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心の治癒と魂の覚醒

        

 じりじり主義


 霊界で過ごす膨大な時間に比べたら、この地上人生はほんの一瞬くらいの感覚だそうです。霊界での生活がメインであり、この地上人生の生活は、旅人の一夜の宿のような、仮の生活にすぎません。地上人生の目的は、ここでなるべく魂を浄化し、成長させることで、本来の生活である霊界での長い人生を、より幸せにすることにあるとされています。
 霊界での幸せは、地上の幸せとは比較にならないといわれています。地上で「これ以上幸せなことはない」といえるほどの喜びであっても、霊界の幸せに比べれば、カスのようなものらしいです。不幸や苦難の連続で、辛く厳しい人生を歩んできたとしても、(そのために魂を浄化できたことで)霊界での幸せを得たときには、今までの苦しみを補ってもなお十分に報われるほどの満足感と喜びに満たされるといいます。
 魂の意識では、地上人生というわずかな時間を(浄化と成長のために)苦しみさえすれば、その何倍も何百倍も長い霊界での生活が、何倍も何百倍も幸せなものになるとわかっているので、多くの魂たちが、苦しみや悲しみや試練を受ける人生を選択して生まれてくるのです。
 しかしながら、肉体意識のレベルでは、そういう事情はまったく自覚できません。たった一回の地上人生だけがすべてであると思い込んでいます。地上人生を精一杯幸せに生きなければソンだと考え、(霊界で幸せな生活を送るために必要な)魂の浄化や成長などに重きをおかず、それどころか、そうしたものを犠牲にしてまで、はかなくも短い地上人生の快楽を得ようとしているわけです。それがどれほど愚かなことであるかは、死後に霊的真実を知ったときにわかるのですが、そのときではもう遅いのです。たった百円のお金が欲しいために、一億円当選の宝くじを百円で売るようなものです。
 とはいえ、そうした事情を知らず、地上人生の苦しみを味わっている私たちからすれば、魂の浄化だとか成長などよりも、とにかく一分でも早く苦しみから解放されたいと思うほどの辛さを背負っている場合が少なくありません。死後の生活のことなど、遠い先のことであり、現実感が薄いのです。死ぬまでには、まだまだ長く生きて苦しみ続けなければならないと思うと、気が滅入ってしまうのです(とはいえ、人間、いつ死んでしまうかわかりません。明日生きている保障はないのです)。
 こういうときは、「少しでもよい方向に向かって努力しよう」という気持ちが大切です。どんなに辛く苦しくても、ほんの少しだけなら努力できるはずです。ほんの少しでいいのです。私はこれを「じりじり主義」と呼んでいます。いっぺんに大きく変えようと思うと無理が生じてきますし、誰もができるわけでもありません。それよりも、じりじりと、ほんのわずかでもよい方向をめざして進んでいくのです。カタツムリのように、進んでいるのかいないのかわからないくらいでもいいのです。とにかく、じりじりと進んでいけば、結局、いつのまにかその努力は大きいものになっていくからです。カタツムリといえども、じりじりと進んでいけば、いつのまにか遠くまで移動しているものです。
 たとえ何も成長していないように思えても、苦しみを味わうだけで、魂が浄化しているのです。つまり、苦しみにじっと耐えるというだけで、来るべき霊界の幸せな生活に向かって進んでいることになるのです。ただ苦しいばかりのときは、「ああ、私はこうしてどんどん清まっている、霊界の幸せがどんどん大きくなっている」という思いを抱いて、耐え忍ぶことです。
 苦しいときは時間が長く感じられますが、それでもひたすら耐え続けていくなら、いつのまにかあっという間に時間は過ぎてしまいます。苦しいときは「一日は一週間より長い」のですが、同時に「一週間は一日より短い」のです。これはナチス強制収容所の地獄の生活を生き延びた精神科医フランクル(と囚人たち)の言葉です。
 地上人生の苦しみのために、投げやりになったり、いじけたり、霊界の幸せな生活を台無しにするようなことをして後退してはいけません。そんなことをしても、せいぜい、つかのまの慰めが得られるだけで、全体的にはかえって悪くなってしまいます。あくまでも前進することです。魂の浄化と成長のために、じりじりと耐えながら前進していくことです。じりじりと前進するしか、他に歩む道はないのです。
 たとえ、その道はいかに険しくても、その先には、想像を絶するほどの幸せが待っているのです。じりじり主義が、最後には勝つのです。


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