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心の治癒と魂の覚醒

        

自分を浄めること

 まずは例によってご報告とお知らせから。
 先日4月20日と21日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「インナーチャイルドを癒す」というテーマで行いました。
 誰もが、程度の差はあれ、親からネガティブな影響を受けているもので、それがインナーチャイルド(内なる子供)を生みだし、人生に暗い影を落としていることが少なからずあります。それは霊的覚醒の道を歩むうえでの大きな障害にもなります。そこで授業では、インナーチャイルドが形成された仕組み、およびインナーチャイルドを癒す仕組みを解説し、セルフケアとして私が制作した「インナーチャイルド・ヒーリングCD」を参加者にさしあげました。重度のインナーチャイルドは専門のセラピストにかかる必要がありますが、軽度から中度くらいであれば、根気よくこのCDを聴き、そこに指示された通りのイメージ作業を行っていくことで、しだいにインナーチャイルドが癒されていくのではないかと期待しています。詳しい内容についてはダイジェスト版で解説していますので、ぜひご覧になってください。
https://www.youtube.com/watch?v=t5lvOhMh_20&feature=youtu.be
 さて、5月のイデア ライフ アカデミーは特別授業ということで、5月18日(土)だけとなります。私の他に3人の講師が、さまざまな分野からの興味深い授業を行います。お時間のある方はぜひ参加なさってみてください。
 詳細↓
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/

では、本文にうつります。
 世の中には多くの宗教やスピリチュアルの教えがあり、多くの人々が熱心に教えを学んでいます。
 しかし、私はいつも思うのです。
 「これほど熱心に教えを学んでいるのに、なぜ人はなかなか変わらないのだろうか?」と。
 長い間、教えを説いてまわったインドの思想家クリシュナムルティは、晩年、側近の人に「私の教えを聴いて覚醒した人は誰もいない」と語ったことを、私はその側近の人から直接ききました。
 もちろん、なかには自分を変え人生を変えた人もいるでしょう。しかし、大部分は変わっていないのです。せいぜい「自分は変わった」と自己満足的な錯覚をしているだけで、はたから見れば、まるで変わっていないのです。
 実際、釈迦やイエス、その他、数えきれないほどの聖人がこれまで誕生してきましたが、人類はどれほど変わったでしょうか。
 多少はよい方向に変わった気もいたしますが、まだまだ人類は悲惨な状態にあります。あまりにも進歩が遅すぎます。
 いったいなぜ、人間はこうも変わることができないのでしょうか?

 その理由はいろいろあげられるでしょうが、私がもっとも大きな理由として考えていることがあります。
 それは、本気になって「自分自身を浄めようとしない」ことです。
 釈迦は次のように言っています(法句経183)。
 「すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、------これが諸々の仏の教えである」
 「諸々の仏」とは、釈迦を含めた過去の仏陀(覚者)の教えであるということですから、釈迦のこの言葉は、いわば「仏教の定義」であるとも言えるわけです。
 ここで重要なことは、「自己の心を浄めること」です。これが非常に重要なのです。というのも、釈迦はこうも語っているからです(法句経271)
 「わたくし(釈迦)は、出離(出家)の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥(が)することによっても、得られないものである。修行僧よ、汚れが消え失せない限りは、油断するな」
 すなわち、悟り(解脱)をするには、戒律や誓い、博学、瞑想、孤独の行だけではダメで、心の汚れを消して自分を浄めない限り無理である、と言っているのです。
 ところが、世の宗教と呼ばれるものは、戒律や誓いを重視し、学んで博学になることをめざし、瞑想のテクニックばかり追い求めています。いくらそういうことをしても、自分を浄めることをしないと、救いは得られないということになります。
 むしろ、戒律や誓い、博学、瞑想、孤独の行といったものは、すべて自分を浄めるためにあるのだと言ってもいいのではないかと思います。

 繰り返しますが、仏教の目的は「自分を浄めること」なのです。これは、およそ他のいかなる宗教の目的でもあると思います。
 自分を浄めるとは、人の不幸を願うような悪意、憎悪、嫉妬、妬み、怒り、貪欲、虚栄、自慢、吝嗇、欲張り、利己主義、肉欲への耽溺、軽薄さ、下劣、あさましさ……といった、いわゆる「心の汚れ」と呼ばれるようなものを、消し去ることです。ひらたくいえば、心の掃除をすることです。

 ところが、この心の掃除が、難しいのです。自分のからだや自分の部屋が少しでも汚れていると、すぐに掃除をしてきれいにする人でも、自分の心にゴミがたまり汚れていても、無頓着なことが多いのです。それはまず、心の汚れは物質的な汚れのように目に見えるものではないため、自分の心が汚れていることに気づきにくい、という点があげられます。
 次に、心の汚れというものは、非常に頑固です。なかなか落ちません。忍耐とがんばりが必要になります。
 しかも、そこまで苦労してきれいにしても、何か報酬が与えられるわけでもありません。お金が入るわけでもないし、幸運がやってきたり、成功するということもありません(もちろん、心がきれいになれば、そうしたよいことも訪れやすくなるでしょう。ただ絶対にそうとはいいきれません)。ですから、自分を浄めることに対する情熱というか、モチベーションが不足しがちなのです。

 このような理由から、私たちは本気になって自分を浄めようとはしません。
 ですから、私たちは、いくら宗教的な戒律や儀式を行っても、苦行を行っても、瞑想を行っても、なかなか変わることができないのです。
 とにかく、自分を浄めること、このことに、全身全霊をもって情熱を燃やし、倦まずたゆまず忍耐強く取り組んでいく、言ってみれば、これが仏教の奥義であり、あらゆる宗教の奥義なのです。
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正しい瞑想とは


 今月の20日(土)と21(日)に、イデア ライフ アカデミーの最初の瞑想講座を開催します。詳細は下記のホームページをご覧ください。
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/
 さて、瞑想ということはよく言われますが、そもそも瞑想とは何なのでしょうか?
 瞑想のはっきりした定義はないようです。結局、それは瞑想に何を求めるかによると思います。たとえば、健康が目的であれば、「瞑想とは健康になるためのものである」となるでしょうし、超能力を身に着けるのが目的ならば、「瞑想とは超能力を身に着けるものだ」ということになるのでしょう。瞑想には大きな効果があるので、忍耐強く続ければ、そうした目的はいずれ成就できるはずです。
 しかし、瞑想とは「覚醒や悟りを開くためである」としたならば、ここに大きな注意が必要となるのです。

 瞑想を続けていくと、潜在意識の領域にまで入り込みます。そこに何らかの願望を携えていくと、潜在意識はそれを実現しようと自動的に働きます。たとえば、「お金が欲しい」と願望を抱いて瞑想すると、原則的にはお金が入るようになるのです。
 つまり、このことは、「お金が手に入る」という暗示をかけながら催眠状態に入るのと同じことになるわけです。
 お金というものは、この現実世界のもので、本当にお金が手に入ったかどうか、客観的にわかります。健康や超能力も、客観的にわかります。だから、妄想に陥ることはありません。
 ところが、覚醒だとか悟りといったものは、客観的に実証できません。
 すると、どうなるかというと、私たちの心は、願望を投影するという性質を持っているため、「私は覚醒した、悟りを開いた」という妄想が起きてしまうのです。
 禅ではこのことに気づいていて、そのために「仏に会ったら仏を殺せ」などという物騒な言葉が伝えられています。その「仏」は、自分の願望が投影された妄想だからです。

 そもそも、覚醒も悟ってもいない私たちが、何かをする動機というものは、エゴに基づいています。たいていの場合、覚醒したい、悟りたいというのは、「覚醒して人々から認められたい」という動機か、あるいは、この世の中がいやになって、そこから解脱したいという動機の、いずれかです。
 そのような動機を持ち続けながら瞑想をすると、「自分は覚者になった」という妄想に陥ってしまうのです。また、この世の中がいやになって解脱したいという動機の場合、もし人生が何か幸運に恵まれるようなことが起こったら、すぐに瞑想などしなくなってしまうでしょう。結局、エゴはこの地上における名誉だとか富、欲望を叶えることなどが動機になっているからです。

 覚醒や悟りというものは、エゴを消滅させることですから、皮肉なことに、瞑想をすればするほどエゴが拡大強化されていき、どうしようもなく醜悪なものになっていくわけです。その最たる見本がオウム真理教の教祖です。

 ですから、もし覚醒や悟りをめざそうとするのであれば、必ず正しい瞑想を行わなければなりません。
 では、正しい瞑想とは、どのような瞑想なのでしょうか?
 それは、「覚醒や悟りを開こう」という願望を捨てた瞑想です。
 達磨大師は、「座禅などして、どんな功徳があるのか?」と問われたとき「何もない」と答えたといいます。この答え方が正解なのです。エゴは「何の功徳(得、いいこと)もないのに、なんで座禅なんかしなければならないんだ」と考えます。
 しかし、魂が多少でも目覚めた人であれば、このときピンとくるはずです。「そこにこそ真実がある」と直感するのです。そうして、とにかく座禅、すなわち瞑想を始めてみるのです。
 もちろん、その後もさまざまな障害が待ち受けています。それをひとつひとつ乗り越えていかなければなりません。まさに瞑想とはエゴとの闘いです。あらゆる妄想、「ひとかどの人間として認められたい」という欲望、低俗な物欲、そして、悟りたいという欲望など、あらゆるものを、とにかく捨てて捨てて、捨てまくっていく必要があるのです。
 そこをどのようにうまく乗り越えていくか、それが私の研究課題であり、このブログの課題であり、また、私が主催するイデア
ライフ アカデミーの課題でもあるわけです。
 

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常不軽菩薩

 法華経のなかに、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という修行者が紹介されている。この修行者は、会う人会う人に礼拝して、「私はあなた方を尊敬します。軽く見たり、あなどったりしません。あなた方はみんな修行して仏になられるからです」と言ったそうである。言われた人の中には、余計なお世話だと怒ったり、杖で打ったり、石を投げたりした人もいたようだが、そのようなときは逃げて遠くに走り、そこから大声で「私はあなた方を軽んじたりしません。仏になられる方ですから」と言い続けたという。そして、自分を馬鹿にしたり暴力をした相手を、少しも怒ったり怨んだりすることはなかった。
 とにかく、相手が僧侶であろうと在家であろうと、大人であろうと子供であろうと、どんな職業や身分の人であろうと、常に礼拝しながら、「私はあなたたちを軽蔑しません。仏になられる方だからです」と、ただそれだけを、ひたすら説いてまわった。それ以外は、とくにお経を唱えるとか、修行などのようなことはせず、ただそれだけを長い間、ひたすら行い続けたというのだ。
 すると、さすがにまわりの人々も、「ひたすらあのようなことを行い続けているあの修行者は、本当は立派な方なのかもしれない」と思うようになり、やがて軽蔑は尊敬へと変わっていき、いつしか「常不軽菩薩」(決して人を軽んじたりしない菩薩)と呼ばれるようになったという。ちなみに菩薩とは、ご存じのように、自分の救いを後回しにして人を救うことを第一の誓願にして救済の行いをしている人のことをいう。

 越後の修行僧、良寛は、この常不軽菩薩に深く帰依し、尊敬し、手本としていたことが、彼が残したいくつかのうたでわかっている。たとえば次のような句が残されている。
「比丘はただ万事はいらず常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりける」
(僧に必要なものは、常不軽菩薩の行だけで、他には何もいらない)
 ここで驚くべきことは、「僧に必要なものは、常不軽菩薩の行だけで、他には何もいらない」と言っている点だ。ただひたすら人々の本質が仏性であることを説き、それゆえに敬愛の念を示すという、ただそれだけで「他には何もいらない」とまで言い切っているのである。読経も、他の僧がやるような座禅も念仏もいらないと。
 そんな常不軽菩薩に対して、「もし常不軽菩薩が生きておられたら、私はその方が歩く先の道を掃いてまわるだろう」とまで、その敬慕の深さを表現している。

 私は良寛が大好きで、心から敬愛する最高の名僧であると思っており、若い頃から研究していた。当然、良寛が常不軽菩薩を高く評価していたことも知っていた。だが、当時はそれを知っても、とくにピンとこなかった。
 けれども、今では良寛のこの気持ちがよくわかる(ような気がする)。言い換えれば、この常不軽菩薩の偉大さがよくわかる。そのような理解を私にもたらしてくれたひとつのきっかけは、ユダヤの哲学者マルティン・ブーバーについて研究したことである。
 ブーバーは、お互いの中に神性を見つめ、それゆえに敬愛の念をもって結ばれた関係を「我と汝の関係」と呼んだ。そのとき人は自らの神性にめざめ、そこに神は顕現し、霊性が高まるのだと説いたのである。
 そう、ブーバーの思想はまさに、常不軽菩薩と同じではないだろうか。常不軽菩薩はブーバーの思想を身をもって行じていたのである。相手の神性(仏教流にいえば仏性)であることを自覚させ、それゆえに敬愛の念をもっていますといって、「我と汝」の関係を築こうとしたのである。

 実際、これこそが仏教の真髄、いや、宗教の、スピリチュアルな教えの真髄であると思う。瞑想することはよいことだし、座禅をしたり、ヨーガをしたり、念仏や題目を唱えることも、お経を唱えることもよいことだろう。だが、そんなものは仏教(宗教、スピリチュアル)の本質などではない。ブーバーのいう「我と汝の関係」こそが、常不軽菩薩の行った行こそが、仏教の本質ではないだろうか?
 法華教によれば、この常不軽菩薩は釈迦の前世であったという。それが本当なら、釈迦という偉大な宗教者は、読経や座禅、念仏や題目などによって生まれたのではなく、どんな人も差別なく敬愛し、あらゆる迫害にも腹を立てることなく、すさまじいまでの忍耐力をもって相手を敬うという行を通して生まれたことになる。
 そのことを良寛は気づいていたに違いない。だから、「他には何もいらない」などという、大胆な発言をしたのだと思う。
 キリスト教でさえも言っている。「愛がなければ、たとえ山をも動かす信仰心を持っていたとしても、何にもならない」(コリント人への手紙)。信仰心こそがキリスト教の本質であると普通は思うが、そうではないと言っているのだ。信仰心などよりも、愛が大切だと言っているのである。

 それにしても、私は思うのだが、常不軽菩薩のすごいところは、こうした真理を悟っていたということは別にして、いかなる迫害を受けても、たとえ棒で殴られ石をぶつけられ、侮辱されたとしても、少しも怨んだり怒ったりしなかったということであり(この点はイエス・キリストを思い起こさせる)、こうした行を、来る日も来る日も、長い間貫き通した、その忍耐力というか、鉄のような意志である。
 このような常不軽菩薩を敬慕していた良寛は、やはりさすがだなと、あらためて思ったと同時に、私自身はこの常不軽菩薩にどれだけ近づけるかと思った。もちろん、私などその足下にもはるか及ばないことではあるのだが、少しでも、どんな人に対しても敬愛の念を忘れずに接することができるように、これからの人生を生きていきたいと思った。
 そして人生というものは、良寛もいうように、たぶん、それだけでいいのだと思う。

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 思考の観察


 強迫神経症(強迫性障害)という心の問題があります。典型的な症状としては、いつも手を洗わずにはいられないとか、出かけるとき鍵をかけたか何度も確認しないではいられないとか、クルマを運転して誰かを轢いてしまったのではないかと不安になり、来た道を引き返して確認するとか、その他、さまざまな症状に見舞われます。
 一方、うつ病の人は、とにかく物事を悲観的に考える傾向があります。たとえば、上司からちょっとした注意を受けただけなのに、「上司は自分のことを憎んでいるんだ」という思いが浮かんできたりします。すると今度は「上司は自分をクビにしようとしている」という考えが浮かび、次には「私はクビになるのだ」と考え、「クビになったらホームレスになるだろう」、「ホームレスになったら家族に迷惑がかかるだろう」、「家族に迷惑をかけるような自分は生きる価値がない」といったように、どんどん悲観的な思考がエスカレートしていき、ついには「生きる価値がない自分は死んだ方がいい」といって、自殺を考えたりするわけです。
 健康な人から見ますと、強迫神経症の人も、うつ病の人も、非現実的で根拠のない、馬鹿馬鹿しい考えに取り憑かれているように見えるのですが、本人にとっては非常にリアルで説得力を持っているように感じられるわけです。ここが病気の病気たるゆえんともいえるわけですが、本人の主観的な思いとしては、そのように考えて当然、そのように考えざるを得ないような状況に追い込まれてしまうのです。
 しかしながら、こうした問題は、いわゆる「健常」と「異常」とを明確に線引きすることはできません。いわば、程度の問題です。実際、どんな人も、強迫神経症やうつ病の人が抱くような考えに、多少は取り憑かれることがあるでしょう。ただその程度がひどくならないというだけです。
 しかし、程度がひどくならないといっても、「非現実的であやまった思考の連鎖」を野放しにするなら、妄想に発展しないとも限りません。知らないうちに頭が妄想で支配されてしまう危険があるわけです。精神医学的に病気と診断されるほどではないかもしれませんが、日常生活や対人関係における微妙な点で、さまざまな問題を起こすようになります。
 たとえば卑近な例をあげれば、夫の帰宅が遅いというだけで「浮気をしているのではないか」と考える妻などです。最初は「浮気をしているのではないか?」という疑惑なのですが、疑惑の目で物事を見ると、その疑惑が正しいかのような偏見を抱いてしまいがちです。夫の表情が嬉しそうに見えたりするわけです。すると、「やはりそうだ。浮気をしていることは間違いない!」と決め付けるようになってきます。最初は疑惑だったのが、ついには事実であると決め付けてしまうわけです。こうして妄想に陥っていくのです。
 当然のことながら、このような妄想を抱いている限り、覚醒はできません。覚醒というものは、あらゆる妄想から解放された意識状態だといえるからです。
 では、どうしたらいいのでしょうか?
 妄想は、一度堅固なものになってしまうと、なかなかそこから抜け出す(目覚める)ことが難しくなります。早いうちに、妄想の芽を摘んでおくことが大切です。
 そのためには、常に自分の思考を観察(モニター)して、あいまいな根拠で何かを決め付けようとしていないかどうか、チェックする習慣をつけることです。
 たとえば、友人にメールをしたが一日たっても返事がないといった場合、その理由について、いろいろな思いが浮かんでくるでしょう。「忙しいのかもしれない」、「自分のことが嫌いなのかもしれない」、「なめられているのかもしれない」、「死んだのかもしれない」などです。こうした思いは、どれもその可能性があることは否定できませんが、そうだと決め付ける根拠もありません。
 したがって、いろいろな思い(思考)が浮かんできても、決して決め付けないで、はっきりとした根拠が得られるまでは、距離をおいて静観している姿勢を保つことが大切なのです。根拠もないのに決め付けてしまうと、ドミノのように次から次へとあらぬ方向に思考が展開してしまい、ついには妄想へと入り込んでいってしまうからです。
 ひらたくいえば、いろいろな思いが浮かんできても、「ちょっと待てよ! 本当にそうなのか?」と慎重に留保できるようにすることです。このような姿勢が、妄想に至らないようにするために、そして、覚醒するために、とても大切なことなのです。

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自己限定という枠をはずす


 覚醒とは、要するに人間本来の姿に立ち返ることであり、それは神を源流とする魂を目覚めさせるということになります。私たちは、エネルギー的には、万能である神を源流にしているのです。ですから、誰もが本来は神と同じように偉大な創造の力を秘めているはずなのです。ただ、地上という物質世界は、さまざまな制約があるために、それが十分に発揮されにくいのです。神の持つ偉大な力をこの地上で完全に発揮できる人は、おそらくいないのでしょう。
 しかしそれでも、今の私たちのレベルから比べれば、まだまだ相当の力を発揮できる余地があるのです。それはいわゆる「潜在能力」という言葉で説かれているものですが、覚醒するにつれて、潜在能力が大幅に発揮されてくるはずです。というより、潜在能力は神に由来するものですから、人格的な美徳といったことも「潜在能力」に含めるなら、覚醒とは潜在能力を活性化することだと言っても間違いではないでしょう。私たちは、地上世界で発揮できる偉大な潜在能力の、せいぜい1割程度しか発揮していないのではないかと思います。
 「斉藤啓一の作品店」で入手できる『覚醒修行のための招待』(※)を読んでくださった方はご存知と思いますが、そこで説明していますように、地上とは、霊的に成長するためのトレーニングジムなのです。ですから、さまざまな困難や苦しみがあって当然なのです。それらのなかには、ただ耐え抜くというだけでも意義がある場合もありますが、もともと「トレーニング」なのですから、基本的には克服し乗り越えていけるものなのです。病気、仕事の挫折や失敗、経済的困窮、家族の悩み、人間関係のトラブルなど、トレーニングのためにさまざまな「負荷」が訪れますが、必ず克服できるものであり、たとえ完全には無理な場合でも、ほとんど問題にならない程度にまで改善することは十分に可能なのです。
 にもかかわらず、現実には、いつまでも同じ困難や悩みをずっと抱え続けており、その状態から抜け出せないでいることも、少なくありません。
 いったい、それはなぜなのでしょうか?
 私たちが成長するためには、植物が生長するように時間が必要ですから、ある程度の期間は、困難や悩みに苦しむということは避けられないでしょうし、それはそれで必要なことであり、よいことなのです。
 しかし、必要以上にいつまでも同じ困難や苦悩を引きずったままであるならば、それは自分が成長しているか、つまり、自己の内なる神性を活性化させる生き方をしているかどうか、反省してみる必要があるのではないかと思います。
 いつまでも同じ困難や苦悩の状態にある人の多くに共通していることは、「自己限定している」ということです。「自分にはこの困難や悩みを解決していくことはできない、そんな力などない」と、自分で自分を決めつけており、わざわざ自分の可能性にふたをしてしまっているのです。これでは、いくら頑張っても、困難や苦悩は解決されません。ブレーキをかけながら自転車をこいでいるようなものです。
 ですから、常に注意をしていなければならないことは、意識的にも無意識的にも、自己限定していないかどうか、自分にブレーキをかけていないかどうかをチェックすることです。これは、「自信を失っていないか」とチェックしてみることと同じであると言えるでしょう。自信がなければ、つまり、「自分にはできない」と思う限り、なにごともうまくできません。なぜなら、本当はできるかもしれないのに、「自分にはできない」と思うことは、「できるという選択をしない」ことと同じだからです。私たちはたったの1割くらいしか能力を発揮していないのです。もし残りの9割を発揮したら、いえ、9割とまでいかなくても、3割、4割くらいでも発揮できたら、たいていの困難や悩みなどは解決できてしまうのではないでしょうか。そのためには、自信を持つことが最初の第一歩となります。
 本当の自信とは、魂からやってくる確信に基づいているものだと思います。人と競争して「自分の方がすぐれている」などというのは、本当の自信ではありません(こういう自信は高慢や自惚れを生み出します)。
 自分の本質は偉大な叡智と力を持った神を源流としており、自分にその力が宿っていることを深く自覚すること、そして決意さえすれば、そうした偉大な力を発揮することができ、いかなる困難や悩みも解決できるのだと確信すること、これが本当の自信です。このような自信からは、高慢さや自惚れが生まれることはありません。謙虚でありながら、自信に満たされることになるのです。
 このように、本当の自信を抱いて潜在能力を活性化することで困難や悩みを克服していくことが、そのまま覚醒の修行となるのです。なぜなら、潜在能力の活性化とは、神性の活性化を意味するからです。

※『覚醒修行への招待』(無料)ご希望の方は、「斉藤啓一の作品店」まで。
 → 「斉藤啓一の作品店」へ行く
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