心の治癒と魂の覚醒

        

 修行の時間を作る

 これまで、仕事や日常生活をしながらでも実行できる瞑想法や呼吸法をご紹介させていただきました。これらは、本格的な修行のための準備体操のような役割を持っているものでもあります。
 しかし、やはり覚醒に到るには、修行だけに専念する時間が必要となります。これからこのブログでは、本格的な修行について少しずつご紹介させていただきたいと思っているのですが、その「修行をするための時間」を確保するというのが、現代社会では非常に難しいのです。
 覚醒修行においては、さまざまな障害を乗り越えていかなければなりませんが、初期の頃の最大の障害は、「時間の確保」と「怠け心」の2つではないかと思います。この2つの障害さえ克服できれば、覚醒は半分は成功したも同然だと思っているのです。
 まずは時間の確保です。忙しい毎日を送っている私たちにとって、毎日1時間も2時間も修行の時間を作るというのは、本当に難しいものです。一部の役人のように、9時に始まり5時に必ず帰宅できるような、恵まれた人は少ないと思います。とくに不況の今は、生活するためにあえて残業をしなければならない人もいるわけです。残業代が出ればまだいい方で、なかにはリストラされないためにサービス残業をしている悲惨な人もいるかもしれません。そうして疲れて夜遅く帰宅したら、修行どころではなく、ビールを一杯飲んでお風呂に入ったら、死人のように寝るだけでしょう。仮に瞑想をしても、眠くて瞑想にならないかもしれません。
 私は、現代人のそういう厳しい状況がよくわかっているつもりです。
 しかし、それでもなお、あえて自戒を込めて、皆さんに申し上げたいと思うのです。
 とにかく修行のための時間を作りましょうと。
 修行の時間がなければ、どうしようもありません。
 時間を作るために、あらゆる努力をして下さい。そのためには、何かを犠牲にしなければならないと思います。居酒屋にも行きたい、テレビも見たい、パチンコもしたい、そして覚醒もしたい……というのは、虫が良すぎるといいますか、不可能なことです。
 もちろん、サラリーマンなら付き合いで飲み会に行かなければならないこともあるでしょう。たまにはいいと思いますが、支障のない程度に、なるべく断って時間を作るようにして下さい。また、家族との団らんも大切ですが、それも少し時間を削っていただかないとならないと思います。
 残業しなくてもすむように、仕事はテキパキと片付けるようにしましょう(そんな姿勢が買われて出世するかもしれませんよ!)
 その他、思いついたままに申し上げますが、テレビやDVDを鑑賞することも、控えめにしましょう。たまには息抜きでいいかもしれませんが、くだらない番組や映画を見ても時間の無駄です。パチンコだとかギャンブルなどは、きっぱりと止めましょう。時間の無駄であるばかりか、負けたときは悔しさが尾を引いて瞑想などできません。
 内容のない携帯メールの交換などもやめましょう。メールを打つのもけっこう時間がとられるものです。クルマの洗車も時間の無駄です。クルマなんて多少汚くてもいいではありませんか。どうせすぐに落ちてしまうワックスなど一所懸命に塗ってどうするのでしょう? お客さんを乗せるときだけ洗車すればいいのです。さもなければ、ガソリンスタンドでやってもらいましょう。自宅から駅まで歩いている人は、ぶらぶらと歩かず、早足で歩きましょう。時間の節約にもなるし、体力トレーニングにもなります。時間のかかる趣味などは、極力やめましょう。意味のないネットサーフィンもやめましょう。毎日からだにせっけんをつけてゴシゴシこするのも時間の無駄です。三日に一度で十分です。あとはシャワーでさっと汗を流す程度で十分です。さっさとあがって瞑想をする時間に当てましょう。
 晩酌なども、しない方がよろしいです。時間の無駄ですし、お酒を飲んだら瞑想なんかできません。無駄な睡眠は削った方がいいですが、これは個人差があるので何ともいえません。無理して睡眠時間を削ったのはいいが、眠くて瞑想ができないようでは困りますから。ボーっとどうでもいいことを考えるのは時間の無駄です。失敗して取り返しのつかないことをいつまでもくよくよするのも時間の無駄です。ハンカチにアイロンをかけるのも無駄です。パジャマをきれいにたたんで保管するのも無駄です。
 とにかく、こんな感じで、毎日の時間の使い方を総点検し、徹底的な合理化と効率化をして、少しでも時間を作るようにして下さい。時間に関しては、徹底的にケチになって下さい。ただし、心のゆとりは失わないようにして下さい。「悩んでいることがあるんだけど、相談に乗ってくれませんか?」と頼みごとを受けたときは、時間を惜しまず相談に乗ってあげましょう。人助けや思いやりに関してケチになってはダメです。というより、そういう行いそのものが覚醒の修行ともいえるのですから。

 時間の無駄を削って時間を作り出すには、しばらくの間、自分の行動のすべてを分刻みでメモしておくのが役に立ちます。トイレに行って戻るまでの時間さえも記録するのです。そして一日が終わり、そのメモをチェックします。すると、意外につまらないことで多くの時間が奪われていることに気づくはずです。そうして、無駄な時間をなくしていくのです。
 こうした時間管理の習慣は、覚醒ということは別にしても、とても役に立ちます。仕事も効率的にこなすスキルが育っていきますし、自分自身や人生に対する支配力がついて、有能になり、人生を豊かにしていきます。
 いずれにしろ、こんな感じで、毎日、最低でも1時間、できれば1時間半以上、修行だけに専念できる時間を確保していただきたいのです。休日であれば、最低でも2時間、できれば3時間以上、修行の時間を作り出すよう、努力していただきたいのです。
 人によっては、並大抵の努力ではないかもしれません。しかし、そのように時間を作り出すために工夫と努力を傾けること自体、ある種の覚醒修行ではないかと思うのです。

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 修行者のレベル

 ヨーガの根本教典(「シヴァ・サンヒター」)を見ると、「修行者の種類」と題して、次のように書かれてありました。私たちが反省および目標となる指針になるかと思い、その部分を紹介させていただきます。(『続・ヨーガ根本教典』平河出版社より)

 修行者の種類
 ヨーガ修行者には軟弱級、中級、上級、極上級の四種があることを知るべし。極上級の秀れた行者は世界の大海を渡るに堪える人である。

〔軟弱級行者の特徴〕野心が少なく、愚昧で、病弱で、グルを軽んじ、貪欲で、了見が悪く、大食漢で、細君にたよっているもの、気分屋で、臆病で、病人で、他人だよりで、残忍で、善行に欠け、精進が足りない人、これらは軟弱な修行者であると知るべし。かかる人は非常な努力をしても、十二年間かかってやっとシッディを得るであろう。グルは必ずやかかる人をマントラ・ヨーガの適材と知るべきである。

〔中級行者の特徴〕寛容な心の持ちぬし、忍耐強き人、積善を志す人、やさしい言葉使いの人、どんな結果に対しても疑いなく平静な人、これらは中級の行者であると知るべし。このことを知って、グルはこの種の人にラヤ・ヨーガを授けるのが適当である。

〔上級行者の特徴〕堅忍な精神の人、ラヤ・ヨーガに通じ、独立心に富み、勇気のある人、度量が大きく、憐れみの心深く、忍耐心があって、正直な人、剛勇にして、少壮、信仰があって、グルの足を拝する人、ヨーガの修習を楽しむ人、かかる人物は上級の修行者であると知るべし。この人はヨーガの修習において六年間でシッディを得るであろう。この人には、きびしいハタ・ヨーガとその支分とを授けるべきである。

〔極上級の行者の特徴〕精力絶倫な野心家で、人間的魅力があり、勇敢で、教典に通じ、修習を心がけ、盲目的情動なく、容易に動じない人、いつまでも生新な若さを保ち、常に節食し、感官を支配し、恐れる心なく、清潔で、怜例で、慈善を行ない、すべての人に頼られる人、有能、剛毅、賢明であって、こだわりが無く、辛棒強い人、気立てがよくて、敬虔で、自分の努力を秘し、言葉やさしい人、聖典を信じ、神々とグルに仕える人、人間の集会に興味を持たず、恐ろしい疾患を持たない人、極上級の行者の戒律を知り、あらゆるヨーガを行ずる人、かくの如き人は極上級の行者であって、三年間でシッディを得ることは疑いない。かかる人物はあらゆるヨーガの適格者であって、この点では疑いの余地は全く無い。

 以上のなかで「シッディ」というのは、一般的にはヨーガの修行によって得られるさまざまな超能力のことを指します。「マントラ・ヨーガ」とは、マントラを繰り返し詠唱するヨーガ修行のことであり、「ラヤ・ヨーガ」とは、からだの内面から聞こえる精妙な音に精神を集中するヨーガ修行のことです。「ハタ・ヨーガ」は、アーサナ(体位法)やプラーナ・ヤーマ(呼吸法)にウエイトを置くヨーガ修行のことを指します。
 このブログを見て下さっている人のなかには、軟弱級行者のレベル(このような不届き者がそもそもヨーガ修行を志すとは思えないのですが)はいないかと思いますが、極上級の行者のレベルもいないのではないかと思います。やはり、めざすべきはこの極上級の行者ということになりますが、ここに書かれている特徴がすべて備わっているというのは、大変なことですね。しかし、それでもなお、目標としては、ここに書かれてあるような美徳を少しずつでも身につけていきたいものです。

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 言葉の力

 覚醒やスピリチュアルの世界では、「言葉」というものが、重要なものとしてよく取り上げられます。「言霊」だとか、聖書には「はじめに言葉ありき。言葉は神なり……」などと言われています。
 たとえばマントラというのは、ある種の言葉です。有名なのが「オーム」だとか「ナーム」で、他にも複雑な音節や意味からなるマントラが伝えられています。マントラは単なる言葉、つまり意味を伝達する音声ではなく、ある種の物理的な力を備えていると信じられています。
 そして、広い意味では、すべての言葉が「マントラ」であると言われています。
 すなわち、私たちの発する言葉は、その言葉の意味する内容に関する「力」が備わっているのです。たとえば、「私は貧乏だ」と口にすれば、その言葉は自分を貧乏にさせる力を発揮するといいます。「あなたの病気は治る」というと、その言葉は実際に相手の病気を治す力を発揮すると信じられているのです。もっとも、こうしたことは暗示効果として説明できなくもありませんが、しかしそればかりではなく、言葉そのものが独自の力を持つということは、あり得ることだと思うのです。
 そのためか、仏教などでは、三業といって「身・口・意(行動・言葉、想念)」の要素を重く見ており、なかでも加持祈祷によって超自然的な恩恵をもたらすとされる真言密教では、この「身・口・意」を重要な要素としています。言い換えますと、仏の行動・言葉・想念をまねることによって仏に近づき、仏の持つ力を得ようとするのが密教の原理なのです。
 もちろん、言葉そのものに力があるのではなく、言葉に意識の力を込めることによって力を発揮するのだと思います。そうでなければ、たとえばコンピューターで合成されたマントラの言葉を流しておけば、超自然的な力が発生することになり、わざわざ人間や徳の高い僧侶が唱える必要はないでしょう。要するに、心を込めて発した言葉に、力が宿るというわけです。

 そのため、覚醒の道を歩む弟子は、言葉の使い方を厳しく教えられるようです。人を傷つける言葉、否定的な言葉、汚い言葉、乱暴な言葉、冷たい言葉などは、悪い影響を及ぼし、当然、そのために悪いカルマを積むことになります。逆に、人を励ます言葉、肯定的な言葉、美しい言葉、優しい言葉、愛のある言葉などは、善い影響を及ぼし、善いカルマを積むことになります。
 実際、言葉というものは、ときには行動よりも強い影響を与えることがあります。たとえば、人を殴っても相手は死なないかもしれませんが、心を傷つける言葉で、相手は死んでしまったり、ひどいショックで重い病気になることもあるわけです。
 逆に、ほんのささやかな親切な言葉、たったひとことの優しい言葉が、人を死の絶望から蘇らせたり、病気を治したり、さまざまなよいことを生み出したりもします。
 このように、言葉の力というものは、私たちが想像する以上に強力ですから、「たかが言葉」などと思ってはいけないわけです。慎重に言葉を選んで口にしなければならないわけです。

 ところで、こうした言葉の力を利用することによって、いわゆる「願望成就」の力を得ることができると言われています。たとえば、気持ちを込めて「私は経済的に豊かである」と口にすると、実際に経済的に豊かになっていったり、「あなたの病気は治る」といえば、相手は癒されるようになったりするのです。
 ところが、ここで、大きなポイントがあります。
 それは、真実の言葉だけを語る者だけが、そのような言葉の力を得ることができるという原則です。真実の言葉というのは、難しく考える必要はなく、要するに嘘をつかないということです。どんなささいなことでも、約束は必ず守るということです。
 ヨーガの教典を見ますと、「正直に徹したならば、その人は行為とその結果とのよりどころとなる」と書いてあります。簡単にいうと、その人が語った言葉は現実のものとなるというのです。
 正直や誠実さに徹することは、簡単ではありません。しかし、「徹する」のは難しいでしょうが、私たちはもっともっと正直で誠実になれるのではないでしょうか。
 世の中には、まったくいい加減で誠意に欠ける人が少なくありません。こういう人はそもそも自我の機械性に乗っ取られているのです。その人がどれほど覚醒に近いかは、どれほど正直で誠実であるかを見れば、だいたいわかると思います。「できない約束、最初から実行しようとさえ思っていないような約束はしない、約束したら必ず守る、もし守ろうとしても守れないようなら、なるべく早く守れそうもないことを告げる」ということが大切だと思うのです。
 もちろん世の中には、多少の社交辞令だとか、他愛もない嘘やお世辞、リップサービスによって人間関係を円滑にさせるということも、必要なときはあるかもしれません。しかしそういうことも、覚醒をめざすのであれば、なるべく避けた方がいいと思います。どこからどこまでが許せる嘘で、どこまでが罪となる嘘かはわからないからです。相手がそれを本気だととらえてしまうと、相手を傷つけることになってしまうからです。
 たとえば、私は職業柄、本を書いている人と知り合うことがよくあるのですが、どきどき著者の人が「私の本を送ってあげるよ」などと言ってきたりします。しかし今までの経験では、送ってくる人はわずかです。忘れてしまったというより、最初から送る気がないのがよくわかるのです。本人は軽い気持ちで言ったのでしょうが、そういうことはいけないと思うのです。「今度、一緒に遊ぼうよ」などという程度のことも、その気がないなら、言わない方がいいと思います。
 正直や誠実さに徹することは難しいですが、この程度のことなら、ちょっと心がければできることだと思います。
 いずれにしろ、このような心がけをしていくと、言葉の持つ力が強大になっていくというのです。つまり、発した言葉が、現実のものとなっていくのです。それは人生における、もっとも偉大な力ではないでしょうか。

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 覚醒と組織


 先日、私のセミナーに参加くださった方から、「覚醒にとって、宗教組織は有益かどうか?」という質問を受けました。
 覚醒に限らず、宗教の道を歩む上で、組織は必要なのでしょうか?
 また、それは有益なのでしょうか?
 まず、宗教といってもいろいろあります。単にむかしの教祖が説いた教義をそのまま教え、その通りに実行するだけの宗教もあります。そのような場合、教えを効率的に広めたり教えるという意味において、組織は有益でしょう。たくさんの子供を教育するには、学校という組織が有益であるのと同じ理由です。要するに、マスプロ教育ができる宗教の場合は組織は必要であり、有益であるといえると思います。

 それでは、覚醒はどうでしょうか? 覚醒はマスプロ教育によって果たすことが可能なのでしょうか?
 たとえば、覚醒に関する基本的な知識や技法を教えるところまでは、マスプロ教育は可能だと思います。その点では、組織的にした方が効率的かもしれません。
 しかし、覚醒した人、すなわち覚者を、決められた工程で作業が行われる工場から製品が生まれるのと同じような感じで輩出させることは、難しいと思います。
 覚者は、完全手作りのオーダーメイドの製品を作るようなものではないでしょうか?
 工場では、規格に合わない製品は、すべて不良品として廃棄されます。工場という場所は、どれも同じ規格を持った製品を製造するところなのです。なぜそうした規格品を作ることができるかといえば、みんな同じ金型を使って成形し、同じ部品を使って同じ要領で組み立てるからです。
 マスプロ教育も同じで、学校は、基本的には規格品ならぬ「規格人」を製造する場所です。個性を伸ばすということは、なかなか難しいのではないかと思います。
 覚醒は、あるところまでは同じ原理や原則に従って進めるし、また進むべきだと思いますが、最終的には自分なりの道を歩んでいく必要があると思うのです。
 というのも、究極的な真理というものは、特定の言葉で表現できるものではなく、たとえ同じことをさしていても、人によって表現やとらえ方が違ってくるのが普通だからです。
 ところが、組織というものを運営し、まとめていくには、そこに所属する人がみんな同じ意見や考え、同じ言葉を持たなければなりません。そうしなければ、組織はバラバラとなり、その体を為さないでしょう。
 そんななかで、覚醒に近づいていったとき、究極の真理を自分なりに認識し、それを言葉にしたとき、それが組織の教義(の言葉)と異なっているならば、組織はそれを受け入れることはできないでしょう。組織の教義に従うか、さもなければ脱会していくかです。
 組織というものは、その構成上、考えや言葉を一定の形式に押し込めようとします。それが組織というものであり、そうしなければ、組織は成り立ちません。しかし、言語化された言葉や考えというものは、非常に精妙な高次元の真理を、まったくおおざっぱにしか表現していない物質次元に属するものであり、そうした物質次元に、高い次元で得た覚醒の意識を無理矢理あてはめようとすると、せっかくの覚醒の意識を破壊してしまうのではないかと思うのです。つまり、「規格品」になってはいけないのです。
 ですから、覚醒をめざすには、組織から離れたり距離をおくか、あるいは、からだは組織に属していても、内面的にはある種の「アウトロー」となり、自分がつかんだものを尊重し、守っていかなければ、覚醒はできないと思うのです。

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 覚醒のための圧縮と火花

 覚醒とか、悟りという言葉は、誤解を生みやすいと思います。もともと、覚醒や悟りが何であるかは、(覚醒した人以外は)わからないわけですから、無理もありません。
 ただ、私は便宜的に、覚醒や悟りというものを、完全な覚醒(悟り)と、順覚醒、あるいは「小さな覚醒」というように分けています。私たちはまだ完全なる覚醒はしていませんが、順覚醒、小さな覚醒は、たくさん経験してきているはずです。
 そして、完全な覚醒というのは、こうした小さな覚醒を積み上げていくうちに、いつか訪れてくるものではないかと思うのです。
 小さな覚醒というのは、今まで自分らしくない生き方(エゴの生き方)をしていたのが、そのあやまちに気づき、自分らしい生き方(魂の生き方)に一歩近づいた状態のことだと思います。たとえば、傲慢で人に対する配慮に欠けていた人が、それがよくないことだと心の底から気づき、自分の非を認め、謙虚な人柄になるといった場合です。
 これが単なる「反省」と異なる点は、単なる反省の場合は頭で「これはよくないことだ」と理解するだけですが、覚醒であれば、心の底から懺悔の念にあふれ、全人格的な変容があり、ある種のショック、深い感銘を伴っているはずです。「我に返った」という言葉がありますが、これなどはまさに小さな覚醒体験のことを指していると思うのです。

 ところで、こうした覚醒体験には、ひとつのパターンがあるように思います。
 それは、ちょうどクルマやバイクのエンジン(内燃機関)のメカニズムに似ています。ご存じのように、エンジンは、まずガス(気化されたガソリン)をシリンダーに吸い込み、それをピストンで圧縮し、圧縮した頂点で火花を放ちます。すると爆発して、その反発力でピストンを跳ね返し、シャフトを回転させているわけです。
 圧縮していない段階で火花を放っても爆発しないか、不十分な爆発しかしません。つまり、火花を放つタイミングが重要になるわけです。
 同じように、覚醒というのも、まずはガスを吸い込んで圧縮するのに相当する期間があるように思うのです。具体的には、ある程度の期間に及ぶ悩みや問題意識といったものです。長い間、ずっとある悩みに苦しみ、解決のためにあれこれ苦闘して、それが心のなかに「圧力」を作り出し、ついに一定のレベルに達したとき、火花に相当する何らかのきっかけが生じて、いっきに爆発するのです。そして、その内部の爆発によってエゴの殻が破壊され、新たな境地を獲得するわけです。

 その「火花」とは、人からの何気ない言葉であったり、本に書いてある一文であったり、自然の現象であったり、ちょっとしたハプニングであったり、その他、あらゆる場合が考えられますが、ほとんどは、はたからみれば、何の変哲もないようなものです。ところが自らを「圧縮」し続けてきて、ついに「タイミング」が訪れた人にとっては、それは変容をもたらす大きな意味を持っているのです。

 したがって、覚醒をめざすには、内面に「圧力」をかけ続ける作業が必要ではないかと思うのです。ある程度の期間(それはしばしば長期に及んだりしますが)、悩み続けるのです。苦闘し続けるのです。そうしたら、いずれ予期しない形で「火花」が放たれ、突如として内的変容、すなわち覚醒が訪れるのです。
 こうした圧力は、いわゆるストレスといえるでしょう。ただ、それを前向きにとらえるか、そうでないかの違いだけです。前向きにとらえなければ、おそらく覚醒はしません。胃に穴があくだけでしょう。しかし前向きにとらえるなら、それは爆発(覚醒)に向けて心を圧縮させている作業となるのです。どんなに辛くても、そこには偉大な意味が潜んでいることになるのです。
 こうしたストレスを持たず、ただ毎日を楽に、惰性でダラダラと過ごしていただけでは、覚醒は難しいのではないかと思います。
 とはいえ、あまりにも強いストレスばかりではつぶれてしまいかねません。そのへんのバランスは微妙で、ある種の冒険といえるかもしれません。
 しかし、私たちの魂というものは、もともと冒険家であると思うのです。覚醒のためには、冒険が必要ではないかと思うのです。
 魂は、この地上に成長するために来たと言われます。そして、可能な限り最大限に成長しようと、ぎりぎりの苦しみや試練を計画して来たと言うのです。そのため、しばしば「誤算」をして、苦しみや試練に負けてしまう魂も多いようです。そのこと自体は悲しいことには違いありませんが、自分を大きく成長させようとして大きな苦しみや試練を計画したその魂の勇気は、称賛に値すると思うのです。

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 修行者の姿勢 2

 前回は、覚醒をめざす修行者の姿勢として、真面目さ・忍耐・向上心が必要不可欠だと申し上げました。
 しかし、これらは行きすぎてもよくないと思うのです。修行にはバランスが大切だと思います。真面目であることは大切ですが、堅物になってはまずいですし、忍耐が行きすぎて「何があってもじっと我慢しているだけでいいのだ」というのでは、不必要の苦労まで背負いかねません。ときには新風を招き寄せるダイナミックな試みも大切だと思います。向上心が強いことは歓迎すべきこととはいえ、あまり向上を意識し過ぎると、向上しない人をバカにしたり、そういう人に対して優越感(高慢さ)を抱いてしまう可能性もないとはいえません。あくまでもゆとりを伴った向上心が大切であると思うのです。

 ゆとりがある人には、ユーモアがあります。真面目であることと、ユーモアがあることは、相反するものではないと思います。もちろん、低俗でくだらないユーモアは別ですが、しゃれたユーモアのセンスがあるというのは、覚醒の道に反するどころか、覚醒の道を促進させるものではないかとさえ思うのです。
 意外なことに、過去に覚醒したと思われる人をいろいろ調べてみますと、けっこうユーモアのセンスがある人が多いのです。というより、そういう人の方が多いような気がします。
 ユーモアがあると、自分自身の抱える苦悩や試練といったものを、楽観的でゆとりを持って見ることができ、いたずらに悲観したり絶望したりしないですみますし、他者の到らない欠点や弱点についても、寛容さを発揮することができます。ユーモアというのは、人生の苦難を乗り越える“解毒剤”のようなものです。

 実際、人生のほとんどのことは、後になれば、笑ってすませられるようなことばかりではないでしょうか。その当時は真剣で大まじめで、苦しみと悲壮感に満ちていたものが、後になって振り返ると、たいした重大なことでもなく、笑ってすませられるものだったことがわかるのです。
 といっても、さまざまな人生の体験が大切ではなかった、という意味ではありません。そうではなく、あまりにも深刻に受け止めるほどのことではなかった、ということです。
 後になって、ほとんどのことが笑ってすませられるのだとすれば、いっそのこと、現在、笑ってすませてしまうというのは、いかがでしょうか?
 もちろん「笑ってすませる」といっても、いい加減にすませるという意味ではなく、深刻に考えずゆとりを持って対応するという意味です。笑ってすませられるのに、あえて苦しい思いをするというのは、損といいますか、意味がないことだと思うのです。

 とはいえ、こういうものは、後になって全体像や因果関係がつかめるために笑ってすませられるのであり、今後どうなるかわからない現在においては、笑ってすませるというのは、難しいことだと思います。それでも、なるべくユーモアのセンスを失うことなく、人生のさまざまな経験や試練に対応していくことは、いいことだと思います。
 そうできる人というのは、よほど鈍感で無神経か、あるいはスケールの大きい英雄タイプの人ではないかと思います。鈍感で無神経では困りますが、繊細な神経を持ちながら、スケールの大きい英雄タイプの人をめざすというのは、そのまま覚醒の道につながるのではないかと思うのです。
 ですから皆さん、どんなときでも、ユーモアのセンスは失わないようにしようではありませんか! そうすれば、八方塞がりで絶望的だと思われる状況でも、案外と出口を見つけることができるかもしれません。希望は、ユーモアという母胎から生まれるものなのではないかと思うのです。


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