心の治癒と魂の覚醒

        

常不軽菩薩

 法華経のなかに、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という修行者が紹介されている。この修行者は、会う人会う人に礼拝して、「私はあなた方を尊敬します。軽く見たり、あなどったりしません。あなた方はみんな修行して仏になられるからです」と言ったそうである。言われた人の中には、余計なお世話だと怒ったり、杖で打ったり、石を投げたりした人もいたようだが、そのようなときは逃げて遠くに走り、そこから大声で「私はあなた方を軽んじたりしません。仏になられる方ですから」と言い続けたという。そして、自分を馬鹿にしたり暴力をした相手を、少しも怒ったり怨んだりすることはなかった。
 とにかく、相手が僧侶であろうと在家であろうと、大人であろうと子供であろうと、どんな職業や身分の人であろうと、常に礼拝しながら、「私はあなたたちを軽蔑しません。仏になられる方だからです」と、ただそれだけを、ひたすら説いてまわった。それ以外は、とくにお経を唱えるとか、修行などのようなことはせず、ただそれだけを長い間、ひたすら行い続けたというのだ。
 すると、さすがにまわりの人々も、「ひたすらあのようなことを行い続けているあの修行者は、本当は立派な方なのかもしれない」と思うようになり、やがて軽蔑は尊敬へと変わっていき、いつしか「常不軽菩薩」(決して人を軽んじたりしない菩薩)と呼ばれるようになったという。ちなみに菩薩とは、ご存じのように、自分の救いを後回しにして人を救うことを第一の誓願にして救済の行いをしている人のことをいう。

 越後の修行僧、良寛は、この常不軽菩薩に深く帰依し、尊敬し、手本としていたことが、彼が残したいくつかのうたでわかっている。たとえば次のような句が残されている。
「比丘はただ万事はいらず常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりける」
(僧に必要なものは、常不軽菩薩の行だけで、他には何もいらない)
 ここで驚くべきことは、「僧に必要なものは、常不軽菩薩の行だけで、他には何もいらない」と言っている点だ。ただひたすら人々の本質が仏性であることを説き、それゆえに敬愛の念を示すという、ただそれだけで「他には何もいらない」とまで言い切っているのである。読経も、他の僧がやるような座禅も念仏もいらないと。
 そんな常不軽菩薩に対して、「もし常不軽菩薩が生きておられたら、私はその方が歩く先の道を掃いてまわるだろう」とまで、その敬慕の深さを表現している。

 私は良寛が大好きで、心から敬愛する最高の名僧であると思っており、若い頃から研究していた。当然、良寛が常不軽菩薩を高く評価していたことも知っていた。だが、当時はそれを知っても、とくにピンとこなかった。
 けれども、今では良寛のこの気持ちがよくわかる(ような気がする)。言い換えれば、この常不軽菩薩の偉大さがよくわかる。そのような理解を私にもたらしてくれたひとつのきっかけは、ユダヤの哲学者マルティン・ブーバーについて研究したことである。
 ブーバーは、お互いの中に神性を見つめ、それゆえに敬愛の念をもって結ばれた関係を「我と汝の関係」と呼んだ。そのとき人は自らの神性にめざめ、そこに神は顕現し、霊性が高まるのだと説いたのである。
 そう、ブーバーの思想はまさに、常不軽菩薩と同じではないだろうか。常不軽菩薩はブーバーの思想を身をもって行じていたのである。相手の神性(仏教流にいえば仏性)であることを自覚させ、それゆえに敬愛の念をもっていますといって、「我と汝」の関係を築こうとしたのである。

 実際、これこそが仏教の真髄、いや、宗教の、スピリチュアルな教えの真髄であると思う。瞑想することはよいことだし、座禅をしたり、ヨーガをしたり、念仏や題目を唱えることも、お経を唱えることもよいことだろう。だが、そんなものは仏教(宗教、スピリチュアル)の本質などではない。ブーバーのいう「我と汝の関係」こそが、常不軽菩薩の行った行こそが、仏教の本質ではないだろうか?
 法華教によれば、この常不軽菩薩は釈迦の前世であったという。それが本当なら、釈迦という偉大な宗教者は、読経や座禅、念仏や題目などによって生まれたのではなく、どんな人も差別なく敬愛し、あらゆる迫害にも腹を立てることなく、すさまじいまでの忍耐力をもって相手を敬うという行を通して生まれたことになる。
 そのことを良寛は気づいていたに違いない。だから、「他には何もいらない」などという、大胆な発言をしたのだと思う。
 キリスト教でさえも言っている。「愛がなければ、たとえ山をも動かす信仰心を持っていたとしても、何にもならない」(コリント人への手紙)。信仰心こそがキリスト教の本質であると普通は思うが、そうではないと言っているのだ。信仰心などよりも、愛が大切だと言っているのである。

 それにしても、私は思うのだが、常不軽菩薩のすごいところは、こうした真理を悟っていたということは別にして、いかなる迫害を受けても、たとえ棒で殴られ石をぶつけられ、侮辱されたとしても、少しも怨んだり怒ったりしなかったということであり(この点はイエス・キリストを思い起こさせる)、こうした行を、来る日も来る日も、長い間貫き通した、その忍耐力というか、鉄のような意志である。
 このような常不軽菩薩を敬慕していた良寛は、やはりさすがだなと、あらためて思ったと同時に、私自身はこの常不軽菩薩にどれだけ近づけるかと思った。もちろん、私などその足下にもはるか及ばないことではあるのだが、少しでも、どんな人に対しても敬愛の念を忘れずに接することができるように、これからの人生を生きていきたいと思った。
 そして人生というものは、良寛もいうように、たぶん、それだけでいいのだと思う。

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 思考の観察


 強迫神経症(強迫性障害)という心の問題があります。典型的な症状としては、いつも手を洗わずにはいられないとか、出かけるとき鍵をかけたか何度も確認しないではいられないとか、クルマを運転して誰かを轢いてしまったのではないかと不安になり、来た道を引き返して確認するとか、その他、さまざまな症状に見舞われます。
 一方、うつ病の人は、とにかく物事を悲観的に考える傾向があります。たとえば、上司からちょっとした注意を受けただけなのに、「上司は自分のことを憎んでいるんだ」という思いが浮かんできたりします。すると今度は「上司は自分をクビにしようとしている」という考えが浮かび、次には「私はクビになるのだ」と考え、「クビになったらホームレスになるだろう」、「ホームレスになったら家族に迷惑がかかるだろう」、「家族に迷惑をかけるような自分は生きる価値がない」といったように、どんどん悲観的な思考がエスカレートしていき、ついには「生きる価値がない自分は死んだ方がいい」といって、自殺を考えたりするわけです。
 健康な人から見ますと、強迫神経症の人も、うつ病の人も、非現実的で根拠のない、馬鹿馬鹿しい考えに取り憑かれているように見えるのですが、本人にとっては非常にリアルで説得力を持っているように感じられるわけです。ここが病気の病気たるゆえんともいえるわけですが、本人の主観的な思いとしては、そのように考えて当然、そのように考えざるを得ないような状況に追い込まれてしまうのです。
 しかしながら、こうした問題は、いわゆる「健常」と「異常」とを明確に線引きすることはできません。いわば、程度の問題です。実際、どんな人も、強迫神経症やうつ病の人が抱くような考えに、多少は取り憑かれることがあるでしょう。ただその程度がひどくならないというだけです。
 しかし、程度がひどくならないといっても、「非現実的であやまった思考の連鎖」を野放しにするなら、妄想に発展しないとも限りません。知らないうちに頭が妄想で支配されてしまう危険があるわけです。精神医学的に病気と診断されるほどではないかもしれませんが、日常生活や対人関係における微妙な点で、さまざまな問題を起こすようになります。
 たとえば卑近な例をあげれば、夫の帰宅が遅いというだけで「浮気をしているのではないか」と考える妻などです。最初は「浮気をしているのではないか?」という疑惑なのですが、疑惑の目で物事を見ると、その疑惑が正しいかのような偏見を抱いてしまいがちです。夫の表情が嬉しそうに見えたりするわけです。すると、「やはりそうだ。浮気をしていることは間違いない!」と決め付けるようになってきます。最初は疑惑だったのが、ついには事実であると決め付けてしまうわけです。こうして妄想に陥っていくのです。
 当然のことながら、このような妄想を抱いている限り、覚醒はできません。覚醒というものは、あらゆる妄想から解放された意識状態だといえるからです。
 では、どうしたらいいのでしょうか?
 妄想は、一度堅固なものになってしまうと、なかなかそこから抜け出す(目覚める)ことが難しくなります。早いうちに、妄想の芽を摘んでおくことが大切です。
 そのためには、常に自分の思考を観察(モニター)して、あいまいな根拠で何かを決め付けようとしていないかどうか、チェックする習慣をつけることです。
 たとえば、友人にメールをしたが一日たっても返事がないといった場合、その理由について、いろいろな思いが浮かんでくるでしょう。「忙しいのかもしれない」、「自分のことが嫌いなのかもしれない」、「なめられているのかもしれない」、「死んだのかもしれない」などです。こうした思いは、どれもその可能性があることは否定できませんが、そうだと決め付ける根拠もありません。
 したがって、いろいろな思い(思考)が浮かんできても、決して決め付けないで、はっきりとした根拠が得られるまでは、距離をおいて静観している姿勢を保つことが大切なのです。根拠もないのに決め付けてしまうと、ドミノのように次から次へとあらぬ方向に思考が展開してしまい、ついには妄想へと入り込んでいってしまうからです。
 ひらたくいえば、いろいろな思いが浮かんできても、「ちょっと待てよ! 本当にそうなのか?」と慎重に留保できるようにすることです。このような姿勢が、妄想に至らないようにするために、そして、覚醒するために、とても大切なことなのです。

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自己限定という枠をはずす


 覚醒とは、要するに人間本来の姿に立ち返ることであり、それは神を源流とする魂を目覚めさせるということになります。私たちは、エネルギー的には、万能である神を源流にしているのです。ですから、誰もが本来は神と同じように偉大な創造の力を秘めているはずなのです。ただ、地上という物質世界は、さまざまな制約があるために、それが十分に発揮されにくいのです。神の持つ偉大な力をこの地上で完全に発揮できる人は、おそらくいないのでしょう。
 しかしそれでも、今の私たちのレベルから比べれば、まだまだ相当の力を発揮できる余地があるのです。それはいわゆる「潜在能力」という言葉で説かれているものですが、覚醒するにつれて、潜在能力が大幅に発揮されてくるはずです。というより、潜在能力は神に由来するものですから、人格的な美徳といったことも「潜在能力」に含めるなら、覚醒とは潜在能力を活性化することだと言っても間違いではないでしょう。私たちは、地上世界で発揮できる偉大な潜在能力の、せいぜい1割程度しか発揮していないのではないかと思います。
 「斉藤啓一の作品店」で入手できる『覚醒修行のための招待』(※)を読んでくださった方はご存知と思いますが、そこで説明していますように、地上とは、霊的に成長するためのトレーニングジムなのです。ですから、さまざまな困難や苦しみがあって当然なのです。それらのなかには、ただ耐え抜くというだけでも意義がある場合もありますが、もともと「トレーニング」なのですから、基本的には克服し乗り越えていけるものなのです。病気、仕事の挫折や失敗、経済的困窮、家族の悩み、人間関係のトラブルなど、トレーニングのためにさまざまな「負荷」が訪れますが、必ず克服できるものであり、たとえ完全には無理な場合でも、ほとんど問題にならない程度にまで改善することは十分に可能なのです。
 にもかかわらず、現実には、いつまでも同じ困難や悩みをずっと抱え続けており、その状態から抜け出せないでいることも、少なくありません。
 いったい、それはなぜなのでしょうか?
 私たちが成長するためには、植物が生長するように時間が必要ですから、ある程度の期間は、困難や悩みに苦しむということは避けられないでしょうし、それはそれで必要なことであり、よいことなのです。
 しかし、必要以上にいつまでも同じ困難や苦悩を引きずったままであるならば、それは自分が成長しているか、つまり、自己の内なる神性を活性化させる生き方をしているかどうか、反省してみる必要があるのではないかと思います。
 いつまでも同じ困難や苦悩の状態にある人の多くに共通していることは、「自己限定している」ということです。「自分にはこの困難や悩みを解決していくことはできない、そんな力などない」と、自分で自分を決めつけており、わざわざ自分の可能性にふたをしてしまっているのです。これでは、いくら頑張っても、困難や苦悩は解決されません。ブレーキをかけながら自転車をこいでいるようなものです。
 ですから、常に注意をしていなければならないことは、意識的にも無意識的にも、自己限定していないかどうか、自分にブレーキをかけていないかどうかをチェックすることです。これは、「自信を失っていないか」とチェックしてみることと同じであると言えるでしょう。自信がなければ、つまり、「自分にはできない」と思う限り、なにごともうまくできません。なぜなら、本当はできるかもしれないのに、「自分にはできない」と思うことは、「できるという選択をしない」ことと同じだからです。私たちはたったの1割くらいしか能力を発揮していないのです。もし残りの9割を発揮したら、いえ、9割とまでいかなくても、3割、4割くらいでも発揮できたら、たいていの困難や悩みなどは解決できてしまうのではないでしょうか。そのためには、自信を持つことが最初の第一歩となります。
 本当の自信とは、魂からやってくる確信に基づいているものだと思います。人と競争して「自分の方がすぐれている」などというのは、本当の自信ではありません(こういう自信は高慢や自惚れを生み出します)。
 自分の本質は偉大な叡智と力を持った神を源流としており、自分にその力が宿っていることを深く自覚すること、そして決意さえすれば、そうした偉大な力を発揮することができ、いかなる困難や悩みも解決できるのだと確信すること、これが本当の自信です。このような自信からは、高慢さや自惚れが生まれることはありません。謙虚でありながら、自信に満たされることになるのです。
 このように、本当の自信を抱いて潜在能力を活性化することで困難や悩みを克服していくことが、そのまま覚醒の修行となるのです。なぜなら、潜在能力の活性化とは、神性の活性化を意味するからです。

※『覚醒修行への招待』(無料)ご希望の方は、「斉藤啓一の作品店」まで。
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奉仕という覚醒修行


 地上人生というものは、結局のところ、魂の修行場であり、トレーニングジムのような場所です。私たちは、楽をしたり、地上的な意味で「幸せ」になるために地上に生まれてきたのではなく、さまざまな経験、とりわけ苦しみや悲しみの経験を通して教訓を学び、魂を磨き、成長・進化するために、地上に生まれてきたのです。そうして地上を去り、本来の住処である霊的世界に帰還したとき、より高い階層に上昇できるようにするためです。あるいは、肉体をもったままで魂を大きく成長させ、地上にいながら高い霊的階層のエネルギーと合一するためです。
 霊的世界では、より高い階層ほど、「助け合い」の精神で占められるようになります。すなわち、そうした高い階層世界に住んでいる魂は、利己的ではなく利他的であり、常に無私の奉仕に徹しているのです。
 ですから、私たちが高い階層に上昇するためには、すなわち、覚醒するためには、助け合いの精神を持ち、無私の奉仕の生き方をすることが必要不可欠となります。そのような生き方こそが覚醒の道なのです。要するに、覚醒の道を歩むということは、人生のすべてを世のため人のために尽くすという「奉仕」を目的にしなければならないようなのです。
 しかし、奉仕とひとことで言いますが、たいていの人は自分の仕事や生活で手一杯で、たとえばボランティア活動のようなことをして奉仕をするといったことは、たとえそうしたくても、できないのが実情ではないでしょうか。そうなると、覚醒の道というものは遠いところに行ってしまうような気がします。
 けれども、奉仕の本質というのは、あくまでも動機だと思います。
 たとえば、いくら人のために働いたり、あるいはお金を寄付したりといったことをしても、その動機が利己主義(エゴ)によるものなら、それは奉仕とは言えないでしょう。
 しかし、どんなことであれ、世のため人のためにという動機で行えば、それは奉仕になるのだと思います。
 たとえば、私たちは生活のために仕事をしなければなりません。仕事をしてお金を稼がなければなりません。しかし、仕事というのは、生活費を稼ぐという意味だけでなく、社会貢献という意味もあります。この社会には、いろいろな仕事をしてくれる人がいるから、私たちは助かっているわけです。
 ですから、仕事そのものは、世のため人のための立派な「奉仕」になるのです。その動機が「自分だけの金儲け」ではなく、世のため人のためという動機で行われるのであれば。報酬はあくまでも結果であり副産物とみなし、お金を稼ぐためではなく、世のため人のために(あるいは神のために)という動機で行うのです。そうすれば、仕事そのものが立派な覚醒修行になるのではないかと思うのです。
 学生でまだ仕事をしていないのであれば、世のため人のために奉仕ができる人間になるためにという動機で勉強するのです。そうすれば、勉強そのものが覚醒修行になります。病気などの理由で仕事も勉強もできない人は、世のため人のために奉仕ができる健康な体になろうという動機で療養生活を送るのです。そうすれば、療養生活そのものが覚醒修行になるはずです。

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 他人事のように自分を見る


 覚醒に至るには、感情や欲望にとらわれないことが必要不可欠のようです。怒りや嫉妬や悲しみといったネガティブな感情はもちろん、喜びと言えども、有頂天になるほどの過剰な感情も、覚醒を妨げるものと考えられています。
 しかし、出家して孤独な生活をしているならともかく、世俗に生活している私たちは、とにかくいつも感情を乱されるようなことばかりではないでしょうか。職場では不愉快な人間関係やきつい仕事に悩まされ、家に戻ればそこは必ずしも「憩いの場」とも限らず、さまざまな家族の悩みで感情が乱されます。街を歩いたりテレビを見たりすれば、物質的な欲望を刺激するものに溢れています。怒り、憤り、恨み、憎悪、不安、悲しみ、寂しさ、失望、妬み、欲望など、きりがありません。
 もっとも、ある意味では、そういう厳しい環境におかれていることは、ある種の「トレーニング・ジム」に行ったようなもので、心を制御する力を鍛えるには絶好の場であるといえなくもありません。ただ、それは相当にきついでしょう。
 感情を制御して静謐にさせることほど、世の中で難しいものはないように思えます。理不尽な扱いを受けて、腹の底から煮えくりかえるような怒りや憎悪が湧き上がっても、その燃えるような火を消して平和で静かな心にさせるというのは、何と至難の技であることか。たとえ、怒りという行動に出ることがなくても、その怒りを心の中で燃やしているのでは、単なる「我慢」に過ぎず、本当に心を制御していることにはなりません。我慢は抑圧を生み、やがて何らかの形で発散させなければならないか、あるいは鬱病にでもなってしまうかでしょう。我慢や抑圧ではなく、心のなかから完全に怒りの感情を消さなければならないのです。
 これは、相当難しいことではありますが、しかし、時間をかけて忍耐強く修行を続けていけば、少しずつ、達成されてくるように思います。
 私たちが感情に振り回されてしまう根源的な原因は、おそらく「私」という意識があるからだと思われます。「私」、「私のもの」という意識があるために、その「私」が何らかの形で否定されたとき、人は怒りを覚えたり、嫉妬を覚えたり、悲しみを覚えたりするわけです。
しかし、究極的な真理は、「私」というものは存在しません。「私」という意識は、幻想と言われています。存在するのは、「実在」、すなわち「神」であり「真我」だけです。「私」が存在しないのだから、「私のもの」も存在しません。ですから、何かに執着をしたり欲望を持つということも、それは実体のない幻想なのです。執着や欲望を持つ主体(つまり「私」)が存在しないのですから、どうして執着や欲望があるでしょうか。
 私たちは、なにかに執着している、なにかに欲望を抱いていると思っていますが、真実は「執着している錯覚」、「欲望を抱いている錯覚」をしているだけなのです。真実の私たちの姿は、なにものにも執着しておらず、欲望も抱いておりません。ただ単独で至福を味わっている存在です。喜びを味わうのに自分以外のものは必要ないわけです。それが神であり真我という存在です。
 もちろん、これは究極的な覚醒をした状態にして達成される境地なのですが、とりあえず私たちは、感情にとらわれないようにするために、「私」という意識を捨てるように努力していくことが大切だと思います。
 そのためには、自分自身を「他人事」のように見るようにするのも、ひとつの方法ではないでしょうか。私たちは、他人が腹立たしい目にあったり、悲しい目にあったりするのを見ても、(多少は同情したり共感したりしますが)自分のことのようには怒ったり、悲しんだりはしないでしょう。
 ですから、自分自身を「他人」のように考えるようにするのです。そうすれば、少しずつでも、感情へのとらわれから解放されてくるかもしれません。

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