心の治癒と魂の覚醒

        

 道元の潔癖主義-続き

 前回、道元の尋常ではないエピソードについてご紹介いたしました。今回はその続きになりますが、これから私が申し上げることは、何の根拠もない単なる勝手な憶測であることを、最初にお断りさせていただきます。
 さて、世間の名誉に欲がくらんだ(と道元が思った)弟子を追放し、その弟子の座っていた床をはぎ取り、さらにその下の地面を2メートルも掘ってその土を捨てたという道元の潔癖主義のエピソードですが、よく考えると、このエピソードは本当に起こったのか?という疑問を持っているのです。
 というのは、あまりにも「漫画チック」だからです。何となく、ここまで来ると、驚くとかあきれるとか、憤慨するというよりも、こっけいに感じてしまうわけです。
 当時、座禅は寺の禅堂で行われていたわけで、野外で地面に座って座禅していたわけではないでしょう。となると、弟子の座っていた床の板を切り取り、その下の土台なども取り去らなければなりません。さらにその地面を2メートル以上も掘るとなると、かなり大規模な「工事」になったと推測できます。一日や二日では終わらなかったと思います。
 そして、そこまでやって元に修復するのも、多大な労働と費用がかかったのではないかと思われます。貴重な文化財に対して、そんなことが平気でできるものなのでしょうか?
 もしこれが事実だとしたら、修復跡のようなものが残っているかと思うのですが、どうなのでしょう?(私は歴史には詳しくないので、そこのところはわかりません)。
 果たして、道元が、そこまでやるでしょうか? そこまでやるとなると、もう気が狂っているとしか思えないのですが、そこまで気が狂っている人が、「正法眼蔵」のような格調高く体系的に見事にまとめられた、あれだけの大著を著すことができるとは、とうてい思えないのです。

 こう考えるようになったのには、また他の理由もあります。
 皆さんは、道元の肖像画を見たことがあるでしょうか? 高校時代の社会の教科書などで、たぶん、目にしたことがあるかと思いますが、あの肖像画はかなり奇妙です。目や口の形や位置がかなりずれていて、まるでお正月に遊ぶ「ふくわらい」を見るかのようです。あの眼などは、とても人間のようには見えません。もし、道元が本当にあのような顔をしていたのだとしたら、たぶん、医学的には「奇形の障害」として見なされるものです。しかし、奇形が生まれる確率からいっても、彼がそんな奇形であったとは考えにくいのです。

 それとも、肖像画を描いた絵師がへたくそだったのでしょうか?
 しかし、顔以外のところはよく描けていて、決してへただったとは思えません。
 では、絵師はいたずらで、あのような絵を描いたのでしょうか? それも考えられません。天下に名だたる名僧の肖像画を、いたずらや冗談で描いたとしたら、それこそ幕府から切腹を命じられたことでしょう。
 では、絵師のいたずらではなく、また、道元があのような顔つきをしていなかったとしたら、なぜあのような肖像画が生まれたのでしょうか?

 これは私の推測に過ぎませんが、道元はわざと、絵師にあのような肖像画を描かせたのではないかと思うのです。この世の栄誉など軽蔑して嫌っていた道元は、偉そうに自分の肖像画を描かれることがイヤだったのではないか。しかし、どうしても、(おかみの命令などで)描いてもらわなければならないことになり、しかたなく、肖像画という俗世の虚栄をあざ笑うかのように、あのようにへんな顔に、わざと絵師に描かせたのではないかと思うのです。
 つまり、実は道元という人は、堅苦しく厳しいだけではなく、もの凄く面白いところがあったような気がするのです。ちょうど一休さんのような、風狂といいますか、トンチといいますか、ユーモアの精神があったのではないかと推測されるのです。
 そのため、同じような理由から、道元はおそらく、「不詳な弟子がいたから、その地面を7尺も掘った」などと、まことしやかに(実は冗談半分に)、在俗信者たちに話し、信者たちはその話を鵜呑みにして、それが、前回ご紹介したエピソードとして伝えられたのではないかと思うわけです。

 もちろん、真偽はわからないのですが、いずれにしろ、宗教や偉い人の教えだけでなく、それに伝わるエピソードというものも、私たちはつい、そのまま信じ込んでしまう傾向があるような気がします。それも正しくない気がするのです。
 どんなことも、しっかりとした客観的で公平な目で、見つめる必要があると思うのです。


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 道元の潔癖主義

 今回は道元について取り上げてみたいと思います。
 ご存じのように、道元は中国から日本に禅を持ち込んだ曹洞宗の開祖であり、彼の著作『正法眼蔵』は、仏教界の偉大な遺産ともいうべきもので、私も、道元はすばらしい高僧であると思っています。
 しかし、そんな道元に、次のようなエピソードがあるのです。

「道元は(師匠である如浄の)「国王大臣に近づくなかれ」という教えを守って鎌倉暮府には決して接近せず出家主義を貫いていたが、帰依者のたっての頼みに折れ、約半年、鎌倉で教化につとめたことがあった。が、北条時頼に寺を建てるから鎌倉に留まってほしいと懇願されるや、ただちに鎌倉を去り、越前の永平寺に戻った。
 ところがその後、弟子の玄明が喜びいさんで時頼からの越前の土地の寄付状をもち帰った。もちろんこれは時頼の好意である。弟子の玄明がそれを喜んで触れ回ったのも、師を思ってのことだったろう。
 しかし道元は烈火のごとく怒った。すぐさま玄明の法衣を剥ぎ取って寺から追放し、彼の坐禅の座席を取り去り、のみならずその床下の土を掘り捨てること7尺に及んだという」
『禅の本』(学研)より

 これについて、この記事を書いた著者は次のように感想を述べています。
「この道元の行動には、好悪があって当然だろう。これを、名利を嫌った道元の高潔さを示す逸話といいきることは、筆者にはできない。「その床下の土を掘捨てること7尺」という部分には、道元その人の中に潜む、底深い人間の澱のようなものを感じずにはおれない」

 私も、この著者の意見に同感です。
 これは、あきらかにやりすぎだと思います。何か病的なこだわりさえ感じられます。あらゆるこだわりを捨てるのが禅の理想の境地であるはずなのに、道元は、潔癖ということにこだわり過ぎていると思います。これでは、弟子の玄明があまりにもかわいそうです。師匠のためを思い、邪な心からではなく、純粋に喜んだだけであって、それだけのことで追放し、しかも、その弟子の座っていた床下を7尺も掘るというのは、いったいどういうことなのか、理解に苦しみます。弟子に対する慈悲のかけらも感じられません。
 つまり、道元は、仏教の本質である「とらわれのなさ」と「慈悲」について、ここでは完全に持ち合わせていなかったことがわかります。これを見ると、道元は本当に悟りを開いていたのかと、疑わしい気も生じてきます。それとも、悟りを開いた人であっても、このようなことをする、ということなのでしょうか?
 1尺は約30センチですから、2メートル10センチも深く掘ったことになります。ショベルカーなどない当時、これだけの深さの穴を掘るというのは、相当な労力と時間がかかったのではないかと思います。たぶん、弟子に掘らせたのだと思いますが、こんなことのために、穴を掘らされる弟子もかわいそうです。

 仮に、この出来事を好意的にみて、これはすべて弟子達に対する教えであるという解釈も、できなくはありません。つまり、道元自身は何とも思っていなかったのですが、「仏道を清く正しく歩む」ことを弟子たちに教えるために、わざとこうした「芝居」をしたのであると。
 しかし、2メートル以上も穴を掘る必要があったでしょうか? また、その「教え」のために追放された玄明はどうなるのでしょうか? 彼はまったく悪くはない。それなのに、他の弟子を教化するために追放させられたことになるわけで、これではあまりにも玄明が気の毒です。そこまでする必要が、果たしてあったのか?

 こう見てくると、いかに聖者であっても、そのすべての言動が正しいわけではなく、絶対的なものとして受け入れる(盲信する)ことは、正しくないことがわかると思います。少なくても、正しくない可能性があるという認識を持つべきではないでしょうか。もちろんだからといって、道元の業績すべてを否定するのも間違いです。両極端は避け、「正しいものは正しいとして受け入れ、正しくないものは正しくないとして拒絶する」という姿勢が大切だと思うのです。権威主義に脅えて、自分に嘘をついてはいけないと思うのです。もちろん、自分が間違っている可能性もありますから、そう思う自分自身を絶対的に正しいと思うことも間違っています。
「これは正しくないと、私は思う。正しいとは思えないのだから、それが正しいと思えるようにならない限り、自分に正直になって、そのことを正しいと見なすのはやめよう。しかしいつでも、自分の方が間違っていたら、それを改める気持ちを持ち続けよう」
 こういう姿勢こそ、本当の求道の姿勢だと思うのです。

 ただ、今回のこの道元について言えば、実は、私はちょっと別に思うことがあるのです。これについては、次回、ご紹介させていただきたいと思います。

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 地獄に墜ちるという脅し

 宗教では、しばしば「脅し」が用いられます(当事者は脅しとは思っていないかもしれないでしょうが、実質的には脅しです)。
 よく用いられるのが、「罰が当たる」とか「地獄へ堕ちる」などです。信仰を捨てたり宗教団体から脱退しようとすると、たいてい、この種の「脅し」を言われます。
「地獄へ行く」という脅しは、キリスト教では定番になっており、キリスト教国では、そのことを真剣に脅えている人もけっこういるようです。聞くところによると、ホモセクシュアルの人々は地獄へ堕ちると信じられ、ホモの人が地獄へ行って苦しむイメージ・ビデオを制作している会社があるそうです(地獄のセットを作り、そこで俳優がもだえ苦しむ演技をしている様子が描かれているようです)。そうして脅しをかけて、ホモを止めさせようとしているらしいのです。
 しかし、いったいなぜホモの人が地獄へ行かなければならないのでしょうか? それは単に教えでそう言われているから、あるいは生理的に嫌悪するといった、そんな理由から勝手にそう言っているだけに過ぎません。ホモの人は別に人に迷惑をかけているわけではなく、ただ性的な趣向が異なるだけです。ホモでも人間的にすぐれた人だっています。それなのに、ホモという理由だけで地獄へ堕ちると主張するのは、まったくのナンセンスではないでしょうか。

 キリスト教だけでなく、仏教にも地獄へ行くという思想があります。
 このブログでも推薦図書として紹介した『ブッダのことば』、すなわち、釈迦の教えをもっとも忠実に記録したとされるスッタニパータという経典にも、こんな記述があるのです。
 それは、「コーカーリヤ」(本のページでいうと142ページです)という章です。
 簡単にその内容を説明すると、コーカーリアという名の修行僧が釈迦に、「(あなたの弟子である)サーリープッタとモッガラーナは邪念があります。悪い欲求があります」と言いました。釈迦は「まあ、そういうな」といってたしなめるのですが、コーカーリアは納得しません。するとその後、コーカーリアのからだに芥子粒ほどの小さなはれ物が出てきて、それがしだいに大きくなり、ついにはパパイアほどの大きさになり、それが破裂して死んでしまいました。そして釈迦がこう言います。
「聖者をそしる者は、途方もない長い時間、地獄に墜ちる」と。この「途方もない長い時間」については長い説明がくどくどと書いてあるのですが、早くいえば、5千兆年プラス(1千万×1200倍)年だそうです。つまり、ほとんど永遠の時間です。
 そして、その後、その地獄がどんなところか、釈迦はおどろおどろしい描写をするのです。鉄の串で刺されるとか、灼熱した鉄丸を飲まされるとか、ウジ虫や膿や血で満たされた釜の中でゆでられるとか、手足が切断されたり、舌を抜かれたりなど、こんな記述が本でいうと22行にもわたって、これでもか、これでもかと書いてあるのです(地獄には針の山に血の池があるという言い伝えは、どうもここから来ているようです)。

 私は、経典のこの部分については、まともだとは思えません。あとはすばらしいと思いますが、この部分はどう考えても異常であり、執拗であり、病的なものさえ感じます。
 いったい、聖者の悪口をいったくらいで、このような悲惨な苦しみを、ほとんど永遠の間受けなければならない理由が、いったいどこにあるのでしょうか? 聖者を何人も殺した、というのならまだわかりますが、彼はただ「邪念があります。悪い欲求があります」と言っただけなのです。
 しかも、コーカーリアの言い分にも、実は一理あるのです。というのは、サーリープッタは、あるとき、雨が降ってきたので洞窟に入ったのですが、そこに女性がたまたまいて、雨が止まずそのまま一晩中、一緒に雨宿りしたことがあるらしいのです。つまり、女性と一緒に一夜を過ごしたわけです。もちろん、そこには何もなかったでしょうが、どうやらコーカーリアは、そのことで、サーリープッタを責めたようなのです。
 釈迦は、「外を歩いていても女性を見てはいけない。女性に声をかけられたら、そっぽを向いておれ」と弟子に教えていました。ところが、そこまで厳しく説いている釈迦の一番弟子であるサーリープッタが、女性と一緒に一夜を過ごしたというのを耳にしたら、誰だって眉をひそめたくなるのではないでしょうか。
 もちろん、そこに何かあったと考えるとしたら、それはコーカーリアの誤解でしょうが、そのように誤解を与えかねないことをサーリープッタがしたということも事実であり、コーカーリアだけを一方的に責めるのは公平ではないと思うわけです。
 
 あらゆる経典のなかで、もっとも釈迦の教説を伝えているとされるスッタニパータですが、結局は弟子が書いたものであり、そのために、ある程度の歪曲がそこにはあると思っています。そのため、果たして釈迦は、この経典に書かれてある通りのことを口にしたのかどうか、かなり疑わしい気がします。地獄の滞在期間が5千兆年・・・などと具体的な数字をあげたり、おどろおどろしく執拗な地獄の描写など、何となく釈迦らしくないのです。また、芥子粒ほどのはれ物がパパイヤほど大きくなって破裂して死ぬなどという病気は、聞いたことがありません。いかにも「作り話」といった感じがするのです。
 私の想像では、当時、自分たちの集まりを悪くいう者がたくさんいて、そういう人々に対する「脅し」として、弟子が勝手に、このような教えを作ったのではないかと思うのです。つまり、「私たちを悪く言うな。悪くいうとこんな怖ろしい地獄に、こんなに長い間苦しむことになるぞ!」というわけです。
 もしそうだとしたら、ありもしない話をでっちあげ、それを脅しに使って自分たちを守ろうとしたその根性は、仏弟子としては、あまり褒められたものではないと思います。釈迦は別のところで「悪口や批判には静かにじっと耐えよ」と説いています。その言葉に反する行為です。

 万が一、本当にこんなことを釈迦が言ったのだとしたら、釈迦は間違っていると私は思います。釈迦は、「どのような生き物でも苦しめるな。慈悲深くあれ」と説きました。小さな虫でさえも、殺したり、苦しめてはいけないと説いたのです。
 そのような慈悲深い釈迦が、たかが聖者の悪口をいったくらいで、悲惨きわまりない壮絶な苦しみを天文学的に長い時間苦しまなければならないなどと言い、そうなっても当然のごとく語っているとしたら、どう考えてもまともではありません。罪の重さからすれば、あまりにも理不尽であり、そこには慈悲のかけらもありません。

 もし、この教えをそのまま受け取ったとしましょう。そうして、釈迦や仏教の悪口を言った人がいたとして、その人がその後、悲惨な人生の苦しみに見舞われたとします。そうしたら、「釈迦や仏教の悪口をいった報いだ、そうなって当然だ、いいきみだ」などという思いが、多少なりとも出てくるのではないでしょうか。しかし、そのように人の不幸を喜ぶ方が、聖者の悪口を言うことよりも、ずっと悪いことのように私には思えるのですが、いかがでしょうか。

 したがって、私はこの経典を愛読してはいますが、この部分だけはナンセンスだと考えています。要するに、この部分が言いたいことは「人の悪口を言うな」ということであり、それだけのために、くどくどと地獄の様子を聞かなければならない道理はないわけです。
 その他のところは、とてもすばらしいと思います。
 どんなにすばらしい経典、あるいは聖者であっても、「その教えすべてが絶対に正しいのだ」と考え、なんでも無批判に盲目的に受け入れることは、正しいことではないのです。私はそう考えています。

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盲信からの解脱

 
 私は高校2年のとき突然、宗教やスピリチュアルな世界への関心が芽生えたのですが、それまでは、将来、科学者かロボット工学のエンジニアになろうと理数系の勉強ばかりしていました。そのためか、宗教やスピリチュアルに対するときには、今なお科学者的な姿勢になっていると思います。といっても、もちろん「物質だけがすべてだ」、「物質的な法則で解明できない現象はすべて存在しない」と決めつけるような、偏狭な姿勢ではありません。物質を超えた領域も視野に入れながら、しかし偏見や非合理的な思考を排除するという姿勢です。
 たとえば、私も少し関係しているホメオパシーという代替医療があります。ホメオパシーとは薬草などの原料をもとに、それをある方法によって水で希釈していき、ついには原物質がまったくなくなるまで希釈した、物質的には「ただの水」を砂糖粒に浸したものを服用するという療法です。世界中で行われており、フランスでは医師も処方していますし、イギリスでは王室が専属のホメオパシー処方家をもっているといいます。
 ところが、「物質がないのに効くわけがない、これはオカルトだ、インチキだ、暗示効果だ」という批判が後を絶ちません。確かに物質がないのに治癒の効果が出てくるのは不思議なのですが、私が慎重に調べた結果、ホメオパシーに治癒の力があることは間違いないのです。ホメオパシーを頭からインチキ呼ばわりする人は、よく調べもせずにそうしているのです。偏見なく調べれば、誰でもホメオパシーに効果があることはわかるからです。
 それなのに、なぜホメオパシーをインチキ呼ばわりする人やマスコミが後を絶たないのかというと、私たちは個人的な欲求不満や虚しさを抱えており、その不満や怒りを誰かに向けたいと思っているのが原因だと思っています。そうすることで「自己優越感」を満たそうとしているのかもしれません。その場合、誰かに怒りを向けたいといっても、誰でもいいわけではありません。世の中の大多数を味方にできるもので(自分が世の中から批判されないために)、そのために世の中から怪しいと思われているようなものを探すのです。ただし、それがあまりにもちっぽけだと、批判しても自己優越感を満たすことができないので、ある程度の大きなものをターゲットにするわけです。
 要するに、批判して相対的に自己優越感を満たしたり、鬱憤を晴らすのが、そもそもの目的になっているのです。ですから、よく調べもしないで批判するわけです。こういう人たちは、たとえばホメオパシーが世の中に認められ、ノーベル賞を受賞した学者が「ホメオパシーは効く」などといって多くの大学教授などが認めたりすれば、やはり自分で調べもしないでホメオパシーは効くと認めるのでしょうか?
 しかし、これは「権威主義」に対する盲従です。世の中の多くの人が怪しいと言っているから(これもある種の権威主義と言えるでしょう)、自分で確かめもせず「ホメオパシーはインチキだ」と批判するのも、大学教授など社会的に「偉い」と思われている人たちが「ホメオパシーは効く」と言っているから、自分で確かめもせずそれを受け入れるというのも、ともに権威主義に対する盲従にほかなりません。

 科学の世界にしても、宗教の世界にしても、権威主義ほど大きな害毒になるものはないと、私は考えています。
 宗教における権威主義の典型的な例は、地動説を唱えたガリレオを迫害したキリスト教会に見ることができます。動かし難いデータがあるのに、それを無視し、脅しをかけて無理矢理その事実を抹殺したのです。
 なぜそんなことをしたのか、その理由は2つあると思います。
 ひとつは、聖書や神学で言われていることがひとつでも間違っているとなると、他のことも間違っているのではないかという不安や恐怖心が湧き上がるためではないかと思われます。
 たとえば、キリスト教では、「イエスを信じる者だけが罪をゆるされて救われる」とされています。つまり、キリスト教以外では救われないと遠回しに言っているわけですが、そのキリスト教が天動説を唱えており、その天動説が間違っているとなると、「権威」が失墜し、「イエスを信じる者だけが罪をゆるされて救われる」という教えも間違えではないかという疑念が湧いてくるかもしれません。この教えはクリスチャンにとってもっとも重要な部分ですから、これが揺らいでしまうと、キリスト教への信仰そのものが揺らいでしまうことになります。その不安や恐怖を避けるために、聖書や神学は「すべてが絶対に正しくなければならない」と決めつけ、それを絶対服従の権威として信者に強要してきたわけです。
 それともうひとつは、キリスト教というより、キリスト教会の組織的な権威が失墜して信者が離れてしまうことへの恐怖があったと思います。信者が教会から離れれば、教会組織は成り立たなくなり、教会の権威は失墜します。教会組織で生計や権力や地位を得ている聖職者たちにとって、それは脅威となります。ですから、教会の権威を失墜させかねない地動説は、決して認めることはできなかったのです。

 しかし、地球が動こうと、天体が動こうと、そんなことが、どれほど重要だというのでしょうか? そんなことが宗教の本質と、どの程度、関係するというのでしょうか?
 信じられないかもしれませんが、キリスト教会(カトリック)が、ガリレオが唱えた地動説を正しいと正式に認めたのは、何と2008年のことなのです。それまで信者たちは、本気で天動説を信じていたのでしょうか?
 私が学生の頃(1980年代のことです)、熱心なクリスチャンの友達がいました。私は彼に「天動説を本当に信じているのか?」と尋ねたら、彼は顔を赤くして言葉につまっていました。
 こんなことで、宗教が科学を弾圧したり、信者を混乱させたり、他の宗教どうしで争いを招いたりすることは、ナンセンスとしかいいようがありません。このナンセンスなことが、2008年まで支持されてきたというのは、驚き以外の何ものでもありません。

 ところが、こうなってしまうのも、私たち人間がいかに「権威」に弱いかということを物語っているのだと思います。地球が動いているのか、天球が動いているかなど、アマチュアの天文学者でさえ、ちょっとデータを取ればすぐにわかることです。そのような厳然とした事実があるにもかかわらず、2008年になるまでキリスト教会が天動説を支持していたというのは、人間の愚かさを端的に物語っていると思うわけです。

 権威主義は宗教の大敵です。科学にしても宗教にしても、権威主義を持ち込んだら必ず腐敗すると思います。
 しかし、現実には、この権威主義は根深くはびこっています。宗教団体などは、教祖や組織の否定的な面を巧みに隠し、「教祖の言ったことはすべて正しい、組織の教えはすべて正しい」という前提に立っています。教祖の言ったことは本当にすべて正しいのでしょうか? まずその検証から始めるべきだと思いますが、そのようなことはしません。「教祖の教えはすべて正しい」というところからすべてが始まっており、それに意義を唱える信者は拒絶されたり、組織から追放されたりするわけです。
 また、イエス・キリストや仏陀が言ったことは、本当にすべて正しいでしょうか?
 もう少し正確に言えば、彼らは自ら本を書かず、その教えは弟子達によって伝聞されたものなので、「イエス・キリストや仏陀が言ったと伝えられている教えは、本当にすべて正しいのか?」と問うべきでしょう。
 私は、そのようなことはないと思っています。彼らが残したとされる教えのなかには、間違いや、どうでもいいことがかなりあると思っています。
 しかし、多くの人は、たとえうすうすそのことを感じていたとしても、口にしません。世界中の人が正しいと信じているイエスや仏陀に異論を唱えることなど、畏れ多くてできない、というわけです。しかし、これは「権威主義への盲信」に他なりません。
 もしも、イエスや仏陀の教えとされていたものが、歴史の研究が発展して、実はまったく別の、普通の人が言ったものだとわかったとしましょう(つまり権威がなくなったとします)。そうしたら、おそらく多くの人が、イエスや仏陀の教えに対して批判を口にするようになると思います。
 権威主義に追従することは、つまり宗教を「盲信」するということです。そして、心の底では本気でそう思っていないのに、自分をごまかして信じているフリをしている「信者」を増やすだけです。そのような「信仰」が、本当に私たちを救済してくれるとは思えません。
 私は、まず何よりも「自分に正直になる」ことが、宗教や覚醒の道を歩む上で大切だと思っています。偽善者になってはいけないのです。どんなに世界的に認められている宗教であろうと、どんなに偉大だと思われている聖者だろうと、間違っていると思ったら、その気持ちを否定せず大切にするべきだと思うのです。
 もちろん、実際に自分が間違っているかもしれません。ですから、「間違っている」と決めつけるべきではないでしょう。「間違っていると思う」と、あくまでも仮定として言うべきです。天動説のように、明らかに間違っている場合は別ですが、ほとんどの場合、宗教では本当にそれが正しいのか間違っているかは、容易にはわからないからです。

 ですから、私はこれから「盲信からの解脱」という新たなカテゴリーを設けて、宗教で当然のこととして言われてきた事柄に異論を唱え、権威主義に基づく盲信から私たちを解放し、真の救済に害悪になるようなこと、どうでもいいようなことにとらわれないようにしようと思っているのですが、それはあくまでも「私の考え」であり、あくまでも「仮定」に過ぎないことを、最初にお断りしておきたいと思います(もっとも、このブログで書いていることは、もともとそうなのですが)。
 私たちは、「裸の王様」に対して、「王様は裸だ!」と叫んだ子供の、その正直さ、純粋さを見習うべきだと思うのです。

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 すべてを捨てていく


 人生というものは、「苦あれば楽あり」といわれるように、楽しいこともあれば苦しいこともあるわけですが、ほとんどの人は、苦しいことがあっても、何らかの楽しいことで苦しみを慰めたり、未来に楽しいことが起こると期待してそれを支えにしながら、辛く苦しいことを我慢したり、ある意味では「ごまかしながら」生きているわけです。
 それに対して、覚醒の道(宗教の本質的な道といってもいいかと思いますが)は、苦しみというものを完全に消滅させ、根こそぎにすることをめざしています。苦しんだり楽しんだりといった「シーソーゲーム」に嫌気がさし、そういう不安定な循環のなかで生きることから解放され、解脱して、苦しみのない完全な幸福を求めているのです。
 しかしながら、苦しみと(この世的な)幸福というのは、コインの裏と表のようなものですから、苦しみを捨てるには、幸福も捨てなければなりません。この世的な喜びや楽しみの一切を捨てなければならないわけです。つまり、私たちが苦しんでいるのは、私たちが「幸せ」を求めているからだ、ということになります。この世界は無常であり、常住不変なものは何もなく、この世のいかなる幸せもいつかは崩壊し、それゆえに、幸福が失われるときに苦しみを味わうことになるからです。
 とはいえ、その(この世的な)幸福を捨てるというのが、容易なことではないわけです。もっとも、だからといって禁欲的になる必要はないと思います。要は、それが失われたときに苦しみを感じなければいいわけです。
 たとえば、私は普段はお酒はほとんど飲みませんが、ときどき何かの機会でお酒を飲むようなことがあると、「おいしいな」と感じたりします。しかし、もしこの世からお酒がなくなっても別に困りませんし、苦しみも感じません。ですから、私の場合は、苦しみから解脱するためにお酒を捨てる必要はないわけです。
 しかし、お酒がないと苦しみを感じる人であれば、いっぺんには無理でしょうから、覚醒するためには、少しずつお酒を飲まなくてもいいように自分を変革していき、お酒を捨てるようにしていく必要があると思います。
 人により、「これがなければ苦しみを感じる」というものは異なるでしょう。換言すれば、「依存するもの」というのは、人それぞれです。
 ですから、自分自身をよく振り返って、自分は何に依存しているのか、検討してみる必要があると思います。もちろん、それは膨大な数にのぼるでしょう。究極的には、私たちは「肉体」や「自我(私という意識)」に依存しています。ですから、究極的には肉体を捨てる(といっても自殺のことではありません)、自我を捨てる必要があるわけです。
 しかし、いきなりそれは無理だと思いますので、まずは、比較的簡単に捨てられるものからどんどん捨てていくのがいいと思います。捨ててもそれほど苦しみを感じないようなものから、どんどん捨てていくのです。たとえば、ときどき気晴らしでパチンコをしていたとすると、「パチンコをやめたら少し寂しい気もするが、やめられないことはない」というのであれば、やめることです。タバコなども、やめられるようならやめることです。漫画もゲームも、やめられるようならやめることです。
 このようにどんどんと、この世的な楽しみごとや喜びを捨てていくと、最初は何となく寂しい気がしたり、空しい気持ちになることがありますが、しばらくすると、解放感や自由な気持ち、爽やかな気持ちになるものです。実際、パチンコをしなければいられない、タバコを吸わないでいられない、漫画を読んだりゲームをしなければいられないという、この「いられない」という状態がなくなっていくということは、自由になることを意味しているのではないでしょうか。
 逆に考えるとわかりやすいかもしれません。読者のなかには、パチンコはしない、タバコも吸わない、漫画も読まず、ゲームもしないという人はたくさんいるかと思いますが、だからといって人生が空しいでしょうか? 楽しみがないでしょうか? 全然、そんなことはないはずです。逆に、パチンコをしなければいられなくなったり、タバコを吸わなければいられなくなったり、漫画やゲームをしなければいられなくなってしまったら、それはとんでもない不自由な制約となるでしょう。お金もかかりますし、タバコが無くなったら寒い夜でもコンビニに行かなければならなくなります。
 ところが、パチンコに熱狂している人、タバコの愛好家、漫画やゲームにはまっている人は、そうしたものがないと、人生が空しく、つまらない、辛いものになると感じているのです。それはまったくの誤解であり、ある種の妄想だといえるわけです。
 ですから、私たちは、まずは低俗なものから、少しずつ捨てるようにしていくべきだと思うのです。そうして、生活をなるべく簡素なものにしていくべきでしょう。
 ただし、覚醒に必要なこと、あるいは仕事に必要なことまで捨てるなど、極端に走らないように注意しなければなりません。食欲はダメだと否定して、あまりにも質素な食事をし、健康なからだを維持するための栄養がとれないようであれば覚醒の妨げになりますし、心を浄化し高めるような芸術に接することも大切でしょう。仕事上の交友を広めるためにパーティに出席するなども、必要でしょう。こういったことは捨てるべきではないと思います。
 捨てることは大切ですが、捨てることにこだわり過ぎるとしたら、そういうこだわりの思いを捨てることも、大切ではないかと思うわけです。
 いずれにしろ、このようにしだいにあらゆることを捨てていきながら、ついには「自分自身」さえも捨てて、それでもなお残るものがあるのです。
 すべてを捨ててもなお残るそれこそが、決して苦しみに変わることのない常住不変の幸福であるとされているわけです。
 それをつかみとろうとするのが、覚醒の道ということになるわけです。

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 自殺願望と覚醒


 以前に推薦図書としてご紹介した『ブッダのことば(スッタニパータ)』を読んでいたら、「解脱した人はどうなるのか?」という質問に対して、仏陀が次のように答えている箇所がありました。
「強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである」
 すると、これに対して、さらに次のような質問が投げかけられました。
「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま、どうかそれをわたくしに説明してください」
 仏陀は次のように答えました。
「滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである」   (1074~1076)

 仏陀によれば、解脱をした人は、滅びて存在しなくなる、というわけでもなく、かといって常住する(たとえば霊界のような場所で存在する)わけでもなく、とにかく人知では認識できないような、議論を超えた状態になるようです。
 一方、ヨーガの思想によれば、仏教と同じように、もともと「私」という存在は幻想であると考えますから、解脱をすると真我と一体になり、事実上、個人は消滅すると解釈できます。水滴が大海に落ちてまったく区別できなくなるようなイメージでしょうか。

 そうなると、私たちが仏典を通して知り得る釈迦という人物は、いったいどのような存在として受け止めたらいいのでしょうか。少なくても、肉体としてはそこに存在し、解脱する前と何ら変わりない様子で周囲の人たちとコミュニケーションしているように思われます。にもかかわらず、「存在する者としては数えられない」というのです。
 いずれにしろ、内面的にはまったく変わってしまい、いかに表面的には過去と同じでも、まったく違った存在になってしまったのだと思われます。実質上、過去のその人はもういないと考えていいのかもしれません。
 ということは、解脱をするということは、少なくても今の「私」は、完全に消滅すると思っていいようです。

しかし、私たちの大半は、自分が自分でなくなること、自分という存在が消滅することに、得体の知れない恐怖、寂しさ、空しさを覚えるのではないでしょうか。そして、強い抵抗を示すのではないかと思います。
 もし、そういう恐怖や寂しさや空しさを覚えることがない人、むしろ、自分という存在が完全に消滅することを願っている人がいるとしたら、それはおそらく、この人生に絶望して自殺を試みようとしている人ではないかと思います。
 死んだら天国のような場所に行けると信じている人は別として、自殺しようとする人は、「消えてしまいたい」という願望が強いように思います。天国へ行くとか、霊界で生きるといった願望さえなく、とにかく消滅したい、完全に「無」になりたいと、そんなことを願っているのではないかと思います。
 唯物論者は、人間が死んだら完全に「無」になるといいます。霊魂だとか、霊界だとか、生まれ変わりなどはナンセンスだと。
 もし唯物論者の言い分が事実であるとしたら、解脱を願う人は大喜びではないでしょうか。なぜなら、解脱を求めて修行している人は、「もうこの地上に戻りたくない」という目的で修行しているからです。仏陀は輪廻の束縛から逃れるために苦労して修行したのです。死ねばそれでおしまいというのであれば、苦労して修行などしなくてすみます。何と楽なことでしょうか。あとは、残された余生を適当に我慢して生きる、いえ、いっそのことさっさと自殺してしまえばいいということになるでしょう。私もこのブログを書くのはやめるでしょう。

 本当の自殺はもちろん勧められませんが、誤解を招くのを覚悟でいえば、ある意味で、自殺をしたい、つまり「存在を消滅させてしまいたい」という願望を持っていることは、見習うべきではないかと思うのです。というのも、すでに見たように解脱とは、「私」が消滅することだからです。その「私」は自我という偽りの「私」であるとしても、「私」という意識が消滅することは、ほぼ間違いないことだからです。ということは、実質的にこれは「精神的な自殺」を意味するのではないかと思うわけです。
 存在が消えてしまうということ、これに抵抗があるうちは、おそらく解脱(覚醒)はできないでしょう。「存在そのものを完全に消してしまいたい」と、世間から見るときわめて悲観的で不健全と思われるような願望を持つことが、覚醒の道には求められているのかもしれません。
 こうして「自分自身」にさえも執着を持たなくなれば、この世のあらゆることに対する執着もなくなることでしょう。
 
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 淡々と生きる

 古今東西の教えをいろいろと考察してみますと、覚醒するには、矛盾するような対極的な両面をうまく統合していくことが、どうもひとつのポイントのようです。
 たとえば、男性的な要素と女性的な要素、真剣さとユーモア、剛毅と柔和さ、情熱と冷静さ……、といったものです。このような正反対の要素を自分のなかに取り入れていき、二重人格になるのではなく、ひとつの人格としていくわけです。あまりにも男性っぽいだけ、あまりにも女性っぽいだけ、ではなく、男でありながら女性的な面も感じさせる人、女でありながら男性的な面も感じさせる人、こういう人が覚醒に向かっている気がします。こういう人は、がいして人間がまるいです。まるいというのは単におとなしいという意味ではなく、偏りがなく安定しているという意味です。
 では、このような両極性を身につけていくには、どうすればいいのでしょうか?
 そのためには、さまざまな経験をしながら、しかしどの経験にも執着せず、こだわらず、淡々と生きることではないかと思います。狭い世界で生きるのではなく、とくに若いときは、なるべく広く世界を見聞し、楽しいことも辛いことも、善いことも(多少の)悪いことも経験し、いろいろなタイプの人と交わり、いろいろなことにチャレンジしてみるといいと思います。

 けれども、このような生き方をしていますと、心に傷を負うことも必然的に多くなってきます。転がる石はしだいに丸くなっていきますが、それは傷ついて自分自身を削ることで丸くなっていくわけです。辛いこと、悲しいこと、悔しいこと、胸が痛むこと、良心の呵責を覚えることなど、いろいろな傷がついてきて、しだいに人間がまるくなってきますが、それは文字通り、我が身を削るような険しく辛いものです。
 それでもまだ若いうちは、たいしたダメージを受けないかもしれません。しかし、ボクシングのボディ・ブロウのように、しだいにじわじわと効いてきて、若くない年代になる頃には、それが致命的となり、急にガックリきてしまうことがあります。

 ひとつの傷を受けると、私たちはそれを癒そうとしますが、傷というのはそうすぐに癒えるものではなく、また人生というものは、その傷が完全に癒えるまで待ってくれるとは限りません。ひとつの傷が癒えないうちに、また別の傷を受けるようなことが起きたりするわけです。そうして、いつのまにか満身創痍となり、中年世代の多くは、傷口から血が流れた状態のまま、人生を生きるようになるのです。
 今日、心身を癒すさまざまなヒーリングと呼ばれるものがありますが、そういったものをいくらやっても、きりがないといいますか、追いつかない気がします。
 これでは、たまったものではありません。

 では、どうしたらいいのでしょうか。
 私は、「淡々と生きる」ようにするしか、他に道はないように思います。簡単にいえば、「気にしないで生きる」ことです。たとえば、悲しい出来事が起こっても、「気にしない」ことです。もちろん悲しいでしょうが、起こったものは仕方がないと考え、悲しんでも現状がよくなるわけではないと悟り、「悲しむ気持ち」そのものに対する執着を捨ててしまうのです。人から悪口を言われたり非難されても「気にしない」のです。また、人を傷つけてしまっても、相手に謝罪したり反省したら、あとは「気にしない」ようにするのです。悩んだところで、罪の償いになるわけでもないし、意味がありません。

 このように、どんな思いであろうと、それをつかんだまま離さないようなことはせず、最初からつかまない、もしつかんでしまったら、すぐに捨てるのです。どんどん捨てていくようにするのです。焼け石をつかんで離さなかったらヤケドしてしまうでしょう。心を傷つけるような出来事や思いも同じです。いつまでも気にしていたら、傷はさらに広く深くなってしまいます。そんなことをしても、何がどうなるわけでもないのです。
 ですから、どんな思いも、さらりさらりと捨てて生きていきましょう。そうして淡々と生きていくことが、この辛い人生を生きていくための、ひとつの極意であるような気がします。

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