心の治癒と魂の覚醒

        

 過去の自分と決別する


 一般的に、歳を取るにつれて、頭は堅くなり、意欲や前向きな姿勢は減退し、人生を開拓していこうという気持ちは色あせ、しばしば希望を失って絶望的になってしまうことがあります。こうしたことは「老化」が原因であるとみなされています。
 確かに、肉体的な老化という要素もあるでしょうが、それだけが原因とは思えません。なぜなら、たとえ老人でも、前向きで元気な人はいるからです。80歳になろうとするのに、新たに習い事を始める人もいます。定年後にビジネスを立ち上げる人もいます。
 では、早々と老けてしょぼんとしてしまう人と、いつまでも若々しい人は、どこに違いがあるのでしょうか?
 いろいろ理由はあるでしょうが、大きな要因はおそらく、これまで蓄積された価値観や信念(思い込み)ではないかと思います。
 すなわち、今まで人生がうまくいってきた過去を持つ人(そういう記憶が蓄積されている人)は、人生というものを前向きに考えられるようになり、そこに可能性(希望)を見出していく意欲や姿勢が生まれてくるのだと思います。こういう人は、頭が堅くなることは少なく、柔軟で、老齢の域に達しても何か新たに始めようという意欲もあるのではないでしょうか。
 しかし、不幸にも、これまでの人生に辛いことが多く、努力をしても報われないことばかりだった過去(記憶)を持つ人は、人生を前向きに考えることはできず、これから新たに何かを開拓していこうという意欲も出てこないでしょう。
 今まで成功体験が多く、何事もうまく乗り越えてきた人は、これからも成功するだろうしうまく乗り越えていくことができるだろうと思うでしょう。しかし、今まで失敗や挫折、不遇の連続であった人は、これからもうまくいかないだろう、乗り越えていくことはできないだろう、人生によいことは起こらないだろうといった、消極的で悲観的に思ってしまうのです。結局、そうした心構えが未来を決めるのです。
 過去というものは、それがよいものであったにせよ、悪いものであったにせよ、もう存在してはいません。ところが、私たちは過去というものが存在するかのように錯覚しているところがあります。それは単なる記憶にすぎません。私たちは記憶によって未来を決めてしまっているのです。
 たとえば、これまで失敗や挫折ばかりの人生を送ってきて、そのことが頭から離れず、絶望的になっている人がいたとしましょう。そんな絶望にとらわれている限り、この人の未来はパッとしないものとなるでしょう。ところが、たまたま交通事故か何かで頭を打って、記憶喪失になったとします。そして、この人に、「あなたのこれまでの人生は、やることなすことすべて成功してきた」と嘘をついたとします。この人はそれを信じ込み、「自分は何をやっても成功する人間なのだ。だから、これからも何であれ必ずうまくいくに違いない」と思うようになったとします。おそらくこの人は、その思い込み通り、これから意欲的に何かを始め、そこそこ成功するのではないでしょうか。
 能力や才能の問題ではないのです。自分をどう考えるか、自分の人生をどう考えるか、なのです。そして、どのように考えるかは、記憶が決めているということです。
 それほど老齢というわけではないのに、早くも老けてしょぼんとしてしまう人の大半は、過去のネガティブな記憶に毒され、縛られているのです。「過去に洗脳されている」と言ってもよいでしょう。「自分は今までさえなかった、だから、これからもさえないだろう」というわけです。
 しかし、これからの人生をさえなくさせているのは、「自分は今までさえなかった」という記憶なのです。そのために、たとえば、ほんの小さな失敗をしただけで「やっぱりそうだ。自分は何をやってもうまくいかないのだ」というように決め付けてしまい、苦い体験の数々を思い出して自分の「信念」は正しいのだといわんばかりに強化させ、ますますネガティブな思い込みに自らを陥れてきたわけです。そうして、自分の可能性、未来の可能性を、自ら台無しにしてきたのです。
 過去が失敗や挫折ばかりだからといって、これからもそうなるという根拠はまったくありません。そのことは偉人の伝記を見ればよくわかるでしょう。リンカーンなどはやることなすこと失敗や不運ばかりでしたが、最後には偉業を成し遂げました。しかしもし彼が過去のネガティブな記憶にとらわれていたら、今日のリンカーンは存在していなかったでしょう。
 ですから、絶望し、未来に希望が持てないという人は、今日限り、過去の自分と決別するべきです。生まれ変わったように、別人として生きるのです。過去のことを思い出すのはやめましょう。思い出しても、その過去は自分ではない誰か他の人のことだと考えましょう。そうして人生をリセットし、今から人生が始まるのだと考えましょう。
 そのうえで、いま置かれている現状や問題点を冷静に分析し、対策を立て、希望と目標を持って明るく努力をしていくことです。そうすれば、今までは予想もできなかったすばらしい未来が創造されていくはずです。

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 禅僧としての親鸞


 皆さんご存知のように、親鸞という禅僧がいました。そういうと、首をかしげる人がいるかもしれません。「親鸞は浄土真宗の僧侶であって、禅僧ではなかったはずだ」と。
 確かに、宗教学的な分類ではその通りです。彼は、「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われると説いた浄土宗の開祖法然の弟子であり、禅僧ではありません。
 けれども、彼の教えの真髄は、禅の発想に極めて近いのです。
 禅というのは、座禅や瞑想のことではなく、目的と手段を一致させた意識状態のことです。座禅は「悟りを開く目的で行う修行法」という捉え方はしません。「座禅そのものが悟りの表現である」という姿勢です。中国における禅の開祖のひとり慧能(えのう)などは、「座禅なんてしたって悟りは開けない。座禅などをするのは病気だ」といった意味の言葉を残しています。これはすごい言葉だと思います。禅の高僧が座禅を否定しているわけです。
 しかし、この場合の座禅というのは、「悟りを開くための手段」として行う座禅のことであり、そのような座禅を「病気だ」と言ったわけです。座禅そのものを否定したのではありません。
 要するに、「悟りを開くために修行をする」という発想そのものが、悟りを妨げているということなのです。「何かのために何かをする」という、目的を得るために手段に訴えるという発想は、方法論と呼ばれます。これは物質的な世界では常識です。何かを得るためには、その手段として何かをしなければなりません。医者や弁護士になろうとするならば一生懸命に勉強しなければなりません。当たり前のことです。
 ところが、悟り(覚醒)の世界では、この常識が通用しないのです。というより、その常識を超えなければならないのです。方法論ではダメなのです。目的と手段という分離があってはダメなのです。
 方法論といえば聞こえはいいのですが、悪くいえば、「交換条件」であり「打算」です。
「私は一生懸命に座禅をします。南無阿弥陀仏と唱えます。その報酬として悟りを与えて下さい。救って下さい」という発想は、打算的な発想です。
 打算がある限り、愛はありません。愛とは、打算を超えた自他一体感のことだからです。つまり、愛がなければ、悟り(覚醒)を得ることはできないのです。愛のない心でいくら座禅をしようと、南無阿弥陀仏を唱えようと、瞑想しようと、神に祈ろうと、その他、いかなる修行をしようと、何にもならないのです。
 そして大切なことは、愛というものは、「頭」に宿るものではないということです。愛についての理屈をいくら知っていても意味がありません。それは「絵に描いた餅」にすぎません。愛というものは、胸(ハート)に宿るのです。それは考えるものではなく、感じるものです。理屈を超えたものです。ですから、悟り(覚醒)というものは、頭で得るものではなく、最終的にはハートで得るものなのです。
 親鸞は、救いを得るために、法然のもとで念仏を唱えました。しかし、いくら唱えても、救われたという実感が得られませんでした。それは方法論に基づく念仏だったからです。つまり、「念仏を唱えるという行為の報酬として救いを与えて下さい」という方法論であり、交換条件であり、打算だったわけです。しかし、そこには愛はありません。
 絶望した親鸞は、結局、どうなったかというと、「たとえ念仏を唱えても救われず、それどころか地獄に落ちてもよい。法然師匠にだまされてもいい」と思うようになりました。 それほど、法然に対する強い思慕(愛)があったわけです。この愛が、「念仏を唱えて救われなくてよい」という発想に導いたと思われます。
 この発想は、方法論を超えています。
 では、何のために念仏を唱えるのか? 念仏を唱えても救われないかもしれないとしたら、念仏を唱える意味はないことになります。
 こうした疑問は当然ですが、それは「頭」が起こす疑問なのです。
 親鸞は、「念仏など唱えても唱えなくてもいい」と言いました。仏様は、念仏を唱えても唱えなくても、私たちを救って下さるのだとしたのです。しかし、そのように無条件で打算を超えた仏様の慈悲(愛)を受けたならば、人間としては当然、「ありがたい」という感謝の気持ちが湧いてくるはずです。その感謝の気持ちの表明として念仏を唱えるのだと言ったのです。いわば、念仏とは「仏様、ありがとうございます」ということになります。
 このような発想は、頭では理解できません。頭はどうしても方法論(打算)から抜け出すことができないからです。ただハートだけが、理解できるのです。
 換言すれば、愛の心だけが、親鸞のこうした発想を理解できるのです。そうして、何が起ころうと、ただ「ありがたい、ありがたい」という感謝と愛の気持ちで生きていくことになるのです。
 そのように、すべてのものが「ありがたい」と思えるようになったならば、それが悟りであり覚醒ということになります。悟りや覚醒というと、何やら超人のようになることだと勘違いされているふしがありますが、そうではありません。いたって単純なことです。何があっても「ありがたい」と思い、すべてのことを愛をもって受け入れることができたなら、それが悟りを開いたということであり、覚醒したということなのです。
 以上のように、親鸞は方法論を超えました。それが禅の発想であるがゆえに、私は彼を「禅僧」と呼んだのです。彼が行ったのは「座禅」ではなく「念仏禅」だったのです。
 もちろん、親鸞が禅僧であったとかなかったという話などは、どうでもいいことです。大切なことは、打算を超えて「ハートで修行すること」、いえ、「修行」というより、ハートで「生きること」、ではないかと思われるのです。すなわち、愛をもって生きるということです。それがおそらく覚醒に至る道です。

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 レッテル貼り


 いま放映しているNHKの連続テレビ小説には、人の心を読むことができる青年が登場しているのですが、その青年が精神科医に診てもらったところ「統合失調症」と診断され、しばらく薬を飲んでいた……という展開になっているようです(ときどきチラリとしか見ていないので詳しい内容は知らないのですが)。
 精神科医が(もちろんすべてではないでしょうが)、いかにでたらめな診断や薬の処方をしているかということが、最近、数々の本やマスコミなどで糾弾されていますが、実際、本当にこれが医者か?と疑うような人もいるようです。
 それはさておき、統合失調症という診断は、しばしば誤診されることが多いようです。たとえば、他に精神的ストレスがあって、そのために統合失調症に似た状態に一時的になっているだけなのに、それで統合失調症と診断され、ずっと薬を服用させられたりするわけです。しかし、一度薬を常用すると、それを止めるのはとても難しくなり、薬自体の副作用のために、本当に異常になってしまうこともあるようです。
 それと、霊的な感性を持った人が、やはり統合失調症と診断され、薬でつぶされてしまうことも少なからずあるようです。確かに、霊的な世界を認めない精神科医にとっては、理解不能なことを口走っていたりすれば、それで精神病扱いされてしまうのは、無理もないといえば無理もないでしょうが、これは無知からくる重大な「医療過誤」ではないかと思います。
 ところが、沖縄などでは、ユタと呼ばれる霊能者がいて、ユタとなる運命を持った人は、一時的に統合失調症のような状態になったりするわけです。みんながそのことを古くから伝統的に知っているため、安易に精神病だなどと決めつけず、それなりの世話や導きをするので、結局、最後にはまともになり、霊能者として活躍できたりするわけです。
 ところが、そのような伝統や理解がない場所では、霊的な一時的プロセスによる症状なのに、それを精神病と診断されて薬漬けにされ、結局廃人のようにされてしまう例が、非常に多いように思います。
 NHKのドラマで、青年が「こんなもの!」といった感じで精神科医からもらった薬をゴミ箱にたたきつけるように投げ捨てるシーンがありましたが、これはある意味、大胆なシーンではないかと思いました。精神科医や製薬会社がそのシーンを見たらどう思うかと想像してみると、NHKはけっこう大胆なことをするなあと感心いたしました。
 私はもちろん、薬は一概に否定するつもりはありませんが、乱用には反対ですし、実際、乱用されている傾向が強いように思います。
 一度、「統合失調症」だと診断されると(レッテルを貼られると)、そのように扱われ、また自分でもそのように自分を見なして、ある種の見えないヒモで自分を縛り上げてしまうようになります。その他、自閉症だとか、アスペルガー障害だとか、いろいろな診断というか、レッテルを貼る傾向があります。
 レッテル張りは、対象を明確にしてアプローチしやすくなるという利点はあるのですが、程度も質も違う人たちをひとつのカテゴリーに押し込めて同じ扱いをしてしまうという危険もあります。アスペルガー障害などという言葉がない時代では、そういう子供は「ちょっと変わった子」として、とくに差別されることもなく、それなりに受け入れられて何とかやってきたものです。もちろん、あまりにも程度が重症な場合は特別な対応は必要でしょうが、軽度にもかかわらず、アスペルガー障害があるからといって、特殊学級に入れるといったやり方には、私はあまり賛成できません。
 統合失調症だって、よほど生活に支障があるほどでなければ、「ちょっと変わった人」に過ぎないのではないでしょうか。
 そして、世の中というものは、「ちょっと変わった人」もいるくらいの方が健全なのではないでしょうか。何もかもがみんな同じであり、異質な人は排除するべきだという風潮が強すぎるように思います。「ちょっと変わった人」であれば、人はそれなりにつきあっていくでしょうが、「統合失調症」とレッテルを貼られた人に対しては、多くの人は思わず引いてしまうのではないかと思います。
 イタリアは、確か精神病院がありません。バスに乗っていても、あきらかに頭のおかしい人がいて、へんなことをぶつぶつ口走っていたりするのですが、他の人はそれで差別したり身をひいたりせず、むしろ、気安く声を掛けて話をしていたりするそうです。
 精神病者は何をするかわからない危険な人物だ、というのは誤解です。統計的にも、精神病者が起こす殺傷事件と、健常者が起こす殺傷事件を比較すれば、健常者が人を傷つけたり殺したりする方がずっと多いのです。
 少し変わった人、奇異な人を、やたらに神経質に排除しようとする「健常者」たちの方が、むしろよ精神的に病んでいるのではないでしょうか。
 世の中というもの、人生というものは、へんなたとえで恐縮ですが、あらゆるものを入れた「煮込み鍋」のようなものです。いろいろな食材が入っているから、いろいろな味を楽しむことができ、さまざまな食材の栄養が溶け込んだ汁にも、独自の味わいが出てくるのです。白菜しか入っていない鍋など、おいしくも何ともないはずです。
 ちょっとくらい変わっていても、それを「病気」などと決めつけることなく、ひとつの個性として、みんなで受け入れてあげればよいのです。そうすれば、それがたとえ実際に精神病であったとしても、自然に癒されていくと思います。「精神病」だとレッテルを貼り、精神病者扱いし、自分も精神病者だという自覚を持つから、精神病は治らないのです。
 もし自分は「人生の落伍者だ」とレッテルを貼れば、その通りになり、そのままとなるでしょう。自分は「ダメな親だ」とレッテルを貼れば、その通りになり、そのままの状態になるでしょう。
 いかなる否定的なレッテルを、人や自分に貼り付けるべきではないのです。

心の治癒 | コメント:4 | トラックバック:0 |

 日々の積み重ね


 あえて申し上げるまでもなく、「日々の積み重ね」というものは、とても大切です。それは良い意味でも悪い意味でもです。
 よい意味でいえば、たとえば毎日少しずつ何かの勉強をするとか、運動をするとか、貯金をするといったことです。もちろん、瞑想その他の修行にもいえます。一日の量は微々たるものであっても、何ヶ月も何年もたつうちに、いつのまにか、かなりの大きさになっていくのです。ですから、小さなことは決して馬鹿にしてはいけないのです。
 同じことは、悪いことにもいえます。毎日深酒をするとか、脂肪や糖分が濃厚な食事を続けるといったことをしますと、しばらくは問題ないかもしれませんが、長く続けば、ついには肝臓を壊したり、糖尿病になったり、生活習慣病になったりするわけです。
 よく、保険などのコマーシャルで、「一日あたりわずか200円の保険料!」といった宣伝文句をみかけます。これは保険料を安く思わせるトリックなわけです。一日200円というと、とても安く感じられますが、一ヶ月にすれば6千円、年間では7万2千円、10年では72万円となります。10年の間に、72万円を超えるほどの入院費や治療費などを払わなければならなくなる確率は、かなり低いのです。ところが人は「もしも」という未来に対する恐怖心を抱く傾向がありますから、たくさんの人が保険に入ります。そのために、保険会社は一等地に立派なビルを建てたり、経費のかかるテレビコマーシャルなどをガンガン流すことができるのです。
 それはともかく、日々の積み重ねの大切さは、心の内面にも当てはまります。
 たとえば、毎日私たちはどれくらい、愚痴や不満、批判や悪口、悲嘆や悲しみ、怒りといった否定的な考えや感情に時間を費やしているでしょうか? 一回の時間は数秒か数分かもしれませんが、一日何回も繰り返せば、トータルではかなりの時間を、否定的な思いで心の中を満たしていることになります。
 それはおそらく、私たちが想像するよりずっと長い時間になっているのではないかと思います。仮に、それが一日10分だったとしましょう。一ヶ月では300分、つまり5時間になります。一年では、60時間になります。
 否定的な考えや感情は、自らの人生を不幸にすることはあっても幸運にすることはなく、心身に悪い影響を与えることはあってもよい影響を与えることはありません。毎年60時間も、人生や心身に悪影響をもたらすことに時間を費やしていると思うと、ゾッとするのではないでしょうか?
 ですから、たとえ一日の単位で見れば微々たるものであったとしても、年間にすれば相当な量になるのだということを忘れず、毎日、行動においても思考においても、自分のためにならないことは、たとえわずかでもゆるすことなく、可能な限り排除していくという姿勢が大切です。
 そして、人生や心身によい行動やよい思考をすることです。たとえわずかでも構いません。年間にすれば、相当な量、自分の人生や心身によい影響を与えることになるからです。
 以上のように、毎日の「わずかなこと」を決して軽く見てはいけません。小さな悪を甘く見るとついには致命的な結果を招くこともあります。逆に、小さな善を大切にするならば、ものすごく大きな報いとなってかえってくるのです。
 毎日の自分の行動、思考を総点検してみることをお勧めします。

 
修行の基本的な姿勢 | コメント:7 | トラックバック:1 |

 苦しまずに成長(覚醒)するには


 ここ最近、「苦しみは人を成長させる」といったお話をさせていただいておりますが、誤解のないようにいえば、「苦しまなければ成長しない」という意味ではありません。「成長(覚醒)のためには苦しまなければならないのだ」という思い込みは正しくありません。
 理想的には、「苦しみなくして成長する」ことです。明るく楽しく笑いながら成長していくことが一番です。何を好き好んで苦しむ必要があるでしょうか。
 とはいえ、理想はあくまでも理想であって現実ではありません。私は常に現実から目をそらさない姿勢を貫こうと思っておりますが、その姿勢でさまざまな人の人生を見るならば、やはりまったく苦しみなくして成長することは、ほとんど不可能に近いと思わざるを得ないのです。
 いろいろと人の悩みを聞くような仕事をしてきているせいか、世の中には苦しみを抱えた人が何と多いことかと、つくづく思います。人の抱える苦しみというものは、はたからはなかなかわからないものです。表面的には幸せそうに見えたりします。しかし、相談を受けるなどして内情を聞きますと、本当に大変な苦しみを抱えている人が多いのです。
 たまたま先日も、用事があって実家に行ったのですが、その実家の隣には立派な家が建っています(ちなみに実家は古くておんぼろです)。その家の奥さんは中小企業の社長をしており、長男は近くで医者をして自分の医院を持っています。駐車場には高級車が2台とまっています。これだけを見ると、本当に恵まれた家族のように思われるのですが、実家の母が近所の人から聞いた話によれば、その奥さんは子供が3人いたのですが、医者をしている長男は実の息子ではないそうです。そして、次男はまだ若いときに自宅で首を吊って自殺したそうです。それにショックを受けた父親(つまり奥さんの夫)は、大酒を飲むようになり、アルコール中毒になって、ついには酔ってどぶ川に転落して亡くなってしまったそうです。末っ子は特に問題なく長男の医院で事務をして働いていますが、奥さんの会社が経営が思わしくなく、また、長男の医院も評判が悪くて患者がこないようです。実際、いつ見ても、医院の駐車場にはほとんどクルマが止まっていません(つまり患者が来ていない)。それで、そうした理由なのかどうかはわかりませんが、うわさでは、今住んでいる屋敷を売りに出しているということです。
 このように、人間というものは、人知れぬ苦悩や闇を抱えていることが少なくないのです。表面的にはわからないことが多いわけです。
 それはともかく、苦しみは避けられないとはいえ、必要以上の苦しみを受けることは正しい生き方ではありません。苦しんでも、心がけが悪ければ、苦しみの経験を成長の糧にできないことが多いのです。人生の目的は苦しむことにあるのではなく、成長することにあるのですから、成長を心がけることで、余計な苦しみを経験せずして成長していくことは十分に可能なはずです。
 人間が成長のために苦しむ最大の理由は、おそらく傲慢さの消滅にあるのではないかと思います。
 仮に、人生が何もかも自分の思うとおりにうまくいったとしましょう。そうしたら、ほとんどの人は傲慢になり、感謝の気持ちもなくなってしまうと思います。実際、私はそのような人々もけっこう眼にしてきました。恵まれている人は、露骨であるか隠されているかはともかく、唯我独尊的な傲慢さがあり、謙虚さが希薄で、感謝ということもあまりないのです。
 しかし、これでは成長というものが望めません。
 そのために、そうした傲慢さをつぶす目的で、苦しみが訪れるのではないかと思うのです(もちろん、それだけが目的ではないと思いますが)。そうして、嫌というほどプライドを叩き潰されることで、傲慢さがなくなって謙虚になり、感謝の気持ちも出てくるわけです。
 ならば、これを逆に考えればよいのではないでしょうか。
 つまり、謙虚さと感謝の気持ちを決して忘れないようにして生きるのです。そうすれば、少なくとも、そのために訪れる苦しみは避けられるようになるのではないでしょうか。それだけでも、かなりの苦しみを回避することになるのではないかと思われます。
 謙虚に生きる、感謝の気持ちを持って生きる、これが、苦しみ少なくして、明るく楽しく成長(覚醒)していくための、もっとも大切なポイントであると思うのです。

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 真の宗教とスピリチュアル


地上人生の目的は、魂を成長させること、そのための学びであり、別の表現をすれば、魂の汚れを落として、魂が持つ輝きを発揮させるためにあるのです。そして、このような人生の目的を達成させるために、宗教があり、スピリチュアルな教えが存在しているのです。
 ところが、宗教やスピリチュアルな教えの中には、現世利益を説いていて、魂の成長や浄化などは、おまけ程度にしか説いていないものがあります。
 しかしこれが、一般大衆の本音なのでしょう。毎年年末年始ともなれば、大勢の人々が神社仏閣に押し寄せてきます。そのうちどれだけの人たちが、魂の成長や浄化のためにやってきているでしょうか?
 ほとんどの人は、お金が入りますようにとか、健康でありますようにとか、受験が合格しますようにとか、結婚相手が見つかりますようにといった、物質的な欲望を叶えることばかりを目的にして訪れ、そのために、賽銭箱にお金を投げ入れるのではないでしょうか?
 要するに、物質的な欲望を叶えてくれるものであれば、相手は神であろうと仏であろうとかまわないのです。お賽銭箱というのは、お金を入れれば願望を叶えてくれる「自動販売機」になっているのです。
 ニューエイジなどのスピリチュアルな世界では、一見すると魂の成長や浄化については説かれていますが、それでも巧妙に現世利益を煽るようなことが書かれてある本が売れたりするわけです。それは露骨に「お金が儲かる」といったものではありません。
 たとえば、「これだけのお金を払えば、聖者のエネルギーを受けられて修行しなくても覚醒できる」などとうたっている教団などは、形を変えた物質主義にすぎません。「お金」が「覚醒」に変えられただけです。「楽をしてお金が儲かる」などといって勧誘する投資詐欺や悪徳商法と本質的には変わりません。そのような形で覚醒を求める人たちは、覚醒というものを誤解しているのです。覚醒をすれば、何らかのエゴが満たされると思っているので、手っ取り早く、そのような教団の宣伝文句にだまされてしまうのです。
 しかし、真の宗教やスピリチュアルというものは、そうした現世利益への欲望を断ち切り、ただ魂の成長と浄化のために生きることなのです。そのために、神仏は力を貸してくれるでしょうが、基本的には自力的な努力が必要です。自分は何もせず、のほほんとして、お金を払って「聖者」の近くにいて覚醒をしようなどという、ある種の「乞食根性」のようなものを抱いていて、どうして魂が成長するでしょうか? どうして魂が浄化するでしょうか?
 魂を成長させ浄化させるものは、苦しみと(真実の)愛だけです。ただ残念なことに、真実の愛というものは、なかなか得難いのです。たとえ真実の愛に出会えたとしても、ある程度苦しみによって魂が浄化されていなければ、それを真実の愛であるとわからないのです。そればかりか、偽りの愛を真実の愛だと勘違いするようになってしまいます。「お金を払えば会う」ような「聖者」が、真実の愛を持っていないことは明白です。それらしい衣装をまとい、それらしい笑顔を振りまけば、その雰囲気にだまされて慈愛深い真の愛があるかのような妄想を抱いてしまうかもしれませんが、それは冷静に考えればインチキだとすぐわかるのに、その場の雰囲気や言葉によって本当に儲かると確信させてしまう悪徳商法と本質的には同じです。
 愛を別にすれば、苦しみこそが私たちにとって真のグルなのです。私たちのエゴというものは、相当に頑固なので、高いレベルの守護霊や指導霊ほど、厳しい苦しみを与えます。
 私が個人的に知っている女性の霊能者がいました。その人はお金を受け取ることなく霊視しており、驚くほど的確なアドバイスをしていました。その霊能者は修行時代、家族と離れたところで修行していたとき、「子供が病気で死にそうだからすぐに家に帰ってこい」という電報をもらったそうです。それで、家に帰ってよいかと守護霊に伺いを立てたところ「ダメだ」という返事がかえってきました。結局、その霊能者は、子供の死に目にあえなかったのです。これは、子供に対する執着を断ち切らせようとしたのだと思いますが、それにしても、あまりにも過酷です。
 けれども、これが高級な守護霊(指導霊)がすることなのです。もちろん、耐えられないほどの苦しみが与えられることはないでしょう。その人の器の大きさというか、強さというものがあるからです。しかし、かなりぎりぎりの苦しみが与えられることはあります。それに耐えきれず、つぶれてしまうことも現実にはあるでしょう。それはある意味では守護霊の誤算だったと言えなくもありませんが、可能性としては耐えられるはずのものだったのです。
 いずれにしろ、私たちはそのようにして、魂を成長させ、魂の汚れを落として修行をしていく存在なのです。このことを知れば、世の中に蔓延している多くの「宗教」、「スピリチュアル」、そして教団というものが、いかにデタラメであるかが、すぐにわかるはずです。現世的な物欲から離れるように導くのが宗教やスピリチュアルの使命なのに、それとは逆に、物欲を煽るようなことをしていたりするのです。
 その物欲のなかには「覚醒」も含まれます。逆説的ですが、「覚醒したい」という欲望(執着)もまた、姿を変えた物欲なのです。もちろん、覚醒したいと思わなければ修行も始まらないので、最初の動機としては必要なのですが、覚醒したいという欲望をなくして、いっさいの報酬も目的もなく、「ただ修行生活をする」というレベルにまでもっていかなければならないのです。

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