心の治癒と魂の覚醒

        

ワタナベさんの体験(続き)

 ワタナベさんから前回のようなご返事をいただき、それについてさらに私が「もしよろしければ、具体的にどのような苦難に遭っているのか教えていただけますか?」とお尋ねしたところ、またすぐにご返事をいただきました。それを次にご紹介させていただきます。

「苦難の内容についてですが、私の修業のためにもかいつまんで説明させていただきます。私の両親は、左翼的な人間で、ある宗教団体と対立関係にあります。その間に生まれた私は「坊主憎けりゃ袈裟まで」というわけで、その宗教団体の嫌がらせを日常的に受けつづけております。  

その集団は自分の教団にとって面白くない相手を憎み、監視することを教えています。神様は人を憎むことを教えないはずだから、それは多分に邪教です。とにかく内輪での団結力・組織力が強く、その嫌がらせが世間に認知されないような社会的な権力、知力をもっています。

それらに関わることになった私の魂は、おそらく、現世での苦難を望んで両親を選んだのだと思います。私は左翼も嫌いですが、邪教も嫌いでした。しかし、斉藤先生のブログを読んで以降、この出会いは運命だったのだと気づき、その運命を愛することにしました。

一番苦しかった2年前、私の頭上には常に太陽が輝いていたように思います。わけ隔てなくすべての人を愛する太陽は全方位に光を放つ存在です。愛する人だけ守り、憎むひとを攻撃するようなちっぽけな人間とは全然違います。

先生のブログで、私の信念は強化されました。これからは負の連鎖を断ち切り、どんな憎しみをぶつけてくるひとにも愛情をもって接するべきだと思います。

先生への感謝は言葉では言い尽くせません。どうか先生はぜひとも覚醒して、より多くの人を救い、導いてください。
ありがとうございます。」

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 ワタナベさんの体験

 今回は、まめにコメントを下さる読者のワタナベさんの体験を、この場を借りてご紹介させていただきたいと思います。
 ただ、途中からこのブログを読まれている方のために、ここにワタナベさんの体験談をご紹介することになった経緯を、簡単に説明してみます。
 まず、ワタナベさんは求道心が高く熱心に瞑想などの修行に励んでおられまして、2010年12月28日に、次のようなコメントを寄せて下さいました。

「おはようございます、斉藤先生。今朝方すごい体験をしました。
布団の中でまどろんでいると、突然、嵐のような音に包まれました。大風か、あるいは地震かもしれないと思い、びっくりしていると、尻のあたりから青白い光が背骨に沿って上昇してきました。 
一瞬、脳裏に「クンダリニーか?」という言葉が閃き、ついで恐怖に襲われました。そこで、「覚醒するのか?覚醒して何がしたいのか?」という疑問符を投げかけて、心の中で拒絶してしまいました。
すると、私の心中を察した何者かが、すでに頭頂部まで達していたその光を背後からすっとなでつけました。そのとたんに光は消え、背筋にじんじんする感覚を残して消えてしまいました。
痛みのたぐいは全然なくて、クンダリニーではないかもしれませんが、初めての霊的経験に、今すごく興奮しています。
問題点ははっきりしました。私は覚醒することに恐怖しているらしいのです。覚醒して誰を救いたいのか自問自答しなければなりません。
・・・すこし冷静になりました。でも寝ぼけていたわけではなく、確かにリアルな神秘体験でした。あれは一体なんだったのでしょうか?」

 このコメントに対して、私は、クンダリニーが目覚めた(しかし本格的な上昇ではない)とのコメントを返しました。次に、1月6日に、再びワタナベさんから、次のようなコメントが寄せられました。

「先程寝入りばなにクンダリニーの二度目の発動があったので報告します。
就寝前の瞑想で「今日は神様を受け入れよう」と覚悟していたので「何か起きそうだな」という予感がありました。
今回は割と静かに始まりました。前回と違う色の白色光が尾てい骨を起点に左右にゆらゆらしながら、肩のあたりまで登ってきました。傷みというほどのことではありませんが、メリメリ、ミリミリという感じの強い圧迫感がありました。
おそらくまた近くで指導霊のかたが調節してくれているんだな、と感じて「神様ありがとうございます」と心の中で唱えた頃、「今日はこのぐらいにしたほうがいいかな」と思い、体勢を変えようとすると、フッと光と圧迫感は消えてしまいました。
この光が頭頂部まで達したら、仙道のように気を頭頂部のツボから逃がしたほうがいいんでしょうか?」

 そして、1月17日に、また次のようなコメントをいただきました。

「私は先生やこのブログのみんなと共に覚醒したいので、自分が気づいたことを提案させてもらいます。
私は今まで、将来の希望が絶たれ、病気にまで追い込まれる経験を4度しましたが、最後の1度は神が与えた試練と考え、心から感謝しました。その直後にクンダリニーが動きだしたのです。
どうやら、苦しみや傷みをじっと耐えるだけでは、負の感情でそれらを迎えてしまっているようなので、それを「神様からのメッセージ」として歓喜して迎え入れるようにするとよいと思います。
そして日常生活に訪れる全てが「祈りの時間」と考えて愛の感情で受け入れてください。負の感情を反射させてはいけません。
そんな感じなのです。うまく説明できなくてすいません。今まさに苦しみや傷みのまっただ中にいる方、どうか実践してみてください。自分の中で何かが変化していきます。」

 さて、このように貴重な体験と、そこから得た教訓は、同じ道を歩む私たちにとって、とても参考になるものです。そこで、昨日、ワタナベさんのこれまでの体験を詳しく教えていただけませんかとお願いしたところ、その日のうちにメールでご返事をいただいたしだいです。2つに分けて文章をいただいたので、本日と明日の二回に分けてご紹介させていただきたいと思います。
 それでは、さっそく、ワタナベさんの体験に耳を傾けてみましょう。

「こんにちは、斉藤先生。体験談等の内容でのメールとのことでしたので、送らせていただきました。
現在35歳ですが、中学時代は平凡な(?)「ムー」読者でした。神秘的な世界に関心があり、主に気功などをかじっておりました。幼少時から、あまり体が丈夫とは言えず、病気がちだったり、足に障害をもったりでした。ただ、基本的に能天気で、制限された人生ならば「それはそれで」と自分の楽しみに没頭したりしていました。

不可思議なことは時折ありました。金縛りやら、眠っている最中になぜか天井が目前に迫っている(おそらく意識が体を離れて上昇したのではないかと・・・いや、よくわかりません)などですが、そんなことを体験したことない周囲からは当然信用されませんでした。そして、それらはさほど特別な経験とは思いませんでした。いや、日常生活との違和感がまったく感じられないのです。表現するのは難しいです。なので、これは霊体験とは考えないようにしてます。

よくいじめにあう子供でした。そして自分自身、かなり傲慢で我が強かったです。一人っ子の悪業がありました。成長してからも、時折傲慢さが顔を出し、トラブルが絶えません。それゆえいろいろ挫折し、親にも迷惑をかけっぱなしです。そんなこんなで二十歳代からつい最近まで、神秘行からは離れておりました。

昨年五月ごろ、「真実への旅」をネット上で見かけて購入し、斉藤先生と覚醒修行を思い出しました。二十歳代後半から発覚した統合失調症と、ある団体とのトラブルでゆとりのない状態が長く続いていたため、中学時代に熱中した「ファウスト博士」の教えを失念してしまっていたのです。ただ、中途半端に開発したチャクラへの集中状態がじりじりと体の中をはい回っていました。

そしてこのブログを知り、斉藤先生の教えをくまなく実行していきました。推薦図書もほとんど読みました。食事のときは良く噛み、心の中で神様に感謝して「プラーナ」を吸収するというのもそのひとつです。生活する24時間すべてが修行であると意識して、神様のことを忘れないように、すべての事柄・人物・病気を「神様のあらわれである」と考えました。仕事中も休憩の時間も呼吸法の練習をしました。「ヒマラヤ聖者の生活探求」を読んでからは、自分の心の中にも神様がおられると考えました。すると世の中のすべてに神様が浸透していくのです。無駄なものなど何もないのです。

そんな生活と、与えられる苦難による重圧が中丹田のあたりにほどよく圧縮されてゆき、昨年末のクンダリニー発動につながったのでは?と考えます。 

あまり素晴らしい教訓とか、思いつかないので、テクニックをいくつか発表します。ストーブの前を仕事場や家庭での定位置にして、背を向けてください。とくに尾てい骨のあたりを暖めるようにすると、ムラダーラの熱感が高まっていきます。あと体の中心軸を強くしてください。センターという身体意識らしいです。くわしくは武術家にして学者の高岡英夫先生の本が参考になります。それによると一部の天才たちは体の中心軸が他の天体からぶら下がっているらしいです。そして、徳間ブックスの「仙骨に無痛ショックを与えると病気は消える」を書いた内海康満先生の提唱する仙骨のバイブレーションを高める「ゆさぶり法」です。これは座位にて体をゆっくりゆらゆら揺らす簡単な方法ですが、奥が深いです。

ただ、基本的には斉藤先生のブログでの教えがベースです。とても完成された修行法だと思います。あとは神様の用意してくれた苦難をどう受けとめるか、ですね。すべてのことを受け入れて感謝する、理不尽なことにも「一理あるな」ぐらい自分の立場を捨てて感心するような精神状態になれば、修業はハイペースで進みます。苦難を与えてくれる相手の中にも高級な神我が眠っているのであるから、自分の修業に付き合ってくれている師のひとりであるし、一見つまらなく感じる俗世のことにも神様は関わっている、と感じるとバラエティー番組からでも学べるんです。太陽のような存在になりたいと心から願うのであれば、どんなことにもわけ隔てなく愛という光を放射するべきなんです。闇に注意を向けている時間はないのです。そんな感じです。まとまりがなくてすいません。

ブログに集まるみんなが、それぞれの苦難を選び、修業を達成することを願います。」

  (明日に続く)

*ワタナベさんの体験に対する私のコメントは、後でまとめてご紹介させていただきたいと思います。

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 瞑想のポイント 1

 これまで紹介してきた瞑想法をしっかりやるとなると、30分から1時間くらい必要ではないかと思います。ただ、初心者は制感の行法に時間をかけ、凝念や静慮は少なくていいでしょう。そして、しだいに時間の配分を凝念に、最終的には静慮に移していきます。静慮の段階がうまくできるようになれば、制感の行法はしなくていいでしょう(静慮ができれば制感はできていることを示しています)。
 いずれにしろ、毎日、これだけの時間を確保しなければならないわけで、忙しい現代社会に生きている私たちは、ここのところが大きな課題になると思います。
 しかし、自分ができる範囲で、とにかく行じていくことが大切です。生活を見直して合理化すれば、けっこう時間は取れるものです。以前にご紹介したように、三分でもいいので続けていただきたいと思うのです。一日に三分の時間が取れないほど忙しい人はいないと思います。毎日、欠かさず三分瞑想ができれば、五分できるようになり、十分できるようになり、だんだん時間が増えていくはずです。志があれば、環境的にも修行に時間が取れるような状況になってくると思うのです。
 一日三分瞑想したからといって、何がどうなるのかと思われるかもしれません。もちろん、一日三分瞑想するだけでは、おそらく覚醒は無理だと思います。しかし、毎日欠かさず三分でも瞑想を続けるということは、それなりの熱意と真剣さがなければできません。そして、そうした熱意と真剣さが、高い次元の霊的存在の心を動かし、何らかの導きや恩恵を与えてくれると思っているのです。その意味で、たった三分でも毎日行うことには、大きな意義があるのです。
 また、きちんと座って行う瞑想がたった三分だけだったとしても、これを続けていくと、普通の生活をしている意識が、少しずつ瞑想状態になってきます。つまり、意識的に瞑想はしていないが、瞑想しているような状態になってくるのです。もちろん、本格的に集中して行う瞑想ほど深くはなれないでしょうが(なったら日常生活ができないでしょう)、それでも、そうした瞑想状態というのは、高次元の影響を常に受けている状態ですから、いろいろな面で好ましい状態になってきます。たとえば、有益なインスピレーションが湧いてきたりだとか、危険を予知して事故などを未然に防止するとか、有意義な人との出会いに導かれるとか、そういった恩恵が与えられるようになってきます。
 そして、このような状態になり、いつかたくさんの時間を瞑想に取れるような状況になったときに、長い時間瞑想すると、今まで瞑想の習慣がなかった人に比べて、格段の速さで進歩していくはずです。
 24時間、すべての時間を瞑想や修行に費やすことができれば、どんなにいいかと思われるかもしれません。しかし、案外、無限の時間があると、集中力に欠けて質のいい修行ができないといったこともあります。わずかな時間しか取れないという状況におかれているために一所懸命になり、質のいい修行ができるということもいえるのではないでしょうか。だらだらと長い時間修行するよりも、時間は短いが質の高い修行をした方が効果があると思います。
 これは聞いた話ですが、チベット仏教の行者のなかには、「現世で覚醒できなくても来世があるさ」などと考え、ふにゃふにゃと修行している人が少なくないとのことです。これでは来世になっても覚醒などできないのではないかと、思ったりもします。あせることはよくありませんが、やはり現世で必ず覚醒するのだという意気込みでやるべきだと思うのです。そうすれば、いま現在、さまざまな障害があっても、道は開かれていくと思います。

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 瞑想法 その7

 最後に、「静慮」についてご紹介したいと思います(「三昧」については、すでに申し上げたように、凝念や静慮を行じていけば自動的に移行するらしいので、意図的な修行は必要ないようです)。
 さて、静慮とは、ひとつの対象に精神を集中し続けながら、その対象に関係することに思いを巡らせていく行法です。凝念が求心力とすると、静慮は中心から外に放射する遠心力といってもいいかもしれません。
 たとえば、「ひまわり」を静慮の対象にするとします。すなわち、ひまわりという花をずっと思念しながら、ひまわりに関係するあらゆること、たとえば、その種、種からできた「ひまし油」、ひまわりの種を食べているインコ、観光名所のひまわり畑、「サンフラワー(ひまわり)」という名の船……といったように、連想的に思いを巡らせていくのです。
 ところが、いつのまにか、ひまわりとは関係ないことを考えてしまったりします。そうならないように、常に意識の中心にひまわりを意識し続けるわけです。これがこの行法のポイントです。
 要するに、静慮というのは、私たちが何かを求めて真剣に考え事をしている心理作業に近いものではないかと思います。たとえば、科学者が「癌はなぜ発生するのか?」ということを、情熱的に考え込んでいるとします。そのときには「癌」に関係するあらゆることを考えるはずです。いろいろなことを考えるでしょうが、「癌」というテーマはずっと維持されているのです。
 そして、このように忍耐強く考えていると、ふっとアイデアや解決策が閃いてくるわけです。これは直感的にパッとわかるのです。
 ヨーガの教典によれば、こうして一心に対象について思念していると、その対象に関することが、どんなことでもわかってくると言います。たとえば、ある人のことを思念していると、その人の隠された願望だとか過去のことだとか、その人に関するどんなこともわかるというのです。これは、学者や発明家が一心不乱に考えて直感的にアイデアが湧いてくるのと、原理的には同じだと思われます。そして、覚醒ということも、この直感をさらに高度なものに磨き上げ、思念する対象を神や真我といったものに向けることで、その本質を直感し、覚醒するのだと考えられるわけです。
 凝念のような精神集中の行法でも、こうした直感が得られることはあるのですが、どうも直感力の開発という点では、静慮の方が優っているような気がいたします。

 では、具体的に、静慮の行法は、どのように行えばいいのでしょうか?
 基本的には、精神集中と同じように、自分がもっとも関心があるものを対象にして、その対象に関係することをいろいろ考えていけばいいと思います。大切なことは、情熱をかきたてるものです。さもないと長期にわたり強い集中を向けるためのモチベーションが弱くなるからです。しかし、低俗なものは避けた方がいいでしょう。
 そこでいろいろと考えたのですが、私が行っていて、たぶん、皆さんにとってもお勧めできるやり方は、「神との対話」です。
 前回ご紹介した、アジナー・チャクラの位置に、神である光球をおいて精神集中する行法をしたら、そのままその光球、すなわち神に向かって、いろいろなことを語りかけるのです。どんなことでもけっこうです。実際に神が目の前にいるかのように、いえ! 実際に神を目の前にしているわけですから、その神に、自分が思うこと、考えていることを話しかけるのです。愚痴や嘆きでもかまいません。
 縮こまったり恥ずかしがる必要はありません。どのみち神は私たちのことを私たち以上にわかっておられるので、恥ずかしいことや汚い心を隠そうとしても無駄なことです。しかし神は、そのような私たちの醜い所や弱いところをすべてわかった上で、私たちを受け入れてくださっているわけです。何があろうと、
 神は決して裁いたり怒ったり責めたりはしません。
 神は決して見捨てたりはしません。
 以上の二つを忘れないようにして下さい。畏敬の念を持ちながらも、慈愛に満ちたお母さんに語りかけるような親しみをもって、どんなことも話せばいいのです。
「職場にいじわるな上司がいて、毎日が辛いです」
「一所懸命に仕事や勉強をがんばっているのに、成果があがらず落ち込んでいます」
といったことでもいいですし、
「神様はどのようにして、美しい自然をお造りになったのでしょうか?」
といった、高尚で哲学的なことを話かけてもいいでしょう。また、
「私は食欲に悩まされています。性欲に悩まされています。どうしたらいいでしょう?」
といった、赤裸々に自分をさらけだしてしまうのも、おおいにけっこうですし、
「私は、部下に八つ当たりしてひどい暴言を吐いてしまいました。申し訳ないことをしてしまいました。おゆるし下さい」
といった、懺悔の告白でもけっこうです。

 このように語りかける場合(心のなかで語りかけるわけですが)、なるべくはっきりとした言葉で語りかけた方がいいと思います。心のなかだと、思いや印象が先行して、言語がしっかりと構築されない傾向が出てきます。人間と会話をするように、しっかりと文章を組み立てて語りかける方がいいようです。その方が自分の気持ちが整理できて何を訴えたいのか焦点が絞れるようになります。
 いずれにしろ大切なことは、常に「神に向かって語りかけているのだ」という意識を保ち続けることです。うっかりすると、そのことを忘れて、「独り言」を言っているようになってしまいます。これでは静慮になりません。常に神に向かって語りかけているのだという意識を保持し続けることで、どんなことに思いを巡らせても、「神」が軸となり、単なる雑念ではなく、静慮の行法となるのです。

 この「神との対話」には、少なくても三つの利点があります。
 ひとつは、いうまでもなく静慮の力を高めることです。
 ふたつめは、自分の思いを神に語るということで、心の慰めになるということです。神はあらゆることを知っている万能の存在ですから、神以上のアドバイザー、カウンセラーは存在しません。しかも、深い慈愛に満ち、どんなことも理解してくれるのです。
 辛いことがあっても、自分を理解してくれる人、寄り添ってくれる人がいるというだけで、たいていのことは乗り越えていけるものです。孤独ということが、もっとも人を弱くさせてしまうわけです。
 ところが、自分を理解してくれる人に恵まれるとは限りません。それに人間は不完全ですから、自分のことを百パーセント理解してくれることは、ないでしょう。年間三万人もの人が自殺をしていますが、身近に自分を理解してくれる人がいるか、もしいなければ、神をその相手として受け入れることができれば、これほど命を捨てる人はいなくなると思うのです。
 それはともかく、神は必ず私たちの言葉に耳を傾けてくれている、ということです。もちろん、私たちが何かを話したからといって、人間のようにすぐに声が聞こえて応答してくれるわけではありません。そのため、自分の話など聴いてもらえていないように思われたりするのですが、そうではないようです。神、少なくても神の補佐をしている高い存在が、必ず耳を傾けているといわれているのです。このことをはっきりと認識して下さい。
 そして、時期が来たら、何らかの形で、応えてくれることが少なくありません。直感として閃くこともあれば、運命的な出来事で応えてくれたりするのです。
 もっとも、応えてくれているのに私たちがそのことに気づかない、という場合もたくさんあると言われています。たとえば、前方の横断歩道を渡ったらクルマに轢かれて大怪我をするといった運命だったのだが、神様が横断歩道の手前で携帯を落とすようにさせ、それを拾うために立ち止まったおかげで事故にあわずにすんだ、といったようなことがあるらしいのです。私たちは未来を予知できませんから、携帯を落としたことで怪我にあわなくてすんだのだということがわかりません。神様が助けてくれたのだとわからないわけです。それどころか、携帯が壊れて「今日はついてないなあ」なんて思ったりもします。
 以上のような「神との対話」行法により、神という存在が身近に感じられるようになるはずです。そのことは非常に大切なことです。私たちは、もっと神というものを身近に感じる必要があるのです。
 さて、三つめの利点ですが、これは非常に大きな効果なのですが、精神集中力が非常に高まるということです。
 というのは、このように神様に何でも話し続けていると、しまいには話すことがなくなり、「何を話そうかな」ということになってくるからです。話題が思い浮かばなくなり、頭が真っ白になるのです。
 ということは、ひたすら「神」だけにしか集中できなくなってくるということです。
 凝念(精神集中)の行法をしているときは、湧いてくる雑念に悩まされ、雑念が湧かないように必死に努力していましたが、「神との対話」行法というのは、神に思いを語ることを通して、ある意味で雑念をひたすら掘り起こす作業をするわけです。そうして雑念が出尽くしてしまえば、自然に雑念は出てこなくなります。そのため、あとは何の努力をしなくても、自然に神だけに意識が向けられるようになるのです。このときの、何の努力もなく、それゆえ非常にリラックスした平和な気持ちで、ひたすら心が神だけに集中している状態というのは、けっこう衝撃的に感じると思います。
 これこそが、瞑想の理想の境地だと思うのです。眉間に皺を寄せながら必死に雑念と戦っている瞑想は、もちろん、それなりに尊いもので最初のうちはそれでもいいと思いますが、やはり理想は、くつろいで自然な状態で深く集中するのが本来のあり方でしょう。「神への対話」行法は、そんな瞑想に私たちを導いてくれる効果があるのです。

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 瞑想法 その6

 前回までで、ベーシックな瞑想法は終了ですが、もし時間があれば、次の瞑想法も試してみて下さい。それは「宇宙意識との合一瞑想」です。
 完全な覚醒に到る前に、ある種の神秘体験としてよく語られるのが、宇宙と合一した体験です。合気道の創始者である植芝盛平も、この体験をしたようです。あるとき、合気道の稽古が終わって休んでいると、突如として身体が大きくなり、黄金色になって、ついには宇宙と合体した体験をしたというのです。これと似たような経験は、他の聖人たちも数多く語っています。
 これからご紹介する瞑想法は、その体験をイメージするものです。もちろん、意図的に行うイメージですから、実際の宇宙との合一体験ではないのですが、こうした練習をすると、宇宙との合一体験をしやすくなると考えられるのです。ちょうど、運動選手が、本番を想定したイメージトレーニングを行うことで、本番のとき実力を発揮できるようにするのと同じです。
 また、この瞑想法をすると、宇宙との合一(神との合一といってもいいでしょう)の感覚が、単なる頭ではなく、何となく体感的に実感できるような気がしてきます。自分と宇宙(神)とは、本当に一体なのだなという感覚がしてくるのです。そうした感覚は、覚醒に到るために大切な感覚であることは、いうまでもありません。

 さて、具体的な方法なのですが、やり方は簡単です。リラックスした状態で目を閉じ、7つのチャクラが下から順番に光り輝いていき、頭頂のサハスララ・チャクラに達したら、自分の身体がひとつの光の球体になったイメージを浮かべます。肉体ではなく、光になったということです。
 そうしたら、その光球がしだいに大きくなっていく様子をイメージしていくのです。まず、瞑想している部屋いっぱいに大きくなって下さい。次に、家(マンション)と同じくらい巨大になります。次には町くらいに、そして日本と同じくらいに大きくなります。
 やがて、地球よりも大きくなり、地球が自分の身体の内部に包み込まれていく様子をイメージします。こうした感じで、今度は太陽系を自分の内部に包み込み、銀河系を包み込み、あらゆる星々を包み込んで、ついには宇宙と同じ大きさになって下さい。
 宇宙と同じ大きさになったということは、宇宙と合体したということです。そうしたら、しばらくこの合体した感覚を無念無想で味わって下さい。
 瞑想を終えるときは、意識の焦点を地球にいる自分の身体に向けます。そして、肉体の感覚を取り戻してから、静かに目を開けます。意識は肉体におさまっても、本体は依然として宇宙と合体しているのだと思って下さい。
 この瞑想法を行うと、なんとなくすっきりして、穏やかで平和な気持ちになるのを感じると思います。
 この宇宙意識との合一瞑想は、ときどき行えばいいでしょう。とりあえず今の段階では、アジナー・チャクラに(神でもある)光球が輝いている瞑想法に時間をかけ、集中力を養った方がいいと思います。

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 瞑想法 その5

 さて、アジナー・チャクラに光球をおいて、それに意識を集中することは、同時に神への集中である(そのような意図で行う)と申し上げました。キリスト教の神秘家は、ひたすら神への祈り、神の観想によって覚醒をしているわけですから、ただ機械的な気持ちでアジナー・チャクラに集中するのではなく、神を前にしたときにふさわしい思い、すなわち「畏敬」の念で集中することが大きなポイントになります。
 シュタイナーも「畏敬の念は神秘修行を志す者が絶対に養うべき感情であり、これなくして神秘道が成就することはない」とまで言っています。実際、畏敬の念というものは、高い次元の感情であるがゆえに、とても大切なものなのだと思います。
 ところが、この「畏敬の念」というものは、辞書的な意味としては理解できても、実感としては、よく把握できないのではないかと思います。もしかしたらその点では、むかしの人々の方がよくわかっていたかもしれません。むかしは、偉い人を敬うといった気持ちがあったと思います。教師や先生と呼ばれる人には、それなりの敬意を表して対応したと思います。しかし、そういう気持ちは少なくなっているように思います。
 畏敬を広辞苑で引くと「(崇高・偉大なものを)かしこまり敬うこと」とあります。畏敬の「畏」というのは、「おそれる」ことです。
 したがって、畏敬というのは、あまりにも崇高で偉大なため、思わずおそれてしまう気持ちがあるわけです。もし本当に神と遭遇したら、そういう気持ちになってしまうだろうということです。もちろん、「おそれる」といっても、暴力団や強盗に遭遇したときのような「おそれ」とは違います。こういう人たちは私たちを怖がらせることを目的としますが、神にはそんな意図はありません。それどころか、神は愛ですから、どこまでも深く慈愛を持って私たちを包み込み愛してくれる存在のはずです。ところが、あまりにも偉大すぎるので、人間の側が勝手に「おそれ」を抱いてしまうわけです。なぜ、あまりにも偉大な存在を前にすると「おそれ」の感情が湧いてくるのか、その心理的なメカニズムはよくわかりませんが、それが単純な恐怖心とは少し違う、うまく表現できないような感情であることは確かです。
 いずれにしろ、本当に畏敬の念を抱いたなら、神である光球に対して、非常によく精神集中ができるようになります。精神集中を支えているのは、強烈な動機です。たとえば、やくざに絡まれているときに「今夜の夕食は何を食べようかな?」などという雑念は浮かんでこないはずです。必死に今の状況に精神を集中しているはずです。
 それなのに、神に意識を集中している最中に、「今夜の夕食は何を食べようかな?」といった雑念が出て来るということは、本当に畏敬の念を抱いていないのだと思います。このような雑念が出るということは、言葉は悪いですが、「神をなめている」のです。
 光球(神)を前に精神を集中しているときは、「神を前にしているつもり」で行わないようにして下さい。「つもり」になってしまうから、畏敬の念が湧かずに精神集中を深めることができないのです。「つもり」ではなく、「本当に」神を目の前にしているのだと思って下さい。実際、本当に神は目の前にいるのです! 神は時空を超えて、真剣に道を求めている人のことはすべてわかっています。さもなければ神ではありません。神は私たちの心をずっと見つめています。念じれば目の前に存在するのです。
 この広大な宇宙を創造した神、溢れるような愛と途方もない智恵を持った神、それはアメリカ大統領よりも天皇陛下よりも、坂本龍馬よりもマイケル・ジャクソンよりも、「嵐」よりも(笑)、はるかにはるかに、はるかに偉大なのです(比較になりません!)。
 そんな偉大な存在を、本当に、目の前にしているのです。「おそれ」で、からだが震えてこないでしょうか? そんな畏敬の念で精神集中をしたら、信じられないほど行が進むはずです。

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 瞑想法 その4

 オームの光球をイメージして精神集中をしたら、次に、その光球を使ってチャクラの活性化をします。以前にも述べたように、7つあるチャクラのうち、まず最初に目覚めさせるべきは、すべてのチャクラをコントロールする力を与えるアジナー・チャクラです。
 しかし、アジナー・チャクラを活性化するには、ある程度、ムラダーラ・チャクラを活性化させる必要があります。そこで、順番としては、光球を尾てい骨のムラダーラ・チャクラに持っていって、今度はそこで光球が光り輝いている様子をイメージします。
 このとき、息を深く吸い、できるだけ長く息を吐きながらムラダーラ・チャクラの光球にやや圧力をかけるようにして、光球が輝いているイメージを浮かべるといいでしょう。これを何回か行い、できればムラダーラ・チャクラに多少なりとも熱感が感じられるようになると良好です。
 そうしたら今度は、その光球が尾てい骨から背骨の中を通って、ゆっくりと上昇していくイメージを描きます。時間があれば2回行います。一回目はサハスララ・チャクラまで移動させ、最後は脳天から外に向かって光球が飛び出していくようにします。これは、もし万が一、クンダリニーが急に覚醒したとき、脳天からそのエネルギーを解放させるためです。そのための通路を作っておくのです。もしエネルギーが頭に滞留してしまうと脳にダメージを与えてしまう危険があります。それを避けるための措置です。
 二回目は、光球をアジナー・チャクラにまで移動させていきます。そして、アジナー・チャクラに光球をおいて、光り輝く様子をイメージするのです。
 ところで、ムラダーラ・チャクラから背骨を上昇させていくときは、時間がゆるす限り、なるべくゆっくりと行って下さい。慣れれば早く行ってもいいと思いますが、最初は、ゆっくり行わないと、本当に光球が背骨の中を通って移動しているイメージが描けないからです。したがって、カタツムリが登っていくような感じで、背骨の骨のひとつひとつを実感しながら、ゆっくりと行います。そのとき、ムラダーラ・チャクラで得た熱感を維持しながら行うことがポイントです。つまり、光球が移動した部分に熱感を感じ続けながら行うのです。
 この行法には、大きく三つの目的というか、効果があります。
 ひとつは、精神集中力の養成です。肉体の感覚を通して精神集中をすると、漠然と頭に観念的なものを思い浮かべるだけよりも、精神集中力が鍛えられるのです。というのも、実際にやってみるとわかると思いますが、光球を少しずつ背骨を上昇させていくとき、少しでも意識がそれると、その正確な位置や熱感が失われてしまうからです。かなりの集中力が要求されます。
 ふたつめは、こうして光球を上昇させていくと、背骨(スシュムナー管)のつまりを除去する効果があるのです。これはつまり、クンダリニーが覚醒しやすくなるということであり、覚醒した場合の障害を除去する効果があるわけです。
 そして三つめは、ムラダーラ・チャクラのエネルギーがスムーズに背骨を通ってアジナー・チャクラに流れ込むようになるため、アジナー・チャクラが活性化されやすくなるのです。
 さて、以上のようにして、アジナー・チャクラまで光球を移動させたら、ひたすらアジナー・チャクラの光球に精神を集中させます。これは同時に、神を観想することでもあるわけです。


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 瞑想法 その3

引き続き、今度は精神集中の行法に入ります。
 すでに述べたように、どんなものも自分が好きなものに精神を集中すればいいのですが、初心者は具体的な形があるものに集中した方がやりやすいとされています。ただし、いずれにしても、低俗なものは避けて、なるべく高尚なものを対象にした方がよいのです。
 そこで、私のやり方ですが、まぶたの裏の内面世界に、握り拳か、それより少し大きいくらいの光の球体をイメージして、それに精神を集中する行法をしています。このまばゆく白光に輝く球体は、「オーム」という響きを発しているとします。
 なぜ、この光球を精神集中の対象にしたかといいますと、その大きな理由は、応用がきくからなのです。つまり、この光球をチャクラの位置でイメージすることにより、チャクラを活性化させることができますし、瞑想が進めば、この光球を肉体のなかにおいて、ちょうど懐中電灯のように、内臓を照らして見ることができるようなのです。内臓だけでなく、この世界のどんなことも、この光球の光に照らして見ることができるようです。
 さらにまた、この光球を病気で病んだ部分において光らせることにより、ある程度、病気を癒す効果があるようなのです。これは自分だけでなく、他者に対しても同じようにできます。
 しかし、そのように使うには、光球を可能な限りリアルにイメージできるようにならなければなりません。したがって、このように便利なツールを手に入れながら、同時に精神集中の訓練にもなるということで、光球を精神集中の対象にしているわけです。

 それと、もうひとつ大切な理由があります。
 それは、この光球は、神のエネルギーから来ていると観想することで、光球イコール神という意識を持たせるのです。そうすると、光球に精神を集中しているということは、同時に神に意識を集中していることになります。言い換えれば、神に祈念していることにもなるわけです。
 キリスト教の神秘家たちは、ヨーガほどの瞑想体系は(たぶん)なく、ただひたすら神への祈りによって覚醒しているわけですから、神への祈りは非常に大切だと思うわけです。
 以上のような理由から、一石二鳥ならぬ、一石三鳥くらいの効果を狙って、オームと響く光球に精神を集中しています。

 ただ、現実にこうした光球というものは存在しませんから、視覚的にイメージしにくいかもしれません。
 そこでひとつのアイデアですが、懐中電灯を持ってきて、レンズと反射鏡の部分を取ります(くるくる回すと取れると思います)。そうして、豆電球だけを露出させます。その懐中電灯を目の前に立てにしておいて下さい。そして部屋を暗くして、少し離れたところからその光を見ますと、だいたい白光に輝く光球のイメージとなります。
 これをまず肉眼で見つめ、疲れたらまぶたを閉じて、まぶたの裏に光球をイメージします。しばらくしたらまた目を開けて光を見つめます。これを繰り返してみて下さい。そうすれば、光球がイメージしやすくなるかもしれません。
 ところで、オームという音が光球から放っているとイメージするのですが、すでにナーダ音の「キーン」という音が頭に響いているかと思います。この場合、オームの音とナーダ音の音を両方同時に聴くようにするといいように思います。もちろん、オームの音だけの方がしっくりくるなら、オームの音だけを頭の中で聴くようにしてもかまいません。
 いずれにしろ、視覚だけでなく聴覚的にも集中することで、より深い状態に入っていくことができるはずです。
            (続く)

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 瞑想法 その2

そうしたら次に、目を閉じたまぶたの裏にたくさんの模様やら、小さい光が見えると思いますが、そのうちなるべく小さな光の点を見つめます。しばらく凝視していると、さらに小さな光の点が見えてくるはずですので、それを見つめるようにします。これを繰り返して、究極の微小点を観察するようにしてみて下さい。小さな点を見つめるほど、ちょっとでも精神集中がとぎれると見失ってしまいます。忍耐強くがんばることです。
 このように、最初は聴覚を内面に向け、次に視覚を内面に向けるわけです。視覚に意識を集中するとナーダ音への集中ができなくなると思いますが、それは仕方がないと思います。
 この一点集中が疲れたら、今度はまぶたの裏全体を見つめます。ちょうど、目の前に大きなスクリーンがあり、そこに映る像を観察するような感じです。このときは全体を均等に見つめます。すると、さまざまな光の模様が混沌として見えるかと思いますが、それを無心に観察します。
 このとき、夢のような映像が見えることがあります。それはむかしの出来事であったり、むかし見た夢であったり、その他、いろいろあります。稀にですが、非常に鮮明な映像が見えることもあります。これは不思議な体験です。夢のようにボーッとしているのではなく、実際に肉眼で見ているかのように、細かいところまで鮮明に見えるのです。森のような景色が見える場合、その一本一本の樹木や枝葉の形まで見えるのです。
 しばらくこの行法をしたら、また一点集中の行法に戻ります。そして両者を繰り返します。以上までが、制感、すなわち、意識を内面に向けるための瞑想法となります(精神集中の効果もすでにありますが)。
 この作業を根気よく続けていきますと、まるで非常に面白い映画を見て自分が映画の世界に入りこんでしまったように、自分自身が内面世界にすっぽり入り込んでしまったような感覚になってくるかと思います。あるいは、なにかカプセルのようなものの中に入ったような感覚です。
 この行法が終わったら、今度は凝念、すなわち精神集中の行法に入ります。

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 瞑想法 その1

 前回述べたように、覚醒するためにはまず、制感と凝念、すなわち、意識を内面に向けて精神集中の力を養う修行が必要と考えられています。
 ヨーガ教典によれば、意識を内面に向けるには、チャクラ(アナハタチャクラとおそらくはアジナーチャクラ)から放っている音に意識を向ける行法が紹介されています。この音は「ナーダ」と呼ばれ、この瞑想法を「ナーダ音瞑想」としています。
 また、精神集中の力を養うには、どんなことも自分の好きなものを思い浮かべてそれに意識を向ければいいと説かれています。初心者は形のイメージしやすい具体的なもの(たとえば花のような)がいいとされていますが、しだいに「神」や「愛」といった抽象的で崇高なものを精神集中の対象とするのがいいと言われています。
 こうしたことをふまえた上で、私がいろいろ試行錯誤を重ねた末に行っている瞑想法を、次にご紹介したいと思います。この方法で行えば、けっこう効率的に瞑想ができるような気がします。もちろん、今後も工夫を重ねて変えていくこともあると思いますし、私が行って効果のあるやり方が、皆さんに効果があるとは限りません。ですから、あくまでも参考にして、自分なりのやり方を工夫していっていただきたいと思います。しかしその前に、とりあえず私のやり方をしばらく試してみて下さい。

 まず、自分の好む坐法で座ります。ちなみに、私はたいてい「達人坐」で座っています。
 守護の神霊に修行成就を祈願してから、両手で耳をふさぎます。すると、心臓のゴロゴロという音や、その他、さまざまな音が聞こえてくるはずですが、注意して耳を傾けていますと、「キーン」というか「シーン」というか、金属的で非常に繊細な音も響いていることに気づいてきます。その音がチャクラから発しているとされるナーダ音です。最初はこの音が聞こえないかもしれませんが、練習を繰り返していると、そのうちこの音が聞こえるようになります。
 そうして、この音にひたすら意識を集中します。
 しかし、5分もしないうちに耳をふさいでいる腕が疲れてくるので、疲れたら腕をおろし、膝の上に乗せて瞑想の姿勢をとります。たいてい、一度ナーダ音をとらえることができれば、あとは耳をふさがなくても聞こえるようになりますので、そのままナーダ音に意識を集中します。ただし、この行法は周囲が静かであることが条件です。騒音がありますと、とてもナーダ音を聞くことができません。静かな時間と場所で行うようにして下さい。

 さて、このナーダ音瞑想をしながら、頭のなかで「おしゃべり」をしないように努力してみて下さい。このブログを読んでおられる大半の方は日本人だと思いますので、日本語を頭のなかで話さないようにするのです。これは、雑念の温床となっている左脳の働きを抑制するためです。雑念は出てもけっこうです。しかし頭のなかで言葉を話さないようにするのです。私たちはいつのまにか、頭のなかで日本語を使っていろいろなことを考えたり思ったりしています。それが精神集中を妨げる大きな障害になっているのです。そこで、ナーダ音に意識を集中すると同時に、頭のなかのおしゃべりを止めるように努力してみて下さい。おしゃべりしていることに気づいたらすぐにストップします。そうすると、さらに意識が内面に深く向けられ集中力が高まるのを実感できるはずです。
(続く)
 
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 瞑想の四段階

 あけましておめでとうございます。
 2011年になりました。世の中はお正月気分かと思いますが、覚醒の修行を志す私たちは、浮かれ気分はほどほどにして、お正月でもきちんと修行をしていきましょう。修行者にとって、本当の意味での「お正月」は、覚醒したときだと思います。

 さて、前回の続きですが、自分は地上世界という「映画館」で、地上人生という「映画」を見ていることに気づき、「映画館」から抜け出して本来の自分に戻るには、目を閉じて瞑想しなければなりません。
 ヨーガによれば、この瞑想法(あるいは「意識状態」)は、次の4段階に分かれます。

1.制感(せいかん)
2.凝念(ぎょうねん)
3.静慮(じょうりょ)
4.三昧(さんまい)

 最初の制感とは、意識を内面に向けた意識状態のことを言います。私たちの意識はたいてい外に向けられています。五感の刺激を受ければすぐにそれに反応して意識が外に向かってしまうのです。そこで、制感の行法をして、外に向かう意識を内面に向けるようにします。たとえ五感から情報が入ってきても、意識が内面に向かっている状態を維持するようにするわけです。
 2の凝念とは、意識をひとつの対象に向けた状態です。いわゆる精神集中です。凝念の行法を行って、雑念がほとんど出ることなく、長い時間にわたってひとつの対象だけに意識を向けられるようにします(雑念が出るということは持続的に精神集中ができていないことを示しています)。たとえば、花に意識を集中しているときは、何の雑念もなく花の静止画像をひたすら見つめているような感覚です。
 なお、制感と凝念は厳密に区切られた意識状態ではなく、制感の行法は凝念の要素もあり、凝念の修行は制感の要素もあるということになります。制感の行法は、凝念の準備体操のようなものと考えてもいいかもしれません。
 3の静慮とは、ひとつの対象に意識を集中した状態のまま、その対象に関係する連想を拡大させていくことです。たとえば、花に意識を集中しながら、その花の色、香り、構造、生えている場所、花言葉、その他、その花に関するあらゆる事柄を思念していくのです。この意識状態は、2の凝念がしっかりとできていなければできません。さもないと、いつのまにか意識を向け続けるべき対象とは無関係なことを思念してしまうからです。逆に、凝念がきちんとできていれば、比較的容易にできるようです。
 4の三昧とは、「自分は瞑想している」という自覚がなくなり、意識を向けている対象だけが存在したような意識状態です。たとえば、今までは「花に意識を向けている」という自覚がありました。ところが、三昧になると「花」だけが意識にあるのです。自分が消えてどこかへ行ってしまったような感覚になると言われています。あるのはただ「花」、といった状態です。
 三昧の意識になるための修行法はありません。凝念と静慮の行法を続けていくと、自然に三昧の意識状態になると言われています。
 こう見ると、私たちが乗り越えるべき壁は、凝念にあることがわかります。凝念さえうまくできるようになれば、後の静慮と三昧はほとんど自動的にできるようになっていくからです。
 なお、凝念、静慮、三昧の三つの意識状態を、まとめて「綜制(そうせい)」と呼んでいます。いろいろな物事に綜制を向けることで、さまざまな超能力が得られるとヨーガの教典には書いてあります。たとえば、相手の心に綜制を向けると心が読める、自分の肉体の形に綜制を向けると姿を消すことができる、象に綜制を向けると象と同じ力を発揮する、頭の中の光明に綜制を向けると、神霊たちを見ることができる、といった具合です。
 そして、この綜制の力を強化していくことによって、ついには自分の本当の姿を把握する直智を得ることができるのです。
 さて、そういうわけで、私たちの瞑想修行もまた、上記の順番で行っていく必要があります。中心となるのは凝念です。
 次回、その具体的な方法についてご紹介したいと思います。
 
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