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心の治癒と魂の覚醒

        

 現実をしっかり認識して生きる


 前回は「苦しみは有難い」といったことをお話しました。全般的に私の主張は、ともすると禁欲主義のように見られているかもしれません。しかし、私にはいかなる「主義」というものはありません。ただ、常に現実から目をそらすことはしない、というだけです。
 世の中には、「ありのままでいいんだよ、変わらなくていいんだよ、楽に生きていいんだよ、がんばらなくていいんだよ」などと言う人がいます。精神科医のなかにもこのように言う人がいます。
 確かに、こういう主張は一理あります。必要以上に自分を追い詰めていたり、必要以上に周囲に自分を合わせていたり、病的に禁欲的であったり、必要以上にワーカホリックになっている人たちです。こういう人たちには、こういう言葉も必要でしょう。それで癒されることもあるかもしれません。
 しかし、こうした言葉を、どんな場合にも当てはまる、あたかも宗教の教義であるかのようにとらえることは間違いです。間違いというより、現実に適合していません。
 たとえば、今は多くの会社が厳しい状況です。「がんばらなくてもいいんだよ」と言われて、それを鵜呑みにして「私、がんばりません。だから、残業しません」などと言えるでしょうか? あるいは、いつも時間にルーズで会議などにも遅刻する人がいるとしましょう。「のんびりしているのが私。変わらなくていいんだ」などといって、そのままでいたら、どうなるでしょうか? 「楽に生きていいんだよ」と言われ、仕事に手抜きをしたらどうなるでしょうか?
 結局、ついには職を失うことになるでしょう。それが現実であるということです。まだ若ければ別の職を見つけることもできるでしょうが、ある程度年齢がいったら、職はありません。あっても前よりひどい待遇の職しかないでしょう。それが現実なのです。
「ありのままでいいんだよ、がんばらなくていいんだよ」などと、耳に心地よいことを述べている人たちは、そのように生きた結果、現実的にどうなるかといったことを説明していないように思います。というより、そのようにいう人自身、現実の厳しさというものをわかっていないのだと思います。
 正社員であれば、少しくらい休んでもすぐにクビになることはないかもしれませんが、派遣社員だったら、即刻クビです。派遣社員は、正社員が嫌がるような、辛い仕事をさせられます。使い捨ての消耗品と見なされているのです。「さんざんこき使い、体を壊して辞めたらすぐ新しい人を補給する」という感覚です。すべての会社がそうだとは言いませんが、そういう会社も少なくないということです。そんな状況ですから、歯を食いしばって全力を出し切り、必死な思いでやらなければできないのです。それをやらなければ、明日から路頭に迷うという、ぎりぎりの生活をしている人がたくさんいるわけです。
 そういう人に、いったいどうして「がんばらなくてもいいんだよ、楽に生きていいんだよ」などと言えるでしょうか。もしそのようなことを言うならば、その後に「そうして、路頭に迷ってホームレスになればいいんだよ」と付け加えるべきです。耳に心地よい言葉だけを述べれば人気は出てくるかもしれませんが、現実を見ないそうした言葉は、あまりにも無責任であると思うのです。
 もちろん、歯を食いしばるほどがんばらなければ生活できない人が大勢いる今のこの社会がよいとは思っていません。しかし、それが現実なのですから、仕方がありません。私たちは夢の世界に生きているのではなく、現実の世界に生きているのです。住む場所、着るもの、食べ物、お金が必要なのです。
 そのような現実の世界で生きるということは、よほど恵まれた状況にいる人でなければ、どんなに考え方が楽観的であっても、辛さや苦しみを感じるはずです。感じなければ、すでに悟りを開いた偉大な覚者ではないかと思います。
 がんばらなくてもすむなら、がんばらなくていいでしょう。楽に生きられるなら、楽に生きればいいでしょう(ただしそれではあまり成長しないと思いますが)。しかし、がんばらなければ生きられないなら、がんばるしかないのです。楽に生きられなければ、苦しみながら生きるしかないのです。違うでしょうか?
 それならば、この地上人生は「苦しみなのだ」と覚悟を決めてしまった方がよいのです。ただし、そのことを前向きにとらえて「苦しみは有難いのだ」と思うようにするのです。なぜなら、地上人生の唯一の目的であり、もっとも重要な「成長」が促されるからです。苦しみは有難いのです。このように考えるほうが、「がんばらなくてもいい」などという、無責任で非現実的な言葉などより、ずっと心の支えになると思うのです。
 楽観的になることはよいことです。しかし、それは人生の苦しみを一度は徹底的に味わってから、そうなるべきだと思います。さもなければ、そのような楽観性は、ただ甘いだけで栄養のない安物のお菓子のように、非現実的で軽薄で、何も益するものがないものとなるでしょう。


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苦しみという名のグル(導師)


 おそらく、人生においてもっとも最高の生き方というものは、苦しい状況を経験しながらも人間として立派に生き、他者に奉仕するために真剣に生きることではないかと思います。これまで繰り返し述べているように、地上人生はトレーニングジムです。つまり、負荷をかけることによって魂の力を強化していく場所です。負荷というのは、具体的には2つの種類に分かれます。それは、苦難と誘惑です。
 人は苦難のなかにあると、つい心がいじけてしまい、不条理を感じて正直に生きるのが馬鹿馬鹿しくなってきたりします。人を信じられなくなったり、絶望で立ち上がれなくなったりします。あるいは、ずるく生きたり、悪いことをしてまで、その苦難から抜け出そうとあがくこともあるでしょう。しかし、こういう状況にあってもなお、人間として正しい生き方を貫くとき、私たちの霊性は進化して覚醒に近づいていくのです。
 また、誘惑も負荷です。世間的に成功したり、物事がうまくいくようになると、つい傲慢になったり、他者に対する思いやりを失ったり、成長がとまって腐ってしまうといったことになりやすいからです。世間的には、そういう安楽な人生は「幸せでよいこと」と見なされますが、霊的にはまったく反対で「不幸で悪いこと」とされるのです。今はいいかもしれませんが、ともすると地獄に通じる道になりやすいからです。
 しかし、このような誘惑の状況におかれても、それに負けることなく、人間として正しい生き方を貫くことにより、私たちの霊性は進化して覚醒に近づいていくのです。ただ、誘惑に打ち勝つというのは、苦難に打ち勝つのと同じくらい難しいものだということは、肝に銘じておいた方がよろしいかと思います。
 そして、さらに、こうした苦難あるいは誘惑のなかにあっても、他者に奉仕するという非利己的な努力をすることで、霊的覚醒への道は飛躍的に伸びていくのです。いかなる人に対しても無条件に親切を行い、しかしいかなる報酬も求めず、いかなる結果になろうとも頓着しないという姿勢、これがまさに覚醒の道です。
 私たちは、このようにして、地上人生という道場(トレーニングジム)において、修業をさせられているわけです。けれども、ほとんどの人は、人生が修行であるという自覚がありませんから、試練があれば不運だといって嘆き、誘惑があればそれに流されて腐ってしまうことが多いのです。そのため、なかなか霊性が進歩しません。これでは何十回生まれ変わってきても、微々たる進歩しかできないでしょう。
 何事もそうですが、与えられた物事に対して、どのような姿勢で向き合うかということが大切です。苦しみを「嫌なもの、悪いもの、排除すべきもの」と考えるのではなく、苦しみとは、「グル(導師)」だと思うことです。実際、そう思って臨んでいくならば、私たちは苦しみから実に貴重な多くのことを学ぶことができます。まさにそれはグルとなるでしょう。苦しみは有難いのです。辛いかもしれませんが、有難いものなのです。
 皮肉なことに、そのように思って苦しみを受け入れる道が、実はもっとも早く苦しみから解放される道なのです。なぜなら、苦しみは私たちに何らかの教訓を学ばせるために訪れたのですから、教訓を学んでしまったら「用済み」になるからです。苦しみは逃げれば逃げるほど追いかけてきます。もちろん、意味のない苦しみは避けるべきですが、避けられない苦しみ、避けたら人間としての尊厳に傷がつくような苦しみは、覚悟を決めて受け入れるべきなのです。
 結局、そのように生きることが、本当に人生を真剣に生きる、ということだと思います。多くの人は、本当に人生を生きていません。人生を真剣に生きていません。しかし、人生を真剣に生きていなければ、必ずいつか後悔することになるでしょう。なぜなら、人生を真剣に生きていなければ、人はそこから何も学べないし、成長もしないからです。苦しみというグルは、私たちに、人生を真剣に生きることを教えてくれるのです。だから、それは有難いものなのです。


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傲慢さと真の強さ


 傲慢な人は普段は威張っていたりするので、何となく強そうな印象があります。しかし、傲慢さは、心理的には劣等感や空虚感を土台にしていることが多いのです。そのため、傲慢な人ほど、物事がうまくいかなくなると、すぐに腹を立てたりあわてたりする傾向があります。危機的状況になると、我を失い、取り乱して醜態をさらすことが多いのです。
 要するに、傲慢な人ほど臆病であることが多いのです。比較的物事がうまくいっているときは自惚れたり人を見下したりしますが、うまくいかなくなると、とたんに意気消沈したり、不安動揺にかられ、不正で卑怯な手段に訴えて苦境を逃れようとすることもあります。
 本当の意味で精神力が強い人は、まず傲慢にはなりません。本当の意味で精神力が強い人というのは、自分を支えていたもの(それは経済力であったり、肩書きや名声であったり、仕事であったり、家庭であったり、さまざまですが)が失われても、泰然自若としており、自信と希望と明るさを失わないものです。傲慢な人は、自分の本質とは直接の関係がない、以上のべたようなことを支えにして、空威張りしているだけなのです。
 つまり、まったくの裸になり、ひとりの人間になったとき、どれほど自立的なたくましさを発揮できるかということが、人間の真の価値であるように思います。いっさいの財産を失い、仕事も失い、肩書きも名声も失い、あるいは家庭さえ失ってしまったときでも、絶望したりせず、自信を失うことなく、苦境を克服するために全身全霊でたくましく攻勢的に挑む姿勢を貫くことのできる人こそが、本当に強い人ではないでしょうか。
 このような人は、おそらく傲慢になることはないでしょう。傲慢になる必要がないからです。人を見下す(そうして自分は偉いんだと人にアピールする)必要がないからです。
 したがって、傲慢さという心の穢れをはらうには、本当の意味で強い人間にならなければならないような気がします。それはもちろん、容易なことではないでしょう。一生をかけて取り組んでいく課題となるでしょうが、私たちが自分以外のなにものにも依存せずに自分を支え、いかなる苦境におかれても断固として前進し続ける姿勢で生きる努力をすることにより、傲慢さという穢れはしだいに焼き尽くされていくのではないかと思います。


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 傲慢さと感謝の心


 前回は、傲慢な人は誠実さに欠けるという話をさせていただきましたが、誠実さと同じくらい、傲慢な人に欠けているものが、もうひとつあるような気がします。
 それは、感謝の心です。
 傲慢な人は、とかく自分の要求を強く表明し、人がその要求を満たすのが当然であるかのように思っているふしがあります。人から何かしてもらっても、有難いという気持ちがあまり湧いてきません。
 傲慢さは心の穢れであり、もっとも醜いものではないかと思いますが、それとは反対に、感謝の心は、清らかであり、もっとも美しいものではないかと思います。誠実さが傲慢さのワクチンであるとしたら、感謝の心は、傲慢さの解毒剤です。
 また、感謝の心と、宗教やスピリチュアルな心というものは、切っても切れないものがあると思います。すなわち、真の宗教やスピリチュアルな道を歩んでいる人は、必ず感謝の心があると思うのです。謙虚であること、誠実であること、そして感謝の心に満ちていること、この3つが、その人の霊格の高さを決めるのではないでしょうか。
 相当深くスピリチュアルな知識があるような人でも、ときどき感謝の心が欠けているように思われるときがあります。いくらスピリチュアルな知識が豊富であっても、感謝の心がなければ、本当にスピリチュアルが何であるかわかっているとは思えません。
 逆に、知識としてはスピリチュアルなことなど何も知らなくても、謙虚で、誠実で、感謝の心に満ちていれば、その人はスピリチュアルな人であると思うのです。
 感謝の気持ちを示す「ありがとう」という言葉は「有難い」から来ているのではないかと思いますが、文字通り「有難い」とは、「めったにない」ということでしょう。人から親切にされたり、助けられたりするというのは、めったにないことであり、にもかかわらず、そうした好意を自分が与えられて当然だと思う心は傲慢なわけです。「自分には、親切にしてもらったり、助けてもらうほどの価値はないのだ」と、(やや大げさですが)感じていれば、ちょっとでも親切にされたり、助けてもらったりしたときなどは、まさに「有難い」という気持ちが湧いてきて、自然と感謝の念があふれてくるはずです。
 自分に無いものに対して不平や不満ばかり口にするのも傲慢なのかもしれません。「自分は恵まれて当然だ」という傲慢な思いがあるから、不平や不満が出るのだと思うからです。自分には無いものに気持ちを向けるのではなく、自分が持っているものに意識を向け、そのことに感謝の気持ちを向けるべきでしょう。多少の難点があったとしても人並みの生活ができるほど五体満足であり、多少貧しくても衣食住に困るほどではないならば、不平や不満よりも感謝の方が先に立つべきです。もし不平不満が先に立つようであれば、その人はたぶん、傲慢なのかもしれません。「こんな自分でも、こんな素敵なものが与えられている、こんな自分でも、一緒に暮らしてくれる人がいる、友達になってくれる人がいる、メールをくれる人がいる……」と思うと、感謝する素材はたくさんあるはずです。
 自戒を込めて申し上げておりますが、私たちは全般的に感謝の心が足りないと思います。それだけ傲慢さを潜ませているのだと思います。もっと感謝しようではありませんか。家族に、友人に、職場の同僚や上司や部下に、ペットに、毎日お世話になっている駅員さんに、レストランのウエイトレスに、縁のあるすべての人に。


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 傲慢さと心の穢れ


「心の穢れ(けがれ)」という言葉がありますが、具体的に心の穢れとは、どのようなことを言うのでしょうか。仏教では、貪欲や怒りや愚かさといった煩悩をさしていると思いますが、その他にも、いろいろあると思います。
 しかし、心の穢れといったとき、その最たるものは、「傲慢さ」ではないでしょうか。すなわち、自分は偉いと思い上がり、他を見下す心です。
 この傲慢さは、自分とは無縁だと思う人がいるかもしれません。確かに、漫画や映画に出てくるような、「俺は偉大だ! おまえらはバカだ!」などと叫んで哄笑するほど露骨で、誰が見ても傲慢だとわかるような人はいないと思います。仮にそこまでやる人がいたら、逆に漫才を見ているようで楽しいです(笑)。
 しかし、自分も他人も気づかない微妙なレベルで、傲慢さというものが心に潜んでいることが多いのです。それが実際には陰湿でやっかいなのです。
 たとえば、今まで係長だった人が課長になったとします。そのこと自体は、単に役割が異なっただけに過ぎないのですが、このとき自分が偉くなったような気持ちを感じたり、人間として高級であるという感じ、優越感のような気持ちが少しでも起こったら、それは傲慢さなのです。
 あるいは、何らかの肩書きや学歴、資格のようなものを取得したときも、そのような気持ちが出たら、傲慢さという心の穢れがあるということです。また、いわゆる社会的に偉いといわれているような職業に就いている場合も同じです。
 こうした傲慢さに知性の低さ(ここでいう知性とは勉強や仕事ができるといった意味ではありません)が加わると、非常にたちの悪い醜悪さが出てきます。会社で上の地位にあるというだけなのに、社会でも上の地位にあると錯覚して、たとえばタクシーの運転手や喫茶店のウエイトレスに対して威張ったり暴言を吐いたりするわけです。
 あるいは、クルマが欲しいとしましょう。そのクルマのデザインや性能が気に入って買うのならいいのですが、「このクルマに乗ったら周りの人から羨望の目で見られるだろう」といった動機があるとしたら、それも傲慢さです。自分という人間までが偉くなったような錯覚を起こし、優越感に浸って、安物のクルマに乗っている人を見ると侮蔑の気持ちが出てきたりします。ブランドのバッグや服、家なども同じです。お金のあるなしで人を見下す態度も同じです。
さらに微妙な傲慢さは、他者に対する怨恨、悪口、批判です。憎しみを抱いてゆるさないことです。なぜなら、程度の差はありますが、私たちは必ず誰かに迷惑をかけて生きているからです。自分だけが迷惑をかけられているということはありえません。お互い様なのです。それなのに、自分だけが正しい、自分だけが被害者であるかのように人を恨み続けるということは、その根底には傲慢さが潜んでいることが多いのです。

 傲慢の反対は謙虚さですが、謙虚さは演技をして「謙虚であるように」見せかけることができたりしますので、あまり当てにはなりません。それより、誠実かどうかを見た方が確実です。傲慢な人は決して誠実ではありません。見下している人に対しては不誠実な対応を平気でします。不誠実な人が必ずしも傲慢とは言えませんが、傲慢な人はまず間違いなく不誠実です。相手しだいで対応が変わり、約束など守らず、言葉と行動にギャップがあります。しかし誠実は人は、誰に対しても態度が変わることはありません。相手が社長であろうと上司であろうと、あるいは部下であろうとタクシーの運転手やウエイトレスであろうと、人間として誠意ある対応をするでしょう。それが真の謙虚さということです。
 もちろん、たとえそういう人でも、ふと傲慢さが顔を出すこともあるでしょうが、最小限に抑えられるはずです。誠実さは、傲慢という病に対する最高のワクチンです。
 いずれにしろ、覚醒にとって、傲慢さという心の穢れは致命的であるように思います。そのために魂は、傲慢さをはぎとるような人生の計画を立てて地上に生まれてくる場合が多いように思います。すなわち、高い地位などから転落したり挫折したり、人々が見下すような仕事をしなければならないなど、いわゆるプライドと呼ばれるものを徹底的につぶされる運命を経験したりするわけです。
 しかし人間は、そのような厳しい経験をすると、文字通り「心が洗われた」ような感覚を覚えるものです。「洗う」というのは、「汚れ」を落とす行為のことですが、まさに心の中の汚れ(穢れ)が落ちて、きれいになった感覚を覚えるのです。このような経験こそが、人生でもっとも「幸運な」経験なのです。傲慢であることがゆるされるような人は、一見すると幸せで恵まれているように見えるかもしれませんが、とんでもない誤解です。人類の霊的進化のプロセスによって、彼らが後にその代償として受けなければならない苦しみを思うと、実に不幸で哀れむべき人であるのです。傲慢であればあるほど、高い場所に登っていることを意味しており、やがてそこから突き落とされることになるわけです。高い場所ほど、落ちたときのショックが大きいわけです。

 傲慢さほど「汚らしい!」と感じるものはありません。汚い服は恥ずかしくて人前で着ることはできませんが、傲慢な人はそれと同じことをしているのです。いかに汚くて恥ずかしい姿をしているか、自分で気づかないのです。
 私たちは、服にほんのわずかなシミがついても、それを着ることをためらってしまうでしょう。同じように、常に心を注意深く見つめ、ほんのわずかでも傲慢さを見つけたら、服や身体に汚物がついたのだと思って、すぐに消すように努力していこうではありませんか。


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 ガンを覚悟して生きる


 ある調査によれば、次のような性格の人がガンになりやすいとのことです。

1 怒りを表出しない。過去においても現在においても、怒りの感情に気づかないことが多い。
2 ほかのネガティブな感情、すなわち不安、恐れ、悲しみも経験したり表出したりしない。
3 仕事や人づきあい、家族関係において、忍耐強く、控えめで、協力的で譲歩を厭わない。権威に対し従順である。
4 他人の要求を満たそうと気をつかいすぎ、自分の要求は十分に満たそうとしない。極端に自己犠牲的になることが多い。

 これを見ますと、典型的な「よい人」ということになります。まさに宗教者の生き方を思わせるものです。人間として立派な生き方ではないかとさえ思います。
 しかし、この調査が言わんとしていることは、怒りやその他の感情を溜め込んでストレスを抱えているとガンになりやすい、ということなのです。
 ならば、いったいどうすればいいのか? と、このような調査結果を見るたびに、私は思ってしまうのです。怒りを我慢したりせず、すぐに当り散らせばいいのか? 仕事や人づきあいにおいて我慢せず、協力的にもならず、自分勝手に振舞えばいいのか? あるいはまた、人の要求を満たそうと気を使わない方がいいというのか?
 でも、そういう人はときどきいます。ワンマン社長だとか、上司などに、こういうタイプの人がいたりするわけです。こういう人は、そのような振る舞いをしてもゆるされるポジションにいるからできるわけです。優位な立場や権威をかさにきて、部下や目下に対して好き放題振舞って虐げているのです。普通の平社員がこんな振る舞いをしたら、すぐにクビになってしまうでしょう。
 こういう人は、自分はガンにはならないかもしれません。しかし、周囲の人にストレスを与えて、周囲の人をガンにさせてしまう人だといえそうです。そんな人間はクズではないでしょうか。
 もちろん、害のない形で怒りや、その他ネガティブな感情をうまく発散できれば、それはベストです。そのために、このブログでもいろいろと考えたりしているわけですが、なかなか容易なことではありません。結局、怒りを爆発させてトラブルを招くか、それとも、怒りを抑圧させてガンその他の病気になるか、そのいずれかの選択しかできないような状況が多いのではないでしょうか。
 人を不愉快な思いにさせるほど自分勝手に生きている人がガンにならず、じっと我慢して人間として立派に振舞っている人がガンになって苦しむというのは、なんともこの地上世界の不条理を感じます。
 けれども、(自分勝手に振舞って不愉快にさせて)人をガンにさせるよりは、自分がガンになった方がいいと、私は思うようにすることにしました。その方が自分の生き方に対して後悔しないからです。いくらガンにならなくても、人を苦しめてきた人生を送ってきたとしたら、それはガンになるよりずっとひどい(精神的な)苦痛をもたらすことになるでしょう。また、人間としても恥です。カルマの問題もあります。ガンにはならなくても、人を苦しめれば、いつかは何らかの形でその報いを受けなければならないでしょう。
 そんな苦痛や恥を味わうよりは、潔くガンになって死んだ方がましであると、そのように覚悟を決めることにしました。実際、上記のガンになる条件は、私自身、だいたい当てはまるように思いますし、遺伝的にも、祖父と父がガンで死んでいます。食事や運動などには注意しているので、その点ではリスク要因は減るかもしれませんが、その他の面を考えると、典型的なガンになるタイプで、そう遠くない将来、ガンになることは間違いないと思っているのです。
 けれども、ある医師の書いた本によれば、人はガンで死ぬのが一番よいそうです。ガンは恐ろしい病気だと思われていますが、抗がん治療などのような不自然なことはせず、痛みを取ることだけをしていれば、ガンというのは眠るように死んでいけます。人はどのみち何かで死んでいく運命なのです。老衰で眠るように死んでいくなどという人は稀です。たいていは事故か病気で死んでいくわけです。実際、3人に1人がガンで死んでいっているわけです。
 以前、がん患者のためのホスピスでカウンセラーとして働いていたとき、まだ30代、40代で死んでいく人たちをたくさん見てきました。そういう人たちに比べたら、50歳を過ぎてこうして生きていられるだけでも、恵まれているのではないかと思ったりもします。

 結局、何が言いたいかといいますと、なるべくネガティブな感情は溜め込まないように工夫していく努力は続けながらも、上記にあげたガンになりやすい性格を否定せず、その生き方が正しいと思ったならば、たとえガンになる可能性が高いとしても、あえてそれを潔く受け入れ、自分が納得する生き方を貫く覚悟をしよう、ということなのです。そのように私は生きようと思っていることを書いたわけです。賛同されるかどうかは、もちろん、皆さんしだいなのですが。


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