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心の治癒と魂の覚醒

        

セミナーのお知らせ


 来年1月と2月に、覚醒(解脱)に関するセミナーを東京で開催することになりました。以前に3回シリーズで行われた「覚醒プログラム」を2回に凝縮し、密度を濃くした内容ですが、いくつか補足・修正しています。
 基本的には、このブログで書いてきた内容であり、セミナーだからといって特別に秘伝みたいなものがあるわけではありません。ただ、文章では語り尽くせない微妙なニュアンスなどをできるだけお伝えさせていただきたいと思っております。
 ご都合よろしければ、ぜひご参加いただければ幸いです。

 詳細:お問い合わせ:お申し込みは、アルカノン・セミナーズまで

                     →アルカノン・セミナーズ

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 忍耐の力


 先日テレビを見ていたら「現代型うつ病」というものが、若い人の間で増えているという番組が放映されていました。普通、うつ病というものは、何をするにしてもひどく落ち込んで意欲が減退して苦しむのですが、現代型うつ病というのは、自分が好きなことには元気になるのが特徴だそうです。そして、自分がうつ病になったのを人のせいにするのだそうです。
 ですから、たとえば会社で上司にちょっと注意された。それが原因でひどく落ち込んでうつ状態となり会社に行けなくなり、その原因を上司のせいにする。ところが友達から酒を飲みに行こうと誘われると元気になって出かけていき、居酒屋で明るくカラオケを歌っている……。といった感じです。以前であれば、これは完全に「怠け」や「わがまま」、仮病と思われていたことでしょう。しかし、実際に自分が気に入らないことをするときには、うつ病のような症状に見舞われるということで、一応、病気と考えられているのです。これは「非定型うつ病」というものと、基本的には同じであると思います。

 このようなうつ病が発症する原因ははっきりわかっていないのですが、子供時代の育ち方に問題があるのではないかといわれています。ひとことでいうと、何不自由なく育てられ、忍耐することを学ばなかったために、ちょっとしたことで傷ついて何もやる気が起きなくなるのが原因ではないかというのです。
 実際、世の中はなんでも便利になり、私たちは我慢するということをしなくていいようになっています。むかしは夏の暑さ、冬の寒さに耐えなければなりませんでした。ひとり寂しくても電話は一家に一台しかなく、長電話をすることもできませんでした。手紙などは書いてから投函して返事が来るまでに何日も待たなければなりませんでした。
 しかし今では、ほとんどの人が携帯電話をもっていて、いつでも好きなだけ人と話したり、メールを送ってすぐに返事をもらうこともできます。寂しさに耐えるということもなくなってきたのです。
 また、むかしは兄弟が多くいたのが普通なので、おやつにしてもおもちゃにしても、欲しくてもすぐに買ってもらえたわけではなく、じっと我慢しなければなりませんでした。しかし今は子供の数が少なく豊かになっているので、おやつは食べ放題、おもちゃもすぐに買ってもらえます。

 このように、子供の頃から欲しい物があるとすぐに手に入るのが当たり前のように感じると、世の中は自分の欲求を満たすのが当然であるという、幼児が抱く自己中心性から卒業できず、そのまま大人になってしまうのかもしれません。そうして、欲求不満の状態に耐えることができず、自分の欲求を満たさない他者や世の中が悪いと考えてしまうのです。その結果、短絡的にすぐに欲望を満たすような行為をしたり、「楽をして成功する」といった類の本に飛びついてしまうのでしょう。スピリチュアルな世界でも「楽をしてすぐに悟りが開ける、真我が開発される」などと宣伝してセミナーなどを開いているところもあるようですが、これなどは、耐えることができない幼児的な今の大人たちの心を巧みに利用した商売ではないかと思うわけです。

 しかし、インスタントに得られた喜びというのは、結局は浅いものであり、人間を真に豊かにし成長させてくれるものではないと思います。たとえば、ソファーに横になりながらスポーツ観戦をしていれば、あたかも実際に自分がスポーツをしているような感じになって楽しいかもしれません。楽をしてスポーツ選手になった気分を味わえるわけです。ところがスポーツ選手の方は、楽どころではありません。毎日毎日、辛く厳しい練習を忍耐強く続けているのです。しかし、そのような辛さに耐えてスポーツをするときの喜びは、ソファーに寝そべりながら観戦をしている人の喜びとは比較にはならないでしょう。
 世の中には、忍耐を通してしかつかむことのできない喜びというものがあるのです。いくらお金を積んでも、その喜びは買えません。実際に苦労して辛さに耐えなければ手に入らないのです。
 なんでも楽をして苦しみを避けて生きてきた人は、晩年、人生を振り返ったとき、果たして自分の人生に満足するでしょうか? 満足する人もいるかもしれませんが、もし苦労と忍耐の末に喜びをつかんだ経験がある人なら、楽ばかりの人生など空虚であり、本当に人生を生きたとは言えないと思うに違いありません。
 もちろん、だからといって、やたらに苦しめばいいと言いたいわけではありません。しかし、辛さに耐えることを学ばなかった人は、冒頭で紹介した現代型うつ病に苦しむことになるのです。世の中は自分の思うように生きることは不可能ですから、結局、苦しんで世の中を生きるしかなくなってしまうわけです。つまり、彼らは皮肉なことに、楽に生きることを追い求めた結果、楽に生きられないようになってしまったのです。

 この社会は、我慢や忍耐といった美徳を小馬鹿にしたり嘲笑するような風潮があります。そんなことを口にするのは古くさい道徳主義者だとか、我慢や忍耐はよくないことだという風潮まで感じられます。しかし最近、そうした考え方こそが問題であり、なんでも便利になってしまうこの文明のあり方を見直す必要があるという動きがあるのです。
 とりわけ震災以後、物質的な豊かさばかりを追い求めるのではなく、精神的な豊かさ、また人間性を磨き成長させていくことに価値を見いだすという流れが高まっているように思われます。
 このブログで扱っている「覚醒」は、まさにそういう流れの中心に位置すると言えるのではないでしょうか。インスタントにスピリチュアルなエゴを満たすのではなく、毎日毎日、コツコツと地道な修行を忍耐強く続けていくこと、しかもその修行は、なにか超人的な能力だとか霊的能力を身につけるとか、そういったものではなく、基本的な人間性を向上させていくことに重点が置かれていること、これこそが、本当に人生を生きるということであり、このような忍耐強い道の彼方に、人間としての本当の、また最高の喜びと幸せが待っているのではないかと思うのです。

修行の基本的な姿勢 | コメント:4 | トラックバック:0 |

 よき習慣を維持する


 瞑想はむかしからやってはいましたが、必ず毎日、ではありませんでした。また、時間もそれほど長くは行っていませんでした。
 しかし、ここ2年ほど、ほとんど毎日行っており、最低でも30分くらいは必ずやっておりました。
 にもかかわらず、なかなか上達しません。雑念ばかりで心が落ち着かず、集中できないのです。毎日続けているのに、こうも上達しないと、しだいに自信をなくして落ち込んできます(笑)。
 ところが、ひと月くらい前から、突如として、努力もしないのに自然と気持ちが落ち着いて、集中できるようになったのです。といっても、前から比べれば、というだけで、そんなにすごいわけではないのですが、それでも、とても嬉しく思いました。どうも、修行の成果というものは、突如として現れてくるような気がします。つまり、上達していないように思えても、水面下では上達しているのかもしれません。

 と、ここまではよかったのですが、ここ二週間ほど、非常に忙しい日が続き、瞑想は一応毎日はやったものの、10分くらいしかやらない日があったりしました。
 そうしたら、とたんにまた、集中力や落ち着きが失われてしまいました。がっかりしました。やはり、油断はダメですね。あるいは、ストレスなども関係しているのかもしれませんが。いずれにしろ、こういうところが、仕事や俗世の生活をしながら修行を続ける難しさだと痛感しました。
 ただ、まったくもとに戻ったわけではないので、もしかしたら、また回復するかもしれませんが、やはり修行というものは、毎日、毎日が大切なのだなと感じました。

 つまり、今回のことで、私は二つのことを学びました。
 ひとつは、長い間修行を続け、その成果が現れなくても絶望しないこと。突如としてその成果が現れることがある。
 ふたつめは、油断しないこと。どうしてもやむを得ない事情はあるにしても、修行は毎日しっかりと続け、それを習慣として維持していくことが大切であること。

 以上、皆さんの参考になれば幸いです。


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カルマの法則への疑問④


 今回もまた、カルマの法則への疑問について述べてみたいと思います。
 それは、動物の世界には、カルマの法則はあるのかどうか、という疑問です。
 その前に、動物というのは、果たして生まれ変わりがあるのかどうか、考えてみなければならないかもしれません。日本やインドなどでは、人間は動物に生まれ変わることがあると信じられているようですが、神智学などによりますと、人間は動物には生まれ変わらないと言われています。また、動物は「群魂」と言って、ひとつの個体にひとつの魂ではなく、ひとつの魂を複数の個体が共有しているとも言われています。
 しかし、そのへんの真偽はよくわからないので、とりあえず、動物もひとつの魂を持ち、同じ種類に生まれ変わると仮定して話を進めたいと思います。つまり、猫は生まれ変わっても猫、へびは生まれ変わってもへびだとします。

 さて、そこで、例として猫のことを考えてみます。
 世の中には、可愛がられて一生を送る猫もいれば、人間からひどい虐待を受けて殺されてしまう猫もいます。その場合、その猫は、過去生で悪いカルマを積んだから、その報いを受けたのでしょうか? もし動物の世界にもカルマの法則があるとしたら、そう解釈されるはずです。
 しかし、動物は基本的に本能のおもむくままに生きているわけですから、「悪い行為」とか「善い行為」というものを行うことが、果たしてできるのでしょうか? そのような倫理的な思考や判断力といったものが、あるのでしょうか?
 まったくないとは言えないかもしれませんが、ほとんどないと思うわけです。たとえば、猫が罪もない鳥などをつかまえて殺したりすることがありますが、これは猫にとって「悪のカルマ」ということになるのでしょうか?
 しかし、猫がねずみや鳥などを面白がって捕まえるのは、本能的な習性であり、生得的に持っているものですから、それを「悪のカルマだ」ということには、無理があると思います。つまり、動物というのは、人間のように自由意志によって、倫理的なことを考えたりする能力はないわけで、このことは、善を行ったり悪を行ったりする能力というものがないことを、意味しているのではないでしょうか。

 だとすると、虐待されて苦しんで死んでしまう猫は、なぜ、そのような境遇を受けることになったのでしょうか? それはまったくの偶然であり、因果関係のようなものは存在しないのでしょうか?
 しかし、猫だって、痛みや苦しみを感じると思います。まったくの偶然で、ある猫は平安に一生を終え、ある猫は苦しみ抜いて殺されるということが起こるのは、猫の立場からすると、まったくの不公平という感じがします。
 では、やはり、猫にもカルマの法則があるのでしょうか? だとしたら、そのような悲惨な苦しみに遭うのは、その猫が過去生で悪い行為をしたことが原因になるはずですが、すでに考察したように、猫は善も悪も行うことができない、ただ本能のままに生きているだけですから、過去生で悪い行為をした結果という解釈はできないことになります。
 こう考えると、動物の世界には、少なくても私たちが考えているようなカルマの法則は存在しない可能性が大きくなるわけです。虐待されて死ぬのも、大切に可愛がられるのも、それは偶然であり、因果関係のようなものは存在しないということになります。

 では、仮に、動物の世界にはカルマの法則は存在しないとしましょう。そして、人間の世界だけにカルマの法則が存在するとします。
 しかし、人間と動物とは、そんなにも違いがあるものでしょうか?
 確かに、人間には動物にはない倫理的な判断力というものがあります。それでも、人間と動物との間には、一方ではカルマの法則がない、一方はある、というほど大きな違いがあるとは、ちょっと思えないのです。動物の世界にカルマの法則が存在しないなら、人間の世界にも存在しないと考えた方が、何となく合理的な気もしてしまうわけです。逆に、人間の世界にカルマの法則が存在するなら、動物の世界にも存在すると思うわけです。
 しかし、どう考えても、動物の世界にカルマの法則があるとは思えません。虐待されて苦しみ抜いて死んでしまう猫がいたら、その猫は過去生でそうとう悪いカルマを積んだことになるわけです。たとえば、他の猫を虐待したあげく殺すといったようなことです。しかし、猫が猫を虐待して殺したなどという話は、聞いたことがありません。縄張り争いをして喧嘩をして傷つけるということはよくありますが、死ぬまで攻撃するということは、聞いたことがありません。つまり、虐待されたあげく殺されるほどの悪しきカルマを積むことは、猫にはできないと思うわけです。
 ならば、堂々巡りになってしまいますが、やはり動物の世界にはカルマの法則などはないのでしょうか?
 だとすると、案外、人間の世界にも、カルマの法則などはない、という可能性も否定できないように思えてくるのです。
 皆さんは、どのように思われますでしょうか?
 
盲信からの解脱 | コメント:15 | トラックバック:0 |

カルマの法則への疑問 ③

 再び、カルマの法則への疑問を取り上げたいと思います。
 今回は、記憶がない前世で犯した悪いカルマの報いを、現世で受けることになるという疑問です。言い方を変えると、現在の苦しみは前世で悪いことをした報いである、という考え方です。
 前世の記憶は、潜在意識の深い層にあるという説もありますが、たとえそうだとしても、通常思い出すことはありませんので、実質的に記憶がないと考えていいでしょう。そして、記憶がないということは、実質的に別の人間だと考えるべきではないでしょうか?
 ひとつ例をあげたいと思います。世の中には、多重人格(解離性同一性障害)の持ち主がいて、ひどい場合、別の人格がやったことはいっさい覚えていない状態になります。そこで、たとえば、自分の他にAという人格がいて、そのAが自分の知らないうちに人殺しをしたとします。自分はそのことはまったく覚えていないとします。
 この場合、その人は、悪いカルマを積んだことになるのでしょうか?
 もちろん、警官は、この人をつかまえて逮捕するでしょう。なぜなら、この人のからだが殺人を犯したからです。しかし、その人自身は、まったく身に覚えがないのです。主観的には、これはまったくの不当逮捕だと思うでしょう。
 同じことは、前世と現世の人間にも言えるのではないでしょうか?
 前世と現世では、確かに「意識する主体(物事を感じる主体)」は、同じ人物かもしれません。しかし、一切の記憶がなく、しかも、からださえもないというのなら、それは実質的に別の人間ではないのでしょうか。

 たとえば、もし私が悪いことをして不正な快楽を味わい、現世のうちに、その報いとして苦痛を味わったのなら、快楽と苦痛という、ある種の収支バランスがとれることになりますし、この苦しみは、悪いことをした報いだといって反省もできるでしょう。
 しかし、前世で悪いことをして快楽を味わったとしても、その記憶がまったくなければ、快楽を味わっていないのと同じです。たとえるなら、別の人格のAがチョコレートを盗んで美味しい思いをしたとしても、その記憶がない自分は、チョコレートを食べていないのと同じなわけです。にもかかわらず、チョコレートを盗んだとして、罰を受けなければならないとしたら、それは理不尽であると思うでしょう。しかも、Aが何をしたのかわからなければ、自分が罰を受けなければならない理由さえわからず、反省しようにも反省できないでしょう。

 カルマの法則というのは、ある種の勧善懲悪といいますか、教育的な意味合いがあるように思われます。つまり、「悪いことをするな。悪いことをすると苦しむぞ」というメッセージのような一面があると思うわけです。
 しかし、前世の記憶がなければ、現世で苦しみが訪れても、その原因がわからないわけですから、反省しようにもできません。むしろ、「なんで何も悪いことなどしていないのに、こんなに苦しまなければならないんだ」と思ってしまうのが自然でしょう。そうして、いじけてしまったり、根性が曲がったりして、ますます悪い行為に走ってしまうことの方が多いのではないかという気もします。
 つまり、カルマの法則は、一見すると、人間を悔い改めさせて立派にさせるかのような法則と考えられているふしがありますが、実際には、私たちが思っているほどには、人間を向上させていないような気がするわけです。むしろ、ますます理不尽で不条理な思いを湧き上がらせ、根性を悪くさせているのではないかとさえ思われるのです。
 もちろん、カルマの法則を信じていれば、「自分が苦しむのは前世で悪いことをしたからだろう」と納得して根性を曲げたりしないでしょうし、あるいは、「来世で苦しまないように、現世では悪いことはしないようにしよう」と考えて、悪に対する抑止力となるかもしれません。そういう利点があることは認めますが、ここで論じているのは、カルマの法則が本当に存在するかどうかであり、利点があるかどうかではありません。「利点があれば存在しなくても信じた方がいい」という考えは、今はしないことにします。

 世の中には、たくさんの悲惨な人、不幸な人がいます。カルマの法則が真実なら、そういう人たちは、過去生で、そうとう悪いことをしたことになります。しかしそのなかには、善良な人もいるわけです。善良になっているのに、過去生の悪いカルマの報いを受けなければならないとしたら、カルマの法則とは、単なる罰を与えるだけの法則であり、人間を向上させようという側面は、存在していないような気がします。たとえば、子供が何か悪いことをして、しかしそのことを反省し、すっかり善い子になって、もうしませんと泣きながら懇願しているのに、「悪いことは償わなければならない」といって、子供にムチを打つような親が、いるでしょうか? それに何の意味があるというのでしょう? それはあまりにも無慈悲ではないでしょうか?
 もし神が、キリスト教でいうような「愛」を持っているなら、カルマの法則のような無慈悲な法則を神が創造したというのは、考えにくいものがあります。
 もし、カルマの法則に、人間を向上させるという目的がないならば、この法則に意味があるとは思えないわけです。

 私たちが現世で苦しみ悩んでいるのは、本当に過去生で悪いことをした結果なのでしょうか?
 たとえば、釈迦は解脱したとされるわけですが、解脱したということは、過去のカルマのすべてを浄化したことになるはずです。そして、解脱した人は、もう二度と悪いカルマを積むこともしないでしょう(さもなければ、解脱の定義を見直さなければなりません)。
 しかし、釈迦はその後も、敵対勢力から妨害を受けたり、一説によるとそのために怪我をしたとか、そして晩年は、食中毒で(少なくても肉体的には)苦しみながら死んでいったわけです。
 これらは、もしカルマの法則が事実だとするなら、釈迦は解脱後も悪いカルマを積んだことになり、その報いを受けたことになります。つまり、もしもカルマの法則が事実なら、釈迦は解脱していなかったことになります。イエス・キリストなどはもっと悲惨で、十字架にはり付けにされたわけですから、カルマの法則が事実なら、イエスはそうとう過去生で悪いことをしたということになるでしょう。そんな悪い人が、果たしてあれほど偉大な聖者となるものなのでしょうか?
 このように考えると、私たちの苦しみや不幸というものは、必ずしもカルマの法則だけで説明がつくとは思えないのです。

盲信からの解脱 | コメント:4 | トラックバック:0 |

読者の方のご意見

 読者の方から、以下のようなメールをいただきましたので、ご紹介させていただきます。
 このFC2ブログへのコメントは、ある一定数以上の文字数を書くと、不正な投稿とされてしまうようです。もし皆さんのなかで、そのために投稿ができなかった方がおられたら、どうもすみませんでした。
 今回、投稿できずに私にその内容をメールで直接に送って下さったわけですが、ぜひ、皆さんと共有したいと思いましたので、ご本人に許可を得て、以下に掲載させていただきます。
 私は、カルマの法則があるとか、ないとかを、主張しようとしているのではなく、私自身の疑問を投げかけて、こうして皆さんのご意見を聞きながら、探求していくのが目的です。
 なので、どうぞ、ご遠慮なく、ご意見をお寄せいただければ嬉しいです。
 よろしくお願い致します。


「斉藤先生はじめまして。ハンドルネームkuboと申します。
何故か不正な投稿と判断され、ブログにコメントできなかったので、メールさせていただきました。突然すみません。

仏教ではカルマは動機によって決まるようです。
師匠は指示をして殺させたので、殺生のカルマ、その妻はそこまで予想していないものの、破滅的な状況を願っていたわけだから重い嘘のカルマ、アングリマーラは自分の解脱のために殺しをしたのだから殺生のカルマとなりそうです。
悪いことをしたくなくても自然としてしまうから輪廻にとらわれているわけで、その法則をつかさどっているのは神ではなく、ただの法則そのものがあるだけです。だから、その法則は六道輪廻図では神どころか恐ろしい魔物として描かれています。
動物は自然のままに生きていますが、だからいいというわけではなく、そこから無意識に悪行を積んでしまうので、悪趣をさまよいそこから長い間抜け出せなくなるわけです。地獄に落ちれば苦しみから憎しみが生まれる続けるように、悪いカルマがもっと悪いカルマを呼ぶので、カルパ単位で苦しむことになるわけです。
非常に理不尽で、全てが苦ということになります。

このような話を上から目線で言い放てば、それはとんでもない脅しとなり、僕は鼻で笑って興味は持たなかったと思います。


しかし、全ての衆生が無明にとらわれている被害者であり同胞であるということから、悪人や自分を傷つける人に対しても慈悲の気持ちを持ち、大乗の菩薩に至っては、その全ての苦を消滅させるまで解脱をしないというほどの決意を持っているので、非常に優しい宗教であるといえます。
カルマの法則は、理不尽な現実であるが、敵であってもそういう事態に陥らないように全力で助けたいという態度は、信じる信じないは別として、筋は通っていると思われます。聖者の悪口の話も、戒律を破って地獄に落ちてザマアみろと思っている人は一人もおらず、それどころか自分のことのように感じて悲しんでいるはずです。実際はそうじゃない人もいるでしょうが…
障害者に対して前世のカルマだと考えても、そこで自業自得と言い放てばすでに仏教徒ではないのと同じことです。

あくまでも仏教からの立場で、それこそ信仰の問題になってしまいます。趣旨である、総合的、理論的なアプローチではありません。
斉藤先生は仏教を知らないわけでなく、あえて違う立場から解説されたことと思います。
しかし、無神論の宗教である仏典の話を考える時には、愛に溢れた神を持ち出してもしかたがないと思うのです。愛に溢れた神を想定して仏典をみれば、本当に全てが理不尽で馬鹿馬鹿しい脅しとしか見られなくなります。」

盲信からの解脱 | コメント:10 | トラックバック:0 |

カルマの法則への疑問 ②

 さて、前回、アングリマーラのお話をご紹介しましたが、彼はいったいなぜ、このような悪いカルマを行うようになってしまったのでしょうか?
 まず、彼が師匠の命令をそのまま受け入れたことにあると言えるでしょう。私から言わせれば、「盲信」してしまったのです。いかに盲信が危険であるか、この話からもわかると思います。オウム真理教の信者たちも、結局は麻原を絶対的な存在として盲信した結果、あのようなむごい事件を起こすことになったわけです。
 ただ、当時のインドの宗教事情を考えますと、グルというのは絶対的な存在であり、絶対に正しく、それゆえグルの命令は絶対に服従するというのが、解脱をめざす弟子として必要不可欠なことであり、あるべき姿であるという風潮が、根深くあったようです。
 その意味では、アングリマーラは、ただ真面目であったということなのかもしれません。もっとも、妻が嘘を言ったのも見抜けないような、そもそも、あのような恥ずべき行いをするような女を妻にめとる、ふぬけた人物を師匠に選んだ彼にも責任があると言えなくもありませんが、いずれにしろ、彼は人殺しをしたくてしたわけではないことは確かでしょう。

 もともと、アングリマーラがあのような悪しきカルマを積むようになったのは、師匠の妻があのような卑劣な嘘を言ったからです。そこから始まったのです。妻があのようなことをしなければ、アングリマーラもあのような行為をしなかったのです。その点では、もっとも悪いのは妻だと言えるかもしれません。
 しかし、妻はまさか、人殺しにまで発展するとは思わなかったでしょう。そうなるとわかっていたら、たぶん、あのような嘘もつかなかったと思います。
 一方、人を殺せと命令したのは師匠ですから、その点では師匠こそがもっとも悪いと言えるかもしれません。しかし、その師匠もだまされたから、そのように言ったわけです。人間である以上、だまされることもあるのは仕方がないことですから、そう考えると、師匠にも情状酌量の余地はあることになります。

 以上のように考えると、アングリマーラ、師匠、妻の3人は、決して人殺しを望んだわけではなく、それぞれ意図しないまま、結果的に人殺しという出来事を生みだしてしまったと言えるでしょう。
 ならば、アングリマーラだけが、悪しきカルマを積んだとして、責められることになるのでしょうか? 師匠にも妻にも、殺人の責任があるのではないでしょうか?
 だとすると、アングリマーラだけではなく、師匠や妻も、殺人という悪しきカルマに対する報いを分配されて受けなければならないでしょう。
 しかし、いったいどのようにして、公正にカルマの結果を分配するのでしょうか?
 事情は非常に複雑です。全員が悪いとも言えるし、全員が悪くないとも言えるなかで、いったい誰がどのくらいカルマの報いを引き受けるのか? その分量をどのようにして公正に配分することができるのか? また、その配分は機械的な法則によって自動的に決められるのか、それとも、そのような配分を決める人格的な存在がいて、その裁量によって決められるのか? だとすると、どのような基準に従ってそれを行うのか?

 アングリマーラの話は、国の命令で戦争に行き、敵の人間を殺す兵士にも、そのまま当てはまるのではないでしょうか?
 その場合、ろくでもない師匠の命令にしたがったアングリマーラに責任があるとするなら、戦争をするろくでもない政府にしたがった国民に責任があると言えるわけで、そうなると、兵士たちはみんな、敵(人)を殺して悪しきカルマを積むことになります。
 しかし兵士たちは、仕事でそれを行っているわけであり、上からの命令で仕事(殺人)を行っただけなのに、悪いカルマを積んだことになるというのは、理不尽ではないでしょうか。
 もちろん、仕事と言えども、それは自分の生活費を稼ぐという利己的な目的もあるわけですから、その意味では、自分のために人を殺したと言えなくもないかもしれません。
 ならば、徴兵制度により、無理矢理に兵士にさせられ、戦場に連れて行かれ、人を殺さなければならない状況におかれることも、世の中にはあるわけですから、その場合でも、悪しきカルマを積んだことになり、いつかカルマの報いを受けなければならなくなるのでしょうか?
 そうだとすると、これはあまりにも理不尽であり、納得のいくものとは思えないのですが、いかがでしょうか?

 反社会性人格障害という精神疾患があります。これは、犯罪などの反社会的な行いをしてしまう病気です。遺伝や脳の異常、生育環境などにより、こういう精神の病気になってしまう人が、男性の場合、人口の2%くらい存在すると言われています。
 このように、精神の病気が原因で、たとえば人を殺してしまった場合、やはり悪いカルマを積んだことになり、悪い報いを受けなければならないのでしょうか?
 つまり、私が言いたいのは、人間とは、たとえ悪いことをしたくなくても、悪いことをしてしまう存在ではないのか、ということです。もしそのように造られているというのに、報いだけは責任を取らされて苦しまなければならないのなら、あまりにも理不尽だと思うわけです。

 それとも、動機が問題なのでしょうか? 人を傷つける動機で行った場合は悪いカルマとなり、そういう動機がなくて人を傷つけてしまった場合は、悪いカルマにならないのでしょうか?
 だとすると、「世界をよくしよう」という純粋な動機で(仮に本当にそのような純粋な動機だとして)、そのために仕方なく爆弾を飛行機にしかけて人を殺すテロリストたちは、悪いカルマを積んでいないことになりますが、動機さえ善いものなら、結果的にいくら人を殺しても悪いカルマにならないのでしょうか? もしヒトラーが純粋な動機でユダヤ人を殺していたとしたら、彼は悪いカルマを積んでいないことになりますが、どうなのでしょうか?

それとも、やはりあくまでも、結果なのでしょうか?
 殺すつもりはない、間違って殺してしまった場合でも、殺人という行為に対する報いは受けなければならないのでしょうか? だとすると、医療過誤で患者さんを死なせてしまった医師などは、悪いカルマを積んだことになるでしょう。そうなると、悪いカルマを積まないように、医者にはならないようにしなければなりません。しかしそうして医師がいなくなったら、たくさんの人たちが、助かる命も助からないということになるでしょう。

 このようにあれこれ考えると、果たしてカルマの法則は、どのようにして明確に善悪の判定をし、どのように公平に報いを与えているのか、まったく検討もつかなくなってしまうのです。
 そもそも、公正に善悪を判定し、厳密にそれに応じた報いをもたらすということなど、果たして可能なのでしょうか?
「神様は万能だから、可能なのです」
 と言われれば、それまでです。それはもう信仰の問題、つまり信じるか信じないかの問題となり、議論の余地はありません。
 けれども、それは、「グルは絶対に正しいから、グルの言うことはすべて正しいのです」という発想と、何ら変わらないと思います。
 つまり、最初から正しいと決めて批判する姿勢を捨てる姿勢は、盲信と紙一重の姿勢なのです。アングリマーラの悲劇は、そうして起こったのです。
 カルマの法則に対する盲信(があればの話ですが)を排除しようと考察しているのが、このブログの目的なのです。

盲信からの解脱 | コメント:10 | トラックバック:0 |

 カルマの法則への疑問 ①

 「盲信からの解脱」のカテゴリーの続きとして、今度は「カルマの法則」について疑問に思うことを述べたいと思います。
 その前に、カルマの法則とは何かについて、一般に思われている見解を説明しておきましょう。これはおそらく、インド哲学から発生したものではないかと思いますが、ヨーガや仏教、ジャイナ教といった宗教の教えの柱となっているものです。
 カルマとはもともと「業」、つまり「行い」を意味する言葉で、善いカルマと悪いカルマとがあるわけですが、一般に「カルマ」と言った場合、悪いカルマ、あるいは悪いカルマに対する報い、また、その報いをもたらす「種」、のような意味合いで使われることが多いようです。
 そして、カルマの法則と言った場合、それは「善い行いに対しては善い報いが、悪い行いには悪い報いが訪れる」ということになります。いわゆる「因果応報」です。
 それは、ちょうど物理学の作用・反作用のように、厳密に善悪が査定され、同等の報いが公平に訪れると信じられています。わかりやすい例をあげると、壁に向かって10の力でボールを投げると、同じ10の力でこちらに跳ね返ってくるようなものです(この例では摩擦や抵抗は考えない)。その報いは現世で結実する場合もあれば、来世で結実する場合もあります。視点を変えれば、今日の不運の原因は、過去、あるいは過去生で悪いことをした報いということになります。
 カルマの法則は、お金にたとえられることもあります。すなわち、悪いことをすると、それは借金をするようなもので、その借金ぶんの金額を後で払わなければならなくなる、というわけです。具体的には、不運や苦しみを通して、あるいは何らかの償いの行為を通して払わされるのです。逆に、善いことをすれば、それは天国に貯金をするようなもので、いつかその貯金がおろされて善いこと(幸運)がやってくる、ということになります。
 以上が、一般的に信じられているカルマの法則であるといえると思います。
 そして、唯物論者でない限り、スピリチュアルな方面に関心がある人はもちろん、それほど関心がない人でも、こうしたカルマの法則を信じている人は少なくないようです。

 しかし、本当に、以上のようなカルマの法則というのは、存在するのでしょうか?
 確かに、この考え方は、一見すると非常にすっきりとして合理的に思えます。心情的にも、悪いことをしてそのままですむはずがない、いや、すんではならない、その報いは必ず受けるべきだ、という、ある種の勧善懲悪への欲求を満たしてくれる点で、納得がいくものです。そうして、ほとんどの人が、このカルマの法則を批判的に見ることなく、素直にそのまま受け入れているように思います。
 しかし、本当に、このカルマの法則を、そのまま受け入れていいものなのでしょうか?

 私がカルマの法則に関して疑問に思う点はいくつかあるのですが、まずもっとも疑問なのは、「善悪をどのように判定しているのか?」ということです。
 物理学の作用・反作用の法則は単純です。そこには善悪の区別はありません。しかし、善や悪という概念は、単純ではありません。何をもって善というか、何をもって悪というか、それがはっきりと決められないことも、世の中には少なくないわけです。
 たとえば、親が子供を悪の道から救うために、子供に体罰を与えたとします。子供からすれば、憎しみ以外の何ものでもないと感じ、ますます悪の道に進んでいったとします。この親は、善いことをしたのでしょうか? それとも、悪いことをしたのでしょうか?
 あるいは、行為そのものではなく、「動機」が重要なのでしょうか? つまり、善いことをしようという動機はあったが、結果的にそれが人を不幸にしてしまったとしても、悪い行為にはならない(それゆえに悪い報いは訪れない)ということなのでしょうか?

 以上のような疑問を考えるための、ひとつの「たたきだい」として、仏典に伝わる「アングリマーラ」の話を紹介したいと思います。有名な話なのでご存じの方もいらっしゃるかもしれません。とりあえず、その話を紹介させていただき、それについて私が考えることは、次回にまわしたいと思います。
 まずは、アングリマーラの話を読んでみて下さい。

 かつて、アヒンサという男が、師匠のもとで熱心に宗教的修行を行っていました。
 ある日、師匠が外に出て留守だったとき、師の妻がアヒンサに恋慕し誘惑しました。しかしアヒンサはこれに応じず断りました。するとその妻は、そのことを逆恨みし、自ら衣を破り裂き、帰ってきた師匠に、「アヒンサに乱暴された」と訴えました。
 それを聞いた師は怒り、アヒンサに「100人の人々を殺してその指を切り取って、鬘(首飾り)にすれば、お前の修行は完成する」と命じました。アヒンサは悩んだ末に、街に出て師の命令どおり人々を殺してその指を切り取っていきました。これによりアングリマーラ(指鬘)と呼ばれるようになり、人々から恐れられるようになりました。
 そんなあるとき、アヒンサ、すなわちアングリマーラは、たまたま釈迦と出会いました。アングリマーラは釈迦を殺して指を切り取ろうとしましたが、そんな彼にまったく動じない釈迦に感銘を受け、殺人を止めて釈迦の弟子になったのです。
 すると、今度は、家族や身内を殺された人々がアングリマーラに石を投げたり暴力を振るって、怨念を晴らすようになりました。血だらけになったアングリマーラに「このような仕打ちを受けるのも、おまえが以前に行った悪い行為の報いである。このような報いを受けて過去の悪いカルマが消えるまで、じっと耐えなければならない」といった意味のことを、釈迦は説いて聞かせました。


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