心の治癒と魂の覚醒

        

 どのような気持ちで仕事に取り組むべきか? ②


 前回、仕事というものは、たいてい創造的でもなく、生きがいも喜びもあまりなく、むしろ辛いものだ。だから、仕事は「苦行」と考えて行ってみたらどうか。という話をしました。
 もちろん、仕事の意義を「苦行」だけにしてしまうのは、正しいとは言えないでしょう。
 第一、「苦行」というものは、「苦しんでやる」べきではないらしいのです。
 楽しんでやるべきだというのです。逆説的ですが、苦行の意義は、苦しく感じるような行為を、楽しんで行えるように心を変えていくことにあるのです。もちろん、苦しみを感じても苦行の効果はありますが、あえてそれを楽しく行おうと努力することによって、苦行の効果はさらに高くなるということです。大切なのは、そうなるように「努力する」ということです。
 したがって、仕事を苦行と見なすなら、苦しみながらやってはいけないのです。楽しみながらやらなければならないことになるのです。
 もちろん、そうはいっても、簡単にはできないでしょう。実際に辛くて苦しいのに、それを楽しむなんて、なかなか難しいと思います。しかし、簡単にできるようなら修行とは言えないわけで、難しいことをあえてやること自体に、修行の意義があるのではないでしょうか。そして神は、私たち人間が、苦しみを楽しみに変えていくことを望んでおられるのではないかと思うのです。
 神は、人間に試練を与えるとしても、与えているのは「試練」であって「苦しみ」ではないことに注目する必要があるかもしれません。確かに試練は苦しいでしょうが、それを苦しいと感じるのは人間です。極論を言えば、苦しいと感じなければ苦しいものではなくなるわけです。少なくても、必要以上に苦しむことは、克己的な努力で避けることができると思います。実際、私たちは、実体以上に「苦しいものだ」と勝手に思いこんで、自分で自分の首を絞めるように、わざわざ苦しい思いを強くさせているところが少なからずあるように思います。神は、私たちが試練を喜んで堪え忍び乗り越えていくことを望んでおられるのかもしれません。理想を言えば、ですが。

 それでは、どうしたら、辛く苦しい仕事を楽しんでやれるようになるでしょうか?
 前回、ほとんどの仕事は創造的ではないし生きがいもないと申し上げましたが、「まったくない」とまでは言い切れないと思います。実際、注意して仕事を見つめてみると、思ったよりも創造性を発揮できることがあったり、生きがいを感じたりできる余地があるものです。
 これは本で読んだ話ですが、決まりきった応対だけの仕事で、退屈で仕方がなかった受付嬢が、人相占いの勉強を始めました。受付嬢は人と会うのが仕事ですから、よく顔を見ます。多少の応対だけでもだいたいの性格がわかりますから、それで人相と性格の関係について理解を深めていくことができました。そうなると受付の仕事が面白くなって、ついには人相占いの名人になったということです。
 また、何らかの形で人に接する仕事というのは、それだけで徳を積むチャンスがあるということです。たとえば、笑顔で接することも、仏教では「和顔施」と呼ばれていて、徳を積む行為であるとされています。親切にしたり、誠実な対応をしてお客さんの心を喜ばせてあげれば、それは仕事以上に、善のカルマを積むことになるわけです。第一、人から喜んでもらえるということだけでも、嬉しいものだし、生きがいを感じるのではないでしょうか。
 工場で黙々と製品だけを相手にする仕事をしていても、「少しでも作業能率をあげるための改善はできないか?」と考えてアイデアを出すこともできます。これは創造的な行為です。それ自体でも喜びや生きがいを感じられたりしますが、そのように積極的な改善提案を出すような社員は、必ず上司から注目され、いつか昇格などのチャンスがもらえる可能性もあります。また、そのような姿勢は他者の立派な手本となり、他者を高めることにもなります。つまり、そうして善のカルマを積むこともできるわけです。

 そして、どのような仕事も、「神のためにやっているのだ」という思いで一生懸命にやれば、それはそのまま神を祝福する行為であり、神への祈りであり、神への捧げものであり、また、少し大袈裟かもしれませんが、「宗教儀式」をしているのと同じではないでしょうか。少なくても、心の通わない宗教儀式などをするより、神に奉仕する気持ちで仕事に打ち込んだ方が、よほど宗教的であり、神はお喜びになると思います。たとえ誰からも自分の仕事が認められず、感謝されることもなかったとしても、神が喜んでいて下さればいいと思い、そのことを喜びにするというのが、修行者というもの、信仰者というものではないかと思うのです。

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どのような気持ちで仕事に取り組むべきか? ①

 
 最近、コメント欄で次のような質問を受けました。これは多くの人も抱いている問題であると思いましたので、それに対する返事をこの場でさせていただくことになりました。
 まず、質問は以下の通りです。
「最近、奉仕する事の重要性を感じています。奉仕を通じて、神様と繋がればいいかな、みたいな感じで時々、老人ホームでボランティアをしたりしています。しかし、何かの記事の中で、仕事を通じても、そこに愛を持ち込めば、それは神様への奉仕になる、みたいな事が書かれておりました。まあ、確かにそうかもしれません。自分は公務員の仕事をしていますが生産性もなく、クリエイティブな感じもなく、創造性を要求される訳でもなく、正直に申しますと、20年近く、同じ仕事を続けてきましたが、やりがいや、喜び、プライドすら感じたことがありません。仕事に対しての姿勢が、間違っていることに最近ようやく気が付きましたが、実際、どのような気持ちで取り組めば、神様への奉仕としての仕事に変わるものなのでしょうか?」

 霊的な観点から見て、「仕事」には、どのような意味があるのでしょうか?
 おそらく世の中の仕事の9割以上は、たいした生産性もなく、クリエイティブな要素も、創造性を要求されることもなく、単調で、しばしば苦痛を伴うものではないかと思います。それでも高収入が得られればいいですが、多くの人は月並みな給料で働いているわけです。なかにはワーキング・プワーと言われるような、長時間きつい労働をしているのに、生活保護を受けている人よりも低い収入で生活している人もいます。仕事を通して収入も生きがいも得られるというのは理想でしょうが、そういう人は少ないと思います。
 このように考えますと、神様が人間に仕事というものを与えた理由のひとつは、仕事そのものにある種の「苦行」のような意味を持たせたのではないかと、私は考えてしまうのです。
 普通の人は、苦行などしません。また苦行をしていたとしても、別に苦行などしなくても生きていけますから、本当に真剣な修行者は別として、どこかに甘さが生じてしまうと思います。たとえば、ときどき冬の早朝に起きて水をかぶるようなことをしている人がいます。それはそれで意義がないとは言いませんが、もしそれで「自分はすごい苦行をしているぞ」などと高慢な気持ちになったとしたら、笑われてしまうでしょう。零下何度という北の国で毎日暗いうちから新聞配達を続けている人の方が、その意味ではずっとすごい「苦行」をしていることになります。もし新聞配達をしなくても生活できるとしたら、そんな辛いことをする人はいないのではないかと思います。他にも、苦行といってもいいような過酷な仕事をしている人が、世の中にはたくさんいます。ほとんどの人は、そんな辛い仕事を、生きるために仕方がないから、やっているのです。

 人間というものは、このように、「生きるために仕方なく」というせっぱ詰まった事情でもないと、辛いことを毎日続けることはできないのではないかと思います。
 しかし、楽ばかりで辛いことがまったくないと、おそらく人間は霊的に成長することはできません。怠惰で腐っていくのではないかと思います。
 ですから、生きるために仕方なくしなければならない、「仕事という苦行」を、私たち人間は与えられたように思うのです。これは私の考えで本当かどうかはもちろんわかりません。
 いずれにしろ、楽ばかりで辛いことがまったくないと人間はダメになるというのは、事実だと思います。仮に、経済的に恵まれて働かなくてもいい状況にあったとしても、他の面で辛い経験が与えられる(あるいは魂が自ら辛い経験を与える)のではないかと思います。
 たとえば、一生を遊んで暮らせるくらい財を築いた、あるタレントがいました。その人は中年に芸能界をリタイアしてハワイに住み、毎日好きなゴルフばかりをする生活を始めました。そうしたらまもなく、目の難病にかかり辛い経験をするようになりました。
 また、宝くじに当たった人の体験談を読んだことがありますが、家族が精神病になったり不和になるなど、いろいろな悩みや苦しみが生じるようになったといいます。
 このように、何らかの辛い経験は、人間にはおそらく必要なのです。仕事には、そんな意味があるのだと思います。なかには、仕事で辛い経験をしているおかげで、深刻な病気にかからないですんでいたり、家族の深刻な問題が起こらないですんでいる、という人もいるかもしれません。
 実際、仕事をしていないとか、あまりにも楽な仕事をしている人よりも、多少辛い仕事をしている人の方が健康で、元気であるような気がいたします。とはいえ、これも限度の問題で、鬱病になったり過労死するほど辛い仕事というのは、あきらかに問題ですが。

 苦行というものは、それを行うこと自体に意義があるとされています。釈迦は苦行を否定したとされていますが、それは誤解で、心身を害するような意味のない苦行を否定したのであり、苦行は必ずしも否定はしませんでした。苦行をすることで、人は浄化され、忍耐力が養われ、魂の輝きが増してきます。
 仕事というものも、たとえそれに喜びも、創造性も、生きがいも感じられなかったとしても、少なくてもそこには「苦行」という意味があるのではないかと思うのです。修行者が苦行に価値を認め、わざわざ自ら求めていくように、私たちもそれと同じような気持ちで、もし仕事が辛かったら、それを神様から与えられたありがたい「苦行(修行)」であると受け止め、心静かに行じていく姿勢で臨むのがいいように思われるのです。そういう姿勢を、神様はたぶん、お喜びになると思います。
 ですから、どのような仕事であれ、そこには意味があるのです。問題は、それを単なるつまらない苦しみに過ぎないと見るか、自分を磨くためのチャンスと見るか、それだけではないでしょうか。

 こうした考え方は、霊的理想を求めているわけではない一般の人には通用しないでしょう。自分を磨き、魂を進化させていくことを目的にし、そのためには辛いことも厭わないという求道的な人にだけ、受け入れてもらえるだけでしょう。(続く)

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 脳の生理環境を整えて心を治癒する


 精神病や、心の病を治癒するというと、ほとんどは薬や心理療法、カウンセリングという手段が用いられます。もちろん、それは大切であり必要なことです。
 しかし、もう少し基本的な面を考慮することも忘れてはなりません。
 それは、「脳」のコンディションを整えるということです。
 精神病というのは、要するに、脳の病気と言い換えてもいいと思います。脳というのは、脳神経細胞の集まりですので、この脳神経細胞が侵されたり、そのネットワークが乱れてしまったり、脳内の分泌物が正常に機能しなくなると、いわゆる精神病という症状になるわけです。薬などは、脳のこうした生理的な状態にダイレクトに作用を及ぼすものです。
 いうまでもなく、脳というのも内臓のひとつですから、からだ全体の生理状態によって大きく影響を受けます。この点から、精神病や心の病を癒すには、脳の生理状態を改善するための、次のようなアプローチが必要になってくるのです。

 まず、血液を浄化することです。血液が濁っていると、脳細胞に悪い影響をもたらします。血液を浄化させるだけで、精神病や心の病が、治るとまではいかないにしても、かなり軽減されることがあるのです。
 そして、血液を浄化するために大切なのは、腸をきれいにすることです。血液は骨髄から作られるというのが医学の常識になっていますが、一方で腸から作られるという説があります。有識者の話を聞きますと、骨髄造血説の根拠はけっこうあいまいで、むしろ腸造血説の方が信憑性があるように私には思われます。いずれにしろ、腸をきれいにすることで血液が浄化されることは間違いありませんから、便秘をしたり、宿便をため込んだりせず、腸内環境を整えるということが、精神の病を癒すために非常に重要になってくるのです。

 次に、血液の浄化と関連しますが、栄養にも注意する必要があります。とくに気を付けなければならないのは、糖分の取りすぎです。脳細胞はブドウ糖をエネルギーとして活動するのですが、糖分の取りすぎでブドウ糖が血液のなかに含まれすぎると、脳神経に過剰なエネルギーが流れ込んでしまい、神経を疲弊させたり、異常に興奮させてしまったりします。ブドウ糖は急激に濃度が下がりますから、今度はその落差の大きさに脳神経細胞が困惑させられ、正常なバランスを失ってしまうのです。お菓子や清涼飲料水などの取りすぎにより、血糖値を急激に上げたり、慢性的に血糖値が高い状態にならないようにすることが、精神の病を癒すためには大切になってきます。ちなみに、血糖値の高さは老化を早めるという研究も最近では出てきているようです。

 次に、脳内ホルモンの分泌を整えることです。これにはいろいろな方法がありますが、単純でありながら効果的な方法は、早寝早起きです。夜行性の動物は別として、人間は昼に起きて夜は眠るようになっています。そのリズムで脳内ホルモンが調整されているのです。したがって、夜更かしをしたり、昼夜逆転の生活をすると、脳内ホルモンが乱され、それが精神の病に悪影響を与えることになるのです。

 また、適度な運動をすることも有効です。運動をすることで、血液やリンパ液などの体液が循環させられて浄化したり、血行がよくなりますから、脳の生理状態をよくします。さらに、運動を通して脳細胞やからだ全体の細胞に刺激を与え、それも脳の機能を健全なものにして、結果的に精神的な病を改善させる影響を与えるのです。

 以上のようにすると、脳の生理環境が改善され、精神的な病の改善にいい影響を与えるのです。そして、このように脳の生理環境を改善する試みというのは、当然ながら、瞑想がうまくできる条件と言うこともできるわけで、そのまま覚醒にとって有効であると言えるわけです。

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 表現することで心の病は癒される


 どのような心の病であれ、自分自身を表現することによって、癒されたり改善することが大変に多くあります。
 そのためのもっとも手軽で有効な方法は、自分の話を人に聴いてもらうことです。いわゆる傾聴ということですが、これはカウンセリングの基本となっています。自分自身の思いや考えを人に話すこと、そしてそれが共感され理解され、またできれば称賛されることにより、心はしだいに調律されて健全に近づいていったり、病的な興奮が起きなくなったり、悪化をくい止めることができたりするのです。
 ただ、ここで問題になるのは、本当に親身になり、共感と理解と称賛をもって聴いてくれる人に恵まれるかどうかです。このような姿勢で人の話に耳を傾けるというのは、想像するほど容易ではありません。それなりの自制心と忍耐力、またエネルギーを要しますし、時間も必要です。まして、お金を払ってカウンセラーに話を聴いてもらうのではなく、善意による無報酬で話を聴いてくれる人となると、そういうボランティアもあることはありますが、必ずしもすべての人が恵まれているとは限らないでしょう。

 そこで、傾聴してもらうのが難しい場合は、自分の思いを文章や何らかの創作活動によって表現するという手段もあります。今はブログだとかホームページなどで、自分の思いを表現して不特定多数の人に読んでもらうことができます。文章を通して自分を表現することも、非常に大きな癒しの効果をもたらすことがあります。
 ただ、この場合、ある程度の文章能力が必要とされますので、話すことよりも少し難しいかもしれません。そのため、非常に混乱の強い心の病を持った人には向いていないかもしれません。
 むしろ、文章よりも絵画や音楽といった芸術活動の方が向いている人もいるでしょう。もちろん、芸術家になるわけではないので、上手に絵を描いたり音楽を演奏したりする必要はありません。好きなようにやればいいのです。芸術的な創作活動をすることも、心を癒すのに貢献します。実際、芸術療法という心理療法もあるくらいです。
 その他、人によっては、ダンスなど体を使うものもいいでしょう。編み物でもいいですし、料理なども、自分を表現する活動として見てもいいかもしれません。

 なぜ自分を表現すること、またそのために創造的な活動をすることが心を癒すかというと、人間の本質は生命であり、その生命は究極的には神を源流にしているからです。つまり、神は自分を表現しようという欲求を持ち、そのために創造的な活動をしている存在だと思われるからです。したがって、その欲求を解放させることが、生命力を解放させることになり、そうして解放された生命力によって自らを癒していくのです。
 神の属性とは何かといえば、それは創造と愛の二つでしょう。したがって、心を治癒する場合でも、「創造と愛」の欲求を解放させる方向に向かっていくことで、実現されていくのです。
覚醒も同じです。創造的な生き方、愛の生き方をすることによって、成就へと向かっていくのです。


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 心の病の治癒に関して


 このブログは、「心の治癒と魂の覚醒」というタイトルの通り、「心の治癒」についても扱うことになっています。ただ、究極の「心の治癒」は「覚醒」であると考えていますので、今までは表だって「心の治癒」についての話題は取り上げてきませんでした。つまり、覚醒の道を歩むことが、そのまま心の治癒につながるからです。
 ただ、心の治癒の問題に焦点を絞って考えていくことも意義があると思いますので、今後はこのテーマについても取り上げていこうと思っています。究極的にめざすところは同じですから、心の治癒に関するテーマでも、「覚醒に至る道」について論じられているという読み方ができると思います。

 さて、統合失調症や鬱病、神経症、パーソナリティ障害、学習障害、注意欠陥・多動性障害といった精神的な病、あるいは、不登校や引きこもり、リストカットなどの自傷癖や摂食障害などの問題も含めて、こうしたことを癒すために、さまざまな理論や方法が提案されています。私は精神科医や医師ではないので、これから述べる意見はあくまでも個人的な考えにすぎないことを、あらかじめお断りしておきます。
 私の考えでは、心の病を癒すためにもっとも大切なことは、心の病を抱えた人を必要以上に「特別視」しないということです。本人も周囲も社会もです。もちろん、必要な援助やケアはしなければなりませんが、私が言いたいのは、まるで普通の人とは違う異質な人であるかのように見なすべきではない、ということです。
 たとえば、友達が風邪を引いてフラフラしていたとしても、その友達を「異質な人」とは見ないでしょう。ところが、統合失調症であると言ったら、それだけで周囲の見る目が違ってくるのです。一歩か二歩後ずさりされるような印象を受けるかもしれません。その上、精神病院に通院しているとまで言ったら、まるで違う人種か、ひどい場合はまるで悪性の伝染病にでも侵されているかのような接し方をされてしまったりするわけです。実際、社会から隔離されたり、特別な治療や処遇を強制されたりすることもあります。
 しかし、このように特別視されてしまうことが、実際には心の病を癒すことを妨げているように、私には思われるのです。

 この社会というものは、人生の不幸や苦しみを連想させるものからは目を背け、排除しようという傾向があります。精神的におかしくなってしまった人も同じように扱われたりします。
「世の中には、こんなにも苦しくひどいことが起こり得るのだ」
 このように思って人々は恐怖を覚えるからです。そんなひどいことが自分の身にも起こらないとはいえないという恐怖心が煽られてしまうのです。
 そこで、さまざまな考えをめぐらします。「こういう人は前世で悪いことをした罰なのだ(私はそこまで悪いことはしていないはずだから大丈夫だ)」とか、「こういう人の近くにいると因縁をうつされて自分もああなりかねない」などと考え、近くに寄らないようにしたりするわけです。そして、こういう人が人目につくような場所にいることを、露骨ではないにしても、そのまなざしや態度や雰囲気で嫌悪するのです。
 あるいは、このようなひどい接し方はしなくても、「こういう人たちは憐れむべき人たちだ」と考えて、やはりある種の差別的な接し方をして特別視するのです。

 また、不登校や引きこもりの子供というものも、世間から特別視されます。確かに、学校へは行くものという社会の規範に照らせば「特別」であり「異常」なことなのでしょう。しかしそれ以上に、人間存在の根底部分から特別視され、異常視されてしまうわけです。
 たいていの場合、このような子供の問題や、あるいは学校の成績が悪いといった「出来の悪い子供」に対して親が悩むのは、子供自身のことを考えているという理由もあるでしょうが、むしろ世間から自分が批判されたり悪く思われることを怖れているという理由も少なくないのです。つまり、「出来の悪い子供」になったのは、「親の出来が悪いからだ」と世間から思われるのを怖れているわけです。実際、世間ではそのように思う傾向が強くあるでしょう。そのために、非常に大きく騒がれ、問題視され、怖れられ、忌み嫌われているのではないかと思われたりもします。
 そして、このような傾向が、登校拒否や引きこもりの子供をますます追いこんでしまっていると私は考えているのです。誰だって学校に行きたくないときはあります。しかし、ちょっとでも学校に行かない日が続くと、「登校拒否児」というレッテルを貼られ、親や周囲から責められ、まるで人間として劣っているかのような傷を子供に与えてしまうわけです。
 登校拒否の子供は、単に学校に行かないというだけであり、引きこもりの子供は、ただ部屋に閉じこもっている、というです。それ以上でもそれ以下でもありません。

 病気や問題行動に「名前」をつけることは、それを認識しやすくなるという利点がある反面、名前をつけたがために、その名前にとらわれ、ますますその病気やトラブルに追い込まれてしまうという否定的な面もあるように思います。
 いずれにしろ、心の病気やトラブルが起こると、治療や矯正という名目で、特別な存在として扱われ、ときには社会から隔離したり、友人たちと隔離させてしまったりします。しかし、それが問題なのです。もちろん、周囲に暴行を働くとか、甚大な迷惑をかけるような場合は隔離も必要でしょうが、そのようなケースはそれほど多くありません。
 心の病を癒すには、この社会全体が、「心の病」を抱えた人、あるいは人生にほんのちょっとつまづいただけの人を特別視することなく、おおらかに受け入れることが非常に重要なのです。できれば「心の病を抱えた」という認識さえ持たない方がいいでしょう。あたりまえの存在として付き合うのです。
 そして、それが「世界」というものではないでしょうか。
 世界というものは、いいこともあれば悪いこともあり、都合のいいことも起これば都合の悪いことも起こります。それが世の中の真実です。見た目がきれいで幸せなものだけしか見たくない、そういうものは存在してはならないのだ、という非現実的なある種の潔癖症に、私たちは侵されているように思います。いわゆる「除菌」関連の商品が人気があるというのも、強迫的で非現実的なまでの潔癖症が根底にあるのかもしれません。

 むかし、赤塚不二夫の『おそ松くん』という漫画がありました。そこには、いわゆる「知的障害児」と思われる子供が登場します。鼻水を垂らしながら「北海道のケイコさん~」などと意味不明のことを叫びながら走っていくのです。いまこの漫画がテレビ放映されたら、「差別だ! 知的障害児をバカにしてるのか!」などといった抗議が来るかもしれません。
 しかしこの漫画には、こういう障害児も含めてすべてを受け入れていくあたたかさが漂っています。実際、この漫画がテレビ放映されていた昭和40年代くらいは、近所にこういう子供がいて、「おまえ、へんな奴だな」などとからかわれながらも、普通の子と一緒に遊んで世話をしてあげるような連帯感がありました。お風呂屋さんに行けば、それこそ身体が不自由な人、精神が病んだ人もいれば、入れ墨をしている人、お年寄りなど、さまざまな人がいて、そこが子供にとって世の中の真実を見るとてもよい場所となっていました。また、そこでいろいろな人とうまくコミュニケーションする能力、ときには助け合う精神を学んだりしたものです。裕福とはいえない環境で育った私なども、ずいぶん銭湯に通いました。冬の寒いときなど銭湯に通うのが辛く、家にお風呂がある家庭がすごく羨ましく思いましたが、今にして思えば、銭湯通いをしたことはとてもよかったと運命に感謝しています。
 心の病を抱えた人は、ちょっと変わっているという程度で普通の人として受け入れられ、仲間として認められ、あたたかく受け入れられて交流し合う環境が、病を癒すうえでもっとも大切な要素となるのです。
 なぜなら、そのような環境というのは、心理カウンセリングや心理療法のエッセンスが非常にいい形で自然に盛り込まれているからです。すなわち、共感的な思いやり、人間としてありのままに受け入れてもらえているという安心感、一体感です。心の病というものは、このようなものによって癒されていくのです。
 もちろん、こうした社会の問題は、私たち個人がすぐにどうこうできることではありませんが、これは重要なことなので、まずは提起させていただきたいと思うのです。
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 中傷に対する姿勢


 最近、このブログに、私に対する中傷のコメントを寄せてくる人がいます。失礼ながら、よくこんなことを書いて恥ずかしくないな思うような内容です。このようなコメントを真面目な読者の皆さんの目に触れさせるのは申し訳ないので、投稿は削除させていただいています。
 中傷ではなく、紳士的な態度で寄せてくる批判ならば、私は大歓迎です。このブログの一番最初にも書いていますように、私がこのブログで書いていることは絶対に正しいなどというつもりはなく、私自身が求道の途上にありますから、あくまでも暫定的で仮定的なものにすぎません。ですから、批判をいただけるというのは、私にとっては非常にいい勉強と成長の機会なわけで、有り難いと思っています。「これはこういう理由で間違っていると思いますが、いかがでしょうか?」といって、根拠を示して指摘するのが批判です。もちろん、その批判をそのまま受け入れるわけではなく、納得がいかなければ反論はしますが、検討してみて、私が間違っているとわかったら、私は正直に自分の非を認めるでしょう。その点では、へんなプライドはありません。というより、自分が間違っていたら素直に非を認めるということが、私のプライドです。
 しかし、ここ最近寄せられてくるのは、私のどこがおかしいといった根拠も何も示さず、(私から言わせれば)ひとりよがりの妄想にかられて、私の書いたものではなく、私自身や私の活動に対する皮肉や悪口が、お世辞にも上品とは言えない表現で書いてくるわけです。つまり、悪意を持って、私の気分を害することを目的としていることがあきらかなのです。
 確かに、あまりいい気分はしません。悪口を言われたからではなく、汚物を見たような不愉快さを感じます。

 このような中傷や悪口を、インターネットの匿名性を利用して寄せてくる人間というのは、どこか病んでおり、いい仲間にも恵まれず、幸せではないのだと思います。不満でくすぶっているのでしょう。いい人間関係に恵まれ、幸せで満たされている人が、中傷や悪口を言うことはまずありません。結局、批判ではなく中傷や悪口というのは、自分の不満を適当な人を見つけて吐き出しているにすぎないのです。その意味では、可愛そうな人だと言えそうです。不遇で不満にくすぶっていれば、人を中傷したくなったり悪口を言いたくなる気持ちも、わからなくはありません。
 しかし、不遇で不満にくすぶっていても、中傷や悪口は決して言わない人もいます。そういう人は真に強い人であり、高潔で、本当の意味で宗教的であると思います。どんなに口先で宗教やスピリチュアルなことを述べても、中傷や悪口を言う人は、もうそれだけで宗教やスピリチュアルからは遠く離れていると思います。

 いずれにしろ、自分に訪れてくることはすべて意味があり教えであると思っていますので、今回、このような中傷のコメントが寄せられてきたことを、私はいろいろ考えて学ぶチャンスと考えました。そしてまず、自分の心がどれだけ平静でいられるか自分を見つめてみました。そうしたら、思ったほど動揺せず平静でいられたので、自分も多少は修行の成果が出てきてマシになったかもしれないと、嬉しくなりました。また、このコメントをしてきた人に怒りや憎悪の気持ちが湧いたかどうか、自分を見つめてみました。コメントを読んで一瞬の間、少し怒りを覚えましたが、すぐにそれを意志の力で消すことができました。そして心の底から、「この人の心が平安になりますように」と祈ることができました。私はそんな自分をなかなか偉いと思いました。こう書くと自慢げで自惚れているようで恐縮ですが、正直、そう思ったのです。

 したがって、今回このようなコメントをもらったことで、逆に私は自分に自信を持つことができるようになりました。もしかしたら、それが今回の出来事が訪れた意味だったのかもしれません。その点では、コメントをしてくれた人に感謝しています。
 何かの本に「悪口や中傷をされたら喜びなさい。じっと耐えることで霊性が向上する」といった意味のことが書いてあったのを思い出しました。皆さんも、もし不当な中傷や悪口を言われたりしたら、感情的になって反抗するようなことはせず(そうしたら相手との間につまらないカルマを残すだけです)、心静かにじっと耐えるか、冷静に対応するようにしてみてください。そうすれば、きっと何かしらいいことが待っているはずです。

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どうしたら神を信じられるのか ②

 
 前回、申し上げたように、本当に神を信じているなら、何があろうと、すべては幸せになるために神が与えてくれた恩恵なのだと感謝し、心が乱されることはないでしょう。現状に対する不満、将来に対する不安を抱いているということは、神を信じていない証拠だと思うわけです。しかし、それを本当に信じて、何があっても完全に安心立命の境地でいられるというのは、なかなか難しいわけです。
 それでも、自分が神を信じていないことを認めるのが悔しいので、「これでいいのだ、これも幸せになるために神が与えてくれた恩恵なのだ」と、必死になって自分に言い聞かせるのですが、心の奥では、そんなことを信じていない自分がいるのです。心の底から信じ切れないのです。頭と心が分離してしまっているのです。そして、そんな自分を情けなく思うのです。

 しかし最近、私は以上のような発想そのものが間違っているのではないかと思うようになりました。
 というのは、ちょうど川の上流と下流のように、本質的には人間は神であると思いますので、本来は神と人間はひとつだとも言えるわけです。
 だとしますと、果たして神は「信じる」ということをするのだろうか?と思ったわけです。神は全知全能のはずですから、知らないものはないことになります。普通、信じるという行為は、「それがどのようなものかはわからないが、そうだと思うことにしよう」ということでしょう。つまり、「わからない」ということがあるわけで、それでは全知全能とは言えません。
 したがって、神には「信じる」ということはないと思われたのです。神は何も信じてはいないのではないでしょうか。
 神はただ、認識し、また意思するだけではないでしょうか。ちょうど私たちが、目の前にリンゴがあったとき、「私は目の前にリンゴがあると信じる」などと思ったりせず、ただリンゴがあることを認識するだけのように。また、歩こうとするとき「私は自分が歩けると信じる」などと思わず、歩こうと思った瞬間に歩くという行為をしているように。

 ですから、もし私たちが「信じる」ということをするならば、それは神とは異なった行為をしていることになるように思われます。つまり、信じるということ自体が、神との一致を妨げている可能性があるのではないかと思われたのです。
 とはいえ、私たちは現実には全知全能ではありませんから、わからないことだらけです。そうなると、仕方なく「そうだと思うことにしよう」といって、「信じる」しかありません。
 ただ、物質世界ではなく、死後、霊的な世界に移行すると、そこは完全に想念の世界であり、神に近い能力が発揮されるようです。つまり、何か考えるとその瞬間にそれが現実になるらしいのです。家が欲しいと思った瞬間に目の前に家が現れ、友達に会いたいと思った瞬間にその友達のところに移動すると言われています。何かを知りたいと思った瞬間に答えが与えられるといいます。
 つまり、私たちも、霊界へ行けば、おそらく「信じる」ということはなくなるのかもしれません。そこにあるのは、認識と、創造的な意思だけです。
 いわゆる「成功哲学」だとか「想念の魔術」といった本を見ますと、「念じたことは現実になる」と書いてありますが、実際、ある程度はその通りなのだと思います。ただ、物質世界は波動が荒いので、現実となるまでに時間がかかったり、霊界ほど完全には再現されないのでしょう。
 ただ、量子力学の世界では、観測者の意識が客観的な現象に影響を与えていると言われています。簡単にいうと、「こうだと思って観測すると、実際にこうなり、ああだと思って観測すると、実際にああなる」ことが実験でも確かめられているのです。これなどは、人間の意思の力が創造力を持っていることを示すひとつの証拠と言えるのかもしれません。量子とは微小のエネルギーのことですから、そのようなミクロの世界は波動が細かいので、霊界で起こっているような現象が起こるのかもしれません。

 こう考えますと、いわゆる「信仰」というのは、「信じること」ではなく、少なくても「信じようとすること」ではなく、やや語弊がある表現ですが、「こうだと決めつける」ことなのかもしれません。
 ですから、前回、何回も約束を破っている人など信じられないという話をしましたが、過去の実績によって信じられるとか、信じられないといったレベルではなく、神の創造的な意思によって「こうなのだ」と考える、そこからすべてが始まる、そういうものではないかと思ったのです。
 仮に、今まで通り、それを信仰とか「信じる」、「信用する」という言葉を用いると、信じるという行為は単なる受け身の行為ではなく、創造的な力そのものであるのかもしれません。つまり、信じること、それ自体に意義があるように思うのです。
 ですから、何回も約束を破られているのに、なおも信用することができる人がいたら、その人はすごい精神力の持ち主だと言えるわけです。そして、信用するというその行為自体が、ある種の創造的な行為となり、現実をその通りに変えていくように思われます。

 たとえば、小説の話ではありますが、『レ・ミゼラブル』のミリエル司教は、まさにそんな人でした。ジャン・バルジャンに宿を提供したのに、その善意が裏切られ、銀の皿を盗まれたのです。普通だったら、そんな人を誰が信用するでしょうか? どうせまた同じことを繰り返すに違いないと思うでしょう。しかし司教は、ジャン・バルジャンを信用し、銀の燭台まで与えたのです。
 私は、ジャン・バルジャンの未来を決めたのは、このときのミリエル司教の「信じる力」ではないかと思うのです。もしこのとき司教がジャン・バルジャンのことを少しでも疑っていたら、ジャン・バルジャンは、その後の人生を無私の愛で生きることはなかったと思います。
 とはいえ、誰が見ても、実証的には、ジャン・バルジャンを信じるなどは愚かな状況でした。前科者であり、すでに司教の善意を裏切った人間なのですから、彼を信じることなど、普通はできない状況です。それでも信じる人がいたら、「バカだ、お人好しだ」と思うでしょう。しかし、さすがにミリエル司教のような非凡な霊格の持ち主は、こういう状況で信じることができたわけです(正確に言えば、創造的な意思を発揮したのです)。そうして、一人の人間を救ったのです。信じるというのは、単なる心の状態ではなく、能動的なひとつのパワーなのだと思います。
 結局、信じるということは、実証や実績の結果として芽生えるものではないのかもしれません。そういうのは取引の世界だけのことです。宗教や信仰の世界は、取引の世界ではありません。信じることが第一原因なのです。つまり、信じることからすべてが始まるのです。第一原因としての信じる行為は、ひとつの創造的な力であり、おそらく神を源流としているように思われます。それが「信仰」の正体ではないかと思ったのです。

 したがって、「信じていれば、こんないいことがある」という取引の発想は、宗教の世界における「信じること」にはなりません。結局そういう発想では「信じても何もいいことなんかない」ということになってしまいます。過去の実績があるから信じられる、実績がないから信じられない、という問題ではないのです。宗教の世界で信じるというのは、実際には「そういうものと決める」ことなのです。そして決めたら疑いの念が心に入り込むことを断固としてはねつけるのです。「すべてが神の導きだと信じる」というよりは、「すべてが神の導きだというのが事実である」と「決める」のです。そうして後から、それについていろいろと疑念が湧いてくると思いますが、そうしたものを一切脳裏に寄せ付けない精神力を持つべきなのです。そういう疑念が起こっても、徹底的に消してしまうことができるまでに、ある種の瞑想力のようなものを身につける必要があるわけです。また、すぐに願い通りの結果が現実として得られなくても、まったく疑念の念を抱かずにひたすら自分が「決めたこと」だけに意識を向け続けるのです。
 雑念が湧かなくなるほど瞑想力を鍛えれば、このような「信仰」が持てるかもしれません。そのためにはやはり、修行を積んでいかなければなりませんが。

 したがって結論を言えば、私は何が間違っていたかというと、「神がすべてうまくやってくださる」という思いを、科学者のように過去のデータで「実証」しようとしたこと、また、そのように思った後で「でも、実際にはそうはならないだろうな」という疑念が意識に入るのを許していたことではないかと思うのです。
 信じるというのは、「こうなのだ」と決めるところから始まる「創造的な意思」なのです。霊界の住民も神も、みんなそうしているのです。

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