心の治癒と魂の覚醒

        

 ヨーガ哲学による解脱(覚醒)の理論

 何事を行う場合にも言えることですが、修行を続けていくには、「この修行は何のためにやっているのか、どのような意義があるのか」ということをはっきりさせる必要があります。さもないと、人間は辛いことをしていると「こんなことに何の意味があるのか?」という疑問が生じてきて、ついには止めてしまったりするからです。
 そこで、解脱(覚醒)の理論をご紹介することで、修行の意義について理解を深めていきたいと思うのです。ここで紹介するのは、ヨーガの哲学理論です。

 さて、ヨーガの哲学によれば、根源の世界には「魂(生命)の固まり」が存在していました。要するに「神」のことです。神は、ひとりで至福と平和の境地に安住していました。一方、プラクリティ(自性)と呼ばれる「物質の固まり」も存在していました。つまりヨーガの哲学は二元論ということになります。
 あるとき、神とプラクリティが偶然に出会いました(偶然ではないのかもしれませんが)。そのときプラクリティの心に「おせっかい」な気持ちが生じたというのです。
 それは、至福と平和しか経験したことのない神という「お坊ちゃん」に、一度自分が誰なのかわからなくさせ、人生の酸いも甘いもさんざん経験させた末に、自分が誰なのか知ってもらおうという気持ちです。
 そうして、プラクリティは神の前に立って、ある種の巨大な鏡のような存在になったのです。その結果、神は、鏡に映った自分の姿を本当の自分だと錯覚するようになりました。
 ところで、プラクリティには三つの運動原理があります。それは以前、このブログでも紹介した「三つのグナ」のことです。
 タマス・グナ=暗く鈍重な働きをする運動原理
 ラジャス・グナ=せわしなく動く働きをする運動原理
 サットヴァ・グナ=ものを明るく照らし出す運動原理
 この三つのグナが入れ替わり立ち替わり常に変化しているのが、プラクリティの特徴です。そのため、このプラクリティという鏡に映っている神も、この三つのグナの通りに変化する存在に見えてしまうのです。しかもこの鏡は、表面に無数のひび割れがあるため、神の姿はたくさんの姿に分裂して見えてしまいます。
 これはまったくの錯覚であり、神自身は何の変化もないのですが、鏡のなかの自分が本当の自分だと思いこんでいるため、神は自分自身が無常な物質世界に閉じこめられ、たくさんの魂に分裂し、それゆえに争ったり妬んだり怒ったり欲望におどらされたりなど、さんざんな苦しみを味わっているのです。これが私たちの今の状況です。

 たとえるなら、映画館に入ってホラー映画を見ているようなものです。よくできた映画を見ていると、それが単なるスクリーン上に映し出された虚像ではなく、リアルな実在に思えてきて、映画の世界に入ったような感覚になってしまいます。とくに最近はやりの3D映画などでは、ますますリアルに感じられます。その結果、単に俳優がグロテスクなメーキャップをして怪物の演技をしているだけなのに、そんなことは一切忘れ、本物の怪物に襲われているように思えて恐怖におののいてしまっているわけです。
 このように、この世界というものは、プラクリティによって作り出された「幻影」であり、ある種の「ワナ」だというのが、ヨーガ哲学の考え方です。そして、この世界が幻影であることを見抜き、自分は何も変わらない至福と平和の神であることを思い出すことが、解脱であり覚醒ということになるわけです。

 それでは、どのようにしたら、この世界が幻影であり、自分は至福と平和に満ちた神であることを思い出すことができるでしょうか?
 この場合も、ホラー映画のたとえが適用できます。ホラー映画に夢中になって怖れ苦しんでいるとき、その苦しみから解放されるには、これは単なる映画であり、自分はスクリーンに映し出された虚像を見ているだけなのだと気づけばいいわけです。
 では、どうすれば、映画であることに気づくことができるでしょうか?
 いろいろな方法があるかと思いますが、一番簡単で効果的なのは、目を閉じることです。そうすれば、目の前から怖ろしい怪物はいなくなります。そうして落ち着きを取り戻せば、自分は今映画館で映画を見ているのだということに気づくようになるでしょう。
 同じように、自分は「地上世界」という映画を見ているのだと気づくには、目を閉じればいいのです。つまり、意識を内面に向ければいいのです。要するに瞑想するのです。
 瞑想をして意識を内面に向けることで、落ち着きを取り戻してくると、自分が本当は誰なのか、しだいに思い出されてきます。理屈ではなく、直感的に「自分は映画を見ていたのだ」とわかるわけです。
 このことを、ヨーガでは「直感的な智慧」と呼んでいます。短くして「直智」といってもいいでしょう。論理や理屈や思考による推論ではなく、真実をダイレクトに認識する働き、それが「直智」です。この直智が、解脱をもたらすとされているのです。ですから、いくら本を読んだり考えたりしてもダメなのです。瞑想して直智能力を獲得するしか、解脱する道はありません。

 ところで、いくら映画だと気づいても、映画を楽しみたいという欲望が私たちの心にはしぶとく残っています。ホラー映画であっても、やはりそれを見るとどこか楽しいから見るわけです。その欲望が残っていると、席を立って映画館から立ち去ろうという気にはなれないでしょう。
 同じように、完全な解脱を果たすには、直智だけでは足りないのです。映画そのものに対する欲望を完全に捨てなければなりません。つまり「離欲」ということが最終的に求められるわけです。そうしたとき人は、「映画館」から立ち去り、もう二度と「映画館」に戻ってくることはなくなります。
 まとめるなら、解脱(覚醒)に必要なことは、次の二つの意識を獲得することです。
1.プラクリティ(物質性、地上世界、肉体)と本当の自分とは別であり、本当の自分は神なのだと認識する「直智」。
2.プラクリティに対する完全なる「離欲」。
 この直知と離欲の獲得こそが、覚醒修行をする目的であり、意義なのです。

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 人はなぜ覚醒をめざすのか? 2

 賢者や偉人、哲人たちは、人生の実体をありのままに見つめ、苦しみというものの根本的な解決策を模索してきたわけです。それが哲学や宗教という形で伝えられているわけです。もっとも、ニーチェのように「永遠の苦しみの中にあってもたくましく生きる超人になれ!」などと、(私から言わせれば)何の解決策も打ち出していない哲学を説く人もいます。「超人」になれれば誰も苦労しないわけで、もしそう説くなら、どうやってその「超人」になれるのか、その道筋をあきらかにしなければ無責任だと思うわけです。
 かといって、「神様に祈っていれば天国に行って永遠に救われます」と説く宗教がありますが、いくら信じることが宗教だからといっても、正直、本当にそうなのかと私は疑ってしまうのです。多少なりとも、それが本当であることを証明するような何かがあればともかく、ただそう言われているという理由で「はい、そうですか」と素直に受け入れることは、少なくても私にはできません。
 
 そうして、結局、私がたどりついたのがヨーガだったのです。ヨーガには、苦しみを根本的に解決するための哲学理論とその実践法が明記されており、しかも、その通りに行って苦しみを根本的に解決したと思われる人物が多数輩出しているからです。
 とはいっても、私は「ヨギ(ヨーガ行者)」ではありません。つまり、ヨーガを行じるのが目的ではなく、あくまでも苦しみを根絶することが目的なので、手段はどうでもいいのです。ですから、ヨーガ以外の教えで役に立つものがあれば、どんどん取り入れるようにしています。
 結局、苦しみを根源から絶ちきるには、地上にだけ向けられている意識の焦点を、本来の人間の姿である霊的な領域へとシフトすることであるらしい、ということがわかりました。それがいわゆる「覚醒」です。わかりやすく言えば、この地上での人生は「夢」だというのがヨーガの教えであり、その他、主な神秘思想の教えです。私たちは悪夢を見てうなされているというわけです。私たちの本質は肉体という物質ではなく、意識エネルギーなのです。
 意識エネルギーに死滅はなく、時空を超えた完全な自由を持ち、この地上のあらゆる幸せをすべて足し合わせたよりもはるかにすばらしい、想像を絶する幸せを享受する存在と言われています。
 その状態がどれほどすばらしいものかがわかれば、おそらく地上のあらゆる喜びを投げ打ってでも覚醒を求めて修行するようになるのでしょうが、そのすばらしさがわからないので、ほとんどの人が、覚醒などに興味を示さず、興味を示したとしても、修行にかける熱意に不足してしまうのです。よくわからない天上の幸せよりも、身近には欲望を刺激する数々の魅惑的なものが溢れています。そのため、どうしても、霊的な修行よりも、物質的な物事に眼が移ってしまい、その獲得に心が奪われてしまうわけです。それが、現在の人類の大多数であるわけです。
 しかし、そんななかで、人生の無常や、生に付随する数々の苦悩や不自由さを、骨身に染みて味わった人だけが(過去生も含む)、人生に真の幸せを求めることに絶望を覚え、人生の苦しみを根本的に解決するための道を模索するようになるわけです。

 ところが、「人生の苦しみから救われるために修行をする」などというと、「弱虫」で意気地なし、ネクラな人の単なる逃避だと思われてしまうところがあるようです。
 私が若い頃、自分の目的は人生の苦しみから解脱することだ、だから宗教や哲学の研究をしているのだと母に言ったところ、母はこう言いました。
「意気地なし! 男なら、人生の荒波や苦しみなんかに負けずにたくましく生きたらどうなの!」
 こう思う人は、たくさんいるのかもしれません。しかし、こうした動機で宗教や哲学の道を歩んでいる人が「意気地なし」というのなら、まず何よりも釈迦は意気地なしということになります。そのときは、両親はほとんど無宗教でしたが、その後、仏教を信じるようになりました。両親は「意気地なし」が説いた教えを信仰していたことになります。もっとも両親の信仰は「仏様に祈れば救われる」といった他力的なもので、修行などしませんでした。しかしご存じのように、釈迦は「仏に祈れば救われる」などと説いてはいません。「ひたすら修行せよ」と説いたのです。仏に祈って救われるのなら、修行なんて、そんなしちめんどくさいことは説かなかったはずです。「仏に祈れ」と説いたはずです。しかし、そんなことでは救われないから「修行せよ」と説いたのです。もちろん、仏に祈ることは大切です。しかしそれは「修行が成就できますように」と祈るべきであって、修行も努力もせず、おんぶにだっこで「助けて下さい」と祈ることではないのです。そんなものは仏教とはいえません。

 結局、覚醒をめざすというのは、苦しみから解脱するという目的だけではないのです。覚醒をすることが、すべての人類の霊的な進化そのものだから、覚醒をめざすのです。苦しみからの解脱というのは、そのきっかけにすぎません。たとえば病院に入院した人の目的は「早く病気を治して退院すること」ではないでしょうか。病気とは異常な状態だということです。人類も同じです。今の人類は、本来の人類の姿ではなく、まさに異常な状態、病気の状態なのです。その病気の状態から健康になろうと願うのは当然ではないでしょうか? それなのに、「病気を治すためにがんばって療養したい」と言う患者に対して、「意気地なし! 病気の苦しみなんかに負けず、たくましく生きたらどうなの!」なんて言う人がいるでしょうか?
 覚醒とは、弱者の逃避ではありません。それは真の意味で健康になることであり、立派な人間になることであり、進化するということなのです。そして、そのような道を歩むためには、克己的な努力が求められます。世の中に「克己(自分に勝つ)」ほど偉大なものがあるでしょうか? すなわち、それは真のたくましさ、冷静な知性、情熱的な行動力が要求される、まさに「勇者」が歩む道なのです。

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 人はなぜ覚醒をめざすのか? 1

 このブログを最近になってご覧下さっている方もおられるかと思いますが、ここであらためて、このブログの目的について説明したいと思います。今後も、大切なことは、多少角度を変えながら繰り返し説明していきたいと思っています。
 さて、どんな人も、幸せになりたいと思って生きています。それはすべての人に共通していると思いますが、「幸せとは何か?」という点については異なるでしょう。それにより、人生で追い求める目的が違ってきます。
 たとえば、お金持ちになることが「幸せ」だと思うならば、お金を儲けることが人生の目的になるでしょうし、「名声を得ること」、「あたたかい家庭を築くこと」が幸せだと思う人は、その実現が目的ということになるでしょう。
 私も、若いときからそういうことをよく考えました。ただ、私は欲張りなため、本当に幸せであるには、次の条件が必要だと思いました。
 それは、「その幸せは何があっても失われることがない」という条件です。要するに永遠に続く幸せです。その幸せがいつか失われてしまうのであれば、安心して幸せを享受していられません。それでは、苦しみは永遠についてまわるということになります。私は苦しみというものを、もう二度と味わうことがないように根絶したかったのです(そんなことが可能だとして)。

 それでは、お金持ちになるというのは、どうでしょうか?
 そもそも、お金が欲しいというのは、衣食住などの基本的な欲求を満たすことを別にすれば、結局のところ「心の満足」のためであることがわかります。高級車に乗りたいのは、移動したいからではなく、高級車を所有することから得られる心の満足のためです。また、お金が十分にあると安心するということもありますが、これも心の満足です。
 確かに、お金がたくさんあれば、心を刺激する楽しい経験がたくさん得られますし、不愉快な経験から逃れられる場合もたくさんあります。しかし、お金は万能ではありません。いくら大金を持っても失われてしまうことはありますし、お金を持っても、幸せが感じられない人も珍しくありません。ある大金持ちの人が、病気のために貧乏な人が食べているような粗末な食事しかできなくなったという実話があります。これではお金があっても意味がありません。
 ということは、いくらお金持ちになっても、幸せに対する私の条件、すなわち「その幸せは絶対に失われることはない」という条件を満たすことはできないことになります。というより、お金があるだけでは、完全な幸せは得られないのです。
 名声を得ることも同じです。名声を得ればしばらくは幸せかもしれませんが、じきに色あせてくることは目に見えていますし、温かい家庭なども、完璧な家庭などはなく、いさかいなど不愉快なものは多少なりともありますし、第一、人間はいつか死んでしまうので、幸せな家庭がいつまでも続くことはないのです。
 したがって、こうしたことも、私の幸せの条件を満たすことはありません。その他、いろいろ考えましたが、この地上に永続的な幸せを約束してくれるものは、何一つないように思いました。そうして、私が打ち出した結論はこうです。すなわち、
「地上では、人間は一時的には幸せになれるとしても、いずれその幸せは失われて苦しみを味わうことになる」。
 永久かつ完全な幸せは、存在していないのです。いみじくも釈迦が「諸行無常」と言った通りです。この地上世界は、本質的に無常ですから、その無常な世界で変わることのない永遠かつ絶対的な幸せを得ることは、不可能なのです。どんな人も、必ず死という決定的な打撃によって、すべてがうち砕かれてしまう運命にあるわけです。

 人生はあまりにも不安定です。病気や事故であっという間に健康が失われることがありますし、愛する人との死別や生別も突然にやってきたりします。自分が死ぬことだってあります。年間3万人以上が自殺していますし(事故か自殺か判明しないケースを含めると実際にはもっと多いでしょう)、自殺未遂はその10倍から20倍にのぼるといわれています。また精神的におかしくなり精神科に通う人は、その何十倍もいると推測できます。つまり、それだけ苦しんでいる人がたくさんいるということです。詐欺や闇金融やいかがわしい宗教などに引っかかって今まで苦労して貯めたお金を失う人も数え切れないほどいますし、会社が倒産して職を失う人も数え切れません。
 結局、人生というものは、こんな不幸や苦しみを次から次へと経験しながら、つかのまの幸せを支えに何とか耐えて生き続け、やがて死んでいくということになるわけです。
 しかも、「輪廻転生」が事実だとすると、こんなことを永遠に繰り返していかなければならないことになります。そうなると、「もういい加減に勘弁してくれ!」と言いたくなります。幸せと苦しみのシーソーゲームを永遠に経験させられるというのは、屈辱的と言えないでしょうか。
 この永遠に続く苦しみから根本的に救われる方法はないでしょうか?
 そう思って、いろいろな宗教や哲学をあさってみたのです。 (次回に続く)

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 食物と修行 3

 さて、覚醒をめざす修行者は、「食べ過ぎない」ということが鉄則のようです。
 しかし、具体的に、どれくらいまで食べるのが許されるかとなると、迷ってしまいます。そこで、そのための参考となる指標を、ご紹介したいと思います。
 それは、カロリー摂取の制限によって活性化される「長寿遺伝子」に基づく指標です。
 私たちのからだのなかには、「長寿遺伝子(SIRT1)」なるものが存在しているそうです。この遺伝子がオンになりますと、健康で長生きするのだそうです。さらに、この長寿遺伝子は、記憶力強化や脳活動の活性化にも重要な役割を果たしている可能性が高いとの論文が、最近、権威あるイギリスの科学誌『ネイチャー』に掲載されました。
 現在の私たちの食生活では、長寿遺伝子がオンになっている人はとても少ないといわれています。その理由は、ひとことでいうと「食べ過ぎ」です。カロリーを制限すると、長寿遺伝子がオンになるのです。では、具体的に、どのくらいまでカロリーを制限すればオンになるのか、その指標の計算方法を、次に紹介してみましょう。

①まず、「適正体重」を割り出して下さい。
適正体重=身長×身長×22
この式で割り出せます。たとえば私の場合、身長が1メートル72センチですので、
1.72×1.72×22=約65になります。65キロが私の適正体重です。

②次に、以下の表から、「基礎代謝基準値」を出して下さい。

〈基礎代謝基準値〉
 年齢 男性 女性
15-17 歳    27.0 25.3
18-29 歳    24.0 23.6
30-49 歳    22.3 21.7
50 歳以上    21.5 20.7

 私の場合、50歳で男性なので、基礎代謝基準値は21.5になります。

③今度は、以下の表から、生活活動強度指数を出して下さい。これは自分がどれくらいからだを動かしているかの指数です。

〈生活活動強度指数〉
1.3 (低い)    外出しない専業主婦など
1.5(やや低い)  事務職など活動量が少ない人
1.7 (普通)    営業職など歩く機会が多い人 定期的に運動している人
1.9 (高い)    運動選手など激しく身体を動かしている人

 私の場合、基本的には事務職ですが、定期的にジムに通って運動したり、自宅でアーサナを行っていますので、1.5と1.7の中間をとって1.6としました。

④ そうしたら、今まで出した数値をすべて掛け合わせて「適正カロリー」を導き出します。すなわち、式としてはこうなります。

適正カロリー=適正体重×基礎代謝基準値×生活活動強度指数

 私の場合は、65×21.5×1.6=2236Kcalとなります。

 この適正カロリー以下の食事をすることで、長寿遺伝子はオンになるということです。
 したがって、覚醒の修行も、このカロリーが基準になるのではないかと思います。つまり、この基準を超えるほど食べ過ぎないようにするのです。よく「腹八分目」ということが言われますが、感覚的には、このカロリーは「腹七分目」くらい、人によっては「腹六分目」くらいになるかもしれません。
 ただ、ヨーガ行者を見ていますと、実際にはこれよりもずっと低い摂取量のような気がします。
 実は、一般的にいわれている適正体重の他に、また別の「適正体重」なるものが提案されており、それによると、先ほどの適正体重を導く式に使われている「22」という数値は、やや高いかもしれません。別の適正体重では、「20」くらいが(覚醒修行にとっては)理想ではないかと、私は考えています。
 それで計算すると、私の適正カロリーは、2035カロリーとなります。

 以下に、主な食物のカロリーを示しておきましたので、普段、どれくらいのカロリーを摂取しているか、計算してみて下さい。なお、これにはジュースやお酒は含まれていません。それを摂れば、食物はさらに減らす必要があるでしょう。
 ただし、これはあくまでもカロリーだけを問題としています。カロリーを減らすには、他の栄養素が不足しないよう、バランスよく減らしていかなければなりません。
 とにかく、これを守れば、健康で若々しく、長生きができるということなので、なんともエコな健康法であるといえそうです。


ごはん(1膳) 220
おにぎり 180
もち1個 120
親子丼 600
カツ丼 900
牛丼 650
うな丼 650
中華丼 650
ビーフカレー 800
チャーハン 750
オムライス 900
寿司 並 1人前 500
焼き魚定食 690
肉野菜炒め定食 720
酢豚定食 920
唐揚げ定食 785
しゃけ弁当 650
幕の内弁当 800
ざるそば 300
天ぷらそば 650
月見そば 420
ざるうどん 260
しょうゆラーメン 450
チャーシューメン 580
焼きそば 500
スパゲティ(ミートソース) 700
食パン 1枚 160 (バターやジャムを塗ると+80kcal)
あんパン 200
たまごサンド 550
ハンバーガー 300
フィッシュバーガー 400
目玉焼き 100
冷や奴 100
納豆 90
コロッケ 200
えびフライ 4尾 320
白身魚のフライ 120 (タルタルソースは 90kcal)
天ぷら 1人分 400
わかめの味噌汁 35
牛乳 200ml 120
ヨーグルト 120
6Pチーズ 1個 90


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食物と修行 2


 食物に関することだけでなく、覚醒の修行にとって大切なことは、物事を全体的に考えること、またバランスよく考えることだと思います。
 たとえば、肉食は絶対にしない方がいいとします。しかし、それを厳格に守るとなると、人との付き合いが難しくなります。忘年会などで、会場が焼き肉屋になったらどうでしょうか? 焼き肉屋に行って肉を食べずにいたら、確かに肉体的にはいいかもしれませんが、周りの人たちをしらけさせてしまい、コミュニケーションが円滑にできなくなるかもしれません。
 しかし、多少は肉を食べながらでも、仲間と楽しく語り合うなら、精神的に好ましい影響を周囲に与えることができるかもしれません。そうしたら、それは善のカルマを積んだことになりますから、総合的には修行が進むかもしれません。

 また、いくら健康にいいからといって、おいしいとは思わない食物を仕方がないといった感じで食べていても、実際にはあまり健康にいいとはいえないと思うのです。それなら、健康にいいとはいえない食物だとしても、心からおいしいなあと感じて食べた方が、ずっと健康にいいように思います。

 しかし、修行が進むにつれて心身のコンディションが敏感になり、少しでも不純な食物を食べると修行に支障が生じるようになったら、いかに善のカルマを積むことができたとしても、焼き肉屋へ行くべきではないでしょう。なぜなら、覚醒しないまま一緒に焼き肉を食べて精神的に好ましい影響を与えるよりも、覚醒した人になった方が、ずっと世のため人のためになる大きな影響を与えることができるからです。
 さらに、いくらおいしく飲んだり食べたりする方が体にいいといっても、それを口実にして暴飲暴食をしたら、体に悪いし、修行の妨げになることはいうまでもありません。

 その他、個人の体質によっても、どのような食事をするべきかは変わってきます。住んでいる土地によっても、微妙に変わってきます。肉体労働をしているか、頭脳労働をしているかによっても異なってきますし、その他、さまざまな条件があると思います。
 したがって、どんな人にも当てはまる食物摂取の決まりというものは、ないと思うのです。

 ただし、それでもひとつだけ、どんな人も絶対に守るべきルールがあります。
 それは、「食べ過ぎない」ということです。ヨーガ教典などには、「食べ過ぎる者は絶対に覚醒できない」といったように、強い調子で戒められています。食べ過ぎだけは、覚醒の道を歩む人は絶対に守らなければならないようです。
 もちろん、どれだけ食べればいいかというのは、個人差があります。そこで、個人別に、どれだけ食べたらいいのかを知る目安がありますので、それを次回、ご紹介したいと思います。

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 食物と修行1

 どのような食物を摂取するかは、修行にとって大切な要素となります。ヨーガ教典などを見ても、どのような食物が適しているかが、細かく書いてあります(しかしその記述は現代日本社会では必ずしも妥当とはいえないところがあります)。
 食物だけでなく、体に入るもの、体に影響を与えるものは、すべて考慮する必要があるでしょう。修行で大切なのは、いうまでもなく健全な肉体ですが、とくに大切なのが脳神経系統です。化学的に有害な物質を摂ると、まず脳神経系統に大きなダメージをもたらしてしまうのです。瞑想をするにしても、脳神経系統を使うわけですから、そこがやられるとうまく瞑想できません。
 そのため、有害な物質を摂らないようにすることが、まずは食事に関して気を付けるべき注意となります。
 食物の他には空気が大切です。当然、汚染された空気は肉体によくありません。といっても、すぐに空気のいい場所に引っ越しすることができるとは限らないので、難しいかもしれません。ハウスシック症候群のように室内の建材から発散される有害物質も考えなければなりません。また、部屋は常にきれいにして、ほこりなどが空気中に漂わないようにすることです。これは努力すればすぐにできることです。
 最近では、電磁波の影響も無視できなくなりました。なかでも携帯電話は非常に大きな電磁波を放ちます。特に電話やメールが送受信されるときに大きな電磁波が生じるということなので、送受信の間は、なるべく頭部から携帯を離した方がいいでしょう。電磁波が癌やその他の病気の原因になるという、かなり有力と思われる説もあります。
 その他、体内に入れるものといえば、薬です。薬は必要以上に服用しない方がいいでしょう。風邪などは、別に服用しなくても自然に治りますし、自然に治しが方が生命力が高められますので、大切な会議などがあり咳やくしゃみをどうしても止めなければならないといった状況でなければ、飲まないで治した方がいいと思います。薬の副作用は、長期的な臨床データがあるわけではなく、まして他の薬との飲みあわせのデータはありません。薬は基本的には毒ですから、やたらに摂ることがよくないことは、あえていうまでもありません。もちろん、必要なときは摂取するべきですが。
 また、予防接種なども問題があります。インフルエンザの季節が来て予防接種をする人もいるかと思いますが、予防接種には水銀をはじめ、数々の有毒物質が混入されており、また体内の免疫システムを混乱させてしまう可能性がありますので、お勧めできません。またその効果についてもプラシーボと同じ程度という説もあります。いずれにしろ、脳神経系に長期的なダメージを与える可能性があるので要注意です。
 その他、歯磨き粉や化粧品、シャンプーや石けんといった粘膜や皮膚に触れるものも、気を付ける必要があるでしょう。

 しかし何といっても重要なのが、水と食物です。これらは直接体を構成するものとなるからです。
 水道水には塩素やその他の異物が混入されています。水道水をそのまま水槽に入れると金魚は死んでしまいます。金魚が死んでしまう水を人間が飲んで、何も問題がないというのは、どうも信じられません。水は濾過器を使って濾過したものを飲んだ方が無難だと思います。
 食物は、農薬や化学添加物などが混入されているものがほとんどです。よほどしっかりした店で有機野菜でも買うのでなければ、どのような食物にも微量な農薬などが入っていると見て間違いありません。加工食品であればなおさらです。特に肉は、エサのなかに有害物質が含まれている可能性が高く、それが動物の体のなかで濃縮されていますので、十分に注意する必要があります。また、動物が殺されるときの恐怖やネガティブな念のエネルギーが染みこんでいるという人もいます。真偽はわかりませんが、あり得ないことではないと思います。

 しかしながら、このように汚染物質にまみれた現代社会で生きている限り、まったくそうしたものを摂らないようにすることは、至難の業ではないでしょうか。山奥で自給自足の生活をするなら別ですが、都心に住んで外食をしなければならないような生活では、もう不可能といわざるを得ません。
 古代のインドでは、栄養豊かな食物を入手することが修行における難しい課題だったかもしれませんが、有害物質の混入についての心配はなかったでしょう。今は逆で、栄養豊かな食物はいくらでも入手できますが、有害物質を摂らないようにすることが、修行における難しい課題になっているのです。
 仕方がないので、定期的に断食をして毒素を排出するしかないのかもしれません。断食をすると、体内の有毒物質をある程度は排出できるといわれています。ただ、断食にしても、誰もができるわけではありません。普通のサラリーマンをしている人が、三日も四日も断食をすることは難しいし、へたにやるとかえって悪い結果をもたらしてしまいます。

 このように考えますと、結局、「ベスト」は無理なので、「ベター」をめざしていくしかないと思うのです。つまり、「なるべく体にいいものを食べるように努力する」ということです。「なるべく努力する」ということくらいしか、できないと思うのです。現代社会で生活をしている以上、完全というのは無理です。
 しかし、この「なるべく努力」でも、そうしない場合と比べれば、大きな違いが生じると思います。なるべくでも努力していけば、食物に関しては、覚醒にとって致命的な障害になることは、まずないと思うのです。
 したがって、今までは何も考えず食物を口に入れていたとしたら、これからは食べる前に、その食物が適切なものかどうか、考える習慣をつけるべきだと思います。

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 無理はしない

 ここまで「修行の時間を作る」、「怠け心を克服する」という2つのテーマで書きました。やはり修行というのは、このくらいの厳しさは覚悟しなければならないと思うのです。
 しかし同時に、「無理はしない」ということも、大切だと思うのです。
 確か、極真空手の創始者大山倍達だったと記憶していますが(むかしのことなのではっきりと思い出せず、もしかしたら違うかもしれません)、彼は次のような意味のことを言っていました。
「毎日腕立て伏せ百回すると決めたら、どんなに体調が悪かろうと、どんな理由があろうと、絶対にやり抜くのが求道者というものだ」
 この言葉を聞いて、さすがに気合いが入っているなあと感心してしまいました。
 武道であれば、このくらいの根性は必要かもしれません。しかし覚醒の修行は、またちょっと違うと思うのです。もちろん、この意気込みと情熱は見習うべきだと思いますが、覚醒のような宗教的な道は、「ど根性一筋」で直線的に進むことは好ましくないようなのです。比喩的にいえば、覚醒の道は「直線的」に進むのではなく、「曲線的」に進むべきなのです。空手はその動きからして直線的です。その点、太極拳は曲線的な動きをします。発想としては、太極拳のような感じで覚醒の修行を行った方がよろしいのです。

 曲線的という意味は、無理をせず、柔軟かつ臨機応変にやるということです。「決めた以上は何がなんでもやる」というのではなく、体調が悪かったら休むのです。体調が悪いのに修行をしても効率は悪いですし、場合によっては心身にダメージを与えかねません。そうなると、目的と手段をはき違えたことになります。修行は覚醒のためにするわけで、修行のために修行するのではありません。覚醒の妨げになるような場合は、修行をしないのが本来の目的に叶っているわけです。
 ただし、念のために申し上げますが、こうしたことを怠け心の言い訳にしてはいけません。冷静に合理的に考えて判断しなければなりません。
 さて、人間の心とからだは、機械ではないのですから、その日によってコンディションが違うのが自然です。ですから、そのときのコンディションによって修行の内容も柔軟に変更していくことが合理的であり、正しい修行のやり方なのです。「決めた以上はやる」という姿勢は、根性と体力があれば簡単にできることです。一方、正しく繊細に体調を把握し、合理的かつ臨機応変に修行の内容をコントロールしていく覚醒の修行は、もっと難しいのです。
 風邪気味なのに、「決めたからにはやる」といって修行をした結果、風邪が重くなって何日も寝込んで修行ができなくなったら、長期的には修行のマイナスです。風邪気味だと思ったら、修行をせずに寝るという判断をし、その通り実行できる人こそが、真の求道者だと思うのです。修行への情熱は大切ですが、修行そのものにとらわれてもいけないのです。
 また、ときには修行をせずに遊びに出かけることも必要だと思うのです。というのは、何事も連続してやっていると、柔軟性が失われたり視野が狭窄してしまうからです。ときには修行から心身を解放することで、より修行が進むようになるのです。表現を変えれば、ゆとりが必要だということです。

 覚醒への道は、長い長い旅路であり、長距離マラソンを走るようなものです。ただ幸いなことに、タイムを競うようなことはありません(寿命の問題はいくぶんありますが)。どんなに遅くても、とにかく走り続けていれば、ゴールか、それに近いところまではたどりつくことができ、誰もが覚醒というメダルを手にすることができるのです。
 ですから、とにかく走り続けることを目標にしましょう。そのためには、早く走りすぎて息切れを起こしたり、あわててころんで足を怪我しないように、無理せず、柔軟な姿勢で走ることが大切だと思うのです。

 
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 怠け心との戦い

 覚醒修行のための時間を作ることは容易ではありませんが、怠け心を克服することも、容易ではありません。いくら修行のための時間を作れても、怠けていては何の意味もありません。
 それでは、怠け心と戦っていくには、どうすればいいのでしょうか?
「三日坊主」という言葉がありますが、最初は意気込んで始めても、三日もするとモチベーションが落ちてやめてしまう、ということが多いわけです。しかし、どんなことも三日坊主かというと、そうではありません。仕事帰りに飲み屋に通う人は、それこそ毎日でもずっと通い続けられるでしょう。三日坊主ということはありません。なぜかというと、酒を飲んだり、同僚などと語り合うことに、快感を覚るからでしょう。快感という報酬があると、モチベーションは下がらないわけです。
 一方、ピアノの練習はどうでしょうか? 三日坊主でやめてしまう人も多いでしょうが、ずっと続ける人もいます。ずっと続ける人は、単に忍耐力があるだけではなく、音楽が好きなのだと思います。どんなにわずかでも、ピアノが弾けるようになると嬉しくて、練習が面白くなり、それが快感となって、モチベーションを維持できるようになるわけです。

 では、覚醒の修行はどうでしょうか?
 ヨーガのアーサナ(体操)はかったるいし、呼吸法は息苦しくなるし、瞑想は退屈で、面白くも何ともないのです。面白くないどころか、禁欲的で、どちらかというと苦痛です。
 もっとも、修行が進んで、内的なビジョンが見えたり、歓喜の心境などが現れてきたりすれば、楽しくなるのかもしれませんが、それまでは、ひたすら忍耐でやり続けるしかないといった感じです。せいぜい、修行が終わった後に訪れるすがすがしい感じを味わう程度です。こんなことをしているのなら、休んで疲れを癒したい、テレビでも見てくつろぎたいと思ってしまいます。しかも、何ヶ月も何年も修行しているのに、何の変化も見られないとなると、修行そのものが空しく感じられるようになり、人生を無駄にしているように思われてきて、しまいにはそんなことをしている自分がバカに思えてきたりします。

 こんな状況において、修行をひたすら続けていくということは、それこそ並大抵のことではありません。怠け心にうち勝ち、自分にうち勝たないと、難しいでしょう。
 こんなふうに書いてしまうと、何となく修行する意欲が萎えてしまい、覚醒ということが遠いことのように思われてしまうかもしれません。
 しかし、修行そのものは誰だってできる内容なのです。オリンピック選手のように、資質に恵まれた人でなければ実行できないような、過酷なものではありません。三日できるならば、三年でも三十年でもできるのです。ただ、怠け心が障害になっているだけです。
 ところで、たいていの人にとって、仕事も修行と同じように、退屈で辛いのではないかと思いますが、三日坊主ということはなく、ずっと続けているでしょう。
 どうして、続けることができるのでしょうか?
 一番大きな理由は、お金のためでしょう。言い変えれば、生活が成り立つようにするためです。仕事がなければ、生活できず、ホームレスになってしまいます。それがイヤなので仕事をするわけです。その場合、快感を得るというプラスのモチベーションではなく、恐怖や不安というマイナスのモチベーションに動かされているわけです。
 その他、仕事に対するモチベーションとしては、責任感や使命感、社会貢献によって得られる評価や感謝といったものもあると思います。

 覚醒の修行の場合、快感が得られることは(少なくても当分の間は)期待できないのですから、モチベーションとしては、仕事と同じ発想で続けていくしかないと思うのです。
 つまり、覚醒の修行を「仕事」と考えるのです。
 もちろん、覚醒の修行なんてしてもお金は入らないし、修行なんてしなくても生活は成り立ちます。お金や生活という点では、モチベーションとはなりにくいでしょう。
 しかし、すでに述べたように、仕事のモチベーションはお金だけではありません。責任感や使命感、社会貢献というモチベーションもあります。お金よりこちらの方が強力なモチベーションになっている人も、少なくないと思います。
「私がこの仕事をしなければ、多くの人が困ることになる」
「この仕事は世のため人のために必要であるから、やらなくてはならないのだ」
 こうした発想によって、仕事に打ち込んでいる立派な人も、少なくないのです。
 覚醒の修行も、同じではないでしょうか?
 私たちが覚醒をしたら、すばらしい影響を人々や世の中に放つようになることは間違いありません。たとえ完全でなくても、覚醒に近づくにつれ、そういう影響力が備わってきます。要するに、これは困っている人、苦しんでいる人を助けてあげる能力や資質が備わってくるということです。

 ここで問われるのは、苦しんでいる人を目の前にしたとき、その人をどれくらい助けてあげたいかという、「情熱」が湧いてくるかどうかです。誰でも、「かわいそうだな」くらいは思うでしょうが、「なにかしてあげられないだろうか?」とまで考えるでしょうか? たとえ考えても、「どうせダメだ」とすぐにあきらめてしまうでしょうか?
 もちろん、目の前で苦しんでいる人を、すぐに助けてあげることはできないかもしれません。しかし、そのように苦しむ人を世の中から少しでも減らしていくという長期的な視野に立って、何らかのことをすることは、誰にでもできるのではないでしょうか。
 たとえば、目の前に飢えて死にそうなホームレスがいたとします。その人のためにできることは、せいぜい多少のお金を差し上げることくらいかもしれません。しかし、そのようなホームレスが社会にいるということは、この社会制度に不備があるためであり、根源的には人々の思いやりの欠如から発しているわけです。社会制度の不備を直すには、よこしまな利権に屈しない強い正義感やタフな精神力が必要ですし、思いやりを持つこともすぐれた人格を構築させることが土台となります。
 目の前で死にそうなホームレスをすぐに助けることはできなくても、私たちが正義感やタフな精神力、思いやりを持つように努力すれば、そうしたホームレスは少しずついなくなるのです。つまり、ホームレスにならずにすむ社会に変わっていくわけです。
 世界にまで目を向けると、飢えと病気のために、一日2万人以上もの子供が死んでいるのです。約5秒に一人が死んでいる計算になります。このブログを読んでいる間だけで、60人から120人の子供が死んでいるわけです。ひとくちに飢えと病気で死ぬといっても、それは非常な苦しみを伴っていること、そして自分の子供が目の前で死んでいく親の苦しみも伴っていることを忘れてはならないと思います。ただスーッと眠るように死んでいるのではなく、長期にわたる壮絶な苦しみを味わいながら死んでいるのです。

 こうしたこともすべて、社会制度の不備や思いやりの欠如から来ているのだと思います。
 私たちは、ホームレスや子供たちや、その他、さまざまな苦しみを背負っている人が、同じ地上に生きているというのに、自分だけ「のほほん」と、楽しく過ごすことなどできるでしょうか?
 もし、そういう人を助けてあげられる可能性があるとしたら、助けてあげたいと思う責任感、使命感、情熱といったものが、湧いてこないでしょうか?
 自分が覚醒に近づくほど、そういうかわいそうな人たちが救われていくのだとしたら、少しくらい見たいテレビがあっても修行に励もうという気持ちにならないでしょうか? かったるいアーサナを少しでも実践し、息苦しい呼吸法を少しでも実践し、退屈な瞑想を少しでも実践しようと思わないでしょうか?
 苦しんでいる人を助けようとすることは、人間としての「仕事」ではないでしょうか?
 お金のためだけに仕事をするというのなら、エサのために芸をする動物と何ら変わりはありません。しかし人間であるからには、お金だとか物質的な報酬のためではなく、ただ苦しんでいる人を助けるということ、そのことのために、それを仕事と考え、責任を持って受けて立つ義務があると思うのです。
 そして、そのためには、具体的な社会奉仕活動のようなことをすることも、もちろん大切なのですが、何をするにしても、土台としてすぐれた人間性がなければ、うまく機能しないのです。
 そして、すぐれた人間性を構築するためのもっともすぐれた道が、覚醒の道であると思うのです。なぜなら、覚醒とは、あらゆる美徳の根源である魂の力を呼び覚ますことだからです。
 このように、覚醒の修行は、「仕事」なのです。
 めんどうくさいとか、今日はやる気が出ないとか、退屈だからとか、面白くないからといって仕事をさぼることは許されないのです。モチベーションがあろうとなかろうと、仕事はしなければならないのです。

 そう思って、修行の最大の敵である怠け心と戦っていこうではありませんか。

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