求道者の慰め2010-05-31 Mon 21:21
いうまでもなく、覚醒への道は、決して平坦ではない。そんな道を歩む私、あるいはあなたを、世間の人は「変わり者」と思うかもしれないし、無謀だとか、妄想を抱いているとか、頭がおかしいなどとさえ思うかもしれない。
もっとも身近な人、家族や友人や恋人でさえ、この道を理解してもらえないかもしれない。そんなとき、私たちは孤独にこの道を歩まなければならない。この道でいかなる辛いことに遭遇しても、だれにも理解されない以上、自分で自分を慰めて歩いていかなければならない。そのこと自体が、なににもましてこの道を歩む辛さではある。 覚醒への道は、何か特別な存在になる道ではない。 まったく逆に、人間が(本来の)人間に帰る道である。私たちはみんな旅人なのであり、さまざまな場所にでかけ、その行く先は人それぞれだろうが、最後に向かう道は同じだ。すなわち、家路である。異邦人は祖国に戻らなければならない。それが決まりだ。旅人たちの多くは、家路に帰る道がわからない。いや、自分の祖国がどこなのかさえわからない。そうしてさまよい歩いている。 覚醒をめざしている私たちは、自分の祖国がどこなのか、たとえうっすらでも気づいたのであり、確信は持てないにしても、そこに帰還する道らしいものを発見した者たちなのだ。決して「変わり者」なのではない。それどころか、人間としてもっとも当たり前のことをしようとしているだけだ。たとえ、帰還への試みがいかに無謀に見えようとも、それが宿命づけられている以上、その道を歩んでいかなければならないのだと、私は思う。 先人が若干の航路を残してくれているとはいえ、覚醒の地をめざすことは、未知なる海へ船出していくようなものといえるかもしれない。コロンブスが航海に出ようとしたとき、地球が丸いことを知らなかった当時の人々は「海の果てに行ったら(滝のように)落っこちてしまいますよ」と警告し、彼の試みを無謀だといった。 今日、地球が丸いことは誰もが知っているし、数多くの船舶が地球の裏まで往来している。同じように、覚醒もまた、いつの日か、だれもがそれを常識として受け入れる日が来るに違いないし、その頃には、もっと簡単に人々は覚醒できるようになっているかもしれない。 覚醒などということを考え、ましてやその道を歩もうとする人々などは、今日の人類のなかでも少数派の少数派、さらにまた少数派であろう。ほとんどの人は、そもそも「覚醒」などという概念さえ知らないし、理解できないし、理解しようとも思わない。もちろん、だからといって、覚醒をめざしている人が偉いとか、そうでない人は低いとか、そういう問題ではない。 ただ、まだ航海が危険な冒険であった時代に航海に出てその道を開いた人が英雄だったように、まだ覚醒という未知なる道が危険であると見なされているこの時代において、それに挑もうとする私たちは、後世の人類から英雄であると見なされることだろう。覚醒こそが人間の本当の幸福の源泉であり、人類が抱える悲惨さに最終的な終焉をもたらす智恵の源泉であることは間違いない。そんな道を切り開いていこうとしている私たちは、たとえだれからの理解が得られなくても、自分は英雄なのだとひそかに思って(自分を慰めながら)道を歩むことにしよう……。 覚醒をめざすときに気になるのは、「果たして自分にはそんな才能があるのか?」という思いだ。覚醒などというものは、お釈迦様だとかキリストだとか、もともと天才的な資質を持った人が、非常によい環境のもとで、非常な難行苦行の末にようやく到達できるもので、才能もあるとは思えず、環境も悪く、難行苦行などできない自分に、覚醒など不可能ではないのかと。 だが、それはだれにもわからないのではないだろうか。 オリンピックが最初に行われたとき、100メートル走で金メダルを取った人の記録は、今では高校生でも出せるような記録だった。その当時、100メートルを10秒以内で人間が走れるなどとはだれも思っていなかったが、今では10秒以内で走ることができる人は何人かいる。 覚醒も同じではないのか? 確かに、むかしは難しかったかもしれない。あらゆる難行苦行を尽くしてようやく到達できたかもしれない。だが、その当時の記録に、私たちは今なお洗脳されており、できないのだと勝手に思いこんでいるのかもしれない。もしかしたら今は、むかしより簡単になっている可能性もある。 曹洞宗の開祖である道元が、こんな言葉を残している。 「愚鈍というは、志の到らざるときのことなり」 つまり、愚かなのは、志がないからだというのである。逆にいえば、志があれば利発になるというのだ。 志があれば、簡単にはあきらめない。私たちはたいてい、ちょっと障害があると「これはできない、不可能だ」とすぐに結論を出してしまう。だが、志があれば、「できないなら、できるようにするにはどうすればいいだろうか? 不可能を可能にするにはどうすればいいだろうか?」と考える。その答えが見つかるまで、考えに考え抜く。 すると面白いことに、できるようになる方法、不可能を可能にする方法が、けっこう見つかることが多い。エジソンなどは、電球の発明に一万回も失敗したそうだが、結局はやり遂げてしまった。ちなみに彼は、「私は一回も失敗していない。うまくいかない理由を一万回発見することができたのだ」といった。その前向きで健全な楽天さを見習うべきではないだろうか。 覚醒も、そんな志で歩んでいくことにしよう。 確かに、その道は楽ではないだろう。長期にわたる忍耐強い努力や自制心が求められるだろう。しかし、いかなる困難に遭遇しても、すぐに無理だと決めつける思考パターンをいっさい捨てることにしよう。そのかわり、どんなときでも「この困難を解決するにはどうすればいいか? 不可能を可能にするにはどうすればいいか?」と考えるようにしよう。 「神は自らを救おうとする者を救う」と聖書ではいっている。このような前向きな姿勢で道を歩んでいけば、きっと天からの助けも得られて、この険しい覚醒の道を乗り越えていくことができるものと思うことにしよう。 スポンサーサイト
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ゴーピ・クリシュナの覚醒体験2010-05-30 Sun 10:47
覚醒した意識状態というものは、実際に覚醒して体験しなければ、それがどのようなものなのかはわからないのだと思います。また、体験できたとしても、それを言葉で伝えることは、とうてい不可能であるといわれています。
しかしそれでも、実際に体験した人から発せられる言葉から、覚醒した意識がどのようなものなのか、おおよそでも想像したり、頭に描くことができるはずです。 そして、そのことは、決して楽ではない覚醒の道を歩む私たちにとっての、大きな励みになると思うのです。 そこで、実際に覚醒を体験した人の話を、少し紹介してみたいと思います。 今回、取り上げるのは、ゴーピ・クリシュナというインド人です。 この人は、17歳のときから瞑想を始め、35歳でクンダリニーが覚醒し、一時的に宇宙的な覚醒体験をするのですが、しっかりとした心身の準備ができていないのにクンダリニーが覚醒してしまったため、その後は、25年にもわたって心身のひどい不調に苦しむ経験をしました。 しかし、主に食物のコントロールをうまくすることで苦しみを癒していき、しだいにクンダリニーのエネルギーに耐えられる心身に変わって、晩年は健全な形で覚者となったようです。 ゴーピ・クリシュナがそんな自らの体験を語った本は、彼自身の科学者的な探求態度や記述の仕方が非常に明解であり、覚醒という現象を客観的に理解する上では、非常に貴重な文献であると思います。今後、このブログでも、この人については取り上げていきたいと思っておりますが、とりあえず、彼の経験した覚醒意識についての記述を、少し長くなりますが、以下に紹介いたしましょう。 これを読みますと、覚醒をめざしている私たちは人間として本来あるべき正しい道を歩んでいるのだと励まされますし、なんとしても覚醒というゴールに到達したいという情熱をかきたてられます。 *** ゴーピ・クリシュナの覚醒体験 *** 『クンダリニー』ゴーピ・クリシュナ著 中島巌 訳 平河出版社 1980 「肉体と環境に束縛されていたはずの自分の存在が、名状しがたい形で、とてつもなく大きな人格として拡大し、自分のまわりにある宇宙が不思議にも内在する感じがして、意識そのものといえる大きな宇宙と自分が、自分の内部ですぐさま直接に接触できるのであった。自分の肉体、自分の坐っている椅子、自分の前にある机、壁に囲まれた部屋、外の芝生、さらに大地と空となおその先に続く宇宙空間、そうした具体的なものが、現に実在し、相互に交叉浸透しあって、あたり一面にみちみちている存在の大海の中で、きわめてはかない、影の薄いもののように思えたのである。 最も信じがたい部分をできるだけ説明してみると、この存在の海は、際限なく四方八方に途方もなく拡がりながら、同時に、無限に微小な点よりもなお小さいのである。自分の肉体とか環境をいっさい呑みこんでいる全体的存在は、この不思議な点から放射されるようにして流出したものにほかならない。これをたとえていえば、針穴よりも小さな映写機で無限大の銀幕に投射した、考えられるかぎりの宇宙と同じぐらいの大きさの映像ともいえるのであって、きわめて活発で巨大な世界像も、その微小点から放射される光線に依存しているのである。 それは類例のない、たとえるのも難しい、目くるめく驚くべき体験で、頭で考えたり、感覚器官で知覚したりできる、現世に帰属するありとあらゆるものを超絶した体験であった。広さや輝きの点ばかりでなく、実存性と実体性の点でも、自分の眼の前にある宇宙そのものをはるかにしのぐ、きわめて濃密にして強大な意識をもつ素晴らしい存在を、私は自分のうちに強く実感していた。 創造や崩壊、不断の変化によってたえまなくゆれ動く現象的世界が舞台の背景に移行し、大きく強くうねる生命の大海にただよう気泡の、薄いこわれやすい膜のように見えていた。別のいい方をすると、無限に大きい意識の太陽の前にある、きわめて稀薄な蒸気のベールが現世なのである。そこでは、世界と限りある人間の意識との関係が完全に転倒していた。それ以前には、すべてを威圧するように思われた宇宙がきわみてみすぼらしい外見を呈し、以前には肉体に囲まれてびくついていた意識の小点が壮大な宇宙空間いっぱいに拡がって、貴重な宝物のつまった崇高な尊像に見えてきた。そしてその前では物質的宇宙も、すぐ消えてしまう小さな付属器官のような従属的存在になってしまっていた。 私がこの半恍惚状態から覚めたのは一時間半ほどしてからである。しかし、その間、私は崇高壮麗な光景に接し、自分の存在が根源までもゆり動かされ、その強烈な体験の中で、時間の経過も普通の生活をしてきたことも忘れていた。この間、おそらく内的外的な刺戟によって自分の肉体と精神の状態に変動があったためであろうと思われるが、実相界への到達深度が比較的深い時と浅い時とがあった。これは時間の流れではなく、実相の内在状態によって判別される。 最深の状態に達したところでは、畏敬と歓喜の念を起こさせる全智全能にして絶対なる不動、空漠にして無形なる実相界が顕現し、そこで物質的世界と意識的実在界との見えざる境界線が消滅して、この二者が一つに融合する。広大な大洋が一滴の水に吸収され、壮大な三次元的宇宙が一粒の砂に併呑される。森羅万象の知覚者も知覚対象も、観察者も観察対象もすべて表象すべからざる、考慮すべからざる、いかなる言語も記述すべからざる延長なき空に帰するのである。 …… この超感覚的境界にいってくるたびに、いつも私はその神秘と驚異に庄倒された。この世のこうした体験以外のすべて、われわれの考えるあの世のすべて、自分の人生のこれ以外のあらゆる事実や出来事、歴史上の重要な事件、あらゆる野心と欲望、自分という存在の生と死、これらいっさいのものは、この名状しがたい栄光、深遠なる神秘、驚嘆すべき生命の大海の想像を絶した拡がりに比べると、まことに瑣末にして陳腐なものにみえてしまう。その大海の岸辺に、私は時時近づくことを許されていたのである」 |
いかにして覚醒するか?2010-05-29 Sat 21:15
では、前回に述べたような覚醒状態となるには、どうすればいいのでしょうか?
同じ比喩に準じて説明すれば、意識のチューナーを高い次元に調整するということになります。 もう少し具体的にいえば、脳神経系統を“チューン・アップ”するということです。通常の私たちの脳神経系統は、低い周波数のエネルギーしか感知できない状態です。しかし、それを賦活(活性化)させれば、高い次元のエネルギーを感知することができるようになるのです。 この脳神経系統とは、いわゆるチャクラのことをさしています。 チャクラについては、このブログを読んでいらっしゃる方であれば、改めて説明はいらないと思いますが、おさらいの意味で簡単に説明してみましょう。チャクラとは、全部で7つあるといわれる霊的な中枢のことです(図を参照)。 ![]() 比較的最近、チャクラは人体の神経叢や内分泌腺と関係づけて紹介されることが多いのですが、必ずしもまったく同一のものであるとは思われません。また、チャクラの数や場所なども諸説があり、たとえば、性腺に位置するとされるスヴァディスターナ・チャクラがなく、そのかわり脾臓の部分にチャクラがあるとする説もあります(神智学などはこの説を採用している)。数についても、全部で8つあるとか、それ以上あるという人もいます。ここではとりあえず、一般的によく知られている説をあげておきます。 さて、それでは、どのようにすれば、脳神経系統(チャクラ)を賦活させることができるのでしょうか? それには大きく分けて二つの方法があります。ただし両者は独立したものではなく、相互に補いあっています。 ひとつは、自分の意識を、高いエネルギーの特徴である至福、平和、愛、知恵に近づけることです。ひらたくいえば、道徳的に立派な人格を養うことです。それを行っていくと、やがて高いエネルギーと共振します。共振とは同じ周波数どうしが振動することであり、振動とはエネルギーをもらうことですので、こうした道徳的な生き方をしていますと、自然に高いエネルギーで振動する、つまり、高いエネルギーで満たされるようになるのです。 もうひとつは、この高いエネルギーを、ある方法によって活性化させ、その高いエネルギーによって脳神経細胞を直接的に調整させてしまうという方法です。クンダリニー・ヨーガがこの方法です。しかし厳密にいえば、クンダリニーそのものは高い次元のエネルギーではなく、脳神経細胞の不純なものを浄化し、賦活させるだけです。覚醒は、このクンダリニーが、どの神経系統、すなわち、どのチャクラを賦活させたかによって、決められるのです。具体的には、頭部に存在するアジナー・チャクラとサハスララ・チャクラを賦活させたときにもたらされるとされています。 チャクラは、クンダリニーのエネルギー、あるいは、シャクティと呼ばれる生命エネルギーによって覚醒されます(本質的には両者は同じエネルギーです)。 クンダリニーによって目覚める場合は、まるで火山が噴火したような激烈なエネルギーが脊柱を上昇し、それがチャクラに流入するため、一般的にはチャクラが急激に活性化されるようです。 一方、シャクティのエネルギーによる場合は、たいてい穏やかに活性化されます。 クンダリニーによってであれ、シャクティによってであれ、チャクラを活性化させるには、チャクラそのものを使うことが必要です。たとえば、眉間に位置するといわれるアジナーを活性化させるには、そのチャクラの働きである高度な知的活動をするのです。胸にあるアナハタ・チャクラを活性化させるには、愛と奉仕に励むのです。 こうして、そのチャクラを使いますと、チャクラは活動のためのエネルギーを補給しようとします。そのため、クンダリニーあるいはシャクティのエネルギーが、そのチャクラに流れ、そのエネルギーによってチャクラが活性化させられ、その結果、ついには高い次元のエネルギーを受信できるまでになるのです。つまり、覚醒するのです。 ところで、ここで気をつけなければならないことがあります。 もし、低い欲望を抱いていると、それに対応したチャクラが活性化させられる、ということです。 たとえば、性の欲望にとらわれ、いつもその欲望のことで頭がいっぱいであれば、スヴァディスターナ・チャクラを使っていることになります。すでに述べたように、使用されているチャクラはエネルギーを供給しようとする(吸い取ろうとする)ので、このチャクラに強いエネルギーが流れ込むようになり、ますます活性化されます。スヴァディスターナ・チャクラが活性化されると、性欲の異常昂進や、著しく精神的に不安定な状態となり、その他、さまざまな無意識的衝動に振り回されるようになってしまいます。 あるいはまた、権力欲などに取り憑かれていると、マニプーラにエネルギーが流れ、誇大妄想や傲慢、攻撃的な性格となります。いずれにしろ、チャクラが強力なエネルギーで活性化してしまうと、それをコントロールすることが非常に難しく、結果的に、精神的な病気や反社会的な性格に落とし込まれてしまうわけです。 したがって、覚醒するためには、瞑想だとか、チャクラやクンダリニーの覚醒といった修行だけでなく、高潔な人間性を磨く努力に情熱的に取り組んでいかなければならないのです。そして、いざクンダリニーやチャクラが活性化したときに、それに耐えられる強い肉体、それをコントロールできる強い忍耐力と意志の力を養っておく必要があるのです。 つまり、高潔な人格性を養う努力は、チャクラ(およびクンダリニーとシャクティ)を活性化させる手段であると同時に、活性化されたチャクラを支配するという二つの目的を持っているわけです。 世の中にはたくさんの修行者がいて、とりわけスピリチュアルなことに関心を持つ人などは、霊的な能力を活性化させる瞑想法や呼吸法などには熱心なのですが、この日常生活において、ひとりの人間として立派に高潔になるということには、あまり関心も努力もそそがない人も少なくないようです。しかし、それではおそらく、道をあやまることになるのではないかと思います。なまじ霊的なエネルギーを強化したぶん、狡猾な悪魔的知性が鋭くなり、傲慢で攻撃的になったりしかねません。 そうなると、そこから抜け出すのは、容易ではないようです。 覚醒するためには、霊的レベルの修行と、物質レベルの修行の、二つをバランスよくしっかりと行じていくことが不可欠なのです。 |
覚醒とはどういう意識状態なのか?2010-05-28 Fri 21:26
そもそも、覚醒とは、どういう状態をいうのでしょうか?
また、どうすれば、覚醒できるのでしょうか? これについては、いろいろな角度から、いろいろな説明ができると思います。これからこのブログにおいて、少しずつ詳細にお話させていただこうと思っておりますが、最初である今回は、ごく簡単に、比喩を交えながら、説明させていただこうと思います。 さて、ここにラジオがあるとします。このラジオはひとつの放送局の番組しか受信しません。その放送局から流れている音楽は退屈で、ときどきウキウキさせる曲も流れますが、雑音のような不愉快な曲もかなり流れます。 このラジオを聴いている人は、こんな曲しか聞こえてこないので、この世の中には、こんな曲だけしか存在していないと思いこんでいます。 ところが、ラジオの取り扱い説明書を読むと、チューニング・ダイヤルというものを回せば、他の放送局の番組も聴くことができると書いてあるではありませんか。 この人は、注意深くダイヤルを回してみました。するとなんと、今度はたとえようもなく美しい名曲ばかりが次から次へと流れてきます。そして、至福に浸りながらこう思います。「この曲こそ、自分が求めていたものだ!」と。 ご存じのように、この空中には、たくさんの電波が混在しています。チューニングをすることで、そのなかからひとつの電波を選択して聴くことができるのです。 同じように、この世界には、たくさんのエネルギーが混在しています。 この物質世界は、そのなかでも、もっとも周波数の低いエネルギーの世界だといわれています。私たちがこの物質世界のことだけしか認識できないのは、私たちの感覚器官というチューナーが、物質的なエネルギーしか受信できないからです。 ところが、もっと高い周波数のエネルギーで構築された世界も存在しているのです。そのエネルギーは、至福であり、平和であり、愛であり、英知であり、神聖であり、調和です。 覚醒とは、意識をそうしたエネルギーを受信できる状態にさせ、その至福、平和、愛、英知……で満たされること、それと同時に、そういったすばらしいエネルギーで構築された世界の住民になることなのです。 つまり、覚醒した人(覚者)は、肉体を持って地上世界に生きながら、同時に高い霊的な次元に生きるようになるのです。 ところがそうなると、二つの放送局が混信したみたいで、意識が混乱してしまうのではないのかと思われるかもしれません。しかし、どうもそれは大丈夫みたいです。 これをうまく説明するのは難しいのですが、たとえるなら、私たちの視界のなかにたくさんのものが入ってくるのと似ているのかもしれません。それでも私たちは、決して混乱せず、一応すべての事物を認識できます。たとえばクルマの運転をするとき、信号機も目に入りますし、歩行者も、前のクルマも、街の様子も、バックミラーも目に入りますが、混乱はしません。同じように、物質世界と霊的な世界の両方を同時に認識することができるようです。 ただし、人間の意識(魂)の本当の居場所は、高い次元の世界ですから、覚者になりますと、その高い次元の世界に意識の中心がおかれます(そのために至福と英知に満たされるわけです)。そして地上世界のことは、まるでテレビでも見ているかのような感覚になるようです。肉体の「自分」は、まるで他人のような感覚に思われ、あるいは最近はやりの言葉でいえば、「アバター(分身)」といった感覚でしょうか。 こうした説明は、もちろん、覚醒していない私の知的な推測にすぎず、どれほど正確かはわかりませんので、どうかそのつもりで耳を傾けてください。 次回は、以上の理論に基づき、いかにすれば覚醒できるか、そのメカニズムを説明させていただきたいと思います。 |
このブログについて その22010-05-27 Thu 17:54
このブログは、どうすれば覚醒できるかについて、私自身の試行錯誤的な探求の軌跡を紹介するものであって、覚醒する方法を教えるものではなありません。
私はただの求道者にすぎず、いうまでもないことですが、いわゆる導師(グル)ではありません。 私はただ、自らの探求の過程において、考えたこと、思いついたこと、学んだことを書き留めているだけです。それゆえ、たとえ私の文章が、「これは……である」といったように、断言しているように書いてあっても、「これは……である、と私は思う」という意味だということを、ぜひ心にとどめておいてください。いちいち「と私は思う」と書くと文体がうっとうしくなってしまうので、あたかも断言しているように書いていたりしますが、私はどんなことも絶対的な真実として表現するつもりはありません。 そもそも、心や霊的な世界は、数学のように確固たる真偽判定の基準は存在せず、たとえ存在しているとしても、万人が納得できるように実証することは不可能だと思うのです。 したがって、どんなことも、頭から肯定もできなければ否定もできないと、私は思っています。それゆえ、私はどんな人の考えも尊重します。たとえ私の考えとは反対の見解であっても、それを否定するつもりはありません。 したがって、どうか皆さんも、このブログに書かれてあることを、無批判に受け入れることのないようにお願いしたいと思います。 なお、このブログは、特定の宗教や団体とはいっさい関係ありません。覚醒をもたらすために役立つと思えば、どんな宗教や教えからもそれを学んでいこうというのが、私の姿勢です。 |
このブログについて2010-05-26 Wed 22:38
このブログは、私のホームページ(斉藤啓一のホームページ/Revelation)と連動しながら、「いかにして本当の人間の意識を覚醒させるか」を探求のテーマにしています。「本当の人間」とは、神性なる真理と智恵を持った意識のことです。もしそれを「魂」と呼ぶならば、魂の覚醒ということになります。それはすなわち、悟りであり、解脱です。
覚醒に向けて歩んでいくことは、ある意味では、心を治癒することでもあります。なぜなら、本来は神性である私たちの意識(心)が、そうではない状態にあるということは、ある種の病んだ状態であるといえるからです。医学的な病名がつけられた人だけが心を病んでいるのではありません。魂が覚醒していない人間はすべて、ある意味では心が病んでいると思うのです。その意味では、覚醒とは、究極的な心の治癒であるともいえるでしょう。世の中には、数多くの心理療法と呼ばれるものが存在しますが、覚醒の道は、究極的な心理療法ともいえるわけです。 逆にいえば、心理療法とは、人を覚醒に向かわせるものなのです。心を治癒することは覚醒に向かうことであり、覚醒に向かうことは、心を治癒することだと思います。 実際、私たちは、覚醒に的を絞った霊的修行をする前に、あるいは平行して、心の治癒をする必要があると思います。なぜなら、この社会は少なからず病んでおり、そうした病んだ社会に生きる私たちも、大なり小なり心が病んでいると思うからです。 そのため、本サイトでは、ダイレクトに覚醒の技法を探求するだけでなく、いかにして心を癒すかという、心理療法の分野をも包含し、心の治癒に関する多角的な情報をも盛り込んでいきます。基本的に両者は同じものなのですが、便宜的にいえば、心の治癒と魂の覚醒の両輪でコンテンツを増やしていくつもりでいます。そのため、私のブログのタイトルも、「心の治癒と魂の覚醒」とつけました。 詳細は私のホームページをご覧ください。 斉藤啓一のホームページ/Revelation |
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