心の治癒と魂の覚醒

        

執着を捨てるために 2

 快楽的な事柄への執着であれ、苦しみへの執着であれ、それを捨てるには、ある程度の時間をかけて徐々に行うことが大切だと思います。いっぺんに捨てようとしても、結局それは単なる「我慢」となり、抑圧しているだけにすぎませんから、いずれ爆発してしまうのではないでしょうか。
 あるいは、ものすごく悲しいのに、泣くこともせず我慢していても、やはり同じように抑圧させてしまうだけです。悲しいときは思い切り泣けばいいと思います。激しい怒りを感じたら、社会的に問題にならない範囲で、怒ればいいと思います。激しい感情を抑圧させることは、決していいことではありません。
 しかしだからといって、怒りの感情が少しでも出るたびに怒っていたら、「すぐに怒る」という習慣がついてしまい、結局、怒りの感情から抜け出すことは難しくなってくると思います。やはり、ある程度は、怒りを我慢して、感情をコントロールする力を養うことも必要なのです。
 つまり、我慢しすぎてもダメだし、我慢しなさすぎてもダメで、両者の間をバランスよく歩みながら、執着を断ち切っていかなければならないわけです。そして大切なことは、時間をかけて計画的に、徐々に執着を断ち切っていくことです。

 ところで、執着を捨てるというと、何となく禁欲主義的な感じがして、厳しいと思われるかもしれません。確かに、ある程度は禁欲的に我慢するということは、どうしても必要となるでしょう。
 しかし、「我慢」している限り、本当の意味で執着を捨てたことにはなりません。執着を捨てるとは、対象に対して無関心になること、興味を失うこと、欲しくなくなることなのですから。そして、一般的にそのように執着に興味を失うには、三つのアプローチが考えられます。

1.その対象から遠ざかること
2.その対象を徹底的に味わい尽くすこと
3.その対象よりもすぐれた対象を得ること

 執着というものは、そこから刺激を受ければ受けるほど強化される傾向があります。そのため、その刺激をしばらく受けないでいると、自然に興味を失ってきたりするものです。最初のうちは辛いかもしれませんが、じっと辛抱して執着の対象を断った生活をすることで、自然と執着がなくなってくるのです。
 あるいは逆に、どんなに好きなことでも、そればかりやっていれば飽きてきて興味を失ってくるものです。そこで、飽きるまでその対象を味わい尽くすという方法もあります。
 さらに、その対象よりもすばらしい別のものを手にすれば、やはり興味を失ってしまいます。
 執着を捨てるには、これら三つのアプローチをうまく使い分けていくことがポイントになります。ただし、用い方を誤ると逆に執着を増してしまう危険もあります。
 すなわち、1の方法だと、ただ欲望を我慢して抑圧させてしまうだけという危険がありますし、2の方法だと、かえって執着を増強させてしまう危険もあります。たとえばアルコール依存症の人が、酒に対する執着を捨てるために、酒を徹底的に飲んだらどうなるでしょうか。酒を飲んだ直後は酒など欲しくなくなるかもしれませんが、またしばらくすれば酒が欲しくなり、前よりももっと欲しくなる可能性もあるでしょう(なかには、ひどく悪酔いして、それに懲りて酒など飲まなくなるという人もいるかもしれませんが)。いずれにしろ、慎重にアプローチしていく必要があります。
 その点、3の方法はずっと安全であり、確実です。
 酒を飲まずにはいられないのは、たいてい心が満たされていないからであり、心が満たされれば、酒に対する欲求も低くなってくるものです。ただ、3の問題は、病的な執着を伴わずに心を満たせる対象が、なかなか手に入れにくいという点にあります。

 執着する対象よりもすぐれた対象とは、いうまでもなく、物質的な執着を超えた健全な精神的喜びということになります。それは、自分の魂が本来的に持っている喜びに他なりません。
 瞑想が深くなり、魂の意識に近づくにつれて、心の奥からたとえようもない歓喜が湧いてくるといわれます。その歓喜のすばらしさに比べたら、地上のいかなる快楽や喜びといえども、ゴミのようなものに思えるそうです。この歓喜が得られるにつれて、地上の事柄への執着は、自然に無理なく捨てられるようになるのです。
 しかし、そのためには、毎日瞑想を重ねていかなければなりません。これには時間がかかります。とはいえ、それでもしばらく瞑想を続けていくと、魂の歓喜とまではいかないにしても、心がほのかな喜びで満たされてきて、今まで溺れていたような快楽などに対する欲求も、しだいに色あせてくるようになるはずです。

 それともうひとつ、執着を捨てるために大切なことは、純粋に人を愛することです。恋愛や親子の情愛といった、執着を生むような関係ではなく、相手を人間として、魂として敬愛し、奉仕や献身を捧げるのです(恋愛や親子の情が必ずしも悪いといっているわけではありません)。
 そのようなことにエネルギーを向けると、そういう行為は魂そのものの属性ですから、世俗的なレベルを超えた崇高な喜び(つまり魂の喜び)で満たされるようになります。そのような喜びで心が占められると、世俗的な快楽への欲求は、急速にしぼんでしまい、自然に執着が捨てられるようになってきます。


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執着を捨てるために重要な二つのアプローチ

 覚醒するには、自力と他力の両方の要素が大切です。これについては、今後また詳しく述べたいと思いますが、覚醒していない私たちは、基本的には自分で自分を救う力はありません。神あるいは自分の真我といった、物質次元を超えた霊的な次元から引っ張り上げてもらわなければならないのです。ですから、覚醒という難事業であっても、自分の力で成し遂げるわけではなく、ある意味では「お任せ」でいればいいわけです。そう思うと、少し肩の荷が軽くなった感じがするのではないでしょうか。
 もちろんだからといって、何もせずただじっと受け身で待っていればいい、というわけではありません。神は私たちを引き上げてくださろうと常に努力してくれていると思うのですが、それができない事情があると思うのです。

 その事情とは、私たちが自ら「引き下がろう」という思いを持っていることです。すなわち、地上の物質的な事柄への執着です。これが「引き下がる」という言葉の意味です。
 たとえるなら、私たちはたくさんの荷物を手に抱えているので、さすがの神様も、重くて引き上げることができないのです。したがって、私たちは「荷物」を捨てて軽くならなければなりません。そしてそれは、私たちが自力で行わなければならないことなのです。
 すなわち、物質的な事柄への執着をなくしていくことです。この「重り」を捨てれば捨てるほど、砂袋を落とした気球のように、上昇していくようになります。何年も何年も、瞑想や呼吸法やマントラや奉仕といった修行を続けているのに、あまり進歩がないとしたら、物質的な事柄への執着のせいかもしれません。砂袋をゴンドラの中にたくさん持っていては、いくらバーナーの炎を燃やしても、気球は上昇しません。それと同じようなものです。

 ところで、執着というと、食欲や性欲、物欲や権力欲といった、私たちに快楽や喜びをもたらす事柄への執着を思い浮かべるかもしれません。しかし、執着はそれだけではありません。まったく逆に、苦しみや悲しみ、絶望や暗さ、孤独や失意といった、私たちが歓迎しない事柄に対する執着もあるのです。意外に思われるかもしれませんが、たとえば「自己憐憫」というものを考えてみてください。これなどは、ネガティブな事柄に執着し、それに酔っているような状態なわけです。
 苦しみや悲しみや暗さといったものを慢性的に抱えている人の多くは、それらに執着しており、潜在意識では、それを手放したくないのです。つまり、苦しみたいから苦しんでいるのであり、悲しみたいから悲しんでいるのです。もちろん、そういったものを求めているのは、自我(という偽りの自己)であり、魂ではありません。
 魂は、苦しみも、この世的な快楽も、両方とも求めてはいません。もっとすばらしい喜びがあるので、そのような喜びを求める必要がないからです。高級レストランのステーキを食べている人が、街角の牛丼屋などに入りたいとは思わないようなものです(上手な例えでなくて申し訳ありません)。

 そこで、物質的な事柄に対する執着を捨てていくには、快楽的な事柄への執着だけでなく、苦しみへの執着を捨てていくという方向が重要になってきます。もう少し具体的にいえば、「苦しんでいる自分」を捨てるということです。「苦しみや悲しみに快感を覚えている自分」を捨てるのです。つまり、ちょっとしたことで、くよくよと悩んだりせず、湧き上がる感情をさらりさらりと、淀みなく川のように流していくことです。喜びにも苦しみにもとらわれない心境をめざすのです。
 両者は基本的にコインの表と裏のようにひとつなので、苦しみへの執着を捨てることで、快楽への執着を捨てることもできるようになってきます。快楽への執着を断ち切れなければ、苦しみへの執着を断ち切る努力をすることで、快楽への執着を断ち切ることができるようになってくるのです。
 そうして、どんどん自分を軽くしていくことで、どんどん上に引き上げられていきます。瞑想やその他の行法も大切ですが、こうした取り組みも非常に大切なのです。


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アジナー・チャクラ瞑想法(2)

 一日3分(以上)のアジナー・チャクラ瞑想法については、すでにご紹介いたしました(カテゴリー→修行法→アジナー・チャクラ瞑想法)。
 大切なことは、とにかく毎日必ず続けることです。意識の変容と、脳の細胞の変容とは、おそらく相互関係があると思われます。細胞が変容するまでにはある程度の時間が必要で、その変容を起こすには、毎日刺激を与え続けなければならないのです。
 皆さんは、一日も欠かさずに実行できているでしょうか? まず大切なことは、修行を習慣づけることです。どんなことでもそうですが、なにかをマスターするには、習慣づけなければなりません。思い出したようにやっても効果はないのです。この最初のステップである「習慣づけ」で挫折してしまう人が、少なくないのです。世の中の大半の人が「一芸に秀でる」ものがなく、平凡なのも、そこにあるのかもしれません。
 
 それはさておき、前回ご紹介したアジナー・チャクラ瞑想法を、少しバージョン・アップさせてみましょう。
 それは、脳下垂体に意識を向け、その部分が明るく光っているイメージ(小さな太陽がそこで輝いているイメージを浮かべてもいいでしょう)を浮かべるとき、その光がインド哲学で説かれている聖なる音「オーム」を響かせているのだと想像するのです。
 すでに述べたように、プラーナなどのエネルギーは、私たちの意志とイメージによってコントロールされます。したがって、イメージや想像といっても、現実とはかけ離れた架空のものではなく、実際に想像通りにエネルギーが動いているということなのです。そのことを、どうか忘れないでください。
 さて、イメージや想像は、五感を精一杯使った方がより効果的です。つまり、視覚だけでなく聴覚、できれば味覚や臭覚、触覚なども駆使すると、それだけ明瞭でリアルなイメージができます。

 そこで、聴覚の要素を取り入れたわけです。それが「オーム」という音です。
 オームは、最高神の音、宇宙真理の音といわれ、マントラなどにも「オーム」あるいは「オン」という音節として組み込まれています(オームはマントラだということもできます)。修行が進んでくると、この宇宙真理の音を聴くことができるといわれています。
 その音がどんなものであるのかは、実際に聴いてみなければわかりませんが、おそらく、私たちが口先で「オーム」と軽くいうようなものではなく、どこまでも深く無限の広がりをもった広大な音響ではないかと思います。あえてそれに近い音があるとすれば、お寺の鐘の余韻ではないかと思うのです。すなわち、鐘を鳴らしますと、
 ゴオオオオオーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
 となりますが、最初の「ゴ」を除いた、残りの「オオオオオーーーーーーーン」が、おそらく実際の「オーム」の音に近いように思います。
 そこで、そのような音が、脳下垂体から光と同時に発している(その光がオームという音で振動している)ようにイメージしてください。こうすることで、アジナー・チャクラの活性度合いがさらに強化されてくるはずです。
 なお、「オーム」のほかに「アウム(AUM)」と発音する場合もあります。一説によれば、「オーム」は外的な宇宙真理の響きであり、「アウム」は内的な宇宙真理の響きであるといわれています。どちらでもかまわないと思いますが、ここでは一応、一般的な「オーム」を採用することにします。

 アジナー・チャクラが本格的に活性化しますと、透視などの超能力が発現されてくるとされます。詳しいことは今後ご紹介していきたいと思いますが、少し活性化された初期の段階の特徴としては、直感能力が高まってくるようです。
 たとえば、何かわからないことがあり、それについてじっと考えていると、比較的すぐにその回答がパッと浮かんできたりとか、人から何か質問されても、今まではある程度頭のなかで考えてから答えていたものが、質問されるや否や、あまり考えなくても口が勝手に動いて回答しているといったことが起きたり、予感などが的中したり、相手が何を考えているのかわかってきたりといったことが、起こってくるようです。

 ところで、このアジナー・チャクラ瞑想をして、もし頭痛や鈍重感などがしたら、少し休んでください。これは、少し無理をしていて脳細胞に負荷をかけすぎたことがひとつの原因です。それともうひとつ、クンダリニーやシャクティのエネルギーが不足している(のにアジナー・チャクラを刺激しすぎた)ことが原因です。
 アジナー・チャクラを活性化させるには、同時に、ムラダーラ・チャクラを刺激し、そこからクンダリニーあるいはシャクティのエネルギーをアジナー・チャクラに供給していく必要があるのです。この方法については、今後、ご紹介していきますが、それまでは、無理のない限りにおいて、オームの響きを加えたアジナー・チャクラ瞑想法を、毎日、実行してみてください。


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霊的な事柄で家族の理解が得られない

 読者の方から、こんなメールをいただきました。
「両親をはじめ、私の周りの人は全く霊的な話に関心がないどころか、忌み嫌っています。今までは、そういう話題を持ち出さない限り問題はなかったのですが、最近、覚醒の勉強を進めるなかで、私の価値観が大きく変わってきて、前には重要に思えたことが、今では重要に思えなくなってきています。そのため、ますます付き合い辛くなってきました」

 霊的なことに関心がない人にとって、「宗教」や「スピリチュアル」という言葉を耳にしただけで、すぐに「いかがわしい」と決めつけ、拒絶反応を示す人がいます。
 私の場合も、20歳くらいのとき、宗教や霊的なことに関心を持ち始め、そうした団体やセミナーなどにあれこれ頭をつっこむようになったとき、両親は頭から「なにやってんだ!」といって私を責めました。両親はむかし、ある大きな仏教団体から、「折伏(強引に入信を迫ること)を受け、「入信しないと不幸になるぞ」などとさんざん脅かされ、高価な仏壇を無理に買わされたという不愉快な経験があります。私もそのような狂信的な信者になってしまうと心配だったのでしょう。無理もないと思います。
 しかし、私は頑固でしたから、親からいくら責められようと、自分の納得がいくようにやりました。しかし正直なところ、もっとも自分のことを理解してくれるはずの家族が、他人のように、むしろ他人よりも、自分の気持ちを理解してくれず、外から家に帰ってきても冷たい態度で扱われ、とても寂しい思いがしました。家にいても家にいるような気持ちがしませんでした。

 しかし、これは仕方がないことなのだと思います。覚醒を歩む人は、これは覚悟しなければならないと思います。
 おそらく、現世で宗教や霊的なこと、とくに覚醒などに関心を持つような人は、過去生において、それに類することをしてきたのだと思います。しかし、そうしたことに無縁だった人は、理解できないのです。ベートーベンの音楽は偉大であるとはいえ、すべての人が彼の音楽を理解し感動するわけではないのと同じです。
 物質的な事柄であれば、わかりやすいので共通した認識が得られるでしょう。たとえば、死ぬほど暑いときにエアコンがあれば、百人のうち百人までが「エアコンはすばらしい」と思うでしょう。しかし、宗教やスピリチュアル、芸術などの世界は、そのすばらしさが、わかる人にはわかりますが、わからない人にはわからないのです。それは過去生から養われた直感的な感性を土台にしていますから、わからなくても仕方がないことなのです。

 家族や夫婦、恋人や親友どうしであれば、なにからなにまで共感し合い理解し合いたいと願うのは、当然だと思います。しかし、それは不可能なことです。
 その場合、食べ物の好みだとか、芸術の好みくらいの違いであれば、たいしたことはないかもしれませんが、霊的な事柄は、人のアイデンティティの土台に関わることですので、霊的な相違があれば、親密な関係を築くことは難しいかもしれません。たとえば、自分の教えこそ唯一正しくて他は邪教だと説く日蓮宗の信者が、イエスを信じる者だけが罪が贖われて天国に行き、それ以外の人は天国に行けないと説くキリスト教の信者を、恋人や配偶者にして、仲良く親密に暮らしていけるでしょうか?

 ところで、自分が信じる宗教なり、覚醒修行こそが幸福に到る道だと思ったら、それを家族や恋人や友人に勧め、一緒に歩んでもらいたいと思うのは自然だと思います。自分の信じる道が本当に真実かどうかは別として、少なくても動機としては、相手に幸せになって欲しいという純粋な気持ちがそこにあるからです。
 たとえるなら、自分の愛する人が病気に苦しんでいたとして、自分はその病気を治す薬を持っているようなものです(その薬は本当に治すことができるものとします)。あなたは愛する人に薬を飲むように勧めますが、相手はそれを拒絶しました。あなたはどうするでしょうか? 飲むまで説得を続けるでしょうか? 脅かしたりだましたりして、無理やり飲ませるでしょうか?

 私は、本人の自由意志は尊重しなければならないと思うのです(薬ならこっそりとジュースに混ぜて飲ませてしまうかもしれませんが)。
 覚醒こそが幸せに到る道であると私(私たち)は思っていますが、それは私がそう思っているだけであって、本当にそうなのかは、実証できないことなのです。実証できないことは、どんなことも、人に押しつけるべきではないと思うのです。
 仮に、実証できたとしても、その道に関心がなく、その道を歩もうとしないなら、それには意味があるのだと思うのです。覚醒に到るまでに、他になにか経験しなければならないことがあるのかもしれません。広い意味では、それも「覚醒への道」ではないでしょうか。(今は)覚醒への道を歩まないことで、覚醒への道を歩んでいるというわけです。今は覚醒への道を歩んではいけないのです。もしも今、覚醒への道を歩んだら、逆に覚醒を妨げることになってしまうのかもしれません。

 家族や配偶者の間に、こうした霊的な見解の相違(すなわちアイデンティティの根幹に関わる相違)が生じたということは、この世的な執着を断ち切りなさいという天からのメッセージであると、私は思っています。
 実際、「愛する人」といっても、その多くの部分が、純粋な愛よりも、(しょせんは利己的な)所有欲だとか依存心だとか執着によっているのではないでしょうか。そうした不純物は、心から浄化しなければならないのです。そのことを、少し寂しく思われるかもしれませんが、人間というものは、本来、そのように生きていくべき存在であると思うのです。

 人にはそれぞれの生き方、生きる道があります。たとえ家族や配偶者といえども、それはたまたま、ある時点で縁があって結ばれただけで、縁はいずれ変わっていきます。ですから、たとえ同じ屋根の下に住んでいても、心は他人のように離れて暮らしているということは、よくあることです。それは仕方がないといいますか、それでいいのだと思うのです。
 親子の関係は死ぬまで続きますが、配偶者どうしであれば、離婚ということも起こるかもしれません。そして、今の自分にもっともふさわしい別の人と縁ができて、また結ばれていくわけです。
 少し冷たい表現になってしまうかもしれませんが、人のことなんて、ほうっておきましょう。たとえどんな道を歩んでいようと、宇宙的な視野で見れば、それが今の彼(彼女)にとってはベストな道なのです。おせっかいはやめましょう。それよりも自分の修行に専念しましょう。「世の中には覚醒という道がありますよ」ということを、とりあえず紹介だけしておくことはいいと思いますが、興味を示さなければ、もう沈黙を守りましょう。
 しかし、もし興味を示して尋ねてきたり、あるいはなんらかの助けを求めてきたら、そのときは精一杯、真心をこめて、力になってあげなければいけないと思うのです。

求道者の慰め | コメント:6 | トラックバック:0 |

依存症を癒す

 読者の方から、次のような質問が寄せられましたので、今回はこれについて考えてみたいと思います。

「甘い物がやめられず過食気味です。後悔する毎日なのですが、このような依存症について、霊的な視点ではどのようにとらえて解決していけばいいでしょうか?」

 心の問題というのは、心そのものが複雑な存在ですから、「こうすれば治る」といったマニュアル通りにいくとは限らず、臨床現場では臨機応変な姿勢と直感が求められます。したがって、これから述べることは、ひとつの可能性であると考えてください。たとえこれでうまくいかなくても、他にうまくいく方法があるはずです。

 さて、このご質問の場合は、甘い物に対する依存症ということですが、程度の差はあれ、実際には私たちはみんな何らかの依存症に陥っているのではないでしょうか。
 アルコール依存症、買い物依存症、お金の依存症、仕事の依存症、見栄や体裁の依存症、異性の依存症、宗教の依存症……その他、さまざまです。
 覚醒をするには、いかなる依存症であれ、それを治癒していかなければなりません。したがって、依存症の問題は、精神医学で依存症と診断された人だけの問題ではなく、実は私たちすべてにかかわる問題なのです。ひらたくいえば、物事に対する執着を減らしていく、ということです。

 では、いったいなぜ、人は依存症になるのでしょうか?
 依存症とは、「それなしではいられない、それがないと心の平安を失って苦痛を感じる」状態のことです。別にアルコールだとか、甘い物だとか、必要以上のお金やモノがなくても、生きる上で何の問題もないはずなのに、それがないと苦痛で仕方がないのです。
 こうなってしまった原因の大半は、過去(たいていは幼少時代)において、「それがないと生きることができない」という、間違った思い込みを抱いてしまったことが、大きな原因です。
 たとえば、子供は親がいなければ生きていけません。親の保護と愛は、生存にかかわる問題なのです。しかし、親の保護と愛が十分に満たされないと、自分の身を守るために自衛手段を取ろうとします。力のない生物の子供が取れる自衛手段は、隠れること、物を蓄えることです。隠れれば外敵に襲われずにすみますし、物(食料)を蓄えておけば、エサが得られなくなったときでも生きていけます。また、自分を守ってくれる他者を求めたりもするでしょうし、あるいは、もしも敵に出会ったとき、自分が強そうな姿をしていれば、敵は攻撃せずに逃げていくかもしれませんので、自分を実際以上に強く大きく見せたいという欲求を持つようになります。
 こうしたことが、アルコール、買い物、お金、仕事、見栄や体裁、異性、宗教といった、あらゆる物事に対する依存症を形成させる根源的な理由なのです。
 しかも、依存症というものは、依存する対象を得ることを繰り返していると、モルヒネと同じような働きをする物質で、「脳内麻薬様物質」として知られるベータ・エンドルフィンが分泌されます。つまり、依存症というのは、たいていの場合、二重の依存構造が構築されているわけです。ひとつは最初に述べた生物の本能レベルにおける心理的な依存であり、もうひとつは、脳内麻薬への依存です。
 このように、長期に渡って依存症を患っていると、脳の生理機能が変容している場合が多く、そのために、なかなか治りにくくなってしまうわけです。
 そこで、依存症を治癒するには、上記の二重の依存構造を視野に入れた二つのアプローチをしていく必要があります。

 まず、生物の本能的な心理レベルを治癒するために、自分自身に対する自信を養うことが求められます。換言すれば、「自分は外界や人生をコントロールする力を持っているのだ」という自信です。子供が親の保護を必要とする理由は、要するに、子供には外界の出来事をコントロールする力がないからです。そのために、自分以外のものに依存せざるを得ないのです。
 では、どのようにして、そうした自信を養っていけばいいのでしょうか?
 それには、小さな成功体験を積み重ねていくことです。自分の得意なことに熱中して何かをやり遂げたりなど、そういう達成感を重ねていくことで、「自分には外界や人生をコントロールする力があるんだ」という自信が芽生えてきます。そのことが、依存症から解放されるために必要なのです。
 この場合、できれば、親身になって支えてくれる人がいればすばらしいです。ただしその人に依存的な傾向があってはダメです。「自分が必要とされるために相手を必要とする」、いわゆる共依存の関係になってしまいます。こうなると、相手が治ってしまえば自分は必要とされなくなりますから、無意識的にあなたが治るのを妨げようとするかもしれません。依存の傾向がない、親身になって支えてくれるパートナーが、依存症を克服するには大切です。とはいえ、必ずしもそういう人に恵まれるとは限りませんから、基本的には、自力で頑張っていくことになります。

 次に、脳内麻薬の依存を解消させるアプローチをしなければなりません。
 そのためのひとつの方法は、イマジネーションを使うのです。ご質問の場合、甘い物を過食してしまうということですので、甘い物を食べているイメージを浮かべてください。その際、今の自分が食べているのではなく、子供時代に戻って(どの年齢かは自分がしっくりとくる年齢でかまいません)、子供の自分が食べているのだと想像してください。これは、依存症の原因が主に子供時代のトラウマと関係しているためです。とくに甘い物に対する依存は、満たされなかった親の愛情の空虚感を、甘い物(親の愛の代替物)で満たそうとしている可能性があるからです。
 想像は、なるべく具体的かつリアルに行ってください。
 たとえば、幼稚園児のあなたが、大好きな明治製菓の○○チョコレートを食べているのだと想像します。チョコレートが舌の上でとろける感覚、その甘みと風味が口のなかに広がる感覚、飲み込んで胃の中に入り、からだがその甘美な味わいに喜んでいる感覚、そのときの幸せで満ち足りた感覚を、ありありと、じっくりと、想像してください。そして気の済むまで、甘い物を食べてください。
 そうすると、これだけでも脳内麻薬が分泌されてきます。そして、うまく行っていけば、現実の甘い物は、あまり食べなくても大丈夫なようになってくるはずです。
 そして、過食とまでいかないくらいに量が減ったら、それで治癒は完了です。ただし、甘い物を食べるというイマジネーションは急には止めないで、時間を減らしながら、徐々に止めていってください。

 人間は、さまざまな心の悩みや体の悩みを抱えます。表層的に見れば、それは過去生からのカルマの報いなのかもしれませんが、もっと深く、宇宙的な視野から見れば、それらはすべて、私たちを覚醒に導くための「修行法」だと思うのです。甘い物を過食して依存してしまったということは、「これがおまえをもっとも覚醒に導いてくれる最適の修行じゃ!」と、神が与えてくださった「課題」だと思うのです。「病気」ではないのです。

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裏切りや忘恩にあったとき

 すでに述べたように、「人を悪く思わない」ことが心の浄化につながり、そのためには損得の判断、無駄なことはしないという姿勢が助けになります。
 しかし、人から裏切られたり、あるいは「恩を仇で返された」ようなことがあると、人を悪く思わないでいることは、かなり難しくなってくるかもしれません。
 人はなぜ裏切りや忘恩によって傷つき、そのために強い憤りを覚えるかといえば、相手に対する信頼や善意の気持ちが踏みにじられたからでしょう。
 つまり、裏切られたということは、相手を信頼していたということであり、恩を仇で返されたということは、相手に善意を向けていた、ということです。最初から信頼も善意も抱かない人からひどいことをされても、相手を信頼する気持ちや、相手に対する善意の気持ちがあった場合ほどには、傷つかないでしょうし、心も乱されず、強い復讐の念も湧いてこないでしょう。
 余談ですが、以前、親しくしていたある会社社長が、詐欺師にだまされて大金をだましとられてしまいました。彼はその詐欺師を信用し、とても仲良くやっていたので、相当ショックを受けたようでした。その後、彼と話をしたところ、「もう誰も信用できなくなってしまった」といい、ぷっつりと私との連絡まで断ってしまいました。詐欺に遭う前は、私たちの関係は和気あいあいとしたものであったのに、私も信用できなくなってしまったようです。彼は、お金を取られただけでなく、大切な心まで取られてしまったのだと思いました。とはいえ、無理もないのかもしれません。

 こういう状況が訪れたときは、まず、心を乱されることは無駄であり、復讐も無駄であると考えることが第一だと思いますが、いきなり相手のことを悪く思わない心境になることは非常に難しいかもしれません。無理にそう思っても、単なるうわべだけになってしまいます。
 そこで、そういう場合は、二つの段階を経ることが必要ではないかと考えています。
 すなわち、相手に対する悪意の気持ちはそのままでいいから、まずは、裏切りや忘恩という「出来事」そのものに対してのみ、肯定的な評価をくだすようにするのです。
 たとえば、「こんなつまらない人間と縁が切れたことは幸いだった」といったようにです。ここにはまだ、相手に対する悪意が込められていますが、このような状況になったことについては、肯定的な評価をしています。
 まずは、こんな感じでワン・クッション置くのです。こうして、出来事そのものを肯定的にとらえることができるようになると、今度はしだいに、相手に対する悪意の気持ちを減少させることができるようになってきます。

 そのためには、「こんなつまらない人間と縁が切れてよかった」と思うより、次のように考えた方がいいかもしれません。
 すなわち、「これでカルマが解消された、あるいは徳を積むことができた」と考えるのです。
 カルマの法則からいえば、「裏切られた」という現象が生じたのは、二つの可能性があったからです。ひとつは、前世において自分がその人を裏切ったので、その報いを受けたという可能性です。もうひとつは、その人は誰かを裏切らなければならない宿命を持っており(その理由は、悪いカルマを積むことで魂を成長させる教訓を学ぶという計画があったのかもしれません)、その裏切る相手として自分が「(相手の魂の成長のために)裏切られる役割を引き受けた」という可能性です。
 このどちらなのかは、もちろんわかりません。しかし、いずれの場合も、悪意や復讐の念さえ抱かなければ、カルマ的には得をしたことになるわけです。
 つまり、前世で自分が相手を裏切ったのなら、マイナスのカルマを持っていたわけですから、裏切られたことで帳消しになったわけです。いわば、「借金」を返せたわけです。霊的な「汚れ」が落ちたといってもいいと思います。
 あるいは、もし相手の魂の成長のために、裏切られる役割を引き受けたのだとしたら、それはプラスのカルマを作ったことになります。いわば、お金を稼いで「天国の銀行」に貯金をしたことになるのです。
 忘恩の場合も同じです。前世で相手に恩を仇で返したための報いであれば、借金を返せたのですし、そうでなければ、収入を得たことになるのです。

 ところが、もし相手があなたの親切に報いたとしましょう。それは物質的なお返しかもしれませんし、感謝などの精神的なお返しかもしれませんが、そうなると、あなたが得た収入は、そのぶんだけ差し引かれることになります。それはある意味では、もったいない話です。
 しかしもし、あなたの親切に対して何のお返しもされなかったら、つまり忘恩の仕打ちをされたら、あなたが作ったプラスのカルマ、いわゆる「徳」は、そのまま自分のものとなってくるのです。
 ですから、現象的にはいかに相手が悪かったとしても、「復讐」や「仕返し」というものは、結局は割に合わず、自分のためにはならないのです。相手にお金を貸して、その借金を踏み倒されたとしたら、非常に憤りを覚えると思いますが、カルマの法則というものは厳格かつ公正なもので、その借金ぶんの恩恵(それはお金とは限りません)は、必ずいつかどこかで受け取ることになるはずです。ですから、実はなにも悔やむことはないわけです。むしろ、そういう経験を覚醒のための自分磨き、成長のチャンスととらえることで、すばらしい「利息」までついてくるのです。

 後にも触れることになりますが、覚醒をするために非常に重要になってくるのが、「積徳」です。どれだけ徳を積んだか、つまり、どれだけ善いカルマを行ったかです。この善いカルマ(徳)は、実際に、お金やエネルギーにそっくりです。修行がうまく進まない状態にあったのが、積徳をしたとたん、いっきに修行が進んで覚醒に到ったという人もいるくらいです。積徳、善のカルマの威力というものは、私たちが想像するよりもはるかに、覚醒修行に影響を与えます。
 そう考えれば、裏切りや忘恩の仕打ちをした人は、私たちに積徳をさせてくれるために、わざわざそういう「役柄」を引き受けてくれたのかもしれないと、そう思うこともできるのではないでしょうか。

 結局、物事を究極の宇宙的なスケールで見るならば、私たちの魂は、お互いに、裏切ったり裏切られたり、傷つけたり傷つけられたりしながら、進化していくようにできているのだと思うのです。たまたま現世では、相手が自分を傷つけたり裏切る番であったにすぎず、前世では、自分が相手を裏切ったり傷つける番であったかもしれないわけです。
 宇宙というものは、このようにしてお互いの魂を進化させていくようにできているのだと思います。そう考えますと、いちいち相手を恨んだり憎んだりするのは、まったくつまらない、ナンセンスなことだと思うのです。ドラマで悪役を演じていた俳優に向かって、憎しみや敵意を抱くようなものです。
 つまり、究極の真理をいえば、相手は自分を裏切ろうとして裏切ったわけではないのです。苦しめようと思って苦しめたのではないのです。もともと、宇宙というものがそうして魂を進化させていくようにできているので、相手はただその宇宙の「シナリオ」にしたがい、役割を演じたにすぎないのです。究極的には、この世に善人も悪人もいないわけです。ただ「進化する魂」だけが存在するにすぎません。世の中で起こる不幸や悪いことに対して、それは誰が悪いわけでもないのです。
 こういう視野から世の中の現象を見ることができるようになれば、誰に対しても、憎しみや復讐の念など起こらなくなるでしょう。それはまさに覚醒の意識そのものなのですが、逆に、こういう視野で世の中の現象を見るように、意識的に努力していくことによって、私たちは覚醒に近づいていくと思うのです。

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 不幸な人生を大逆転させて幸運な人生に変える

 少なくても表面的な出来事を見る限りでは、世の中や人生はなんと不公平なのだろうと思う。まじめに努力しても報われないこともあり、正直で善意に生きていても、辛い仕打ちにあったり、不運に苦しめられることもある。生まれつき不遇な環境に生まれ育つこともあれば、人生の不条理によってひどく傷つけられることもある。
 また、ガンになりやすい人は「責任感が強く、完璧主義で仕事をまじめにやり、他者を思いやる気持ちが強く、周囲に気を使う」人だというが、こういう人はいい人ではないだろうか。いったいなぜ、いい人がガンになって苦しまなければならないのだろう? それなのに、いい加減で無責任、傍若無人でわがままな人は、ストレスもたまらないだろうし、ガンにもならない。こういう人は逆に、周囲の人にストレスを与えて、周囲の人をガンにさせる人だ。なぜ、人をガンにさせる人が苦しむことなく、意気揚々と幅をきかせているのだろう?
 こうした点について、スピリチュアルな視点から説明すれば、いろいろと理屈はつけられるのかもしれないが、そんなことを詮索しても、あまり意味はないようにも思われる。それよりも、「人生の本質は苦しみだ」と言い放った釈迦の言葉の方が、なんだかさっぱりしたものが感じられる。

 しかしながら、こうした人生の幸福と不幸のありかたは、覚醒をめざすかどうかによって、まるでオセロ・ゲームのように白黒が反転する。
 もし、人生が幸せに満ちていたら、たとえば、健康で、裕福で、仕事には生き甲斐を感じ、理想的な恋人や配偶者に恵まれ、愛情豊かな親の元に育ち、健康で頭のいい子供に恵まれ、環境のいい場所に住んで……といった人生を送っていたら(実際にそんな人生を送っている人がどれだけいるかは別として)、覚醒などに関心を持ち、修行などしようとは思わないだろう。覚醒の修行は必ずしも禁欲主義ではないが、しかし今日の平均的なライフスタイルから見れば、はやり禁欲的といわざるを得ないだろう。いったいどうして、そんな禁欲的な修行など、しようと思うだろうか?
 ところが、人生が不遇や苦しみ、悲しみや寂しさで染まっていれば、そんな苦しみから根本的に解放されたいという気持ちが芽生え、その(おそらくは唯一の)解決策である覚醒の道を歩むようになるだろう。人生が苦しければ、人生に未練はなくなっていき、欲望に心が奪われることも少なくなってきて、覚醒の道からそれることはなくなるだろう。
 その意味で、この世的な幸せに恵まれない人は、実は幸運であるといえるだろう。
 覚醒をめざす求道者にとって、苦しみや不幸は(そのためにますます覚醒したいと思うようになり、修行に打ち込むようになるという点で)幸運なことであり、いわゆる幸運は(この世的な快楽に心を奪われ、覚醒の道からそらせてしまいがちなために)不運だということになるのではないだろうか。
 もちろん、だからといって、わざわざ不幸や苦しみを求めるべきではない。しかし、意図せずに訪れた不幸や苦しみを嘆いているのだったら、ただ覚醒をめざすという方向転換だけで、すべて不幸は幸運となり、人生は大逆転するのだということを、心にとどめておくべきではないだろうか。
 苦しみはありがたい。悲しみはありがたい。寂しさはありがたい。彼らが背中を押してくれるからこそ、覚醒という、真の幸せに向けて歩むことができるのだから。


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損得で物事を考える

 心を浄化するには、人を悪く思わないことだといいました。
 これは、とても難しいことです。しかし、過去の覚者たちが弟子を厳しく鍛えるときには、あえて「不愉快な人間関係」のなかに弟子を追いやり、そこで人を悪く思わないように訓練させるといったことを、盛んに行っていたようです。
 私たちには、そのような状況に追いやってくれる師匠がいません。したがって、私たちは自らそういう状況に自分を追い込むくらいの意気込みと熱意で、「人を悪く思わない」という、厳しい試練を乗り越えていかなければならないと思うのです。この試練を乗り越えることができたら、覚醒の修行はおそらく、格段に進むはずです。

 とはいっても、世の中には本当に不愉快で腹が立ち、思わず呪ってやりたくなるような人がいるのも事実で、そういう人を悪く思わないようにがんばると、ストレスばかりたまっていくような気もしないではありません。
 そこで、これについては、次のような姿勢で臨んだらどうかと思うのです。
 それは、物事を感情で受け止めるのではなく、「損得で受け止める」という姿勢です。つまり、「これは好きだから、これは嫌いだから」という基準で物事に接したり行動するのではなく、「これは得だから、これは損だから」という発想に切り替えるのです。
 いわば、打算的に考える、ということです。「打算的」というと少し聞こえが悪いのですが、これはもちろん、「自分さえよければいい」という意味での「打算」ではありません。換言すれば、「無駄なことはしない」という発想であり、「無駄なこと、損なことには執着せず、きれいさっぱり捨て去る」心境のことです。

 たとえば、誰かが影で自分の悪口をいっていたとしましょう。その場合、その悪口が事実と異なるのであれば、はっきりとそれは主張しなければなりません。誤解は解くべきです。しかしそれでも、自分の悪口をいっていた人に対して、怒りや恨みの気持ちが残ると思います。復讐したくなるかもしれません。
 そのとき「怒りや恨みの気持ちを抱いていて、なにか得になるだろうか?」と、自分を他人のように突き放し、第三者の立場で知的に考えてみるのです。
 そうすれば、怒りや恨みの気持ちを抱いていても、何の得にもならない、それどころか、心を乱して、そのために貴重なエネルギーや時間を無駄にしているということがわかります。復讐などもそうです。復讐した直後は、気分がスーッとして爽快になるかもしれませんが、せいぜいそれだけです。たいていその後にやってくるのは、空しい気持ちであり、「こんなことで復讐するほど、自分は器の小さな、つまらない人間だったのか」という自己嫌悪や苦い思いです。場合によっては、復讐したことで一生、罪の意識にさいなまれてしまうかもしれません。せっかくカルマを解消できたのに、復讐をしたために、再び相手とのネガティブなカルマの束縛にはまってしまうことになるのです。その結果、いつかまた同じようなことが繰り返されてしまうわけです。
 第一、復讐に費やした心的エネルギー、行動エネルギー、時間などを、もっと建設的なことに向けていたら、もっとすばらしいことが待っていたことでしょう。
 このように、一時は激情にかられて怒りや復讐の念にとらわれても(それはある種の執着です)、冷静に考えれば、まったくの損であることがわかります。
 したがって、「損なことはしない」と、決めるのです。損だと思ったこと、無駄だと思ったことには、いつまでも執着せず、さっぱりと捨てて、次から次へと忘れていくことです。

 このように、物事を損得で考えるように、習慣づけてみてください。これは、人を悪く思わない、というだけでなく、すべてのことに通じると思います。
 たとえば、いつまでも泣いたり、嘆いたり、悲しんだりすることも、無駄なことではないでしょうか。もちろん、悲しいときは思い切り泣いた方がいいです。悲しみが緩和されるからです。しかし、いつまでもくよくよと泣いていて、現状が少しでもよくなるでしょうか? たぶん、ならないと思います。無駄なことなのです。無駄だと思ったら、もう執着を捨てて、悲しみを心から捨て去るのです。
 こういう姿勢は、ややニヒリスティックな感じを受けるかもしれませんが、釈迦などはこのような教えを弟子に説きました。少なくても初期の仏教徒は、このようなニヒリスティックな感じが漂っていたことは確かです。たとえば、肉親の死に接しても、悲しむのは無駄なことだから(死者に執着するな)という理由で、泣いたりはしませんでした。
 しかし、これはあくまでも執着(煩悩)に対するニヒリズムであり、人への愛や思いやりに対するニヒリズムではありません。人を助けたり思いやることには、損得を持ち出すべきではないでしょう。人を助けたり思いやることは、人間の本質であり、仏教でいう仏性なのですから、考えずに自然にそうできるようにならなければいけないと思います。自然に人を愛し、思いやることができるようになることが、覚醒だと思うのです。
 しかしそれ以外のことは、いい意味で「打算的」に考えて行動するべきだと思うのです。そうすれば、しだいに自分へのとらわれから自由になることができます。つまり、それだけ覚醒に近づくことができる、ということなのです。

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<推薦図書(覚醒編)> 『[実践]インテグラル・ライフ』

 このブログでは、心の治癒や魂の覚醒に役立つような本を紹介していきたいと思っていたところ、たまたま次の著書が、翻訳をされた鈴木規夫さんから贈呈していただきました。だからというわけではありませんが、これはすばらしい本です。発売されたばかりの新刊です。

          [実践]インテグラル・ライフ
              ~自己成長の設計図~
   ケン・ウィルバー/テリー・パッテン/アダム・レナード/マーコ・モレリ 著
                      鈴木規夫 訳
                    春秋社      507ページ    4200円+税

 ケン・ウィルバーといえば、古今東西における覚醒に関する理論と方法の統合を提案しているトランスパーソナル心理学のカリスマ的な研究家です。これまで数冊の翻訳書が出版されてきましたが、膨大な資料を網羅しつつ、どこまでも深く理論的整合性を求める姿勢が反映されているだけに、かなり専門的で、やや難解な本がほとんどでした。しかし、覚醒の理論と方法の統合という、まだ誰も手を付けたことのない前人未踏の領域での彼の実績は、まさに画期的であり、この世界を歩むすべての人に貴重な示唆を与えるものです。
 そんな彼が監修をして、仲間と一緒に著したのがこの本です。しかし、ここで展開されているのは、ズバリ覚醒のための実践方法です。内容も具体的であり、これまでのような難解さはありません(といっても、テーマが覚醒ですから、スラスラ読めるというわけでもありません。ボリュームも500ページを超えていますので、じっくりと腰をすえて読む本です)。

 ざっと内容を見たところ、まさに、このブログで展開していることと、同じ路線を歩んでいるではありませんか! このタイミングには不思議な流れを感じました。
 内容も、ボディ、マインド、スピリット、そしてウィルバーがシャドーと呼ぶ要素のすべてにわたり、普通の社会生活を送りながら覚醒をめざしている私たちのために、とても細かく丁寧に解説が施されています。
 これまで、個々のテクニックを解説した本はたくさんありました。しかし、テクニックのみならず、日常の生活法から倫理的な側面、考え方、その他に到るまで、ここまで広範囲な要素をカバーした本は、私の知る限りありませんでした。
 しかも、ただ個々の要素を解説しただけでなく、すべての要素が相互に関係づけられ、いわばひとつの体系になっているのです。このように、個々の要素を統合することで、覚醒の修行は効率的に、そして安全に進めていけるようになるのです。

 また、伝統的な覚醒修行のなかから、無駄なものや余計なものを排除し、そのエッセンスだけを精製して紹介していますので、私たちは妙な教条主義や、修行そのものへのとらわれといった横道にそれることなく、ダイレクトに覚醒の修行に励むためのヒントが与えられるはずです。
 この本の意義を一言でいいますと、「旅行ガイド」です。覚醒という、しばしば魑魅魍魎とした世界を旅する人にとっては、必要不可欠のガイドブックといっていいでしょう。この世界では、さまざまな教えがあり、さまざまな修行法がありますが、それらが全体から見てどのような位置づけで、どのような意味を持っているかということを把握することができます。つまり、迷子にならずにすむわけです。

 覚醒の修行に「パック・ツアー」はありません。人の数だけ修行の数があるのです。自分の修行は、自分でデザインしていかなければなりません。私たちは、自分にもっともあった修行法を自分で見つけ、歩んでいかなければならないのです。そうしてこそ、覚醒は現実のものとなってくるのです。旅行計画は自分で考えなければなりません。その計画を立てるための、最高の手引き書がこの本です。


<帯(表)に書かれている文章>
→統合的プログラムの実践により、心身の健康、豊かな人格(円満な人間関係)、明晰な頭脳、霊的覚醒を手に入れ、全人格的な自己成長を果たす実践的なガイドブック。

<帯(裏)に書かれている文章>
→インテグラル・ライフ・プラクティス=ILPとは、
 ケン・ウィルバーが自らの研究と実践に基づいて確立したインテグラル理論を、日常生活に応用する具体的な実践法を紹介したものです。真に自分らしい生き方を実現するために、まず自身の今の状態や人生の目的を明確にし、多用なリソースを統合して独自の実践法を組み立てましょう。その継続的な実践によって、あなたは生まれ変わった自分を手に入れることができるでしょう。


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 心の浄化への最高の道

 覚醒のために、これまで基本的な瞑想法と肉体の改造法を紹介してきましたが、しかし何よりも大切なことは、心の浄化です。心の浄化は、心の治癒とほぼ同義語です。心の浄化が十分ではないのに、瞑想法やその他のテクニックばかり熱中すると、ほぼ百パーセント失敗します。精神に障害が生じたり、反社会的な性格となったりして、結局は自他を不幸にさせてしまいます。
 では、心を浄化するには、どうすればいいのでしょうか?
 そもそも、心を浄化するとは、いったいどういうことなのでしょうか?
 心を浄化するというからには、心に汚いものがある、ということが前提になっています。その汚れを洗い清める、これが浄化という意味です。
 では、心の汚れとは、具体的にどのようなものなのでしょうか?
 もちろん、「汚れ」といっても、心は物質ではありませんから、悪臭がしたり黴菌がいるような、いわゆる「汚物」があるわけではありません。
 ただ、そのような「汚物」を連想させるような、つまり「汚い」という印象を感じさせる、何らかの性格上の欠点のことをいっているのです。そういう欠点をなくすことを、心の浄化と呼んでいるわけです。
 では、どのような心の欠点を「汚い」と感じるでしょうか?
 それは多少、個人差はあるかもしれませんが、たとえば「臆病である」というのはどうでしょうか? これは性格上の欠点ではありますが、それほど「汚い」という感じはしないのではないでしょうか?
 では、妬みや利己主義、弱い者いじめ、裏切り、偽善、嘘つき……などはどうでしょうか。これらはたぶん、「汚い」という感じがするのはないかと思います。このような、自分が汚いと感じるものを、心から消していく、これが心の浄化です。

 もちろん、それは簡単なことではありません。忍耐強く努力していかなければなりません。しかし、ポイントがあります。
 それは、「人を悪く思わない」ということです。
 人を悪く思わないということは、当然、「人のことを悪く言わない」ということにもなります。
 人を悪く思わないとは、悪意をもって人の欠点や悪いところを指摘したり、嘲笑したり、皮肉をいったり、「悪い人だ、ずるい人だ、だらしない人だ」と決めつけたり、妬んだり、不幸になることを望んだり、呪ったり、悪口をいったりしないということです。
 たいていの場合、人を悪く思うのは、自分のなかに、その人と同じ悪いもの(汚いもの)があるからです。自分に同じものがあるから、相手の悪い面と共振して、敏感に察知してしまうわけです。
 あるいは単に、嫉妬をして相手が憎らしくなり、悪意を向けたりするわけです。たとえば、同僚が自分より先に出世したような場合、そのことが悔しくて仕方がないが、悔しいとはいえないので、「あいつが出世した理由は、うまく仕事を手抜きしたからだ」などと、もっともらしい理屈をつけて、悪くいったりするわけです。
 こういう気持ちは、もっとも汚いと感じる心の欠点ではないでしょうか。したがって、まずは人を悪く思わない、悪くいわない、ということから始めるのです。これさえクリアできれば、その他の心の汚さは、自然と消えていくものです。

 もちろん、誤解しないでいただきたいのですが、だからといって、人の悪い行為や悪い面を見て見ぬふりをするとか、不正から目を背けるという意味ではありません。
 あるいは、世の中には悪い人など存在せず、すべて善い人なのだと思いなさいといっているのでもありません。現実として、世の中にはどうしようもない悪い人間、悪意と意地悪に満ちた人間、腐敗した人間、最低の人間がいるのも事実です。
 そういう場合は、こう考えてください。
 仮に、本当にその人が悪意を向けられても当然なほど悪い人間だとしても、そうしたところで、なにか自分にとってプラスになるだろうかと。
 決してプラスにはならないはずです。一時的にはスーッとするかもしれませんが、結局は、人を悪く思う心が習慣となったり、心は穏やかではなくなり、ストレスを感じ、不愉快な、まさにどろどろした汚い気持ちになっていくのがオチです。
 そんなくだらない人間に心を乱されていること自体、馬鹿らしいことではないでしょうか。
 したがって、もし本当に悪い人間から不愉快な思いをさせられたら、それを知的に理解し、感情的な反応をしないように努力してみてください。すなわち、「彼はどうしようもない最低の人間であると考えることは妥当である」といったように、まるでロボットが判断しているように、感情を伴わないで、客観的に認識するのです。その相手に悪意や攻撃欲求などを向けず、クールに見るのです。
 これはもちろん、簡単なことではありません。あまりにも怒りでどうしようもなかったら、我慢するとよくないので、感情を爆発させても仕方がありませんが、しかし感情をコントロールすること自体、非常に価値のある覚醒修行であることを思い出してください。そして少しずつでいいので、以上のような境地になれるよう、修行を積んでいくのです。もちろん、これは私自身に対する自戒も込めていっております。

 いずれにしろ、これだけはいえます。
 たとえ、あなたの怒りや悪意が、客観的に判断して正当なものであったとしても、人を悪く思う心がある限り、覚醒の修行が成就することはありません。そのような心を抱えたまま、瞑想やクンダリニーを上昇させるようなことをすることは、ダイナマイトを抱えたまま焚き火に当たるようなものです。
 非常に難しいことですが、人を悪く思うこと、人を悪く言うことは、いっさいやめようではありませんか。どんな人に対しても例外なくです。
 さらにもし可能ならば、どんな人も魂のレベルではすばらしいのですから、相手を魂と見て、本当はすばらしい人なのだと思うようにしたいものです。
 これこそが、心の浄化への最高の道なのです。心が浄化されると、驚くほど覚醒の意識に近づいていきます。
 楽な修行などありません。人を悪く思わないというのは、ひとつの苦行といっていいかもしれません。
 しかしその努力は、必ずすばらしい報いとなって返ってくるはずです。

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とにかく実践していくこと

 もしもこれまで、覚醒の修行などまるでしたことがないという人は、前回ご紹介したアジナー・チャクラの瞑想を、さっそく実践してみてください。
 まず、ひとりになれる場所や時間を見つけ、好きな座り方でいいので座り、心を静め、目を閉じてください。そして、アジナー・チャクラの場所(眉間から耳の所まで奥に入ったところ)に意識を集中し、その場所が光り輝いているのだとイメージし、その光を見つめてください。雑念が湧いても気にせず、さらりさらりと受け流してください。いつのまにか他のことを考えたりしてしまいますが、気にせずに瞑想を続けてください。難しく考える必要はありません。
 時間は、まずは3分間でけっこうです。、ただし、毎日欠かさずに行ってください。
 もちろん、これだけが、覚醒の修行のすべてではありません。他にもいろいろな行法がありますし、他にも学ぶべきことが山のように待っています。しかし、最初はこれでいいのです。もしかしたら、「こんなシンプルな行法を、一日たった3分間やるだけで覚醒なんてできるはずない」と思われたかもしれません。
 確かに、3分間瞑想したからといって、すぐに効果を期待することはできないでしょう。これから長い道のりが待っています。
 しかしそれでも、とにかく一歩を踏み出したのです。どうか、この偉大さを自覚してください。このことは、本当はものすごいことなのです。
 この「一歩」を踏み出す今日まで、あなたは過去に、どれほど輪廻転生を繰り返してきたかわからないのです。すべての人は、覚醒の道を歩むために生まれ変わっています。しかし、地上の生活に心が奪われ、覚醒などということはまるで考えず、興味もなく、ただ物質的な価値だけを追い求め、そのために苦しみ、苦しんでもなお(苦しみの原因となる)欲望を追いかけ、そうしてまた苦しみ、それでもまだ懲りずに欲望を追いかけるといった人生を、これまで何百回、何千回と繰り返してきたわけです。そのたびにあなたの魂は「今度こそ、覚醒の道を歩もう」と願うのですが、うまくいかなかったのです。すでにあなたの魂は、その苦い失望を、何百回、何千回と味わってきたわけです。
 ところが今日、たとえ3分であったとしても、アジナー・チャクラの瞑想をしたあなたは、ついに、覚醒への道を踏み出したのです! 世の中の大部分の人が、これから先、何百生、何千生と生まれ変わりを繰り返した果てに、ようやく第一歩を踏み出すことになるだろうというのに、あなたは今、その輝かしい一歩を踏み出したのです。霊的に見たら、あなたはエリートのなかのエリートだといってもいいのです。
 どうか、その重み、そのすばらしさを、わかってください。あなたの魂、そして霊界であなたを見守ってきた霊たちは、「ついにやったぞ! めでたい! めでたい!」と叫びながら、今頃は酒でも飲みながら踊りまくって狂喜しているに違いないのです(冗談です。しかし、そのくらい喜んでいることは間違いありません)。

 この最高の一歩を無駄にしないために、どうかこれから、毎日修行を続けていってください。思い出したように修行しても効果は期待できません。修行は趣味ではないのです。人生のすべてをかけて挑んでいくものです。せっかく修行の道を歩み始めたのに、途中でやめて、あなたの魂や霊界の導き手をがっかりさせないでください。
 もちろん、忙しい生活をしていることはわかっています。しかし、3分でいいのです。たとえ3分でも、実行するのとしないのとでは、まるで違うのです。毎日、3分の時間が取れない人はいるでしょうか? おそらく、アメリカ大統領といえども、3分の時間が取れないほど多忙ではないはずです。病気で意識が朦朧としているのでない限り、どんな人も毎日必ず3分の修行はできるはずです。
 ということは、「忙しくて修行ができない」という言い訳は、できないことになります。毎日3分の修行ができないということは、要するに覚醒しようという気持ちがないということです。もし、「毎日3分間修行を続ければ一億円あげる」といわれたら、きっと誰もが必ず毎日修行を続けるでしょう。結局は、本気であるかどうか、ということなのです。
 覚醒から得られる恩恵は、一億円などよりもはるかにすばらしい価値を持っているのです。そのことをよく理解し、本気で修行を続けていってください。
 大切なことは、あくまでも実践です。知識を学んだだけでは、「絵に描いた餅」でしかありません。以前、自己実現の本を読んでいたら、「この本を読んで実行する人は、5%くらいだろう」と書いてありました。たくさんの人が成功哲学の本や自己実現の本を読みますが、そのなかで実行する人は、たった5%だというのです。
 実行するのが5%、しかし成功するまで実行し続ける人となると、さらに少なくなるに違いありません。これでは、料理の本ばかり読むが、一度も料理を作ろうとしない人のようなものです。本を読んで「食べたつもり」になっただけで満足しているのです。こんなことはナンセンスです。
 こうして、このブログを読んでくださっている皆さんには、こんな空しいことはして欲しくありません。ぜひ、実践してください。最初は完璧でなくてもいいのです。実践しながら完璧をめざしていくのです。
 とりあえず、3分間の修行が毎日欠かさず行えるほど習慣となったら、時間を少しずつ増やしていってください。最初から長い時間修行しようとすると、どうしても挫折してしまいがちです。最初は3分でいいのです。
 私たちの覚醒を導いてくれる神は、まず私たちの真剣さを試すはずです。せっかく導いてあげようとしているのに、本人にやる気がなければ、導いてあげようとは思わないでしょう。神も同じです。神は、本当に毎日、たとえ3分間といえども真剣に修行を続けていくかどうか、その真面目さと熱意と忍耐を見ています。その間は、何の効果もないかもしれません。しかし、ついに神が、私たちの真剣さと熱意を認めてくれたときには、いきなり修行が進んだりするのです。その期間は、数週間かもしれませんし、数年かもしれませんが、ひたすら続けていく限り、いつか必ず神が認めてくれるでしょう。
 イエスがいったように、天国の扉が閉まっていたら、ひたすら叩き続けるのです。開くまで叩き続けるのです。覚醒に関しては、絶対にあきらめてはいけません。そうすれば、いつか必ずその門は開かれます。「求めよ、さらば与えられん!」です。お金や名誉を神に求めても、それが覚醒にとって障害になると神が判断されれば、その願いは聞き遂げられないでしょう。しかし、覚醒の願いは必ず聞き遂げられるのです。なぜなら、それこそが神の、そして人間の、唯一にして究極の目的だからです。


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 アジナー・チャクラ瞑想法

 覚醒するために必要な肉体の浄化&強化を説明してきましたが、次に必要なのは心の浄化&強化です。これは「心の治癒」とほぼ同義語ですので、もうしばらくしてから触れていきたいと思います。
 とりあえず、すぐにでも覚醒に向かって修行を実践していただいた方がよろしいと思い、今回はそのための具体的な行法をご説明したいと思います。この行法を正しく効率的に行うには、いろいろと他にも注意すべきことがたくさんあり、理想をいえば、そういうものをすべてクリアしてから行った方がいいのかもしれませんが、実際にはきりがないのです。それよりも、最初は不完全でもいいから実践することです。実践しながら、少しずつ改善していけばいいと思うのです。とにかく、一番大切なことは、実践です。

 覚醒するために求められるのは、瞑想です。具体的には、「アジナー・チャクラ瞑想法」というものを行います。これについては、すでにAPI行法 (API行法については、【カテゴリー→修行法→API行法-こうすれば覚醒に到る時間を3分の1に短縮できる?】を参照してください)にて少し触れました。
 API行法では、日常の生活をしながら、アジナー・チャクラに意識を向けるというものでしたが、瞑想として行う場合は、座って目を閉じて行います。
 方法は簡単で、アジナー・チャクラが存在する場所に意識を集中し、光が輝いている様子を想像するのです。その(想像の)光に精神を集中するわけです。それだけです。非常にシンプルですが、これが覚醒するための中心となる瞑想行法なのです(他にもいろいろな行法を提唱している人がいますが、ここではこの行法を中心とします)。最初のうちは、その光をうまく想像できないかもしれませんが、続けていけばだんだんはっきりと想像できるようになってきます。最初は力まず、なんとなくといった感じでかまいません。

 チャクラは、プラーナという生命エネルギーを受けることで活性化されます(クンダリニーやシャクティというのは、このプラーナが強力になり方向性を持ったものです)。この生命エネルギーは、意志と想像の力でコントロールできるという面白い性質を持っています。つまり、アジナー・チャクラが光っているという想像は、単なる想像ではなく、実際にアジナー・チャクラにプラーナを集中させているのです。
 そして、忍耐強くこの行法を続けていきますと、そのプラーナのエネルギーが強力になってきて、やがてそのエネルギーによって着火され、アジナー・チャクラが活性化してくるのです。アジナー・チャクラが活性化されると、今度は実際に光が見えるようになってきます。想像ではなく、あるいは単に「光が見えたような気がする……」といった程度の感覚ではなく、頭の中に強力が電球が埋め込まれたかと思うほどリアルな光が見えるといいます。太陽よりもまぶしいというヨーガ行者もいるくらいです。
 そこまでいくにはかなりの年月の修行が必要かと思いますが、瞑想の初期であっても、かすかに光が見えることはよくあります。それは光を直接見たというより、その光が意識の片隅を照らしたような見え方です。真っ暗な部屋で瞑想しているのに、急にその光を感じ、誰かが照明をつけたのかと驚いて思わず目を開けてしまったりしますが、部屋は真っ暗なのです。こういう現象は、しばらく瞑想を続けていけば体験すると思います。これはアジナー・チャクラがほんの少しだけ活性化したものと思われます。

 ところで、チャクラは他にもあるのに、なぜ活性化させるのがアジナー・チャクラなのでしょうか?
 実は、他のチャクラもバランスよく活性化させていかなければならないのですが、そのためにはまず、アジナー・チャクラを最初に活性化させなければならないのです。
 なぜなら、アジナー・チャクラは心の理性の場であり、他のチャクラをコントロールする力を持っているからです。他のチャクラ、たとえばスヴァディスターナ・チャクラが最初に目覚めてしまいますと、性的な欲望や無意識的な衝動に支配され、狂人のようになりかねませんし、アナハタ・チャクラが先に目覚めてしまいますと、情愛に溺れたり、攻撃的になったりしてしまいます。しかし、チャクラが精神に与える影響は非常に大きく、頭ではよくないとわかっていても、コントロールできない状況に追い込まれてしまうのです。
 しかし、最初にアジナー・チャクラを活性化させておくと、チャクラをコントロールする力が出てくるのです。そのため、チャクラの暴走を回避することができ、安全に覚醒への道を歩むことができるようになります。これは、肉体の数カ所のホルモン中枢をコントロールしているのが、アジナー・チャクラと関連する脳下垂体であることと、関係があるのかもしれません。
 また、どのチャクラもそれなりに大切とはいえ、覚醒、すなわち高次の世界の認識を可能にするのがアジナー・チャクラであるところから、覚醒のための瞑想法は、どこまでもアジナー・チャクラを主体にして行っていくわけです(アジナー・チャクラよりもサハスララ・チャクラの方が、より高次の認識に関係しているのですが、サハスララ・チャクラを活性化させるには、アジナー・チャクラが十分に活性化されている必要があるようです)。

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ホルモンの分泌機能を高くする方法

 今回は、覚醒に必要な「肉体改造4つのポイント」のうち、最後となるホルモンの分泌機能を高くする方法についてご紹介いたします。
 ホルモンは非常に微量ながら血液を通して運ばれることで、からだに大きな変化をもたらす物質です。そのため、ホルモンが分泌異常を起こすと、たちまち体調を崩し健康が損なわれてしまいます。
 どのホルモンも大切なのですが、覚醒に関して特に重要となるホルモンは、甲状腺ホルモンと性腺ホルモンです。
 甲状腺ホルモンは、全身の細胞の呼吸量とエネルギー産生量を増大させる働きを持っています。つまり、細胞の基礎代謝量が促進されるのです。そのため、これが過剰になると、エネルギーが大量に燃やされるため、頻脈、動悸、高血圧、高血糖、多食、発汗、イライラ、震え、暑さに耐えられないといった症状を示し、不足すると、無力感、だるさ、皮膚の乾燥、発汗減少、便秘、体重増加などが起こるといわれています。
 したがって、理想は、甲状腺ホルモンの分泌がやや多い状態にして、バイタリティを発揮できるようにすることです。

 次に重要なのが性ホルモンです。男性に関していえば、男性ホルモン(テストステロン)の分泌が多くなることで、やる気と積極性が出てきます。アメリカでは鬱病の治療薬として用いられています。ネット(ウィキペディア)で調べますと、闘争本能や孤独願望(1人でいたい、干渉されたくない欲求)を高める作用をもたらすとか、太りにくくなるという説もあるようです。そして、筋力トレーニングや不安定な興奮(例えば闘争や浮気など)によってテストステロンの分泌が促されるらしく、ある実験によれば、学生らに15分間銃を扱わせたところ唾液から普段の100倍近いテストステロン値を記録したといいます。この事から、危険物、あるいは危険な行為によってテストステロンの分泌が促されると考えられています。
 女性の場合は女性ホルモンということになりますが、こちらは男性ホルモンのような攻撃的な作用はありませんが、心身を安定した状態に保つために重要な役割を担っています。
 こうした性ホルモンも、やや多く分泌されるというのが理想の状態です。
 このように、ホルモンの分泌機能を高めますと、からだ全体がエネルギーに満たされてくるのです。そして、この高いエネルギーをうまく統御して神経エネルギーに変換することによって、高次の感覚能力を開発させていくわけです。また、当然ですが、無気力であれば修行などもできませんから、修行をたくましく実践していくためにも、ホルモンの機能を高めることはとても大切になってくるのです。ホルモンの機能が高まれば、いつまでも若々しく元気でいられるわけです。

 では、どのようにすれば、ホルモン分泌機能は高められるのでしょうか?
 まずひとつは、適度な運動と十分かつ規則正しい睡眠です。運動はホルモン機能を調整し分泌させるのに貢献します。そしてホルモンは、睡眠中に多く分泌されるのです。ここで大切なことは、早寝早起きをするということです。太陽のリズムに合わせた生活をすることです。早く眠り、明るくなったら起きるという生活によってホルモン機能が健全になってきます。夜更かしや睡眠不足はホルモンの分泌機能を乱す大きな要因になりますので、なるべく避けた方がいいでしょう。
 次に、何事も前向きに考えて行動する姿勢が大切です。ホルモンの分泌が盛んな若者のように振る舞うのです。精神的な若さということです。精神的な要素も、ホルモンを分泌させるうえで、思いがけないほど大きな役割を担っています。
 また、ヨーガのなかに「肩で立つ体位」というアーサナがあるのですが、これは全身のホルモン機能を高めるうえで、非常に効果的とされています。『ヨーガ~ヨーガ行法の段階的修練法』(馬場一雄著 平河出版社1978年)という本には、この体位の効果について、次のように書かれています。

→「肩で立つ体位」は、身体の各部に関連をもち、全組織を刺激します。またそれらを弛緩させますので、全身にわたって素晴しい効果をもたらします。この体位は、全ての体位の中で、最も大きな恩恵をもたらす体位の一つであり、全ての病気の万能薬であるといわれています。
A頭部、脊椎、腰部の血液の循環をよくします。
Bアゴが甲状腺を刺激して、血液の循環を促し、甲状腺機能の不全による老化をなくします。
C全ての神経組織を強め、かつ調和させる結果、ストレスと不眠がなくなります。
D全てのホルモンの分泌をよくします。
E胸と頭部の血液循環をよくするために、心悸亢進、息切れ、気管支炎、ノドの疾患、喘息などが軽くなり、治ります。
Fカラダが逆になるので、腹部の全ての臓器が、互いの圧迫から解放されます。そのために消化がよくなり、毒素が除かれ便秘が治り、新しいエネルギーと精神的活力をもたらします。
G尿と月経の障害、及び糖尿病がなくなります。
H静脈瘤が治り、脚のだるさが消えます。
Ⅰ貧血症状の人、無気力の人が活気づいてきます。
J性的機能を高め、性的エネルギーが増強されます。
K背中、脚、首、腹の筋肉が強められます。
Lその他、てんかん、子宮の転位、腸のカイヨウ、結腸炎、鼻の病気、痔、短気等が治ります。

 私も、このアーサナを一日に1~3回、毎日行っていますが、確かに心身にエネルギーが湧いてくるのを感じます。ぜひ、皆さんも実行されてみてはいかがでしょうか。


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神経を調和させ耐久力をつける方法

 今回は、覚醒に必要な「肉体改造4つのポイント」のうち、神経系統を調和的にし耐久力をつける方法について、ご紹介いたします。
 神経系統を調和的にして耐久力をつけるとは、具体的には自律神経を調整して強靱にするということです。ご存じのように、自律神経は、交感神経と副交感神経から構成されています。前者は興奮させる神経であり、後者はリラックスさせる神経です。この両者が調和的に働いているために、私たちは健康で生きられるわけです。
 ところが、この二つの神経がバラバラに働いて調和を乱すと、たちまち健康が損なわれてしまいます。自律神経失調症という病気がその典型で、動悸、頭痛、吐き気、めまい、ほてり、発汗、疲労、消化器の不調、気分変調といった、さまざまな症状に襲われます。それが慢性的になると、免疫力が落ちて深刻な病気を招いてしまいかねません。
 すでに述べたように、覚醒とは、脳神経系に強い生命エネルギーを送り込み、そのエネルギーによって神経細胞を変容させ、高次の認識力を開発することによって達成されます。しかし、通常の私たちの脳細胞は、この強い生命エネルギーの流入に耐えられません。たとえるなら、3ワットの電球に100ワットの電流を流すようなもので、たちまち神経が焼き切れてしまいます。
 そのため、強い生命エネルギーの流入に耐えられるように、神経を健全に、そして強くしていかなければならないわけです。
 では、どのようにすれば、いいのでしょうか?
 そのためには、緊張と弛緩(リラックス)の幅を広げる生活や生き方をするのです。
 つまり、非常に強い緊張状態を意図的に経験し、非常に強い弛緩状態を意図的に経験するのです(強い弛緩という言葉には違和感がありますが、要するに深くリラックスすることです)。そして、これらをなるべく交互に行うようにするのです。
 たとえば、運動などをして汗をかいたら、次に水を浴びてからだを冷やし、その後で横になって休むのです。これは運動による熱い刺激(交感神経を刺激)を与えた後で、水を浴びて冷たい刺激と休息(ともに副交感神経を刺激)を与えているわけです。
 冷たい刺激は普通は交感神経を刺激するのですが、運動によって熱が上がった状態の次では副交感神経が刺激されるようです。また、じっとしたまま緊張した後の運動は、逆にリラックスさせて副交感神経を刺激します。このように、どの神経が刺激されるのかはケースバイケースで異なってきます。いずれにしろ、逆の刺激を交互に与えるのがポイントです。それも、その差が大きいほど神経が鍛えられてきます。しかし最初から無理はしないで、少しずつ幅を広くしていきます。たとえば、最初は適度な運動をして、その後で水ではなくぬるま湯を浴びます。だんだんと運動量を増やしていき、冷たい水を浴びるようにしてください。
 こうした鍛錬を続けていくと、多少の寒さあるいは暑さにも耐えられるようになってきます。緊張してもすぐにリラックスできますし、リラックスしていても必要ならすぐに緊張(気を引き締める)ことができるようになってきます。
 同じように、人生の生き方という点でも、なるべく緊張と弛緩の差が大きい生き方をすることで、神経が鍛えられるのです。それはダイナミックな生き方であり、冒険的な生き方といってもいいかもしれません。たとえば、仕事であれば、責任の重い仕事、危険な仕事、集中力を要する仕事を積極的にしていくのです。しかし、それだけでは神経のバランスを崩しますから、その後で必ず深くリラックスできるようなことをしなければなりません。いずれにしろ、前向きな姿勢で取り組むことが大切です(いやいやながらやると神経にダメージを与えてしまいます)。
 こうした生き方については、「肉体の改造」の趣旨からはずれますので、また別の機会にご紹介してみたいと思います。


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関節と筋肉を柔らかくする方法

 今回は、覚醒に必要な「肉体改造4つのポイント」のうち、関節(とくに脊椎、肩、股間)や筋肉を柔らかくする方法についてご紹介いたします。
 歳を取ると、関節と筋肉が堅くなりますが、関節と筋肉が堅くなるので歳を取る(老化する)ともいえるのです。したがって、関節と筋肉が堅くならず、柔軟性を保つようにすると、老化の進行を抑えることができます。いつまでも若々しくいられるわけです(覚醒ということは別にしても、これだけでもすばらしい恩恵ではないでしょうか)。
 というのは、関節と筋肉の柔軟性は、単に関節と筋肉だけの問題ではなく、血行を促進し、全身の骨格のバランスを調整し、それによって神経系統とホルモン系統を調整する働きがあるからです。肩の関節を柔らかくすることは、上半身の骨格調整に有効ですし、股関節を柔らかくすることは、下半身の骨格調整に有効です。それは脊椎の調整をすることにもなります。ご存じのように、脊椎は神経の束でもありますから、脊椎が調整されることで、神経系統が調整されてくるのです。
 では、どうすれば、関節と筋肉を柔らかくできるかというと、これは柔軟体操をするしかありません。ヨーガのアーサナがベストです。もともとアーサナの目的は、覚醒するために都合のよい肉体作りを目的にしているからです。
 アーサナの種類はたくさんありますが、すべてを行わなければならないというわけではありません。基本となる数種類をバランスよく選択し、それを自宅で行えばいいと思います。だいたい20分もあれば行えます。アーサナについては、本がたくさん出ていますので、それを読んでみてください。
 アーサナは毎日行うのが理想ですが、時間的に難しければ、一日か二日おきでもいいと思います。あるいは一日に2つくらいのアーサナを順番に毎日行うというのでもいいでしょう、私は、8種類ほどのアーサナを20分くらいかけて一週間に2回行い、2種類のアーサナだけは5分くらいかけて毎日行っています。
 ところで、関節を柔らかくすることの、もうひとつ重要な目的は、長時間瞑想できる体にすることです。
 今後、ご紹介していきますが、瞑想するには、特殊な足の組み方をして座らなければなりません。これを座法と呼びますが、瞑想にもっとも適しているのは、蓮華座と達人座という二つの座法です。しかし、この座法は股関節や足首が柔らかくないとできません。また、基本的に背筋はまっすぐでなければなりませんが、脊椎や関節や筋肉が柔軟でないと、長時間、まっすぐな姿勢でいることができないのです。
 同じ座法の姿勢で、最低でも1時間はじっと座っていられるからだにしなければなりません。そのためにも、関節や筋肉を柔らかくする努力はとても大切になってきます。
 こうした行法を続けていくことは、忙しく働いて心身ともに疲れている私たち現代人にとっては、決して楽ではないと思います。帰宅したら、疲れやストレスを癒すために、ビールでも飲みながら横になり、娯楽番組でも見ながらくつろぎたくなると思います。
 しかし、クンダリニーやシャクティが目覚めたときには、強い自制心や耐久力が要求されますので、そのためにも、こういう地道な毎日の努力を続けることで、自制心と耐久力、忍耐力を鍛えておく必要があるのです。
 覚醒という、いわば人間の最終的なゴールであり、地上人生の卒業という最高の境地をめざしているわけですから、他の人々と同じ生活をして達成できるものではないでしょう。オリンピック選手が人知れず辛い努力を来る日も来る日も続けていくのと同じ姿勢が求められると思います。ただ、オリンピックに出てメダルをもらうには、努力の他に生まれつきの資質や才能、恵まれた練習環境などが必要でしょうが、覚醒は特別に恵まれた資質や才能、また特別に恵まれた環境は必要ないと思います(もちろん、そういう条件がそろっていれば、覚醒も早く成就されるでしょうが)。つまり、オリンピック選手になってメダルを取るよりは、覚醒する方がはるかに簡単だと思うのです。求められるのは、熱意と忍耐、そして常にベストな方法を模索していく向学心、これだけです。
 覚醒するために、こうした肉体的な鍛錬をしない道を歩んでいる人々もいます。たとえば禅などは、日常の作業が肉体的な鍛錬に当たるのかもしれませんが、少なくても上記のようなシステマチックな肉体的な鍛錬はしませんし、キリスト教修道士なども、もっぱら心だけを問題にしているようです。
 しかし、精神と肉体は密接な関係があり、肉体の状態が精神の状態に影響を与えることは確かなのですから、いくら覚醒は心の問題だといっても、肉体的な方面からのアプローチは大切にするべきだと思うのです。
 実際に瞑想をしてみるとわかると思いますが、肉体的な改造を併用しながら瞑想をしますと、意識がクリアになり、雑念に悩まされることも少なくなり、集中力も出てきて、瞑想が非常にやりやすくなります。
 とにかく、覚醒のために有益だと思われることはどんなことも取り入れていき、覚醒に伴う障害を積極的に取り除いていき、覚醒に要する時間をできるだけ短縮していく姿勢が大切だと思うのです。
 人生は、いつ閉じられてしまうかわかりません。つまり、修行できる時間がどれだけ残されているのかわからないのです。それゆえ、無駄を排し、可能な限り合理性と効率を追求し、最短距離で覚醒の道を歩んでいきたいと思うわけです。

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肉体の毒素を排出する方法

 覚醒するために必要な「肉体改造4つのポイント」のうち、肉体の毒素を排出する方法について、ご紹介してみましょう。
 肉体の毒素というのは、具体的にはまず、農薬や大気汚染や薬などによって体内に蓄積された化学物質があげられます。これは、古代にはなかった現代特有の毒素といえるでしょう。この毒素が脳神経系をおかしくさせていることは、おそらく間違いのないことであり、鬱病だとか、すぐに切れる性格なども、この化学物質の影響が少なからずあるのではないかと思うのです。こうした要因が、私たちの覚醒を妨げていることは否めません。
 次に、どんな食物であれ、そこには微量ながら毒素が含まれているのが普通で、それらが長い間に蓄積されたものがあるようです。また、加齢と共に細胞に蓄積される活性酸素なども、ある種の毒物と考えていいでしょう。
 こうした毒素を排出することで、細胞は生き生きとし、若々しくなり、脳神経系統も活性化され、感情は安定し、サットヴァ・グナの爽やかな心境を得やすくなり、瞑想などをしても明晰な意識で集中できるようになってきます。
 そこで、毒素を排出する方法なのですが、まずは、毒素を取り入れないことです。当たり前ですが、これは大切なことで、新たに毒素を取り入れなければ、肉体は自然に毒素を排出するようにできていますから、それだけでかなり効果があるのです。
 そのため、まずはなるべく農薬や化学物質を使わない自然な食品を摂るように心がけることです。肉類は、動物が食べたエサに含まれている毒素が蓄積されている可能性が高いのでお薦めできません。また、殺されるときの動物の苦痛や恐怖や悔しさといったネガティブな想念エネルギーが宿っているという説もあり、その点でもよろしくないようです。さらにまた、肉はサットヴァ・グナのエネルギーを疎外するともいわれます。体質にもよるので、一概に肉はいけないと禁じることはできませんが、少なくても食べ過ぎはよくないと思います。
 玄米は毒素を排出する効果があるようなのでお薦めですが、体質的に合わない人もおり、絶対に玄米を食べなければならない、というほどではないと思います。
 生野菜や果物はお薦めです。生野菜は栄養を摂取するというだけでなく、プラーナも摂取できるからです。
 次に、必要以上に薬を服用するのは慎重になった方がいいでしょう。私は薬を頭から否定はしませんし、必要なら服用することもありますが、しかしなるべく服用しないようにしています。たとえば、風邪薬などは飲みません。風邪などはほうっておいても自然に治りますし、一説によれば、風邪を引いて熱を出すことで、体内の毒素が排出され、しかも生命に適度な負荷が与えられる結果、生命力が強化されるという効能があるようなのです。そのため、定期的に風邪を引くことは悪いことではないらしいのです。ところが、風邪薬で無理に解熱したり症状を抑え込んだりしますと、こうしたせっかくの毒素排出の働きが疎外されてしまうのです。
 タバコや麻薬などは論外ですが、お酒も少量にとどめるべきだと思います。砂糖などが入った甘い菓子類などは、食べ過ぎなければいいと思います。
 それと、予防接種は要注意です。予防接種の成分には水銀など多くの有害物質が入っており、あきらかに肉体に毒素を注入することになります。自閉症や多動症といった発達障害の原因のひとつともいわれています(すなわち、脳神経系統にダメージを与える可能性があるということです。3年ほど前のイギリスで、予防接種が原因で子供が障害児になったとして、親が国と製薬会社を訴え、認められました)。その効果についても、単なるプラシーボ(偽薬)と変わらないという説もあり、疑問視されています。長期的かつ総合的に考えると、予防接種は、たとえばインフルエンザにかかるよりもはるかにリスクが高く有害な可能性があります。私は予防接種はぜったいにしません。

 では、このような毒素を、積極的に排出するには、どうしたらいいでしょうか?
 それにはまず、適度な運動をして血行をよくし、発汗させて新陳代謝を活発にさせることです。そうすることで、毒素はしだいに排出されていきます。
 次に、腸をきれいにすることです。便秘を解消し、繊維質の多い食事をして宿便を出すようにします。血液は腸で作られるという説があります。そのため、腸をきれいにすることで血液がきれいになります。血液がきれいになれば細胞がきれいになり、つまりは毒素が排出されることになるわけです。
 体内の毒素を排出するためにもっとも効果的な方法は、断食をすることです。しかし断食は肉体に大きな負荷を与えますから、必ず専門家の指導のもとで行ってください。
 ミネラル・ウォーターを大量に(一日2リットル以上)飲むと、毒素が排出されるという説もあります。しかし、あまり無理はしない方がいいかもしれません。
 その他、サプリメントのなかには、毒素排出をうたったものもあるようなので、場合によっては有効かもしれませんが、よく調べてから活用した方がいいでしょう。
 ヨーガの「逆立ち」や「肩で立つ体位」など、体を逆さまにする体操をすると、内臓機能が活発となり、毒素が排出されるといわれています。
 また、私も研究しているホメオパシーという代替医療があるのですが、これも体内の毒素を排出させる大きな効果があります。とりわけ、予防接種などによって体内に蓄積された有害物質を排出させるという点では、大きな効果があるようです。ホメオパシーのなかには、チャクラを活性化させるレメディもあります。ホメオパシーについては、今後、機会があればご紹介させていただきたいと思います。私はカレッジ・オブ・ホリスティック・ホメオパシー(CHhom)というホメオパシーの学校で心理学の講師を務めています。
 ホメオパシーについては次のサイトをご覧下さい→http://www.jphma.org/(ホメオパシー医学協会)
 他にも、毒素排出の方法はいろいろあると思います。いろいろと工夫をしながら、体内の毒素を排出する努力を続けていただきたいと思います。
 なお、心が憎しみや悪意などに満ちていると、それが毒素になるといわれています。そのため、心を浄化することが重要になってきますが、それは別の機会で論じることにいたします。
 
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覚醒に必要な肉体の改造

 何をするにしても、肉体が健全でないと、なかなか厳しいでしょう。覚醒に関しても同じことがいえると思います。
 覚醒の修行の中心が「頭」であることは確かですが、実は意識というものは、頭(脳)だけの産物ではありません。肉体の細胞すべてに意識があり、そのすべての細胞の意識の総体が、私たちの意識になっている(正確にいえば魂の意識の鏡になっている)のです。
 したがって、内臓のどこかが悪いと、それが意識にも反映されます。たとえば肝臓が悪いとイライラしてきます。そうなると、瞑想もうまくできませんし、覚醒、すなわち魂の意識がそこに反映されるのを妨げてしまうわけです。
 そのため、覚醒をめざす私たちは、肉体の健康にも最大限の注意を払う必要があるのです。もちろん、オリンピック選手やスポーツ選手のような、マッチョな体格や俊敏な運動神経を持たなければならないというわけではありません。筋力や心肺機能に関していえば、多少の筋トレや有酸素運動を習慣的に行うくらいで十分です。体型は、極端に太っていたり痩せていたりしなければ問題ありませんが、理想的には、少し痩せたくらいの体型がいいようです。
 覚醒するために求められる肉体は、以下の4つの要素です。

-肉体改造4つのポイント-
1.毒素が蓄積されていない。
2.関節(とくに脊椎、肩、股間)や筋肉が柔らかい。
3.神経系統が調和的で耐久力がある。
4.ホルモンの分泌機能が高い。

 なぜこの4つが重要視されるかというと、覚醒とは、すでに述べたように、クンダリニーあるいはシャクティと呼ばれる生命エネルギー(クンダリニーとシャクティについては【カテゴリー→覚醒の理論→いかにして覚醒するか?】を参照してください)を活性化させ、そのエネルギーでチャクラを開かせ、物質次元を超えた知覚能力を得ることにあります。
 ところが、このクンダリニー&シャクティは、単なるエネルギーではなく、心身の不浄物を浄化し、心身の歪みを矯正させる作用を持っています。そのため、このエネルギーがめざめて強力に活性化されると、心身の不浄や歪みを(強引なまでに)取り除こうとします。不浄物や歪みの程度が小さければ問題ないのですが、大量の不浄物や歪みがあると、急激にそれらを取り除くように作用するため、心身に大きな苦痛を伴うことになり、場合によってはダメージを与えるともいわれています。
 そのために、クンダリニー&シャクティが活性化しても問題がないように、心身を浄化させ、関節や筋肉を柔らかくし、神経を調和的で耐久力のあるものにしていく必要があるのです。
 また、関節や筋肉を柔らかくすることは、瞑想するために長時間座っても平気なように、足腰を柔軟にさせるという意味もあります。
 さらに、チャクラはホルモン分泌系とも関連があるとされるので、ホルモン分泌系の機能を高めることで、チャクラを開くために有効となりますし、そもそも修行をするためにはバイタリティが必要となってきますので、その意味でも、(バイタリティをもたらす)ホルモン分泌系を強化させることが大切になってくるわけです。
 ヨーガのいわゆる体操(アーサナ)やその他の戒律なども、以上の4つの要素を目的として用意されているといってもいいと思います。
 肉体改造4つのポイントについての具体的な方法は、順次、ご紹介していきたいと思います。



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 API行法-こうすれば覚醒に到る時間を3分の1に短縮できる?

 これまで述べてきたように、覚醒するには、神(自在神)の導きがぜひとも必要だと思うのです。そこが現代人には欠如しているために、なかなか覚醒に到らない大きな原因だと思うわけです。神に対する真の信仰心を持ち、熱意を持って真剣に修行に取り組んでいけば、神は必ず導いてくれるものと思います。
 ところで、その導き方は、大きくわけて二つあるようです。
 ひとつは、直感や閃きを通してです。「こうすると修行が進む」といったアイデアが湧いてきたりするわけです。瞑想中に湧いてくることもありますし、普通の活動をしているときふっと湧いてくるときもあります。そういうときは、忘れないようにすぐにメモをするといいでしょう。
 もうひとつは、運命的な現象を通してです。たとえば、瞑想のやり方について知りたいと思っていたりすると、ずばりそれについて書かれてある本を偶然に入手できたり、人から教えてもらったりすることがあるのです。
 あるいは、すでに述べたように、表面的には「不運」な出来事を通して導きが与えられることもあるようです。それは心情的には辛い経験になるかもしれませんが、結果的にはすばらしい教訓を得ることができるのです。少なくても、過去のカルマの浄化という意味があります。神が修行を促進させるうえで邪魔になっていたカルマを浄化させようとしたのかもしれません。
 したがって、まじめに生活をし、まじめに修行を続けていれば、人生に本当の意味で「不幸」や「よくないこと」は、決して起こらないと断言してもいいのかもしれません。悪いと感じることが起きたとしても、それは過去に犯したカルマが消えていくのであり、その意味ではいいことなわけです。カルマが浄化されるほど、修行が非常に進んでいきます。私たちに求められるのは、ただ忍耐だけです。

 このような導きを得るために大切なのは、熱意なのですが、具体的にいえば、寝ても覚めても「どうすれば覚醒することができるのか?」と、問い続けることです。そして「神様、どうか覚醒へ導いてください」と祈るのです。
 この、問いかけと祈りを、支障がない限りにおいて、仕事をしているときもそれ以外の生活をしているときも、ずっと行うのです。常に「覚醒するにはどうすればいいのか?」と問いかけ、「神様、どうか導いてください」と祈るのです。
 さらに、「私は光(エネルギー)であり、神である」と念じながら、アジナー・チャクラが光り輝いているイメージを浮かべてください(これについては今後に詳しく紹介します)。まとめると、次の3つになります。便宜的に、この3点セットをAPI(Ask=問いかけ Pray=祈る Image=イメージ)行法と呼ぶことにしましょう。

-API行法-
1.「どうすれば覚醒できるのか?」と問いかける(考える)。
2.「覚醒に導いてください」と神に祈る。
3.「私は光であり神である」と念じながら、アジナー・チャクラが光り輝いている様子をイメージする。

 修行や仕事など、どうしてもある特定の事柄に集中しなければならないとき以外は、なるべくこのAPI行法を行い、意識を満たすようにしてください。
 これが、覚醒をするために非常に大切なことなのです。一日のうち、1時間や2時間、瞑想の修行はするものの、その他の時間は雑多な事柄で意識が占められているというのでは、覚醒は難しいのです。ところが、けっこう多くの人がそんな状態なのです。それが、覚醒を難しくさせている大きな原因のひとつであると思うわけです。

 API行法がなぜ覚醒にとって有効かといえば、まず、意識を内面に向けることになるからです。その結果、自分がどのような考えや感情を抱き、それによってどう行動しているのかを把握することができます。いわゆる自己観察ができるようになるのです。そのために、自我が勝手に暴走するといった衝動傾向をコントロールする力が芽生えてきます。これは、幻想やカルマに流されない意識の確立を意味しています。
 次に、内面に意識を向け、さらに神に意識を向けることによって、神からの啓示を受信しやすくなり、導きを受けられるようになるからです。
 そして、自分の本質は神の光であるという意識を持つことで、文字通り、私たちの本質(神)を目覚めさせる刺激になるからです。
 常に、上記の3つのいずれかで意識を占めるようにしてください。ただし、バランスよく、なるべく同じくらいの割合になるようにしてください。
 私たちの思考を観察していますと、ほとんど、どうでもいいような、意味も価値もないゴミのようなことばかり考えていたりします。なかには嫉妬や妬みなど、有害な思考や感情も野放しにされていたりします。こんなことを考えている時間を足し合わせたら、おそらく一日のうち何時間もくだらない、あるいは有害なことを考えていることになるのではないでしょうか。
 しかし、もしその時間をすべて有意義な意識、すなわちAPI行法に費やしたら、それこそ毎日何時間も瞑想の修行をしているのと、同じだといえるのです。
 現代に生きる私たちは、現実には、一日に何時間も座って瞑想に費やすことは難しいと思います。しかし、上記の方法を真剣にやれば、実質的に、毎日何時間も瞑想していることになるわけです。
 そうして、理想的には、24時間、API行法で意識を占めるようにするのです。熱意があれば、忍耐強く、この理想に近づいていくことは可能です。
 これを行えば、覚醒するために30年を必要とする人は10年に、10年を必要とする人は3年くらいに短縮できるのではないかと、私は思っているのです。
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偶像崇拝は覚醒を妨げる

 このところ、神に関することを連続して書いていますので、初めてこのブログを読まれた方は、キリスト教か何かの宗教のブログではないかと思われたかもしれません。
 もちろんこのブログは、特定の信仰や価値観を主張するものではなく、あくまでも覚醒を目的とするものであり、手段と目的を混同することのないようにしています。
 宗教と、それに伴う教義などは、もともとは人間を救うために生み出されたものだと思うのですが、今日では逆に、人間よりも「宗教」や「教義」の方が大切になっているのです。しかし、それが本当に神の望むことだとは思いません。おそらく、神にとって宗教など、どうだっていいのです。人間を救うことが唯一の目的であるはずです。まして、宗教のために人間が殺し合うことを、神が喜んでいるはずがありません。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などは、偶像崇拝を禁じています。確かに、それは正しいと思います。偶像崇拝はするべきではありません。なぜなら、偶像は本当の神ではないからです。
 しかし、偶像というのは、何も石や木で作られた神の象ばかりではありません。心のなかで作られた偶像というものもあります。偶像崇拝はダメだといって、仏像などを否定したり破壊するような教団があるようですが、彼らは心の中に作り出したイメージという偶像を崇拝しているのです。
 もしも本当に偶像崇拝をしていない宗教家であれば、教会のイエスやマリア像に頭を下げ、仏像やお地蔵さんに頭を下げるはずです。なぜなら、神はどこにでも存在しているからです。仏像のなかにも神はいるのです。心の中にも外にも、空にも、山にも、虫にも、寺院にも、トイレにも、どこにでもです。自分の宗教のなかだけに、自分の教会のなかだけに神はいて、その他の場所には神はいないとすることは、それ自体、神を限定したイメージに取り囲んだ証拠であり、まさしくそれは偶像を崇拝しているのです。
 神は遍在し、すべてが神であり、神のいない場所はありません。もし神がいない場所があれば、それは神とはいえないでしょう。したがって、仏像を前にして「偶像崇拝はしない」などといってそっぽを向いていたら、それは神にそっぽを向いたことになるのです。すべてが神だという認識こそが、本当の意味で偶像崇拝をしていない人だと思うのです。
 ですから、仏像やお地蔵さんがあれば、素直に拝めばいいわけですし、教会へ行ったら「アーメン」と唱え、神社へ行ったら祝詞(のりと)をあげ、日蓮宗のお寺へ行ったら「南無妙法蓮華経」と唱え、浄土宗のお寺に行ったら「南無阿弥陀仏」と唱えればいいのです。そういう人は神仏に不敬な本当の宗教心を持たない人だと怒られるかもしれませんが、まったく逆です。こういう姿勢こそが、偶像ではなく、本当に神仏に敬意を払っている本当の信仰者ではないでしょうか。
 いかなる形であれ、偶像崇拝は幻想であり、覚醒を妨げるものです。覚醒をめざす私たちは、以上のような信仰心を持つべきだと思うのです。

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神は人間をどう愛するのか?

 私たち人間は神をどう愛するかについて述べたところで、今度は、神の方は人間をどう愛するのかについて、考えてみたいと思います。
 それを説明するために、インドの哲学(ヨーガのサーンキャ哲学)で説かれている、世界創世論を簡単にご紹介いたします。つまり、世界と人間はどのように生まれたのか、ということです。
 それによると、神は絶対的な存在として、ひとり至福の境地に浸っていました。形もなにもない、純粋な意識そのものでした。ところがあるとき、「自性(じしょう)」という、ある種の物質的な存在に遭遇しました。その結果、神はこの自性と混じり合って一体となります。ただし、両者の間には根本的な質の違いがあるので、完全に一体になったわけではありません。たとえるなら、スポンジが水を含むような感じで一体になったのです。
 自性と一体になった神は、意識が多数に分裂してしまい、物質こそが自分であるという錯覚を起こすようになってしまいました。自性はその性質上、不安定で移ろいやすく、無常です(前に述べた3つのグナとは、実は自性が持つエネルギーのことなのです)。そして自性は有限です。そのため神は、広大無限の広がりを持った存在から、いきなり狭い牢獄に幽閉されたような不自由さと無知蒙昧さに陥ることになりました。
 そうして、神の苦悩(人間の苦悩)が始まったというのです。

 ところで、なぜ神が自性という存在と出会い、ひとつになったのか、なぜそんなことにならなければならなかったのかという理由ですが、一説によると、さまざまなことを経験し、「自分とは何か?」という認識を得るためではないかといわれています。
 ちょうど、鏡がなければ自分はどんな姿をしているのかわからないように、神は自性という鏡を通して、自分の本当の姿を知ろうとしたらしいのです。
 前回述べたように、神の本当の姿とは、愛、正義、美、平和、思いやり、誠実さ、謙虚さ、高潔さといった美徳です。そして、他者に依存せず単独で至福を得ている存在です。それを知ることが、自性と一体になった理由、すなわち、この世界が創造された理由だというのです。
 換言すれば、神のエネルギーのひとつである私たち人間がこの地上に生まれてきた目的も、まさにこれなのです。「自己認識の旅」。これが地上に生まれた目的です。自己認識とは、要するに覚醒ということです。私たち人間の本質は神なのだと認識することです。

 このような考察からいえることは、「神」と「人間」は、別々に存在するわけではないということです。すべては神なのです。そのため、神には愛する「他者」は存在しません。神の愛は、究極的には「自己愛」なのです。神は自分だけを愛しているのです。
「自己愛」というと、少し聞こえが悪いのですが、もちろん人間レベルでいう、いわゆる「ナルシシズム」とは違います。
 愛というものは、基本的には自他の関係性を土台にした概念であり、ひとりでは関係性が存在しないため、愛も存在しないのですが、一方で愛とは、両者がひとつになることでもあります。つまり、愛というものは、矛盾を内在したものなのです。
 そのため、神の愛も同じで、神はひとつなのだから愛は存在しないのですが、ひとつという点で、まさに神は愛そのものといえるわけです。
 神の愛は、このように「自己愛」ですから、人間も本質的には「自己愛」であり、自分だけを愛すればいいのです。つまり、他者を愛することは自分を愛することになるのです。他者を自分のことのように愛するということです。

 ところが、自性という物質性に幽閉されている私たちは、神以外に「自分」がいるのだと錯覚しています。そう錯覚しているのは、本当の自分ではない偽我なのですが、これを本当の自分であると思いこんでいるわけです。そうして、苦しみ悩み、本当の自分ではなく、幻想にすぎない偽我を喜ばせようと、必死にもがいているわけです。
 しかし、神が本当に愛しているのは、実体のない幻想としての偽我ではなく、本当の自分(魂)ですから、自分(人間)を苦しめている偽我などは、むしろ排除すべきものとなります。いうまでもなく、そんな偽我を作り出したのは、自性です。
 したがって、自性という物質性にからまれた神は、自性から離脱し、(自己認識を得たうえで)もとの単独の状態に戻ろうという、根源的な欲求を抱き続けているのです。それが私たちには、覚醒や解脱への欲求として現れているのです。
 そして、その欲求そのものが、「神の愛」であり、その欲求を人間にかなえてもらいたいという働きかけが、神の人間(自分)への愛ということになるのです。

 したがって、神の愛は、人間(自分)を苦しめている偽我を消滅させるということになります。偽我にとらわれている限り、本当の自分を認識することはできないからです。
 しかし、偽我を自分だと錯覚している私たちにとって、いわゆる「幸福」とは、この偽我を喜ばせることですから、その視点でいえば、神の愛は、基本的には私たちの「幸福」を破壊するように働くのです。
 ただし、人間が耐えられる限りにおいて、ある程度の手加減をしながら、徐々に破壊していくようですが(強い魂を持った人は早く本当の幸せをつかんでもらいたいためか、いっきに破壊することもあるようですが)、いずれにしろ、神という存在は、その愛ゆえに、私たちの「幸福」を壊そうとするのです。
 これが、神という存在なのです。神社仏閣に行き、偽我が喜ぶようなお願い事を叶えてくれるのが、神の姿ではありません。

 そのため、神は、人間を目先の幸福ではなく、最終的なゴールを見据えた遠大な視野から真の幸福へと導こうとします。対症療法ではなく根本的な治癒をめざしているわけです。神に救いを祈ったら、逆に「不幸」なことが起こるようになった、ということが少なくありません。しかし、それこそが、本当に神の救いが働いた証なのです。
 本当の愛情を持った親であれば、「学校なんて辛いから行きたくない」と子供にお願いされたら、「いいわよ。学校など行かないですむようにしてあげます」などと答えないでしょうし、本当の医者なら、「酒が飲みたい」という患者に対して、酒を与えることはしないでしょう。それどころか、もっと宿題を与えたり、あるいは苦い薬を与えたりするかもしれません。
 これが、神の愛し方です。偽我を自分と錯覚している私たちにとって、それは「自分」を否定し抹殺することを意味しますから、ときには非常に辛く耐え難いものに感じられます。神の愛は甘くありません。
 もっとも、究極的には神とひとつである私たちは、自分自身がそういう愛を望んでいるともいえるのです。その証拠に、もし人生がすべて「幸せ」だけだったら、おそらく魂は非常な空虚感に襲われるでしょう。逆に、どんなに辛くても、苦しみを敢然と乗り越えたならば、魂は誇りと喜びに輝いてくるはずです。
 神のこうした深い愛、いわば「親心」は、私たちが覚醒し、偽我ではなく本当の自分である魂に目覚めたときに得られる比類なき最高の至福と歓喜を経験して、初めて理解できるのかもしれません。覚醒した人の体験によれば、これまでのあらゆる苦しみを補ってもなお、余りすぎるくらいの恩恵であるといいます。

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どのように神を愛すればいいのか?

 覚醒するには、神を熱烈に愛することが大切だといっても、目には見えないし、どんな存在なのかさえよくわからない相手を、どうすれば熱烈に愛することなどできるでしょうか?
 たとえば、恋人であれば、相手の容姿だとか性格だとか、フィーリングのようなものから好きになっていきます。ところが、神を愛するということは、いってみれば、お見合いで相手と会う前に、結婚相手として熱烈に愛しなさいといっているようなもので、それは不可能ではないでしょうか。
 あるいは、もし仮に、神を熱烈に愛しているという人がいたとしても、それは自分が勝手に都合よく想像した「神」を愛しているだけかもしれません。だとすると、それは単なる思いこみや誤解であり、妄想でしかないわけです。本当に神を愛しているとはいえません(相手が人間でも同じようなことはままあるのですが……)。
 そうではなく、覚醒のためには、本当に、ありのままの神を愛することが求められるのです。
 しかし、そんなことは、可能なのでしょうか?
 知りもしない相手を熱烈に愛することなど、できるのでしょうか?

 覚醒を成就した聖人などは、比較的若い頃から、とくに理由もなく神を愛する気持ちを強く持っていることが多いようです。彼らは、なぜ熱烈に愛するようになったのでしょうか?
 いろいろ理由はあると思いますが、愛、正義、美、平和、思いやり、誠実さ、謙虚さ、高潔さといった、いわゆる美徳を愛する人は、自然に神を愛するようになると思うのです。美徳を愛する心は、魂の自然な素質だと思うからです。
 神とは、そうした美徳の根源であり、美徳そのものの存在です(そうでなければ神とはいえないでしょう)。
 ならば、必然的に、人は神を愛するようになるのではないでしょうか。

 私たちの魂は、神という光のエネルギーの枝分かれしたものと考えられていますので、私たち(の魂)の本質は、神なのです。
 ということは、「神を熱烈に愛する」ということは、実は「自分を熱烈に愛する」ことと、同義語ではないでしょうか。世の中に、自分を愛さない人はいないでしょう。
 もちろん、ここでいう「自分」とは、エゴ(偽我)ではなく、本当の自分、すなわち、美徳を本性とする魂を意味していますが、これが自分の本質であり、同時に神の本質であるならば、自分を愛する人は必然的に神を愛すると思うのです。逆にいえば、神を愛していない人は、真の意味で自分を愛していないと思うのです。もちろん、人も愛してはいないでしょう。
 こう見てきますと、神を愛すること、美徳を愛すること、自分(魂)を愛すること、これらは同じことですし、また、同じでなければおかしいと思うのです。覚醒をめざす人が、美徳を愛さないということがあり得るでしょうか? 覚醒とは、換言すれば、魂の美徳を覚醒させるということです。美徳を愛さない人が覚醒をしたいというのであれば、それは何か誤解しているとしか思えません。愛を、正義を、美を、平和を、思いやりを、誠実さや謙虚さを、高潔さを愛さない覚者など、いるでしょうか?

 自戒を込めていわせていただくと、神を熱烈に愛することができないのは、こうした美徳を愛する気持ちが欠如しているからではないかと思うのです。
 もし、美徳が欠けているのに、「私は神を愛しています」という人がいたら、その人は本当に神を愛しているとはいえないと思うのです。もし本当に神を愛しているなら、美徳を愛するでしょうし、美徳を愛するのであれば、その美徳とひとつになりたい、すなわち、美徳を持った人間になるべく努力をするはずです。
 神を愛するとは、美徳を持った人間に成長していくことだと思います。なぜなら、人間が美徳を養い、魂を覚醒させて本当の幸福をつかんでもらうことが、神の望みであり喜びであると思うからです。愛する人を喜ばせたいという心こそが、愛の本質のはずです。したがって、美徳を養うことが、神を愛することであり、それこそが「神よ、あなたを愛しています」という愛の表明だと思うのです。

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神への愛と覚醒

 神への愛
 ヨーガの教典を見ますと、覚醒するには「自在神への祈念」が欠かせないとあります。「自在神」とは、究極的で法則的な神というより、もう少し人間的なレベルの神のことを指しているようです。いわゆる「守護神」が、ニュアンスとしては近いかもしれません。
 宇宙の法則としての神は、私たちの魂を覚醒させる、ある種の物理的な流れや法則を司っており、極論をいえば、個々の人間が苦しもうと悩もうと意に介さず、厳格に法則を実行していきます。それに比べると、自在神は、人間の苦悩をよく理解したうえで、慈悲の気持ちを抱き、覚醒(苦しみからの解脱)を助けてあげようという志を持っているようで、いわば霊的なグルとされています。人間のグルがいない場合(たとえいる場合でも)、ヨーガ行者は自在神に導きを祈りながら修行を続けていくのです。すると、霊感を与えてくれたり、運命的に導いてくれるとされています。

 実際、覚醒という、未知で危険なジャングルを歩んでいくには、導き手が必要だと思います。しかし、人間のグルに出会うことが現実に難しい状況である私たちの大半は、この自在神を頼りにするしかありません。
 要するに、神への信仰心を持つということになるわけです。
 日本は、宗教や信仰というものに、ある種のアレルギーを持っている人が少なくないようです。その原因は、狂信的で宗教とはいえないようなものが宗教の名を借りてひどいことをしていたり、なにか迷信的なものというイメージがあるからでしょう。
 しかし、ここでそういう既成概念はすべて取り払い、まっさらな気持ちで神についての考えを新たに構築していくことが大切であると思います。神、あるいは仏といったことに対する、あれこれと論じられてきた神学的な知識は必要ないし、むしろ邪魔になるかもしれません。もっとシンプルに、ちょうど子供が親を慕い、助けを求めるような素朴な気持ちで、神に対峙することが大切ではないかと思うのです。

 これは私の個人的な意見ですが、私たちが覚醒することがこんなにも難しいのは、神に対する正しい、また情熱的な信仰が希薄であるからだと思うのです。つまり、神は、覚醒というものをめざすときの、単なる手段や付属品程度の認識しか持っていないことが原因なのです。「なになに? 覚醒するには神に祈る必要があるのか。それではそうしよう……」といった感じです。神を覚醒のための道具に利用しているだけなのです。哲学者マルティン・ブーバーの言葉を借りれば、「我とそれ」の関係(打算の関係)ということになります。
 しかし、これでは覚醒は難しいと思います。「我とそれ」の関係ではなく、「我と汝」の関係(真実の愛の関係)でなければ、神は私たちを助けてあげたいと思っても、助けてあげることはできないように思うのです。

 たとえ、ヨーガに伝わるような、瞑想法や呼吸法、チャクラやクンダリニーを活性化させる特殊な修行などしなくても、熱烈な神への信仰さえあれば、チャクラもクンダリニーも活性化させ覚醒できるといわれていますし、実際、西洋の聖者や神秘家たちの大半は、これで覚醒したのです(実はヨーガの一派でバクティ・ヨーガというのがあるのですが、これはまさにこうした信仰で覚醒に到ろうとするものです)。
 恋をすれば、24時間、恋人のことを思い、恋人への熱情で体が熱くなるほど思いを寄せると思いますが(たぶん……)、これと同じ、あるいはこれ以上の熱情を神に向けることが必要なのです。恋人のためなら命を捨てても惜しくはない、という熱烈な愛を神に向けるわけです。
 そして、本気で恋をしたら、恋人のことを完全に信じるでしょう。それが本当の恋(愛)であるならば、たとえそれで恋人から騙されたとしても、それでもいいと思えるはずです(たぶん……)。
 浄土真宗の親鸞は、その師匠である法然に対して熱い思慕の念を向けていました。「法然様の教え通り、南無阿弥陀仏を唱えれば必ず救われる。しかし、もしそれで地獄に落ちるようなことがあったとしても、それでもかまわない!」
 親鸞はそこまで法然を慕っていました。これと同じ情熱が、覚醒するためには必要だと思うのです。過去も現在も(現在はとくに)、妙にクールで打算的な、頭でっかちだけの人ばかりだから、瞑想だの呼吸法といったテクニックだけにこだわり、もっと肝心な土台の部分が軟弱となっているために、覚醒が難しくなっているのだと思うのです。
 覚醒が難しいのは、修行が難しいのではなく(それも確かに難しいのですが)、むしろ神への愛が欠如していること、これが本当の原因ではないかと思うのです。

 神をこのように愛し、神に救いを求めるならば、神は絶対に自分を救ってくれると信じられるでしょうし、神のそんな働きに報いるためにも、自らも一所懸命に努力をするでしょう。人に何かを頼んでおいて、自分では何も努力せず、相手に苦労かけているような人は、本当に相手を愛しているとはいえないでしょう。
 人間は不完全だから、たとえ自分は相手を愛しても、相手が自分を愛してくれるとは限りません。しかし、神は自分の好みで人間をひいきしたりしないはずです。自分を愛する者に対して、神は愛を持って報いてくれるはずです。しかも、何倍も大きく強い愛で返してくれると思います。
 したがって、本気で神を愛する者は、「私は神に助けを祈ったが、本当に助けてくれるのだろうか?」などという疑惑や不安は決して湧いてこないと思うのです。そのような疑惑や不安があるのは、まだ神への愛が十分ではないことからくるように思います。

 そして、そのように本当に神を愛し、神は自分を必ず救ってくれる(覚醒に導いてくれる)と確信できたならば、人生で起こるどのような辛いことや不運でも、「ああ、こういうことが私に起こったのは、これによって私を救おうとなさってくださっているのだ。ありがとうございます!」と、感謝の気持ちで受け入れることができるようになると思うのです。「なにが起こっても、すべてそれはいいことなのだ」という確信、そして、そんな確信から生まれる明るさ、落ち着き、楽天さが生まれてくるのはないでしょうか。
 そのような境地こそが、心にサットヴァ・グナのエネルギーを満たしてくれるのだと思うのです。


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修行を成功させる重要なポイント

 覚醒に到るには、なるべくいい条件のもとで生活や修行をしていく必要があるでしょう。悪い条件のもとで生活や修行をしても、その努力は実りにくいと思います。
 では、どのような生活や修行が、覚醒するためにふさわしいのでしょうか?
 それは、ひとことで説明できるものではなく、多くの言葉を費やしてこれから展開していく課題ではあるのですが、まずはおおまかな基準のようなものをご紹介したいと思います。
 それは、インド哲学でいわれる「3つのグナ」です。
 グナというのは、森羅万象を支配しているダイナミックなエネルギーのことです。この世界が常に変化しているのも、これら3つのグナが互いに影響し合っているからだというのが、インド哲学(正確にいえばヨーガの思想母胎であるサーンキャ哲学)の思想です。
 その3つのグナは、次のように個性(徳)を持っています。

 ・タマス・グナ=粗野で鈍重で物事を暗くさせ、覆う働きをする。
 ・ラジャス・グナ=活動的で落ち着きなく、物事を活発にさせる働きをする。
 ・サットヴァ・グナ=繊細で軽快で物事を明るくさせ、照らし出す働きをする。

 実は、覚醒の修行を成功させるには、サットヴァ・グナの特性のもとで行うことが大切だといわれているのです。すなわち、繊細で軽快で明るく、爽やかで神聖な気持ちを持ち、また、そういう気持ちにさせる場所や食事や生活をすることです。たとえばサットヴァ・グナが優位を占めている気持ちで瞑想を行うとき、その効果が最大限に発揮されるのです。
 ところが、ラジャス・グナのエネルギーで支配されていますと、瞑想をしてもそわそわと集中できず、雑念ばかりでうまくできません。タマス・グナが支配していると、陰鬱でぼんやりし、眠ったようになり、いくら瞑想してもなかなか進歩しません。
 したがって、修行するときはもちろん、日常生活のすべてにわたって、可能な限りサットヴァ・グナのエネルギーで満たされる必要があるのです。
 このように、覚醒の修行を成功させるにはサットヴァ・グナの状態を作り出すことポイントになってきます。たとえものすごく真面目に修行に打ち込んだとしても、眉間に皺を寄せながら陰鬱な気持ちでやっていては、修行の効果はあまり期待できないようです。常にサットヴァ・グナで満たされながら修行をするとき、短期間で非常に高い効果が期待できるのです。
 もちろん、人間ですから、常にサットヴァ・グナに気持ちが支配されているということは難しいでしょうし、もともと3つのグナは変転し入れ替わっているのが普通ですので、多少の気持ちの変動は、むしろあった方が健全だといえると思います。ただ、それでもなるべくタマスやラジャスの割合は減らし、サットヴァの割合を増やしていく努力はしていかなければなりません。明るく、とらわれなく、繊細で、爽やかで、楽天的な気持ち、これが修行には大切なのです。
 では、どうすれば、このような気持ちになれるのでしょうか?
 それも、これからいろいろと考えていきたいと思っています。たとえば肉体的に健康でなければ、なかなかこういう気持ちにはなれないでしょう。したがって、肉体を健康にするというアプローチも欠かせません。不安や悩みを抱えていても、こういう気持ちにはなりにくいでしょう。
 しかしながら、人間は完璧に健康な人はいないし、不安や悩みがまったくない人もいないと思います。したがって、そういうネガティブな要素をなくしていく努力は必要である一方、そういうものを受け入れていく努力も必要になってくると思うのです。
 そして、そういうネガティブな要素を受け入れられるようになるには、やはりある種の信仰心が必要になってくるのではないかと思うのです。
 これについては、次回で取り上げたいと思います。


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