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心の治癒と魂の覚醒

        

新刊のご案内

 皆様、ご無沙汰しております。
 今月、新しく本を出しましたので、ご紹介させていただきます。

                 『悟りを開くためのヒント』 (ナチュラルスピリット社)

 もちろん、私は悟りを開いたわけではないので、一応ハウツー的な構成で書かれてはいますが、私が悟りをめざしていろいろなことをした体験を通して、「たぶん、こうすれば悟りは開かれるのではないか?」という、文字通りヒントを与えるような内容となっています。よろしければ、ご覧になっていただければ幸いです。内容について詳しいことは、私のホームページをご覧ください。
 さて、この本には、私の母のことが書いてありますが、本には書いていない母のことについて、少し書いてみたいと思います。というのは、それが私の「覚醒(悟り)」に対するきっかけになっていると思うからです。なので、本を補足する意味で、もう少し詳しく書いてみたくなったのです。
 なお、これからご紹介する内容は、私のホームページの日記「独想録」から引用したものです。
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 現在の母は、私にとっては三番目の母である。つまり、いわゆる「生みの母」ではない。私が幼稚園の頃に父が再婚してやってきた人である。
 では、生みの母はどんな人だったかというと、私が20歳くらいのときに父から聞いた話をまとめると、次のような女性であった。
 母と出会う前、父は宮城県の田舎出身なのであるが、そこで大工の丁稚奉公をしていた。しかしそこでの生活が厳しかったため、家出同然のように東京にやってきて、そこで双眼鏡を組み立てる職人になった。単身田舎から出てきた若い父は、その寂しさもあって、いわゆるキャバレーに出入りするようになった。そこで一人のホステスと親しくなって結婚した。そのホステスの女性が、私の産みの母ということになる。
 ちなみに、自分の母がキャバレーのホステスであったという点については、特にこだわりはない。ホステスといえども恥じることのない職業であると私は思っている(ただしむかしは、このような職業は「日陰の職業」とされて軽蔑されていた。今でもこうした風俗関係に勤める女性を蔑視する傾向が社会に残っているようであるが)。
 しかし、父が言うには、この女性は売春もしていたらしい。また万引きなどもしていたというし、この女性の兄弟を見ると、他に3人の男兄弟がいたらしいのだが、そのうちの2人は暴走族であった(残りの1人は比較的まじめだったらしい)。当然、こうした女性との結婚は父からの親戚全員から猛反対されたが、父は強引に結婚してしまった。そうして、私が生まれたわけである。もっとも、父も父で、その交友関係はろくでもない人間ばかりだった。ちんぴらだとか、クルマでひき逃げして刑務所暮らしをしていたような人間が家に出入りしていた(だが、父の名誉のために言っておきたいが、晩年はある種の人格者のような感じになった)。私はそんな連中の一人から、小学校低学年くらいのときだったと思うが、からかうようにひどく屈辱的なことを長い時間言われ続け、子供なりに激しい憎悪の念にかられたことを、今なお覚えている。今は高級住宅街のある町として知られている東京の板橋区に暮らしていたが、当時はやくざやちんぴらが多くいたような、環境のよくない場所であった。
 父方の先祖は地味で学のない百姓ばかりで、大学にまで進学した人はいなかった。実際、私は父が読書している姿を一度も見たことがない。父の楽しみは、日曜大工、盆栽、テレビのサスペンスドラマを見ることくらいであった。ただし仕事はまじめにやっており、双眼鏡の組み立ての腕前はよかった)。
 こう考えると、私は環境的にも、血筋的にも、最低の遺伝的資質を受け継いでいることになる。そんな私が、後にそこそこの大学に進学し、クラシック音楽を聴いたり哲学などの読書を好む青年になったのを見て、父はしばしば「トンビがタカを生んだ」などと冗談交じりに言っていた。
 それはさておき、生みの母のことを20歳くらいのときに聞かされたとき、ホステスであるならまだしも、売春や万引きをしているような女性から生まれたと思うと、少なからずショックを受けた。「ああ、私はつまり、売春婦の子供ということか」と思い、自分という存在が汚らわしいもののように感じられた。
 結局、父と母の仲はうまくいかず、ケンカが絶えないようになった。そして離婚することになった。私は父に引き取られることになった。そのへんの経緯は本に書いてあるので省略したい。
 離婚してから、この女性(生みの母)は、二度と私に会いに来ることはなかった。自分の腹から生まれた子供に対して、そうさっぱりとクールに未練を断ち切れるものであろうか?と私は思った。もちろん、真相はわからない。本当は会いたかったのだが、何らかの事情で会えなかったのかもしれない。しかしとにかく、この生みの母親とは、もう二度と会うことはなかった。
 真相はわからないとしても、私の心は、まるで犬猫を捨てるような感じで、いとも簡単に母から「捨てられた」という感覚が芽生えた。父がまだ生きていたとき、この母親について尋ねようと思えばもっと詳しい事情を尋ねることもできたのだが、新しい母もいたので、家庭内では、生みの母親について話題にすることは、暗黙のタブーとなっていたのだ。なので、これ以上のことはわからない。
 とはいえ、母から見捨てられたことについては、(潜在意識ではわからないが)少なくとも自覚する限りでは、あまりトラウマを感じていはいない。また会いたいとも思わないし、かすかに記憶にある母の顔や想い出なども、思い出すといったことはほとんどなかった。ただ、離婚後、私は父方の田舎にあずけられたのだが、毎晩のように「お母さんがいない」と泣いていたようではあるが。
 その後、間もなくして、父は私を東京に連れ戻した。そして、貧しいおんぼろアパートの家には、二番目の母親がいた。結局、この母親とも1年くらいで別れることになるのだが、この別れは子供心にも非常に辛いものであった。生みの母と別れるよりも辛いものであった。
 これについては、次回、述べたいと思う。

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