心の治癒と魂の覚醒

        

神を愛するとは?


 インド系の宗教では、解脱に導いてくださるよう守護神に祈るとか、グルを敬愛せよとは説かれていますが、「神を愛せ」とは説かれていないようです。インド系の宗教では、神というものは非人格的な宇宙法則のようなものと考えられているからかもしれません。
 一方、ユダヤ・キリスト教では、「神を愛せ」ということが非常に強調されています。神を愛することが信仰や修行の中核にあるといってもよいでしょう。
 では、実際のところ、私たちが覚醒(悟り、解脱、救い)を得るためには、神を愛することは必要なのでしょうか?
 この場合、そもそも「神とはいかなる存在か?」ということをまず明確にしなければ、この問いには答えられないかもしれません。しかし、その問題を扱うときりがないので、とりあえずここでは、「私たちを助けようとしてくれる高い霊的次元の人格的な存在」と定義しておきたいと思います。
 さて、覚醒するために、そのような神を愛することは必要なのでしょうか?
 しかし、このように問いかけたとき、さらにもうひとつ明確にしなければならない問題が生じてくるのです。
 それは、「愛とは何か? 愛するとはどういうことか?」です。
 いうまでもなく、(真実の)愛は、単純に「好き」という気持ちではないでしょう。「神を愛する」とは「神のことを好きになる」という程度の意味ではないわけです。
 ならば、神を愛するとは、具体的にどのようなことをさしているのでしょうか?
 神を愛するとは、究極的な意味では、「神とひとつになる」ことではないかと思います。
 もともと、私たちの本質は神に由来しているのです。私たちは神の子なのです。人間の子が人間であるように、神の子である私たちは神なのです。
 ところが、私たちはまったく神らしくありません。ほんの少数の聖人と呼ばれる人を除いて、私たちはあまりにも不完全であり、低俗な欲望にまみれ、憎しみ、罪を犯し、くだらないことに埋没しています。神が持っているであろう高貴なる性質がめったに発揮されていないのです。
 こんな状態では、当然のことながら、「神とひとつである」などと言えません。
 したがって、神とひとつになる、つまり、神を愛するとは、「神の性質を発揮して生きる」ということになるのではないでしょうか。
 神は、愛、寛容、忍耐、たくましさ、勇気、叡智、明るさといった、あらゆる美徳を備えているはずです。そのような美徳を自分の美徳とし、その美徳を発揮したとき、実質的に「神と一体になる」のだと思います。
 神は、人間が自分と同じように、そうした美徳(神性)を発揮して生きることを望んでいるはずです。誰かを愛するとは、相手が望むことを無条件でしてあげることだとも言えるでしょう。ですから、神を愛するとは、神が望むことを無条件ですること、つまり、自分自身が神のようになることです。
 ここで大切なことは、「無条件で」ということです。「神が望むことをするから、そのかわり覚醒させてください、救ってください」というのは、打算であり、無条件ではありません。これでは、本当に神を愛したことにはなりません。単なるエゴを満たす行為にすぎないわけです。そして、エゴがある限り覚醒はできません。本当の愛は無条件であり、いかなる報酬も求めない純粋なものです。
 つまり、愛することと、覚醒することは、同義語だといってよいと思われます。
 もちろん、神に対して「覚醒に向けて導いてください、助けてください」と祈ることは間違ってはいません。それは純粋な願いです。しかし「○○するかわりに導いてください、助けてください」ということが間違いなのです。「覚醒に導いてください、助けてください。でも、それとは関係なく、私はあなたを愛します。すなわち、あなたが望んでいる生き方をします」という気持ち、これこそが、正しい信仰のあり方ではないかと思うのです。
 以上のように考えると、私は覚醒するためには「神を愛する」ことは必要ではないかと思います。
 いえ、「必要だから神を愛する」というのは、間違っているわけです。「覚醒するために神を愛することは必要か?」という問いそのものが、そもそも間違っていました。
 覚醒しようとしまいと、無条件に神を愛することが大切なのです。このことは同時に、すべての人を無条件に愛するということを意味します。なぜなら、すでに述べたように、私たちはすべて神だからです。「私たちは神である」という自覚をもって人を愛するとき、神を愛することになるのだと思います。

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 マザーテレサの「心の闇」②


前回、あれほど人類に奉仕活動を捧げた聖女マザーテレサが、活動前にはしばしば感じられた神の愛(神秘体験)がまったくなくなり、孤独と暗闇にうち捨てられたかのようになり、信仰を失ってしまったような告白をしていることをご紹介しました。
 今回は、それはなぜなのか、私なりに推測してみたいと思います。
 マザーテレサは、貧しい人の気持ちを理解するために、貧しい人と共にあるために、自らを貧しくして清貧に生きました。彼女の私的な所有物は、ほとんどなかったと思います。物だけではありません。彼女が私的に使うことのできる時間さえ、ほとんど持っていなかったのではないかと思います。彼女は、貧しい人たちへの奉仕、シスターたちへの指導、世界中を廻っての啓蒙活動に明け暮れていました。それ以外の時間は祈りに費やしていました。
「時は金なり」と言いますが、時間を豊かに持つということは、お金を豊かに持つのと同じくらい、ある意味では物欲的なのかもしれません。本当に物質的なものを捨てた人は、物だけでなく、自分のための時間さえも捨てるのではないでしょうか。その意味では、マザーテレサはまさに物欲のすべてを捨てたと言えるかもしれません。

 ところで、キリスト教徒というのは、いったい何をもってキリスト教徒と言うのでしょうか?
 聖書の言葉を信じる人、教会に通う人、洗礼を受けた人、それをキリスト教徒と言うのでしょうか?
 私はそうは思いません。キリスト教徒というのは、(あくまでも私の定義では)イエスのマネをする人のことをいうのです。
 では、イエスは何をしたのでしょうか?
 イエスがしたことは、無私の愛の実践、そして、人間の本質は物質ではなく、物質を超えた神性を本質に持つことを示したこと、この二つです。イエスは教えを説くために地上にやってきたというよりは、手本を示すために地上にやってきたのです。
 ですから、このようなイエスをマネて、この二つを実践する人、少なくても実践しようと努力している人こそが、本当のキリスト教徒なのです。聖書の教えに通じるとか、教会に通うとか、洗礼を受けるとか、そのようなものは、どうでもいいことなのです。キリスト教など信じていなくても、この二つのことを実践している人は「キリスト教徒」なのです。
 そしてイエスは、こうした実践を、いわゆる「上から目線」で行ったのではなく、貧しく平凡な、また社会の最下層の人々と交わりながら実践していったわけです。
 キリスト教(教会)は、イエスを神として祭り上げ、遠い存在にしていますが、それは間違いだと思います。イエスはおそらく、自分を「お兄さん!」と親しく呼んでもらうことを望んでいたと思いますし、天界にまだ存在しているならば、今なおそう望んでいると思います。
 無私の愛というものは、金持ちが贅沢な生活をしながら貧しい者にお金を与えるような、そのようなものではないと思います。もちろん、富める者が貧者に経済的な支援をすることを否定しているわけではありません。しかし、イエスの無私の愛というものは、おそらくそういうものではないでしょう。イエスの愛をひとことで表現するならば、「常に隣にいる」というものです。高い所ではなく、隣にです。そして「一瞬たりとも離れることはない」というものです。ストーカーも顔負けの、いつもべったりと隣にいて、何があっても決して離れることはない、つまり、何があろうと何をしようと、決して見捨てることはない、というものです。それがイエスの愛です。
 その人の隣にいるということは、その人と喜びも悲しみも共有するということです。幸せ一杯の人がいくら物理的に隣にいても、本当の意味で隣にいるとは言えません。本当に隣にいるとは、その人の喜びも悲しみも自分のことのように感じるということです。

 貧しい人というのは、物質的に貧しい人のことを言うのではないと、マザーテレサは言っていたと思います。彼女が誰にも省みられず、ゴミのように道端やどぶの溝に横たわっている人たちを施設に連れてきて世話をした本当の目的は、そうした物質的な貧しさから救うことではなかったのです。貧しさから救うという手段を通して「あなたは愛される価値があるんですよ」ということを伝えるのが目的でした(彼女の本にそう書いてあったと思います)。
 人がなぜ貧しくなってしまうかというと、その根底には愛の欠如があるのです。人々や社会に愛がないからです。たとえ本人の怠惰のために貧しくなってしまったとしても、そうなった理由の根源には、愛の欠如があるのだと思います。貧しい人は、物に飢え、そして愛に飢えているわけです。両方、あるいはどちらかに飢えていれば、それは「貧しい人」なのです。
 物に満たされ、愛に満たされた人が、そうした人々の「隣人」になることはできないのです。身をもってその辛さに共鳴することはできないからです。物に飢え、愛に飢えている人にとっては、物にも愛にも満たされた人など「隣人」とは思えないでしょう。
 物に飢え、愛に飢えている人こそが、隣人となり得るわけです。つまり、そういう人こそが、真のキリスト教徒になり得るのです。
 もしも、マザーテレサが、求めたらいつでも神の愛と祝福に満たされ、恍惚感に浸ることができたとしたら、貧しい人の隣人であり続けることはできなかったと思います。つまり、彼女の願いである(真の)キリスト教徒となることはできなかったのです。そうしたら彼女の「魂」は、悲しみ悔やんでいたに違いありません。真のキリスト教徒になるには、物質的に貧しくなるだけではダメなのです。愛においても貧しくならなければ。そのために、神の愛を感じる神秘体験から切り離されてしまったのではないかと思うのです。

 イエスは十字架にはり付けにされたとき、こう叫んだと言います。
「ああ、神よ、なぜ私を見捨て給うのですか?」
 この言葉は、まさにイエス自身さえも、神への信仰を失っていたことを示しているのではないでしょうか。本当に神への信仰があれば、こんなことは口にしないはずです。
 つまり、イエスもまた、神の愛に飢えていたのではないでしょうか?
 しかし、その後、イエスはこう言っています。
「すべてを神にゆだねます」
 マザーテレサもまた、この2つの言葉と内容的にはまったく同じことを言っていることは、前回、見た通りです。
 イエスは、こうした言葉を口にして、人類に手本を示していたのです。「これが本当の信仰なのである、これが人間の生き方なのである」という手本です。
 つまり、神から見捨てられてしまったという思いは、一見すると信仰を失ったように感じられますが、実は反対なのです。逆説的ですが、それこそが本当の信仰なのです。ただし「すべてを神にゆだねます」という気持ちが伴っていることが条件です。本当の信仰者とは、神の愛に飢えながら、神に自分のすべてをゆだねる人のことを言うのではないでしょうか。
 しかし実際には、イエスも神も、一瞬たりとも隣から離れたことはなく、ずっと愛し続けているのだと思います。神の僕として選ばれた人は、その天命をまっとうするために、あえて愛の孤独の闇へと導かれていくのではないでしょうか。イエスも神も、愛するがゆえに、あえて愛していることを告げないのです。

 この世で苦悩する人というのは、要するに、信仰を失った人たちです。神の愛が感じられない、神が信じられない人たちです。だから苦悩しているのです。そういう人たちの隣人になるには、つまり、そうしてイエスをマネて真のキリスト教徒になるには、神への信仰を失い、神の愛を感じられなくなり、その孤独と闇の痛みを共有しなければならないのでしょう。愛に満たされて「のほほん」としているような人は、苦悩している人の隣人になることも、「キリスト教徒」になることもできないのです。実際、愛を味わって満たされている人よりも、愛の欠乏に苦悩している人の方が、案外、周囲に愛を放っていることが多いものです。
 以上のような理由から、マザーテレサはまさに、真の信仰を生き抜いた、比類なきキリスト教徒であったと、私は考えています。彼女は一瞬たりともとぎれることのない愛で、実はイエスから、神から、愛されていたのです。


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マザーテレサの「心の闇」①

 
 マザーテレサと言えば、インドで貧しい人々のために献身的に尽くし、まさにキリスト教徒の鏡であり、ノーベル賞まで受賞した聖人です。彼女ほど深い神への信仰を持っていた人はそういないと思われるほどです。
 ところが、そのマザーテレサが、ごく親しい神父への手紙で、神の存在を疑い苦悩していたことを、先日、あるスピリチュアル系のサイトをたまたま見ていたときに知りました。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/sp_newsletter/spnl_backnumber/spnl-50/spnl-50-1.htm

 これは、世界中の人に衝撃を与えたようですが、私にとってもいろいろな意味で驚きでした。この手紙は、2007年に出版された “Come Be My Light”という本のなかで公開されているそうです。その一部を紹介してみます。

●1953年(マザー43歳)……ペリエール大司教への告白
「私の心の中に恐ろしい闇があるために、まるですべてが死んでしまったかのようです。私がこの仕事(*インド貧民街での奉仕の仕事)を始めるようになって間もないときから、このような状態がずっと続いています。」

●1959年(マザー49歳)……ピカシー神父への告白
「主よ、あなたが見捨てなければならない私は、いったい誰なのでしょうか? あなたの愛する子供は今、最も嫌われ者になっています。あなたから求められず、愛されず、私はあなたから捨てられてしまいました。私はあなたを呼び求め、すがりつきますが、あなたは応えてくれません。闇はあまりにも暗く、私は孤独です。求められず、見捨てられて、私は独りぼっちです。愛を求める心の寂しさに耐えられません。

私の信仰は、いったいどこに行ってしまったのでしょうか? 心の底には、虚しさと闇しかありません。主よ、この得体の知れない痛みは、何と苦しいことでしょう。絶えず私の心は痛みます。私には信仰がありません。私の心に次々と湧いてくる考え、私を苦しめる言葉にできない苦悩を口にすることはできません。答えを見い出すことのできない多くの疑問が、私の中に存在しています。私はそれを打ち明けるのが怖いのです。それが神を冒涜することであると思うと……。もし神がおられるのなら、どうか私を許してください。すべてがイエスとともに天国で終わるという希望を、信じさせてください。

愛――その言葉は何の喜びも私にもたらしません。神が私を愛していると教えられてきました。しかし闇と冷たさと虚しさに満ちた現実があまりにも大きいため、私の心は何の喜びも感じることができません。私が(奉仕の)仕事を始める以前には、愛も信仰も神への信頼も祈りも犠牲精神も私の中にありました。主の呼びかけに忠実に従う中で、私は何か間違いをしでかしたのでしょうか? 主から与えられた奉仕の仕事に、私は疑いを持ってはいません。その仕事は私個人のものではなく、神ご自身のものであると確信しています」

●1985年(マザー75歳)……アルバート・ヒュアート神父への告白
「私がシスターや人々に神や神の仕事について口を開くとき、その人たちに光と喜びと勇気をもたらすことをよく理解しています。しかしその私は、光も喜びも勇気も何も得ていないのです。内面はすべて闇で、神から完全に切り離されているという感覚です」

 マザーテレサは、インドでの奉仕活動をする前は、神の愛に触れる、ある種の神秘体験をし、それで満たされ、神への信仰と奉仕への情熱をもっていたようです。ところが、奉仕を始めたとたん、上記のような「心の闇」、「神の不在の感覚」に苦しむようになったというのです。
 これは心理学的にはうつ病と診断されるのかもしれませんが、むしろキリスト教の世界でいう「魂の暗夜」とか「神の蝕」と言うべきものです。神の存在が感じられなくなり、深い孤独と闇の思いに打ちひしがれてしまう現象です。ただ、これほど長い間続いたというのは、珍しいのではないかと思います。
 こうした苦しみを背負いつつも、マザーテレサは次のように告白しています。

「もし私の痛みと苦しみが、私の暗闇と分離があなたを慰めることになるのなら、主よ(イエス様)、私をあなたの望まれるようになさってください(中略)。私はあなた自身のものです。私の魂に、あなたの心の苦しみを刻印してください。私の感情を気にしないでください。私の痛みを心にとめないでください。(中略)主よ、今だけでなく、今後永遠に私が苦しみ続けることをあなたが望まれるのなら、あとのことは心配しないでください。たとえ苦痛で弱った私の姿を見ても……。これは、すべて私の願いです。私はいかなる犠牲を払ってでも、あなたの渇きを癒して差し上げたいのです」

 このように、あくまでもイエスに対する従順な気持ち、またイエスの苦悩を自分も(こういう形で)共有するという、キリスト教徒らしい心情も一方で語っています。そこには痛々しいほどの葛藤を感じます。
 このような苦痛と共に、87歳で亡くなるまで奉仕活動を続けたその強靱な精神力には感嘆を禁じ得ません。さぞかし辛く苦しかったと思いますが、マザーテレサは見事に偉業をやり抜いたのです。
 ところで、ここで疑問に思うのは、なぜマザーテレサは、このような苦痛に見舞われなければならなかったか? ということです。奉仕活動を始める以前にしばしば訪れたらしい「神の愛」を感じられた神秘体験がその後もあれば、こうした苦悩はなかったわけです。
 いったいなぜ、神の愛が感じられなくなってしまったのでしょうか?
 マザーテレサが行った活動は、イエス(神)の意図に反していたからなのでしょうか?
 そのための罰、あるいは、そのためにイエス(神)から見捨てられてしまったのでしょうか?
 そうは思えません。マザーテレサの活動は偉業であったことは間違いないでしょう。彼女がイエス(神)の意図に反したことをしてしまったという可能性は考えられません。
 ではなぜ、あのような辛い「心の闇」、「魂の暗夜」を、長きにわたり味わなければならなかったのでしょうか?
 そのことにイエス(神)が関与していたと仮定して話を進めるなら、イエス(神)は意味があって、マザーテレサにあのような苦痛を与えたことになるでしょう。
 ならば、その意味とは、何なのでしょうか?
 もちろん、私にはわかりませんし、たぶん、誰にもわからないと思いますが、「こうではないか?」と感じたことを、次回、ご紹介させていただきたいと思います。

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 容赦なき神の愛


 私が宗教やスピリチュアルな世界を探求する際には、ある姿勢を貫くことをモットーにしています。というより、その姿勢が自然になっています。それは、「地に足をつける」ことです。すなわち、現実をしっかりと認識しながら、宗教やスピリチュアルな世界を探求することです。
 スピリチュアルな世界でしばしばうんざりすることは、自分の都合のいい夢やファンタジーを追いかけ、現実から遊離して軽薄な点が見られることです。若い頃、そういう人たちの集まりに行き、そこで私が現実的な意見をいうと、たいてい嫌われました。彼らの「夢」を壊したからです。しかし、しょせん夢は夢です。
 そういう点でいえば、私はスピリチュアルな事柄にはクールなのです。前回は「神への情熱」を熱く説きましたが、今回はまったく逆のことをお話したいと思います。私はしばしば矛盾したことを言うので、人を困惑させたり、「二枚舌」を使っていると思われているかもしれませんが、この世界というものは、表と裏、陰と陽、光と影によってできており、一方だけを語ることは真実を語っているとは言えないと思うわけです。両方を語ることが真実を語ることではないでしょうか。そうなると、結果として矛盾したことを言わざるを得ません。しかし、霊的な覚醒は、この矛盾を乗り越えていくことにあるのだと思います。

 それでは、本題に入りたいと思いますが、それは、神を愛しているという人は、結局、自分で作り上げた「神のイメージ」を愛しているだけではないのか、ということです。ほとんどの人は、自分の都合のいい「神」を愛しているのです。
 それでは、神の実像とは、どのようなものなのでしょうか?
 神は愛であるというのが、少なくても神の定義でしょう。神が愛ではないとしたら、そのような存在を神と認めることはできないでしょう。ですから、神は人間を愛しているところから話を出発させたいと思います。
 誰かを愛するとは、その人が幸せになるように、喜びをもって生きられるようにすることだと言っていいと思います。もちろん、その幸せや喜びというのは、精神的また霊的なものです。
 そのために、神は試練(苦しみ)を与えます。あるいは、神そのものが試練を与えることはないが、自らのカルマの結果だとか、キリスト教世界では悪魔などの仕業によって、その人が苦しむのを「容認」することがあると言われています。
 確かに、人間は苦しみを通して成長するものであると、私も思います。
 しかし、その苦しみにも「限度」というものがあると思うのです。
 たとえば、自分の子供が本当に幸せになるには、その子供をめったうちにし、身体に障害を負わせ、醜い姿にし、そうして苦しい人生を送ることで、晩年にはすばらしい人格者となり、精神的な喜びをつかむと思ったとします。実際、その考えが正しいとします。
 しかし、そんなことができるでしょうか。骨が折れ、顔がつぶされ、「助けてください!」と必死に救いを求めているのに、「この苦しみを通して本当に幸せになれるんだよ」など言うことができるでしょうか。
 そのようなことができる親などいないでしょう。社会的にも、もしそんなことをしたら、犯罪となります。自分ではなく人がそうするのを黙って傍観していた場合もです。
 親からすれば、子供が立派に成長して幸せになることは望みながらも、そこまでの壮絶な苦しみを与えることはできません。それが、人間の「愛」というものです。そして、私たちは、この人間的な愛を神に求めています。そうして神に祈りを捧げているわけです。


 しかし、神の「愛」は、違うのです。神の愛は、人間の感覚からいえば、容赦というものがありません。
 神に祈れば、苦しみを救ってくれるものと、私たちは思っています。実際、祈って救われたという人もいるでしょうが、それが絶対的な事実ではないことは、少し考えればわかることです。たとえば東日本大震災で死んでしまった人は、誰も神に救いを祈ってはいなかったのでしょうか? たくさんいたと思います。しかし、祈りはかなえられませんでした。容赦なく津波に飲まれ、死んでいったのです。
 私たち人間は、「もう耐えられない」というほど打ちのめされ、神に救いを祈っているのに、それが叶えられるどころか、まだ足りないとばかり、さらに追い打ちをかけるように苦しみが訪れることも少なくありません。そうして、ついには精神がおかしくなったり、自殺をしてしまったりすることもあるのです。それは何という残酷でむごいことでしょうか。しかし、そうしたことが起こっているのがこの世の現実なわけです。

 たとえば、若いときからまじめにコツコツと働いてきた中小企業の社長が、不況などの影響で仕事がうまくいかなくなり、親会社からは無理な要求をつきつけられ、ついには膨大な借金を抱えて倒産し、家も失い、家族からも愛想尽かされて離縁され、何もかも失って小さなアパートでひとり孤独に暮らし、残された余生は借金の返済だけに生きるようになるといったことが、たくさんあるわけです。いい加減な仕事をしてこうなったのなら自業自得で納得もいくでしょうが、遊びも贅沢な暮らしも控えてひたすら真面目に働いてきた結果がこのような仕打ちだとしたら、それこそいったいどこに神がいるのだと思うでしょうか。一方で、不正なことをしているのに恵まれて豊かな生活をしている人が意気揚々と人を見下して生きている姿を見るなら、この世に生きる価値など、どこに見いだすことができるというのでしょうか。
 神は、それでも何もしてくれないのです。そういう苦しみを味わうことで、たとえば「カルマの清算」などをして、来世では幸せになれるといったような考えがあるからでしょう。

 これが、「神の愛」なのです。
 永遠である神から見れば、人間の一生など、たいしたことではないのかもしれません。また次の生まれ変わりがあると考えているのかもしれません。私たちの「命」など、私たちが考えているほど重いものではないのかもしれません。でなければ、こうも簡単に人が死んでしまう状態を、神が黙認している理由がわかりません。
 神のしていることは、人間社会のレベルでいえば「犯罪」です。親が保護者としての務めを果たしていません。人間社会からいえば、神は「犯罪者」なのです。

 問題は、このような神を、私たち人間は愛することができるかどうか、です。
 人生がうまくいっているときは、神を愛することは簡単にできます。「神様はありがたいな」と感謝することができます。
 しかし、神の容赦なき姿に接したとき、果たしてどれくらいの人が、神を愛することができるでしょうか。
 仮に、あなたの親が(あるいは他の人に頼んで)、「おまえを幸せにするために」という理由で、幼い頃にあなたをめったうちにし、そのためあなたは歩くこともできず、顔は醜く変型して誰からも愛されず、話すこともできないようなからだになっているとしましょう。果たして、あなたはそんな親を愛することができるでしょうか? たとえ「おまえの幸せのために」という動機からだったとしても、そこまでの苦しみを与えた(容認した)親を、愛することができるでしょうか。もしできるというのなら、世の中のすべての人を愛することができるのではないかと思います。
 神という親は、それを平気でやる存在なのです。現実を見ればそれがわかります。もちろん、すべての人がこれほど悲惨ではないでしょうが、これくらい悲惨な、場合によってはもっと悲惨な人生を送っている人が、現実にいることは事実なのです。
 このような苦しみのどん底に打ちのめされていてもなお、神を愛することができるならば、その信仰は本物だと思います。

 おそらく、そのような状況で神を愛することができるとしたら、人間の一生などたいしたことではないという考えを持たなければ無理だと思います。そう考えなければ、絶望と不条理の苦悩を味わう状況でも神を愛することは不可能だと思います。
 人生などたいしたものではないと思えば、私たちの人生に対する神の仕打ちも「たいしたことではない」ことになります。そうしたら、自分の幸せを願ってくれるという、その動機だけが重要となり、有り難いものと感じられるかもしれません。そうして、神を愛することができるかもしれません。
 人生をたいしたものであると思っているから、人生がめちゃくちゃになると憤りを覚え、神を呪ったり、神の存在を信じられなくなったりするわけです。
 ですから、私たちは、人生など、たいしたものではないのだと思った方がいいのかもしれません。「出世しなければならない」「成功しなければならない」「自己実現しなければならない」「人や世の中から認められなければならない」「人や世の中の役に立つ人間にならなければならない」といった思いなどは、捨てた方がいいのかもしれません。
 もちろんだからといって、投げやりに生きればいいと言っているわけではありませんが、過剰に「ひとかどの人間にならなければならない、人生を意味あるものにしなければならない」ということにこだわっているのは、よくないと思うのです。

 つまり、人生そのものに執着し過ぎるのも、よくないのです。人生は大切であると同時に、それほど大切ではないのです。世のため人のために偉大な業績を残して歴史に名を刻んだような人生も、誰からも認められず世のため人のために何かしたわけでもなく、ただ平凡に、あるいは苦しみに満ちただけの人生も、神の目から見れば、どちらも「たいしたことではない」ように思います。世の中に認められるような人間にならなければ、あるいは幸せにならなければ、その人生には価値がないという考えは正しくないのです。どんな人生にも価値はあるのです。ただ、人間が勝手に価値がないと思っているだけです。あるいは、どんな人生にもたいした価値はないのです。ただ、人間が勝手に価値があると思っているだけです。どちらも、事実ではないでしょうか。
 人生に執着せず、「人生を捨てた生き方」をすることです。人生に何も期待しないことです。そんななかで、自分に愛を向けてくれる存在の気配を感じたとき、私たちは、どのような状況におかれていようと、無条件に神を愛することができるのかもしれません。
 そのようにして神を愛することが、覚醒の道の極意なのかもしれません。

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 どうしたら神を信じられるか ①

 神(あるいは仏、その他、高次の霊的存在)を信じることが、宗教や信仰生活の第一歩となることは、言うまでもないでしょう。なぜなら、神が存在するかどうかは、(少なくても客観的な科学的事実としては)実証できないからです。ですから、信じるしかないのです。
 それに対して、今の科学は基本的に唯物主義なので、(頭の固い)科学者は、目には見えないし観測もできない「神」などというものを信じる人々は、それだけで狂信だと思っているかもしれません。
 しかしながら、最先端の科学理論によりますと、この宇宙に存在するもののうち、私たちが観測できたのは、わずか5%ほどで、残りの95%は観測できない未知なるエネルギー、あるいは他次元の何かだと言われているのです。そうなりますと、わずか5%しか宇宙のことを知らないのに、「神などいない、神を信じる人間は狂っている」と決めつけることはできません。そのような見解の方が狂っているように思えます。

 それはともかくとして、五感でとらえることができず、観測もできない神を本当に信じることは、実際にはかなり難しいと思います。神を信じていると語る人はたくさんいますが、いざとなると信じていないことが露呈してしまったりするのです。
 正直なところ、私も頭では神を信じているつもりですが、厳しく自分を見つめるとき、本当に信じてはいないのではないかと思ったりするのです。
 というのは、神は宇宙を創造するほどの偉大な力を持ち、また愛ですから(愛でなければ神とは呼べないでしょう)、神は私たちが幸せを祈れば、それを聴いてくれて、私たちが幸せになるように導いてくれるはずです。まさか、耳が遠くて私たちが一生懸命に祈っても聴こえないということはないでしょう。たとえ祈らなくても、私たちが幸せになるように導いてくれるはずです。
 そうなると、神に祈りを捧げ、人間としてそれほど悪いことさえしない生活を送るならば、幸せになっていくはずなのです。
 ところが現実には、幸せになるどころか、さまざまな不運や苦労が訪れたりするのです。多少の不運や苦労なら我慢できますが、心を歪ませ腐らせてしまいかねないほどの苦しみがやってきたりするわけです。
 しかし、本当に神を信じているならば、「この不運や苦労も、幸せになるためのプロセスなのだ」と思って、このことで苦しんだり悲しんだり、腐ったり、心を乱したりしないでしょう。「これも、私が幸せになるために必要だから神様が与えて下さったのだ。ああ、何てありがたいことだろう」と思って、素直に感謝して喜ぶはずです。
 しかし、私にはなかなかそれができません。嘆き、怒り、神に文句を言い、心を乱してしまいます。そうして、私は本当に神を信じてはいないのだと気づくのです。ただ自分の都合のいいように、神を利用していたにすぎないのだと。そして、いかにも神を信じているかのようにブログで書いたりしている自分が偽善者のように思えて自己嫌悪に陥ってしまうのです。
 
 ただ、少し言い訳をさせていただければ、信仰に目覚めた若い頃は、けっこう本気で神を信じていました。「神に祈っていれば、望みを叶えてくれるのだ、すべてよくなっていくのだ」と単純に信じていました。その結果、確かに叶えられた望みもありました。しかし、叶えられない望みもかなりありました。1年、2年、3年、10年、20年、ひたすら祈っているのに叶えられないとしたら、どうでしょうか。しだいに神への信仰が萎えてしまっても無理はないのではないでしょうか。祈り方が悪いのでしょうか? それとも、まだ時間が必要なのでしょうか? ならば、あとどれくらい祈ればいいのでしょうか? 30年でしょうか? その頃にはたぶん、私はこの世にいないでしょう。
 信用というものは、約束をきちんと果たされることで培われるものです。約束を破ってばかりいる人を、誰が信用できるでしょうか? 神も同じではないでしょうか。信じて祈っていれば、しだいに幸せになっていく、その実績が積み上げられてこそ、神を信じることができるようになるのではないでしょうか。そのような実績がなくして、祈っても幸せになるどころか、ますます不幸になっていくとしたら、神を信じなさいと言われても、約束を破ってばかりいる人を信じなさいと言われるのと同じではないでしょうか?
 こう考えると、信仰というものは、もともと実行が無理なことなのかもしれないと思えたりもするのです。
 しかしながら、最近、この懐疑の極点とも言うべきところにこそ、信仰のポイントと言いますか、奥義のようなものがあるような気がしてきたのです。(続く)

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