心の治癒と魂の覚醒

        

お知らせ


 今月、私は新しい本を出版いたしました。
『世にも奇妙な「偶然の一致」の秘密』(学研パブリッシング)
 という本です。題名をご覧いただければわかるように、偶然の一致(シンクロニシティ)について書いた本ですが、単に偶然の一致の話を集めたものではなく、偶然の一致はなぜ起こるのかについて、物理学、ニューサイエンス、心理学、スピリチュアルなどの知識を駆使して、私なりにその謎の解明に挑んだものです。
 私の研究によれば、偶然の一致は3つの法則によって成り立っています。
 ひとつは「引力の法則」で、これは「引き寄せの法則」として知られているものと一緒で、念じればそれが実現されるという原理に基づいたものです。
 二番目は「再現の法則」で、過去に何か出来事が起こると、それと似たような出来事が起こりやすくなるという法則です。いわゆる「二度あることは三度ある」と言われる現象です。
 三番目は「進化の法則」です。これは、このブログの読者にとってもっとも関係深いものと言えるかもしれませんが、私たちの生命(魂と言い換えてもよい)は、常に成長し進化しようとしています。それを促進させるためのシンクロニシティが起こるというものです。一般的には不運や苦難という形で生じることが多いのですが、そのような出来事が起こるのも「シンクロニシティ」であると考えているのです。
 興味をもたれた方は、ぜひ読んでくだされば幸いです。
 よろしくお願い申し上げます。

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偏見を取り除く


 私たちは、自覚しない間にあらゆる偏見に染まっているものです。私たちが考えているほどには、ありのままに物事を見てはいないのです。先入観で人や物事を判断したりしています。しかし、これでは真実を把握していくことはできません。完全に先入観や偏見を除去することは難しいと思いますが、可能な限り、それらをなくしていく努力をしていくべきなのです。
 イギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、人間が抱きやすい偏見を「イドラ」と呼び、4つの種類を取り上げています。次に、その4つのイドラについて説明してみましょう。

●種族のイドラ(idola tribus) 人間そのものによる偏見
 感覚における錯覚、人類一般に共通してある誤り。
●洞窟のイドラ(idola specus) 個人的偏見
 狭い洞窟の中から世界を見ているかのように、個人の性癖、習慣、教育によって生じる誤り。
●市場のイドラ(idola fori) 言語による偏見
 言葉が思考に及ぼす影響から生じる偏見。言葉や言語が引き起こす偏見。口コミなどが挙げられる。
●劇場のイドラ(idola theatri) 伝統や権威による偏見
 思想家たちの思想や学説によって生じる誤り。

 以上のようなイドラを、特にスピリチュアルな面に限定して、その具体的な例をあげると、およそ次のようになるのではないでしょうか。

●種族のイドラ
・単なる偶然の一致や感覚異常を霊的な体験であると思い込む。
・意図的なトリックにだまされる
●洞窟のイドラ
・単なる考えや思いを霊的存在からのチャネリングだと思い込む。
・霊的知識が豊富であるというだけで自分は霊格が高いと思い込む。
・「あなたは世界を救うために来た救世主だ」といった声が聞こえる。
●市場のイドラ
・「魂」、「霊」、「自我」、「スピリチュアル」など、定義があいまいな言葉を使い混乱する。
・立派な教えを口にするというだけで、人間性や霊格まで立派だと思い込む。
・「悟り」にもいろいろなレベルがあるにもかかわらず、「悟りを開いた」と師匠から言われると、偉大な霊格を確立した気になる。
・「殺人ではない。ポア(成仏)させるのだ」とグルが弟子に命令して人を殺させる。
●劇場のイドラ
・あらゆる宗教に見られる権威やドグマに対する盲従。
・グル絶対主義。教祖絶対主義。覚者絶対主義。
・多くの人が支持している「カルマの法則」、「引きよせの法則」などへの盲信。

 こうしたイドラだけではなく、私たちはあまり根拠のないことでいろいろなことを決め付けているように思います。こうした姿勢は霊的成長にとって大きな障害となりますので、ぜひとも十分に注意しようではありませんか。
 

心の浄化 | コメント:2 | トラックバック:0 |

 何があっても動じない


 何があっても決してあせらず、常に冷静でいられるということが、覚醒の道を歩む修行者に求められる大切な資質のひとつです。いわゆる「肚が座っている」といった状態を常に維持するわけです。以前にお話した「平静の美徳」です。
 もちろん、これは容易なことではありません。人生というものは、いつどこで、予想もつかないような事態が起こるかわかりません。ふいをつかれるといったこともあるでしょう。そのときは、ついあわててしまい、パニックになってしまうこともあるかと思います。動揺し、不安や恐怖に襲われたり、イライラしたり、怒ったり、心を乱したりしてしまったりします。
 しかし、そのようなときでも、落ち着き払い、心静かに悠々としていられるようでなければいけません(自戒を込めて言っております)。その意味では、心を乱す出来事が多いこの地上世界は、何があっても動じない不動心や平常心を養うには何と絶好の場所なのかと思います。
 ただ、ここでひとつ注意が必要です。不動心や平常心は、単に「心が鈍い」とは違うということです。たいていのことは、人間は繰り返せば慣れてきてしまい、心が動じなくなるものです。それはそれで自然なことであり、別に悪くはないのですが、その結果、心が鈍くなっていないかどうか、しっかりとチェックする必要はあると思います。
 たとえば、あまりよい例ではありませんが、最初に万引きをするときというのは、かなりドキドキするそうです。「見つかったらどうしよう」という怖れや、良心の呵責があるからです。ところが、2回、3回と繰り返していくうちに、平気になってくるそうなのです。ドキドキせず平然と万引きができるようになるらしいのです。しかし、この場合、あきらかに良心を鈍くさせてしまっています。「人に迷惑をかけている」という気持ちが麻痺してしまっています。これでは、本当の意味での不動心でも平常心でもありません。慣れによって感性が鈍磨してしまっただけです。
 本当の不動心や平常心といったものは、単なる「慣れ」の結果として得られるのではなく、もともとは人格的に備わっている資質ではないかと思います。ある種の覚悟といいますか、強い信念のようなものが意識の深い層に存在しているのでしょう。だから、いついかなることが生じても、たとえそれが初めて遭遇する経験であっても(つまり慣れていないことであっても)、動じないで平静に対処できるのではないかと思うのです。
 そのような不動心や平常心を持てるようになるには、どうしたらよいのでしょうか?
 それには、武士の生き方が参考になるかもしれません。武士はまさにそのような不動心や平常心を持っていました。なぜそのような心境を得ていたかというと、おそらく、常に死を覚悟していたからなのかもしれません。人間は死ぬより恐ろしいことはそうないと思いますが、主君のためにはいつでも命を捨てるという覚悟をしていたからこそ、多少のことでは動じない不動心や平常心を持てたのかもしれません。
 私たちは時代が違うので、武士のような意味で死を覚悟して生きることはできませんが、しかし、どのみちいつか死ぬことは間違いありません。その意味では、私たちも、いつ死んでもいいように常に死を意識しながら、覚悟を決めて生きていくというのも、ひとつの方法かもしれません。そうすれば、多少のことでは動じなくなるかもしれません。


修行の基本的な姿勢 | コメント:1 | トラックバック:0 |

 ゆるすということ


 愛することと、ゆるすことは表裏一体です。ゆるしのない愛はありません。愛があるところにはゆるしがあります。ゆるしとは、自分を傷つけた相手に対する憎しみや復讐の気持ちを捨て去り、相手を受け入れることです。
 しかし、ゆるすということは、それほど容易なことではありません。多少のことならゆるせるでしょうが、自分をひどく傷つけた相手、人生をひどいものにした相手をゆるすということは、並大抵のことではないのです。まして、相手がそのことに対して謝罪も懺悔もしていない場合はなおさらです。「ゆるしなさい」という言葉はよく聞かれますが、「いったいなぜそんな相手をゆるさなければならないのか? 自分は一生相手を恨み続け、できれば仕返しをしてやるつもりだ!」と、このように思っても、いったい誰がそのことをとがめることができるでしょうか。傷つけられた人の痛みや悲しみ、そして憎悪の気持ちは、本人にしかわからないものです。仮に「ゆるしなさい」と言われ、「ゆるします」と口で言ったとしても、心の底には悲しみと憎悪がくすぶっていることが多いものです。これでは、ゆるしたふりをしているだけで、本当にゆるしたことにはなりません。それは単に自分をだましているにすぎません。自分をだますくらいなら、無理にゆるす必要はないのです。無理にゆるそうとしても、それは文字通り無理なことだからです。ゆるしというものは、春が訪れるように、自然に湧きあがってくるものではないかと思います。

 人生というものは、「ゆるせない」と思うような体験をするようにできているのです。それは、魂の霊性進化のために人生が与える「負荷」なのです。すなわち、ゆるせない状況においてもなお、ゆるすように自分を鍛え、成長していくためです。

 自分を傷つけた相手は、故意に、あるいは悪意を抱いてそうしたのだとしても、それは現象的な出来事であるにすぎません。ちょうど、俳優が舞台の上で人を傷つける役割を演じているようなものです。彼はただ、背後に存在するシナリオに従っただけです。同じように、私たちは誰かによって「ゆるせない」ような体験をさせられるように仕組まれているのです。まずはそのシナリオが存在しているのです。そして、自分を傷つける相手は、そのシナリオを実現するための配役として、たまたま選ばれたにすぎないのです。自分を傷つけたのは、相手ではなく、この地上世界の背後に存在する摂理としての「シナリオ」なのです。シナリオがあなたを傷つけたのであり、相手があなたを傷つけたのではないのです。これが真実なのです。
 ゆるすことができず、憎悪や復讐の念を抱き続けている限り、実は自分自身で自分のことを傷つけているのです。なぜなら、憎悪の念は、心身にとってある種の毒物のようなものだからです。誰かに対して憎悪の念を抱いている限り、心からの平安は得られません。心の平安を得られないほど不幸なことがあるでしょうか。たとえ特定の相手だけに向けられた憎悪であっても、その憎悪の念は、本人も自覚しないうちに他の人に対する憎悪へと拡散していくものです。憎悪の念は憎悪を引き寄せます。その結果、しだいに多くの人に対する憎悪を抱くようになり、周囲の人間関係が憎悪に満ちたものとなる可能性が出てくるのです。そうなると人相もどことなく険しくなり、暗くなって、人に愛される表情とはなりません。さらにまた、持続的な憎悪は慢性的なストレスとなり、ホルモンや自律神経系統のバランスを崩し、免疫力を低下させて病気に罹りやすくなってしまいます。一説によれば、慢性的な憎悪は癌を誘発させるとも言われています。
 このように、人を憎んでいても、何のいいこともありません。自らを傷つけるだけです。ですから、ゆるした方がよいのです。相手のためにではなく、自分のためにです。自分を傷つけた相手のために、自分が長期にわたって苦しみ続け、不幸の種を育てるようになるというのは、馬鹿馬鹿しいことではないでしょうか。
 ゆるすためには、この事実を理性的にしっかりと理解することが大切です。もちろん、ゆるせない気持ちは感情的なものですから、「憎悪は自分のためにならない」ということが頭ではわかっていても、すぐには感情が納得しないでしょうから、簡単にゆるせるようにはならないかもしれません。しかしそれでも、ゆるしの第一歩は、「憎悪を抱くことは自分にとって何の利益もなく、害悪でさえある」ということ、そのように自分を苦しめることはまったく馬鹿らしいことであることを、理性的にはっきりと知ることが大切なのです。人生というものは、人を恨み続けて生きるにはあまりにも短すぎます。恨みに費やされるエネルギーをもっと有意義な方面に向けたならば、真に人生を実りあるものとさせることができるかもしれないのです。

心の浄化 | コメント:6 | トラックバック:0 |

 忍耐と我慢強さを鍛える


 地上人生というものは、もともと幸せになるための舞台ではなく、困難や悲しみ、試練や苦しみを通して人格を向上させ、霊性を進化させ、魂を磨いていくための舞台なのです。
 人生などというものは、過ぎてしまえば、あっという間の出来事です。この言葉は、若い人には実感できないかもしれません。人生は長いと思うかもしれません。けれども、40代以後の読者の人なら、この言葉がある程度はうなずいてもらえるのではないかと思います。この短い人生を、私たちはどのように生きていけばよいのでしょうか?
 それはまず、辛いことに対する耐え抜く力を養うことがあげられます。というのは、死後、魂になった私たちは、さらなる向上をめざして生きていくことになるわけですが、そのときに大切なことは、忍耐であり、我慢強さだからです。地上世界においても、霊的世界においても、進歩というものは、長く地道な努力を必要とするものです。ですから、途中で嫌になって放り投げたり、せっかちな行動に走ろうとする性格では、進歩は望めません。忍耐と我慢強さが求められるのです。地上人生において辛いことを経験するもっとも大きな理由が、この忍耐と我慢強さを鍛えることにあるのです。ですから、人生において辛いことというのは、けっこう長く続くことが多いのです。人によっては生まれてから死ぬまで一生続くこともあります。たとえば、肉体に障害を持って生まれたといったような場合です。肉体に障害があるからといって、一概にその人生が不幸で辛いものであると決め付けることはできませんが、一般的には楽ではないでしょう。死ぬまで解決されることのない辛さにじっと耐え抜く人生を送ることになるわけです。地上人生というものは、そうして忍耐力や我慢強さを鍛えるには、非常に好都合な場所なのです。ですから、そのために私たちはこの地上にわざわざやってきているわけです。それも、向上心の強い魂ほど、過酷な苦しみを自分に課すことになるわけです。
 しかしながら、そのようにして鍛えた忍耐力や我慢強さは、死後、霊的な世界に移行したとき、すばらしく報われることになるのです。霊界において、格段に大きな進歩を遂げることができるからです。
 そして、これまでにもたびたび申し上げたように、霊界での喜びや幸せのすばらしさは、地上の比ではありません。時間的にも、地上人生はほんの一瞬ですが、霊界での生活は非常に長いのです。ですから、私たちの魂は、霊界で幸せになれるなら、ほんの一瞬に過ぎない地上人生など、一生辛い思いをしてもかまわないと考えるのです。そのために、地上人生は辛いことが多く、またそれが長く続いたりするのです。あるいは「一難去ってまた一難」といったように、次から次へと苦労が続いたりするわけです。
 それは、地上的な視野から見れば悲惨で不幸かもしれませんが、霊的真実からすれば、それでよいのです。その苦しみを何十倍、何百倍も補ってあまりあるくらいの幸せで報われることになるからです。
 ですから、辛いことも、じっと耐えましょう。心を歪ませたり、世の中を呪ったり、人を恨んだりせず、心静かに、じっと耐え抜くのです。耐え抜くというだけで、天にある種の「貯金」をしているのだと思うことです。明日を思い煩うことなく、今日という日だけを耐えましょう。「この辛さがこれからもまだまだ続く」と考えたら萎えてしまいます。今日一日だけを耐えて生きるのです。あとはそれを繰り返していくだけです。辛い道のりではありますが、その彼方には間違いなく光明が待っているのです。それを希望にしていきましょう。

求道者の慰め | コメント:2 | トラックバック:0 |
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