心の治癒と魂の覚醒

        

性とスピリチュアリティ

 性(セックス)の問題と、霊的覚醒やスピリチュアリティとは深い関係があると言われており、そのためいつかこのブログで論じていこうと思っていたのですが、先日、読者の方から、この問題についてどう考えているかと質問を受けましたので、今回はこの件について考えを述べさせていただこうと思います。といっても、一回や二回で片づく内容ではないので、今後、何回かに分けていくことになるでしょう。

 さて、性的な事柄と霊的な事柄は深い関係があるとされているのですが、たとえばヨーガやヒンズー教などインドの宗教では、男女の性の交わりは神性なものと考えられている側面があり、私がむかしインドへ行ったとき、ある寺院の外壁に、これでもかというほど男女が交接している像が数多く彫り込まれていました。寺院にこのような像が飾られているなど、キリスト教やイスラム教などではとても信じられないことでしょう。ニューエイジの精神世界などでは、セックスの絶頂感は、悟りの境地と同じであるといった主張をしている人もいるようです。
 一方、キリスト教などでは、性はインドの宗教とは別の意味で霊的な関係を持っています。インドの宗教が、どちらかと言えば性を肯定的にとらえているのに対して、キリスト教では否定的にとらえています。性に関することは非常に罪深く、人間を堕落させる不浄なものだと考えられているのです。
 この点について、有名な数学者で哲学者ののバートランド・ラッセルは、自らの著書『なぜ私はキリスト教徒ではないか?』において、キリスト教が性の罪深さを、まるで殺人と同じか、場合によってはそれ以上に重く見ている傾向はおかしいと指摘しています。私も正直なところ、これほど性を罪悪視する傾向には、なにか精神的に病んだものを感じなくもありません。
 しかしだからといって、性がそのままスピリチュアルなものだと考えることも、正しいとは思えないのです。

 性の問題に限らず、どのような問題でもそうなのですが、私はひとつの基本的なスタンスを持っています。それは「極端に偏らない」ということです。極端に偏った考え方は、どこか間違っている気がするのです。これは感覚的なものにすぎませんが、やはり真理というものは微妙なバランスのなかに、中道に、あると思うのです。
 したがって、性というものを評価する場合、私はそれを過大にすばらしいものとしても評価しませんし、過大に罪深く汚れたものだとも評価しません。性のあやまちをおかしたからといって、地獄に墜ちて永遠の罰を受けるとも思いませんし、セックスをすれば悟りが開かれるとも思っていません。

 性の問題を論じるときの難しさは、それが性だけの問題ではないということです。たとえば、性欲だけでセックスしている人はいないでしょう。そこには感情が伴っているはずです。感情は複雑ですから、そのために性の問題も複雑になり、単純に善いとか悪いとか決められないことが出てくるのです。
 たとえば、社会的には夫婦や恋人とのセックスは善しとされますが、売春や不倫は悪いとされます。売春が違法なのは、そこに金銭のやりとりがあるからです。つまり、相手をモノ扱いしているからです。
 ならば、たとえ夫婦の間であっても、たとえばもし妻が「夫に愛情はないが、生活をめんどうみてくれるかわりに体を夫に貸すのだ」と思ってセックスをしているならば、それは売春行為と同じではないでしょうか? セックスは愛し合う人とだけ行うべきだとするならば、愛がない相手とセックスをすることは、倫理道徳的にゆるされることなのでしょうか? これもある種の「不倫」であると言えないでしょうか?
 第一、異性をモノ扱いしている人は、本当の意味で「セックス」をしているとは言えません。ただ異性の体を使って「マスターベーション」しているだけです。

 性の問題を難しくさせている他の要素としては、とくに覚醒修行の場合、性のエネルギーが覚醒のエネルギーと直結しているらしいという理由があります。そのため、性的禁欲が推奨されていることが多いのですが、しかしなまじ禁欲をすると、そのエネルギーが精神を不安定にさせてしまい、かえって逆効果になるということもあるようなのです。

 このように、性の問題は、一筋縄では解決できない複雑で多面的な問題を含んでいます。ですから、今後、時間をかけて論じていこうと思っています。

 ただ、これだけは言えるでしょう。
 それは、性に関する余計な偏見は捨てるということです。
 すなわち、性は恥ずかしいことであり、汚らわしいことであり、罪深いことであるという考えや想念です。性の問題をこれから論じていく前に、こうした考えは、いっさい消していただきたいと思います。白紙から考えていくべきだと思うのです。
 性そのものは恥ずかしいことでも、汚らわしいことでも、罪深いことでもありません。性に対して恥ずかしい心で接したときに、性は恥ずかしいものになり、汚らわしい心や罪の意識で接したとき、その性は汚らわしいものに、罪深いものになるだけです。
 たとえば、アダルトビデオで描かれている性行為は、ほとんど汚らわしいものです。なぜなら、女性をモノ扱いしているからです。換言すれば、その性行為には愛がありません。どのような性行為であれ、愛のない性行為はすべて汚らわしい、私はそう思うのです。

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 推薦図書 『あるヨギの自叙伝』

 推薦図書 『あるヨギの自叙伝』パラマハンサ・ヨガナンダ著 森北出版1983年

 今さら推薦図書としてあげるまでもないほど、この世界の道を歩む人にとってはおなじみの本ですが、一応、ご紹介させていただきます。
 ヨーガの行者で、ヨーガ(クリア・ヨーガ)を世界に広める団体セルフ・リアリゼーション・フェローシップの創立者パラマハンサ・ヨガナンダ(1893-1952)の自叙伝です。全部で49章、上下二段組みの500ページを超える厚い本ですが、さまざまな奇跡や珍しい体験、またユーモアのある文章で、最初から最後まで飽きずに読めます。
 ヨガナンダは、ヨーガの伝説的超人ババジの系列で、四代目にあたります。彼がいかに師匠と巡り会い、師匠からどのような導きを受け、どのようにアメリカに布教に行ったかなど、ヨーガの師と弟子との伝統的なあり方といったことがよく理解できます。
 また、ヨガナンダがさまざまなヨーガの達人と出会い、そこでいろいろな超能力を目撃したことも、とても興味深いものです。空中浮揚、肉体を同時に二つの場所に存在させるとか、さまざまな香りを作ることができたり、切断された腕を一瞬でくっつけたとか、念力でコインを物質化させるとか、食べ物を食べずに生きるとか、これでもかという奇跡の数々が紹介されています。
 また、ヨガナンダの師匠であるスリ・ユクテスワの厳しくもあたたかい指導内容なども感動的で、覚醒の道を歩む上での心構えや、その他、いろいろなヒントを教えてくれる本です。
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 たとえ聖人でも盲信はしない

 前回、キリスト教系の神秘家の言葉を紹介しましたが、これに関連して少しお話したいと思います。
 神秘主義というものは、教義や聖典などを通して間接的に神を知るのではなく、瞑想や観想によって直接的に神を知り、神と一体になる道です。私たちがめざしている覚醒の道も同じです。
 そうすると、神や宇宙の法則はひとつのはずですから、宗教的な教義(ドグマ)だとか儀式といったことにはこだわらなくなるはずです。実際、一般の宗教者と比べると、神秘家は、細かい教義などにはこだわらなくなり、排他的で独善的になったりせず、普遍的な考え方を抱くようになる傾向があります。
 しかし、完全ではありません。覚醒していると思われる聖者でさえ、私から見ると、自分の信奉している宗教的教義のとらわれから抜けきれていない傾向が感じられるのです。
 もちろん、それがとくに問題がなければいいのですが、一番の問題は、やはり独善性です。つまり、自分の宗教だけが唯一正しく、他は邪教だとする考え方です。この考え方をしますと、いつまでたっても地上に平和は訪れません。果たして、これが神の望むことなのでしょうか?

 キリストは愛の宗教だと言われます。確かに、その教えを見ますと、うっとりするような愛が説かれています。「汝の敵を愛せ!」という、寛大で美しい愛が説かれていることに感銘を受けます。
 しかし、こうした愛は、ひとつの条件があることを忘れてはいけません。それは、
「ただし、異端は除く」
 という条件です。異端、すなわちキリスト教以外の宗教(異端という言葉には、それ以上に“邪教”といったニュアンスが含まれています)を信仰している者は、愛する対象から除外されるのです。
 すなわち、「汝の敵を愛せ。ただし、異端は殺してもよい」というのが、キリスト教なのです。少なくても、今までの歴史のなかで、キリスト教徒が行動で示してきたことです。
 イスラム教の一派がテロなどを頻繁に起こし、世界中から非難されていますが、これまでの歴史でキリスト教徒が殺してきた人々の数、またその残虐性は、イスラム教テロリストの比ではありません。異端という名目で、どれほどの人々が殺され、火あぶりにされ、石で頭を割られたり、迫害されてきたか知れないのです。
 表向きは愛の宗教を主張しながら、ひっくりかえすと血塗られた虐殺の宗教であるというのが、キリスト教の歴史です。キリスト教国アメリカが、なぜあれほど非人道的で残酷な原爆を投下できたのでしょうか? 「汝の敵を愛せ」ではなかったのでしょうか? 結局、日本は「異端」の国だったからだというのが、理由のひとつにあるような気がします。
 キリスト教は、他のどの宗教よりも「謙虚さ」を重んじていますが、他宗教を「異端」呼ばわりする、つまり、邪教と決めつけること自体、高慢の現れではないでしょうか? 本当に謙虚であれば、どの宗教にもそれなりのすばらしさがあるから、認め合おうとするのではないでしょうか?

 なぜ、「異端」をここまで非人道的に排除するかというと、その理由はおそらく、イエスが神の一人子であり、イエスに従う者だけが救われるという、私からすると間違った教義が生まれてしまったからだと思われます。イエス自身は、そのようなことは言っていません。この教義は後で作られたものなのです。イエスが言いたかったことは、「すべての人が神の子供であり、ひとりひとりのなかに存在するキリスト(真我)を覚醒させることによって救われるのだ」ということだと私は思っています。
 それはともかく、イエスを信じる者だけが救われるという教義を作ってしまったものだから、他の宗教の存在を認めるわけにはいかなくなります。もし認めたら、自分たちの教義を否定することになるからです。そうして、この教義が教会という権力組織によって利用され、他宗教を迫害するという結果になってしまったわけです。

 私は、このようなことは決して神が望むことだとは思いません。神秘家は、神とダイレクトに交流する者ですから、そのことが自然とわかるはずなのです。
 ところが残念なことに、奇跡を起こすこともでき、おそらく覚醒しているか、それに近いほど高い心境にあると思われる有名な神秘家のなかにさえ「異端は無理矢理にでも改宗させよ、さもなければ殺せ」といったことを主張する人がいることです。そこまででなくても、「イエスを信じる者だけが救われて他は邪教だ」という考えを捨てない人はかなりいるようです。
 世界を広く見渡せば、キリスト教以外にも、つまりイエスを信じていなくても、覚醒して高い境地に達した人はたくさんいるのに、そういう人たちの存在をどう思っているというのでしょうか?
 なぜ、人の心を読んだり、未来を予言したり、さらには空中浮揚をしたり、パンを増やすことができる奇跡まで行える聖人が、こんなことを言うのでしょうか?
 それはやはり、自分の出所となった教えに、どうしてもとらわれてしまう部分が、たとえ覚醒したとしても、残ってしまうからではないかという気がします。つまり、覚醒したとしても、「完全」になるわけではなさそうなのです。

 ですから、私が皆さんに提案したいのは、いかにすばらしいとされている聖人であっても、その威光や権威に惑わされず、「この聖者の言うことは何もかも正しい」などと思わず、自分に正直になり、「私はこの意見には賛成できない」という勇気を持っていただきたいということです。もちろん、自分の方が間違っているかもしれません。もし間違っていることがわかったら、そのとき反省して改めればいいのです。一番いけないのは、「心の底では受け入れがたいのだが、たくさんの人が聖者として崇めている方だから、それに対して反対するのは気がひける」といって、自分に嘘をつきごまかすことだと思います。そんなことをしていたら、どのみち表面的な信仰しかできないような気がします。それは単なる盲信です。

 私は、キリスト教は信奉していませんが、イエスは心から信奉し敬愛しています。キリスト教徒ではありませんが、「イエス教徒」といってもいいかもしれません。それくらいイエスを深く敬愛していますが、もしイエスが目の前に現れて「あいつはキリスト教徒ではないから、殺しなさい」などと言ったら、私は即座にイエスを捨てるでしょう。「イエス様の言うことは常に絶対に正しい」などと思い、人を殺したら、それこそどこかのカルト教団みたいになってしまいます。

 余談ですが、むかし『スタートレック5』というSF映画がありました。銀河の果てにある星に、人類の「神」が存在していることをつきとめたと主張する宇宙人を乗せ、宇宙船でその星に行き、「神」に会いにいくのです。すると、まさに「神」が現れ、乗組員はひれ伏して崇めるのですが、その「神」が「君たちが乗ってきた宇宙船を使って、私の教えを広めることができるかね?」と語りかけてきます。すると、その質問に疑問を抱いた船長が「すみません。なぜ神様に船が必要なんですか?」とたずねます。他の乗組員は「神様に質問するとは何事ですか!」とたしなめますが、船長は繰り返し質問します。すると「神」は、「私を疑っているのか!」と怒り、光線を発して船長を攻撃します。それを見た乗組員たちは、「これはおかしいぞ」ということになり、宇宙船に乗って「神」と戦います。結局その「神」は、宇宙人の傲慢な想念が形となった幻影だったことが後でわかります。
 このように、大胆にも「神」に疑問をぶつけた英雄、ジェームズ・T・カーク船長を見習おうではありませんか。もし彼が質問をしなければ、ニセの神様によって地球は侵略されていたかもしれなかったのですから!
 いかに有名な聖者であろうと、そこに「権威主義」を持ち込んではいけません。疑問があればぶつけることです。たとえ、「疑問を起こすのはおまえのエゴだ。覚者のいうことに素直に従うのが霊的にすぐれた者だ」などと言われてもです。

修行の基本的な姿勢 | コメント:0 | トラックバック:0 |

 神の意思に従って生きている人は

 今回は、シルワーン長老という名で知られる、ロシアのキリスト教系神秘家シメオーン・アントーノフ(1866-1938)の言葉を紹介してみたいと思います。

「どうすれば、人が神の意志に従って生きているかどうかがわかるだろうか?
 ここにそのしるしがある。人が何かについて悲しんでいるのであれば、たとえ自分では神の意思に従っていると思っていても、まだ神の意志にすっかり身をゆだねているとはいえない。
 神の意志に従って生きている人は、何ごとにも悩まない。もし何かが彼にとって必要であれば、自分自身と自分に起こる出来事を神にゆだねる。そして、たとえ必要なものを受けとっていなくても、あたかも手にしているかのように、平安のうちにある。
 すっかり自分自身を神の意志にゆだねた魂は、何も恐れない。雷雨も強盗も他の何ものも。もし何かがその身に起っても、“神がこれをお望みになった”と言う。たとえ病気であっても、“病気は私にとって必要である。そうでなければ、神は私に病気をお送りにならないであろう”と考える。このようにして、彼の肉体も魂も平安に保たれる。
 自分自身について悩む人は、神の意志に身をゆだねることができない。謙虚な魂はおそれと愛のうちに、神のみ前に立つ。どのような形であれ神を失望させないようにとおそれ、主がどのようなやり方で私たちを愛して下さるかを知ることで愛するのである。
 最善のことは、神に身をゆだね、希望をもって悲しみに耐えることである。主は我々の悲しみをご覧になり、決してそれ以上付け加えることはない。悲しみに打ち負かされてしまうとすれば、それは神の意志に身をゆだねていないことによる。
(中略)
 すべての人が安らぎと喜びを求めているけれども、こうした恵みをどこで見い出すべきか、またそれらを獲得するためには何が必要か、知っている者はごくわずかである。
 三五年間、私は年老いてはいても、いつも陽気で、晴れやかな表情をした修道者を知っている。そのわけは、彼が従順を愛し、その魂が神の意志に従ってきたからである。
 彼は決して悩まない。彼の魂は神を愛し、神のことを観想する。その内部に少しでも恩恵を宿している人は、喜んですべての先達に服従する。彼は、神が天と地と地獄を支配しておられるのを知り、人間とその仕事、そして世界中の万物を支配しておられるのを知っている。
 それゆえ、そのような人はいつも安らいでいる。従順な人は神の意志に身をゆだね、死を恐れない。なぜなら、彼の魂は神とともに生きることに慣れ、また神を愛するからである。そのような人は、彼自身の我意を断ち切る。それゆえ、魂においても肉体においても、無法でわがままな者を悩ます苦しみを受けることがない」

『ロシアの神秘家たち』(あかし書房)より(訳語の文体は少し変えてあります)。

 この本の著者セルゲーイ・ボルシャコーフは、神秘家について次のように言っています。「神秘家とは、絶え間のない心の祈り、思惟の抑制、そして神の意志への全き服従を通して、神との一致に達した人である」
 まさに、これは覚醒の境地ですから、覚醒をめざしている私たちは「神秘家」と言っていいわけです。神との一致に達するには、上記の三つをクリアすることが最低条件のようです。なかでも重要で、難しいのは、最後の「神の意思への全き服従」ではないでしょうか。

求道者の慰め | コメント:2 | トラックバック:0 |

 人格の向上

 人生というものは、50歳を過ぎたら、できれば40歳を過ぎたら、自らの人格を磨くことを、他の何よりも優先して全力を尽くすべきだと思う。人格を磨き、人間的に高潔で立派になることが、結局は人生の目的であり、この地上に生まれてきた目的なのだから。
 もちろん、30代、20代、10代でそのような志を持つならば、それはすばらしいことだ。しかし10代から20代にかけては、世の中というものも自分というものもよくわからないし、若い情熱をもって世の中を知りたいという欲求がある。それは人間形成にも必要なことなのだから、思う存分に世の中に出ていろいろな経験をすることにエネルギーの中心を向ければいいと思う。
 20代から30代になると、世の中というものもだいたいわかってきて、今度は世の中に働きかけて自分の可能性を試したいという欲求が出てくる。それも人間形成には必要だと思うので、思う存分やればいいと思う。
 しかしいずれにしろ大切なことは、全力で真剣にやるということだ。だらだらといい加減にやるなら、そこから得られるものは何もなく、後の人間形成に貢献するものも得られない。
 この時期には、苦労や失敗が多ければ多いほどよい。たとえばこの時期に「棚からぼた餅」のような「幸運」に見舞われると、もうそこで退廃が始まるだろう。たとえば株などで大儲けしたといったことだ。そんな幸運はない方がいい。人生を真剣に生きなくなるからだ。若い頃に人生を真剣に生きなくなると、歳を取るにつれて醜悪になってくる。そして、歳を取ってから人生を真剣に生きようとしても難しくなる。というより、そんなことは思いも寄らなくなるだろう。いつの年代でも、人生は真剣に生きられなければならない。
 さて、そんな30代を過ぎて40代になると、世の中のこともだいたいわかり、自分の力も試して気が済むようになってくる。そうなると、いったい次にどのような目的があるというのか? ただ馬車馬のように仕事にのめり込んだり、飲み食いしたり、趣味に興じたりするだけで、人生の目的を見失ってしまう。まるで羅針盤を失った船のように。
 その意味では、もっとも危険な時期ではないかと思う。この年代が大きな分岐点になる。少し大袈裟にいえば、俗人になるか聖人になるかが決まる。老人になったとき、醜悪となるか美しくなるか、この年代で決まるのではないかと思う。この年代は、どちらの道を歩むようになるか、模索する時期なのかもしれない。
 そのため、やはりこの時期も幸運という「災難」には恵まれない方がよい(自ら努力してつかんだ幸運であればもちろんOKだ)。できれば、ある程度の挫折や苦しみを味わった方がいい。その方が人格向上の道に進むきっかけになりやすいからだ。もちろん一番いいのはそうした苦しみを味わうことなく、人格向上の道を志すようになることだ。しかしそれが無理なら、不運を味わってでも人格向上の道を歩むようになった方がいい。
 そうして50歳からは、仕事や私生活は大切にしながらも、興味の対象は自分自身を磨くこと、人格を向上させること、神の道具となるべく高潔で豊かな人間性を構築させることに可能な限り集中し、全力を尽くすべきだと思う。
 そして、この生き方を死ぬまで続けることだ。
 人格の向上に「これでいい」というゴールはない。人間は一生涯、生長し続けなければならない。どんなに自分を高めても、まださらに高い地点が存在する。「自分は立派になった、もうこれでいいのだ」などといった高慢や自惚れの気持ちが出たり、「自分は立派だが周りの連中はレベルが低い」などといった差別意識が出たとしたら、今までの努力は偽物だ。まるでメッキのように表面的なものだけを繕っていたに過ぎないことになる。なぜなら、そのような高慢や自惚れや差別意識そのものが、俗悪な畑から生える雑草のようなものだからだ。
 人格の向上とは、清浄で肥沃な畑を作ることだ。すぐれた畑さえ作れば、あとは自然に、美しい花々や樹木のようにあらゆる美徳が生まれ育っていくだろう。
 そして、人格の向上をめざす者が唯一ゆるされる喜びは、自分の畑がそのような美しい花々や樹木でにぎわっている光景を見ることである。これは自惚れではない。
 魂からの純粋で神聖な喜びである。

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 指導霊の流儀についての疑問

 ワタナベさんから、今度は少し違った視点の体験を報告していただきましたので、この点について少し考えてみたいと思います。
 まず、本日2月5日に寄せられたワタナベさんのコメントを紹介してみます。

「今回は神様(指導霊)は流儀にこだわるらしいということを提案させてください。
 今さらと思われるかもしれませんが、神秘修業は一種の降霊術になっています。私の場合、本格的に始めてからは、修業開始とともにラップ音があったり、朝の修業をせず寝てたりするとベッドの横を誰か歩いてる音がしたりは以前からありました。
 それで漠然と「いるかも」ぐらいには感じていましたが、今朝方「いる」という確信に変わりました。
 私は瞑想のときCDでグレゴリアン・チャントをかけるようにしていましたが、最近、チベット密教をかけるようになったあたりから、ラップ音に変化があり、今朝になって神道の祝詞をかけると、本棚から本が落下してきました。地震のときにもそんなことはありませんでした。「流儀を統一しろ」とお怒りになったんだと思います。
 すぐあとでその方角に詫びをいれましたが、どうやら、霊的な存在は「物理的」にいて、感情を持っているようです。よくしていただいた神様を怒らせてしまって、現在かなりヘコんでいます。
みなさんも修業するときは流儀を統一したほうがよいと思います。」

 これについて、私の考えを述べさせていただきたいと思います。
 まず、「神秘主義は一種の降霊術になっている」という一節ですが、神秘主義が高い次元の存在と通路を開いてコンタクトすることは確かですが、私の理解では、降霊術というのは霊媒が霊的存在に心身を貸して、霊媒を通してメッセージを送ったりする心霊術のことです。霊媒はすっかり自分の身体を明け渡しており、意識がありません。要するに憑依されているわけです。また、霊媒がこうした行いをしても、霊媒そのものの人格が向上するという話も聞いたことはありません。
 しかし、神秘主義の道では、修行者は自分を他の霊に明け渡して無意識状態になることはありません。覚者は神とひとつになり、自我を消失していますが、それは憑依とは違います。また、基本的な人格の向上が見られます。
 したがって、私としては、神秘主義は一種の降霊術とは考えておりません。また、いろいろと覚者の伝記などを見ても、必ずしもワタナベさんのようなラップ音やポルターガイスト現象のようなものを経験しているわけでもなさそうです。ですから、こうした心霊現象と覚醒修行は、いちおう別物と考えた方がいいのではないかと思います。

 さて、本題に入りますが、問題は何のために「流儀を統一するのか?」だと思います。
 文面から推測すると、ワタナベさんの指導霊は、グレゴリアン・チャントはOKらしいので、キリスト教系の道を歩まれた霊の方なのかもしれません。そこで、自分が指導しているワタナベさんが、他の宗教の音(音楽)を聴いたことに腹を立てたわけです(腹を立てているとしたらですが)。いったいなぜ、腹を立てているのでしょうか?
 あるいは、別にどの宗教でもかまわないのだが、キリスト教や仏教の流儀を混ぜるな、ということなのでしょうか? だとしたら、それはなぜなのでしょうか?

 一昨年、私の父が亡くなり、そのためにお寺で法要する機会が多くなったのですが、そのお寺は日蓮宗でありながら、神道の神社もあるのです。むかしの神仏習合がそのまま継承されているわけです。また、有名なヨーガの一派は、ヨーガとキリスト教を融合した教えを説いています。こうした他宗教の流儀の融合が、信仰や覚醒にとって、障害になることは、おそらくないのではないかと思います。
 したがって、高い次元の霊的存在は、必ずしも流儀を統一しなければならないと考えているとは、私には思えないのです。

 そうなると、もしもワタナベさんの霊が流儀を統一することを望んでいるのだとすると、指導霊自身が自分の好みで流儀を統一したいと思っているか、あるいはワタナベさんの場合は流儀を統一した方がいいと思っているか、どちらかではないかと思います。
 つまり、ワタナベさんの場合は流儀を統一した方がいいのかもしれませんが、すべての人がそれに当てはまるかどうかは、少なくてもこれだけでは判断がつかないと思うわけです。

 それと、ちょっと気になるのですが、高いレベルの神霊は、いわゆる心霊現象のようなことは、めったにしないという話を聞いたことがあります。低い霊ほど、そのようなことをよくするらしいのです。
 また、宗派を変えると先祖が怒って祟りがあるという話も(本当かどうかはわかりませんが)聞いたことがあります。たとえば今まで日蓮宗だったのに浄土宗に変えたら先祖が怒るらしいのです。その「怒り」が子孫の幸せを願う純粋な愛によるものなら、換言すれば、宗派を変えることで何らかの不幸が子孫に訪れるという理由でもあるなら、怒る理由もわからなくはありませんが、もし「自分たちが信じていた宗教を変えるとは何事だ!」といった、俗っぽい理由で怒るのだとしたら、あまり高い心境であるとは思えません。

 したがって、安易に断言はできず、慎重にならなければならないと思いますが、心霊現象を起こすワタナベさんの指導霊については、少し警戒した方がいいのではないかと思いました。高い次元の霊的存在がこんなことをするのかなという疑問が、正直なところ私の心に浮かんできます。
 しかし、真実はわかりません。これはあくまでも私の個人的な感想ですので、参考程度にしていただければと思います。

 私としては、あまり特定の宗教色が強い行事的なことは、日常的な修行としてはしておりません。つまり、キリスト教的な祈祷をしたり、仏教のお経や神道の祝詞を唱えるといったことはしていません。なるべく自然で普遍的な祈りの言葉を唱えています。その点では、ワタナベさんの言われる「流儀の統一」をしているのかもしれません。
 しかし、いろいろな宗教の行事を否定しているわけではありませんので、もしキリスト教の祈祷を捧げるような場所に行けばそうするでしょうし、お経や祝詞を唱えるような場所に行ったら、そうするでしょう。私にとって、そうしたことは、外国に行ったらその国の言葉を話すくらいの感覚でしかありません。表現が違うだけで本質は同じだからです。日本では「愛」と言い、アメリカへ行けば「ラブ」と言い、フランスへ行けば「アムール」と言うようなものです。愛を表現するのに、「愛」はいいが「ラブ」や「アムール」はダメだ、などといったら、それは言葉の意味がわかっていないナンセンスなことだと思うわけです。

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 ワタナベさんの体験談の感想

 ワタナベさん、貴重な体験をどうもありがとうございました。
まず、統合失調症を患っておられたとのことですが、統合失調症と霊的な障害はしばしば混同されやすく、医師はその区別はできませんから、霊的な障害でも統合失調症という病気にされてしまうことはけっこうあるようです。
 ところが、東北のイタコや奄美地方のユタという霊能者を育成する土地柄だと、統合失調症のような症状が現れても、それは霊的な目覚めのための一時的な混乱だとわかることが多く、それなりの対応をして霊能力を育てていくことができるわけです。やたらに薬などで抑圧して、そのために本当の病気にしてしまうようなことがないわけです。
 それはともかく、たぶんワタナベさんは前世で霊的な修行を積んでおられたのではないかという気がしました。そのため、クンダリニーの覚醒もスムーズに行われたのではないかと思うのです。要するに、もともと素質があるわけですね。
 ただ、自分に素質があるかどうかはわからないことが多いので、とにかく修行をすることが大切であると思います。素質があっても修行をしなければ開花しませんし、素質はないと思っていても、案外、修行をして素質があることがわかることもあるでしょう。
 もっとも、素質があろうとなかろうと、覚醒への修行はすべての人間(魂)の進むべき道であるとは思いますが。

 ところで、ワタナベさんが強調されていたのは、試練(苦しみ)に対して、どのような姿勢で臨むかです。これが、覚醒にとって大切ということです。私も同感です。テクニックも大切ですが、こうした心構えは、テクニックよりも大切なのかもしれません。少なくても、こうした心構えなくテクニックを行じても、大きな効果は期待できないように思います。
 私個人的には、ワタナベさんの次のひとことに、すべてが収束されているように感じました。

-生活する24時間すべてが修行であると意識して、神様のことを忘れないように、すべての事柄・人物・病気を「神様のあらわれである」と考えました。-

 まさに、これにつきるのではないでしょうか。
 神は愛だと思いますので、この「神」を「愛」と言い換えてもいいと思います。つまり、「すべては愛の現れだ」ということですね。苦しみは愛をもって受け入れる、これが宗教の極意ではないかと思うわけです。
 もちろん、これは簡単なことではありません。簡単にできるようなら修行とは言えないでしょう。全身全霊をもって真剣に臨んでいかなければ、こういう心境に近づくことはできないと思います。イエスがいうように、まさに天国への門は「狭い」わけです。
 しかし、これこそが、人間がこの地上という学校を卒業するための、最後の卒業試験ではないでしょうか? これが、私たちの「最後の戦い」ではないでしょうか。これさえ打破できたら、あとはどのような障害が人生に残っているというのでしょう。
 ワタナベさんが言われるように、どんな人にも、愛する人にも憎い人にも、太陽のように愛を放つことができるように、努力をしていこうではありませんか。
 やはり、誰かを憎んでいるような人が、瞑想だとかクンダリニーの覚醒といった修行をしてそのまま覚醒するとは、思えないのです。たとえ愛するまではできなくても、「誰をも悪く思わない」という境地にならなければ、覚醒は不可能ではないかと思います。

 プライベートに関わることなど、言いにくいこともあったかと思いますが、それでも私たちに貴重な体験を開示してくださったワタナベさんには、心から感謝いたします。
 今後また機会があれば、再び体験やご意見をお伺いできればありがたく思います。

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