心の治癒と魂の覚醒

        

 幸せなときほど要注意

 相撲の取り組みが終わったとき、勝った力士があからさまにガッツ・ポーズをして喜んだりしない姿勢を、私は好ましく思います。勝負ごとで勝者が喜びをあらわにせず、負けた者もそのことを表に現さず、どちらが勝ったか負けたかわからいような態度で土俵を去っていく力士の姿には、ある種の品格が感じられます。負けた者への思いやりの意味もあるといわれています。
 もし、これが実際の戦いだったらどうでしょうか。たとえば、武士が決闘に勝ってガッツ・ポーズをして有頂天になったら、その瞬間に潜んでいた敵に襲われて命を失うかもしれません。ですから、相撲力士の態度は、現実に即したものだということもできるのではないかと思います。すなわち、同じようなことは、この人生においてもいえると思うのです。
 人生において、辛く苦しく危機的な状況のなかにいるときは、思ったほど危険ではないような気がします。ところが、その危険から脱して安心したり有頂天になったときに、大きな危険にさらされることが多いようです。
 覚醒の修行にも同じことがいえるでしょう。
 逆境のときは真面目に真剣に修行に励み、人格を向上させようと努力しますが、運が開けていろいろと物質的に恵まれてくると、つい油断したり、傲慢になったり、怠惰になったり、無謀なことをしたりして、大きな失敗をしてしまうことがあるのです。
 私が知っていたある社長は、経営がうまくいかないときは社員に気を配り慕われていましたが、経営がうまくいくようになったとたん、「俺のやり方に賛同できない奴は会社を辞めろ」などといって傲慢になり、失望した社員が半分くらい辞めてしまいました。
「好事魔多し」という言葉がありますが、本当に怖るべきことは、順境のときにやってくるように思われます。逆境のときは、けっこう人間は思いやりがあったり謙虚だったりします。しかし「幸せ」になると、いきなり思いやりがなくなったり傲慢になってしまったりするのです。自分しか眼がいかなくなって自己中心的になってしまうのです。いうまでもなく、これは霊的な視点から見れば、あきらかに「後退」を意味します。
 霊的な幸せと物質的な幸せは、写真のネガとポジの関係にあるように思います。物質的に幸せなときというのは、案外、霊的には不幸な状態であったりします。逆に、物質的に不幸なときというのは、霊的には幸せな状態であったりするのです。
 一番いいのは、物質的にも幸せであり、霊的にも幸せであることでしょう。そのためには、自分が幸せを感じているときほど、人の幸せを考えるようにしなければならないと思うのです。

 私の知人が、たまたま偶然、震災が起こる直前に関西の方に引っ越しました。その後、私にこんなメールが送られてきました。
「運良く関西に引っ越すことができました。神様が守ってくれたのだと思います」
 私は思わず苦笑してしまいましたが、関西に引っ越すことができない私や大多数の人は、神様が守ってくれなかったということなのでしょうか?
 その彼は、決して悪気はなかったのだと思いますが、幸せになると、ついこのように自己中心的に物事を考えてしまう癖が、人間にはあるようなのです。
 また、結婚して子供ができると、子供の写真が写っている年賀状を送ってくる人がいますが、私はあまり好ましいことだとは思いません。子供の誕生を喜んでいる身内や親戚に送るならいいと思いますが、それほど親しいわけではない人に送った場合、子供が欲しくても授からないで苦悩している人もいるかもしれませんし、家族が欲しくても結婚できず独り寂しく暮らしている人もいるかもしれないわけです。
 こんな感じで、幸せなときには、他者への配慮が希薄になってしまうのです。これみよがしに自分は幸せだと訴えるようなことは、控えた方がいいと思うのです。

 震災のとき盛んに流れていたCMで有名になった詩人の金子みすずは、「あなたと私」「私とあなた」という言葉をいっています。「あなたと私」は、「あなた」を尊重し、あなたのことを思いやっている関係、「私とあなた」は、私が中心で「あなた」は私のためにあるという意味です。物質的に幸せになると、「私とあなた」になりやすいのです。霊的に見たら、これは非常に醜悪な姿であり、品格も何もあったものではありません。
 覚醒をめざす者は、たとえ逆境でも落胆せず、順境でも有頂天にならず、常に「あなたと私」の精神を忘れることなく、生きていかなければならないと思うのです。お相撲を見るたびに、この精神を思い出していただけたらと思います。

 余談ですが、このところ余震もだいぶ減り、震災が一段落したような気がしているかもしれません。しかし、「もう大丈夫だろう」と安心しているときが危ないのです。脅かすつもりはありませんが、いつ大きな災害(地震とは限りません)が来ても対処できるように、心の準備や物質的な準備はしておいた方がよろしいと思います。

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修行の基本的な姿勢 | コメント:8 | トラックバック:0 |

性的禁欲は覚醒に必要か?

 
宗教や覚醒の修行をしている私たちにとって、一番気になるのは、覚醒のために禁欲、つまりセックスをしてはならないかどうか、ということだと思います。
 ヨーガでは、禁欲は戒律に入っていますし、キリスト教神秘主義は言うまでもなく、禁欲はもっとも大切なものとされます。ただし、禁欲の目的は、両者によって違いがあります。ヨーガの場合、禁欲は修行に専念するためとか、性的エネルギーを覚醒エネルギーに転換することが目的ですが、キリスト教神秘主義の場合、(少なくても表面上は)性行為は罪であり堕落といった道徳的な理由によるものです。

 こうした教えを見る限り、覚醒修行においてセックスは障害になるのかもしれません。
 ただ、前にも述べましたように、性の問題は多面的で複雑なので、そう簡単に肯定も否定もできない場合があると思うのです。
 たとえば、誰か愛する人とセックスをしたとしましょう。そうして精神的にも肉体的にもすばらしい愛の喜びに満たされたことで、それが純粋な「愛」に火をつける可能性も出てくると思います。すなわち、神に対する愛、すべての人々に対する愛です。そういう愛こそが、覚醒にとってもっとも重要な要素になることは言うまでもありません。
 そうなると、セックスは必ずしも覚醒の障害になるどころか、覚醒を促進させる要素になるとも言えるのではないでしょうか。あくまでも愛を伴っているという条件つきですが、そのようなセックスなら、中途半端に禁欲をするよりも、結果的には覚醒を促してくれる可能性もあるかもしれないわけです。

 また、セックスはしないが、そのために欲求不満になり、頭の中はセックスのことでいっぱいになっていたのでは、瞑想に集中することなどできないでしょう。精神的に不安定になってしまうこともあります。それならば、適度にセックスをして、瞑想に集中できるようになった方が、覚醒に寄与するという考え方もあるかもしれません。

 しかし逆の考え方をしますと、セックスの欲望は非常に強いものなので、それゆえに、性の欲望に耐え、それを支配するように努力するならば、覚醒にとっても、あるいは世俗的な生活にとっても、非常に強い精神力が養われるようになり、そのために覚醒修行がうまくいくという可能性もあるでしょう。
 こう考えてきますと、性の問題は、なかなか一筋縄ではいきません。

 さらにまた、もう少し大きな視野で考えますと、そもそもこの地上が存在している理由は何かという次元から考えてみる必要があるかと思うのですが、おそらくこの地上が存在する目的は、人間がそこでさまざまな経験をして欲望を満たし、あるいは欲望に絶望したり嫌悪を抱くようになって、地上の欲望を断ち切り、卒業していくことにあるのです。
 こうした目的のために、私たちの魂は、この地上に生まれる前に、計画を立てると言われています。ある魂は、お金に対する欲望から解放されるために、大金持ちになる人生を計画するとか、別の魂は性欲から解放されるために恋愛やセックスの経験をたくさんする人生を計画することがあるようなのです。そうして、欲望を味わい尽くすことで欲望に未練がなくなるようにさせているわけです。これが事実なら、気がすむだけセックスをしてみるというのも、長い目で見れば、覚醒に役に立つのかもしれません。

 ただ、こうした試みがうまくいくかというと、それは微妙かもしれません。
 実際にはいくらお金があっても満たされないし、いくらセックスをしても、これでいい、というところまでは、なかなか至らないのではないでしょうか。
 皆さんの中に、お金はもうたくさんだといって財産のほとんどを寄付した人、セックスはもうたくさんだといって完全な禁欲生活に入った人を、どのくらいご存じでしょうか? 世界中を見れば、そういう人もいるかもしれませんが、決して多くはないでしょう。仮に、そういう境地になれたとしても、もうその頃には高齢となり、そのため脳の機能が低下した理由によって、単に欲望中枢が低下したにすぎないのかもしれません。そうなってから覚醒の修行を始めるには、もう遅すぎるのではないかと思うわけです。

 いずれにしろ、セックスに対する欲望は非常に強いものがあり、多少のことくらいでは克服したり消したりすることは難しいと思います。そしておそらく、このことはむかしの修行者もよくわかっていたのでしょう。そのために、セックスをしながら覚醒する方法を考えたり、セックスそのものを覚醒の修行に利用しようということまで考えたりしたようです。これについては、機会をあらためてご紹介したいと思います。

性とスピリチュアリティ | コメント:4 | トラックバック:0 |

推薦図書  『レ・ミゼラブル』第一巻

 推薦図書  『レ・ミゼラブル』第一巻
          ヴィクトル・ユゴー著 角川文庫(他の出版社でも翻訳あり)

 今さら解説するまでもない、フランスの文豪ユゴーの傑作です。人類最高の文化遺産のうち、音楽の分野がベートーベンの第九なら、文学の分野ではこの作品をおいて他にはないでしょう。真実の愛(神の愛)をこれほど見事に描いた作品を、私は知りません。

 貧しさゆえにパンを盗んで19年も投獄されていた主人公のジャン・バルジャン。釈放された彼の心はすさみ、ある田舎町にやってきますが、刑務所にいたという理由で彼を泊めてくれる家はありませんでした。そんな中で唯一、ミリエル司教だけが温かく迎え入れてくれます。ところがジャンは、その恩も忘れて夜中に銀の食器を盗んで逃げてしまいます。しかしすぐに憲兵につかまり、ミリエル司教の家に連れてこられます。するとミリエル司教は彼にこういいました。
「この食器は君にあげたといったじゃないか。それから、これもあげるといったのに、なぜ持っていかなかったんだい?」
 そうして、ミリエル司教はジャンに、銀の燭台まで渡したのです。
 人間不信ですっかりすさんでいたジャンは、この予期せぬ対応に何がなんだかわからなくなり、そのまま解放されて旅に出ます。ところが、長い間彼の心に染みついてしまった悪の傾向はすぐには消えず、少年から小銭を奪い取ってしまったのです。
 しかし、その小銭を盗んだ後、今までになく激しい良心の呵責に襲われ、自分は善人として生きると心のなかでミリエル司教に誓います。
 その後、偽名を使って別の人間になりすまし、事業で成功し、ついには市長となって慈善活動を行い、人々の尊敬を集めます。ところが、少年から小銭を盗んだのはこの市長ではないかと疑いをもったジャベールという名の警部から、執拗に追いかけられることになります。このジャベールという男は、自分にも厳しいが人にも厳しく、法律こそすべてだという冷たい性格で、わずかな罪であろうと法に基づいて厳格に罰して償いをしなければならないという信念に凝り固まった人物として描かれています。
 それからの物語は、まさに人間の苦悩と愛の、波乱に満ちた人生が展開されていくのですが、いかなる試練に遭っても、ジャンは人間として正しい選択をしていくのです。

 非常に長い小説なので、ここでは最初の第一巻だけを取り上げました。
 この第一巻は、ジャンがミリエル司教と出会い、改心する話が中心となります。
 小説では、このミリエル司教のことが実によく描かれているのです。まるで実在するかのようなリアルな存在に感じられます。若い頃は放蕩や女遊びをしていたが、後に謙虚で慈愛に満ちた、高潔ですばらしい聖職者になったことが描かれています。しかも、いわゆる権威主義的な伝統を重んじるわけでもなく、かといって神秘体験に熱中しているわけでもなく、ただただ質素に生き、素朴に人を愛するという、愛すべき人物として描かれており、小説のなかの架空の人物でありながら、私はこのミリエル司教をもっとも尊敬すべき聖人のひとりとして、お手本にしているくらいです。まさに、真の聖職者とはこういう人のことをいうのだと思います。
 このような人物像を描くことができるユゴーという作家は、本当に凄いと思います。
 しかも、ミリエル司教がジャンに銀の燭台を渡すときの会話のやりとりのなかに、私から見ると、驚くような霊的真理が込められているのです。

 司教はかれ(ジャン)に近より、低い声で言った。
「忘れてはいけない、決して忘れてはいけないよ。きみはまっとうな人間になるためにこの銀器を使うと、わたしに約束したことを」
 何も約束などしたおぼえなどないジャン・ヴァルジャンは、あっけにとられていた。司教は力をこめてその言葉を言った。かれは一種の荘重さをもってまた言った。
「ジャン・ヴァルジャン、わたしの兄弟よ、きみはもう悪には縁がない、善の者なのです。きみの魂を、私が償います。わたしはきみの魂を、くらい考えや滅亡の精神から引き抜いて、それを神に捧げるのです」

 確かに、司教とジャンは何も約束などしていませんでした。なのに、司教は「約束した」と言ったのです。私はここに、非常に深い霊的な意味を感じます。司教はジャンの魂と直接にコンタクトしたのです。そのことを、肉体の彼に思い起こさせるために、こう言ったのではないかと思います。決して嘘を言ったわけではないのです。そして、ジャンの魂を司教が償うというのです。このような言動は、もう覚者の言動そのものです。
 このような文章は、相当な霊的な素養がなければ、書くことはできないと思います。ユゴーは本当に凄いと思います。

 それにしても、小説のなかであるとはいえ、ミリエル司教はまさに聖人です。
 一夜の宿を貸してあげるくらいなら、もしかしたら私にもできるかもしれません。しかし、その恩をアダで返すように、家のなかの貴重品を持ち逃げされたら、私だったらカンカンに怒って、再び会ったら、ひっぱたいで「よくも人の善意を裏切るようなことをしたな!」と、罵詈雑言の限りを浴びせかけるでしょう(笑)。
 しかし、ミリエル司教は、そんな小さな人間ではなかったのです。怒らないどころか、「これもあげるといったじゃないか」といって、さらに貴重な銀の燭台まであげたのです。
 人によっては、「何てバカなお人好しだ」と思うかもしれません。しかし、こういうことができるところが、神と一体化して愛そのものとなった聖人だけができることなのだと思います。

 悪の習慣が染みついた人間を救うには、その習慣をうち破るほどの大きなショックが必要です。たいていの場合、それは苦しみというショックを通して為されることが多いのですが、苦しみの他に、人間を変えるほどのショックを与えるもうひとつの要素は、愛であると私は思います。ただし、そんじょそこらの平凡な愛ではダメです。ちょっと親切なくらいの愛ではダメです。信じられないほど大胆な愛が必要となります。それを、ミリエル司教はやったのです。人や世の中を呪い、すさみきった彼を変えるためには、これほどのショックを与える必要があったわけです。
 このような大胆な愛を与えられる人というのは、ただ愛が深いとか優しいだけでは不可能だと思います。それこそ、命を奪われても怖くないというほどの勇気と強さがなければ、絶対にこういうまねはできません。小説のなかでは、ミリエル司教のそうした勇敢さや強さといったものが、さりげなく描かれています。ユゴーはそういったこともよくわかっており、本当に脱帽してしまいます。

 ユゴーの伝記を調べますと、生涯を通してたくさんの女性と熱烈な愛の遍歴を重ねていたようです。「性とスピリチュアリティ」の項目でも言及しましたが、性愛のエネルギーが強い人というのは、神の愛に通じるものをもっているのです。
 私は、覚醒をめざすような人は、大胆に人を愛することができるようでなければならないと思うのです。あれをしてはダメ、これをしてはダメ、こんなことをしたらカルマの法則の罰を受けてしまう……などと、いちいちびくびくするようでは、大胆に人を愛せるような人間にはなれないでしょう。こういう小さな善人では、この汚濁の世界において人を救うことはできません。少しくらい難点があっても、スケールの大きな人間になることを、神は望んでいるのだと私は思います。その方が世の中のためになるからです。
 人間である以上、罪を犯さないで生きることは不可能なのです。また、罪を犯したり失敗をすることによって学ぶようにできているのです。ある程度、罪を犯したり失敗をしなければ、私たちは深く教訓を学ぶことはできません。
 大切なことは、罪を犯したり失敗をしないことではなく、そこから学ぶことではないでしょうか。とくに、愛することを学ぶことがもっとも大切であると思います。極論をいえば、人生の経験のすべては、愛することを学ぶためにあるのだと思います。繰り返しますが、人間は、人生という場所に、罪を犯さないようにするために来たのではありません。反対に、罪を犯したり失敗をすることを通して、愛することを学びに来たのです。それが私の考えです。

 物語の最後の方で、あの冷たい法の番人であるジャベールは、ついにジャンを逮捕するまでにこぎつけるのですが、ジャンの数々の慈善とその気高さ、慈愛を知ったジャベールは、結局ジャンを逮捕せず、彼の前から姿を消してしまいます。そして、「法を破った自分に罰を与えるために」、川に身投げして死んでしてしまうのです。これは象徴的に「法よりも愛の方が大切である」ことを訴えているのではないでしょうか。
 人間という存在は、愛することを学ぶために、罪を犯したり、挫折したり、あらゆる苦難を通り抜けていかなければなりません。おそらくそうした理由から、ユゴーはこの小説に、「レ・ミゼラブル」(悲惨な人々)という題名をつけたのではないかと思うのです。この小説に登場してくる人たちは、いろいろな意味で、みんな悲惨な人たちばかりなのです。しかし、それが人間という存在ではないのでしょうか。

 とにかく、この小説は、真実の愛について、その他、さまざまな大切なことを、私たちに教えてくれます。覚醒をめざす者はこう生きるのだという、お手本となる作品です。一巻だけでもけっこうですので、読まれることをお勧めします。

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カルマの法則と性の罪(コメントに対する返事)

昨日のリョウナンダさんのコメント(性とスピリチュアリティ④)に返事を書いていたら、長くなってしまったのと、重要なテーマも含まれていると思いましたので、このブログでご返事させていただきたいと思います。

 繰り返し述べているように、こういう問題は数学とは違い、どれが事実かそうでないかを簡単に決めることはできないと思います。だから、私はいろいろな考え方があるのを認めますし、私もひとつの意見を述べたにすぎません。私の意見は正しいから従えというつもりはありません。

 ただ、リョウナンダさんの意見は、仏教その他の教えを土台に「こうだ」と決めつけている感じがあるように思います(そういう意図がないのだとしたら、すみません)。神の法といいますが、いったい誰がその神の法を説き、どういう理由でその神の法を正しいとしているのでしょうか? 安易に神の法を持ち出してそれが正しいと決めつけて論じることは、少し危険ではないかと私は思います。そういうことをすると、一部のキリスト教のように「同性愛者は罪深いので死後永遠に地獄に落ちて苦しむ」と主張し、同性愛の人たちに恐怖を与え脅かすようになってしまいます。リョウナンダさんの主張によれば、不倫をすると、来世 来来世とまた苦しみの人生を送らなければならないそうですが、しっかりとした根拠なくそうした言葉を述べるのは、もしその根拠が間違っていた場合、不倫をした人を恐怖させるという、悪いカルマを積むことになるかもしれません。
 また、ひとことで不倫といっても、その内容はさまざまです。その内容を検討することなく、すべて一緒に考えてしまうのは、少し乱暴のような気もいたします。
 たとえば裁判官は、犯罪者とその犯罪内容を慎重に検討し、ときには情状酌量して大幅に刑を軽くしたり、無罪にすることもあります。表面的なことだけを見て、すべて同じ罰を与えるようなことはしません。

 いずれにしろ、あきらかな事実かどうかわからない場合は、それを土台に人に恐怖を与えたり裁くようなことを断定的な調子で語るべきではない、というのが、私の考えです。

 また、私はカルマの法則も単純なものではないと思うのです。すなわち、もし不倫が社会的に認められる場合は、カルマの罪にならないのかと。 麻薬は悪いことですが、医療では鎮痛剤として認められています。それとも、社会的な決まりとは関係なく、不倫も麻薬もカルマの罪になるのでしょうか? だとすると、癌で苦しむ患者がいて、癌で苦しむのは前世のカルマだから耐えなければならない。麻薬をうつのは罪だからそんなことをしてはいけない、蒔いた種は刈り取らなければならないから苦しんで死になさい、ということになると思うのですが、いかがでしょう。もし社会で認められればカルマの罪にならないというのなら、極論ですが、殺人をしてもゆるされる社会になったら、殺人をしてもカルマの罪にはならないのでしょうか?
 こう考えると、カルマの法則といっても、実際にはあいまいで不備なところがあり、あちこちほころびが生じてくることがわかるのです。

 また、すべてをカルマの法則だけで片づけようとすると、人間はカルマの法則の流れにただ従うだけの存在であり、それを変えていくという、宿命を越えた可能性を否定してしまうような気がします。
 しかし、「転生の秘密」には、過去生で魔女を罰していたとする裁判官の生まれ変わりの男の子が夜尿症で悩んでいたが、母親の暗示で治ったと書いてあります。これが事実なら、まいた種は必ず刈り取らなければならないわけではないことがわかります。

 主婦の人が不倫はしないが、そのために鬱病になり自殺して、子供や家族に迷惑をかけてしまうかもしれません。それでも、不倫はダメだと杓子定規に教えを当てはめて裁くことが、果たしていいことなのでしょうか? そこに人間に対する愛があるでしょうか? まずは愛の気持ちをもって苦悩する人に接していくべきで、最初から理屈をもって裁いては人は救われないように、私は思います。

 不倫はするが、そのために元気になり、世の中に善い行為をしていくようになるという可能性もあります。いったいどちらがいいのでしょうか?
 もちろん、「不倫はしない、鬱病にもならない、たとえなっても自殺はしない、そして善いことをする」というのが理想でしょう。しかし、それができるくらいなら、人間はこうも苦しみのなかにはいないでしょう。年間3万人もの人が自殺などしていないでしょう。カルマの法則によれば、自殺は悪ということになるかと思いますが、そのことを知れば自殺者はいなくなるでしょうか?
人生というものは、そんなことは百も承知でありながら、理屈では解決できない、どうしようもない苦悩や状況にあって自殺するしかない、という人もいるのではないでしょうか?
 ある特定の教えを単純に当てはめただけでは解決できないような、複雑な問題を抱えているのが人間であり、人生であり、世の中というものではないでしょうか。
 だから、宗教家にしても、カウンセラーにしても、そういう苦悩にある生身の人間を前にして、どうしたらいいかと一緒に苦しみ悩むのです。ベストな道が無理ならベターな道を模索し、副作用はあるが全体として改善に向かうと判断したら、副作用があるからダメだと単純に捨てたりせず、副作用を覚悟で薬を投与することもあるわけです。

 単純な教えで物事が解決するようであれば、世の中に宗教家もカウンセラーも必要はないのではないでしょうか? 警察も裁判官も必要はないのではないでしょうか?
 人間というものは、教義や戒律や法律で救われるのではなく、当意即妙の智恵と深い愛による人間の「手作り」の導きによって救われるというのが、私の考えです。

性とスピリチュアリティ | コメント:33 | トラックバック:0 |

 性とスピリチュアリティ ④

 すでに繰り返し述べているように、性の問題は単純にあるべき方向を決めることはできません。その理由は、性は性の問題だけでなく、感情や霊性をも巻き込んでいるからです。
 たとえば、不倫をしている30代後半の主婦の悩みを聞いたことがあります。一般的には不倫をしているというだけで、世間からは悪者扱いされるでしょうし、離婚ということになり訴訟が起これば、法律的には不利な立場になるでしょう。
 しかし、その主婦の話を聞きますと、夫がDV(家庭内暴力)で、自分の気に入らないことがあると、すぐに主婦の顔を殴るというのです。そしてセックスも、自分の欲望を解消するために一方的に乱暴に行うだけで、愛情も何も感じられないというのです。そんなとき、たまたま彼女に優しく接してくれる男性に出会いました。そうして深い関係になったのですが、果たしてこの主婦を単純に不倫をしているということで悪者扱いし、責められるでしょうか?

 問題は、この女性は愛情に飢えていたということであり、性の欲望を野放しにして他の男をあさっていたわけではないということです(だとすれば責められて当然だと思いますが)。夫から暴力を受け、愛情もなくすさんで空しい気持ちに苦しんでいたとき、自分に優しくしてくれる男性に出会ったら、その男性から愛されたいと思わない女性はいるでしょうか? それでもなお、不倫はいけないといって責めるとしたら、それは愛なしで生きなさいということではないでしょうか。人は愛なしで人間らしく生きられるでしょうか?
 主婦はセックスがしたかったというより、愛情が欲しかっただけなのです。セックスはその愛情を感じるための手段にすぎなかったわけです。

 あるいは、夫との関係を良好にして仲良くしなさいとアドバイスするでしょうか?
 そのようなアドバイスを簡単にいう人は、人間の心というものがわかっていないのです。さんざん自分の顔を殴ってきた男性と、再び仲良くして愛情に満ちたセックスができるでしょうか? また、常習的に暴力を振るう男というものが、そんなに簡単に改心するでしょうか? 常習的に暴力を振るうのは、ひとつの精神的な病気なのです。専門家の治療を受けても改善されることは容易なことではありません。まして、ちょっとくらい夫婦で話し合っても、どうにかなる問題ではないのです。仮に暴力が収まるとしても、よぼよぼの老人になってからでしょう。それまでこの女性はじっと耐え続けなければならないのでしょうか?
 あるいはまた、離婚してしまえばいいと思われるかもしれません。しかし、さまざまな事情で簡単に離婚というわけにもいかないのが現実です。もし母子家庭にでもなって収入がなくなれば、子供を学校にもやれなくなってしまうかもしれません。子供のために、離婚したくてもじっと我慢している人が多いわけです。
 このような、暴力の屈辱と恐怖に耐え、愛情の飢餓に耐え続けられる人が、どれだけいるでしょうか? そんな生き方をしていたら、精神を病んでしまうか、ガンにでもなって倒れてしまうのではないでしょうか。そんな苦しみからいっときでも逃れたいと思って不倫をしている女性を、いったい誰が責めることができるでしょうか?

 心理カウンセラーとして、心身にさまざまな苦悩を抱えた人の相談に乗ってきた結果としていえることは、ほとんどの人が、究極的には愛の不足によって心身が病んでいるということです。心の病であれ、肉体の病であれ、若干の遺伝的な要素を除けば、もうほとんど愛の欠乏によって生じるといってもいいくらいです。
 そして人間というものは、肌の触れ合いを通して愛を実感するようにできているのです。言葉でも愛を実感することはできますが、スキンシップほど深い層には到達しません。その点、スキンシップはダイレクトに無意識のレベルから愛されている感覚を得ることができます。赤ちゃんなどはスキンシップを通して親の愛情を確認するのです。大人もそう変わりはありません。大人のスキンシップといえば、セックスのことですから、やや極論となりますが、心身が病んでいる人は、(愛情を感じる真の)セックスをしていないことが原因だといってもいいかもしれません。実際、恋人ができて鬱病や神経症などが治ってしまった人も少なからず見てきました。

 いいことか、よくないことかは別として、友達として親愛の情が湧いたら、独身であろうと既婚であろうと、また年齢などにもいっさいこだわらず、気楽にセックスをして愛情を交換することが普通のこととして認められるような社会であったら、おそらく今日ほど心身の病で苦しむ人や、自殺をする人はいなくなるような気がします。
 そんな社会ではふしだらな性が蔓延すると心配する人がいるかもしれませんが、おそらくそうはならないと思います。ふしだらな性とは、相手を自分の快楽を得るための道具として利用することです。愛情表現のために行うセックスは何もふしだらではありません。
 むしろ、女性をモノ扱いするアダルト・ビデオのようなものが氾濫している方がずっと害悪です。ああした不健全なアダルト・ビデオが氾濫するのは、愛情あるセックスが持てないため、アブノーマルなことをして刺激を強くしなければ、満たされない空虚感ができあがってしまっているからです。愛情あるセックスさえ行っていれば、あのようなものが世の中にあふれ出ることは、たぶんないでしょう。

 また、年齢にこだわる必要もありません。七十歳、八十歳になっても、セックスをすればいいのです。セックスというのは必ずしも性交を伴う必要はないわけで、裸で抱き合うだけでもいいのです。老人ホームなどで、よく老人が女性ヘルパーさんのお尻や胸などを触ったりすることがありますが、これなども、認知症の問題だけでなく、スキンシップを通して愛情が欲しいだけなのです。
 ただ、年齢にこだわる必要がないといっても、未成年者がやたらにセックスをするのはよくないと思います。まして、児童ポルノなどはとんでもない犯罪行為であり、絶対にゆるすわけにはいきません。未成年者がやたらにセックスをするのがなぜいけないかというと、セックスは愛情表現であるという意味がまだよく理解できないからです。その状態でセックスをしますと、セックスの快楽だけにのめり込んでしまう危険があるからです。ちょうど、サルの子供にマスターベーションを教えると、体力が消耗するまで繰り返してしまうのと似たようなことが生じる危険があるわけです。未成年者に性教育をするときには、同時に真の愛とは何かということも教えていかなければなりません。真の愛とは何かを学んでから、セックスをするように導いてあげるべきです。もっとも、このことは真の愛についてまったくわかっていない大人の人に対してもいえることではありますが。

 いずれにしろ、人間は愛がなければ生きていけず、その愛をもっとも深く実感できる手段が、地上においてはセックスなのです。ですから、セックスなしで生きることは、たいていの人にとっては辛い試練ともなり得るわけです。自分は愛されないのだという孤独感や空虚感を背負う可能性があるからです。もっとも、そのような試練は、覚醒にとって必要だから訪れたのかもしれませんが。
 覚醒修行により、内的な境地が高まれば、セックスの欲求の源流である高い次元の存在との交流が可能になりますから、肉体的なセックスへの欲求はなくなるかもしれませんが、それまでの間は、セックスがしたいと思うことは当然なことだと思いますし、その気持ちを無理に抑圧してはならないと思うのです。なぜなら、セックスがしたいという気持ちは、愛を求める気持ちを根源としており、愛を求める気持ちは、究極的には神を求める気持ちにつながっているからです。

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 覚醒修行と清貧について

 宗教的な修行者のほとんどは、いわゆる清貧を勧めています。たとえばアッシジの聖フランチェスコなどは清貧の聖者としてよく知られており、もともと裕福な家柄出身だったようですが、すべての財産を寄付して、完全に無所有となりました。日本の禅僧などもホームレス同然の人たちがたくさんいます。また、マザーテレサの修道院なども清貧を重んじました。アメリカで活動するマザーテレサの修道院の支部は、もともと部屋に置かれていたソファーやふかふかの絨毯などいっさい売り払ってしまい、わざと質素なものにしました。
 このように、覚醒を得るためには、清貧の生活をしなければならないのでしょうか?
 確かに、贅沢な暮らしをしていたら、物質的な欲望ばかり煽られてしまい、覚醒修行に身を入れることは難しいのではないかと思います。おいしい物を食べ歩くとか、流行のクルマを次から次へと買い換えるとかしていたら、瞑想などをしていても、「今度は何を食べにいこうかな」とか「今度はどんなクルマを買おうかな」などといったことばかり考えてしまい、瞑想に集中できなくなるのではないかと思います。その意味では、清貧ということは大切なのかもしれません。

 しかしながら、だからといって、衣食住にも支障をきたすほど、ぎりぎりの貧しさにまで身を置く必然性は、あるのでしょうか? たとえば、食事は一日に一度か二度、それもお米とみそ汁と漬け物くらいだとか、着るものもほんの数着程度しか持っていないとか、住む場所も雨漏りがするような古くて狭いおんぼろアパートといった感じでなければ、覚醒はできないのでしょうか?

 インドなど、もともと精神的な事柄を重んじる国に行くと、どうも清貧であることが、ある種のステータスシンボルとなっているようなところがあります。つまり、インドの人々は「清貧の聖者は偉い」という価値観があるため、聖者として尊敬されるために、あえて貧しい生活をしている「聖者」が多くいるようなのです。
 しかしこれは、みかけは霊的に見えても、実際にはひとつの物欲が姿を変えただけにすぎません。清貧を名声欲のため利用しているだけなのです。
 ここまででなくても、精神的な道を歩む人は、自分が清く貧しいことに、秘かなプライドを持っている人がいるように思います。「私は清貧に生きている。それだけ私は立派なのだ」という思いが潜んでいる可能性があるわけです。これも考えれば、きわめて世俗的な考え方であり、真の意味で霊的であるとはいえません。
 要するに、清貧というものが、覚醒の妨げになっている自我(エゴ)を増強させているわけです。これでは本末転倒ということになります。

 ただし、マザーテレサの団体だとか、聖フランチェスコのような清貧さは、評価してもいいと思います。なぜなら、清貧の大切さを訴える人も世の中には必要だと思うからです。
 しかし、単なる自己満足のための清貧は、意味がありません。そのような人々は、なんだかんだいっても、結局はお金持ちからの援助や、一生懸命働いて生活している一般庶民の寄付に頼って生きているわけです。その点からいえば、決して清貧であることを誇れるような身ではないのです。
 もし、すべての人が清貧に生きたら、いったいどうなるでしょうか?
 経済活動が成り立たなくなりますから、仕事を失って生活に困る人が出てきます。そして、税金や寄付に頼っている社会的な弱者が犠牲になります。心身に支障があって働けない人やお年寄りなどは、生きていけません。
 したがって、あくまでもこの社会で生活しながら覚醒をめざしている私たちが清貧に生きることは、社会に迷惑をかけることになるのです。勧められるどころか、むしろ避けるべきではないかと思うのです。たとえ贅沢品であろうとも、それを避ける必要はないと思います。たとえば高級車のようなものですが、高級車を製造して生計を立てている人もいるわけです。このように、あらゆる人と支え合いながら社会は成り立っており、その社会のおかげで私たちは生きることができ、覚醒の修行もできるわけですから、その社会に対して恩を仇で返すようなことは、するべきではないと思うのです。
 ですから、清貧などにこだわらず、お金はどんどんと使うべきだと私は思っています。

 ただし、私たちがめざしているものは、あくまでも覚醒ですから、当然、覚醒の妨げになるような経済活動はすべきではありません。それが何であるかは個人によって異なりますから、一概にはいえないでしょう。たとえば、常識的に考えて毎日お酒ばかり飲み歩いたり、何時間もパチンコ屋で過ごしているのでは、修行をする時間などできないでしょう。そういう場合はほどほどにするべきだと思います。しかし、たまに気晴らしで楽しむのは問題ないと思いますし、そうやってお金を循環させることも大切だと思います。

 宗教の世界でしばしば起こることなのですが、目的と手段を混同してしまうことがあるのです。すなわち、清貧のための清貧なのか、覚醒のための清貧なのか、ということです。清貧のための清貧には何の意味もありません。覚醒のために清貧が必要ならそうすべきですが、必要でないなら、清貧に生きる必要はないわけです。むしろ、ある程度お金を使った方が、世のため人のためになり、善のカルマを積むことになりますから、その方が覚醒にとって効果的であるかもしれません。

 マザーテレサの団体は別として、私たちにとって、居間にソファーがあることが、ふかふかの絨毯があることが、覚醒の妨げになるでしょうか? その程度で覚醒が妨げられるほど軟弱であれば、もともと覚醒など無理のような気がします。貧しさを受け入れることもできるし、御殿に住んで黄金の浴槽につかることも平気でできるようになるべきだと思うわけです。ただし、あくまでも気持ち的には、です。もし黄金の浴槽を持っていたら、そんなものは売って、そのお金を困った人たちのために役立てるべきです。
「私は覚者だから、いくらお金やモノがあっても何の執着もない」といいながら、莫大な財産を所有し贅沢な暮らしをしていた「聖者」がいましたが、それは詭弁にすぎないと思います。人間は品性というものを失ってはいけません。世の中には食べる物もなくて死んでいく人がたくさんいるなかで、たとえ百歩ゆずって本当に物欲を超えていたとしても、持てる財産を困っている人に分け与えるのが、人としての品性であり、神の心にかなった生き方であると思うのです。飢えて死んでいく人たちが、自分の家族だったらどうでしょうか? 自分だけ贅沢して悦に入っていられるでしょうか? それとまったく同じことではないでしょうか。

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 性とスピリチュアリティ③

 前回の「性とスピリチュアリティ②」において、超意識と交流した人が、性に関して次のような啓示を得たことを紹介しました。
「超意識からの返事がかえってきました。それによれば、性愛は道徳心や人を助ける心、慈悲の心を培うものであり、人を結び付けて霊的な成長を助けるものであるというのです」
 この言葉が正しければ、性を否定したり抑圧することは、道徳心や人を助ける心、慈悲の心を否定し、霊的な成長を疎外してしまうということになります。
 実際、これは本当ではないかと思うのです。
 占い師だとか心理カウンセラーのようなことをやってきて、これまで恋愛や結婚の相談、セックスの相談、不倫の相談などたくさん受けてきました。そうした経験からいえることなのですが、がいして性的な欲求が強い人は、人間的な魅力が豊かであるということです。その理由はやはり、性の欲求というものが、根源的には生命エネルギーから来ていることと関係しているのかもしれません。
 不倫に関しても、単に自分の性的欲求を満たすために、配偶者だけでは満足せず、相手をモノ扱いして性の快楽をむさぼるようなものは醜悪としかいえませんが、たまたま好きになった人が既婚者だったとか、あるいは結婚していても他の異性が好きになってしまったといった場合の不倫については、そうした相談者を見てみると、意外にも人間として良識があり、礼儀正しく、また思いやりが深いことが多いのです。「不倫なんてする人は、ふしだらで悪い人間だ」といったイメージがあるかもしれませんが(最初にあげた醜悪な場合は別として)、私の知る限りでは、優しくて、思いやりがあるのです。とくに弱者に対して献身的であったり、よく世話などをしたりします。社会的な尊敬を受けているような人も少なくありません。これなどは、冒頭の超意識のメッセージの正しさを裏付けるものなのかもしれません。
 一方、「不倫なんてけしからん、セックスは恥ずべきものだ」といったような主張をする人にも会ってきましたが、そういう人の方がむしろ、良識がなかったり、礼儀を知らなかったり、また思いやりに欠けていることが多いように思われます

 もちろん、これは私の限定的な経験から得た結果であり、おおまかな傾向にすぎず、不倫をしている人がすべて善い人だとか、していない人が思いやりがないといっているわけでは決してありません。まして不倫を称賛しているわけではありませんが、経験的な事実として、こうした傾向が見られることは確かなのです。
 私の個人的な価値観でいえば、不倫はしないが冷たい人より、不倫はしても思いやりのある人の方が、天国に近いような気がします。もちろん、不倫はせず、なおかつ思いやりがあるというのがベストなのでしょうが、恋愛感情というものは理屈を超えているものですから、すべての人が聖人君子のようなわけにはいきません。むしろ、不倫になるからと簡単にその恋を諦めることができるようなら、それは最初から恋と呼べるようなものではなかったのではないでしょうか。

 浄土真宗の開祖である親鸞は、当時としては異例の妻帯者であり、しかもその上、妻以外の複数の女性とも性的な関係があったようです。そうした欲情を捨てられない自分について、親鸞はずいぶん苦悩したようですが、あるとき、夢のなかに女性の仏だったか菩薩が現れて「私があなたの(セックスの)相手をしましょう」と告げたそうです。そのとき以来、親鸞は何かふっきれたものがあったとされていますが、親鸞の持つ温かい人間愛といったものは、こうした性の欲求と苦悩を通して練り上げられたものではないかという気がいたします。
 一方、一休さんなども、正々堂々と「わしは女が大好きじゃ」といって、盲目の女性を愛しました。そんな“女好き”の一休さんは、常に弱者の味方であり、正義感と思いやりの強い魅力的な僧でした。
 以上のように考えてきますと、性は汚らわしく罪だとして、それを否定したり抑圧することは、間違っているように思います。もちろんだからといって、性の欲望を暴走させてしまってもいけないでしょう。
 では、覚醒を歩む私たちは、性の問題について、どのように向き合っていけばいいのでしょうか?

 性とスピリチュアリティ①でも申し上げたように、問題はそこに愛があるかどうかだと思うのです。愛があるセックスを行い、セックスが愛の表現手段であるならば、それはまさに魂の融合の相似形であり、決して堕落させるものになるとは思えません(ただし男性の場合、精液の消費は生命エネルギーを消費させることにつながるようなので、この点は注意した方がいいようです。この問題についてはあらためて触れたいと思います)。堕落するどころか、霊的な成長を促進させてくれるのではないかとも思います。
 クリシュナムルティ(インドの思想家)は、「愛があれば、何をやってもゆるされる」といいました。あらゆることに懐疑的で、理知的な彼の口からこういう言葉が出てくるのは意外に思われるのですが、そうなのかもしれません。

 愛は所有欲ではありません。不倫や浮気が社会的に責められる原因は、ひとつにはそういうことをすると社会的な混乱を招くからですが、心理的には所有欲から来ているように思われます。嫉妬や妬みというのは、所有欲の産物です。カウンセラーをしていてひとつ気づいたことは、所有欲や嫉妬の強い人は、夫婦関係もうまくいっていないことが多いということです。たとえば、何年も前の夫の浮気を、いまだにゆるせず事あるごとに責める妻がいたりするわけです。そういう夫婦は冷たく、家庭も冷たくなるので、子供が病んでいたりします。一方、お互いに「ちょっとくらい浮気したっていいんじゃない」くらいに思っている夫婦の方が、かえって仲良くうまくいっていることが多かったりするのです。
 もちろん、これも私の限定的な経験から得たもので、普遍的な事実とまでいえるかどうかはわかりませんが、ただいえることは、嫉妬と愛は決して同居しないということです。

 とはいえ、だからといって、むかしアメリカで流行ったような、「フリーセックス」運動だとか、セックスはスピリチュアルなものだから信者同士は自由にセックスをしてもいいといった宗教団体があるようですが、そういったものは好ましいとは思いません。そこまで野放しにすると、あり地獄のように、性の欲望に引きずり込まれてしまう危険があります。スピリチュアルという免罪符によって自分をごまかし、肉欲に溺れてしまいかねません。極端はよくありません。性を否定しても、性にのめり込んでもいけないと思うのです。

 人生というものは、どのようなものが霊的成長の学びになるかわかりません。恋愛もセックスも、相手の存在を魂の深みから愛する気持ちで臨むならば、霊的成長のために役立ち、天の配慮も手伝って、そういう機会が訪れるのではないかと思うのです。そうしたら、その運命をありがたく素直に受け取ってセックスをすればいいし、そういう相手と縁が訪れなければ、それはその方が霊的成長にとってふさわしいのだと思って、たとえ寂しくても、同じように素直に受け入れていくことが大切ではないかと思うのです。


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修行は辛く厳しいものか?

「修行」という言葉からは、辛くて禁欲的で厳しいといったイメージが浮かんでくるかと思います。確かに、宗教の世界で修行というと、何時間も座禅をしたり、真冬に水をかぶったり、断食などをしたりします。それは実際、辛いのではないかと思います。
 しかし、だからといって、「修行は辛い気持ちで行うべきもの」「辛くなければ修行ではない」といった考えは、正しくないと思います。むしろ、修行というものは、楽しんでやるくらいの気持ちが大切ではないかと思うのです。
 たとえば、ゴルフが好きな人は、ゴルフの練習は辛いとは思っていないはずです。それは楽しい娯楽であり、まして修行などとは思っていないでしょう。ちょっとした時間があれば傘などを振り回してスイングの練習をしていたりします。しかし、ゴルフなど好きではないのに、ゴルフを上達するために練習しなければならないとしたら、きっとそれは辛いと思います。それこそ「修行」だと感じるかもしれません。
 結局、何をするにしても、その気持ちしだいで娯楽にもなれば、(辛い)修行にもなるのだと思います。ですから、修行をするにしても、修行に楽しさを見つけるようにすれば、それほど辛くはならないのではないかと思うわけです。

 しかしながら、いくらゴルフが好きだとしても、プロとなると、話は別です。ゴルフに限らず、たとえばピアノが好きだとしても、プロのピアニストとなると、なかにはピアノなんて見たくもないという人もいるようです。いくら好きなことでも、ずっとやっていたら飽きてきます。娯楽でやっている人は、飽きたら止めればいいのですが、仕事でやっている人はそうはいきません。気分が乗っても乗らなくても、楽しくても楽しくなくても、やらなければならないのです。それは実に辛いのではないかと思います。
 覚醒の修行も同じです。飽きたからといって止めることはできません。気分が乗っても乗らなくても、楽しくても楽しくなくても、やり続けなければならないのです。そうなると、やはり修行というものは、辛いということになるのかもしれません。

 ところで、熱愛する男女が、いわゆる遠距離恋愛をしていたとしましょう。たとえば一ヶ月に一度とか二度ほど、新幹線に乗って相手のもとに会いにいくわけです。ところが、何らかの事情で交通手段が麻痺してしまったとします。恋人のもとに、歩いていかなければならなくなりました。そうして、恋人に会いに行くために、それこそ何日も歩き続ける人は、そのことを辛いと思うでしょうか?
 確かに、肉体的には辛いと思うかもしれませんが、精神的にはそうは思わないでしょう。一歩踏み出すごとに、あのすばらしい恋人に近づいているのですから、気持ちは喜びに満ちているでしょう。恋人に会ったときのことを思いながら、ワクワクする気持ちで、どんなに遠くても、どんなに日数がかかろうとも、ひたすら歩き続けていくに違いありません。それが恋に焦がれた者の情熱というものです(それができないようなら、それは恋ではなかったのです)。
 覚醒の修行も同じではないでしょうか。
 すなわち、私たちは神という最愛の恋人に会うために、一歩一歩、修行という歩みを進めているのです。人間の恋人に会って抱擁を交わすことも、いてもたってもいられないほど至福の喜びを与えてくれますが、神という恋人との抱擁は、おそらくその何百倍も何千倍もすばらしい甘美な喜びなのです。歩み続ける限り必ず会えるのだとしたら、すべての人は、どんなに遠くて、どんなに時間がかかっても、歩き続けていくに違いありません。
 修行が辛くて萎えてしまうのは、単純に意志が弱いとか、根性が足りないからではないのです。神という恋人がどれほど美しく、どれほど優しく、どれほど魅力的で、どれほどあなたのことを愛しているか、ただ、そのことがわからないだけなのです。そんな恋人と抱き合い、愛を交わし合う喜びが、どれほど幸せなものであるか、そのことに気づいていないだけなのです。

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 『死んで私が体験したこと』

 推薦図書
 『死んで私が体験したこと』
 -主の光に抱かれた至福の四時間- ベティー・イーディー著 鈴木秀子訳
同朋舎出版 1995年

 この本は、いわゆる臨死体験の本です。臨死体験の本はたくさんありますが、私はこれがもっとも好きです。多少、疑問を抱くところもありますが(たとえば輪廻転生は存在せず生まれ変わりの記憶とは細胞に刻まれた先祖の記憶としている点など)、人生の深い真理が随所に込められており、読んでいて思わず感動します。
 内容的には、普通の主婦が手術中に仮死状態となり、霊界に行ってさまざまな光景を目撃し、霊界の存在からさまざまな教えを受けて再び地上に(肉体に)戻ってきた話です。
 著者はクリスチャンということもあり、イエス・キリストと出会った体験など、全体的にキリスト教的な色合いがありますが、ここで興味深いのは、著者が今までキリスト教会から教えられてきた(信じ込まされてきた)ことと、かなり違う体験をしたことです。
 すなわち、キリスト教会の教義では、人は悪いことをすると最後の審判のときに地獄に墜ちて永遠に苦しむとか、神は愛でもあるが人間に罰を与える怖ろしい存在でもあるといったように教えられてきたのが、霊界で学んだ内容によれば、地獄に落ちて永遠に苦しむことはなく、神は人間に罰を与えたりせず、絶対的に無条件の愛であるというのです。
 つまり、著者の臨死体験の内容が、記憶によって作り出した幻影ではないことを物語っていると考えられるわけです。
 また、私が個人的に興味を惹かれたのは、イエス・キリストに遭遇したときの様子で、かなり具体的に書かれています。イエスがどんな人物であったかについては、聖書だけからでは把握できません。一般的には、痩せて青白い顔をして、くそまじめな堅物といったイメージがあるかと思いますが、聖書以外のスピリチュアルな本などでは、イエスはたくましく精悍な男であり、ユーモアのセンスもある柔軟な考え方の持ち主で、何よりもその愛は絶対的無条件ともいうべきものだと描かれています。私も、たぶんイエスはそういう方ではないかと思っているのですが、この本には、まさにそうしたイエスが登場するのです。この著者が、そういうスピリチュアルな本を読んだことがあり、その記憶が反映された可能性もないとはいえませんが、しかしキリスト教会の教えを信じていたというのですから、たぶん、その種の本は読んだことはないのではないかと思います。だとすると、この本で描かれているイエスは、まさに本物ではないかと思われ、その意味でも、イエスがどのような方だったのかについて知ることができる、貴重な情報を与えてくれるものともいえそうです。
 さらに本書では、人生をどのように生きるべきなのか、苦しみが訪れる目的は何なのか、世の中に宗教がたくさん存在するのはなぜなのか、祈りは霊界ではどのような力を及ぼしているのかなど、私たちが抱くような疑問に対する回答がたくさん書かれてあり、生きる指針としても得るものが多い内容になっています。そのことはもちろん、覚醒に役立つ内容であるということです。
 ひとことでいうと、「真実の愛とは何か」、「人生はいかに生きるべきか」ということを教えてくれる本です。
 出版がむかしなので、古本でしか入手できないかもしれませんが、興味のある方は、ぜひ読んでみて下さい。

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