心の治癒と魂の覚醒

        

 愛と執着


 覚醒(解脱)を求めて生きていると、人生というものは、その目的を達成させるような流れとなり、そのための「課題(修行)」が与えられるようになると、私は考えています。それは、さまざまな出来事や出会いといった運命的な現象という形で与えられます。
 その課題は神から与えられるのか、あるいは純粋に宇宙の摂理として与えられるのか、そのへんはわかりませんし、どうでもいいことだと思います。どちらでも、自分の好きなように解釈すればいいと思います。
 問題は、その課題をどのようにしてクリアするかです。
 ポイントは、2つあるのではないかと思います。ひとつは、その課題を愛することです。もうひとつは、その課題の執着を捨てることです。なぜなら、覚醒という意識の変容は、愛することと、執着を捨てることの二つが必要だと思うからです。

 一見すると、愛することと、執着を捨てることは、矛盾した正反対のような感じがします。もちろん、愛と執着は違うのでしょうが、私たちはどうしても、愛するものには執着してしまいます。また、執着を捨てようとすると、そのものに対する愛も失われてしまうような感じがします。
 しかし、それではいけないのです。覚醒というものは、この「愛すること」と「執着を捨てること」の、微妙な中間点、微妙なバランス感覚をつかむところにあるような気がするのです。キリスト教は愛することを強調し、仏教は執着しないことを強調したように思われますが、この二つを両立させることが大切なのです。
 ひらたくいえば、「執着なき愛」を実践するということでしょう。

 たとえば、覚醒を求めていて、好きな人ができて結婚したとしましょう。おそらく、そのような出会いが訪れて結婚することになったのも、それが何らかの形で覚醒するために貢献するからでしょう。
 しかし、ただ漠然と結婚生活をしているだけでは、修行にはなりません。課題とはならないわけです。そこで求められるのは、配偶者を愛することです。しかし同時に、配偶者への執着を捨てなければならないのです。
 愛することは何となくわかりますが、執着を捨てるというのは、具体的にはどのようなことなのでしょうか?
 いろいろ考えられると思いますが、まず何よりも「所有欲を捨てる」ということではないでしょうか。配偶者は自分の所有物ではないということです。配偶者と言えども、しょせんは他人です。だからといって、他人行儀になれという意味ではありませんが、配偶者は配偶者の独立した人格があり、魂があるわけです。たまたま縁があって配偶者になっただけです。
 子供ができたら、その子供を愛すると同時に、子供への執着を捨てていかなければならないのです。言い方を変えれば、子供があなたのもとにやってきたのは、ひとつは愛させるためであり、ひとつは、執着を捨てさせるためなのです。
 お金もそうです。お金が入ってきたのは、お金を愛するためであり、同時に、お金に対する執着を捨てるためです。

 苦しみも同じです。苦しみが訪れたのは、苦しみを愛するためであり、苦しみの執着を捨てるためです。
 苦しみを愛するというのは、苦しみを悪いもの、忌み嫌うべきものと考えず、覚醒のためにやってきてくれたのだと感謝し、そこからいろいろなことを学んでいこうという姿勢で臨むことです。
 苦しみの執着を捨てるというのは、いたずらに苦悩しないことです。世の中には、ささいなことを見つけてきては、いつも悩んでいる人がいます。まるで苦悩することが好きではないのかと思われたりもします。こういう人は、苦しみに執着しているのです。苦しみや悩みを手放し、捨てるようにするのです。悩んでも仕方がないことは、悩まないようにするのです。

 縁あるあらゆるものを愛し、同時に、あらゆるものへの執着を断ち切っていく、これが覚醒の修行ではないかと思います。実に難しく険しい道です。愛することも難しければ、執着を断ち切ることも、何と難しいことでしょうか。しかし、それをやっていかなければならないのです。いつか、すべての人が、この道を歩んでいくことになるのです。
 この地上人生は、いってみれば旅のようなものです。私たちは旅人なのです。ちょっとの間、滞在しているだけです。ここで手にするものはすべて「レンタル」です。一時的に借りているだけです。自分のものは何もありません。財産も、家族も、自分の肉体さえも。死ぬときは、すべてを返却してここから去っていかなければならないのです。
 だから、この世のどんなものにも執着してはならないのです。
 しかし、その旅路において愛する経験をしたならば、その想い出と実績だけは、決して消滅することのない「おみやげ」として、地上から持って帰ることができます。私たちに「所有財産」と呼べるようなものがあるとしたら、ただそれだけです。それだけで、十分なのです。

 
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 人生の目的をはっきりと自覚する ②

 前回申し上げたように、地上に生まれてきた目的は、成長するためであり、快感を得るためではないと、私は思っています。そしておそらく私たちの魂は、そのことをよくわかっているのです。わかっていて、この地上にやってきたはずです。
 ですから、この人生で価値あることというのは、やや極論となりますが、自分を成長させることだけです。その他のことは、どうだっていいのです。人生の価値は、どれだけ成長できるか、どれだけ成長の機会に恵まれているかによって決まるのです。
 したがって、生まれてから死ぬまで、それこそ苦労ばっかりの人生であったとしても、それですばらしく成長したとしたら、それは人生の勝利者だと思うのです。快感を得ることが目的だとしている(誤解している)この世の中の基準からしますと、そういう人生には価値がなく不運だとされてしまうかもしれませんが、霊的な真実からすれば、そういう人生こそがもっとも「幸運」であり、大成功だったということになると思います。それは辛い人生かもしれませんが、辛いイコール不幸とは限りません。人生の意味と幸福は、どれだけ成長したかによって決められるのです。
 確かに、一生を苦労なく穏やかに過ごすという経験も、宇宙的な長い視野から見れば、進化のために必要だったのかもしれません。その魂が持っている計画や意図を、第三者が軽々しく評価することはできないでしょう。
 ただ、あくまでも一般論からいいますと、何の苦労も悩みもなく平穏に一生を終えるというのは、幸せだったとは思いません。もちろん、そういう人生でも非常に成長を遂げれて別ですが、がいして人間というものは、苦しみを通して成長していくものだからです。

 人間を霊的に成長させるものは、たくさんありますが、大きな柱は二つあると思います。それは、苦しみと愛です。苦しみの経験を通して、あるいは愛の経験を通して、私たちの魂は大きく成長していくのです。もちろん、そうした経験をすれば必ずというわけではありません。ときには何も学ぶことができず成長できないこともあるでしょう。釣りでいえば、魚は引っかかったが逃してしまったような感じです。人間は完全ではないから、すべてのチャンスを活かすことは無理なのだと思います。しかし、チャンスというものは何度でもやってきてくれるのです。苦しみと愛の経験というのは、まさにそのチャンスなのです。
 ですから、苦しみの経験が来たら、全身でそれを受け止め、十分に苦しめばいいと思います。もちろん、苦しむのが目的ではなく、成長を通してその苦しみを乗り越え、いっときも早く苦しみから解放されるためです。皮肉なことに、苦しみは逃げるほどしつこく追いかけてきて、いつまでもずるずると居座ります。ですから、敢然と受け止めた方がいいのです。その方が結果的に、苦しみは早く去っていきます。
 あるいはまた、愛の経験が訪れたら、全身全霊をもって愛するのです。中途半端はいけません。中途半端では、中途半端な成長しか得られないからです。愛の機会が訪れたら、すなわち、愛すべき人に出会ったら、全身全霊で愛するのです(ただしこれは執着を持てという意味ではありません。逆に、愛するというのは執着を捨てることです)。

 余談ですが、占いなどは、ここまで霊的な真実を反映していませんから、単純に物質的に恵まれている場合を「吉」とし、そうでない場合を「凶」などといっています。そのため、占いが人生をあやまらせる要因となりかねません。実際には「凶」と出たときには本当の吉への第一歩であることがあり、「吉」と出たときには凶への第一歩となりかねないこともあるのです。本当に人を幸せに導く占い師は、そこまで考えなければいけないと思うのです。
 いずれにしろ、人間というものは、苦しみと愛を経験することを通して成長していくために地上にやってきたのです。それが人生の目的です。
 たとえるなら、課題をたくさん与えられた学生のようなものです。学校は勉強して成長するためにあるのですから、その学校でたくさんの課題が与えられることは、本来の目的に合致したことであり、それは「幸運」なことなのです。辛く苦しいかもしれませんが、それでもなおそれは「幸運」だと言わなければならないわけです。
 ですから、何不自由なく苦労を知らずに生きている人を見かけたら、そんな人を羨ましく思うのはナンセンスです。苦労ばかりしている人こそ羨ましく思うべきです。苦労をしながらもそれを乗り越えていこうとがんばっている人たちです。
 人間というものは、たとえ苦労が自分に大切だとわかっていても、なかなか苦労を自ら求めることはできません。いくら苦労したくても、実際には与えられなければ、苦労をしたくてもできないのです。
 ですから、そんな貴重な成長の機会である苦労が与えられたというのは、幸運なことなのです。実際、それは“与えられる”もの、すなわち「恩恵」なのかもしれません。苦しみというものが、カルマの法則によって「過去生で悪いことをした罰なんだ」と思うことは、消極的なとらえ方です。もし物質的に恵まれている人が、いわゆる過去生でよい行いをしたよい報いであるとするなら、今まで考察してきたように、それは必ずしも「よい報い」とはいえないことがわかるでしょう。
 人生は快感を得るためではなく、成長するためにあるのだととらえ、人生がうまくいかなかったとしても、それが自分の弱点や悪にあるなどと思ったり、そのために引け目を感じたりせず、むしろ「人生のエリートコースを歩んでいるんだ」というくらいの秘かなプライドをもって、人生の苦難を心静かに受け入れるようにすることが、覚醒の道であると思います。
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 人生の目的をはっきりと自覚する ①

 
 人生を卒業、すなわち覚醒して解脱するためには、その根本において、ひとつの信念をしっかりと意識に定着させておく必要があると思います。
 それは、「地上に生まれてきたのは、学ぶ(成長する)ためであり、幸せになるため(快楽を得るため)ではない」ということです。
 この世でいう「幸せ」というのは、たいていの場合、「快感」にすぎません。快感の正体は、脳の中の麻薬のような分泌液が放出したときに感じるものにすぎません。要するに、それはきわめて原始的であり、動物的なものです。
 しかし、(本質的に霊的な)人間が持つべき幸せとは、快感ではありません。その本当の幸せは、自分が成長したとき、他者のために奉仕したときに得られるものです。

 かつて日本では「勝ち組と負け組」などという言葉が流行りました。最近はあまり耳にしなくなりましたが(それだけ成長したのだと思いますが)、要するに勝ち組というのは経済的に裕福になった人のことで、負け組というのはそうではない人のことです。
 もちろん、あまりにも貧しいのは悲惨ですが、ありあまるほど経済的に豊かになることが、どれほど幸せだというのでしょうか? おいしいものを食べたり、豪邸に住んだり高級車を乗って他の人から羨ましがられ、優越感に浸ることが幸せなのでしょうか? 高級腕時計や宝石を身につけたり、高級車に乗って「どうだ、俺は金持ちなんだぞ」と見せびらかして、いったいどこが楽しいのでしょうか? そういうものを買えない人は、羨望の気持ちでそれを見つめ、それを買えない自分を惨めに悲しく思うかもしれません。人の気持ちを悲しくさせて、いったいどこが嬉しいのでしょうか?
 もちろん、高級品を所有することが悪いと主張しているわけではありません。高級品が持つ品質やデザインなどが気に入って所有するのはいいと思います。しかし、他者を差別し自己優越感に浸るために所有することには問題があると思うのです。
 ある程度成長した魂であれば、高級品を所有して自己優越感に浸るような喜びは、もうとっくのむかしの過去生で卒業しているでしょう。そして今は、たとえ自分はおんぼろの軽自動車に乗っていても、人を助けることに喜びを感じるような人です。あるいはまた、そういう人にこそ尊敬の念を感じるような魂です。この喜びは脳内麻薬がもたらす快感ではありません。魂の振動によってもたらされる真の幸福です。
 私たちが地上に生まれてきた目的は、そういう幸福をつかみとるためであって、快感を得るためではないと思います。そして、そういう幸福というのは、自分が成長することによってつかむことができるのです。ですから、人生の目的は、成長することであり、この世の快感を得ることではないということになります。もちろん、快感そのものは善でも悪でもありませんから、もしそれがやってきたら、拒むことなく素直に享受すればいいと思います。しかし、快感を得ることを人生の目的としたとき、さまざまな問題や腐敗が生じることになるのです。

 まず第一に、快感を得ることが人生の目的だとすると、その快感が得られない場合、自分は人生の敗残者だという、あやまった価値観を抱いてしまい、意味のない絶望感や劣等感に陥ってしまうことがあるからです。「俺は負け組だ」とレッテルを貼り、社会からもレッテルを貼られてしまうわけです。
 しかし、たとえば、安月給で贅沢はできず、質素に生活するのがやっとではあるが、子供のために懸命に尽くし、すばらしい人材を世の中に送り出している教師はどうでしょうか? 安月給ということで、自分は価値がないと思い、あるいは世の中からもそう思われ、その人生は価値がないものとなってしまいかねません。しかし霊的に見るならば、ろくに仕事もしないのに天下って法外な報酬を得ている役人だとか、安い賃金で社員をこきつかい自分だけ高給を得ている社長などよりも、はるかに意味ある人生を送り、偉大な業績を人生で残していることはいうまでもないことです。霊的に見れば、たとえこの世的な快感は得られず、それこそ苦労の連続だったとしても、人間として成長し、また他者の幸せに貢献した人こそが、真の「勝ち組」なのです。いくら物質的に満たされ、快感を味わっても、成長もせず他者に貢献することもなかったなら、それは「負け組」だと思うのです。

 ところが、世の中は、金持ちだとか、地位や名声があるとか、有名だとか、そのようなもので人間の価値が計られるようなところがあります。そのため、そういうものを持たないと、いくら真面目に、また影ながらコツコツと世のため人のために貢献していても、まったく称賛されないし、それどころか馬鹿にされることもあるわけです。
 そうなると、いくら高潔な魂であっても、しだいに萎えてしまい、落胆してしまうことがあるかもしれません。せっかく霊的にすばらしい意味ある人生を歩んでいるというのに、地上世界の幼稚な価値観のために、そういうものが損なわれるとしたら、それは本当に残念でもったいないことだと思うのです。
 金持ちでもないし、地位や名声があるわけではなく、有名でもないが、常に自分を立派にさせるべく努力を重ね、真面目に誠実に生き、影ながら人のために貢献している人こそが、世の中でもっとも偉いのです。
 こんな当たり前のことをわざわざ口にするのさえ陳腐ですが、この当たり前のことが、社会では単なるタテマエとなっており、本当に認められているわけではないのです。
 ですからなおさら、この信念を、しっかりと持つことが大切だと思うのです。もちろん自惚れてもいけませんが、しかしこの信念をしっかりと持って、たとえ世の中の誰一人として自分を認めてくれる人がいなくても、自分だけは自分を認めるようにするのです。さもないと、まだまだ物質的な価値観が主流になっている今の人類のレベルでは、覚醒をめざして歩んでいるとき、ともすると気持ちが萎えてしまうことがあるからです。
 しかし、たとえ今は自分を認めてくれる人がいなくても、人類が進化を果たした未来世界には、あなたを称賛する人たちで溢れかえっているはずです。そして、深く感謝していることでしょう。なぜなら、勇気をもってそんな生き方を貫いてきた人のおかげで、人類は霊的に進化していったということを、未来の人たちはよくわかっているからです。

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 聖フランチェスコと聖女クララ


 性とスピリチュアリティの問題に関連して、今回はアッシジの聖女クララについて考えてみたいと思います。
 クララは、あの清貧の聖者アッシジの聖フランチェスコの弟子であり、フランチェスコの命令で女子修道院を設立し、その院長として長い間修道女の教育に当たった人です。
 ここで注目したいのは、フランチェスコとクララの間に恋愛感情があったかどうか、ということです。クララが初めてフランチェスコに会い、彼の説教に感銘を受けたのが16歳のときでした。そのときフランチェスコは28歳です。歳は12歳離れていますが、クララにとって十分に恋愛対象になる相手です。
 もちろん、フランチェスコとクララの間には、現象的には何もありませんでした。フランチェスコにとってクララは弟子の一人であり、クララにとってフランチェスコは尊敬する師であり聖者で、少なくても記録に残されている限り、二人の間にロマンスめいたものはなかったようです。もちろん、その他の男性との間にもそういうことはなく、生涯純潔を通しました。
 しかし、16歳といえば思春期のまっただ中であり、少なくても普通の女の子であれば、よほど歳が離れた男性でない限り、相手がいかに聖者として知られている人物でも、多少なりとも恋愛感情が湧いてきても不思議ではありませんし、むしろ自然なことではないかと思うのです。
 ただ、修道女ということで弟子入りしたわけですから、そのような感情を持つことはゆるされません。そのため、そのような感情を持っていたとしても、彼女は否定し抑圧したでしょう。なにぶん、キリスト教の価値観では、性に関することは罪とみなされていたからです。
 ところが、30歳くらいのときかと思われますが、彼女が次のようなビジョン(夢?)を見たことを記録が伝えています。
「クララはあるとき霊的直観を受けたことを話した。その霊的直観の中で、クララは聖フランチェスコにお湯の入った洗面器に手拭きタオルを添えて届けたように思えた。クララははるか高い階段を登っていたが、まるで平地を歩くように速やかな足取りだった。聖フランチェスコのもとにたどりつくと、聖人は胸をはだけて、「さあ、お飲みなさい」とおっしゃった。(聖フランチェスコの乳首に口をつけて)クララが飲むと、聖人はもう一度吸うようにうながされた。クララがそうすると、その味はとても説明できないほど甘くて快いものだった。飲んだ後、ミルクの流れ出た乳首、というよりは胸の吸い口が、祝せられたクララの唇の間に残っていた。それを口の中から取り出して手に取って見ると、明るく輝く黄金のようで、まるで鏡のように何でも映していたとのことである。
                           (『初期の文書』一四四)

 この夢の解釈は、聖フランチェスコから何らかの霊的な恩恵を授かったことになっています。実際、その通りだと思います。フランチェスコの乳首を吸うという行為は、あくまでもシンボルということになるのでしょう。
 しかし、シンボルとしても、ここにはたぶんに性的な雰囲気が感じられないでしょうか。霊的な恩恵を授かるというのであれば、他のシンボルでもよかったはずです。聖フランチェスコの乳首を吸うというのは、あまりにも生々しすぎます。性を罪として厳しく禁じるキリスト教徒が見る夢とは思えないわけです。私はここに、フランチェスコに対するクララの性的な欲求が表現されているように思われるのです。
 この夢が実際、どのようなことを暗示していたのかはわかりませんが、私の勝手な、しかもひとつの解釈としては、これは「性愛の昇華」を物語っているのではないかと思うのです。
 つまり、フランチェスコの乳首を吸うというのは、まさにそのまま性行為のことであり、その結果、乳首が取れて口のなかから取り出すと、「明るく輝く黄金のような、まるで鏡のように何でも映すもの」を得たというのは、ある種の錬金術であり、性愛が「聖愛」へと変容することを暗示したものではないかと思うわけです。

 このような解釈をすると、キリスト教の関係者は憤慨されるかもしれませんが、性愛というものは、まさに聖愛(神の愛、博愛)に通じるものであり、それは否定されるべきものではなく、成長させるもの、昇華させるものだということです。
 前にも述べたかもしれませんが、性に対する過剰な禁欲主義や、性を罪や汚れとして否定する人たちは、がいして人間的な優しさや寛容さに欠けるところがあり、杓子定規に人を規則で縛ったり、善悪を厳しく責め立てる冷たいところがあったりするように思います。しかし、このような傾向には「愛」が感じられません。愛というものは、生命を生き生きさせ、生長させていくものです。もし「これをしたらダメ、あれをしたら罪だ」といって生命を萎縮させてしまうだけなら、それは本当の愛であるとは思えません。
 しかしクララには、人を生き生きさせる本当の愛がありました。
 それは、次のようなエピソードに端的に現れていると思います。
 修道女がやむを得ない用事があって街に出なければならないとき、普通は厳しい規則があり、視線を地面に向けておくとか、異性とは口をきかないといったことを守るように要求されるのですが、クララはそのような規則はいっさい作りませんでした。そのかわり、次のようなことを求めたのです。
「美しい木や花や茂みを見たら神を讃美することを忘れないように、そして人々と生き物を見たとき、常に神と神が万物を創造されたことを讃美するように」
                           (『初期の文書』一六九)。
 すべてのもの、すべての人に神を見るようにしなさいと、こう告げたわけです。ここにはすべてのもの、すべての人に対する愛が感じられます。これこそが真のキリスト教徒の、いえ、あらゆる宗教者の姿勢ではないでしょうか。

 私は、クララはフランチェスコに恋をしたところから、宗教の道が始まったと考えています。恋という感情には当然、性愛の欲求も入ってきます。しかし、それのどこが悪いのでしょう。彼女は熱烈な恋の感情を通して、それを聖なる愛にまで高めていったのです。逆にいえば、熱烈な恋の感情がなかったら、聖なる愛にまで高めていくことはできなかったかもしれないと思うのです。
 絶対とまではいえないかもしれませんが、異性を恋することを知らない人は、宗教的な理想の境地に至ることは難しいと思うのです。もちろん、異性に恋をすればそれだけで理想の境地に至るというわけではありません。人間的にも立派な(少なくても立派になろうと努めている)異性に熱烈な恋をし、そして自分もそんな異性にふさわしい立派な人間になろうと共に努力を重ねていく、そんな恋愛関係であれば、それはお互いを高い霊的次元にひっぱりあげてくれると思うのです(「クララははるか高い階段を登っていたが、まるで平地を歩くように速やかな足取りだった」)。
 なぜなら、結局のところ、覚醒とは神と一体となることですが、男も女もすべての人間はもともと神であり、神と一体になろうと努力している男(女)に熱烈な思慕を寄せることは、そのまま神と一体になるプロセスそのものとなるからです。むしろ、恋という強大な推進力によって、だらだらと瞑想しているよりも、はるかに早く霊的な世界に到達できる可能性さえあるように思うのです。

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 正義感


 病院で心理カウンセラーをしていたとき、二人くらいの看護婦さんから、「斉藤さんは今まで怒ったことあるの?」といわれた。つまり、どこまでも穏和で優しい人であると見られたらしい。私はその言葉を聞いて、内心、驚いた。
 私は、いわゆる正義感が強い若者であった。中学生のときの通信簿の欄にもそう評価されたり、親からも「おまえは曲がったことが嫌いでまっすぐな人間だな」といわれた。しばしば、「潔白すぎる」とか「自分にも厳しいが人にも厳しすぎる」といわれたこともある。当時は、あまり自分のことをそうだとは感じなかったが、今から見ると、確かにそうだったかもしれないと思う。
 だが、私の「正義感」は、怒りに支えられていた。悪い人間、だらしない人間に対して怒りを覚え、それがゆるせなかった。
 たとえば二十代の頃、電車のなかで、図体の大きな酔った男が若い女性に卑猥な言葉をいいながら体に触っていたことがあり、周りの者はみんな見て見ぬ振りをしていた。私はその男と見て見ぬふりをしている乗客に腹を立て、怒りに燃えてその男の腕をつかみ、ドアが開いたとき、その男を外に突き飛ばしたことがあった。男は仰向けに倒れ、ようやく正気に戻った様子だった(『電車男』は私が元祖かもしれない(笑))。
 だが、こうした行動が、必ずしも「正義感」といえるものなのだろうか?
 私は痩せており、ひ弱なインテリ、いいところの上品な「お坊ちゃま」に見られたりすることが多いのだが、少なくても若い頃は、腕力には自信があり、高校生のとき、腕相撲で私に勝てる者はクラスではいなかったし、体育祭では砲丸投げで優勝したこともある。そして喧嘩をしたら負けない自信があった。
 インテリのいいところのお坊ちゃまというのは誤解もいいところで、父方は大学を卒業した人など誰も身内にいない農村出身者で双眼鏡を組み立てる職人であり、母は、兄弟が不良ばかりの家に育ち、万引きや売春までしていたキャバレーのホステスであった(母はその後二度変わった)。若いときの父はやくざやちんぴらと交際があり、家にもそんな人間がやってきて、非常に屈辱的な言葉を投げかけられてひどく傷ついたことを今でも覚えている。
 そのような、血筋的には最低最悪といってもいいような家系から、曲がったことが嫌いで哲学などの学問が好きな堅物の息子が生まれたことを、父はときどき皮肉っぽく「トンビがタカを生んだ」などといっていた。
 実際、このブログでの「性とスピリチュアリティ」に書いているような内容とは正反対に、若かったときの私は、不倫などはいうまでもなく、恋愛でさえ結婚を前提にしない場合は罪であり、汚らわしいと思っていたくらいだし、ある程度の歳をして風采のあがらない人は、単に努力が足りないだけで自業自得だとも思っていた。悪人などはどんどん厳しく罰すればいいと思っていた。相手の至らない点をトゲのある言葉で遠慮なく非難し、理屈で相手をやりこめるのが私の得意中の得意であった。

 しかし、その後、自分自身が多くの挫折や失敗や苦しみを味わうにつれて、少しずつ考えが変わっていった。人生の不条理、社会のタテマエと本音、正直に努力しても認められずに失敗することもあること、人生の失敗や苦難は、必ずしも自業自得ではないということ、まっとうに生きたいと思っても、つい罪を犯してしまう業の深さ、それに対する怖ろしいまでの悔悟の苦しみや絶望感、あるいは、物事がうまくいけばつい傲慢になってしまう弱さや愚かさ、お金がないことの惨めさや辛さ、異性から愛されない寂しさ、消えてしまいたくなるほどの孤独感、愛しているのに愛している人を傷つけてしまう胸がえぐられるような苦しみ……、もう、ありとあらゆる苦しみを経験したような気がする(だが実際はまだまだほんの一部なのだ)。
 そしてまた、いろいろな人間にも接してきた。人生の最下層ともいうべき人たちと同じ釜の飯を食べたこともあれば、英国の貴族の家に招かれて昼食を食べたこともあった。世界的に有名な人たちと多少の交流をしたこともあれば、精神的に病んだ人たち、貧困の上に病気で苦しむ悲惨な人たち、やることなすこと、ことごとく成功してきた幸運な人、ことごとく不運な人、若くして死んでいった人……、あらゆる人たちと接してきた。ドラマに出てくるようなセレブと会ったこともあれば、大企業から数億円もの金をだまし取った詐欺師と会ったこともある。
 アルバイトも含めて私が経験した職業は20近くある。恵まれた上流の人たちのなかにも、立派な人もいれば、卑劣な人たちもいること、貧しくて社会の底辺にいる人たちのなかにも、立派な人もいれば、卑劣な人たちもいることを見た。自分のことにも人のことにもまるで鈍感で、のほほんと生きている人もいれば、自分のことにも人のことにも大変に繊細な気持ちをもって生きている人がいることも知った。宗教や霊的なことしか頭にない人、カネのことしか頭にない人にも会ってきた。

 そんな経験を重ね、歳をとるにつれて、正義よりも「愛」が、人生において優先されるようになってきた。愛といっても、そんなに立派なものではないが、それでも多少なりとも愛というものがわかるようになってきた。
 正義は、もちろん大切である。世の中には、正義の鉄槌を下さなければわからない人間が少なからずいることもよく知っている。だが、私の経験上、正義を貫いて事情が好転したことは、思っていたより少なかった。一時的に正義の鉄槌を下すことは有効である。それで現状が打破され、方向が変わることもあるからだ。しかし方向が変わったら、いつまでも正義を優先させるべきではない。永続的に正義を振り回すことは、あまりいい結果をもたらすことはないというのが、私がこれまでの経験から得た教訓である。
 そしてもうひとつ、経験から得たことがある。
 それは、愛さないで後悔することはあっても、愛して後悔することはない、ということだ。傷つくことはあるかもしれないが、真実の愛ならば、愛して後悔することは決してない。
 長期的に見れば、いい結果をもたらすものは、忍耐強い愛と優しさだということを、半世紀以上も生きて、ようやく気づいたように思う。そして、このことをもう少し早く気づいていたらよかったのに、と後悔する思いが少しある。

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 隣人愛の実践


 偉人や聖者たちは、いわゆる隣人愛を説きました。なかでもイエス・キリストはもっとも隣人愛の実践を訴えた人だといえるでしょう。覚醒をめざす私たちも、隣人愛の実践は大切な修行といいますか、(魂である)人間が当然のこととして行っていくべきものだと思います。
 しかしながら、それは何と難しいことでしょうか。「汝の敵を愛せ」とイエスはいいましたが、友人や家族でさえも、ときには愛せないことがあるというのに、敵、すなわち自分に危害を加えたり、不愉快にさせる人間を愛することなど、本当にできるのでしょうか?
 ちょっとした親切くらいなら、できるかもしれません。しかし、その程度で「愛する」といえるのでしょうか? 愛とはそんなにも軽いものなのでしょうか?
 しかも、たとえその場合でも、隣人が自分の気に入らなかったり、無愛想だったりすると、とたんに小さな親切でさえ、する気がなくなってしまうのです。私たちの愛する力というものは、何と脆弱なのでしょうか。
 愛というのは、まるでUFOだとか幽霊のようなもので、話はよく耳にするけれども、誰も見たことがない、あるいは何か他のものと錯覚するといったもののように感じられます。
 結局、隣人愛の実践に憧れ、隣人愛を実践しようと努力していっても、偽善や欺瞞の気持ちなく自分自身を見つめたならば、隣人愛など、とうてい人間には実践できるものではないことを知り、絶望的になってしまうのです。

 ただ、世の中には百パーセント純粋な愛は存在しないとしても、ゼロ・パーセントということもないと思います。たとえば、人に親切にしたとき、その動機には「感謝されたい、自分を善良な人だと思いたい」といった打算や自惚れ、高慢な気持ちがあると思います。しかし、そこに愛がないかというと、そうでもないでしょう。ほんの数パーセントかもしれませんが、やはりそこには、隣人に対する真の愛があると思うのです。果汁が3パーセントしか入っていないのに「フルーツ・ジュース」と銘打ったジュースが売られており、誰もそれに苦情をいう人はいないように、真実の愛は3パーセントしか入っていないのに「隣人愛」だといっても、ゆるされるのかもしれません。
 少なくても、そのくらいに考えない限り、とても「隣人愛」など実践できはしません。あとは、修行と努力で、少しずつその割合を増やしていけばいいのではないでしょうか。3パーセントを4パーセントに、4パーセントを5パーセントにというように、百パーセントは不可能だとしても、仮に50パーセントを超えたら大成功で、聖人の仲間入りができるのではないかと思います。

 私個人としては、「人を愛そう」という視点はもっていません。「愛」というと、何となく家族や恋人に対する熱い感情的なものが連想されます。しかし、隣人や赤の他人にそのような熱い感情を抱くことは、なかなか難しいと思うからです。
 そのかわり、私は「大切にする」という視点を心がけています。すなわち、「人を大切にする」ということです。自分に縁のある人は、無理のない範囲において最大限に、大切にしようという気持ちです。
 大切にしてあげることは、必ずしも「熱い気持ち」を伴う必要はありません。大切にするということは、けっこう知的なものです。なぜなら、大切にするには、「この人を大切にするとは、どういうことなのか?」、「どうすれば、大切にすることができるか?」ということを考えなければ実践できないからです。
 こうしたことは、熱い感情に比べるとクールに感じられるかもしれませんが、熱い感情はしばしば独善的で自己満足的な「愛」になりがちなのに対して、このような知的なアプローチは、冷静に相手の立場を考えることを基盤としていますから、独善や自己満足には成りにくいという利点があります。案外、こうした知的な視点こそが、実は本当の意味で「隣人愛」に近いのかもしれません。
 人だけでなく、すべてのものを大切にするという気持ちは大切だと思います。肉体を大切にする、モノを大切にする、お金を大切にする、自然を大切にする、時間を大切にする、人生を大切にする……、すべてのことを大切にする気持ちが、文字通り大切であると思うのです。
 夜寝る前に、「私は今日、人やその他のものを大切にしただろうか?」と反省するといいかもしれません。そのような積み重ねが、覚醒に必要な人格性の向上に寄与してくれるものと思います。

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 震災後の人々の意識

 先日、テレビを見ていたら、「あなたは震災後、どう変わりましたか?」というテーマでアンケート結果を報告していました。
 すると、一番顕著だったのは、結婚したい女性が大幅に増えたということです。その理由として、「地震など危険なことが起こったとき独りだと不安だから」、「守ってあげたい人が欲しくなったから」という声が多くを占めていました。前者はわかるとしても、後者の「守ってあげたい人が欲しい」というのは、面白いなと思いました。実際、今回の震災で人々が助け合っている姿を見て、助け合うことの大切さがわかり、友人や近所の人との付き合いが親密になったとか、家族の絆が強くなったという声がたくさん寄せられていたようです。これは、少しおおげさな表現をすれば、今回の未曾有の大震災によって、人々の愛が深くなったといえるのではないかと思います。今回の震災が、神の意図したものであるとしたならば、これこそが、おそらく神の意図だったのではないかと思います。
 以前のブログで、3月11日の朝、津波が押し寄せる夢を見たと書きましたが、その夢から目覚めた後、私は「イヤな夢を見た」という感じがしませんでした。なにか、浄化されたような、光が見えたような、これからすばらしくなるような、そんな清らかで明るい印象を持ったのです。
 そのため、このテレビのニュースの結果を見て、それほど意外とは思いませんでした。むしろ、予想通りでした。これから日本は、精神的にすばらしい国になっていくと思います。そして、その影響は世界にも及んでいくはずです。

 ただ、私個人としては、今回の災害によって思ったことは、「やはり人生ははかないな」ということがまず最初に頭に浮かびました。釈迦の「人生の本質は苦である」ことを思い出しました。人生はいつ何が起こるかわからない、基本的には危険な場所であると思ったのです。一瞬のうちにあれほど多くの人が死に、一瞬のうちにいくつもの町や村が壊滅し、一瞬のうちに家族すべてを失って天涯孤独になった人がたくさんいました。
 人生は一寸先は闇であり、危険であり、決してそれを基盤にして心から安らいだり楽しんだりすることはできない場所であり、だからこそ、この世界からの脱出、すなわち解脱(覚醒)に向けて、より力を入れていかなければならないと思ったのです。

 この地上世界は、本質的に人間が住む場所ではないのです。ですから、震災後に人々の意識が変わり、愛が深くなったこと自体はけっこうだと思うのですが、多くの人々は依然として人生の幸せの基盤を地上にすえているような気がします。この地上世界で、再び物質的に復興し、精神的に絆を強めてがんばっていこうという考えです。
 しかし、地上の人生に幸福の基盤を見出すことは、それが無常を本質とするがゆえに、原理的に不可能ではないのでしょうか。せいぜい、一時的に幸せになったような感じがすることがあるだけで。
 これは、単なる悲観主義ではありません。人生というものをありのままに冷静に慎重に観察し、深く考察した結果として、当然出てくる自明の結論であると思うのです。
 人生というものは、何度か私たちを「胴上げ」して有頂天にさせた後、いきなり地面に叩き落とすのが得意です。それが人生の「使命」のようです(そうしなければ、魂の本当の住居は霊的世界だと気づけず、いつまでも地上に魂は縛り付けられてしまうでしょう)。
 それでも、そうした苦しみにも負けず、また立ち上がり、やがてまた胴上げをしてもらいますが、また同じように地面に叩き落とされて痛い目を見るのです。
 しかし、こんなことをいつまでも繰り返しているうちに、この人生で本当の幸せを得ることは不可能であることに気づいてくるわけです。世の偉人聖者といわれる人たちは、やがて地面に叩き落とされることがわかっている胴上げなどから身を引き、根本的な苦の解決法を模索してきたわけです。
 このブログに関心を持って、こうして熱心に読んで下さるあなたは、すでに過去生において、何度も地面に叩き落とされた経験を味わってきたのかもしれません。そして今度こそ、人生の苦しみを根本的に解決しようと模索しておられるのではないかと思うのです。
 今回の震災で、皆さんもそのような思いをさらに強く自覚されたかもしれません。

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