心の治癒と魂の覚醒

        

心の大掃除

 今年も残りわずかとなりました。そろそろ、多くの家庭で大掃除が行われるようになります。年が変わるというのは、大きな節目のひとつですから、新しい年をきれいな環境で迎えたいという気持ちがあるのでしょう。大掃除をして家をきれいにすることはとてもけっこうなことですが、同時に、「心の大掃除」もしてみてはいかがでしょうか。
 家の大掃除が、ゴミなどの、いらないものを捨てたり、埃や汚れを落としたりするように、心の中からも、ゴミ、いらないものを捨て、埃を払い、汚れを落とすのです。
 家の中にゴミがあれば、普通はすぐに捨てるでしょう。しかし、私たちは、ともすると心の中にゴミをため込んでいたりします。それがゴミであると気づかないこともあります。家にゴミがあれば、邪魔になって生活が不便になりますし、生ゴミの場合は腐敗して悪臭を放ち不潔になります。
 同じように、私たちの心の中にも、ゴミがあると、自分らしい生き方や、よいよい生き方の邪魔になります。ときには、心を汚していたりします。ゴミはきわめて有害です。そんなゴミを捨ててしまいましょう。
 心の中のゴミというのは、いろいろありますが、私たちから心の平安を奪い、自信を失わせ、消極的にさせ、暗い気持ちにさせ、物事を歪んで見るようにさせたり、人間関係をダメにするような気持ち、思考、信念、偏見、思い込みといったものです。たとえば、恨み、妬み、劣等感、罪の意識、後悔、悲観主義、偏見、猜疑心……といったものです。
 もちろん、そのようなものを持つようになったのには、それなりの理由があるでしょう。自分には何の非もないのに、人から不愉快な思いをさせられて恨みを抱くこともあるでしょうし、大きな失敗をして劣等感を抱いたり、後悔の念に見舞われることもあると思います。辛いことがあれば、悲観的にもなりますし、人から裏切られれば、猜疑心も抱いてしまうでしょう。
 しかし、よく考えてみてください。こうした思いを抱いていても、何もよいことはありません。それどころか、害悪を及ぼすことになります。恨みを抱いている人は、二重の意味で被害を受けているのです。すなわち、人から不愉快な目に遭わされたという被害、そして、それによって心の中に生まれた恨みという思いによってもたらされる被害です。失敗したときも、失敗の痛手の他に、劣等感や悔しさや悲観主義といった思いによる痛手をこうむっています。いわば、ある種の「二次被害」です。
 生きている限り、何らかの被害や失敗に見舞われます。どんな人もそれから逃れることはできません。しかし、その被害を最小限にとどめることは可能です。すなわち、「二次被害」を避けることはできるのです。簡単なことだとは言いませんが、不可能ではありません。
 心の中に、ゴミのような思いがあれば、今年中に、すべて心の中から捨ててしまいましょう。箒で掃いてゴミを家の外に出すようなイメージを浮かべるとよいかもしれません。
 恨みというのは、なかなか捨てるのに苦労するかと思います。恨みはゆるすことによって解消されますが、ゆるすことは人生におけるもっとも難しいことのひとつかもしれません。無理にゆるそうとがんばっても、自分をだますだけに終わってしまったりします。そこで、最初からハードルの高い「ゆるし」ということは避けて、「捨てる」という発想を持ってみてはいかがかと思うのです。言葉は悪いですが、あなたを不愉快にした人間は「ゴミ」や「クズ」だと考えて、そんなものをを心という家の中に置いておくのは馬鹿らしいと考えてみるのです。ゆるすのではなく、ゴミやクズのような人間は「捨てる」という発想を持つようにするのです。もちろん、ゆるすことができればベストですが、いっぺんには難しいので、まずは「捨てる」という発想をして心の中から追い出し、心の中をきれいにしてみてください。
 失敗による後悔の念も、なかなか捨てがたいものです。私たちはなるべく後悔のない人生を送るように努力するべきだとは思いますが、現実として、まったく後悔のない人生を送ることは不可能です。人生というものは、失敗は避けられませんし、「あのときああしておけば」という思いにかられてしまいます。しかし、それも「ゴミ」です。持っていても何の役にも立たないばかりか、明るい未来を切り開く上での障害となってしまいます。後悔の念は、思いきって捨ててしまいましょう。過ぎたことは取り返しがつかないのですから、いつまでもそんな「ゴミ」を抱え込んでいるのは、馬鹿馬鹿しいだけです。
 しかし、失敗というのは必ずしも失敗ではないことが多いものです。人は失敗を通して学び成長していきますし、失敗が幸運のチャンスになることだってあります。「あのとき、ああしていればよかったのに」と後悔しても、実際に「ああしていたら」、もっとひどい結果になったかもしれません。それは誰にもわかりません。神のみぞ知るです。
 「後悔のない人生を送ることは不可能」と言いましたが、ひとつだけ方法があります。それは単純に「後悔しなければいい」のです。失敗しようと何が起ころうと、後悔しなければ、「後悔のない人生」を送ることができます。失敗したら反省することは大切であり、それは有益ですが、後悔とは無益な感情であり、意味はありません。失敗したら、貴重な学びと成長のための幸運な体験に恵まれたのだと考えて、後悔することなく、「後悔のない人生」を送っていこうではありませんか。
 というわけで、以上のような感じで、一年の終わりという節目に「心の大掃除」もして、来年は、きれいに澄んだ気持ちで迎えるようにしてみてはいかがでしょうか。
 今年も本当にお世話になりました。来年が皆様にとって幸多き一年になりますよう、お祈りしています。
 来年も、よろしくお願い申し上げます。 

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憎悪と復讐の念からの解放

  人はほとんど無意識的にあやまちや罪を犯してしまう傾向がある。
 ここで、「無意識的」というのが恐ろしいところだ。自覚さえあれば、理性や意志によってコントロールできる可能性もあるが、自覚がなく無意識であれば、コントロールすることはほとんど不可能に近いからである。そのため、私たちは自分でも気づかないうちに、長期に渡ってあやまちや罪を犯し、人を傷つけ、苦しめ続けてしまう場合が生じてくる。
 たとえば、よく問題にされるのが、子供の虐待であろう。親から虐待されて育った子供は、自分が親になったとき、やはり子供を虐待してしまう。親はなぜ過剰なまでにイライラし、子供を虐待しているのかよくわからない。虐待した後で自分の行為を後悔し自己嫌悪に陥ってしまう。
 絶対にそうなるとは限らないが、かなりの割合でそうなることが多いようだ。 そして、その子供も同じように親になったときに子供を虐待し、その子供も・・・というように、世代間連鎖が続くことになる。
 こうしたことは、親子の間だけではない。あらゆる人間関係にも当てはまる。無意識的に他者を傷つけ苦しめていることがあるのだ。
 当然、これでは霊性の向上は望めない。
 今回は、そのようなあやまちや罪の行いを自覚するためのヒントについて書いてみたい。

 さて、実際には、完全に無自覚、無意識というケースは珍しいと思われる。ほとんどの場合、多少なりとも自覚できていることが多いようだ。少なくとも初期の段階では自覚がある場合が多い。
 ところが、そのとき、あやまちや罪の行いを正当化してしまう巧妙な悪知恵が働いてしまう。ひらたくいえば「言い訳」をしてしまう。典型的なのが、責任を他者に押しつけるという言い訳だ。すなわち、「こうするのは相手が悪いからだ、相手に責任があるからだ」と、あらゆる理屈を持ってきて正当化し、良心を麻痺させて相手を傷つけ苦しめる行為に及ぶのである。
 「責めているのではない」などと前置きして、実際には激しく相手を責めるといったことも同じだ。つまり、その前置きで良心をごまかしているのである。あるいは、正当防衛を盾にする場合もある。「自分を攻撃したから(あるいは攻撃しようとしたから)、自分の身を守るために相手を攻撃したまでだ」というのだ。
 中途半端に頭がいい人ほど、こうした「言い訳」を見つけだしてくるのがうまい。そして、このような言い訳によって一度良心が麻痺させられると、しだいに不適切な行為をしているとの自覚が失われていき、ついにはほとんど無意識になってしまう。
 こうなると、よほどのことがない限り、それを自覚することは難しくなってしまう。
 そうならないために大切なことは、どんなに認めたくないことでも、目を背けずに直視する勇気、強力な自己観察、そして強い理性と意志を持つことだ。これが最初のヒントである。さもないと、一生涯、言い訳という幻想に埋没し、人を苦しめ続ける最低の人生を送ることになってしまう。

 次のヒントは、「自分は今まで他者からどのように扱われてきたか」ということを思い出すことだ。なぜなら、「人はされたようにする」という原則があるからだ。
 先ほど、親による子供の虐待の例をあげたが、このことは、兄弟、友人、会社の人間関係、地域や国家など、人と人とが交流する状況のすべてにおいて当てはまる。
 たとえば、相手が親であろうと、誰であろうと、もし屈辱的な扱いを受けたならば、その人間は、目下を抱える何らかの権威や地位を持ったとき、仮に社長のような立場になったとき、社員に対して屈辱を与えるような行為に走りやすくなる。暴言を吐いたり、威張ったり、皮肉を言ったりする。社員は自分より地位や立場が下なので、逆らうことができない。それを(無意識的に)乱用して、抑圧されていた卑しい品性をあらわにする。

 そのような行為の根底には、屈辱によって形成された「自己無価値感」、ひらたくいえば「劣等感」がある。そのため、劣等感を感じさせる社員に我慢ができない。
 たとえば、自分より能力が高い社員、自分より学歴が高い社員、自分よりきれいな社員、自分より目立つ社員、自分より愛される社員、自分に少しでも批判的な社員がゆるせない。そのような社員と自分を比較すると、相対的に自分の価値が下がったと思い込み、劣等感を覚えるからだ。そこで、そういう社員が会社にいられないように工作したりする。そのため、こういう社長が経営する会社は、人の入れ替わりが激しいのが特徴だ。社員が入社したと思ったらすぐに辞めていったりする。当然、優秀な人間はいなくなり、社長を教祖のように持ち上げることに長けた「太鼓持ち」ばかりとなる。会社はまるで宗教団体のようになるか、社長の自己価値観を高めるために作られた「劇団」みたいになる。社員は社長を称賛する脇役に徹することを求められ、主役である社長より目立ったり、反論することはゆるされない。

 そうして、忌まわしい連鎖が始まる。すなわち、社長から屈辱的な扱いを受けた社員は、部下に屈辱を与えるようになり、その部下はまたその部下に屈辱を与えるようになる。部下がいない社員は、気が弱くて自分に反抗しないような同僚に屈辱を与えたり、新入社員に屈辱を与えたりする。社内で誰にも屈辱を与えられない場合は、家で妻に屈辱を与えるかもしれない。妻は子供に屈辱を与え、子供は学校で自分より弱い友達に屈辱を与えたり、動物を虐待するかもしれない。こうして、悪の連鎖が末端にまで波及していく。
 彼らは、自分がそのような卑劣で醜悪な行いをしていることをほとんど自覚していない。「自分がこうするのは部下に責任があるからだ」と、責任を相手に押しつけ、理屈をつけて正当化する。そして、他罰的な傾向が強くなってくる。
 結局、このようにして会社は腐っていく。そうなれば当然、経営もうまくいかなくなる。社長はそれを社員のせいにし、上司は部下のせいにする。また、子会社や取引先や世の中のせいにする。
 人は、虐待を受けたり屈辱的に扱われたりすると、憎悪の感情にかられ、その感情を抱えきれずに復讐という形で発散したくなるのだ。もし立場や力の関係で復讐できない場合、その憎悪の感情を、自分より力の弱い人間に向けてしまうのである。そうして、「弱い者いじめ」というものが生まれてくる。
 この憎悪や復讐の念というものは強力で、それにうち勝つことは容易ではない。ゾンビに襲われた人間が同じゾンビになってしまうように、悪の連鎖はどこまでも続いていく。

 けれども、なかには、ゾンビにならない人間もいる。憎悪や復讐の念に負けず、それに支配されない人間もいる。すなわち、自分は虐待されたり屈辱的に扱われたり、いじめられたりしても、それを誰にも向けることなく、復讐の念を捨て、悪しき連鎖を断ち切ることができる人もいる。
 そのような人こそ、まさに真の強者、勝利者であり、霊性が高い人である。社会にはびこる悪の連鎖をくい止める英雄だ。
 しかし残念ながら、そのような人はそう多くはない。大多数の人間は「されたようにする」。憎悪や復讐の念というものはすさまじく凶暴なので、それをため込むのは健康によくない、吐き出した方がいいと説く人もいる。たとえば、怒りの感情を紙に書いたり、皿を割ったり枕をぶん殴ったりするとよいなどとアドバイスする。
 しかし実際のところ、憎悪や復讐の念というものは、そのような無害な形で吐き出せるほど生やさしいものではない。もしもストレートに解き放したならば、人のひとりやふたり簡単に殺してしまうくらいの威力を持っていたりする。それほど根深いのである。
 では、いったいどうしたらいいのだろうか?

 残念ながら、私にはわからない。
 ただ、自覚することは大切だ。自覚すれば、何か対策がとれる可能性はある。自覚しない限り、その可能性はゼロだ。
 そのためのヒントとしてあげられるのは、今まで自分が人から何をされたか、ということをよく思い出してみることだ。繰り返し述べているように、「人はされたようにする」という傾向があるからだ。あなたが、親やその他の人からどのように扱われたかをよく思い出し、分析してみていただきたい。そうすれば、あなたは無意識的に同じことを誰かにしていることを自覚するかもしれない(その誰かとは、多くの場合、あなたより力の弱い人である)。自分がされたように誰かに対してしていないかどうか、厳しい目で自分を見つめていただきたい。
 そうして自分を厳しく見つめてもなお、自分は不当なことはしていないと確信が持てたならば、それはすばらしいことだ。ただし、「言い訳」でごまかしていないか、本当に正しく自分を見つめたうえで結論を出さなければならない。
 もし、自分が「されたようにしている」、あるいは、「しようとしている」ということに気づいたら、断固として憎悪や復讐の念と闘うべきである。すぐには勝利しないかもしれないし、ときには負けることもあるかもしれないが、それでも闘いを放棄してはいけない。ゾンビに噛まれても、ゾンビになってはいけないのだ。
 グロテスクで醜いゾンビにはなりたくない。弱い者をいじめる人間はもっとも醜く、卑劣なゾンビである。社会にはそんなゾンビがうようよしている。自分がされたからといって、同じ行為をしたら、自分も同じく醜悪で卑劣なゾンビになったことになる。
 ゾンビは、動く死体に過ぎない。もはや人間ではない。憎悪や復讐の念に支配されるということは、すでに死んだも同然で、人間であることをやめるのと同じことである。


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偏見を取り除く


 私たちは、自覚しない間にあらゆる偏見に染まっているものです。私たちが考えているほどには、ありのままに物事を見てはいないのです。先入観で人や物事を判断したりしています。しかし、これでは真実を把握していくことはできません。完全に先入観や偏見を除去することは難しいと思いますが、可能な限り、それらをなくしていく努力をしていくべきなのです。
 イギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、人間が抱きやすい偏見を「イドラ」と呼び、4つの種類を取り上げています。次に、その4つのイドラについて説明してみましょう。

●種族のイドラ(idola tribus) 人間そのものによる偏見
 感覚における錯覚、人類一般に共通してある誤り。
●洞窟のイドラ(idola specus) 個人的偏見
 狭い洞窟の中から世界を見ているかのように、個人の性癖、習慣、教育によって生じる誤り。
●市場のイドラ(idola fori) 言語による偏見
 言葉が思考に及ぼす影響から生じる偏見。言葉や言語が引き起こす偏見。口コミなどが挙げられる。
●劇場のイドラ(idola theatri) 伝統や権威による偏見
 思想家たちの思想や学説によって生じる誤り。

 以上のようなイドラを、特にスピリチュアルな面に限定して、その具体的な例をあげると、およそ次のようになるのではないでしょうか。

●種族のイドラ
・単なる偶然の一致や感覚異常を霊的な体験であると思い込む。
・意図的なトリックにだまされる
●洞窟のイドラ
・単なる考えや思いを霊的存在からのチャネリングだと思い込む。
・霊的知識が豊富であるというだけで自分は霊格が高いと思い込む。
・「あなたは世界を救うために来た救世主だ」といった声が聞こえる。
●市場のイドラ
・「魂」、「霊」、「自我」、「スピリチュアル」など、定義があいまいな言葉を使い混乱する。
・立派な教えを口にするというだけで、人間性や霊格まで立派だと思い込む。
・「悟り」にもいろいろなレベルがあるにもかかわらず、「悟りを開いた」と師匠から言われると、偉大な霊格を確立した気になる。
・「殺人ではない。ポア(成仏)させるのだ」とグルが弟子に命令して人を殺させる。
●劇場のイドラ
・あらゆる宗教に見られる権威やドグマに対する盲従。
・グル絶対主義。教祖絶対主義。覚者絶対主義。
・多くの人が支持している「カルマの法則」、「引きよせの法則」などへの盲信。

 こうしたイドラだけではなく、私たちはあまり根拠のないことでいろいろなことを決め付けているように思います。こうした姿勢は霊的成長にとって大きな障害となりますので、ぜひとも十分に注意しようではありませんか。
 

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 ゆるすということ


 愛することと、ゆるすことは表裏一体です。ゆるしのない愛はありません。愛があるところにはゆるしがあります。ゆるしとは、自分を傷つけた相手に対する憎しみや復讐の気持ちを捨て去り、相手を受け入れることです。
 しかし、ゆるすということは、それほど容易なことではありません。多少のことならゆるせるでしょうが、自分をひどく傷つけた相手、人生をひどいものにした相手をゆるすということは、並大抵のことではないのです。まして、相手がそのことに対して謝罪も懺悔もしていない場合はなおさらです。「ゆるしなさい」という言葉はよく聞かれますが、「いったいなぜそんな相手をゆるさなければならないのか? 自分は一生相手を恨み続け、できれば仕返しをしてやるつもりだ!」と、このように思っても、いったい誰がそのことをとがめることができるでしょうか。傷つけられた人の痛みや悲しみ、そして憎悪の気持ちは、本人にしかわからないものです。仮に「ゆるしなさい」と言われ、「ゆるします」と口で言ったとしても、心の底には悲しみと憎悪がくすぶっていることが多いものです。これでは、ゆるしたふりをしているだけで、本当にゆるしたことにはなりません。それは単に自分をだましているにすぎません。自分をだますくらいなら、無理にゆるす必要はないのです。無理にゆるそうとしても、それは文字通り無理なことだからです。ゆるしというものは、春が訪れるように、自然に湧きあがってくるものではないかと思います。

 人生というものは、「ゆるせない」と思うような体験をするようにできているのです。それは、魂の霊性進化のために人生が与える「負荷」なのです。すなわち、ゆるせない状況においてもなお、ゆるすように自分を鍛え、成長していくためです。

 自分を傷つけた相手は、故意に、あるいは悪意を抱いてそうしたのだとしても、それは現象的な出来事であるにすぎません。ちょうど、俳優が舞台の上で人を傷つける役割を演じているようなものです。彼はただ、背後に存在するシナリオに従っただけです。同じように、私たちは誰かによって「ゆるせない」ような体験をさせられるように仕組まれているのです。まずはそのシナリオが存在しているのです。そして、自分を傷つける相手は、そのシナリオを実現するための配役として、たまたま選ばれたにすぎないのです。自分を傷つけたのは、相手ではなく、この地上世界の背後に存在する摂理としての「シナリオ」なのです。シナリオがあなたを傷つけたのであり、相手があなたを傷つけたのではないのです。これが真実なのです。
 ゆるすことができず、憎悪や復讐の念を抱き続けている限り、実は自分自身で自分のことを傷つけているのです。なぜなら、憎悪の念は、心身にとってある種の毒物のようなものだからです。誰かに対して憎悪の念を抱いている限り、心からの平安は得られません。心の平安を得られないほど不幸なことがあるでしょうか。たとえ特定の相手だけに向けられた憎悪であっても、その憎悪の念は、本人も自覚しないうちに他の人に対する憎悪へと拡散していくものです。憎悪の念は憎悪を引き寄せます。その結果、しだいに多くの人に対する憎悪を抱くようになり、周囲の人間関係が憎悪に満ちたものとなる可能性が出てくるのです。そうなると人相もどことなく険しくなり、暗くなって、人に愛される表情とはなりません。さらにまた、持続的な憎悪は慢性的なストレスとなり、ホルモンや自律神経系統のバランスを崩し、免疫力を低下させて病気に罹りやすくなってしまいます。一説によれば、慢性的な憎悪は癌を誘発させるとも言われています。
 このように、人を憎んでいても、何のいいこともありません。自らを傷つけるだけです。ですから、ゆるした方がよいのです。相手のためにではなく、自分のためにです。自分を傷つけた相手のために、自分が長期にわたって苦しみ続け、不幸の種を育てるようになるというのは、馬鹿馬鹿しいことではないでしょうか。
 ゆるすためには、この事実を理性的にしっかりと理解することが大切です。もちろん、ゆるせない気持ちは感情的なものですから、「憎悪は自分のためにならない」ということが頭ではわかっていても、すぐには感情が納得しないでしょうから、簡単にゆるせるようにはならないかもしれません。しかしそれでも、ゆるしの第一歩は、「憎悪を抱くことは自分にとって何の利益もなく、害悪でさえある」ということ、そのように自分を苦しめることはまったく馬鹿らしいことであることを、理性的にはっきりと知ることが大切なのです。人生というものは、人を恨み続けて生きるにはあまりにも短すぎます。恨みに費やされるエネルギーをもっと有意義な方面に向けたならば、真に人生を実りあるものとさせることができるかもしれないのです。

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 人生の苦難と心の平安


 人生には苦難や不運や苦しみがつきものであり、そういうときは、不安や恐怖に襲われ、苦悩し、心を乱してしまいます。けれども、辛いときほど、心を平安にしていなければならないのです。というのは、神の救いというものは、心が平安であるときにもたらされるといわれているからです。
 シルバーバーチの霊訓だとか、過去の聖人たち、その他、さまざまな霊的な教えが、不安や恐怖や取り越し苦労をしないように戒めています。そういう気持ちは、せっかくの高い霊的存在からの導きをかき乱し、遮断してしまうそうなのです。ですから、救いを得るためには、私たちは辛く苦しいときほど、心を穏やかに、平安にしていなければならないのです。そうすると、その心に神(のエネルギー)が宿り、宿ったその神が、悩み苦しみを解決してくれるというのです。
 しかしながら、そうはいっても、これはなかなか難しいことです。ちょっとした苦しみならともかく、壮絶な苦しみや悩み、絶望に見舞われたようなとき、どうして心穏やかでいられるでしょうか。不安や悲しみや苦悶で心がいっぱいになり、嘆き、あるいは怒りや憤りが湧いてきて、どうしようもなくなってしまうのではないでしょうか。
 そんなとき、心穏やかでいることは、何と難しいことでしょう。心穏やかでいられるなら、もともとその苦しみはたいしたことではないのだと、そのようにも言いたくなります。心穏やかになれず、動揺激しく悶絶しているときにこそ、私たちは神の救いを必要としているのではないかと思うのですが、「心穏やかでなければ救いたくても救ってあげられない」と言われると、人間というものは、何と絶望的で悲劇的な存在なのであろうかと思ってしまうこともあります。
 しかし、この場合も、私は例によって「じりじり主義」を主張したいと思います。すなわち、最初から完璧になろうとするのではなく、「少しでもよい状態になるために」、努力を傾けるのです。すなわち、ほんの少しでもいいから、心が穏やかに、平安になるように努力してみるのです。そうすれば、実際、少しは心を平安にすることはできるはずです。そして、少し心が平安にできたら、さらにじりじりと努力を続けて、もう少し平安になるようにがんばってみるのです。それを忍耐強く繰り返していくなら、いつのまにか、かなり心の平安が得られるのではないかと思います。そして、それに比例して、神の救いが得られるようになり、神の救いが得られるようになると、そのために心も平安になり、心が平安になるとさらに神の救いが得られる・・・といったように、しだいに相互作用が生じてきて、心の平安が加速されてくるのではないかと思います。
 皆さん、努めて心の平安を心がけましょう。それが自己の内部で神がもっとも働きやすい環境なのです。忍耐強く、じりじり主義で進んでいきましょう。不安を捨て、何ものも恐れず、悩まず、あとは神がうまくやってくれるという全託の信念をもって、耐え忍んでいきましょう。それが、人生の苦難に対するもっとも適切な対処の仕方であると思われます。

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