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心の治癒と魂の覚醒

        

神への本当のお供物

 信仰深い人は、神様に「お供物」を捧げます。花や食べ物、菓子や酒などを、神棚や祭壇に置いて、神様への贈り物にするわけです。
 なぜそのようなことをするのでしょうか?
 そういうものを捧げれば、神様は喜んで、自分の願いを叶えてくださると思っているのでしょうか? お供物を捧げて、「そのかわり、商売が繁盛するようにしてください」と祈るのでしょうか?
 神様は、花も食べ物も、お菓子も酒も、必要としないでしょう。そのようなものを欲しいとは思わないでしょう。それでも神様が、そうしたお供物を喜ぶとすれば、そういう行為を通して、人間が自分に思いを向けてくれる、それだけだと思います。

 神は、人間が自分に思い(心)を向けてくれるのを喜ばれるのです。なぜなら、そうすることで神は、人間を真の幸福へと導きやすくなるからです。神様の願いはただひとつ、人間が真の幸福をつかむことだけです。

 では、真の幸福とは、いったい何でしょうか? また、どのようにすれば得られるのでしょうか?
 真の幸福とは、一時的で、はかない、いずれは渇望や苦しみをもたらす快楽をむさぼることではありません。渇望や苦しみに変ることのない、永遠なる至福のことです。そのような至福は、神だけが持っています。富や名声といった、地上的な事物、いわゆる世俗には、はかなく苦しみに変る幸福しかありません。そのようなものは幸福の名に値せず、単なる快楽でしかありません。
 神の至福をかいまみた聖人たちは、異口同音に言っています。「世界じゅうの富や名声すべてをくれたとしても、その至福と交換しようとは思わない。その至福に比べたら、この世の喜びなど、ゴミや塵に等しい」と。

 そうした至福は神だけが持っているのですから、その至福を得るには、神のもとに帰り(もともと私たちは神から来たのです)、神とひとつになることです。
 では、どのようにしたら、神とひとつになれるのでしょうか?

 それは、神とひとつになることを妨げている「自分」を捨てることです。自分は自分のことを「私」と思っています。しかし「私」という、神とは別個の存在があれば、神とひとつになることはできません。「私」を捨てたとき、神に捧げたとき、神とひとつになるのです。

 ですから、神様が一番喜ばれる「お供物」は、自分なのです。自分を神様に捧げるのです。これが最高のお供物であり、人間はこれ以上すばらしいお供物を神に捧げることはできません。このお供物を捧げれば、神様とひとつになり、至福が得られます。

 ところが、そのお供物が、汚なく、粗悪だったらどうでしょうか? 私たちは、汚物の混じった、腐った食物をお供物として神様に捧げるでしょうか? 決してそんなことはしないでしょう。汚く粗悪なものを、誰かにプレゼントするようなことはしません。そんなことをしても相手は喜びませんし、むしろ不愉快でしょう。神様も同じように、汚く粗悪な自分を捧げても、喜ばれないし、受け取ってはくれないでしょう。

 したがって、神様に喜んで受け取ってもらえるように、自分というお供物を、きれいにし、上質なものにしていかなければならないのです。それは、地中から取り出した原石から、土などの汚れを少しずつ落としていき、削ったり磨いたりして、美しい玉に仕上げるような感じです。
 力を尽くし、全身全霊で、可能な限り心を浄め、可能な限り、あらゆる欠点をなくして、自分を立派にすることです。
 しかしそうしても、完全に清浄で、完璧な「お供物」にすることは、難しいかもしれません。それでも慈悲深い神様は、多少の難点があっても、その努力を認めて、お供物を受け取ってくださることでしょう。

 世の中には、瞑想などの霊的修行をしている人はたくさんいますが、肝心なこの修行がおろそかになっている傾向があるように思います。霊的修行以前に、ひとりの人間として立派にならないと、どんなに霊的修行をしてもほとんど進歩がないし、そればかりか、堕落して破滅へと転落してしまう危険があります。

 自分とは、いつか神様に捧げるお供物なのだから、神様に喜んでいただけるように、そのお供物を浄らかに上質なものにしていく、この熱意と努力こそが、霊性修行を成就させるのです。
 なぜなら、そのような姿勢で臨んだとき、神様はその目的が成就できるように、導いてくださるからです。

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世俗に対するアレルギー

 子供の頃、当たり前のように牛乳を飲んでいましたが、特にこれといった理由なく、半年ほど牛乳を飲まない時期がありました。そして久しぶりに牛乳を飲んだところ、下痢をしてしまい、以後、牛乳を飲むと腹を下すようになり、牛乳が飲めなくなりました。つまり、「牛乳アレルギー」になってしまったのです。※一説によれば、牛乳は牛が飲むもので、牛乳を受け付けないのが、本来の健康な人の反応である、とのことです。

 さて、私は今、埼玉の閑静な田舎町の一軒家に住んでいます。家族と顔を合わすのは食事のときだけで、会話らしい会話はほとんどしません。仲が悪いわけではありません。価値観がまったく違うので、会話が成り立たないのです。そして、ほとんどの時間、書斎で一人で過ごしています。あとは、月に一度、イデア ライフ アカデミーの教室に行って、そこで何人かの生徒さんと会うだけです。
 以前はそれ以外にも、小さな勉強会やセミナーを頼まれて行ったり、まれにですが、飲み会なども行ったりしていましたが、今はまったくありません。その他の人付き合いもまったくありません。また、3年ほど前に「年賀状じまい」をしたので、年賀状もきません。人との交流といえば、せいぜいメールくらいですが、これもあまり来ません。
 つまり、私は毎日、ほとんど孤独に過ごしているのです。テレビもニュース以外はほとんど見ないので、世俗とはほとんど無縁の生活を送っています。いわば、ある種の隠遁生活に近い状態です。
 私の毎日は、イデア ライフ アカデミーの授業のために、古今東西の聖者たちの本を読んだり、瞑想したり、少し運動するといったことくらいです。

 このように、世俗とは距離を置き、超俗的で霊的な本や思索に専念するという生活を、ここ2、3年ほど続けてきているのですが、最近、大きな変化を感じるようになりました。
 それは、テレビで映し出される世俗の人々の様子に対する、ある種の「アレルギー」です。すでに述べたように、見るのはニュースくらいで、あとはときどき教養番組くらいなのですが、たまたま家族が見ていたので、他の番組を見てみました。それは、バラエティというか、タレントがふざけあう番組というか、お笑い的なものでした。
 自分でも驚くほど、非常な嫌悪感を覚えました。
 まず、やっていることの低俗さです。あまりにも無意味で、何が面白いのかという感じです。特に嫌悪を覚えたのは、言葉使いの下品さで、なかでも「ヤバイ」という言葉です。この言葉は、もともと泥棒の隠語で下品な言葉なのですが、世俗では誰もが当たり前のように使っています。この言葉を耳にすると、まるで目の前に汚物をつきつけられたような不快感を覚えるようになりました。

 以前は、これといって気になることもなく、平気だったのですが、このところ、急に嫌悪感を覚えて、苦痛になってきたのです。
 もちろん、いい番組もあります。私が見た番組は、たまたまひどかったのかもしれませんが、でも全般的には、低俗なものが多く、くだらないと思います。
 私は何も、自分は高貴な人間であると言うつもりはなく、上品ぶっているわけでもありません。ただ、私の内面の状態をそのまま伝えているだけです。
 私が申し上げたいのは、これは私だけの特別な状態なのではなく、誰でも、私のようにある一定期間、世俗から遠ざかった生活をすると、このようになるのではないか、ということです。

 むかし、霊的な本を読んでいたら、こんなことが書かれていました。
 「人は死後、霊界に移行してしばらくそこに住む、そして時期が来て、再び地上に生まれ変わることになる。そのとき、まだ霊界にいる魂は、どんな気持ちがするのか? それは、たとえるなら、地下の下水道に流れる汚水の中にもぐっていくような気持ちである」というのです。つまり、暗くて汚らしいところに行くような気持ちになるらしく、ほとんどの魂はいやいやながら(修行のために仕方なく)、地上に生まれ変わってくるらしいのです。
 最初にそれを読んだとき、そんなものかと、あまりピンときませんでしたが、今ではそれがとてもよく理解できるようになりました。まさに、その通りだと思うのです。この世俗世界は、真理も正義も覆い隠された暗い場所、欺瞞と利己主義、悪や不正、隠蔽、野放しの欲望といった、汚物のたまり場ではないでしょうか?

 しかし、私たちの本来の姿である霊的な魂は、そんな汚水の中がほんらいの住む場所ではないはずです。ただ、ずっと汚水の中に浸かっているせいで、そのことに気づかないのです。もし、一定期間、世俗から離れた生活をするなら、本来の自分のありかたを思い出して、なんとしてもこの悪臭ただよう不潔な下水の世界から、本気で脱出したいと思うはずです。世俗に対する「アレルギー反応」が生じるはずです。

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真の聖者(覚者)かニセモノかを判断する基準

先日、ある新興宗教団体の教祖が亡くなりました。
 まだこの教団が設立されて間もない頃、私の本を読んだという人から、この教団の教祖の講演を収録したカセット・テープが送られてきたことがあります。同封されていた手紙には、「近いうちに○○師(教祖の名)は、人類の救世主としてその正体を宣言し、世界中から崇められる日が必ず来ます」と書かれていました。かなり熱心な信者だったようです。しばらくテープを聞いてみましたが、惹きつけられるものがまったく感じられなかったので、途中で聞くのをやめました。
 はたしてこのような宗教を信じる人がどれくらいいるのだろうかと、そのときは疑問に感じましたが、まもなくものすごい数の信者を集め、大規模な集会が行われ、ある種の社会現象にまでなりました。有名な作家やタレントが信者として名乗りを上げ、教団を擁護する言葉を声高に叫んで行進したりしていました。また、その頃、この教団とオウム真理教は張り合っていて、互いを悪く言いあっていました。

 古今東西、多くの聖者や覚者、救世主やグルを名乗る人物が教団を結成し、多くの信者を集めてきました。しかし、中には「こんな人物のどこがいいのだろう?」と疑問を感じることも少なくありません。
 確かに、本や説教に関しては、「いいことを言っているなあ、深い内容だなあ」と感じることはあります。しかし、人物そのものが、どう見ても怪しいのです(信者からすれば、怪しいと思う私が怪しいのでしょうが)。
 ただ言えることは、本や説教だけなら、いくらでも立派なことを言い、人を惹きつけることができるということです。多少の文才や弁舌の才能さえあれば、誰にでもできます。過去の聖者や覚者が説いたことをあちこちから引用し、適当につないでひとつの文章にするだけで「立派な本」が書けます。私だって書けると思います。
 また、いかにも聖者や覚者のような格好をし、それらしい話し方や振る舞いをすれば、たとえ内容が薄い講演でも、雰囲気に飲まれて、それをありがたがる人が一定数いるのです。

 それは、いわゆる「へたな鉄砲も数うちゃ当たる」ということなのでしょう。
 たとえば、皆さんも同じかと思いますが、毎日、私のもとには大量の詐欺メールが送られてきます。中には非常に巧妙なものもありますが、ほとんどは明らかに詐欺だとわかるメールです。しかしそれでも、千人に一人か一万人に一人くらいはだまされる人がいるのでしょう。だとすると、これを百万通送信すれば、百人から千人の人がだまされることになります。
 宗教も同じなのだと思います。「イワシの頭も信心から」という言葉がありますが、どんなにくだらない内容でも、うまく演出すれば、簡単にだませるのです。
 たとえば私が「仏陀の生まれ変わりだ」と宣言し、「立派な本」を書いて、言葉たくみに「イワシの頭を仏壇に置いて、それを拝めば幸せになれる」と説いたとします。なんとも馬鹿馬鹿しい話ですが、それでも、一万人か十万人に一人くらいは、だまされる人がいるわけです。日本の人口を一億とすると、千人から一万人くらいだまされて、私の信者になるのです。そうして教団を作ることができます。あとは、そうした信者は「カモ」ですから、いくらでもカネを吸いとることができます。若い女性も来るでしょうから、ハーレムを作ることもできます。

 私も、かつては、本や説法に接しただけで「この人は偉大な聖者、覚者かもしれない」などと思って、だまされそうになったことがよくありました。本物か偽物か、とても迷い、悩みました。
 もちろん、その人が本当の聖者(覚者)かどうかは、証明できないでしょうから、わからないことなのですが、それでも私は、自分なりに、それを判断するひとつの基準を持てるようになりました。

 それは、その人物が、「女・カネ・名声」に対して、どれだけ執着心があるか、ということです。
 人間というものは、たいていこれらのために堕落したり失敗したりするのです。つい最近も高名な弁護士がセクハラをして名誉も地位もいっきに失ってしまいました。女とカネと名声は、対応を誤ると、たちまち人を奈落の底に突き落とす「危険物」なのだと考えるべきです。爆薬や劇薬を扱うときのように、慎重かつ最大限の警戒が必要です。
 それを物語るように、聖者や覚者と呼ばれ、実際にある程度の高い境地に達したと思われる人が、女・カネ・名声に対する欲望を起こしたために堕落してしまったというケースを、国内外においてときおり見かけます(「女」ではなく「男の子」という場合も稀にあります。いずれにしろ、要するに色欲です)。
 聖者や覚者として有名になると、自然に女やカネが集まってきます。名声も高まります。そうなると、その誘惑に負けて堕落してしまうのです。なかには「解脱した者は女やカネに執着しない。だから女を抱きカネを集めても問題はないのだ」などとうそぶいて、自分の堕落を正当化する輩もいます。

 最近、「活き仏」と呼ばれ、多くの信者がいるという中国人の僧侶が書いた本を読みました。「高級車や豪邸などを欲しがるのは執着であり、それはやがて苦しみを生む」などと立派なことが書かれていて、感心して読み進めていたら「私は高級車に乗っている……」という一文が出てきて、すっかりしらけてしまいました。うっかり本当のことを書いてしまったのかもしれませんが、それにしても、自分自身が手本を示さないで、いかに立派なことを言っても、むなしいばかりです。言葉だけなら、いくらだって立派なことは書けるし、言えるのです。

 したがって、私は、女やカネの臭いのする「聖者」だとか「覚者」というものは信じません。名声に関してだけは、立派な人であれば本人にその欲望が無くても自然に高まっていくでしょうから、よしとしますが、女やカネの臭いがしたら、まずその人物はニセモノだと思っています。女性と関係をもったり、高級車に乗っていたり、豪邸に住んでいる、というだけで、いかに立派な本を書き、説法をしたとしても、私の「聖者リスト」からは、はじいてしまいます。

 真の聖者(覚者)は、間違いなく清貧の人です。女やカネや名声などには関心がありません。たとえカネを得たとしても、自分の懐に入れたりせず、貧しい人に施すでしょう。女性に対しては、母や妹や娘として接するか、あるいは「魂」として接するはずです。名声などは、それを求めるどころか、煩わしいものとして遠ざけようとさえするでしょう。
 こうした基準を設けてから、私は「この人は本当の聖者(覚者)なのだろうか?」と迷うことがなくなり、とてもスッキリして、悩まなくなりました。

 くどいようですが、本や口先では、いくらだって立派なことは言えます。いくらだってだますことができます。実際に、ある一定数、それでだまされてしまう人がいるために、彼らは教祖として崇められ、教団を作ることができるのです。
 しかし、真偽を決めるのは、言葉ではなく、生きざまです。生きざまだけが、本当の聖者(覚者)か、そうでないかを決めるのです。そして、その生きざまに関して、もっとも信頼できる基準は、女・カネ・名声に対する執着があるかどうかです。
 
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究極のリスク管理


 国家においても、企業においても、いわゆる「リスク管理」というものが求められます。すなわち、将来、起こるかもしれない何らかの危機的状況やトラブルの可能性をまえもって予想し、そのような問題が生じないように対策を立てたり、もしも生じた場合は、どう対処したらいいか、あらかじめ講じておくことです。
 こうしたリスク管理は、国家や企業に限らず、個人においても必要なことです。たとえば、将来、病気になったり職を失ったりするといったリスクがあるわけですが、それを回避するような手段を日ごろから講じたり、万が一そうしたリスクが生じた場合、どう対処するかといったことを、あらかじめ準備しておく必要があるわけです。そのために、健康面ではダイエットや運動をするといったことがあげられますし、職を失ったりするとか、事故や災害などに関しては、保険をかけておくといったことをすることになるでしょう。

 ところで、世間でいうリスク管理は、あくまでもこの世に生きている間だけに関してであって、「死後のリスク」については関与していません。しかし、個人レベルでは、死後のリスクについても、リスク管理をする必要があると思うのです。いわば、遠い先までも考慮した「究極のリスク管理」です。
 死後のリスクというのは、「死後に苦しい状態に陥る」ことです。俗に言う「地獄に落ちる」ということです。
 ここで問題となるのは、そのような、死後の世界などといったものがあるのかどうかです。唯物論者は一笑に付して、死後の世界など存在しないと言うでしょう。もちろん、死後の世界が本当にあるかどうか、誰にもわかりません。あるという証明もできないし、ないという証明もできません。あるかないかわからないものに対して、対処をしておくなどということは、馬鹿馬鹿しく思われるかもしれません。
 しかし、リスク管理というものは、そもそもそういうものなのです。将来、たとえば交通事故を起こすかどうかなど、誰にもわかりません。しかし、もし交通事故を起こしてしまった場合、その損害は致命的なものになるので、ほとんどの人は、クルマに乗るときは自賠責保険だけでなく任意保険もかけているわけです。

 死後の世界も同じです。「死後の世界なんてない、地獄なんて存在しない」といって、人をさんざん苦しめてまでカネや地位を獲得した人がいるとして、もし地獄が存在していたら、その人は死後に地獄に行って、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わうことになるかもしれません。
 釈迦もキリストも地獄はあると言っています。彼らの教えによれば、地獄という場所は、想像をはるかに超えたひどい苦しみを、永遠か、永遠に近いともいえるほど長期間にわたって味わうことになるらしいです。
 たかだか長くても百年くらいにすぎないこの地上人生を、人を苦しめてまでカネや地位に恵まれて幸せに暮らせたとしても、死後に待ち受けている、壮絶な苦しみを気が遠くなるほど味わわなければならないとしたら、割りにあわないのではないでしょうか。

 ですから、私たちは、死後の世界までも考慮してリスク管理をしておく必要があるわけです。そのためには、「悪いことはしない」ということです。殺人といった重大な犯罪はもちろんですが、ささいなイジメや嫌がらせ、パワハラといった、人の心を傷つけるような行為であっても、その報いを受けなければならないリスクがあるわけです。そしてその報いは、釈迦やキリストの主張が本当なら、私たちが想像する以上に苦しいものです。
 したがって、死後の世界があるかどうかはわからないとしても、もしあった場合のことを考えて、それに対処していく、つまりリスク管理をしておく、ということが大切だと思うわけです。そのために、ずるいことはせず、人をだましたりいじめたり裏切ったり踏み台にするようなことはせず、正直に、誠実に、まじめに、正義感をもって柔和に生きることです。これが究極のリスク管理です。

 ところが、この地上世界という場所は、ずるいことをしたり、人をだましたりいじめたり裏切ったり踏み台にしたりする人の方が、成功したりカネや地位に恵まれることが多いのです。たとえそこまで言わないにしても、目上にこびたり、自己を売り込んだり、心にもないパフォーマンスをすることが上手な人が成功する傾向があるわけです。
 一方、正直に、誠実に、まじめに、正義感をもって柔和に生きる人は、そのために馬鹿を見るようなことも少なくありません。この地上世界は、だいたいにおいて、不条理で汚い場所なのです。ですから、このような地上世界で、正直に、誠実に、まじめに、正義感をもって柔和に生きているのが、愚かしく思えてしまったり、いじけてしまいたくなったりするのです。無理もないことです。

 しかし、そうしてこの世ではさえない人生を送ったとしても、「死後の地獄行き」という、とんでもないひどいリスクは回避していることになります。もちろん、地獄など存在しなければ、悪いことをしてまでもこの世の成功をつかんだ人が「勝ち逃げ」ということになりますが、もし存在していたら、その損害と苦しみの恐ろしさは、はかりしれないものがあります。
 ですから、人生をまっとうに生きて、そのためにさえない人生を送ることになったとしても、それはすばらしい「リスク管理」をしていることになると思ったらいかがでしょうか。クルマの保険をかけ続けて、結局、事故を起こさなければ、今まで支払った保険料は無駄ということになりますが、しかし、安心してクルマの運転ができたわけですから、その保険料は「安心を買った」という意味に解釈できるわけで、決して無駄ではなかったことになります。

 なお、釈迦やキリストは、天国(極楽)についても説いています。善き行いをした人が天国に行くわけですが、地獄とは正反対で、地上のいかなる幸福とは比較にならないくらい幸福だとされています。長くても百年という短い地上人生の間に、人間としてまっとうに生き、人に優しくし、困っている人がいたら助け、機会あるごとに親切にするならば、天国か、少なくともそれに近い霊的領域に死後は行くことになるでしょう。これを「投資」にたとえるなら、最高にパフォーマンスの高い投資です。千円の株を買って、それが値上がりして一億円になったくらい、あるいはそれ以上のものです。
 たとえ人に親切にして、感謝されなかったりしても、実害はありません。むしろ、感謝されたりしたら、それだけ功徳が減ると考えて、感謝されなくてよかった、くらいに考えるといいと思います。
 神智学の教義によれば、ほんの小さな親切であっても、霊界では、とてつもなく大きな功徳として認められるとのことです。卑俗な例をあげれば、貧しい人に千円をあげたら、霊界では一千万円をあげたくらいの功徳があるらしいのです。
 たとえ、そのような功徳は別としても、人を助けたり善いことをすれば、気分がいいし、それだけでも十分な報酬であるとも言えると思います。

 ということで、皆さん、この地上人生は短いです。あっという間です。私なんか、いつのまにか60歳になったと思ったら、先月、もう61歳になってしまいました(笑)。こんな短い人生において、どれほどカネや地位を手にしたところで、それが何だというのでしょう。それよりも、リスク管理をして生きようではありませんか。悪いことはせず善いことをして死んだなら、仮に死後の世界がなかったとしても、そういう生き方をしたというだけで気持ちよく生きたことになります。そして、死後の世界があったなら、それこそ想像を絶するほどすばらしい生が待っているのです。どちらにしろ損はないのです。

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エゴの罠

 例によって報告とお知らせから。
 先日6月15日/16日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は、「ヴィパッサナー瞑想法」について紹介しました。この瞑想法は、数ある瞑想法の中でも最も重要で基本的な瞑想法だと思います。ひとことでいえばグルジェフの説く「自己観察」と本質的には同じであると思いますが、最近になって脚光を浴び、この瞑想法を習いたいという人がかなりいるようです。授業では、この瞑想法の原理とやり方を詳しく説明しつつ、その問題点についても取り上げました。決してひとつのやり方や教えに偏らないのがイデア ライフ アカデミーの基本姿勢です。また「瞑想の心構え」として重要な説明もしていますので、瞑想に関心をお持ちの方はぜひ動画をご覧下さい。↓
 動画「ヴィパッサナー瞑想法」(ダイジェスト版)

 次回のイデア ライフ アカデミーは、7月6日/7日、哲学教室第8回「グルジェフ 人と思想2」を行います。今回はグルジェフ思想の中心部である「ワーク(修行法)」について詳しく解説します。今回のグルジェフ・シリーズ(全3回)は、けっこう反響があり、グルジェフに関心をもっている人が多いことを知って嬉しくなりました。やはり宗教やスピリチュアルな道を歩む人は、いえ、宗教やスピリチュアルには無関心な人でも、グルジェフの教えは、私たち人間のありかたと人生のありかたを深く考えさせてくれるという意味で、一度は学んでおくべきものであると思います。参加ご希望の方はホームページから↓
 斉藤啓一のホームページ

 それと、イデア ライフ アカデミーの専用ページを新たに作りました。そこでイデア ライフ アカデミーの内容や理念を詳しく書きましたので、ご覧いただければ幸いです。また、霊的な修行の道において非常に大切だと思われることを、「自己変革の極意」という小論文にまとめました。こちらもぜひご覧ください。

 では、本題に入りますが、今回、ヴィパッサナー瞑想法についての授業をするにあたり、ネットでいろいろと調べました。とりわけ、ヴィパッサナー瞑想の十日間の合宿に行った人の体験談を読んでみたのですが、そのなかで気になるものがありました。
 そのサイトに書かれてある体験談によると、ヴィパッサナー瞑想法のスタッフに、いろいろ質問をしたらしいのですが、しだいにそのスタッフの人はイライラし始め、ついには半キレ状態になったというのです。その体験談を書いた人は、ただ純粋に疑問を解決したいと思って繰り返し質問をしたそうなのですが、なぜキレてしまったのか不思議だったそうです。それで、たまたまそのスタッフだけの問題なのかと思い、他にヴィパッサナー瞑想をしている複数の人(その中には外国人も含まれる)に、同じように質問を繰り返すと、みんなしだいにイラついてきて、ついにはキレてしまったというのです。
 ヴィパッサナー瞑想法は、怒りなどの煩悩を消すのが目的であり、きちんとヴィパッサナー瞑想法をしていたら、イライラしたり、キレたりするはずがないのです。初心者であればまだわからなくもありませんが、指導する立場にあるスタッフがキレやすいというのは、理解に苦しみます。スタッフになるくらいですから、それなりの修行を積んできているはずです。それなのに、なぜすぐにキレてしまうのか、そのサイトの人も首をかしげていましたが、私も首をかしげてしまいました。
 しかし、これはヴィパッサナー瞑想法だけに限らないようです。
 私の知り合いから直接に聞いた話ですが、その人は、あるスピリチュアルの指導者に質問をしたところ、相手はしだいにイライラし始めたというのです。私の経験からも、スピリチュアルの世界にはまっている人たちは、ささいなことで感情を害する人が少なくないように思われます。
 なので、おそらくヴィパッサナー瞑想法だけの問題ではないのでしょう。

 これは私の想像ですが、瞑想やその他、さまざまなスピリチュアル的な修行によって、エゴが強化されてしまったのではないでしょうか。
 本来、スピリチュアルの修行の目的は、覚醒、すなわち、エゴを消すことが目的のはずなのですが、覚醒するまでは、すべての行動の動機はエゴを満足させることです。具体的には、支配欲、優越感といったものです。すなわち、「私の言う通りにしなさい、私のことを認めなさい」といった気持ちです。プライドと呼んでもいいかもしれません。その気持ちを満たすために、エゴはあらゆることを利用します。一般の人であれば、それはお金や名誉、地位といったものとなるのでしょうが、スピリチュアルにはまっている人は、スピリチュアルを利用してしまうのです。
 たとえば、「自分は悟りを開いた」だとか「最終解脱をした」だとか「自分はブッダである」などといって、人々から認められようとするわけです。お金や名声といったものは、誰がみてもわかるはっきりしたものですから、ごまかすことはできませんが、そういうスピリチュアルな世界は、はっきりとその真偽がわからない方が多いので、いくらでもごまかすことができます。その点で、スピリチュアルという世界は、エゴにとって居心地のよい、格好の場所となるのです。

 ところが、いろいろ質問をされると、答えられない質問も出てくるでしょう。「答えられない」となると、プライド、つまり、エゴが傷ついてしまいます。そのために、イライラして、ついにはキレてしまうのではないでしょうか。
 イライラやキレるというのは、怒りという代表的な煩悩ですから、いくら瞑想やその他の修行を積んでいたとしても、イラついたりキレたりした時点で、霊性が高くないことが明らかになってしまうのですが、そのことに気づかず、自分を怒らせた相手が悪いのだといったように責めることで、正当化してしまう傾向があるようです。
 このようなエゴの罠に陥らないよう、私たちは最近の注意を払う必要があると思うわけです。
 
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