心の治癒と魂の覚醒

        

 『地球卒業者「18人」の過去生』の研究 ②


 前回に引き続き、エドガーケイシーのリーディングをもとに、地球を卒業した人(ラストタイマー)になるために必要な美徳について、考えていきましょう。今回は2番目に紹介されているケースです。

2.人気者(45歳女性:家政婦)
 ケイシー(のリーディング)は、この女性について「常に愛の力に満たされている人である」とコメントしています。
 この女性は未亡人となった義母の意向にしたがって終生結婚せず、義母のために家事をし、年下の二人の異母兄弟を育てるのを助ける人生を歩みました。この女性はそんな自分の人生を「涙の川」と表現し、その寂しさを悲嘆していたようです。そんな彼女に、リーディングは、大きな霊的進歩のために今の人生がとっておかれていたと述べています。そして、彼女について次のように評価しています。
「その行動において、思想において、変わっているとたくさんの人から思われる人である。常に愛の力に影響されている人である。自然を愛し、すべての育ちゆく自然を愛し、自然の美しさ、花、音楽、芸術、自然の中に表されている聖霊を愛する人である。…人から受けとるよりも、常に与えることに徹し、たくさんの人に大きな喜びを与える人である」
 この女性の三代前の過去生は、エジプトに住んでいたといいます。エジプトの統治者の寵愛を受けて法廷の長となり、僧侶の祭服を作っていたとのことです。次にペルシャに生まれ、そこで哲学的な知識を学び、次にフランスに生まれて王の寵愛者となり、やはりまた衣装に関する仕事をしていたようです。
 こうした過去生を紹介した後で、最後にリーディングはこう告げています。
「自分の中にこれまで定めてきたその同じ方法を守り続けなさい。自分自身の中での努力を通して、あなたは地球に再び戻ってくる必要がなくなっているからだ。守り続けてゆけば、その努力はより高き霊的世界に至るまでになるであろう。そのように、永遠の生命へと導く道の中に自分を保ち続けなさい。あなたがこれまで信仰を寄せてきた主は、生命である。主は道であり、真理であり、光である。主の中に偽りはない」

 さて、以上の点から、ラストタイマーに必要な美徳というのは、いったい何なのでしょうか?
 まず、ひとつは、ケイシーも強調しているように「愛の力」があげられるでしょう。この人は自分を犠牲にして義母のために尽くしてきました。また、自然や芸術などへの愛も強かったようです。これは、「生命と美」に対する愛と表現してもいいかもしれません。人間に対する愛はもちろん、あらゆる生命、また美しいものに対する愛を持つということが、大切なのかもしれません。
 さらにリーディングでは、「永遠の生命へと導く道の中に自分を保ち続けなさい」と言っています。これは何を意味しているのでしょうか?
 ケイシーのリーディングの言い回しは、ある種独特のクセがあり、回りくどいといいますか、理解するのに少し骨が折れるところがあります。文脈からすると、これは「信仰」をさしているようなのですが、要するに「これまで通り愛の力を保ち続けよ」ということなのかもしれません。この「保ち続ける」というところがポイントのようです。前回のリーディングでも「忍耐」が取り上げられていましたが、こちらも同じような意味なのでしょう。すなわち、気持ちをフラフラさせず、聖なる正しい道から気持ちをそらすことなく、ひたすら忍耐強く歩み続けること、これが、ラストタイマーとなるために大切であると述べているように思われます。

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 クリスマス

 本日はクリスマスイブ、明日はクリスマスです。皆さんは、いかがお過ごしでしょうか?
 ちなみに私の方は、いつも仕事などに追われていて、毎年のことながら、特別なことは何もやりません(できません)。そのために、ちょっとひがんで申し上げますが(笑)、クリスマスというのは、商魂たくましい人たちの宣伝や社会の雰囲気に流されてプレゼントの交換をしたり、まるで食べるのが義務であるかのようにケーキを食べたり、パーティや宴会をして馬鹿騒ぎをする日ではないのです。クリスマスは「お祭り」の日ではないのです。
 イエスは、この世の悲惨な人々を、愛によって救いに導くために来ました。そして自分と同じように、私たちの誰もが、悲惨な人がいたら、いえ、悲惨な人を積極的に捜し出し、力になってあげる生き方を教えるために来たのです。
 愛に国境も身分の差も、宗教の違いもありません。イエスは「キリスト教」を説いたのではありません。イエスは愛を説いた、それだけのことです。今日のキリスト教というのは、その後の弟子や関係のない人たちが余計な教義をくっつけて生まれたもので、極論を言えば、イエスとは何の関係もないのです。イエスの教えは人類普遍の教えであり、クリスチャンだとかそうではないとか、そういう問題ではありません。愛と慈悲に生きる人は、その人が仏教徒だろうとイスラム教徒だろうと無神論者だろうと、(真の意味における)クリスチャンなのです。
 クリスマスの日にささやかなパーティや宴会をすることが悪いというつもりはありません。しかし、パーティや宴会など、しょっちゅうやっているではありませんか。むしろ、クリスマスの日にこそ、この地上で悲しみや苦しみに打ちひしがれている人に気持ちを向けるべきだと思うのです。
 全世界の8割は貧しい人たちです。一日に2万人以上もの子供が、飢えと病気で死んでいます。今日のクリスマスイブと明日のクリスマスの2日だけで、4万人の子供が死ぬことになるでしょう。この子供たちは、ケーキなど食べたことがないでしょう。ケーキの味も知らずに死んでいくのです。骨と皮だけになりながら。
 また、生きるために、学校にも行けず、一日中ゴミをあさらなければならない子供たちもいます。寒い夜を家の軒下や道端で過ごさなければならない浮浪児たちもたくさんいます。
 日本はどうでしょうか。毎年、児童相談所に報告があるだけで、4万4千件もの虐待が行われています。叩かれ、蹴られ、タバコの火を手足に押しつけられ、暴言を吐かれ、食べ物を与えられず、空腹のあまりゴミを食べて病気になったりするわけです。世の中で一番自分を愛してくれるはずの、自分を大切にしてくれるはずの親から苦しみを与えられているのです。そうして体や心に深い傷を負っている子供がたくさんいるのです。最悪の場合、殺されているのです。何の罪もない子供たちが、本来なら愛らしい無邪気な笑いを浮かべているはずの子供たちが、たくさんの涙を流し、悲痛な叫び声をあげているのです。そしてついには叫び声も出せないほどおかしくなっているのです。
 また、年間3万人以上の人たちが自殺しています。これは遺書などが見つかりはっきりと自殺とわかった数だけであり、実際にはもっと多いと言われています。そして、自殺未遂の数は、その十倍以上と言われています。一日に換算すると、80人もの人が自ら命を断ち、800人以上が自殺未遂をしていることになります。今日と明日の2日間で、およそ160人が自殺し、1600人が自殺未遂をすることになります。そして、親に自殺されて悲嘆に暮れる子供たちや家族が残されるのです。特に父親が自殺の場合、経済的にも破綻して学校を中途退学しなければならなくなったりします。心の傷に加えて生活苦が乗りかかってくるのです。
 震災で家も家族も失った人たちもいます。子供を失った親もたくさんいます。
 肉体や心の病で入院している人もたくさんいます。一晩中、痛い、苦しいとうめきながら過ごしている人がたくさんいます。貧しくてクリスマスケーキも食べられない人もたくさんいます。「メリークリスマス!」などと誰からも声をかけてもらえず孤独にひとり生きている人もたくさんいます。そうして誰にも知られないまま孤独に亡くなっていく人もたくさんいます。障害をもっているため外出できず、寂しく家にいなければならない人もたくさんいます。人々から嫌悪の視線を向けられながら、厳寒の夜に公園のベンチや地下街の片隅で眠らなければならないホームレスの人たちもたくさんいます。
 こういう人たちが、私たちのすぐ近くにたくさんいるのです。
 それなのに、あたたかい部屋で腹を壊すほど飲んだり食べたりし、馬鹿騒ぎをすることなど、どうしてできるでしょうか?
 もちろん、飲食やクリスマス商品を提供することで生活の糧を得ている人がいますから、そうしたことを否定するつもりはありません。パーティをしたり飲食したりするのはけっこうだと思います。
 しかし、ただそれだけならば、あまりにも人間としてレベルが低すぎるのではないでしょうか。私たちが浮かれ騒いでいる姿を、(そういうことがしたくでもできない)悲惨な人々が見たら、いったいどう感じるでしょうか?
 だから、クリスマスを祝うのはけっこうですが、世の中にはクリスマスを楽しく祝うことができない人もたくさんいるのだという気持ちを忘れず、むしろこのクリスマスの日だからこそ、そういう人たちのために祈ったり、わずかでもいいから何らかの援助をしてあげたり、世の中を少しでもよい方向に変えていくような行いや活動をしたり、あるいは今後そういう生き方をする人間になると誓ったりすることが大切であると思うのです。
 むかしから、クリスマスの日になると、私はホームページなどでこうしたことを書いてきました。そうして、せっかく楽しく浮かれている雰囲気に水をさすようなことをして、嫌われ者になっているような気がします(笑)。
 
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 『地球卒業者「18人」の過去生』の研究 ①


 私のてもとに、1冊の本があります。『エドガーケイシー/地球卒業者「18人」の過去生』(バイオレット・シェリー著 林陽訳 中央アート出版社 1990年)です。
 エドガーケイシーについては、説明する必要はないでしょう。アメリカを代表する最大の霊能者(霊媒)です。彼の場合、眠っている間に彼の指導霊のような存在が質問に対してメッセージを与えるというスタイルでした。それは「リーディング」と呼ばれています。
 リーディングの内容のほとんどは、「どうすれば病気が治るか」という質問に対する答えで、ケイシー(のガイド)は、代替医療的な手法を中心とした膨大な量の治癒の方法を紹介しています。その他、生まれ変わりやカルマについてのリーディング、予言についてのリーディングなどがありますが、そのなかで、「あなたはもう地上(地球)に生まれ変わらなくてもいい」と告げられたケースが18例あるらしいのです。そして、その人たちの過去生や占星術的な影響について紹介したのが、本書です。
 つまり、彼らはこのブログでいう「ラストタイマー」であり、仏教でいう「不還(もうこの世に生まれ変わることがない境地)」を体得した人たちということになります。
 本書を読むと、もう地上に生まれ変わる必要がなくなるためには、ある種の「美徳」を養うことが必要であることがわかります。
 そこで、これから順次、彼らをひとりひとり取り上げ、地球卒業のためにはどのような美徳を養う必要があるのかについて学んでいきたいと思っています。そうして、地上における完全な覚醒をめざす前に、とりあえず「ラストタイマー」になることを、最初の目標にしてもいいと思うわけです。完全な覚醒はかなり難しいと思いますが、ラストタイマーになるのであれば、完全な覚醒よりは簡単だと思います。ラストタイマーになったというだけでも、大成功であると思うわけです。
 では、さっそく、最初の「ラストタイマー」について、見ていくことにいたしましょう。

1.巫女 (47歳女性:主婦)
「巫女」という名は、この本の著者がつけたものです。というのは、ケイシーのリーディングを受けた人は実名ではなく、リーディング番号によって記録されており、番号で人を呼ぶのはどうも……という理由から、シンボリックな名前をつけて、それを呼び名にしたのです(以後登場する人物名もすべて仮名)。
 この女性は、エジプト、旧約聖書時代の聖地、ペルシャ、ニューイングランドに生まれ変わり、伝道師や巫女、王女、宗教的な助言者や教師などをしてきました。こうして、宗教的な教育や伝道、指導の能力を養ってきたといいます。ひとつ前の過去生であるニューイングランドでは、牧師の妻をしていました。魔女狩りが行われていた時代と場所です。そのとき、今までの過去生の体験から、物質的苦しみへの恐怖、人々から非難されることに対する恐怖心があったとされます。これに対してケイシー(のリーディング)はこう述べています。
「人間の誰もが、魂の誰もが、試練や誘惑の中で、美しいものを発見できるのだ」
 そしてリーディングは、この女性は利己主義は問題になっていないが、「自分に対する忍耐」を養うべきだといっています。「積極的な力としての平安と忍耐が培われるようにせよ。人生の中での受け身な力としてではなく、積極的な力としての平安と忍耐である」
 また、魂ひとりひとりには独自の意見、独自の活動を持つ権利があるのだから、人々に対して積極的に寛容であるべきだと諭しています。
 そして、「忍耐を培ってゆくことを通して得られる、あの静まりこそが、たくさんの人を導くのに必要とされるあの光を差し出すことを、可能にさせてくれるのである」といっています。
 結局のところ、リーディングによれば、この女性は自分が培ってきた「創造的な力」を人々に分かち与えられるようになれたことが、地上卒業にまで至らしめた美徳だと解釈しているようです。

 さて、ここであらためて、私たちが学ぶべきエッセンスを整理してみたいと思います。 ケイシーによれば、私たちが何度もの生まれ変わりを通して培われた能力というものは、失われることはないといいます。この女性は、宗教的な人間として何度も生まれ変わった経験を通して、宗教的な知識を伝えたり指導したりする創造的な能力を養い、それを分かち合ってきたわけです。つまり、そのようにして人々に奉仕してきたわけです。
 このように、「創造的な力」を養い、それを使って他者に奉仕をしていくことが、地球卒業のためには重要になってくるようです。そして、そのために、試練や誘惑を通して美しいもの(すなわち美徳)を発見していき、忍耐強くあること、寛容であることが求められるのです。
 リーディングは最後に、こう告げています(一部抜粋)。
「あなたが慈しみの心を持とうとするなら、隣人に慈悲の心を示し、敵にも、あなたを軽蔑するような人にさえ慈悲の心を示さなくてはならない。キリストがそうであられたように、あなたも笑う者と共に笑い、泣く者と共に泣きなさい。道をまっすぐに保っていなさい。そうすれば、あなたは栄光を、自分自身に対する栄光を、そこに見るだろう」

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 世俗を捨てて世俗に生きる ②


 前回は、出家の目的を2つあげ、その目的さえ達成すれば、世俗であっても、実質的に出家したのと同じだという趣旨のことを述べました。
 今回は、出家の目的の2番目を取り上げたいと思います。すなわち、「煩悩を煽るような事柄から身を遠ざける」ということです。
 言うまでもありませんが、たとえ出家して山奥の寺で暮らしたとしても、煩悩を煽るような俗っぽいことで頭がいっぱいであれば、その人は本当に出家した(つまり世俗を超えた)ことにはなりません。ただ肉体が山奥へ移動しただけであり、実質的には世俗にまみれていることになります。
 しかし、肉体は世俗に存在していたとしても、頭の中が世俗を超えた聖浄な思いで占められていたら、その人は実質的に世俗に住んでいないことになると思います。
 では、具体的に、「煩悩を煽るようなこと」とは、どのようなことでしょうか?
 人により異なると思いますが、基本的には2つあると思います。
 ひとつは、「心を乱すようなもの」です。怒りや悲しみ、嫉妬や憎悪といったものです。心が乱されるのは、その根底に煩悩があるからです。
 もうひとつは、「心を乱すようなもの」と関連しますが、「依存を招くもの」です。つまり「それがないと苦痛を感じてしまうもの」と言い換えてもいいでしょう。一般にそれは、快楽として感じられるものです。食べる快楽、性の快楽、富や名誉の快楽、遊びの快楽などです。私たちは、こうした快楽を得ると、さらにもっと欲しくなり、ついには、それなしではいられなくなり、いわば中毒となって、それがなくなったら激しい苦しみを味わうことになります。それもまた、煩悩によるものです。
 ですから、たとえおいしいものを食べても、性の営みをしても、大金や名声を手にしても、遊んでも、それに依存せず、たとえそれが失われても心が乱されないのであれば、何の問題もないのです。
 もちろん、それは簡単なことではありません。生臭坊主などは、「わしはとらわれの心がないからいいのじゃ」などとうそぶきながら、美食や酒を腹一杯詰め込んでいたりしますが、このように人や自分をごまかしてはまずいわけです。
 実際、「たとえ失われても心が乱されない」というのであれば、もともとそのものに対する執着がないということです。ですから、ことさら積極的にそういう快楽を得ようとは思わないはずです。

 ところで、煩悩のなかでも、もっとも強いものは、おそらく「愛欲」ではないかと思います。性欲だけでなく、たとえば配偶者や子供、親や兄弟などに対する愛着の念です。要するに、家族に対する愛着です。これを断つことは非常に難しいと思います。
 しかし、解脱するためには、たとえ少しずつでも、家族への愛着さえも断ち切っていく必要があると思います。といっても、なにも家族と離縁するとか、冷たくするという意味ではありません。愛は持つべきです。しかし、執着は断ち切らなければならないのです。
 そのためのひとつの心構えとしては、家族を家族と思わないことです。言い換えれば、自分の所有物とは思わず、他人なのだと思うことです。私たちは親や配偶者、子供などに対しては、どこかで「自分のもの」という意識があり、そのために、自分の好きなように相手を支配しようとしたり、言うことをきかせようとしたりします。そして、相手にそれを当然のことのように期待します。他人だったらそんなことはしないでしょう。そうして、相手が自分の期待に応えてくれないと、怒ったり失望したりするわけです。こうなるのは、煩悩にまみれているからです。
 したがって、親や配偶者は、単なる「生活協同者」だと思うことです。子供は、よその子供を一時的に預かっているだけだと思うことです。
 実際、家族というもの(概念)は、人間が作りだしたある種の「妄想」に過ぎません。煩悩を越えた霊的なレベルでは、世間でいうところの「家族」なるものは存在していないからです。魂のレベルでは、すべて一個の独立した存在です。魂は魂を生むことはないので「親子」の関係はなく、魂には結婚ということもないので「配偶者」もいません。それが真実なのです。ただ縁があって一緒に暮らしている、それだけのことなのです。
 もちろん愛情はあるかもしれませんが、もしその「愛情」から「所有欲」を取り除いたら、たぶん、残るのは家族の情というより、一個の魂への愛でしょう。
 こういう考え方は一見すると冷たく感じられるかもしれませんが、それは「真の愛」と単なる「所有欲」を混同しているからそう感じるのです。
 家族というのは、たまたま縁があって、「家庭」と世間が呼んでいるところの「寄宿舎」に、いわば「相部屋」しているだけだと思うことです。実際、霊的な真実から言えば、その通りなのですから。そう思えば、家族に対して過剰な期待をすることもなく、執着が薄れていくでしょう。
 このように、世俗で家庭を持っていたとしても、家族を他人だと思い、ただ同じ寄宿舎に住んでいるだけだと思えば、精神的には出家した状態にかなり近くなるはずです。
 そして、仕事をするにしても、それは「托鉢」をしているようなものだと考え、いかなるものにも執着せず、いかなるものにも期待せず、「自分のもの」という意識を捨て、精神的に「無所有」になるようにするのです。
 そうできれば、世俗に住んでいながら、世俗を捨てたことになるのではないでしょうか。もちろん、仕事は一生懸命にやり、家族としての責任は果たし、社会をよくし、困っている人がいたら手をさしのべてあげるべきです。しかし精神的には、いっさいの執着をもたず、世俗的な事柄にいかなる期待も持たずに生きることです。そうすれば、何がどうなろうと心を乱すこともなくなるでしょう。心のなかでは世間を捨てて生きるのです。

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 世俗を捨てて世俗に生きる ①


 少なくても初期の仏教では、解脱をするには出家しなければなりませんでした。
 しかし、当時の出家と、日本の出家というのは、少し様子が違うことを説明した方がいいでしょう。
 日本の場合、出家というと、寺に住み込みで修行生活を送ることを意味し、生活の糧は托鉢によるものでした。もちろん今では檀家の寄付や葬式などで収入を得ていて、平均的なサラリーマンより高収入で豊かな生活をしているお坊さんも少なくないようですが、とにかく、それが日本の出家です。
 しかし、むかしのインドの出家というのは、それこそ裸同然で外に飛び出し、住む場所もなかったわけです。ただ、そういう修行者が当時のインドにはたくさんいて、修行者たちの衣食住の世話をするのが在家の人々の社会的慣習のようになっていたようですから、贅沢はできないにしても、衣食住に困ることはなかったようです。

 そうして、衣食住を得るための労働を放棄し、そのための時間を修行に当てるのが出家の目的だったわけです。また、労働に伴うさまざまな煩いや、煩悩をそそることから身を遠ざけるという目的もあったのでしょう。
 つまり、出家の目的は二つあるわけです。まとめますと、
 1.労働する時間を修行に使う。つまり、修行に専念する。
 2.煩悩を煽るような事柄から身を遠ざける。
 ですから、たとえ見かけは「出家」して、たとえば寺に住み込みで修行をしたとしても、いい加減な修行をしていたり、頭の中は世俗的な事柄でいっぱいになっていたら、それは本当の意味で出家したことにはならないわけです。
 逆に言うと、修行に専念する時間を豊かに持つことができ、煩悩を煽るような事柄から身を遠ざけることができるならば、出家する必要などない、ということになります。というより、それこそが本当の「出家」ということになるわけです。

 私たちは、仕事を辞めて山奥の寺にこもることはできません。また、そうしたからといって、必ずしも出家したことにはならないのです。出家とは、要するに心の問題なのではないでしょうか。生活のすべてを修行だけに費やし、俗世の煩悩から解放されていることこそが、本当の「出家」であると思うのです。
 もちろん、私たちは仕事をしなければなりませんので、生活のすべてを修行に費やすことはできません。それどころか、ほとんどの人は仕事で大忙しですから、修行に費やすことができる時間など、微々たるものでしょう。
 しかし、修行といっても、座禅や瞑想などが修行ではないわけです。仕事を修行にしてしまえばいいわけです。では、どうすれば仕事を修行にすることができるのでしょうか?
 座禅や瞑想の修行といっても、結局は、次の3つの目的を成就するためにあるのです。
 1.精神集中力をつける
 2.実在(神、仏、宇宙法則、etc)とのつながりを深める
 3.何が起ころうと心乱さず平静に超然としていられる心を確立する
 以上の3つを身につけるのが、修行の目的なのです。
 ならば、仕事に集中すればいいのではないでしょうか。そうすれば、集中力が鍛えられます。また、どのような仕事をするにも、「これは神に喜んでいただくためにやるのだ」と神を念じながらやればいいのではないでしょうか。そうすれば、神とつながりを深めることができます。そして、どんなことが起ころうと、平静な態度、超然とした態度をとるように努めるのです。
 見かけだけ出家して、それこそ衣食住の心配もなく、静かで居心地のいい場所で瞑想などしているよりも、世俗において、生活するために必死で働き、ストレスに満ちた仕事をこなす方が、よほど鍛えられ、修行になるのではないでしょうか。
 もちろん、それは容易ではないし、楽なことではないでしょう。しかし、すべては心構えひとつではないかと思うのです。

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 マザーテレサの「心の闇」②


前回、あれほど人類に奉仕活動を捧げた聖女マザーテレサが、活動前にはしばしば感じられた神の愛(神秘体験)がまったくなくなり、孤独と暗闇にうち捨てられたかのようになり、信仰を失ってしまったような告白をしていることをご紹介しました。
 今回は、それはなぜなのか、私なりに推測してみたいと思います。
 マザーテレサは、貧しい人の気持ちを理解するために、貧しい人と共にあるために、自らを貧しくして清貧に生きました。彼女の私的な所有物は、ほとんどなかったと思います。物だけではありません。彼女が私的に使うことのできる時間さえ、ほとんど持っていなかったのではないかと思います。彼女は、貧しい人たちへの奉仕、シスターたちへの指導、世界中を廻っての啓蒙活動に明け暮れていました。それ以外の時間は祈りに費やしていました。
「時は金なり」と言いますが、時間を豊かに持つということは、お金を豊かに持つのと同じくらい、ある意味では物欲的なのかもしれません。本当に物質的なものを捨てた人は、物だけでなく、自分のための時間さえも捨てるのではないでしょうか。その意味では、マザーテレサはまさに物欲のすべてを捨てたと言えるかもしれません。

 ところで、キリスト教徒というのは、いったい何をもってキリスト教徒と言うのでしょうか?
 聖書の言葉を信じる人、教会に通う人、洗礼を受けた人、それをキリスト教徒と言うのでしょうか?
 私はそうは思いません。キリスト教徒というのは、(あくまでも私の定義では)イエスのマネをする人のことをいうのです。
 では、イエスは何をしたのでしょうか?
 イエスがしたことは、無私の愛の実践、そして、人間の本質は物質ではなく、物質を超えた神性を本質に持つことを示したこと、この二つです。イエスは教えを説くために地上にやってきたというよりは、手本を示すために地上にやってきたのです。
 ですから、このようなイエスをマネて、この二つを実践する人、少なくても実践しようと努力している人こそが、本当のキリスト教徒なのです。聖書の教えに通じるとか、教会に通うとか、洗礼を受けるとか、そのようなものは、どうでもいいことなのです。キリスト教など信じていなくても、この二つのことを実践している人は「キリスト教徒」なのです。
 そしてイエスは、こうした実践を、いわゆる「上から目線」で行ったのではなく、貧しく平凡な、また社会の最下層の人々と交わりながら実践していったわけです。
 キリスト教(教会)は、イエスを神として祭り上げ、遠い存在にしていますが、それは間違いだと思います。イエスはおそらく、自分を「お兄さん!」と親しく呼んでもらうことを望んでいたと思いますし、天界にまだ存在しているならば、今なおそう望んでいると思います。
 無私の愛というものは、金持ちが贅沢な生活をしながら貧しい者にお金を与えるような、そのようなものではないと思います。もちろん、富める者が貧者に経済的な支援をすることを否定しているわけではありません。しかし、イエスの無私の愛というものは、おそらくそういうものではないでしょう。イエスの愛をひとことで表現するならば、「常に隣にいる」というものです。高い所ではなく、隣にです。そして「一瞬たりとも離れることはない」というものです。ストーカーも顔負けの、いつもべったりと隣にいて、何があっても決して離れることはない、つまり、何があろうと何をしようと、決して見捨てることはない、というものです。それがイエスの愛です。
 その人の隣にいるということは、その人と喜びも悲しみも共有するということです。幸せ一杯の人がいくら物理的に隣にいても、本当の意味で隣にいるとは言えません。本当に隣にいるとは、その人の喜びも悲しみも自分のことのように感じるということです。

 貧しい人というのは、物質的に貧しい人のことを言うのではないと、マザーテレサは言っていたと思います。彼女が誰にも省みられず、ゴミのように道端やどぶの溝に横たわっている人たちを施設に連れてきて世話をした本当の目的は、そうした物質的な貧しさから救うことではなかったのです。貧しさから救うという手段を通して「あなたは愛される価値があるんですよ」ということを伝えるのが目的でした(彼女の本にそう書いてあったと思います)。
 人がなぜ貧しくなってしまうかというと、その根底には愛の欠如があるのです。人々や社会に愛がないからです。たとえ本人の怠惰のために貧しくなってしまったとしても、そうなった理由の根源には、愛の欠如があるのだと思います。貧しい人は、物に飢え、そして愛に飢えているわけです。両方、あるいはどちらかに飢えていれば、それは「貧しい人」なのです。
 物に満たされ、愛に満たされた人が、そうした人々の「隣人」になることはできないのです。身をもってその辛さに共鳴することはできないからです。物に飢え、愛に飢えている人にとっては、物にも愛にも満たされた人など「隣人」とは思えないでしょう。
 物に飢え、愛に飢えている人こそが、隣人となり得るわけです。つまり、そういう人こそが、真のキリスト教徒になり得るのです。
 もしも、マザーテレサが、求めたらいつでも神の愛と祝福に満たされ、恍惚感に浸ることができたとしたら、貧しい人の隣人であり続けることはできなかったと思います。つまり、彼女の願いである(真の)キリスト教徒となることはできなかったのです。そうしたら彼女の「魂」は、悲しみ悔やんでいたに違いありません。真のキリスト教徒になるには、物質的に貧しくなるだけではダメなのです。愛においても貧しくならなければ。そのために、神の愛を感じる神秘体験から切り離されてしまったのではないかと思うのです。

 イエスは十字架にはり付けにされたとき、こう叫んだと言います。
「ああ、神よ、なぜ私を見捨て給うのですか?」
 この言葉は、まさにイエス自身さえも、神への信仰を失っていたことを示しているのではないでしょうか。本当に神への信仰があれば、こんなことは口にしないはずです。
 つまり、イエスもまた、神の愛に飢えていたのではないでしょうか?
 しかし、その後、イエスはこう言っています。
「すべてを神にゆだねます」
 マザーテレサもまた、この2つの言葉と内容的にはまったく同じことを言っていることは、前回、見た通りです。
 イエスは、こうした言葉を口にして、人類に手本を示していたのです。「これが本当の信仰なのである、これが人間の生き方なのである」という手本です。
 つまり、神から見捨てられてしまったという思いは、一見すると信仰を失ったように感じられますが、実は反対なのです。逆説的ですが、それこそが本当の信仰なのです。ただし「すべてを神にゆだねます」という気持ちが伴っていることが条件です。本当の信仰者とは、神の愛に飢えながら、神に自分のすべてをゆだねる人のことを言うのではないでしょうか。
 しかし実際には、イエスも神も、一瞬たりとも隣から離れたことはなく、ずっと愛し続けているのだと思います。神の僕として選ばれた人は、その天命をまっとうするために、あえて愛の孤独の闇へと導かれていくのではないでしょうか。イエスも神も、愛するがゆえに、あえて愛していることを告げないのです。

 この世で苦悩する人というのは、要するに、信仰を失った人たちです。神の愛が感じられない、神が信じられない人たちです。だから苦悩しているのです。そういう人たちの隣人になるには、つまり、そうしてイエスをマネて真のキリスト教徒になるには、神への信仰を失い、神の愛を感じられなくなり、その孤独と闇の痛みを共有しなければならないのでしょう。愛に満たされて「のほほん」としているような人は、苦悩している人の隣人になることも、「キリスト教徒」になることもできないのです。実際、愛を味わって満たされている人よりも、愛の欠乏に苦悩している人の方が、案外、周囲に愛を放っていることが多いものです。
 以上のような理由から、マザーテレサはまさに、真の信仰を生き抜いた、比類なきキリスト教徒であったと、私は考えています。彼女は一瞬たりともとぎれることのない愛で、実はイエスから、神から、愛されていたのです。


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マザーテレサの「心の闇」①

 
 マザーテレサと言えば、インドで貧しい人々のために献身的に尽くし、まさにキリスト教徒の鏡であり、ノーベル賞まで受賞した聖人です。彼女ほど深い神への信仰を持っていた人はそういないと思われるほどです。
 ところが、そのマザーテレサが、ごく親しい神父への手紙で、神の存在を疑い苦悩していたことを、先日、あるスピリチュアル系のサイトをたまたま見ていたときに知りました。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/sp_newsletter/spnl_backnumber/spnl-50/spnl-50-1.htm

 これは、世界中の人に衝撃を与えたようですが、私にとってもいろいろな意味で驚きでした。この手紙は、2007年に出版された “Come Be My Light”という本のなかで公開されているそうです。その一部を紹介してみます。

●1953年(マザー43歳)……ペリエール大司教への告白
「私の心の中に恐ろしい闇があるために、まるですべてが死んでしまったかのようです。私がこの仕事(*インド貧民街での奉仕の仕事)を始めるようになって間もないときから、このような状態がずっと続いています。」

●1959年(マザー49歳)……ピカシー神父への告白
「主よ、あなたが見捨てなければならない私は、いったい誰なのでしょうか? あなたの愛する子供は今、最も嫌われ者になっています。あなたから求められず、愛されず、私はあなたから捨てられてしまいました。私はあなたを呼び求め、すがりつきますが、あなたは応えてくれません。闇はあまりにも暗く、私は孤独です。求められず、見捨てられて、私は独りぼっちです。愛を求める心の寂しさに耐えられません。

私の信仰は、いったいどこに行ってしまったのでしょうか? 心の底には、虚しさと闇しかありません。主よ、この得体の知れない痛みは、何と苦しいことでしょう。絶えず私の心は痛みます。私には信仰がありません。私の心に次々と湧いてくる考え、私を苦しめる言葉にできない苦悩を口にすることはできません。答えを見い出すことのできない多くの疑問が、私の中に存在しています。私はそれを打ち明けるのが怖いのです。それが神を冒涜することであると思うと……。もし神がおられるのなら、どうか私を許してください。すべてがイエスとともに天国で終わるという希望を、信じさせてください。

愛――その言葉は何の喜びも私にもたらしません。神が私を愛していると教えられてきました。しかし闇と冷たさと虚しさに満ちた現実があまりにも大きいため、私の心は何の喜びも感じることができません。私が(奉仕の)仕事を始める以前には、愛も信仰も神への信頼も祈りも犠牲精神も私の中にありました。主の呼びかけに忠実に従う中で、私は何か間違いをしでかしたのでしょうか? 主から与えられた奉仕の仕事に、私は疑いを持ってはいません。その仕事は私個人のものではなく、神ご自身のものであると確信しています」

●1985年(マザー75歳)……アルバート・ヒュアート神父への告白
「私がシスターや人々に神や神の仕事について口を開くとき、その人たちに光と喜びと勇気をもたらすことをよく理解しています。しかしその私は、光も喜びも勇気も何も得ていないのです。内面はすべて闇で、神から完全に切り離されているという感覚です」

 マザーテレサは、インドでの奉仕活動をする前は、神の愛に触れる、ある種の神秘体験をし、それで満たされ、神への信仰と奉仕への情熱をもっていたようです。ところが、奉仕を始めたとたん、上記のような「心の闇」、「神の不在の感覚」に苦しむようになったというのです。
 これは心理学的にはうつ病と診断されるのかもしれませんが、むしろキリスト教の世界でいう「魂の暗夜」とか「神の蝕」と言うべきものです。神の存在が感じられなくなり、深い孤独と闇の思いに打ちひしがれてしまう現象です。ただ、これほど長い間続いたというのは、珍しいのではないかと思います。
 こうした苦しみを背負いつつも、マザーテレサは次のように告白しています。

「もし私の痛みと苦しみが、私の暗闇と分離があなたを慰めることになるのなら、主よ(イエス様)、私をあなたの望まれるようになさってください(中略)。私はあなた自身のものです。私の魂に、あなたの心の苦しみを刻印してください。私の感情を気にしないでください。私の痛みを心にとめないでください。(中略)主よ、今だけでなく、今後永遠に私が苦しみ続けることをあなたが望まれるのなら、あとのことは心配しないでください。たとえ苦痛で弱った私の姿を見ても……。これは、すべて私の願いです。私はいかなる犠牲を払ってでも、あなたの渇きを癒して差し上げたいのです」

 このように、あくまでもイエスに対する従順な気持ち、またイエスの苦悩を自分も(こういう形で)共有するという、キリスト教徒らしい心情も一方で語っています。そこには痛々しいほどの葛藤を感じます。
 このような苦痛と共に、87歳で亡くなるまで奉仕活動を続けたその強靱な精神力には感嘆を禁じ得ません。さぞかし辛く苦しかったと思いますが、マザーテレサは見事に偉業をやり抜いたのです。
 ところで、ここで疑問に思うのは、なぜマザーテレサは、このような苦痛に見舞われなければならなかったか? ということです。奉仕活動を始める以前にしばしば訪れたらしい「神の愛」を感じられた神秘体験がその後もあれば、こうした苦悩はなかったわけです。
 いったいなぜ、神の愛が感じられなくなってしまったのでしょうか?
 マザーテレサが行った活動は、イエス(神)の意図に反していたからなのでしょうか?
 そのための罰、あるいは、そのためにイエス(神)から見捨てられてしまったのでしょうか?
 そうは思えません。マザーテレサの活動は偉業であったことは間違いないでしょう。彼女がイエス(神)の意図に反したことをしてしまったという可能性は考えられません。
 ではなぜ、あのような辛い「心の闇」、「魂の暗夜」を、長きにわたり味わなければならなかったのでしょうか?
 そのことにイエス(神)が関与していたと仮定して話を進めるなら、イエス(神)は意味があって、マザーテレサにあのような苦痛を与えたことになるでしょう。
 ならば、その意味とは、何なのでしょうか?
 もちろん、私にはわかりませんし、たぶん、誰にもわからないと思いますが、「こうではないか?」と感じたことを、次回、ご紹介させていただきたいと思います。

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