心の治癒と魂の覚醒

        

 クリスマス


 私は毎年、クリスマスのときになると、同じことを書きます。それは人からひんしゅくを買うようなものなのですが、今回も懲りずに書きます(笑)。
 クリスマスにお祝いをしたり、楽しんだりすることはけっこうなことです。しかし、世の中にはそのようなことをしたくてもできない人がたくさんいるということを忘れないようにしましょう。この寒い夜に、凍えている人がどれほどたくさんいて、食べ物にも困っている人がどれほどたくさんいることでしょうか。あるいは、あたたかい部屋で過ごし食べ物には困らないとしても、ひとり寂しく過ごさなければならない孤独な人が、どれほどたくさんいることでしょうか。病気やさまざまな苦しみで、それどころではないという人が、どれほどたくさんいるでしょうか。そういう人たちにとって、世間が浮かれ騒ぐような日というのは、ことさら辛く感じるものなのです。
 人生というものは、「自分だけ楽しければいい、自分だけ幸せならいい」というものではありません。どんなときも、常に自分より不幸せな人が世の中にはいるんだという認識を持つべきです。それが「人間として」生きる意味です。ですから、どんなに幸せであっても、楽しくても、これみよがしに浮かれ騒ぐのはよろしくないと思うのです。
 私はこのように、せっかくの楽しいクリスマスに水を差すようなことを言って嫌がられておりますが、自分自身がひどい絶望と苦しみのどん底に突き落とされたと想像してみてください。人生というものは、いつそんな状態になるか、わからないものです。そんなとき、街中で浮かれ騒いでいる人たちを見たら、どのように感じるか、想像してみてください。そうすれば、浮かれ騒いでいるクリスマスの日というものが、いかに冷たく残酷であるかということが、身に染みてわかることでしょう。
 このようなことは、イエス・キリストの真意とはまったく反することです。単なるお祭り騒ぎのクリスマスは、イエスの真意をまったく反映していません。
 こう書くと、クリスマスはイエスの誕生日ではないとか、もともとは暗い冬至が明けたことに対する祝いの名残だなどということを言う人がいますが、そのようなことは的はずれな意見です。歴史的な事実がどうであろうと、クリスマスがイエスと結びつけられていることは一般に認識されているのですから、クリスマスを祝うのであれば、イエスを抜きにしては考えられません。そしてイエスは何を望んでいるかというと、苦しい人々を慰め、救うということです。
 だいたい、クリスマスを祝えるような人々は、普段からおいしいものを食べたり宴会をしたり、欲しいものを買ったりして、物質的な享楽は十分に堪能しているのですから、逆にクリスマスの日だけは、そういうことをせずに、世の中の苦しんでいる人に思いを寄せる日にした方がよいのではないかと思います。
 クリスマスの日というのは、イエスがそうしたように、「愛と慈悲を施す日」であるべきです。恋人や家族だけを愛するのではなく、世の中の日陰で目立たないところにいる、もっとも愛を必要としている悲惨な人たちに愛を向ける日であるべきです。そういう人たちが救われるようにと祈ったり、できれば何か行動してあげたりするべき日です。

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 毎日を大切にする


 人間は、辛いときや悲しいときほど、人生について考え、神に思いを向けたり、霊的な事柄に関心を寄せるようになります。しかし、これといって辛いことも悲しいこともなく、何をしても恵まれて満たされた生活をしているときというのは、まず人生について深く考えることはありませんし、まして、神に思いを向けたり、霊的な事柄に関心を寄せることは稀でしょう。それどころか、なかには高慢になったり利己主義に陥ってしまうこともあります。
 後になって振り返るなら、辛いときや悲しいときほど、人間性や霊性が進歩したときはないということがわかるのです。そのときは苦しくても、後になってみれば、霊的に見て実はもっとも実りある有意義な生き方をしていたということがわかるのです。
 決して人の生き方をとやかく言うつもりはありませんが、テレビをつければ、くだらない番組ばかりです。なかにはよい番組もありますが、低俗でくだらないものが多いです。そんな番組を毎晩のように見てケラケラ笑っている人生など、貴重な人生の時間の無駄であると思います。たまに見て気晴らしをするのはよいとしても、年中、そんなくだらない番組を見ているのは、せっかくこの地上に生まれてきた目的を台無しにしているようなものです。見ている最中は面白いかもしれませんが、見終わった後に何が残るでしょうか?
 あまりにも未来のことばかりを考え、現在に目を向けないのも考えものですが、現在にだけ目を向けて未来がどうなるかを考えないのも問題です。結局、未来とは今日の積み重ねだからです。毎日一生懸命に勉強を積み重ねている学生は、受験に合格し希望の学校に入学し、また将来は希望する生き方ができる可能性が高くなるでしょう。しかし、毎日勉強もせずにくだらない番組を見てケラケラ笑って過ごしているならば、将来に対する何の積み重ねもありませんから、後になってその怠惰の代償を払わなければならないことになるのです。
 どんなにわずかでもよいので、自分を成長させていく努力を毎日重ねることです。それが未来を創造していくということです。輝かしい未来は、偶然に突如として目の前に現れることはありません。そのための地道な努力の積み重ねによって必然的に生まれてくるものです。貯金と同じです。コツコツ貯金をしていないのに、預金通帳の金額が増えるはずがありません。
 毎日、充実した時間の使い方をしていれば、必然的に未来も充実した明るいものとなるのですし、毎日、くだらないことに時間を費やしていれば、それなりの未来しか待っていないことになります。ですから、未来を構築するレンガである一日一日を大切にし、地に足をつけて充実したものにすることが大切なのです。
 その場合、世間的な意味で楽しいときよりも、辛さや悲しみ、悩みを抱えていたときの方が、冒頭で述べたように、人生を真剣に考えたり、神や霊的な事柄に関心を寄せるようになりますので、成長が促進され、一日一日が有意義なものになっていくことが多いのです。今は気づかなくても、いつかそのことがわかるときが来るはずです。逆説的ですが、霊的な真実から見れば、人生が楽しいときほど危険なときです。人間性が知らないうちに堕落して道をそれることがあるからです。むしろ、人生が苦しいときの方が、実は安全なのです。自暴自棄にさえならなければ、魂が着実に成長し、地上に生まれてきた本来の目的にかなった道を歩むようになるからです。


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 じりじり主義


 霊界で過ごす膨大な時間に比べたら、この地上人生はほんの一瞬くらいの感覚だそうです。霊界での生活がメインであり、この地上人生の生活は、旅人の一夜の宿のような、仮の生活にすぎません。地上人生の目的は、ここでなるべく魂を浄化し、成長させることで、本来の生活である霊界での長い人生を、より幸せにすることにあるとされています。
 霊界での幸せは、地上の幸せとは比較にならないといわれています。地上で「これ以上幸せなことはない」といえるほどの喜びであっても、霊界の幸せに比べれば、カスのようなものらしいです。不幸や苦難の連続で、辛く厳しい人生を歩んできたとしても、(そのために魂を浄化できたことで)霊界での幸せを得たときには、今までの苦しみを補ってもなお十分に報われるほどの満足感と喜びに満たされるといいます。
 魂の意識では、地上人生というわずかな時間を(浄化と成長のために)苦しみさえすれば、その何倍も何百倍も長い霊界での生活が、何倍も何百倍も幸せなものになるとわかっているので、多くの魂たちが、苦しみや悲しみや試練を受ける人生を選択して生まれてくるのです。
 しかしながら、肉体意識のレベルでは、そういう事情はまったく自覚できません。たった一回の地上人生だけがすべてであると思い込んでいます。地上人生を精一杯幸せに生きなければソンだと考え、(霊界で幸せな生活を送るために必要な)魂の浄化や成長などに重きをおかず、それどころか、そうしたものを犠牲にしてまで、はかなくも短い地上人生の快楽を得ようとしているわけです。それがどれほど愚かなことであるかは、死後に霊的真実を知ったときにわかるのですが、そのときではもう遅いのです。たった百円のお金が欲しいために、一億円当選の宝くじを百円で売るようなものです。
 とはいえ、そうした事情を知らず、地上人生の苦しみを味わっている私たちからすれば、魂の浄化だとか成長などよりも、とにかく一分でも早く苦しみから解放されたいと思うほどの辛さを背負っている場合が少なくありません。死後の生活のことなど、遠い先のことであり、現実感が薄いのです。死ぬまでには、まだまだ長く生きて苦しみ続けなければならないと思うと、気が滅入ってしまうのです(とはいえ、人間、いつ死んでしまうかわかりません。明日生きている保障はないのです)。
 こういうときは、「少しでもよい方向に向かって努力しよう」という気持ちが大切です。どんなに辛く苦しくても、ほんの少しだけなら努力できるはずです。ほんの少しでいいのです。私はこれを「じりじり主義」と呼んでいます。いっぺんに大きく変えようと思うと無理が生じてきますし、誰もができるわけでもありません。それよりも、じりじりと、ほんのわずかでもよい方向をめざして進んでいくのです。カタツムリのように、進んでいるのかいないのかわからないくらいでもいいのです。とにかく、じりじりと進んでいけば、結局、いつのまにかその努力は大きいものになっていくからです。カタツムリといえども、じりじりと進んでいけば、いつのまにか遠くまで移動しているものです。
 たとえ何も成長していないように思えても、苦しみを味わうだけで、魂が浄化しているのです。つまり、苦しみにじっと耐えるというだけで、来るべき霊界の幸せな生活に向かって進んでいることになるのです。ただ苦しいばかりのときは、「ああ、私はこうしてどんどん清まっている、霊界の幸せがどんどん大きくなっている」という思いを抱いて、耐え忍ぶことです。
 苦しいときは時間が長く感じられますが、それでもひたすら耐え続けていくなら、いつのまにかあっという間に時間は過ぎてしまいます。苦しいときは「一日は一週間より長い」のですが、同時に「一週間は一日より短い」のです。これはナチス強制収容所の地獄の生活を生き延びた精神科医フランクル(と囚人たち)の言葉です。
 地上人生の苦しみのために、投げやりになったり、いじけたり、霊界の幸せな生活を台無しにするようなことをして後退してはいけません。そんなことをしても、せいぜい、つかのまの慰めが得られるだけで、全体的にはかえって悪くなってしまいます。あくまでも前進することです。魂の浄化と成長のために、じりじりと耐えながら前進していくことです。じりじりと前進するしか、他に歩む道はないのです。
 たとえ、その道はいかに険しくても、その先には、想像を絶するほどの幸せが待っているのです。じりじり主義が、最後には勝つのです。


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神を愛するとは?


 インド系の宗教では、解脱に導いてくださるよう守護神に祈るとか、グルを敬愛せよとは説かれていますが、「神を愛せ」とは説かれていないようです。インド系の宗教では、神というものは非人格的な宇宙法則のようなものと考えられているからかもしれません。
 一方、ユダヤ・キリスト教では、「神を愛せ」ということが非常に強調されています。神を愛することが信仰や修行の中核にあるといってもよいでしょう。
 では、実際のところ、私たちが覚醒(悟り、解脱、救い)を得るためには、神を愛することは必要なのでしょうか?
 この場合、そもそも「神とはいかなる存在か?」ということをまず明確にしなければ、この問いには答えられないかもしれません。しかし、その問題を扱うときりがないので、とりあえずここでは、「私たちを助けようとしてくれる高い霊的次元の人格的な存在」と定義しておきたいと思います。
 さて、覚醒するために、そのような神を愛することは必要なのでしょうか?
 しかし、このように問いかけたとき、さらにもうひとつ明確にしなければならない問題が生じてくるのです。
 それは、「愛とは何か? 愛するとはどういうことか?」です。
 いうまでもなく、(真実の)愛は、単純に「好き」という気持ちではないでしょう。「神を愛する」とは「神のことを好きになる」という程度の意味ではないわけです。
 ならば、神を愛するとは、具体的にどのようなことをさしているのでしょうか?
 神を愛するとは、究極的な意味では、「神とひとつになる」ことではないかと思います。
 もともと、私たちの本質は神に由来しているのです。私たちは神の子なのです。人間の子が人間であるように、神の子である私たちは神なのです。
 ところが、私たちはまったく神らしくありません。ほんの少数の聖人と呼ばれる人を除いて、私たちはあまりにも不完全であり、低俗な欲望にまみれ、憎しみ、罪を犯し、くだらないことに埋没しています。神が持っているであろう高貴なる性質がめったに発揮されていないのです。
 こんな状態では、当然のことながら、「神とひとつである」などと言えません。
 したがって、神とひとつになる、つまり、神を愛するとは、「神の性質を発揮して生きる」ということになるのではないでしょうか。
 神は、愛、寛容、忍耐、たくましさ、勇気、叡智、明るさといった、あらゆる美徳を備えているはずです。そのような美徳を自分の美徳とし、その美徳を発揮したとき、実質的に「神と一体になる」のだと思います。
 神は、人間が自分と同じように、そうした美徳(神性)を発揮して生きることを望んでいるはずです。誰かを愛するとは、相手が望むことを無条件でしてあげることだとも言えるでしょう。ですから、神を愛するとは、神が望むことを無条件ですること、つまり、自分自身が神のようになることです。
 ここで大切なことは、「無条件で」ということです。「神が望むことをするから、そのかわり覚醒させてください、救ってください」というのは、打算であり、無条件ではありません。これでは、本当に神を愛したことにはなりません。単なるエゴを満たす行為にすぎないわけです。そして、エゴがある限り覚醒はできません。本当の愛は無条件であり、いかなる報酬も求めない純粋なものです。
 つまり、愛することと、覚醒することは、同義語だといってよいと思われます。
 もちろん、神に対して「覚醒に向けて導いてください、助けてください」と祈ることは間違ってはいません。それは純粋な願いです。しかし「○○するかわりに導いてください、助けてください」ということが間違いなのです。「覚醒に導いてください、助けてください。でも、それとは関係なく、私はあなたを愛します。すなわち、あなたが望んでいる生き方をします」という気持ち、これこそが、正しい信仰のあり方ではないかと思うのです。
 以上のように考えると、私は覚醒するためには「神を愛する」ことは必要ではないかと思います。
 いえ、「必要だから神を愛する」というのは、間違っているわけです。「覚醒するために神を愛することは必要か?」という問いそのものが、そもそも間違っていました。
 覚醒しようとしまいと、無条件に神を愛することが大切なのです。このことは同時に、すべての人を無条件に愛するということを意味します。なぜなら、すでに述べたように、私たちはすべて神だからです。「私たちは神である」という自覚をもって人を愛するとき、神を愛することになるのだと思います。

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 明るく生きる


 神は光であり、私たちの本質は神なのですから、私たちは明るく生きなければならない、ということになります。暗く陰鬱な心というのは、神(の光)が差し込めていない状態であり、これでは神と共感できず、神と分離した状態ということになります。覚醒した人(神と一体になった人)というのは、明るいはずです。
 明るい心の大切さは、たいていの宗教で説かれています。なかでも神道などは明るい心を非常に重要視していますし、ユダヤ教の神秘主義ハシディズムなども、「明るく喜びをもって生きなければ神のもとにはいけない」と言っています。ヨーガもまた、すでにこのブログでも取り上げたことがありますが、修行を成功させるには「サットヴァ・グナ」という明るさの要素を優位にするべきだと主張していますし、仏教も、暗く落ち込んだ気持ちを戒める教えがあります。
 もちろん、「明るさ」といっても、世俗的・物質的な享楽を土台にする明るさではありません。むしろ、そのような物質的な欲楽から離れたところから湧き上がる、すがすがしく清らかな喜びや明るさのことだといえるでしょう。
 いずれにしろ、覚醒の道を歩むには、陽気で明るくあることが求められるようなのです。さもないと、霊的なよい影響力から自らを遮断してしまうとされています。そのため、暗い気持ちで祈っても、その祈りは届かないといわれています。祈りを叶えたければ明るい心で祈ることです。
 しかし、明るく生きることが大切であることはわかっていても、実際にそのように生きることは、容易ではありません。この地上人生は、心を暗く陰鬱にさせてしまう要素があまりにも多いからです。明るくなろうと思っても、心の底からそうはなれないこともあります。そんなときハシディズムでは、「演技でもいいから明るく振る舞え。そうすれば気持ちも明るくなるだろう」と言っています。これには一理ありますし、そのように努力してみるべきでしょうが、いくら演技をしても、人生の辛い経験に打ちのめされているようなときは、なかなか明るくなれるものではありません。演技をして明るくなれるのは、比較的軽い抑鬱気分のときだけではないでしょうか。
 しかしそれでも、「明るく生きること」が、霊的成長にとって必要不可欠であることは間違いないのです。
 ですから、すぐにはその理想が実現できなくても、少しずつ理想に近づいていくべく、さまざまな工夫を重ねながら、根気強く努力を続けていくしかないように思います。
 大切なことは、暗さや陰鬱さを心に永住させることをゆるさない姿勢です。どうしても辛いときは、しばしの間、暗く沈み込んでもいいと思います。悲しい音楽を聴くと逆に気持ちが癒されるように、浄化(カタルシス)の作用をもたらすからです。そういう状況のときは、無理をして明るく振る舞わない方がいいと思います。
 しかし、そうしてある程度、癒されたり清められたりしたら、あとは毅然として暗さや陰鬱さを心から追い出すべきです。暗さや陰鬱さというものは、アルコールやドラッグのように、ある種の中毒性、依存性を持っているようです。自ら暗さや陰鬱さを求めるようになり、それに浸りたくなってくるのです。そうして暗さや陰鬱さが慢性的に心に常住するようになってしまいます。「暗さの中毒」になってしまうのです。これではいけません。
 一時的には暗く落ち込むことはあっても、基本的には、私たちは明るく陽気な心を輝かせていなければなりません。明るさは神から来るものであり、私たちは神のエネルギー(光)の媒体にならなければならないからです。
 考え方を変えるだけで、暗く陰鬱な気持ちが明るくなることはよくありますから、試してみてください。必要以上に物事を深刻に、悲観的に考えていないかどうか、自分の思考をチェックしてみるのです。しっかりと理性的に自分が置かれた状況を認識するならば、ほとんどの場合、思っていたほど暗く陰鬱なものではないことがわかったりします。
 また、暗く陰鬱な物事を前にして座り込んでしまうのではなく、それを解決すべく行動を起こすことです。思いきって体当たりし、「これでもか! これでもか!」と、不撓不屈の精神をもって断固として闘うことです。そうすれば、暗さや陰鬱さの気持ちに流れていたエネルギーが行動の方に流れていき、暗さや陰鬱さから解放されてくるはずです。


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