に幸福を覚える経験はするでしょうが、ほとんどそれは長く続きません。長く続いたとしても、最終的には病気や老化、そして死によってすべては失われてしまいます。地上の人生というのはきわめてはかないものなのです。なぜなら、地上の人生は物質の人生であり、物質は無常であり、はかないからです。そもそも肉体(という物質)を持っているというだけで悲惨です。若い頃は健康で美しくても、歳を取れば健康は失われ醜くなってきます。肉体があるから、私たちはその肉体の住む家、肉体を養う食、肉体にまとう衣服をどうにかしなければなりません。そのためにあくせく働かなければなりません。そして簡単に健康は失われ病気になります。そのたびに痛みや苦しみ、不自由さに見舞われます。さらにそれを治療するためにお金がかかります。
 また、生まれつき、あるいは人生の途上で著しく肉体機能が失われる、つまり、障碍者になる可能性もあります。障碍者が必ずしも不幸だとは申し上げませんが、あなたは障碍者になりたいでしょうか? 誰も望む人はいないでしょう。しかし、その望まないことが平気で起こるのが、この地上人生なのです。もし肉体をもたずに存在できるとしたらどうでしょうか。以上のような煩わしさからいっぺんに解放されるのです。
 人生の苦労の大半は、肉体があるゆえに起こっています。肉体を持たないというだけで、どれほど救われることでしょうか。逆に言えば、肉体を持っているというだけで、すでに苦しみであり、悲惨なのです。

 では、そんな地上の人生に、私たちは何のために生きているのでしょうか?
 それは、人格を向上させて高潔になって、死後に真の幸せを得るための「修行」のために生きているのです。私たちは、この地上人生に、幸福になるために来たのではなく、修行のために来たのです。たとえるなら、地上とは、大学(真の幸福が存在する高い霊的世界)へ行くための「予備校」のようなものです。予備校に遊びに行く人はいないでしょう。予備校は勉強するところです。もちろん大学も勉強するところですが、大学では好きな勉強ができますから幸せです。しかし予備校では、受験のために、嫌いな勉強もしなければなりません。それはとても辛いものです。しかしそれは大学へ行くために必要な勉強なのです。

 人生も同じです。嫌いな勉強もしなければならないのです。だから修行なのです。修行は遊びではありません。修行は辛いものです。自分の悪しきところを改善することは、基本的に辛いものだからです。辛いから修行になるのです。
 この地上人生は、辛いことに満ちています。しかし、これでいいのです。だからこそ修行になるからです。ここは予備校であり、トレーニングジムなのです。ジムに行って鍛えるには、重いバーベルを持ち上げて負荷をかけなければなりません。そうしなければ筋力はつきません。重いバーベルを持ち上げているときは、ある種の辛さ、苦しみを感じているでしょう。しかしこれで筋肉がついてマッチョな格好いい肉体になれると思っているから、その辛さに耐えていけるわけです。負荷をかけなければマッチョにはなれません。

 人生も同じです。辛さ、苦しみという負荷を、あえて自分に課さなければ、高潔な人間になることはできないのです。つまり、真の幸せを得ることはできないのです。繰り返しますが、私たちは修行するために地上に生まれてきたのです。ですから、辛いことや苦しみが訪れることは、当然なのであり、決して悪いことではないのです。むしろよいことなのです。ある意味、苦しむために生まれてきたのです。
 もちろん、マゾヒスティックにやたらに苦しみを求めるべきだと言っているのではありません。ただ、人格を向上させ、高潔になろうとすると、自然と辛いことや苦しいことがやってくるようになります。それを受けて立つ勇気と、じっと耐え抜く忍耐が大切になってきます。勇気と忍耐こそは、真の救い、真の幸福に至る上での貴重な資質であり、こう言ってよければ、貴重な「才能」なのです。

 ところが、以上のような(私がそうだと信じる)真実に気づかず、この世の、いわゆる成功や名声や物質的な豊かさだけを追求している人がほとんどです。これでは、予備校に遊びに行っているようなものです。この世の成功、名声、物質的豊かさに比べたら、はるかにすばらしい真の幸福が存在するというのに、それに気づかず、むなしくはかない、つまらないものを、必死になって求めているのが、たいていの人たちなのです。
 とはいえ、そういう人は、ある意味、それでいいのです。
 その理由については次回、述べさせていただきます。

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イエスと共に死ぬ

 まずはご報告とお知らせから。 
 今月のイデア ライフ アカデミー哲学教室は、「良寛に学ぶ」というテーマで行いました。越後の禅僧だった良寛の、天真爛漫で清らかな生き方、しかし厳しい修行に打ち込んだその姿を紹介しました。霊性を向上させるには、お手本となるような人を見習うのが一番です。その意味でも良寛は、私たち日本人にとってすばらしいお手本になると思います。ぜひダイジェスト版をご覧ください。
動画視聴→
 来月の瞑想教室は「シュタイナーの瞑想法」というテーマで行います。
参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」より

 では、本題にはいります。
 私はキリスト教徒ではありませんし、いかなる宗教の信者でもありませんが、釈迦やイエスは心から敬愛しており、とりわけイエスに関しては強い思い入れがあります。
 そして、ときどき想像するのですが、もし私がイエスの弟子の一人であったとしたら、果たしてイエスと一緒に十字架を背負って共に死ねたかどうか、そんなことを考えることがあるのです。
 ご存知のように、イエスは自分が十字架にかけられることを弟子たちに予言しました。すると弟子たち、なかでもペテロは「たとえあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言いました。しかしイエスは「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と言い、実際、その通りになってしまいました。ペテロは深く自分を恥じて悔いました。

 イエスはそうして、弟子からも見捨てられ、人々からは罵詈雑言を浴びせられながら、ひとり十字架を背負ってゴルゴダの丘をのぼっていったのです。
 もちろん、キリスト教神学的に言えば、こうしたことすべては神によって計画されており、すべてはこれでよかったという解釈ができるのですが、その当時の弟子たちにとっては、そこまではわかりません。何とかしてイエスを助けられたのではないか、せめて、自分もイエスと一緒に十字架にかかって死ぬべきではなかったのかという思いに悩んだことでしょう。

 さて、もし私が十二人の弟子のひとりだったら、どうしていただろう?
 十字架にかけられて死ぬのは怖い、いやだ、という思いがあると同時に、イエスという偉大な存在と一緒に死ねたら、それほど光栄なことはない、という思いもあるわけです。誰だって死ぬのは怖いですし、しかも十字架にかけられて死ぬのはそうとう苦しいでしょうから、ペテロが「イエスなんて知らない、自分はイエスの弟子なんかではない」と言ってしまったのも、無理はなかったと思います。
 しかし、そう思う反面で、ひとりくらいはイエスと一緒に死ぬ覚悟をもった弟子がいてもよかったのではないかという、ある種の「はがゆさ」を感じたりもするのです。
 もし私がそのときイエスの弟子だったら、イエスと一緒に死ねる勇気があったと信じたいです。

 ところで、イエスはこう言いました。「私と一緒についてきたいなら、自分を捨て、自分の十字架を背負ってきなさい」と。この「十字架」というのは、自分が引き受けなければならない苦難のことをさしています。つまり、イエスと同じ生き方をするということです。そして、イエスへの愛があれば、このようにイエスをまねることは、苦しみではなく喜びとなる、少なくとも喜ぶようにする、これが、キリスト教徒の生き方です。愛するイエスのためなら、いかなる苦難にも耐えられ、むしろそれを喜びとし、死んでもかまわない、ということです。これがまさに信仰というものでしょう。

 愛する者のためなら、いかなる苦難をも引き受け、死んでもかまわないという、そんな「愛する存在」がいる人は、幸せです。
 この地上世界は、悲惨と苦しみの世界です。そう思わない人は、たまたま運よく恵まれた人生を送ってきた人であって、広く世界を見渡すなら、壮絶な苦難に見舞われている人がたくさんいます。いつ自分がそんな苦難に見舞われるか、わからないのです。個人差はあるでしょうが、この地上に生きている限り、悩み、悲惨、苦難は避けられません。ですから、苦難をいかに耐え忍ぶか、その力と言いますか、耐性をいかに養うか、ということが重要になってくるのです。苦難に対する耐性がないと、自暴自棄になってますます苦難に落ちてしまったり、悪いことをするといったことになりかねません。

 苦難はしばしば嵐のように凶暴であり、それに耐えるには相当な力が求められます。落ちてくる重い壁を必死に支えるような感覚です。しかも苦しいときは、その状態がいつまでも続くように思われ、絶望的になり、その絶望感が、耐える力をそいでしまいます。
 どうしても避けられない苦難の場合、それから逃れようとすればするほど、あり地獄のように、ますます深みにはまってしまいます。ですから、じっと耐え忍ぶのが一番なのです。たいていの苦難は、じっと耐え忍んでいれば、いずれ去っていきます。
 しかし、その「じっと耐え忍ぶ」ことが難しいわけです。それには、苦難に対して肯定的な意味や価値を見出さないと、難しいと思います。つまり、「苦難はよいことだ」と思えるような考え方を身に着けるのです。それにはいろいろあるかと思いますが、「愛」に関係したものがもっとも強力でしょう。なぜなら、愛の力は苦難の力よりも強いからです。
 その意味で、キリスト教徒であろうとなかろうと、イエスへの強い愛を持ち、イエスにならいたいという情熱を持っている人は、幸せです。自分が十字架(苦難)を背負うということは、イエスに従い、イエスについていく、ということになるからです。つまり、苦難に意味が出てくるわけです。そうして、苦難をじっと耐え忍ぶための、大きな力が生まれてくるでしょう。この過酷な人生を生き抜くにあたって、そんな忍耐の力を持つことは、とてつもない貴重な宝を得たのと同じ価値があるのです。

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