心の治癒と魂の覚醒

        

 怒りのコントロール


 私たちの心はさまざまな感情でかき乱されることが多いのですが、そのなかでももっとも危険なのは、怒りと恐怖ではないかと思います。今回は怒りについて考えてみたいと思います。
 他の感情、たとえば「悲しみ」という感情もそれなりにやっかいなものですが、比較的人に迷惑をかけることはないし、そのために人生がめちゃくちゃになることも、あまりないと思います。
 しかし、怒りの感情の場合、人に迷惑をかけたり、ともすると人生がめちゃくちゃになってしまうこともあります。怒りの感情が特定の人に向けられていた場合、その人に暴力をふるってしまい、傷害事件として警察沙汰になってしまうかもしれません。そのために人生がめちゃくちゃになってしまうこともあるかもしれません。
 そこまで極端ではなくても、私たちはちょっとした怒りをぶつけたために気まずい思いをして後悔することが少なくありません。「怒りは一時的な狂気」と誰か偉い人が言っていましたが、まさに怒りは狂気であり、「怒り狂う」という言葉もあるように、怒っている人は「狂っている」と言えるかもしれません。
 とにかく、怒りという感情は非常にやっかいであり、危険であり、悪魔のように恐るべきものです。それをコントロールすることは容易ではありません。かといって、野放しにしておくことはできませんので、何とかしてコントロールする方法を探し出し、心の平安を獲得しなければなりません。
 いうまでもありませんが、怒りを我慢していることは、怒りを消したことにはなりません。ただ抑圧させているだけです。怒りの感情そのものを消滅させる必要があるのです。
 そのための方法はいろいろあるでしょうが、ひとつには、「考え方を変えてみる」という方法が有効ですし、即効性があり、誰にでもすぐに実行できるのでお勧めします。
 すなわち、怒りを感じたときに、ひとつの例として、次のように考えてみるのです。
「私は怒っている。誰でも怒っているときは本気で真剣である。だが、本気で真剣になるほどの価値がこれにあるだろうか?」
 どんな人も、怒っているときは真剣です。いい加減に怒っている人はいないでしょう。一生懸命に怒っているわけです。
 しかし、その怒りの原因が、真剣で一生懸命になるほどのものかどうか、考えてみるのです。たとえば、料理を注文したのにいつまで待っても来なかったとします。それで怒りの感情が湧いてきたとします。つまり、注文した料理が来るのが遅いということに対して、真剣に一生懸命になっているということになります。
 しかし、そんなことくらいで、真剣に一生懸命になるとしたら、なんともスケールの小さな人間ではないでしょうか。なんとも馬鹿馬鹿しいことではないでしょうか。自分はその程度の人間であると思うと、情けなくなってくるのではないでしょうか。
 人間が真剣に一生懸命になるときというのは、よほどのことです。重要な仕事に打ち込むときだとか、何かとても大切なことをするときです。つまらないことで真剣になり一生懸命になっているというのは、エネルギーの浪費であり、ナンセンスです。「自分のおかずよりお兄ちゃんのおかずの方が量が多い!」といって激怒し、兄弟げんかをするのと同じくらい幼稚なレベルの怒りを、私たち大人も案外、やっているのではないか?
 と、このように考えてみるのです。
 そうすると、たいていの怒りは、多少なりとも緩和されてくるはずです。まったく消えてしまう場合もあるでしょう。もちろん、真剣に一生懸命に値することに関して怒りを覚える場合もあります。そういうときは、以上のような考え方はあまり効果はないかもしれません。しかし、私たちが怒りを感じる大半は、どうでもいいような、くだらないことではないでしょうか。くだらないことに真剣に一生懸命になっているわけです。その点では、以上のような考え方をすると、怒りの半分くらいは軽減されるのではないかと思います。
 私たちは、本当に価値のあることだけに対して、真剣に、一生懸命になろうではありませんか。人生の大半のことは、真剣になって怒るには値しないようなことばかりではないでしょうか。


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 ラストタイマーの特徴


 ご存知の方も多いかと思いますが、アメリカのエンジニアで体外離脱ができたロバート・モンローという人がいました(後に体外離脱のテクニックを「ヘミシンク」という名称で広めています)。
 その彼の著作『魂の体外旅行』(ロバート・A・モンロー著 坂場順子訳 日本教文社)のなかに、ラストタイマー、すなわち、もう二度と地上に生まれ変わってはこない魂について書かれているところがありますので、紹介してみましょう。
 その前に、説明しておかなければならないのですが、これはモンローがいうところの「超意識」を見たときの様子のようです。モンローによれば、私たちは肉体を持ってこの地上に生きていると同時に、超意識は霊界に存在しているというのです。言い換えれば、この超意識とは、いわゆるハイヤーセルフのことだと言ってもよいかと思います。
 すなわち、地上で肉体を持っているラストタイマーの超意識(ハイヤーセルフ)を、彼が体外離脱して霊界に行っていたときに目撃した様子を報告しているのです。
 では、ラストタイマーについて、モンローはどう表現しているのでしょうか?
「みごとなコントロール下に置かれた、とてつもなく活気に満ちたパワーを持っているのだ。この活力の中には、人間が重要と考える価値観や理念のすべてが込められているのだった。・・・最も重要なことは、これらの価値観や理念はすべてコントロール下にあり、ことごとく協調し合い、融合し合って全体の中の部分を構成していることであった」
 少し難しい表現をしていますが、私なりに言い換えますと、人間としてあらゆる美徳を備えており、それらをしっかりとコントロールしている、感情に振り回されることがない、ということではないかと思います。また、全体のために自分の役割をエネルギッシュに発揮しているとも解釈できそうです。
 そして、こうしたラストタイマーたちが、そうした偉大な資質をどのようにして身に着けたかというと、地上で何回も経験を積んだからだというのです。
 やはり、人間として成長するには、生まれ変わりを繰り返す必要があるのでしょう。
 モンローが、そんな彼らに「行き先」を尋ねると、ほとんどが優しい笑みを浮かべて、ただ「故郷へ」と答えるのだといいます。
「故郷」とは、霊的世界の高い階層のことをさしているのでしょう。キリスト教的にいえば、「天国」ということになるのかもしれません。
 ところで、こうしたラストタイマーの特徴について、モンローは興味深いことを言っているのです。
「彼らはこの最終回では歴史を作るような役割を選ばない。そのような役割はもう前に演じてしまっているからだろう。最終回では彼らは目立たない存在だ。郵便局員、ただの農夫、船員、会計係、といった役割の人間になり、グループとしてまとまるのではなく、時間的にも空間的にもあちらこちらに静かに存在するのが認められる」
 ラストタイマーは、今生では平凡で目立たないというのです。もちろん、これは社会的な面においてであって、人間的には非凡な美徳を備えているのでしょう。いずれにしろ、社会的に目立つような偉業を成し遂げるといったことはなく、目立たない仕事や生活を送り、徒党を組んで何かをするよりは、個人的に静かな生活を送っているようです。
 これは少し意外に思われるかもしれません。通常、ラストタイマーというと、何かスケールの大きな聖人のような印象があるのですが、そうではないというのです。
 もちろん、これはあくまでもモンロー自身の主張であり、真実かどうかはわかりませんが、理由を私なりに考えてみました・
 おそらく、彼らには社会的な野心がないからではないかと思います。野心というものはたいていエゴを土台にしています。エゴがある限りラストタイマーにはなれないでしょう。彼らにはエゴがないのです。つまり、野心がないのです。野心がなければ、たいていの場合、社会的にパッとするような人生を送ることはないでしょう。なので、結果的に平凡で目立たない仕事や生活を送っているのではないでしょうか。
 ただ、あくまでも大切なことは心のあり方であって、社会的な位置づけではありません。平凡な生活を送ればよい、平凡な生活を送らなければラストタイマーになれない、ということではないわけです。ポイントはエゴがあるかどうかだと思います。


地球卒業者の研究 | コメント:0 | トラックバック:0 |

 絶望したときにどう生きるか


 人間というものは、嘆き悲しむことによって奇妙な慰めを得られることは確かである。あきらかに絶望的な状況なのに、無理に希望を持つということは、空しく疲れて、馬鹿馬鹿しく、情けない思いがしてくるものだ。
 しかし、嘆き悲しんでも、何がどうなるわけでもなく、ますますその奇妙な慰めに足を取られ、たとえば酒や遊興に溺れるようになるだけだ。そんなことをしても心の底から楽しいわけでもなく、空しさから逃げているだけで、ますます自己嫌悪に悩まされ、ますます絶望的に、みじめになってくる。そして、それを忘れるために、さらに酒や遊興に溺れるようになってしまい、ついにはどうしようもない堕落と醜悪な状態に落ち込んでしまう。
 現状を打開するために、たとえば琵琶湖の水をおちょこでかき出すかのような手段しかないかもしれない。いくらそんなことをしたって、琵琶湖の水をすべてかき出すことなどできはしない。だが、人生においては、それくらい絶望的な状況に立たされることもある。
 たとえば、ビジネスで失敗して一億円の借金を抱えてしまうといったことがある。とくにこれといった資格もなく、何もかも失った男にできる仕事と言えば、時給数百円にすぎない仕事だけかもしれない。彼はその仕事をしながら、自らは極貧の生活を送りながら、ひたすら借金返済のために仕事をしなければならない。だが、そこまでしても、生きているうちに借金から解放される日がくることはない。その生活には希望がない。そのような生活をするくらいなら、牢獄に入れられた方がずっと楽かもしれない。
 しかし、このようなケースは珍しいというわけでもないのだ。このように「行くも地獄、残るも地獄」のような状況に立たされたとき、あなたならどうするだろうか?
 コツコツと仕事に取り組むだろうか? だが、そこには希望はないのである。にもかかわらず、情けなくみじめな仕事をひたすら続けていくことができるだろうか?
 それとも、仕事をする気力を失い、絶望のあまり酒に溺れるなどして、退廃的となり、廃人のようになっていくだろうか? 自ら生命を絶ってしまうだろうか?
 どちらにしても地獄であり、どちらにしても希望がないのである。
 だが、何かをしていれば、そこから別の希望というものが生まれてくることはしばしばある。何もしなければ、その確率はゼロであるが、何かをしていれば、少なくともゼロではない。
 たとえば、死んだ種に水をやり続けても芽が出ることはない。しかし、たまたま近くに生きた種が埋まっていて、水をやり続けたために、思いがけずその種が芽を出し、それがついには立派な花となり実となるといったことも、ありえないことではない。
 琵琶湖の水をおちょこでくみ出し続けていれば、そのひたむきな姿に感動して「もっといい方法がある」と、教えてくれる人が現れるかもしれない。ひたすら誠実に借金を返し続けていれば、ある程度、棒引きしてくれることがあるかもしれないし、その熱意を買われて高給の仕事を紹介してくれることもあるかもしれない。
 だが、絶望して退廃的になった人間に、よいアイデアが浮かぶことはないし、そんな人間に力を貸してあげようなどと思う人は誰もいない。
 だから、絶望を前にして努力を放棄して倒れてしまうより、いかに辛くみじめで希望がないように思えても、努力をした方がよい。何かよいことが生まれる可能性は十分にあるからだ。
 絶望的に思えた状況でも、思いがけない展開が生じて、実現できてしまうことも、決してないとはいえない。実際、過去の偉人たちの伝記を見るなら、まったくの絶望状態から立ち直った人は何人もいる。彼らに共通することは、決して努力を放棄しなかったことだ。一時的には投げやりになった時期があったとしても、そこから立ち直って地道な努力を続けたのである。
 光明が見えるまでには、長くて辛い忍耐の日々を歩み続けていかなければならないかもしれないが、努力と忍耐が持つ力というものは、私たちが想像する以上に偉大であり、強力である。いつかそれは、何らかの形で必ず報われるはずである。
 たとえ百歩譲って、何も報われることがなかったとしても、絶望に打ちひしがれることなく、まっとうに努力を続けてきたというだけで、人間として崇高であることが証明されている。外見的にはいかにみじめで情けない生活をしていたとしても、その生き方は、人を感動させる高い評価を受けるに値するものだ。
 いつか死を目前にするときがきたとき、そんな生き方をしてきた自分の人生を振り返るなら、そこには誇りと、深い安らぎを見出すに違いない。

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 感情の乱れを解消する2つの方法


 感情は、一度乱されてしまうと、そこから平静を取り戻すには多大なエネルギーが必要となり、容易なことではありませんから、最初から乱されないようにすることが理想的です。少しでも感情が乱れそうになったら、なるべく早く初期の段階で手を打つようにするのです。そうすれば、大きく感情が乱されることは少なくなります。病気と同じようなもので、重くならないうちに対処すれば軽くすんでしまうのです。まずは、そのような癖をつけて習慣づけることが大切です。
 とはいえ、いつもそのようにうまくいくとは限らないでしょう。ときには激しく感情が乱されてしまうこともあるでしょう。
 そうなった場合、いったいどうすればよいでしょうか?
 宗教やスピリチュアルな世界では、そのように感情が乱れた場合、大きく2つの方法が提案されています。それらは一見すると、まるで正反対のアプローチであるように思われますが、どちらも効果があるようです。
 ひとつの方法は、その乱れた感情をありのままに受け入れ、その感情を見つめ、積極的に味わうようにするというものです。逃げたりせず、ごまかしたりせず、じっとその痛み、怒り、悲しみに向き合うのです。能動的な働きかけはいっさいせず、全面的に感情の動きを注視するのです。そうすると、感情の乱れが消えて静謐になると言われています。
 もうひとつの方法は、その乱れた感情は自分の本当の感情ではないのだと考え、まるで他人ごとのように突き放すというものです。怒りや悲しみの感情が湧いても、まるで自分の内部に侵入してきたエイリアンのごとくみなし、「これは私の感情ではない。本来の自分はこのような感情に乱されるような存在ではない」と思うようにするわけです。そうすると、感情に乱されなくなるとされるのです。
 どちらが効果的かは、一概には言えません。人によっては前者の方が効果があるでしょうし、後者の方が効果があるかもしれません。ですから、とりあえず両方を試してみることです。実際に試してみて、自分に効果のある方を採用すればよいでしょう。あるいは、臨機応変に2つのやり方をうまく使い分けるということも可能かもしれません。また、その他にも方法があるかもしれません。自分で工夫を積んでいき、乱れた感情を平静にさせる方法を編み出そうとする求道的な姿勢は大切なことです。
 いずれにしろ、あらゆる方法や手段を使って、常に感情を平静に保っていることが重要なのです。感情が平静なときほど、高い霊的な影響を受けやすくなります。すなわち、守護や導きを得られるようになるのです。そして何よりも、感情を乱されない心境こそが、覚醒にとってもっとも重要な基盤となるのです。


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 心を乱す悪魔と闘う


「心を乱されない」というテーマで書いてきていますが、これは重要なことであり、心を乱されないようにしない限り、おそらく覚醒というものはできないでしょう。
 すでにお話したように、この地上世界は、もともと私たちの心を乱すような仕組みとなっており、あらゆる機会やスキを狙って、心を乱そうとしかけてくるのです。その点では、私たちは戦場にいるようなものです。常に自分の心を乱す敵と戦わなければなりません。ちょっとでも油断していると、すぐに心が乱されてしまいます。
 釈迦は、煩悩を悪魔にたとえましたが、心を乱すものを悪魔にたとえ、ある種の実体的な存在としてとらえて、心を乱されないようにすることは、有効かもしれません。 [
「悪魔」は狡猾です。まっこうから心を乱すことができないとわかると、巧妙な罠をしかけてくることもあります。一度気分をよくさせておいて、次の瞬間にはそれを見事に裏切るような不愉快な出来事を起こしたりするわけです。その落差が大きいために、心が激しく乱されてしまうのです。
 悪魔の最大の武器は「言葉」です。心を乱すような言葉を、まるで銃弾のように浴びせかけてくるのです。この「悪魔の銃弾」に心を撃たれたとき、人は傷つき、怒り、あるいは絶望し、悲しみに倒れてしまうのです。インターネットの掲示板などをのぞくと、悪魔の犠牲になった人たちをたくさん見ることができます。意地の悪い品性の欠けた言葉を吐き、怒りや不満をあらわにして醜い感情をぶつけ合ったりしています。顔と名前を正々堂々と出した上で批判したり論争するならまだしも、匿名でなければできないというのであれば、単なる臆病な卑怯者です(悪魔はこういう人間を好みます)。このような醜い論争や批判、悪口の言い合いなどをしていると、たとえもっともな理屈を言っていたとしても、しだいに人間性そのものがダメになっていく気がします。

 それはともかく、私たちは「悪魔の銃弾」から常に身を守らなければなりません。本物の銃弾から身を守るには、鎧や防弾チョッキをまとう必要があるでしょう。しかし悪魔の銃弾というのは、実際には実体はありません。たとえば、何をいっているかわからない外国語でいくら批判されたり、ののしられたりしても、まったく傷つきません。
 あるいは、優秀な学歴を持っている人に対して「バカ!」という言葉を投げかけても、相手は傷つかないでしょう。しかし、学歴や自分の能力に劣等感を抱いている人に「バカ!」と言ったら、おそらく傷つくでしょう。
 このように、心を乱す言葉とそうでない言葉の違いというのは、自分自身がそれをどうとらえるか、その解釈しだいなのです。自分の劣等感や、気にしていること、嫌だと思っていること、目を背けたいと思っていることを指摘されたときに傷つくわけです。言い換えれば「認めたくないが、認めざるを得ないこと」を言われたとき、心を乱されるのです。本当のこと(だと自分が思っていること)を言われたとき、心を乱されのです。
 このような悪魔の銃弾から心を守るには、言葉を投げかけられたとき、すぐに反応するのではなく、必ず1テンポおいて「悪魔の銃弾が放たれたな。このまま心を乱したら、悪魔の思う壺である。その手には乗らないぞ!」と、そのように思う習慣をつけることです。そうして、相手の言葉に対して、感情的に切り返すのではなく、冷静に論理的に、人ごとのような客観的な視点で反論するようにするのです。練習を積めばそうできるようになります。あるいはまったく無視をするというのもいいでしょう。
 子供の世界には「にらめっこ遊び」というものがあります。「にらめっこしましょ♪ 笑うと負けよ、あっぷっぷ♪」などと言って、おかしな顔をして相手を笑わせます。笑った方は負けです。
 この地上世界の「悪魔」たちも、この「にらめっこ遊び」を仕掛けてくるのです。ただし「笑わせる」のではありません。怒らせよう、悲しませよう、嫉妬させよう、傲慢にさせよう、絶望させよう……としているのです。「にらめっこしましょ♪ 怒ると負けよ、あっぷっぷ♪」と言っているわけです。それに私たちが耐え切れずに怒ってしまうと、悪魔は「やったあ、勝った!」と言って喜んでいるのです。悪魔が仕掛ける、そのようなくだらない遊びに、いちいち付き合わないようにしなければなりません。

 怒りに心を乱された人は、まずろくなことはありません。後で悔やまれるような、ときには一生を台無しにしてしまうようなことをしでかしたりします。大きなストレスの負担を心身に与えます。そのように人を不幸にして、悪魔は喜ぶのです。
 世の中には、人を不愉快にさせる言葉を平気で口にする人がいますが、そういう人は、悪魔が取り憑いているのだと考えればよいでしょう。言葉によって人を絶望に追い込んだり、深刻なストレス障害にさせたり、ひどい場合は自殺にまで追い込んでしまうこともあることを思うと、言葉というものは、単なる「空中に発した音声」という以上のものがあるのです。実際にナイフを持って相手の肉体を切りつける行為に相当するといっても過言ではありません。そのようなことは、カルマの法則により、いつか自分にめぐってきて、結局は自分自身を何らかの形で切り刻むことになるでしょう。言葉というものは、非常に怖いものなのだということに気づくべきです。
 ですから、言葉使いは慎重にしなければなりません。刃物を扱うかのような慎重さが必要です。私たちは口のなかに「凶器」を持っているのです。使い方をあやまると、自他を切りつけ不幸にして、取り返しのつかないことになってしまう危険があるのです。
 もっとも、その意図がなくてもつい相手を傷つける言葉を吐いてしまうことは、人間なら誰しもあるでしょう。それは仕方がないと思いますが、少なくとも意図的に傷つけるような言葉は、決して口にするべきではありません。難しいことですが、たとえ相手から傷つけられるようなことを言われたとしてもです。
 傷つけられるようなことを言われたのに、それに対して何も言わないでいるというのは、とても苦しいものですが、言い返したりしなければ、相手が放った「悪魔の銃弾」は、Uターンして自分のもとに戻っていきます。ブーメランのようなもので、こちらがブーメランをつかみさえしなければ、それは投げた人のもとに戻っていくのです。


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