心の治癒と魂の覚醒

        

 深刻なほどチャンスがある


 何かの本で、「中程度の病気よりも、重症の病気の方が治りやすい」という医者の言葉を読んだことがあります。なぜ中程度の病気は治りにくく、それよりも重症の人の方が治りやすいのでしょうか?
 その大きな理由は、治療に対する「真剣さ」にあります。中程度の病気の人は、ある程度は元気であり、病状もそれほど辛くないという傾向がありますから、「少しくらい大丈夫だろう」などといって、食事制限を守らなかったり、アルコールを摂取したり、その他、いろいろと無理をしてしまったりすることが多いのでしょう。だから、なかなか治らないのです。
 それに比べて、重症の人はそれこそ生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていたり、病状も非常に苦しいので、医者の言うことはよく守るでしょう。食事制限などもしっかりとするでしょうし、安静にするときは安静にしているでしょう。結局、こうして病気の治療に真剣に向き合うために、結果として、中程度の病状の人よりも治りやすいということになるのではないかと思います。
 これと同じことが、自己改善や覚醒修行といったことにも当てはまるのではないでしょうか。すなわち、深刻な状況にある人の方が、それほどではない人よりも、より早く効果的に自己改善を果たしたり、覚醒修行が進むように思われるのです。その理由は、同じように真剣さです。
 苦しい悩みや困難を抱えているほど、その苦しさから早く逃れたい一心で、真剣に自分を改善する努力をしたり、覚醒修行をすることになるでしょう。しかし、たいした苦しみや悩みを持っていない人は、どうしても真剣になりきれず、必死になりきれないで、甘さが出てきてしまうものです。なかには本だけを読んでまったく実践しない人もいます。それでは何も変わりませんが、それほど変えようとは思わないのでしょう。真剣に必死になって変えなければならない、という切羽詰った必然的理由がないのだと思います。そうしていたずらに時間ばかりたっていき、結局は人生において何も変わっていない、ということになるのではないかと思います。
 こう考えると、人生で深刻な困難や非常に辛い苦悩を背負った人というのは、ある意味では恵まれていると言えるのではないでしょうか。そのような状況に追い込まれれば、いやでも必死になるでしょう。その結果、中途半端に悩んでいる人よりも、短い時間で大きな変革を遂げることができるかもしれないのです。
 人生というものは、何がよいことで、何が悪いことなのかは、一概には決められないものです。どんなに悪いと思われることでも、少し見方を変えれば、そこには偉大なるチャンスが潜んでいるということが多いのではないでしょうか。

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求道者の慰め | コメント:4 | トラックバック:0 |

 瞑想できない状況にあるとき


 ここ最近、このブログの更新頻度が少し低下してしまいました。それは私自身のなかでのネタ切れということもあるかと思いますが、それ以上に、どうも頭がうまく働かず、何を書いたらよいのかという閃きが湧かなくなってしまったことが大きな原因です。長い時間、パソコンの前に座って文章を書こうとしても、思い浮かばないのです。今までは、少し考えれば文章が出てきたのですが、そうならなくなってしまったのです。
 これは一時的なものなのか、あるいはずっとこれからそのままなのか、自分でもよくわかりません。いずれにしろ、少なくともしばらくの間、更新される間隔があいてしまうかもしれませんので、その点、どうぞおゆるしください。こうなった原因は、私自身、いろいろな事情でうまく瞑想できていない、という理由もあるのかもしれません。
 瞑想などの修行というものは、やはり、ある程度、肉体的および物理的に恵まれた状況でないと実行は難しいように思います。たとえば、心身の健康がすぐれなければ、瞑想などうまくできませんし、生活のために働くのが精一杯の毎日を送っていても、なかなか瞑想する時間もとれないでしょう。仮に取れたとしても、疲労だの心配事などでうまく瞑想できないでしょう。ですから、理想的な状況で瞑想できる人というのは、実はかなり恵まれている人ではないだろうかと思われるのです。
 とはいえ、瞑想だけが覚醒修行ではありません。むしろ、瞑想などできないほど厳しい日常生活を送ること自体が、ある種の修行になっているのではないかとも思うのです。そんな状況のなかで悩み苦しみ、葛藤することも、修行ではないでしょうか。居心地のよい環境で「のほほん」と瞑想などするよりも、過酷な日常生活の中で必死に生きることの方が、ずっと魂を向上させているのではないかと思うこともあります。
 ですから、瞑想したくてもなかなかできないとしても、がっかりする必要はありません。瞑想できる日が来れば瞑想できるようになるでしょう。瞑想できないような状況に置かれていたら、瞑想以外の修行をしているのだと思えばよいのです。過酷な状況においてもなお、真剣に生きようと心がけるならば、その心がけそのものが、ある種の瞑想と同じ効果をもつ(場合によってはへたな瞑想よりもずっと)と思うのです。

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