心の治癒と魂の覚醒

        

 合理的な希望を抱く

 原発はあいかわらず危機的状況で、私たちを不安と緊張につなぎとめています。また、膨大な災害の他に、計画停電のせいで、ようやく上向きの兆しが出てきた日本経済も再び長期にわたって沈み込んでしまうという予測が為されています。右を見ても左を見ても、悲観的な思いにさせられるものばかりです。
 私たちの未来は、暗く、絶望的なものになるのでしょうか?
 そうかもしれません。長い長い苦しみの日々が待っているかもしれません。
 しかし、そうではないかもしれません。
 現在の推測では、日本の未来は暗いものですが、実際にどうなるかは、誰にもわからないのです。

 広島に原爆が落とされたとき、この土地は70年間は植物も生えないし人も住めないだろうといわれました。ところがどうでしょうか。じきに、何事もなかったかのようにたくさんの芽が出て植物が生えてきました(人々はそれに励まされて希望を持ち復興に力を入れました)。
 東京は、戦争の空爆で一面焼け野原になりました。それがどうでしょうか。10年もしないうちに生活を取り戻し、そればかりか、ついにはGDPで世界二位にまでなったのです。現在、中国に二位の座を奪われましたが、それでもこんな小さな島国が、国土も国民の数も圧倒的に大きな大国と肩を並べているわけで、考えればこれはすごいことなのです。
 このように、いかに悲観的な予測が為されたとしても、実際にはどうなるかはわからないのです。
 ところが、人間というものは、物事をつい悲観的に考えてしまう根深い傾向があるようです。そして、何かを悲観的に考えると、想像も手伝って、その悲観的な考えを裏付けるような理屈ばかりが閃いてきて、悲観が悲観を呼ぶループにはまりこんでしまい、ついには絶望的な思いにかられ、自暴自棄や自殺、心中といった早まった行動に走ってしまうことがあるわけです。
 しかし、今までの自分の人生を振り返ってみるとわかるかと思いますが、ほとんどの場合、悲観的な予測ははずれることが多いのです。、心配していたほどひどいということは、めったにありません。
 といっても、これも絶対にそうなるというわけではありません。予測通り、あるいは予測よりも悪い事態が起こることも、ないとはいえないわけです。

 いずれにしろ、確実に言えることは、「未来はどうなるかわからない」ということです。
 そこで、どうなるかわからない未来を前にして、私たちはどのような姿勢で臨むのが適切か? ということを考えてみなければなりません。
 悲観的になり、絶望的な気持ちで臨むべきでしょうか?
 こうした臨み方には、二つの問題があります。ひとつは、予測したような悪い事態が起こらなかったとき、悲観的になって苦悩しただけ損になります。そればかりか、悲観的になったあまり、新たに悪い事態を作り出してしまうことにもなりかねません。
 もうひとつの問題は、たとえ実際に悪い事態が起こることになっているとしても、悲観的に臨んで何かいいことがあるかです。何もいいことはないはずです。むしろ、悲観や絶望にとらわれた気持ちでは、何をやってもまずうまくいかないことが多いのです。
 したがって、たとえ未来がどうであろうと、悲観的な気持ちで臨んで得るものは、何もないという結論になります。それどころか事態を悪化させる可能性さえあるのです。

 それでは、「必ずうまくいく」という希望と確信を持って臨んだらどうでしょうか?
 もしも悪い事態が起こらなければ、それはそれでけっこうなわけです。苦悩してストレスをためることもなく、何も損害はありません。
 もし悪い事態が起こるとしても、希望と確信を持って臨んだときは、人間の能力はフルに発揮されます。それにより、悪い事態を解決させてしまうかもしれませんし、たとえ完全には解決できなくても、多少なりとも軽減させることは十分に可能でしょう。
 したがって、未来がどうであっても、希望と確信で臨むことには、何のリスクも損害もないし、むしろ、いいことが起こる可能性の方が高いのです。

 こう考えると、どちらの姿勢を取ればいいかは明白です。必ずうまくいくという希望と確信を持って、心穏やかに全力を尽くすことです。心配や不安や恐怖に苦悩しながら努力するのではなく、明るく穏やかな気持ちで努力するのです。これが、いかなる事態においても当てはまる最善の姿勢なのです。これは合理的な希望というべきものです。
 もちろん、次から次へと辛いことが起こったり、辛い状況が長く続いたりすると、どうしても悲観的な気持ちに傾いて絶望的な気持ちになってしまうのは、無理ありません。それは人間の自然な感情ではないかと思います。
 しかし、とはいえ、いつまでもそうした気持ちにとらわれていては、もしかしたらうまくいくべきことも、うまくいかなくなってしまう可能性があるわけです。ですから、そのような残念な事態を避けるためにも、希望と確信を持って困難に立ち向かっていかなければならないと思うのです。
 もし、あなたを悲観的で絶望的にする想念や考えが湧いてきたら、それはあなたがそう思っているのではなく、いつのまにか頭の中に侵入してきた悪魔、悪いエイリアンが語りかけているのだと思って下さい。悪魔やエイリアンに負けてはいけません。断固として戦って下さい。
 このことは、そのまま覚醒のための絶好の修行でもあります。

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 原発に関する私の考え

 福島第一原発の事故に絡んで、原発廃止の運動が高まりつつあります。
 ここで、原発に関する私の考えを申し上げたいと思います。といっても、このブログは覚醒の情報を提供することにあるので、「原発問題に対する人々の意識」が、覚醒とどう関係しているか、という視点を土台に据えたいと思います。
 また、私は原発やエネルギー問題について、それほど深く研究したことがないので、あるいは事実誤認があるかもしれませんから、そのつもりで耳を傾けて下さい。

 まず、原発問題を語るときは、冷静にならなければならないということです。
 しかし、原発推進派も否定派も、ある種の宗教のようにヒステリックな傾向があり、たとえば私がここで「原発は必要だ」などといって否定派の人たちと議論を始めると、ついには罵詈雑言をぶつけあい喧嘩になるのではないかと思います。たとえば、原発問題をむかしから追求してこられた広瀬隆さんなどは、テレビで、枝野長官のことを「あの傲慢な枝野」と言ったり、テレビで解説している学者を「彼らは技術者じゃないからわからない。現場を知らない人間が空論を語っているだけ」と決めつけたりしている態度などは、その端的な現れではないかと思います。実際には学者のなかにも技術者出身の人がいると聞いています。たとえ枝野長官の言行が気に入らなくても、傲慢呼ばわりし名前を呼び捨てにする態度は、どう考えても冷静であるとは思えません。こうしたヒステリックな態度では、原発問題を考えるにしても、まともに考えられるとは思えないのです。

 原発などという、あんな危ないものは、ない方がいいに決まっています。
 しかし、原発否定派の人は、もし仮に原発がなくなったらどうなるかということを、どれだけ人々に訴えているでしょうか?
 原発がなくなったらどうなるかを私なりに考えてみましたが、それに代わるのは、現在のところ火力です。火力には二つの大きな問題があります。ひとつは石油を使う点です。いずれ石油は枯渇しますから、どのみち他の発電を考えなければなりません。今の技術と日本の経済力では、これを太陽パネルや風力でまかなうことは難しいと思います。そうなると、どのみち原発に依存せざるを得なくなるのではないかと思います。
 また、石油に依存していると、もし有事などがあって石油の供給が断たれた場合、どうしようもありません。たいてい戦争というものは、食料かエネルギーが断たれたときに起こるものです。ですから、やや極論かもしれませんが、戦争が勃発する可能性を高めることにもつながりかねません。有事がなくても石油は枯渇に向かって進んでいるのですから。

 さらに、火力は原子力よりお金がかかりますから、ただでさえ落ち込んでいる日本経済に大きな打撃を与えます。これは単純に毎月の電気代が値上がりするといったことではありません。電気を使わない仕事などほとんどありませんから、すべてのものが値上がりすることになります。失業者は町に溢れ、消費税は膨大に増加し、たとえそうしても、社会保障ができなくなり、たくさんの人がホームレスになるかもしれません。
 そうなると、一部のお金持ちしか生活水準が維持できなくなります。しかしそうしたお金持ちも収入源は庶民のお金ですから、庶民が貧しくなれば、そのうち自分も貧しくなってきます。こうして国全体が衰退します。娯楽や贅沢なものは手に入らなくなり、現在、発展途上国の人たちが安い賃金で工場で働いて作った品物を海外に輸出しているような状態に、日本もなってしまうかもしれません。
 果たして、一度贅沢を覚えた私たち日本人が、そのようなストイックな生活に耐えられるでしょうか? 恐怖にかられて西の方に逃げたり、買い占めをするような耐性の低い私たちに、そんな生活が耐えられるとは思いません。やがてこう言うのではないでしょうか。「あのときは千年に一度の稀な災害による事故だった。今は技術もしっかりしているし、絶対に大丈夫だ」。そして、原発復活の世論が盛り上がり、結局また、原発が復活するのではないかという気もするのです。
 そして何よりも、火力発電の大きな問題は、二酸化炭素の排出による地球温暖化を促すことです。もしこのまま地球温暖化が進行したら、地球的な規模の災害は、チェルノブイリや福島の原発事故など比較にならないほど大きなものになるでしょう。

 ところで、現在、原発から生じる電力そのものは、全体としては実はかなり余っているのです。つまり、こんなに原発を造る必要はないといえばないのですが、その原因のひとつは、経済効率です。すでに述べたように、火力はお金がかかるのです。それと、電力の供給はピーク時に設定されていることも理由にあるでしょう。つまり、夏場など、ほんの一時的に高まる電力のために原発が造られているのです。全体としては、電力は余っているわけです。もし電力の供給を一定量におさえることができるなら、原発はこれほど多くは必要ないでしょう。これはある程度、私たちのライフスタイルを変えることで可能だと思います(現にそういう動きがあります)。
 また、日本のすべての発電所が共有され、足りている地域の電力を足りていない地域に流すことができればいいのですが、関西と関東とでは電気の周波数が違うのでできません。膨大なお金をかけて変換器を造れば別ですが、たとえそうしたとしても、電線を伸ばすとそれなりに電力ロスが生じてしまいますので、結局は実用的ではないのです。

 さて、以上のように考えますと、原発をなくしたからといって、すべてがバラ色になるわけではないのです。それ相応の代償を覚悟しなければならないわけです。このことをよく理解した上で、原発に反対するならいいと思います。「あのときは原発に反対したが、こんな生活をするくらいなら、原発があった方がよかった」などと、後になって言わないようにすることです。
 かといって、原発をこのまま放置しておけば、いつかまた今回のような大事故が起こることは、まず間違いありません。フランスは原発大国ですが、フランスは地震などほとんどありませんから、有事や人為的な事故さえなければ、災害の可能性としてはかなり低いかもしれません。しかし、日本のような地震大国に、原発がこんなにもあるのは、それこそ広瀬さんが言われるように、私たちは「時限爆弾」を抱えながら生きているといっても、決して大袈裟ではないと思います。

 結局、私なりに結論を言いますと、悲観的になってしまうかもしれませんが、原発があっても、原発がなくても、先に待っているのは苦難なのです。よほど革新的な技術でも生まれない限り、人類の未来は明るいとは言えないと思います。
 私個人としては、すべての原発を廃止するのではなく、危険な場所に建設されている古い型の原発を、とりあえず早急に廃止するべきだと思っています。それによる日本経済の衰退は避けられませんが、仕方がないと思います。
 私たちは今、ライフスタイルの根本的な見直しを迫られているのだと思います。
 価値観を完全に改めて、なるべく物質に依存しない幸福を求めるべきではないでしょうか。
 もしも、1960年代くらいの質素な生活をすることができれば、原発もこれ以上の火力発電も必要ありません。そこには、シャネルだのグッチなどといったしゃれたブランドもなく、海外旅行などもめったに行けず、高度な電子ゲームなどもなく、ネオンのまぶしい繁華街などもありません。昼間、人々のほとんどは畑や工場、商店で働き、家に帰れば食事をして家族と語り、扇風機で涼みながら本でも読んで、あとは寝るといった生活です。
 しかし、こんな生活ができるでしょうか?
 もしできるとすれば、それは人々が物質的な世界ではなく、覚醒という精神的な世界に価値を見出すようになったときだと思います。

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いつかこう尋ねられたときのために

 このたびの大震災によって生じた原発事故により、放射能汚染によって東日本は汚染されるから、早く遠くに逃げた方がいいというネットの情報があり、私のところにもそのような内容のメールが来たりしています。
 噂では、一部の政治家はすでに西の方に逃げたとのことです。お金持ちの人が関西に逃げて、関西の料亭が賑わっているという話も、本ブログのコメントを通して知りました。
 かと思うと、自分の命を省みず、最悪の事態を回避するため不眠不休の努力を傾けている人もいます。私財を犠牲にして人を助けようとしている人もたくさんいます。
 ネットなどを見ますと、「もう日本はおしまいだ」などと慌てふためいて、悲観的な言葉を並べている人もいます。恐怖心を煽るようなことばかり言ったり書いたりしている人もいます。

 人間の本性は、苦難のとき、危機的状況のとき、極度の不安や恐怖におかれたときに現れるものです。原発の危機をくい止めるために出かけていった、東京電力に勤めている男性の娘さんが、こんなことを言っていたそうです。
「お父さんはおとなしくて頼りなく思えたけれど、本当は強い人なんだとわかった。そんなお父さんを誇りに思う」。
 世の中には、強そうに見えて実は弱い人、弱そうに見えて実は強い人がいるわけですね。こういうことは、普段ではわからないわけです。

 余震もまだ続いていますし、他の場所で大きな地震が起きて原発事故がまた起きないとも限りません。まだまだ先が見えない状況にあります。
 しかし、私は後になって、自分自身のことが嫌いになったり、自分のことを恥ずかしく思うようなことは、可能な限りしたくありません。具体的にいえば、自分だけ助かろうとして逃げることです。政府から命令が出れば別ですが、必死にがんばっている人がまだたくさん残されているのに、自分だけ逃げて、しかも「自分は助かった、自分は何て運がいいんだ!」などと喜ぶような人間には決してなりたくありません。もしそんなことをしたら、私は残された人生を自己嫌悪と一緒に生きることになるでしょう。それなら死んだ方がマシです。とはいえ、そんな偉そうなことを言っていても、いざとなったらパニックになって逃げてしまうかもしれません。怖ろしい洪水が目前に迫ったら、自分ひとり逃げてしまうかもしれません。その点では自信がありません。

 いずれにしろ、今後、どうなるかはまったくわかりませんが、たとえば原発はこれ以上の大きな被害がなく無事に解決し、地震も収束して、いつか日本が見事に復興を遂げたとしたら、日本人は自らの国民性に誇りを持ち、また世界中から尊敬されるでしょう。そして人々は、お互いにこう尋ね合うことでしょう。
「あのとき、あなたはどこにいましたか? 何をしていましたか?」
 そのときに、私は誇りをもって、その質問に答えられるような生き方をしたいものです。
「はい。あわてふためいて、ネットで悲観的なことばかり書いていました」
 なんて答えたくありません。まして、
「はい。関西に逃げて料亭でおいしいものを食べて遊んでいました」
 なんて、間違っても答えたくありません。
 もっとも、幸か不幸か、そんなことをするお金などないので、間違ってもそんなことはありませんが(笑)。

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 死を覚悟すること

 原発の状況は、依然として危機的な状況が続いているようです。
 ネットなどを調べてみますと、東日本はすべて放射能で汚染され、今後、白血病で多くの人が死ぬといったことを言っている人もいるようですし、今回の大規模地震は今後、相模湾や東海地方の大地震にまで及び、原発は地震のために崩壊して、九州や沖縄くらいしか住むことはできなくなると言う人さえいます。
 私個人としては、そこまではならないだろうと思っていますが、残念ながら、完全には否定できないところが、私たちのおかれている危機的な状況であるわけです。
 九州や沖縄に避難を勧めている人もいるようですが、ほとんどの人はそのようなことはできないでしょう。つまり、ほとんどの人は、この事態を受け入れるしかないわけです。一応、最悪の事態も、覚悟しておいた方がいいのかもしれません。

 しかし、人間は、いつかは死ぬものです。
 白血病になって死ぬといっても、どのみち二人に一人は癌で死ぬ運命なのです。それがたまたま放射能が原因の白血病によるもので多少早く死ぬか、他の原因で死ぬかの違いだけです。まだ将来のある子供や若い人には気の毒ですが、しかし、子供や若い人だって病気や事故で死んでしまう人は死んでしまいます。家族がいる人は、家族のことを心配すると思いますが、何も打つ手がない以上、やはり覚悟するより仕方がないように思います。
 私は、癌患者のためのホスピスの心理カウンセラーをしていた経験から、「死の宣告」を受け、死を覚悟しなければならなくなった患者さんに、たくさん会ってきました。患者さんにとっては、原発で死のうと他の病気で死のうと変わらないといっていいでしょう。
 私たちも、同じではないでしょうか?
 原発で死のうと、それ以外の病気で死のうと、死ぬということに変わりはないわけです。私たちはいつか、「死の宣告」を受ける運命なのです(あるいは急に死んでしまうかです)。それが早く来るか遅れて来るかの違いだけです。
 ただ、できれば、死ぬにしても楽に死にたいものですが、原爆による白血病で死ぬのは、苦しいのでしょうか? 私にはわかりませんが、たぶん、自然に生じた癌の苦しみと、そう変わらないのではないかと思います。
 こう考えると、私たちは、ぽっくりと死んでしまう人を除けば、どのみちある程度苦しんで死ぬ運命から逃れることはできないのです。それが厳然たる事実です。
 もし原発が最悪の事態になったら、それは私たちの寿命が来たから死ぬ運命が訪れたと思うべきではないでしょうか。
 もちろん、逃げることができる人は、逃げた方がいいと思います。九州や沖縄に逃れて、日本の文化を後世に継承していってもらいたいと思います。ただ、九州や沖縄に逃れることができたとしても、その生活が幸せかどうかはわかりません。たとえ身内の家に逃れたとしても、時間が立ってくると、いろいろと肩身の狭い思いがしたり、争いが起きたり、慣れない土地で慣れない仕事をするというのは、決して楽ではないと思います。いっそのこと死んでしまった方が楽であると感じられるかもしれません。

 覚醒の修行とは、要するに自我(エゴ)を消滅させることです。自我を根底から支えているのは「恐怖」です。そのため、覚醒に近づいてくると、「自分が消滅してしまう恐怖」を覚えると言われています。もちろん、消滅するのは偽りの自己である自我にすぎず、本当の自分ではないのですが、自我を本当の自分だと思っている私たちには、自我の死は本当の自分の死と同じだと思って恐怖を覚えてしまうのです。そのために、多くの人が覚醒の一歩手前で躊躇してしまうようです。もちろん、それは生命の自己保存の本能から来るもので、無理はないのですが、しかし覚醒をめざすには、この恐怖心を何としても克服していかなければなりません。
 恐怖心は死の恐怖から来ていますので、死を覚悟することによって克服することができます。これより他にありません。
 その意味で、今の私たちは、死を覚悟するには、なんとすばらしい状況を与えられたことでしょうか。こんなすばらしい修行の機会は、もう二度と訪れないかもしれません。
 ですから、皆さん、死を覚悟しようではありませんか。
 それは簡単なことではないと思いますし、私も自信はないのですが、がんばりたいと思います。死を覚悟すれば、怖いものは何もありません。死を覚悟した人間は強いです。戦時中の若者は、特攻隊だとか、人間魚雷といったことで、帰りの燃料を積むことなく、つまりは、死ぬために戦場に出向いていったのです。彼らのたくましい精神を見習おうではありませんか。
 繰り返しますが、私たちはどのみちいつかは、死ぬ運命にあり、死を覚悟しなければならないときが来るのです。それが今やってきたと思えばいいのです。

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 私たちにできること 2

 阪神淡路大震災のときも被害は甚大でしたが、比較的狭い領域の被害でした。しかしこのたびの災害は、広大な地域に及んでおり、マスコミを通して私たちが見ている光景は、全体のほんのごく一部であると思われます。
 これほどの悲惨な大災害であるにもかかわらず、日本人が冷静かつ礼儀正しく秩序ある行動をしていることに、世界中から称賛の声があがっているといいます。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2790613/6951747
 普通は暴動や略奪が起こるというのです。ところが、それどころか、被災者の人から「自分より他の人を助けて下さい」という声が多数聞かれましたし、社長に連絡が取れないので自分の判断で店長が無料で灯油を配給したというニュースも流れていました。やはり、日本人はすごいかもしれないと、見直したりしました。

 世界中の人から、高い評価とあたたかい応援のメッセージを頂いて、本当に嬉しく、感謝せずにはいられません。ここしばらく、険悪な関係にあった中国でさえ、インターネットなどの書き込みを見ますと、圧倒的に「日本加油!(日本、がんばれ!)」との応援メッセージが多いと言います。なかには、「ざまあ見ろ!」という書き込みもあるようですが、それに対して多くの人が「おまえは中国人の恥だ!」と反論しているようです。韓国からもロシアからも、多くの支援と励ましが寄せられています。今までこれほど、外国の人々に親愛の念を感じたことはありません。
 結局、国と国との争いといっても、それは政治家どうしの争いなのですが、その政治家を動かしているのは民衆なわけです。今回、私たちの多くが、中国や韓国やロシアに対する印象がよくなっていると思います。もちろん、政治レベルでは、今後の政治的な駆け引きなどを計算に入れて支援をしているのでしょうが、民衆のほとんどは純粋な人間性による支援であると思います。いずれにしろ、民衆が他国に対して友好的な感情を持っていれば、いくら政府と言えども(独裁国家を除いて)、その国に対して侵略するようなことはできないはずです。助けられる方はもちろんですが、助ける方も、助けた人に対してよい印象を抱くようになるものです。
 そう考えますと、中途半端に軍隊などを持つよりは、他国を助けて他国の民衆から愛されるようになった方が、よほど国防力があるように思いました。「災い転じて福となす」と言いますが、このたびの日本の大災害をきっかけにして、世界は平和に近づいていくようになるかもしれません。また、そうなるように努力することが、この災害で亡くなった方々の死を無駄にしないためにも、私たちの歩むべき道ではないかと思います。

 ところで、今できることは祈りだけと言いましたが、節約や買いだめをしないということが、消極的ではありますが、いま私たちにできることのようです。
 私も現在、節電のため、暖房をなるべく使わないように、湯たんぽで足を温めながら仕事をしています(これが意外にすごく気持ちいいです)。ガソリンなども手に入らないので、いつもならバイクに乗って近所のスポーツジムに通うのですが、それもしていません。というより、できません。被災された方のことを思えば、そんなことはどうでもいいことですが。食料については、「鳥インフルエンザ」に備えて、かねてより一週間くらいの食料や水を備蓄してありますので、心配はしていません。しかし、そういう備蓄がない人は、やはり買いだめをしたくなると思います。その気持ちはよく理解できます。ただ、そこのところをじっと耐えて、買いだめはしないで頂ければと思います。

 私のところには、「政府の発表は信じられないから、すぐに原発から遠く避難した方がいいですよ」とか「食料やガソリンが不足するから買っておいた方がいいですよ」などというメールが来ます。要するに「自分さえよければいい」というわけです。こういうメールが、世の中をますます混乱させ、結果的に墓穴を掘るのだと思います。
 危機管理の大原則は、助け合うことです。「自分さえよければいい」といって勝手な行動をすると、たちまちパニックになり、結局は人も自分もダメにしてしまいます。仮に運よく自分だけ助かったとしても、そのような行動をすると、「自分は、自分さえよければいいという考えを持って利己的な行動をするような人間なんだ」という自己イメージが形成されます。そこにはそれなりの罪の意識も伴いますし、自分は人間として低いレベルであるという観念から抜け出せません。自分に誇りを持てなくなります。そのような不愉快な気持ちと一緒に、残された人生を歩んでいかなければならなくなるわけです。そのような低い自己イメージでは、仕事でも人間関係でも、何をやってもうまくいかなくなるでしょう。結局、高くつくことになるのです。
 しかし、人間としてやるべきことをやれば、たとえそのときは辛い目にあっても、「自分は、苦しい状況でも人間としてやるべきことができる人間だ」という自己イメージが形成され、自分に誇りと自信が持てるようになります。そのような意識を持つならば、その後なにをやってもうまくいくでしょう。結局、一時的には苦しんだり損害があったとしても、全体としては、このような行動を取った方が、ずっと得策なのです。

 第一、冷静に考えればすぐわかりますが、食料がなくて飢えて死ぬなんてことはありません。多少お腹が満たされないとか、寒い思いをするくらいでしょう。極寒の中、野外で毛布も食物も水もなく耐えている人がまだ数多くいる被災者の辛さを、少しでも分かち合うくらいの気持ちで、この程度の辛さを受け入れようではありませんか。そのくらい腹がすわった度胸がなければ、覚醒など、とうてい実現不可能ではないかと思います。
 ですから、買いだめはやめましょう。それが、祈りの他に私たちができることです。

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 今できること

 今回の災害の全体像がしだいに明らかになっています。一説によりますと、犠牲者は数千人どころか数万人にものぼると言われていますし、今なお、水も食料もないまま厳寒のなか救助を待っている人もたくさんいることでしょう。実に、見るに耐えない痛ましい光景が、テレビを通して目に飛び込んできます。
 そして、今後も大規模な地震が来る可能性が高く、たった今飛び込んできた情報では、再び大きな津波が来るという警報が出されました。そして「すぐに逃げて下さい」とアナウンサーが繰り返している最中、原発がまた爆発したというニュースが流れました。まさに、悪夢を見ているとしかいいようがありません。
 テレビなどを見ても、コマーシャルが入るようになり、すでに災害は終わっているかのような錯覚が感じられますが、原発の問題も含めて、災害はまだ進行中だと思うべきでしょう。私の住んでいるところも、先ほど、震度3の少し大きな余震がありました。

 そんな状況で、私たちに何ができるかというと、残念ながら何もできません。いずれ募金などの形で援助ができると思いますが、まだ生きるか死ぬかの状況にたくさんの人が置かれている今、そういう方々のために、何かできることはないのでしょうか。
 できることがあるとすれば、祈ることだと思います。
 祈りは物理的な効果があることが実験的にも確かめられています。どの程度の効果があるのかはわかりませんが、少なくても祈らないよりは祈った方がいいと思います。
 私も、個人的な覚醒のための瞑想の時間を短縮し、しばらく祈りに時間を費やそうと思っています。
 どのように祈ればいいかですが、これは自分がもっともしっくりいく形で祈ればいいのですが、参考までに説明しますと、「日本が平和でありますように」と心の中で唱えながら、日本の全体、あるいは東北から関東地方の部分の形をイメージします。日本列島を空から眺めるような視点です。
 そして、平和な心を保ち、最愛の子供を慈しむような愛の念を日本に向けます。その気持ちを維持しながら、「日本が平和でありますように。一刻も早く被災された方々が救われますように」と、繰り返しながら祈りを捧げます。
 ポイントは、平和と愛で気持ちを満たすことです。こうした危機的状況で、こうした気持ちになることは難しいかもしれませんが、なるべく努力してみて下さい。

 人間の意識の力というものは、まだ未知なことが多いのですが、偉大な力を秘めていることは間違いありません。祈りの力を信じて、この危機的状況に立ち向かっていきましょう。
 なお、こういう状況のときでも、日本人は他者を気遣い助け合う精神を失わないようです。阪神大震災のときもそうでしたが、外国の人はそのことを驚きをもって見ていましたが、今回もそのようです。以下のサイトに書かれた体験談は、このようなとき私たちに大きな励ましを与えてくれるものです。

https://docs.google.com/document/pub?id=1UmFXi9xxYkZcNLIC-q4RsdrbhCDk8PisESXoxlGmRCY 
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 今回の大地震で思ったこと

 昨日、観測史上最大規模のエネルギーによる大地震が起き、東北地方の湾岸地域は津波によって壊滅的な被害をもたらし、関東地方にも甚大な被害をもたらしました。私が住んでいる埼玉県も震度5強の揺れが起き、私は自宅にいたのですが、棚から物がバタバタと落っこちてきました。その揺れの激しさにも驚きましたが、揺れが長く続くのにも驚きました。棚を押さえながら地震が収まるのを待つしかできませんでした。
 実はこの日の朝、偶然にも、私は津波が来る夢を見ました。もの凄い高さの津波が押し寄せてきて、水が家の窓を突き破って家の中に入ってきました。その後、一人の男性が「私はこれから被災した人たちを助けに行かなければならない。だから、この子をよろしく頼む」といって、抱きかかえていた小さな男の子を私に渡すのです。その子を受け取ったとき、夢から目が覚めました。この夢はかなりインパクトがあったので、何か私自身に対する何らかの暗示的なものかと思ったのですが、もしかしたら、今回の大地震を予知したのかもしれません。

 それはともかく、これまで人々が住んでいた市町村が、文字通り一瞬のうちに壊滅してしまい、数百人もの人々があっという間に死んでしまいました。
 その光景をテレビで見ながら、人間の命というのは、はかないなと思いました。「命は地球より重い」といった言葉がありますが、この光景を見ると、現実にはなんと命はあっけなく、重いどころか、枯れ葉のように掃かれて廃棄されてしまう存在のように見えました。押し寄せてくる怖ろしい洪水に巻き込まれ、溺れて死んでしまった人たち、子供も大人も、お年寄りも、どんなに怖く、どんなに苦しかったことでしょうか。死んでいった人たちの中には、きっと必死に神様に救いを祈っていた人もいたと思いますが、その祈りは叶えられなかったわけです。神の視野から見れば、命といいますか、私たちが苦しんで死のうと死ぬまいと、そうたいしたことではないのかもしれません。人間の情からすれば、実に無情そのものです。神の救いは、地上の生き死にには関係ない次元でもたらされるとしか考えざるを得ませんが、まだまだ地上に幸せと安楽を求めるほとんどの人々からすると、それは何と厳しく、むごいものでしょうか。
 あるいは、別の見方を見れば、まさしく釈迦がいったように、この地上世界は「苦」を本質とする、この世界観こそ、私たちが受け入れるべきものではないのかと感じました。この世界が本質的に苦であることを、心の底から受け入れることは、現実にはかなり難しいような気がしますが、私たちはそれを覚悟しなければならないのかもしれません。
 このように見てくると、人間が本当に救われるには、やはり覚醒の道を歩むより他に道はないように思えてきます。今回の災害をきっかけに、より真剣に修行に励もうと思いました。

 この文章を書いている時点ではまだ詳細はわかっていませんが、原発の最悪の事故の可能性もあり、復興までには相当の時間がかかるでしょう。また、日本経済もさらに悪化することが予想されます。まさに、前途多難な状況に、私たち日本人は追いやられたことになります。
 ただ、私たちがこうした苦難に遭遇したということは、この苦難を受け入れて乗り越えていくこと自体が、広い意味では覚醒の修行なのだと思います。覚醒をめざす修行者は、いかなる事態に遭遇しても心の平静を失わないでいることが求められます。そして、勇気と高い志をもって、この日本が立ち直るために、人間としてやるべきことをしっかりとやる、それが今、私たちに求められていることだとも思うのです。
 私の勘ですが、今回の苦難をきっかけに、これから日本は、日本人は、すばらしくなっていくような気がします。被災された方は本当に気の毒で胸が痛みますが、長い歴史的な視野からこのときの苦難を振り返るならば、それは日本にとって、よいことだったという解釈もできるのかもしれません。それが神の計画なのかもしれません。
 それを希望に、今後、どのような苦難に遭遇しようと、乗り越えていこうではありませんか。

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 二日断食のやり方 2

 断食は、肉体的に健康でコンディションがいいときに行うべきですが、精神的にも安定しているときに行って下さい。心配事や苦悩や怒りといった否定的な感情で不安定になっていると、非常に多くのエネルギーが奪われ、断食中はかなり辛くなりますし、最後まで続かないかもしれません。もっとも、多少の悩みなら、逆に断食をすると心が平静になっていい効果が出る可能性もあります。
 いずれにしろ、断食というのは、生き物にとってもっとも大切な食を断つという極限状況を作り出すことですから、肉体的にも精神的にも、大きな変化が訪れることが多いのです。そして、それは諸刃の刃のように、よくもなれば悪くもなる可能性があることを忘れず、慎重に行うことが大切です。

 さて、仮に土曜日と日曜日に断食をすると想定しますと、前日の金曜日、昼食はあっさりしたものを食べて下さい。そして夜は、通常の半分くらいの量にします。もちろん、お酒は控えます。できれば、半合ほどのお粥を食べるのがいいと思います。
 そして、土曜日と日曜日は断食するわけですが、極度の倦怠感や不快感、頭痛や精神的煩悶などを感じたら、百パーセントの果汁やスポーツドリンクをチビチビと飲んで下さい。そうすれば、苦しみは緩和されてきます。しかし、あまりガブ飲みしては断食の意味がなくなりますので、一日に1リットルを限度とします。あとは水を飲んで堪え忍びます。水は浄水されたものか、ミネラルウォーターを飲んだ方がいいでしょう。
 それでも苦しくて仕方がなかったら、断食は中止した方がいいかもしれません。断食に耐えられるまで体が慣れていないのです。そういう場合は、全体的にカロリーを減らした食事を習慣づけ、ときどき夕食を抜くなどして、心身をある程度飢餓に慣れさせてから、再度挑戦してみて下さい。

 断食中は、散歩程度の軽い運動を勧めます。おなかが空いたからといって、横になってばかりいない方がよろしいです。また、ストレスを感じることは避けて下さい。脳は非常に大きなエネルギーを消費しますので、なるべく知的な労働は避けた方がいいでしょう。
 ただ、断食中は記憶力や理解力が冴えてきますので、宗教書や自己啓発書のような、内容が深くすばらしい本をじっくりと読むには絶好の機会だと思います。断食中にそういう本を読みますと、とても身に付くものです。瞑想や思索をするのもいいでしょう。
 断食中に非常に眠くなることがありますが、このときは遠慮せずに眠って下さい。体は眠っているときにもっとも治癒力が働きます。眠いということは、どこか悪いところを治すために、体が要求しているのだと思います。
 断食中は、どうしても食べないために、便秘になる傾向あります。二日間くらいであれば、復食をすればまた便通が出てくるのでそれほど問題にはなりませんが、腸内に滞在した便は血液を濁しますので、できればなるべく早く排出した方がいいのです。そのために浣腸をする必要があるかもしれません。市販の浣腸器はどうも好きではないという人は、多少荒っぽい方法ですが、次のような方法を試してみるといいかもしれません。
 まず、浴室に入って、シャワーの先端を回してノズルをはずします。すると、ホースがむきだしになるはずです。そうしたら、体温に近いぬるま湯を出して、ホースの先端を肛門にあてがいます。すると、腸の中にお湯が入ってきますから、コップに一杯ほどお湯を入れたところで肛門をきつく締め、そのままトイレに行ってお湯を排出します。するとたいていお湯と一緒に滞留した便も排出されるはずです。こうして便が出ると非常にすっきりとした感じになります。断食二日目(日曜)の午後になっても金曜日に食べたものが排出されなければ、この浣腸を行うといいかもしれません。

 さて、こうして断食が修了していよいよ復食に入るわけですが、断食中より復食の方が大切で危険が多いのです。危険というのは、つい食べ過ぎてしまうという危険です。二日くらいでは大丈夫ですが、長期に渡る断食をして急に大量の食物を摂取しますと、最悪死んでしまうこともあるのです。二日間でも、胃腸は弱くなっていますから、いきなり普段の食事をしますと、消化不良や胃痛、腹痛を起こしたりして、二日間の断食の苦労が水の泡になるばかりか、かえって体調を崩しかねませんので、しっかりと気を引き締めることが大切です。
 土曜日と日曜に断食をしたとすると、復食は月曜日からになりますが、出勤しなければなりません。そこで、まず朝は、スープのように薄いお粥を茶碗に半分くらい食べるだけにします。そして昼食は、できればお粥をお弁当に持参して、お茶碗一杯くらい食べるのが理想なのですが、それが無理なら、お茶碗に軽くいっぱいくらいの量の塩のおにぎりを持参して、それを昼食に食べます。ひたすらよく咬んで、口の中でお粥のようにしてから飲み込んで下さい。そして、夜は、お茶碗に一杯くらいのご飯と、具の入っていないみそ汁を一杯だけ食べます。
 なお、断食中に飲んだジュースやスポーツドリンクは、一日1リットルくらいまでなら好きなだけ飲んでもけっこうです。
 火曜日は、こってりしたものでなければ、普段通りの食事をしてもけっこうですが、朝は半分、昼も半分の量にし、夜は腹七分目でやめておきます。菓子やお酒も控えます。
 水曜日から、普段の食事に戻ってもけっこうですが、決して食べ過ぎてはいけません。
 以上はあくまでも最短距離です。一般的には、断食の日数の二倍をかけてゆっくりと量を多くしていくべきだと言われています。したがって、二日の断食であれば、本来なら四日かけて普段の食事に戻していく必要があるわけです。
 あとは、自分自身のペースに応じて調整して下さい。くどいようですが、強い意志をもって、いきなり食べ過ぎてしまうことのないように気を付けて下さい。油断すると、つい食欲に負けてしまい、「もうちょっと食べてもいいだろう」といって、結局は食べ過ぎてしまうことが多いのです。そうして体調を悪くしてしまうことがないようにして下さい。

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 二日断食のやり方 1

 苦行について、前回取り上げました。今回は、私たちにとって、おそらくもっとも適切な苦行と思える(短期の)断食について、ご紹介してみたいと思います。
 しかしその前に、苦行というものに対する心理的な落とし穴について説明しておきたいと思います。苦行というものが、覚醒の最大の敵であるエゴを増長させてしまう危険があるわけです。これについては、ホームページの方で紹介しておきましたので、ぜひ目を通してみて頂ければ幸いです。
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/B-menu-essay.html
 さて、イエス・キリストは、「悪霊に憑依されたとき、それを取り除くためにもっとも有効なのは、祈りと断食である」と語っています。祈りはわかりますが、なぜ断食が悪霊を取り除くとしたのでしょうか? 私の推測では、断食をすると体だけではなく心も浄化され、不純な欲望が全般的におさまってくるからだと思います。悪霊は邪欲を持った人に取り憑くようですから、そうした邪欲がなくなれば、去っていくということなのでしょう。
 このように、断食をしますと、いろいろな面でいい効果があります。からだの面では、毒素が排出されたり、内臓の疲労が癒されて自然治癒力が活性化してきます。また、体に悪いもの(ジャンクフードなど)を食べたいという欲求が少なくなってきます。
 精神的には、いま述べたように、病的な欲望や精神的な衝動などが緩和されて、平和で穏やかになってきます。忍耐力や自制心もついてきます。つまり、覚醒の修行にふさわしい精神状態になります。ただし、だんだんと元に戻っていきますから、定期的に断食をすることが必要なのかもしれません。
 科学的な調査によれば、節食中枢は脳下垂体(つまりアジナーチャクラがある場所)あたりにあるそうで、軽い飢餓状態になると、オレキシンという化学物質が分泌されるそうです。このオレキシンは神経機能と筋肉の敏捷性を活発にさせると言われています。つまり、軽い飢餓状態の方が、精神的にも肉体的にも冴えてくるのです(しかしスタミナがないので、その状態はそう長くは続かないと思いますが)。なぜ軽い飢餓状態になると心身が冴えるのかというと、おそらく食物を得るために知恵と活動力を発揮させようとする、本能的な仕組みではないかと思われます。また、アジナーチャクラを活性化するという効果もあるのかもしれません。だから、あらゆる宗教で断食が推奨されているのかもしれません。
 また、すでに紹介しましたが、カロリーを低く摂取することで「長寿遺伝子」が活性化します。ネズミによる実験では、カロリーを豊かにとったネズミより、少ないカロリーをとったネズミの方が、最大で二倍も長生きしたそうです。病気についても、カロリーが少ない方が健康で、たとえば心臓病にかかるリスクも大幅に低くなり、いつまでも若々しくいられるとされています。


 このように、いいことずくめの断食ですが、やり方をあやまると、逆に健康を害してしまうので注意が必要です。普通の生活をしなければならない私たちは、せいぜい二日くらいの断食が適当ではないかと思います。二日くらいであれば、リスクもそうありません。
 ただ、これは個人差がありますので、とにかく慎重に取り組むことが大切です。
 基本的には健康な人が行って下さい。難病を治すために断食が行われることもありますが、そういう場合は必ず適切な指導者のもとで行わなければなりません。指導者もなく行うには、重い疾患や慢性病がない健康な人だけに限られます。
 その上で、今まで断食の経験がなく、普段からこってりした食事をたくさん食べている人は、まずはカロリーの少ない食事に移行し、しだいに小食にして、その生活に慣れるまでは、断食はしない方が無難です。ふだんから大食している人が、たとえ二日間でも断食しますと、まずは非常に苦しい思いがします。精神的には食べたいという欲望に苦しみ、肉体的には非常な脱力感や不快感に襲われます。しかも、断食が終わった後で少しずつもとの食事に戻していかなければならないのですが、それができずにいきなりたくさん食べて体を壊してしまったり、精神的にはリバウンドして食物に対する欲望が逆に強くなってしまうことがあるからです。
 そのため、まずは腹八分目の食事が何の苦もなく習慣として自然にできるようになってから、断食を行うことが大切です。味付けも、濃いものは避け、なるべく淡泊なものを食べて満足できるようになることです。嗜好品やお酒なども減らしていき、三、四日くらい嗜好品やお酒がなくても平気になるようにしてから行います。

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お知らせ 覚醒プログラム・セミナーが開催されます

「覚醒プログラム~真実への旅~」(全3回)
(4月9日、5月7日、6月11日) 東京 
主催:アルカノン・セミナーズ

 ホームページでもお知らせしておりますが、昨年、ご好評をいただいた「覚醒プログラム」を再び行います。基本的には前回と同じ構成ですが、修行に必要な心構えや日常生活への導入法など、より実践的なアプローチに重点をおく予定です。
 これから修行生活を始めるにあたり、どのようなことが求められるのか、どのような点に注意しなければならないのか、どのようなプロセスを経ていくかなどをご紹介し、自宅で実習するためのテキストと音声ガイダンス入りのCDを配布いたします。
 もしご都合がつきましたら、ぜひご参加いただければ幸いです。
 よろしくお願い申し上げます。


→詳細&お申し込みは
アルカノン・セミナーズまで
http://www.arcanumseminars.com/koza_annai.html
*「覚醒プログラム」の紹介は、かなり下の方に記載されています。
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 苦行について

 覚醒するために、苦行は必要なのでしょうか?
 ご存じのように、釈迦は苦行を否定しました。釈迦自身は、6年間、ほとんど断食して苦行をしましたが、悟りを得られず、苦行をやめて牛乳で煮たお粥を食べ、菩提樹の下で瞑想して悟りを開いたと言われています。このとき、釈迦の修行仲間たちは、苦行を放棄した釈迦を軽蔑して去っていったといいます。
 インドなどに行くと、片足を木につるしたまま生活するとか、頭を泥のなかに埋めるとか、何年もからだを洗わないとか、さまざまな苦行に励む人がいるようです。
 キリスト教神秘主義でも、苦行が行われます。断食が主なものですが、なかには馬の毛で編んだ下着を着るという苦行もあります。チクチクしてかなり不愉快な着心地のようです。また、有名なアッシジのフランチェスコなどは、食べ物に灰をかけて、わざとまずい味に変えて食べたとされています。
 いずれにしろ、こうした行者が行う苦行は、しばしば健康や生命を損なうほど過激になることが珍しくありません。先ほど紹介したフランチェスコは、彼の弟子であった女性神秘家のクララが苦行をしたいといったとき、苦行を禁じています。実際、過酷な苦行のために体をこわしたり、寿命を短くしたと思われる神秘家がけっこういたので、フランチェスコは、行きすぎた苦行には否定的だったようです。

 ところで、そもそも苦行をすると、どのようなメリットがあるのでしょうか?
 ひとつの考え方は、苦行によって過去の悪しきカルマを積極的に浄化しようとしているようです。つまり、本来なら悪しき運命によってカルマは浄化されるのですが、そのような運命の訪れを待たず、自ら苦しんでカルマを浄化させようとするらしいのです。
 次に、キリスト教系の修行者の場合は、イエス・キリストが味わった十字架上の苦しみを自分も味わうことにより、よりイエスに近づこうという理由もあるようです。また、とにかく苦しむことで、罪が清まるという考え方もあります。
 ヨーガなどでは、苦行によって生命エネルギーが強化されると考えられているようです。
 その他、苦行によって欲望を消そうとしたり、忍耐力や不動心を養うといった意義があるとされています。
 ちなみに、インド系でもキリスト教系でも、「病気で苦しむことは最高の修行である」と言っています。病気はカルマや罪の浄化という意味があり、肯定的に考えられているわけです。

 私の経験から言うと、病気に限らず、どのような苦しみであれ、それを平静に受け入れてじっと耐え、その苦しみが消えたときには、浄化された気持ちになることは確かです。それでカルマまで浄化されたのかどうかはわかりませんが、こうした浄化された気持ちで瞑想をすると、以前よりも安定して深い瞑想ができるような気がします。また、欲望に対する自制心、忍耐力や不動心なども高まるような気がします。そうしたことは、確かに修行を安定して力強く歩んでいくうえで、大きな効果があると思います。
 したがって、私としては、苦行は必ずしも否定はしません。覚醒するために苦行は絶対に必要だとは思いませんが、適切な苦行は修行を促進させることは確かだと思います。
 ただしもちろん、体を壊すほどの苦行はいけないと思います。

 私たちができる範囲での苦行として、もっともいいのは、やはり断食ではないかと思います。といっても、仕事に支障のない限りの断食ということになりますから、休日の土日を利用して、二日間程度が限界ではないでしょうか。しかし、二日間といえども、その効果は思ったよりすばらしいと思います。
 私も若い頃はときどき断食をしていました。最長で二週間したことがあります。断食をすると毒素が排出されて血液が浄化されるため、まず何よりも健康によく、頭もすっきりとします。
 その後、しばらく断食はしていなかったのですが、久しぶりに、今年の正月、二日間の断食をしました。二日くらいですと、普段通りの生活をしながらでも行うことができますし、危険もないでしょう。二日くらい断食してもたいした効果はないかなと思っていたのですが、けっこう心身が浄化された感じになり、頭もすっきりして、視力なども少しよくなるなど、予想したよりもいい効果がありました。食事にしても、あまり体によくないものを食べたいという気も起こらなくなったり、忍耐力がついて、気分が乗らずに修行をさぼりたくなる気持ちにうち勝つような精神的たくましさも強くなったような気がします。
 実は、このブログを書いている今も、断食をしています。初日ですが、朝から何も食べていません。ただ、果物と野菜のジュースだけは飲んでいます。やや体のだるさや空腹感はありますが、我慢できないほどではありません。二日間行う予定です。

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