心の治癒と魂の覚醒

        

 修行者の姿勢 1

 唐突な質問ですが、「修行」と「勉強」は、どう違うのでしょうか?
 学校では、あまり「修行」という言葉は使われません。部活で剣道や柔道のような武道を習っていても、あまり「修行している」とはいわないでしょう。勉強とは、(狭い意味では)ただ知識を学ぶというだけなのです。
 一方、「修行」という言葉は、宗教や芸事、また、一部の職業に用いられます。たとえば料理などの世界では、「修行」という言葉がよく使われるようです。普通の会社では用いられません。そのかわりとなるのは「研修」でしょう。
 では、宗教や芸事、料理の世界では、なぜ「修行」という言葉を使うかというと、その活動なり仕事が、ただ知識を得ればやっていける世界ではなく、人間性というものが伴わなければ、やっていけない世界だからではないかと思います。つまり、修行とは、知識や技能を身につけるだけではなく、人間性の向上もめざしているのです。言い方を変えると、すぐれた人間性が土台になければ、いくら知識や技能を学んでも、それらをうまく活かすことができないのだと思います。
 まして、覚醒という道は、他のどの世界よりも、ずばり人間性の中核に切り込んでいくものではないでしょうか。人間性の向上そのものを目的にしているといっても、いいのではないでしょうか。

 ひとつの世界に定年近くまでいれば、新人をちょっと見ただけで、どの程度まで進歩したり、出世するかどうか、だいたいわかるようになると思います。新人の場合は、知識も技能もみんなだいたい同じです。それなのになぜ、どのくらい進歩したり出世するかわかるかというと、仕事に対する姿勢や心構えにあるのです。仕事に対する姿勢や心構えがなっていなければ、いくら年月をかけてもダメなわけですね。

 では、どのような姿勢や心構えを持つべきなのでしょうか。それは、ある程度、その世界によって違うでしょう。たとえば、一刻一秒が勝負となる投資やマスコミや情報産業などの世界では、じっくりと物事を進めていくような姿勢ではダメでしょうし、研究者やエンジニアのような世界では、逆にじっくりとひとつひとつ確実に歩みを進めていく姿勢でなければうまくいきません。
 このように、世界によって多少の違いはあるにしても、共通している姿勢や心構えはあると思います。それはまず、真面目さや真剣さです。当たり前ですが、しかし真面目さや真剣さに欠けた人は、少なくないのです。「いい加減にすませて、てっとり早くお金をもらおう」という人が、けっこういるのです。たとえそこまでひどくはなくても、まだまだ甘いという人が多いわけです。どんな世界だろうと、これでは成功するはずがありません。

 次に大切なのは、忍耐力だと思います。これも、不足している人が多いのです。すぐに結果を求めたがり、辛いことを我慢して長くやっていられないのです。これでは、大樹にまで成長できるはずがありません。
 そしてもうひとつ、大切なのは、向上心ではないでしょうか。常に「どうしたらもっとうまくやれるだろう?」と考え、それを実践していく自主的な姿勢であり、情熱です。
 他にも大切な姿勢はあると思いますが、以上の3つはどの世界でも必要不可欠であり、このうちひとつでも欠けていたら、その世界での成功は望めないでしょう。しかし、この3つのすべてが申し分なく備わっている人は、おそらく10人のうち1人か2人くらいです。あるいは、もっと少ないかもしれません。

 しかし、真面目さ、忍耐、向上心といったものは、教えられて、どのくらい身に付くものでしょうか? もちろん、こうした資質を身につけようと努力しさえすれば、身につけられるでしょう。しかし、こうした資質を身につけること自体、真面目さ、忍耐、向上心を要求されるのです。たとえこのうちの一つだけでもあれば、何とかなるかもしれませんが、ひとつもなければ、絶望的だと思います。というより、こういう資質を身につけたいという気持ちさえ起こらないでしょう。
 つまり、真面目さ、忍耐、向上心といったものは、もともとの人間性から来るものだと思うのです。これらは、何ら特別な才能でもなく、当たり前の地味なもので、その気ならどんな人だって得られる感じがしますが、実はそうではないのです。これほど大切な資質(才能とさえいってもいいかもしれません)は、ありません。この3つさえ持っていれば、特別な才能など何もなくても、そこそこ成功するはずです。

 覚醒の修行も同じだと思います。ひたすら、真面目・忍耐・向上心の3つで進むことです。もし、このなかで弱いものがあると思ったら、その部分を伸ばしていきながら進むことです。
「私にはこれら3つのすべてがない!」と思われた方はおられるでしょうか?
 断言してもいいですが、これら3つの資質がすべて薄弱だという人は、こうしてこのようなブログなど読んではいません。覚醒の道には、真面目さ・忍耐・向上心というバイブレーションが、花の香りのように放たれています。そんな覚醒の道に引き寄せられ、こうしてこのブログを読んでおられるということは、それだけで、少なくても覚醒の道を歩むために必要な最低限の資質はすでに持っているということです。換言すれば、私たちは必要最低限の人間性は、すでに確立しているのです。自惚れてはいけないと思いますが、しかしこれは事実だと思うのです。
 あとは、努力によって、さらにこの資質を強化すべく、がんばっていくだけです。

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イメージを活用する

 人間の脳は、論理を司る左脳と、直感を司る右脳に分かれていることはよく知られていますが、私たちの無意識的な思いや行動は、直感(イメージ)に左右されます。
 さて、私たちは、気持ちを表現するのに、イメージをよく用いています。イメージというのは、たいていの場合、色や形であり、しばしば音がそれに加わります。そのため、「バラ色の人生」だとか「未来は明るい」とか「四角四面の性格だ」といったように、色や形を使って表現するわけです。これは、感情や無意識といったものが、イメージによって影響を受けていることを示す端的な例だと思います。
 逆にいえば、イメージを変えることによって、感情や無意識を変えることが、少なくてもある程度はできることになります。これを応用した心理療法が、イメージ療法だとかNLPといったものです。
 しかしながら、イメージは真実そのものではない、ということも確かです。
 むかし「猿の惑星」という映画がありましたが、そこには猿の姿をした「神」が登場しました。神は猿のようなものだと思っていると(そういうイメージを持っていると)、霊的な存在は猿の姿をして登場してくるのでしょう。観音様はいろいろな姿をとって人々を救うといいわれています。しかし真実は、自分の抱くイメージというフィルターを通して歪められた形でしか認識できない、ということなのだと思います。
 そのため、イメージを真実そのものと思いこんでしまうと、さまざまな問題が生じてくるわけです。同じ神を違う呼び名で呼んで互いの神を否定して戦争などが起こったりするわけです。
 しかしながら、そのことをよく理解したうえで、イメージをうまく利用すると、覚醒の修行も進んでくることは間違いありません。たとえるなら、それは建築の足場のようなものです。家が建ったら足場は必要なくなります。というより、邪魔になりますので、撤去しなければなりませんが、家を建てるには、足場は必要でしょう。
 覚醒の修行も、イメージは最終的には捨てなければならないと思うのですが、その段階に到るまでは、おおいに利用するべきだと思うのです。
 そこでまず最初に、皆さんにお勧めしたいのは、どんなことも明るいイメージを持つということです。光や明るさというイメージが、もっとも強力な力をもたらすからです。
 人間の脳は、明るいこと、つまり光が強いことは善いことであり、幸せなことだという結びつきがあります。「暗い人生」などといったりしますが、人生そのものは明るいとか暗いというものではないのに、明るいとか暗いといったように、光の強さというイメージで認識するのです。
 私の推測が正しければ、光り輝くイメージを浮かべるという行為は、単なる想像ではなく、実際にある種のエネルギーがそこに作用しているのです。
 したがって、まずは未来に明るいイメージを抱くようにしましょう。それは、未来にエネルギーを与えることになり、実際に未来を明るいものに変える力を持っているのです。また、毎朝鏡に自分の姿を映しだしたら、自分が光り輝いている様子をイメージしてください。そうすれば、自分にエネルギーを与えることになり、健康で幸せになれるはずです。何かものを作るような仕事をしている人は、自分の作ったものが光り輝いているイメージをしてください。料理であれ、服や工業製品であれ、書類であれ、それはエネルギーを帯びて、なにかいい結果を、それを受け取った人や作り主にもたらしてくれるでしょう。教育者や医者や介護その他、人と接する仕事であれば、相手が光り輝いているイメージを浮かべます。すると、相手はエネルギーを与えられ、何らかのいい改善が見られるはずです。
 実は、この光り輝くイメージの力を利用したものが、チャクラを活性化させる行法なのですが、これについてはまた後で触れてみたいと思います。

覚醒の理論 | コメント:0 | トラックバック:0 |

逆のことをしてみる

 心の病にしても、肉体の病にしても、長期に渡り慢性的な苦悩を抱えているような場合、今までの生き方やライフスタイルとは逆のことをしてみると、病気が治ってしまったり、治るきっかけをつかんだりすることがしばしばあります。これは少し冒険的ではありますが、試してみる価値はあるかもしれません。
 たとえば、いつまでもずっと病気で薬を飲み続けていた人が、思いきって薬を飲むのを止めたら、病気がよくなったといったことが、実際にあるようなのです(医師が書いた本にそうありました)。これはジョークのような話ですが、けっこう多いようです。薬が病気を治していたのではなく、薬が病気を作っていたわけです。
 重い病気になったら、ずっと悩んできた慢性病が治ってしまうこともあります。また、失恋によって心身がおかしくなることは多いのですが、失恋によって心や体が癒されることもあるのです。戦争が起こるとノイローゼ患者が治るというのは、統計的にも確かなようです。精神的なショックによって傷ついて心が、別の新たな精神的ショックによって治ってしまうこともあるのです。もちろん、必ずそうなるというわけではありませんが。
 断食などは、いろいろな病気に効果があるようですが、これなども、これまでとは逆のライフスタイルをすることによるものなのかもしれません。つまり、たいていの場合、病気というものは、栄養不足よりは栄養過多によって起こるわけです。食べていたのを食べないようにすることで、病気が治ってしまったりするわけです。
 心の病なども、周囲がはれ物に触るように大切に扱い、いたわったりします。本人も、精神的に負担になるようなことを避けたりして、おそるおそる暮らしていたりします。確かに、そういうアプローチも必要だと思います。しかし、有無をいわせず過酷な苦難に見舞われたりしますと、心の病が治ってしまうこともあるのは事実のようです。
 結局、これはバランスの問題なのかもしれません。つまり、どんなことも、一方に偏り続けたら、おそらく病気になったり苦しみを招いたりするのです。栄養ばかりとって(運動などで)消費しなければ病気になるのです。自分のことばかり考えて人のことを考えなければ苦悩しますし、人のことばかり考えて自分のことを考えなくても苦悩するのです。いつも人と一緒では苦しみますし、いつもひとりぼっちでも苦しむのです。受けるばかりで与えることをしなくても、与えるばかりで受けることをしなくても、人は病んでしまうのです。緊張ばかりでも、リラックスばかりでも病んでしまうのです。
 心を治癒するには、今までの自分のライフスタイル、生き方、考え方にどこか偏りがないか、アンバランスなものがないかを反省し、もしあれば、今度は逆のことを意識的に行ってみると、快方に向かうかもしれません。
 ただ、長期に渡って偏った生き方をしていると、たとえそれが病的なものであっても、ある種の心地よさが伴ってしまっているため、なかなか逆のことをする気にはなれないことが多いものです。その堅くなった心を、いかにして柔軟にし、逆のことが意識的にできるようになるか、それがひとつの大きな問題だといえるかもしれません。

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 意味と希望を見いだす

 心を癒すためには、いろいろと大切なことがありますが、そのなかでも「苦しみに意味を見いだす」ことは、非常に重要ではないかと思われます。
 人間は、どんなに苦しくても、それに重要な意味があると思うと、精神的に驚くほどタフになったりします。ところが、意味などまるで感じられないと、ちょっとした苦しみでもすぐに挫けてしまったりします。意味というものは、それほど精神状態に大きな影響を与えるもので、おそらく人間存在の深い部分と関係があるのかもしれません。親から虐待を受けてひどいトラウマを抱えていても、「自分が虐待を受けたことで、虐待を受けた人の気持ちに共感できる人間になれた」というように、悲惨な体験に意味を見いだすことができれば、意味を見いだせない場合よりも、ずっと楽に受けいれられるようになるものです。

 また、意味と同時に大切なものは、希望です。どんなに苦しく悲惨でも、この状態から必ず救われると明確にわかっていると、精神的に非常に強くなります。とりわけ、救われるときが確定しているようなときは、まずたいていのことに耐えられるといってもいいかもしれません。ところが、いつ苦しみから救われるのかわからない、救われるかどうかもわからない、このまま苦しみがずっと続くかもしれないと思いますと、まずどんなにタフな人でも耐えられないでしょう。
 心の病にしても肉体の病にしても、「大丈夫、必ず治りますよ」と医師からいわれて安心するだけで、症状が大幅に改善したりします。反対に絶望的なことをいわれると、予想よりもずっと病状が悪化してしまうこともあります。希望というものは、苦しみを乗り越えるためには非常に大切な要素になってくるわけです。

 しかしながら、現実には、苦しみに意味を見いだしたり、苦しみが救われる希望を見いだせることは、そういつもあるわけではありません。むしろ、少ないかもしれません。第一、もともと意味や希望というものは、あいまいなものです。意味といっても、本人が意味があると思えばあることになるし、ないと思えばないとも解釈できてしまうことが多いわけです。希望といっても、「確実」というものはほとんどないでしょう。一流大学に合格できるほど勉強ができる人が三流大学を受験すれば、ほとんど確実に合格するという希望を抱いてもいいかもしれませんが、そのような人はそもそも三流大学など受けないでしょう。人間というものは、いつもたいてい、ぎりぎりの可能性に挑みながら生きているので、確実に救われるという希望を抱くことは、結果的に少なくなってくるわけです。
 こう考えますと、やや極論になってしまいますが、意味や希望を抱いている人というのは、ある種の自分をだます行為をしているともいえるわけです。もともと意味も希望もないかもしれないのに、なんだかんだとこじつけて、それに意味や希望があるように信じ込んでいるだけなのかもしれません。
 ところが、そういってしまうと、この世の中は、ほとんどすべてがそうだといえるのではないでしょうか。正義だ、倫理だ、人道だといっても、自分たちが勝手にそう信じ込んでいるだけで、本当は正義でもなければ、倫理的でも人道的でもないかもしれないわけです。

 私は、たとえこじつけだろうと何だろうと、もし意味や希望を素直に見いだせるのであれば、そうすればいいと思います。その意味や希望が絶対に正しいか、確実かなどと詮索することには、それこそ意味がないと思うのです。なぜなら、すでに述べたように、もともと意味や希望というものは、あいまいなものだからです。
 しかし、もともとあいまいなものなので、大きな苦しみや長期の苦しみが訪れたときには、それが揺らいでしまうこともあるわけです。揺らいでしまったとき、無理に意味や希望を見いだそうとしても、おそらく心底から信じることはできないでしょう。
 そんなときは、こう考えるしかないと思うのです。すなわち、意味がないとわかったこと自体に、意味があるのだと。希望がないとわかったこと自体が、希望なのだと。
 なぜなら、結局、意味といい希望というものも、人間の主観的なエゴが作り出した幻想にすぎないわけです。究極的な意味や希望というものは、おそらく人知では計り知れないものだと思います。したがって、幻想に目覚めたということは、それだけ究極的な本当の意味や希望に近づくことができたことを示しているのではないでしょうか。結局、それが覚醒の道ではないかと思うのです。
 おそらく、覚醒した人は、意味や希望というものは、頭にはないと思います。意味や希望に支えられて生きているのではないと思うのです。逆説的ですが、人生にまったく意味を見いだせなくなり、虚無の底にまで沈み込んだとき、いっさいの希望が断たれて絶望の深淵にたたき落とされたとき、そのときこそ、本当の意味、本当の希望というものが、私たちの気づかないところで生まれているのではないかと思うのです。

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推薦図書 『神はいずこに』

推薦図書
『神はいずこに』 バーナデット・ロバーツ著 大野龍一訳
日本教文社 2008年

 これは、キリスト教の道によって覚醒した女性の内的変容を克明に記した本です。著者のバーナデット・ロバーツは、1931年のロサンジェルスに生まれ、15歳で修道院に入り、10年間修行した後に世俗に戻って大学へ行き、多くの学校で教師を務め、結婚して4人の子供を持つ主婦として(生活上は)平凡に生きている女性です。すなわち、精神的な指導だとか、そういうことはやっていないようです。
 悟りや覚醒に到る内的変容を綴った本はたくさんありますが、これほど詳しく厳しく自分の内面を見つめ、それを科学者のような観察的視野から綴られた本を、私は知りません。ひとりの平凡な女性が、自分の内面に生じたことを、謙虚に誠実に率直に告白していて、非常に感銘を受けます。これは覚醒の道を歩む上で貴重な道標になる本で、ぜひとも読んでいただきたいと思います。

 著者が俗世に戻ってから体験した、さまざまな苦難などを考えますと、やはり覚醒の道は甘くはないなと思います。苦難や試練について、彼女はキリスト教の信仰者であるためか、それを「カルマの消滅」というとらえ方はしていません。彼女によれば、苦難や試練が訪れる目的は、エゴを消滅させることであり、魂の徳を自覚し高めるためであるといいます。
 また、覚醒の道の途上で、「魂の暗夜」と呼ばれる、神から見放されたように感じる非常に辛い時期を経験するといわれ、それについて多くの言及が為されています。
 とにかく、この本で最初から最後まで徹底して説かれていることは、偽りの自己(エゴ)の死滅です。そして、その果てに待ち受けている神との合一です。しかも、この人の鋭いところは、エゴの死滅や神との合一という体験にさえ潜んでいる、エゴの巧妙なワナを暴き出して白日の下にさらしているところです。この内的観察力のすごさは、思わずうなってしまうほどです。
 いずれにしろ、エゴを本当の自分だと思っている私たちにとって、エゴを消滅させることは、実に難しく厳しい体験を経なければならないのだと、思い知らされます。徹底的な自己放棄が要求されると、本のなかで強調されています。彼女によれば、私たちの魂が神との合一という可能性に目覚めると、そのためなら、この世のありとあらゆる苦難であろうと試練であろうと、喜んで受け入れようとするのだそうです。

「試練のみが合一の啓示を伝えてくれるのです」
「魂が救済を体験するためには、完全に、かつ熱烈に生き、あらゆる危険を冒さなければなりません」
「転落することや、罪を犯すことや、足場をなくすことを恐れおののいて生きる人々は、自分がそれをしないということを確かめるために人生を無駄に過ごし、神をほとんど信頼せず、合一状態の賜を有効に使うこともしません」
「人は、物事がうまくいかないとき、神の寵愛を失った、または神が自分に反対されていると考えるものです。そう考えるのは、神のやり方が理解できないからです」
「我が身に起こることを起こるにまかせ、疑わずに受け入れることです。神のやり方を知りたい、自分の魂の中で何が進行しているのか理解したいというのは、私の高慢でした」

 内的な現象を表現しているため、どうしても抽象的な言葉が並び、決してスラスラと楽に読める文章ではありませんが、覚醒に到る貴重な教えが凝縮されており、スピリチュアルな道の本質をついています。昨今のお気軽な(つまりエゴを喜ばせるような)スピリチュアル本ではなく、最初から最後まで真面目一辺倒で突き進みます。しかしそれでいて、苦難や試練に苦しみながら覚醒の道を歩んでいる者にとっては、とても癒され励まされる内容となっています。
 また、彼女の覚醒体験は、禅の思想や、老子の説く「無為自然の道」に通じるものがあり、その点でも非常に親しみが湧くものがあります。

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 浄化と調律

 今回もまた、覚醒修行を円滑に進めるうえでも大切な「心の癒し」についてお話させていただきます。
 心のトラウマを癒すには、大きく分けて二つのアプローチがあります。ひとつは「浄化」で、もうひとつは「調律」です(この浄化と調律という言葉は、私が勝手につけたものです)。浄化とは、悲しみや怒りを表現して吐き出すことで、精神分析療法などが、この浄化(カタルシス)によって心を癒そうとするものです。
 もうひとつの調律とは、ある種の教育的な指導によって、歪んだ心を正常なものに戻そうとする試みです。非合理的な考え方を修正する認知療法などは、この調律によって心を癒そうとするものです。
 程度の軽いものなら、調律のアプローチだけで癒されるかもしれませんが、普通は、浄化と調律の両方が必要です。原則としては、まず浄化の作業を行い、次に調律の作業に移ります。
 さて、まずは浄化ですが、これは簡単そうでなかなか大変です。
 たとえば、親に虐待された人がいるとしましょう。すると、親に対する敵意や憎しみが抑圧されているのが普通です。怒りを抑圧しているとウツになったり、慢性疲労やその他、心因性の病気になりやすいのですが、トラウマを受けたときは普通、子供なので、大人になって親より腕力があるとしても、親に向かって怒りを吐き出すということが、怖くてできない場合が多いのです。親に文句や罵詈雑言を向けたい気持ちはあるのですが、それを言おうと思っても、喉もとまでは言葉が出るのですが、それから先は、まるで催眠術にかけられたように、声が出なくなったりします。
 それでも勇気を出して怒りをぶつけたりすると、ウツ病など劇的に回復することがあります。
 ところが、今度は別のやっかいな問題が生じる可能性があるのです。
 それは、「親に暴言を吐いてしまった」という罪の意識です。罪の意識は自己処罰の意識を生み出します(悪い人間は罰せられなければならないという信念があるため)。その自己処罰の意識のために、またウツ病がぶり返したり(ウツで苦しむことで自分を罰している)、その他、さまざまな問題が生じてきたりするのです。
 ただし、必ずそうなるというわけではありません。うまく浄化を行うことができたなら、多くの場合、とてもいい結果になります。
 さて、そこで、専門家の助けを借りずに、いかに浄化をするかですが、一番簡単で比較的効果があるのが、文章に書くことです。たとえば、親に手紙を書くのです。もちろん、その手紙は親には見せません。しかし、書くという行為によって抑圧されていた感情が意識化され、浄化が促されていきます。
 また、涙を流すことは、非常に効果的な浄化作用をもたらします。ですから、トラウマとなった過去の体験を思い出しながら、おおいに泣くといいでしょう。
 ただ、そうして過去を思い出して泣くということも、個人差はありますが、けっこう難しい場合があります。
 そういうときは、なんでもいいから涙を流すだけでも、効果があります。トラウマとなった体験に関する涙ではなくてもいいのです。悲しいドラマや音楽に接して涙を流してもいいのです。いえ、感動の涙でもかまいません。とにかく、涙を流すことによって、心のトラウマ全体が癒されていくことが多いのです。

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 過去のトラウマ経験を癒す

 人は誰にでも、程度の差はあれ過去のトラウマ体験があると思います。親から愛されなかったとか、虐待されたとか、学校でひどいイジメにあったなど、その他、多くのトラウマを抱えながら生きているのが人間ではないでしょうか。
 こうしたトラウマがあっても、今の生活が、たとえば経済的に困ることもなく、仕事や人間関係などで特に悩みがない状態ならば、トラウマはある種の休眠状態になって、それほど大きな問題は生じてこないかもしれません。
 しかし、人生のさまざまなトラブルや苦難に見舞われたとき、過去のトラウマ経験が再生されて、それが思わぬ弱点になってしまうことが多いのです。仕事のうえではいかなる困難にも負けないタフな男性が、失恋しただけですっかり意気消沈してしまうことがあります。その理由は、母親に見捨てられたトラウマがある場合が考えられます。つまり彼にとって、失恋とは、単にひとりの女性の愛が得られなかったというだけでなく、その女性と母親とがだぶっており、幼いときに母親から見捨てられたという(子供からすれば)大変に大きなショックと結びつけられてしまうため、ただの失恋が破滅的なショックとなってしまうわけです。

 同じように、覚醒のために瞑想をして、今まで以上に脳や意識を活性化したり、あるいは覚醒の修行を始めたことによる悪いカルマの浄化現象が起こって不運や精神的不調などが訪れたときにも、過去のトラウマ経験が大きな障害になると思われます。過去のトラウマが意識に再現され、激しく気持ちを乱してしまうのです。
 もっとも、そういうトラウマが再現されること自体、ひとつの浄化現象であり、それによってトラウマが消えていくのだと見ることもできますが、いずれにしろ、人によっては非常に危険な状態に置かれることがあるようです。
 したがって、いかにして過去のトラウマ経験を癒していくか、ということが、覚醒修行にとってひとつの大きな課題になるのではないかと思われます。
 過去のトラウマを癒す作業は、精神療法の専門家にかかっても容易なことではなく、癒されるのに何年もかかったりします。ときどき「一瞬にしてトラウマを癒す」などと宣伝しているところがありますが、脳の神経細胞は短期間に変わるものではないので、たった一回か二回くらいのセラピーでトラウマが完全に癒されるとは考えられません。一時的に抑圧させて癒されたように感じられるだけのように思います。
 それでは、専門家の助けを借りずに、自力で心のトラウマを癒していくには、どうすればいいのでしょうか?
 これはもちろん、大きなテーマでありますから、単純な理屈や方法を提示して片付けられるものではありません。そこで、いろいろなアプローチを、今後ご紹介していきたいと思います。あるアプローチが、効果がある人もいれば、まったく効果がない人もいると思いますが、とにかく試してみることは必要だと思います。

 とりあえず今回は、きわめてシンプルな方法を紹介してみます。
 それは、「自分を他者と比較しない」ということです。そういう発想を習慣づけていくことです。
 人は、他の人と比較されて優劣を判断されると、とても傷つくのです。たとえば、親から「弟の方がおまえより優秀だ」とか「誰々くんは勉強ができるのにおまえはできない」などと言われると、単純に「おまえは勉強ができないな」と言われるよりも、ずっと傷ついてしまうのです。
 しかしながら、現実には、けっこう私たちはこういうことを言われて育ってきました。社会人になっても、他の同僚と比較されて「おまえはダメだなあ」などと言われることが多いわけです。「35歳にもなって嫁にいけない」「40歳にもなって平社員」だといわれたり、同じ年齢なのに他の人の年収はずっと高いとか、誰々より器量がいいとか悪いとか、とにかく私たちは、他者と比較され続けながら生きてきたのです。
 そのため、私たちは自分の価値を高めるために、常に他者と比較するクセがついてしまっています。「私はこれだけいい仕事をした」といったことで自分に価値があるとは思わず、「私は他の人と比べてこれだけ稼いだ、これだけ賞をとった」といったように、他者と比べて上ならば自分には価値があり、下ならば価値がないと思うようになっているのです。
 しかし、このように、自分を他者と比較するクセを、いっさい捨てることです。
 それを徹底していけば、過去において他者と比較されて傷ついたトラウマ経験も、新しい価値観によって再評価され、少しずつ癒されていくはずです。
 自分は自分、他者は他者なのです。年収が平均より低いからといって自分に価値がない、自分は優秀ではないとは限りません。すばらしい技術と感性を持ったオーケストラの演奏者の給料はずいぶん安いと聞きますが、かと思うと無能な役人がいい加減な仕事をして高給を得ていたりするわけです。いったいどちらが社会貢献をしているか、すなわち価値があるかは明白でしょう。
 また、35歳を過ぎて結婚していないからといって、女性としての魅力がないだとか、そういうことは無関係でまったくナンセンスです(ところが地方の田舎などに行くと、こういうことを噂されたりすることが多いのです)。
 社会は、「他者と比較して自分の優劣を決める」という悪しき想念に染まっていますから、年収や肩書きなどによって価値を評価されてしまうことは避けられません。それは、あきらめるしかありません。覚醒をめざす者は、そういうことには「柳に風」と軽く受け流すことです。本当に立派な人であれば、そういうことで評価したりせず、ちゃんと人格を見てくれるものです。
 他者と比較するのではなく、自分がどれほど過去に善いことをしてきたか、どれほど人に役立ってきたか、どれほど優しい言葉をかけてあげたり、親切をしてあげたり、困難にも負けずにがんばってきたか、正義を貫いてきたか、そういったことを、自分の価値として評価するようにしようではありませんか。
 そうすることが、過去のトラウマ経験を癒すための第一歩であると思うのです。
 
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 沈黙の神

 辛いときには、つい実在(神、仏)に頼りたくなります。普段、あまり信仰心のない人でさえ、「神様、仏様、助けて下さい」と祈ったり、神社仏閣に参拝したりします。
 そんなとき、神様の声が聞こえて「大丈夫だ。助けてやるぞ」といってもらったり、そこまではっきりではなくても、なんらかの現象が起こって、自分の苦しみ、願いをちゃんと聞いてもらえているという「証拠」のようなものが与えられれば、どんなにか心励まされることかと思います。たとえ願いを叶えてもらうことはできなくても、神様がちゃんと付いていてくれるという確信さえ得られるだけでも、どれほど救われるかと思います。
 辛いときは、辛さそのものも去ることながら、誰にも辛さをわかってもらえず、自分の存在さえも無視されているといった孤独感ほど、苦しくて、生きる意欲を削がれるものはないように思います。

 スピリチュアルの本などを読むと、神様は願いにちゃんと応えてくれるといったことが書いてあったりします。たとえば、ある本には、こんな体験談が紹介されていました。
 ある男性が人生の不運に見舞われ、神は本当にいるのかと悩みました。男性は落ち込んで公園のベンチに座り、「もし本当に神が見守ってくれているなら、すぐにその証拠を示して下さい!」と祈りました。すると、公園で遊んでいた子供が、急に自分のところに駆け寄ってきて、「おじさん、こんなものが落ちていたよ」と言いました。見ると、その子供の手のひらには、十字架のペンダントがありました。男性は、まさに神が応えてくれたものとして歓喜し、その場で狂ったように大笑いしたということです。
 このように、神は人間が孤独ではないことを、何らかの手段によって示してくれるのかもしれません。
 そこで私も、この男性と同じように、辛いとき、神に祈りました。
「神様! 本当に神様が私を見守ってくださっているのなら、すぐにその証拠を示して下さい」
 どれほど、このように祈ったかわかりません。しかし私の場合、一度たりとも、「証拠」が示されたことはありません。もしかしたら、証拠はちゃんと示されていて、ただ私が鈍感で気づかなかっただけなのかもしれませんが、少なくても先のエピソードのように、明らかにわかるような形で示されたことはありませんでした。
 私にとって、神とは、「沈黙の神」なのです。霊能者のように神の声が聞こえたり、そこまででなくても、気配がするとか、光が見えるとか、そのような手段を通して存在を示してくれたら、どれほど救われるかと思うのですが、そのようなことはないのです。いくら私が真剣に心を込めて祈っても、まるで虚空に向けて声を発しているかのように、なんの手応えもなく、冷たい静けさだけがあり、私の祈りどころか、私の存在さえも見向きもされていないような感覚ばかりなのです。私は神から愛されてはいないのかもしれない、と思ったりもしました。

 しかし、最近、こう考えてみました。
 仮に、祈ったり願ったりしたとき、いつもはっきりと神様が応えてくれたとしたら、どうなるのだろうかと。
 私の性格を考えると、年がら年中、神に問いかけていると思います。
 そして、人生において大切な判断を求められるような状況におかれるたびに、「神様、どうすればいいのか教えて下さい」と祈っていたでしょう。
 そうすると、神様はいつも応えてくれるのでしょうか? もし、いつも応えてくれるのだとしたら、私は神に依存して、なんでもかんでも神に決めてもらい、自分の意志で人生を生きているとはいえなくなります。それが果たして、いいことなのかといえば、いいことだとは思えません。そこには、人間の自由も、尊厳もありません。
 人間は、自分自身の自由な意思で生きること、そして、それが結果的に神の意思と一致していること、これが人間の生きる道ではないでしょうか。神の声をいちいち聞いて神の意思の通りに生きるのではなく、あくまでも自分自身の意思が、結果として神の意思と一致していること、これが、人間の本来のあり方だと思うのです。

 とはいえ、別に願いを叶えてくれたり、どうすべきか指示を与えてくれたりしなくても、せめて神は存在して自分を見守ってくれている、つまり、自分は孤独ではないのだということくらい、示してくれてもいいように思うのです。それだけでも、ずいぶん救われる気持ちがするのですから。
 しかし、この場合も、そのようなことはない方がいいのかもしれません。
 人は、孤独を感じる状況のなかでこそ、気持ちを内に向け、その奥の奥にある究極の神秘としての神、宇宙法則へと近づいていくと思うのです。究極の神は、私たちが肉体の脳で認識できるような、限定された存在ではなく、想像を絶するような存在であり、だからこそ、人間の存在とその救済というものも、物質次元をはるかに超えたすばらしいものであると思うのです。
 ところが、呼べばすぐに応えてくれる、肉体の脳でも容易に感知できるような神であったとしたら、その神はずいぶん俗っぽいというか、物質的なレベルのような感じがしてしまいます。それでは、人間は神秘の奥に意識を向けることはしなくなってしまうでしょう。

 真実の愛というものは、いかにも「私はおまえを愛しているんだぞ!」といったアピールをすることなく、「私は」という主体を感じさせないような形で、つまり、「愛」そのものだけを純粋に発動させるような形で、顕現されるものなのかもしれません。ひらたくいえば、「誰かわからないが、私は愛されている」という感じの愛、さらにいえば、愛されていることすら自覚できないが、ちゃんと愛され見守られている愛、こういう愛こそが、真実の愛、神の愛なのかもしれません。
 ですから、神は人間に向かって「私は愛しているぞ」とはいわないのかもしれません。神は愛そのものであり、「私」と「愛する」という分離はないのです。たとえるなら「光は照らす」という表現が正確ではないように。「懐中電灯は照らす」という表現はできますが、光は照らしません。なぜなら、「照らす」そのものが光だからです。存在するだけで照らしている、それが光なのです。同じように、本当に愛する人は、愛そのものになりきっているのです。「私は愛している」という自覚はないのです。
 そして、そのような愛の実相に人間が気づくように(それは覚醒と同義語といっていいと思いますが)、神は、沈黙しているのかもしれません。

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