心の治癒と魂の覚醒

        

 人はなぜ覚醒をめざすのか? 2

 賢者や偉人、哲人たちは、人生の実体をありのままに見つめ、苦しみというものの根本的な解決策を模索してきたわけです。それが哲学や宗教という形で伝えられているわけです。もっとも、ニーチェのように「永遠の苦しみの中にあってもたくましく生きる超人になれ!」などと、(私から言わせれば)何の解決策も打ち出していない哲学を説く人もいます。「超人」になれれば誰も苦労しないわけで、もしそう説くなら、どうやってその「超人」になれるのか、その道筋をあきらかにしなければ無責任だと思うわけです。
 かといって、「神様に祈っていれば天国に行って永遠に救われます」と説く宗教がありますが、いくら信じることが宗教だからといっても、正直、本当にそうなのかと私は疑ってしまうのです。多少なりとも、それが本当であることを証明するような何かがあればともかく、ただそう言われているという理由で「はい、そうですか」と素直に受け入れることは、少なくても私にはできません。
 
 そうして、結局、私がたどりついたのがヨーガだったのです。ヨーガには、苦しみを根本的に解決するための哲学理論とその実践法が明記されており、しかも、その通りに行って苦しみを根本的に解決したと思われる人物が多数輩出しているからです。
 とはいっても、私は「ヨギ(ヨーガ行者)」ではありません。つまり、ヨーガを行じるのが目的ではなく、あくまでも苦しみを根絶することが目的なので、手段はどうでもいいのです。ですから、ヨーガ以外の教えで役に立つものがあれば、どんどん取り入れるようにしています。
 結局、苦しみを根源から絶ちきるには、地上にだけ向けられている意識の焦点を、本来の人間の姿である霊的な領域へとシフトすることであるらしい、ということがわかりました。それがいわゆる「覚醒」です。わかりやすく言えば、この地上での人生は「夢」だというのがヨーガの教えであり、その他、主な神秘思想の教えです。私たちは悪夢を見てうなされているというわけです。私たちの本質は肉体という物質ではなく、意識エネルギーなのです。
 意識エネルギーに死滅はなく、時空を超えた完全な自由を持ち、この地上のあらゆる幸せをすべて足し合わせたよりもはるかにすばらしい、想像を絶する幸せを享受する存在と言われています。
 その状態がどれほどすばらしいものかがわかれば、おそらく地上のあらゆる喜びを投げ打ってでも覚醒を求めて修行するようになるのでしょうが、そのすばらしさがわからないので、ほとんどの人が、覚醒などに興味を示さず、興味を示したとしても、修行にかける熱意に不足してしまうのです。よくわからない天上の幸せよりも、身近には欲望を刺激する数々の魅惑的なものが溢れています。そのため、どうしても、霊的な修行よりも、物質的な物事に眼が移ってしまい、その獲得に心が奪われてしまうわけです。それが、現在の人類の大多数であるわけです。
 しかし、そんななかで、人生の無常や、生に付随する数々の苦悩や不自由さを、骨身に染みて味わった人だけが(過去生も含む)、人生に真の幸せを求めることに絶望を覚え、人生の苦しみを根本的に解決するための道を模索するようになるわけです。

 ところが、「人生の苦しみから救われるために修行をする」などというと、「弱虫」で意気地なし、ネクラな人の単なる逃避だと思われてしまうところがあるようです。
 私が若い頃、自分の目的は人生の苦しみから解脱することだ、だから宗教や哲学の研究をしているのだと母に言ったところ、母はこう言いました。
「意気地なし! 男なら、人生の荒波や苦しみなんかに負けずにたくましく生きたらどうなの!」
 こう思う人は、たくさんいるのかもしれません。しかし、こうした動機で宗教や哲学の道を歩んでいる人が「意気地なし」というのなら、まず何よりも釈迦は意気地なしということになります。そのときは、両親はほとんど無宗教でしたが、その後、仏教を信じるようになりました。両親は「意気地なし」が説いた教えを信仰していたことになります。もっとも両親の信仰は「仏様に祈れば救われる」といった他力的なもので、修行などしませんでした。しかしご存じのように、釈迦は「仏に祈れば救われる」などと説いてはいません。「ひたすら修行せよ」と説いたのです。仏に祈って救われるのなら、修行なんて、そんなしちめんどくさいことは説かなかったはずです。「仏に祈れ」と説いたはずです。しかし、そんなことでは救われないから「修行せよ」と説いたのです。もちろん、仏に祈ることは大切です。しかしそれは「修行が成就できますように」と祈るべきであって、修行も努力もせず、おんぶにだっこで「助けて下さい」と祈ることではないのです。そんなものは仏教とはいえません。

 結局、覚醒をめざすというのは、苦しみから解脱するという目的だけではないのです。覚醒をすることが、すべての人類の霊的な進化そのものだから、覚醒をめざすのです。苦しみからの解脱というのは、そのきっかけにすぎません。たとえば病院に入院した人の目的は「早く病気を治して退院すること」ではないでしょうか。病気とは異常な状態だということです。人類も同じです。今の人類は、本来の人類の姿ではなく、まさに異常な状態、病気の状態なのです。その病気の状態から健康になろうと願うのは当然ではないでしょうか? それなのに、「病気を治すためにがんばって療養したい」と言う患者に対して、「意気地なし! 病気の苦しみなんかに負けず、たくましく生きたらどうなの!」なんて言う人がいるでしょうか?
 覚醒とは、弱者の逃避ではありません。それは真の意味で健康になることであり、立派な人間になることであり、進化するということなのです。そして、そのような道を歩むためには、克己的な努力が求められます。世の中に「克己(自分に勝つ)」ほど偉大なものがあるでしょうか? すなわち、それは真のたくましさ、冷静な知性、情熱的な行動力が要求される、まさに「勇者」が歩む道なのです。

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 人はなぜ覚醒をめざすのか? 1

 このブログを最近になってご覧下さっている方もおられるかと思いますが、ここであらためて、このブログの目的について説明したいと思います。今後も、大切なことは、多少角度を変えながら繰り返し説明していきたいと思っています。
 さて、どんな人も、幸せになりたいと思って生きています。それはすべての人に共通していると思いますが、「幸せとは何か?」という点については異なるでしょう。それにより、人生で追い求める目的が違ってきます。
 たとえば、お金持ちになることが「幸せ」だと思うならば、お金を儲けることが人生の目的になるでしょうし、「名声を得ること」、「あたたかい家庭を築くこと」が幸せだと思う人は、その実現が目的ということになるでしょう。
 私も、若いときからそういうことをよく考えました。ただ、私は欲張りなため、本当に幸せであるには、次の条件が必要だと思いました。
 それは、「その幸せは何があっても失われることがない」という条件です。要するに永遠に続く幸せです。その幸せがいつか失われてしまうのであれば、安心して幸せを享受していられません。それでは、苦しみは永遠についてまわるということになります。私は苦しみというものを、もう二度と味わうことがないように根絶したかったのです(そんなことが可能だとして)。

 それでは、お金持ちになるというのは、どうでしょうか?
 そもそも、お金が欲しいというのは、衣食住などの基本的な欲求を満たすことを別にすれば、結局のところ「心の満足」のためであることがわかります。高級車に乗りたいのは、移動したいからではなく、高級車を所有することから得られる心の満足のためです。また、お金が十分にあると安心するということもありますが、これも心の満足です。
 確かに、お金がたくさんあれば、心を刺激する楽しい経験がたくさん得られますし、不愉快な経験から逃れられる場合もたくさんあります。しかし、お金は万能ではありません。いくら大金を持っても失われてしまうことはありますし、お金を持っても、幸せが感じられない人も珍しくありません。ある大金持ちの人が、病気のために貧乏な人が食べているような粗末な食事しかできなくなったという実話があります。これではお金があっても意味がありません。
 ということは、いくらお金持ちになっても、幸せに対する私の条件、すなわち「その幸せは絶対に失われることはない」という条件を満たすことはできないことになります。というより、お金があるだけでは、完全な幸せは得られないのです。
 名声を得ることも同じです。名声を得ればしばらくは幸せかもしれませんが、じきに色あせてくることは目に見えていますし、温かい家庭なども、完璧な家庭などはなく、いさかいなど不愉快なものは多少なりともありますし、第一、人間はいつか死んでしまうので、幸せな家庭がいつまでも続くことはないのです。
 したがって、こうしたことも、私の幸せの条件を満たすことはありません。その他、いろいろ考えましたが、この地上に永続的な幸せを約束してくれるものは、何一つないように思いました。そうして、私が打ち出した結論はこうです。すなわち、
「地上では、人間は一時的には幸せになれるとしても、いずれその幸せは失われて苦しみを味わうことになる」。
 永久かつ完全な幸せは、存在していないのです。いみじくも釈迦が「諸行無常」と言った通りです。この地上世界は、本質的に無常ですから、その無常な世界で変わることのない永遠かつ絶対的な幸せを得ることは、不可能なのです。どんな人も、必ず死という決定的な打撃によって、すべてがうち砕かれてしまう運命にあるわけです。

 人生はあまりにも不安定です。病気や事故であっという間に健康が失われることがありますし、愛する人との死別や生別も突然にやってきたりします。自分が死ぬことだってあります。年間3万人以上が自殺していますし(事故か自殺か判明しないケースを含めると実際にはもっと多いでしょう)、自殺未遂はその10倍から20倍にのぼるといわれています。また精神的におかしくなり精神科に通う人は、その何十倍もいると推測できます。つまり、それだけ苦しんでいる人がたくさんいるということです。詐欺や闇金融やいかがわしい宗教などに引っかかって今まで苦労して貯めたお金を失う人も数え切れないほどいますし、会社が倒産して職を失う人も数え切れません。
 結局、人生というものは、こんな不幸や苦しみを次から次へと経験しながら、つかのまの幸せを支えに何とか耐えて生き続け、やがて死んでいくということになるわけです。
 しかも、「輪廻転生」が事実だとすると、こんなことを永遠に繰り返していかなければならないことになります。そうなると、「もういい加減に勘弁してくれ!」と言いたくなります。幸せと苦しみのシーソーゲームを永遠に経験させられるというのは、屈辱的と言えないでしょうか。
 この永遠に続く苦しみから根本的に救われる方法はないでしょうか?
 そう思って、いろいろな宗教や哲学をあさってみたのです。 (次回に続く)

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 修行者のレベル

 ヨーガの根本教典(「シヴァ・サンヒター」)を見ると、「修行者の種類」と題して、次のように書かれてありました。私たちが反省および目標となる指針になるかと思い、その部分を紹介させていただきます。(『続・ヨーガ根本教典』平河出版社より)

 修行者の種類
 ヨーガ修行者には軟弱級、中級、上級、極上級の四種があることを知るべし。極上級の秀れた行者は世界の大海を渡るに堪える人である。

〔軟弱級行者の特徴〕野心が少なく、愚昧で、病弱で、グルを軽んじ、貪欲で、了見が悪く、大食漢で、細君にたよっているもの、気分屋で、臆病で、病人で、他人だよりで、残忍で、善行に欠け、精進が足りない人、これらは軟弱な修行者であると知るべし。かかる人は非常な努力をしても、十二年間かかってやっとシッディを得るであろう。グルは必ずやかかる人をマントラ・ヨーガの適材と知るべきである。

〔中級行者の特徴〕寛容な心の持ちぬし、忍耐強き人、積善を志す人、やさしい言葉使いの人、どんな結果に対しても疑いなく平静な人、これらは中級の行者であると知るべし。このことを知って、グルはこの種の人にラヤ・ヨーガを授けるのが適当である。

〔上級行者の特徴〕堅忍な精神の人、ラヤ・ヨーガに通じ、独立心に富み、勇気のある人、度量が大きく、憐れみの心深く、忍耐心があって、正直な人、剛勇にして、少壮、信仰があって、グルの足を拝する人、ヨーガの修習を楽しむ人、かかる人物は上級の修行者であると知るべし。この人はヨーガの修習において六年間でシッディを得るであろう。この人には、きびしいハタ・ヨーガとその支分とを授けるべきである。

〔極上級の行者の特徴〕精力絶倫な野心家で、人間的魅力があり、勇敢で、教典に通じ、修習を心がけ、盲目的情動なく、容易に動じない人、いつまでも生新な若さを保ち、常に節食し、感官を支配し、恐れる心なく、清潔で、怜例で、慈善を行ない、すべての人に頼られる人、有能、剛毅、賢明であって、こだわりが無く、辛棒強い人、気立てがよくて、敬虔で、自分の努力を秘し、言葉やさしい人、聖典を信じ、神々とグルに仕える人、人間の集会に興味を持たず、恐ろしい疾患を持たない人、極上級の行者の戒律を知り、あらゆるヨーガを行ずる人、かくの如き人は極上級の行者であって、三年間でシッディを得ることは疑いない。かかる人物はあらゆるヨーガの適格者であって、この点では疑いの余地は全く無い。

 以上のなかで「シッディ」というのは、一般的にはヨーガの修行によって得られるさまざまな超能力のことを指します。「マントラ・ヨーガ」とは、マントラを繰り返し詠唱するヨーガ修行のことであり、「ラヤ・ヨーガ」とは、からだの内面から聞こえる精妙な音に精神を集中するヨーガ修行のことです。「ハタ・ヨーガ」は、アーサナ(体位法)やプラーナ・ヤーマ(呼吸法)にウエイトを置くヨーガ修行のことを指します。
 このブログを見て下さっている人のなかには、軟弱級行者のレベル(このような不届き者がそもそもヨーガ修行を志すとは思えないのですが)はいないかと思いますが、極上級の行者のレベルもいないのではないかと思います。やはり、めざすべきはこの極上級の行者ということになりますが、ここに書かれている特徴がすべて備わっているというのは、大変なことですね。しかし、それでもなお、目標としては、ここに書かれてあるような美徳を少しずつでも身につけていきたいものです。

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 神という言葉

 この社会でまともだと思われながら生きていくには、あまり宗教やスピリチュアルなことはいわない方がいいようです。たとえば「神」といっただけで、胡散臭く思われる風潮が日本にはあります。そのため、「サムシング・グレート」といった言葉を使っている人もいます。
 しかし、実際は名高い科学者でも経営者でも、神やスピリチュアルやオカルトを信じている人はけっこう多いようです。ただ、おおっぴらにそういうことをいうと、ビジネスや科学者としての名声に支障が生じるので、あまり口にはしないだけです。
 覚醒だとか、心の治癒といったことも、できれば「神」だとか、宗教的なことはいわない方がいいのかもしれません。しかし、私が心理カウンセラーとしてたくさんの患者さんに接してきて感じたことは、もし根本的に心を癒そうとするなら、どうしても神や宗教やスピリチュアルな問題を避けて通れない、ということでした。
 ところが、心理療法やカウンセリングの世界で、そのようなことをおおやけに言ったり、書いたりしている人は少ないのです。ユングは例外としても、あとははっきりと「死後の世界は信じない」と明言している人も少なくありません。私個人としては、死にゆく人や不条理な病気や苦難に苦しむ人に対して、宗教やスピリチュアルな問題を避けて、つまり、唯物的な考えだけで、どうして患者さんの心が癒せるというのかと、不思議でならないのですが。

 とはいえ、やはりひそかに霊的なものを信じている人もいて、以前、心理カウンセリングを学んでいる人なら知らない人はいないある有名な先生と一緒に食事をしたときのこと、その先生が真面目に「(精神的に病んだ)患者さんに接していると、邪気が移って具合悪くなるんだよ。だから、診察が終わったら、神社の神主さんが使う御幣(ごへい=お祓いのときに振る白い紙のついた棒)で自分の体を清めているんだよ」といっていました。
 また、心理カウンセリングには、テレパシーというものが大きく治癒に関係すると私は考えていたのですが、そんなことを口にしたり書いたりする学者なんてもちろん誰もいません(そんなことをしたら学会から仲間はずれにされるでしょう)。ところが、『説得と治療:心理療法の共通要因』(金剛出版)という、海外の有名な精神科医の書いた本には、心理療法にはテレパシーの要因が関係していると、はっきりと書いてあるのです! 通俗本ではなく、まじめな専門書にこんなことが書いてあるとは驚きですが、やはり一流の人は違うなあと感心しました。

 話がそれてしまいましたが、覚醒という道も、「神」などという宗教的な事柄は、社会的な体裁からすると、できれば避けたいのですが、避けて通れないのです。世間は、「神」だとか「祈り」だとかいうだけで、へんな目で見ますし、ましてや「オーム」などといったら、それこそ後ずさりされてしまうわけです。

 ただ、実際、「神」という言葉ほど、手あかにまみれた言葉はないかもしれません。人によってとらえ方がずいぶん違うのです。ある人は、「神」というと、厳しく人間の罪を罰して地獄に落とす怖ろしい存在だと思っています。ある人は、お賽銭をあげれば願いを叶えてくれる自動販売機のような存在だと思っているかもしれません。
 私自身は、神というのは、「人格をもった宇宙法則」のようなとらえ方をしており、あまり神話的で着色されたイメージはないので、「神」という言葉には抵抗はないのですが、人によっては、周囲から植え付けられた、ずいぶん不適切だと思われるイメージを抱いているということが、最近、少しずつわかってきました。
 そのため、「神」と言ったとき、それは私の意図している「神」とはまるで違うものとして相手に伝わっている可能性があるようなのです。
 これはまずいと思いました。覚醒というものは、幻想を排除する方向を持たなければならないのに、逆に幻想を増強させてしまうのではないかと。

 そこで、神という言葉をなるべく使わずに、「実在」という言葉で代用しようかなと考えているのです。「実在」という言葉は少し堅いイメージがありますが、それほど着色されたものではないと思います。老子が、神や宇宙法則といったようなものは言葉では表現できないが、言葉を使わないと伝えることができないので、仕方なく道(タオ)という言葉を使ったように、私は「実在」という言葉を使うようにしようかなと、今、考えているのです。
 この実在というのは、高い次元の霊的な存在すべてを含めるとします。すなわち、それは神であり、仏であり、守護霊、守護神であり、天使であり、菩薩であり、宇宙法則であり、サムシンググレートであり、特定の聖者でもあるわけです。
 とにかく、高い次元には、私たちを救おうと力を貸してくれる存在がある、それを「実在」という言葉で表現しようかと。そのため、神という言葉の方がしっくりくる人は、「実在」を「神」に置き換えて読んでいただく、仏教徒なら「仏」に置き換えて読んでいただく、好きなように置き換えてかまわないようにしようかと。
 こうすることで、社会的な誤解も避けられるし、私の意図することが歪められて伝わることも、少しは減るのではないかと考えているわけです。

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修行の本質について 2

 しかし、一所懸命がんばっても、覚醒できなかったらどうでしょうか? 実際、その可能性の方が高いと思うのですが、それはなんと辛いことでしょうか。
 残業でくたくたになり、入浴して遅い夕飯を食べ、あとはもう、ゆっくり疲れを癒したいという欲求にも負けず、じっと我慢して瞑想したり、呼吸法をしたり、アーサナをし続けてきたのに、それらがすべて無駄な努力になってしまうのです。
 こんなことなら、ビールでも飲みながらスポーツ・ニュースを見ていた方がよかったと後悔するかもしれません。食べたいものを遠慮なく食べ、趣味や娯楽に時間を使えばよかったと嘆くかもしれません。あるいは、出世に必要な資格取得のための勉強にでも費やした方がよかったと思うかもしれません。
 覚醒の道とは、このように、ある種の大きなギャンブルといえるわけです。途中でやめるくらいなら、最初からやらない方がましです。途中でやめたら、それまでの修行に費やした時間と労力はまったく無駄になってしまうからです。死ぬまで続けても覚醒できないかもしれないのです。
 覚醒の道というものは、一か八か、すべてか無か、です。修行に費やした膨大な人生の時間が、一瞬にしてパーになるかもしれないのです。
 そういうことになっても、静かに潔くその結果を受け入れる覚悟がなければ、覚醒の道など歩まない方がいいと思うのです。

 しかし、覚醒という、神に近づく聖なる道を、誰にも認められるわけでもなく、毎日こつこつと歩んでいるその姿は、すでに神であり、仏であるといえないでしょうか?この暗く混迷した世の中における、光であるといえないでしょうか?
 仏教の目的は「成仏」することです。成仏とはもちろん、死ぬことではなく、仏に成ることです。しかし、人間の本質は最初から仏なのですから、「成る」必要はないわけです。もうすでに私たちは仏なのです。
 ただ、仏であることに気づくこと、目覚めさえすればいいのです。しかし、もしその人が仏と同じ生き方をしていたなら、本人は仏であることに気づいていてもいなくても、第三者にとっては、その人はまさに仏そのものではないでしょうか。
 覚醒のための修行とは、仏の生き方、神の生き方そのものだと思うのです。表現を変えれば、仏や神のマネをすることです。それを完全にマネして生きる人は、世界にとってはまさに仏であり神そのものではないでしょうか。覚醒していようと、していまいと、関係はありません。

 つまり、私たちは覚醒の修行をしているときには、すでに神となり仏になっているわけです。そのような生き方をすれば、その影響力が周囲に放たれないということは決してありません。家庭でも職場でも、社会の到るところでも、その人の存在からは神的な影響力が放たれ、人や社会を変えているのです。これは疑いようもない事実だと思います。
 ですから、覚醒の修行が成就するかどうか、と気にするべきではないのかもしれません。人間はすでに神であり仏なのですから、実は修行なども必要なく、このままでいいともいえるわけです。ただ「このままでいい」ということがわからないから、修行をしているわけです。
 覚醒の修行をするときは、自分以外のなにものかに「成ろう」と修行するべきではないと思うのです。すでに神であり仏なのですから、それ以外のものに成ってしまったら、仏でも神でもなくなってしまうことになります。
 修行の目的は確かに「覚者に成る」ことではありますが、覚者とは「気づいた人」のことですから、「気づいた人になる」ということですが、しかし私たちが日常でなにかに気づいたとき、「自分は気づいた人になった!」などと表現しません。つまり、「覚者に成る」という言い方は、不自然なのです。

 したがって、成るのではなく、「ありのままでいよう」という発想で修行するべきだと思うのです。ありのままが神であり仏だからです。
 修行というものは、交換条件の取引ではありません。「これだけ修行をしますから、その報酬として覚醒を与えて下さい」というものではないと思うのです。愛が、交換条件の取引から生まれるわけではないように。「私はあなたを愛したい。そのために修行しなければならない」などという人はいません。愛は修行の末に生まれるものではないからです。
 神も仏も、その本質は愛だといわれます。であるならば、修行というものは、何かに成ったり、愛を獲得するための手段などではなく、目的そのものだということになります。
 つまり、修行とは、愛することなのです。瞑想も、呼吸法も、アーサナも、すべては愛の表現にすぎないということです。そういう発想で行うとき、すべては本当の意味で「修行」になるのではないでしょうか。これが、修行の本質であると思うのです。
 人生というものは、どれだけ成功したとか、財産を作ったとかで価値が決まるのではなく、いってみれば「愛した者勝ち」なのです。
 毎日こつこつと、覚醒の修行を続けていくこと、すでにそれだけで、人生の勝利者であるといえるのではないでしょうか。


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