心の治癒と魂の覚醒

        

 どうしたら神を信じられるか ①

 神(あるいは仏、その他、高次の霊的存在)を信じることが、宗教や信仰生活の第一歩となることは、言うまでもないでしょう。なぜなら、神が存在するかどうかは、(少なくても客観的な科学的事実としては)実証できないからです。ですから、信じるしかないのです。
 それに対して、今の科学は基本的に唯物主義なので、(頭の固い)科学者は、目には見えないし観測もできない「神」などというものを信じる人々は、それだけで狂信だと思っているかもしれません。
 しかしながら、最先端の科学理論によりますと、この宇宙に存在するもののうち、私たちが観測できたのは、わずか5%ほどで、残りの95%は観測できない未知なるエネルギー、あるいは他次元の何かだと言われているのです。そうなりますと、わずか5%しか宇宙のことを知らないのに、「神などいない、神を信じる人間は狂っている」と決めつけることはできません。そのような見解の方が狂っているように思えます。

 それはともかくとして、五感でとらえることができず、観測もできない神を本当に信じることは、実際にはかなり難しいと思います。神を信じていると語る人はたくさんいますが、いざとなると信じていないことが露呈してしまったりするのです。
 正直なところ、私も頭では神を信じているつもりですが、厳しく自分を見つめるとき、本当に信じてはいないのではないかと思ったりするのです。
 というのは、神は宇宙を創造するほどの偉大な力を持ち、また愛ですから(愛でなければ神とは呼べないでしょう)、神は私たちが幸せを祈れば、それを聴いてくれて、私たちが幸せになるように導いてくれるはずです。まさか、耳が遠くて私たちが一生懸命に祈っても聴こえないということはないでしょう。たとえ祈らなくても、私たちが幸せになるように導いてくれるはずです。
 そうなると、神に祈りを捧げ、人間としてそれほど悪いことさえしない生活を送るならば、幸せになっていくはずなのです。
 ところが現実には、幸せになるどころか、さまざまな不運や苦労が訪れたりするのです。多少の不運や苦労なら我慢できますが、心を歪ませ腐らせてしまいかねないほどの苦しみがやってきたりするわけです。
 しかし、本当に神を信じているならば、「この不運や苦労も、幸せになるためのプロセスなのだ」と思って、このことで苦しんだり悲しんだり、腐ったり、心を乱したりしないでしょう。「これも、私が幸せになるために必要だから神様が与えて下さったのだ。ああ、何てありがたいことだろう」と思って、素直に感謝して喜ぶはずです。
 しかし、私にはなかなかそれができません。嘆き、怒り、神に文句を言い、心を乱してしまいます。そうして、私は本当に神を信じてはいないのだと気づくのです。ただ自分の都合のいいように、神を利用していたにすぎないのだと。そして、いかにも神を信じているかのようにブログで書いたりしている自分が偽善者のように思えて自己嫌悪に陥ってしまうのです。
 
 ただ、少し言い訳をさせていただければ、信仰に目覚めた若い頃は、けっこう本気で神を信じていました。「神に祈っていれば、望みを叶えてくれるのだ、すべてよくなっていくのだ」と単純に信じていました。その結果、確かに叶えられた望みもありました。しかし、叶えられない望みもかなりありました。1年、2年、3年、10年、20年、ひたすら祈っているのに叶えられないとしたら、どうでしょうか。しだいに神への信仰が萎えてしまっても無理はないのではないでしょうか。祈り方が悪いのでしょうか? それとも、まだ時間が必要なのでしょうか? ならば、あとどれくらい祈ればいいのでしょうか? 30年でしょうか? その頃にはたぶん、私はこの世にいないでしょう。
 信用というものは、約束をきちんと果たされることで培われるものです。約束を破ってばかりいる人を、誰が信用できるでしょうか? 神も同じではないでしょうか。信じて祈っていれば、しだいに幸せになっていく、その実績が積み上げられてこそ、神を信じることができるようになるのではないでしょうか。そのような実績がなくして、祈っても幸せになるどころか、ますます不幸になっていくとしたら、神を信じなさいと言われても、約束を破ってばかりいる人を信じなさいと言われるのと同じではないでしょうか?
 こう考えると、信仰というものは、もともと実行が無理なことなのかもしれないと思えたりもするのです。
 しかしながら、最近、この懐疑の極点とも言うべきところにこそ、信仰のポイントと言いますか、奥義のようなものがあるような気がしてきたのです。(続く)

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神への愛 | コメント:4 | トラックバック:0 |

 自己否定の道 ②


 覚醒とは、このように「偉くなくなる道」を歩むこと、換言すれば、自我を消滅させる道を歩むことであるから、「覚醒したい」という望みを抱いて努力していったならば、神はその願いを聞き入れ、我が身にどのようなことが起こるか予測できるだろう。
 すなわち、それは、自我を消滅させるための運命である。
 それは、謙虚で素直で柔和になる運命である。
 ここで大切なのは、「謙虚のふりをする」運命ではないということだ。本当に謙虚になる運命が訪れるということである。人が本当に謙虚になるには、どうすればいいのだろうか?
 謙虚とは、「自分は他の人に比べて偉い」といったプライドや虚栄心がないこと、「自分には偉大な力があって何でもできる」といった自信過剰な気持ちがないことである。だからといって、それは卑下とは違う。卑下は傲慢さの裏返しにすぎない。謙虚さとは、傲慢さが徹底的に排除された状態である。
 したがって、謙虚になるための運命とは、プライドや虚栄心が破壊される運命であり、自信過剰がうち砕かれる運命である。要するに、世間でいうところの、挫折や失敗、屈辱といった苦しみである。そうして、これでもかというほどプライドを叩きつぶされ、これでもかというほど自信が叩きつぶされ、「何事も自分の力でできるものなどない。すべては神の力で“させていただく”のだ」と悟るのである。
 そのためには、一時的に成功することもある。金持ちになったり名声を博したりして、「俺は偉い。自分の努力と実力でこの成功を勝ち取ったのだ」と有頂天になり、傲慢な気持ちが芽生える(たとえその傲慢さを態度として表すことはなかったとしても)。
 だが、低い場所から落ちるよりも高い場所から落ちた方が強烈にこたえるように、今度はその高い場所からいっきに落とされることになる。そうして挫折や失敗や屈辱を味わい、徹底的に絶望して血の涙を流すくらい苦しんだ末に、自分は偉い人間だと思っていたこと、自分の力で成功したことは、単なる勝手な思い込みや幻想だったことを、骨身に染みてわかるようになる。
 ここまで苦しまないと、本当の謙虚さというものは身に付かないのかもしれない。たとえここまで苦しんでも、本当の謙虚さが身に付かない人もいる。それだけ真の謙虚さを養うことは容易なことではない。
 いずれにしろ、このような挫折や失敗や屈辱的な運命は、神からの「恩恵」なのである。少なくても、そう思って受け入れるしかない。覚醒するには、それが必要だったから訪れたのだ。このような運命がイヤなら、覚醒など臨まないことだ。覚醒に導いて下さいなどと神に祈ったりしないことだ。
 覚醒の道とは、このような厳しく辛い自己否定の道を歩むことである。「偉そうに振る舞って人々から称賛を受けることができる」道ではない。
「神様、覚醒をめざしているのに、なぜこんな苦しみを与えるのですか?」などと神に文句をいうとしたら、神は困惑してしまうだろう。
「覚醒をめざしているからこそ、おまえの願いを叶えてやろうと、こうした“恩恵”を与えたのではないか」と、神は答えるに違いない。
 プライドや虚栄を否定される屈辱的な運命が訪れたとき、それにまだ不平や不満の気持ちがあるうちには、まだどこかに傲慢な気持ちが潜んでいるのであり、完全には謙虚であるとはいえないのだ。

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 自己否定の道 ①

 覚醒とは、何か「偉い」存在になることではない。確かに覚者は偉いのかもしれないが、それはおそらく、私たちが思うような意味での「偉さ」ではない。私たちは、たとえば社長が偉いとか、政治家が偉いとか、ノーベル賞を受賞した学者が偉いとか、そのように思うが、それと同じレベルで覚者を偉いと思っているようなところがある。
 しかし、覚者の偉さというものは、そのようなものではない。少なくても、覚醒に至る道は(世俗的な意味での)偉い人間になるための道ではない。そのことを勘違いしている人は、スピリチュアルな世界で自分を認めてもらおうとする、いわゆる「スピリチュアル・エゴ」のワナにはまってしまう。
 覚醒の道は、世俗的な意味でいえば、偉くなるための道ではなく、まったく逆に、偉くなくなるための道である。すなわち、それは徹底した自己否定の道だ。
 もちろん、この「自己」というのは本当の自己ではなく、いわゆる自我(エゴ)のことだから、正確にいえば「自我否定の道」というべきだが、覚醒していない私たちにとっては、自我が本当の自分であるという堅固な幻想を抱いているので、実質的かつ主観的には「自己否定の道」といっても間違いではないだろう。
 自己否定の道、すなわち覚醒への道は、それゆえに、ひたすら謙虚、素直、柔和、慎み深さ、奉仕、縁の下の力持ちに生きるということになる。それは、ひたすら頭を下げて生きる道である。頼まれもしないのに説教したり、自分の地位や霊性を誇ったり、威張ったり、他者を利用したり、支配したり、裁いたり、「あなたの波動は低い、あなたの悟りはこのくらいだ」などと評定したり、得意げに愛のおしゃべりをするような道ではない。
 もちろん、役割が自然と与えられたならば、人の上に立ったり、説教したり人を使うこともあるだろうが、それはただ役割を演じているだけにすぎず、自我を喜ばせるためではない。
 謙虚のなかでも謙虚に徹し、自分を見せたり、自分を認めて欲しいという気持ちがまるでなく、相手より頭を下に下げ、常に下座につき、どんな人をも蔑んだり低く見たりせず、すべての人を拝むように敬愛し、ただ黙々と世のため人のために尽くしている人、そして、このような生き方を、意識せずに自然にできるようになった人、言い換えれば、「偉さ」というものを徹底的に排除し、まったく「偉くなくなった人」こそが、覚醒した人、あるいは覚醒に向かっている人であり、真に偉い人なのである。
 もちろん本人は、自分は偉いとか、偉くないとか、そのような思いはまったくないだろうが(自分は偉いと思うのはもちろん、偉くないと思っている場合でも、それはエゴであり、ある種の高慢さであろう)。


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 意味ある生き方


 地上の人生というものは、すでにしばしば述べてきたように、成長して魂を磨くためにあるのです。魂を磨くというのは、魂の属性である愛や叡智を発揮することです。たとえ表面的には成長したように思えなくても、苦しみを受け入れてじっと耐えるだけで、潜在意識の業想念が浄化され、清廉な境地が開かれてきます。それもすばらしい成長です。また、苦しみをじっと耐えられることが、何よりも成長の証でもあるわけです。
 いずれにしろ、この地上で成長するためには、楽で幸せな経験よりも(そういう経験もそれなりに大切ではありますが)、むしろ、苦しみや悲しみを通して、より促進されていくようです。
 しかし、そのように苦しい地上の人生ですので、私たちはつい気持ちが萎えてしまいます。苦しみに耐えられず、自暴自棄になったり、落ちぶれたり、気持ちを歪ませてしまったり、ストレスから病気になったり、自殺してしまうこともあるわけです。
 そうなると、魂の意識では、「地上に成長するためにやってきたのだ」ということがわかっていますから、死んで肉体を脱ぎ捨て、霊界の入り口に来たときに、そのことを思い出して「しまった! 苦しみに耐えておけばよかった。せっかくの成長のチャンスを逃してしまった」と、後悔の念に襲われることになるといわれています。

 ただ、そのような人を、私は責める気持ちはまったくありません。逆に、尊敬の気持ちさえ抱くこともあります。たとえ、自殺してしまったとしてもです。
 なぜなら、私たちの魂は、めったに訪れない地上人生というチャンス(霊界での時間の感覚でいうと、何百年に一度とか、そのくらい稀なチャンスらしいです)を最大限に活かすため、自分に耐えられるぎりぎりの苦しみを、自ら計画していたと思われるからです。
 あまり向上心も意気地もない魂は、「のんびりやればいいや。このくらいの苦しみでやめておこう」といって、それほど激しい苦しみの運命を計画することはないようですが、この人たちは、まさに耐えられる限界ぎりぎりの苦しみを計画したからです。
 それは、かなりの冒険であり、ある種の賭けです。最後まで耐え抜くことができれば非常にすばらしい実りを手にすることができるのですが、一歩間違えれば、耐えきれずに落ちぶれたり、自殺してしまうこともあるわけです。しかし、向上心のある勇敢な魂は、そういうリスクをあえて覚悟して、限界ぎりぎりの辛い運命を計画して地上にやってくるのです。
 そうして実際、悲しいことに、耐えきれずに自殺してしまうことがあるのですが、しかしそういう運命を計画したのは強い向上心と勇気を持っていたからこそですから、その計画が失敗したとしても、何も恥ずかしいことではないわけです。失敗は誰にでもあります。むしろ、失敗を怖れるがゆえに中途半端な人生の計画を立て、生ぬるい人生を送っている方がよほど恥ずかしいという見解もあるのではないでしょうか(そういう人生を計画したことも意味や価値はあると思いますが)。
 ですから、あくまでも私の個人的な価値観からすれば、苦しみに負けて自殺をしてしまったとしても、そこまでぎりぎりの計画を立てたその向上心と勇敢さは、見上げたものだと思うのです。

 ただ、「残念だな」とは思います。なんとか耐え抜いていたら、魂の計画は見事に成就され、誇らしげに霊界に凱旋できたのになと。
 このように考えると、人生というものは、たとえ社会的な意味で何の業績を残すことができなかったとしても、(避けることのできない)苦しみを最後まで耐え抜いたというだけで、その人生は大成功であると思うのです。その人生には偉大な意味があったと思うのです。地上人生というものは、苦しみに耐え抜くことが目的だからです。
 だとすると、そこからもうひとつの偉大な意味ある生き方が浮き彫りになってくるのではないでしょうか。
 それは、この苦しみを最後まで耐え抜くための励ましや慰めを与えたり、支えてあげることです。苦しみを取り除いてあげられるなら、それが一番いいことかもしれませんが、取り除くことができない苦しみなら、この地上にやってきた魂どうしとして、何とか励まし合い、支え合って、「計画」をまっとうできるようにしてあげること、これが、もうひとつの意味ある生き方だと思うのです。
 苦しみに耐える力を人に与えるのは、何でしょうか? いろいろあるとは思いますが、もっとも大きなものは「優しさ」ではないかと思います。優しい言葉をかけてあげる、ちょっとした親切をしてあげるだけで、死ぬことを考えていた人が気持ちを変えることも少なくありません。そうして、ひとつの魂の天命を見事にまっとうさせてあげることもできるのです。
 苦しみをじっと耐え抜くこと、他者が苦しみを耐え抜けるように支援してあげること、この二つの生き方こそが、まさに意味ある生き方ではないかと思うのです。

心の浄化 | コメント:11 | トラックバック:0 |

 親の試練 ②


 親子というものは、それが非常に近しい関係であるためか、カルマの消滅や霊的向上における、まさに格好の試練や修行となることが多いようです。
 親にとってもっとも辛いことは、「自分のせいで子供がこんな問題を抱えるようになってしまった」という慚愧の念、良心の痛みでしょう。
 たとえば、虐待をしてしまう親がいます。そのなかには子供に対する愛情がなくて虐待をする親もいるかもしれませんが、それは少数です。むしろ、虐待をしてしまう親は、人一倍子供に対する愛情を持っているのです(それが本当の愛情かどうかという哲学的な問題は脇に置いておくことにします)。
 ニュースなどで、子供を虐待した母親という報道などを見ますと、「なんてひどい母親だ。子供に愛情がないのか!」と憤りを覚えたりしますが、それは表面的に見ているだけで、よく事情を聞くと、子煩悩なところがあったなどと、近所の人が見ていたりするわけです。
 そのため、虐待をしてしまった後、親は非常に後悔し、自分の犯した罪の重大性に苦悩し、子供に対して申し訳ない気持ちで胸が痛み、そんな自分自身を責めるのです。その苦しみは、しばしば拷問のような苦しみにも匹敵するかもしれません。
 基本的には、虐待を繰り返してしまう親は、どこか病んでいるのです。自分も親から虐待された経験を持つケースが多いのです。あるいは、生活や仕事の悩み、その他、あらゆることが重なって、常に神経が葛藤と疲弊に見舞われており、そのために、ちょっとした子供の言動でキレてしまうのです。
 たとえば、よく「子供の泣き声に我慢できなかった」といって虐待する親がいたりします。それだけを聞くと、普通の人は信じられないかもしれません。小さい子供が泣き叫ぶのは当たり前のことで、その程度の「騒音」で虐待するのはどうかしていると。
 しかし、それは単なる「騒音」ではないのです。泣かれると、自分の至らなさが責められているような気がしてくるのです。もちろん、子供にはそのような意図はないでしょうが、(病んだ)親からすると、そう聞こえるのです。
「私が泣いてこんなに不幸なのも、おまえの責任だ! おまえがろくでもないからだ!」 こんなふうに聞こえてしまうわけです(もちろん無意識のレベルのことですが)。
 そうして、泣き声に耐えられなくなり、ムカムカして、暴力に及んでしまうわけです。
 あるいは、子供時代の自分の姿をそこに見てしまう場合もあります。子供時代、不当なことで親から怒られ、泣き叫んだ経験(そこから生まれたイメージや感情)が、無意識的に心の表面に浮かんでしまうのです。あのときの辛い経験や思い、悔しさが蘇ってくるのです。そのために、いてもたってもいられなくなってしまうわけです。
 こうしたことは、まったくの悲劇です。子供が憎くて虐待しているのではなく、子供を愛しているのに虐待して傷つけてしまう親の苦悩は、はかり知れません。そんな親を、単純に「虐待した」というだけで責めることはできないのです。ある意味では、その親も「被害者」なのです。もちろん子供にとっても悲劇です。もっとも自分を愛し守ってくれるべき親が、自分を傷つけるようなことをするのですから。

 こうしたことは、おそらく、親にとっても子供にとっても、成長のための試練という意味があるのだと思います。かなり厳しい試練ですが、長期的には、この経験によって成長し、本当の幸せへと歩を進めていくのでしょう。
 では、このような状況になってしまったとき、親はどうしたらいいのでしょうか?
 たいていの場合、親のこうした苦悩は、子供が成長し、自分が親にでもなれば、自然と理解できるようになってきます。なかには理解できず、親を許せないまま一生を終える場合もあるかもしれませんが、もしそうであれば、おそらくその子供は、霊的には課題を来世に残すことになるかもしれません。どこかで親をゆるさなければならないのです。
 いずれにしろ、親が問われていることは、今度、どのように生きるかです。反省もせず、あいかわらず暴言を吐き続けているようでは、仮に子供が成長して親のそうした病理を知的に理解し、同情はしたとしても、ゆるすことはできないかもしれません。それは無理もないことだと思います。
 しかし、親が自分の行為を本当に反省し、その後、虐待もせず暴言も吐かず、ひたすら無私の愛を子供に向け続けたなら、子供は成長していくにつれ、親をゆるすことができるようになると思います。
 さらに、そのようにひたすら反省して生き方を改めたこと自体に、子供は自分に対する大きな愛を感じるようになるかもしれません。「ああ、母(父)はこんなにも変わった。それは私に対する申し訳ない気持ちの表れであり、私に対する愛の現れだ」と思ってくれるかもしれないわけです。
 晩年(そのとき親は死んでいるかもしれませんが)には、「おくふろ(おやじ)は立派だったな。間違いは誰にでもあるが、あそこまで反省して生き方を変えられるなんて、たいしたものだ」と、かえって尊敬されるかもしれません。

 もし、そう思ってくれたなら、最初から何の問題もない親子で過ごした場合よりも、より強い親の愛を感じる可能性があるわけです。子供はそんな親から「間違いを犯したら改める」ことを学び、そうして親は、貴重な教訓を子供に示したことにもなるのです。
 このように、親にとっては、あやまちを反省して自分を変えるべく努力をしたこと、子供にとっては、親の強い愛情と手本を見せてもらったということで、お互いの成長にとって大きな実りがもたらされたといえるのではないでしょうか。
 どんなこともそうだと思いますが、逆境や悲劇や苦しみには、それと同じくらい、あるいはそれ以上のすばらしい可能性の種が宿っているのです。それはもちろん、一か八かの賭けであり、冒険ではありますが、私たちの魂はもともと冒険家ですから、あえてそのような危ない状況に挑戦することで、お互いの魂を向上させる計画を立てていたのかもしれません。それがうまくいったら、感動的な物語のように、最後にはすばらしいものが生まれるのです。
 大切なことは、「最終的にはすべてがいい結果になる」という希望を捨てず、ひたすら子供を愛し続けることではないでしょうか。それには長い時間にわたる忍耐が要求されるかもしれません。口先だけで「私が悪かった」と言っても、子供は本当に反省しているかどうか、けっこうしぶとく見ていますから。それで何度もその言葉を破ったら、ついには信じてもらえなくなってしまうでしょう。ですから、真剣に、命を捨てるような覚悟で自己改革していかなければならないでしょう。
 こうして、親鳥がじっと卵を抱えてヒナの誕生を待ち続けるように、この課題に取り組んでいき、不幸を幸福へと逆転させるべく生きることが、そのまま私たちの霊性向上の道であるように思うのです。

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 親の試練


 どのような親のもとに生まれるか、ということは、子供の霊的な成長にとって非常に重要な要素になると思います。一般的には、親の愛情を十分に受けて、虐待されたり無視されたり、ひどい扱いを受けたりせず、いつまでも親子仲良く、親は子供に優しく、子供は親に反抗することなく素直で親孝行で、これといった喧嘩もせず、何の問題もなく過ごし、親が老後になれば子供は献身的に尽くしてくれる……、これがいわば、世の中で思われている親子のあるべき形ではないかと思います。そしてこの、いわば「スタンダードな理想の姿」に少しでもはずれるようなことが起こると(たとえば子供が引きこもりになったり荒れるなど)、それは親が悪い、親の教育が悪かった、育て方が間違っていたというように、世間からは思われるのです。
 ところで、以上のような理想的な親子関係を実現させた人は、世の中にどれだけいるでしょうか? いることはいると思います。しかしそれは、私たちが思っている以上に少ないと思います。こうした家庭内のことは、外からはあまり知られないので、はためには理想的な親子関係であるかのように見られたりするのですが、内情は非常に問題があることが多いのです。心理カウンセラーをしていると、こうしたことを実感させられます。

 子供に問題が生じたり、親子関係が険悪になる原因は、親に責任があるのでしょうか?
 確かに現象的には、過去を調べていくと、親の不適切な対応に原因があることがほとんどであり、子供もそのことで親を責めていたりします。親もまた、自分を責めているのです。たとえば、それは虐待であったり、虐待というほど大袈裟なものではなくても、何らかのトラウマになるようなことを子供にしたとか、愛情が十分でなかったとか、あるいは仕事その他、やむを得ない事情で結果的に子供に否定的な影響を与えてしまったとか(仕事に忙しくて子供と一緒に過ごす時間が取れなかったなど)、いろいろなケースがありますが、このように現象的には親に大きな問題がある場合が多いわけです。
 ただ、たとえば同じ虐待をしても、それほど問題にならない子供もいれば、大きな問題になる子供もおり、そこには遺伝的な要素もかなりあるような気がします(一説によれば、14歳から20歳くらいの思春期になると、前世からの本性が出てくるといわれています)。
 実際、品行方正なすばらしい親なのに、その子供が不良になることもあれば、まったくだらしのない悪い親の子供が品行方正になるといったことも、少なからずあるわけです。ですから、親の育て方だけですべてが説明できるほど、簡単ではないのです。

 ところで、霊的な見地から見ると、仮に上記のような理想的な親子関係に恵まれたとしましょう。ここにいったい、どのような学びがあるというのでしょうか? 前に述べたように、私たちは成長するために地上に生まれてきたのです。聖人君子のように優しく完全無欠な親(そんな親はまず存在しませんが)だとして、子供はどうして成長することができるでしょうか? 確かに、ある種の気高さの影響は受けるかもしれません。しかし、成長というものは、苦しい課題を与えられ、それを自分の力で乗り越えていくことで実現していくものです。ただ単に親から善良な影響を受けただけでは、成長することはできません。
 親の立場からすると、親に反抗したり悩ませたりせず、ペットのように素直で従順で可愛いだけだったら、親として、子供を通して成長することができるでしょうか? そういう関係では、親は大きな成長はできないでしょう。
 つまり、霊的な視点からいえば、世間でいうところの「理想的な親子関係」には、あまり大きな価値はないのです。つまり、逆説的ですが、問題のない親は問題なのであり、問題のない子供は問題なのです。問題のある親こそが問題がないのであり、問題のある子供こそが、実は問題がないということになるのです。もし仮に本当に問題のない親子関係であったとしたら、魂の成長は、他の面を通して行われる計画なのでしょう。ただ、親子という関係は、それが非常に親密で自分に近いものであるだけに、魂の成長という点では、まさに絶好の機会となるのです。

 ですから、本当の意味で理想的な親子関係というのは、親、少なくても父親か母親のどちらかに問題がなければならないのです。子供は、そういう問題がある親を通して成長していくことができるからです。神の愛は人間を成長させることです。親も同じではないでしょうか。子供を成長させてあげることが、親の愛ではないでしょうか。
 ですから、親になるときには、自分あるいは配偶者のどちらかが「悪役」を引き受けなければならないような気がします。おそらく魂のレベルで、その役割を引き受けて生まれてきたのではないかと思いますが、そうして子供に試練を与えようとしたのです。
 親からすれば、問題のある子供を通して成長していくわけで、もしかしたらその子供の魂は、あなたを成長させるために、そういう役を引き受けて生まれてきてくれたのかもしれません。
 ですから、親子関係に問題を持っているなら、それを喜ぶべきです。たとえどんなに辛くても、それはいいことなのです。問題があることは、すばらしいことなのです。親は自分を責める必要はありません。反省する必要はありますが、責める必要はまったくありません。子供の魂は、あなたに感謝しているに違いないのです。育て方が悪かったとか、事実はそういうレベルではないのです。ある程度、「悪い育て方」をした方がいいのです。多少の虐待や無視、その他によって、子供を少し傷つけるくらいの方がいいのではないかと思うわけです(もちろん限度はありますし、それはひとつの冒険ではありますが)。

 しかし、子供を傷つけることは、成長のためのチャンスを作りだしたにすぎません。それを本当に成長の段階まで築いていくには、親自身の厳しい向上心が求められます。それはまさに親としての試練です。
 親が子供を通して試練を乗り越えるためにもっとも大切な姿勢は、子供を自分の満足のために利用しない、ということではないでしょうか。親といえども人間ですから、子供から愛されたい、大切にされたい、優しくされたり、世話をされたり、大切にされたいと思うのは当然です。しかし、それは人情として理解できますが、それをしてはいけないのです。厳しいようですが、これが親の試練なのです。試練とは厳しいものです。
 要するに、無私の愛を子供に向けなければならないのです。こちらがいかに子供を愛し大切に思い、犠牲的に尽くしても、子供はそんな親の気持ちなどまるで理解せず、感謝もせず、無視したり、それどころかひどい仕打ちをしてくるかもしれません。しかし、それでも無私の愛を子供に向けなければならないのです。それができないなら、親の資格はなく、最初から親にはならない方がいいでしょう。繰り返しますが、これは非常に厳しい試練です。「親のための子供」ではなく、あくまでも「子供のための親」に徹しなければなりません。
 親は、子供が幸せになることだけを望まなければなりません。子供を通して自分の満足を得ようという気持ちは、ほんの少しでも持ってはならないのです。大切なことは子供の幸せであり、親(自分)の幸せではありません。
 子供が親を嫌い、家を出て自立したいといったとき、それで子供が幸せなら、どんなに胸が張り裂けるほど辛く、寂しくても、それを認め、そのために子供に協力してあげなければなりません。子供は自分の所有物ではないのですから。

 ただ、親として非常に辛いだろうなと思う状況があります。それは、親が高齢となり介護が必要になるような場合です。上記のように子供の幸せを思う親であれば、子供が自分を介護することで子供の人生を損なってしまうことに、胸が痛むはずです。好きで介護が必要になったわけではないわけですから、親はとても辛いと思います。そのため、子供に迷惑をかけないように、自殺をする親も多いのではないかと思います。しかし自殺をしても、子供に迷惑をかけることになるのです。世間体も悪いですし、子供の心にも罪の意識や暗いものを残すことになるからです。まさに、生きるも地獄、死ぬも地獄です。こんなところに、人生の過酷な苦しみの現実を見る思いがします。本当に気の毒だと思います。
 ただ、もしこういう状況に置かれたら、それも子供にとっても親にとっても試練なのだと考えて、辛くても生きていた方がいいと思います。なかには暗に、あるいは露骨に「早く死んでしまえ」と子供に言われたりすることがあるかもしれません。犠牲的な愛情を子供に捧げてきたのに、それがこういう報われとして訪れたときの親の悲しみには筆舌に尽くしがたいものがあるかと思いますが、現実にはこういうケースは少なくないと思います。しかしそれでも、子供の魂のことを考えて、自殺はしない方がいいと思います。ただ、それで自殺してしまったとしても、私はその人を責める気持ちはまったくありません。ただただ同情するばかりです。

 子供が小さくて可愛い頃、親として、めいっぱいの幸せと喜びを子供から与えてもらいますが、やがては何らかの形で、それと同じくらいの量の悲しみや苦悩を、返済として求められるようになるのかもしれません。一応、それは覚悟しておいた方がいいかもしれません。お金と同じように、借りたものは必ず返さなければならないのです。誰が悪いという問題ではなく、親子とはたぶん、そういうものなのです。
 霊的な視点から見れば、親になるということは、無私の愛の実践という修行に取り組むことに他なりません。子供を持つことで幸せを得ようとか、ましてや、老後に世話をしてもらうといった期待を持っていると、失意に終わるだけです。子供はそのために存在しているわけではないからです。親も子も、成長するためにお互いに縁ができたのです。
 成長していくということは、辛くて厳しい道です。それが人生の本質なのですから、あきらめて受け入れ、乗り越えていくしかないように思います。

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 全託の境地と狂信


 結局のところ、覚醒の極意というものがあるとしたら、それは神に全託することではないだろうか?
 すなわち、どんなことが起ころうと、「これでいいのだ」と思って心が乱れたり、不安になったり、あせったりせず、平安な心でいられる境地である。
 この全託の気持ちは、神は最終的には全託する者が幸せになるよう、うまく導いてくれているのだという、揺るぎない信頼に支えられている。
 しかし、これでいいといっても、この世的には苦しみや悲しみ、不幸や災難に見舞われることもある。この世的な価値観でいえば、これでいいはずがないと思えてしまう。とくに、その苦しみが激しければ激しいほど、そう思ってしまう。
 実際、本当にこれでいいのかどうかなど、わからない。神は本当に幸せになるよう導いてくれているのか? 神は私のことなど見向きもしていないのではないか? いや、そもそも神なんでいないのではないか?……
 こんな思いが脳裏をよぎる。そして、本当に神が導いてくれているという、動かし難い証拠のようなものが欲しくなる(たとえば奇跡のような現象が起こるなど)。
 だが、ほとんどの場合、神はそのような現象を示すことはない。
 私たちは、どうしてもこんな気持ちを捨てきれないので、心底から全託することができない。どうしても疑いを持ってしまう。それは無理もないことだと思う。

 ただ、信仰の世界というものは、もともと科学ではない。私たちは科学者ではない。科学は実証主義である。疑うところから始める。しかし信仰というものは、信じるところから始まるのだ。
 ところが、ここで大きな問題が湧いてくる。
 それは、間違ったものを信じてしまうのではないかという懸念だ。いわゆる「狂信」に陥ってしまうのではないかという不安が出てくる。しばしば宗教(団体)が反社会的な問題を起こして世の中を騒がせているように、彼らは(私たちから見れば)、まったくの狂信状態にある。
 同じように、なにがろうと「これでいいのだ」とする全託は、ともすると狂信になってしまうのではないだろうか?
 狂信を避けるには、それが信じるに正しいかどうかを実証しなければならない。だが、それが正しいかどうかが実証できたら、そもそも「信じる」必要はない。それは自然に「認識」されるものとなる。つまり、それは科学ということになる。
 信仰とは、もともと、信じるに正しいかどうか実証できないものを信じるところから始まるのだ。実証しようとしたら、それは信仰ではなくなってしまうわけだ。

 つまり、狂信かそうでないかも、本当のところはわからないのである。社会で狂信といっているのは、この社会の基準から照らして評価しているだけである。
 ということは、信仰するということは、狂信と紙一重というか、ある意味では狂信することだといえるのかもしれない。何があろうと「これでいいのだ」と思う全託の境地もまた、ひとつの狂信なのかもしれない。狂信するつもりで臨まなければ、そのような境地には至れないのかもしれない。
 つまり、「本当にこれでいいのだろうか?」などとは決して考えてはならないのだ。「何があろうとこれでいいのだ」という前提から始まるのである。「科学者」になってはいけないのだ。本当にこれでいいのだろうかなどと検証してはならない。
 もともと科学だって、狭い領域で理屈をこねているだけなのに、あたかも全宇宙を知ったかのように自惚れてしまう知性の「幻想」であるといえなくもない。ある意味では、科学も狂信の要素をたぶんに含んでいる。

 もちろん、「これでいいのだ」という境地は、改善のための努力をしないという意味ではない。たとえば、暴飲暴食をして体調を崩したとする。体調を崩したこと自体は「これでいい」のだ。起こってしまったことは、その原因がどうであれ、これでいいのである。だが、そのまま暴飲暴食を続けることは、決して「これでいい」とはならない。人間は常に自らを改善させ成長させていかなければならない。
 人間は不完全だから、ミスをおかしたり、罪をおかしたりして、その報いを受けなければならない。過去を反省すると、自分の行為がまずかったせいだと後悔し、罪の意識に苦悩するが、起こってしまったことは、とにかく「これでいい」のだ(なぜ自信をもってそう言えるのか?などと尋ねないで欲しい。話は「何が起ころうとこれでいいのだと考える」ところから始まっているのだから)。
 後になって、「確かにこれでよかったのだ」と、わかることもある。だが、わからないことも多い。むしろ、その方が多いかも知れない。
 人間はあやまちをおかしてイヤというほど苦しまないと、心の底から自分を改めないという性質によるものなのかもしれないし、不幸だと思ったことが実は幸運へのステップだということもあるのかもしれないが、そうしたことを神はすべて計算し考慮に入れた上で、私たちの運命を導いてくれているのだと、そのように考えるのである。そのように信じるのだ。
 これは、狂信かもしれない。実際、狂信なのだろう。
 しかし、社会で問題となる狂信と違う点は、たいてい、その場合、狂信を人に押しつけ、強引な布教などをして「狂信者」を増やしている。そこが問題になる。
 けれど、以上の私の見解は、このことを人に押しつけたり、強引に布教しようなどとは思わない。「私はこういう考え方をしています。よろしければ、採用してみて下さい」というだけである。
 そして、今回述べたような全託の考え方は、私たちの心を平安にさせて霊的に高めることはあっても、社会に迷惑をかけるようなことにはならないと思う。
 だから、狂信ではあるかもしれないが、「無害な狂信」ではないかと思う。
 覚醒の道というものは、狂信という「毒」をうまく活用しながら、危険と隣り合わせの、きわめて微妙な道なのかもしれない。

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 覚者かどうかを見分ける方法 ②


 ニセの「覚者」は、たいてい二つのタイプに分かれます。
 ひとつは、あきらかに詐欺を目的とし、自分でもそのことを自覚して「覚者」や「グル」を名乗っている人物です。こういう人は、公衆の面前のような表向きは非常に立派に振る舞い、その言葉も丁寧なのですが、密室のなかでは、同じ人とは思えない下卑た振る舞いや言葉使いをするものです。要するに、表と裏に落差があるのです。真の覚者であれば、表も裏もないはずです。裏の顔を見れば、すぐに化けの皮をはがすことができます。
 また、詐欺師というのは、要するに金を騙そうとするわけですから、さまざまな理屈をつけて金を巻き上げようとします。金がない人は、「金づる」、つまり信者を勧誘するように強要してきます。もちろん、その名目は、「人類を救うためにこの教えを広めるのだ。あなた方はそのために選ばれた特別な人なのだ」といったように、崇高な使命感のような感覚を煽って信者の勧誘をさせたり、献金させたりするわけです。真の覚者が大金を要求したり、信者を勧誘するように強要することは、まず考えられません。

 一方、詐欺師の自覚はなく、実際に詐欺師というわけではないが、自分を本当に覚者だと思っている人がいます。これは要するに、妄想を抱いているわけです。精神病理でいうと、パラノイアではないかと思います。
 パラノイアは、人並みの知性もあり、普段は常識もあるのに、ある特定の分野だけ支離滅裂で妄想を抱いてしまう病気です。たとえば、自分は仏陀の生まれ変わりだと信じたり、天皇家の血筋だと信じたり、会ったこともないタレントが私のことを恋しているとか、宇宙創世の謎を解明したといって膨大な論文を書き、それを名の知れた学者のもとに送りつけて自分をノーベル賞の候補に推薦して欲しいなどと言ったり、たまたま自分の論文と似た学説を唱えている学者がいると、スパイを使って自分の論文を盗んだのだなどと口走ったりします。こうした妄想以外では、まともな思考や生活をしているため、周囲の人は本気にしてしまうことも少なくありません。
 しかし、しょせんは妄想ですので、やはりどこかおかしいのです。ある妄想を抱いている人は、たいていの場合、誇大妄想か被害妄想、あるいはその両方の妄想を表すものです。
 ですから、自分は覚者だという人をよく観察して、誇大妄想あるいは被害妄想を抱いていないかチェックしてみるとすぐにわかります。

 たとえば、私が実際に会ったことのある自称「覚者」ですが、その男は、確かに悟りや覚醒や霊的な事柄に関しては広い知識を持っていました。そして、大変におしゃべりで、そうしたことを延々と話しまくるのです。余談ですが、霊的な事柄を延々としゃべり続ける人も要注意です。どこか病的なものを持っていることが多いです。おそらく真の覚者や霊的な人は、それほどおしゃべりとは思いません。
 その男はそのうち、「自分が住んでいる地域は、自分から放つオーラによって犯罪率が低くなる」などと言い出しました(実際には彼の住む家の近くで新聞に載るような凶悪な事件や事故が数件ほど起こりました)。これはあきらかに誇大妄想でしょう。
 また、精神世界で名の知れたある人物から、自分は呪いをかけられているなどと言っていました。真義はわかりませんが、私もその人物を知っており、とても呪いをかけるような人には見えません。おそらくこれは、この男の被害妄想だと思います。
 その他、自分のもとを去っていった弟子の悪口を、延々と繰り返し繰り返し語り続けたり(悪口を言うのはエゴです)、超能力は持っていないのかと尋ねられると、「むかしは持っていたが、すべて捨てた。偉大な覚者は、そのようなものには未練がないからすべて捨てるのだ」と言うのですが、「しかし、この能力はあるんだ」などといって、ダウジング(振り子占い)をしているのです。
 さらにこんなことがありました。私はこの男の話をテープに録音していたのですが、あるとき電話がかかってきて、「俺の声を吹き込んだテープを返せ」と言ってきました。もうあれは消して残っていないというと「信じられない。おまえの家の隅からすみまで探させろ」と言うのです。私が何かそのテープを悪用するとでも思ったのでしょうか?(これも被害妄想かもしれません)。私は家をかき回されては困るので断りました。そうしたら、「拡声器を持っておまえの家の前に行き、大声で怒鳴りつけてやるからな。そうしたら近所迷惑になって、おまえはその家に住めなくなるぞ」とまで言うのです。こうなると脅しです。いったい彼は、何を怖れてそこまで言わなければならないのか、まったく理解に苦しみました。
 このように、妄想で自分は覚者だと言っている人の言動を注意深く観察してみると、たいてい誇大妄想か被害妄想が見え隠れします。そうして、すぐに覚者ではないことがわかるはずです。

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 覚者かどうかを見分ける方法 ①


 先日のブログのコメントで、「覚醒していると言っている人がいるが、本当に覚醒しているのかを確かめる必要がある」といった話題が少し出ました。今回は、これについて話してみたいと思います。
 精神世界のセミナーなどにいろいろ出席していますと、「私は覚醒した、私は悟りを開いた、私はグルである」と言う人にときどき出会います。インターネットを見ても、「私は覚醒したグルである」と言って、セミナーの勧誘をしていたりします(それがけっこうな料金です)。なかには、「一瞬で覚醒させる」と言っている人もいます。
 私は若い頃、そうしたグルを求めていた時期があり、もし当時の私なら、そういう人を片っ端からあたってみたかもしれません。
 しかし、今の私は、正直なところ、そのような人たちにはほとんど興味がありません。というのは、自分のグルとして指導を願う前に、その人が本当に覚醒しているかどうか確かめなければなりませんが、その人が本当に覚醒しているかどうかは、わからないからです。超能力は、そのための客観的なひとつの目安となるでしょうが、超能力があるだけでは覚醒しているとは限りません。長時間息を止めたり、空中浮揚をしたり、念力で火をおこすとか、そういうことができる人もいるようですが、それだけでは覚醒しているとは言えないからです。極論を言えば、その人が本当に覚醒しているかどうかは、自分が覚醒してみないとわからないのだと思います。

 ただ、私がこの人に師事したいと感じさせるものがあるとしたら、それはその人の人間的な魅力、品格です。私はその人がすばらしい人間性と品格を持っていたら、たとえその人が覚醒していなくても、師事したいと思うでしょう。たとえば、『レ・ミゼラブル』のミリエル司教のような方がおられたら、土下座して弟子にして下さいと頼むかもしれません。
 覚醒することと、人間性が立派になることは、同じなのか違うのか、そのへんはよくわかりません。覚醒した人はすべて尊敬に値する立派な人になるのか、それとも、覚醒しても品性が低い人は低いのか?
 ただ、少なくても私の考えでは、人間性が立派にならない覚醒というのは、どこか間違っているように思うのです。傲慢で威張り散らし、人の悪口を言い、自分勝手で、布施の名目で大金を集めて影で贅沢をしている人が「私は覚者である」と言ったら、いったい覚醒とは何なのかということを、あらためて考えざるを得ません。
 高慢で卑しい人が、ある日突然クンダリニーが上昇してすべてのチャクラが開き、覚醒した瞬間、その人は別人のように高貴な人間性に変容するのでしょうか?
 私にはそうは思えません。瞑想などの修行は、人間性を立派にする刺激とはなりますが、瞑想だけをしていて人間性が立派になるとは思えません。むしろ、日々の生活を通して常に反省し、反省したことを実行するということを繰り返し、地道に時間をかけてこそ、人間性は立派になっていくのだと思います。そして、そうして人間性を立派にさせながら瞑想を通して意識を深めていったとき、覚醒して、霊格も人間性も共にすばらしい覚者が誕生するのだと思うのです。つまり、日々の生活を通して人間性を立派にしなければ、覚醒はしないと思っているのです。
 というのも、人間性の低さというものは、すべて自我(エゴ)が生み出すものだからです。覚醒とは自我を消滅させることですから、人間性が低いということは、それだけで覚醒していないことを示すものと思うわけです。
 ですから、その人が覚醒したと自分で言い、どんなに立派な教説を口にし、超能力のようなものを見せたとしても、その人の品性に高貴なものが感じられなければ、覚醒したとは思えません。

 ところが、どこの世界にも詐欺師的な人がいます。口先だけは本当にうまいことを言うので、つい騙されてしまうことがあるのです。
 たとえば、低い人間性が露呈したとしましょう。それで周囲の者が怪しく感じると、「これはおまえたちを指導するために、わざとやっているのだ。覚醒して高い境地になった者のそんな意図が、おまえたちに理解することはできない。これがグルというものなのだ」といったことを言うわけです。
 宗教に関心のない人は、このような言葉にはだまされません。しかし、欲があるとだまされるのです。
 たとえば、詐欺商法と呼ばれるものがありますが、金儲けに目がくらんで、楽をして金を得ようとしている人は、詐欺師の口のうまさに乗せられて、だまされてしまうのです。
 精神世界も同じです。ただ「お金」が「覚醒」に入れ替わっただけです。つまり、「覚醒」に目のくらんだ人が、こういう詐欺師にだまされてしまうわけです。欲があるゆえに、「本当にグルは私たちの指導のために、わざとあんなことをしているのかもしれない。もしそんなグルを疑ったら、私は覚醒できないかもしれない」という、ある種の強迫観念と言いますか、不安に駆られて、グル(詐欺師)の言葉を鵜呑みにしてしまうわけです。そうして、結局、高額なセミナーに参加させられます。そのセミナーに参加すると、「さらに上級コースがある」などと言われ、高額なセミナーに次々と参加させられます。それで結局、覚醒できず、そのことで文句を言うと、「グル」はこう言うのです。
「おまえは覚醒した。おまえはそれに気づかないだけだ。私はおまえより霊格が高いから、私にはわかる。グルである私の言うことが信じられないのか。信じられないのなら、破門だ。今すぐここから出ていけ!」
 結局、奪うだけ金を奪ったらもう用済みですから、結末というのは、こんな感じです。

 覚醒に欲がくらんではいけないのです。気持ちはわかりますが、いいカモにされるだけです。確かに、「こうすればもっと早く覚醒できますよ」などと甘い言葉をささやかれると、毎日ほとんど何の変化も感じられずに退屈な修行をして落ち込んでいるときには、つい気持ちがぐらついてしまうこともあるでしょう。
 しかし、あせる気持ちはエゴから来ているのです。詐欺師は、巧妙にエゴの弱点をつついてきます。
 覚醒するにしても、道を選びましょう。自分から見ても、第三者から見ても、美しいと感じる道を歩むべきです。時間をかけて忍耐強く人間性を練り上げ、霊的なばかりではなく、地上的にも立派に尊敬されるような生き方をした末に覚醒する道を歩むか、それとも「300万円払ってセミナーを受講して半年で覚醒しました!」という道を歩むかです。仮に百歩ゆずって、後者の道によって本当に覚醒できるとしても、誰にも感動をもたらさないそんな道は歩まないぞ!という気骨が、大切ではないでしょうか。
 長い間、地道にコツコツと人に感謝される仕事を誠実に行って財を築いた人と、株だのFXだの、詐欺まがいの情報商材などをインターネットで売りつけて短期間で楽に財を築いた人と、どちらが尊敬に値し、美しく感じるでしょうか? どちらの人生を送りたいと思うでしょうか? 後者の人生を送りたいと思う人もいるかもしれません。しかし、そのような発想では、たぶん、覚醒は難しいと思います。
 なぜなら、覚醒というものは、交換条件によって勝ち得るものではなく、覚醒の修行を行うことそのことを目的として進んでいくときに、得られるものだと思うからです。
 つまり、高貴で美しい道を歩むことによって覚醒に至るのです。いえ、高貴で美しい道を歩むこと、そのものが覚醒であるという発想が大切なのです。覚醒することにはもちろん価値がありますが、覚醒に至る道を歩むこと自体にも、覚醒と同じくらいの価値があるのではないでしょうか。私たちは、立派に道を歩まなければならないのではないでしょうか。ただ歩めばいいというものではないと思うのです。

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