心の治癒と魂の覚醒

        

 自分で自分を支える

 
 釈迦は「この世のいかなる物事にも執着してはならない」と説きました。これは真実であると思います。地上的な事物は、しょせんは高い次元の霊的真実の影のようなものであり、その影に執着している限り、霊的な真実に至ることはないからです。
 霊的成長、すなわち覚醒を志し、その道を歩むようになると、自らの魂の志向や霊的な存在からの導きを受けて、この世のいかなるものにも執着しないような運命になっていくように思われます。それはたいてい、地上的な物事に対する失望という、辛く苦しい経験という形で現れてくるようです。
 たとえば、自分がもっとも愛し求めているもの(人)が手に入らなかったり、失われていくといった経験です。それは非常に辛いものですが、そうして地上的な事物への執着を断ち切るように導かれているようです。この世的には不幸や災難、苦しみということになりますが、霊的に見れば、それが正しい道を歩んでいることになるわけです。
 しかし、そのような辛く険しい道は、よほど精神的にタフでない限り、心の支えや慰めがなければ、とても歩み続けていけるものではないでしょう。私がこのブログに「求道者の慰め」という項目を入れたのも、その理由からです。
 ところが、その慰めを得ることが、また難しいように思われます。普通に世間で生きる人たちは、辛いことがあると、地上的な物事によって慰めを得たりして、それを支えにしたり慰めにして生きています。たとえば、家族との交流だとか、娯楽だとか、美食や酒といったことで慰めを得ているわけです。
 しかし、そうしたことは「地上的な事物への執着」ですから、霊的覚醒の道を歩む修行者にとっては、道の妨げになるわけです。したがって、そのようなものに慰めを得ることができないようにさせられていることが多いわけです。
 たとえそうした地上的な慰めを得ることができる状況にあったとしても、霊的覚醒の道をある程度歩んでしまうと、真に慰められることはないでしょう。いくら家族とのあたたかい交流があっても、娯楽に時間を費やしても、美食をしたり酒を飲んでも、せいぜい一時的に憂さを忘れることができるだけで、慰められることはないと思います。魂の痛みといいますか、魂の孤独のようなものは、地上的な事物では決して癒すことはできないのです。
 しかも、この魂の痛みや孤独といったものは、世間一般の人からはまず理解されません。そんなことを訴えようものなら変人扱いされかねません。外国語を話しているみたいに、通じ合えることがないのです。なかには幸運にして、同じ道を歩む人が身近にいれば、通じ合えるかもしれませんが、そのような人がいる人は少ないと思います。
 ですから、結局、覚醒の道を歩む人は、慰めも心の支えも得られず、孤独になってしまうことが多いのです。そのため、自分で自分を支え、慰めていくしかありません。
 高い霊的存在(守護霊など)は、修行者のそうした辛さを理解してくれて、さりげない手段で励ましや慰めを与えてくれると聞いたことがあります。たとえば、励ましや慰めを与えてくれる本に偶然に(実は必然に)出会うといったようにです。
 こうした高い霊的存在からの配慮は非常にありがたいものではあるのですが、生身の肉体を持って生きている私たちは、霊的な導きは抽象的というか、五感に触れることがないので、どうしても空気のようになりがちで、物足りないものを感じることも確かです。仏陀やキリストが肉眼で見える姿で目の前に現れて慰めてくれれば別ですが、そのようなことはありません。
 ですから、長く険しく孤独な霊的覚醒の道を歩むには、自分で自分を励まし、支え、慰める術を身に着けていく必要があるのだと思います。人や地上的な物事を当てにせず、自立的に歩んでいかなければならないのです。
 ここが、霊的覚醒の道を歩む上での辛く厳しいところです。
 けれども、そうした辛さは、いつか必ず、何倍にも補って余りあるほどの喜びによって報われることは間違いないことなのです。救いとは、平坦かもしれませんが暗闇に通じる道を歩むことではなく、たとえ険しくても光明に通じる道を歩むことだと思います。
 私たちは救われの道を歩んでいるのです。どんなに辛くても、そのことを心の支えにして歩んでいこうではありませんか。
  
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「斉藤啓一の作品店」を立ち上げました

 本日、これまで私が作ってきて、しばらく埋もれたままになっていたセミナーのテキストや、絶版になった書籍、個人的に作った音楽作品などを集めて頒布するサイトを立ち上げましたので、ご紹介させていただきます。
 とくにこのブログを読んで下さっている皆様に関係が深いのは、過去に覚醒修行の方法について何回か行ったセミナーのテキストに手を入れた「覚醒プログラム」(全3巻)ではないかと思います。第1巻は瞑想法について、第2巻は修徳法(美徳を養う修行)について、第3巻はヨーガのアーサナと呼吸法について解説されています。それぞれCDが2枚づつ付けられています(ダウンロード版の場合は音声ファイル)。
 価格は、なるべくたくさんの人に読んでいただきたいと思い、ぎりぎりまで抑えたつもりですが、それでも制作費その他を考慮いたしますと、どうしてもそれなりの価格にならざるを得ず、その点を何卒ご理解いただければ幸いです。
 また、復刊書籍としては、『真実への旅』の原型となった『ファウスト博士の超人覚醒法』や、その他の著作も、電子書籍(PDFファイルによる閲覧)として復活することになりました。
 さらに、私がヒーリング音楽を研究している時期に作曲した「音楽作品集」(全5巻)などもあります。視聴もできるようになっています。
 まだまだ、私のてもとには、過去に制作して眠ったままの作品、あるいは制作したものの日の目を見ないでいる作品がありますので、順次手を加えていきながら、ここでご紹介させていただければと思っています。
 どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

 斉藤啓一の作品店(http://saitoworks.cart.fc2.com/)

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 自分を捨てるということ


 宗教の世界では、しばしば「自分を捨てなさい」という教えが聞かれます。この場合の「自分」とは、いうまでもなく本当の自分ではなく、エゴ(自我)という偽りの自分のことをさしているわけですが、エゴを本当の自分だと思っている私たちには、この「自分を捨てる」ということが、生易しいことではないわけです。というより、自分を本当に捨てることができたら、そのときは覚醒したときではないかと思います。
 いずれにしろ、「自分を捨てる」生き方は真実の生き方であると思いますし、自分を捨てることによって覚醒していくことは確かでしょう。
 問題は、いかにして自分を捨てるか、です。
 そもそも、「自分を捨てる」ということは、具体的にどのようなことを言うのでしょうか?
 しばしば誤解されているように思うのですが、「自分を捨てる」とは、「自分を犠牲にする」こととは違うでしょう。言い換えれば、何でも人の言うなりのまま従うといったことではないはずです。また、宗教や特定の教えを妄信することとも違うはずです。
 ひとことで述べるならば、自分を捨てるとは、「神の視点で生きる」ことではないかと思います。すなわち、「神ならどうするだろうか?」と考えながら生きるのです。究極的には考えることもせず、その言葉や行いがそのまま神の理念と合致していること、これが「自分を捨てる」ことではないかと思います。
 エゴで生きている私たちは、「自分はどう思うか、自分は何をしたいか」という視点で生きています。そうして、「自分」の思いや欲求に反する経験をすると感情的に気分を害するわけです。要するに、「自分に関係することになると感情が揺さぶられる」のが、エゴの特徴といってもよいでしょう。自分の視点からのみ、物事を考えているのです。
 たとえば、自分が悪口を言われれば気分を害しますが、人が悪口を言われているのを目の当たりにしても、ほとんどの場合、自分が悪口を言われるほどには気分を害することはないでしょう。ですから、もし自分が悪口を言われたら、他人が悪口を言われているかのように思うとよいかもしれません。そうすれば、それほど腹も立たないかもしれません。
 ただ、なかなかそうは思えないのが、私たち人間です。自分を他者のように客観的に距離をおいて見ることが苦手なのです。しかし、そこのところが、私たちが克服していかなければならない課題であるように思われるのです。
 自分が悪口を言われた場合、他者の視点から自分を見るよりも、もっと広い「神の視野」から自分を見た方がよいと思います。というのは、その「他者」が、家族や親友など身近な人であれば、どうしても思いが入って感情的に乱されてしまうでしょうし、逆にまったくの赤の他人であれば、必要以上に冷たく無関心になってしまうおそれがあるからです。つまり、本当に公平で正しい見方ができない可能性があるわけです。
 しかし、神の視野から見るならば、神は公平で正義ですから、より公平で正義に基づいた見方ができるようになると思います。
 すなわち、「自分は悪口を言われた。私は今、どのような態度でいることを、神は望んでいるだろうか?」と考えるのです。
 そのほか、どのような場合でも、何をするにしても、「私がどう行動することを神は望んでいるだろうか?」と考えるようにするのです。そうして、自分が考えた「神の望む行動」を行うようにしていくのです。
 もちろん、それが本当に神が望む行動かどうかはわかりません。しかし大切なことは、常にそうした視点で行動するように努力をすることです。なぜなら、その努力そのものが、「自分(エゴ)」本位に行動するという姿勢から抜け出していく方向性を持っているからです。
 それが、「自分を捨てる」ということではないかと思うのです。要するに、自分の望みではなく、神の望みで生きること、それを徹底して生きることではないでしょうか。

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 考えるということ


 先日、ノートパソコンを買いました。文章を書くだけの目的なので必要最低限の機能がついているものを選びました。ノートパソコンは高いというイメージがあったのですが、いつのまにか安く入手できるようになり、驚いています。余談ですが、私は日本で初めての家庭向けパソコンをもっていました。1980年のことです。当時は「パソコン」ではなく、「マイコン(マイ・コンピューター)」と呼ばれていました。日立の「ベーシックマスタージュニア」という名前で、もちろん、ハードディスクなどはなく、データの保存はカセットテープレコーダーを使っていました。記憶容量は、なんとたったの32キロバイトです(32キロバイトの情報をカセットに記録するのに15分もかかりました!)。ウインドウズなどというOSもマウスもなく、「ベーシック」というコンピューター言語を入力して単純な作業をさせるだけでした。それで、「インベーダーゲーム」のようなものをプログラムして作って夢中になって遊んでいました。当時のことを思いますと、本当に技術の進歩は凄いものがあると思います。
 それはともかく、今回、私が買ったのは「Think Pad」という名前のノートパソコンで、立ち上げると壁紙に「Think」という文字が浮かんできます。
 このThink、すなわち「考えなさい」という言葉は、最近亡くなったアップル社の創設者であるスティーブ・ジョブズのモットーらしく、私も彼を見習ってこの言葉を自分のモットーのひとつにしているのです。
 単純といえば単純すぎるほどのモットーですが、けっこう奥が深いと思うのです。というのは、私たちは案外、物事を考えているようで考えていないことが多いように思われるからです。
 学校の勉強などは別として、私たちが考えるときというのは、たいてい何か問題や悩みが生じたときではないでしょうか。すなわち、「どうすればよいのだろうか?」、「どうすれば、この悩みを解決することができるだろうか?」といったように考えるわけです。
 そして、傾向としては、問題や悩みが深刻なほど、あるいは、問題や悩みに大きな意味や価値があるほど、深く考えるようになります。たいした問題や悩みでもなく、意味も価値もなければ、それほど深く考え込んだりはしないでしょう。
 ですから、子供のときから何でも親がしてやったり、何不自由ない環境で育てたりすると、その子自身が特別な意欲を持って打ち込んでいこうとするものがなければ、その子は自分で考えることをあまりしない(できない)大人になってしまうかもしれません。自分で考えてどうにかしなくても、誰かが代わりに考えてどうにかしてくれるという習慣のようなものが形成されているからです。そのため、問題や困難に遭遇すると、誰かが解決してくれることを願って依存的になったり、困難を前にして意気消沈し、途方にくれてしまうような人間になってしまうかもしれません。
 人間は問題や困難があるからこそ、「どうすればよいのだろう?」と常に考え、賢くなっていくのだと思います。あからさまに表現するなら、問題や悩みがないと、人間はバカになってしまうのです。
 ただ、どこまで考え抜くかという点では、個人差が大きいように思われます。ある人は、ちょっと考えて「もうダメだ、わからない」と結論を出してあきらめてしまいます。しかしある人は、問題や悩みが解決されるまで、執念深くどこまでも考え抜きます。
 この「どこまでも考え抜く」という姿勢が、人生においては非常に大切なことであると思うのです。人生におけるたいていのことは、あきらめずに考え続けていけば、いつか何らかの名案を得て、解決されてくるものです。たとえ完全ではなくても、現状よりずっと改善させていくことは十分に可能です。しかしそれも「どこまでも考え抜く」という姿勢を貫けばこそです。途中で考えることをやめてしまったら、そこでおしまいです。「どうすればよいのか? どうすればよいのか? どうすればよいのか?」と、ひたすら考え続けている限り、人生に希望はあると思います。しかし考えることをやめてしまったら、もう絶望的ではないでしょうか。
 ところが、(自戒をこめて言うのですが)私たちはなぜか「考え抜く」ことをしません。ちょっと考えて無理だと感じると、もうそこで自動的に思考停止状態になってしまう傾向があるのです。まるで催眠術にかかったかのように、すぐに「無理だ、不可能だ、自分にはできない」と結論を下してしまうのです。そのように思う習慣のようなものが形勢されてしまっているのです。しかし、それを打ち破らなければなりません。「考え抜く」ということは、考えて無理だと思っても、「無理なら、無理でないようにするにはどうすればよいか?」と、さらに考えていくことなのです。しつこく、執念深く、決してあきらめずに、考えて考えて考え続けることなのです。
 卑俗な例で恐縮ですが、むかしイギリスでアパートを借りて短期間ですが住んでいたことがあります。そのとき、アイロンが必要になったのですが、あまりお金がなかったので買うことができませんでした。そのとき「どうすればいいか?」と考えることがなければ、そのままあきらめて、私はしわくちゃのシャツを着ていたことでしょう。しかし、しわくちゃのシャツを着るのは嫌だったので、「どうすればいいか?」と考えました。そこで、フライパンを熱して、それをアイロン代わりにすることを思いつきました(うまくいきました)。お金があったらそんなことに頭を使うこともなかったでしょう。おかげで少しは賢くなったかもしれません。お金が十分にないということは、必ずしも不幸なことではなく、人を賢くするというよい面もあるのではないかと思ったりもします。
 あきらめずに、考え続けましょう。問題や悩みを放置したり我慢したりせず、「どうすればよいか?」と考え続けましょう。すぐには解決方法は思い浮かばないかもしれません。しかし人間の脳(意識)というものは、「どうすればよいか?」と考え続ける限り、その解決のために、寝ても覚めてもフルに働き続けます。そうして、思いもかけないような方法や手段が思いついて、ついには解決してしまうことが多いのです。たとえ百点満点の解決でなくても、90点や80点くらいまで解決してしまうことは珍しいことではありません。
 繰り返しますが、考え続ける限り希望はあります。考えなくなったら希望はありません。希望とは考え続けることなのです。
 皆さんも「Think」という言葉を、人生のモットーにしてみてはいかがでしょうか。
 

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 スピリチュアルな道を歩む上で大切なこと


 先日、スピリチュアルな立場から人生論や生き方について書かれた本をのぞいたところ、次のような一節がありました。
 会社がある商品を作ったとき、売れる商品というのは、その商品に携わった人全員が、喜びと感謝の心に満ちて作っている、ということがわかった。商品に関わっているときに、いやな思いをしている人がだれ一人としていない。みんなが、その仕事を喜んで楽しんで、心を込めてやっている。こうして作られた商品は間違いなく売れる……。
 と、こう断言しているのです。そして、
「この商品のために大変な思いをした」と感じている人たちの総合力として、その商品ができあがっているとすると、それはやっぱり売れない、と言っています。さらに、
 ものが売れるかどうかは技術の問題ではなく、作り手の感謝の思いと喜びが集積して出来た商品が売れるようだ
 と言うのです。
 スピリチュアルな世界に関心を持っている人は、何となくわかるような気がするかもしれません。私もこの意見には一理あると思っていますし、全面的に否定するつもりはありません。何となく理解できるものを感じます。
 しかし、「何となく理解できる」というだけで、それを事実であると鵜呑みにするのは危険だと思うのです。
 まず、この著者の文章を慎重に読んでみて下さい。
「その商品に携わった人全員が、喜びと感謝の心に満ちて作っている、ということがわかった」とありますが、どのようにしてわかったというのでしょうか?
 たとえばどのような商品でも、それを開発して販売するまでには、構想からデザイン、設計、組み立て、配送、販売に至るまで、数え切れないほどの人が関係しているはずです。この著者は、その人たちひとりひとりに、「喜びと感謝の心で作りましたか?」とインタビューやアンケートでもしたというのでしょうか? しかも、一つの商品ではなく、断言できるほど十分な数の商品について、それを確かめたのでしょうか?
 とても、そのようなことをしたとは思えません。にもかかわらず、「いやな思いをしている人がだれ一人としていない」と語り、「間違いなく売れる」と断言しているのです。
 もしかしたら、私のこうした指摘は「細かいことだ」と思われる人がいるかもしれませんが、こういう細かいところに、この著者のスピリチュアルな見解が信頼に値するかどうかを知るための手がかりがあるのではないでしょうか。
 もし「ものが売れるかどうかは技術の問題ではなく、作り手の感謝の思いと喜びが集積して出来た商品が売れる」という見解を鵜呑みにして、たとえば社長が技術部門の予算を削減して従業員の感謝や喜びを増やす方面に予算を配分したらどうなるでしょうか? もしかしたら、すぐに壊れてしまう欠陥商品が生まれるかもしれません。その可能性は十分にあるでしょう。ものが売れるかどうかは、作り手の意識も大切ではあるでしょうが、「技術の問題ではない」などと言い切れるものではないはずです。
 こうしたところに、スピリチュアル的な立場から人生論や生き方を説く人が陥りがちな安易さ、非現実性、独りよがりな見解といったものが見られるような気がするのです。
 この著者は「この商品のために大変な思いをした」と感じている人たちがいるとその商品は売れないと言っていますが、「大変な思いをして開発した商品」が大ヒットとなった例など、それこそたくさんあると思います。むしろ、その方が多いかもしれません。何となく自分がそう思うというだけで、それが現実なのだと決めつけているふしが感じられるのです。
 スピリチュアルな世界のことを学ぶ上で大切なことは、どこまでも現実的な視野から見ることを忘れないこと、そして、どのような見解も鵜呑みにせず、自分の頭でよく考えることではないでしょうか。さもなければ、それは単なる空想や夢想にしか過ぎなくなってしまいます。
 人生や世の中というものは、数学や物理の世界とは違い、「これはこうだ」と決めることはほとんどできないのです。たとえば、「Aのように生きなさい」という主張があり、その主張にはそれなりの説得力があり納得したりしますが、誰かが「Aのように生きてはいけない」と言って、その主張に耳を傾けると、それもまたそれなりの説得力があり納得できるものがあったりするわけです。
 少し前に「がんばって生きなさい」という主張と、「がんばって生きてはいけない」という主張のどちらが正しいかといったことが話題になったことがありましたが、どちらかに決めようとすること自体が間違っているのです。状況や個人により、がんばって生きた方がよい場合もあるでしょうし、がんばって生きない方がよい場合もあるでしょう。にもかかわらず、いつでもどのような状況でも通用するような絶対的な普遍的事実として「こうだ」と決めつけることはできないのです。
 とりわけ、スピリチュアルという、あいまいな世界ではなおさらです。あいまいなものは無理に断定せず、そのあいまいさを受け入れることが必要ではないでしょうか。
 こうした、どちらかに決められない、中途半端で灰色の状態に置かれることは、あまり愉快ではないかもしれません。「これはこうだ」と誰かに決めてもらった方がスッキリするかもしれません。しかし、それは逆にスピリチュアルというものを疎外することになるのです。なぜなら、スピリチュアルな世界は、この地上世界の対極的な要素が統合されている領域だからです。スピリチュアルな世界では「統合」ですが、地上は基本的に対極に分裂しているので、地上世界では、矛盾や混沌として現れることになります。つまり、灰色です。ですから、灰色こそが真実なのです(地上で真実を描く限界なのです)。
 たとえどんなに居心地が悪くても、スピリチュアルな道は、灰色を受け入れながら歩んでいくしかない、また、そうすべきであると思うのです。


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 全託 その2


 神にすべてを任せ、何が起ころうと「これでよいのだ」と思える心境は、およそすべての聖者と言われる人たちが到達する、おそらくは究極の美徳ではないかと思います。
 しかし、それは何と難しいことでしょうか。
 それ以前に紹介した忍耐・自制・平静・謙虚・寛容・超然・陽気の美徳も、それを養うのは難しいものですが、まったくできなくはないでしょう。十分なレベルに至るには遠いとしても、努力すれば少しずつでも養っていけるものです。
 しかし、全託は別格です。口先だけで「これでよいのだ」と言うことはできたとしても、本当に心の底からそう思うことは非常に難しいのです。ある聖者は「本当に神に全託したのなら、その人はいかなる悲しみを感じることはないはずだ。少しでも悲しみを感じるのであれば、まだ完全に全託していない証拠である」と言っています。
 確かに、「すべては神がうまくやってくれる、何があろうとこれでよいのだ」と完全に思うことができたなら、人生において、悲しみも、いかなる悩みも心配も恐怖もないでしょう。しかし、そこまでの境地に達することは、何と難しいことでしょうか。

 また、世俗に生きる私たちは、このようにも思ってしまうのです。
 すなわち、聖者のほとんどは独身であり、一匹狼的な生き方をしています。自分はどうなろうといいかもしれません。しかし、家族を抱えて養っていかなければならない立場の人は、「何があってもこれでよいのだ」などと、なかなか思うことはできないわけです。
 とりわけ、会社の社長のようなさらに大きな責任を持つ立場にある人は、会社がどうなろうと「これでよいのだ」などと思うことはゆるされないでしょう。倒産したら社員とその家族を路頭に迷わせることになるでしょう。社長は、社員とその家族の生活を守る義務と責任があるのです。必死になって、経営を順調にしていかなければならないのです。とても「神にすべてを任せる」などとは言っていられないし、そのようなことは許されないでしょう。
 もちろん、「神にすべてを任せる」と言っても、何もせず成り行きに任せるといったことではなく、あくまでも気持ちの問題であり、外面的な行動としてはできる限りの努力はしなければならないわけです。ただ、あまりにも厳しい状況の中では、そのような全託の気持ちになることは非常に難しいわけです。今にも台風で吹き飛ばされるのではないかと思われる山小屋の中にいて、心安らかにすべてを任せる心境になれと言われるようなものです。

 ただ、これだけは確かに言えるでしょう。
 それは、「あせったり心配しても何にもならない」ということです。あせったり心配しても、傾いた会社の経営がうまくいくでしょうか? むしろ、そのような気持ちはマイナスに働いてしまうでしょう。あせりや不安は、何の得にもならず、無駄なことであり、有害でさえあるということです。そのような動揺する気持ちを抱くよりは、全託の気持ちになって安心した方が、ずっと有益であることは確かです。
 全託の美徳を養うには、まずこの「あせったり不安を抱いても何の得にもならない」ということを、肝に銘じることが大切ではないかと思います。そうすれば、少なくても全託の境地を体得しようという動機は強いものになっていくはずです。
 しかしそうはいっても、やはり困難な状況に置かれれば、あせりや不安の気持ちが出てきます。そのような気持ちを出してはいけないんだ、無駄であり、何の得にもならないんだということは頭でわかっていても、自然に、出てきてしまうわけです。

 では、いったいどうすればいいのでしょうか?
 私は思うのですが、全託の美徳というものは(おそらく完全な意味では他の美徳も)、自力の末につかみとることはできないのです。最終的には、神の恩恵のようなものによって、全託の美徳は“与えられる”のではないかと思うのです。もちろん、努力はしていくべきです。全託できるように、力の限りがんばっていくべきであり、そうした努力があればこそ、神が目を向けてくれて、その慈悲によって、全託できるようになっていくのではないかと思うのです。
 こう考えると、人間というのはまったく救いがたい存在であり、自分自身を立派にさせることさえできないのです。「自分で自分を立派にさせることができる」などと考えること自体、傲慢なのかもしれません。
 くどいようですが、努力はしなければなりません。そうして、全託しようにも全託できない自分自身を嘆き、葛藤し、苦悩し、「全託など、とてもできない!」と絶望しきった末に、「全託」の方からやってきてくれるものではないかと思うのです。


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8.全託 その1


 全託とは、宗教的な用語であり、神(高い霊的存在の導き)にすべてを任せる境地のことです。何が起ころうと「これでいいのだ。神のご意志にゆだねます」と感謝して受け入れること、自分の将来の成り行き、生死に至るまで、「すべて神がいいように導いてくださるのだ」と深く信じる境地のことです。いわば、信仰の奥義とでも言うべきもので、高い霊的境地を開拓した人が持つ美徳です。
 言うまでもありませんが、「神にすべてを任せる」といっても、自分は何も努力せず怠惰に過ごすという意味ではありません。自分としては一生懸命に努力はしても、自力や我力で行っているのではなく、そうした努力さえも、自分ではなく神がやってくださっているのだと思う境地です。
 そして、どのような結果になろうとも、すべてはこれでよいのだと全面的に肯定し、何の不安もなく安心していること、いっさい力むことなく、ありのままに、自然法爾の境地で生きることです。浄土真宗の親鸞などが、この境地に達したことはよく知られていますが、宗教の違いや国の東西を問わず、信仰を究めた人、すなわち、霊的に高い境地に達した人は、みなこの「全託の美徳」を身につけています。
 あるロシアのキリスト教系神秘家は次のように言っています。
「私たちはこのことがあのようにではなく、このようになぜ起こったのかを捜し出そうとしてはならない。むしろ子供のように従順に私たちの天の父の聖なる意志に身をゆだね、私たちの魂の底から、“み旨の行われますように”と言いなさい。ただこう言いなさい。そうすれば気分は喜びに満ちるでしょう」(『ロシアの神秘家たち』セルゲーイ・ボルシャコーフ著 古谷功訳 あかし書房より)
 魂は、こうした「全託の美徳」を養うために地上にやって来て「負荷」をかけるのです。しかし、全託の美徳は、もっとも高い霊的な境地であるため、そのための負荷、すなわち体験は、それなりに厳しい傾向があるようです。
 たとえば、自分の力ではどうにもならないような大きな困難や障害に見舞われ、自力や我力でどうにかしようとする自我(エゴ)を徹底的にうち砕かれるのです。それは経済的な問題であったり、家庭的な問題、健康問題などざまざまですが、いずれにしても、自力であがくことを断念し、観念しなければならないような体験です。ときにはまったくの絶望のどん底と思われるものです。人間は、そこまで追いつめられてはじめて、すべてを神にゆだねる心境になるものなのかもしれません。
 ですから、絶体絶命の、自分の力ではどうにもならないほどの困難に見舞われたら、それは「全託の美徳」を養う目的で訪れたのだととらえ、全託の境地を確立できるよう努力するべきなのです。ところが不思議なことに、そのような心境になると、不思議なことに、何らかの仕方によって思わぬ方向から道が開かれることが多いのです。
 ロシアのキリスト教系神秘家であるパルフェーニィは次のように言っています。
「信頼を必ず保ちなさい。そうすれば神は人に飢え死にすることや、何かに困ることを決してお許しにならない。けれども人がどんなにわずかでも疑い始めたり、もしくは人間的な助けを求めたり、自分自身を頼ろうとし始めるなら、神の摂理は人を見捨てる」
(『ロシアの神秘家たち』セルゲーイ・ボルシャコーフ著 古谷功訳 あかし書房より)
 ただし、最初からこうした救いを期待していては全託にはなりませんので、どのような結果も受け入れる覚悟でなければなりません。
 いずれにしても、全託の美徳は、あらゆる美徳のなかでも最高に高い美徳ではないかと思われます。
 それゆえに、この全託の美徳を身につけることは、何と難しいことかと思うのです。続きは次回お話させていただきたいと思います。


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