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心の治癒と魂の覚醒

        

 高い霊的影響を受ける

 このブログは、師匠なく自力的な努力によって覚醒をめざしているので、基本的には日々の孤独な修行が中心になっています。
 しかしながら、ときには外部から(高い)霊的な影響を積極的に受ける工夫をすることも大切だと思います。そうすると、修行が進んだりします。
 そのために、比較的簡単に実践できる方法は、まず自然に接することでしょう。それも、霊山とか、いわゆるパワースポットといわれる場所に行くと、その場所が持つ高い霊的エネルギーを受けて、瞑想など修行がうまくいくことがあるかもしれません。
 ただ、本当に高い霊的な影響を放っているかどうか、よく見極める必要はあります。ゴミをポイ捨てするような人、マナーの悪い人ばかりがたくさん集まるのでは、いくらパワースポットと呼ばれていても、あまり霊的には高くないかもしれません。その場所に行って、気持ちがすがすがしくなるようであれば、たぶん、霊的に高いエネルギーをもった場所ではないかと思います。

 場所がもつ霊的エネルギーも大切ですが、人間がもつ霊的エネルギーは、さらに効果的であると思われます。その最高の存在がグルなのでしょうが、グルとまでいかなくても、自分より立派な人間性、人格をもった人と接することで、よい影響を受けることができます。ですから、そういう人を見つけたら、積極的に近づいて、交際をしてもらえるようにすると、よろしいのではないかと思います。そうすると、しばしば驚くほど修行が進むことがあります。

 また、特定のチャクラを活性化させるという点でいえば、チャクラを活性化させている人と交わることで、自分のチャクラも活性化されてきます。
 チャクラを目覚めさせる順番については、今後あらためて述べたいと思いますが、まずはアジナー・チャクラ、次に(あるいは同時並行的に)アナハタ・チャクラを目覚めさせるべきだと考えます。
 ある種の特殊な職業は、特定のチャクラを刺激することがあります。そのため、その職業において優秀である人と交わることで、特定のチャクラを刺激させることができるかもしれません。
 アジナー・チャクラが活性化されている職業は、発明や発見、創造的な職業、作家や芸術家など想像力を要する仕事、占い師や予知力などをもった神秘家などです。もちろん、こういう職業をしているからといって、必ずチャクラが活性化されているとは限りません。あくまでも、他の職業と比較して、というだけです。
 アナハタ・チャクラが活性化されている職業は、慈善家、宗教家、ボランティアや福祉関係、医療従事者、心理カウンセラー、また、ヒーラーといわれるような職業です。
 こうした職業に従事している人と交わると、特定のチャクラが活性化されやすくなる可能性があります(あくまでも可能性です)。
 もちろん、いくらチャクラが部分的に活性化されていても、その人の人格が立派かどうかは別ですので、人格が立派であることが一番大切です。

 それと、おそらくグルの次に霊的覚醒をもたらすであろう効果的な交わりは、立派な人間性をもった異性と交わることではないかと思います。それにより、短期間のうちにすべてのチャクラが活性化され、また人間的にも立派になる可能性があります。ひらたくいえば、恋をし、性的な交わりをすることですが、これは性エネルギー(クンダリニー)の制御と関係しているがゆえに、うまくいけば、霊的な修行を大きく推進させることができるようです。
 ただし、人間的にも立派で、なおかつ霊的な事柄に対する理解も豊かであることが条件ですから、そういう異性を見つけることは、グルを見つけるのと同じくらい難しいかもしれません。また、たとえ見つかったとしても、「自分の霊的覚醒のために相手を利用する」といった打算的な思いは捨て、純粋に相手を愛さなければ、実りある効果はもたらされないでしょう。そう考えると、なかなか容易なことではなさそうです。
 この件については、広くて深いテーマなので、いずれ機会を見つけて取り上げてみたいと思っています。

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 争いを避ける生き方

 本日、漁船衝突事故で拘留されていた中国人船長が釈放されることになったというニュースが流れました。この決断については、賛否両論があるようです。「中国の圧力に屈した腰砕け外交だ」と非難している野党の党首もいました。同じように思っている国民も多いかもしれません。
 私も、正直なところ、この解決が正しかったのかどうかはわかりません。尖閣諸島は石油が発掘されることが最近わかり、それまではあまり関心を示さなかった中国が、いきなりこれは自分たちの領土だと主張しています。日本からすれば、中国は自分勝手で横柄な感じもしなくはありませんが、中国は中国の言い分があり、自分たちは正しいと思っているのだと思います。
 しかし、仮に、日本が強硬な姿勢を保ち続けたら、どうなっていたでしょうか。漁船の衝突という小さな出来事が、両国の関係を悪化させ、両国の経済に深刻な打撃を与え、最悪の場合は戦争が起きて数え切れないほどの人が死んでしまうかもしれません。
 お互いに自分が正しいと思っている場合、いかに理屈を振り回し正論をぶつけ合ったとしても、いずれどちらかが「私が悪かったです」と非を認め、関係が修復されることは、まずありません。結局、憎しみが憎しみを呼び、復讐が復讐を招き、今のパレスチナのようになってしまう可能性の方が、はるかに大きいといえるでしょう。
 それほどの人的また物的損害の大きさを考えたら、石油が少し出るくらいの尖閣諸島などくれてやった方がマシだったと思うことになるのは必至です。小さな火が大火事になるとはこのことです。火は小さいうちに消しておくのが、何よりも賢明です。
 ところが、深みにはまると、それこそ「意地」になり、尖閣諸島なんかよりも、相手の国をつぶすことが目的となり、憎悪をはらすことが目的となってしまうわけです。
 個人でも、友達や恋人と小さなことで喧嘩が始まり、お互いに意地を張り合ってゆずらず、仲良くしていればすばらしい体験をたくさんしたであろう未来の可能性をことごとくダメにし、そればかりか、憎しみあい傷つけあって、お互いの人生を暗く不愉快なものにしてしまったりするのです。
いったい、何という愚かなことでしょうか。
 結局、人類は、こうした発想で今までやってきて、その結果が、今日のような有様になっているわけです。まさに、ここに人類の業(カルマ)を見るような思いがします。新たな発想が必要なのです。
 争いをしても、得になることは、あまりありません。総合的に考えると、損をすることの方が多いです。
 しかも、すぐに争うというのは、それだけカルマの力に流されているという証拠でもあります。これでは、いつまでも解脱も覚醒もできません。

 しかしながら、かといって、完全無抵抗主義がいいかどうかといわれると、私も迷います。相手が自分を攻撃してきたり、殺そうとしているのに、いっさい無抵抗で、攻撃されるがまま、殺されるがまま、というのは、それはそれで立派なことなのかもしれませんが、私にはできそうもありません。人生というものは、ときには徹底的に戦わなければならないときも、あるような気もします。
 しかし、そういう状況は、そうめったにあるものではありません。99パーセントは、争う必要も価値もないようなことであり、私たちは単に感情的になって(カルマの力に巻き込まれて)争っているだけなのではないでしょうか。
 そういう争いは、なるべく避けるように努力することが、覚醒に到る大切な修行のひとつではないかと思うのです。
 何かあれば、自分からすぐに「ごめんなさい」と謝ればいいのではないでしょうか。心ある相手であれば、「自分も悪かった」と思い、それから強い友情も生まれるでしょう。もし「そうだ、おまえが悪いのだ!」などというような相手だったら、それは付き合う価値もない人ですから、そのことがわかったということで得をしたことになります(そんな相手と付き合っていたらロクでもない目に合わされるでしょう)。
 また、なるべく譲れるものは相手に譲るのです。それで多少は損をしたように感じても、人生の収支というものは案外しっかりしているもので、後でその分が返ってくるものです。たとえそういうことはなかったとしても、相手がそれで喜び、相手が感謝してくれてお互いに気持ちのよいつきあいができれば、それも大きな得だといえるのではないでしょうか。少なくても、そのような大きな人間になれたという恩恵があります。

 もっとも、このように、すぐに謝ったり、相手に譲るような人、とりわけ男は、強い信念のない、くらげのような「意気地なし」と誤解されてしまうことが、なくもありません。こういう男性は、あまり女性にはモテないかもしれません。しかし、やたらに威張ったり強そうにふるまう男性に魅了されるような女性は、あまり頭のよくない女性です。本当に頭のいい、感性のすぐれた女性は、一見弱そうだが実は強い男と、一見強そうだが実は弱い男を、実によく見抜きます。ですから、心配はいりません。頭のよくない女性に愛されても、ロクなことにはなりません。本当にいい女から愛されましょう(笑)。
 自己保身や恐怖からではなくして、すぐに謝ることができる、そして相手に譲ることができるには、本当に強くて勇気がなければ不可能です。それはある程度、自分にうち勝っていなければできません。そして、自分にうち勝っている人こそが、本当の勇者なのではないでしょうか。なぜなら、世の中に、自分にうち勝つほど難しいことはないからです。個人も人類も、謝ることもゆずることもできず、すぐに争いを始めるのは、臆病で意気地なしだからです。控えめにいっても、カルマの力に負けているのです。
 覚醒をめざす私たちは、なるべく争いを避ける生き方を心がけていこうではありませんか。

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 スピリチュアルと娯楽

 このたび、私の携帯占いサイト(カテゴリー→占い→西洋占い→姓名の神秘)を運営してもらっている携帯コンテンツ制作会社ザッパラスの主催で、セミナーを開くことになりました。詳細はホームページにて紹介されていますが、このブログとはずいぶん雰囲気が違う、軽快なものになると思います。
 というのも、この会社は、スピリチュアル的なものを娯楽として提供しようという企業理念を打ち出しているからです。そのためにスピテイメント(スピリット+エンターテイメント)という言葉を作り出して、これから本腰を入れて事業展開していくようです。
 といっても、スピリチュアルなものを娯楽とする考え方は、今に始まったばかりではなく、過去も、現在も、ほとんどがそうではないかと思います。スピリチュアルな探求は、ほとんどの人にとっては「娯楽」や「趣味」なのです。

 私がこの世界に入ったのは20歳くらいのときからで、それまでは科学者になろうと思っていたくらいですから、スピリチュアルだとか、宗教といったものは、どちらかというと好きではなかったのです。しかし、もともと人生に対して暗く悲観的にとらえる傾向がある典型的な「ネクラ」少年(表面的には明るさを装ってはいましたが)で、この世界や人生を生きることに深い苦痛感を抱えていました。それは今でも変わらないのですが、そこから脱却するにはどうすればいいかということで、スピリチュアルにたどり着いたのです。しかも、単に教えを聴いて「慰め」や「気休め」を得るのでは満足せず、本当にこの世界から完全脱却しなければ幸せは得られないという切実なものがありましたから、ヨーガなどの実践的な教えに惹かれました。
 したがって、私にとってスピリチュアルというものは娯楽や趣味とはなり得ないのですが、世の中の大半はそうではないようです。
 そのため、いわば「娯楽」を求める人々の要請にしたがって、私も生活のためにお金を稼がなければならない事情もあって、娯楽としてのスピリチュアルなセミナーや執筆をしてきました。本音をいえば、そういう活動はあまり気が乗らず、あまりにもミーハーな仕事は断ったりもしてきましたが、最近は、スピリチュアルなものを、とりあえず娯楽として入門するということがあっても、いいのではないかと思うようになりました。そのため、頼まれれば、どんなに軽いノリのものでも、それなりにこなすようにしています。ただし、どんなに軽いノリのセミナーや執筆をしても、そこにちゃんと、このブログで展開しているような本格的なスピリチュアルの要素を盛り込むようにしています。そうすれば、それなりの意義があると思うからです。
 そして、そうしてスピリチュアルな世界というものを知ってもらい、その奥深い意義に気づいてもらってから、いよいよ本格的なスピリチュアルの道を歩んでいけばいいと思うのです。

 しかし、そのときから、スピリチュアルな世界は変貌します。今までは、どんな甘えもゆるしてくれた優しいお母さんのような存在だったのが、突如として、厳格な父親になるのです。なぜなら、スピリチュアルな道というのは、エゴを消滅させる道だからです。人々が娯楽と思うものは、ほとんどエゴを満足させるものでしょう。しかし、それとは正反対なのが、実はスピリチュアルの正体なのです。
 しかも、エゴを消滅させ、真にスピリチュアルな存在に移行するには、エゴを浄化させなければなりません。つまり、蓄積されていた悪いカルマを早く結実させて消していかなければならないのです。本来なら、何回もの生まれ変わりを通してカルマの負債を返していくべきところを、今生、あるいはほんの数回の生まれ変わりですべて返していかなければならないわけですから、スピリチュアルな道に入り込んだとたん、ありとあらゆる不幸災難や苦しみが訪れても、不思議ではありません。というより、それがまったく訪れないとすると、まだどこかでスピリチュアルではないのかもしれません。
 スピリチュアルな道とは、この世的な視点からいえば、辛く、苦しく、不条理で、損するばかりで報われない……といった思いに打ちひしがれる連続です。
 ですから、スピリチュアルな本などで、「こうすれば幸運なことが起きる!」と書いてあったりするのは、本当の意味ではスピリチュアルではないと思うわけです。スピリチュアルな世界に入る前の「待合室」でしかありません。もちろん、それはそれなりの意義はあるとは思いますが。

 地上世界の経済の論理が、人々のエゴを満たすという目的で循環していることは、明白でしょう。つまり、スピリチュアルな世界というものは、本質的にビジネスには成り得ないのです(詐欺まがいのことをして信者を集めたりすれば別ですが)。あまりにも正直に、スピリチュアルの本質を書いた本など売れないわけです。お金を払ってまで、辛く苦しい道を歩みたいと思う人など、いるでしょうか? お賽銭箱にお金を入れて「私に苦しみを与えて下さい」と祈る人など、いるでしょうか?
 しかし、霊的に高い境地へと進んだ存在たちは、地上の人間に何を期待しているかというと、エゴを満足させて、私たちのいう「幸せ」をつかむことではなく、常に人間性を磨い続け、(カルマの清算である)苦しみが訪れたら、それにじっと耐え抜いて生きることなのです。
 彼らは私たちに、こう叫んでいるのです。
「はかない地上の娯楽なんかに目を向けず、今はじっと耐えて、早くここに帰っていらっしゃい。ここには本当の“娯楽”があるのですから!」

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 雑念にどう対処するか 3

 前回の記事で、「瞑想していると、頭の中に音楽が流れてしまう」という内容のコメントを、読者の方からいただきました。
 こういうことは、どなたも経験があると思います。その場合、音楽なり、その他の行動を、繰り返し聞いたり行ったりした場合に、こういうことが起こるようです。
 これに関して私の体験をご紹介させていただきます。私が高校生のとき、初めてパチンコ屋に行きました。百円で玉を買って始めたのですが、どうしたわけか、次から次へと玉が入って、結局、3時間もやってしまったのです!(最後は玉を使い果たしてしまいました。それ以後、味をしめてまたパチンコをやってみましたが、ぜんぜん入らないので、やめました)。
 するとその夜、寝ていても、まぶたの裏に、パチンコの玉が台をすべり落ちていく映像がずっと映し出されているのです。これにはまいりました。
 つまり、連続して3時間もパチンコに集中したので、脳が影響されてしまったわけです。それが、雑念という形で生じてきて、なかなか消えなかったわけです。
 どんなことも、ある程度の長い時間、集中して単調なことを繰り返すと、それが脳に焼き付けられるようで、その行為をやめても、しばらく脳が勝手にその行為を繰り返すのです。
 過去にショックな体験を受けた場合、そのショックな体験がいつまでも思い出される(いわゆるフラッシュバック)といわれていますが、大きなショックではなくても、繰り返されると、それがある種のトラウマのようになって、反芻されるのかもしれません。

 しかし、このことをうまく利用すれば、雑念を払って瞑想に集中できるということがいえそうです。たとえば、マントラを一定時間、繰り返すことによって、そのマントラの響きが「雑念」として浮かび上がってくるようになるでしょう。しかし、それはまさに意識を集中させる対象ですから、その「雑念」に意識を集中させればいいわけです。すると、その他の雑念を排除することができます。
 最近、チャクラを活性化させる音の成分を混ぜたオームのマントラの音を、CDに録音したものを作りました。正式にご紹介するのはもう少し先になりますが、このオームの音にしばらく意識を集中していますと、それを聴かないときでも、頭のなかに「オーム」の音が響いてくるのです。この音を対象に瞑想すれば、瞑想が進歩するのではないかと考えています。

 さて、他にもうひとつ、雑念に対処する方法をご紹介したいと思います。
 これは雑念の排除というよりは、意識を集中させる訓練ともいうべきものなのですが(意識を集中できれば雑念は自然に排除されていきます)、かなり強力です。
 そもそも、雑念が出てしまうのは、雑念を出す“ゆとり”があるからです。もしも、生きるか死ぬかのような状況で何かに必死になったとき、おそらく雑念は出てこないと思います。しかしだからといって、必死に瞑想をすることは、現実にはできません。
 それではどうしたらいいかというと、雑念が出てきたらうまくいかない心理的な作業を行うのです。少しでも雑念が出たら、そのことがうまくいかなくなれば、すぐに雑念が出てきたのだとわかります。そのような状況を作り出すのです。
 そのための具体的なひとつの方法が、暗算です。
 たとえば、24×78という計算を、頭のなかで行うのです。暗算が得意な人は簡単でしょうが、通常、こういう計算をするときは、私たちは紙に書いて計算します。つまり、まず24と書き、その下に78と書いて、小学校で習ったように計算して答えを出すわけです。
 その紙に書く作業を、頭のなかで行うわけです。想像の力で、白い紙を目の前にし、そこに数字を書いて、その数字を見ながら計算していくのです。
 これは、かなりの集中力を要します。一度書いた数字を忘れてしまったりするのです。もし、いきなりかけ算が難しければ24+78といったように、足し算から始めてもいいでしょう。
 これを1回やると、けっこう脳が疲れます。しかし、瞑想をしていて、どうも今日は雑念が多くて集中できないなと思ったら、まずこの暗算を1回か2回ほど、行ってみて下さい。そうしてから瞑想すると、驚くほど集中できると思います。

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 雑念にどう対処するか 2

 雑念というものは、それが出たとき、いつのまにか雑念のことを考えてしまうわけです。たとえば、瞑想中に、「今晩のおかずは何にしようかな?」という雑念が出たとします。それだけなら純粋な雑念なのですが、その後でこう考えてしまうのです。「う~ん、そうだな。昨日はカレーだったから、今晩はスキヤキでもしようかな。待てよ、魚がまだ冷蔵庫に残っていたから、魚料理にした方がいいかな……」といった感じです。そうして、いつのまにか余計なことを考えていたことに気づき、「ああ、また雑念が湧いてしまった!」と悔しがるわけです。
 最初の「今晩のおかずは何にしようかな?」という雑念が出てくるのは、仕方がないと思います。問題は、その後の思考です。この思考さえしなければ、雑念は常にさらりさらりと受け流すことができるようになるはずです。
 では、そのためには、どうしたらいいでしょうか?
 ひとつの工夫としては、「瞬間に注意を向ける」という方法があります。空間的な集中ではなく、時間的な、それも非常に短い時間に意識を集中するのです。
 時間というものは、どこまで細分化できるのかはわかりませんが、インドの哲学では、「もうこれ以上は時間を細かくすることはできない」という、最小の時間というものが考えられています。いわば時間の分子ですが、それは「刹那(せつな)」と呼ばれています。
 瞑想のときも、この刹那の瞬間に意識を向けるようにするのです。
 ひとつたとえを使って説明いたしますと、映画は一秒間に36コマの静止画像によって作られています。つまり、映画は実際には動いているのではなく、少しずつ違う静止画像を連続して投影して、動いているように見せかけているにすぎません。なぜ動いて見えるかというと、私たちの意識が、36分の1秒前の画像を記憶しているからです。
 しかし、ここに、36分の1秒たつと、覚えたことを完全に忘れてしまう人がいたとします。この人は、映画を見ても、動いているようには見えません。何枚もの静止画像を見せられたとしか認識できないでしょう。しかも、結局、どんな静止画像を見たかも、最終的には思い出せないわけです。
 同じように、私たちも瞑想しているとき、36分の1秒の間だけ(この時間はひとつの例ですが)に意識を向け、36分の1秒過去のことは、忘れるようにするのです。換言すれば、常に新しい瞬間だけに意識を集中するわけです。刹那に意識を向けるわけです。
 すると、たとえ雑念が湧いてきても、その雑念が意識に滞留する時間は、わずか36分の1秒だけということになり、雑念を追いかけて思考するゆとりなどはありません。したがって、雑念は雑念だけに終わることになります。
 この、もっとも新しい「今」の瞬間だけに意識を向け、過去のことは、たとえそれが千分の一秒前のことであっても、完璧に忘れるというように意識を訓練していくと、雑念を消していくうえで、驚くほど効果がある場合があります。
 ぜひ、試してみて下さい。

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 雑念にどう対処するか 1

 瞑想をしていると、雑念が次から次へと湧いてきます。まるで、顔の前をぶんぶん飛んでいる虫のようです。そのために、意識が集中できません。そうした雑念に対して、どう対処したらいいのでしょうか?
 雑念は、心という、ある種の水槽に沈殿していた、さまざまな想念が浮上してきたものです。それは、どうでもいいような、「意識の雑音」のようなものもあれば、過去に経験した重大な心の傷に関係したものもあります。カルマを形成させるエネルギーを持った業想念(怒りや怨念や貪欲さなど)の場合もあります。いずれにしろ、心という、ある種のメカニズムが自動的に反応している現象なのです。
 こうした雑念に対処するのは、雑念が出ること自体を気にしないことです。雑念がいくら出ても、それをつかむことなく、川の流れのように、さらりさらりと流していけばいいのです。出ては流し、出ては流し、ということを、ひたすら繰り返していけばいいのです。そうしていると、雑念はしだいに“放電”していき、雑念はあまり出なくなってきます。

 ところが、雑念が出ると、「しまった! 雑念が出てしまった、自分もまだまだダメだな」といったような思いが出てしまうわけです。それが問題なのです。
 このような思いが出てしまうのは、ある種のエゴの見栄が関係しているからです。つまり、「雑念が出るというのは、未熟な証拠である。自分はたいしたことがない人間なのだ」という思いがあるのです。そのため、雑念が出ると、雑念そのものより、雑念が出たことで生じる思いそのもので、心をかき乱してしまうのです。心がかき乱されるということは、雑念そのものにエネルギーを与えることになります。せっかく雑念という形で“放電”しているのに、雑念にとらわれることで“充電”してしまうのです。これでは、いくら瞑想を続けても、意識はきれいになってきません。
 しかし、「自分はたいした人間じゃない。雑念が出るのは当然」という気持ちでいると、雑念が出ても、そのことがそれほど気にならなくなります。つまらないプライドを捨てると、瞑想は進歩するのではないかと思います。
 雑念にとらわれなくなると、感情にもとらわれなくなってきます。小さなことでカリカリしたり、小さなことで動じたりしなくなってくるのです。逆に、感情にとらわれない努力をすることで、雑念も少なくなってくるようです。
 この点からしても、日常生活における心の持ち方が、瞑想などの修行と同じくらい重要であることが、よくわかるような気がします。

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自分が自分の導師となる

 たとえすぐれた導師が身近にいてくれたとしても、日常の細かいところまでいちいち指導したり、アドバイスしてくれるわけではないので、修行の大部分は自分で自分を律しながら歩んでいかなければならないようです。それができない人も多く、せっかくすぐれた導師に恵まれても、その恩恵が十分に生かし切れないで、結局、ほとんどの人は覚醒できずに終わってしまうようです。
 修行のほとんどの部分は、導師がいなくても自分の力でどうにかなると思います。私たちの大半は、基本的な部分がまずできていないことが多いので、それは自力でどうにかしていくべきでしょう。小学生を教えるのに大学教授は必要ないわけです。
 そして、いよいよ導師がいなければ先へ進めないという状況になれば、そのときは自力では厳しいのかもしれませんが、そのレベルに到達するまでには、まだまだ相当の努力が必要だと思いますので、とにかくそれまでは、私たちは自分でしなければならない、またできることが山のようにあるわけです。

 その際、自分が導師となり、自分のことを指導するという視点を持つといいかもしれません。何事もそうですが、教える立場になってみることで、いたらない点だとか弱点だとか、問題点というものに気づいてくるものです。
「もしあなたが導師なら、あなたを弟子にしたいと思うか?」
 まずは、このように自問自答するといいでしょう。
 もしノーなら、何が問題なのか、考えてみることで、自分に欠けているものがわかるのではないでしょうか?
 そうしたら次に、「このような修行をしていて、この弟子(自分)は、覚醒することができると思うか?」と、尋ねてみましょう。
 もちろん、こうしたことは、実際に覚醒した導師でなければわからないことなのでしょうが、なんとなくでも予想できると思いますし、予想することが目的ではなく、自分が改善すべき点を発見することが目的ですので、こういう問いかけは有効ではないかと思います。
 今度は、次のように、毎日、問いかけてみて下さい。
「今日一日、導師として、弟子の修行や生き方に満足したか?」
 こうした問いかけは、人によると思いますが、けっこう厳しい答えが返ってくるのではないかと思います(また、そうでなければ問題があるとも思いますが)。つい自分に厳しすぎてしまうとか、自分には無理だと意欲が萎えてしまうかもしれません。そのへんは加減してやっていただきたいのですが、導師は弟子を愛していますので、甘やかすという意味ではないにしても、弟子(自分)への愛が根底になければならないと思うのです。
 以上のように、自分が導師となって自分を見つめるという姿勢は、けっこう有効ですので、どうか試してみて下さい。

 
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 「私」という想念の消去

 覚者になった人たちは、どうも「私」という意識がないようです。もちろん、彼らは「私は……」という表現は使いますが、それは覚醒していない私たちが使う意味での「私」ではないようなのです。
 私たちがいう「私」とは、他者との差別意識といってもよい自我(エゴ)から発せられたものですが、覚者たちの「私」には、そうした差別意識というものはなく、彼らのいう「私」とは、ある種の役割といいますか、働きという意味で、単に「私」といっているようなのです。いわば「自意識」というものがないのです。
 釈迦は、「天上天下唯我独尊(この世で私が一番偉い)」といったそうですが、これはもちろん、釈迦という個人がこの世で一番偉いという意味ではなく、覚醒して「私」という意識が消滅した釈迦にとっての「我」とは、すべての人間の本質である魂(真我)のことを指していたわけです。つまり彼は、「すべての人間の本質は偉い」といったのです。

 通常、私たちが「私」と思っている意識は、自我(エゴ)によって形成されたものです。自我は、自己防衛的な本能を土台に、先祖からの遺伝と生後に受けた環境によって形成された衝動メカニズムにすぎません。それが「性格」となっているのです。私たちは、自分=性格 と考えがちですが、そうではないわけです。性格は自分ではないのです。性格は、いわゆるペルソナ(仮面)であり、環境その他の影響によって「洗脳」された結果として形成された、偽りの自分「私」なのです。
 たとえば、親から虐待された子供は、過剰に自己防衛的になり、すぐにキレるか、あるいは逃避的になって引きこもったりします。彼らは「すぐにキレるのが自分だ」と、キレる衝動と自分とを同一視していますが、違うのです。たとえるなら、ブレーキの利きが悪いクルマに乗っているようなものです。クルマ=自分ではありません。
 私たちは、クルマと自分とは違うのだという認識を、まずしっかりと持つ必要があると思うのです。つまり、覚醒していない私たちが「私は……」と思ったときには、それはすべて本当の「私」ではないのだと、はっきりと認識していくのです。本当の私は、「私は」という意識を持たないのです。
 私は怒りっぽい、私は偉い、私は謙虚だ、私はダメな人間だ、私には希望がない、私はあいつが嫌いだ、私はこう思う、私は悲しい、私はこうしたい……
 こういった意識は、すべて幻想なのです。
 もちろん、そういう偽りの自分(自意識)のなかにも、ある程度は魂(真我)の意識も混入しているときもあるでしょう。たとえば、崇高な愛の感情を抱いたとき、すばらしい芸術や自然に感動したときなど、多少は真我の意識も入っていると思うのです。
 しかし、それ以外の「私」にまつわる思いは、ほぼ百パーセント、幻想であり、衝動メカニズムが作り出した虚妄といってもいいと思います。
 結局、覚醒するとは、こうした虚構の自我を抹消することにあるわけですから、私たちはこのことをもっと自覚して歩んでいくべきではないかと思うのです。
 すなわち、日常生活において、「私は……だ」といったような思いを、なるべく消していく方向が大切ではないかと思うわけです。

 このことは、究極的には、「何も思わない」ということになります。頭のなかが空(くう)になっている状態といってもいいと思います。
 しかし、何も思わなければ、生活していけません。思ったり考えたりしなければ、仕事も料理も、メールも、なにもできないでしょう。いったい覚者は、そういう場合、どうするのでしょうか。
 どうも彼らは、思考機能というものを、必要なときだけ、ある種の道具として使っているようなのです。私たちは、思考や感情を使うより、使われている、ことの方が多いのですが、彼らは思考や感情を完全に支配し、必要なときに活用しているだけなのです。
 そして、それ以外のときは、本当に無念無想で生きており、まったく「私」という意識がないのです。自分が何かをしているとか、そのような感覚がなく、ただ宇宙と一体となって、そこに「存在している」、使命だけがその場において「遂行されている」という感覚しか持っていないようです。
 自分という意識がありませんから、人からバカにされて腹が立つとか、自分より優秀な人に嫉妬するとか、そういうことはもちろんありません。また、いかなる苦しみも恐怖も悲しみもありません。そういうものを感じることはできますが、そういうものと一体化する自分が存在しないので、苦しまないのです。

 とにかく、何も思わなくても、ちゃんと生きていけるようなのです。はためには、いろいろなことを思ったり考えたり、感情豊かに見えたりしても、本人は何も思っていないのです。かといって、魂の抜けたゾンビ人間というわけではなく、私たちよりもずっと充実した意識状態なのです。不思議な話ですが、事実のようです。
 私たちも、常に自己観察をして、「私」という意識、「私」が勝手に作り上げた意味もない思考や感情に気づいたら、すぐに「これは幻想だ、これは本当の私の思考や感情ではない」と認め、さっと消していく修行を積む必要があるようです。とりわけ怒りや貪欲といった業想念などは、まさに本当の自分とは関係のないものですから、なおさらこういう想念が湧いたときには、「これは本当の私の想念ではない、消えていく幻想にすぎない」と、さらりさらりと受け流すことが大切だと思います。すなわち、何も考えない修行をひたすら積んでいく必要があると思うのです。そして、考えることが必要なときだけ、知性を道具のように使って考えるようにするのです。
 あとはもう、何も考えない。いっさいの想念を停止させるのです。やってみると、けっこうできそうです。通勤のため駅まで歩いていくとか、単純な家事をするとか、何も思わなくてもできたりします。単純な会話なら、何も思わなくても必要な言葉が自然に口から出てきて(決して霊に憑依されたような意味ではなく)、会話が成り立ったりします。こんな経験をすると、何も思わないで生きるということが、最初は荒唐無稽のように思われるのですが、案外、可能なことではないかと思えるようになってくるのです。

覚醒した意識の特徴 | コメント:7 | トラックバック:0 |

 実在(神)が人間に与える喜び

 子供は、親から助けてもらったり、物を与えられたりすると喜びます。おもちゃを買ってもらった子供などは大はしゃぎです。親としても、物を買ってあげれば簡単に子供の喜ぶ顔が見られるので、つい買ってあげたりします。
 しかし、そんなことばかりすると、いわゆる過保護になり、子供はいつまでも親を頼り、自分はなにもせず、与えられるのを期待するだけになってしまうかもしれません。親はいつか死んでいなくなります。一生遊んで暮らせるだけの莫大な遺産を残してもらえれば話は別ですが、そんなことは稀でしょう。
 たとえ、そうなったとしても、その人は、あまり幸せとはいえないと思います。なぜなら、自分の力で困難を克服する喜び、苦労の末に何かを達成する喜びというものを経験できないからです。
 何かを与えられる喜びよりも、自分の力で困難を克服したり何かを達成したときの喜びの方が、ずっとすばらしいと思います。人間的にも成長しますし、自信もつきます。それがさらなる喜びとなって膨らんでいきます。その困難が険しければ険しいほど、克服したときの喜びも大きく、目標が高ければ高いほど、達成したときの喜びも大きいものです。
 ですから、本当に子供を愛している親であれば、子供にそんな喜びを味わってもらいたいと思うはずです。しかしながら、そのような自覚を持たない子供、すなわち、「困難が険しければ険しいほど克服したときに大きな喜びが得られ、目標が高ければ高いほど達成したときには大きな喜びが得られる」ということが理解できない子供に、親が困難や高い目標を与えたとしても、子供はそのことに不満を持つばかりで、そんなものを与えた親を恨むばかりになってしまうのが、おそらく大多数ではないかと思います。親としても恨まれたり子供との関係がぎくしゃくするのはイヤなので、結局、そうした喜びを味わってもらうことを諦めてしまいます。

 ところが、実在(神、仏、etc)という親は、たとえ恨まれようと、どう思われようと、人間という子供にこの喜びをぜひとも味わってもらいたいという、強い願望というのか、私たち子供には計り知れない愛があるようです。人間の親のように、弱気になってたじろいだりしません。そこには断固としたものがあるようです。
 そうして私たちは、さまざまな困難や苦労に遭遇します。実在は、そんな困難や苦労を除こうと思えばすぐにでもできるのかもしれませんが、あえてそれをせず、ただ沈黙したまま見守っているのかもしれません。
 困難や苦しみに見舞われると、まるでそれが永遠に続くように感じられてきます。実際、辛いときの時間はすぎるのが遅く感じられます。そのため意気消沈して挫けそうになります。「神様、助けてください!」と、しつこく祈っても、何の反応も返ってきません。深い孤独感を覚え、自分ではどうにもならない障害を前に、途方にくれてしまいます。戻るも地獄、行くも地獄といった状況のなかで落ち込みますが、落ち込んでいても何も解決しないということを悟り、とぼとぼと前に歩き出すのです。たとえ一歩踏み出しても、踏み出さないのとほとんど変わらず、どこに向かって歩いていったらいいのかさえわかりません。疲れ果てて休みたいと思っても、歩き続けなければならないのです。

 しかし、そうやって忍耐強く歩いていると、いつのまにか、自分が思っていたよりはずっと遠くまで歩いてきたことに気づくものです。後ろを振り向くと、途中で歩むのを止めてその場に座り込んでしまったたくさんの人たちの姿を見ることでしょう。そして前に目をやると、何と! ゴールがもう間近に見えたりするのです。
 そうして、ついに困難を乗り越え、何かをやり抜いたとき、たとえようもない深くて大きな喜びが湧いてきます。今までの苦しみを補って余りあるほどの喜びに打ち震えていると、誰かが肩を叩くのです。見ると、それは神様で、こういいます。
「おめでとう! ついにやったね。君なら必ずやり遂げると、最初からわかっていたよ」
 地面を見ると、ずっと二つの足跡がついていたことを発見するのです。
 もちろん、最後にたとりついた場所が、必ずしも自分が希望していた場所とは限らないでしょう。それでも、達成されたものがあると思います。それは、最後のときが訪れるまで、とにかく歩き続けた、という実績です。
 止まらずに歩き続けた、このことは、ものすごく偉大なことだと思うのです。そのことだけでも、大きな喜びを味わえると思います。
 つまり、とにかく歩き続けるというだけで、前途に喜びが待っていることは約束されている、こういってもいいと思うのです。そんなときでも、実存は肩を叩いて、「おめでとう! よくやったね」と、祝福してくれるのではないでしょうか。

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