心の治癒と魂の覚醒

        

「人生は苦である」


 私は相変わらずウツ病(ウツ状態)に悩まされている。多少の波はあるが、たいていは世の中が灰色に見える。今から思えば、私のうつの最初をたどっていくと、高校生のときにすでに患っていたように思う。ときおり、生きるのが悲しく、勉強も遊びも、何もかもに対して意欲を失ってしまっていた。そういう時期が定期的に訪れていたが、程度はそれほど重くなかったので、それで学校を休むとか、そういうことはなかった。しかし、それ以前と比較すると、人生というものに対して、ずいぶん悲観的に、厭世的に考えるようになった。人生が悲しいものに思え、世の中というものがとてつもない不安定で、はかないものに感じ、表現しがたい不安が常に胸の奥に渦巻いているのだ。
 それでも、人生というものを「絶望的」に感じることはなく、青年から壮年の時代においては、いずれがんばっていればすばらしい人生が待っているという、(まるで根拠のないある種の幻想的な)気持ちがあった。そうしてどうにかこれまで希望を持って生きていた。その間は、私のウツ傾向は多少はあったものの、ほとんど影を潜めていた。
 だが、40歳のときに、過労と精神的な悩みが重なりウツが重くなり、このとき初めて精神科医を訪れた。そして投薬治療をしたが、激しいアナフィラキシーに襲われ、それに懲りて投薬治療はやめてとにかく休養することにした。1週間ほど寝ていると少し楽になった。そこに、カウンセラーの仕事の依頼が来たので、カウンセラーになった。その仕事にやりがいを感じたせいか、ウツはほとんど(完全ではないが)影を潜めた。そうしてしばらく、ウツに悩まされることのない歳月が過ぎた。
 だが、初老となり、すでにこの場でご紹介したように、母が急に体調を崩して結局施設に入ることになったのだが、それをきっかけに、再び私のウツは復活した。他にも家族や経済的な問題などが重なり、いろいろ悩みもあった。あまりにも苦しいので、再び精神科医の門を叩いた。アナフィラキシーが心配だったが、一か八か投薬治療をした。だが、3ヶ月間抗鬱薬を飲んだが一向によくならないのでやめた。今は気休め程度の精神安定剤を服用している。効いているのかいないのかよくわからず、飲めば何となく暗示のせいなのか少しはマシなような気がするくらいである。
 私が母の問題でウツを発症した大きな理由のひとつは、「歳を取ると誰もがこうなってしまうのか」という思いだった。いや、「思い」というより「事実」と言った方がいいだろう。かなりの高齢でも元気な人もいるにはいるが、それは少ない方だと思う。母の場合、今まで元気に歩いていたり、頭もしっかりしていたのに、あれよあれよという短期間の間に足腰が立てなくなり、結局クルマ椅子になり、おまけに認知症にまでなってしまった。83歳ときであった。今は施設でぼんやりと暮らしている。施設を探すのも楽ではなかった。私はまだ恵まれている。多くの人が自宅で介護をしているのだ。それが日本の現状だ。しかし、自宅で老人の介護をすることがいかに大変か、それはもう想像以上なのだ。
 それはさておき、仏陀は、伝説によると城から外に出たときに、苦しむ人、老人、病人、死んだ人などを見て、この世は「苦」であると思ったという。
 両親がまだ健在で、未来がある20代や30代くらいのときは、「この世(人生)は苦」という仏陀の言葉を聞いても、それほど実感は感じないであろう。だが、初老となり、親も死んでいなくなり、体力も落ち、家庭や仕事などでいろいろと悩みがあったりすると、いったい何のために生きているのかわからなくなり、そのときに仏陀の「人生は苦である」ということが、身に染みてわかるようになるのではないだろうか。ショーペンハウアーという哲学者も同じことを言っている。この世は盲目的な運動によって人々は翻弄されているのだと」。要するに、正義と秩序の神など存在しないと言っているわけだ。
 だが、私は思った。
 このような悲観的な考え方をするのは、ウツという病気のせいではないのだろうかと。ウツがそのように考えさせているのではないのかと。人生はそんなものではなく、私はウツのために、人生の実相を歪んで見ているのではないだろうか?
 テレビでウミガメの赤ちゃんが大量に産まれて海に戻っていくシーンを見たが、そのうちの大部分はほかの動物のエサなどにされたりして、結局、生き残れるのはほんの数%であるという。生まれてすぐに捕食されてしまうカメは、いったい何のために生まれてきたのだろうか? そこには生きる意味も何もないように思われる。人間には生きる意味があって、ウミガメにはないのだろうか? 人間とウミガメは違うのだろうか? だが、私はウミガメと人間とがそう違うとは思わない。生まれてすぐに捕食されてしまうカメは、前世で悪いことをしたカルマのせいであるとでもいうのだろうか? それはあまりにも馬鹿馬鹿しい。人間も同じではないのかと思う。人間と人間以外の生物に哲学的な生存の意味の違いがあると考えるのは、ある種の幻想ではないだろうか。
 実際、生まれてすぐ死んでしまう赤ちゃんはたくさんいるし、脳性麻痺で人生の大半をベッドで過ごさなければならない人もいる。また私自身、カウンセラーの経験を通して、本当に悲惨な人生を生きてきたクライアントさんを何人も見てきた。
 そのような苦難に遭遇しても、笑って過ごせる人も中にはいる。だが、たぶん少ない。よほどの楽観主義者としか思えない(ある意味では幸せな人と言えるかもしれないが)。
 私は思う。
 実は、ウツの状態で思ったり考えたりすることこそが、よりこの人生の実体をとらえているのではなのかと。もちろん、中にはあまりにも極端な考え方をする人もいる(たとえば、すべての人に愛されなければ人間として失格だといったような)。そういう人は、「認知療法」という心理療法で、極端に考える傾向を矯正していく。
 だが、そのような極端な考え方をするのではなく、この人生を幅広くありのままに見るならば、やはりこの世(人生)の実体は「苦」であると見るのが事実であると思うのだ。目が見えない人、一人では歩けない人、一生の大半を精神病と戦っている人、そのために、世間並みの仕事も娯楽もできず、恋愛も結婚もできず、孤独で、不自由に生きている人が世の中にはたくさんいる。
 もちろん、幸せかどうかは本人が決めることだから、他人がとやかく言う筋合いではない。どんな状況であろうと、本人が幸せと思えば、それは幸せなのだ。
 けれども、一般的に考えるならば、このような状態の人が自分を幸せに考えることができる人が、どれだけいるだろうか? 少なくとも、私にはとうていそうは思えない。
 結局、若い頃の人生に抱くバラ色の希望というのは、ほとんどは幻想であり、人生という「苦」を背負いながら生きていくものではないのだろうか。それが人生ではないのだろうか。日常の、ほんの小さな幸せを慰めと支えにしながら。
 
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人生は「苦」である。しかし・・・

 私は何かを考えてその真実を探そうとするとき、可能な限り主観を排するようにしている。つまり、自分の思いだけで何かを決めつけるのではなく、常に全体を公平に観察し、そこに主観的な価値観をつけることなく、ありのままにその真の姿を探りたいと思ってきた。そして、そうやって出たことに対して、常に正直でありたいと願ってきた。
 人は自分の体験や思いをもとに世界観を形成する。人生が楽で満たされた人は、この地上世界を「楽しく幸せなところ」だと思うだろう。不幸せに感じてきた人は、この地上世界は地獄のような場所だとするだろう。

 釈迦は、「この世(人生)は苦なり」と言った。この世の本質は苦しみであるという世界観を唱えたのである。釈迦自身は、少なくとも客観的には決して不幸せではなかった。それどころか、王子として物質的には何不自由ない生活をし、結婚して子供ももうけている。あえて彼の不遇をいえば、幼い頃に実母と死別したくらいであろう。もっとも、そのことが彼を幼い時から悲観的に物事を見る一定の傾向を植え付けたと言えなくもないが。
 それはともかく、伝説によれば、釈迦は恵まれた城の生活から外に出たとき、そこに病気の人、老いた人、死んだ人、苦しんで生きている人を見て驚いたという。仏教がいうところの四苦、すなわち「生老病死苦」だ。他にも、愛する人と別れ憎い人と会う苦しみ、求めても得られない苦しみ、不浄ですぐに病気になったり老いていく肉体を持つ苦しみなどがあげられている(「四苦八苦」という言葉はここから来ている)。
 人生には楽しいこともあれば辛いこともある。これが大部分の人にとっての世界観であろう。そうして辛いことがあっても何とか生きている。しかしなかには、この世のいかなる楽しみでさえも代えることのできない、壮絶な苦しみの体験に見舞われる人もいる。たとえば、今のパレスチナの紛争のように、爆弾が飛んできて、次の瞬間には愛する子供の肉片だけが散らばっているといったことが、この現実には起こっている。日本でも、変質者に自分の娘を誘拐されて殺された上に死体をバラバラにされるといったことが起きている。
 このような体験をしても、「人生には楽しいこともある」などと言えるだろうか? いったいこれほど悲惨な苦しみを癒してくれるような楽しみなど、あるのだろうか。私だったら、どんな楽しみもいらないから、このような体験だけは勘弁してくれといいたい。
 このように、人生の本質を考えるときは、自分や自分に身近な人たちだけを考えて決めるべきではない。世界中のあらゆる人たち、それも、最低最悪の体験や境遇にある人を基準に決めるべきだ。なぜなら、人生というものは、そういうことが起こり得るからであり、そういうことが起こり得ることの説明ができなければ、それは完全な世界観とは言えないからである。「祈れば神様が救ってくれる」という世界観をもっている人は、祈っても救われなかった人をどう説明するのだろう? 
 どんな人も、いつひどい悲惨な体験に見舞われるかわからない。これが真実ではないだろうか。誰でもそのような可能性があるこの世(人生)の本質というものは、やはり釈迦が言ったように「苦」ではないのだろうか。
 詩人のヘルマン・ヘッセは、死ぬときには、この地上世界を「あざ笑ってやる」と言った意味の言葉を残している。彼は正直だと思う。繊細な感性を持っている人であれば、この地上に生きている限り、苦しむか、気がへんになるか、いずれかの道より他にないように思われる(ヘッセは鬱病になった)。

 人は苦しみに遭遇すると、その苦しみから逃げようとして悪いことをしたり、性格を歪ませてしまったり、あるいは麻薬やアルコールに溺れたり、ときには自殺したり、精神的に狂ってしまうこともある。私は人生の真の苦しみに遭遇した人がそのようになってしまうことを、決して責めるつもりはない。
 釈迦は、こうした苦しみの世から解脱するために「八正道」と呼ばれる修行法を説いたが、これは基本的に出家した修行者のためのもので、在家の人の修行法ではなかった。だから、私たちの大半は実行できないし、第一、八正道の詳しい修行法についてはよくわかっていない。今ほど情報ネットワークがしっかりしていない2500年も前の話なのだから仕方がないだろう。

 だが、どんなに人生が苦しく辛い状態であっても、そこに意味を見いだせる可能性はあるし、美しく生きていく可能性は常に残されている。
 私は人生がどんなに辛く不条理に満ちていても、美しく生きたいと願っている。願っているので、実際にそのようにできるかどうかはわからないが、とにかく、美しいということはひとつの価値である。美しさは人を感動させ、ときにはその美しさゆえに人を変えることもある。たとえ誰からも自分の美しさを認めてもらえなかったとしても、そんな美しい生き方をする自分自身を、私は気に入るであろう。それだけで満足である。
 釈迦は、この世は苦であるといっておきながら、一方で「この世は美しい」という言葉を残している。おそらく広大なる地平線に沈む夕陽か何かを見たのかもしれない。美しさというものは、霊的に高いつながりがあるのではないかと思う。
 人生でいかに不遇であり、辛く困難で悲しい体験に見舞われてきたとしても、そのことでその人生の価値が決まるわけではない。人生の価値を決めるのは、いかに美しく生きてきたかだ。美しく生きて、どれほどの感動を人々に与えてきたかだ。だが、たとえその美しさが誰の目にもとまることがなかったとしても、美しく生きることは、霊的な真実とを結びつける、唯一とまではいわないにしても、もっとも重要な糸であると、私は思う。美しさと霊性の高さとは比例する。見せかけでない、真の意味で美しければ、その霊性は高く、霊性が高ければ、その人は間違いなく美しい。

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 深刻なほどチャンスがある


 何かの本で、「中程度の病気よりも、重症の病気の方が治りやすい」という医者の言葉を読んだことがあります。なぜ中程度の病気は治りにくく、それよりも重症の人の方が治りやすいのでしょうか?
 その大きな理由は、治療に対する「真剣さ」にあります。中程度の病気の人は、ある程度は元気であり、病状もそれほど辛くないという傾向がありますから、「少しくらい大丈夫だろう」などといって、食事制限を守らなかったり、アルコールを摂取したり、その他、いろいろと無理をしてしまったりすることが多いのでしょう。だから、なかなか治らないのです。
 それに比べて、重症の人はそれこそ生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていたり、病状も非常に苦しいので、医者の言うことはよく守るでしょう。食事制限などもしっかりとするでしょうし、安静にするときは安静にしているでしょう。結局、こうして病気の治療に真剣に向き合うために、結果として、中程度の病状の人よりも治りやすいということになるのではないかと思います。
 これと同じことが、自己改善や覚醒修行といったことにも当てはまるのではないでしょうか。すなわち、深刻な状況にある人の方が、それほどではない人よりも、より早く効果的に自己改善を果たしたり、覚醒修行が進むように思われるのです。その理由は、同じように真剣さです。
 苦しい悩みや困難を抱えているほど、その苦しさから早く逃れたい一心で、真剣に自分を改善する努力をしたり、覚醒修行をすることになるでしょう。しかし、たいした苦しみや悩みを持っていない人は、どうしても真剣になりきれず、必死になりきれないで、甘さが出てきてしまうものです。なかには本だけを読んでまったく実践しない人もいます。それでは何も変わりませんが、それほど変えようとは思わないのでしょう。真剣に必死になって変えなければならない、という切羽詰った必然的理由がないのだと思います。そうしていたずらに時間ばかりたっていき、結局は人生において何も変わっていない、ということになるのではないかと思います。
 こう考えると、人生で深刻な困難や非常に辛い苦悩を背負った人というのは、ある意味では恵まれていると言えるのではないでしょうか。そのような状況に追い込まれれば、いやでも必死になるでしょう。その結果、中途半端に悩んでいる人よりも、短い時間で大きな変革を遂げることができるかもしれないのです。
 人生というものは、何がよいことで、何が悪いことなのかは、一概には決められないものです。どんなに悪いと思われることでも、少し見方を変えれば、そこには偉大なるチャンスが潜んでいるということが多いのではないでしょうか。

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 忍耐と我慢強さを鍛える


 地上人生というものは、もともと幸せになるための舞台ではなく、困難や悲しみ、試練や苦しみを通して人格を向上させ、霊性を進化させ、魂を磨いていくための舞台なのです。
 人生などというものは、過ぎてしまえば、あっという間の出来事です。この言葉は、若い人には実感できないかもしれません。人生は長いと思うかもしれません。けれども、40代以後の読者の人なら、この言葉がある程度はうなずいてもらえるのではないかと思います。この短い人生を、私たちはどのように生きていけばよいのでしょうか?
 それはまず、辛いことに対する耐え抜く力を養うことがあげられます。というのは、死後、魂になった私たちは、さらなる向上をめざして生きていくことになるわけですが、そのときに大切なことは、忍耐であり、我慢強さだからです。地上世界においても、霊的世界においても、進歩というものは、長く地道な努力を必要とするものです。ですから、途中で嫌になって放り投げたり、せっかちな行動に走ろうとする性格では、進歩は望めません。忍耐と我慢強さが求められるのです。地上人生において辛いことを経験するもっとも大きな理由が、この忍耐と我慢強さを鍛えることにあるのです。ですから、人生において辛いことというのは、けっこう長く続くことが多いのです。人によっては生まれてから死ぬまで一生続くこともあります。たとえば、肉体に障害を持って生まれたといったような場合です。肉体に障害があるからといって、一概にその人生が不幸で辛いものであると決め付けることはできませんが、一般的には楽ではないでしょう。死ぬまで解決されることのない辛さにじっと耐え抜く人生を送ることになるわけです。地上人生というものは、そうして忍耐力や我慢強さを鍛えるには、非常に好都合な場所なのです。ですから、そのために私たちはこの地上にわざわざやってきているわけです。それも、向上心の強い魂ほど、過酷な苦しみを自分に課すことになるわけです。
 しかしながら、そのようにして鍛えた忍耐力や我慢強さは、死後、霊的な世界に移行したとき、すばらしく報われることになるのです。霊界において、格段に大きな進歩を遂げることができるからです。
 そして、これまでにもたびたび申し上げたように、霊界での喜びや幸せのすばらしさは、地上の比ではありません。時間的にも、地上人生はほんの一瞬ですが、霊界での生活は非常に長いのです。ですから、私たちの魂は、霊界で幸せになれるなら、ほんの一瞬に過ぎない地上人生など、一生辛い思いをしてもかまわないと考えるのです。そのために、地上人生は辛いことが多く、またそれが長く続いたりするのです。あるいは「一難去ってまた一難」といったように、次から次へと苦労が続いたりするわけです。
 それは、地上的な視野から見れば悲惨で不幸かもしれませんが、霊的真実からすれば、それでよいのです。その苦しみを何十倍、何百倍も補ってあまりあるくらいの幸せで報われることになるからです。
 ですから、辛いことも、じっと耐えましょう。心を歪ませたり、世の中を呪ったり、人を恨んだりせず、心静かに、じっと耐え抜くのです。耐え抜くというだけで、天にある種の「貯金」をしているのだと思うことです。明日を思い煩うことなく、今日という日だけを耐えましょう。「この辛さがこれからもまだまだ続く」と考えたら萎えてしまいます。今日一日だけを耐えて生きるのです。あとはそれを繰り返していくだけです。辛い道のりではありますが、その彼方には間違いなく光明が待っているのです。それを希望にしていきましょう。

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 自分で自分を支える

 
 釈迦は「この世のいかなる物事にも執着してはならない」と説きました。これは真実であると思います。地上的な事物は、しょせんは高い次元の霊的真実の影のようなものであり、その影に執着している限り、霊的な真実に至ることはないからです。
 霊的成長、すなわち覚醒を志し、その道を歩むようになると、自らの魂の志向や霊的な存在からの導きを受けて、この世のいかなるものにも執着しないような運命になっていくように思われます。それはたいてい、地上的な物事に対する失望という、辛く苦しい経験という形で現れてくるようです。
 たとえば、自分がもっとも愛し求めているもの(人)が手に入らなかったり、失われていくといった経験です。それは非常に辛いものですが、そうして地上的な事物への執着を断ち切るように導かれているようです。この世的には不幸や災難、苦しみということになりますが、霊的に見れば、それが正しい道を歩んでいることになるわけです。
 しかし、そのような辛く険しい道は、よほど精神的にタフでない限り、心の支えや慰めがなければ、とても歩み続けていけるものではないでしょう。私がこのブログに「求道者の慰め」という項目を入れたのも、その理由からです。
 ところが、その慰めを得ることが、また難しいように思われます。普通に世間で生きる人たちは、辛いことがあると、地上的な物事によって慰めを得たりして、それを支えにしたり慰めにして生きています。たとえば、家族との交流だとか、娯楽だとか、美食や酒といったことで慰めを得ているわけです。
 しかし、そうしたことは「地上的な事物への執着」ですから、霊的覚醒の道を歩む修行者にとっては、道の妨げになるわけです。したがって、そのようなものに慰めを得ることができないようにさせられていることが多いわけです。
 たとえそうした地上的な慰めを得ることができる状況にあったとしても、霊的覚醒の道をある程度歩んでしまうと、真に慰められることはないでしょう。いくら家族とのあたたかい交流があっても、娯楽に時間を費やしても、美食をしたり酒を飲んでも、せいぜい一時的に憂さを忘れることができるだけで、慰められることはないと思います。魂の痛みといいますか、魂の孤独のようなものは、地上的な事物では決して癒すことはできないのです。
 しかも、この魂の痛みや孤独といったものは、世間一般の人からはまず理解されません。そんなことを訴えようものなら変人扱いされかねません。外国語を話しているみたいに、通じ合えることがないのです。なかには幸運にして、同じ道を歩む人が身近にいれば、通じ合えるかもしれませんが、そのような人がいる人は少ないと思います。
 ですから、結局、覚醒の道を歩む人は、慰めも心の支えも得られず、孤独になってしまうことが多いのです。そのため、自分で自分を支え、慰めていくしかありません。
 高い霊的存在(守護霊など)は、修行者のそうした辛さを理解してくれて、さりげない手段で励ましや慰めを与えてくれると聞いたことがあります。たとえば、励ましや慰めを与えてくれる本に偶然に(実は必然に)出会うといったようにです。
 こうした高い霊的存在からの配慮は非常にありがたいものではあるのですが、生身の肉体を持って生きている私たちは、霊的な導きは抽象的というか、五感に触れることがないので、どうしても空気のようになりがちで、物足りないものを感じることも確かです。仏陀やキリストが肉眼で見える姿で目の前に現れて慰めてくれれば別ですが、そのようなことはありません。
 ですから、長く険しく孤独な霊的覚醒の道を歩むには、自分で自分を励まし、支え、慰める術を身に着けていく必要があるのだと思います。人や地上的な物事を当てにせず、自立的に歩んでいかなければならないのです。
 ここが、霊的覚醒の道を歩む上での辛く厳しいところです。
 けれども、そうした辛さは、いつか必ず、何倍にも補って余りあるほどの喜びによって報われることは間違いないことなのです。救いとは、平坦かもしれませんが暗闇に通じる道を歩むことではなく、たとえ険しくても光明に通じる道を歩むことだと思います。
 私たちは救われの道を歩んでいるのです。どんなに辛くても、そのことを心の支えにして歩んでいこうではありませんか。
  
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