心の治癒と魂の覚醒

        

追悼 日野原重明先生

 本日、聖路加国際病院の現役医師として活躍してこられた日野原重明先生が、105歳でお亡くなりになりました。心よりご冥福をお祈りしたいと思います。
 日野原先生には、私の本『ブーバーに学ぶ』(日本教文社)の帯に推薦文を書いていただいたご縁で、一度お会いしたことがあります。
 推薦文を誰か有名人に頼む場合、普通は著者か出版社にコネがないと、なかなか難しいとされています。いきなり頼んでも無視されるか断られるかされることが多いようです。
 しかし私は、日野原先生がブーバーを尊敬されており、ときどき著書や講演などでブーバーに言及されておられたのを知っていたので、日本では知名度の低いこの偉大な哲学者を知っていただくには、日野原先生ほどの適任者はいないと思い、ダメでもともと、日野原先生に手紙を書きました。
 すると、すぐに、先生から快諾のご返事をいただいたのです。私も編集者もびっくりしました。私など、どこの馬の骨かわからないもの書きに過ぎず、日野原先生ほどの名声と知名度のある人から相手にされるような存在ではないのですが、先生はそのようなことにこだわらず、推薦文を書いてくださったのです(ちなみに、その推薦文に対して出版社が支払った報酬はたったの5万円でした。もちろん、先生はお金だとか、そういうことのために推薦文を書いてくださろうとしたわけではなく、尊敬するブーバーの本ということで書いてくださったのですが)。
 そこでさっそく、本のゲラを先生にお送りして推薦文を頼みました。
 普通、そのようにして有名人に推薦文を頼んでも、いつまでもダラダラと待たされることが多いようなのですが、日野原先生は、すぐに推薦文を書いて送ってくださったのです。これにはまたびっくりしました。
 そして、まもなくして、何と、私の携帯電話に、日野原先生から電話があったのです。そして次のようにおっしゃってくださったのです。
 「このたびはすばらしい本を執筆してくださり、ありがとうございました」
 私はびっくりするやら、恐縮するやら、有り難いやらで、胸がいっぱいになりました。何ていう細かい気遣いのある、そして謙虚な方なのかと思いました。
 私は今まで、何人かの一流の人と会ったことがあります。
 彼らのほとんどは例外なく、謙虚でした。謙虚というか、自然体なのです。偉ぶることもなく、虚栄といったものがありません。一方、そこそこ成功して有名な人という人は、けっこう傲慢な人が多いです。二流は傲慢、一流は謙虚です。中途半端な人は傲慢、本物は謙虚と言ってもいいでしょう。これは、おそらく真理です。
 そして、本ができたので、お礼と本を贈呈するために、編集者と一緒に聖路加国際病院の日野原先生の部屋に伺いました。机の上には、執筆中と思われる原稿やら資料などがたくさん置かれていました。
 先生は、私たちを快く迎えてくださいましたが、そのときも先生は自然体でした。すなわち、客をもてなすような過剰な慇懃さはなく、かといって、そっけなく対応するというのでもなく、まるでむかしから知っている間柄のような感じで、素朴な感じで迎えてくださったのです。
 そして、先生に本を差し上げました。こういう場合、たいてい社交儀礼的に(リップサービス的に)本を褒めてくれて、それでおしまいということが多いのですが、日野原先生は違っていました。「どうしたらこの本がたくさん売れるだろうね」と言って、その具体的な方法を提案してくださったのです。そうして、もっと表紙はこうした方がいいのではないか、といったアドバイスをしてくださいました。
 さらには「私が代表を務める学会の雑誌にこの本を推薦図書として紹介しておきます」と言ってくださいました。そしてその通り、後日、その学会の雑誌に私の本が推薦図書として掲載されました。またしてもびっくりです。
 日野原先生は、単なる口先だけではなく、本当にその人に必要な援助とは何かを考え、そうして親身になってアドバイスしてくださる方なのだと思い、今までそのような人は知らなかったので、びっくりしました。
 こういう感じで、日野原先生にはたくさんびっくりさせられましたが、その人間的な温かさ、誠実さ、そして実践的な知性には、深い感銘を受けました。

 日野原先生ご自身はキリスト教徒だったようですが、ユダヤ教の哲学者ブーバーを敬愛しておられました。普通は、いくら偉人であっても異教徒を尊敬するというのは抵抗があると思うのですが、日野原先生にはそのようなこだわりがなかったようです。しかしだからこそ、先生は真の宗教者でもあったのだと、私は思っています。
 先生は「人生に余生はない。死ぬまで現役だ」とおっしゃっておられました。そして、「自分は生かされているのだ。その生かされている命を、今度は恩返しとして人のために役立てたい」とおっしゃっていました。その言葉通り、生涯、現役で人々のために尽くされました。医師として、キリスト教徒(宗教者)として、そして何よりも人間として、私たちにお手本を示してくださいました。

 以上、私が経験した日野原先生のエピソードをご紹介させていただきました。
 私は、わずかな時間でしたが、日野原先生とお会いできたことを、大変な幸運であると思っています。なぜなら、数千万の本を読むよりも、たった一人のお手本となる人物と出会う方が、はるかにすばらしい影響を与えてくれるからです。
 私も日野原先生を見習って、人々のお手本となれるような人間になりたいと思いました。

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エゴ(煩悩)を原動力としない

 本題に入るまえにひとこと。
 私の体調不良を気遣って、励ましやアドバイスや情報といった無形のものをくださったり、あるいは有形のものをくださる方がおられます。ありがたいことです。先日も匿名の方から、素敵なものを送っていただきました。この場を借りて心よりお礼申し上げます。
こうした方々は、二重の意味で私を支えてくださいます。ひとつは文字通り、その無形有形のものであり、もうひとつは、何の利益にもならないのに、貴重な時間や労力やお金を使ってこうしたことをしてくださるという、その行為そのものです。
 つまり、「世の中にはこんなにも親切な人、優しい人が存在しているんだ」という、そんな思いが、私に希望を与え、支えてくださるのです。人間を信用できるというか、そういう思いですね。それが私におおいなる力を与えてくれるのです。心から感謝です。

 さて、では、本題に移ります。
 むかし、NHKで面白い番組をやっていました。
 それは、高僧と呼ばれる人が座禅をしているときの脳波を測定するというもので、どの人もアルファ波という、きわめて落ち着いた心境を示す脳波を示していました。ここまでは、よく聞く話で意外なことではないのですが、ここからが番組の面白いところなのですが、座禅をしている高僧の前に、いきなり蛇を目の前に投げ込んだり、水着姿の美女を歩かせたりしたのです。そして、脳波がどうなるかを実験してみたのです。
 すると、どうなったと思いますか?
 脳波は少しも乱れなかったと思われますか?
 実験では、蛇が目の前に投げ込まれたり、水着姿の美女が通ったとき、脳波が乱れたのです。これは修行をしていない人も同じでした。修行をしていない人でも、しばらく座禅をすると、アルファ波の脳波になります。そして、目の前に蛇や美女を見ると脳波が乱れアルファ波が破られてしまうのです。
 ところが、高僧はすぐにアルファ波が回復しました。脳波が乱れたのは一瞬だけでした。それに対して、修行をしていない普通の人は、長いあいだ脳波が乱れたままだったのです。
 脳波がイコール悟りの境地を示すとは考えられませんが、端的な状態を示していることは確かではないかと思います。
 つまり、悟りを開いた人でも、何か異変が起きれば、凡人と同じように驚いたり心が乱れたりするようなのです。ところが、それは一瞬のことで、次の瞬間には静謐な境地に戻っているわけです。
 悟りを開いたからといって、何が起きてもまったく動揺しないというわけではないようです。もしそうだとしたら、単に鈍感で神経系統が麻痺しているとしか思えません。人間としての感動といったものも、感じないということでしょう。悲しいことがあれば悲しみを感じるでしょうし、悪口を言われれば不愉快に思うでしょう。喜怒哀楽は普通の人と同じように感じるはずです。しかし、それは非常に短い時間なのです。
 悟った人は、その気持ちを引きずらないのです。否定的な感情をいつまでも心のなかに保つことはないようです。そのために、とらわれがないというか、あっさりしているというか、飄々としている、ときにはクールに見えるようです。
 悟ったからといって、人間的な感情をもたない、ロボットのような人間になることではないわけです。むしろ、ある意味では、とても人間味があったりします。
 けれども、感情に振り回されて、取り乱すということはしないわけです。このへんはとても微妙だと思うのですが、この微妙な違いが、覚者と凡人の大きな違いということになるようです。人間的でありながらきわめて冷静。冷静でありながらあたたかいハートを持っている。ある意味、こうした矛盾したものを持っているのが、おそらく覚者だと思います。
 いずれにしろ、私が出会ったなかでは、ヒステリックに感情的になったり、怒り狂ったり、泣きわめいたりする人で、霊性が高いと感じた人はひとりもいません。弟子に対して、「叱る」ことはあっても「怒る」ことはしません。必要に応じて「活を入れる」ために、ピシャリと刺激を与えることはしますが、粗暴になることはありません。
 その人がどのくらい悟っているか、霊性が高いかを調べたければ、その人を怒らせるような言動をしてみるのが、一番早いかもしれません。そのとき、怒りで取り乱したり、粗暴な言動で返すようであれば、まずその人は悟っているとは言えません(ただ、実際にこのような形で相手を試すのはお勧めしません。参考程度に思ってください)。
ネガティブな感情のことを、仏教では「煩悩」と言っています。怒り、おごり、無知というのが三大煩悩とされていますが、やはり怒るというのは、煩悩にとらわれている証拠であって、つまりは、それだけ悟りから遠いということになるわけです。また、おごることも煩悩ですから、おごり高ぶる人は、やはり悟りから遠いとも言えるわけです。だから、悟っている人は謙虚です。それも、わざとらしい謙虚さではなく、むしろ自然体とも言うべき謙虚さがあります。

 このように、一般的に覚者は、感情的になることなく、執着もないので、淡々としているというか、飄々としている傾向があり、謙虚で飾らないので、いわゆる世間的な感覚でいう「いかにも偉そう」という感じには見えないことが多いように思います。一見すると、ごく平凡に見えるかもしれません。そのために、ときには馬鹿にされたり、なめられたりすることもあるかもしれません。とかく世の中は、表面的な虚像だけで人を判断することが多いものですから。たとえばイエスなどは、大衆から「あいつは単なる大工の息子にすぎないじゃないか」(当時、大工はどちらかというと卑しい職業と見なされていた)などと馬鹿にされていました。
 そうした世間の虚像に目をくらませられることなく、本質を見抜く目を持った人だけが、覚者の非凡さを理解することができるわけです。
 覚醒していない人はエゴ(煩悩)によって支配されています。エゴは常に「他の人より偉くなりたい(見せたい)」、「ひとかどの人間になって人々から賞賛されたい」という欲望を持っています。そのエゴを満たすために、権力を欲しがったりお金持ちになろうとしたり、有名になろうとするわけです。それが物質的な世界で発揮されるのならまだしも、宗教的な世界で発揮されると偽善的になります。つまり、エゴゆえに教祖になったような人たちです。
 教祖になろうと思って教祖になった人というのは、絶対とは言いませんが、たいていはニセモノだと思います。それはエゴを原動力としているからです。
 しかし、真の教祖になる人というのは、教祖になることが目的ではなく、人を助けることが目的で一生懸命に努力していたら、いつのまにか教祖になっていた、という人ではないかと思います。この場合の原動力は愛です。エゴではありません。エゴではなく、愛を原動力として、教祖なり、何らかの指導者になった人こそが、本物であると思うのです。
 エゴを原動力として活動した場合、確かに権力やお金を手にしたり、有名になりやすいといえるでしょう。なぜなら、この世はエゴが支配しているからです。しかし、エゴを原動力として活動しても、真の幸せを得られるとは限りません。というより、それは難しいと思います。なぜなら、私たちの本質(魂)は、愛が得られたときにこそ幸せを感じるようにできているからです。エゴと愛は同居できません。エゴがあるとき愛はなく、愛があるときエゴはありません。
 したがって、この世的な虚栄ではなく、本当の幸せをつかむためには、言い換えれば、真に霊性を高め、覚者になるには、エゴではなく、愛を原動力として、日々努力していくべきではないかと思うのです。


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読者からのコメントと私の基本的な考え方

 「管理者だけがコメントを見れる」という入り口から次のような内容のコメントをいただきましたので、この場を借りて私の弁明と、私の基本的なスタンスについて話したいと思います。
 送られてきたコメントを一言でまとめると次のようです。
「斉藤さんからは、聖人に対するひがみの拡大解釈に基づく執拗なまでの聖人への怒りと嫉妬のような妄想がある」とあり、最後は「正直も過ぎれば災いのもとになることを、気づかれますように」と結んでいます。

 私の文章の書き方に問題があったのかもしれませんが、この方は私の書いた文章を完全に誤解しています。よく読んでいただければわかると思いますが、私は聖人・覚者の悪口を言いたかったのではなく、彼らほど人間的に完成された人がなぜ苦しみを味わうのかという、その疑問をぶつけただけです。実際、たとえばマザーテレサについても、過去のブログを読んでいただければわかるように、私は彼女の苦しみについて肯定的な意味づけをしていますし、今回もプロティノスに対しても、彼の苦しみは彼自身が悪いわけではなく、「人間には知りようもない理由によって苦しみが訪れる」といって弁明しています。イエスについてもそうです。

 私の文章を読んで、この方のように感じた人が、たとえば百人のうち半数以上いたとしたら、私の文章の書き方に問題があったか、あるいは私自身も気づいていないところで、実際に私は聖人を憎んでいるのかもしれません。そのことを確かめるために、統計をとってみたいくらいです。

 私は聖人・覚者に怒りや嫉妬などは持っていません。少なくとも、持っていないつもりです。なぜなら、私が心から尊敬する聖人や覚者はたくさんいるからです。
 ただ、世の中には自称「覚者」と称して、人をだましたりしている人がけっこういるようなので、安易に信じないよう注意しています。ただみんなが「聖人・覚者だ」と言っているからといって、また本や講演などですばらしいことを説いているからといって(言葉などいくらでも立派なことは書けます)、その人を聖人や覚者だとは認めません。あくまでもその人の行動を見ます。覚者なら、他の人を巻き添えにして迷惑をかけるガス自殺のようなことをするでしょうか? 私は正直にそう思います。しかしその「覚者」の弟子たちは、常識では誰もがそう思うような彼の行動について否定していないのです。それは「覚者のやることに間違いはない」と洗脳されているからだと思います。
 たとえ聖人だろうと覚者だろうと、「おかしいものはおかしい!」と言える勇気が大切なのです。この点では、戦後GHQによる意図的に行われた「日本人であることを卑下し権威に対して従順的にさせる。自分で考えることはさせないようにする」という影響のせいもあるかと思います(このテーマについては興味深いので、いつか取り上げたいと思います)。

 私はそのような、ある特定の人物を盲信して、明らかに地上的におかしいと思うようなことから目を背けることはしません。相手が聖人と呼ばれようと覚者と呼ばれようと、常に地上に足をつけた常識的な(仏陀の言葉を借りれば「中道」)の考え方をするようにしています。いくら聖人だろうと覚者と呼ばれていようと、おかしいと思ったらおかしいと思うとはっきりいいます(もちろん、私の考えがおかしいという可能性も自覚した上での発言です)。もちろん、すばらしいと思ったらすばらしいと言います。しかし、すばらしいと思ったからといって、その人が完全無欠であると信奉するようなことはしません。

 このような私の姿勢は、聖人や覚者といった人を狂信している人から見れば、私の考えを否定したくなるでしょう。「それはひがみだとか、妬みだとか、怒りだ」とか、いろいろ理屈をつけて責めてくるでしょう。

 私もこれまで多くの本を書いてきて、そして感想をいただきました。そこで気づいたことは、本の内容を自分の都合のいいように解釈して理解している人がけっこう多いということです。たとえば、S学会の信者さんが、私のある本について「私の信仰している内容と同じことを言っているすばらしい本だ」と言いました。私は驚きました。よく読んでいただければ、その内容は逆にS学会のような団体を否定していることがわかっていただけるはずだからです。結局、どんなことも、人は自分の心の鏡を相手に投影して理解していることが多いのです。

 今回のコメントにしても、私はむしろこのコメントのなかにこそ、書いた人の「怒りや嫉妬」を感じました。たとえば「正直も過ぎれば災いのもとになることを、気づかれますように」という、一見穏やかに書かれていますが、見方によっては「脅し」とも感じられる文章、また、私に対する読者の方からの励ましのコメントについても「斉藤先生の聖人ヘの不信感をさらにエスカレートさせることをひそかに楽しんでいるかのような、怪しげな妖気が行間に感じられます」と書いておられます。「ひそかに楽しんでいる」、「怪しげな妖気」といった言葉は、まず普通に考えるなら、「そんなことは感じるかなあ」と疑問に思います。そこに悪意や否定、攻撃的な気持ちが入っていなければ、たぶん使うことはないと私は考えます。

 さらにいえば「気づかれますように・・・」という言葉には、「自分は真実を知っている。あなたは知っていない。哀れな人だ。だから気遣ってあげているんだ」というような、言葉にしてしまえばそのような考えが見え隠れします。要するに「上から目線」でものを言っている傲慢さを感じます。

 結局、自分の心にあるものを、私に投影して自分自身の心を見たにすぎないのではないでしょうか。
 もちろん、彼の言っていることが事実である可能性もあります。私はそういう可能性もあるのだと自分に言い聞かせて、決して「自分だけが正しい」とは考えないようにしています。そう考えたら、それこそがまさに「妄想」でしょう。

 もしかしたら、私が否定した(とその人が誤解した)聖人や覚者の中に、その人が信奉している人がいたのかもしれません。そのために、怒りを覚え、その怒りを正当化するために、その原因を私に投影したのかもしれません。これはよくあることです。

 ただ、いずれにしろ、このブログは宗教団体の場ではなく、特定の価値や教義を教えることを目的としているのでもなく、あくまでも探求の場としてありますので、今回のような批判的なコメントも大歓迎です。それによって、私が間違っていたと気づくこともあるからです。私は自分が間違っていたと思ったら素直に認めます。しかしそう思わないときは、私も反論します。この場ではすべての人が平等です。私は権威者ではありません。私の言うことは信じないでください。あくまでも、自分の頭で考えるための「ヒント」や「参考」程度にしてください。それがこのブログの目的です。
 それから、批判や反論はけっこうですが、その場合、「管理者だけがコメントを見れる」ではなく、誰もが閲覧できる場所にコメントをください。そうすれば、そのコメントに対する賛否両論の意見も出てくるでしょう。そうしてますます私たちは思索を深めていくことができるでしょう。

 くどいようですが、日本人は自分の頭で考え、自分の信念を確立して自分らしく生きるということにおいて、海外の国々から見れば、はるかに遅れています。周囲に追随しようとし、誰かに依存しようとします。とりわけ宗教やスピリチュアル的に自立していない人が多く、そのために「楽をして悟りを開ける」的な本やセミナーやカルト集団にだまされてしまうのです。
 テレビなどのマスコミも、「日本人を馬鹿にする計画」の支配下におかれています。有益なテレビ番組もあることはありますが、ほとんどの番組は有害です。あんなものを見ていれば日本人はますます馬鹿になっていき、独創性を失い、自分で考えることをしなくなります。そして、自分の考えと合わないものに出会ったら、自分自身を反省するのではなく、相手に投影して相手のせいにします。その方が自分が傷つかなくてすむからです。

 しかし、人は傷つくことなくして成長することはできません。真の求道者は、失敗や傷つくことを怖れず、むしろ自らそれを糧にして成長していくものです。
 自慢ではありませんが、私がこのブログで自分の恥ずかしい状態を正直に書いているのも、いかなる批判をも受け入れるのも、そのためです。
 しかしほとんどの人、自称聖人や覚者も含めて、自分の都合の悪いことは隠そうとします。そしてその表の顔だけを見て、すぐに「聖人」や「覚者」に頼って狂信的になったり、甘い言葉でお金を巻き上げようとする本や情報商材やセミナーや、その他悪徳商法や詐欺に簡単にだまされてしまうのです。
 表面的なことにだまされてはいけません。この地上世界には常に表と裏があります。表だけでなく、裏を見ることから目を背けてはいけないのです。

 私の「恥ずかしい面」を見てがっかりし、このブログから去っていった人も少なくないと思います(実際、それが原因かどうかはわかりませんが「拍手」の数が少なくなっています)。でも、私は気にしません。そういう人は「表」だけしか見ることができないからです。「表」だけを見ることしかできない人は、イエスに対して「自分も救えないのに人を救うなんて馬鹿なことを!」と暴言を吐いた人と共通しています(もちろん苦しみの原因についてはイエスと私の場合はまったく事情は異なりますが)。

 また、自分より優れている、強いと思った人には称賛し媚びを売ったりしますが、自分より劣っている、弱いと思った人には威張ったり馬鹿にしたり、なめたりする人がいます。残念ながら、世の中にはそういう人が少なくありません。私はそういう経験を嫌というほど味わってきました。しかし、そのような人間は、私から言わせれば、「スピリチュアル」どころか、そもそも人間として最低であると思っています。そんな人はこのブログを読んで欲しくありませんし、また読まないでしょう。

 私がウツであることを隠し、いかにも立派な言葉だけをブログで書いているだけであれば、読者も増え、私に批判的なコメントを書く人も少なくなるでしょう。聖人や覚者として称賛され、名声もお金もたくさん集まってくるでしょう。
 しかし、イエスはなぜあのような屈辱と苦痛に満ちた姿を世の中にさらしたのでしょうか? 彼ほどの聖者であれば、そのようなことは避けられたはずです。しかしあえてイエスはその道を選んだのです。いったいそれはなぜでしょうか?
 それは、彼が表も裏もすべてさらけだした真の聖人であり、つまりはそれだけ「正直」だったわけであり、自らの生き様を通して救われる道を示した真の教師だったからです。

 イエスは十字架にかけられたとき、「ああ、神よ、なぜ私を見捨てたのですか?」と嘆いています。これだけを見ると、多くのキリスト信者はがっかりすると思います。しかしイエスは最後にこう言っています。
「すべてを神の御心にゆだねます」
 ここがもっとも重要なところなのです。「すべてを神の御心にゆだねる」ということが、救いの最終地点だからです。
 表現は悪いですが、「ああ、神よ、なぜ私を見捨てたのですか?」と言ったのは、ある種の「芝居」だったのです。本意でそう言ったのではありません。人間である以上、この地上に生きている限り、そのように思うことはいくらだってあるし、そう思って当然だということを示すために、そのように言ったのです。ここには地上世界に生きて苦悩する私たちに対するイエスの愛が込められています。そう思ってもいいんだよという、イエスの「ゆるし」があります。
 そして、そう悩んだ末の最終的な救いの回答が「神にすべてをゆだねます」ということだったのです。
 イエスは、「このようにして救いは得られるんですよ」ということを、口先だけでなく、身をもって(手本として)それを示したのです。
 それゆえに、イエスほど偉大な聖人・覚者はいないのです。もちろん、聖人・覚者に優劣をつけるつもりはありません。また念のためにいいますが、私はキリスト教徒ではありません(どの宗教の信者でもありません)。
 しかし、自らをあそこまで犠牲にし、身をもって人々に手本を示したという点で、イエスほど深く大きな愛を持った偉大な聖人はどこにもいないのです。 

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 覚者かどうかを見分ける方法 ②


 ニセの「覚者」は、たいてい二つのタイプに分かれます。
 ひとつは、あきらかに詐欺を目的とし、自分でもそのことを自覚して「覚者」や「グル」を名乗っている人物です。こういう人は、公衆の面前のような表向きは非常に立派に振る舞い、その言葉も丁寧なのですが、密室のなかでは、同じ人とは思えない下卑た振る舞いや言葉使いをするものです。要するに、表と裏に落差があるのです。真の覚者であれば、表も裏もないはずです。裏の顔を見れば、すぐに化けの皮をはがすことができます。
 また、詐欺師というのは、要するに金を騙そうとするわけですから、さまざまな理屈をつけて金を巻き上げようとします。金がない人は、「金づる」、つまり信者を勧誘するように強要してきます。もちろん、その名目は、「人類を救うためにこの教えを広めるのだ。あなた方はそのために選ばれた特別な人なのだ」といったように、崇高な使命感のような感覚を煽って信者の勧誘をさせたり、献金させたりするわけです。真の覚者が大金を要求したり、信者を勧誘するように強要することは、まず考えられません。

 一方、詐欺師の自覚はなく、実際に詐欺師というわけではないが、自分を本当に覚者だと思っている人がいます。これは要するに、妄想を抱いているわけです。精神病理でいうと、パラノイアではないかと思います。
 パラノイアは、人並みの知性もあり、普段は常識もあるのに、ある特定の分野だけ支離滅裂で妄想を抱いてしまう病気です。たとえば、自分は仏陀の生まれ変わりだと信じたり、天皇家の血筋だと信じたり、会ったこともないタレントが私のことを恋しているとか、宇宙創世の謎を解明したといって膨大な論文を書き、それを名の知れた学者のもとに送りつけて自分をノーベル賞の候補に推薦して欲しいなどと言ったり、たまたま自分の論文と似た学説を唱えている学者がいると、スパイを使って自分の論文を盗んだのだなどと口走ったりします。こうした妄想以外では、まともな思考や生活をしているため、周囲の人は本気にしてしまうことも少なくありません。
 しかし、しょせんは妄想ですので、やはりどこかおかしいのです。ある妄想を抱いている人は、たいていの場合、誇大妄想か被害妄想、あるいはその両方の妄想を表すものです。
 ですから、自分は覚者だという人をよく観察して、誇大妄想あるいは被害妄想を抱いていないかチェックしてみるとすぐにわかります。

 たとえば、私が実際に会ったことのある自称「覚者」ですが、その男は、確かに悟りや覚醒や霊的な事柄に関しては広い知識を持っていました。そして、大変におしゃべりで、そうしたことを延々と話しまくるのです。余談ですが、霊的な事柄を延々としゃべり続ける人も要注意です。どこか病的なものを持っていることが多いです。おそらく真の覚者や霊的な人は、それほどおしゃべりとは思いません。
 その男はそのうち、「自分が住んでいる地域は、自分から放つオーラによって犯罪率が低くなる」などと言い出しました(実際には彼の住む家の近くで新聞に載るような凶悪な事件や事故が数件ほど起こりました)。これはあきらかに誇大妄想でしょう。
 また、精神世界で名の知れたある人物から、自分は呪いをかけられているなどと言っていました。真義はわかりませんが、私もその人物を知っており、とても呪いをかけるような人には見えません。おそらくこれは、この男の被害妄想だと思います。
 その他、自分のもとを去っていった弟子の悪口を、延々と繰り返し繰り返し語り続けたり(悪口を言うのはエゴです)、超能力は持っていないのかと尋ねられると、「むかしは持っていたが、すべて捨てた。偉大な覚者は、そのようなものには未練がないからすべて捨てるのだ」と言うのですが、「しかし、この能力はあるんだ」などといって、ダウジング(振り子占い)をしているのです。
 さらにこんなことがありました。私はこの男の話をテープに録音していたのですが、あるとき電話がかかってきて、「俺の声を吹き込んだテープを返せ」と言ってきました。もうあれは消して残っていないというと「信じられない。おまえの家の隅からすみまで探させろ」と言うのです。私が何かそのテープを悪用するとでも思ったのでしょうか?(これも被害妄想かもしれません)。私は家をかき回されては困るので断りました。そうしたら、「拡声器を持っておまえの家の前に行き、大声で怒鳴りつけてやるからな。そうしたら近所迷惑になって、おまえはその家に住めなくなるぞ」とまで言うのです。こうなると脅しです。いったい彼は、何を怖れてそこまで言わなければならないのか、まったく理解に苦しみました。
 このように、妄想で自分は覚者だと言っている人の言動を注意深く観察してみると、たいてい誇大妄想か被害妄想が見え隠れします。そうして、すぐに覚者ではないことがわかるはずです。

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 覚者かどうかを見分ける方法 ①


 先日のブログのコメントで、「覚醒していると言っている人がいるが、本当に覚醒しているのかを確かめる必要がある」といった話題が少し出ました。今回は、これについて話してみたいと思います。
 精神世界のセミナーなどにいろいろ出席していますと、「私は覚醒した、私は悟りを開いた、私はグルである」と言う人にときどき出会います。インターネットを見ても、「私は覚醒したグルである」と言って、セミナーの勧誘をしていたりします(それがけっこうな料金です)。なかには、「一瞬で覚醒させる」と言っている人もいます。
 私は若い頃、そうしたグルを求めていた時期があり、もし当時の私なら、そういう人を片っ端からあたってみたかもしれません。
 しかし、今の私は、正直なところ、そのような人たちにはほとんど興味がありません。というのは、自分のグルとして指導を願う前に、その人が本当に覚醒しているかどうか確かめなければなりませんが、その人が本当に覚醒しているかどうかは、わからないからです。超能力は、そのための客観的なひとつの目安となるでしょうが、超能力があるだけでは覚醒しているとは限りません。長時間息を止めたり、空中浮揚をしたり、念力で火をおこすとか、そういうことができる人もいるようですが、それだけでは覚醒しているとは言えないからです。極論を言えば、その人が本当に覚醒しているかどうかは、自分が覚醒してみないとわからないのだと思います。

 ただ、私がこの人に師事したいと感じさせるものがあるとしたら、それはその人の人間的な魅力、品格です。私はその人がすばらしい人間性と品格を持っていたら、たとえその人が覚醒していなくても、師事したいと思うでしょう。たとえば、『レ・ミゼラブル』のミリエル司教のような方がおられたら、土下座して弟子にして下さいと頼むかもしれません。
 覚醒することと、人間性が立派になることは、同じなのか違うのか、そのへんはよくわかりません。覚醒した人はすべて尊敬に値する立派な人になるのか、それとも、覚醒しても品性が低い人は低いのか?
 ただ、少なくても私の考えでは、人間性が立派にならない覚醒というのは、どこか間違っているように思うのです。傲慢で威張り散らし、人の悪口を言い、自分勝手で、布施の名目で大金を集めて影で贅沢をしている人が「私は覚者である」と言ったら、いったい覚醒とは何なのかということを、あらためて考えざるを得ません。
 高慢で卑しい人が、ある日突然クンダリニーが上昇してすべてのチャクラが開き、覚醒した瞬間、その人は別人のように高貴な人間性に変容するのでしょうか?
 私にはそうは思えません。瞑想などの修行は、人間性を立派にする刺激とはなりますが、瞑想だけをしていて人間性が立派になるとは思えません。むしろ、日々の生活を通して常に反省し、反省したことを実行するということを繰り返し、地道に時間をかけてこそ、人間性は立派になっていくのだと思います。そして、そうして人間性を立派にさせながら瞑想を通して意識を深めていったとき、覚醒して、霊格も人間性も共にすばらしい覚者が誕生するのだと思うのです。つまり、日々の生活を通して人間性を立派にしなければ、覚醒はしないと思っているのです。
 というのも、人間性の低さというものは、すべて自我(エゴ)が生み出すものだからです。覚醒とは自我を消滅させることですから、人間性が低いということは、それだけで覚醒していないことを示すものと思うわけです。
 ですから、その人が覚醒したと自分で言い、どんなに立派な教説を口にし、超能力のようなものを見せたとしても、その人の品性に高貴なものが感じられなければ、覚醒したとは思えません。

 ところが、どこの世界にも詐欺師的な人がいます。口先だけは本当にうまいことを言うので、つい騙されてしまうことがあるのです。
 たとえば、低い人間性が露呈したとしましょう。それで周囲の者が怪しく感じると、「これはおまえたちを指導するために、わざとやっているのだ。覚醒して高い境地になった者のそんな意図が、おまえたちに理解することはできない。これがグルというものなのだ」といったことを言うわけです。
 宗教に関心のない人は、このような言葉にはだまされません。しかし、欲があるとだまされるのです。
 たとえば、詐欺商法と呼ばれるものがありますが、金儲けに目がくらんで、楽をして金を得ようとしている人は、詐欺師の口のうまさに乗せられて、だまされてしまうのです。
 精神世界も同じです。ただ「お金」が「覚醒」に入れ替わっただけです。つまり、「覚醒」に目のくらんだ人が、こういう詐欺師にだまされてしまうわけです。欲があるゆえに、「本当にグルは私たちの指導のために、わざとあんなことをしているのかもしれない。もしそんなグルを疑ったら、私は覚醒できないかもしれない」という、ある種の強迫観念と言いますか、不安に駆られて、グル(詐欺師)の言葉を鵜呑みにしてしまうわけです。そうして、結局、高額なセミナーに参加させられます。そのセミナーに参加すると、「さらに上級コースがある」などと言われ、高額なセミナーに次々と参加させられます。それで結局、覚醒できず、そのことで文句を言うと、「グル」はこう言うのです。
「おまえは覚醒した。おまえはそれに気づかないだけだ。私はおまえより霊格が高いから、私にはわかる。グルである私の言うことが信じられないのか。信じられないのなら、破門だ。今すぐここから出ていけ!」
 結局、奪うだけ金を奪ったらもう用済みですから、結末というのは、こんな感じです。

 覚醒に欲がくらんではいけないのです。気持ちはわかりますが、いいカモにされるだけです。確かに、「こうすればもっと早く覚醒できますよ」などと甘い言葉をささやかれると、毎日ほとんど何の変化も感じられずに退屈な修行をして落ち込んでいるときには、つい気持ちがぐらついてしまうこともあるでしょう。
 しかし、あせる気持ちはエゴから来ているのです。詐欺師は、巧妙にエゴの弱点をつついてきます。
 覚醒するにしても、道を選びましょう。自分から見ても、第三者から見ても、美しいと感じる道を歩むべきです。時間をかけて忍耐強く人間性を練り上げ、霊的なばかりではなく、地上的にも立派に尊敬されるような生き方をした末に覚醒する道を歩むか、それとも「300万円払ってセミナーを受講して半年で覚醒しました!」という道を歩むかです。仮に百歩ゆずって、後者の道によって本当に覚醒できるとしても、誰にも感動をもたらさないそんな道は歩まないぞ!という気骨が、大切ではないでしょうか。
 長い間、地道にコツコツと人に感謝される仕事を誠実に行って財を築いた人と、株だのFXだの、詐欺まがいの情報商材などをインターネットで売りつけて短期間で楽に財を築いた人と、どちらが尊敬に値し、美しく感じるでしょうか? どちらの人生を送りたいと思うでしょうか? 後者の人生を送りたいと思う人もいるかもしれません。しかし、そのような発想では、たぶん、覚醒は難しいと思います。
 なぜなら、覚醒というものは、交換条件によって勝ち得るものではなく、覚醒の修行を行うことそのことを目的として進んでいくときに、得られるものだと思うからです。
 つまり、高貴で美しい道を歩むことによって覚醒に至るのです。いえ、高貴で美しい道を歩むこと、そのものが覚醒であるという発想が大切なのです。覚醒することにはもちろん価値がありますが、覚醒に至る道を歩むこと自体にも、覚醒と同じくらいの価値があるのではないでしょうか。私たちは、立派に道を歩まなければならないのではないでしょうか。ただ歩めばいいというものではないと思うのです。

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