心の治癒と魂の覚醒

        

 他人事のように自分を見る


 覚醒に至るには、感情や欲望にとらわれないことが必要不可欠のようです。怒りや嫉妬や悲しみといったネガティブな感情はもちろん、喜びと言えども、有頂天になるほどの過剰な感情も、覚醒を妨げるものと考えられています。
 しかし、出家して孤独な生活をしているならともかく、世俗に生活している私たちは、とにかくいつも感情を乱されるようなことばかりではないでしょうか。職場では不愉快な人間関係やきつい仕事に悩まされ、家に戻ればそこは必ずしも「憩いの場」とも限らず、さまざまな家族の悩みで感情が乱されます。街を歩いたりテレビを見たりすれば、物質的な欲望を刺激するものに溢れています。怒り、憤り、恨み、憎悪、不安、悲しみ、寂しさ、失望、妬み、欲望など、きりがありません。
 もっとも、ある意味では、そういう厳しい環境におかれていることは、ある種の「トレーニング・ジム」に行ったようなもので、心を制御する力を鍛えるには絶好の場であるといえなくもありません。ただ、それは相当にきついでしょう。
 感情を制御して静謐にさせることほど、世の中で難しいものはないように思えます。理不尽な扱いを受けて、腹の底から煮えくりかえるような怒りや憎悪が湧き上がっても、その燃えるような火を消して平和で静かな心にさせるというのは、何と至難の技であることか。たとえ、怒りという行動に出ることがなくても、その怒りを心の中で燃やしているのでは、単なる「我慢」に過ぎず、本当に心を制御していることにはなりません。我慢は抑圧を生み、やがて何らかの形で発散させなければならないか、あるいは鬱病にでもなってしまうかでしょう。我慢や抑圧ではなく、心のなかから完全に怒りの感情を消さなければならないのです。
 これは、相当難しいことではありますが、しかし、時間をかけて忍耐強く修行を続けていけば、少しずつ、達成されてくるように思います。
 私たちが感情に振り回されてしまう根源的な原因は、おそらく「私」という意識があるからだと思われます。「私」、「私のもの」という意識があるために、その「私」が何らかの形で否定されたとき、人は怒りを覚えたり、嫉妬を覚えたり、悲しみを覚えたりするわけです。
しかし、究極的な真理は、「私」というものは存在しません。「私」という意識は、幻想と言われています。存在するのは、「実在」、すなわち「神」であり「真我」だけです。「私」が存在しないのだから、「私のもの」も存在しません。ですから、何かに執着をしたり欲望を持つということも、それは実体のない幻想なのです。執着や欲望を持つ主体(つまり「私」)が存在しないのですから、どうして執着や欲望があるでしょうか。
 私たちは、なにかに執着している、なにかに欲望を抱いていると思っていますが、真実は「執着している錯覚」、「欲望を抱いている錯覚」をしているだけなのです。真実の私たちの姿は、なにものにも執着しておらず、欲望も抱いておりません。ただ単独で至福を味わっている存在です。喜びを味わうのに自分以外のものは必要ないわけです。それが神であり真我という存在です。
 もちろん、これは究極的な覚醒をした状態にして達成される境地なのですが、とりあえず私たちは、感情にとらわれないようにするために、「私」という意識を捨てるように努力していくことが大切だと思います。
 そのためには、自分自身を「他人事」のように見るようにするのも、ひとつの方法ではないでしょうか。私たちは、他人が腹立たしい目にあったり、悲しい目にあったりするのを見ても、(多少は同情したり共感したりしますが)自分のことのようには怒ったり、悲しんだりはしないでしょう。
 ですから、自分自身を「他人」のように考えるようにするのです。そうすれば、少しずつでも、感情へのとらわれから解放されてくるかもしれません。

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「新しい表現の会」での講話

すでにお知らせしておりますが、あさって9月28日(水)、午後7時30分より、東京新宿で「自分をアートにするための哲学」と題して、講話会を開きます。
まだ席にゆとりがありますので、予約なしで直接来場いただいても大丈夫とのことです。

話の内容は、霊的世界はどのような構造をしており、そのなかで神はどのように働いているか、また、輪廻転生の実像と、解脱するための方法などについて、総括的に話をする予定です。

お時間ありましたら、どうぞ、いらしてください。

よろしくお願い申し上げます。

開催日:2011年9月28日(水)
OPEN:19:00
START:19:30

第一部:講演:斉藤啓一
第二部:ワークショップ 朗読と音楽とのコラボレーション:斉藤啓一 × 金大偉(アーティスト)

会費:2000円

会場:One Kitchen
新宿区荒木町3-26 サウスウィング荒木町202


 詳細は「新しい表現の会」まで
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 教えを活かすこと


 インターネットもテレビもなく、本や新聞、すなわち印刷技術もない大昔の時代では、覚醒に至る教え、宗教やスピリチュアルに関する教えを耳にするというのは、大変なことだったと思います。まず、すぐれた教えを説いている聖者を見つけなければなりません。しかし情報媒体がほとんどないその時代では、「口コミ」しか聖者を知るチャンスはなかったと思います。また、そんな聖者の存在を耳にしたとしても、その聖者に会いにいくには、それこそ何日もかけて苦労して、もしかしたら大変な危険を冒して長旅をしなければならなかったかもしれません。そうしてようやく聖者のもとにたどりついて、聖者から覚醒のための教えを聴けるのです。現代とはまったく違う大変な時代です。
 ところで、その結果、聖者は次のような教えをぽつんと言ったとします。
「悪いことはしてはいけません。善いことをしなさい」
 命がけで旅をしてきた結果、耳にした教えが、こんな陳腐なものだったとしたら、皆さんはどう感じるのでしょうか。力が抜けて、がっかりしてしまうかもしれません。
 けれども、命がけで聖者のもとに来て、ようやくの思いで聖者に会うことができた人は、聖者から発せられたその言葉の重みというものが、まるで違うのではないかと思います。
 彼はきっと、真剣に考えるでしょう。
「悪いことはしてはいけないのだ。善いことをしなければならないのだ。だが、悪いこととは、何だろう? 善いこととは何だろう? また、どうやってそれを実行したらいいのだろう?……」
 彼は、考えに考え抜き、そして、それを実際に行動に移すために、全身全霊で力を尽くすでしょう。その考え抜くプロセスと行動は、まさに修行そのものです。そうして彼は、高い宗教的な境地を獲得し、覚醒するかもしれません。

 一方、情報社会といわれる世界に住んでいる私たちはどうでしょうか。
 私たちは、豊かな情報を得ることができます。日本はおろか、世界中の情報を得ることもできます。しかも、インターネットなどを通して、無料で瞬時に情報を得ることができます。古今東西、あらゆる聖者の教えを知ることができます。しかも、ひとことふたことではありません。朝から晩まで読んでも終わらないくらい、膨大な量の教えを知ることができます。さらにそのうえ、その教えはとても複雑であったり、すぐには理解できないほど深かったり、深遠であったりします。
 こんな時代に、「悪いことはしてはいけません。善いことをしなさい」などという教えを説く人など、誰もいないでしょう。仮に私がそのような言葉をブログで説いたとしても、誰も読まないでしょう。そんなわかりきったことを説いてどうするんだなどと、笑われるのがオチでしょう。今日では、誰も説いていないような独創的なこと、複雑で知的興味をそそるようなこと、オカルト的で現世利益的なことでも説かない限り、誰も耳を傾けてくれないでしょう。
 そうして、私たちは、知識だけは膨大なものを頭に吸収しているのです。
 しかし、そのために、食傷気味になっているのではないでしょうか。知識の摂取過剰で頭が「メタボ」になっているのではないでしょうか。「知識の生活習慣病」になっているのではないでしょうか。
 その結果、「悪いことはするな。善いことをせよ」という、私たちが“わかりきったこと”さえ、実際には満足にできていない状況になっているのではないでしょうか。
 本を読んでも、そのすばらしい教えは右から左へと頭のなかを素通りしていくだけで、「すばらしいことが書いてあるなあ」と感動はしても、まるで映画のように、本を閉じた後でも、本を開く前と何も変わっていないのです。要するに、単なる娯楽になっているのです。実践しなければ、教えというものには、何の意味もありません。
 とはいえ、次から次へといろいろな、しかも興味をそそるような教えが出てきますから、これを学ぶだけで時間が取られているわけです。本やインターネットを読むだけで、じっくりと自分の頭で考え込み、それを実行する努力をするという時間がなくなってしまうわけです。
 これでは、学者にはなれるでしょうが、覚者にはなれません。
 もちろん、知識を取り入れることは大切ですが、これだけで終わっているというのは、まったく意味がありません。知識の吸収だけに時間を取られていたら、それだけで人生は終わってしまいます。
先に紹介した『ブッダのことば』などから推測すると、側近であるわずかの弟子を除き、ブッダの教えを豊富に耳にすることはなかったようです。それこそ、ほんのわずかな教えを耳にしただけで、後は独りでその教えについて深く考えて、自分の血肉にしていったと思われます。ブッダの口から出る一言一言が、宝石のように貴重なものとして大切に受け止められていたわけです。そうして覚醒した人も少なからずいたようなのです。
 情報がたくさん入手できることは、必ずしも有利とは言えないのかもしれません。魔法のようにパッと覚醒できるような教えなど存在しないのです。結局は、「悪いことをするな。善いことをせよ」という、シンプルな教えに還元されてしまうのではないかと思います。問題は、私たちが、教えをいかに大切なものとして受け止めるか、ではないでしょうか。真剣に取り組むならば、「悪いことはするな。善いことをせよ」という、たったこれだけの教えでも、覚醒できるかもしれません。少なくても、知識の吸収だけに力を注いでいる人より、はるかに覚醒に近いということは確かだと思います。


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 人間として当たり前のこと

 若い頃は、覚醒修行に関するセミナーや道場などによく行きました。そして、いろいろな人(修行仲間)に出会いました。
 ただ、人のことは言えませんが、心から尊敬するような人にはあまり会ったことがありません。
 確かに、熱心に修行に励んでいる人はたくさんいました。ここでいう「修行」とは、瞑想や呼吸法、アーサナ、あるいは断食や滝行といったことです。また、覚醒に関する高邁な知識を豊富に持っている人もたくさんいました。
 そういう努力や知識には感心しながらも、人間としてすばらしいと感じた人はあまりいませんでした。なかには、尋ねてもいないのに、「自分はこんなすごい苦行をしてきた」などと自慢げに話したり、知識をひけらかすような人もいて、こういう人たちは自分の凄さをアピールしたいのでしょうが、そのような言動は軽薄に感じられ、心を動かされるようなことはありませんでした。
 むしろ、私が尊敬を覚えるような人は、覚醒だとかスピリチュアルとは無縁の、世俗的な世界で多く出会ったものです。たとえば、油まみれになりながら額に汗を流して働く工場労働者といった人のなかにです。こういう人たちのほとんどは、スピリチュアルな世界にはまるで関心がなく、覚醒などといっても、概念そのものも理解できないでしょう。世間的な意味でいう「学問がない」人も少なくありません。
 しかし、人間としてきわめて当たり前のこと、たとえば、仕事は手を抜かず誠実に責任を持ってきちんとやる、仕事ができない人がいたらバカにせず親切に教えてあげる、威張ったりしない、あいさつはきちんと交わす、何かしてもらったらきちんと礼をいう……、こういうことは、けっこうしっかりとできているのです。
 厳密に比較対照したわけではないので断言はできませんが、スピリチュアルにかぶれた人よりは、しっかりとできているのではないかという気がします。スピリチュアルにかぶれた人は、常識がないと言いますか、人間として当たり前のことさえも満足にできない人がけっこう多いです。
 たとえば、何かしてもらったらきちんと礼を言うというのは、基本中の基本ではないかと思うのですが、スピリチュアルな世界の人にはこれさえもできない人が少なくありません。私など、ときどき読者から質問のメールをもらったりするのですが、一応返事を出しています。メールがない時代は手紙でした。それに返事を書き、封筒に宛名を書き、切手を貼ってわざわざポストに投函します。当時は返事を出すにしても大変でした。返信用の切手が同封されているなどはめったにありません。切手のお金はともかくとしても、返事をひとつ書くだけでかなりの時間と労力がかかります。しかし、そうして返事を出しても、それに対してお礼の返事が来る率は、半分くらいなのです。メールの時代になると少しアップしましたが、それでも、何も返事がないという人も少なくありません。
 また、これはスピリチュアルというより、倫理に関する本でしたが、「人は善い行為をしなければならない」といった内容の書かれた倫理の本を図書館で借りてきたところ、あちこちに線が引いてあり言葉が書きこまれてあるのです。それだけを見ると、これを書き込んだ人はそうとう熱心に勉強している様子が伺われるのですが、問題はこれが図書館の本だということです。公共の本をこうして汚して読みにくくすることは人に迷惑をかけていて倫理に反するということが、わからないのでしょうか? 熱心に倫理を学んでいながら、まったく倫理に反する行いをしているわけです。
 また、これはむかしの私の友人ですが、彼は「自分はキリスト教徒である」とまわりに宣言していながら、いつもひどい口調で人の悪口ばかり言っていました。そのことが、愛の宗教であるキリスト教の精神とまったくかけ離れていることが、なぜ理解できないのか不思議でした。

 このように、頭と行動とが完全に分離している人が、けっこういるのです。宗教やスピリチュアルや倫理の世界も例外ではないわけです。先日、推薦図書として紹介した『ブッダの言葉』などを読んでも、ブッダが弟子に向かって「他の弟子の悪口を言ってはならぬ」などと注意している言葉が見られます。他にも、きわめて基本的な事柄に対して「こういうことはしてはならない」と注意しています。出家して(つまり世俗とは縁を切って)、お釈迦様の弟子になり、清らかな仏道修行に入ってもなお、世俗の人でもできる人はちゃんとできる人間として基本ができていない弟子が、けっこういた様子が伺われるのです。
「愛だ、感謝だ、神だ、カルマだ、宇宙法則だ」などとスピリチュアルなことを言っても、人間として基本中の基本ができていなければ、どうしようもないと思うのです。スピリチュアル以前の問題であり、霊的に進化するよりもまず、人間として進化する必要があるのではないでしょうか。人間の基本もできないような人が、いくら覚醒修行をしても、覚醒できるとは、私には思えないのです。
 覚醒だとか、スピリチュアルな道を歩むと、どこか「自分は人とは違う、すぐれた人間なのだ」といった、ある種の差別意識や傲慢さが芽生えてくるのかもしれません。そういう人は修行よりも、工場労働者になって汗と油にみまれることをお勧めします。その方が、へたに瞑想や修行をするより、ずっと霊的な成長を促してくれるでしょう。
 人間として当たり前のことは、当たり前にできるようにする。これをなおざりにすることは、覚醒の道にとって最大の障害であると、私は思うのです。


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 推薦図書 『ブッダのことば』 中村元訳 岩波文庫

 推薦図書 『ブッダのことば』 中村元訳 岩波文庫
     『ブッダの 真理のことば/感興のことば』 中村元訳 岩波文庫


 今回は、姉妹編ともいうべき2冊の本を同時に推薦させていただきます。
『ブッダのことば』と『ブッダの 真理のことば/感興のことば』です。前者は「スッタニパータ(経集)」、後者は「ダンマパダ(法句経)」と呼ばれる経典の訳です(現在、NHKでこの経典に基づく「ブッダの真理のことば」という番組が放送されています)。
 いわゆる経典やお経というものは世の中にたくさんあり、「法華経」や「般若心経」などが有名ですが、こうした経典のほとんどは、釈迦の死後数百年たってから、さまざまな人によって創作されたものです。したがって、それらは必ずしも釈迦の教説をそのまま伝えたものとは限りません。
 釈迦は、自ら書を残しませんでした。釈迦の教説は、弟子たちの記憶をもとに文書化されたものが、今日伝わっているだけです。そのうち、もっとも古いものが(つまり、もっとも釈迦の教説を忠実に表現していると考えられるものが)、「スッタニパータ」であり、「ダンマパダ」なのです。
 これらは、釈迦の教説が詩の形をもって語られており、難解な仏教理論といったものはまったくありません(それは後の学者が勝手に作ったものです)。非常にシンプルで素朴な、それでいて含蓄の深い言葉がたくさん並べられています。これを見る限り、釈迦は素朴な言葉で弟子達に教えを説いていたように思われます。
 たとえば、「慈しみ」と題された部分には、次のような言葉が語られています。

 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。
 能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
 足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない。
 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
 ……
 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

 このような感じの文章が綴られています。
 この本は、覚醒の道を歩むための求道の姿勢を保ち、励ましを得たり、襟を正したりするために、毎日少しずつ読むのがいいと思います。

推薦図書(覚醒編) | コメント:5 | トラックバック:0 |

 感情への執着を捨てる


 私たち人間がこの地上に生まれ変わる理由は、いくつかの視点から説明できると思いますが、ひとつには、この地上に引かれてしまうからです。この地上で得られるさまざまな欲望や感情に執着し、それを経験することを求めているからです。
 考えれば、私たちは、地上の物質的なもの、そのものに執着しているのではないのです。その物質的なものを得たときに得られる感情的な満足を求めているわけです。
 ところで、その感情が心地よいものであるなら理解できますが、人間は怒りや悲しみといったネガティブで不愉快な感情にさえも、執着しているところがあるように思います。
 たとえば、わかりやすい例としては「自己憐憫」があげられます。くよくよと自分の不幸や悲しみを嘆いているわけです。そして、そうすることに、ある種の快感を得ているようなところがあるのです。
 怒りや悲しみなども、それは不愉快な感情なのですから、サッと捨て去ってしまえばいいようなものですが、私たちはそうしません。怒りや悲しみの感情にしがみつき、なかなか離そうとしないわけです。これは、感情に執着しているからです。

 いうまでもなく、怒りや悲しみといった感情は、自我(エゴ)の感情であり、魂(神)の感情ではありません。つまり、私たちが怒りや悲しみ、あるいは物質的な事物への欲情に支配されているときの心は、本当の自分の心ではないのです。偽りの自己に振り回されているわけです。
 私たちが地上に生まれ変わってしまうのは、こうして、偽りの自己(の心)で生きているからです。偽りの自己を本当の自己だと錯覚しているからです。覚醒するには、偽りの自己ではなく、本当の自己で生きるようにしなければなりません。
 私たちの本当の感情というのは、魂(神)の感情であり、それは平安、至福、愛です。至福といっても、エゴが感じるような興奮した喜びではなく、平安を伴った喜びです。
 したがって、覚醒(解脱)するために大切なことは、常に心を神に向け、神の感情である平安、至福、愛が湧き出るようにすることです。といっても、それは湧き出させようと思っても湧き出るものではないでしょう。もともと私たちの本質は神なのですから、湧き出たせる必要はありません。私たちはすでに、平安と至福と愛のなかにいるのです。
 ただ、そのような感情を、エゴがかき乱しているのです。たとえるなら、美しい音楽が響いているのに、近くでけたたましい騒音がしているため、その音楽が聞こえないようなものです。
 つまり、エゴの感情さえ捨てれば、自然に平安、至福、愛の感情で満たされるわけです。
 ですから、私たちがすることは、平安、至福、愛以外の感情が湧いたら「これは私の心ではない。私にはまったく関係がない」として、まるで他人ごとのように(実際、それは“他人”なのです)、その感情に執着せず、さらりと受け流すようにすることです。これを、起きている間、ひたすら根気よく続けていくのです。
 これが、覚醒するためには絶対に必要だと思います。いくら毎日1時間の瞑想を行い、そのときだけ自分の心を神に近づけたとしても、残りの時間をエゴの心で生きていたら、何にもなりません。
 これはしかし、容易ではありません。感情というものは、それが愉快なものであれ不愉快なものであれ、私たちに「生きている」という刺激や興奮を与えます。エゴはそれを食べて生きているのです。そのエゴの食料である感情を次々に「これは私とは関係がない」といって捨てていくわけですから、エゴを本当の自分だと錯覚している私たちにとっては、何となく自分自身が虚ろになっていくような、まるで存在そのものが消えていくような感覚になっていくはずです。
 もちろん、存在が消えていくのはエゴに過ぎません。本当の自分が消えていくわけではないのです。それどころか、本当の自分を「復活」させているのです。やがて少しずつ本当の自分が目覚めてきて、平安や至福、愛が心を満たすようになるはずです。

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 容赦なき神の愛


 私が宗教やスピリチュアルな世界を探求する際には、ある姿勢を貫くことをモットーにしています。というより、その姿勢が自然になっています。それは、「地に足をつける」ことです。すなわち、現実をしっかりと認識しながら、宗教やスピリチュアルな世界を探求することです。
 スピリチュアルな世界でしばしばうんざりすることは、自分の都合のいい夢やファンタジーを追いかけ、現実から遊離して軽薄な点が見られることです。若い頃、そういう人たちの集まりに行き、そこで私が現実的な意見をいうと、たいてい嫌われました。彼らの「夢」を壊したからです。しかし、しょせん夢は夢です。
 そういう点でいえば、私はスピリチュアルな事柄にはクールなのです。前回は「神への情熱」を熱く説きましたが、今回はまったく逆のことをお話したいと思います。私はしばしば矛盾したことを言うので、人を困惑させたり、「二枚舌」を使っていると思われているかもしれませんが、この世界というものは、表と裏、陰と陽、光と影によってできており、一方だけを語ることは真実を語っているとは言えないと思うわけです。両方を語ることが真実を語ることではないでしょうか。そうなると、結果として矛盾したことを言わざるを得ません。しかし、霊的な覚醒は、この矛盾を乗り越えていくことにあるのだと思います。

 それでは、本題に入りたいと思いますが、それは、神を愛しているという人は、結局、自分で作り上げた「神のイメージ」を愛しているだけではないのか、ということです。ほとんどの人は、自分の都合のいい「神」を愛しているのです。
 それでは、神の実像とは、どのようなものなのでしょうか?
 神は愛であるというのが、少なくても神の定義でしょう。神が愛ではないとしたら、そのような存在を神と認めることはできないでしょう。ですから、神は人間を愛しているところから話を出発させたいと思います。
 誰かを愛するとは、その人が幸せになるように、喜びをもって生きられるようにすることだと言っていいと思います。もちろん、その幸せや喜びというのは、精神的また霊的なものです。
 そのために、神は試練(苦しみ)を与えます。あるいは、神そのものが試練を与えることはないが、自らのカルマの結果だとか、キリスト教世界では悪魔などの仕業によって、その人が苦しむのを「容認」することがあると言われています。
 確かに、人間は苦しみを通して成長するものであると、私も思います。
 しかし、その苦しみにも「限度」というものがあると思うのです。
 たとえば、自分の子供が本当に幸せになるには、その子供をめったうちにし、身体に障害を負わせ、醜い姿にし、そうして苦しい人生を送ることで、晩年にはすばらしい人格者となり、精神的な喜びをつかむと思ったとします。実際、その考えが正しいとします。
 しかし、そんなことができるでしょうか。骨が折れ、顔がつぶされ、「助けてください!」と必死に救いを求めているのに、「この苦しみを通して本当に幸せになれるんだよ」など言うことができるでしょうか。
 そのようなことができる親などいないでしょう。社会的にも、もしそんなことをしたら、犯罪となります。自分ではなく人がそうするのを黙って傍観していた場合もです。
 親からすれば、子供が立派に成長して幸せになることは望みながらも、そこまでの壮絶な苦しみを与えることはできません。それが、人間の「愛」というものです。そして、私たちは、この人間的な愛を神に求めています。そうして神に祈りを捧げているわけです。


 しかし、神の「愛」は、違うのです。神の愛は、人間の感覚からいえば、容赦というものがありません。
 神に祈れば、苦しみを救ってくれるものと、私たちは思っています。実際、祈って救われたという人もいるでしょうが、それが絶対的な事実ではないことは、少し考えればわかることです。たとえば東日本大震災で死んでしまった人は、誰も神に救いを祈ってはいなかったのでしょうか? たくさんいたと思います。しかし、祈りはかなえられませんでした。容赦なく津波に飲まれ、死んでいったのです。
 私たち人間は、「もう耐えられない」というほど打ちのめされ、神に救いを祈っているのに、それが叶えられるどころか、まだ足りないとばかり、さらに追い打ちをかけるように苦しみが訪れることも少なくありません。そうして、ついには精神がおかしくなったり、自殺をしてしまったりすることもあるのです。それは何という残酷でむごいことでしょうか。しかし、そうしたことが起こっているのがこの世の現実なわけです。

 たとえば、若いときからまじめにコツコツと働いてきた中小企業の社長が、不況などの影響で仕事がうまくいかなくなり、親会社からは無理な要求をつきつけられ、ついには膨大な借金を抱えて倒産し、家も失い、家族からも愛想尽かされて離縁され、何もかも失って小さなアパートでひとり孤独に暮らし、残された余生は借金の返済だけに生きるようになるといったことが、たくさんあるわけです。いい加減な仕事をしてこうなったのなら自業自得で納得もいくでしょうが、遊びも贅沢な暮らしも控えてひたすら真面目に働いてきた結果がこのような仕打ちだとしたら、それこそいったいどこに神がいるのだと思うでしょうか。一方で、不正なことをしているのに恵まれて豊かな生活をしている人が意気揚々と人を見下して生きている姿を見るなら、この世に生きる価値など、どこに見いだすことができるというのでしょうか。
 神は、それでも何もしてくれないのです。そういう苦しみを味わうことで、たとえば「カルマの清算」などをして、来世では幸せになれるといったような考えがあるからでしょう。

 これが、「神の愛」なのです。
 永遠である神から見れば、人間の一生など、たいしたことではないのかもしれません。また次の生まれ変わりがあると考えているのかもしれません。私たちの「命」など、私たちが考えているほど重いものではないのかもしれません。でなければ、こうも簡単に人が死んでしまう状態を、神が黙認している理由がわかりません。
 神のしていることは、人間社会のレベルでいえば「犯罪」です。親が保護者としての務めを果たしていません。人間社会からいえば、神は「犯罪者」なのです。

 問題は、このような神を、私たち人間は愛することができるかどうか、です。
 人生がうまくいっているときは、神を愛することは簡単にできます。「神様はありがたいな」と感謝することができます。
 しかし、神の容赦なき姿に接したとき、果たしてどれくらいの人が、神を愛することができるでしょうか。
 仮に、あなたの親が(あるいは他の人に頼んで)、「おまえを幸せにするために」という理由で、幼い頃にあなたをめったうちにし、そのためあなたは歩くこともできず、顔は醜く変型して誰からも愛されず、話すこともできないようなからだになっているとしましょう。果たして、あなたはそんな親を愛することができるでしょうか? たとえ「おまえの幸せのために」という動機からだったとしても、そこまでの苦しみを与えた(容認した)親を、愛することができるでしょうか。もしできるというのなら、世の中のすべての人を愛することができるのではないかと思います。
 神という親は、それを平気でやる存在なのです。現実を見ればそれがわかります。もちろん、すべての人がこれほど悲惨ではないでしょうが、これくらい悲惨な、場合によってはもっと悲惨な人生を送っている人が、現実にいることは事実なのです。
 このような苦しみのどん底に打ちのめされていてもなお、神を愛することができるならば、その信仰は本物だと思います。

 おそらく、そのような状況で神を愛することができるとしたら、人間の一生などたいしたことではないという考えを持たなければ無理だと思います。そう考えなければ、絶望と不条理の苦悩を味わう状況でも神を愛することは不可能だと思います。
 人生などたいしたものではないと思えば、私たちの人生に対する神の仕打ちも「たいしたことではない」ことになります。そうしたら、自分の幸せを願ってくれるという、その動機だけが重要となり、有り難いものと感じられるかもしれません。そうして、神を愛することができるかもしれません。
 人生をたいしたものであると思っているから、人生がめちゃくちゃになると憤りを覚え、神を呪ったり、神の存在を信じられなくなったりするわけです。
 ですから、私たちは、人生など、たいしたものではないのだと思った方がいいのかもしれません。「出世しなければならない」「成功しなければならない」「自己実現しなければならない」「人や世の中から認められなければならない」「人や世の中の役に立つ人間にならなければならない」といった思いなどは、捨てた方がいいのかもしれません。
 もちろんだからといって、投げやりに生きればいいと言っているわけではありませんが、過剰に「ひとかどの人間にならなければならない、人生を意味あるものにしなければならない」ということにこだわっているのは、よくないと思うのです。

 つまり、人生そのものに執着し過ぎるのも、よくないのです。人生は大切であると同時に、それほど大切ではないのです。世のため人のために偉大な業績を残して歴史に名を刻んだような人生も、誰からも認められず世のため人のために何かしたわけでもなく、ただ平凡に、あるいは苦しみに満ちただけの人生も、神の目から見れば、どちらも「たいしたことではない」ように思います。世の中に認められるような人間にならなければ、あるいは幸せにならなければ、その人生には価値がないという考えは正しくないのです。どんな人生にも価値はあるのです。ただ、人間が勝手に価値がないと思っているだけです。あるいは、どんな人生にもたいした価値はないのです。ただ、人間が勝手に価値があると思っているだけです。どちらも、事実ではないでしょうか。
 人生に執着せず、「人生を捨てた生き方」をすることです。人生に何も期待しないことです。そんななかで、自分に愛を向けてくれる存在の気配を感じたとき、私たちは、どのような状況におかれていようと、無条件に神を愛することができるのかもしれません。
 そのようにして神を愛することが、覚醒の道の極意なのかもしれません。

神への愛 | コメント:4 | トラックバック:0 |

トーク・ショーのご案内

 すでにホームページの方ではお知らせしておりますが、今月9月28日(水)、午後7時30分より、東京新宿で「自分をアートにするための哲学」と題して、小さな会合を開きます。講演会というより、少人数のトーク・ショーといった感じでしょうか。
 内容的にはもちろん、覚醒に関するスピリチュアルなテーマについてお話する予定です。ご都合よろしければ、ぜひご参加くだされば幸いです。

 よろしくお願い申し上げます。

開催日:2011年9月28日(水)
OPEN:19:00
START:19:30

第一部:講演:斉藤啓一
第二部:ワークショップ 朗読と音楽とのコラボレーション:斉藤啓一 × 金大偉(アーティスト)

会費:2000円

会場:One Kitchen
新宿区荒木町3-26 サウスウィング荒木町202


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 情熱


 何をするにしても、もっとも大切なのは情熱だ。
 情熱がなければ何も成就できない。覚醒の道も同じだ。情熱がある者だけが覚醒に至る。今その情熱が何に向けられていようと、たとえ煩悩に向けられていようと、情熱がある者こそが、もっとも覚醒に近い。
 惚れた男のために身も心も捧げ、家出までして駆け落ちをする女の方が、ぼんやりと祈りや修行に励む女よりも覚醒に近い。常識的な宗教者は、「そのような色情の煩悩にとらわれていては解脱など得られない。神からはほど遠い」というかもしれない。
 だが、そうだろうか。あとは「男」を「神」に差し替えるだけだ。彼女は惚れた神に身も心も捧げ、神のもとに行ってひとつになるために、すべてを投げ捨てて修行に励むだろう。
 女につきまとうストーカーも同じだ。女の愛をつかみとるまで決してあきらめない。女が帰るのを、自宅前で何時間も立ち続けて待っている。雨が降ろうと、炎天下であろうと。それは何という情熱と忍耐強さだろう。あとは、「女」を「神」に差し替えるだけだ。

 もちろん、それは容易になされることではないだろう。しかし、情熱のない者が情熱を持つよりは、はるかに容易である。
 情熱のない者が情熱を持つことは、まったく容易ではない。情熱を持とうという情熱があればまだいいが、そもそも情熱を持とうとさえ思わない。せいぜい「情熱があればいいな~」と、うすボンヤリと憧れるだけである。その程度の情熱で、いったい何が為しえるというのだろう。
 水に溺れかけている者は、「泳げないから死ぬしかないな~」などと、のんきに構えてはいない。必死になって手足をバタバタさせて助かろうとするだろう。それもある種の情熱だ。覚醒に至るには、そのくらいの必死な情熱が必要ではないだろうか。
 ただし、こういうネガティブな情熱よりは、前向きに追い求める情熱の方がよい。
 イエスは「求めよ、さらば与えられん。(天国の門を)叩け、さすれば開かれん」と言った。天国の門は、2、3回叩いたくらいで開かれるようなものではない。ありったけの力で拳を打ちつけ、何千回、何万回も叩き続けた末に、ようやく門番が根負けして開けてくれるのだ。結局人生というものは、障害と自分との根気勝負ではないだろうか。どちらが先に根負けするかだ。一時的な興奮ではない、持続された情熱、忍耐に裏打ちされた情熱こそが、求められるのだ。
 自分に気があるのかないのかはっきりしない男に、女は心を引かれることはないだろう。ある時は自分に好意を寄せて近づいてきたかと思うと、ある時は関心なさそうに別の方を向いている。そんな態度がはっきりしない男に、女は興味を示すことはない。ひたすら自分だけを見つめ続けてくれる男、ひたすら自分の愛を求め続けてくれる男、ひたすら自分に愛を捧げ尽くしてくれる男、そんな情熱的な男にだけ、女は心を引かれ、その男に愛で報いたいと思うだろう。
 神も同じではないだろうか。気まぐれで愛したり愛さなかったりするのではなく、全身全霊でひたすら愛を捧げ尽くしてくれる者にこそ、神もまた、愛で報いてあげようと思うのではないだろうか。
 情熱! 情熱! 情熱!
 情熱こそがすべてだ。

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