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心の治癒と魂の覚醒

        

エゴの罠

 例によって報告とお知らせから。
 先日6月15日/16日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は、「ヴィパッサナー瞑想法」について紹介しました。この瞑想法は、数ある瞑想法の中でも最も重要で基本的な瞑想法だと思います。ひとことでいえばグルジェフの説く「自己観察」と本質的には同じであると思いますが、最近になって脚光を浴び、この瞑想法を習いたいという人がかなりいるようです。授業では、この瞑想法の原理とやり方を詳しく説明しつつ、その問題点についても取り上げました。決してひとつのやり方や教えに偏らないのがイデア ライフ アカデミーの基本姿勢です。また「瞑想の心構え」として重要な説明もしていますので、瞑想に関心をお持ちの方はぜひ動画をご覧下さい。↓
 動画「ヴィパッサナー瞑想法」(ダイジェスト版)

 次回のイデア ライフ アカデミーは、7月6日/7日、哲学教室第8回「グルジェフ 人と思想2」を行います。今回はグルジェフ思想の中心部である「ワーク(修行法)」について詳しく解説します。今回のグルジェフ・シリーズ(全3回)は、けっこう反響があり、グルジェフに関心をもっている人が多いことを知って嬉しくなりました。やはり宗教やスピリチュアルな道を歩む人は、いえ、宗教やスピリチュアルには無関心な人でも、グルジェフの教えは、私たち人間のありかたと人生のありかたを深く考えさせてくれるという意味で、一度は学んでおくべきものであると思います。参加ご希望の方はホームページから↓
 斉藤啓一のホームページ

 それと、イデア ライフ アカデミーの専用ページを新たに作りました。そこでイデア ライフ アカデミーの内容や理念を詳しく書きましたので、ご覧いただければ幸いです。また、霊的な修行の道において非常に大切だと思われることを、「自己変革の極意」という小論文にまとめました。こちらもぜひご覧ください。

 では、本題に入りますが、今回、ヴィパッサナー瞑想法についての授業をするにあたり、ネットでいろいろと調べました。とりわけ、ヴィパッサナー瞑想の十日間の合宿に行った人の体験談を読んでみたのですが、そのなかで気になるものがありました。
 そのサイトに書かれてある体験談によると、ヴィパッサナー瞑想法のスタッフに、いろいろ質問をしたらしいのですが、しだいにそのスタッフの人はイライラし始め、ついには半キレ状態になったというのです。その体験談を書いた人は、ただ純粋に疑問を解決したいと思って繰り返し質問をしたそうなのですが、なぜキレてしまったのか不思議だったそうです。それで、たまたまそのスタッフだけの問題なのかと思い、他にヴィパッサナー瞑想をしている複数の人(その中には外国人も含まれる)に、同じように質問を繰り返すと、みんなしだいにイラついてきて、ついにはキレてしまったというのです。
 ヴィパッサナー瞑想法は、怒りなどの煩悩を消すのが目的であり、きちんとヴィパッサナー瞑想法をしていたら、イライラしたり、キレたりするはずがないのです。初心者であればまだわからなくもありませんが、指導する立場にあるスタッフがキレやすいというのは、理解に苦しみます。スタッフになるくらいですから、それなりの修行を積んできているはずです。それなのに、なぜすぐにキレてしまうのか、そのサイトの人も首をかしげていましたが、私も首をかしげてしまいました。
 しかし、これはヴィパッサナー瞑想法だけに限らないようです。
 私の知り合いから直接に聞いた話ですが、その人は、あるスピリチュアルの指導者に質問をしたところ、相手はしだいにイライラし始めたというのです。私の経験からも、スピリチュアルの世界にはまっている人たちは、ささいなことで感情を害する人が少なくないように思われます。
 なので、おそらくヴィパッサナー瞑想法だけの問題ではないのでしょう。

 これは私の想像ですが、瞑想やその他、さまざまなスピリチュアル的な修行によって、エゴが強化されてしまったのではないでしょうか。
 本来、スピリチュアルの修行の目的は、覚醒、すなわち、エゴを消すことが目的のはずなのですが、覚醒するまでは、すべての行動の動機はエゴを満足させることです。具体的には、支配欲、優越感といったものです。すなわち、「私の言う通りにしなさい、私のことを認めなさい」といった気持ちです。プライドと呼んでもいいかもしれません。その気持ちを満たすために、エゴはあらゆることを利用します。一般の人であれば、それはお金や名誉、地位といったものとなるのでしょうが、スピリチュアルにはまっている人は、スピリチュアルを利用してしまうのです。
 たとえば、「自分は悟りを開いた」だとか「最終解脱をした」だとか「自分はブッダである」などといって、人々から認められようとするわけです。お金や名声といったものは、誰がみてもわかるはっきりしたものですから、ごまかすことはできませんが、そういうスピリチュアルな世界は、はっきりとその真偽がわからない方が多いので、いくらでもごまかすことができます。その点で、スピリチュアルという世界は、エゴにとって居心地のよい、格好の場所となるのです。

 ところが、いろいろ質問をされると、答えられない質問も出てくるでしょう。「答えられない」となると、プライド、つまり、エゴが傷ついてしまいます。そのために、イライラして、ついにはキレてしまうのではないでしょうか。
 イライラやキレるというのは、怒りという代表的な煩悩ですから、いくら瞑想やその他の修行を積んでいたとしても、イラついたりキレたりした時点で、霊性が高くないことが明らかになってしまうのですが、そのことに気づかず、自分を怒らせた相手が悪いのだといったように責めることで、正当化してしまう傾向があるようです。
 このようなエゴの罠に陥らないよう、私たちは最近の注意を払う必要があると思うわけです。
 
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オウム真理教はなぜ道をあやまったか?


 本日も「真の仏教」について論じる予定でしたが、ご存知のように、昨日、オウム真理教の教祖やその信者がついに死刑になりましたので、今回は予定を変更して、この話題について論じてみたいと思います。もっとも、ある意味では「真の仏教とは何か」ということも間接的に知ることができるのではないかと思います。

 さて、私は20代前半の若い頃、オウム真理教の前身である「オウム神仙の会」という、小さなヨガ団体に半年ばかり入っていました。これについての詳しいことは拙著『悟りを開くためのヒント』で書いたので、ここでは簡単に申し上げますが、そこで、道場に通ったり合宿にも二度ほど参加したりして、麻原の指導を受けたわけです。また、麻原の師匠であるパイロットババというインドの行者を招いたときも、その人の指導を受けました(このインドの行者はいまは「私はインド公認の大聖者である」と宣伝している女性ヨガ指導者の師匠になっています)。
 弟子たちはみな熱心でした。超能力だとかそういう浮ついたものに憧れてきた人は少なく、ほとんどが「解脱」だとか「人間としての真実の生き方」といったものを真剣に求めていました。私も同じでした。
 麻原の説教は、かなり高度なもので、歯切れがよく、少なくとも説教に関してはすばらしいものがあったことは確かです。理路整然と論理的に話すので、理数系の若者にはたまらない魅力があったと思います。また、ヨガの難しいポーズや呼吸法もマスターしていましたから、それなりにヨガの達人だったようです。
 ですから、私をはじめ多くの若者が心酔し、彼こそ真の最終解脱者であり、仏陀であり、グルであると信じてしまったわけです。

 しかししばらくして、私は当時からオカルト雑誌に記事を執筆していたのですが、その記事が自分の説教をマネして書いたものだといって麻原から電話がかかってきたのです。その口調は、常軌を逸していると思われるほどヒステリックで粗暴な言葉使いでした。
 私が最終解脱者として抱いていたイメージは釈迦であり、釈迦は決して粗暴な言葉使いをしたことがなく、静かに穏やかにゆっくりと、説いてきかせるように話したと聞いていましたので、まずはこのことに大きな違和感を覚えました。
 私はマネはしておらず、麻原とは関係のない別の本から引用したと言って、その本の題名まで告げましたが「いや、あの本には書いてない!」の一点ばりなのです。
 最終解脱者なのに、そのくらいの事実がわからないことにまた驚きであり、仮に百歩ゆずって私がマネをしたとしても、そんなに激怒するようなことなのだろうかと思いました。
 あくる日、私は道場に呼ばれました。広い部屋に案内されると真ん中に座布団がおいてあって、そこに坐らされました。そして、まわりを信者に囲まれました。私の目の前に坐ったのは、今回、死刑になった早川でした。早川は「あなたの記事のここは尊師の言ったことだ、ここもそうだ、あそこもそうだ」と言うのです。それはどの本にも常識的に書いてあることなのですが、あくまでも麻原が言ったといってゆずりません。ところが、麻原が電話で文句を言った肝心の箇所は出てこないのです。
 おそらく、後で本を見て、私が正しかったことがわかったのでしょう。しかし、「最終解脱者」が間違ったではすまされません。なので、とにかく私が間違ったことにするために、まったくくだらないことで因縁をつけて私を悪者にしたのだと思います。
 私はもう麻原は電話の時点でインチキだと感じたので、「マネはしていませんが、似たような文章を書いてしまったことをお詫びします」という手紙を書いて渡すと、ようやく解放してもらえました。ちなみに、その場所に麻原は結局顔を出しませんでした。
 そしてすぐに脱会しました。それからまもなくオウム真理教となり、最初は「子供が出家して帰ってこない」という問題が出てきました。私はそのニュースを見て「たぶん、問題を起こすだろうな」と納得がいきましたが、さすがにサリンをまいて世界を震撼させるテロを行うことまでは予想できませんでした。

 さて、今回、論じたいのは、まじめに解脱や人間の真実の生き方といった、いわば釈迦の弟子と同じ動機で入信した弟子たちが、なぜ、あのような凶悪事件を起こしてしまったかです。それについては、いろいろな学者がいろいろと言っていますが、現場にいた者として、私の見解を述べてみたいと思います。
 まず、彼らの多くは、入信する前に、すでにヨガの思想に洗脳されていました。ここが重要なポイントです。たとえば、ラジニーシというインドの有名なグルがいましたが(後に彼の教団は毒をまいたり、教祖は麻薬違反で逮捕されました)、その教団に入っていた人も何人かいました。
 ヨガ系の教えでは、グルは絶対者であり、グルを疑う者は決して解脱できない。グルを心底信じるものだけが救われる。そのためにグルは弟子のその信仰の強さを試すのだということが、言われているのです。たとえば、ヨガの伝説的なグル「ババジ」などは、はるばる山奥にババジの弟子になるためにやってきた人に対して、「もし私の弟子になれないなら死ぬというのなら、死んでみろ」と言っています。そうしたらその人は崖から飛び降りて死んでしまいました。するとババジはその信仰の強さを認めて、生き返らせてやり、自分の弟子にしたのだと、そんな話が伝えられています(本当かどうかはわかりませんが、インド宗教にはまった人は、こうしたことを信じてしまうのです)。他には、ミラレパという人物がいて、この人物も師匠から、師匠への信仰を試されるようなことをさんざんされています。
 こうした話が脳裏に焼きついているために、グルから「そんなことしてはまずいのではないか」と思われるような命令を受けても「グルはちゃんとよく考えて、結果的にあなたのいいように導いてくれているのだ。だから、それを信じて行うことだ。それが真の弟子であり、そうしてこそ解脱ができるのだ」というように、すでにそうした教えに洗脳されている人が、オウムのもとにやってきたのです。私もその一人だったわけです。

 なので、麻原からすれば、カモがネギを背負ってやってきたようなものです。自分を最終解脱者でありグルだと信じさせさえすれば(そのために利用されたのが、空中浮揚のトリック写真です)、なんでも自分の思う通りになる奴隷がやってきたことになるからです。
 麻原からの「坂本弁護士を殺せ」とか「サリンを作れ」という命令は、どの弟子も最初はおかしいと感じたはずです。ところが、「グルには私たちには想像も及ばない考えがあるのだ。私たちを試しているのだ。グルにしたがっていれば何も問題なく、すべてがうまくいくのだ」と思い込んでしまったのだと思います。
 そうしてあげくの果てに、あのような凶行に及んでしまったのだと思います。

 私も、他の修行仲間から、出家しないかと強く誘われました。「これからこの教団は大きくなっていく。いま出家すれば、麻原の側近の弟子になれるぞ。そのチャンスを逃すのはもったいないだろう」と言われました。そう言われると、心がぐらつきました。何しろ、解脱できるかどうかはグルに近ければ近いほど可能性があると、インド系ヨガでは説かれているからです。

 しかし、結局、なぜ私が出家せず脱会したかというと、きっかけはさきに紹介したトラブルにあったのですが、あの件がなくても、私は脱会していたと思います。
 その理由は、まず完全に麻原を信じられなかったからです。最初は、信じられないのは自分の信仰が薄いからだと思い、自分を責めたりしましたが、しだいに、どうもそうではないと気づきました。
 確かに、麻原の説教はすばらしいのですが、麻原そのものに「美しさ」を感じなかったのです。私にはそこが非常に重要だったのです。
 麻原は、見た目も美しくありませんでしたが、見た目は別としても、とにかく全体的に美しさを感じられなかったので、「何かがへんだぞ」という疑念が晴れませんでした。

 後で深く気づいたことですが、「美しさ」というものは、実は大変に重要なことなのです。私は、真理であれば美しく、善であれば美しいと考えています。美しさを感じない真理、美しさを感じない善というものは存在しないと考えています。
 こうした考え方は、私の気質が、もともと芸術家タイプであったことと関係するのかもしれませんが、ギリシアの思想を学生時代に学んだことも大きかったと思います。ギリシアの思想では、「美」というものを、解脱の非常に重要な要素であると考えているのです。

 断言してもいいですが、美しさを感じないものは、まずニセモノです。少なくとも不備があります。もちろん、見せかけの美しさという意味ではありません。見た目もある程度は重要ですが(人は内面の状態が外面に表れるものですから)、それよりも、もっとトータルにかもし出されるものです。
 汚いもの、汚れを感じさせるものは、いかにその説教がすばらしくても、あるいは、いかに「聖者」と呼ばれているとしても、まずニセモノだと思って間違いありません。
 釈迦はこう言っています。
 「悪いことをせず、善いことをすること、心をきれいにすること、これが仏教である」と。
 この「心をきれいにすること」を、もう少し突っ込んでいえば、「心を美しくさせること」と言えるでしょう。
 ここが、宗教の最大のポイントであり、解脱修行をする上での主軸になるのです。
 ここをなおざりにして、やたらにテクニックばかり追い求めても意味はありませんし、むしろ邪道に陥ってしまいます。オウム真理教ではクンダリニーヨガを教えていましたが、クンダリニーヨガそのものは、エネルギーを高めて超能力を開発するだけで、それだけでは解脱しません。それに加えて「心の浄化」の修行を徹底的にしないと、狂人になり、邪悪になってしまいます。
 麻原はその間違いを犯してしまったのです。麻原はクンダリニーヨガは成就していたと思われますが、心の浄化がまったくできていませんでした。そもそも彼は若い頃にニセ薬を販売して逮捕されるなどの事件を起こしていますし、もともと心が汚れていたのです。心が汚れたままエネルギーを高めるような修行だとか、苦行をすると、まず間違いなくおかしくなります。
 しかし、インド系の教えしか知らない人は、そうなりやすいのです。

 ですから、私はひとつの教えだけを学ぶというのは、よくないと思っています。
 いろいろな宗教を学ぶべきです。そうすれば、その宗教の欠点や弱点もわかってきます。それを他の宗教で補う必要があるのです。
 ヨガ、仏教、キリスト教、ギリシア哲学、道教、ユダヤ神秘主義(カバラ)、クリシュナムルティ、そして心理学と芸術。こうした教えは、解脱に必要な「必須カリキュラム」だと、私個人は考えています。また、言うまでもないことですが、こうした教えを学びながら、地に足をつけて現実生活から学ぶ姿勢も不可欠です。
 みなさんには、ぜひ、これらすべてを学んでいただきたいと思っています。このうち、どれかひとつだけに心酔することは危険です。それぞれ真理の一面はとらえていますが、真理は「一面」ではなく「全面」だからです。ですから、真理をとらえて解脱するためには、少なくとも上記にあげた思想はすべて学ぶべきだと思っています。
 そうしていたら、オウムのような事件は起きなかったのではないかと考えています。

 宣伝になってしまいますが、実は上記の教えを学ぶ塾のようなものを今、計画しています。
 東京の東村山市に別荘を持っている人と知り合いになり、使っていないから貸してあげるよと言ってくださいました。その三階に広い部屋があり、12人~16人くらい収容できますので、こじんまりした勉強会ですが、月に二回くらいのペースで開こうと思っているのです。
 「いかなる宗教組織、グルに頼ることなく、独力で魂の覚醒をめざす人のための情報提供の場」というコンセプトです。いうまでもありませんが、宗教団体ではないし、私もグルなどではありません。私は単なる「案内役」です。勉強会に来た人は、年齢・性別・職業・家柄・過去の経歴、その他、あらゆることに関係なく平等に尊重されます。かたぐるしい緊張した学びの場所ではなく、明るく楽しく、勉強会の終了後には、みんなでお茶を飲みながら歓談しようと思っています。会費は一回三千円くらい頂こうと思っていますが、お茶会は無料です。なので、お茶会だけに来てくださっても、ぜんぜんOKです。なぜなら、そうして人が集まってくれれば、お互いに情報を交換することができ、私も参加者も役に立つからです。
 今年の9月くらいから始めようと思っています。詳細が決まりましたら、またお知らせをしたいと思っています。近郊にお住まいの方はぜひ、いらしてください。ただ、いつまでこの家が借りられるかわからないので、存在しているうちに来てください(笑)。
 私の「野望」は、この勉強会から、「美しい人」をなるべくたくさん輩出し、苦悩している人を少しでも慰めてあげられるような人を世に送ることです。
 私は無力なので、残念ながら、世の中を変えることはできません。しかし、世の中を変えることができる人を変えることはできるかもしれないと、ひそかに期待しています。
 自分も他者も世の中も、みんな美しくなる。そんな勉強会にしたいと思っているのです。

 あともうひとこと。いま紹介した必須カリキュラムのなかのユダヤ神秘主義カバラのセミナーを行います。難解なカバラの基礎から奥義まで、すべて理解していただき、しかも実生活に活用できるレベルまで紹介するという、かなり無謀(?)な内容になるかと思います。

 日時:2018年8月26日(日) 10:30~16:30(終了後、懇親会あり)
 場所:ホテルローズガーデン新宿(東京都新宿区)
 会費:9800円(税込)
 こちらもぜひ、よろしくお願いいたします。
 詳細&申し込み↓
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心の大掃除

 今年も残りわずかとなりました。そろそろ、多くの家庭で大掃除が行われるようになります。年が変わるというのは、大きな節目のひとつですから、新しい年をきれいな環境で迎えたいという気持ちがあるのでしょう。大掃除をして家をきれいにすることはとてもけっこうなことですが、同時に、「心の大掃除」もしてみてはいかがでしょうか。
 家の大掃除が、ゴミなどの、いらないものを捨てたり、埃や汚れを落としたりするように、心の中からも、ゴミ、いらないものを捨て、埃を払い、汚れを落とすのです。
 家の中にゴミがあれば、普通はすぐに捨てるでしょう。しかし、私たちは、ともすると心の中にゴミをため込んでいたりします。それがゴミであると気づかないこともあります。家にゴミがあれば、邪魔になって生活が不便になりますし、生ゴミの場合は腐敗して悪臭を放ち不潔になります。
 同じように、私たちの心の中にも、ゴミがあると、自分らしい生き方や、よいよい生き方の邪魔になります。ときには、心を汚していたりします。ゴミはきわめて有害です。そんなゴミを捨ててしまいましょう。
 心の中のゴミというのは、いろいろありますが、私たちから心の平安を奪い、自信を失わせ、消極的にさせ、暗い気持ちにさせ、物事を歪んで見るようにさせたり、人間関係をダメにするような気持ち、思考、信念、偏見、思い込みといったものです。たとえば、恨み、妬み、劣等感、罪の意識、後悔、悲観主義、偏見、猜疑心……といったものです。
 もちろん、そのようなものを持つようになったのには、それなりの理由があるでしょう。自分には何の非もないのに、人から不愉快な思いをさせられて恨みを抱くこともあるでしょうし、大きな失敗をして劣等感を抱いたり、後悔の念に見舞われることもあると思います。辛いことがあれば、悲観的にもなりますし、人から裏切られれば、猜疑心も抱いてしまうでしょう。
 しかし、よく考えてみてください。こうした思いを抱いていても、何もよいことはありません。それどころか、害悪を及ぼすことになります。恨みを抱いている人は、二重の意味で被害を受けているのです。すなわち、人から不愉快な目に遭わされたという被害、そして、それによって心の中に生まれた恨みという思いによってもたらされる被害です。失敗したときも、失敗の痛手の他に、劣等感や悔しさや悲観主義といった思いによる痛手をこうむっています。いわば、ある種の「二次被害」です。
 生きている限り、何らかの被害や失敗に見舞われます。どんな人もそれから逃れることはできません。しかし、その被害を最小限にとどめることは可能です。すなわち、「二次被害」を避けることはできるのです。簡単なことだとは言いませんが、不可能ではありません。
 心の中に、ゴミのような思いがあれば、今年中に、すべて心の中から捨ててしまいましょう。箒で掃いてゴミを家の外に出すようなイメージを浮かべるとよいかもしれません。
 恨みというのは、なかなか捨てるのに苦労するかと思います。恨みはゆるすことによって解消されますが、ゆるすことは人生におけるもっとも難しいことのひとつかもしれません。無理にゆるそうとがんばっても、自分をだますだけに終わってしまったりします。そこで、最初からハードルの高い「ゆるし」ということは避けて、「捨てる」という発想を持ってみてはいかがかと思うのです。言葉は悪いですが、あなたを不愉快にした人間は「ゴミ」や「クズ」だと考えて、そんなものをを心という家の中に置いておくのは馬鹿らしいと考えてみるのです。ゆるすのではなく、ゴミやクズのような人間は「捨てる」という発想を持つようにするのです。もちろん、ゆるすことができればベストですが、いっぺんには難しいので、まずは「捨てる」という発想をして心の中から追い出し、心の中をきれいにしてみてください。
 失敗による後悔の念も、なかなか捨てがたいものです。私たちはなるべく後悔のない人生を送るように努力するべきだとは思いますが、現実として、まったく後悔のない人生を送ることは不可能です。人生というものは、失敗は避けられませんし、「あのときああしておけば」という思いにかられてしまいます。しかし、それも「ゴミ」です。持っていても何の役にも立たないばかりか、明るい未来を切り開く上での障害となってしまいます。後悔の念は、思いきって捨ててしまいましょう。過ぎたことは取り返しがつかないのですから、いつまでもそんな「ゴミ」を抱え込んでいるのは、馬鹿馬鹿しいだけです。
 しかし、失敗というのは必ずしも失敗ではないことが多いものです。人は失敗を通して学び成長していきますし、失敗が幸運のチャンスになることだってあります。「あのとき、ああしていればよかったのに」と後悔しても、実際に「ああしていたら」、もっとひどい結果になったかもしれません。それは誰にもわかりません。神のみぞ知るです。
 「後悔のない人生を送ることは不可能」と言いましたが、ひとつだけ方法があります。それは単純に「後悔しなければいい」のです。失敗しようと何が起ころうと、後悔しなければ、「後悔のない人生」を送ることができます。失敗したら反省することは大切であり、それは有益ですが、後悔とは無益な感情であり、意味はありません。失敗したら、貴重な学びと成長のための幸運な体験に恵まれたのだと考えて、後悔することなく、「後悔のない人生」を送っていこうではありませんか。
 というわけで、以上のような感じで、一年の終わりという節目に「心の大掃除」もして、来年は、きれいに澄んだ気持ちで迎えるようにしてみてはいかがでしょうか。
 今年も本当にお世話になりました。来年が皆様にとって幸多き一年になりますよう、お祈りしています。
 来年も、よろしくお願い申し上げます。 

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憎悪と復讐の念からの解放

  人はほとんど無意識的にあやまちや罪を犯してしまう傾向がある。
 ここで、「無意識的」というのが恐ろしいところだ。自覚さえあれば、理性や意志によってコントロールできる可能性もあるが、自覚がなく無意識であれば、コントロールすることはほとんど不可能に近いからである。そのため、私たちは自分でも気づかないうちに、長期に渡ってあやまちや罪を犯し、人を傷つけ、苦しめ続けてしまう場合が生じてくる。
 たとえば、よく問題にされるのが、子供の虐待であろう。親から虐待されて育った子供は、自分が親になったとき、やはり子供を虐待してしまう。親はなぜ過剰なまでにイライラし、子供を虐待しているのかよくわからない。虐待した後で自分の行為を後悔し自己嫌悪に陥ってしまう。
 絶対にそうなるとは限らないが、かなりの割合でそうなることが多いようだ。 そして、その子供も同じように親になったときに子供を虐待し、その子供も・・・というように、世代間連鎖が続くことになる。
 こうしたことは、親子の間だけではない。あらゆる人間関係にも当てはまる。無意識的に他者を傷つけ苦しめていることがあるのだ。
 当然、これでは霊性の向上は望めない。
 今回は、そのようなあやまちや罪の行いを自覚するためのヒントについて書いてみたい。

 さて、実際には、完全に無自覚、無意識というケースは珍しいと思われる。ほとんどの場合、多少なりとも自覚できていることが多いようだ。少なくとも初期の段階では自覚がある場合が多い。
 ところが、そのとき、あやまちや罪の行いを正当化してしまう巧妙な悪知恵が働いてしまう。ひらたくいえば「言い訳」をしてしまう。典型的なのが、責任を他者に押しつけるという言い訳だ。すなわち、「こうするのは相手が悪いからだ、相手に責任があるからだ」と、あらゆる理屈を持ってきて正当化し、良心を麻痺させて相手を傷つけ苦しめる行為に及ぶのである。
 「責めているのではない」などと前置きして、実際には激しく相手を責めるといったことも同じだ。つまり、その前置きで良心をごまかしているのである。あるいは、正当防衛を盾にする場合もある。「自分を攻撃したから(あるいは攻撃しようとしたから)、自分の身を守るために相手を攻撃したまでだ」というのだ。
 中途半端に頭がいい人ほど、こうした「言い訳」を見つけだしてくるのがうまい。そして、このような言い訳によって一度良心が麻痺させられると、しだいに不適切な行為をしているとの自覚が失われていき、ついにはほとんど無意識になってしまう。
 こうなると、よほどのことがない限り、それを自覚することは難しくなってしまう。
 そうならないために大切なことは、どんなに認めたくないことでも、目を背けずに直視する勇気、強力な自己観察、そして強い理性と意志を持つことだ。これが最初のヒントである。さもないと、一生涯、言い訳という幻想に埋没し、人を苦しめ続ける最低の人生を送ることになってしまう。

 次のヒントは、「自分は今まで他者からどのように扱われてきたか」ということを思い出すことだ。なぜなら、「人はされたようにする」という原則があるからだ。
 先ほど、親による子供の虐待の例をあげたが、このことは、兄弟、友人、会社の人間関係、地域や国家など、人と人とが交流する状況のすべてにおいて当てはまる。
 たとえば、相手が親であろうと、誰であろうと、もし屈辱的な扱いを受けたならば、その人間は、目下を抱える何らかの権威や地位を持ったとき、仮に社長のような立場になったとき、社員に対して屈辱を与えるような行為に走りやすくなる。暴言を吐いたり、威張ったり、皮肉を言ったりする。社員は自分より地位や立場が下なので、逆らうことができない。それを(無意識的に)乱用して、抑圧されていた卑しい品性をあらわにする。

 そのような行為の根底には、屈辱によって形成された「自己無価値感」、ひらたくいえば「劣等感」がある。そのため、劣等感を感じさせる社員に我慢ができない。
 たとえば、自分より能力が高い社員、自分より学歴が高い社員、自分よりきれいな社員、自分より目立つ社員、自分より愛される社員、自分に少しでも批判的な社員がゆるせない。そのような社員と自分を比較すると、相対的に自分の価値が下がったと思い込み、劣等感を覚えるからだ。そこで、そういう社員が会社にいられないように工作したりする。そのため、こういう社長が経営する会社は、人の入れ替わりが激しいのが特徴だ。社員が入社したと思ったらすぐに辞めていったりする。当然、優秀な人間はいなくなり、社長を教祖のように持ち上げることに長けた「太鼓持ち」ばかりとなる。会社はまるで宗教団体のようになるか、社長の自己価値観を高めるために作られた「劇団」みたいになる。社員は社長を称賛する脇役に徹することを求められ、主役である社長より目立ったり、反論することはゆるされない。

 そうして、忌まわしい連鎖が始まる。すなわち、社長から屈辱的な扱いを受けた社員は、部下に屈辱を与えるようになり、その部下はまたその部下に屈辱を与えるようになる。部下がいない社員は、気が弱くて自分に反抗しないような同僚に屈辱を与えたり、新入社員に屈辱を与えたりする。社内で誰にも屈辱を与えられない場合は、家で妻に屈辱を与えるかもしれない。妻は子供に屈辱を与え、子供は学校で自分より弱い友達に屈辱を与えたり、動物を虐待するかもしれない。こうして、悪の連鎖が末端にまで波及していく。
 彼らは、自分がそのような卑劣で醜悪な行いをしていることをほとんど自覚していない。「自分がこうするのは部下に責任があるからだ」と、責任を相手に押しつけ、理屈をつけて正当化する。そして、他罰的な傾向が強くなってくる。
 結局、このようにして会社は腐っていく。そうなれば当然、経営もうまくいかなくなる。社長はそれを社員のせいにし、上司は部下のせいにする。また、子会社や取引先や世の中のせいにする。
 人は、虐待を受けたり屈辱的に扱われたりすると、憎悪の感情にかられ、その感情を抱えきれずに復讐という形で発散したくなるのだ。もし立場や力の関係で復讐できない場合、その憎悪の感情を、自分より力の弱い人間に向けてしまうのである。そうして、「弱い者いじめ」というものが生まれてくる。
 この憎悪や復讐の念というものは強力で、それにうち勝つことは容易ではない。ゾンビに襲われた人間が同じゾンビになってしまうように、悪の連鎖はどこまでも続いていく。

 けれども、なかには、ゾンビにならない人間もいる。憎悪や復讐の念に負けず、それに支配されない人間もいる。すなわち、自分は虐待されたり屈辱的に扱われたり、いじめられたりしても、それを誰にも向けることなく、復讐の念を捨て、悪しき連鎖を断ち切ることができる人もいる。
 そのような人こそ、まさに真の強者、勝利者であり、霊性が高い人である。社会にはびこる悪の連鎖をくい止める英雄だ。
 しかし残念ながら、そのような人はそう多くはない。大多数の人間は「されたようにする」。憎悪や復讐の念というものはすさまじく凶暴なので、それをため込むのは健康によくない、吐き出した方がいいと説く人もいる。たとえば、怒りの感情を紙に書いたり、皿を割ったり枕をぶん殴ったりするとよいなどとアドバイスする。
 しかし実際のところ、憎悪や復讐の念というものは、そのような無害な形で吐き出せるほど生やさしいものではない。もしもストレートに解き放したならば、人のひとりやふたり簡単に殺してしまうくらいの威力を持っていたりする。それほど根深いのである。
 では、いったいどうしたらいいのだろうか?

 残念ながら、私にはわからない。
 ただ、自覚することは大切だ。自覚すれば、何か対策がとれる可能性はある。自覚しない限り、その可能性はゼロだ。
 そのためのヒントとしてあげられるのは、今まで自分が人から何をされたか、ということをよく思い出してみることだ。繰り返し述べているように、「人はされたようにする」という傾向があるからだ。あなたが、親やその他の人からどのように扱われたかをよく思い出し、分析してみていただきたい。そうすれば、あなたは無意識的に同じことを誰かにしていることを自覚するかもしれない(その誰かとは、多くの場合、あなたより力の弱い人である)。自分がされたように誰かに対してしていないかどうか、厳しい目で自分を見つめていただきたい。
 そうして自分を厳しく見つめてもなお、自分は不当なことはしていないと確信が持てたならば、それはすばらしいことだ。ただし、「言い訳」でごまかしていないか、本当に正しく自分を見つめたうえで結論を出さなければならない。
 もし、自分が「されたようにしている」、あるいは、「しようとしている」ということに気づいたら、断固として憎悪や復讐の念と闘うべきである。すぐには勝利しないかもしれないし、ときには負けることもあるかもしれないが、それでも闘いを放棄してはいけない。ゾンビに噛まれても、ゾンビになってはいけないのだ。
 グロテスクで醜いゾンビにはなりたくない。弱い者をいじめる人間はもっとも醜く、卑劣なゾンビである。社会にはそんなゾンビがうようよしている。自分がされたからといって、同じ行為をしたら、自分も同じく醜悪で卑劣なゾンビになったことになる。
 ゾンビは、動く死体に過ぎない。もはや人間ではない。憎悪や復讐の念に支配されるということは、すでに死んだも同然で、人間であることをやめるのと同じことである。


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偏見を取り除く


 私たちは、自覚しない間にあらゆる偏見に染まっているものです。私たちが考えているほどには、ありのままに物事を見てはいないのです。先入観で人や物事を判断したりしています。しかし、これでは真実を把握していくことはできません。完全に先入観や偏見を除去することは難しいと思いますが、可能な限り、それらをなくしていく努力をしていくべきなのです。
 イギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、人間が抱きやすい偏見を「イドラ」と呼び、4つの種類を取り上げています。次に、その4つのイドラについて説明してみましょう。

●種族のイドラ(idola tribus) 人間そのものによる偏見
 感覚における錯覚、人類一般に共通してある誤り。
●洞窟のイドラ(idola specus) 個人的偏見
 狭い洞窟の中から世界を見ているかのように、個人の性癖、習慣、教育によって生じる誤り。
●市場のイドラ(idola fori) 言語による偏見
 言葉が思考に及ぼす影響から生じる偏見。言葉や言語が引き起こす偏見。口コミなどが挙げられる。
●劇場のイドラ(idola theatri) 伝統や権威による偏見
 思想家たちの思想や学説によって生じる誤り。

 以上のようなイドラを、特にスピリチュアルな面に限定して、その具体的な例をあげると、およそ次のようになるのではないでしょうか。

●種族のイドラ
・単なる偶然の一致や感覚異常を霊的な体験であると思い込む。
・意図的なトリックにだまされる
●洞窟のイドラ
・単なる考えや思いを霊的存在からのチャネリングだと思い込む。
・霊的知識が豊富であるというだけで自分は霊格が高いと思い込む。
・「あなたは世界を救うために来た救世主だ」といった声が聞こえる。
●市場のイドラ
・「魂」、「霊」、「自我」、「スピリチュアル」など、定義があいまいな言葉を使い混乱する。
・立派な教えを口にするというだけで、人間性や霊格まで立派だと思い込む。
・「悟り」にもいろいろなレベルがあるにもかかわらず、「悟りを開いた」と師匠から言われると、偉大な霊格を確立した気になる。
・「殺人ではない。ポア(成仏)させるのだ」とグルが弟子に命令して人を殺させる。
●劇場のイドラ
・あらゆる宗教に見られる権威やドグマに対する盲従。
・グル絶対主義。教祖絶対主義。覚者絶対主義。
・多くの人が支持している「カルマの法則」、「引きよせの法則」などへの盲信。

 こうしたイドラだけではなく、私たちはあまり根拠のないことでいろいろなことを決め付けているように思います。こうした姿勢は霊的成長にとって大きな障害となりますので、ぜひとも十分に注意しようではありませんか。
 

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