心の治癒と魂の覚醒

        

 魂の力を強化する


 前回は「感情を乱さない」ということを説明いたしました。感情を乱さないとは、要するに「平静の美徳」や「超然の美徳」、その他、直接的にせよ間接的にせよ、あらゆる美徳を養うということです。もともと地上人生というものが、美徳を養うことを目的としているからです。美徳が養われるにつれて、感情を乱すことはなくなってくるでしょう。感情が乱されやすいというのは、魂の力がまだ弱いことを示していると言ってもいいでしょう。
 ただし、運命的に(環境的に)あまり問題がないために感情が乱されないというのであれば、それだけで魂の力が強いとは言えません。誰だって自分の思い通りの運命や環境に恵まれていれば、感情が乱されることはないでしょう。
 たとえ、自分の思い通りに事が運ばず、逆境や苦難のなかにあっても感情が乱されることのない魂こそが、強い力を持った魂であると言えるのです。そのような強い力を持った魂へと成長するために、この地上人生があるのです。人間(魂)の真価は、逆境や苦しみのときにこそ試されるわけです。
 いずれにしろ、この地上人生は、魂の力を鍛えるためにあるのです。このことを深く理解することが大切です。「人生はラクに楽しく過ごすものだ」と思っていると(そのような正しくない人生観を持っていると)、感情が乱されるような辛い出来事が起こると「人生はこうであってはならない」と思い、さらに感情が乱されてしまうからです。
 このことは、しつこく強調しておきたいと思います。「不幸も苦しみもないラクで楽しい人生こそが正しい人生だ」という、霊的真実からすると間違った人生観が世の中に浸透しているからです。これは真実ではありません。不運と苦しみ、つまり感情を乱されるようなことが起こるのが人生なのです。自分の思うようにならないのが人生なのです。もしなんでも思うようになったら、どうして魂の力を鍛えることができるでしょうか。
 これが、人生の本質なのです。この本質をしっかりと見抜いて理解することが大切です。釈迦の言葉を借りれば「人生は苦なり」ということになるでしょう。
 ただし誤解しないでいただきたいのは、だからといってやたらに苦しめばいい、ということではありません。人にはそれぞれ計画された苦しみが、いわばある種の摂理に従って訪れてくるようになっています。それは通常、避けられない苦しみか、避けたら人間としての品格が落ちるような苦しみです。そのような苦しみが訪れてきたときにのみ、潔く受け入れるべきであり、マゾヒスティックに苦しみを求めるのは間違っています。
 それはともかく、「人生の本質は感情を乱すようにできている」のですから、その人生の本質をありのままに受け入れ、人生とはそのようなものだと悟ってしまうことです。
 そうすると、不愉快なことが起こっても、それを当然だと思えるようになり、感情が乱されにくくなってきます。地上世界とは、そのようにしてわざと負荷をかけることで感情を乱されないように鍛えていく「トレーニング・ジム」なのです。
 くどいようですが、もう一度繰り返します。「不幸も苦しみもないラクで楽しい人生こそが正しい人生だ、人生はそうあらねばならない」という人生観を持っている限り、感情が乱れないようにすることは難しいです。それは間違った人生観であることをしっかりと深く理解し、「辛さや苦しみを経験することで魂の力をつけていくのが人生なのだ」と、正しい人生観を持つべきです。もちろん、そうした人生観を持っても感情は乱されるでしょうが、前者のような間違った人生観を持っているよりは、ずっと感情を制御しやすくなってくるはずです。
 このように、人生というラクではないトレーニング・ジムで鍛えられながら、私たちは魂の力を強化していき、感情が乱されないようにし、成長を遂げていく存在なのです。その成長を促進させるために、瞑想だとか修徳法、あるいはヨーガといった修行をするわけです。

*瞑想法や修徳法、ヨーガについては、このブログの過去の記事、あるいは「覚醒プログラム」を参照してください。「覚醒プログラム」については→「斉藤啓一の作品店」まで。

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 感情を乱さない


 覚醒修行の道を歩もうとしたとき、最初の基本となるべきもの、また同時に、達人の境地ともなるべきものは、結局のところ「感情を乱さない」ことだと思います。すなわち、怒らない、悲しまない、恐れない、妬まない、情欲にかられない……といったことです。
 言い換えれば、ネガティブな感情にとらわれないことですが、たとえ「喜び」や「明るさ」といったポジティブな感情でも、それが過剰になることは感情を乱したことになります。適度な喜びや明るさをもった「心の平静さ」が大切だということです。
 感情を乱さないことは、仏教でもキリスト教でも、およそ霊的な修行の道を歩む上では避けて通れない「必修科目」です。どんなに瞑想したり、祈ったり、ヨーガや荒行のようなことをしたとしても、「感情を乱さない」という姿勢が欠けていたら、何をしてもうまくいきません。むしろ修行そのものが邪道になってしまう危険もあると思います。

 しかしながら、感情を乱さないということは、実に難しいものです。たとえば「怒らない」ことひとつ取っても、世の中には怒りたくなるような出来事や人間で溢れかえっていたりしますので、非常に難しいわけです。しかも、「怒らない」というのは、心のなかは怒りで燃えているのにそれを表情に出さない、という意味ではありません。それではただの「我慢」であり、怒りを「抑圧」しているだけです。「怒らない」というのは、文字通り心のなかに怒りの感情が発生しないことです。
 悲しみも同じです。人生には悲しいことが少なくありません。たとえば家族と死別などしたら悲しいでしょう。それは人間の自然の情ではないでしょうか。かなりの境地に達している人でも、肉親と死別してまったく悲しみを感じない人はいないと思います。しかし、霊的な道を歩んでいる人は、たとえ肉親と死別したとしても、取り乱すほど悲しんではいけないとされているのです。
 怒りや悲しみの感情に乱されないこと以上に難しいのは、恐怖や不安の感情に乱されないことではないかと思います。人間には生存本能というものがあります。小さなことはともかく、大地震が起きて建物が崩壊しようとしているときだとか、刃物を持った強盗に襲われたといった場合に、恐怖や不安の感情が起きないようにするのは至難の技です。しかし、覚醒の道というものは、いかなる恐怖や不安が起きないように努力を重ねていく道なのです。実際、覚醒した人は、死を恐れなくなるようです。死を恐れなくなると、どんなことにも恐怖や不安を抱かなくなるようです。
 その他、あらゆるネガティブな感情が生じないように、たとえ生じても、最小限にとどめるべく、心を平静に保つ努力が要求されるのです。
 もちろん、だからといって、ロボットのように無感情な人間になる、ということではありません。美しい花を見たら美しいと感じ、気の毒な人を見たら同情の気持ちが湧いてくるような、人間らしい感情は持たなければならないのです。しかしそれでいて、いかなるネガティブな感情を心のなかに発生させないようにするのです。それが覚醒の修行の基本であり、また中心となるのです。本当に厳しい道であると思います。

 ただ、たとえ覚醒ということは抜きにしても、感情に乱されないようにすることは、人生の幸せを得るためには非常に大切なことではないでしょうか。それがうまくできるようになったら、その恩恵は計り知れないものがあると言えるでしょう。
 というのも、たいてい人生の大きな失敗や不幸というものは、感情に振り回されたことが原因になっている場合が多いからです。また、ネガティブな感情は心とからだに対して想像以上に破壊的な作用を及ぼすとも言われています。
 汚物に触れたりすると、私たちはあわててそれを払いのけて清めようとしますが、「心の汚物」ともいうべきネガティブな感情が発生しても、あまり払いのけようとはしません。インフルエンザに感染しないようにマスクなどをして身を守ることには熱心でも、「心の病原菌」ともいうべきネガティブな感情から身を守ろうとはあまりしません。
 しかし、ネガティブな感情が、心やからだ、そして人生に及ぼす害悪の大きさは、汚物やインフルエンザの比ではありません。それは、一生をだいなしにしてしまうことさえあるのです。
 ですから、心のなかに、怒りや恐怖や悲しみや妬み、その他なんであれ、ネガティブな感情が発生したら、心のなかが不潔きわまる汚物だとか、鳥インフルエンザのような猛毒のウイルスが侵入してきたのだというくらいの想像をして、一刻も早くその悪しき感情を消すように努力するべきです。
 そうして、とにかくひたすら感情に乱されない境地を養う努力をしていくのです。それは試行錯誤と悪戦苦闘の連続になるでしょうが、それが覚醒修行の道というものではないかと思うわけです。


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推薦図書 『不滅の意識ーラマナ・マハルシとの会話』

推薦図書 『不滅の意識ーラマナ・マハルシとの会話』
                  ナチュラルスピリット  2004年

 この本はインドの覚者ラマナ・マハルシ(ラーマナ・マハーリシと和訳されることもある)が、聴衆を前にしてさまざまな質問を受け付け、それに対する回答を記録した本です。
 ラマナ・マハルシは、このブログを読んでおられる皆様ならよく知っているか、少なくとも名前だけは聞いたことがあるかと思いますが、「私とは誰か?ということをひたすら追求しなさい」という教えを説いた覚者であり聖人で、今なお世界中に熱烈なファンがいます(1950年に70歳で亡くなっています)。南インドの田舎にほとんど裸で生活し、そこを訪れてくる人々に「真我は不滅である」と教えを説き続けました。
 マハルシは、有名な割には残された書籍はあまりありません。そのなかでも本書は彼の思想や人柄を知る貴重な一冊と言えると思います。
 質問を寄せている人の大半は西洋人のようで、難解な哲学的な質問もあれば、けっこう下世話な質問もあり、子供を亡くして悲嘆にくれて死後の世界はどうなっているかとか、仕事は真我実現にとって妨げになるのかとか、とにかくいろいろな質問が寄せられており、読んでいて飽きません。文体そのものは平易ですが、その語られる内容は深遠であり、この本をじっくり読むこと自体がひとつの瞑想になるかのようです。
 印象深いのは、どのような質問に対しても(くだらない質問だなと感じるような質問であっても)、マハルシは真面目に誠実に丁寧に答えている点です(ときには答えずにあえて沈黙をしたこともあったようです。“沈黙によって答えた”、というべきでしょうか)。
 彼自身は、個人的な想念というものはなく、人類普遍の真我の視野から人々に接して回答しているようなのですが(それが覚者の特徴なのですが)、そのことがどのような質問に対する回答でも一環して貫かれており、私自身の印象から言っても、彼の言葉や態度には「エゴ」の臭いがまるでしません。まったくの自然体、透明な水の流れのようなものを感じるのです。
 世の中には“自称”覚者という人たちがたくさんいます。なかには、そのことを誰か偉い有名なグルが認めたとか、弟子に自分を拝ませるとか、何らかの肩書きや権威のようなものを利用して「自分は覚者だ」と示そうとする人もいます。しかし、内的な資質を示すために、権威のようなものを利用する人は、まず本当の覚者ではないと私は思っています。たとえ、本などで立派なことを書いていたとしても、その「行間」を注意深く読むと、エゴの臭いがしたりするのです。それは「臭い」と表現するしかないような微妙なものですが、本当に覚醒していないと、どうしてもエゴの臭いが漂うことになるのです。たとえるなら、何日も入浴していない人が絢爛豪華な服をまとうような感じです。その服の華やかさに目がくらんでしまうと、本当の覚者だと思うかもしれませんが、「嗅覚」が鋭い人はごまかすことはできません。本当に覚醒していなければ、その人の書いたもの、その話した内容、その人が運営している組織のあり方、そこから発行されている「入会案内書」の文面など、ほんのささいなところから「エゴの臭い」がするものです。しかし世間は、権威だとか名声(知名度)といったことに弱いので、多くの人が簡単にだまされてしまうのです。
 そのようなものにだまされないためには、本物の覚者の言動を知ることです。そのためにも、本書は有益ではないかと思います。何回も繰り返して読むに値する内容であり、それによって「本物の覚者」と「偽物の覚者」とを見分ける鑑識眼を養うことができるのではないかと思います。その回答の内容だけでなく、回答の仕方、その姿勢そのものからも学ぶことができるのです。

質問者「霊的進歩のためにグルは必要ですか」
マハルシ「そうです。しかしグルはあなたの内部にいます。彼はあなた自身の真我とともにいる人です」

質問者「(覚醒するために)世俗的な欲望を放棄する必要があるでしょうか」
マハルシ「なぜわれわれは欲望をもつのでしょうか。探求しなさい。もしあなたが自分の欲望の中に真の幸福を見いださないならば、あなたの心はそれに魅惑されることはないでしょう。しかし、潜在意識の傾向は、あなたをそこに誘うかもしれませんが、あなたは引き返すでしょう。
 なぜあなたは自由な生活を欲するのですか。あなたがそれを切望するという事実が、あなたが束縛されていることを意味するのです。しかし実際は、あなたはつねに自由なのです。真我であることを知りなさい。そうすれば願望はひとりでに去っていくでしょう。すべての願望と想念を、内部の一点にもっていきなさい。それが真我実現です。心は静かにしておくべきです。蜜蜂は蜜を探し求めて花のまわりでやかましくぶんぶん音をたてます。蜂が蜜を発見すると、音はやみ静かになります。これが本当の蜜を切望して探し回る人の魂というものです」

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 魂の方向性の見つけ方


 私たちは何のために地上にやってきたのかについて、いろいろな文献を読んだり、また私自身考えた結論によれば、結局、その目的は2つあるようです。
 ひとつは、成長するためです。さまざまな経験をすること(とくに苦しみや試練)によって成長していくのです。そのため、生まれてくる前に、どのような経験を自分に課すか、おおよそ計画を立てていたとされます。
 もうひとつは、この地上を少しでも善い世界にするべく貢献するためです。そのために、私たちには何らかの使命が与えられているとされます。
 以上のように、私たちは成長するために、また使命を遂行するために、地上に生まれてきたようなのです。
 では、自分はいったいどのような成長をし、どのような使命を遂行しなければならないか、どうやって知ることができるでしょうか?
 そのことが明確にわかっている人は、ほとんどいないのではないかと思います。魂でははっきりとわかっているらしいのですが、肉体を持って地上に生まれてくると、忘却してしまう(思い出せない)のです。その結果、成長や使命の遂行とは無縁の生きかたを送ってしまったりするわけです。言い換えれば、地上に生まれてきた目的を果たすことなく霊界に帰還してしまうのです。霊界に帰還したとき、魂の意識が目覚めて、ようやく「自分はどのような成長をし、どのような使命を遂行するために生まれてきたのか」という目的を思い出すらしいのですが、そのときには時すでに遅しで、多くの魂が後悔すると言われています。
 ですから、自分はこの地上でどのような成長を遂げ、どのような使命を持っているのかを、なるべく早いうちに自覚し、それに沿って人生を生きるように努力することが非常に重要になってくると言えるでしょう。
 では、それには、いったいどうすればよいのでしょうか?
 さまざまな方法があるかと思いますが、今回はひとつのヒントをご紹介してみたいと思います。それは、魂の意識が比較的思い出される時期というものがあるのです。それはだいたい3回あります。
 最初は、幼児期です。この時期は、生まれてからあまり時間がたっていないので、地上的な固定観念にそれほど染まっていません。そのため、ある程度の言語を覚えて表現能力を持つようになると、漠然とながらも、自分はどのような目的をもって地上にやってきたのか自覚され、それを口にしたり、あるいはさりげない遊びなどに反映されたりします。たとえば、特に教えてもいないのに、絵や音楽に惹きつけられるといった様子を示すなら、その人は絵や音楽を通して成長したり、使命を遂行するような目的を持っている可能性があるのです。
 ただ、幼児期のこうした特徴は、非常に微妙であり、すぐに世間的な知識の吸収と共に忘れられてしまうことが多いので、大人になると思い出すことができないことが多いようです。親が注意を払っていてくれて、「あの頃、おまえはこんなことを言っていた、こんなことをしていたよ」と教えてくれたりすれば、そこにヒントを読み取ることができるかもしれません。
 ちなみに、私の場合ですが、幼稚園に入るか入らないかくらいのとき、ノートと鉛筆を買ってもらい、そこに自由に文章を書くことができると思うと、なぜかわかりませんが、とてもウキウキした幸せな気持ちになったのを覚えています。当時はもちろん、本を書く仕事をしようなどと思ってもいませんでしたが、結果的にそうなりました。
 次に魂の目的が思い出されるのは、思春期です。思春期以前の子供は、「人間」というより「生物」的な感じで育ってくるのですが、思春期くらいになると、その子の本来の魂の個性が発揮されるようになるらしいのです。思春期くらいに急に性格が変わることがありますが、この場合は特にその傾向が強いかもしれません。
 もちろん、これまでの生育環境から形成された部分もありますから、慎重に見極める必要がありますが、たとえば特に問題がない親であり、特に問題なく育てたつもりなのに、非行に走ったり、偏った性格になるといった場合などは、思春期になって、その子がこれまでの輪廻転生の間に培ってきた魂の特徴が現れた可能性が高いわけです。逆に、非常に問題のある親から立派な子供が育つこともありますが、この場合も同じことが言えるでしょう。
 いずれにしろ、思春期の時期に、どのようなことに関心を抱くようになったか、またどのような性格的な問題(つまり、成長に向けて克服するべき弱点)を生じるようになったかといったことを思い返してみると、地上に生まれた目的が何であるか、そのヒントを得ることがあります。
 私の場合、宗教やスピリチュアルなことにはほとんど関心がなく、宗教などはむしろ嫌いなくらいだったのですが、思春期からそのような方面に関心を抱くようになり、そのまま今日に至ってしまったのです。
 さて、魂の目的に気づく最後の時期は、死が近づいたときです。個人差はありますが、死ぬまであと数週間だとか、数日の間といった時期に、地上に生まれてきた目的が漠然とながら自覚される場合があります。
 以上のように、3つの時期に魂の目的が思い出される傾向があるわけですが、最後の死ぬ直前は思い出すには遅すぎますし、幼少期も思い出すには少し難しいかもしれません。一番思い出しやすいのは、やはり思春期でしょう。
 思春期くらいの時期に、自分がどう変化したか、振り返ってみてください。たとえば、その頃、どのようなことを考えたり思ったりしたか、どのようなことに興味を覚えたか、どのようなことに悩んだか・・・、こうしたことのなかに、自分が地上でどのような成長を遂げるべきか(どんな長所を伸ばし、どんな短所をなくしていくべきか)、どのような形で、どのような使命を遂行していくべきかといった、いわば魂の方向性が見えてくることが多いのです。

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自己限定という枠をはずす


 覚醒とは、要するに人間本来の姿に立ち返ることであり、それは神を源流とする魂を目覚めさせるということになります。私たちは、エネルギー的には、万能である神を源流にしているのです。ですから、誰もが本来は神と同じように偉大な創造の力を秘めているはずなのです。ただ、地上という物質世界は、さまざまな制約があるために、それが十分に発揮されにくいのです。神の持つ偉大な力をこの地上で完全に発揮できる人は、おそらくいないのでしょう。
 しかしそれでも、今の私たちのレベルから比べれば、まだまだ相当の力を発揮できる余地があるのです。それはいわゆる「潜在能力」という言葉で説かれているものですが、覚醒するにつれて、潜在能力が大幅に発揮されてくるはずです。というより、潜在能力は神に由来するものですから、人格的な美徳といったことも「潜在能力」に含めるなら、覚醒とは潜在能力を活性化することだと言っても間違いではないでしょう。私たちは、地上世界で発揮できる偉大な潜在能力の、せいぜい1割程度しか発揮していないのではないかと思います。
 「斉藤啓一の作品店」で入手できる『覚醒修行のための招待』(※)を読んでくださった方はご存知と思いますが、そこで説明していますように、地上とは、霊的に成長するためのトレーニングジムなのです。ですから、さまざまな困難や苦しみがあって当然なのです。それらのなかには、ただ耐え抜くというだけでも意義がある場合もありますが、もともと「トレーニング」なのですから、基本的には克服し乗り越えていけるものなのです。病気、仕事の挫折や失敗、経済的困窮、家族の悩み、人間関係のトラブルなど、トレーニングのためにさまざまな「負荷」が訪れますが、必ず克服できるものであり、たとえ完全には無理な場合でも、ほとんど問題にならない程度にまで改善することは十分に可能なのです。
 にもかかわらず、現実には、いつまでも同じ困難や悩みをずっと抱え続けており、その状態から抜け出せないでいることも、少なくありません。
 いったい、それはなぜなのでしょうか?
 私たちが成長するためには、植物が生長するように時間が必要ですから、ある程度の期間は、困難や悩みに苦しむということは避けられないでしょうし、それはそれで必要なことであり、よいことなのです。
 しかし、必要以上にいつまでも同じ困難や苦悩を引きずったままであるならば、それは自分が成長しているか、つまり、自己の内なる神性を活性化させる生き方をしているかどうか、反省してみる必要があるのではないかと思います。
 いつまでも同じ困難や苦悩の状態にある人の多くに共通していることは、「自己限定している」ということです。「自分にはこの困難や悩みを解決していくことはできない、そんな力などない」と、自分で自分を決めつけており、わざわざ自分の可能性にふたをしてしまっているのです。これでは、いくら頑張っても、困難や苦悩は解決されません。ブレーキをかけながら自転車をこいでいるようなものです。
 ですから、常に注意をしていなければならないことは、意識的にも無意識的にも、自己限定していないかどうか、自分にブレーキをかけていないかどうかをチェックすることです。これは、「自信を失っていないか」とチェックしてみることと同じであると言えるでしょう。自信がなければ、つまり、「自分にはできない」と思う限り、なにごともうまくできません。なぜなら、本当はできるかもしれないのに、「自分にはできない」と思うことは、「できるという選択をしない」ことと同じだからです。私たちはたったの1割くらいしか能力を発揮していないのです。もし残りの9割を発揮したら、いえ、9割とまでいかなくても、3割、4割くらいでも発揮できたら、たいていの困難や悩みなどは解決できてしまうのではないでしょうか。そのためには、自信を持つことが最初の第一歩となります。
 本当の自信とは、魂からやってくる確信に基づいているものだと思います。人と競争して「自分の方がすぐれている」などというのは、本当の自信ではありません(こういう自信は高慢や自惚れを生み出します)。
 自分の本質は偉大な叡智と力を持った神を源流としており、自分にその力が宿っていることを深く自覚すること、そして決意さえすれば、そうした偉大な力を発揮することができ、いかなる困難や悩みも解決できるのだと確信すること、これが本当の自信です。このような自信からは、高慢さや自惚れが生まれることはありません。謙虚でありながら、自信に満たされることになるのです。
 このように、本当の自信を抱いて潜在能力を活性化することで困難や悩みを克服していくことが、そのまま覚醒の修行となるのです。なぜなら、潜在能力の活性化とは、神性の活性化を意味するからです。

※『覚醒修行への招待』(無料)ご希望の方は、「斉藤啓一の作品店」まで。
 → 「斉藤啓一の作品店」へ行く
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奉仕という覚醒修行


 地上人生というものは、結局のところ、魂の修行場であり、トレーニングジムのような場所です。私たちは、楽をしたり、地上的な意味で「幸せ」になるために地上に生まれてきたのではなく、さまざまな経験、とりわけ苦しみや悲しみの経験を通して教訓を学び、魂を磨き、成長・進化するために、地上に生まれてきたのです。そうして地上を去り、本来の住処である霊的世界に帰還したとき、より高い階層に上昇できるようにするためです。あるいは、肉体をもったままで魂を大きく成長させ、地上にいながら高い霊的階層のエネルギーと合一するためです。
 霊的世界では、より高い階層ほど、「助け合い」の精神で占められるようになります。すなわち、そうした高い階層世界に住んでいる魂は、利己的ではなく利他的であり、常に無私の奉仕に徹しているのです。
 ですから、私たちが高い階層に上昇するためには、すなわち、覚醒するためには、助け合いの精神を持ち、無私の奉仕の生き方をすることが必要不可欠となります。そのような生き方こそが覚醒の道なのです。要するに、覚醒の道を歩むということは、人生のすべてを世のため人のために尽くすという「奉仕」を目的にしなければならないようなのです。
 しかし、奉仕とひとことで言いますが、たいていの人は自分の仕事や生活で手一杯で、たとえばボランティア活動のようなことをして奉仕をするといったことは、たとえそうしたくても、できないのが実情ではないでしょうか。そうなると、覚醒の道というものは遠いところに行ってしまうような気がします。
 けれども、奉仕の本質というのは、あくまでも動機だと思います。
 たとえば、いくら人のために働いたり、あるいはお金を寄付したりといったことをしても、その動機が利己主義(エゴ)によるものなら、それは奉仕とは言えないでしょう。
 しかし、どんなことであれ、世のため人のためにという動機で行えば、それは奉仕になるのだと思います。
 たとえば、私たちは生活のために仕事をしなければなりません。仕事をしてお金を稼がなければなりません。しかし、仕事というのは、生活費を稼ぐという意味だけでなく、社会貢献という意味もあります。この社会には、いろいろな仕事をしてくれる人がいるから、私たちは助かっているわけです。
 ですから、仕事そのものは、世のため人のための立派な「奉仕」になるのです。その動機が「自分だけの金儲け」ではなく、世のため人のためという動機で行われるのであれば。報酬はあくまでも結果であり副産物とみなし、お金を稼ぐためではなく、世のため人のために(あるいは神のために)という動機で行うのです。そうすれば、仕事そのものが立派な覚醒修行になるのではないかと思うのです。
 学生でまだ仕事をしていないのであれば、世のため人のために奉仕ができる人間になるためにという動機で勉強するのです。そうすれば、勉強そのものが覚醒修行になります。病気などの理由で仕事も勉強もできない人は、世のため人のために奉仕ができる健康な体になろうという動機で療養生活を送るのです。そうすれば、療養生活そのものが覚醒修行になるはずです。

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