心の治癒と魂の覚醒

        

 神という言葉

 この社会でまともだと思われながら生きていくには、あまり宗教やスピリチュアルなことはいわない方がいいようです。たとえば「神」といっただけで、胡散臭く思われる風潮が日本にはあります。そのため、「サムシング・グレート」といった言葉を使っている人もいます。
 しかし、実際は名高い科学者でも経営者でも、神やスピリチュアルやオカルトを信じている人はけっこう多いようです。ただ、おおっぴらにそういうことをいうと、ビジネスや科学者としての名声に支障が生じるので、あまり口にはしないだけです。
 覚醒だとか、心の治癒といったことも、できれば「神」だとか、宗教的なことはいわない方がいいのかもしれません。しかし、私が心理カウンセラーとしてたくさんの患者さんに接してきて感じたことは、もし根本的に心を癒そうとするなら、どうしても神や宗教やスピリチュアルな問題を避けて通れない、ということでした。
 ところが、心理療法やカウンセリングの世界で、そのようなことをおおやけに言ったり、書いたりしている人は少ないのです。ユングは例外としても、あとははっきりと「死後の世界は信じない」と明言している人も少なくありません。私個人としては、死にゆく人や不条理な病気や苦難に苦しむ人に対して、宗教やスピリチュアルな問題を避けて、つまり、唯物的な考えだけで、どうして患者さんの心が癒せるというのかと、不思議でならないのですが。

 とはいえ、やはりひそかに霊的なものを信じている人もいて、以前、心理カウンセリングを学んでいる人なら知らない人はいないある有名な先生と一緒に食事をしたときのこと、その先生が真面目に「(精神的に病んだ)患者さんに接していると、邪気が移って具合悪くなるんだよ。だから、診察が終わったら、神社の神主さんが使う御幣(ごへい=お祓いのときに振る白い紙のついた棒)で自分の体を清めているんだよ」といっていました。
 また、心理カウンセリングには、テレパシーというものが大きく治癒に関係すると私は考えていたのですが、そんなことを口にしたり書いたりする学者なんてもちろん誰もいません(そんなことをしたら学会から仲間はずれにされるでしょう)。ところが、『説得と治療:心理療法の共通要因』(金剛出版)という、海外の有名な精神科医の書いた本には、心理療法にはテレパシーの要因が関係していると、はっきりと書いてあるのです! 通俗本ではなく、まじめな専門書にこんなことが書いてあるとは驚きですが、やはり一流の人は違うなあと感心しました。

 話がそれてしまいましたが、覚醒という道も、「神」などという宗教的な事柄は、社会的な体裁からすると、できれば避けたいのですが、避けて通れないのです。世間は、「神」だとか「祈り」だとかいうだけで、へんな目で見ますし、ましてや「オーム」などといったら、それこそ後ずさりされてしまうわけです。

 ただ、実際、「神」という言葉ほど、手あかにまみれた言葉はないかもしれません。人によってとらえ方がずいぶん違うのです。ある人は、「神」というと、厳しく人間の罪を罰して地獄に落とす怖ろしい存在だと思っています。ある人は、お賽銭をあげれば願いを叶えてくれる自動販売機のような存在だと思っているかもしれません。
 私自身は、神というのは、「人格をもった宇宙法則」のようなとらえ方をしており、あまり神話的で着色されたイメージはないので、「神」という言葉には抵抗はないのですが、人によっては、周囲から植え付けられた、ずいぶん不適切だと思われるイメージを抱いているということが、最近、少しずつわかってきました。
 そのため、「神」と言ったとき、それは私の意図している「神」とはまるで違うものとして相手に伝わっている可能性があるようなのです。
 これはまずいと思いました。覚醒というものは、幻想を排除する方向を持たなければならないのに、逆に幻想を増強させてしまうのではないかと。

 そこで、神という言葉をなるべく使わずに、「実在」という言葉で代用しようかなと考えているのです。「実在」という言葉は少し堅いイメージがありますが、それほど着色されたものではないと思います。老子が、神や宇宙法則といったようなものは言葉では表現できないが、言葉を使わないと伝えることができないので、仕方なく道(タオ)という言葉を使ったように、私は「実在」という言葉を使うようにしようかなと、今、考えているのです。
 この実在というのは、高い次元の霊的な存在すべてを含めるとします。すなわち、それは神であり、仏であり、守護霊、守護神であり、天使であり、菩薩であり、宇宙法則であり、サムシンググレートであり、特定の聖者でもあるわけです。
 とにかく、高い次元には、私たちを救おうと力を貸してくれる存在がある、それを「実在」という言葉で表現しようかと。そのため、神という言葉の方がしっくりくる人は、「実在」を「神」に置き換えて読んでいただく、仏教徒なら「仏」に置き換えて読んでいただく、好きなように置き換えてかまわないようにしようかと。
 こうすることで、社会的な誤解も避けられるし、私の意図することが歪められて伝わることも、少しは減るのではないかと考えているわけです。

スポンサーサイト
修行のガイドライン | コメント:4 | トラックバック:0 |

人生というゲーム


 仮想現実を描いた映画は、むかしからいくつかある。『トータルリコール』だとか、『マトリクス』などが有名だ。『スタートレック』には、「ホログラムデッキ」という仮想現実を作り出す船室が登場する。また、アメリカのドラマで、こんな内容のものがあった。
 二人の若い男女が、リゾート地で椅子に腰かけながら、幸せそうなときをすごしている。すると、男性が突然、「なんか、焦げ臭いにおいがしないか?」と女性に尋ねる。女性は「しないわ。気のせいよ」という。男性もそうだなといって、二人で眠りにつく。ところが、これは仮想現実で、実はこの男性は仮想現実を作り出すカプセルの中にいて、その場所が火災となり、煙が立ちこめていたのであった。

 仏陀やイエスなどの聖者たちが、もし現在に生きていれば、彼らはこの仮想現実という言葉を使って教えを説くかもしれない。人間の本質は霊的なもので、本体は霊的な領域に存在しており、ただ意識だけが物質世界だけにフォーカスしてしまっているために、物質世界という仮想現実に生きているように錯覚しているのであると。
 人間は、この仮想現実の世界を、まるでチェスのコマのように、カルマの法則だとか、喜怒哀楽に振り回されながら、生きている。それは実際、ゲームのような面白い一面もある。ビジネスのゲーム、金儲けのゲーム、恋愛のゲーム、冒険のゲーム、趣味のゲームに熱中するときもある。
 だが、楽しいゲームはそういつまでも続かない。いずれ形勢が悪くなってきて、悔しがり、悲しがり、絶望的になる。それでも、この世界は現実であるという認識のままであれば、「ゲームの負けを取り戻すぞ!」とばかり努力を重ね、しばしば成功して、ゲームの終盤を成功でおさめることもある。一方で、ゲームの敗残者として苦渋のままゲームオーバーを迎える人もいる。

 たとえ、この世的に名声や富や成功をおさめたとしても、それは人間が本来もっている偉大な霊性に比べれば、子供だましのようなものだ。だいの大人がままごと遊びをするようなものである。地上の人生は、本来の人間の実相からすれば、単なるゲーム、むしろ屈辱的なゲームであるといいたい。しかも社会によって、この屈辱的なゲームをするように強いられているともいえる。
 一方、こんなゲームの繰り返しにあきあきした魂の持ち主、物事を慎重に考察する鋭い感性を持った人たちは、「この世界はどうも変だぞ」と、うすうすながら気づきはじめる。「焦げたにおい」を感じるのだ。釈迦やイエス、ヨーガの求道者たちは、この世界がリアルな世界ではなく、映画のような幻影であり、仮想現実であることを見抜いた人たちだ。
 実は、誰もが死んで霊界の入り口に立ったとき、この事実を悟るそうなのだが、すっかりと忘却しているのである。

 この物質世界こそが現実であり、唯一にしてリアルな世界だと信じ切っている社会からすれば、このようなことを考える人は、まず頭がおかしいといわれる。
 釈迦やイエスや多くの聖人たちが説いたことなのに、彼らは頭がおかしいとはいわれずに「偉大な人」といわれ、私たちがいうと、同じ事をいっているのに「頭がおかしい」といわれる。もちろん、彼らのように「仮想現実」から見事に脱出できるかどうかは別としても、この世界は仮想現実だという考えそのものは、誰がいおうと変わらない。「うそだと思うなら、世間が偉大だと認めている釈迦やイエスの教えに耳を傾けてみろよ」といっても、誰もそうする人はいない。洗脳されたカルト教団の信者が、その他の事柄にはガンとして耳を貸したりしないように。

「おまえはサルだ」と催眠術をかけられ、自分はサルだと信じ込んでサルのように人々が暮らしている国に行ったとしよう。そして、その住民を片っ端からつかまえてはこういったとしよう。
「おい! 木に登って木の実をあさったり、地べたにはいつくばったり、なわばり争いなんかやめろ! 俺たちは人間なんだぞ!」
 そんなことをいったら、頭がおかしいとバカにされるか、無視されるか、あるいはひっかかれるであろう。同じように、聖者たちはこういってきたのだ。
「おい! つまらないものに欲望を抱いたり、屈辱的な生き方をしたり、お互いを殺し合うことをやめろ! 俺たちは神なんだぞ!」
 結局、そんなことをいったがために、イエスをはじめ聖者たちはバカにされ、迫害されてきた。それでも、追随者が彼らを伝説的な存在、言い換えれば「権威者」にしたてたので、一応、世界は彼らを聖者とみなすことにしたが、彼らのいいぶんを本気で受け入れているわけではない。せいぜい、彼らが説いたことを机の上で研究するだけの人間をたくさん生み出しただけである。学者たちは本気で彼らの教説など信じてはいない。ただ知性を喜ばす「ゲーム」を楽しんでいるだけである。もし本当に信じているのであれば、なによりも実践して、この地上という仮想現実、ゲームボードからの脱出を試みるであろう。

 あえて地上での人生を「ゲーム」と呼ぶならば、私たちがこの地上にやってきたのは、「この地上が仮想現実だということに気づくゲーム」をしに来たのである。霊界に戻って始めて、これがゲームだったことを思い出し、「しまった! また同じゲームをしに地上に行かなくては!」と残念がる。
 ついにゲームであることを見抜き、屈辱的なゲームを卒業して、比較にならないほど高貴な目的と生活に向けて上昇していく魂たちを、羨望の目で見つめながら。

 私は、渋谷の街頭に立って、「ねえ、あなた。この世界は現実ではないんですよ。私たちは幻覚を見ているんです。私たちの本当の姿、本当の住む場所は、ぜんぜん違うものなんです。そのことに目覚めようではありませんか!」
 などと人々に声をかけるようなことはしない(そんなことをしたら警官がやってきて「おまえ、クスリやってるだろ」といわれるのがオチだ)。
 そのかわり、広大なインターネットの片隅で、小さくこのことを訴え続けていこう。
 私は「本当の現実」についてはまだ知らないが、この地上が仮想空間であることは、これまで30年以上もの研究の末に、ほぼ間違いないものとして確信している。人類の実存にかかわる、これほど重要なことに気づいた者の義務として、そのことを訴えていかなければならないと思っている。
  
求道者の慰め | コメント:7 | トラックバック:0 |

神と波長を合わせるために

 覚醒とは、神と波長を合わせて生きることだという表現もできると思います。同じ振動数をもった音叉が共振するように、神と波長を合わせてひとつになるには、私たちの方が神の属性に合わせていかなければなりません。
 では、神の属性とは、何でしょうか?
 それは、愛であり、光であると思います。神は、愛と光のエネルギーそのものです。
 ところで、覚醒をめざすような、宗教的また哲学的な人は、控えめにいっても善い人の範疇に属すると思います。困っていたり苦しんでいる人がいたら、できる限り助けてあげたいという気持ちを持っていると思います。つまり、愛についてはよく理解していて、実践面においても、おそらく平均的な人よりも上ではないかと思います。
 しかし、一方の「光」についてはどうでしょうか?
 いわゆる「善い人」といわれるような人は、優しさや愛については申し分ないのですが、「光」については、やや難点がある人がいるような気もします(自戒を込めて申し上げています)。
 つまり、ひらたくいえば、「暗い人」が、けっこういたりするのです。
 物事を悲観的に考えたり、取り越し苦労や不安のために、陰気な感じが支配しているのです。こういう傾向は、直接的には人に迷惑をかけているのではないので、本人もそれほど悪いことだとは思っていません。そのため、自分で暗いことをゆるし、暗さを野放しにしているようなところがあったりします。
 ところが、神の属性は光、すなわち、明るさですから、暗いことは、神と波長が合わなくなることになり、それだけ神の加護や恩恵、覚醒から遠ざかってしまうことを意味しています。
 とはいえ、お世辞にも健全とはいえないこの世の中を生きていたら、誰だって暗い気持ちになっても無理はない、むしろ、人間として当然ではないかという気もしないではありません。
 ただ、善いか悪いかという視点ではなく、「得か損か」という視点で考えるならば、暗いことは、あきらかに損です。いいことは何もありません。かえって、その暗さが暗さを呼び寄せて、ますます暗くなっていく可能性さえあります。ならば、前にも申し上げたように、覚醒をめざす人は感情をコントロールする力を養い、「損なことはしない」と決めて、それを実行する必要があると思うのです。
 しかし、理屈ではわかっていても、暗い気持ちをすぐに改めることは簡単なことではありません。この地上に生きていて暗くなってしまうのは、ある種の必然といえる理由もあるからです。実際、釈迦などは、「この世は苦なり」と断言しています。世の中に暗い側面があるのは事実であり、それを無視して明るい気持ちになることは、自分をだますことであり、無理だと思うのです。
 ただ、世の中には暗い面があることは事実ですが、明るい面があることも事実ではないでしょうか。暗い人は、けっこうこの事実を忘れていたりします。世の中の暗いところだけに意識が向けられていたりするのです。
 そこで、世の中には暗い面があることは認めつつも、明るい面により意識を向けていくようにしたらどうでそうか。そうすれば、気持ちを光明で満たすことができるのではないかと思うのです。
 そうして、愛と光(明るい気持ち)で生きるように努めることにより、神と波長が合って、神の恩恵がより得られるようになり、結局、覚醒に近づいていくのだと思うのです。

修行の基本的な姿勢 | コメント:2 | トラックバック:0 |

推薦図書 『ヒマラヤ聖者の教え』

推薦図書 『ヒマラヤ聖者の教え』 
ジャスティン・オブライエン 著 伍原みかる 訳 徳間書店 2008年

 本書については、先日に少し触れましたが、あらためて推薦図書としてご紹介したいと思います。
 この本は、インド生まれのヨーガ行者で、1996年に没したスワミ・ラーマに教えを受け、ともにヨガの布教活動をしたアメリカ人男性が綴ったものです。
 スワミ・ラーマは、インド北部に生まれ、ヒマラヤの伝統的な修行場である洞窟の僧院で育てられ、ヨガの修行に励んだとされます。著者が描く彼の人物像は、優しく温厚で、ユーモアがあり、とても人間くさいものですが、テレパシー、読心術、何もないところから物品を現出させる、ヒーリング、テレポーテーションなど、多くの超能力のエピソードもたくさん紹介しており、580ページを超える大著でありながら、最後まで興味をもって読み進めることができます。
 スワミ・ラーマの業績は、アメリカにヨガを普及させたことでしょう。日本にも少し滞在したことがあるそうです。著者はそんな彼と長い間身近に接し、さまざまな体験や教えを受けました。本書において断片的に紹介されるスワミ・ラーマの教えは、まさに核心をついたものといえ、大変に参考になります。
 本書はいろいろなことを、私たちに示唆してくれる内容を持っていますが、単なるきれい事ばかりではなく、スワミ・ラーマが受けたさまざまな苦悩についても、よく書かれており、それが印象的です。
 彼が受けた苦悩の大半は、弟子や生徒たちによる「忘恩」でした。彼がアメリカに設立したヨガを教える組織は、やがて内部で醜い権力闘争や腐敗、分裂が生じてしまいます。そういうところまで、著者はしっかりと書いており、人間のエゴのやっかいな面を考えさせられます。霊性修行の場であるはずの世界にさえ、あからさまにエゴが顔を出し、組織の上部の地位を狙って争いが起こったり、物質的にも霊的にもスワミ・ラーマから多くの恩恵を受けた側近の弟子たちでさえ、「自分の欲求を(もっと)叶えてくれない」といった不満から、彼を悪くいったり、去っていってしまうのです。著者がこんな言葉を吐いています。
「ほとんどの人は人生の思いがけない贈り物(覚醒のための教えのことをさしている)など欲しくないのだ。むしろ自分にある制約と身近なことがらの中で、安全に暮らしていきたいだけなのだ。彼らは自分のエゴを増大させる真理しか信用しないのだ」
 それにしても、これほど卓越した能力と高い覚醒の境地、そして無私の愛ともいえる献身的な活動をした聖者が、つい最近まで世界に存在していたとは、今更ながら驚きを禁じ得ません。
 すぐれたグルに出会うことは宝くじに当たるよりも稀な貴重な幸運だというのに、そうした幸運に恵まれても、それを活かすことなく、エゴのためにみすみす捨ててしまっている人が少ないことを思うと、複雑な気持ちになってきます。
 エゴは、自分を変えようなどと欲していない。覚醒など欲していないのです。覚醒の道を求めて歩む者にとって、エゴこそが最大の障害だといえそうです。
 スワミ・ラーマを苦しめたのも、結局は、人々のエゴだったわけです。

推薦図書(覚醒編) | コメント:0 | トラックバック:0 |

覚醒を求めたら何が訪れるか?

 アメリカにヨーガを普及させる活動を精力的に行ったスワミ・ラーマについて、弟子が書いた『ヒマラヤ聖者の教え』(徳間書店)という本には、覚醒のための貴重な示唆が溢れています。
 そのなかで、覚醒を求めたら、その人はどうなっていくのか(どんな運命を経験するのか)について、興味をそそるエピソードが書かれてありますので、少し紹介してみます。
 弟子であり本の著者であるジャスティン・オブライエンは、スワミのアメリカでの普及活動を熱心に手伝っていたのですが、あるとき、「私は覚醒したい。そのためにはどんなことでもする覚悟がある」と師に告げました。
 するとまもなく、スワミが主催するヨーガ普及のための組織の評議会に呼び出され、彼の持っている博士号や学位は詐称ではないかと、あらぬ疑いをかけられ、組織の運営業務を一方的にやめさせられ、さらに彼が教授職を勤める大学も彼の経歴に疑惑を抱き、大きなスキャンダルにさらされることになりました。
「僕には名前も、地位も、認識番号もない。築いてきた家はみな取り壊された-学位、地位、名声、オフィス、監督権、職歴。訴えるべきところもない。妻を守ってやることさえできずにいる」
 こうして、プライドも、人を教えることに生き甲斐を感じていた教授職も、さらに、世界は正義が貫いているという信念も、すべてずたずたに打ち壊されて苦悩のどん底に突き落とされる数ヶ月間を経験したというのです。
 最終的には、誤解は解け、彼の学術論文は高く評価されて、以前より高い名声を取り戻し、教授職や組織の活動にも復帰することができたのですが、とにかくいっときは、死ぬほどの苦悩を味わったといいます。
 なお、彼をおとしめたり非難した組織の人たちは、彼の名声が回復すると、自ら組織から去っていったということです。

 また、オブライエンは、あるとき師のスワミ・ラーマがこんな話をしてくれたと紹介しています。少し長くなりますが、引用してみます。
「ある日、師(スワミ・ラーマの師)と川べりを歩いていた時のこと、ひとりの男が崇敬を表し言葉をかけてきた。そして覚醒に近づくためにできることは何かと質問した。『三か月嘘をつかないこと』師はそう答えた。いいかい、真実を語れでなく、ただ嘘をつくなと言ったんだ。男は家に戻り、その行を始めた。
 彼は政府の仕事をしていて、そこではある収賄行為がなされていた。彼もそのことを知ってはいたが、関与はしていなかった。翌週オフィスに不意打ちの捜査が入り、全員尋問された。捜査官から収賄について聞かれた時、男は師の言葉を思い出し、洗いざらい話した。捜査官がオフィスの他の昔たちに尋ねると、彼らはその男こそ首謀者だといって罪をなすりつけた。男は起訴された。
 妻は男が捜査官に話したことに激怒した。ただ口をつぐんでいればこんなことにはならなかったのに、そういって責め立てた。男は聖者と川べりで会った時のことを話して聞かせた。『結構ですわ』妻は言った。『そんなに私に恥をかかせたいなら、その聖なるお方のところに行ってください』彼女は離婚を申し入れた。
 友人たちは彼を愚か者だと言ってその窮状を笑った。子どもたちでさえ、自分より妻と暮らすことを選んだ。妻は預金を全部引きだし、夫を拘置所に残したまま去っていった。彼には弁護士を雇う金さえなかった。
 男は自分のおかれている状況を見て、嘘をつかずにいることで、このあとどんなことが起こるのだろうと思った。
 判事の前に連れだされ、彼の側の言い分を尋問された。男はこの『嘘をつかない』という一連のできごとがいかにして始まったのか説明しなければ、という強い衝動にかられた。男の話に息をのんだ判事は、休廷を申しわたし彼を執務室に呼びだした。そこで二人のサドゥ(行者)についてもっと詳しく話すよううながした。それを聞くうち、判事はこの男が出会ったのが自分のグルだったと悟った。それをきっかけに、証拠書類が再度詳しく検討され、いくつか矛盾点が発見された。起訴は取りさげられた。
 男は晴れて自由の身となったが、ひとりきりだった。他にどんなことが起こるのだろうと思った。行の三か月が終わる頃、200万ルピー(およそ2000万円)の遺産を相続したという電報が届いた。するとすかさず妻が連絡をよこし、すべては自分の誤解だったと認めてきた。しかし男はもとの生活に戻るつもりはないと丁重に伝えた。あまりにもたくさんのことが起こったその三か月、男は嘘をつかずに生きることが何をもたらしていくか見たいと思ったんだ」

 このように、覚醒を求めたときには、その人が大切にしているものを、ことごとく奪い去られてしまうようなことが起きたりするようです。名声も、仕事も、お金も、家族さえも、奪われてしまうのです。もっとも、以上の二例は、最終的にはほとんどのものは取り戻しているので、まだマシかと思われます。失ったまま、ということもあるに違いありません。
 とはいえ、失われたものは、案外、自分が思うほど大切なものではなかった、ともいえるのかもしれません。特に後者の場合、あきらかに彼の妻はカネに目のくらんだ、本当の愛情がない女性だったように感じますので、こういう女性と縁が切れてよかったともいえるでしょう(この話の先はどうなったのかわかりませんが、おかげでもっとすばらしい女性と出会って結ばれたのかもしれませんし、あるいはそういう願望は超越して高い覚醒の境地に達したのかもしれません)。
 こういう出来事には、自分の心やカルマを浄化するだけでなく、自分の周囲の、自分にふさわしくない人や物をも浄化する、という意味があるのかもしれません。
 いずれにしろ、正直を貫いたこの男は偉いと思います。世間からすれば、いわゆる「バカ正直」といわれるでしょうし、実際、正直だったために、職も家族もお金も失われて牢獄に入れられたら、大半の人は「ああ、自分はなんてバカだったんだ! 人生なんて、正直に生きるべきじゃないんだ! この世に神も仏もあるものか!」などと嘆き、心をゆがませてしまうでしょう。そしてそれからは、ゆがんだ人生を送るようになってしまうかもしれません。
 しかし、そのような気持ちになったら、この「試練」は、きっと落第となり、その後の人生は、覚醒は遠のき、カルマの渦の中に巻き込まれて、いつまでも課題を先延ばししたまま、さえない人生を送ることになってしまうように思います。
 正直に生きて、ここまで過酷な不運や不当な扱いを受けてもなお、そこに神意を信じるという気持ちは、超人的かとも思うのですが、こういう実話を知ると励まされる思いもします。
 覚醒を求めて歩んだときには、こういう厳しい試練に見舞われる可能性があるということは、覚えておいていいかもしれません。それはすべて、エゴをうち砕いて本当の意識を開発するために訪れるのですが、もしそのような試練が訪れたときには、せっかちに結論を下したり、心をいじけさせたりせず、じっと耐えて静観している態度が大切であるようです。

心の浄化 | コメント:2 | トラックバック:0 |

無為の道

 覚醒や悟りというものを、どのように認識するべきかという点では、いろいろな見方や考え方があると思いますし、実際、そのように多角的に見て理解することは大切だと思います。
 そのうちのひとつの見解としていえば、覚醒というものは、結局のところ、高い次元の意識(神、また神とダイレクトにつながっている真我やハイアーセルフ)で生きることだと思うのです。
 すなわち、宇宙(神)の意思そのままの生き方をするということです。チャネラーや霊能者のように、神からメッセージや霊感を受けて、その通りに行動するのではなく、自分の考えが同時に神の考え、いや、考えることさえもせず、ただただ宇宙の法則や神の理念そのものの行いや生き方しかできない、ということです。
 このような境地を、老子は「無為自然」と呼びました。
 老子は、覚醒というものを、彼なりのスタイルで非常に巧みに、純粋に表現したと思います。彼が残した『老子道徳経』は、繰り返し読むに価するものと思います(一説によれば、老子はヨーガの伝説的な偉人の生まれ変わりだそうです)。おそらく老子という人は、肉体や地上の物理的な制約を超えた、まさに霊人、神人であったに違いありません。

 老子は、人格的な神は認めていないようです。ただ宇宙の法則だけが存在し、それは本来、どのような呼び名でさえも表現できないものであると断ったうえで、「道(タオ)」と呼びました。この「道」とひとつになった人が、老子にとっての聖者であり、君子なのです。
 ところで、老子が説くように、人格的な神は、存在しないのでしょうか?
 無から有は生まれないということを考えれば、私たちに人格があることは確かでしょうから、神にも人格があるとは思うのですが、もしかしたら、その人格は、私たちのレベルとは非常にかけ離れており、私たちの感覚からいえば、人格とは呼べないようなものなのかもしれません。
 たとえばもし、人間と同じようなレベルの人格を神が持っているならば、これほどの残酷さや悲しみが生じる世界を創造するとは、私には思えないのです。突如として洪水がやってきて、善い人も悪い人も、女も子供も、赤ちゃんも、すべてを深い海に沈めてしまうようなことは、少なくても人間的なレベルをもった人格的存在がやるとは思えません。世界を創造したのなら、そのようなことを起こさないことも可能なはずです。したがって、そういう悲惨が起こるということは、人間が死のうと生きようと知ったことではなく、法則は厳格に施行されるということなのかもしれません。
 したがって、究極の神、創造主としての神は、ほとんど宇宙法則のような存在ではないかと思うのですが、しかしそこから派生して、神より少し次元が低い(人間に近い)守護神といった存在には、あきらかに人格があるように思います。そして、偉大な愛を持ち、苦しむ私たちを救おうと、懸命に努力してくださっていると思うのです。
 もっとも、そのような存在を生み出したのも、もとはといえば(法則である)神ですから、神は冷酷であると同時に慈悲深い存在であると、いえるのかもしれません。

 話をもとに戻しますが、では、老子が理想とした人格(すなわち、宇宙と一体化した人格)とは、どのような人格なのでしょうか?
 それをひとことでいうと、「謙虚さと柔和さ」です。老子が描く理想的な人格像は、謙虚で柔和で、とらわれなく自由で、のびのびとしていています。この世の喜びにも苦しみにも心乱されることなく、生かされるがままに生き、流れに身をまかませたような生き方です。根性だとか、信念だとか、がんばるといった生き方とはおよそ無縁です。それが「無為自然」の生き方です。換言すれば、「宇宙の法則」ということになるわけです。
 このような生き方は、単なる怠惰な人と、同じように見えてしまうことがあるかもしれませんが、もちろん、まったく違うわけです。ただ、老子のこうした思想を、単なる怠惰な人が「言い訳」にすることはありそうです。本当に怠惰な人による、文字通りの「無為」は、自我という虚構の自意識による病的なものですが、老子のいう「無為」は、自我の力みや我欲を、完全に消滅させたことによって実現するものです。それは、宇宙法則に完全に身をゆだねた、全託した生き方です。全託しているという思いすらもないでしょう。がんばろうと力まなくても、結果的にがんばって力んでやったと同じくらい効果的な、それ以上に効果的な行いができるようになるわけです。
 すべての人は、本来、このような能力が存在しているのですが、自我によって邪魔されているわけです。そして、この自我というものは、「オレ様が一番だ!」といった、根深い高慢な思いを中核に持っています。このような自我がある限り、無為の境地は得られないでしょう。つまり、覚醒することはできないわけです。

 したがいまして、謙虚で柔和であることを心がけていく必要があると思うのです。もちろん、謙虚になろう、柔和になろうといっても、一朝一夕でなれるわけでもなく、自我はずる賢いので、今度は謙虚であることを自慢しようなどと、たくらんでいたりします。そうして、謙虚であるフリをして、自他をごまかそうとするわけです。
 しかし、そういう自我のワナに注意をしつつも、やはり謙虚であろうとする努力は必要だと思うのです。決して偉ぶらない、自慢をしない、見せびらかさない、人を差別しない、頭は深く下げる、感謝の言葉やお詫びの言葉を口にする、馬鹿にされても怒らない、人を自分のために利用しようとしない、相手の立場になってよく考える、独善的にならない、相手の話をよく聴く……、こういったさりげない行為の積み重ねが、ついには覚醒するにふさわしい人格的な基盤を養っていくと思うのです。


覚醒した意識の特徴 | コメント:5 | トラックバック:0 |

リトリート(集中訓練)の勧め

 ヨーガの世界に、「リトリート」という言葉があります。これは「苦行」だとか「集中訓練」といった意味です。行者たちは、普段の修行よりも時間をかけて、定期的に「リトリート」を行うのです。たとえば、3日間だとか、一週間だとか、あるいは一ヶ月といった期間、朝から晩まで修行だけに専念するのです。
 このリトリートを、私たちもしてはどうかと思うのです。
 もちろん、私たちは、そんなに長期間は修行などできません。しかし、いくら多忙とはいえ、休日にはある程度、まとまった時間が作れると思います。どうか「休日はレジャーに行くから無理!」などといわないで下さい。英気を養うためにはレジャーも必要ですが、「仕事も遊びも覚醒も何もかも手に入れたい……」というのは、さすがに虫が良すぎると思います。やはり、何かは犠牲にしなければなりません。時間を節約し、あまり意味のない娯楽などは、できる限り削っていかなければ、修行のための時間など、とうてい作り出すことはできません。

 そこで、一週間に一度、休日に、1時間の瞑想の時間を作っていただきたいのです。それが私たちにとっての「リトリート」です。1時間なら無理ではないと思います。
 毎日毎日何時間も修行している専門の行者からすれば、一週間に一度、わずか1時間の瞑想を「リトリート」などというと笑われそうですが、一般の人からいえば、毎週1時間の瞑想を続けるというのは、それなりにすごいことではないかと思うのです。
 1時間、ずっと座った姿勢を崩すことなく、雑念に振り回されずに瞑想することが、どれほど難しいか、実際にやってみるとわかると思います。毎日3分間の瞑想とはまるで違います。足や腰は痛くなる、雑念やあらゆる妄想で気持ちが乱される、退屈で仕方がなくなる、眠くなる、きつくなる、「こんなことして何になる」と空しくなってくる……、いかに私たちは集中力に欠け、忍耐に欠け、落ち着きに欠けているか、わかってきます。また、1時間も座った姿勢でいられない肉体的な脆弱さもわかってきます。
 つまり、リトリートの意義のひとつは、時間をかけて集中的に修行をすることで、自分の弱点がわかってくることにあるのです。
 そのことを知るのは、エゴにとって不愉快ではありますが、だからこそいいともいえるわけで、体験的に自分の弱点がわかるからこそ、改善していくこともできるのです。そうして、リトリートをきっかけにして、修行が一段と進んでいくようになるのです。そのためにも、定期的にリトリートを行うことは大切です。

 毎日行っている3分間だけの瞑想では、なかなか意識が深く入り込めません。意識を深めるには、やはりある程度の時間が必要なのです。たとえば、30分くらい続けていると、ふっと雑念が少なくなって、まるで霧が晴れるような状態になることがあるのです。その他、通常の意識とは違う状態を経験することがあります。
 こうした状態を経験できる(かもしれない)のも、リトリートの意義といえるでしょう。いずれにしろ、リトリートを行うことによって、いろいろな気づきを得ることができるはずです。

 1時間以上の時間がとれる人は、もっと時間をかけて下さい。3時間でも、半日でも、丸一日でもいいでしょう(丸一日修行したら本格的な行者です!)。
 各自の都合によって、計画的に行ってください。ただし、これも定期的に継続していくことが大切です。

修行法 | コメント:0 | トラックバック:0 |

図書紹介 『霊の書』上・下

 図書紹介 『霊の書』上・下
アラン・カーデック編 桑原啓善 訳 潮文社 1987年

 本書は、19世紀に書かれた、いわゆるチャネリング本の古典である(当時はチャネリングという言葉はなく、「霊言」などと呼ばれていた)。今日、チャネリングに関する本はたくさんあるが、その深さと格調高さ、体系的に網羅された内容という点において、今なお本書の右に出るものはないと思っている。何度も読み返した私の愛読書のひとつである。
 通信した霊は、聖ヨハネ、パウロ、アウグスチヌス、ソクラテス、プラトン、スエーデンボルグその他で、通信手段は、プランセット(いわゆる西洋“こっくりさん”)を用いている。
 宇宙の法則、人間の生まれ変わりのしくみやその意味、魂の進化、霊界、人生の目的、苦しみや悲しみ、試練の意味、その他、非常に広範囲にわたる質問に、霊たちがよくまとまった言葉で格調高く答えている。
 チャネリングの本というと、耳に心地よいだけの、どこか軽薄な印象を受けるものも少なくないが、本書は文体としては読みやすくシンプルでありながら、最初から最後まで深く高潔な雰囲気が漂っている。読んでいて、非常に啓発させられる本である。

 そのなかで、自分を向上させることに関する部分を、少し長くなるが、抜粋して紹介してみたい。

〔質問者〕毎日の生活で、自己の精神的向上をすすめ、悪の誘惑にびくともせぬ、そのための最も効果的な方法は何ですか。
「古代のある賢人が、既に諸君に告げている<汝自身を知れ>と」
〔質問者〕私共はこの格言の知恵を十分に承認しています。しかし、この自己認識は、最も習得することの困難なものです。どうやったらこれが習得できますか。
「地上に在った時、私がやったのと同じ事をなされよ。一日の終りには、私は自分の良心に問いかけ、その日のすべての自分の行為をかえりみた。何か義務を怠らなかったか、誰か自分に不満のある理由を持つ者はいないかと。このようにして、私は自己認識を行い、自分の改善する必要のあるものは何か.これを確かめるのに成功した。毎晩こうして、その日のすべての行為を思い、良い事をしたのか悪い事をしたのか自問し、神や守護霊に導いて下さるように祈る者は、自己改善のための大きな力を得ることが出来る。と申すのは、神が彼を助け給うからである。これらの質問を自分にしてみるがよい。自分がした事を自分で調べなさい、どんなつもりでそれをしたのか、とくと自分に尋ねなさい。何かを人のせいにしなかったか、公言して恥じるような事をしなかったか。また、次のように自分に問いかけるがよい、<もし、いまこの瞬間、神が私を来世に呼び戻したいと望まれたら、何も隠しだて出来ない霊の世界に戻るにあたって、私は誰かの目を恐れねばならないことはないだろうか>と。自分のした事を、先ず神に対して、次に隣人に対して、最後に自分自身に対して、どうであるかを審査してみよ。これらの質問の答えが、自分の良心に休息を与えるか、あるいは、何か精神的な痛みを示すか、いずれかであろう。この痛みが貴方の治さねばならないものである」

 やはり、このような真剣な自己認識を毎日続けることによって、私たちは自らを成長させ、進化させていくのであろう。覚醒や霊的な進化に、魔法のような近道はない。こうした日々の地味な努力こそが大切なのだと、あらためて認識させられる。
推薦図書(覚醒編) | コメント:0 | トラックバック:0 |

セミナーのお知らせ 「魂を覚醒させる生き方と瞑想法」


 すでにホームページではご紹介させていただいていますが、9月、10月、11月にわたり、3回のセミナーを東京で行うことになりました。テーマは、「魂を覚醒させる生き方と瞑想法」で、より包括的で実践的な内容となります。
 とくに今回、重点をおいたのが、参加者に「実践する人になってもらうこと」です。当たり前のことですが、いくら本を読んで知識をつめこんでも、実践しなければ「絵に描いた餅」でしかありません。
 しかし、実践ということが、なかなか難しいのです。方法もよくわからないし、指導者もなく、日常生活でどう実践していけばいいのか、迷ってしまうわけです。
 そこで、いろいろと考えた末、CDに修行のガイダンスを録音し、それを自宅で聴きながら、アーサナや瞑想などの修行を行うのはどうか、というアイデアが閃きました。
 今回のセミナーで、皆様にお配りするCDは、ひとつは私が厳選した14種類のアーサナのやり方を説明したものです(詳しいイラスト入りのテキストもついています)。このCDのガイダンス通りに行えば、誰でも自宅でアーサナを独習することができます。
 また、特殊な音響を用いた瞑想用のCDもお配りする予定です。
 実は、私はある特殊な音響効果を使って音楽を作曲していたとき、偶然、アジナー・チャクラに刺激を与える音を開発したみたいなのです。この音を耳にすると、脳の中の、ちょうどアジナー・チャクラが存在するあたりで音が鳴っているように聞こえ、その部分が刺激されてムズムズしてくるのです。
 その他にも、霊的直感と関係のある右脳を活性化させる音響を取り入れたCD、過去のトラウマの傷を癒し、その結果として業想念の浄化に貢献すると考えられるCDもお配りする予定です。
 おそらく、こうしたCDは、他では手に入れることはできないと思います。まだ実験段階ではありますが、もしかしたら画期的な試みかもしれません。
 セミナーでは、覚醒の理論と、こうしたCDの土台となった霊的な原理、そしてCDの使い方を説明し、実際の修行は、自宅に戻って各自がCDを聴きながら行うという内容にしたいと考えています。
 単に本を読んで瞑想するだけでなく、こうした特別な効果をもったツールの助けを借りることで、より効果的に覚醒への扉が開かれていくのではないかと期待しています。
 ぜひ、足を運んでいただければ幸いです。

スケジュール:9/ 4(土) 10/ 2(土) 11/ 6(土)
受講時間:14:00~17:00(休憩20分あり)
場所:東京五反田
受講料金:25,200円(3回分)

 お申し込みは、アルカノン・セミナーズまで。
http://www.arcanumseminars.com/koza_annai.html#22
電話03-6420-0013

お知らせ | コメント:2 | トラックバック:0 |

本格的な瞑想を行うために必要なこと

 覚醒(解脱)とは、どのような状態なのかについては、いろいろなモデルやメタファーを用いて説明できると思います。たったひとつだけの定義で説明することは不可能だと思います。それゆえ、いろいろな人が、多角的な説明をすることは、とてもいいことだと思うのです(もちろん、ひとつの説明だけが唯一正しいと主張したり思いこむことがない限りにおいて)。
 私も、いろいろな表現で説明してきましたが、今回は、瞑想の意義について理解を深めるという視点から、新たなモデルを紹介したいと思っています。
 それは、深い井戸の底に光り輝く宝石が沈んでいるモデルです。その光り輝く宝石が、真我(神我)であり、魂であり、ハイアーセルフ、神といった究極的な存在です。その光源を、内的な意識を深めて発見し、その光とひとつになるのが、覚醒であり解脱です(そのようにたとえることにします)。

 ところが、この井戸水は、たくさんの泡が混入していて濁っているのです。そのため、底に沈んでいる宝石の光が表面に届いてきません。つまり、人間の本質は神であり魂であると、普通の人は思わないわけです。
 そこで、逆に表面から意識の光を通して水の底を照らしてみるのですが、水中の泡のために、光が乱反射してしまい、意識の光が底まで届いていかないのです。
 この水を濁している泡が、雑念や業想念といったものです。こうした雑念や業想念によって、瞑想を試みても、意識(という光)が違う方向に曲げられ、拡散させられて、深い意識層にまで届いていかないのです。
 そうではなく、レーザー光線のように、意識の光を、まっすぐに心の深層にまで照射させることが必要なのです。それが、瞑想の目的です。

 そのためには、2つのことをしなければなりません。
 ひとつは、泡をなるべく除去して水を透明にし、光の拡散を防ぐことです。
 ふたつめは、多少の泡くらいでは影響を受けないくらい強くて持続力のある意識の集中力を養うことです。この二つが、瞑想を成功させるためには必要となります。
 最初の「泡を除去する」ということですが、これは雑念や業想念を除去することです。すでに解説したように、雑念や業想念という泡は、表面に浮上してはじけることによって消滅します。ただしそのとき、そのはじけた泡で心を乱し、そのために新たな泡を作ったりしなければ……という条件つきですが。具体的には、ネガティブな想念や感情、あるいは不運といった運命的な現象になって消えるのです。
 他には、この泡を消す作用をもった「薬」を入れることです。具体的には、善いカルマを積んだり、崇高で美しい想念を積極的に抱くようにすることです。そうすると、この泡は小さくなったり、消滅してしまいます。
 さらにまた、この泡(雑念や業想念)は、肉体の不調から生じている面もあるので、肉体を健康にすることによっても、それなりの消滅をはかることができます(ヨーガのアーサナや食養生、戒律などの目的のひとつがこれです)。
 このように、井戸のなかから泡が消えていくと、瞑想が非常にやりやすくなります。雑念や業想念に意識を乱されることが少なくなり、文字通り、澄み切った心境となって、心の深くまで意識が浸透していくようになるのです。それがある程度まで深くなると、底に沈む宝石の光がぼんやりと見えてきて、なんとなく神聖な気配を感じたり、実際に光を見たり、超能力的なことを経験したりするわけです。そして究極的には神や真我を見いだして合体するのです。
  
 瞑想を成功させるために、もうひとつ大切なことは、集中力と持続力を鍛えることです。集中力とは、注意を一点に向けることであり、持続力とは、この状態を長い時間維持できる力のことです。短時間であれば、強い集中力を発揮できる人はたくさんいるでしょう。たとえば、すぐれたバッターがボールを打つ瞬間、ボールは止まって見えるそうですが、この「止まって見える」というのは、極度に意識が集中されたときに感じる独特な感覚なのです。とはいえ、この極度の集中力はほんのわずかな時間であり、この集中力を1時間も持続できる人間はいないはずです。
 ところが、瞑想の達人になりますと、これほどの集中力を1時間も、場合によっては何時間も持続できるようなのです。ところが本人は、1分くらい瞑想した感覚しかないようです。極度に集中しているため、時間は止まって感じられるからです。
 このくらい強力な集中力を身につけますと、多少の雑念や業想念が湧いてきても、影響を受けません。というより、そういうものは湧いてこなくなります。消えたわけではありませんが、意識の力によって一時的にはねつけられてしまうわけです(そのため、瞑想からさめて集中力が弱まるとと、雑念や業想念の影響を受けるようになります)。

 普通の人は、1時間ほどの間、集中できるどころか、不動の姿勢で座っていることがまずできません。足や背中が痛くなって瞑想どころではなくなってしまうのです。
 そのために、ヨーガでは、アーサナや坐法の訓練を長い期間にわたって積み重ね、何時間も楽に瞑想できるからだ作りに励むわけです。おそらく私たちのほとんどは、まだそこまで訓練を積んでいないので、本格的な瞑想に入る前に、とりあえず日常的なアジナーチャクラ瞑想や祈りを行っているわけです。それは本格的な瞑想のための準備という意義もあります。
 しかし、日常生活を営みながらの瞑想では、どうしても意識が深部にまで入っていけないので、やはり一定の時間、座って、瞑想に意識を集中する修行が必要となるわけです。

覚醒の理論 | コメント:0 | トラックバック:0 |

ヨーガ式の呼吸法-その大きな効果

 前回、日常生活を営んでいるときにも、意識的に呼吸を深く、規則正しく、ゆっくりと行うようにする、それを習慣づけることが大切であると説明いたしました。すでに実践された方は、けっこう難しいと思われたかもしれません。普通の人は、生まれてから今まで、呼吸の仕方を自覚すること、まして、それを意識的に変えていくなどということは、おそらくやったことがなかったでしょう。ですから、普通の生活をしているときは、呼吸のことなどつい忘れてしまうわけです。
 しかし、前回述べたように、私たちの大半は、意識しなければ、健全とはいえない呼吸をしています。そのために、プラーナ(生命エネルギー)がうまく体内に吸収できず、また、体内のプラーナがうまく循環できないでいるのです。その結果、心身が病んだり、本来の力を十分に発揮できない状況に陥っているわけです。

 このように、意識的に呼吸を深く、規則正しく、ゆっくりと行うように訓練していくことが必要なのですが、もう少し詳しく、このヨーガ式の呼吸法のやり方を説明いたします。
 ヨーガの呼吸法は、座って実習する場合は、吸った息を止めるということをします。これにはもちろん意味があるのですが、この呼吸法についての詳しいことは、まだ先で説明することにします。とりあえず今回は、日常の生活を送りながら行う呼吸について説明します。この場合は、息を止めることは基本的にはいたしません。
 ただ、普通の呼吸と異なる点は、胸と腹を両方使って呼吸をすることです。
 呼吸は、一般に胸式と腹式に分かれます。胸を膨らませるようにする呼吸、そして、お腹を膨らませるようにする呼吸です。女性は胸式、男性は腹式の呼吸をする傾向があるようですが、たいていはどちらかのやり方で呼吸をしているわけです。
 しかし、これですと、肺の機能が十分に活用されません。換言すれば、十分な空気を肺に取り入れることができないのです。意識的に空気を吸えば別ですが、無意識的に呼吸を行っているとき、胸式あるいは腹式だけでは、どうしても、浅い呼吸となってしまうのです。
 ところが、胸式と腹式の両方で呼吸をするようになると、たとえ無意識的に呼吸をしているようなときも、深い呼吸ができるようになるのです。したがって、胸式と腹式の両方で呼吸をするように習慣づけることが必要になってきます。それがヨーガ式の呼吸法なのです。

 具体的なやり方ですが、息を吸うとき、まず空気を下腹部に入れるのです(もちろん実際には空気は肺に入っているのですが、気持ちとして)。すると下腹部が少し膨らむはずです。そうしたら、しだいにお腹の上のほうへと空気を入れて膨らませていき、お腹の上部にまで空気を満たします。そうしたら今度は引き続き、胸の下の方に空気を入れ、最後に胸の上部に空気を入れます。
 そうして、息を吐くときは、やや腹筋に力を入れ、腹筋で腹をひっこめるような感じで吐いていくのです。
 これが、胸式と腹式の両方を用いたヨーガの呼吸法です。
 なお、呼吸は鼻で行います。特別な場合をのぞいて、ヨーガの呼吸法は口ではなく鼻で行います。
 この呼吸法を行うと、大量の空気が肺に満たされるため、通常より多い酸素を取り入れることができ、そのために呼吸の回数が少なくてすむようになります。また、肺に空気をいっぱいに吸い込んで吐き出すため、肺の中に滞留していたよどんだ空気も排出されて、血液をきれいにする働きもあるようです。
 このように、大量の酸素と血液の浄化によって、からだのあらゆる細胞や内臓が活性化されてきます。とくに大きな影響を与えるのは、脳です。脳は大量の酸素を必要とし、また血液が少しでも濁っているとうまく機能できません。そのため、大量の酸素を供給し血液を浄化するこのヨーガの呼吸法を行うと、非常に脳が活性化されてくるのです。つまり、精神(意識)が活性化されてくるということです。
 もちろん、こうした物理的な理由だけでなく、プラーナという生命エネルギーを多く取り入れるという理由によっても、脳やからだの細胞が活性化されてくるわけです。
 したがって、日常において、以上のようなヨーガの呼吸を意識的に行って下さい。そしてついには、それが無意識的にできるようになるのをめざしましょう。それにはけっこう時間がかかると思います。完全にそれができるようになるには、おそらく数年は必要かもしれません。それほどまでに、私たちがこれまで形成してきた無意識的な習慣というものは頑固なのですが、しかし、努力を続ければ必ず変えられます。世の中に、努力の積み重ねほど偉大なものはないと、私は思っています。

修行法 | コメント:3 | トラックバック:0 |
| ホーム |