心の治癒と魂の覚醒

        

呼吸法について

 ヨーガの修行は、大きく分けて3つのパートからなります。アーサナ(体位法)、呼吸法、瞑想法です。なぜ呼吸法が、覚醒(解脱)にとって必要なのか、そもそも呼吸法とは何なのかについて、これから説明をしていきたいと思っています。
 ヨーガにおいて呼吸法が重要なものと見なされている理由は、ひとつには、呼吸によって心をコントロールするためです。
 私たちは、呼吸の状態と心の状態とが、密接に関係していることを、経験的に知っています。怒ったり興奮していれば、呼吸は速く荒くなりますし、リラックスしていれば、ゆっくりと深くなります。悲しいときは吸う息に力が入り、楽しんだり笑っているときは、吐く息に力が入っています。
 しかし、逆もまたいえるのであり、呼吸の仕方を意識的にコントロールすることによって、心の状態を変える(心をコントロールする)こともできるわけです。たとえば、怒っているときは、ゆっくりと深い呼吸を意識的に行うのです。そうすると、多少なりとも怒りの興奮がおさまってくるのを感じるはずです。
 ヨーガでは、こうして呼吸をコントロールすることで、心をコントロールし、業想念の影響から離れようとするわけです。

 ところで、呼吸をコントロールするといっても、実際には「空気」をコントロールしているのではありません。プラーナ、あるいは「気」と呼ばれる生命エネルギーをコントロールしているのです。このことは、私たちの心は「空気」ではなく、プラーナでコントロールされていることを示しているともいえます。心だけでなく、肉体もプラーナによって活力が与えられているのです。
 プラーナは生命の力であり、太陽や食物などからも得られますが、一番は空気から得られます。空気中にプラーナのエネルギーがあるのです。
 ヨーガの呼吸法の目的は、空気中からプラーナを体内に吸収し、なおかつそれを意思の支配下においてコントロールすることです。そのために、ヨーガでは独特のやり方で呼吸法を行います。具体的な方法は、今後、少しずつご紹介していくつもりですが、その前に習熟しておくべきことがあります。

 それは、常に呼吸を意識するということです。
 呼吸は、無意識に自動的に行われているので、自分がどのような呼吸をしているかは、あまり意識することはないと思います。
 私たちの呼吸は、たいてい、浅くて不規則で早い呼吸をしています。しかし、こういう呼吸は、心身にとっては好ましくないのです。心身を健康に保ち、覚醒をめざすには、なるべく深くて規則的でゆっくりとした呼吸をする必要があるのです。
 呼吸法の実習のときだけ正しい呼吸をするが、それ以外の時間はでたらめな呼吸をするというのでは、まずいわけです。
 そこで、呼吸法を実習するにあたり、この理想的な呼吸を、普通の生活をしているときでもずっと行うように、習慣づけることが非常に大切なのです。この習慣づけの志が欠けた状態で、呼吸法の実習だけをしても、あまり効果は期待できません。

 私たちは、呼吸などいちいち意識していません。しかし、意識しなければ、正しい呼吸を習慣づけることはできません。もちろん、24時間意識することは不可能でしょう。仕事だとか、クルマの運転など、大切なことをしているときに呼吸を意識することは無理ですし、するべきではないでしょう。
 しかし、それほど重要なことをしているのではないときには、可能な限り、呼吸を意識し、深く、規則正しく、ゆっくりと行うように、努力して習慣づけていくことが大切なのです。そしてついには、意識しなくても、自動的に理想的な呼吸をしているようになるべきです。ただし、それには根気と時間が必要です。
 呼吸法の具体的な実習に入る前に、まずはここから始めてください。アジナーチャクラ瞑想法とセットにして行うといいでしょう。通勤途中で歩きながらでも、電車のなかでも、仕事の休憩時間でも、家でくつろいでいるときでも、できるときは常に、アジナー・チャクラと一緒に自分の呼吸を意識し、深く、規則正しく、ゆっくりと呼吸をするようにしてください。
 それにより、今までよりも大量のプラーナが体内に入り込むようになり、また健全に体内を循環するようになります。すると、個人差は多少ありますが、心身が健康になったり、バイタリティが出てきたり、精神的に落ち着きが出てくるなど、しばしば非常に驚くような効果が現れてきます。


スポンサーサイト
修行法 | コメント:0 | トラックバック:0 |

カルマの消滅と不動の心境

 読者の方から、「神に全託の祈りを捧げたら、さっそく苦難が訪れた」というコメントをいただきましたが、実際、こういうことはよくあるのだと思います。業想念やカルマを浄化させられるわけですね。浄化のために訪れたのですから、時間がたてばエネルギーを放電しつくして、必ずいつかは消えるのです。消えたあとは、すばらしいことが開花する可能性が高まるのです。それが道理なのです。
 しかし、その道理を知らなければ、こうした苦難は、不幸や不運、苦しみ以外のなにものでもなくなってしまうでしょう。
 人間というものは、自分を変えようとせず、人や環境や運命といった外の世界を変えたがります。だから、「念ずれば現実化する」といった成功哲学や、「願望が達成されたイメージを浮かべれば叶います」といった、ニューエイジの本に人気が集まるのでしょう。

 確かに、想念には現実を創造する力があるでしょう。しかし、覚醒していない限り、そうした想念は自我(エゴ)から発せられるわけですから、そうした念力が、果たして幸せに導いてくれるかというと、おおいに疑問に思うのです。
 やはり、自分はどうすれば幸せになれるのかを、一番よく知っているのは、高い次元から地上の人生を見ることのできる存在、つまり、守護霊や守護神、神様ではないでしょうか。
 ですから、神様の導きに素直にしたがっているのが、幸せになるためには、一番早くて確実ではないかと思うのです。そして、そういう導きが与えられる心境というのは、これまで述べてきたように、「神様にすべてをお任せします」という祈りであり、なにが起こっても「これでいいのだ」と受け入れて「神様、ありがとうございます」と感謝する気持ちではないかと思うのです。
 そう祈ると神様は、「よし。そういう心境であれば、今までは仕方なく小出しにカルマの浄化をさせていたが、もっと早く成長させ早く幸せにさせるために、もう少しカルマの浄化を増やしても大丈夫だろう。結果的には、早い方が苦しまずにすむのだから」といって、苦労が与えられるのではないかと思うわけです。

 いずれにしろ、そうして、外界を変えようとするのではなく、内なる世界、つまり自分を変えていくことが、幸せになる本当の道ではないかと思います。
 外界は、どんなに変えようと努力しても、限界があります。どんなにお金持ちになっても、からだや心は病んだりしますし、老いは避けられず、やがて死を迎えます。愛する人と突然に死別する苦しみに見舞われるかもしれませんし、一夜にして破産してしまうことだってあるわけです。
 外界は本質的に、無常かつ無情なのです。ですから、幸せになるためには外界を変えなければならないと、必死に眼を外にばかり向けている人は、いつか苦い挫折と失望を味わうことになるでしょう。

 しかし、神とつながっている人は、外界に生じる出来事には「覚醒」という意味があり、それゆえしばらく耐えていれば、必ずカルマは消滅して光明が訪れるということがわかっています。それゆえ、目先や小手先のいやしい手段に訴えることなく、人間として正しい生き方を貫きながら、辛い出来事にもじっと耐えていける信念や勇気を持つことができるようになるのです。
 人間は、たとえどんなに辛くても、苦しみはいつか必ず終わるとわかっていると、なんとか耐えていけるものです。ところが、この苦しみは終わらないのだと思うと、気持ちが萎えて、とても耐えてはいけません。つい不正な手段に訴えたり、やけになったりして、ますます深みに落ち込んでしまいます。実際、人間は苦しい状況に追い込まれると、まともな判断力をなくし、この苦しみはいつまでも続くのだという、不合理な考え方に取り憑かれてしまう傾向があります。そうして悲観的になり、絶望して、はい上がれなくなってしまうのです。

 もちろん、なかには、一生耐えていかなければならない(一生カルマの清算をしていかなければならない)苦しみもあるでしょう。たとえば、治療不能なほど心身の障害を背負ったような場合です。これほど重くはないにしても、人間はだれでも、一生かけて清算していかなければならない苦しみは持っていると思います。
 ただ、大部分は、カルマの清算をし、自分で自分の可能性を否定さえしなければ、必ず道は開けるものなのです。換言すれば、心配事の99パーセントは、現実には起こらないということです。心配しただけ損に終わるということです。私たちの多くは、苦しみそのものよりも、苦しみが訪れるかもしれない、苦しみはずっと続くかもしれないという不安や恐怖の思いによって、自らをつぶしてしまっているのです。

 ですから、覚醒をめざす私たちは、以上述べたような希望や確信を胸に秘めながら、どんなことが起こっても、どんな状況に追い込まれても、「これは一時的なものにすぎない。そのうち消えていくものである」と思い、平然としていられる不動の心境を養っていくべきだと思うのです。こうした心境こそが、いち早くカルマを消滅させ、もっとも早く幸福へと導いてくれる「最高の財産」だと思うのです。

心の浄化 | コメント:0 | トラックバック:0 |

『ヒマラヤ聖者の生活探求』(全5巻)

推薦図書       『ヒマラヤ聖者の生活探求』(全5巻)
                            B・T・スポールディング 著 仲里誠吉 訳
                                      霞ヶ関書房 昭和44年(初版)

 本書は、採掘の調査のため、著者がインドとチベットを旅行した際、ヨーガの達人、肉体現象化したイエス・キリストや仏陀などに出会い、教えを受けた体験が書かれています。
 テレポーテーション、空中浮揚、天候を自由自在に操ったり、死者が復活したり、病人があっという間に癒されたり、老人が若返ったり、ひとかけらのパンが無限に増えたりなど、さまざまな奇跡現象が語られています。それがあまりにもドラマチックなので、正直なところ、にわかに信じがたい気持ちもなくはありません。ただ、こうした奇跡現象は、古今東西どこでも伝えられているもので、奇跡現象が実在すること自体は、間違いないと思います。
 いずれにしろ、本書の価値は、そうした奇跡現象の体験にあるのではなく、ヨーガの達人やイエスなどから学んだ、霊的成長や覚醒のための教えにあります。
 そうした教えのエッセンスをひとことでいえば、「我は神なりとの自覚を持って生きよ」となるでしょうか。
 全部で5巻からなっており、かなりの大著ですが、文章は平易で読みやすいです。「本訳書の原著『極東における大師がたの生活と教え』は五巻よりなり、第一、第二、第三巻は、著者が見えざる導きのままに世界各地にわたる調査隊に参加した際、インド、チベット等における希有の体験をありのままに描いたものである。それらは人間の本質、人間の能力、人生の意義、自然における人間の地位等に関する真理とその実証よりなる。第四巻は大師がたの教えの数々を、著者自身が項目別にまとめたものである。第五巻には、著者が乞われるままに米国各地を講演して廻った際の質疑応答のうち、代表的なものが収録されている」(訳者はしがきより)。
 私はこの本を、30年くらい前に読んだのですが、最近、また読み返しています。あらためて、本書に書かれている真理の教えには、驚きを禁じ得ません。全巻において、珠玉の教えがちりばめられており、私が持っている本には、到るところに赤線が引かれてあります。古くからの愛読書のひとつであり、非常に多くの霊的指針、生きる指針を与えてもらいました。
 何回も繰り返し読みたくなる本というのは、そう多くはありませんが、この本はまさにそんな本の代表格です。読むたびに心が開かれる思いがいたします。
 皆さんも、機会があれば、ぜひ読んでいただきたいと思います。
 
推薦図書(覚醒編) | コメント:0 | トラックバック:0 |

神への全託とエゴの終焉

 神に祈るとは、「神への感謝と全託」ではないかと述べました。全託とは、すべてを神にゆだねることであり、なにがあっても「これでいいのだ」と心の底から思える心境です。それは自分自身を捨てること、「煮るなり焼くなり好きにしてくれ!」と、自分を神に捧げることです。いわば、究極の自己放棄といえるでしょう。
 もちろん、これは口でいうほど簡単なことではありません。
 なぜなら、自我(エゴ)による自己防衛の本能が、それをゆるさないからです。私たちは自分の本質を自我と思っているので、自分を捧げるというと、自分自身が否定されるような恐怖や不愉快な思いが湧き上がり、意識的にも無意識的にも抵抗をしてしまうのです。
 しかしながら、実は自我というものは、もともと存在しないのです。自我というのは、生物的な本能や先祖から遺伝した衝動を土台に、幼少時から体験したさまざまな体験とその反応によって構築された、ある種の力動的な複合観念にすぎません。
 たとえるなら、映画を夢中になって見ているとき、いつのまにか自分が主人公になった気になり、主人公の「人格」となって、悲しんだり喜んだりするようなものです。しかし、映画が終われば、(真の)自分を取り戻します。というより、映画も主人公も、もともと実在していませんから、実在しない人格を自分だと錯覚していたことになるわけです。
 人生も、同じです。小さい頃に虐待されたりいじめられたりすると、攻撃的で憎悪に満ちた衝動が形成されます。やがてそれが複雑に絡み合い、性格だとか人格となります。しかし、そうした性格や人格は、いわば環境と、環境に対して反応する本能や衝動によって形成されたもので、実体はないのです。実体は、そういう性格や人格(という幻想)を、本当の自分自身であると錯覚している「意識」だけです。悲しんだり、怒ったり、怖がっているのは、自我であって、意識ではありません。それなのに、意識は自分が悲しんだり怒ったり怖がっていると勘違いしているわけです。

 したがって、「自分を放棄する」といっても、本当に自分を放棄するわけではないのです。「自分を神に捧げる」といっても、もともと(本当の)自分は神のものであり、神そのものですから、「自分を神に捧げる」という表現そのものが、奇妙なわけです。
 事実はむしろ正反対であって、今の自分は本当の自分ではないわけですから、すでに自分を放棄しているということになるわけです。したがって、神に自分を捧げ自分を放棄するとは、実は自分自身を取り戻すということなのです。
 それが、「神に対して全託する」という意味だと思うのです。

 自我(エゴ)の自己防衛本能を克服しない限り、(エゴの消滅である)覚醒はできません。意識的にも無意識的にも、覚醒することに自ら抵抗してしまうからです。これでは、瞑想や呼吸法など、いくら行っても覚醒はできないでしょう。
 神はそのために、しばしば辛い試練を計画することがあるのかもしれません。
 それは、自我の典型的な特徴である「プライド」や「高慢さ」を、徹底的にうち砕くような体験です。仕事で大失敗をして落ちぶれてしまうとか、大恥をかくとか、イヤな相手に頭を下げなければならないとか、貧乏で惨めな生活をさせられるとか、メンツなどを叩きつぶされるような経験です。そうして謙虚になって(つまりエゴを消滅させて)こそ、覚醒に近づき、本当の自分を取り戻すわけです。

 しかし、覚醒の道を歩む私たち修行者は、そういう試練が来るのを待つのではなく、積極的に自我(という幻想)をうち破っていく姿勢が大切だと思うのです。
 そして、そのためにもっともふさわしいのが、神に対する全託だと思うのです。
 神の意識とひとつである真我に比べたら、自我などゴミのようなものです。そんなゴミを、後生大事につかんで離さないというのは、考えればこっけいなことです。
 自我とは、もともと真我が使う「道具」なのです。神は、この地上を調和的なものにするために、私たちひとりひとりに使命を与えていると思います。その使命を果たすための道具が、自我なのです。自我は真我の支配下において、使いこなすべきものなのです。
 その意味では、自我そのものは、決して悪というわけではないわけです。ただ、道具にすぎない自我を、自分自身だと錯覚していることに問題があるわけです。

 いずれにしろ、私たちは修行のために地上に生まれてきたと同時に、神の使命を手伝うために生まれてきたともいえるわけです。神は、そのための媒体を求めています。神の意図や真理に素直に反応する「器」を求めているのです。
 したがって、私たちは、「神様、私のすべてをあなたに捧げます。どうか、私を使ってください」と祈ることが、全託であり、積極的に自我の幻想をうち破り、覚醒に到る道であると思うわけです。

 ただし、この祈りを「自我」で行ってはいけません。「神様、私を使ってください」と祈れば、なにか偉い指導者になれるとか、世のため人のために大きな貢献をしてたくさんの人から感謝されたり認められるのではないか、という期待があれば、それはエゴが祈りを利用していることになります。そうではなく、どのようなことでも喜んで引き受けなければならないのです。誰からも認められない地味な仕事、掃除をしたり穴を掘ったりといった汚い仕事をしなければならなくなったら、「それも神の使命崇高のための偉大な仕事なのだ」と感謝して、喜びに満ち、誠実に行う必要があるわけです(そういう仕事を、神はその人の純粋さや誠実さを試すために与えることがあるようです。それがしっかりとできた後、偉大な仕事が与えられるのです。なぜなら、それほどの「逸材」を、いつまでも掃除や穴掘りに使うというのは合理的ではないからです)。
 以上のように、なかなか簡単ではないとはいえ、私たちは「神への感謝と全託」に生きることができるよう、努力していこうではありませんか。「神様、ありがとうございます。私のすべてをあなたに捧げます。あなたの偉大な使命遂行のために、どんなことでもいいですから、私を使ってください」と祈りましょう。
 そのためには勇気が求められるでしょう。自分を捧げてしまうのですから。自分を捧げられるほど、偉大な勇気というものが、他にあるでしょうか?
 しかし、どんなときも道を開いてくれるのは、勇気ではないかと思うのです。


修行の基本的な姿勢 | コメント:2 | トラックバック:0 |

祈りの本質とそれがもたらす力

 前回述べたように、祈りの本質は、感謝と全託の気持ちだと思います。
 そして、こうして神と交流し、神とひとつになった祈りの状態でなにか願い事をすると、それが叶えられる可能性は高くなるようです。
 もっとも、本当に感謝と全託の気持ちがあれば、あまり利己的な願い事はしなくなるでしょう。たとえば、「お金が欲しい」とか「結婚がしたい」という願い事があったとしても、感謝と全託の祈りから発するときには、「自分も他者も幸せにするために使うお金が欲しいのです」とか、「配偶者の幸せに貢献し、子供を立派に育て、世の中に貢献していきたい」といった、利他的な動機が入り込むようになるはずです。そのような祈り(願い事)は、神(宇宙)の法則と合致しているので、叶いやすくなるのです。
 ただ、全託しているわけですから、結果がどうなっても「これでよかったのだ」と思えなくてはなりません。不平不満をいったら全託したことにならないからです。
 さらにいえば、神は、私たちに本当に必要なことは私たち以上にご存じのはずですから、神への信頼が深まり、本当に全託の境地となれば、いかなる願い事もしなくなるのかもしれません。
 とはいっても、私たちは、いい意味での「人間らしさ」を持ってもいいと思うのです。そのひとつが願い事ではないかと思うのです。苦しんでいる人を目の前にして「苦しむなら苦しんだ方がいいのだ」というのは、確かに真理としてはそうかもしれませんが、人情としてはどうかと思うのです。やはり、「あなたの苦しみが癒えますように」と祈ってもらえたら嬉しいですし、励みにもなるでしょう。あまりにも苦しいときには、自分の苦しみを救って下さいと祈りたくもなるでしょう。そのこと自体は、必ずしもエゴだとは思いません。苦しいときに救われたいと願うのは、心情として当然だと思いますし、そういう人間的なところがあった方が、いざ今度は人を助ける場合になっても、うまく人を導けるようになると思うのです。いくら理屈は正しくても、人間的な温情に欠けた人は、他者に対する救済という点で弱い気がいたします。高い境地にあると思われる聖者たちも、けっこう神に願い事の祈りを捧げていたようですし。

 いずれにしろ、祈りの本質は「感謝と全託」であり、「神様、ありがとうございます」という気持ちだと思うのです。いいことがあっても、悪いことが起こっても、なにも起こらず平凡であっても、すべてをよしとし、神に感謝する気持ちです。そのとき、私たちは神の意識とひとつになっているのだと思います。
 神の意識とひとつになっているとき、神の導きがより効果的に得られるようになるのです。神の導きが得られるとは、これ以上に最高の人生はない、という生き方ではないでしょうか。
 なぜなら、神の智慧は、人知などとうてい及ばないほどすぐれているからです。私たちはまるで、迷路を脱出しようとしてもがいているネズミのようなものであり、神様は、迷路の全貌を空高くから見て、どの道がゴールへの最短距離なのか一目瞭然にわかっているのだと思います。
 したがって、神の導きによってカルマの浄化などをさせられ、現象的には辛い出来事が起きたとしても、「最高の人生」だといえるわけです。たとえば、本来ならこれからもたくさんの悪いカルマを作り出し、そのためにたくさん苦しんで、ようやく覚醒の道をめざすという運命だったのが、過去のカルマを早く清算することで、もう悪いカルマを作り出すことがなくなり、結果としてトータルに見たときには、他の魂がうらやむくらい、少ない苦しみで覚醒の道に到達できるかもしれないからです。

 神様は、おそらくそのようにして私たちを「救済」しようとしているのではないかと思うのです。つまり、神の救済手段とは「浄化」なのです。
「早く浄化させよう。早く浄化すれば、それだけ苦しみが少なく、早く幸せになれるのだから」
 これが、神の愛であり、神の考えなのではないでしょうか。私たちが意味もなく苦しむのを、神がよしとするはずがありません。なるべく苦しみ少なく、最短距離で覚醒して欲しいと願っているはずなのです。
 ところが、狭い視野しか持たない凡夫の私たちにすれば、不運や苦労には浄化という意味があることが理解できず、つまり幸福への最短距離だということが理解できずに、文字通り「不運」であり「苦しみ」としか認識できないのです。そのために、いじけてしまったり、絶望したり、不正な手段に訴えたりして、うまくカルマの浄化を果たすことができなくなるという、悲しい状況になってしまったりするわけです。
 そのような悲劇を繰り返さないためにも、私たちは本当の祈りを習慣的に実践していく必要があると思うのです。避けられる苦しみは避け、苦しみを乗り越える努力を続けながらも、姑息な手段に訴えるのではなく、神の意思に叶った正しい生き方を貫き、祈りながら、苦しみに耐えてカルマが消滅するときをじっと待ち続けること、結局、これこそが幸せになるためのもっとも確実にして、もっとも近い道ではないかと思うのです。


心の浄化 | コメント:5 | トラックバック:0 |

いかにして霊的存在から導きを得るか 2

 祈りというと、神様にお願いすることを思い浮かべます。確かに、それもひとつの側面ではあると思いますが、本質ではないと思います。祈りの目的は、神と心を通わせること、神とひとつになることだと思うのです。
 神は愛であり、私たちが幸せになるよう、常に力を与えて下さっていることを理解しているなら、その有り難さに感激して、神に気持ちを向けるときには、自然に「感謝」の気持ちが湧いてくるはずです。その結果、「神様、ありがとうございます」という言葉が出てくると思うのです。
 誰がいったのかは忘れましたが、「もし祈りの文句を忘れてしまい、“神様ありがとうございます”という言葉しか出てこなかったとしても、それで十分である」という言葉があります。その通りだと思います。

 ところで、感謝の気持ちは、他者から親切にされたり、助けてもらったりしたときに湧き上がる気持ちです。そんな気持ちが湧いてきたということは、少なくても他者からの親切や援助、ややおおげさにいえば「愛」を、感じられる能力を持っていることを示しています。すなわち、愛に感応する能力があるわけです。愛に感応する能力が欠如している人は、感謝するということを知らないでしょう。
 そして、神は愛ですから、愛に感応する能力とは、「神に感応する能力」であるといえると思うのです。すなわち、神に感応するとは、いわば神と心を通わせることであり、神とひとつになることではないでしょうか。少なくても、そのために必要な基本となるものです。

 ですから、神に祈るということは、「神様、ありがとうございます」と、神が私たちに向けてくれる愛に、ただ感謝すればいいだけのことなのです。
 神は偉大な叡智でもあるでしょうから、私たち人間には予想もつかない方法で私たちを幸せに導いてくれているはずです。それはしばしば、狭い視野しか持たない私たちからすると不幸や苦しみに思えることもありますが、愛である神が悪いようにするはずがない、そんな神と心を通わせている私たちが悪くなるはずがないと、目先の現象に一喜一憂せず、いわばすべてを神に全託して悠々と生きる気持ちが、感謝の気持ちと一緒に湧いてくるはずです。これが、祈りの本質であると思うのです。
 ところが、「神様、ありがとうございます」と唱えるのは大切なのですが、それを繰り返していると、しだいに心が伴わず、ただ口先だけ「神様、ありがとうございます」と唱えているだけになりやすいのです。言葉と気持ちが分離してしまうわけです。ここが大きな落とし穴になります。全然ありがたいとは思っていないのに、言葉だけそう唱えてしまうわけです。そして、そのことに気づかず、「神様、ありがとうございます」と唱えているために、自分は神に感謝しているのだという錯覚をしてしまうことが多いのです。
 これでは、本当に祈っているとはいえません。感謝の気持ちが本当にそこに存在しなければ、それは祈りとはいえないのです。
 したがって、心が伴わない言葉を唱えることには意味がありません。「神様、ありがとうございます」という言葉を唱えずに、感謝の気持ちを向けることが大切なのです。ところが、実際にやってみるとわかると思うのですが、言葉を浮かべずに何かを考えたり、感情を湧き上がらせることは、非常に難しいのです。私たちは頭の中で言葉を話しながら、何かを考えたり、特定の感情を思い浮かべたりします。しかし、いっさい言葉を消した状態で、神に対して感謝の気持ちを向けるというのは、とても難しいことがわかると思います。

 しかし、あえて、それに挑んでいただきたいのです。
 言葉がなくても感謝の気持ちを向けるように努力していって下さい。「言葉を用いなくても祈れるようになる」、これが、真の祈りのためのひとつめのポイントです。
 ただ、最初からまったく言葉がないのは難しいので、最初は「神様、ありがとうございます」と唱えて、だんだんとその言葉を少なくしながら、そうした言葉を頭の中で発声しなくても、神に対して感謝の気持ちを向けられるように努力してみてください。これはかなり根気のいる修行です。しかし、非常にパワフルな修行であるといえるのです。
 なぜなら、これがうまくいくようになると、言葉を唱えていないときでも、無意識的に神に対する感謝の気持ちで満たされるようになるからです。換言すれば、常に神の意識と自分の意識がひとつになるのです。
 そうなるための方法が、実はアジナー・チャクラ瞑想法なのです。
 アジナー・チャクラが光り輝いているイメージを浮かべるときは、「神様、ありがとうございます」という感謝と全託の気持ちで行ってください。アジナー・チャクラから輝いている光は、神の光だと思ってください(実際にそうともいえるのです)。
 その神の光がどんどん拡大して、自分のすべてがその光と同化してひとつになったイメージを浮かべ、「私は神(の意識)とひとつである。神様、ありがとうございます」と、心を込めながら何回も唱えるようにしてください。
 それを続けていくと、今度はアジナー・チャクラが光り輝いているイメージを浮かべただけで、自動的に(無意識的に)神への感謝と全託の気持ちが湧いてくるようになります。そして最終的には、アジナー・チャクラの瞑想をしていないときでも、常に神への感謝と全託の気持ちで満たされるようになってきます。つまり、意図的に祈っているわけではないのに、常に祈っている状態になってくるのです。
 この「常に祈っている状態になる」ことが、二つ目の重要なポイントなのです。なぜなら、結局それは何を意味するのかといえば、覚醒を意味するからです。
 覚醒とは、いわば神の意識を共有すること、神の意識を自分の意識にし、自分の意識を神の意識にすること、神とひとつになることだからです。

修行法 | コメント:0 | トラックバック:0 |

いかにして霊的存在から導きを得るか 1

 アジナー・チャクラ瞑想法(カテゴリ→修行法→アジナー・チャクラ瞑想法)は、覚醒の道の基本であり、同時に奥義であると思っていますが、とにかく大切なことは、実行することです。
 こうしたブログをご覧になる皆様ですから、これまでたくさんの精神世界の本を読まれてきたと思います。そして、かなりの知識をお持ちではないかと思います。
 しかし、しょせん知識は知識であり、借り物であり、バーチャルな体験でしかありません。たとえるなら、「旅行ガイド」のようなもので、旅行ガイドを熱心に読んでいると、多少はその場に行った気にはなりますが、やはり実際に行って体験したのとでは、比較になりません。
 私なども、宇宙のしくみや霊的な事柄に関する本を読んで知識はありますが、結局、そういう知識だけでは、本当に心が満たされることはなく、人間性や人生が根本から変わることはないのだと気づき、実践しかないと思ったのです。実践して、神のこと、宇宙のしくみや霊的な事柄、いわゆる究極的な真実を、借り物の知識や単なる推測ではなく、直接的に把握するしかないと思ったのです。

 とはいえ、実践というのは、非常に難しいものです。
 まず、怠惰と戦わなければなりません。スポーツの世界を見ればわかるように、ほとんどの人は、スポーツ選手になるよりスポーツを観戦する方が好きです。選手になるには、毎日苦しい練習を続けていかなければなりません。そんなことは避けて、自分がスポーツ選手になったつもりで熱狂した方が楽でいいのです。霊的な世界も、「なったつもり」というのが横行しています。ビジネスなどの成功本やセミナーなども同じでしょう。ほとんどの人が「なったつもり」で満足しています。実践することは、めんどうで、かったるいのです。手っ取り早く結果を出したいのです。がんばるのがイヤなのです。一方で、そのような大衆の気持ちを見抜いて「がんばらなくてもいい」といった本を出して売っているわけですが、いずれにしろ、ほとんどの人が、人生を本当に生きたのではなく、「生きたつもり」で命を終えてしまっています。生きるということは、何よりも実践ではないでしょうか。

 しかし、実践の本当の難しさは、怠惰にあるのではないと思っています。怠惰なのは、まだ本気で求めていないということであり、ただそれだけのことなのです。ですから、本気になったら道を歩めばいいと思うのです。その人には、その人にふさわしい時期というものがあると思うのです。
 実践の本当の難しさは、別のところにあります。
 それは、どのように実践すればいいか、はっきりしないことです。真にすぐれた指導者が手取り足取り導いてくれれば話は別ですが、そのような幸運に恵まれた人は、ほとんどいません。ほとんどの人は自力で歩まなければならないのです。
 覚醒するための方法については、むかしと比べればかなり情報が入手できるようになりました。とはいえ、確立されたノウハウがあるわけではなく、いろいろな人がいろいろなことを主張していて、混乱することも多いのです。料理だとかクルマの修理のように、マニュアルが作成されており、マニュアル通りに実践していけば目的が達成されるというものではありません。マニュアルは存在していないのです。
 というより、マニュアルを制作すること自体、不可能ではないかと思うのです。霊性の道は、個人の力量やカルマやその他、さまざまな要素を考慮して、臨機応変に縦横無尽に歩んでいかなければならないと思うのです。それはまるで、地図を持たずに目的地をめざすようなもので、途方に暮れてしまうに違いありません。
 やはり、しっかりと導いてくれる存在がなければ、覚醒することは不可能であると思うわけです。しかし、肉体を持った導師に出会うことは期待できない……。

 そこで、霊的な導師を頼るということが必要になってくるわけです。その存在を、神と呼んでもいいし、守護神や守護霊、ハイヤーセルフ、あるいは自分の尊敬する聖者でもかまいませんが、とにかく高い霊的存在に思いを向け、導きを求めることが必要だと思うのです。
 具体的には、霊的存在に向けて、常に「祈る」ということが必要になります。
「神様、どうか覚醒ができますように、導いてください」と祈るのです。
 そうすると、実際に意識のパイプのようなものができて、導いてくれるようになります。たとえばテレパシーのような形で送られて、どうすればいいか閃いたり、あるいは、たまたま出会った人や、何気なく買った本からアドバイスを得たりといった「偶然の出来事」を通して導いてくれます。
 そこで、祈るということが非常に大切になってくるのですが、そのためには、2つの重要なポイントがあるのです。このポイントをはずしてしまうと、うまく導きが得られないかもしれません。
 そのポイントについては、次回にご紹介させていただきます。

 
修行法 | コメント:0 | トラックバック:0 |

業想念の消滅と祈り

 前回も述べましたように、覚醒するには、いわゆる業想念をできる限り浄化しなければなりません。業想念はある程度は物質的なエネルギーのような性質を示すようで、それが肉体のあちこちに蓄積されています。とくに脊柱に、まるで汚れのようにこびりついているようです。
 もし脊柱がそうした汚れでつまったままクンダリニーが活性化して上昇しますと、強引にその汚れを焼き尽くしながら上昇するといわれ、そのときは大変な苦痛が伴うとされています。その汚れが少なければ、たいしたことなく頭頂まで上昇してチャクラを開いてくれるのですが、汚れが多いと、結局は上昇できずにどこかでエネルギーが滞ってしまい、(おそらく)その部位に関係した内臓がクンダリニー自体のエネルギーでやられてしまうようです。
 クンダリニーでなくても、シャクティなどの生命エネルギーが修行によって増強され、それが肉体に充電されるようになると、そのエネルギーも汚れを焼き尽くすように作用しますから、病気(正確には汚れを浄化するための好転反応)が生じたりするわけです。

 業想念というのは、過去生も含めて、今までに蓄積されてきた悪い想念のことです。すなわち、怒り、憎しみ、悪意、嫉妬、恐怖、不安、執着、邪欲、不誠実、利己主義といったもので、そういった想念が、ある種のエネルギーとして心の深い層(霊体あるいは幽体)に蓄積されているのです。覚醒するには、まずこの汚れを浄化していかなければなりません。しかし、それは何世代もの過去生から蓄積されていますから、個人差はあるにしても、そうとうな量の汚れが沈殿されていると思っていいでしょう。
 とくに修行をしなくても、私たちはこの業想念を適当に浄化させられています。ひとつは、すでに述べたように不幸や不運という形で浄化させられます。ところが、そういう不幸や苦しみを体験しますと、得てして人間というものは、そのことを恨んだり不満を抱いて、人や世の中を呪ったり、ますます心をゆがませてしまったり、悪意を強くさせてしまいがちです。
 つまり、せっかく浄化されて、不幸な運命の原因である業想念がそれだけ消滅してきれいになったのに、それをわざわざつかんでしまい、さらにひどい汚れにして自分のなかに取り入れてしまっているのです。そうして、ますます不幸の種を心の土壌に巻いてしまっているわけです。いわば、せっかく毒を吐き出したのに、その吐いた毒にさらに毒を混ぜ、再び飲み込むようなことを、私たちはしているのです。
 しかし、そのことを誰が責められるでしょうか。不幸な経験をすれば、そのことを怒り、自分を苦しめた人や世の中を呪い、こころをいじけさせてしまうのは、無理もないことです。人間の自然な心情として、当然だと思います。
 覚醒することが難しい大きな理由のひとつが、ここにあるのではないかとも思うわけです。しかし、言い方を変えれば、これをクリアできれば、覚醒はぐんと容易になるともいえるのではないでしょうか。ここはひとつ、前向きに考えていきたいと思うのです。

 業想念を浄化するには、不幸な運命に遭遇したり、不適切な思いが浮かんだりしても、それに反応して悪い想念を出さないようにすることです。何があっても、恐怖や不安、怒りや不満、執着や邪悪な思考を起こさないことです。
 といっても、それは口でいうほど簡単なことではありません。それには長期にわたる不屈の忍耐が要求されるでしょう。しかし、決して不可能ではないと思います。
 これをうまく行うひとつの有力な方法は、高次の存在の協力を得ることです。つまり、神や守護神といった存在の助けを借りるのです。
 汚れた水で汚れを落とすことはできません。汚れを流すにはきれいな水が必要です。業想念という汚れを流すにも、きれいな想念が必要なのです。つまり、邪悪な思いが出てきたら、清らかな思いを出して、邪悪な思いを清らかな思いで流し去るのです。
 とはいえ、業想念エネルギーはすさまじい嵐のようなものですから、それが心を吹き荒れているときは、清らかな思いなど、そう簡単に出せるものではないでしょう。
 そこで、高次の存在から、きれいなエネルギーを流してもらうようにするのです。たとえば、次のように祈るのです。
「神様(あるいは守護霊、守護神様、あるいは自分が尊敬する聖者の名前)、あなたの神聖なる光のエネルギーで、業想念を浄化してください。ありがとうございます」
 そうして、すべてを神にゆだねます。つまり、自力で業想念を浄化しようと力む気持ちを捨て、受け身の気持ちで、神様が業想念を浄化してくれているのだと信じ、そのことに感謝するのです。
 すると実際、神や守護神や聖者とチャネルができて、そこから業想念を浄化するエネルギーが流入されてくるはずです。たとえはっきりと実感がなくても、とりあえずそう信じてください。実証はできませんが、いろいろな本や私の体験からも、神や守護霊、守護神、聖者方は、業想念を浄化するために、必ず力を貸してくれるようなのです。しばしば、単なる気のせいというレベルを超えた、圧倒的な光を感じて一瞬のうちに業想念が吹き飛んでしまうこともあります。それは非常に驚くべき体験ですが、多くの場合は、穏やかに少しずつ光を放射してくれて、徐々に消してくれるようです。たぶん、なんらかの事情で、その方がいいのでしょう。
 とにかく、決して自力であせって消そうとするのではなく、「消していただく」という、全託の気持ちが大切です。消し方は、神に任せることです。必要なら、劇的に一瞬のうちに消してくれるでしょうし、もし穏やかに消した方がいいのだと判断されれば、少しずつ消えていくはずです。その場合は、その方がよかったのです。
 繰り返しますが、業想念は、自力で消そうとしない方がいいようです。「神様に消していただく」という気持ちを持ち、業想念ではなく、神の清らかで神聖なエネルギーに意識を向けるのです。そして、自分の業想念を消してくれようとしている神に感謝を捧げるのです。それを、業想念が出るたびに、ひたすら行い続けていくことで、人は少しずつカルマから脱却し、覚醒の意識が開かれていくのではないかと思うのです。

心の浄化 | コメント:0 | トラックバック:0 |

業想念の浄化

 辛い運命や、辛い感情を経験した後で、何となく心が清められた感じがしたことはないでしょうか。胸の奥にあったどろどろしたものが消え、爽やかになり、心身が清められた感覚です。
 こうした感覚は、いわゆる「業想念」が消えて消滅したときの感覚なのです。すなわち、私たちに不幸をもたらし、覚醒を妨げている悪いカルマが消滅したことを意味しているのです。
 カルマは、二つの手段によって消滅します。
 ひとつは、運命的な現象を通してです。いわゆる不幸や災難です。
 もうひとつは、内的な苦悩を通してです。とくに不運というわけではないのに、内的に辛くなることによって浄化されるのです。悲しみや落ち込み、絶望感といったものです。あるいは、悪意や怒り、邪欲といった、病的な思いや感情によって心がかき乱されることによっても、浄化されます。
 ただし、そうした気持ちに振り回されず、その思いをつかんだりしなければ、という条件がつきます。悪意や怒りの感情が湧いて、人を呪ったり、意地悪したりしてしまったら、せっかく消えたカルマを再び取り入れてしまうことになります。

 業想念を浄化させる方法については、次回で詳しく扱うことにいたしますが、基本的には、苦しみを謙虚に受け入れ、「これで悪いカルマが消えていくのだ、ありがたいことなのだ」という思いを抱いて、じっと堪え忍ぶことです。
 もちろん、それは楽なことではありません。ある種の「苦行」に近いといえるかもしれません。余談になりますが、宗教的な苦行には、それなりの意味があるようです。主な目的は、自我の執着やこの世の欲望を支配できる力を養うためですが、他にも、カルマを滅ぼそうとする意図があるのかもしれません。つまり、運命的な不幸や内的苦悩が訪れるのを待つ(それによってカルマを消滅させる)という受け身の姿勢ではなく、自ら苦しみを求めることで、積極的にカルマの消滅をはかろうとしているのかもしれません。
 果たして、わざわざ自分を苦しめることで、本当にカルマが消滅するのかどうか、私にはよくわからないのですが、少なくてもその「意気込み」だけは、見習ってもいいのではないかと思うのです。
 つまり、不幸や苦しみを経験したら、「ああ、これで悪いカルマが消えているんだ。それだけ運命はよくなっていくし、覚醒の障害も取り除かれ、幸福と覚醒に近づいているんだ」と、感謝と希望を抱き、じっと辛さに耐えていくことが大切ではないかと思うのです。

 覚醒したいと真剣に修行をしていると、カルマの解消が盛んに行われるようになるようです。それは不運が訪れるという形を取ることもありますが、業想念がたくさん湧いてくるという形を取ることもあります。つまり、運命的にカルマを解消するよりも、なるべく業想念を出すことによって解消しようとするのです。これはとてもありがたい配慮であるように思うのです。
 代替医療の世界では、「好転反応」ということがいわれます。病気が治る前に、症状が強く出てきたりするのです。それは病気が悪くなったのではなく、病気が治るときの反応なのです。この反応によって病的な不純物が排出されると、病気が治るのです。
 同じような現象が、覚醒の道にもいえるのではないかと思うのです。すでに述べたように、宇宙的かつ霊的に見るならば、覚醒していないということは、病んでいるということです。悪しきカルマという病気を抱え込んでいるわけです。しかし、覚醒修行という「治療」を行うと、不運や業想念という好転反応が起こるのです。
 悪しきカルマが蓄積されている限り、覚醒することは不可能です。覚醒修行とは、いかにカルマの汚れを落とすかが中心になっているといえるわけです。
 ですから、覚醒修行をまじめに行っているのに、不運が訪れたり、否定的な思いが湧いて心が乱されたり、病気になったりしたら、それは間違いなく「好転反応」だと思っていいでしょう。たとえどんなに苦しくて辛くても、それは「善いこと」であり、喜ばしいことなのです。

 いうまでもありませんが、「不運が訪れる」といっても、何もないところから訪れるわけではなく、いずれは訪れる運命を持っていたということです。むしろ、覚醒の修行によって早く訪れるようにした方が、後になって病根が大きくなって訪れるよりも、ずっと軽くてすみます。たとえば、本来なら交通事故に遭って障害者となる運命だったのが、ちょっと骨折する程度ですむようになったりするわけです。それで悪しきカルマを消すことができるのですから、「ラッキー」ではないでしょうか。
 あるいは、怒りの業想念を沈殿させていた人は、覚醒修行によって怒りが湧いてくるでしょう。本来なら、人を殺すほど激しい、とても自分では制御できない怒りだったのが、なんとか自分で制御できるくらいの怒りで(大きな問題を起こすことなく)すむはずですし、悲しみの業想念を沈殿させていた人は、強い悲しみに襲われるでしょうが、本来なら自殺するほど深刻な悲しみだったのが、自殺には到らない程度の悲しみですむようになるかもしれません。
 また、本来なら運命という外的な現象でなければカルマを浄化できなかったのに、業想念という心理的な現象ですんでしまう可能性もあるのです。
 もっとも、あえていうまでもないことですが、修正可能な因果関係が存在している場合は、それを取り除く努力をしなければなりません。たとえば、食べ過ぎ飲み過ぎで胃の痛みに苦しんでいるような場合、その苦しみに耐えてもカルマの解消にはなりません。この場合、食べ過ぎ飲み過ぎをやめることがカルマの解消です。
 じっと耐えることでカルマが解消される苦しみとは、前世やずっと過去に行われた行為が原因で、現在ではその原因の修正ができないようなものだけです。

 いずれにしろ、このようにしてカルマや業想念が消滅していくと、心身が清められ、不思議なほど心が穏やかになり、謙虚な気持ちが生まれてきます。それはまるで、深い瞑想を行じたような感覚であり、実際、カルマや業想念が消滅しただけで、特別な修行などしなくても、意識は覚醒に近づいていくのです。
 覚醒の道を歩んでいない大多数の人にとっては、不運は悪いもの以外の何ものでもないでしょうが、覚醒の道を歩んでいる私たちにとって、カルマの消滅というすばらしい意義があることを、忘れないようにしたいものです。

 

心の浄化 | コメント:9 | トラックバック:0 |

修行がうまくいかなくて悩まない

 真剣に修行しているほど、自分の至らなさについて悩むことが多くなってくると思います。なかなか瞑想に集中できなかったり、よくない想念が湧いてきたり、人を妬んだり、不摂生をしてしまったり、雑念にとらわれてしまったり……。
 そうして、ついため息をつき「あ~、自分はダメだなあ、こんな調子では覚醒なんてほど遠いなあ……」と、落ち込んでしまうことが多くなったりします。
 今まで、こんなことで悩んだりしたことはなかったと思います。これは、進化向上をめざす者につきまとう悩みであり、いってみれば、「崇高な悩み」なのです。
「満足した豚であるよりは、不満足な人間の方がいい。満足した人間であるよりは、不満足なソクラテス(聖人の意味)の方がいい」と、哲学者のジョン・スチュアート・ミルがいっていました。こうした悩みはもっとも人間らしく、素敵であると思うのです。

 しかしながら、覚醒をめざす私たちは、もう一歩前進したいところです。
 というのも、「自分はダメだな~」と感じるのは、自分はまだひとかどの人間ではないということに対する不満や不安が土台になっているからです。つまり、そのように思うのは、たとえそれがいかに崇高な悩みではあっても、やはりエゴなわけです。覚醒するためには、エゴを超えなければなりません。
 したがいまして、私たちはこの「崇高な悩み」さえも捨て去るべきだと思うのです。
 つまり、修行がうまくいかなくても、がっかりしないことです。もう少し正確にいえば、「がっかりしている自分」への執着を捨て去るのです。
 もちろん、心情としては、到らないところがあれば、がっかりして当然です。しかし、そのがっかりした気分にとらわれずに、その思いをつかんだりせずに、さっと受け流すことが重要なのです。

 考えてもみていただきたいのですが、がっかりしても、なにもいいことはありません。無駄なだけです。「はあ~」とため息をついて「自分はダメだな~」と思うだけで、30秒から1分くらいの時間が経過します。それを一日に何回かやるとしたら、トータルで数分、もしかしたら数十分くらいになってしまうかもしれません。そんな時間があったら、それこそ「3分間アジナー・チャクラ瞑想」ができてしまいます。一年間のトータルでいったら、何時間にもなるかもしれません。このような、落ち込みによる無駄な時間というものは、私たちが考えている以上に膨大な時間とエネルギーの浪費になっているのです。
 ですから、思ったように修行が進まなくても、そのことで思い悩むのはやめましょう。自分への執着を捨てましょう(そうすること自体が覚醒の修行です)。そんな時間があったら、瞑想をしましょう。悩んでいる時間を惜しんで、ひたすら行じるのです。覚醒の道を歩み始めたら、後ろを振り返ったり、立ち止まったりすることはやめて、ひたすら前を見て前進していくだけです。


修行の基本的な姿勢 | コメント:7 | トラックバック:0 |

悠々と生きる

 覚醒の修行者というと、苦行や禁欲を行い、眉間に皺を寄せ、くそまじめで、どこか悲壮感が漂うイメージがあるかもしれません。
 しかしながら、もしもそんな印象を周囲に持たれているとすると、あまりいい修行はしていないことが多いので、注意が必要です。なぜなら、一見まじめで真剣に思えても、暗さや悲壮感というものは、基本的にはエゴから発せられるからです。
 つまり、どこかに不自然なとらわれがあるのです。
 確かに、修行は楽ではありませんし、もともと地上から解脱する動機で修行を始めた人が多いと思いますので、人生に対して悲観的な思いを持っていたりするものです。だから、むかしから修行者には、暗く悲壮的な感じが漂っていたのかもしれません。
 しかし、覚醒の修行は、肩に力が入っていてはうまくいきません。まじめで一所懸命であることは必要ですが、力みがあったり、せわしかったりしていては、修行はうまく運びません。そうではなく、ゆったりと、余計な力を抜き、悠々とした感じで臨んでいくことが、非常に大きなポイントとなるのです。
 力んだりかたくなるのは、エゴによってコントロールしなければならないという思いが根底にあるからです。もちろん、最初はそうなっても仕方がありませんし、最初からだらけているよりは、力んでかたくなるくらいの方がいいと思いますが、いつまでもその姿勢ではダメなのです。
 どこか楽天的で、のんびりとした雰囲気を醸し出しながら修行をした方がいいのです(ただし本当にのんびりしてはダメです)。エゴにとらわれない人は、カラッとしていて、どこか「能天気」な感じが漂うものです(しかし本当に能天気ではダメです)。
 修行は、このように、悠々と、明るく、ほがらかに、柔和に、ゆとりを感じさせるように行じていくときに、もっとも効率的になるのです。サットヴァ・グナの境地ということですね(サットヴァ・グナの境地については、カテゴリー→修行のガイドライン→修行を成功させる重要なポイントをご覧ください)。

 覚醒の修行は、それこそ24時間すべてが修行ですから、「人生そのものを悠々と生きる」といってもいいかもしれません。どんなときも、あわてたり、力んだりせず、悠々とふるまうのです。この「悠々と」という言葉を、念仏や題目のように心の中で唱えるといいかもしれません。そうして、意識的にリラックスし、肩の力を抜いて、端正に、ゆとりをもった身の振る舞い方を心がけていくのです。
 たとえば、歩くときも、せかせかと歩かず、おおまたで、悠々と歩きましょう。歩き方ひとつ見ても、そこに性格が出ていたりするものです。虎が歩くように、堂々と、優雅に歩くように意識してみてください。そうして歩き方を心がけること自体が、覚醒の修行となっているわけです。
 もちろん、アーサナや呼吸法や瞑想をするときも、悠々とやりましょう。仕事も悠々とやりましょう。人と話すときも、悠々と話しましょう。明るく、笑っているような気持ちで行うのです(そのために、常にかすかな笑みを浮かべているといいかもしれません。態度によって気分も変わりますから)。
 笑っているとき、人は明るく、リラックスしています。ですから、少し大げさにいえば、修行は笑いながら行うべきなのです。どんなことも、笑いながら悠々と行うようにするのです。人生は、どんなときも、なにがあっても、笑いながら、悠々と生きるべきなのです。そうすれば、自分の可能性を最大限に発揮することができます。
 これが、人生と修行の極意だと思うのです。
 私なども、そんな偉そうなことはとてもいえないので、そのように生きられるよう、心あらたに努力していきたいと思っています。

修行の基本的な姿勢 | コメント:5 | トラックバック:0 |

カルマ・ヨーガによる愛の実践

 一般の人は、ヨーガというと、柔軟体操のようなものだとか、呼吸法や瞑想法などを思い浮かべると思います。しかし、それはいくつかあるヨーガのなかのひとつの局面にすぎません。
 そのなかで、「カルマ・ヨーガ」と呼ばれるものがあります。カルマとは「行為」のことですから、「行為のヨーガ」ということになります。
 私は、このカルマ・ヨーガを非常に重要なものと考えており、クンダリニーやチャクラを健全に目覚めさせるには、このカルマ・ヨーガを徹底的に行じていかなければならないと思っているのです。
 覚醒していない人の行為の99%くらいは、「自我(エゴ)」を土台として営まれているのではないかと思います。すなわち、それは執着であり、打算であり、利己主義です。残りの1%くらいは、(魂からくる)純粋な愛を土台として行動しているかもしれません。
 カルマ・ヨーガは、この愛を土台とする行為を通して、覚醒と解脱に向かおうとするものです。愛を土台とした行為とは、愛を動機とすると言い換えてもいいでしょう。

 愛を動機とした行為とは、具体的にどのようなものでしょうか?
 それはいかなる報酬も見返りも求めず、世のため人のために奉仕する行為です。たとえばボランティアのような活動がそうですが、そればかりではありません。仕事であっても、その動機がお金や出世といった自分のためではなく、仕事を通して他者に奉仕するという愛の動機に基づいてなされたなら、それはまさにカルマ・ヨーガとなるのです。
 いかなる報酬も見返りも求めないというのは、要するに、結果にこだわらないということです。人に何かしてあげたのに、感謝もしてくれない、それどころか恩を仇で返されたといって、気分を悪くしたり憤慨するのでは、愛の奉仕(カルマ・ヨーガ)とはいえません。また、(他者に奉仕するために)仕事をがんばったが、それがうまくいかずに失敗し、がっかりしたり、腐ったり、悲観的になったりしても、それはカルマ・ヨーガの実践とはなりません。
 どのような結果が訪れようと、まるで他人ごとのように心平静に受け入れ、淡々としていなければならないのです。これがカルマ・ヨーガの修行です。かなり厳しいです。これは、自分を徹底的に捨てなければできません。自分を捨てて、捨てて、ひたすら捨てまくる修行といってもいいでしょう。

 カルマ・ヨーガの実践者は、「自分が愛している」などと思っていません。もしそう思っていたら、それはエゴであり、とんでもない傲慢な思いです。人間(自我)は愛することなどできないのです。真に愛することができるのは、ただ「神」より他には存在しません。
 したがって、カルマ・ヨーガの実践者たちは、「神が自分を通して愛しているのだ」と思いながら、無私の奉仕に励むのです。だからひたすら謙虚であり、ただ自分の役割に徹しているだけです。「自分を見せよう」とか「自分を認めてもらおう」という気持ちはありません(そのような気持ちを持たないように修行していくということです)
 要するに、カルマ・ヨーガとは、神のマネをして生きることなのです。徹底的に神をまねるのです。行為だけでなく、言葉においても、心においても、すべてを徹底してまねるわけです。
 しかし、いくら神をまねても、しょせんまねはまねであり、人間は神ではないと思われるかもしれません。ニセのブランド品は、いくら本物そっくりでも、しょせんはニセものではないかと。
 ところが、前に述べたように、人間の本質はもともと神や仏ですから、実は「まね」ではなく、愛の奉仕こそが本当の行為ということになるのです。

 このように、自分の行為・言葉・意識を、神の行為・言葉・意識に近づけていくと、ある種の共鳴現象が生じてきます。たとえば、200ヘルツの音叉を鳴らすと、同じ200ヘルツの音叉が共振して音を発しますが、共振して音を発するとは、エネルギーが与えられたことを意味しています。
 つまり、神の行為である愛の奉仕(カルマ・ヨーガ)を実践していくと、神の周波数に近づいていき、神の強大なエネルギーで振動するようになるのです。その振動エネルギーに触発されて、クンダリニーやチャクラが目覚めるのです。
 神のエネルギーは、至福そのものであり、生命そのものです。したがって、カルマ・ヨーガの実践者たちは、至福に満たされ、生命力に満たされます。そのため、病気などは治癒され、大きなバイタリティで満たされるようになってきます。

「もし今ここに神がいたら、神はどのように思い、どのように語り、どのように行動するだろうか?」と常に考えて実践していくのが、カルマ・ヨーガの道です。実際、神は、いまこの場所で何かをするために、私たちを派遣したのだと思うのです。私たちは神の媒体なのです。いえ、私たちは神そのものなのです。
 したがって、仕事も、修行も、日常生活も、あらゆることを、愛の奉仕として行い、その結果がどうなろうと、淡々として涼しい顔でいられるようにしようではありませんか。それはかなり難しい道ですが、これこそが覚醒の道ではないでしょうか。
 神は愛ですから、神は世のため人のために、すべてを捧げて一所懸命に働いてくださっているはずです。ならば、私たちも、すべてを世のため人のために行いましょう。
 金儲けや野心のためではなく(結果としてそれらがついてくるかもしれませんが)、あくまでも世のため人のために、仕事をしようではありませんか。世のため人のために食事をしようではありませんか(そうすれば体に悪い暴飲暴食などできないはずです)。世のため人のために遊ぼうではありませんか(世のため人のために尽くすことができる英気を養うために遊ぶのです。そうすれば、節度を超えることもないはずです)。
 そして、世のため人のために、覚醒の修行をしようではありませんか。
 すべて、世のため人のために、すなわち、すべてを神のために。
 結局、こういう生き方こそが、本当に自分のためになる生き方だと思うのです。なぜなら、私たちは神のもとでひとつにつながっているからです。

修行法 | コメント:4 | トラックバック:0 |

修行の本質について 2

 しかし、一所懸命がんばっても、覚醒できなかったらどうでしょうか? 実際、その可能性の方が高いと思うのですが、それはなんと辛いことでしょうか。
 残業でくたくたになり、入浴して遅い夕飯を食べ、あとはもう、ゆっくり疲れを癒したいという欲求にも負けず、じっと我慢して瞑想したり、呼吸法をしたり、アーサナをし続けてきたのに、それらがすべて無駄な努力になってしまうのです。
 こんなことなら、ビールでも飲みながらスポーツ・ニュースを見ていた方がよかったと後悔するかもしれません。食べたいものを遠慮なく食べ、趣味や娯楽に時間を使えばよかったと嘆くかもしれません。あるいは、出世に必要な資格取得のための勉強にでも費やした方がよかったと思うかもしれません。
 覚醒の道とは、このように、ある種の大きなギャンブルといえるわけです。途中でやめるくらいなら、最初からやらない方がましです。途中でやめたら、それまでの修行に費やした時間と労力はまったく無駄になってしまうからです。死ぬまで続けても覚醒できないかもしれないのです。
 覚醒の道というものは、一か八か、すべてか無か、です。修行に費やした膨大な人生の時間が、一瞬にしてパーになるかもしれないのです。
 そういうことになっても、静かに潔くその結果を受け入れる覚悟がなければ、覚醒の道など歩まない方がいいと思うのです。

 しかし、覚醒という、神に近づく聖なる道を、誰にも認められるわけでもなく、毎日こつこつと歩んでいるその姿は、すでに神であり、仏であるといえないでしょうか?この暗く混迷した世の中における、光であるといえないでしょうか?
 仏教の目的は「成仏」することです。成仏とはもちろん、死ぬことではなく、仏に成ることです。しかし、人間の本質は最初から仏なのですから、「成る」必要はないわけです。もうすでに私たちは仏なのです。
 ただ、仏であることに気づくこと、目覚めさえすればいいのです。しかし、もしその人が仏と同じ生き方をしていたなら、本人は仏であることに気づいていてもいなくても、第三者にとっては、その人はまさに仏そのものではないでしょうか。
 覚醒のための修行とは、仏の生き方、神の生き方そのものだと思うのです。表現を変えれば、仏や神のマネをすることです。それを完全にマネして生きる人は、世界にとってはまさに仏であり神そのものではないでしょうか。覚醒していようと、していまいと、関係はありません。

 つまり、私たちは覚醒の修行をしているときには、すでに神となり仏になっているわけです。そのような生き方をすれば、その影響力が周囲に放たれないということは決してありません。家庭でも職場でも、社会の到るところでも、その人の存在からは神的な影響力が放たれ、人や社会を変えているのです。これは疑いようもない事実だと思います。
 ですから、覚醒の修行が成就するかどうか、と気にするべきではないのかもしれません。人間はすでに神であり仏なのですから、実は修行なども必要なく、このままでいいともいえるわけです。ただ「このままでいい」ということがわからないから、修行をしているわけです。
 覚醒の修行をするときは、自分以外のなにものかに「成ろう」と修行するべきではないと思うのです。すでに神であり仏なのですから、それ以外のものに成ってしまったら、仏でも神でもなくなってしまうことになります。
 修行の目的は確かに「覚者に成る」ことではありますが、覚者とは「気づいた人」のことですから、「気づいた人になる」ということですが、しかし私たちが日常でなにかに気づいたとき、「自分は気づいた人になった!」などと表現しません。つまり、「覚者に成る」という言い方は、不自然なのです。

 したがって、成るのではなく、「ありのままでいよう」という発想で修行するべきだと思うのです。ありのままが神であり仏だからです。
 修行というものは、交換条件の取引ではありません。「これだけ修行をしますから、その報酬として覚醒を与えて下さい」というものではないと思うのです。愛が、交換条件の取引から生まれるわけではないように。「私はあなたを愛したい。そのために修行しなければならない」などという人はいません。愛は修行の末に生まれるものではないからです。
 神も仏も、その本質は愛だといわれます。であるならば、修行というものは、何かに成ったり、愛を獲得するための手段などではなく、目的そのものだということになります。
 つまり、修行とは、愛することなのです。瞑想も、呼吸法も、アーサナも、すべては愛の表現にすぎないということです。そういう発想で行うとき、すべては本当の意味で「修行」になるのではないでしょうか。これが、修行の本質であると思うのです。
 人生というものは、どれだけ成功したとか、財産を作ったとかで価値が決まるのではなく、いってみれば「愛した者勝ち」なのです。
 毎日こつこつと、覚醒の修行を続けていくこと、すでにそれだけで、人生の勝利者であるといえるのではないでしょうか。


修行のガイドライン | コメント:8 | トラックバック:0 |

修行の本質について 1

 この世の中で、覚醒(解脱)への道ほど、価値のあるスリリングな冒険はないでしょう。しかし同時に、これほど困難な冒険もないかもしれません。
 覚醒への道が困難であるというのには、二つの理由があります。ひとつは、修行そのものの難しさです。長く瞑想したり、呼吸法や体操(アーサナ)をしたり、感情を支配したり、善のカルマを積んだりといった修行を、毎日ひたすら続けていくことは、楽ではありません。
 しかし、現代において覚醒の道をめざすことの難しさは、修行そのものもさることながら、次の点にあると思うのです。
 それは、修行のための時間を確保することの難しさです。
 私たちのほとんどが、修行のために十分な時間を確保することが難しいのです。
 毎日のように残業して、帰宅は夜の10時過ぎになるという人もいるでしょう。それから入浴して食事でもしたら、もうほとんど自由な時間は残されていないでしょう。第一、疲れて修行などする気持ちも起こらないかもしれませんし、頑張って修行したとしても、疲労と睡魔で瞑想などできないのではないでしょうか。
 毎日5時に退社できるなら、修行のための十分な時間が取れるでしょう。しかし、毎日5時に退社できる人など、どれくらいいるでしょうか? しかも、不景気な今日では、残業しなければ(残業代を稼がなければ)生活できないという人も少なくありません。そのため、修行の時間を十分にとるには、かなり生活レベルを落とすか、あるいは仕事など熱心にしなくても経済的な豊かさに恵まれているか、どちらかでしょう。独身なら生活レベルを落とせるかもしれませんが、家族がいたら、なかなかそうはできないでしょう。
 おおむかしも、それなりに修行の条件を整えることは難しかったと思いますが、時間に関しては、現代より恵まれていたように思います。何をするにしてもそうですが、「時間がない」ことほど、致命的なことはありません。
 しかし私たちは、そのような厳しい状況下にあってもなお、覚醒の道をめざしているのです。覚醒の修行以前に、修行できる時間的な条件をまず勝ち取らなければならないという、非常に過酷で厳しい状況を生きているわけです。
 そんな私たちは、偉大なる勇者か、あるいは、とんでもない大馬鹿者か……ということになるかもしれません。おそらく、世間から見れば後者なのだと思いますが、しかしもしも私たちが、すでに古い時代に覚醒して、今は天界で生きているとしたならば、こんな厳しい条件のもとでもなお、覚醒に挑んでいる人たちを地上に見たとしたら、尊敬の念を覚えるのではないでしょうか。

 私は、天界の覚者方は、私たちを、そんなふうに見てくれていると思うのです。
 覚醒を志していれば、天界の覚者、聖者方は、必ず注意を向けてくれるといいます。なぜなら、それが彼らの使命だからです。そして、私たちの熱意やカルマなどの事情によっては、はっきりと導いてくれたりしますが、ふさわしい時期がくるまでは沈黙のままかもしれません。しかしいずれにしろ、真摯に取り組んでいる限り、注意を向けてくれていることは間違いないようです。
 しかも、現代社会という、厳しい状況でもがんばって覚醒の道を歩もうとしているのですから、特別に敬愛の気持ちを向けてくれていると思うのです。
 そう思うと、たとえ覚醒が成就できなかったとしても、仏陀だとかイエスだとか、ババジだとか、その他、たくさんの偉大な聖者方に褒めてもらい、称賛してもらえているというだけで、なんとも幸せな気持ちになってはこないでしょうか。
 このことを、どうか想像や空想だと見なさないでください。実証はできませんが、本当に、そんな聖者たちが、私たちひとりひとりに意識を向けてくださっているはずなのです。目には見えませんが、実際に目の前にいて、やさしく微笑んでくださっていると思って間違いないのです。
 それはなんと光栄で、ありがたく、大きな喜びでしょうか!
 修行者というものは、結果にとらわれず、修行そのものに、そうした喜びを見いだしながら、歩んでいくべきではないかと思うのです。聖者方に見守られながら修行ができる、それだけでありがたく十分だという気持ちが大切だと思うのです。


修行のガイドライン | コメント:4 | トラックバック:0 |

執着を捨てるために 3

 執着を捨てるために、今度は心理療法的なアプローチをご紹介いたします。
 まずひとつは、精神分析的なアプローチです。
 つまり、「なぜ自分はこれに執着しているのだろうか? 自分が執着しているものは、実は別のものではないのだろうか?」と考えてみるのです。たとえば、過食や買い物依存症などは、満たされない愛情が大きな理由であるといわれています。本当に執着しているのは、食べ物でもなければ、物でもなく、愛情なのです。食べ物や物は、愛情の「象徴」にすぎないわけです。このように、心の本当の動機や理由などが判明しただけでも、執着がかなり緩和されることがあります。
 次の方法は、行動療法的なアプローチといえるかもしれませんが、執着する対象に、意図的にネガティブな印象を連想づけていくものです。
 たとえば、これは仏教や修験道に伝わる方法かと思われるのですが、性に対する執着を断ち切るために、「無常観」という、ある種の観想法があります。
 それによると、まず若い女性の肉体をイメージします。そして、その肉体がだんだんと歳を重ね、醜くなり、死体となってウジが湧き、悪臭を放ち、ついには骸骨となっていく様子を、リアルに想像していくわけです。そうして、美しい女性の肉体も、結局は醜悪なものに変わっていくのだと認識するのです。しょせんは無常で汚れた肉のかたまりにすぎないとして、そんなものに執着をすることは正しくないとするわけです。ちなみに、釈迦は女性のことを「クソ袋」といいました(腸にクソがつまっている肉の袋にすぎないといったのです)。これは強烈な表現ですが、そうして女性の肉体を甘美なものと認識する心を冷まそうとしたわけです。
 ただ、こうした方法は、「そもそもなぜ人間は異性に性的な魅力を覚えるのか?」という深い欲求への理解に基づいていません。表面的な執着を除去しようとするものです。比較的即効性はありますが、完全に性的な執着が捨てられるかというと、疑問が残りそうです。
 精神分析的なアプローチにしても、「自分は愛情を求めているのだ」とわかったとしても、なぜ愛情を求めているのかについての理解が不足しています。
 これまで見てきたように、執着を捨てるための、決定的なアプローチというものは存在しないと思います。どれも一長一短があります。それを考慮しながら、いろいろとうまく使い分けをしていく必要があると思います。

 執着を捨てる際に、もっとも陥りやすい落とし穴は、建設的な事柄への欲求までもそがれてしまうことです。
 たとえば、女性に対する性的な欲求という点でいえば、解脱を果たしたヨーガ行者でも結婚している人が多いですし、妻帯者のまま修行をして解脱を果たした行者もたくさんいます。したがって、性的な欲求を完全に消滅することが、執着を捨てるという意味ではないのです。執着がなぜ問題になるかといえば、要するに、物質的な欲望に意識が縛られたり、行動の自由が奪われたり、内的に混乱させられて平静な瞑想ができなくなるからです。そうした不都合がなければいいのです。
 おそらく、性的な欲求を完全に消滅させることは不可能ではないかと思います。ただし、完全に消滅させたかのように抑圧することはできます。そのような人は、ときおり見かけることがあります。
 ところが、そのように性的な欲求を抑圧させた人というものは、たいてい人間的な魅力に乏しいものです。人間的な温情、共感、人の心をあたたかくさせる雰囲気に乏しく、まるでロボットのような冷たい感じになってしまうのです。こういう人が、霊的に覚醒して進化した人だとは思えません。
 覚醒とは、ある意味では、生命力をフルに発揮できるようになった状態だと思うのです。したがって、覚醒した人は、生き生きとし、快活で、ユーモアもあり、人情味が溢れている人だと思うのです。


心の浄化 | コメント:4 | トラックバック:0 |
| ホーム |