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心の治癒と魂の覚醒

        

精神的な終活と孤独

 まずはご報告とお知らせから。 
 今月のイデア ライフ アカデミー哲学教室は、「イスラム神秘主義スーフィズム 1」というテーマで行いました。スーフィズムは奥が深いので、とてもダイジェスト版だけで説明しきれないのですが、ほんのさわりだけでもご覧下さい(より詳しく知りたい方は、完全版をご購入ください)
動画視聴→

 スーフィズムは仏教とけっこう似たところがあります。このブログを読んでおられるような、霊的探求の求道者であれば、非常に得ることが多いと思います。

 では、本題にはいります。
 人生も終わりに近づいた人の中には、「終活」をはじめる人が多くいます。持ち物を整理したり、遺産相続の配分だとか、銀行預金の暗証番号だとか、葬儀はどのようにして欲しいといったことを書き込む、いわゆる「エンディング・ノート」に人気があるようです。
 こうした終活をしないと、残された家族などが大変な思いをするので、とても意義があると思います。しかし、こうした「終活」は、基本的に外面的で物質的なものです。
 私は、内面的で精神的な「終活」も大切であると思うのです。
 そうすれば、精神的に満たされて(少なくとも悔いのないように)死んでいくことができるでしょう。精神的な終活をしないと、苦しんで死んでいくことになるかもしれません。
 私がホスピスのカウンセラーをしていたとき、あるいは人から聞いた話をまとめると、自分の好きなように生きてきた人は、死ぬときも満足した様子で死ぬことが多いようです。それに対して、やりたいことがあったけれど、まともな就職をしてまともな仕事をするように親から言われたり、自分も好きなことに挑戦する勇気がなかったといった理由で、やりたかったけれど、できなかったことがある人は、死ぬ直前までそのことを悔いる傾向があるようです。
 なので、もし本当にやりたいことがあるのなら、それに挑戦するのがいいのではないかと思います。しかし、「やりたいこと」というのは、たいていはリスクが多くて成功することが少ないものであるのが普通ですから、たとえ失敗しても後悔しないという決意をしておく必要があります。失敗して、安いアルバイトや派遣で質素な生活をしなければならなくなるかもしれません。そのとき「ああ、最初からまともな仕事についていればよかったなあ」とは、決して後悔しないことです。もし後悔しそうなら、最初から冒険はやめておいた方がいいかもしれません。言い換えれば、その程度の恐怖心で躊躇するようなら、本当にそれは、やりたいことではないのです。本当にやりたいという燃えるような情熱があれば、誰がなんといおうと、あらゆるリスクがあろうと、やっているでしょう。

 それはともかく、好きなことをやってきた人が比較的安らかに死を受け入れることができるのは、もうこの世にあまり未練がないからなのでしょう。この世に未練、言い換えれば「執着」があると、死ぬ間際に苦悶することになるようです。

 そして、これからは霊的な話になるので、仮に本当のこととして話を進めると、人は死んで肉体から魂が抜け出し、地上から去っていくわけですが、もう魂には肉体もなければ物質的な地上世界とは離れていくわけですから、もし肉体的な欲望があっても、肉体がないので、その欲望を満たすことができなくなります。そのために、激しい苦しみに襲われるらしいのです。また、物質的ではない霊的な世界に移行するので、物質的なものに対する執着が強い場合も、その物質がもう手に入らないわけですから、やはりひどく苦しむらしいのです。
 以上の話が本当だとすると、私たちは、ある程度の年齢に達したら、物欲だとか、この世に対する執着を少しずづ減らしていく生き方をするべきではないでしょうか。
 そもそも、いくらお金があっても、あの世には持っていけません。また、いくら名声を得て、歴史に名を刻んで久しく自分の名声が後の人たちに知られることになったとしても、地上を離れてしまっては、そのようなことを見聞できなくなるでしょうから、これも意味がなくなります。さらに、この世では名声ある人(尊敬される人)とされても、霊的な世界では、地上の名声がそのまま評価されるとは限りませんし、霊的な世界の住民から尊敬されるとは限りません。
 いろいろな文献を読みますと、あの世で尊敬される人は、いわゆる「徳の高い人」です。すなわち、善行を行い、謙虚で思いやりがある人です。そういう人が霊的な世界で尊敬されるらしいのです。しかしこういう徳の高い人は、ほとんど例外なく肉欲や物欲が少ない人(魂)なのです。

 いずれにしろ、物質的な執着を持ち続けていると、今後は、ろくなことはないと考えた方がよさそうです。物質的な執着のみならず、人間に対する執着も、生きているうちになるべく捨てるようにすることです。なぜなら、死んでしまったら、もう愛着を寄せる人とは会えなくなる(少なくとも交流はできなくなる)からです。
 物質的な執着を捨てることも難しいですが、愛する人への執着を捨てるのは、さらに難しいです。疎遠な友達程度なら簡単ですが、親友や恋人、ましてや、親や兄弟、子供といった家族に対する執着を捨てるのはとても難しい。
 もちろん、実際に縁を切って離れるという意味ではありません。精神的に離れるようにするのです。いっぺんには無理ですから、少しずつ執着を減らしていくのです。

 そうして、孤独に慣れるようにしておくことです。
 個人差はありますが、歳をとるにつれて人は孤独になっていきます。独身の人だけでなく、たとえ結婚して子供がいたとしても、子供はやがて巣立っていき、夫婦二人だけとなり、いつかはどちらかが先に死ぬことになるでしょう。ですから、最終的には人は孤独になるのです。もちろん、中には老年になっても友人仲間がたくさんいて孤独ではない人もいるでしょうが、たいてい歳をとると、そのような社交的なことからは自然に足が遠のいて、孤独になっていく傾向があります。

 孤独は寂しく辛いですが、世の聖者たちは、孤独の中で内面性を進化させていきました。孤独であることは、人や社会への執着を断ち切るうえで、きわめて有効なのです。
 世間では、「老人になっても孤独にならないように、友達や仲間を作って大切にしましょう」などと言われたりしていますが、性格的に、そのようなことが簡単にできる人ばかりではありません。女性は比較的そうしたことができやすい傾向がありますが、男性は苦手な人が多いです。
 しかし、苦手なものを無理にやってもうまくいかないと思います。また、緊密な人間関係はよい面ばかりでなく、不愉快な面もあります。なので、無理に友達を作ろうとあせることはしない方がいいと思います。
 それよりも、孤独に慣れることです。孤独の中でこそ、人は内面的成長を大きく促すことができるのですから、孤独は社会が言っているほど悪いものではなく、内的成長を志す人にとっては、この世の執着を捨てるための、とてもすばらしい機会なのです。

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美への愛

 まずはご報告とお知らせから。 
 今月9月18日/19日のイデア ライフ アカデミー哲学教室は、前回の続きである「ギリシアの仏陀 プロティノス2」を行いました。彼の思想は難解ですが、およそ宗教というものの本質をついたすぐれた内容を持っています。ダイジェスト版では、とりわけプロティノスの人生観と世界観について解説してあります。ぜひご覧になってください。
 動画視聴
 イデア ライフ アカデミーも、今月で三周年を迎えました。三年間も続けられたのは、皆様のあたたかいご支援のおかげです。心より感謝申し上げます。
さて、来月(10月16日/17日)は瞑想教室で、禅に伝わる「十牛図」について紹介いたします。これは悟りの段階を牛をモチーフに描かれた十枚の絵のことです。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで

 では、本題にはいります。
 宗教やスピリチュアルの世界は、あいまいであり、混沌として、魑魅魍魎、玉石混交の世界です。つまり、何が真実であるかがはっきりしないのです。そのために、いわゆる「狂信」と呼ばれる現象が生じてくるわけです。しかし、狂信という非難も、たいてい世俗的な常識を基準にして一方的に判断しているわけで、もしかしたら世俗的な常識の方が「狂信」であり、「狂信」と呼ばれるものにこそ、真理がある場合も、あるかもしれません。実際、釈迦やキリストが、当時、説いた教えをそのまま現代で説いたら、おそらく狂信扱いされるのではないかと思います。つまり、彼らの教えはそれだけ世間的な価値観と隔たっていたのです。
 
 もちろん、自分の信じる宗教のために、何の罪もない人を殺したりすることは、あきらかに狂信でしょうが、基本的には、何が狂信で何が狂信でないかは、宗教の世界ではわからないのです。宗教やスピリチュアルの道は、一歩間違うと狂信に陥ってしまう、きわめて危険な道なのです。しかも、やっかいなことに、狂信に陥っているということさえ気づきにくいのです(気づいたら狂信とはならないでしょうが)。
 では、どのようにしたら、狂信という落とし穴にはまることなく、宗教やスピリチュアルの道をまっとうに歩んでいくことができるでしょうか?

 そのひとつの指針となるのが、「美への愛」です。すなわち、美醜を正確に見極め、美しいものを美しいと感じることができる感性、そして、そうした美を愛し求める情熱です。
 裏返して言えば、醜いものへの嫌悪です。
 たとえば、誰が見ても美貌の持ち主がいたとしましょう。誰もがそこに美を感じるでしょう。しかし、そのような美への愛は表面的です。もしその人が、非常に傲慢で自惚れ屋で人を見下し、嫉妬深く、人の悪口ばかり言っているとしたら、そうしたものに「醜さ」を感じて嫌悪を覚え、その人を美しいとは感じなくなるはずです。
 逆に、ルックスはいまひとつだけれど、人格が非常に立派であれば、その人に美を感じるはずです。つまり、見た目より人格に美を感じる愛の方が、より深く本質的なのです。

 このような、深く本質的な美への感性と愛が、狂信に陥る危険を回避するために、とても重要になってくるのです。金ピカの絢爛豪華な大伽藍に住み、派手な法衣を身にまとって仰々しい演出のもので舞台に立つ教祖を見て、そこに「美」を感じるとしたら、その美は浅はかです。宗教の世界は、世俗的物質世界からの超脱にあるのですから、むしろ反対に、質素な寺院や教会に住み、質素な衣服に身を包んだ、まったく飾り気のない柔和で謙虚な宗教家に美を感じる感性こそが、本質的な美への愛です。

 世の中には、「美」ということに関して、ほとんど感性も関心もない人がいます。美しさなどよりも、おいしいものを食べたりとか、金持ちになるとか、有名になるとか、そういったものにしか価値を感じない人がいます。
 しかし、こういう人は、宗教やスピリチュアルには向いていません。
 美とは、究極的には善であり真理から生じてくるものです。言い換えれば、美の根源は神です。ですから、美への愛を育てていくことを通して、ついには神に到達するわけです。
 美に対する感性がほとんど欠如している場合は、最初は物質的な美を愛することから第一歩を踏み出すべきです。美人への愛、自然への愛、芸術への愛、美しいデザインをした服、クルマ、バッグへの愛など、なんでもけっこうです。そうして、とにかく美の感性を養うことが求められます。
 しかし、次の段階では、そうした表面的な美ではなく、より本質的な人格的な美を感じる感性、そして、そのような美を愛する心を養うことです。

 このようにして、深く本質的な美への感性と愛を育てていくなら、宗教的なことで、何か判断に困ったときには(実際、何が本当かどうかよくわからない世界ですから)、「それは美しいか、美しくないか」で判断することができます。美しいと感じることは、絶対ではありませんが、ほぼ正しいものです。
 考えればわかることは考えて結論を出すべきですが、考えてもわからないものは、無理に理性や思考に頼りよりも、美的センスに頼った方が、より正しい選択となる可能性が高くなるでしょう。
 そして、狂信に陥る危険も少なくなると思います。なぜなら、深く本質的な美への愛をもっていたら、狂信は、美しくなく、醜いと感じるに違いないからです。
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 「断情報」のすすめ

 まずはご報告とお知らせから。 
 今月2月20日/21日のイデア ライフ アカデミー哲学教室は「カバラ思想の本質」というテーマで行いました。魔術や占いの一種であるかのように誤解されがちなユダヤの神秘主義カバラとは、どのような教えなのか? ぜひダイジェスト版をご覧ください。
 動画視聴
 来月は瞑想教室(3月20日/21日)で、「高次からの恩寵」というテーマで行います。霊的修行は、やはり自力だけでは限界があります。高次の霊的存在からの援助がどうしても必要になります。そのような援助を受けるにはどうすればいいのかについて、ご紹介していく予定です。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで

 では、本題に入ります。
 釈迦は弟子にこう説教しています。
 「修行僧は時ならぬのに歩き廻るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。時ならぬのに出て歩くならば、執著に縛られるからである。……そうして修行僧は、定められたときに施しの食物を得たならば、ひとりで退いて、ひそかに坐れよ。自己を制して、内に顧みて思い、こころを外に放ってはならぬ」(『スッタニパータ』第二章386~)
 つまり、托鉢は仕方がないが、それ以外は人がいる所にいくな、ということです。なぜなら、人がいるところは、五感を通して地上的な欲望を刺激するような情報が入り込んでくるからです。こんな感じで意識が外にばかり向けられていたら、霊的修行などできません。ですから釈迦は、「自己を制して、内に顧みて思い、こころを外に放ってはならない」と言ったのです。五感を通して物質的なものが意識に入り込んでくるのを極力阻止し、常に精神内部に意識を向けていることが大切になってくるわけです。
 私たちは、常に誰かとつながっていないと心穏やかでいられません。常に外部から何らかの情報(刺激)を取り入れていないと落ち着かないのです。まるで、酒を飲んでいないと不穏になるアルコール依存症のようなものです。いわば「情報依存症」に陥っているのです。常にスマホでラインやメールやSNSなどで人とやりとりし、あるいはyoutubeを見たり、音楽を聴いたり、ゲームをしたりしています。
 こんな感じで、いつも外部の刺激にさらされているような状態なので、自己の内面を見つめる時間といったものは、ほとんど失われています。こんな状況では、霊的に成長することは決してできないでしょう。ですから、可能な限り、余計な情報は遮断することが大切です。
 外部から入ってくる情報のうち、どれだけ本当に必要なものか、本当に大切なものか、よく吟味するべきです。仕事や生活をする上で本当に必要な情報は取り入れるべきですが、大部分は、単なる好奇心だとか、退屈しのぎといったようなもので、まったく必要のない、それどころか有害でさえある情報を取り込んでいるのではないでしょうか。
 必要ではない情報は極力遮断しましょう。そして、意識を内面に向ける時間をなるべく多く持つようにしましょう。
 しかし、すでに述べたように、私たちは「情報依存症」になっていますので、これはけっこう苦しいです。ある種の苦行と言えるかもしれません。苦行というと、「断食」などが浮かんできますが、断食ならぬ「断情報」は、断食と同じか、断食以上に苦しいかもしれません。
 しかし、自分が本当に変わるときというのは、苦しみが伴うものです。人間は、多くの場合、苦しみを通して変わるのです。霊的修行というのは、自分を変えていく作業のことですから、苦しみは覚悟しなければなりません。
 この地上世界は、戦場のようなものです。自己との戦い、誘惑や苦難との戦い、その連続です。苦しみの連続なのです。それがこの地上人生というものです。戦場にいる兵士たちは、自宅にいるときのように、平穏にくつろぎ、楽しみ、憩いを覚えることなどあるでしょうか。敵は、いつどこから攻めてくるかわかりません。常に警戒していなければならないのです。地上という戦場にいる私たちも、それとまったく同じです。この地上に、真の憩いの時間などといったものは存在しません。ただ、存在しているかのように錯覚しているだけです。
 
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自分を浄めること

 まずは例によってご報告とお知らせから。
 先日4月20日と21日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「インナーチャイルドを癒す」というテーマで行いました。
 誰もが、程度の差はあれ、親からネガティブな影響を受けているもので、それがインナーチャイルド(内なる子供)を生みだし、人生に暗い影を落としていることが少なからずあります。それは霊的覚醒の道を歩むうえでの大きな障害にもなります。そこで授業では、インナーチャイルドが形成された仕組み、およびインナーチャイルドを癒す仕組みを解説し、セルフケアとして私が制作した「インナーチャイルド・ヒーリングCD」を参加者にさしあげました。重度のインナーチャイルドは専門のセラピストにかかる必要がありますが、軽度から中度くらいであれば、根気よくこのCDを聴き、そこに指示された通りのイメージ作業を行っていくことで、しだいにインナーチャイルドが癒されていくのではないかと期待しています。詳しい内容についてはダイジェスト版で解説していますので、ぜひご覧になってください。
https://www.youtube.com/watch?v=t5lvOhMh_20&feature=youtu.be
 さて、5月のイデア ライフ アカデミーは特別授業ということで、5月18日(土)だけとなります。私の他に3人の講師が、さまざまな分野からの興味深い授業を行います。お時間のある方はぜひ参加なさってみてください。
 詳細↓
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/

では、本文にうつります。
 世の中には多くの宗教やスピリチュアルの教えがあり、多くの人々が熱心に教えを学んでいます。
 しかし、私はいつも思うのです。
 「これほど熱心に教えを学んでいるのに、なぜ人はなかなか変わらないのだろうか?」と。
 長い間、教えを説いてまわったインドの思想家クリシュナムルティは、晩年、側近の人に「私の教えを聴いて覚醒した人は誰もいない」と語ったことを、私はその側近の人から直接ききました。
 もちろん、なかには自分を変え人生を変えた人もいるでしょう。しかし、大部分は変わっていないのです。せいぜい「自分は変わった」と自己満足的な錯覚をしているだけで、はたから見れば、まるで変わっていないのです。
 実際、釈迦やイエス、その他、数えきれないほどの聖人がこれまで誕生してきましたが、人類はどれほど変わったでしょうか。
 多少はよい方向に変わった気もいたしますが、まだまだ人類は悲惨な状態にあります。あまりにも進歩が遅すぎます。
 いったいなぜ、人間はこうも変わることができないのでしょうか?

 その理由はいろいろあげられるでしょうが、私がもっとも大きな理由として考えていることがあります。
 それは、本気になって「自分自身を浄めようとしない」ことです。
 釈迦は次のように言っています(法句経183)。
 「すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、------これが諸々の仏の教えである」
 「諸々の仏」とは、釈迦を含めた過去の仏陀(覚者)の教えであるということですから、釈迦のこの言葉は、いわば「仏教の定義」であるとも言えるわけです。
 ここで重要なことは、「自己の心を浄めること」です。これが非常に重要なのです。というのも、釈迦はこうも語っているからです(法句経271)
 「わたくし(釈迦)は、出離(出家)の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥(が)することによっても、得られないものである。修行僧よ、汚れが消え失せない限りは、油断するな」
 すなわち、悟り(解脱)をするには、戒律や誓い、博学、瞑想、孤独の行だけではダメで、心の汚れを消して自分を浄めない限り無理である、と言っているのです。
 ところが、世の宗教と呼ばれるものは、戒律や誓いを重視し、学んで博学になることをめざし、瞑想のテクニックばかり追い求めています。いくらそういうことをしても、自分を浄めることをしないと、救いは得られないということになります。
 むしろ、戒律や誓い、博学、瞑想、孤独の行といったものは、すべて自分を浄めるためにあるのだと言ってもいいのではないかと思います。

 繰り返しますが、仏教の目的は「自分を浄めること」なのです。これは、およそ他のいかなる宗教の目的でもあると思います。
 自分を浄めるとは、人の不幸を願うような悪意、憎悪、嫉妬、妬み、怒り、貪欲、虚栄、自慢、吝嗇、欲張り、利己主義、肉欲への耽溺、軽薄さ、下劣、あさましさ……といった、いわゆる「心の汚れ」と呼ばれるようなものを、消し去ることです。ひらたくいえば、心の掃除をすることです。

 ところが、この心の掃除が、難しいのです。自分のからだや自分の部屋が少しでも汚れていると、すぐに掃除をしてきれいにする人でも、自分の心にゴミがたまり汚れていても、無頓着なことが多いのです。それはまず、心の汚れは物質的な汚れのように目に見えるものではないため、自分の心が汚れていることに気づきにくい、という点があげられます。
 次に、心の汚れというものは、非常に頑固です。なかなか落ちません。忍耐とがんばりが必要になります。
 しかも、そこまで苦労してきれいにしても、何か報酬が与えられるわけでもありません。お金が入るわけでもないし、幸運がやってきたり、成功するということもありません(もちろん、心がきれいになれば、そうしたよいことも訪れやすくなるでしょう。ただ絶対にそうとはいいきれません)。ですから、自分を浄めることに対する情熱というか、モチベーションが不足しがちなのです。

 このような理由から、私たちは本気になって自分を浄めようとはしません。
 ですから、私たちは、いくら宗教的な戒律や儀式を行っても、苦行を行っても、瞑想を行っても、なかなか変わることができないのです。
 とにかく、自分を浄めること、このことに、全身全霊をもって情熱を燃やし、倦まずたゆまず忍耐強く取り組んでいく、言ってみれば、これが仏教の奥義であり、あらゆる宗教の奥義なのです。
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正しい瞑想とは


 今月の20日(土)と21(日)に、イデア ライフ アカデミーの最初の瞑想講座を開催します。詳細は下記のホームページをご覧ください。
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/
 さて、瞑想ということはよく言われますが、そもそも瞑想とは何なのでしょうか?
 瞑想のはっきりした定義はないようです。結局、それは瞑想に何を求めるかによると思います。たとえば、健康が目的であれば、「瞑想とは健康になるためのものである」となるでしょうし、超能力を身に着けるのが目的ならば、「瞑想とは超能力を身に着けるものだ」ということになるのでしょう。瞑想には大きな効果があるので、忍耐強く続ければ、そうした目的はいずれ成就できるはずです。
 しかし、瞑想とは「覚醒や悟りを開くためである」としたならば、ここに大きな注意が必要となるのです。

 瞑想を続けていくと、潜在意識の領域にまで入り込みます。そこに何らかの願望を携えていくと、潜在意識はそれを実現しようと自動的に働きます。たとえば、「お金が欲しい」と願望を抱いて瞑想すると、原則的にはお金が入るようになるのです。
 つまり、このことは、「お金が手に入る」という暗示をかけながら催眠状態に入るのと同じことになるわけです。
 お金というものは、この現実世界のもので、本当にお金が手に入ったかどうか、客観的にわかります。健康や超能力も、客観的にわかります。だから、妄想に陥ることはありません。
 ところが、覚醒だとか悟りといったものは、客観的に実証できません。
 すると、どうなるかというと、私たちの心は、願望を投影するという性質を持っているため、「私は覚醒した、悟りを開いた」という妄想が起きてしまうのです。
 禅ではこのことに気づいていて、そのために「仏に会ったら仏を殺せ」などという物騒な言葉が伝えられています。その「仏」は、自分の願望が投影された妄想だからです。

 そもそも、覚醒も悟ってもいない私たちが、何かをする動機というものは、エゴに基づいています。たいていの場合、覚醒したい、悟りたいというのは、「覚醒して人々から認められたい」という動機か、あるいは、この世の中がいやになって、そこから解脱したいという動機の、いずれかです。
 そのような動機を持ち続けながら瞑想をすると、「自分は覚者になった」という妄想に陥ってしまうのです。また、この世の中がいやになって解脱したいという動機の場合、もし人生が何か幸運に恵まれるようなことが起こったら、すぐに瞑想などしなくなってしまうでしょう。結局、エゴはこの地上における名誉だとか富、欲望を叶えることなどが動機になっているからです。

 覚醒や悟りというものは、エゴを消滅させることですから、皮肉なことに、瞑想をすればするほどエゴが拡大強化されていき、どうしようもなく醜悪なものになっていくわけです。その最たる見本がオウム真理教の教祖です。

 ですから、もし覚醒や悟りをめざそうとするのであれば、必ず正しい瞑想を行わなければなりません。
 では、正しい瞑想とは、どのような瞑想なのでしょうか?
 それは、「覚醒や悟りを開こう」という願望を捨てた瞑想です。
 達磨大師は、「座禅などして、どんな功徳があるのか?」と問われたとき「何もない」と答えたといいます。この答え方が正解なのです。エゴは「何の功徳(得、いいこと)もないのに、なんで座禅なんかしなければならないんだ」と考えます。
 しかし、魂が多少でも目覚めた人であれば、このときピンとくるはずです。「そこにこそ真実がある」と直感するのです。そうして、とにかく座禅、すなわち瞑想を始めてみるのです。
 もちろん、その後もさまざまな障害が待ち受けています。それをひとつひとつ乗り越えていかなければなりません。まさに瞑想とはエゴとの闘いです。あらゆる妄想、「ひとかどの人間として認められたい」という欲望、低俗な物欲、そして、悟りたいという欲望など、あらゆるものを、とにかく捨てて捨てて、捨てまくっていく必要があるのです。
 そこをどのようにうまく乗り越えていくか、それが私の研究課題であり、このブログの課題であり、また、私が主催するイデア
ライフ アカデミーの課題でもあるわけです。
 

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